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2015年4月7日火曜日

サントーム=聖状(しょうじょう)

ラカンのいわゆるジョイスのセミネール(サントームのセミネール)は、次のように始まる。

サントームsinthomeとは、最近、症状symptômeと綴られるようになったものの古い書記です。(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)

かつまた、サントームは、音の上では saint homme : 聖なる人間,つまり聖人と同音である。そして、さらには、聖トマスSaint Thomas をも想起させる(ポール・ヴェルハーゲ)。聖トマスとは、〈大他者〉――キリストーーを信ぜず、独自の道を歩んだ者としておこう。

※これだけではなく、たとえばsin-homme(罪の人)、synth-homme,(模造人間、人工的に自己-創造した人間)などを提示する論者もいる。

だから、サントームを単純に聖人と結びつけて解釈してしまうのには、いささか抵抗がある。

Lacan が Joyce との関連で用いた sinthome には saint 「聖人」が含まれています.ですから,sinthome は sainthome と書くことができます.発音は全く同じです.ですから「症状」は「聖状」となるのです.このばあい「聖」の字は「聖人」を「しょうにん」と読むときのように読んでください.「聖状」は,ですから「しょうじょう」です.それが sinthome の訳語です.「聖状」は聖人 saint として実存することです.それは,存在の真理 φ を,仮象で覆うことなく,そのままに ex-sister させることです.(小笠原晋也 ツイッターセミネールより)

ラカンは、「テレビジョン」でこう言っている。

実をいうと、聖人は自分に功徳があるとは考えません。だからといって、彼が道徳を持っていないというわけではありません。他の人たちにとって唯一困るのは、そのことが聖人をどこに運んで行くのかわからないということです。

私といえば、また新たにこのような人たちが現れないかと懸命に考えています。おそらくそれは、私自身がそこに到達していないからに違いありません。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑います。これが私の原則であり、ひいては資本主義的ディスクールからの脱却なのですが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならないでしょう。

糞真面目な解釈は、笑ってやる必要がある。「イロニーの頂点は真面目であることだ」(シュレーゲル)であり、そこにはユーモアがない。ユーモアとは《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示すこと》(ボードレール)である。そして《戯れの反対は真面目ではない、現実だ》(フロイト)。

そもそも、ラカンが「聖人」と言い出したときに、ニーチェの《わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ》(『この人を見よ』)を想起していなかったなどということは考えられない。というのは、ラカンはニーチェの名を出すのは稀だったにしろ、ニーチェのパクリのようなことを言っているときがあるのだから。

ラカン曰く、《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである》(『同一化セミネール』)。そしてニーチェ曰く《真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか》(『善悪の彼岸』)。

さらにはまた、わたくしは、ラカンの「女性の論理」(非-全体の論理)の真の起源は、ニーチェからではないかと疑っているのだが、とはいえ、いまは「聖人」の話である。

わたしは人間ではない。わたしはダイナマイトだ。――だがそれにもかかわらず、わたしの中には、宗教の開祖めいた要素はみじんもないーー宗教とは賤民の関心事である。わたしは、宗教的人間と接触したあとでは手を洗わずにはいられない……わたしは「信者」などというものを欲しない。思うに、わたしは、わたし自身を信ずるにはあまりに意地わるなのだ。わたしはけっして大衆相手には語らない……わたしは、いつの日か人から聖者と呼ばれることがあるのではなかろうかと、ひどい恐怖をもっている。こう言えば、なぜわたしがこの書を先手をとって出版しておくのか、その真意を察してもらえるだろう。わたしは自分が不当なあつかいをされないよう、予防しておくのだ……わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」――なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだからーーわたしの語るところのものは真理なのだ。(ニーチェ『この人を見よ』)

とはいえ、小笠原晋也氏のサントームの訳語「聖状(しょうじょう)」は優れている。彼にユーモアがないのはいたしかたない。2002年の事件を経て、「復活」した者として斟酌しなければならない。彼はラカンの全般的な解釈者としても、わたくしには”ヒドク”優れているように思われる。

たとえば、次のようなことをオッシャルが、これもーーシツレイながらーー許容しなければならない。


聖書は sinthome であるか?勿論です!

無からの創造は,死からの復活と等価です.

Lacan が sinthome と呼ぶものは,そのような無からの創造,死からの復活としての症状だ,と考えられます.

聖書の物語は神話です.神話は,不可能在としての実在 φ を保匿するために,φ から出発して為されるひとつの創造です.そのような神話として,聖書はひとつの sinthome である,と言えます.

逆に言えば,Joyce の Finnegans Wake はひとつの聖書です.なにしろ,Finnegans Wake の主題は死と復活なのですから.ただし,Finnegans Wake が聖書ほど長期にわたる best seller になるとは思いませんが.

Lacan は Joyce を sinthome と呼びましたが,Jésus Christ こそが「元祖」sinthome です.

 ところで、小笠原晋也氏の次の一連のツイートは、わたくしがツイッター上で質問して引き出したものだ。そして、可能であるならば、この文章の問題点を追求したいと思って、このところ文献をひっくりかえしているのだがーーシロウトのわたくしにはおこがましい言い方だがーー、いまは、ただ引用するだけにしておこう(というか、実のところ、わたくしには批判は手に余るに決まっている)。

Jacques-Alain Miller によれば,Joyce に関する Séminaire の時期の Lacan が用いた「症状」 — それを Lacan は sinthome とも symptôme とも書きますが —,症状は,精神分析の過程において解釈不可能なものとして残った残渣である.

