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2015年2月7日土曜日

夏服と上部イタリアの湖水地方の地図にて、極地探検に向かう子どもたち(フロイト)

今日の教育に向けられなければならない非難は、性欲がその後の人生において演ずるはずの役割を若い人に隠しておくということだけではない。そのほかにも今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(フロイト『文化への不満』 フロイト著作集3 P488)

…………

宮台真治氏が次ぎのように語っているそうだ。

‏@rawota
宮台真司「小学校で遺体写真を見せた事に憤慨した人は頭が弱い。名古屋の小学校の情報リテラシー教育で、"マスコミがフィルタリングする事の是非"を討論するテーマ。事前に周知し、観たくない人は見てない。メディアが隠したものを流してよいのか、という教育委員会は学び直せ」 #daycatch

@rawota

宮台真司「遺体画像を一概にダメと言うのではなく、このような授業をした後に児童に対し保全保護した上で見せるべき。"青少年が傷つくじゃないか"という奴、青少年にちゃんと聞きなさい。あんたどういう資格で物を言ってるんだ?映像見てないのに偉そうにブッてるんじゃネーヨ」 #daycatch

前後の文脈はわからないが、つい最近、わたくしも次のような文を書いたところだ(参照:斉藤道三とジョン・マケイン)。

…………

さあて、おわかりだろうか?

千葉望 ‏@cnozomi 2月3日
私たちができることはISILが望んでいる「映像の拡散」をしないことです。彼らの戦術に加担するな。

よい子たちは、ニーチェもプルーストもバタイユも読んではならぬ! もちろん、このようなブログ記事も読むべきではない!  

ISIL(アイシル)の戦術だと? ツイッターで流通する「善意」の紋切型のひとつだ。共感の共同体の住人は、このたぐいのツイートを読んで湿った瞳を交わし合い頷き合っておればよろしい!

…………

これはやや挑発系の文であり、映像を拡散することは、イスラム国の戦術に嵌ることになるのかもしれないと思わないでもない。だが、ああいったツイートが無闇に流通する「善良な」人びとの湿った共感ぶり、そこに臭わないでもない脆弱の馴れ合いの気配、付和雷同性、精神の腐臭のようなものに反吐がでてしまうタチであることには変わりがない。

そもそも人は、隠せば隠すほど、ひとはそれを暴いていたくなる。それは子どもでも同じだ。あるいはこういうことさえ言える、裏には何もなくても隠す仕草そのものが秘密を生み出す、と。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された、「見せかけsemblance」の鍵となる定式、見せかけとは無のマスク(蔽い)である。ここには、もちろん、フェティッシュとの連関が示されている。フェティッシュとは、また空虚を隠蔽する対象である。見せかけ(サンブラン)はベールのようなものであり、それは無を隠すのだ。その機能は錯覚を生む、ベールの下には何かが隠されている、という錯覚を。

The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING)

ここで、ラカン派コプチェクの講演(2006/10/8 Joan Copjec お茶の水大学)、《イスラムにおける恥じらい、或いは「慎み深さのシステム」》という講演録からすこし抜き出してみよう。

コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こ うとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。

再度ジジェクに戻ればこういうことになる。

……侵害の対象としての女性についていえば、彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる。タリバーンは女性に、公の場では全身を覆って歩くことを命じただけでなく、固い(金属あるいは木の)踵のある靴をはくことを禁じた。音を立てて歩くと、男性の気を散らせ、彼の内的平安と信仰心を乱すからという理由で。これが最も純粋な余剰(剰余:引用者)享楽の逆説である。対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱すのである。(『ラカンはこう読め!』p174~)

ーーで、なんの話であったか?

精神の腐臭の話である。といってもニーチェほど鼻が利くわけではない。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)


いささかまわりくどくなったが、宮台真治、--別に彼のファンでもなんでもなく、ときにヒドク頭にくるときがあるのだがーー、なかなかいいこというじゃん。

というわけで、池田小学校襲撃事件後の、中井久夫、浅田彰、斎藤環による鼎談(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)の記事から抜き出しておこう。「社会の心理学化」をめぐる箇所である。いまはいっそう、頭の悪そうな心理学者やら社会学者やらがツイッターなどで寝言を流通させているのではないか。

斎藤環 ……ボーダーラインの治療経験から思うのは、ある種の心の状態というのは薬ではどうにもならない、ということです。中井さんも書いておられるように、向精神訳だけでは人間は変わらない。旧ソ連で政治犯を「怠慢分裂病」などと称して大量に薬を投与したことがあったらしいけれでも、全く転向はなかった。薬物の限界があるんですね。

中井久夫) それが人間の砦でしょう。

斎藤)そういった部分で今後も精神分析的なものが延命する余地があると思うんです。しかし、現状は、アメリカでも日本でも生物学的精神医学が圧倒的ですね。精神分析的な志向を持っている人は、すでにかなり少数派でしょう。せいぜい良くて認知療法ですね。こちらは基本的には、自我を整形して変えてやろうという発想で教育を受けた人たちです。逆にそういう人たちが熱心な精神療法をやったりすることもあるんですが。

浅田)もちろん、プラグマティズムで行けるところまで行けばいいという立場もあるわけで、実際、新しい薬ができて激烈な症状が抑えられたりするの望ましいことに違いない。しかし、それですべてが片付くとは考えられないので、どこかに精神分析的なものの必要性が残っていくと思いますね。

…………

浅田)ただ、他方でちょっと気になるのは、安易な心理学の流行です。例えば、学校が荒れているというと、「心のケア」が大切だ、心裡カウンセラーを増やすべきだ、というような話になる。もちろん、そういう問題がまったく無視されるよりは、社会が関心を持って力を入れていくほうがいいに決まっている。けれども、中井さんや斎藤さんのレヴェルではなく、安易な心理学のレヴェルでセラピーめいたことをしても、本当に役に立つのかという疑念を拭いきれないんですよ。

そういえば、池田小学校だって、襲撃事件のあと、カウンセラーを大勢派遣したりする。さらには、トラウマの記憶の染み付いた校舎はもう使えないから建て替える、という話になる。これは素人の荒っぽい議論かもしれないけれど、僕だったら、あまり大騒ぎせず、あの校舎で淡々と授業を再開した方がいいように思いますね。子どもというのは案外強いもので、もちろん悪夢を見たりはしながらも、平気で生きていくのではないか。デリケートな「心のケア」が必要だとか言って腫れ物にさわるように扱うことで、かえってトラウマを悪化させてしまうのではないか。校舎の建て替えにいたっては、それこそ、汚れていない白紙の状態にリセットして再出発できる、またそうしなければいけない、という悪しきゲーム感覚のようなものに通じるところさえあると思います。それだと、広島や長崎は原爆のトラウマを、神戸は震災のトラウマを背負っているから、他所に移らなければいけないという話にもなってしまう。大昔の遷都のような発想ですよ(笑)。そうではなく、トラウマの記憶を帯びた場所で、それを踏まえて生きていくことの方が大切でしょう。少なくとも今流行している安易な心理学は、それと反対の方向を向いているように思うんです。

斎藤)トラウマと場所についての見解として、私もまったく同感です。社会学の領域で「社会の心理学化」ということが言われているようですが、確かに、宗教も心理学化するし、精神分析も心理学化するし、そういう悪しき傾向がありますね。そういう環境のもとで発言が取り上げられやすいのは、社会学者であったり、精神科医であったりします。しかし、結局そこでなされているのは、社会学者が心裡を語り、精神医学者が社会を語るという奇妙な転倒なんです。その中で、いわば心のインフレーションが進んでいると思うんですね。もちろん、そこでフィーチャーされている心のあり方というのは非常に素朴で、むしろ無意識的な因果律から隔たったもっと直線的な因果律で支配された世界だったりするわけです。


中に入るのを、眠りながら女性も歓喜な顔と声を小さくあげるの。






@Deep_reeD 

この画像を見た瞬間、アルモドバル監督の『トーク・トゥ・ハー』の中の、一部分、モノクロの無声映画のシーンがあるのだけどね、
身体が小さくなった男性が女性を余りに愛し、眠っている間に、女性器からゆうくりと入る。
それをね、思い出すのね。







@Deep_reeD
本当に素晴らしい場面でね。
中に入るのを、眠りながら女性も歓喜な顔と声を小さくあげるの。
『男は、女と一つになった。』

そう、言葉通りに。


Pedro Almodóvar Hable con ella


世界も捨てたもんじゃない
世界はいまだ美しい


われらが神は堅き砦だ!





聖なるかな、
マン軍の神なる主よ
天と地はその光栄にみちあふれる!







