2015年5月31日日曜日

享楽の「侵入」

《幼児のメンタライゼーションやアタッチメント理論 (Fonagy et aI., 2002)における穏やか系用語「情動」やら「興奮」やらは、ラカンの享楽の「侵入・爆発」eruptions de jouissanceの言い換えに過ぎない》(ヴェルハーゲ(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2008 意訳)


・反復は享楽に到ろうとする試みを基にしている

・享楽は侵入を通して、身体に生じる。この侵入は徴を得る。〈他者〉の介入を通して、身体に刻印される。享楽への道を歩みつつ、人は不可避的にこの道に沿って、かねて勃然とした徴に従わねばならぬ。(同意訳)

より広くラカンのセミネールを眺めるなら、セミネールXVII(精神分析の倫理)はセミネールVIIに反した位置にある。そしてSeminar XI(四基礎概念)とセミネールXX(アンコール)のあいだの移行の場を占める。倫理のセミネールでは、享楽は現実界と捉えられ、それゆえ象徴界とは全く反対のものである。そこでは、享楽は法の侵犯を通してのみ到達し得る。精神分析の裏側S.17のセミネールでは、対照的に、享楽は侵入に関わる。さらに、ラカンは享楽とシニフィアンの原初的関係性を唱える。(Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006 私訳)

というわけで侵犯から侵入のラカン、その後者の「享楽の侵入」をめぐるメモ

ラカン的観点からは、我々はこう言うことができる、乳幼児を世話するとき、〈他者〉としての母(m)Otherは、子どもの身体に彼女の享楽を徴づけると。言い換えれば、初期の幼児の世話の経験ーーアタッチメント理論や発達研究などであんなにも焦点を当てられいるーーは、ラカン派の用語でも、まさに同じく、〈他者〉の欲望の経験である。

ラカンが適切に言ったように「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」。母は「誘惑する女seductress」だというフロイトの仮定は、このレンズを通して眺めると意義深い。

この心理的な他者の表現-能印expressionは、幼児にとって印象-受印impressionとなる。他者の反応を通して、子どもは、身体のリアルにおいて何を経験しているかということに、メンタルな接近を獲得し得る。それと同時に、他者を通して、身体のリアルを取り扱う最初の方法を学ぶのだ。

快あるいは不快の時、親は「どうやって取り扱うか」というメッセージを鏡像化mirroringして伝える。ラカンをパラフレーズするなら、我々はこう言うことができる、〈他者〉の言説なのは無意識だけではない、実に意識も同様なのだ、と。この場なのである、我々のアイデンティティの基礎を見出すのは。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009 私訳)

《……享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。》(同上)

享楽は〈他者〉のシニフィアンによって徴づけられる。主体は自らの享楽についての知を、それを通して獲得する。

もしなんらかの理由で、ある身体的エリアや言動が、母によって、他のエリアや言動よりも徴づけられたら(享楽の侵入)、それが人の生涯において卓越した役割を占めるのは確かだ。(同上)

※これ以外には、「子どもを誘惑する母(フロイト)」を見よ


たとえば、

・清潔好きな母が念入りに子どものお尻を拭くのなら、何が起こるか? 

 → 肛門性愛(清潔好きのひとは、肛門性交愛好家が多い?)。

・母が快い舌語や歌で子どもをあやすのが巧みだったらどうか? 

→ララング愛好、場合によっては詩人や歌手などへの道

ーーということになるのだろう、たぶん?

古いヴァージョンではこのla langueがlalanqueと表記されていたが、最新ヴァージョンのとおり、la langueとしなければ意味が通じない。因みにlalangueについては、本講演のほぼ7ヶ月前に1974年3月30日Scuala Freudiana(Centre culturel françaisとも記されている) で行なわれた講演 v. http://www.effet-freudien.com/download/lacan1974.doc.で、平易な説明がなされている。

lalangueとはまず、喃語lalationと関連づけられ、当然、乳幼児に認められるものだが、母親がこれに加わる。母親も自分の赤ん坊には、「大人のことば」以外にも、赤ん坊が喋る喃語を真似てやはり喃語を喋る。母親は赤ん坊の欲望(ここでは、まずは、敢えて、要求とか欲求ということばを用いないで説明したい)を叶えようとする一方で、その母国語を教える。lalationからla langueへ入ってゆく、そこにlalangueができあがるとしてもよいであろう。(荻本芳信『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74 )

※附記

私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候――再考」同27号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。

その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。

実際、妄想は未曾有の事態に対する言語意識の発見論的使用がなければ成立しない。幼少年型の分裂病では、これを分裂病と呼べるとしてであるが、言語は水や砂のようにさらさらと流れて固まらない。しかし、妄想は単に言語の発見論的使用ではない。妄想が妄想として認識されるのは決してその内容ではなく、問題の陳腐な解決、特にその解決に権力欲がまつわりついた場合であり、さらに発語内容のみならず形式のほとんど一字一句に至るまでの反復によって「妄想」と認識される(初期分裂病の「妄想的」発語は妄想ではない)。妄想を、通常人が「奇想天外」と余裕を以て驚いてみせるのは、実はその意外性、未曾有性でなく、その陳腐さを高みから眺められるからである。もし陳腐でなければ(いやいささか陳腐であっても)、啓示として跪拝するのは日常見られることではないか(ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう)。

むろん一方は病いであり、一方は病いではないといちおうは言うことができる。しかし、分裂病の場合でも、その最初期、病いといえるか否かの「未病」の時期に言語の徴候的側面への過敏が顕著であり、また一般には、この過敏はその時期の徴候一般に対する過敏の一部として出現する。逆に、詩人の場合も、何の危機もなくて徴候性への敏感さが現れるかどうか。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収)



2015年5月29日金曜日

享楽への道とは死への道(ラカン)

享楽への道とは死への道でもある(ラカン、セミネールⅩⅦ)

――とは正確には、《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (S.XVII)である。

人生は、自己流儀self-fashionedの死への廻り道であり、大抵の場合、人生は、急いで目標に到達するものではない。(同セミネールⅩⅦ)

S・シュナイダーマン(『ラカンの《死》』)曰く、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていた。が、なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだ、--とは、「ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女」で見た。

この見解が正しいかどうかは別にして、冒頭に掲げたセミネールⅩⅦの見解に従えば、究極の享楽=死に急いで到達するものではない、ということになる。

「酒はきみをゆっくりと殺すらしいぜ」「そうさ、俺たちはそんなに急ぐ必要はないだろ?」

このアルコール中毒者の態度が享楽への「すぐれた」姿勢である・ ・ ・

本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのは常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。庭の石が朝日を浴びているのを眺めて飲み、そうこうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白み掛っているのに気付き、又庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と相手に言うのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れ兼ねている。(吉田健一『酒宴』)

さて話をもとに戻せば、我々は出産とともにあるものを失っている(フロイトが評価しつつも最終的には反撥したオットー・ランクの「出産外傷」概念)。このランクの概念とほとんど同様の見解を、ラカンはセミネールⅩⅠで言っている。

根源的な喪失とはなにか? 永遠の生の喪失である、それはひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる、そのMeiosis(分裂)により。(ラカン、セミネールⅩⅠ)

この言明は、〈母〉なる大地からの分裂によって喪失したものが究極の享楽だという風に捉え得る。

とすればニーチェのお出ましを願っておこう。

ディオニュソス的密儀とは何か?……永遠の生であり、生の永遠回帰である。……死と転変を越えた生への勝ちほこれる肯定である。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』)

フロイト的には、この永遠の生とは、究極のエロスである。なぜならより大きな統一に到達することだから。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

だが、ラカン派のなかでも享楽について、はっきりしたコンセンサスがあるわけではない。

享楽はラカンの最も札付きに難解な概念のひとつであり、それは、ことさらに彼の理論の発展に伴った変貌にもよる。基本的には、欲動から生じる統御できる快と統御できない快のあいだの限界領域を示す。そのためアイデンティティの感覚の喪失を伴って我々を脅かす(我々の想像力のなかで)ものである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains  2008 私訳)
では正確に、享楽概念は何を意味するのだろう? ラカンは決してはっきりとは定義しない。ただ漠然と示唆するだけだ。この不明瞭さは故意のものである。ラカンにとって、享楽は定義上、定義されない。それは象徴化を逃れるものだから(Lacan, 2006 [1969-70], pp. 176- 177)。もっともフロイトにも類似の概念を見出せないではないが。快原則の彼岸についての叙述に、ラカンは享楽の考え方の示唆を見出している。快原則の「彼岸」(jenseits) に何かがあるに相違ない。フロイトはそう結論する。…奇妙な反復があるのだ。奇妙なというのは、反復されるものが、快と呼ばれるものでは必ずしもないからだ。実際、享楽は快の反対物かもしれない。すなわち、"Unlust," あるいは" déplaisir"なのだ。 (Lacan, [1969-70], p. 77) (同上PAUL VERHAEGHE 2008)

とすれば、ニーチェにふたたび登場していただくことになる。《――享楽Lustはあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。》(『ツァラトゥストラ』)手塚富雄訳からだが、悦楽Lustとなっているところを享楽に変えた(悦楽はそもそもロラン・バルトの書のjouissanceの訳語でもある)。

さらに、もうひとつニーチェを掲げる。

人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」((ニーチェ『権力への意志』「第三書 原佑訳)

さて、ふたたび元の文脈に戻る。

原初の享楽とは〈母〉なる大地との融合だとしてみよう(参照)。これは死だ。そして、それへの廻り道三形態としてラカンによれば、まずは次ぎの三つがある。

①ファルスの享楽jouissance phallique
②〈他者〉の享楽jouissance de l'Autre
③剰余享楽Le plus-de-jouir

ーー②は女の享楽la jouissance feminineとされる場合もある。

ところが『セミネールⅩⅩ』(アンコール)には、〈他者〉の身体の享楽(他の享楽) la jouissance du corps de l'Autre (l'autre jouissance)ともある。

ラカンは、これを②の意味で使っているときもあるし、②③を含めてのときもあるように思える。

ここで、ヴェルハーゲの説明を聞こう。

ここでの中心概念は享楽となる。もっともそれは新しい意味をもつことになる。以前は、ラカンは享楽を、象徴化されない、主体を脅かす母なる〈他者〉the (m)Otherの欲動のリアルな部分として言い表した。

理論のその箇所では、危険な「〈他者〉の享楽jouissance of the Other」と「他の享楽other jouissance」は互いに混ぜ合わさっている。〈他者〉の享楽は、母の享楽であり、彼女の生産物(子どもoffspring)を犠牲にして得られるものだ。女性の享楽feminine jouissanceは、実は「他の」享楽an "other" jouissanceであり、それはファルスの享楽と対照されるものだ。(同ポール・ヴェルハーゲ PAUL VERHAEGHE 2008)
注)ファルスの享楽とはフロイトの快のことである。その意味は、緊張の解除と低下であり、最も目立つ例ならオーガズムである。このファルスの享楽は、男女ともにある。けれどもフロイトでさえ、ファルスの快原則の彼方に、他の快があることを認めていた。それは反対の目的に向かうもの、すなわち緊張を作り出すものである。私の読解では、これが、ラカンが「他の」享楽the "other" jouissanceと呼んだものである。

このヴェルハーゲの説明の前半では、「〈他者〉の享楽la Jouissance de l'Autre」と「他の享楽 l'autre jouissance」はときに同じものとして扱われたり、そうでなかったりするというふうに読める。しかも〈他者〉概念そのものもラカンの理論的推移にともなって、種々の意味で使われる、と。

ここでヴェルハーゲは、ラカンの「〈他者〉の身体の享楽 la jouissance du corps de l'Autre」 という表現(セミネールⅩⅩ)については触れていない。ただしそれはアンコールにおけるラカンの叙述なら、la jouissance du corps de l'Autre =l'autre jouissanceである。

ヴェルハーゲは《女性の享楽feminine jouissanceは、実は「他の」享楽an "other" jouissance》としており、このan "other" jouissanceがl'autre jouissanceであるとすると、ファルスの享楽/他の享楽(快原則の此岸/彼岸)の二項対立における後者だということになる。ただしヴェルハーゲの記述に沿うなら、ファルスの享楽/女性の享楽ということにもなり、剰余享楽はどこにいってしまうのだろうか? わたくしには女性の享楽のなかに剰余享楽が含まれるとは思われない。むしろ下の図の<他者>の享楽の位置に、女性の享楽があるという理解をしていた(だが、これも誤解があるのかもしれない、もしくはある時期だけのラカンの叙述に囚われてしまっているのかもしれない)。


(ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女)


いずれにせよ、このあたりはわたくしにとって曖昧なままである。かつまたラカン派の論客のなかでさえ、はっきり言明している人はいないようにみえる(寡聞によるものかもしれないが)。

当面、ここでの理解は、「ファルスの享楽」と「それ以外の享楽」(他の享楽l'autre jouissance)があり、このそれ以外とされる享楽l'autre jouissanceは、<他者>の享楽jouissance de l'Autreとは異なる、ということは分かる。

そして「それ以外の享楽」には、「<他者>の享楽」と「剰余享楽」が含まれる。

かつまた「女の享楽」=「それ以外の享楽」という見解もあるし、いや「女の享楽」=「<他者>の享楽」とする見解もある。ーー当面、そういうことだけにしておこう。

いや、もうひとつつけ加えておこう。

ラカンが「〈他者〉の身体の享楽」ではなく、ただ「〈他者〉の享楽」と言うときさえ、それは実は「身体の享楽」を言っているのではないかと捉えうる場合もある(後述(引用):ヴェルハーゲの見解を見よ)。

※ジジェクは「享楽」をめぐって、主に「剰余享楽」と「女性の享楽」概念を多用する。しかし今は、彼の見解はそれ以外にも多岐にわたり一筋縄ではいかないので、今は敬して遠ざけておく(末尾にいくらかの叙述を附記している)。

あるいはまた、ラカンの最も厄介なマテームS(Ⱥ)(〈他者〉における欠如のシニフィアン)とは、ときには身体の穴のシニフィアンとすることもできるのではないか。

※S(Ⱥ)については、ブルース・フィンクの次ぎのような提案はある。

私は提案しようと思う、セミネールⅥとⅩⅩの間で、S(Ⱥ)は、〈他者〉の欠如もしくは欲望を意味するものから、“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss.36を意味するものになっている、と。(ブルース・フィンク『後期ラカン入門: ラカン的主体について』第八章ーージャック・ラカンのS(Ⱥ)とブルース・フィンクのS(a)

この最初の喪失は、原トラウマ、あるいは原去勢(小笠原晋也氏独自のマテームφ barréを私はそう読む(参照))とも呼びうる。

かつまたフロイト概念、Fremdkörper( a foreign body異物)、ーーこの語は、元来、初期フロイトによりトラウマと関連づけられて使用されており、身体としての〈他者〉(原トラウマ)とも読み替えられ得るものだ。この読み方なら、Fremdkörperは、ラカンのマテームȺ、もしくはS(Ⱥ)とできないでもないに思える。

だがジジェクは、Fremdkörperを対象aとしている。

the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself.(ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』)

