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2015年6月6日土曜日

四十年以上つづく「ある女」への恋

偉大な作家とさえいわれる人たちが『オシアン詩篇』のような凡庸で人を迷わせる作品に天才的な美を見出すにいたった、という事実を理解させる理由の一つは、おそらく過去というもののあの想像上の遠さにあるのだろう。われわれは遠い昔のケルトの吟遊詩人たちも現代思想をもちうるということにおどろくのであって、ゲール人の古い歌のつもりでいるもののなかで、現代人にしかたくみにうたえないと思っていた歌の一つに出会うと、すっかり感心してしまうのだ。才能のある翻訳者がいて、ある程度忠実に古代の作家の作品を現代語に移し、もし現代の作者名をつけてべつの形で出版したらそれだけでもよろこばれるであろうと思われているいくつかの部分を、それにつけくわえさえいいのであって、この翻訳者はたちまち詩人に感動的な偉大さをあたえることになり、詩人はそのようにして何世紀にもわたる鍵盤をかなでつづけるのである。この翻訳者は、もしその書物を彼の原作であるとして出版したならば、凡庸な書物の作者としかなれなかったのだ。翻訳として世に出されたからこそそれが一つの傑作の翻訳であると見なされるのだ。(プルースト「ゲルマントの方 Ⅱ」p190 井上究一郎訳)

※訳者注:『オシアン詩篇』。3-5世紀ごろ、古代ケルト族の勇者で詩人のオシアンがうたったアイルランドの叙事詩。1765年にスコットランド生まれのイギリス人マクファーソンが原作を英語散文に訳した『オシアン作品集』によって世界的にひろまり、ゲーテ、スタール夫人、シャトーブリアン、バイロンなどが賞賛した。


いいねえ、プルーストの性格の悪さ(?)

@Cioran_Jp: もしニーチェ、プルースト、ボードレール、ランボー等が流行の波に流されず生き残るとすれば、それは彼らの公平無私な残酷さと、気前よくまき散らす憎悪のせいである。ひとつの作品の生命を長持ちさせるのは残忍さだ。根拠のない断定だって?福音書の威力をみたまえ。このおそろしく喧嘩早い書物を。(シオラン)

日本にもプルースト並の性格をもってる作家はいるさ

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拜するは誠に氣の知れぬことなどと申すものゝ實は斯く申す生も數年前迄は古今集崇拜の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拜する氣味合は能く存申候。崇拜して居る間は誠に歌といふものは優美にて古今集は殊に其粹を拔きたる者とのみ存候ひしも三年の戀一朝にさめて見ればあんな意氣地の無い女に今迄ばかされて居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候。(正岡子規『歌よみに与ふる書』)

反対にこういうこともある

ソレルスによれば、何年か前あるフランスの若者のグループが、わざとランボーの「イリュミナシオン」をコンピュータで打ち直し平凡な作者名をつけてフランスの幾つかの主要な出版社に原稿を送りつけたらしい。新人の詩人が出版の是非を打診したみたいに。結果は予想どおりすぐに出た。全員が「拒否」!(鈴木創士ツイート)

ようするに名前と流行で愛するのさ、大半の人は。オレももちろん例外じゃないよ

連中は何もいうことがないので、名前だけでものをいうのです。テレビは、対話というか、そうした話題をめぐって話をする能力を確かに高めはしました。だが、見る能力、聴く能力の進歩に関しては何ももたらしていない。私が『リア王』にクレジット・タイトルをつけなかったのはそのこととも関係を持っています。

ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたいのです。しかし、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも、一年間ぐらい絶対に固有名を使わず、たんに、彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディにふと惹きつけられるように、事件に対して別の接し方ができるかもしれません。

いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになっていきます。しかし、いまの私には、他人の悪口をいうことは許されません。ますます孤立して映画が撮れなくなってしまうからです。馬鹿馬鹿しいことを笑うにしても、最低二人の人間は必要でしょう(笑)。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)