孔 ‏@Deep_reeD

とおりゃんせ、とおりゃんせ






2015年2月6日金曜日

倒錯の形式的構造

《自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同することの中には、たしかに倒錯的な享楽があるといわざるをえない》(ラカン 『セミネールⅩⅩ(アンコール)』)

…………

ラカンにとって、倒錯者は、彼が何をするかというその内容(彼の普通ではない性行為)によって定義されるのではない。最も基本的な倒錯は、倒錯者が真理と発話にどのように関わるかについての形式的構造の中にある。倒錯者は、〈大文字の他者〉であるなんらかの人物像(神や歴史からパートナーの欲望にいたるまで)にじかに触れることを求めるため、言葉の曖昧さをいっさい排除して、〈大文字の他者〉の道具として、直接的に行動することができる。この意味で、オサマ・ビン・ラディンとブッシュ大統領は、政治的には正反対の極にいるが、どちらも倒錯者の構造を共有している。どちらも、自分の行動は神の意志にじかに命令され導かれているという前提にもとづいて行動している。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳 P196-197)

ジジェクの見解を信じるとして、オサマ・ビン・ラディンやブッシュが倒錯者なら、イスラム国の自称カリフやらその取り巻きも倒錯者ということになるのだろうか。

あるいはまた「表現の自由」という理念を楯に騒ぎ立てる連中はどうなんだろう? --彼らは倒錯者というより、一見たんなる集団神経症にもみえるが(参照:仏テロ事件後のラ・マルセイエーズによる「情緒の昂揚」)、なかには「倒錯的」に振舞っている輩もいるのかもしれない。

ヒステリーと精神病を分けるものは、彼らの“〈大文字の他者〉の享楽”への異なった関係の仕方である(〈大文字の他者〉の享楽とは、主体の〈大文字の他者〉の享楽のことではなく、主体において享楽する〈大文字の他者〉のことである)。ヒステリーは〈大文字の他者〉の享楽の対象になることに堪えがたい。彼女は自身が“使用されている”、あるいは“食い物にされている”と感じる。他方、精神病者はおのれを、意図して〈大文字の他者〉の享楽の対象へと没入させる。(倒錯者は特別な事例である。彼は己を〈大文字の他者〉の享楽の対象としてではなく、〈大文字の他者〉の享楽の道具として位置づける、――彼は他者の享楽に奉仕するのだ)。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』 私訳)
what differentiates hysteria from psychosis is their different relation to the “enjoyment of the Other” (not the subject's enjoyment of the Other, but the Other who enjoys [in] the subject): a hysteric finds it unbearable to be the object of the Other's enjoyment, she finds herself “used” or “exploited,” while a psychotic willfully immerses himself in it and wallows in it. (A pervert is a special case: he posits himself not as the object of the Other's enjoyment, but as the instrument of the Other's enjoyment—he serves the Other's enjoyment.)

…………

ラカンの幻想の式――それは神経症の式であり、ラカン派にとっては、すくなくともある時期までの標準的な一般人の心的あり方であるーーは、$ ◇ aである。藤田博史氏は、この幻想の式を分解して($ ー -φ ー Φ ー A ー a)、次のように読んでいる、《斜線を引かれて抹消された主体が、生の欲動に運ばれて、突き進んで行くその先には、まず「想像的ファルスの欠如」があり、次に「象徴的なファルス」があり、そして言葉で構築された世界があり、そしてその先に永遠に到達できない愛がある。》(参照:「心的装置の成立過程における二つの翻訳」補遺

だが今は「幻想(ファンタジー)」の話ではない。「倒錯」の話である。倒錯の式 は、a$と書かれる。

厳密にいえば、倒錯とは、幻想の裏返しの効果です。主体性の分割に出会ったとき、みずからを対象として規定するのがこの倒錯の主体です。(……)主体が他者の意志の対象となるかぎりにおいて、サド=マゾヒズム的欲動はその輪を閉じるだけでなく、それ自身を構成するのです。(……)サディスト自身は、自分で知らずに、ある他者のために対象の座を占め、その他者の享楽のためにサディズム的倒錯者としての行動をとるのです。(『セミネールⅩⅠ』(「精神分析の四基本概念」)

ジジェクは、『ラカンはこう読め!』にて、この文章を引用して次ぎのように書いている。

この一節は全体主義政治に新たな光を投げかける。真のスターリン主義的な政治家は人類を愛しているが、恐ろしい粛清と処刑を実行する。それをしながら、彼の心は痛んでいるのだが、やめることはできない。それは彼にとって〈人類の進歩〉に向けた彼の〈義務〉なのだから。これが、〈大文字の他者の意志〉の純粋な道具の地位を引き受けるという倒錯的な態度である。それは私の責任ではない。実際にそれを行うのは私ではない。私はたんにより高次の〈歴史的必然性〉の道具にすぎない。こうした状況がもたらす猥褻な享楽は、私は私自身が自分のしていることに対して無罪であると考えている事実から生み出される。私は、私には責任がなく、たんに〈大文字の他者の意志〉を実現しているだけだということをじゅうぶんに意識しているからこそ、他人に対して苦痛を課すことができる。「外から強制された客観的必然性を実現しているだけなのに、どうして主体に罪があろうか」という疑問いに対し、サディストは、この客観的必然性を主体的に引き受け、自分に課せられたことに享楽を見出すことによって、答える。(ジジェク『ラカンはこう読め』 P181-182)
ナチスのSS(親衛隊)長官ハインリヒ・ヒムラーは、ヨーロッパのユダヤ人を抹殺するという任務に直面して、「誰かが汚い仕事をしなければならないのだから、やろうではないか!」という英雄的な姿勢をとった。自分の国のために高貴なことをするのは容易だ。そのために自分の命を犠牲にすることだってできる。それよりもはるかに難しいのは自分の国のために犯罪をおかすことだ。ハンナ・アーレントはその『エルサレムのアイヒマン』の中で、ナチスの死刑執行人たちが自分たちのやった恐ろしい行為に耐えるためにおこなったこの回避を鋭く描いている。彼らのほとんどはたんなる悪人だったのではなく、自分たちの行為が犠牲者に屈辱と苦痛と死を与えていることをはっきり自覚していた。この窮状から抜け出す道はこうだった。

「自分は人びとに対してなんと恐ろしいことをしてしまったのか!」と言う代わりに、殺害者たちはこう言うことができたのだーー自分は職務遂行の過程でなんと恐ろしいことを見なければならなかったことか。その任務はなんと重く私にのしかかってきたことか!(アーレント『イェルサレムのアイヒマン』大久保和郎訳)

このようにして彼らは誘惑への抵抗の論理を逆手に取ることができた。抵抗すべき誘惑とはまさに、人間の苦渋を目の当たりにして、基本的な同情と共感に屈することへの誘惑であった。彼らの「倫理的」努力は、辱め、拷問し、殺してはならないというこの誘惑に抵抗するという仕事に向けられていた。同情や共感という自発的な倫理的本能に背くことが、私が倫理的に偉大であることを示す証拠に変わる。私は義務をまっとうするために、他人に苦痛を与えるという重荷を引き受けるのだ。(同 P181-182~)

 さあて、どうだろう? あの連中は倒錯者だろうか。

だがこれも冒頭近くに掲げたジジェクによればだが、倒錯的になるには倒錯者である必要はないとも言うのだ。倒錯の形式的構造があり、その構造に嵌ってしまえば、人は倒錯的になると。とすれば「原理主義者」と呼ばれる種族たちは、ほとんどつねに倒錯的なのではないか。それはラカン原理主義者でも同じだ。

 これもかなり以前写し取った文章だが、ここに再掲しておこう(メモ:幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$)。

マイケル・マンの映画『マンハンター』は、直感的に、「第六感」によって、サディスティックな殺人犯の心に入りこむことで有名な刑事の話である。彼の任務は、一連の田舎の平和な家族を皆殺しにした、特別に残酷な大量殺人犯を発見することである。彼は、殺された家族の一軒一軒によって撮影された自家製八ミリ映画を繰り返して上映して、<唯一の痕跡>、すなわち、殺人犯を惹きつけ、彼にその家族を選ばせた、すべての家族に共通の特徴を見つけ出そうとする。だが内容のレベルで、つまり家族そのものの中に共通の特徴を探しているかぎり、彼の努力はいっさい報われない。ある矛盾に眼が惹きつけられたとき、彼は殺人犯の特定への鍵を発見する。最後の犯行現場での操作の結果、裏のドアを破って家に押し入るために、犯人は、そのドアを破るには不適切な、というより不必要な道具を使っていることが判明した。犯行の数週間前、古いドアは新しい型のドアに取り替えられたのだった。新しいドアを開けるためには、別の道具のほうがはるかに便利だったはずだ。殺人犯はどのようにして、この間違った情報、より正確にいえば古い情報を手に入れたのだろうか。自家製八ミリ映画のいくつかの場面には、その古い裏のドアがはっきりと写っていた。殺されたすべての家族の唯一の共通点は、“自家製映画そのもの”である。殺人犯はこれらの私的な映画を観たにちがいない。殺された家族を結ぶ線はそれ以外ないのだ。それらの映画は私的なものだから、それらを結ぶ唯一の考えられる線は、その八ミリ・フィルムを現像した現像所である。すぐさま調べたところ、すべての映画は同じ現像所で現像されたことが判明し、じきにその現像所の工員の一人が犯人であることが判明する。
この結末の理論的興味はどこにあるのか。刑事は、自家製映画の内容の中に、犯人逮捕の手がかりになるような共通の特徴を探し、そのために形式そのもの、すなわち彼はつねに一連の自家製映画を見ているのだという重要な事実を見落としてしまう。自家製映画の上映そのものを通じて、自分はすでに殺人犯と同一化しているのだということ、すなわち画面のあらゆる細部を探り回る自分の強迫的な視線は犯人の視線と重なり合っているのだということに彼が気づいた瞬間、決定的な変化が起きる。その同一化は視線のレベルの上のことで、内容のレベルにおいてではない。自分の視線がすでに他者の視線であるというこの経験には、どこかひどく不快で猥褻なところがある。なぜだろうか。ラカン的な答えはこうだーーそうした視線の一致こそが倒錯者の定義である(ラカンによれば、「女性的」神秘思想家と「男性的」神秘思想家との違い、たとえば聖テレザとヤコブ・ベーメとの違いはそこにある。「女性的」神秘思想家は非男根的な「すべてではない」享楽を含んでいるが、「男性的」神秘思想家の本領はまさしくそのような視線の重複にある。彼はその視線の重複によって、神にたいする自分の直観は神が神自身を見る視線なのだという事実を経験する。「自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同することの中には、たしかに倒錯的な享楽があるといわざるをえない」LACANGod and the Jouissance of The Woman inChapter 6 of Encore)。(ジジェク『斜めから見る』PP.202-204