ヴェルハーゲなら次ぎの通り(これは「他の享楽(l'autre jouissance」のことを言っているはず)。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

わたくしはこの点に関しては、ヴェルハーゲの見解を取る。それはラカンの「サントーム」のセミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるのを「異物としての身体Fremdkörper」として理解するためである。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

…………

さてややこしい話はやめ、ごく標準的な文脈に戻る。

そもそも〈他者〉とか大文字の他者と訳される”L'Autre”は、「大文字の他」であり、人でなくてもよい。ラカンはすでにセミネールⅩⅣで、《〈他者〉は身体である》と言っている。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

ラカンの使用法では、〈他者Autre〉が常に身体corpsではないにしろ、この観点は、日本語の訳語では見逃されがちだ。

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains  2008)

この記述は次ぎの文とともに読まなければならない。母は、子どもに享楽の刻印を捺すのだ(参照:子どもを誘惑する母(フロイト))。

ラカン的観点からは、我々はこう言うことができる、乳幼児を世話するとき、〈他者〉としての母(m)Otherは、子どもの身体に彼女の享楽を徴づけると。言い換えれば、初期の幼児の世話の経験ーーアタッチメント理論や発達研究などであんなにも焦点を当てられいるーーは、ラカン派の用語でも、まさに同じく、〈他者〉の欲望の経験である。

ラカンが適切に言ったように「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」。母は「誘惑する女seductress」だというフロイトの仮定は、このレンズを通して眺めると意義深い。

この心理的な他者の表現-能印expressionは、幼児にとって印象-受印impressionとなる。他者の反応を通して、子どもは、身体のリアルにおいて何を経験しているかということに、メンタルな接近を獲得し得る。それと同時に、他者を通して、身体のリアルを取り扱う最初の方法を学ぶのだ。

快あるいは不快の時、親は「どうやって取り扱うか」というメッセージを鏡像化mirroringして伝える。ラカンをパラフレーズするなら、我々はこう言うことができる、〈他者〉の言説なのは無意識だけではない、実に意識も同様なのだ、と。この場なのである、我々のアイデンティティの基礎を見出すのは。

(そのうち続く)

…………

※附記

ジジェクの享楽の叙述の例(LESS THAN NOTHING、2012より)。

【剰余享楽】

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。

【見せかけ】――通常、見せかけsemblanceは対象a(剰余享楽)とされるが、このジジェクの文はそうであるかどうか保留しておく。

享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけsemblanceの地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけsemblancesは、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。

【女性の享楽】

女性の享楽Jouissance féminineは存在しない。しかしil y a de jouissance féminine、女性の享楽は「ある there is」。この"il y a"は、後期ハイデガーで鍵の役割を果たしたドイツ語の"es gibt"のように、存在とははっきりと対立する(英語では、曖昧になってしまう。というのは、翻訳上、動詞“to be” を避け得ないから)。このように、享楽は、象徴的ネットワークに捉えられるポジティヴな実体ではない。それは、象徴秩序の割れ目と開口部のみを通して燦めく何かである。それは、象徴秩序内部に住んでいる我々がその享楽を直接に獲得できないからではない。そうではなく、もっとラディカルに、それは割れ目と象徴秩序自体の非一貫性によって生み出されるものであるからだ。

ジジェクの主張のポイントは、「享楽」は快原則の彼岸にあるのではない、ということだ。象徴界(快原則の此岸)の非一貫性が享楽を燦めかすということであり、「享楽」は彼方にあるものではない、ということだ。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)

これは一見ヴェルハーゲの見解と異なるようにみえる。だが彼は次ぎのように書いているのは、上に見た。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

「現実界は分節化された象徴界の内部に外ー存在する」のである。これはジジェクと同じことを言っているはずだ。

ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)(フィンク,The Lacanian Subject)

…………




※追記:上でジジェクの言ってることは意味不明かもしれない。わたくしも最近になって漸く彼ら(ジジェク組)が何を言わんとしているのか「朧げに」、僅かながら分かってきたところだ。

以下、「「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」」から補足資料。

人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityであると。(ジュパンチッチAlenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value")
“A = A”は、象徴秩序内においてのみ起こり得る。そこでは、Aの同一化は「唯一の特徴unary feature」によって支えられ構成されているのだ。その「唯一の特徴」は、その核心にある空虚を徴づけている(その空虚の代わりとなっている)。「あなたはジョンだ」が意味するのは次ぎのことである。あなたのアイデンティティの核心は、あなたの名前で示された言葉で言い表わせないje ne sais quoi深淵なのである。だからどのアイデンティティも、つねに挫折させられ、実質がなく、虚構である(ポストモダンの「脱構築主義者」の呪文のように)だけではない。アイデンティティそれ自身が、厳密な意味で stricto sensu、その反対物の徴、それ自身の欠如の徴、自己アイデンティティとして主張される実体は十全のアイデンティティを喪失しているという事実の徴なのである。(ジジェク LESS THAN NOTHING 私訳)

象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)

Levi R. Bryantはこの文を引用して次ぎのように言っている(The Democracy of Objects)。

要するに、現実界は象徴界以外の何物でもない。むしろ象徴界の一種の効果である。どのシニフィアンも、シニフィアンとその割り当てられた場所のあいだの分裂によって纏いつく相違による効果なのだ。シニフィアンは常にそれ自体と場所のあいだの相違を包含しているのだから、シニフィアンは常に-何処でもそれ自体との同一化を得ることに失敗せざるを得ない。しかしながら、それ自体との同一化が不可能だというまさにこの失敗が、そのアイデンティティの本質なのだ。(Levi R. Bryant、The Democracy of Objects、2011)

Bryantはこの後、ヘーゲルを引用して、こう記している。

ヘーゲルが『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。(同上Levi R. Bryant、2011)

ドゥルーズやランシエールの研究者でもあるLevi R. Bryantのこの書の題名は「対象の民主主義The Democracy of Objects」であり、彼の論旨に従えば、デモクラシーのあり方を考えるためにも、あるいは現在猖獗するナショナリズムやレイシズムに思いを馳せるためにも、これらの「享楽」の論理を消化しなければならないということになる。



2015年5月28日木曜日

かくされた女のもつあの神秘

スワンのオデットへの愛、主人公のアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。




相手の人間に愛をそそられるよりも、相手にすてられることによって愛をそそられるのは、ある種の年齢に達した者の運命で、その年齢は非常に早くくることがある。すてられていると、相手の顔面はわれわれに不明瞭で、相手の魂もどこにあるのかわからず、相手を好きになりだしたのもごく最近で、それもなぜなのかわからず、ついに相手のことではたった一つの事柄しか知ろうとしなくなる。つまり、苦しみをなくすためには、どうしても相手から、「お会いになっていただけるでしょうか?」という伝言をわれわれのもとにとどけさせる必要がある、という一事だけだ。「アルベルチーヌさまはお発ちになりました」とフランソワーズが告げた日の、アルベルチーヌとの離別は、ほかの多くの離別の一つのアレゴリー、むしろひどくは目立たない一つのアレゴリーといってもよかった。ということは、われわれが愛していることを発見するためには、またおそらく、愛するようになるためにさえも、しばしば離別の日の到来が必要だということなのである。(プルースト「逃げさる女」)





私はいまも思いだす、そのときの暑かった天気を、そんな日なたで給仕に立ちはたらいている農園のギャルソンたちの額から、汗のしずくが、まるでタンクの水のように、まっすぎに、規則正しく、間歇的にしたたっていて、近くの「果樹園」で木から離れる熟れた果物と、交互に落ちていたのを。そのときの天候は、かくされた女のもつあの神秘とともに、こんにちまでもまだ私に残っている、――その神秘は、私のためにいまもさしだされている恋なるもののもっとも堅固な部分なのだ。プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」)





知りあう前に過ちを犯した女、いつも危険な状態にひたりきった女、恋愛の続くかぎり絶えず征服し直さねばならない女がとくに男に愛されるということがある。(プルースト「 囚われの女 Ⅱ」)






……その後、ホテルへの狭い坂道を辿る途中で抱きしめあうことにもなった。吾良は勃起を感じとらせぬよう腰を引く配慮をするどころか、この夜はむしろ相手の下腹やら腿やらをそいつで押しまくってやった。(大江健三郎『取り替え子』)




私たち二人は、連れだって夕食をとりに出かけた。私は階段をおりながら、ドンシエールを思いだした、ドンシエールでは私は毎晩外出してホテルのレストランでロベールと顔をあわせた、また私は忘れていたほかの小さな食堂のあれこれを思いだした。そんな一つの部屋が回想によみがえった、まだ一度も思いかえしたことがなかったその食堂は、サン=ルーが夕食をとることにしていたホテルにはなかった、それはもっとずっと粗末な、旅館と下宿との中間のようなホテルにあった、そしてそこではおかみさんと女中の一人とか給仕してくれた。雪が私をそこに足どめしたのだった。それにロベールはちょうどその晩はホテルで夕食をとることになっていなかったし、私は足どめされたそこより遠くへ食事に行きたくなかった。私に料理がはこばれてきたのは、階上の、全体が木造の小さな部屋だった。食事中にランプが消え、女中が私のためにそうそくを二本ともした。その私は、彼女に皿をさしだしながら暗くてよく見えないふうを装い、彼女がその皿にじゃがいもを入れているあいだに、まるで彼女の手をとって誘導しようとするかのように、片方の手で彼女のむきだしの前腕をにぎった。その前腕をひっこめないのを見て私はそれを愛撫した、それから、ひとことも発しないで、彼女のからだをそのままぐっと私のほうにひきよせ、ろうそくの火をふきけした。そうしておいて、お金をすこしやるつもりで、ポケットをさぐるようにといった。それにつづいた数日のあいだ、肉体的快楽が満喫されるには、単にこの女中だけでなく、そんなにも孤立した木造のこの食堂が必要であると私には思われた。((プルースト「ゲルマントのほう Ⅱ」)




2015年5月27日水曜日

「あのころはいつもお祭りだった」

若くスラリとしたしめやかな声音のいい女を食事に誘った。洋食屋だが何を食べたのか記憶にない。食後、二人で肩を並べて宵闇のなかを歩く。夜風がここちよい。女が次ぎの週にも逢ってくださる? という。何を食べようか、と訊ねる。生簀のあるおいしい和食屋があるからそこにしましょうという。あの魚の刺身がたべたいわと言う。あの魚はなんという名か忘れた。おう、そこならオレも行ってみたいと応じる。すると女が写真集のようなものを示し、それを開くと女が縄で縛られて官能の表情を浮かべている。こういう仕事をやっていたのと、女が言った(気がする)。オレはそれを貪りつくように眺め匂いまで嗅ぐ。

いつの間にか連込み宿にはいっている。二人だけではなく一人の子供がいる。男の子のようだが、たしかではない。いずれにせよ邪魔になる。女は子どもの世話をしている。うまく女とできるだろうか? オレは不安に思って目が醒めた。

目覚めたあと、この若い女は二十代なかばごろ、職場で魅惑された山本という色の白いしなやかな軀をした美女だったように思う。突然(三十年ぶりぐらいに)、この女、それに名前を思い出した。ことさら横顔、姿態の美しい女だった。山本なんといったのかは想い出せない。京都の良家のお嬢さんではある。この女とはヤッテいない。



――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人についてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)

 《ヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあった》という心持からは、ほど遠い気分におそわれる。むしろ悔みの感情をおぼえる。かつまた縄の扱いを本式に習っておくべきだった、と。





植物の熱気、おお、光、おお、恵み!…/それからあの蠅たち あの種の蠅ときたら、庭のいちばん奥の段へと、まるで光が歌っているかのように!(「サン=ジョン・ペルス詩集」多田智満子訳)

そう、まるで光が歌っているかのような女だった。昨晩この詩を読んでいた。蠅と縄は漢字がよく似ている。

想いだすのは塩、黄いろい乳母が私の眼尻からふきとらねばならなかったあの塩。/黒い妖術師が祭式に際してしかつめらしく宣言していた、〈世界は丸木舟のごとし。ぐるぐる廻り廻って、風が笑わんとするか泣かんとするかをもはや知らぬ…〉/するとたちまち私の眼は 輝く波にゆられる世界を描こうと努めて、木の幹になめらかな帆柱を認め、葉陰に檣桜をまた帆桁を、蔓草に支檣索を認めるのだった。/そのしげみでは 丈高すぎる花々が/鸚哥(いんこ)の叫びをあげてかっと開くのであった。(同上)
棕櫚…!/あのころおまえは緑の葉の水にひたされたものだ。そして水はまだ緑の太陽のものであった。おまえの母の下婢(はしため)たち、大柄で肌つややかな娘らがふるえているおまえのそばで熱いふくらはぎを動かしていた…
…ところでこの静かな水は乳である/また 朝の柔らかな孤独にひろがるすべてのものである。/夜明け前、夢の中のように 曙を溶かした水で洗われた橋が空と美しい交わりをむすぶ。そして讃うべき陽光の幼い日々が いくつも巻いたテントの柵をつたって じかにぼくの歌に降りてくる。/…/いとしい幼年期よ、追憶に身をゆだねさえすればよい…あのころぼくはそう云ったろうか? もうあんな肌着などほしくない/…/そしてこの心、この心、ほらあそこに、心は橋の上をずるずると裾ひきずって行くがよいのだ、古びた雑巾ぼうきよりもつつましく 荒々しく/くびれ果てて…




わたくしにとって、多田智満子訳の「サン=ジョン・ペルス詩集」は、なぜかパヴェーゼの『美しい夏』とセットになっている。

あのころはいつもお祭りだった。家を出て通りを横切れば、もう夢中になれたし、何もかも美しくて、とくに夜にはそうだったから、死ぬほど疲れて帰ってきてもまだ何か起こらないかしら、火事にでもならないかしら、家に赤ん坊でも生まれないかしらと願っていた、あるいはいっそのこといきなり夜が明けて人びとがみな通りに出てくればよいのに、そしてそのまま歩きに歩きつづけて牧場まで、丘の向うにまで、行ければよいのに。「あなたたちは元気だから、若いから」と人には言われた、「まだ結婚していないから、苦労がないから、むりもないわ」でも娘たちのひとりの、びっこになって病院から出てきて家にはろくに食べ物もなかったあのティーナ、彼女でさえわけもなく笑った、そしてある晩などは、小走りにみなのあとをついてきたのが、急に立ち止まって泣き出してしまった、だって眠るのはつまらないし楽しい時間を奪われてしまうから。(パヴェーゼ『美しい夏』 La bella estate 河島英昭訳)

そして多田智満子は矢川澄子とセットになっている。





矢川澄子は蠅に関係があるのか、縄に関係があるのかはよく分からない。もちろん彼女は澁澤龍彦の妻だった時期がある。

前回(子どもを誘惑する母(フロイト))、ファム・ファタールをめぐっての叙述をした。とはいえ、夢がそれに関係あると言い募るつもりはまったくない。






子どもを誘惑する母(フロイト)

女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ(Lacan, Le seminaire, livre X: L' angoisse[1962-63])




ラカンはかつてはこういうことをしばしば言ったようだが、セミネールⅩⅦにはほぼ一箇所しかない(とはいえ最も有名な「鰐の口」だが)。

ーーとはいえ、共食いというのは、だいたい雌が雄を食うようなのだが、人間界もやはりそういうものなのだろう(か)・ ・ ・田中慎弥氏による「共食い」という芥川賞受賞小説があったが、あれもその類のことが書かれているのだろうか。

そうしようとは思っていなかったのにとりあえず鈴を鳴らし、社に手を合わせたあと、振り向いて川を見下ろした千種は、

「今日も割れ目やねえ。」

 川が女の割れ目だと言ったのは父だった。生理の時に鳥居をよけるというのと違って、父が一人で勝手に言っているだけだった。上流の方は住宅地を貫く道の下になり、下流では国道に蓋をされて海に注いでいる川が外に顔を出しているのは、川辺の地域の、わずか二百メートルほどの部分に過ぎず、丘にある社からだと、流れの周りに柳が並んで枝葉を垂らしているので、川は、見ようによっては父の言う通りに思えなくもない。(田中慎弥『共喰い』

《クモ、カマキリ、サソリなどでは性的な共食いが見られる。一連の配偶行動の中で、これらの雌は交尾を終えると時々雄を食べる場合がある。特にカマキリのそれは有名であるが、野外では大半の雄が無事に逃げるとも言われる。ただ、実際に喰われる例も確かにあり、その場合、雄のカマキリは頭を喰われても交尾を継続し続ける。つまり喰われることを前提にしている節がある。ただし頭部を失うと性的抑制がきかなくなるのは多くの昆虫に共通しており、カマキリだけの性質ではない。》(共食い

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL1995 )
母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。(Le Séminaire Livre XVII, L’envers de la psychanalyse, [1960-1970])

こういったことを、あまり言わなくなったのは、厭きたせいか(齢を重ねたせいか)、それとも態度変更があったせいか?