…………

さて、すぐれた「意地悪さ」をもったプルーストをもうすこしつけ加えておこう。

私は知っていた、――あまりにも長期にわたってかがやかしい名声を博していたものを闇に投じたり、決定的に世に埋もれるように運命づけられたかと思われたものをその闇からひきだしたりする批評の遊戯なるものは、諸世紀の長い連続のなかで、単にある作品と他の作品とのあいだにのみおこなわれるものではなく、おなじ一つの作品においてさえもおこなわれるものであることを。(……)天才たちがあきられたというのも、単に有閑知識人たちがそれらの天才たちにあきてしまったからにすぎないのであって、有閑知識人というものは、神経衰弱症患者がつねにあきやすく気がかわりやすいのに似ているのである。(同「ゲルマントのほう Ⅱ」p281)
そういう私によくわかったのは、かつて耳にした気がする彼女のマーテルリンクにたいする嘲笑のことで(もっとも、いまは彼女はマーテルリンクを讃美しているが、それは文学の流行に敏感な女性の精神的弱点によるもので、文学の流行の光というのは、おそくなってから射してくるのである)、そのことが私によくわかったのは、つぎのことが私にわかったのと軌を一にしていた、すなわり、メリメがボードレールを嘲笑し、スタンダールがバルザックを、ポール=ルイ・クーリエがヴィクトル・ユゴーを、メーヤックがマラルメを、それぞれ嘲笑していた、ということである。むろん私にわかっていたのは、嘲笑者は、自分が嘲笑している相手にくらべて、なるほどせまい考をもっているが、しかしより純粋な語彙をもっている、ということである。(プルースト「囚われの女」p51)
証券取引所で一部の値あがりの動きが起きると、その株をもっているグループの全体がそれによって利益を受けるように、これまで無視されていた何人かの作曲家たちが、この反動の恩恵を受けるのであった、それは彼らがそのような無視に値しなかったからでもあるし、また単にーーそんな彼らを激賞することが新しいといえるのであればーーただ彼らがそのような無視を受けたからでもあった。さらにまた人々は、孤立した過去のなかに、何人かの不羈独立の才能を求めにさえ行くのであった、現在の芸術運動がそれらの才能の声価に影響しているはずはないように思われたのに、新しい巨匠の一人が熱心に過去のその才能ある人の名を挙げるといわれていたからであった。それはつまり、一般に、誰でもいい、どんな排他的な流派であってもいい、ある巨匠が、彼独自の感情から判断し、自分の現在の立場を問わずにどこにでも才能を認めるということ、また才能とまでは行かなくても、彼の青春の最愛のひとときにむすびつくような、彼がかつてたのしんだ、ある快い霊感といったものを認めるということ、しばしばそういうことによるのであった。またあるときは、自分でやりたかったと思ったことにあとでその巨匠が次第に気づくようになった、そんな仕事に似た何かを、べつの時代のある芸術家たちが、何気ない小品のなかですでに実現していた、ということにもよるのである。そんなとき、その巨匠は、古い人のなかに先覚者を見るのであって、巨匠は、べつの形による一つの努力、一時的、部分的に自分と一心同体の関係にある努力を、古い人のなかで愛するのである。プッサンの作品のなかにはターナーのいくつかの部分があるし、モンテスキューのなかにはフローベールの一句がある。そしてときにはまた、その巨匠の好みが誰それであるといううわさは、どこから出たとも知れずその流派のなかにつたえられた一つのまちがいから生まれたのだ。しかし、挙げられた名がたまたまその流派の商号とちょうどうまくだきあわされてその恩恵を受けることができたのは、巨匠の選択には、まだいくらかの自由意志があり、もっともらしい趣味もあったのに、流派となると、そのほうはもう理論一辺倒に走るからなのである。そのようにして、あるときはある方向に、つぎには反対の方向に傾きながら。脱線しそうになって進むというそんな通例のコースをたどることによって、時代の精神は、いくつかの作品の上に天来の光を回復させたのであって、そうした諸作品にショパンの作品が加えられたのも、正当な認識への欲求、または復活への欲求、またはドビュッシーの好み、または彼の気まぐれ、またはおそらく彼が語ったのではなかった話によるのである。人々が全面的に信頼感を抱いていた正しい審判者たちによって激賞され、『ペレアス』がひきおこした賞賛によって恩恵を受けながら、ショパンの作品は、ふたたび新しいかがやきを見出したのであった、そして、それをききなおさないでいた人たちまでが、どうしてもそれを好きになりたくなり、自分の自由意志かれではなかったのに、そうであったような幻想にとらえられて、それを好きになるのであった。(『ソドムとゴモラ Ⅰ』p368)

…………

さて、前置き?が長くなった。

オレが相変らず四十年以上を超えてなぜか「愛し続けている」作品・作家についてだ。たぶんなにか勘違いしているんだろう・・・

いまだ、《三年の戀一朝にさめて見ればあんな意氣地の無い女に今迄ばかされて居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候》という具合にはいっていない。

体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。四〇年前の失恋の記憶が昨日のことのように疼く。(ボール・ヴァレリー『カイエ』)

…………

バッハのシンフォニアの六番ってのは、ほとんどみんな速いテンポで演奏するんだけど、どうしてもっとゆっくりやらないのかねえ、グールドはやむえないにしろ、シフもこんなテンポだ。

グールドはやむえない? せめてモスクワライブくらいの速度だった許すけど、あのレコード録音いったいなんだ!!