2015年2月5日木曜日

斉藤道三とジョン・マケイン

まず戦国時代の武将、美濃の戦国大名である斉藤道三をめぐる坂口安吾の「歴史小説」から、すこし抜き出してみる。

道三は新しい血をためすために、最大の権力をふるった。その血は、彼の領内が掃き清められたお寺の院内のように清潔であることを欲しているようであった。

 院内の清潔をみだす罪人を――罪人や領内の人々の判断によるとそれは甚しく微罪であったが――両足を各の牛に結ばせ、その二匹の牛に火をかけて各々反対に走らせて罪人を真二ツにさいたり、釜ゆでにして、その釜を罪人の女房や親兄弟に焚かせたりした。(坂口安吾『梟雄』





もちろん《両足を各の牛に結ばせ、その二匹の牛に火をかけて各々反対に走らせて罪人を真二ツにさいたり、釜ゆで》にしたりしたのは、日本の戦国時代の武将だけではない。

われわれドイツ人は、確かにわれわれ自身を特に残忍で冷酷な民族だとは思わない。まして特に軽浮で徒らに酔生夢死する民族だとは思わない。しかし「思想家民族」(これは今日なお信頼と真摯と無趣味と着実の最大限を示し、しかもこれらの諸性質を笠に着てヨーロッパのあらゆる種類の官人の訓育を要求するあのヨーロッパ民族のことだ)を育て上げるために地上においてどれほどの労苦が払われたかを看破するには、われわれの古い刑制を見るだけで十分である。これらのドイツ人は、その賤民的な根本本能とそれに伴なう野獣の如き蛮行とを統御するために、恐るべき手段を用いて自分たち自身に記憶をなさしめた。諸君はあのドイツの古い刑罰、例えば、石刑(――すでに口碑に伝えるかぎりでも、石臼が罪人の頭上に落下する)、車裂きの刑(刑罰の領域におけるドイツ的天分の最も独自な創意であり、十八番だ!)、杙で貫く刑、馬に引き裂かせたり踏みにじらせたりする刑(「四つ裂き」)、犯人を油や酒の中で煮る刑(十四世紀および十五世紀になお行なわれていた)、人気のあった皮剝ぎの刑(「革紐作り」)、胸から肉を切り取る刑などを思い合わせ、更に悪行者に蜜を塗って烈日の下で蠅に曝す刑なども思い合わせてみるがよい。そうした様々な光景を心に留め、後者の戒めとすることによって、人々はついに、社会生活の便益を享有するためにかねた約束した事柄に関して、幾つかの「われ欲せず」を記憶に留めるようになる。――そして実際! この種の記憶の助けによって、人々はついに「理性に」辿り着いたのだ! ああ、理性、真摯、感情の統禦など、およそ熟慮と呼ばれているこの暗い事柄の全体、人間のすべてのこうした特権と美粧、これらに対して支払われた代価がいかに高かったことか! いかに多くの血と戦慄があらゆる「善事」の土台になっていることか! ……(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫 p68)

あるいは、ジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』から次ぎのような画像を貼り付けることもできる(「ジュルジュ・バタイユと斬首の空景」(鈴木創士)より)。





…………

ところで次ぎのような文章を読んだ。

メディア報道が触れないのは、アメリカの反イスラム国キャンペーンを支持している国家や政府の首脳は、 それぞれの秘密機関の忠告によって、 アメリカ情報部こそがイスラム国を作ったという口にされない事実を知っており、それは、アメリカの援助による“ジハーディスト” (聖戦士)テロリストの広大なネットワークの一部であることを、十分に承知しているということである。 諸国家は、 アメリカ主導の決議を支持するように強要されているかアメリカのテロ計画の一味であるか、どちらかである。(「テロリストはアメリカ――イスラム国に関する大嘘 」By Prof. Michel Chossudovsky Global Research, September 26, 2014 http://www.dcsociety.org/2012/info2012/140927_2.pdf


そして、西谷文和という方ーー、プロフィール欄には、《フリージャーナリストしてます。日本語にすると「無職」です。なのでいろいろと外国へ行きます。もっぱら中東の戦場取材しています》とあるーーが次ぎのようなツイートをしているのにめぐり合った。

 @saveiraq · 2月1日事態を逆から見ることが大事。「イスラム国が残忍だからテロとの戦いを強化する」これが安倍首相の見方。事実は逆で、「残忍なように見えるイスラム国を作って、テロとの戦いをずっと続けたい」。これが米国の本音。米国はイラク戦争で財政破綻しているので、「日本の金で戦争したい」も本音。

もちろん、こういった話をすぐさま信じ込んではいけないだろう。ただし次ぎのようなツイートを見出した。

Mister Ka‏@Mister_KaJust a reminder folks! That's #US senator John #McCain's friend Abu Bakr Al Baghdadi in both photos! #Ukraine #NATO

このツイートには”both photos!”とあるように、二枚の画像が貼り付けてある。









こういったことはわたくしが今の今まで知らなかっただけで、すこしでも「イスラム国」なるものに関心のある人は、とっくの昔に知っていることだろうとは思う。

ジョン・マケインとは、もちろん2008年に大統領候補として指名を受けた共和党の重鎮である。アブー・バクル・アル=バグダーディーとは、このところ話題の人物(「イスラム国」の自称カリフ)である。

少なくともジョン・マケインとバグダーディーとは知り合いであることが分かる。

二〇〇五年十一月、ブッシュ大統領は「われわれは拷問していない」と声高に主張しつつ、同時に、ジョン・マケインが提出した法案、すなわちアメリカの不利益になるとしして囚人の拷問を禁止する(ということは、拷問があるという事実をあっさり認めた)法案を拒否した。われわれはこの無定見を、公的言説、つまり社会的自我理想と、猥雑で超自我的な共犯者との間の引っ張り合いと解釈すべきであろう。もしまだ証拠が必要ならば、これもまたフロイトのいう超自我という概念が今なお現実性を保っていることの証拠である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

どうやらジョン・マケインは、「斉藤道三」の資質をいまだ兼ね備えている人物らしい。

Senator John McCain’s Whoops Moment: Photographed Chilling With ISIS Chief Al-Baghdadi And Terrorist Muahmmad Noor!」から、もうひとつ画像だけを抜き出しておこう。




…………


ここまでだけにしておけばいいのだが、ややわたくしの趣味に合わないところがあるので、最後に「気品のある」プルーストの文章でも附記しておこう。


……ルグランダンに出会ったことについて父が家族の人たちの意見を求めていたあいだに私が台所におりていった日は、ジョットーの慈悲が産後非常にからだをわるくして、まだ起きあがれなかった日であり、フランソワーズは手つだう者がいないのでおくれていた。私が下におりたとき、彼女は鶏舎に面した下台所で一羽の若鶏を締めているところであったが、耳の下から首を落とそうと彼女が懸命になっている一方で、死物狂で、もちろん当然の抵抗をする若鶏が、かっとなったフランソワーズの「こん畜生! こん畜生!」のさけびを浴びているさまは、翌日の夕食に、その肌を上祭服さながらに金の刺繍でかざり、聖体器からたらされたその貴重な肉汁とともにあらわれる若鶏が、この私たちの老女中の聖なるやさしさと終油の秘蹟とをひきたたせるであろうとは対照的に、ここではいささかそれのマイナス面を露呈していた。若鶏が死んだとき、フランソワーズは血をしぼったが、その血がうらみがましく流れるので、彼女はまたしてもかっとのぼせあがり、敵の屍を見つめながら、もう一度最後に、「こん畜生!」といった。私はぞっとしてふるえながら上にあがったが、すぐにでもフランソワーズに暇を出してほしかった。しかし、それでは誰が私のためにつくってくれるだろう、あんなにあつい湯たんぽを、あんなにかおりの高いコーヒーを、そしてまた… あの若鶏の料理を?… じつのところ、誰もが私とおなじように、そのような卑怯な計算をしなくてはならなかったのだ。たとえばレオニー叔母はーーこのころ私がまだ知らなかったことだがーーフランソワーズがその娘や甥たちのためなら惜気もなく命を投げだしたであろうのに、他人には奇妙に冷酷であることを知っていた。にもかかわらず、叔母はフランソワーズを家にひきとめていた、というのも、フランソワーズの冷酷さは知りながら、その奉公ぶりを買っていたからだ。私にすこしずつわかったことは、フランソワーズのやさしさ、悔いあらため、さまざまな美徳が、下台所のさまざまの悲劇を秘めていたことで、教会のステーンド・グラスのなかに合掌した姿で描かれている王や王妃の治世が血なまぐさい事変に色どられたことを歴史があばくのと似ているのである。身内のものを除けば、彼女から遠く離れている人間の不幸ほど彼女のあわれみをそそったことを私は知った。新聞を読んでいて、彼女が見知らぬ人たちの不幸に流すおびただしい涙は、すこしでも明確に当人を思いうかべることができると、たちまちとまってしまうのであった。下働の女中がお産をしてからあとのある夜なかに、この女がはげしい腹痛に襲われた、ママはその悲鳴をきくと、とびおきて、寝ているフランソワーズを起こしたが、フランソワーズは平気で、そんな泣声はみんなお芝居だ、「奥さまぶり」たいのだ、と言いはなった。そういう発作をおそれていた医師は、私たちの家にそなえてあった医書のその症状が記載されているページにしおりをはさんで、最初にどんな手当が必要であるかを知るときに参照するようにと教えてくれていた。母はしおりを落とさないようにと注意をあたえながら、フランソワーズにその医書をさがしにやった。一時間経ってもフランソワーズはもどってこなかったのおで、腹を立てた母は、フランソワーズがまた寝てしまったのだと思い、私に自分で本棚のことろへ見に行くようにといった。私はそこにフランソワーズがいるのを見つけたが、彼女はしおりがはさんであるところをひらき、その発作の臨床記述を読んでいて、そこに出ている彼女が知りもしないあるモデル・ケースの病人の身の上に声をあげてすすり泣いているのであった。解説書の著者が挙げている苦しい徴候の一つ一つに彼女は大きな声をあげていた、「なんとまあ! 聖女さま、そんなことがあるのでようか、神さまが不幸なひとをこれほど苦しめようとなさるなんて? ああ! かわいそうなひと!」