PAUL VERHAEGHE(ポール・ヴェルハーゲ)の『New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex』(2009)に次ぎのような見解を読んだ、《以前には、女-母、現実界、欲動、そして享楽は、多かれ少なかれ、共通の不安を掻き立てる恐怖を示していた……後期ラカンの理論では、母は、ある役割を割り当てられた人物に降格される》。

その前後もふくめ下にテキトウ訳しておく。

なお、この書は、セミネールⅩⅦ英語版の解説として書かれた論文「Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 」2006ーー前回、一部、引用したがーーを、より一般公衆向けにわかりやすく記したのではないか、と思える箇所が多くある(二つともここから拾うことができる→ Publicaties van Paul Verhaeghe)。

かつまた、『New studies of old villains』序文は、ジュリエット・ミッチェルJuliet Mitchellが書いているが、彼女は、女性解放運動の最盛期に敢えてフェミニストのフロイト誤解を批判したことで知られているようだ。ヴェルハーゲの文にはナンシー・チョドロウNancy Chodorowの名も出てくる。彼女はどうやらジュリエット・ミッチェル系譜の方のようだ。

かなり以前のものだが、「臨床社会学研究会(1988年7月13日 波田あい子)議事録」によれば次の通り。

フェミニストで臨床家の研究者たちというのが、80年代以降、理論フェミニズムの中で目立つ存在になってきました。もちろんこのことは欧米のことですし、また、きょうの話は英語圏のことになりますけれども。最初の1人はジュリエット・ミッチェル。ご存知の方も多いと思います。ジュリエット・ミッチェルからナンシー・チョドロウ、そしてジェシカ・べンジャミンにつながります。

わたくしにとって名の知らなかったフェミニストの名前を出したが、以下のヴェルハーゲの叙述は、ある種のフェミニストたち、すなわち臨床家の仕事をもったフェミニストたちにとっては、おそらく受け容れやすいフロイト・ラカン理論解釈なのだろうということを断わっておくためである。

…好きであろうとそうでなからうと、女は、このコンプレックスにおいて、中心的役割を避け難く取らざるを得ない。母として、彼女は享楽の刻印inscriptionsを生み出し、それを支配する。享楽を反復しようとするどんな試みも母に向けられなければならない(注13)。子どもは、母に関して、要求当事者となり、故に依存の立場に居つくことになる。

享楽の原初の(不)可能性は、元々「享楽の存在being of enjoyment」としての生きた身体に位置したのだが、享楽の可能性そして同時にその失敗の必要性は、今では母へ投影される。社会の共謀によって、子どもは母へと固着させられる。彼女は絶対の享楽と禁止の選ばれた座席になる。

そのときの問題は、原初の享楽の残余は何かということだ。ふたたびラカンは曖昧な表現で答える、「剰余享楽le plus-de-jouir」と。仏語では、これを二つの仕方で理解され得る、「もはや享楽しないnot enjoying any more」と「もっと享楽をmore of the enjoyment」である。防御的なエラボレーションの後に、主体にとって残っている享楽は、原初の形式未満の異なったものであり、決して十分に満足を与えない。

彼女の小さな子どもをplus-de-jouirへ導くのは、〈他者〉としての母なのである。すなわち(限定された)享楽の道は、想定された原初の全体的享楽を断念するという条件のみで、子どもに開かれている。それは、今後、母の場にあると想像されるのだ。

これらの考え方をラカンのより以前の母-女の役割の理解と比較するならば、その相違は歴然としている。以前には、女-母、現実界、欲動、そして享楽は、多かれ少なかれ、共通の不安を掻き立てる恐怖を示していた。それに対する保護は、何らかの形で、男-父、象徴界、ファルスのシニフィアンから来ると期待された。そしてふたたび、これらの用語は、多かれ少なかれ、共通の制度を示していた。

後期ラカンの理論では、母は、ある役割を割り当てられた人物に降格される。彼女はその役割を求められることも、拒絶の可能性を殆どないままに割り当てられる。彼女は欲望される対象になるかもしれない。だが同時に、彼女はとりわけ禁じられた対象になる。ひとは、ひどく危険だとされるこの対象に、この禁止を超えて到達すべきか。こうして宿命の女La femme fataleがこのエディプスの劇場の生産物として現れる。(注14)
注13)フルヴァージョンなら次の通り。乳幼児はまず最初になによりも母へ訴えなければならない。その訴えとは、欲動興奮と無力感の混淆物を基礎にしてである。母の応答は(鏡像段階を想起せよ)、(欲動興奮を)統御し、徴をつけ、満足を与える形で作用する。子どもがふたたび、同じ享楽(の統御)を見出したとき、母へとその「要求」を呼びかけねばならない。結果として、子どもは母の応答と同一化しなければならなくなる。そして母が既に生み出した徴の点に同一化することになる。ここに横たわる理由づけは、チョドロウChodorow(1999)のある考え方にとても接近していることを注意しておこう。
注14)主体形成あるいはアイデンティティ獲得のアイロニーは、多くの女たちはファム・ファタールの立場に自身を同一化することだ。それによって男の不安な欲望は確証されることになる。実に、主体形成の主要な過程は〈他者〉によって現らされたシニフィアンへの同一化である。ある特定に人物であったり、広告やファッション産業の〈他者〉だったり…。ラカンはこれを疎外と呼ぶ。全く悪くない考えだよ、と。どのファム・ファタールも自分や〈他者〉の利得のために演じる役割に疎外を感じている。

《多くの女たちはファム・ファタールの立場に自身を同一化する》だって? そんなバカな!--とおっしゃる方は、かの聖女神谷美恵子さんの日記を読むとよい。

蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」、さらには仏語で「ナイーヴで誠実な青年たちの血をすすって生きる雌ライオン - 私はそんな自分自身が恐ろしい。神様、許してください」と、神谷美恵子さんの長いあいだ非公開だった手記にはあるのだ。

さて、冒頭近くに《母として、彼女は享楽の刻印inscriptionsを生み出し》とあるが、その意味は次ぎの通り。

ラカン的観点からは、我々はこう言うことができる、乳幼児を世話するとき、〈他者〉としての母(m)Otherは、子どもの身体に彼女の享楽を徴づけると。言い換えれば、初期の幼児の世話の経験ーーアタッチメント理論や発達研究などであんなにも焦点を当てられいるーーは、ラカン派の用語でも、まさに同じく、〈他者〉の欲望の経験である。

ラカンが適切に言ったように「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」。母は「誘惑する女seductress」だというフロイトの仮定は、このレンズを通して眺めると意義深い。

この心理的な他者の表現-能印expressionは、幼児にとって印象-受印impressionとなる。他者の反応を通して、子どもは、身体のリアルにおいて何を経験しているかということに、メンタルな接近を獲得し得る。それと同時に、他者を通して、身体のリアルを取り扱う最初の方法を学ぶのだ。

快あるいは不快の時、親は「どうやって取り扱うか」というメッセージを鏡像化mirroringして伝える。ラカンをパラフレーズするなら、我々はこう言うことができる、〈他者〉の言説なのは無意識だけではない、実に意識も同様なのだ、と。この場なのである、我々のアイデンティティの基礎を見出すのは。

※”seductress誘惑する女”という言葉は、フロイト英訳標準版の「Freud - Complete Works Ivan Smith 2000, 2007, 2010」PDF版で検索してみると二ヶ所現われる。

・Further Remarks On The Neuro-Psychoses Of Defence(1896)
・Introductory Lectures On Psycho-Analysis PART III (1917)


※追記

ジジェクによるヒッチコック『めまい』分析におけるファンム・ファタールをめぐる叙述(『斜めから見る』1991)。これは、上にあるヴェルハーゲの《どのファム・ファタールも自分や〈他者〉の利得のために演じる役割に疎外を感じている》をより詳細に記した叙述でありつつそれ以上のことが書かれている。ファム・ファタールは男の症状なのである。ドン・ファンが女の幻想でありうる場合があるのはつい最近見た(女性の「ドン・ファン」ファンタジー)。

とすれば、なぜ女の口からドンファンのたぐいの名があまり出て来ないのか・ ・ ・それは症状と幻想の相違である。

症状(例えば、言い間違いa slip of the tongue)は、それが起こったとき、不快や不満足をもたらす。しかしながら、我々は満足を以て解釈に応ずる。我々は他人に自分の言い間違いの意味を喜んで説明するのだ。「間主観的な認め合い」は、ふつう知的な満足の源なのだ。他方、我々が幻想に耽るとき(たとえば、白昼夢)、我々は測り知れない歓びを感ずる。とはいえ、今度は逆に、我々の幻想を他人に告白するのはひどく不快で羞恥を感じる。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

また寄り道をしてしまったが、以下、ジジェクのファム・ファタールである。

……出会った男たちすべての運命を左右する女であった自分自身が運命の犠牲者であり、自分では支配できない力の手中の玩具なのだと気づく…

彼女の魅力は、男たちの幻想空間の中で彼女が演じる役割に由来していた。彼女は自分が「糸をあやつって」いるのだと錯覚していたが、彼女は男たちの症候にほかならなかった。彼女が自分自身にとっても対象となるとき、すなわち、自分がリピドーの力どうしの相互作用における受動的な一要素にすぎないことに気づくとき、彼女は自分自身を「主体化」する。すなわち一個の「主体」となる。ラカン的な見方からすると、「主体化」はこのように、自分自身が一つの対象であり、「無力な犠牲者」であることを実感することと、密接な相関関係にある。「主体化」とは、自分のナルシシズム的な見せかけがまったくの無にすぎないという事実を直視するときの、われわれの視線の名前なのである。斜めp125-6
彼女たちは男たちを破滅に導くと同時に、自分自身の快楽への犠牲者でもある。権力欲にとりつかれ、男たちをたえず操るが、同時に、第三の、曖昧な人物の奴隷である。 …彼女が神秘のオーラをまとっているのは、まさしく、彼女を主人と奴隷の対立の中に明確に位置づけることができないからである。

彼女が強烈な快感に貫かれているように見えるまさにその瞬間、じつは恐ろしく苦しんでいるのだということが明らかになる。彼女がなにかおぞましい、言葉では言い表せないような暴力の犠牲になっているとき、突然、じつは彼女はそれを楽しんでいるのだということが明らかになる。p127

状況がしだいに自分の思い通りにならなくなるにつれ、…ヒステリー性の発作を起こし、次から次へと新しい戦略にとびつく。最初は脅迫したかと思うと、今度は泣き叫び、一体何がどうなっているのか自分にはさっぱりわからないと訴える。だが突然、ふたたびお高くとまった態度をとり、相手を見下す、といったことが繰り返される。要するに彼女は、たがいに矛盾した、さまざまなヒステリー的な仮面を次から次へと被ってみせる。この宿命の女が味わう最後の挫折の瞬間、彼女はもはや中身のない外被にすぎず、一貫して倫理的態度を欠いたてんでばらばらの仮面にすぎない。この瞬間、彼女の魅力は空中に霧散し、われわれに吐き気と嫌悪感だけを残す。その瞬間、われわれの眼には「存在しないものの影以外の何物も」見えない。p128
フィルム・ノワールにおける宿命の女の運命、すなわち最後のヒステリー性の発作は、「女は存在しない」というラカン的命題を見事に例証している。女は「男の症候」にすぎず、彼女の魅力が彼女の非存在の空無を隠しているが、最後に拒絶されると、彼女の存在論的整合性はたちどころに崩壊するのである。だが、まさしく非存在になったとき、すなわちヒステリー的発作によって自分の非存在を引き受けたとき、彼女はみずからを「主体」としてつくりあげる。 …宿命の女のいちばんの怖いところは、男を圧倒し、女の玩具あるいは奴隷にしてしまう、限度を知らない享楽ではない。われわれ男に判断力と道徳的態度を失わせるものは、魅力的な対象としての女ではなく、反対に、ずっとその魅力的な仮面の裏に隠れていて、仮面が崩れ落ちたとたん、あらわれてくるもの、すなわち死の欲動を全部引き受ける純粋な主体の姿である。 カントの術語を用いるなら、女が病的な快楽を体現しているかぎり、つまりある特定の幻想の枠内に収まっているかぎり、女は男にとって脅威ではない。われわれが幻想を「反転」させるとき、つまりヒステリー的な発作によって幻想空間の座標軸が失われるとき、脅威の真の姿があらわれる。いいかえれば、宿命の女のもつ真の脅威は、彼女が男にとって宿命的だということではなく、彼女自身の宿命を余さず引き受ける、病的ではない「純粋な」主体の一例を提示しているからである。女がこの点に到達したとき、男が取りうる態度は二つしかない。「自分の欲望を諦め」、彼女を拒絶し、自分の想像的・ナルシシズム的アイデンティティを回復するか、症候としての女に同一化し、自殺的な身振りによって自分の宿命に立ち向かうか…p128-9

※追記2

seductressではないが、最晩年の論文には、母が子どもを誘惑することをめぐって、次のように書かれている(邦訳は手元にないので英訳のまま貼付)。

”An Outline Of Psycho-Analysis”(Abriß der Psychoanalyse精神分析概説)ーー1940年出版であり死(1939)の後の出版である。

A child's first erotic object is the mother's breast that nourishes it; love has its origin in attachment to the satisfied need for nourishment. There is no doubt that, to begin with, the child does not distinguish between the breast and its own body; when the breast has to be separated from the body and shifted to the ‘outside' because the child so often finds it absent, it carries with it as an ‘object' a part of the original narcissistic libidinal cathexis. This first object is later completed into the person of the child's mother, who not only nourishes it but also looks after it and thus arouses in it a number of other physical sensations, pleasurable and unpleasurable. By her care of the child's body she becomes its first seducer. In these two relations lies the root of a mother's importance, unique, without parallel, established unalterably for a whole lifetime as the first and strongest love-object and as the prototype of all later love-relations - for both sexes. In all this the phylogenetic foundation has so much the upper hand over personal accidental experience that it makes no difference whether a child has really sucked at the breast or has been brought up on the bottle and never enjoyed the tenderness of a mother's care. In both cases the child's development takes the same path; it may be that in the second case its later longing grows all the greater. And for however long it is fed at its mother's breast, it will always be left with a conviction after it has been weaned that its feeding was too short and too little.