この説は,わたしも Jacques-Alain Miller の講義や講演で何度も聞いています.Lacan 自身,reste, 残りもの,残渣という表現を用いています.

しかし,では何故 Lacan はわざわざ Joyce を取り上げたのか?芸術作品を創造する者としての Joyce を?

Lacan は,芸術的創造を論ずるとき,「無からの創造」 creatio ex nihilo という神学的概念を持ち出します.強調されるべきは,この ex nihilo です.

これは,復活に関する決まり文句:「死者のうちからの復活」 resurrectio ex mortuis を想起させます.創造は無から,復活は死から.

Joyce が作家であり,かつ,sinthome, つまり聖人である,ということは,無からの創造と死からの復活が同じ構造のものであることを踏まえて,初めて理解され得ます.

されば,sinthome としての症状は,単なる残渣ではありません. 「分析は,終わりまで突き詰められる必要は無く,分析不可能なものをカスとして残しておいて良い.それが Lacan が sinthome と呼んだものだ」という理解は間違っています.


いまは、ミレールのサントーム概念解釈の、ラカンの死後、三十年に亘る変遷! の資料を見出したので、そのリンクを貼り付けておくだけにする→There is no Discourse of the Sinthome


(おそらく続く)


2015年4月5日日曜日

去勢されていない「全能の母」

さて、二つの前投稿、すなわち「獰猛な女たちによる「去勢」手術の時代」と母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢」で展開された論旨に依拠するなら――自らの文に依拠する、というのもおかしなものだが、引用が主であるので、その引用に依拠するなら、ということであるーー、象徴的ファルスの介入が欠けていたり(すなわち「象徴的去勢」がなされていない)、あるいは不十分であったりする連中は、「お前は去勢が不十分だ」あるいは「君は去勢されていないんだよ」ではなく、「あなたは去勢されていない母親を持ったままだ」ということになる。これなら正統的ラカン派の言明である、すくなくともわたくしにはそう思われる。

日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界、というか、鏡像段階にとどまっている。(柄谷行人)

というわけで、この言い方は、厳密に言えばーーラカン的観点からはーー、間違っている、いや誤解を生みがちだ、とだけしておこう。日本人の子どもは「去勢」が不十分なのではなく、日本人の母の「去勢」が不十分なのである。

〔エディプスの衰退、父への同一化に〕先立って、父が母を剥奪するものとして機能し始める瞬間があります。つまり、父が母とその欲望の対象との関係の背後に、「去勢するもの」として姿を現す瞬間があるのです。(……)この場合、去勢されるのは主体ではなく、母だからです。(ラカン セミネールⅤ)

もっとも母の去勢が不十分であるとは、母が強すぎて「去勢されていない母」――ファリックマザーと言いたいところだが、この語もいろいろな意味で使われるので遠慮しておくーーであるせいかもしれず、あるいは父が弱々しくて母の去勢ができない場合もあるだろう。後者は、フロイトの事例では、「少年ハンス」である。


「ママにもおちんちんあるの?」
「もちろんよ、なぜ?」
「ただそう思っただけなの」
(……)
あるとき彼は就寝前に脱衣するのを固唾をのんで見まもる。母親が尋ねる。「何をそんなに見ているの?」
「ママにもおちんちんがあるかどうか、見ているだけよ」
「もちろんあるわよ。あなた知らなかったの?」
「うん。ママは大きいから、馬みたいなおちんちんをもっていると思ったの」(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』ーー少年ハンス(フロイトとラカン

ラカンはハンス少年の母に言及して次ぎのように言っている。、"caractere d'invasion dechirante,d'irruption chavirante" (Lacan,Le Seminaire IV, pp, 259-260)

ハンスの母は貪り食う全能の母として現れたのである。

ハンス少年の分析テキストにおける誤解を指摘されているフロイト自身、実のところこういった母の側面に気づいていた節もあるらしい。たとえばポール・ヴェルハーゲは、ハンス少年についてのフロイトの次のようなオリジナルノートがあることを示している。


Has it ever occurred to you that if your mother died you would be freed of' all conflicts, since you would be able to marry?" (Freud, S.Origillal Record of the Case_ S.E. X, p. 283),

いわゆる"去勢されていないnon‐castrated"全能の貪り食う母、真の母に関して、ラカンは次のように注釈しているそうだ。

満足していない母というだけでなく、またすべての力をもつ母である。そしてラカンの母の形象のおどろおどろしい様相は、彼女はすべての力を持ちかつ同時に不満足であることである。(Miller, “Phallus and Perversion,”)

ジジェクはこのミレールの文を引用して(『LESS THAN NOTHING』)、次ぎのように言っている。

ここには、パラドックスがある。母がよりいっそう"全能"として現れば現れるほど、彼女は不満足(その意味は欠如である)なのである。「ラカンの母はquaerens quem devoretと一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として。」(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)

ーーところで、わたくしはなぜこんなことに関心があるのであろうか・ ・ ・

それは敢えて言うまでもないことかもしれないが、わたくしの母が「全能の母」であったせいではないか? だが、ここでは個人的なことはできるだけ書かないようにしている。

ただ、わたくしは、人から、とくに女友だちから、マザコンと思われ、自身もそう認めていたにもかかわらず、母の葬儀のおり(50歳、わたくしは24歳)、悲しくなかったことだけは白状しておこう。