ところが、私に呼びとめられ、ジョットーの慈悲のそばにもどるやいなや、フランソワーズの涙はたちまち流れなくなった。彼女のお手のものであり、彼女が新聞を読んでいてしばしばそそられた、あわれみと涙もろさのあの快い感覚も、またそれど同系統のどんなたのしさも、真夜なかに下働の女中のために起こされたというにくらしさといらだたしさで、何一つ感じることができず、さきほどの記述にあったのとおなじ苦しみを目のまえにしながら、彼女はおそろしいあてこすりさえまじった不機嫌な小言を口にするだけであった、そして自分のいうことが部屋を出ていった私たちにもうきこえるはずがないと思ったとき、彼女がいったのはこうだった、「この女もあんなことさえしなければこうはならなかったのに! さんざんおたのしみをしたのだからね! いまさらもったいぶるのはごめんだよ! とにかくこいつといっしょになったために、あたら若い男が一人神さまから見はなされなくてはならなかったのだもの。ああ! 死んだ母さんの田舎の言葉でよく人がこういっていた、

犬のお尻にほれてしまえば、
犬のお尻もばらの花。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)


Islamists killing a woman by slitting her throat and capturing her blood in a bowl,


ーー「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン)


さあて、おわかりだろうか?

千葉望 ‏@cnozomi 2月3日
私たちができることはISILが望んでいる「映像の拡散」をしないことです。彼らの戦術に加担するな。

よい子たちは、ニーチェもプルーストもバタイユも読んではならぬ! もちろん、このようなブログ記事も読むべきではない!  

ISIL(アイシル)の戦術だと? ツイッターで流通する「善意」の紋切型のひとつだ。共感の共同体の住人は、このたぐいのツイートを読んで湿った瞳を交わし合い頷き合っておればよろしい!

この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。(酒井直樹「共感の共同体批判」

共感の共同体ーー「土人の国」(浅田彰)-ーにおける精神の腐臭、その典型的な振舞いとはどんなものだというのか。

現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける。同じ人に対して同じように賞賛する。(中島義道『醜い日本の私』)

もちろん、われわれはムスリムたちが日々こういった目に遭遇していることを知らせる画像も流通させてはならぬ。





分離壁構築による「至上最大の強制収容所」化も知るべきではない!

「分離壁」は,西岸地区再占領作戦が始まった2002年に着工された。高さ8メートルのコンクリート壁,壕,有刺鉄線,通電柵,無人地帯,あるいはこれらの組み合わせからなり,監視塔と鉄扉がある。出入りの際はイスラエル兵のチェックを受ける。 「分離壁」は,マアレ ・ アドミーム,アリエルなど主要な入植地を取り込むため,グリーン・ライン(1967年の軍事境界線)から西岸地区に深く切れ込み,場所によっては,パレスチナ人の市町村全体を取り囲む。当初は,自国民を「テロリストの攻撃から守る」ためだとされたが,間もなく,イスラエルは,この「壁」で取り込んだ地域をイスラエル領として併合する意図であることを明らかにした。

提訴をうけた国際司法裁判所は,2004年7月,グリーン・ラインより西岸地区内にはいった「壁」の建設は違法だとして,壁の撤去と,住民が被った損害への補償を勧告した。同月26日には,イスラエルに国際司法栽のパレスチナ問題と国連勧告に従うよう求めた国連総会決議が150-6-10で採択されたが) ,イスラエルはこれらを無視して「壁」建設を続行した。 「壁」は2010年夏までに520kmが完成,計画通りだと,最終的には全長810kmで,西岸地区の46%をイスラエル側に取り込むことになる。((パレスチナ問題と国連 ─最終講義(2011年12月22日)の記録─奈良本英佑http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/6991/1/79-4naramoto.pdf)





◆中東和平を分断する分離壁 ――イスラエル・パレスチナ間自治交渉と西岸地区の将来的選択肢――飛奈裕美

国連のデータによれば、分離壁 ・ フェンスの建設によって、23 万 7000 人のパレスチナ人がグリー ンラインと壁・フェンスの間に挟まれて西岸地区の他の地域から孤立する。また、16 万人のパレ スチナ人が、西岸地区側に置かれながらほぼ完全に壁・フェンスに囲まれて孤立する。これらの孤 立した地域では、住民の移動が大幅に制限され、日常生活に大きな支障がもたらされている。イス ラエルは、 これらの孤立した地域に住むパレスチナ人に対して、 壁 ・ フェンスに設置されているゲー トを定期的に開けることによって農地や他の西岸地域へのアクセスを可能にし、日常生活への支障 がないよう措置をとると主張している。しかし、多くの地域では軍がゲートを閉鎖し、農民の農地 へのアクセスや、住民の他の西岸地区にある職場、学校、医療施設へのアクセスは大きく妨げられ ている。現在でも西岸地区で適用されているオスマン朝時代の法律は、3 年間耕作されなかった土地は政府によって接収されると定めている。イスラエルは、 この法律を適用することによって、 壁 ・ フェンスによってパレスチナ農民がアクセスできなくなった農地を「合法的」に接収し国有化する ことが可能なのである[Reinhart 2006: 168] 。  

孤立した地域におけるこのような生存手段の剥奪は、パレスチナ住民の「民族浄化」を促すもの だとレインハルトは主張する。農地へアクセスできず収入源を失った農民、職場・学校・医療サー ビスへのアクセスを制限された住民は、他の西岸地域に生活の基盤を移さざるをえず、孤立した地 域を去ることを強制されるだろうというのである。そして、このようにしてイスラエルと西岸地区 の境界線に沿った一部の地域で、 パレスチナ人の 「民族浄化」 が進むだろうと推測している [Reinhart 2006: 169] 。実際、2003 年に壁・フェンスが完成したカルキリヤでは、パレスチナ人の「浄化」が 既に始まっているという。カルキリヤは従来、経済と農業の中心地として繁栄していた。しかし、 分離壁はカルキリヤをほぼ完全に囲い込み、他の西岸地域と結ぶ唯一のゲートはイスラエル軍に よって完全に支配されている。孤立したカルキリヤからは、既に多くのパレスチナ人が生存の手段 を探すために他の西岸地区の町へ移住した[Reinhart 2006: 169–170] 。



末人たちにはそれにふさわしい読み物がある。
見よ! 私は君達に末人を示そう。
『愛って何? 創造って何? 憧憬(あこがれ)って何? 星って何?』―こう末人は問い、まばたきをする。

そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。末人は全てのものを小さくする。この種族はのみのように根絶できない。末人は一番長く生きる。

『われわれは幸福を発明した』―こう末人たちは言い、まばたきをする。
彼らは生き難い土地を去った、温かさが必要だから。彼らはまだ隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける、温かさが必要だから。…

ときおり少しの毒、それは快い夢を見させる。そして最後は多量の毒、快い死のために。…
人はもはや貧しくも豊かにもならない。どちらも面倒くさすぎる。支配する者もいないし、従う者もいない。どちらも面倒くさすぎる。

飼い主のいない、ひとつの畜群! 誰もが同じものを欲し、誰もが同じだ。考え方が違う者は、自ら精神病院へ向かう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』序説 手塚富雄訳)


安吾だってダメだ、森鴎外だってそうだ、おわかりだろうか?