2015年5月25日月曜日

ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女

ボーシャ:……さあ、お選びください。
モロッコ大公:最初のは金の箱、銘が刻んであるな、「われを選びしものは、衆人の望みしものは得べし」。次は銀、これは約言か、「われを選びしものは、おのれにふさわしきものを得べし」。三番目は鈍い鉛だ、その警告もぶっきら棒だ、「われを選びしものは、おのれが持つものすべてを投げだすべし」。(シェイクスピア『ヴェニスの商人』 ――岩井克人訳 『ヴェニスの商人の資本論』より)

財産と美貌と美徳をかねをなえたボーシャは父から大きな遺産を受け継いでおり、亡父の遺志により、求婚者の中から、差し出された三つの小箱のうち正しい小箱を選んだ男を夫とすることになっている。モロッコ大公、アラゴン大公、バッサーニオが求婚者である。箱のひとつにはボーシャの絵姿が入っており、その箱を選んだ男がボーシャの婚約者となる。アラゴン大公は銀の箱を、そしてバッサーニオが鉛の箱を選ぶ。バッサーニオ曰く、《なかに何があるのか? (鉛の小箱を開ける。)美しきボーシャの絵姿ではないか!》

『ヴェニスの商人』の場合には、なにかモティーフの裏返しのようなものが現れている。

つまりここではひとりの男が三つの小箱を選ぶ。

これが夢のことならば、ただちにわれわれは小箱や小容器やボール箱や籠などと同様、その小箱もまた女性であり、女性における本質的なものの象徴、だから女性そのものなのだと考えたことであろう。(……)

(そうすれば)いまや一箇の人間的なモティーフ、すなわちひとりの男が三人の女たちのどれかを選ぶということが問題になっていることを知るわけである。(フロイト『小箱選びのモティーフ』)

フロイト『小箱選びのモティーフ』はシェイクスピア小論であり、『ヴェニスの商人』と『リア王』とにあらわれた三人の女について、最終的に次のように書かれている。

……ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

①母それ自身は金の箱

――「われを選びしものは、衆人の望みしものは得べし」。

②母の像を標準として選ぶ愛人は銀の箱

――「われを選びしものは、おのれにふさわしきものを得べし」。

③母なる大地は鉛の箱

――「われを選びしものは、おのれが持つものすべてを投げだすべし」


ところで、ドゥルーズは『マゾッホとサド』の「マゾッホと三人の女性」の章でこう書いている。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。

もちろんドゥルーズはフロイトの『三つの小箱』を参照しているわけだが、ドゥルーズ=マゾッホでは、金の箱、銀の箱、鉛の箱のそれぞれは次のようになる。

①子宮としてあり古代ギリシヤの娼婦としての母

②愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母

③口唇的な、死をもたらす母


これを①対象a、②ファルスの享楽、③〈他者〉の享楽とすることはできないだろうか(②③はそれでよさそうだが、①についてはやや無理があるか?)。





このラカンのセミネールⅩⅩ(「アンコール」)の第八章にある図は、ラカン派の論者でさえ言及することの稀な図だが、その稀ななかに、《RSI(現実界、象徴界、想像界)の三つの審級ordersに関して、享楽が取り得る異なった形を描写するためのもの》であり、剰余享楽a、ファルスの享楽Φ、〈他者〉の享楽(女の享楽)S(Ⱥ)という解釈があるのを少し前みた(アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方)。


Bryantのいうことをそのままとれば、すなわち次ぎのようなことになる。





フロイトの欲動理論の結論は、死は快楽の究極の形式だということだった。
セミネールXVII(「精神分析の裏面」)の冒頭近くで、ラカンはフロイトのJenseits(彼方、彼岸)概念をめぐって次ぎのように言っている、「人生は、自己流儀self-fashionedの死への廻り道であり、大抵の場合、人生は、急いで目標に到達するものではない。」

そもそも、S・シュナイダーマンの『ラカンの《死》』によれば、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていたとされる。

なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだらしい(伊藤正博「ラカンの《第二の死》の概念について」による)。

とすれば、上の図の真ん中の享楽(死)からの廻り道としての三つの形式、剰余享楽、ファルスの享楽、〈他者〉の享楽ということがいえるのだろうか(おそらく〈他者〉の享楽についてはやや異なるかもしれない)。

だが、いまはそれに触れない(ようするになにやらわかっていない)。ここではラカンのセミネールⅩⅦでの態度変更のあり様を指摘するポール・ヴェルハーゲの文を掲げておくのみにする。

より広くラカンのセミネールを眺めるなら、セミネールXVII(精神分析の倫理)はセミネールVIIに反した位置にある。そしてSeminar XI(四基礎概念)とセミネールXX(アンコール)のあいだの移行の場を占める。倫理のセミネールでは、享楽は現実界と捉えられ、それゆえ象徴界とは全く反対のものである。そこでは、享楽は法の侵犯を通してのみ到達し得る。精神分析の裏側S.17のセミネールでは、対照的に、享楽は侵入に関わる。さらに、ラカンは享楽とシニフィアンの原初的関係性を唱える。(Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006)

他にも、《反復は享楽に到ろうとする試みを基にしている》あるいは、《享楽は侵入を通して、身体に生じる。この侵入は徴を得る。〈他者〉の介入を通して、身体に刻印される。享楽への道を歩みつつ、人は不可避的にこの道に沿ってかねて勃然とした徴に従わねばならぬ》などとされる。

ここで、フロイトはすでに、どの母親も、子どもを世話しているとき「誘惑する」としていることを想起しておこう。すなわちこれが最初の〈他者〉mOtherによる「侵入」である。

いずれにせよ享楽は「侵犯」から「侵入」に変わったわけだ。セミネールⅩⅦは1969-1970年になされており、おそらくドゥルーズの『差異と反復』の影響による転回とも憶測されないではない。

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

とすれば象徴界と享楽のつながりが生じる。

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテールLituraterre」(Autres écrits所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S とJを永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊specterである。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際littorale」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテールLituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際littoraleがある」と言うとき、jouis‐senseの喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアンする形式signifying formula of enjoymentに縮減された文字のjouis‐senseを、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)


さてBryantに戻れば、彼は、ファルスの享楽については、明晰に説明している。

ファルスの享楽を現実界の審級からの逃走として考え得る。すなわち、逃走とは、シニフィアンの審級の本質的な不完全性あるいは非一貫性を覆うとする格闘なのだ。

もともとファルスの享楽は、フロイトの快原則の此岸の享楽で、代表的なものは性的オーガズムである。

だが、剰余享楽と〈他者〉の享楽のBryantの説明は、わたくしには曖昧のままだ(これは別の論者を参照にして、そのうちもう少し詳しく書く予定? たぶん)。

我々は、ラカンが対象aを見せかけsemblanceの用語で言及した理由が分かる。対象aが見せかけならば、それは、有beingあるいは完全性を約束するからであり、同時になぜ存在existしないかの理由も与えてくれる。

同じように、ファルスが現実なら、それは現実が幻想の枠組みを通して接近される限りで、一貫的で完全な社会秩序の錯覚illusionを生み出すからである。

ラカンはセミネール11(『精神分析の四概念』)にてこう語った。我々が夢から目覚めるのは、まさに、真理、現実界、あるいは〈他者〉の去勢に接近したときである。目覚めて、幻想の中に居続けるのだ。すなわち、真理あるいは現実界 realから、幻想の中にかつ幻想を通して構造化された現実realityび逃れるのだ。

最後に、〈他者〉の享楽、あるいは女性の享楽が真理とつながっているのなら、それが、享楽の源として、〈他者〉の欠如S(Ⱥ)、その不完全性を取る享楽の唯一の形であるからだ。


(そのうちおそらく続く)


※「侵犯」と「浸入」をめぐっては、されに一歩進んだジジェクの見解がある。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』ーー「ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行」)


2015年5月22日金曜日

女性の「ドン・ファン」ファンタジー

以下、メモ。

よく知られているように、ドン・ファンはあらゆる類の女性たちと寝た。金髪であろうが茶髪であろうが、長身であろうがチビであろうが、デブであろうがヤセであろうが、ババアであろうが若かろうが、上品な女であろうが農婦であろうが、淑女であろうが家政婦であろうが、なんでもありだ。解釈者たちの何人かーーそこにはキルケゴールも含まれるがーーは指摘する、これをドン・ファンの「多様なメニュー」好みと理解するのは間違っていると。

ドン・ファンの態度を可能にしているのは、むしろ、すべての違いに対する無関心である。ドン・ファンの規範はヴァラエティではなく、反復である。彼が女たちを誘惑するのは、彼女たちが何か特別であったりユニークであったりするせいではなく、彼女たちが共通に持っているもののせいだ。それは彼女たちが女であるという事実である。(アレンカ・ジュパンチッチ ALENKA ZUPANCIC, Ethics of the Real 私訳)

ーーという前提で以下の文を読もう。

女性が失恋したとき、悲しみへの没入、あるいは自傷行為さえもしばしば起こる。とはいえ、どうしてこの喪失がそんなに絶望的な反応を引き起こすのだろう? ラカンに依拠しつつ、コレット・ソレールは、それは女性の享楽の特質のせいであると主張する。人は女性のなかに選択された愛への特別な呼びかけを見出す。それはファルスの享楽と女性の享楽のあいだの不調和を解消し得ない。

女が確立した愛の関係において、彼女はつねに〈他者〉である。すなわち彼女自身に対しての〈他者〉なのだ。「愛は彼女から立ち去る。そのとき、彼女の他者性とともに独りぼっちだ。しかし少なくとも、愛が齎した〈他者〉は、彼女の愛人の名ともに彼女を刻印する。ロメオによってジュリエットは永遠化され、トリスタンによってイゾルデ、ダンテによってベアトリーチェ…。私たちはこの事実から推しはかることができる、女にとって、愛の喪失は、フロイトが還元してしまったファリックな局面を超えたものだということを。愛を喪ったことで女が喪失したものは、彼女自身、〈他者〉としての彼女自身なのだ。」(Colette Soler, “A ‘Plus' of Melancholy 1998)

女性の享楽が、女たちを現実界に、なかんずく象徴界の欠如に、一層ずっと近づけることになるとしたら、--象徴界の欠如は不可解なあるいは憂鬱な状態をもたらすかもしれないがーー女たちはそれにもかかわらずまた、〈他者〉の欲望において彼女たちの場所は何なんだろうという問いに関心を抱く。そしてこの欲望について自らを安心させるために、女性たちはパートナーを二重化することに没頭する。けれども、このような女たちは、しばしば一人の女だけには専念できない男たちを求める。どうしてそれが起こるのだろう?

女、絶え間なく自分は男の愛の対象であるかどうかを問うている女は、男に欠けたファルスとして自身を顕す。逆説的に、女が男たちの欲望と彼らのファルスの力についての関心への応答を見出すのは、ドン・ファン幻想においてである。それはラカンが指摘したように、本質的に女性の幻想である(Seminar X, March 26, 1963; Seminar XX, 15/10)。

女たちにとって、この幻想は、最初からソレを持っている少なくとも一人の男がいること、つねにソレを持っており、決してソレを失わない男がいるというものだ。その意味は、どの女も彼からソレを奪えないということである。女たちはしばしば心配する、男が他の女と一緒にいるとき全く我を忘れてしまうことを。ドン・ファン幻想は、決して我を忘れない一人の男が少なくともいることで女たちを安心させる。

このように、ドン・ファン幻想は、女たちに請け合ってくれるのだ、男の欲望の対象は、本質的に彼女たちに属するものであり、喪われ得ない何ものかだと。女たちとドン・ファンはここでは共通の何かがある。誰もが女たちからドン・ファンから対象を奪い取れない。というのは、誰もが最初からはソレを持っていないから (Seminar X, March 26, 1963)。

愛の厄介な問題を取り扱うために、男女ともしばしば彼らのパートナーを二重化し、安定したパートナーと手の届かない愛人の形象にする。しかしながら、この二重化は二つの性で異なった役割を果たす。男たちがしばしばパートナーを二重化するのは、彼らの欲望の対象が、何か本質的に彼らを怯えさせるものだからだ。これがために、男たちは、日常生活を統制する自ら課した禁止や儀式にあんなにもへばりつく。

女たちがパートナーを二重化するのは、〈他者〉の欲望において彼女たちはどんな種類の対象なのか全くはっきりしないからだ。そのため、女にとって、彼女に情緒的に興味をもつ一人以上の男がいることを幻想する。しかしながら、逆説的に、女が対象aとしての彼女自身の価値について最も安心感を覚えるのは、最初には彼女を実際には欲望することの決してない男(ドン・ファンのような)について幻想することによってである。(Renata Salecl,Love Anxieties 2002 私訳)

※この論の書き手Renata Saleclはジジェクの元妻(前々妻)である。

途中、「ソレ」と訳した語は英訳では”it”であり、通常はファルス(象徴的ファルス)であるが、ファルスとはもちろん欠如のシニフィアンである。

また、《男たちはしばしばパートナーを二重化するのは、彼らの欲望の対象が、何か本質的に彼らを怯えさせるものだからだ》とあるが、これは次ぎの文とともに読むと分かりやすい。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL)


※附記

象徴秩序、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者〉を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムとしての象徴秩序は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。それ故、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二項対立の論拠、ある者かそのある者でないか、を適用することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe、Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2002 私訳)
性の差異が、ファルスのシニフィアンにどう関係するのかのパラドックス…。我々がシニフィアンとしてのファルスを考えるとき、そして能力、肥沃性等々のイメージ(シンボル)としてのみ考えるのではないとき、我々は先ずは次のように考えるべきである。すなわち、ファルスとは、女性はペニスが欠けているといまさにその事実のせいで、彼女に属する(もっと正確にいえば、母に属する)何かだと。

だから、こうではないのだ、最初の瞬間、男は「それを持っている」、そして女は「持っていない」、そして次の瞬間、女は「それを持つ」ことを幻想する、ーーこうではない。ラカンは『エクリ』のまさに最後のページでこう書いている、「母のペニスの欠如が、《ファルスの特性natureが現れる場処である》。我々はこの指摘を最重要なものとして扱わねばならない。それはまさにファルスの機能とその特性を区別するのだから」( Miller, “Phallus and Perversion”)