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的であるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう…(アルベール・カミュ『異邦人』 英語版自序ーー母親の葬儀で涙を流さない人間

(おそらく続く)


追記:と書き上げて投稿し、ツイッターを眺めたところ古井由吉botがこんなことを言っている。

@furuiyo: 大体、文学は古今東西、本当の意味でのマザコンのものだと思うんですよ。マザコンがないと文学は成り立たない。それは大地母神と言ったり、聖母だとかいうようなものの、女が母に通じていかないと、色気が出ないんですよね。(「文芸思潮」2010初夏)



2015年4月4日土曜日

母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢

〔エディプスの衰退、父への同一化に〕先立って、父が母を剥奪するものとして機能し始める瞬間があります。つまり、父が母とその欲望の対象との関係の背後に、「去勢するもの」として姿を現す瞬間があるのです。(……)この場合、去勢されるのは主体ではなく、母だからです。(ラカン セミネールⅤ)

さて、このセミネールⅤでラカンは何を言っているのだろう。まずはなによりも「去勢」は子供の去勢ではなく、母の去勢であるということだ。母の去勢? 母にはおちんちんはもちろんない。だがファルスはある。母のファルス、想像的ファルスである。

以下にジジェクの2012年に上梓された文章を英文のまま付す。

The most important part of the imaginary is what cannot be seen. In particular, taking the pivot of the clinical practice that, for example, is developed in Seminar IV, La relation d'objet, it is the female phallus, the maternal phallus. It is a paradox to call it the imaginary phallus when precisely one cannot see it; it is almost as if it were a question of imagination. In Lacan's celebrated observations and theorizations on the mirror stage, Lacan's imaginary register was essentially linked to perception. While now, when the symbolic is introduced, there is a disjunction between the imaginary and perception, and in some way this imaginary of Lacan is linked to the imagination. … This implies the connection of the imaginary and the symbolic and thus a thesis that is separated from perception: the image is a screen for what cannot be seen. Insofar as the maternal phallus is by definition veiled, this brings us to the positive/constitutive ontological function of the veil: the image/screen/veil itself creates the illusion that there is something behind it—as one says in everyday language, with the veil, there is always “something left to the imagination.”(ZIZEK、LESS THAN NOTHING)

※末尾に私訳貼付有り。


さて、すこし前に戻れば、ラカンはこう言っていることになる、《父は、母に介入し、禁止を命ずる。お前は、お前が生み出したもの(想像的ファルスとしての子供)を取り返してはいけない!と》。

人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。(……)

子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。(向井雅明――「鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス」)


 ラカンは後年も次のように言っている。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません。つまり去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよ と脅かすパパからくるものではないのです。 「(テレヴィジョン」)

フロイトは「母の去勢」についてこう書いている。

人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの別離を意味し、母の去勢(子供すなわち陰茎の等式により)に比較できるかもしれない。(フロイト『制止、症状、不安』)

この根源的な不安を「去勢」やら「ファルス」用語で説明するのは、《有機体の水準での根源的な喪失を、主体と〈他者〉のファルスの欠如として再-解釈》(ポール・ヴェルハーゲ)しているだけという見解もある。

この「母の去勢」は、むしろ出産外傷、あるいは原トラウマ、もし「去勢」という語を使いたいなら、「原去勢」にかかわるといってよいのかもしれない。

ランクは出生という行為は、一般に母にたいする(個体の)「原固着」Urfixerungが克服されないまま、「原抑圧」Urverdrängungを受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出生外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。後になってランクは、この原外傷Urtraumaを分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

ラカン自身、オットー・ランクの「出産外傷」と似たようなことをいっている。

根源的な喪失とはなにか。永遠の生の喪失である。それは、矛盾しているように思われるかもしれないが、性的存在として産まれた瞬間に喪われる。(ラカン セミネールⅩⅠ)

わたくしは、小笠原晋也氏の独特のマテームφ barréを「原去勢」、あるいは「出産外傷」と読む。以下、小笠原氏の説明を付すが、氏は独特の訳語を使い馴れないと読みづらい。以下の「徴象,影象,実在」は、通常、「象徴界、想像界、現実界」である。「徴示素」はシニフィアン、「悦」は享楽、「学素」はマテームである。

…phallus についてですが,Lacan は精神分析において三つの phallus を区別するよう教えています.それは,徴象,影象,実在の三つの位に応じての区別です.

まず「去勢の影象的な関数」としての phallus : ( - φ ) があります.第二に「悦の徴示素」signifiant de la jouissance と規定される phallus : Φ があります.第三に,signifiant de l'Aufhebung, signifiant de la perte と Lacan が呼ぶ phallus : φ barré があります.この学素はわたしの工夫ですが,その概念はちゃんと Lacan のなかにあります.

以上の三つの phallus はいずれも signifiant ですが,( - φ ) は imaginaire, Φ symbolique, φ barré は réel の位にそれぞれ位置づけられます.

他方,去勢とは何でしょうか?精神分析において去勢は,基本的に,去勢複合,すなわち,去勢不安として問題になります.そして,去勢不安という表現は冗長であって,精神分析においてかかわる不安はすべて去勢不安です.去勢との連関における不安です.

不安は,a が φ barré を代理する限りにおいて,a との出会いにおいて惹起されます.つまり,去勢とは φ barré そのものです.かくして,phallus と去勢との関繋を整理すると,こうなります.まず,φ barré は去勢そのものです.