壽阿彌の手紙には、多町の火事の條下に、一の奇聞が載せてある。此に其全文を擧げる。「永富町と申候處の銅物屋大釜の中にて、七人やけ死申候、(原註、親父一人、息子一人、十五歳に成候見せの者一人、丁穉三人、抱への鳶の者一人)外に十八歳に成候見せの者一人、丁穉一人、母一人、嫁一人、乳飮子一人、是等は助り申候、十八歳に成候者愚姪方にて去暮迄召仕候女の身寄之者、十五歳に成候者愚姪方へ通ひづとめの者の宅の向ふの大工の伜に御坐候、此銅物屋の親父夫婦貪慾強情にて、七年以前見せの手代一人土藏の三階にて腹切相果申候、此度は其恨なるべしと皆人申候、銅物屋の事故大釜二つ見せの前左右にあり、五箇年以前此邊出火之節、向ふ側計燒失にて、道幅も格別廣き處故、今度ものがれ可申、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじと申候に、鳶の者もさ樣に心得、いか樣にやけて參候とも、此大釜二つに水御坐候故、大丈夫助り候由に受合申候、十八歳に成候男は土藏の戸前をうちしまひ、是迄はたらき候へば、私方は多町一丁目にて、此所よりは火元へも近く候間、宅へ參り働き度、是より御暇被下れと申候て、自分親元へ働に歸り候故助り申候、此者の一處に居候間の事は演舌にて分り候へども、其跡は推量に御坐候へ共、とかく見せ藏、奧藏などに心のこり、父子共に立のき兼、鳶の者は受合旁故彼是仕候内に、火勢強く左右より燃かかり候故、そりや釜の中よといふやうな事にて釜へ入候處、釜は沸上り、烟りは吹かけ、大釜故入るには鍔を足懸りに入候へ共、出るには足がかりもなく、釜は熱く成旁にて死に候事と相見え申候、母と嫁と小兒と丁穉一人つれ、貧道弟子杵屋佐吉が裏に親類御坐候而夫へ立退候故助り申候、一つの釜へ父子と丁穉一人、一つの釜へ四人入候て相果申候、此事大評判にて、釜は檀那寺へ納候へ共、見物夥敷參候而不外聞の由にて、寺にては(自註、根津忠綱寺一向宗)門を閉候由に御坐候、死の縁無量とは申ながら、餘り變なることに御坐候故、御覽も御面倒なるべくとは奉存候へ共書付申候。」

此銅物屋は屋號三文字屋であつたことが、大郷信齋の道聽途説に由つて知られる。道聽途説は林若樹さんの所藏の書である。

 釜の話は此手紙の中で最も欣賞すべき文章である。叙事は精緻を極めて一の剩語をだに著けない。實に據つて文を行る間に、『そりや釜の中よ』以下の如き空想の發動を見る。壽阿彌は一部の書をも著さなかつた。しかしわたくしは壽阿彌がいかなる書をも著はすことを得る能文の人であつたことを信ずる。(森鴎外『寿阿弥の手紙』)

…………

別に投稿しようと思ったが、そうするまでもない気がしてきたので、ここに追記しておく。

パレスチナ問題の本質は,一言でいえば,移民国家建設に伴う,移民と先住民間の紛争である。このような紛争は,16世紀ごろからヨーロッパ人の大量移住先となった世界各地に見られる。パレスチナは,日本の九州よりも狭く,現在の人口は,イスラエルとその占領地(ガッザ地区と西岸地区)を合わせても1200万人程度に過ぎない) 。そのような地域紛争が,なぜ100年におよぶ国際紛争になったのか。それは, パレスチナが, ユーラシア大陸とアフリカ大陸の結節点,また,地中海交易圏とインド洋交易圏をつなぐ「陸橋」であり,戦略上の要衝に当るからだ。また,この土地が,ユダヤ教,キリスト教,イスラームという3大宗教共通の聖地をかかえているからでもある。

そのような土地であったからこそ,パレスチナをめぐる地域紛争は国際政治のテーマとなり,このテーマには,国連という国際機関が深く関与することになった。(パレスチナ問題と国連 ─最終講義(2011年12月22日)の記録─奈良本英佑http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/6991/1/79-4naramoto.pdf)

《パレスチナ問題の本質は,一言でいえば,移民国家建設に伴う,移民と先住民間の紛争である》などとはっきり言明してくれる文章にいまだかつて遭遇したことがなく、この奈良本英佑氏の最終講義は、わたくしのような中東問題について寡聞の者には、とても勉強になる。もっとも。--念を押しておくがーー、この発言の正否が問題なのではない。そんな単純なものではない、という人びとがいるだろうことはもちろ思い遣ることができる。ただわたくしには、眠っていた想像力を刺激させてくれたり、己れの歴史音痴ぶりを諌めて少しは勉強しろよ、との促しを与えてくれる文章だということだ。

パレスチナ問題の当面の起源は、第一次世界大戦によって、オスマン帝国の滅亡、そして戦勝国のイギリスとフランスによる旧オスマン帝国領の分割によって、オスマン領土だったパレスチナ地方が英国委任統治になることに端を発する。そしてイギリス支配の下、パレスチナは、ユダヤ移民ラッシュに見舞われる。--この程度のことは知っていたが、その後、米国のシオニスト・ロビーの圧力に大きくよるのだろう、国連でのイスラエルの政策非難決議案の米国拒否権行使、《1972年9月以来、2011年12月現在までに40回を超える》(奈良本英佑)の詳細についてはほとんど無知あるいは忘却の身であった。



ユダヤ人がどの国に居住しているかを調べるとユダヤ人総人口1,358万人のうちイスラエルに570.4万人、米国に527.5万人と合わせて81%はこの2国に集中していることが分かる。(世界のユダヤ人人口


(A Timeline Of Israel & Palestine’s Claim To The Land: Who Came First?)


もちろんシオニズム国家イスラエルもガザ地区からロケット攻撃を受けているのを知らないわけではない。「イスラエルを含むどの国家も、その領土と人々がロケット攻撃に被られている時に、じっとしていることはできない」(ヒラリー・クリントン)――だから「報復」は正当化される・ ・ ・

《しかしパレスチナ人たちは、ヨルダン川西側地区が日々彼らに奪われている時に、じっとしているべきなのだろうか? 》(ジジェク

ニュースになりさえしない事件、たとえばシオニストがヨルダン川西岸で、日常的かつ「些細な」暴力、ーー《井戸に毒を入れ、木々を焼き払い、パレスチナ人をゆっくりと南に押しやってゆく》(ジジェク)――こんなことは、こうやって調べてみなければ、われわれの念頭には容易に浮びさえしない。



'Why are Palestinans attempting to enter Israel labelled "infiltrators"?' 

私が言いたいのはつまり――友だちを挑発するために言うのですがね、これも私の挑発 の一つです。「そう、私は右翼に賛成する。ヨーロッパの遺産、ユダヤ・キリスト教的な遺産 は危機に瀕している。しかし、彼らイスラームや何やらに反対している偽のヨーロッパの擁 護者たち、彼らこそが危機なのだ。私はヨーロッパのムスリムを恐れない。私が恐れるのは ヨーロッパの擁護者たちだ」。ユダヤ人の友だちにさえ言っているのです。「気を付けるん だ!今何が起きているか気付いているか?」と。(……)
イスラエル国家の代議士たちは、自分たちが何をしているのか気付いているのでしょうか?彼らは基本的に自分たちの魂を悪魔に売ったのです。それはこういう意味です。彼ら は西側の政治勢力と取引をしています。そして私に言わせればそれらの勢力は、本質的 に反ユダヤ主義なのです。

つまり、彼らが人種的なゲームをしても良いのなら、私たちにパレスティナ人と同じことを することを許せ、ということです。私は本当にユダヤ人のことを心配しています。ユダヤ人 は偉大な民族です。シオニストの政治は彼らを偏狭な自滅的国家に変えようとしています。

中東の紛争における真の犠牲者は、このカタストロフィックな政治において、ユダヤ人自身となることでしょう。彼らは、そのユニークさと偉大さを失うことになるかもしれません。(ジジェク「今や領野は開かれた」The interview on Talk to Al Jazeera: Now the Field is Open


共感の共同体の住人たちにも好まれるらいいアラブ学者池内恵の言い草も引用すべきかと思ったが、敬してやめておく、--「それで、どうした、ボウヤ?」と、ーーこれも最悪の紋切型が、わたくしの口から洩れそうになるから。

もっとも彼もこの類の手合いよりは、たしかに格段にましには違いない。

そこで注目を集めているのが「カワゆいカリフ制」などと言ってウェブ上のマニアから、内田樹氏のような頭の軽い現実感の薄い軽率な居座り系文系知識人にまで(前者と後者は同一かもしれないが)高く評価されてしまっていた中田考氏http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20141014/p2 …



2015年2月4日水曜日

あなた方にききたいのだが、--挑発の色調をこめて

ところで、あなた方にききたいのだが、――あなた方? もちろんこの「あなた方」には、この「私」も含まれるーー、なぜ日本人が人質になったときだけ大騒ぎするのだろう? ――などという問いは、かねてからもっともらしい連中がいくどもくり返してきた捏造された問いにすぎないのかもしれない、それらに比べていささかの「挑発」の色調があるかもしれぬが。「日本人」とは「私」のことだ。私の同類のことだ。その「私」が危険にさらされれば大騒ぎするのはアタリマエであるだろう。

あなた方は、誰よりも自分を、そして自分の愛する者の危険に心を配る。

まず第一に、無差別の愛などは、相手を侮辱するもので、愛の本質的価値の一部を失っている。しかも第二に、すべての人間が愛に値するなどということはありえない(フロイト『文化への不満』)

いや自己愛が先ではないとさえ言う人もいる、《その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない》(サリバン)。