そしてここである、我々が、フロイトのフェティッシュという人を迷わす「ナイーヴな」概念を修復すべきなのは。それは、主体が女にペニスの欠如を見る前に見た最後のものとしてのフェティッシュである。フェティッシュが覆うものは、単純に、女におけるペニスの不在ではない。そうではなく、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者」的な意味で、差延的differentialであるという事実だ。

ファルスのシニフィアンをこのような複雑な概念にしているのは、象徴界、想像界、現実界の局面が絡み合っているだけでなく、「否定の否定」の過程を不可思議にも模倣するような二重の自己再帰段階があるからだ。それは三つの水準に要約される。

(1)ポジション:喪われた部分、主体がシニフィアンの秩序に入る(あるいは帰順する) とともに喪いかつ欠けてしまった何かのシニフィアン。 (2) 否定:この欠如のシニフィアン。 (3) 否定の否定:欠如する/喪うlacking/missingシニフィアン自体。

ファルスは象徴界への入場に伴って喪われた(犠牲にされた)部分である。と同時に、この喪失のシニフィアンである。 (このように、ファルスのシニフィアンと父の名、父の法のあいだにはリンクがある。ここでもまた、ラカンは同じ自己再帰的な反転を成し遂げている。父の禁止はそれ自体禁止されなければならない、と)。なぜこれはそうなのだろう? なぜ禁止自体が禁止されなけれならないのか? 答えは次の通り。すなわち、「メタ言語はない」から。……(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 テキトウ訳)

※なお、《ファルスの用語に関して、ラカンは、セミネールⅩⅩにて、ファルスを、シニフィアンとシニフィエ (S/s)のあいだの横棒と同じものとして扱っているのに注意しよう》(Bruce Fink  “KNOWLEDGE AND JOUISSANCE ”)ーーこれをめぐっては、「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」を見よ。


2015年5月21日木曜日

「沖合いはるかな遠い未来のなか」へ送りだされたラカン理論

《もし〈女〉が存在するのなら、彼女は〈他者〉の〈他者〉である》(ジジェク)

女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function—を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの、集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。((ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)

ラカンの「女は存在しないLa femme n'existe pas」の「存在しない」とは象徴界(シニフィアンの水準)には存在しないということだけであり、現実界にはもちろん存在する。ラカンはそれを外-存在と呼ぶ。女は外-存在する。そして〈他者〉の〈他者〉も外-存在する。

ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)(フィンク,The Lacanian Subject)

…………

《ラカンは生前、自分の考えは50年経ったら理解されるようになるだろうと言っていた》(向井雅明)そうだが、反対に精神分析は時代遅れになったという「精神分析の追悼式」的言説も跳梁跋扈している。

たしかに心の病を治療するという側面からは、認知科学や神経生物学の進展の影響、あるいは薬物療法や行動療法によって、しだいに取って代わられる領域が増える傾向は、今後もさらに目立っていくだろうことをいまさら否定してもはじまらない。

だが、ラカンにとって、「精神分析のいちばんの基本」は、

心の病を治療する理論と技法ではなく、個人を人間存在の最も根源的な次元と対決させる理論と実践である。精神分析は個人に、社会的現実の要求にいかに適応すべきかを教えてくれるものではなく、「現実」なるものがいかにして成立しているのかを説明するものである。精神分析は、人がいかにして人間の現実内に出現するのかを説明する。ラカンの見方からすると、神経症、精神病、倒錯といった病理学的形成物は、現実に対する根本的な哲学的な姿勢がもつ威厳をそなえている。私が強迫神経症にかかっているとき、この「病」が、現実に対する私の関わり全体を彩り、私の人格の全体的構造を規定している。他の精神分析的アプローチに対するラカンの批判の核心は、彼らの臨床的方向性に関わっている。ラカンにとって、精神分析療法の目的は患者の幸福、社会生活の成功、自己実現ではなく、患者をその欲望の基本的座標と行き詰まりに対決させることである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』「はじめに」)

ーーとあるようにこれらの側面、とくに「哲学的」な側面は、場合によったら、《50年経ったら理解されるようになるだろう》ということはあるのかもしれない。1981年に死んだラカンだから、この言葉を真に受ければ、まだ15年ほどかかるということになる。

そもそもどうしてこういうことがないわけがあろう、偉大な発見は、100年、200年以上かかった後に理解されるという事例は、歴史上あまたある。ラカン理論がそれにあてはまるかどうかは誰もがわからないだけだ。

……天才の作品がただちに賞賛をえることの困難なのは、それを書いた天才その人が異例であり、ほとんどすべての人々が彼に似ていないからである。天才を理解することができるまれな精神を受胎させ、やがてその数をふやし、倍加させてゆくのは、天才の作品それ自身である。ベートーヴェンの四重奏曲(第12、第 13、第14および第15番の四重奏曲)は、それを理解する公衆を生み、その公衆をふくれあがらせるのに五十年を要したが、そのようにして、あらゆる傑作の例にもれず、芸術家の価値にではなくとも、すくなくとも精神の社会に―――最初この傑作が世に問われたときには存在せず、こんにちそれを愛することができる人々によってひろく構成されている精神の社会―――一つの進歩を実現したのは、ベートーヴェンの四重奏曲なのである。人々がいう後世とは作品の後世で ある。作品自身が(……)その後世を創造しなくてはならないのだ。したがって、作品が長くとっておかれ、後世によってしか知れれなかったとしたら、その後世とは、その作品にとっては、後世ではなくて、単に五十年経ってから生きた同時代人のあつまりであるだろう。だから、芸術家は自分の作品にその独自の道を たどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」より)

…………

以下、ジジェクの記するラカンの「哲学的」側面の説明を一部掲げる。

存在論と男女の相違のあいだの繫がりがあることについて何も驚くことはない。前近代のすべての宇宙観の特質は、男性原理と女性原理のあいだの根源的相克の用語で世界の起源を説明しているではないか(陰陽、光と影、天と地…)? (……)

我々が、世界の近代的「幻滅」と呼ぶものは、数学化された科学にて接近し得る意味のない冷たい「客観的現実」と、我々が現実に「投影する」意味と価値の「主観的」世界のあいだのギャップの(根拠薄弱な)主張にかかわるのみではない。このギャップの底に横たわっているのは、現実の脱-性別化de‐sexualizationである。

ラカンの成果は、この背景に対してのものとして、評価されるべきだ。彼が重ねて力説したのは、近代科学領野内での性の相違の存在論的ontologicalステイタスである、ーーいかに前近代的神話に退行せずにこれを成し遂げ得るか、と。すなわち、近代の超越論的哲学にとって、性の相違は、脱存在論化されている。人間の存在的ontic領域に還元されてしまっている。もし人がそれを存在論化すれば、人は「擬人観anthropomorphism」と非難される。すなわち世界の上に、人間のたんに経験的(生物的かつ心的)な特徴を投影しているだけだと。

これが、カントの超越論的主体もハイデガーの現存在Daseinのいずれも性化されていない理由である。ハイデガーの「現存在」分析において、彼は全くセクシャリティを無視している(典型的なのは、哲学者がフロイトの「去勢」のような概念を取り扱うとき、彼らはそれを、我々の有限、限界、無力等の存在論的ontologicalア・プリオリにとっての存在的ontic隠喩として読む)。

とすれば、ラカンは、前近代の性化された宇宙に退行せずに、いかに性の相違の再存在論化を成し遂げたのか? はっきりしているのは、ラカンにとって、「セクシャリティ」とは人間の現実の個別的な存在的ontic領域ではないことだ。それは置換、歪像的ひずみなのであり、その地位は厳密に形式的である。どの人間的現実の「領域」も「性化」され得る。それは、セクシャリティがとても「強力」で、他のすべての領域へ波及し汚染するからではない。そうではなく、まさに反対の理由である。すなわち、セクシャリティはそれ自身の「正しい」領域を持っていないためであり、原初的に「箍が外れている」ためである。それは構成的な裂け目、不調和によって徴づけられている。

この袋小路を最初に詳述した哲学者(もっとも彼は、勿論、性の相違との繫がりに気づいていなかったが)、それはカントである。すなわち。カントが『純粋理性批判』で、純粋理性のアンチノミーの「存在論的スキャンダル」を描写したときである。我々が現実に接近するために使用する基本の存在論的-超越論的枠組みの内的非一貫性であり、「数学的」アンチノミーは、女性の立場を特徴づける袋小路を表し、「力学的」アンチノミーは、男性の立場を特徴づける袋小路である。

カント自身は、我々が見てきた通り、自らの大発見の過激性に直面し身につけることは出来なかった。彼は究極的にはこれらのアンチノミーを単に認識論的な地位として伝えるのみだった。…(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012 私訳)

ーーカントの数学的アンチノミー/力学的アンチノミーについては、「資料:ラカンの男性の論理と女性の論理/カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)」を見よ。

簡略に記せば、男性的アンチノ ミーは〈例外〉を伴う〈不完全性〉の障害、女性的アンチノミーは境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の障害なのであり、それは否定判断/無限判断の二項でもある。

『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題 P95-96)
カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。

「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。

この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。

同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

以下は、ラカンの性別化の式をめぐって女性の無限判断の説明がなされている箇所を、再度ジジェク2012から掲げておこう。

ラカンの否定の否定は、"性別化の式"の女性の側に位置し、非全体non‐Allの概念にある。例えば、言説でないものは何もない。しかしながら、このnon‐not‐discourse (言説の二重否定)は、すべては言説であるということを意味しない。そうではなく、まさに非全体non‐Allは言説であるということ、外部にあるものは、ポジティヴな何かであるのではなく、対象a、無以上でありながら、何かでなく、一つのものではないmore than nothing but not something, not Oneということだ。別の例を挙げよう。去勢されていない主体はない(性別化の式の女性側では)。しかし、これはすべての主体が去勢されていることを意味しない(非去勢の残余は、もちろん対象aである)。この二重否定において、われわれが触れている現実界とは、カントの無限判断に関連しうる。述語否定の肯定affirmation of a non‐predicateである。"彼は不死である"は、彼が生きていることを単純には意味しない。そうではなく、彼は死んでいないものとして、生きている死として、生きているのである。"彼は不死である"とは、non‐not‐dead(死の二重否定)なのである。同様に、フロイトの無意識とは、不死のようなものである。それは単純に意識しないnot‐consciousことではなく、non‐not‐conscious(意識の二重否定)なのである。そしてこの二重否定において、それはただ存続しないことの否定no not only persistsではなく、強められさえするのだeven redoubled。不死は、死に非ずnot‐dead生に非ず not‐aliveの状態として生き続けるremains。同様に、対象aとは、non‐not‐object(対象の二重否定)ではないだろうか。そしてこの意味で、空虚を具現化する対象ではないだろうか。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012 私訳)

<女>のシニフィアンは象徴界には存在しない。だがらいっそう強められてeven redoubled、象徴界の非全体の領域に外-存在するのだ。これはラカン理論など知らなくても、誰でもがそれとなく感知しているはずだ。

ラカンの若い友人であったソレルスの『女たち』の最初頁にある文は、けっして冗句ではない。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …

…………

※附記

◆向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」より(参照:アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方


女性には例外的な父親の場所はなく


すべての女性と言えるような全体化もない。

つまり女性は一人一人個的で違った存在であり、 個別に女性ということを確認して行かなければならないのである。ここに女性であることに固有の困難がある。なぜなら、女性には、男性がそれを基準に自分は男性であると言えるような、例外的存在が欠けており、各自一人一人が女性という立場を確立しなければならないのである。例外的存在が欠如してもΦの機能、すなわち去勢は各々の女性が受け入れているのであるから精神病とは区別されるのであるが、峻厳な父親像の欠如は、しばしば、男性側の目からすると狂気と映り、男性の軽蔑を買うのである。

ラカンはエディプスの彼方に女性を見ようとする。女性においては、例外的父親がなくても一応の主体的統一が得られる。これは男性のようなひとつの総体をなさない非総体的な統一であり、いかなる理想像も必要としない。

これが男性と異なった女性の特徴なのである。この文は、1990年代半ばに書かれており、いささか古い側面がないでもないが。

エディプスの斜陽が極まりつつある現在には、男性側にも「峻厳な父親像」などなく、男性の女性化が進んでいるといってよいのかもしれない。父性隠喩が不成立であれば、「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった連中は、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(ラカン、E566)ということになる。

とはいえ、古典的には次ぎのようなことであり、現在も女に比べれば、男のシニフィアン、スタンダードはないわけではないだろう。

母たちが小さな天使の未来を心配して、彼女たちの理想の男を参照して息子を判断し、ふつうは、男のスタンダードを体現するよう息子を押しやる(コレット・ソレール Collet soller 『What Does the Unconscious Know about Women?』2002)

いずれにせよ男のスタンダードはかつては厳然とあったし今もなんらかの形であるだろうが、女のスタンダードはかねてよりない。

男性側には、エリック・ロランの言い方をすれば("Psychosis, or Radical Belief in the Symptom" 2012)、「父の名」はなくなったかもしれないが、「ふつうの父の名」はある。

父の機能は、ユルんだにしろ、まだ生き残ってるさ。より普通の地位の父だがね…オヤジ言葉で印象づけたり驚かしたり父がいるじゃないか…ミレールが言ってるが、現代の政治家だって、道化ているが、印象づけようとしているぜ…これが「普通の父の名」さ。(エリック・ロラン 超訳 2012)

他方、女性側には、愛されるような女になりなさいという類の個別的な要請があるだけだろう。

再度、女流分析家の第一人者と呼ばれるコレット・ソレールの表現なら、,女たちは、他人を或いはとくに男を魅了させる「トリック」を幼い頃から学んでゆく。

〈他者〉を欲望させる能力、これは女性たちの特徴だが、それは無意識の干渉から逃れてはいない。…彼女たちのやり方は、〈他者〉の要求に適うよう仮装することだ。知られざる欲望を捕獲しようとして、そうする。

私はここで数多くの臨床上の事実を掲げることができる、女性たちが言ったことを正確に…。母に対してのことさら目立った不平はーー母のあら探しをするのだがーー、女性の才智savoir-faire を娘に伝えてくれなかったというものだ。

この不平は、もちろん、いつもそのものズバリにされるわけではない。たいていは換喩の迂回路をとって、あれやこれやのあら探しとなる。ある女性の場合、母は美味しい料理の秘密を教えてくれなかったと不平を言ったが、これが意味するのは、男を魅了させる「トリック」を伝えてくれなかったということだ。

私はまた、ヒステリー者の、彼女の〈他者〉への従属に対する頻発する抗議にも言い及ぶことができる。彼女の自立の夢は、疎外された自己の水準における相似物以外の何ものでもない。その疎外は、彼女の疎外されたい(同一化したい)という要求から生まれているのだ。(同 Collet soller)

もっともここでは、コレット・ソレールは、女性のヒステリー的側面を語っているのであって、ラカンの性別化の公式における女性の論理を直接に語っているわけではない。この論文ではなく、別の書物において(『What Lacan Said about Women』2003)、彼女は、次ぎのようにヒステリーと女を分けて示している(ここでは説明抜きにこの図のみを掲示する)。