( - φ ) は φ barré の影象的な相関者であり,女の欠如せる phallus です.最後に Φ は,男の性別構造において φ barré の穴を塞ぐ仮象であり,(……)男において特に強い精神分析への抵抗(男性的抗議)を惹起するものです.

ですから,le phallus est le signifiant de la castration とひとくちに Lacan が言ったことは無いのではないでしょうか?勿論,そう言ったこともあったかもしれませんし,それはそれで,上述の三つのうちいずれを意義しているのか読解できる だろうと思いますが,先ほど Lacan のおもだったテクストを見た限りでは,le phallus est le signifiant de la castration ともろに言われている箇所は見つかりませんでした.代わりに,わたしの引用した表現は,Lacan 自身のものです.(ラカンの S(Ⱥ)をめぐって

小笠原晋也氏自身、オットー・ランクの名を出して次ぎのようにいっている。

もし仮に主体と他 A との“交わり” [ intersection ] に phallus が有り,それにより性関係が成り立つなら,性本能の完全な満足が得られるだろう.そこにおいて成就される十全たる悦は,現実において性行為がもたらすかもしれぬ束の間の快や満足ではなく,而して,もし例を想像するなら,聖書神話におけるエデンの園において人間が神との関係において得ていただろう至福,あるいは,それに劣らず神話的な Otto Rank の想定する“幸福な子宮内生活”(cf. Freud, 1926, p.166)〈其こにおいては,母胎内で子が母と完全に一体となっている〉に相当するかもしれぬような悦であろう.

ともあれ,明らかに,現実の人生においては,如何なる幸運に見まわれようと,そのような悦は実現しない.したがって,帰謬法により,結論される: 主体と他 A との性関係を実現させ得るようなphallus は無い: φ barré .(『ハイデガーとラカン』)

ここから、φ barré原去勢と読むことができるだろう。

…………

さてここまで書かれたことは、ポール・ヴェルハーゲの説明ならこうなる。

去勢不安そのものは、すでに地層にある原初の不安の防衛的なエラボレーションである。地層にある原初の不安とは、主体と〈他者〉 とのあいだの関係から起こる。各々の主体の原初の不安とは〈他者〉に 呑み込まれ貪り喰われることである。すなわ ち、〈他者〉の享楽の受動的な対象に還元されてしまうことである。概念的な用語なら、これが意味するのは、分離の可能性のない全的な疎外を意味する。

その原初の形式においては、この法は母にかかわる。彼女は禁じられているのだ、彼女の生産物を保持することを、たとえば子どもを彼女自身のものにすることを。 これが近親相姦の最初の意味である。すなわち、あなたは、あなたの子どもを自らの享楽 として捕えてはならない、ということだ。現在の、父と子とのあいだの近親相姦への強調は、 この原初の意味がほとんど忘れられてしまっているようなものだ。(「社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)」)

「ファルス」用語で解釈されるのは防衛的なエラボレーションであるという前提を受け入れて、その上であえて「ファルス」用語で書き綴るのなら、父の「象徴的ファルス」(大きなファルスΦ)による「象徴的去勢」とは、まずなによりも母のファルス、「想像的ファルス」(小さなファルスーφ)をちょんぎることなのである。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

もちろん、象徴的ファルスの介入によって、〈母〉に貪り食われるのは止んだとしても、今度は大きなファルスとしての〈父〉に貪り喰われてしまったら、元も子もない。

重要なのは、父とその機能を差異化することである。機能は母と子どもの分離にかかわる。 それは〈他者〉の享楽から子どもを解放することを必然的に伴なう。もしこの分離が、二番目の〈他者〉としての父への疎外として終わってしまうのなら、それは構造的には母への疎外となんの相違もない。ラカンの意図はこの点を超えていくことであった。そしてそれがラ カンがこの機能――分離――とその象徴的特性に焦点を絞った理由である。象徴的特性の意味とは、作用する要素がシニフィアンであるということである。(Paul Verhaeghe、Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way

(おそらく続く)

…………

※追記

冒頭近くにジジェクの『LESS THAN NOTHING』から英文のまま貼り付けた文があるが、その前段のいくらかも含めての私訳。


ラカンが想像的領域imaginary registerについて語ったとき、彼は見ることができるイメージについて話していた。……しかし、いったん象徴的なものが導入されても想像的なものについて話すことをやめた分けではない。彼は想像的なものについて、相変わらず多くのことを語った。しかしその定義を全く変化させた想像的なものについてである。象徴的なものの導入後の想像的なものは、導入前の想像的なものとひどく異なる。…

想像的なものの概念はいかに変形したのか、象徴的なものの導入された後に。まさに正確に次の如し。想像的なものの最も重要な箇所は、見ることのできないものとして、である。特に、臨床診療の中心を取り上げるなら、例えば、セミネールIVの「対象関係」で展開されたのは、女性のファルス、母のファルスである。人はそのファルスを見ることができないのに、母のファルスを想像的ファルスと呼ぶのはパラドックスである。すなわちそれは、ほとんど想像力の問題なのである。

ラカンの名高い鏡像段階における観察と理論化において、ラカンの想像的領域は、本質的に知覚とリンクされていた。ところが象徴的なものが導入されたこの今、想像的なものと知覚の分裂がある。そしてこの想像的ものは、何らかの形で、想像力とつながっている。これが意味するのは、想像的なものと象徴的なもののつながりであり、故にそれは知覚から分離したものという命題である。「イメージは見られないもののためのスクリーンである」(Jacques‐Alain Miller, “The Prisons of Jouissance,” 2009)。