あなた方の一員であるつもりの「私」は、だが長年の海外生活を経て、標準的な日本人よりは外国人と接触する機会も多くーー当地の人たちだけでなく、韓国人、中国人や台湾人としばしばテニスをするし、当地に来た当初の二十年前からの飲み友達は、香港籍の英人や、当時わたくしと同じく当地人と結婚したオーストラリア人だーー、なぜ「日本人」は「日本人」の危険をのみ大げさに騒ぐのだろう、といささかひねくれた問いを発してみただけかもしれない。とはいえ、私はこうやって「日本語」で今書いているわけだ。その意味で、あなた方の一員であり続けるだろう。

「憐れみ」の思想家ルソーは、《人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ》(『エミール』)としたが、米国人や仏人、英人などが人質になっても、あなた方は自分がまぬがれていると考えるのだろうから、たいして憐れまない。

もちろんそれ以外にも、日本人が人質になれば大きなニュースになる。想像力の欠けた連中でさえいやおうなく危機感を煽られる。飛行機墜落事故が大きなニュースになって自動車事故はニュースにならないのと同じように、大きなニュースによって示された危険性のほうばかりが注目される。「日本人」の人質事件は「飛行機事故」である。あるいは「三原山投身者」である。


寺田寅彦氏はジャアナリズムの魔術についてうまい事を言っていた、「三原山投身者が大都市の新聞で奨励されると諸国の投身志望者が三原山に雲集するようなものである。ゆっくりオリジナルな投身地を考えている余裕はないのみならず、三原山時代に浅間へ行ったのでは『新聞に出ない』のである。このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撒き拡げ、あたかも世界中がその類型で充ち満ちているかの如き錯覚を起させ、そうすることによって、更にその類型の伝播を益々助長するのである」。類型化と抽象化とがない処に歴史家の表現はない、ジャアナリストは歴史家の方法を迅速に粗笨に遂行しているに過ぎない。歴史家の表現にはオリジナルなものの這入り込む余地はない、とまあ言う様な事は一般常識の域を出ない。僕は進んで問いたいのだ。一体、人はオリジナルな投身地を発見する余裕がないのか、それともオリジナルな投身地なぞというものが人間の実生活にはじめから存在しないのか。君はどう思う。僕はこの単純な問いから直ちに一見異様な結論が飛び出して来るのにわれながら驚いているのだ。現実の生活にもオリジナルなものの這入り込む余地はないのだ。(小林秀雄「林房雄の「青年」」『作家の顔』所収)

ニュースになりさえしない事件、しかも遠い外国の出来事、たとえばシオニストがヨルダン川西岸で、しかも殺戮でさえなく、日常的かつ「些細な」暴力、《井戸に毒を入れ、木々を焼き払い、パレスチナ人をゆっくりと南に押しやってゆく》(ジジェク)――こんなことは念頭にさえ浮ばない。

いや、安倍晋三が日本の武器商人を引きつれて、イスラエルで商談をすれば、あなた方のうちのひとりでしかない「私」でも、すこしは調べてみようとするのかもしれない。


カレイドスコープ


もちろんシオニズム国家イスラエルもガザ地区からロケット攻撃を受けているのを知らないわけではない。「イスラエルを含むどの国家も、その領土と人々がロケット攻撃に被られている時に、じっとしていることはできない」(ヒラリー・クリントン)――だから「復讐」は正当化される・ ・ ・

《しかしパレスチナ人たちは、ヨルダン川西側地区が日々彼らに奪われている時に、じっとしているべきなのだろうか? 》(ジジェク

ところで、あなた方は、なぜ日本政府が武器商人の振舞いをしたときのみ、いきり立つのだろう? なぜ日本が武器輸出国の仲間入りをして悪いのだろう? ーーとまではけっして言うまい。だが下記のような国々の連中の商売を食い止めなければ、いくら日本が輸出を取りやめても同じことではないか?





もちろんこれらの問いもいくどもくり返された凡庸な問いでしかない。しかもイスラエル(ユダヤ人)も、パレスチナ(あるいはアラブ人)も、この半世紀以上を超えてのあいだに、それぞれひどい心的外傷事件を抱えている。どうやって彼ら相互のあいだの復讐を止めうるのか、などとは誰もが思いもつかないアポリアに相違ない。




サン=フォン) もしわしが他人から悪を蒙ったら、わしはそれを他人に返す権利、いや、進んでこちらからも悪を働く幸福さえ享有するだろう。 (マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』澁澤龍彥訳ーーー「血まみれの頭ーー〈隣人〉、あるいは抑圧された〈悪〉」より)




日本は平和憲法という世界史的理念を偶然にもわがものとしてきた。《ヨーロッパのライプニッツ・カント以来の理念が憲法に書き込まれたのは、日本だけです。だから、これこそヨーロッパ精神の具現であるということになる》(柄谷行人)ーーこの理念をすこしでも世界の国に共有してもらう方法が、ひょっとして「日本人であること」の一番肝腎なことなのだろうか。それはいささか自分だけよい子になるエゴイズムに見えないでもないにもかかわらず。

エマニュエル・トッドは、「シャルリ・エブド」オフィスにおけるテロ事件後の電話インタビューで次のように語っている(「仏テロ事件後のラ・マルセイエーズによる「情緒の昂揚」」より)。

フランスは中東で戦争状態にある。オランド大統領はイラクに爆撃機を出動させ、過激派を空爆している。ただ、国民はそれを意識していない。

真の問題はフランスが文化道義的危機に陥っていることだ。誰も何も信じていない。人々は孤立している。社会に絶望する移民の若者がイスラムに回帰するのは、何かにすがろうとする試みだ。

あなた方は、あるいは「私」は、日本という国はまだここまでの振舞いをするには至っていないはずだとひそかに得心し、安堵していていいものだろうか。トッドは同時に、《フランスが今回の事態に対処したいのであれば、冷静になって社会の構造的問題を直視すべきだ》とも語っている。

またしても、「社会の構造」、あるいは「システム」の問題だ、などとは言わないでおこう。そのシステムとは、究極的には、世界資本主義のシステムであり、そこからどうやって免れるかなどとの問いは考えても無駄だなどとは。《悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。》(ジジェクーー絶望さえも失った末人たち


世界資本主義、--それはさらに具体的には、「新自由主義」というイデオロギーであると言えるのかもしれない(参照:世界資本主義のガン/イスラム対抗ガン)。

「帝国主義的」とは、ヘゲモニー国家が衰退したが、それにとって代わるものがなく、次期のヘゲモニー国家を目指して、熾烈な競争をする時代である。一九九〇年以後はそのような時代である。いわゆる「新自由主義」は、アメリカがヘゲモニー国家として「自由主義的」であった時代(冷戦時代)が終わって、「帝国主義的」となったときに出てきた経済政策である。「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。しかし、アメリカの没落に応じて、ヨーロッパ共同体をはじめ、中国・インドなど広域国家(帝国)が各地に形成されるにいたった。(第四回長池講義 柄谷行人講義要綱

そして新自由主義のバイブルとしてアングロサクソンたちに爆発的に読まれているのは、アイン・ランドである。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』ーー「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」)



2015年2月3日火曜日

「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン)

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

 この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)

《2001911日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。》(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)


(Fallujah is the cemetery for Americans)


いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)





蠅も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。一つの死体から他の死体に移るには死体を飛び越えてゆくほかはないが、このことも写真は語らない。
その臭いは年寄りには親しみやすいものらしい。それは私を不快にしなかった。だが、何という蠅の群……ところが、死体の側に身をかがめるなり、腕か指を動かすなり、死体に向けてちょっとした身ぶりを示すと、途端にそれは非常な存在感を帯び、ほとんど友のように打ち解ける。(ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』)

The Sabra and Shatila massacres


※別のシャティーラの画像は、「レヴィナスの滑稽な大失態(ジジェク)」を見よ。


……残忍ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆んどすべての彼らの歓びに混入させられているか、他方また、彼らの残忍に対する欲求がいかに天真爛漫に現れているか、「私心なき悪意」(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》)すらもがいかに根本的に人間の正常な性質に属するものと見られーー、従って良心が心から然りと言う! ものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。(……)

死刑や拷問や、時によると《邪教徒焚刑》などを抜きにしては、最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、また意地悪を仕かけたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構いなしにできる相手を抜きにしては、貴族の家事が考えられなかったのは、まだそう古い昔のことではない。(……)

――序でに言うが、このような思想でもって、私はわが厭世家諸君のぎしぎしと調子はずれな音を立てている厭世の水車に新しい水を引いてやる気は毛頭ない。私は却って残忍をまだ恥じなかったあの当時の方が、厭世家たちの現れた今日よりも地上の生活は一層明朗であったということを証拠立てようと思う。人間の頭上を覆う天空の暗雲は、人間の人間に対する羞恥の増大に比例してますます拡がってきた。倦み疲れた悲劇的な眼差し、人生の謎に対する不信、生活嫌悪の氷のように冷たい否定――これらは人類の最悪時代の標徴ではない。それらはむしろ、沼地の植物として、その生育に必要な沼地が出来るとき初めて日の光を見るのだ。――私の言っているのは、「人間」獣をしてついにそのすべての本能を恥じることを学ばしめたあの病的な柔弱化と道徳化のことなのだ。「天使」(ここではこれ以上に酷い言葉は用いないでおこう)になる途中で人間はあのように胃を悪くし、舌に苔を出かしたために、ただに動物の歓びや無邪気さを味わえなくなったばかりか、生そのものをも味気ないものにしてしまった。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 p73-76)

さあて、この「わたくし」はこうやって引用して何が言いたいというのか。《今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られ》たではないか? 今年になって起こったふたつのムスリムによる事件により。