ーーここでコレット・ソレールはヒステリーは男性の論理とほとんど言っているはずだが、これもまた種々の見解があるので、曖昧なままにしておく。

さて最後に、男性の論理/女性の論理の相違のあり方を簡潔に述べたポール・ヴェルハーゲの文を掲げておく

〈女〉は、象徴界には、存在しない。〈男〉は、いやというほど存在している。男と同じように、女は自身を、〈他者〉のファルスのシニフィアンに疎外しなければならない。男は、ファルスのシニフィアンとS1との関係性のせいで、「自然に」シニフィアンとの同一化の方向へ向かう。彼は疎外に囚われる。〈女〉もこの疎外関係を同じように知っている。しかし、同時に、彼女は、対象aと享楽への特別な関係を楽しむ。この二重の関係性のせいで、女は、まさに女になる過程で、「自然に」彼女自身の何かを創造する。この意味で、ラカンの治療の結論ーー症状の現実界との同一化、享楽の選択、そして新しい主体の創造ーーは、女性性の系列に全き位置する独特の過程である。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. 2002 私訳)

ここでヴェルハーゲはS(Ⱥ)という記号をいわずに、「対象aと享楽への特別な関係」としていることに注目しておこう(S(Ⱥ)=S(a)ともできるとするフィンクの見解は以前に見た。それはȺ=aでもあるだろうが、このあたりはこの性別化の式がラカンによって示された以降(『セミネールⅩⅩ』以降)の議論にもかかわるので割愛)。





念をおしておけば、最も基本的なことは、人が、男性の側(左側)、女性の側(右側)に位置するのは、生物学的な男/女とはまったく関係がない。男でも女性の側に属するタイプはいるし、逆もまた真である。参照:アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方)。

ただし、実際上、女性の論理に属するのは、生物学的にも女性が多いだろうというのは、ほぼラカン派内のコンセンサスがあるようだ。





2015年5月20日水曜日

我々は他者を憎むことを愛する/他者を愛することを憎む




《出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている》(プルースト「逃げさる女」)




若い娘たちは若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいだいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう! (プルースト「ゲルマントのほう Ⅱ」井上究一郎訳P148)




《逃げ去ったら、なんでもない平凡な人間でも魅惑のオーラを発するようになる場合がある。》(ジジェク)




フロイトの快原則の彼岸の発見はエロスとタナトスの対立に帰結する。それを理解するには愛と闘争のタームで理解すべきだ。エロスはより大きな統合へのカップリング、合同、合併を追い求める(自我の主要な機能としての合成を考えてみよ)、反対に、タナトスは切断、分解、破壊を追い求める。(Paul Verhaeghe 、BEYOND GENDER. From subject to drive、2002 私訳)



アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 1937人文書院 旧訳



エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを渇望する。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることに向かう。ここでの満足は同時に緊張を生む。というのは主体は自身において存在することを辞め。〈他者〉との融合へと消滅してしまうから。だがここでタナトス欲動が起動する。主体は自律へ、〈他者〉から分離へ、と促される。…

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルだ。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject 2005 私訳)




フロイトの“無意識”とは、……まさに反射性のなかに刻みこまれる。例をあげよう。だれかこの私がヒッチコックの映画の悪党のような人物を“憎むことを愛する”。私は一見この悪役を憎むだけだ。にもかかわらず無意識的には私は(彼を愛しているわけではない、しかし)彼を憎むことを愛するのだ。すなわち、ここにある無意識とは、わたしは反射的に私の意識的な態度に関連させる方法なのだ。(あるいは逆のケースをあげよう。だれかこの私は“愛することを憎む”。フィルムノワールのヒーローは、悪魔的な宿命の女(ファムファタール)を愛さざるをえない、しかし彼女を愛することを彼自身は憎んでいる)。これがラカン曰くの人間の欲望はつねに欲望することを欲望することだの意味である。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)




《人が何かを愛するのは、そのなかに近づくことのできないものを求める場合だけだ。所有していないものしか人は愛さない》(プルースト「 囚われの女 Ⅱ」)

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から“彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの”、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳)

※ 絵画画像は、下から三つ目(ムンク)を除いて、エゴン・シーレの作品。



2015年5月19日火曜日

天上界の美

あら、海猫沢めろんさんって、おどろくほど美形なのね





アタシの若いみたいだわ、ーーあら、ウソっぽいかしら? だったらボクチャンが若いころ惚れこんだ祇園のチーマママみたいだわ

ーーさすがにこの顔は美しい、ここには、内的な優美の玄関口にあたるという個所に肉体的醜悪がない、鼻翼は繊細で、完全なデッサンを描き、あたかもコンブレーのまわりの牧場の花の上にとたっている小さな蝶のようだ、(プルースト「ゲルマントのほう Ⅱ」P175)

“天上界の美”、“完全無欠”の美人美輪明宏(丸山明宏)みたいだわ




丸山君、君には1つだけ欠点がある。 それは君が私に夢中にならないことだ(三島由紀夫)



たまたま私がクラブでダンスをしたときに、冗談をいったんですよ。あのころ、肩パットが入ってる背広が流行してまして、ふたりで踊っていて「あらパット、パットパット、三島さん行方不明だわ、どこいったの?」っていったんですよ。(……)

「俺は不愉快だ、帰る」って真っ直ぐにお帰りになったの。それっきり音信が途絶えてたんですよね、で、ある日電話がかかって来て「出て来い」って。「どこにいらっしゃるんですか?」っていったら、後楽園にいるっていって、後楽園でボディビルをやってらして…。あのかたは、こうと思ったら絶対なさる方だから。(美輪明宏が語る天才作家・三島由紀夫


現代版美人だから、気品に劣るのはやむえないわ、受け狙いの時代だから





ああ、でもこんなひとなら、ためしてみたいわ




「オカマというのはよがりますよね。枕カバーがベットリ濡れるくらい涎を流したりするでしょう。するとやっているうちに、こっち側になりたいという気になってくる。だからオカマを抱いちゃうと、大体一割くらいのケースで、オカマになりますね。」(野坂昭如)




ある人たち、おそらくはもっとも内気な少年期を送ったと思われる人たちにとっては、彼らが相手から受ける快楽の肉体的種類はあまり問題ではない。その快楽を任意の男性の顔にむすびつけることさえできれば。一方、またべつの人たち、おそらくもっとはげしい官能を抱く人たちは、彼らの肉体的快楽が、厳とした配置決定、つまり強い定着化をもつことを求める。この種の人たちは、その告白によって、世間一般の人々にショックをあたえるだろう。彼らはもっぱらサトゥルヌスの星座のもとでだけ生きるとはかぎらないだろう、なぜなら彼らは、まえにあげた第一種の男たちの場合のように女性を全然受けつけないというわけではないからだ。第一の男たちにとっては、女性は、会話や、あで姿や、頭脳の恋以外には存在しないのである。しかし第二の男たちは、女性を愛する女たちを求める。そういう女たちは、誰か若い男をつかむ機会をあたえてくれるし、その若い男とともにする快楽を増大させてくれる。そればかりでなく、彼らは、男を相手にしている場合とおなじ快楽を、同様に、彼女らを相手にして味わうことができる。以上のことから、つぎのようなことが生じる、すなわち、嫉妬は、第一の男たちを愛する男にとっては、自分の愛する相手が他の一人の男にたいして味わっていると思われる快楽によってしか刺激されない、そしてそのような相手の快楽のみがうらぎりであると思われる。それというのも、第一の男たちを愛する男は、女たちとの愛に興味を感じないし、女たちとの愛を実行したとしても、それは単に習慣として、結婚の可能性を残す手がかりとしてであるにすぎなかったのであって、そういう男としては、女たちとの愛があたえる快楽を想像することができない結果、愛する相手の男たちが他の快楽を味わうことに堪えられないからである。それにくらべて、第二の男たちは、女たちとの愛によって嫉妬心をそそる場合が多い。なぜなら、第二の男たちは、彼らが女たちとむすぶ関係のなかで、一種の女性の役割を演じるからだ、つまり、女たちを愛する女を相手にして、もう一人の女性の役割を演じるからである。そのとき同時に、相手の女は、当の男たちが男性のなかに見出すのとほぼおなじものを彼らにあたえるのである。その結果、第二の男たちに嫉妬する人間は、自分にとってほとんど一人の男性にひとしい女のために、自分の愛する相手がーー第二の男たちがーー釘づけにされているのを感じると同時に、愛する相手がほとんど自分からのがれさってゆこうとしているのを感じて苦しむ、なぜなら、そんなとき、自分の愛する相手は、女たちとの関係のなかにひきこまれて、自分になじみのない何物か、つまり一種の女性になってしまっているからである。(「ソドムとゴモラ 一」井上究一郎訳)

同じ大阪生まれで海猫沢めろんと仲がいいらしい川上未映子ってヤッてるのかしら?




いくら旦那の阿部和重のほうが小説書くのずっと上手いったって、オコトは男前が肝腎よ




いい声だしそうな顔だわぁ

そして突然夢のなかでサン=ルーは愛人がいつものくせのように官能の瞬間に規則正しく間歇的に発するあのさけび声をはっきり耳にしたのであった。 (プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」)




夢の臍、あるいは菌糸体

@kumatarouguma · 5月12日
↓脳科学がここまで進歩している現状で、今における「夢判断(フロイトの現代は夢解釈)」が書かれないのは本当に不思議だ。あれ記憶だか妄想だかもわからない。あの夢という映像装置は何なのか、主観でしかないのに自発性は何もない。かなり奇妙なものだとおもう。誰か21世紀フロイトになってくれ
檜垣立哉RT@hitsujiaruki

いなかったところにいたことになったり、未だ嘗て感じたことのないものを思い出したり、写真や夢はすごいなぁ。

――との檜垣立哉氏のツイートに以前めぐり合って、ははあ、「脳科学」か、精神分析と脳科学は敵でもあり味方でもあるからな、どんなふうに最近は進歩しているのだろうとは思いつつ、そのままほうってあった。

だが昨晩、ふたたびこのツイートのRTにめぐり合って、檜垣立哉氏のこのツイートの前後をさぐってみることにした。

@kumatarouguma

私の夢に対する徹底的な謎

・同じ場所の繰り返し出現があるが私の個人的自発的記憶ではそのような場所はない(すくなくとも意識的に憶えてはいない)。

・ものすごく精緻な電気配線やものすごく流暢にフランス語をしゃべっていたりするが、私にはそのような電気配線の記憶はないし、そんなに流暢にフランス語がはなせるわけはない(いわゆる写真的録音的記憶があり、意図的自発性なく開放されるのか)、それともたんにありありと、流暢に、消えたり喋っていたりしたとおもっているだけなのか。

・自分が死んでいる夢がある、これは何度も書いたが、自分で自分の心だ場所をみにいく、国道沿いの寂しい場所で焼け焦げているが、とくに悲しいとか寂しいとかそういう情動はない。たんたんと観察している。焼け焦げているが事故なのか自殺なのかさっぱりわからない。ただただ無情動でそれをみている(さらにそのあと、死んだので大学はクビだなとおもって、新しい職場をどうするか考えて就職活動を初め、昔教えていた大学にいったりする、死んでいるのだからもう働く必要はないとおもうのだが・・・まあなんとなくロジカルなもののねじれはよくわかる。が、その昔の職場にいくと、昔かよっていた小学校で、今の大学の先生が教えていたりする。これはよくある夢イマージュの圧縮だな。

これは、「脳科学」どころではない。シツレイながら、――わたくしの思い込みならーー、フロイトの『夢判断』を読めていない。ドゥルーズ研究者の一人者ともいわれる専門家でも専門以外の分野では、このようにナイーヴなのか? いやツイッターというのはそもそもそういう囀りをするところではあるのだろうが。

精神分析からの脳科学やらニューロサイエンスに対する主要な異議は、脳科学では欲動、――すべての欲動は潜在的には死の欲動である(ラカン「エクリ」)――すなわち死の欲動やら享楽――欲動とは享楽の漂流である(ラカン「アンコール」)――があつかえないというものだ。とすれば、ドゥルーズにも「死の欲動」概念が頻出するわけだが、ダイジョウブかね、檜垣さん・ ・ ・

《精神分析は「決定論的」(「私がすることは、無意識の過程に決定されている」)ではない。……

「死の欲動」が意味するのは、有機体は、もはや十全には、環境によって決定されない、すなわち、自律的行動の円環へと外破/内破するということだ。》(ジジェク LESS THAN NOTHING 2012)

以下の文は、「死の欲動とは?」と、そのまますることはできないかもしれないが、それに近いものとして読める。まずはラカン派の臨床医でありながら、ニューロサイエンスにも造詣が深いポール・ヴェルハーゲの文を引こう。

すなわち象徴的秩序以外の審級である。この点で、すべての啓蒙形式はなにかが不足している。それは治療においても同様である。言葉にできない何かがある。その何かを表わすには言葉が欠けている。もともとフロイトはこれをトラウマ的経験と考えた。だが後に彼はそれを"mycelium(菌糸体)"、“われわれの存在の核”、“原初に抑圧されているもの”と呼んだ。(Paul Verhaeghe「Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility」
私は既に、無意識の核は「分析」にフィットしないことを論証した。無意識のうちの表象された部分のみが分析されうるのである。フロイト以後、症状symptomは防衛をベースに説明されてきたのだが、そこでは抑圧が特権的な位置を占める。忘れられてしまっているのは、抑圧自体は病因のダイナミズムの二次的重要性しかもたないということだ。実際は、抑圧は欲動の表象されたシニフィアンを処理しようとするメカニズム以外のなにものでもない。フロイト自身、症状の二重の構造を認めていた。一方は欲動であり、他方は象徴的なものである。同じ論法が夢にも当てはまる。ことさら驚くことはない。夢は症状なのだから。(Paul Verhaeghe『BEYOND GENDER』「DREAMS BETWEEN DRIVE ANDE DESIRE」

ジジェクの態度は、『ジジェク自身によるジジェク』、あるいは『パララックス・ヴュー』に鮮明であるが、ここでは柄谷行人の書評でまにあわせておく。

ジジェクはむしろ、脳科学や認知科学の成果を肯定する。その上で、そこにパララックスを見いだすのである。たとえば、「意識」はニューロン的なものと別次元にあるのではなく、ニューロン的なものの行き詰まり(ギャップ)において突然あらわれる、という。こうして、ジジェクは、現象学や精神分析といった人文科学的な観点に立つかわりに、現在の認知科学そのものの中に、ドイツ観念論(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)が蘇生している、と考えるのである。(柄谷行人 パララックス・ヴュー 書評