母のファルスは、定義上、ヴェールで覆われたものである限り、これは、肯定的/構成的なヴェールの存在論的機能をもたらす。すなわち、イメージ/スクリーン/ヴェール自体が、その裏に何かが隠されているという錯覚illusionを生む。日常的にヴェールという語彙を使うとき、いつも「何かが想像力に残されている何か」があるのと同様である。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

2015年4月3日金曜日

獰猛な女たちによる「去勢」手術の時代

フロイト・ラカン派の意味での「去勢」概念は、たとえば次ぎのように言われるとき、--すなわち、お前は去勢が十分でないんだよとされるときーー貶めの含意をもって使われる。

日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界、というか、鏡像段階にとどまっている。(柄谷行人「日本精神分析再考(講演)(2008)」

鏡像段階とは、母と子の二者関係にある、ということである。そのとき、子供は、母の想像的ファルス φ petit phiになろうと欲望する(désir d'être phallus)。母の方も、自分の場所に欠けているものとして子を欲望する、その欲望に応じるように、母の期待に応えるために、子は母の場所に欠如している想像的ファルスであろうとする。通常、ここに介入するのが、Φ grand phiであり、それを「象徴的去勢」と呼ぶ。


母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。(ラカンーー鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス

上の文にある「ファルス」とは象徴的ファルスΦ grand phiであり、この支えがないままだ、というのが、「去勢されていない」ことの謂いであり、ようするにラカン的な意味で、お前は去勢されていない、というときには、通常、母と子の二者関係のままの輩だな、という嘲弄になる。

この鰐の口の支えの機能は、父の有無、あるいは不在とはあまり関係がなく、《問題は父親にたいする母親の関係、「単に母親が父親にいかに対応するかだけではなく、母親が父親の言葉、正確には父親の権威、にどのような地位を与えるか、いいかえれば法のプロモーションにおいて母親が父の名のために空けてある場所をどうするか》である(ラカン『エクリ』 p.579 )。

要するに象徴的権威(「父の名」)に対する母親の態度にかかわる。ところで、現在は、父の名の権威の崩壊の時代、エディプスの斜陽の時代である。それをラカンは、主人の言説の崩壊、そして資本主義の言説の時代ともいう。

主人の言説は、概ね消滅してしまった(ラカン セミネールⅩⅦ)
もう遅すぎる……、危機、主人の言説のではない、資本家の言説、それは代替だが、それは開いてしまったouverte(ラカン ミラノ 1972/5/12)
資本主義のディスクールを特徴づけるものは、排除(Verwerfung)、拒絶、象徴界の領野すべての外に拒絶することだ。何を拒絶するのか? 去勢を拒絶する。セミネールⅩⅨ 1972/1/6)

とすれば、日本だけではなく、世界的に、人びとは去勢されていない、あるいは去勢が不十分な時代ということになる(そもそも、象徴的ファルスやら父の名やらは、一神教の国の話ではないか、日本にそんなものがなかったのはーー天皇をかついだ疑似一神教のある時期を除いてーー当たり前ではないか、という議論もあるが、それはここでは割愛)。

ところで、「父の名」を文字通りとってみよう。われわれは、ほとんど誰もがーー母子家族を除いてーー「父の名」を持っている。夫婦別姓の社会でも基本的に子供は父のファミリー・ネームを名乗る。たとえば、わたくしの住んでいる国は夫婦別姓であるが、子供たちは父親が外国人であっても、その外国名の父の名を概ね与えられる習慣がある。これも「父の名」である。もちろん、上にラカンの言葉を掲げたように母親がその父の苗字にどのような地位を与えるかが肝腎であるが。

初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係symbiosisから解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、the NAMES of the father(Les Noms-du-Père引用者)と。疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけるnamegivingことを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体に独自のシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

このように、資本主義の言説の時代でも「父の名」がまったく機能していないわけではない。

…………

ところで、われわれの殆どは、もちろんラカンなどを理解している暇はないので、「去勢」という用語をラカン的に厳密に使うことはない。

ラカンの「男根中心主義phallocentrism」へのたいていの批判の難点は、一般的に、彼らは「ファルス」と/あるいは「去勢」に言及するときに、先入観念的な、コモンセンスとしての隠喩の形で、そうすることだ。たとえば、標準的なフェミニスト映画研究では、男が女に攻撃的に振舞ったり、女への男の権威が現われるたびに、彼(女)たちは、男の行動が「ファリック」だと、確信をもって明示する。女が、はめられたり、無力感に陥りさせられたり、詰め寄られたり等々の状況になるたびに、彼女の経験はたいていの場合、「去勢される」と指弾される。ここで失われているものは、まさに去勢のシニフィアンとしてのファルスのパラドックスだ。もしわれわれが、象徴的「ファリックな」権威を行使すれば、そこで支払わなければならない代償は、われわれは、主体者としての立場を放棄して、〈大他者〉として行動し話すことを通して、その〈大他者〉の媒体として機能することを承諾しなければならないということである。(ジジェク LESS THAN NOTHING)