そして、ドゥルーズがある種の「知識人」にひどく激怒をしたように、ーー「強制収容所と歴史の犠牲者を利用して」いる、あるいは「屍体を食い物にしている」とーー、あの事件を餌にもっともらしく「正義」を語る評論家連中よりは、無邪気に興奮して「無意識的に」祝祭気分になっている公衆のほうが天真爛漫で好感がもてるということはないか。まず「出発」はここからだ。よおく考えてみよう。「似非知識人」のルソー派たちよ、→「ルソー派とニーチェ派

ーー《とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。》(ランボー)

…………

2004年の浅田彰による発言「イラク人質問題をめぐる緊急発言」(憂国呆談)は、リンク切れになっているが(http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/20040416/index.html)、その「コピペ」に行き当たったので、ここに貼り付けておこう。



Photos from Fallujah, March 31, 2004

イラクで日本の民間人3人がイスラム過激派と見られる連中に拘束され、3日以内に日本政府が自衛隊を撤退させなければファルージャで黒焦げの死体を吊るされた4人のアメリカ人よりひどいやりかたで生きたまま焼き殺すっていう脅迫状とともにヴィデオが送りつけられてきた。最悪の事態になっちゃったね。ただ、自衛隊派兵の時点でこういうことが起こることは当然予想されたわけで、いまこの事件に衝撃を受けるなんて言ってるやつがいることに衝撃を受ける。イラクの人々を助けるためと称し、実はブッシュ政権に従う姿勢を示すために自衛隊を派遣して、現実にイラクの人々を助けるために行動してた民間人なんかの命を危険にさらす結果になっちゃったわけだから、本当に最低だと思うよ。前に「自衛隊」は小泉"X-JAPAN"純一郎が玩具として振り回す「J隊」だって言ったけど、これではむしろアメリカのための「他衛隊」じゃない? いや、自分たちだけを守るために基地にひきこもりを決め込んでるんだからこれこそまさに「自衛隊」というべきか「自閉隊」というべきか。

 ところが、政府は最初から、テロリストに屈することはない、ここで引いたらテロリストの思う壺だから自衛隊は撤退しない、と言い切って、アメリカのドナルド・ラムズフェルド国防長官やディック・チェイニー副大統領からさっそくお褒めの言葉にあずかってる。要するに、日本政府は日本国民を守るよりアメリカ政府の歓心を買うために行動するってことがはっきりしたわけだ。そもそも断固としてテロリストと戦うと称してアメリカがイラクに攻め込んだために、それこそオサマ・ビンラディンの思う壺で、かえってイラクがテロリストの巣窟と化しちゃったわけでしょ。そのアメリカのお先棒を担ぐことで、誘拐犯の脅迫状にもある通りもともと親日的だったアラブ人を敵に回したちゃったんだから、愚かと言うほかない。

 その意味でもともと自衛隊派兵は大間違いだし、われわれは一貫して反対してきたわけだけど、今からでも遅くはないんで、むしろ今度の人質事件をきっかけに撤退する勇気をもつべきじゃないか。1977年にダッカで日本赤軍のハイジャック事件が起きたとき首相だった福田赳夫は「人命は地球より重い」っていう「迷言」を吐いて超法規的にテロリストの要求を呑んだわけだけど、実はあれはなかなかの「名言」でもあるんで、アメリカやイスラエルをはじめとする各国の批判と軽蔑を浴びつつあそこまで踏み切ったのは大したものだとも言える。ところが、その息子である現・官房長官の福田康夫は、ブッシュ・ジュニアがサダム・フセインを倒せなかったブッシュ・シニアを乗り越えようとしてイラク戦争に突入したように、ダッカ事件のトラウマを埋めようとするかのごとく従米強硬路線一本やり。小泉も前言を訂正したり撤回したりする勇気のないナルシシストだから福田と同じだし、川口順子なんてのは外相って言ったって北朝鮮拉致被害者の面倒を見てる中山恭子内閣官房参与程度のお飾りでしかないしね。

 だいたい、今回は超法規的どころか、完全に合法的に撤退できる──というか、撤退すべきなの。幸か不幸か人質事件の起きる直前にサマーワの自衛隊の野営地が砲撃された。本格的な攻撃じゃなく、被害もなかったとはいえ、これで明らかにサマーワは(実はイラク全土が)戦闘地域になり、「非戦闘地域」というイラク特別措置法の要件を満たさなくなった。だから、法律に従って一時的に撤退する。で、防衛庁としては、これは人質事件とは別問題なんで脅迫に屈したんじゃない、人質事件についてはわれわれは直接関知しない、二つがリンクしていると見るのは勝手だけれど、われわれはたんに法律に基づいて粛々と行動しているだけだ、とか何とか、むりやり強弁しとけばいいわけよ。それも、自衛隊をすぐ帰国させるんじゃなく、クウェートあたりで半月ほど待機し、再び「非戦闘地域」という条件が満たされればただちにサマーワに復帰する、とか何とか、適当に恰好をつけとけばいい。いや、もちろんわれわれはもともと派兵反対だけど、最低いまの政権でもその程度のことは言えるんじゃないの?

 もちろん、いちばん悪いのは民間人を人質にとる武装集団だよ。だけど、妥協なしにテロと戦うっていうだけでは、問題は解決しない。だいたい、アメリカの始めた「テロとの戦争」に加担した日本政府が、アメリカに義理立てするため結果的に日本国民を見殺しにしちゃうんだとすれば、自国民の保護っていう最大の目的を放棄したに等しい。いやまあ、国家なんてものはもともとそういう怪物なんだけどさ。

 ……っていう話をしてから一週間たったところで、イラクのイスラム聖職者(法学者)協会の仲介が効を奏して、日本人の人質3人が解放されたし、彼らの後で拘束された日本人2人も解放された。本当によかったと思うよ。ただ、各国の人質を合わせると何十人にもなって、とくにイタリア人の人質は4人のうちまず1人殺されてるから、状況はまだまだ厳しい。とにかく、アメリカの占領政策が完全に失敗して事態が泥沼化する一方なのに、まだ力で押さえ込めると思ってるところが救い難いよ。

 そもそも、今回の危機の発端は、ファルージャでアメリカ人4人(イタリア人の4人の人質同様、民間人といっても警備担当者で、いわばセキュリティ関係のアウトソーシングが進んでる証しだけど)が殺され、黒焦げの死体が引き回されて橋から吊るされた事件だった。ソマリアのモガディシオで同じように米兵の死体が引き回されたときは、世論が耐えられなくなってクリントン政権はアメリカ軍を引き上げたわけだけど、それよりひどい事態になり、しかもソマリアからおめおめと逃げ帰ったトラウマは繰り返せないってんで、ブッシュ政権はヒステリックな報復攻撃に出て、ファルージャを包囲し、一説では600人もの死者を出す「ファルージャの虐殺」を引き起こしちゃったわけね。モスクまでミサイルで攻撃しちゃって、その結果、犬猿の仲だったスンニ派とシーア派を反米の一点で結束させる始末。イスラエルがハマスの指導者のアハマド・ヤシン師を殺したのもえげつないけど、あのときでさえモスクは攻撃してない。ヤシン師がモスクから出てクルマか何かで移動中にミサイルを撃ち込んだ。後継者のアブドルアジズ・ランティシ師をさっそく殺した手口もそれと同じ。モスクを攻撃するのは、いたずらに宗教的反感を煽るし、そもそも個人をヒットするには精度が低すぎる、と。それと比べてもアメリカのやりかたは乱暴で粗雑としか言いようがない。この件も含め、ブッシュ政権は軍の増派で反対派を押さえ込み、スケジュール通りにイラク人への政権移譲を進めようとしてるけど、そう簡単にはいかない。むしろ、短期的には「ヴェトナム化」とさえ言われる泥沼化の様相が強まる一方じゃない? さすがになりふりかまわず国連にすがることになり、自分たちが勝手に選んだ統治評議会じゃなく国連が主体となって選ぶ暫定政府が来年1月の選挙まで政権を担当するっていうブラヒミ提案を呑んだけど、それでさえうまくいくかどうかはまだわかんないよ。

 そういう意味では、日本がアメリカの尻馬に乗ってイラク軍事占領の片棒をかつぐんじゃなくあくまで人道支援に徹するんだってことを明確にし、まずイラク国民から支持されることがいちばん大事でしょう。そのためにもやっぱり「非戦闘地域」という要件が満たされなくなったサマーワから自衛隊を少なくとも一時的に撤退させるのがいいんだけどな。撤退要求をしてた誘拐犯が人質を解放したんだから、要求に屈するのではなく法的要件が満たされなくなったので撤退するっていう詭弁が通じやすくなったわけだしさ。でもまあ、来日したチェイニーに釘をさされただろうし、小泉は相手の要求に屈しないまま人質解放を勝ち取ったつもりで舞い上がってるだろうから、とてもそんなことはしないだろうけど。


2015年2月2日月曜日

レヴィナスの滑稽な大失態(ジジェク)

(31 Years on Sabra-Shatila Massacre: Justice Delayed but Gaining Ground)

※参照:サブラー・シャティーラ事件(Wikipedia)


◆.「PHILOSOPHY .........Spinoza, Kant, Hegel and... Badiou!........Slavoj Zizek」より私訳(とはいえ、この文は、『身体なき器官』にも同様な文があり、インターネット上でその「引用」が拾える箇所は、その文を転写した)。