ここで、われわれは、意識とは「躊躇」の別名であるという荒川修作の名言を想起することもできる。

一般に意識の働きとして、遅らせて選択可能性を開くような遅延機能、選択の場所の設定、自分自身の組織化の三つに限定してよいと思う。この遅延機能のことを、荒川修作はかなり早い段階から気付いており、意識とは「躊躇」の別名だと言っていた。また選択の場所の設定というのは、空間的な広がりのことではなく、さまざまな働きを混在させておくという非空間的な場所のことである。この働きのなかには、感情や情動あるいは渇き飢えのようなものも含まれる。また意識の自分自身の組織化は、集中させたり集中を解除したりする働きである。つまり意識は自分自身の前史を断ち切るほどの組織化をそのつど行っていることになる。意識による遅延がなければ、反射運動・行為だけになり、選択の場所の設定が機能不全になると統合失調症、自分自身の組織化不全になると意識障害となる。(河本英夫『臨床するオートポイエーシス』)

近著『考える足』で、脳科学への戦争宣言をしたといわれることもある向井雅明氏なら、--わたくしはこの書を読んでいないので別の小論から引用すれば、このような言い方もある。

ダマシオのシステムにとって他者は必要ない。たとえば愛情というものを感じたとしてもそれは誰かにたいする愛情ではなく、愛情に相当する身体状態を表すニューラルマッピングによって引き起こされた感情でしかない。憐憫の感情にしても誰かかわいそうな人にたいして感じるというのではなく、身体の情動的変化によって引き起こされるのだ。(……)

ダマシオだけではなく、一般的にニューロサイエンスや生物学だけで人間を説明しようとする試みはすべて同じ過ちを犯している。真に人間的な次元を扱うには、人間世界は自然界との切断によって生まれる、あるいは、語る存在としての人間は生命体とは切り離されている、さらにあるいは、 主体とは身体とは超越したものであるということを前提にしなければならない。(向井雅明『 Dの誤り、ダマシオ批判』)

だが、檜垣立哉氏のツイートの問題は「脳科学」や「死の欲動」以前にある。《ものすごく精緻な電気配線やものすごく流暢にフランス語をしゃべっていたりするが、私にはそのような電気配線の記憶はないし、そんなに流暢にフランス語がはなせるわけはない》とするツイートは、フロイトの『夢判断』がまったく読めていないと、わたくしがーーシツレイながらーー感じるのは、フロイトが明言しているのは、「われわれは夢を前にしたとき、その全体やその構成要素のいわゆる「象徴的意味」を探すことを断じて避けなければならない」ことだからだ。だがわたくしは遠慮深いほうなので、「知識人」としては「焼け焦げ」たほうがいいなどとは決していわないタイプだ。檜垣立哉氏のツイートを再掲するだけですましておく。

《自分が死んでいる夢がある、これは何度も書いたが、自分で自分の心だ場所をみにいく、国道沿いの寂しい場所で焼け焦げているが、とくに悲しいとか寂しいとかそういう情動はない。たんたんと観察している。焼け焦げているが事故なのか自殺なのかさっぱりわからない。ただただ無情動でそれをみている》

というわけで、以下に資料を並べておこう。

夢の思考は、聞けばすぐに理解できるようなものである。それにたいして夢の内容は、いわば象形文字で綴られており、その一つ一つの文字を夢思考の言語に置き換えなければならない。もしわれわれがそれらの文字を、それらの象徴的関係に従ってではなく、それらの視覚的価値に従って、読もうとすると、かならずや間違いをおかす。たとえば今ここに一枚の判じ絵があったとする。そこに描かれているのはまず一軒の家。その家の屋根にはボートが一艘のっかっている。それからアルファベットの中の文字が一つ。そして走っている人物の姿。その人物には頭がない、等々。さてこの判じ絵を表面そのままに受け取って、この絵全体やその個々の構成要素には全然意味がないと抗議することもできよう。ボートが屋根にのっているはずがないし、頭のない人間は走れないはずだ。しかも、人間のほうが家よりも大きく描かれているし、この絵全体がどこかの景色のつもりなら、アルファベットの文字は場違いだ。そんなのが自然界にあるわけがないから。いうまでもなく、この判じ絵を正しく解釈するためには、この絵全体およびその各部分にたいするそうした批判は脇にのけておき、その代わりに、個々の要素を、なんとかその要素によって表わすことができる一音節とか一単語に置き換えなければならない。そのようにして得られたいくつかの言葉はもはや無意味ではなく、この上なく美しい意味深い詩の一節を形づくることもできる。夢はこの種の判じ絵であり、夢解釈の分野における先輩たちは、判じ絵をまともな絵画作品と受け取るという過ちを犯してきたのであり、そのために彼らには夢が無意味で無価値なもののように思われたのである。(フロイト『夢判断』第四章「夢の仕事」)
フロイトがはっきり言っているように、われわれは夢を前にしたとき、その全体やその構成要素のいわゆる「象徴的意味」を探すことを断じて避けなければならない。「この家は何を意味しているのか。屋根の上のボートは何を意味しているのか。走っている人物は一体何を象徴しているのか」といった質問をしてはならないのである。しなければならないことは、物をふたたび翻訳する、つまり物をそれを指す言葉に置き換えることである。判じ絵においては、物は文字通りその名前を表わしている。すなわちそのシニフィアンを表わしている。言葉表象Wort-Vorstellungenから物表象Sach-Vorstellungenへの移行――夢の中で作用しているいわゆる「表象可能性への配慮」――を言語から前言語的表象への一種の「退行」と見なしてはいけない理由が、これで明らかになっただろう。夢の中では、「物」それ自体がすでに「言語のように構造化されて」おり、その配置は、それが表わしているシニフィアンの連鎖によって規定されている。「物」から「言葉」への再翻訳によって得られる、このシニフィアンの連鎖のシニフィエが「夢思考である」。意味のレベルでは、この「夢思考」は夢の中に描かれた物と、内容的にはなんの繋がりもない(同様に判じ絵の場合、その解読は判じ絵に描かれた個々の物の意味とはなんの繋がりもない)。夢の中にあらわれた形象の「より深い隠された意味」を探そうとすると、その中に表現された潜在的「夢思考」が見えなくなってしまう。直接的な「夢内容」と潜在的な「夢思考」とは、言葉遊び、すなわち意味のないシニフィアン的物質のレベルのみで繋がっているのである。(ジジェク『斜めから見る』p103)
……しかし、精神分析的解釈の基本的前提、その方法論上の前提条件は次ぎのようなことである。すなわち、夢作業の最終的産物、すなわち顕在的夢内容はすべて、必然的にそこに欠如しているものが占めるべき場所を塞ぐ穴埋め=充塡剤の役割を担う要素を少なくとも一つ含んでいる。その要素は、一見すると、顕在的な想像上の場面の有機的全体にぴったり合っているように見えるが、じつは、その想像上の場面が存在しうるためにはぜひとも「抑圧」、排除、排斥しなければならないものが占めるべき場所を、みずからのうちに隠しもっているのである。それは想像的構造と「抑圧された」その構造化過程を結びつけている、いわば臍の緒みたいなものである。要するに、二次加工がけっして完璧に成功することがないのは、経験的理由のせいではなく、アプリオリな構造的必然性のせいなのである。結局のところ、ある要素がつねに「突出sticks out」し、夢の構造的欠如を示している、すなわちみずからのうちにその外部を表象しているのである。この要素は、欠如と剰余が同時に生じるという逆説的弁証法に囚われている。それがなかったら、最終的結果(顕在的な夢のテクスト)はまとまらず、何かが欠けているだろう。夢が有機的全体だという感覚を生み出すためには、この要素がどうしても必要不可欠である。しかしこの要素があると、それはある意味で「余計in excess」であり、厄介な過剰plethoraとして機能することになるーー


われわれの考えでは、どんな構造においても、目に見えるものの中には一つの囮、すなわち欠如を埋めるものが含まれているが、それは同時に、あたえられたものの中でいちばん弱い繋ぎ目であり、その点や揺らいでおり、現実のレベルに属しているとしか見えない。その中には〔構造化する空間の〕実質上全レベルが圧縮されている。この要素は現実には非合理であり、その中に含まれることによって、欠如の場所を示すことになる。(Jaques-Alain Miller”Action de la structure” 1968)


わざわざ付け加えるまでもないが、夢の解釈はまさしくこの逆説的な要素、「欠如を埋めるもの」、シニフィアンの無-意味の点を抽出することから始めなければならない。この点から出発し、夢の解釈は次に「変性denature」の作業へと進まなければならない。すなわち、顕在的な夢内容の意味の全体性という偽りの見かけをばらばらにし、「夢作業」まで突き進み、それ自身の最終的結果によって消し去られたさまざまな要素が織りなすモンタージュを目に見えるようにするのである。この段階にいたって、われわれは精神分析家の手続きと探偵の手続きとの類似性に到達したのである。探偵が直面する犯罪の現場もまた、一般に、殺人犯が犯行の痕跡を消し去るために作り上げた偽りのイメージである。その場面は有機的でごく自然に見えるが、それは囮であって、探偵の仕事は、まず、表面的なイメージの枠にぴったり嵌らない、突出している目立たない細部を発見することによって、その場面を変性させることである。探偵小説の語彙には、そうした細部をあらわす文字通りの専門用語terminus technics が豊富に含まれている。「〈風変わりな〉〈奇妙な〉〈あやしい〉〈クサい〉〈理屈に合わない〉、さらには〈気味の悪い〉〈目を疑うような〉〈信じられない〉といったもっと強い表現から、〈そんなはずはない〉という断定にいたるまで」さまざまな形容詞によって、手がかりが示される。その細部は、それ自体としてはまったく取るに足らないのだが(カップの把手が割れているとか、椅子の位置が変わっているとか、目撃者のさりげない言葉とか。時には、何かが起こらなかったという事実が手がかりになることもある)、それにもかかわらず、その構造的位置について考えれば、犯行現場を変性させ、いわばブレヒト的な異化の効果を生み出す。ちょうど、有名な絵の細部をちょっと変えると、突然、絵全体が奇妙で不気味に見えてくるのと同じだ。もちろんそうした手がかりは、その現場のもつ意味の全体性を括弧に入れ、細部に関心を集中したときにはじめて得られる。全体的印象は気にせずに細部を考慮に入れるようにというホームズのワトソンへの助言は、精神分析は解釈を全般にen masse ではなく細部にen detail用いるというフロイトの提言と、共鳴し合っている。「精神分析は最初から夢を合成されたものとして、すなわち心の形成物の集塊として捉える」(フロイト『夢判断』)
……このように探偵は、手がかりから出発して、殺人犯人によって仕立てあげられた犯行現場の見せかけの統一性の仮面を剝いでいく。探偵はその現場を、さまざまな要素からなるプリコラージュとして捉える。そこにおける犯人の演出と「実際の出来事」との関係は、ちょうど、顕在的夢内容と潜在的夢至高との関係や、判じ絵の表面的な図柄とその解読との関係に相当する。その関係は、「サテュロスsatyr」が最初はサテュロスの踊る姿を意味し、次いで「テュロスは汝のものTyre is thine」を意味するように、「二重に刻印された」シニフィアンとしての素材の中にある。探偵小説におけるこの「二重の刻印」の意義は、すでにヴィークトル・シクロフスキーによって指摘されている。「作家は、二つの物が一致しないにもかかわらずある特定の特徴においては合致するような例を探す」。……(ジジェク『斜めから見る』p105-108)


《フロイトによれば、夢にはつねに絶対にとらえられない点があり、これは不可知なものの領域に属しています。フロイトはこれを夢の臍と呼んでいます。こ のことはあまり強調されません。臍などというのもおそらく詩的表現だろうと思われてしまうからです。そんなことはありません。このことが意味するのは、夢 という現象の中にはとらえられない点、主体と象徴的なものとの関係の出現点があるということです。》(ラカン『セミネール Ⅰ』(「フロイトの技法論」))


◆以下、フロイト『夢判断』より、いわゆる「美しき肉屋の女将(妻)」をめぐって書かれている箇所を附記する。


「先生はいつも、夢は満たされた願望だとおっしゃるけれど」と、ある頭のいい女性患者がいいはじめる。「そんなら、全然反対の中身の夢を先生にお話してみましょうか。つまりその夢の中では、わたしの願いが遂げられなかったのです。この夢は先生のお言葉とどう調和するかしら。こういう夢なのです」

《ひとを夕御飯にお招きしようと思った。しかし燻製の鮭が少々あるほかには、何の貯えもなかった。買物に出かけようと思ったら、今日は日曜の、しかも午後なので、お店はどこももうしまっているということを思い出した。そこで出前で届けてくれるところを二、三軒電話で当ってみようとしたけれども、電話は故障している。それでその日ひとをご招待しようというわたしの願いは諦めてしまわなければならなかった》

私はこれに対してこう答えた、なるほどその夢は伺ったところ立派に筋が通っていて、願望充足の正反対であるように見えるけれども、分析してみなければその夢の本当の意味はどうとも申し上げかねる、と。「しかし、この夢はどういう材料から出てきたのでしょうか。夢のきっかけはいつも前の日のいろいろの出来事の中にあるということはあなたもご存じでしょうね」

分析 この婦人患者の夫は、実直で働き者の、ある大きな肉屋だが、前の日に彼女に向って、どうも近ごろやけに肥ってきたから、なんとか痩せるような治療法をやってみようと思う。早起き、運動、美食を避ける、ことによそから夕御飯に招ばれても絶対に出かけてはゆくまいなどと話した。――彼女は笑いながら自分の夫について話しつづけた。夫は行きつけの飲屋でひとりの画家と知合いになった。この画家がぜひ夫をモデルにして絵を描きたいといった。こんなに表情に富んだ頭部は今までに見たことがないという。夫は持ち前のあけすけな態度で、「ご芳志はまことにかたじけないが、若いきれいな娘っ子のお尻のほうがわたしの顔なんかよりよっぽどあなたには向いているでしょう※」ち答えた。自分は今夫にすっかり惚れている、そしてなんだかんだといって夫にいちゃつく。「あたしにキャヴィアをくださらないでね」と頼んだこともある。――キャヴィアをくれるなというのはどういうことなのか、と私はたずねた。

※「美人のお尻」は「モデルになる」の意。ゲーテに「お尻がなければ貴人もモデルに坐れまい」とある。

つまり彼女は前々から、毎日午前中にキャヴィアを塗ったパンを食べたいと思っていたのだが、贅沢だと思ってそれをしかねていた。夫にそういうえば、むろんすぐにそうしてもらえただろう。しかし彼女はそのことでなるべく永いあいだ夫をからかうことができるように、その逆のことを夫に願ったのである。

(この説明はどうも根拠薄弱のようである。こういう不十分な説明の背後には、ひとが白状したがらない動機が隠れているのがつねである。ぺルネームの催眠術実験では、催眠状態にある患者に何か命令すると、患者は醒めたのちにその命令を実行するが、君はなぜそのことをするのかとたずねられても、患者は「なぜこのことをするのか、自分にはわかりません」とは答えないで、それに必ず何かの理由をつける。しかも嘘だということが見えすいているような理由をつける。このキャヴィアの一件もこれと似たりよったりである。彼女は、生活中にひとつの充たされない願望を作り出すべく余儀なくされているように思われる。それに彼女の夢も、願望拒否を実現したものとして彼女に示している。しかし彼女は何のために充たされない願望を必要としているのか)