たとえば職場で、誰か権威的人物からひどい「いじめ」に遭遇してしょぼくれてしまえば、それは「アイツは去勢されちまった」という具合になるわけで、いくらフロイト・ラカン派が頑張っても、こっちの使用法のイマジネールな隠喩の秀逸さをひとは捨てさることなどありえない。

ーーというわけで、ラカン派の皆さん、「去勢」が「象徴的去勢」の意味で使われるのは諦めたほうがいいんじゃないか、無駄な抵抗だよ。


ようするに「彼奴は去勢されている」、と日常的に使うとき、この言い方は、貶めの意味で使うだろう。「お前は去勢が不十分なんだよ」、ーーこれが嘲弄だと言われてもピンとこない人が多いのではないか。


たとえば、ラカンの娘婿でもあるラカン派の権威ジャック=アラン・ミレールでさえ、日常的な意味での「去勢」として捉えてよい文章をその小論のなかで記している。それは、2008年アメリカ合衆国大統領選挙におけるサラ・ペイリンとヒラリー・クリントンをめぐっての論である(Sarah Palin: Operation “Castration”Jacques-Alain Miller)





サラ・ペイリンの選択は時代のサインである。政治において、女性の言明は支配的になりつつある。しかし注意して! もはや肱を振り回して男たちを模倣する女性についてではない。わたしたちはポストフェミニストの女性の時代に突入している。その女性たちは、容赦なく、政治的な男性たちを殺す準備をしている。この移り変わりは、ヒラリーのキャンペーンのあいだに完全に目に見えた。彼女は最高司令官の役割をもって始めた。だがそれでは機能しなかった。何をヒラリーはしたのか? 彼女は潜在意識的なメッセージを送った。それは次ぎのような何かである。“オバマ? 彼はパンツのなかに何もないわ”。そして彼女はすぐさま撤回したが、遅すぎた。サラ・ペイリンは、切り上げられた場所を拾いあげただけではない。15歳若い彼女は、その他の点では、獰猛で、女性的皮肉を、自然に投げつける。サラは明らかに彼女の男性の敵対者を去勢する(率直な大喜びで!)。そしてそれらへの反応は沈黙したままだ。彼らはどうやって攻撃したらいいのか分からないのだ、その女性性を、男たちをからかうのに使い、男たちをインポテンツに陥れる女性に対して。さしあたり、“去勢”カードで遊ぶ女性は、征服できそうもない。(ミレール 「サラ・ペイリン:「去勢」手術」)

もっともここでの使用法は、男たちの「象徴的権威」のハリボテぶりを「去勢する」ということなのだから、かならずしも、正統ラカン派的使用法から遠く離れているわけではないかもしれない。

シニフィアンとしてのファルスが、象徴的権威の代理人を示すかぎり、その決定的な特徴は、それゆえ、次の事実にある。すなわちそれは「私」ではない、生きている主体の器官ではないということであり、そうではなく、外部の力が割り込んで、私の身体にそれ自身を刻みつける「場」なのである。この「場」、そこに〈大他者〉は私を通して行動する、――要するに、ファルスがシニフィアンという事実は、とりわけ、それは構造的な身体なき器官であるということであり、私の身体から「切り離された」何かなのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

むしろ、男たちのマッチョぶりへの女たちの対抗言説とすべきか。

マッチョのイメージは、人を惑わせる仮面として経験されるのではなく、人がなろうと努力する理想の自我として経験される。男のマッチョイメージの裏には、なにも秘密はなく、彼の理想に恥じない行動をとり難いただ弱々しいごく普通の男があるだけだ。.(Zizek Woman is One of the Names-of-the-Father 私訳)

(以下、続く)





2015年4月2日木曜日

去勢と割礼

以下、去勢と割礼をめぐるメモ。

…………

……西欧の諸民族においてあれほど激しくあらわれ、まるで非合理的であるかのごとき様相を呈するユダヤ人憎悪の根源がみいだせると考えることは避けがたいことであるように思われる。割礼は、ヨーロッパの人びとのあいだで は無意識下で去勢と同じものだとみなされてきた。原始時代にまで想像を広げても さしつかえないのであれば、割礼は、もともと性器の皮を剥ぎ取ることによる緩和された去勢の代替行為であったはずだという気がする。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910)
割礼は、去勢の象徴的代替である。その去勢とはすなわち、原父が己れの絶対的権力の十全さの下に、かつて彼の息子たちに科した行為だった。(フロイト『モーセと一神教』1939)

フロイトは、このようにして、1920~1930年代の反ユダヤ主義の猖獗を説明しようとする。それは必ずしも、「去勢された」--コモン・センスの意味でのーーユダヤ人を侮蔑するという心理機制だけではないが(詳細はここでは省く)、すくなくとも割礼は「不気味な印象」をキリスト教徒に与えるとしている。


今、コモン・センスの意味、と書いたが、それは次ぎのような文脈である。

ラカンの「男根中心主義phallocentrism」へのたいていの批判の難点は、一般的に、彼らは「ファルス」と/あるいは「去勢」に言及するときに、先入観念的な、コモンセンスとしての隠喩の形で、そうすることだ。たとえば、標準的なフェミニスト映画研究では、男が女に攻撃的に振舞ったり、女への男の権威が現われるたびに、彼(女)たちは、男の行動が「ファリック」だと、確信をもって明示する。女が、はめられたり、無力感に陥りさせられたり、詰め寄られたり等々の状況になるたびに、彼女の経験はたいていの場合、「去勢される」と指弾される。ここで失われているものは、まさに去勢のシニフィアンとしてのファルスのパラドックスだ。もしわれわれが、象徴的「ファリックな」権威を行使すれば、そこで支払わなければならない代償は、われわれは、主体者としての立場を放棄して、〈大他者〉として行動し話すことを通して、その〈大他者〉の媒体として機能することを承諾しなければならないということである。(ジジェク LESS THAN NOTHING)