想い出してみよう、よく知られたレヴィナスの滑稽な大失態fiascoを。それは、ベイルートにおけるサブラー・シャティーラ事件(1982年9月16日から18日)大虐殺の一週間後に、彼がラジオ放送番組に、ショーロモ・マルカ Shlomo MaIka とアラン・フィンケルクロートAlain Finkelkrautとともに参加したときのことだ。ショーロモ・マルカがエマニュエル・レヴィナスに明らかに“レヴィナス的な”質問をした。「エマニュエル・レヴィナス、あなたは「他者」の哲学者です。歴史とは、あるいは政治とは、まさに「他者」との出会いの場であり、またイスラエル人にとっ「他者」とは何よりもまずパレスチナ人ではありませんか?」と。

Recall the well-known fiasco of Levinas when, a week after the Sabra and Shatila massacres in Beirut, he participated in a radio broadcast with Shlomo MaIka and Alain Finkelkraut. MaIka asked him the obvious "Levinasian" question: "Emmanuel Levinas, you are the philosopher of the 'other.' Isn't history, isn't politics the very site of the encounter with the 'other; and for the Israeli, isn't the 'other' above all the Palestinian?" To this, Levinas answered:
《他者についての定義はまったく異なっています。他者は必須の親族ではありませんが、そうなる可能性がある隣人です。またこの意味で、あなたが他者を受け容れれば、隣人をも受け容れていることになるのです。しかしあなたの隣人が他の隣人を攻撃する、あるいは彼を不当に扱えば、あなたには何ができるでしょう? とすれば、他性が別なる特徴を帯び、他性に敵を見出す可能性があるか、少なくとも誰が正しく誰が間違っているのか、誰が正義で誰が不正義なのかを知るという問題に直面することになります。誤っている人びとが存在するのです。》(エマニュエル・レヴィナス)

My definition of the other is completely different. The other is the neighbor, who is not necessary kin, but who can be. And in that sense, if you're for the other, you're for the neighbor. But if your neighbor attacks another neighbor or treats him unjustly, what can you do? Then alterity takes on another character, in alterity we can find an enemy, or at least then we are faced with the problem of knowing who is right and who is wrong, who is just and who is unjust. There are people who are wrong
この発言に潜む問題は、潜在的にシオニスト的で反パレスチナ的なその態度にではなく、その反対に、高度な理論から俗悪な常識的反省への思いがけないシフトである。レヴィナスが基本的に言っていることは、原則としては、他性への敬意-顧慮は無条件のものでありながら、具体的な他者に遭遇すれば、それにもかかわらず、ひとは彼が友人か敵かを判断せねばならないということにすぎない。要するに、実践的な政治では、他性への敬意-顧慮は厳密には何も意味していないのである。

The problem with these lines is not their potential Zionist anti-Palestinian attitude, but, quite on the contrary, the unexpected shift from high theory to vulgar commonsensical reflections - what Levinas is basically saying is that, as a principle, respect for alterity is unconditional, the highest one, but, when faced with a concrete other, one should nonetheless see if he is a friend or an enemy... in short, in practical politics, the respect for alterity strictly means nothing.


Never Forget The Massacres at Sabra & Shatila


レヴィナスにとって、主体を非中心化する根源的に異質な現実界的〈モノ〉のトラウマ的侵入は、倫理的な〈善〉の〈呼びかけ〉と同じものだ。他方、ラカンにとっては、逆に、原初の“邪悪な〈もの〉”であり、〈善〉のヴァージョンには決して昇華されえない何か、永遠に不安にさせる切り傷のままの何かなのである。こういったわけで、倫理的な呼びかけの出処としての〈隣人〉の飼い馴らしには、〈悪〉の復讐が横たわっている。“抑圧された〈悪〉”は、倫理的呼びかけ自体の超自我の歪曲の見せかけとして回帰する。 (ZIZEK"LESS THAN NOTHING"2012 私訳ーー「血まみれの頭ーー〈隣人〉、あるいは抑圧された〈悪〉」)
……隣人を倫理的に飼い慣らしてしまうという誘惑に負けてはならない。たとえばエマニュエル・レヴィナスはその誘惑に負けて、隣人とは倫理的責任への呼びかけが発してくる深遠な点だと考えた。レヴィナスが曖昧にしているのは、隣人は怪物みたいなものだということである。この怪物性ゆえに、ラカンは隣人に〈物das Ding〉という用語をあたはめた。フロイトはこの語を、堪えがたいほど強烈で不可解な、われわれの欲望の究極の対象を指す語として用いた。(……)隣人とは、人間のおだやかな顔のすべてから潜在的に垣間見える(邪悪な)〈物〉である。(ジジェク『ラカンはこう読め』p81)


「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」(『NAM生成』所収)より

浅田彰)いまの論調の支配的な流れの一つは、デリダからレヴィナスへの回帰ですよね。ポジティヴな絶対的神はない、しかしネガティヴな絶対的他者がその不在においてわれわれに呼びかけている、それに向かってわれわれは無限の応答責任(レスポンサビリテ)を負う、と。これはニーチェ的にいうと最悪のモラリズムになりかねないでしょう。さらに問題なのは、そういう擬似宗教的な他者論がしばしば政治的な文脈にダイレクトに導入されることです。いわゆる「従軍慰安婦」の問題にしても、まずは、国家が謝罪し補償するという近代の原理で行けるところまで行くのが先決だと思う。そこで、われわれは他者の顔の前に恥を持って立たねばならないとか何とかいっても、あまり実効性がないばかりか、いたずらにマジョリティの反発を招くことにさえなりかねない。結局、そういう擬似宗教的なモラリズムは、一種の麻痺――すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて積極的なことは何もできなくなるという、最近よくあるポリティカリー・コレクトな態度を招きよせるだけではないか。そのような脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるそ、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないんだというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思うんですが。


《マルクスはイデオロギー批判において、ひとが自分をどう考えているかではなく、現実に何をしているかが問題だという言い方を幾度もしている》(柄谷行人『探求Ⅱ』「第三部 世界宗教をめぐって」 p208)



…………

※附記

ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりました。固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです。(fフロイト「ブナイ・ブリース協会会員への挨拶」)
……すでにのべたように、フロイトは、ユダヤ教の“実質”を与えたとされるモーゼに関心をもっていない。つまり、律法、供犠、儀礼についてこと細かに指示したモーゼに。それらは、モーゼの名によって語られているけれども、もともとの部族的な律法や儀礼にすぎないからだ。モーゼの禁止(戒律)のなかで重要なのは、偶像崇拝の禁止だけである。

このことは、ユダヤ人に対するフロイトの姿勢の二重化をも示している。一方で、彼は伝統的な戒律や教義のなかに閉じこめられているユダヤ民族共同体に対して否定的であり、したがってシオニズムを拒否する。他方で、あらゆる偏見に対して知的に自由であることの根拠を「ユダヤ的であること」のなかに見出す。それらが、モーゼの両義性――律法による神経症的拘束を与えた者であり、同時に偶像崇拝の禁止によって知的・精神的解放を与えた者であるーーに示されている。そして、「ユダヤ的であること」の特質は、モーゼによる偶像崇拝の禁止に集約されている。

……ただ私がつけ加えておきたいことは、ユダヤ的本質のこの特徴ある発展は、目に見える姿をした神を崇拝することに対するモーゼの禁止によってはじめられたということだけである。約二千年のユダヤ民族の生活における精神的努力によって身につけられたある優位はもちろんその効果をあらわした。つまりそれは、筋肉力の発展が民族の理想であるばあいによく生じる粗野と暴力的傾向を防止するのに役立つのである。ギリシャ民族がなしとげたような、精神的活動と肉体的活動との完成に見られる調和というものはユダヤ人に対しては拒まれたままであった。そのうちのどちらかという場合には、彼らは少なくともより高い価値のあるものを選ぶ決断をしたのであった。(『モーセと一神教』)(柄谷行人『探求Ⅱ』「ユダヤ的なもの」pp223-224)
レヴィナスはつぎのようにいっている。

異教とは神の息吹の否定でもなければ、唯一神を知らないことでもない。ユダヤ教の使命が大地の諸民族に一神教を伝授することでしかないとすると、この使命は取るに足らぬものである。それは釈迦に説法というものである。異教とは世界の外に出る能力を欠くことなのである。それは、聖霊や神々を否定することではなく、聖霊や神々を世界内に定位することなのである。たしかにアリストテレスは第一動者を宇宙から分離した。しかし、第一動者がその高みにまで携えていったのは、創造された諸事物の貧弱な完全性でしかなかった。異教徒の道徳は、世界の境界を侵犯する能力の根本的欠如の帰結にほかならない。自足し自閉した世界のなかに、異教徒は閉じこめられている。(「マイモニデスの現代性」)

レヴィナスが語っている「ユダヤ教」も、実際は、「ユダヤ的なもの」のことである。「異教」もまた、けっして多神教のことを意味していない。それはただ、世界(=共同体)の内に閉じこめられた思想を意味する。つまり、それが偶像崇拝なのである。だが、レヴィナスがやはり「ユダヤ教」の文脈のなかで語っているのに対して、フロイトはそのことを拒んでいる。また、レヴィナスが結局イスラエル国家を支持したのに対して、フロイトはシオニズムをまったく認めなかった。国家とは“偶像”だからだ。この徹底性はすさまじい。(同上 pp.224-225)