これまでの思いつきは、この夢の分析にたいして役だたなかった。私はさらに先へ進む。抵抗を克服しようとするかのように暫時沈黙したのちに、彼女は語を継いだ。彼女は昨日ある女友だちを訪問した。この友だちに対しては、少々やきもちを焼くいわれがあった。ありがたいことにこの婦人はひどく痩せっぽちだった。ところが彼女の夫は豊満な女を好んでいた。この女友だちは何を話題にしたか。むろん、もっと肥りたいということをいった。それからまた、こういった、「わたしたちをいつまた夕御飯によんでくださるの? なにしろお宅の御馳走はとてもすばらしいんだから」

これで夢の意味がはっきりした。私は患者に向ってこういうことができる、「まるで何ですね、あなたはそんなふうに夕御飯によんでくれと催促されたときにこう考えたとでもいうような具合ですね。つまり『自分があなたを招待して御馳走したら、あなたはわたしのとことでその御馳走を食べて、肥って、わたしの夫に今までよりももっと気に入るようになるだろう。それじゃもうひとをよんで夕御飯なんか御馳走をするのはやめてしまおう』そうだとすると、夢はあなたにこういっているのです、『わたしはもうひとに夕御飯を御馳走するわけにはゆかない』、したがって、『お友だちのからだつきがふっくらすることに役だつようなことは何ひとつしたくない』というあなたの願いを満たしているわけです。およばれの御馳走を食べて肥るということは、あなたの御主人が食事療法のためにひとから晩餐によばれても断わるという、その計画を見てあなたもそんなふうに考えはじめたのです」あと欠けているものがあるとすれば締め括りである。この締め括りがつけば夢の分析は完了する。そこで問題は、燻製の鮭だ。「あの燻製の鮭はどうして夢の中に出てきたんでしょうね」「ああ、それはその女のお友だちの大好物なんです」ところが偶然私はその女友だちなる人をも見知っていた。そして、この女友だちなる人が、ちょうど私の患者がキャヴィアを贅沢だと思って食べないように、鮭にお金を出したがらないということをたしかめることができた。

この夢は、もっと別の、もっと微妙な解釈をも許している。その解釈はある付随的な事情を考慮に入れるとき、必然的なものになる。そしてこれら二つの解釈は相矛盾することなく、互いに重なりあい、夢並びにいっさいの精神病的症状形成の一般的な二重意味性の見事な一実例を提供する。上にも見たように、私の患者は、願望拒否の夢を見るのと同時に、その充足を拒否された願望を現実に作り出そうと努力していた(キャヴィアのパン)。その女友だちも、もっと肥りたいという願望を口にしている。それでもしわれわれの婦人がその女友だちの願望が実現されないという夢を見たとしても、すこしも怪しむに足りないであろう。すなわちこの女友だちの願い(もっと肥りたいという願い)が充たされないでいてもらいたいというのは、この患者の願望なのである。しかし彼女はそのかわりに、自分自身の願いが充たされない夢を見てしまったのである。そしてもし夢の中の彼女が自分自身ではなくその女友だちその人であったならば、つまり彼女がその女友だちの身代わりに自分を夢の中に出したのであったならば、別言すれば自分自身をその女友だちと同一化したのであるならば、この夢はひとつの新しい解釈を与えられることになる。

事実私の患者はこれをやってのけたと私は考える。そしてこの同一化の証拠として、彼女は現実に自分自身に対して、充たされない一つの願望を作り出した。だがこのヒステリー性の同一化はいかなる意味があるのか。これを説明するにはすこし詳しく述べてみなければならない。同一化は、ヒステリー的諸症状の機制にとってきわめて重大な一契機である。この手段に訴えてこそ患者たちは、(自己自身の諸体験のみならず)たくさんの人間の諸体験を彼らのヒステリー的諸症状のうちに再現し、いわば一群の人間たちの身代りとなって悩み、ある芝居のすべての役柄を、自分ひとりで自分の個人的な諸手段だけを駆使して演じてみせることができるのである。するとひとは私に向ってこう抗議するだろう、「それは周知のヒステリー的模倣ではないか。他人、そのヒステリー患者に強い印象を与えるところの、他人のいっさいの症状を模倣するヒステリー患者固有の能力、いわば再演にまで高められたところの共感ではないか」しかしこの説明では、ヒステリー的模倣における心的過程がその上を通ってゆく道が示されたにすぎない。しかしその道と、それからその道の上で行なわれる心的行為とは別々のものなのである。後者は、ひとが好んで想定するヒステリー患者の模倣よりもやや複雑なのである。後者は実例によってはっきりわかると思うが、無意識的な推論過程に相応じている。一種独特な痙攣をする一婦人患者を、ほかの患者たちといっしょに病院内の一室に入れておいたところが、この独特のヒステリー的発作をほかの患者たちが真似た。ほかの患者たちがこの発作を目賭してそれを模倣したのであって、これがほかならぬ心理的伝染である、医師はあっさりこう判断する。そのとおりにはちがいないが、しかし心理的伝染はざっとつぎのようにして行なわれるのである。患者たちは、医者が患者のひとりひとりについて知っているよりも、通例お互いをもっとよく知りあっている。彼らは、医者の回診が終ると、互いに容態について心配しあう。そのうち、ひとりに発作が起るとする。そうしてその原因はあるいは家からきた手紙、あるいは事新たに掻きたてられた恋の悩みにあるなどというふうに、たちまちのうちにみんなにわかってしまう。みんなのうちには共感が呼び覚まされる。そして無意識裡につぎのような推論が行われる。「もしこれこれの原因のために、こういう発作に襲われるのだとすれば、自分もこういう発作に襲われるだろう、なぜなら自分にも同じような訣合があるのだから」もしこれが意識化しうる推論であったとしたならば、この推論は、おそらく「自分にも同じような発作が起こるかも知れない」という不安になっていったことであろう。しかしこの推論は無意識の層の中で行われるから、患者たちが怖れていた症状が本当に実現してしまうのである。だから同一化は「あたかも……のごとき」を表現し、無意識界内部にとどまって動こうとしない一つの共通のものに関係しているのである。

同一化は、ヒステリー症においては、ある性的共通性を表現するためにもっとも頻繁に利用される。婦人ヒステリー患者は(いつもそうであるとはかぎらないが)彼女らの症状において、自分と性的に交渉のあった人物、もしくは自分が性交した同一の人物と現在性交を続けている人物と自分とを同一化する。言葉というものはうまいもので、愛するふたりは「一心同体」だというようにこの考えをちゃんと表現している。ヒステリー症の空想並びに夢において、同一化が行われるための十分なる条件は何かというと、患者ないし夢みる人が性的関係を念頭に置いていること(だからといって何もその性的関係が現実のものでなければならないということはないが)である。上記の婦人患者が、夢の中でその女友だちの位置に自分自身を置き、ひとつの症状(実現のかなわない願望)を作り出すことによって自分をその女友だちと同一化し、これによってその女友だちに対する嫉妬心(しかし患者自身はこの嫉妬をいわれないものだと認めている)を表現しているのは、そういう次第でただ単にヒステリー的思考過程の諸法則に従ったまでのことなのである。この過程はつぎのようにいい直して説明することもできよう。患者が夢の中で自分を女友だちの位置に据えおいたのは、その女友だちが彼女の夫においては自分の位置を占めているからであり、また、彼女が自分の夫の価値評価内部においてその女友だちの占めている位置を占めたいと望んでいるからである。(フロイト『夢判断』上 p191-197 新潮文庫 高橋義孝訳)



※追記

フロイトは、原抑圧は欲動の身体的な構成物somatic component であり、これを夢の臍やら菌糸体と(我々の存在の核)といっている。

どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は未解決のままに放置しておかざるをえないこともしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けないたくさんの夢思想の結び玉があって、しかもその結び玉は、夢内容になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。これはつまり夢の臍、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいるところの、その場所なのである。判読(解読)においてわれわれがつき当る夢思想は一般的にいうと未完結なものとして存在するより仕方がないのである。そしてそれは四方八方に向ってわれわれの観念世界を網の目のごとき迷宮に通じている。この編物の比較的目の詰んだ箇所から夢の願望が、ちょうど菌類の菌糸体から菌が頭を出しているように頭を擡げているのである。(フロイト『夢判断』第七章「夢事象の心理学」新潮文庫 下 p279)



2015年5月18日月曜日

まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう(李鵬 1997)

「地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないでしょうか。」 (ジジェク『ジジェク、革命を語る』)




……二〇世紀には今までになかったことが起こっている。(……)百年前のヒトの数は二〇億だった。こんなに急速に増えた動物の将来など予言できないが、危ういことだけは言える。

しかも、人類は、食物連鎖の頂点にありつづけている。食物連鎖の頂点から下りられない。ヒトを食う大型動物がヒトを圧倒する見込みはない。といっても、食料増産には限度がある。「ヒトの中の自然」は、個体を減らすような何ごとかをするはずだ。ボルポトの集団虐殺の時、あっ、ついにそれが始まったかと私は思った。

しかも、ヒトは依然スズメ型の力を潜在させている。生活が困難になればなるほど、産児数が増える。いや現に人類の八割は多産多死である。スズメ型である。ちょうど気候不順の年に花がよく咲いて実を稔らせるように私たちの中の自然が産児を増やしているのであろうか。逆に、快適な生活をした社会は産児数が減る。現在のフランスで二〇世紀初頭のフランス人でだった人の子孫は何割もいない。過去のギリシャも、ローマもそうであったと推定されている。少産少死型の弱点は、ある程度以下になると、種の遺伝子の弱点が露呈することだ。また、個体が尊重されるあまり、規制力が弱り倫理が崩壊することだ。

冷戦の終わりは近代の終わりであった。その向こうには何があったか。私にはアメリカがローマ帝国と重なって見える。民族紛争は、ローマ時代のローマから見ての辺境の民族の盛衰と重なって見える。もし国家というタガがはまっていなかったら、民族紛争が起こり、あっという間に滅ぶ民族が出ただろう。二十数個の軍団を東西南北に派遣して、国境紛争を鎮めるのに懸命だったローマと、空母や海兵隊を世界のどこにもで送る勢いのアメリカとが重なる。市場経済などは当時からあった。グローバル・スタンダードもあった。ローマが基準だった。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。そして、今リアル・タイムの取引で儲ける奴がいれば、ローマ時代には情報の遅れと混線を利用して儲ける奴がいた(……)。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収ーー「二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障」より)

この引用で何が言いたいんだと問われたら
何も言いたくないから引用してるんだよと答えてやる

《この詩で何が言いたいんですかと問われたから
何も言いたくないから詩を書くんだと答えてやった》(谷川俊太郎)

いささか不謹慎な話題かもしれませんが・・・。――旧ソ連が崩壊し、ロシアでは、それまで全国民に医療サービスを政府が提供する体制が実質的に崩壊しました。また、ソ連崩壊後の時期に死亡率が急上昇しました。……[送り状(2)]http://www.carf.e.u-tokyo.ac.jp/research/zaisei/ScenarioCrisis2904pdf.pdfーー(「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会」)

…………

浅田:資本主義がなぜこうしてサヴァイヴしえたかと言えば、社会主義なりファシズムなりと対立しつつ学習したからです。ケインズにしても、社会主義に勝つためには政府介入とセーフティ・ネットが必要であると言い、それを実践した。日本でも、マルクスを体系化した宇野経済学を学び、資本主義の矛盾を熟知した官僚や政治家、あるいは経営者たちが、そういうことをやってきた。資本主義というのはたえず危機をはらんだシステムであり、蓮實さんの言われる本当の資本家というのは、敵と闘いながら学ぶべきは学んで自己修正し危機管理にあたる人なんですね。

蓮實:(中略)いまの日本には「エコ」というかけ声が何でもありの一形態として席巻していますが、持続可能性という概念が資本主義と矛盾しないと強調する経営者も政治家もあまり見かけない。(中央公論2010年1月号、「対談 「空白の時代」以後の二〇年」蓮實重彦+浅田彰)


浅田彰のこの発言は、中井久夫とジジェクの変奏である、――あるいはパクリであると言う人がいるかもしれないが、パクリで何がわるい。いやそもそも、下の中井久夫の1996年に書かれた文章自体、柄谷行人や浅田彰などが(もちろん、それ以外の思想家の)以前言ったことのたくみなまとめであると言いうるかもしれない。

ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。

(……)

冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)
私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「まなざし」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「まなざし」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「まなざし」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「まなざし」それ自体ということです。

そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly 2004)



ーーやっぱり日本は、中国にとって目の上のたんこぶじゃないか、大国の狭間ーー東のオスマン・トルコ、西のスペインと法王庁とフランス、北の神聖ローマ帝国などとの狭間ーーにはさまれたヴェネチアはどんな運命だったか。

とはいえ、観光国、美食の国として生き残るにしては、老人人口が多すぎる。

「日本と中国が友好国になることはない(……)意思、能力の双方において、日本を侵略する可能性がある中国は現実的脅威。日本を敵とするイメージで、近代化による国家統合を図ろうとしている。今後50年は変わらない」(佐藤優「今後50年は変わらない」中国の弱点研究が不可欠

武藤国務大臣)……そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。私は、それはまあ、何と李鵬さんが言ったか知らないけれども、これは日本の国の政治家としてつぶれますよなんて言えっこないじゃないか、確かに今の状況から見れば非常に問題があることは事実だけれども、必ず立ち直るから心配するなと言って、実は帰ってまいりました。(第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成九年五月九日

平成九年(1997)の話だから、「あと30年」とは2027年だな、オリンピック後だし、ちょうど頃合じゃないか。

加藤周一は『20世紀の自画像』(ちくま新書 2005)の「あとがき」に、2005年に発生した中国の大規模な反日デモについての次のように書いている。

個々の争点の現状は、日中いずれかの側の「致命的国益」に触れるほど重大なものではない。しかしそれをまとめてみれば、日本の「右寄り」傾向のあきらかな加速を示す。その流れのなかに、いわゆる「歴史意識」の問題がくり返しあらわれた。すなわち過去の侵略戦争の膨大な破壊に対して現在の日本社会がとる態度の問題である。

戦後60年日本国を信頼し、友好的関係を発展させつつある国は、東北アジアの隣国のなかに一つもない。

その責任のすべてが相手方にあるのだろうか。

何度も指摘されたように、戦後ドイツは隣国の深く広汎な反独感情に対して「過去の克服」に全力を傾け半世紀に及んだ。類似の目的を達成するために保守党政権下の戦後日本は、半世紀を浪費した。今さら何をしようと半年や一年で事態が根本的に変わることはないだろう。

私は「反日デモ」がおこったことに少しも驚かなかった。もちろん何枚のガラスが割られるかを予想していたのではない。しかし日本側がその「歴史認識」に固執するかぎり、中国や韓国の大衆の対日不信感がいつか、何らかの形で爆発するのは、時間の問題だろうと考えていた。その考えは今も変わらない。アジアの人びとの反日感情と対日批判のいら立ちは、おそらく再び爆発するだろう。それは日本のみならず、アジア、殊に東北アジアにとっての大きな不幸である。私は私自身の判断が誤りであることを望む。