だが、--話をもとに戻せばーー、フロイトの見解とは異なる次のような見方もある。

……ユダヤ人との比較は〈軽蔑〉の念を惹起させるどころか、賛嘆と尊敬、なかんずく嫉妬の念を起 こさせる。というのも、 〈剪除〉は衰弱ではなくむしろ強化と認められるからである。 〈反セミティズム〉は割礼を施されないものの優越感というよりは、 むしろ劣等感に基礎をおいている。 割礼をしていないものは無防備なまま去勢の恐怖にさらされるのにたいし、割礼を済ませたも のは、 割礼以降は去勢の恐怖から象徴的に護られているのである。(ゾンバルトNicolaus Sombart, Die deutschen)

ところで、ジジェクの見解では、「ユダヤ人」は、主人のシニフィアンとして機能した面と、対象aとして機能した面のふたつの局面がある。

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。大学のディスクールは、この判読可能性を、定義によって支える知のネットワークを詳述するわけだが、その言説は、当初の〈主人〉の仕草を前提条件とし、それに頼っている。〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

ラカンは、‘master signifiers’(主人のシニフィアン)を‘points de capiton’(クッションの綴じ目)と呼んだ。

どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する(ジジェク)。

”なにがマスターシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。

この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)

ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。ナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。たとえば、クッションの綴目le point de capitonを説明するために、ラカンは、ラシーヌの名高い一節を引用している、“Je crains Dieu, cher Abner, et je n'ai point d'autre crainte./私は神を恐れる、愛しのAbner よ、そして私は他のどんな恐怖もない。“すべての恐怖は一つの恐怖と交換される。すなわち神への恐怖は、世界のすべての出来事において、私を恐れを知らなくさせるのだ。新しい〈主人のシニフィアン〉が生じることで、同じような反転がイデオロギーの領野でも働く。反ユダヤ主義において、すべての恐怖(経済危機、道徳的頽廃……)は、ユダヤ人の恐怖と交換されたのだ。je crains le Juif, cher citoyen, et je n'ai point d'autre crainte. . ./私はユダヤ人を恐れる、愛する市民たちよ。そして私は他のどんな恐怖もない……。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳)

この説明にあるように、「ユダヤ人」が、主人のシニフィアンとして機能したことは明らかだろう。だが、それだけではない、とジジェクはいう。そこでは「概念上のユダヤ人conceptual Jew」という用語が使われ、--もともとはアドルノやアーレントの用語らしいが (参照:The Conceptual Jew: Reflections on Arendt and Adorno's Post-Holocaust Theories of Anti-Semitism)、--この「ユダヤ人」は対象aとして機能した、とされる。

要するに、父の名と“概念上のユダヤ人”の相違とは、象徴的フィクションと幻想的幽霊fantasmatic specterとの相違である。ラカンのアルジェブラではS1、すなわち主人のシニフィアン(象徴的権威の空のシニフィアン)と対象aの相違である。主体が象徴的権威を授けられるとき、彼はその象徴的肩書きの付属物として振舞う。すなわち〈大他者〉が彼を通して行動するのだ。幽霊的な現前の場合は、反対に、私が行使する力は“私自身のなかにあって私以上のもの”である。

しかしながら、去勢のシニフィアンとしてのファルスによって保証された象徴的権威と"概念的なユダヤ人"の幽霊的な現前とのあいだには決定的な相違がある。どちらの場合も、知と信念のあいだの分断を扱うにもかかわらず、このふたつの分断は根本的に異なった特質がある。最初の場合、信念は"目に見える"公的な象徴的権威にかかわる(私は父が不完全で弱々しいことを知っているにもかかわらず、私は父を権威の形象として受け入れる)。他方、二番目の場合、私が信じているのものは、目に見えない幽霊的な顕現である。幻想的な"概念上のユダヤ人"は象徴的権威の父権的形象、公的権威の"去勢された"担い手あるいは媒体ではない。そうではなく、何か決定的に異なったもの、正当なロジックを倒錯させる公的権威の不気味な分身である。彼は影として振舞う、公衆の眼には見えない、幻影のような、幽霊的全能性を照射するのだ。この測り知れなく捉えがたい彼のアイデンティティの核心にある地位によって、ユダヤ人はーー"去勢された"父とは対照的にーー去勢されていないものとして感知される。彼の実際の、社会的、公的な存在existenceが中断されればされるほど、その捉えがたい、幻想的な外ー存在ex‐sistenceは人びとを脅かすようになる。(同 LESS THAN NOTHING)


※ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)。(フィンクThe Lacanian Subject)


以下、もう少しつけ加えるが、この見解であるならば、ユダヤ人は、〈女〉のように、あるいは去勢されていない〈享楽の父〉のように捉えられたということになる。

他の相同関係――同じ理由で拒絶されるべきであるーーは父の名と幻影的な「女」の間の関係である。ラカンの「女は存在しない」(la Femme n'existe pas)は、経験上の、肉体をもった女は決して「彼女She」ではない、ということを意味しない。すなわち彼女は到達できない「女」の理想に従って生きることができないということを意味しない(経験上の、「真の」父は、彼の象徴的機能、彼の「名」に生きることができないという様ではない)。どんな経験上の女も〈女〉から永遠に分離されているというギャップは、空の象徴的機能とその経験上の担い手とのあいだのギャップと同じではないのだ。

女の問題とは、逆に、女の空の理想――象徴的機能――を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻想的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの。集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。(同 LESS THAN NOTHING)



…………

「去勢と割礼」という表題にしておきながら、話が別のところに行ってしまったので、ここで「割礼」に焦点を絞って、いくつかの資料・画像を掲げる。






Afterall, Lacan claims that we can not doubt the elegant result of circumcision. Aesthetically speaking, for Lacan, it is not even a question: the circumcised penis is more enjoyable to look at.(NOTES – LACAN’S SEMINAR ON ANXIETY (X): 19 DECEMBER 1962)



ラカンが言うように、割礼は見た目はよくなるかもしれないが、またしばしば指摘されるように、少年期にやっておけば清潔になるということもあるにはあるだろうが、亀頭の感度は低下するのではないか、ーーと思いすこし探ってみたら、「Circumcision DOES reduce sexual pleasure by making manhood less sensitive」という記事がある。とはいえ逆に早漏症状は減るということだろう。さらに割礼するとペニスのサイズが小さくなるなどという記事もある(Harm and physical effects of circumcision)。

他方、日本の若い女性の方の書かれた《包皮の中におさまって保護されている状態ですと、亀頭がのびのびと成長しにくい?!》などという文章にも当ったが、リンクはやめておこう。


いずれにせよ、一般に、男たちはペニスのサイズ、亀頭の形などをひどく気にするということはいえるのではないか。そして「割礼」とは、どうもわたくしの浅墓な印象では、おちんちんがちょん切られるというよりも、ペニス能力の強化という「錯覚」をもたらす。

あるいは、割礼は、ユダヤ人共同体における、「たったひとつの特徴」"unary trait" (einziger Zug)(フロイト)として機能しているのではないか、などと思いを馳せもするのだが、その議論はここではしないでおく(参照:享楽とシニフィアン(ジュパンチッチ=ラカン))。


構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL 私訳)

《人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの別離を意味し、母の去勢(子供すなわち陰茎の等式により)に比較できるかもしれない。〉(フロイト『制止、症状、不安』)であるなら、次のようなペニスを持ち合わせていても、赤子の大きさには及びもつかない。





自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。……
(性的な意味合いでの)自然とは、食うもの(食物連鎖の上、女を指す)と食われるもの(食物連鎖の下、男を指す)が繰り広げるダーウィン的な見世物である。生殖(性交)はどの側面を見ても食欲に支配されている。性交は接吻から挿入にいたるまでほとんど制御できない残酷さと消耗からなる。人間は妊娠期間が長く、子供時代もまた長く、子供は七年以上も自立することができない。この為に男たちは死ぬまで、(女性への)心理的依存という重荷を背負い続けなければならない。男が女に呑み込まれるのを恐れるのは当然だ。女は(自然を忘れた男を罰して食ってしまう)自然の代行人なのだから。(カーミル・パーリア『性のペルソナ』)

(草間彌生)
女性による支配が続いた時代には、女性は、自分たちが特有の魔法の力を持っていることに満足し、必要なときにはいつでも借りられる男性の小さな道具を羨んだりしなかった。実際、太母神は男根に不自由することなく……男根はいつでも手許にあった。それは女神の聖所の目立つところに置かれ、特別の神あるいは人間の男根ではなく、単に男根そのもの、都合のよいときにいつでも使える没個性化された道具であった。一度使うと、それは役立たなくなった。太母神にとっては、今日の彼女の末裔の、ある者たちにとっても同様だが、ペニスは消耗品であって、いつでも次のものが手に入り、おそらく新しいものは前のより、よりよいように思われる。新しいものは、もちろん若い。そしてみずからが消費され、若い男に(女神に対する性的奉仕と全般的奉仕の両方において)代えられる運命にあるという恐れが、中年の男性にとって、ときには深刻な不安感の原因となりうるのである。(Wolfgang Wolfgang,The Fear of Women 1968)


(同 草間)


ーーでなんの話であったか、「割礼」だな。



Abakhwetha circumcision(南アフリカ共和国東ケープ州コーサ族集団割礼儀式)

In the Xhosa Language, aba means a group, while kwetha meats to learn, hence the word “Abakwetha”, meaning a group learning. What are they learning? To become men through circumcision. Five youths at a time are circumcised, ages 17 to 20 years The group of five live together in a specially constructed hut (sutu), which becomes their home for three months while they undergo the transformation from youth to manhood.

他方、『新イスラム事典』(2002・平凡社)によれば、ユダヤ教では生後8日目、イスラム教では生後7日目から12歳までの男児がそれぞれ割礼を受けるそうだ。





Gourd(calabashカラバッシュ)を装着するとあるが、これは熱帯アフリカの瓢箪の樹の実だとのこと。





一般に、コテカ(ペニスケース)も《瓢箪の果実(細長い形に育つ品種のもの)を原料とし、中身をくり抜き乾燥させて作られた筒状の容器であり、じかに陰茎に被せ、付属する紐で陰嚢および腰に固定させて装着する》(ウィキペディア)とある。