ところでWolfgang Wellerっておっちゃんが、ゆっくりやってくれてるのに漸く行き当たった

いい男だなあ



だいたい、オレは人を容貌で判断するタイプなのだが、いい顔してるよ。

黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。明の袁中郞に至つては、酒席の作法を立てて、つらつきのわるいやつ、ことばづかひのぞんざいなやつは寄せつけないと記してゐる。ほとんど軍令である。またこのひとは山水花竹の鑑賞法を定めて、花の顏をもつて人閒の顏を規定するやうに、自然の享受には式目あり監戒あるべきことをいつてゐる。ほとんど刑書である。按ずるに、面貌に直結するところにまで生活の美學を完成させたのはこの袁氏あたりだらう。本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。詩酒徵逐といふ。この美學者たちは詩をつくつたことはいふまでもない。山水詩酒といふ自然と生活との交流現象に筋金を入れたやうに、美意識がつらぬいてゐて、それがすなわち幸福の觀念に通つた。幸福の門なるがゆゑに、そこには強制の釘が打つてある。明淸の詩人の禮法は魏晉淸言の徒の任誕には似ない。その生活の建前かれいへば、むしろ西歐のエピキュリアンといふものに他人の空似ぐらゐには似てゐる。エピキュールの智慧はあたへられた條件に於てとぼしい材料をもつていかに人生の幸福をまかなふかといふはかりごとに係つてゐるやうに見える。限度は思想の構造にもあり、生活の資材にもあり、ここが精いつぱいといふところで片隅の境を守らざることをえない。しかし、唐山の士太夫たる美學者はその居るところが天下の廣居といふけしきで、臺所はひろく、材料はいろいろ、ただ註文がやかましいために、ゆたかなものを箕でふるつて、簡素と見えるまでに細工に手がこんでゐる。世界觀に影響をあたへたのは、この緊密な生活に集中されてエネルギーの作用である。をりをり道佛の思想なんぞを採集してゐるのは、精神の榮養學だらう。仕事は詩をつくることではなく、生活をつくることであり、よつぽど風の吹きまはしがよかつたのか、精神上の假定が日日の生活の場に造型されて行くといふ幸運にめぐまれて、美學者の身のおちつきどころは神仙への變貌であつた。人閒にして神仙の孤獨を嘗めなくてはならぬいといふ憂目にも逢つたわけだらう。もつとも、人閒のたのしみは拔目なく漁つた揚句なのだから、文句もいへまい。すでに神仙である。この美學者たちが小説を書く道理は無かつた。大人の説、小人の説といふ。必ずしも人物の小大のみには係らないだらう。身分上より見れば、士太夫の文學、町人の文學といふように聞える。士大夫の文學は詩と隨筆とにほかならない。隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収)

というわけで、Bach, J.S., Sinfonia 6 E-Dur BWV 792, Wolfgang Weller 2013.





ーーオレの耳がへんなのかもしれないが、途中でややテンポが速くなるところがすこし気にはなるが・・・そんなことは許してしまうさ、この見事なロマンチックフーガとも呼ぶべきシンフォニアはこの速度でやならくっちゃな


いまではだれもいわなくなったのだろう、次のような大袈裟なものいいを聞くまえからの「恋」さ

ただ一つだけ人間の仕事のなかからいちばん完璧なものを救うとすれば、それは何だろうか。おそらくバッハの音楽であろう、とシャルル・デュ・ボスは書いたことがある。「洪水のあとには、バッハ」。(加藤周一)
これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。(パブロ・カザルス 鳥の歌 ジュリアン・ロイド・ウェッバー編
Schumann シューマン、Mozart モーツァルト、Schubert シューベルト・・・Beethoven ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。Bach バッハでなくては。

どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない(同)











2015年6月5日金曜日

フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって

【融合不安と分離不安】

まず、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終りある分析と終りなき分析』から、次の文を掲げる。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

次に、ポール・ヴェルハーゲ(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains(「古い悪党たちの新しい研究  2009)から、エロス/タナトスの二元論的解釈の箇所を私訳して掲げる。これは後に示すようにドゥルーズやジジェクの欲動一元論とでも呼びうる解釈とは異なる。

なぜヴェルハーゲがこのエロス/タナトスの二元論にこだわるのかは、「古い悪党フロイトの女性論」にていくらか示した。彼は人間の原初の不安、ーー「原不安」、あるいは「原トラウマ」とでもいいうるーーを融合不安と分離不安としている。これはエロス(融合)とタナトス(分離)とできるだろうことは、冒頭のフロイトの文から憶測できる。すなわち《ますます大きな統一に包括しようと努め》ることが「融合=エロス」であり、《この統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》ことが「分離=タナトス」である。

この前提で、わたくしは下記の文を読む。


【欲動二元論ーーヴェルハーゲ】


エロスとタナトスの二つの欲動は、全く反対の目的を目指す。一方で、融合することが、フロイトがエロスと呼んだものであり、分離することがタナトスである。そしてそれぞれ独自の快を持っている。この観点から、我々はなぜ「とことんまでall the way」行かないのかという我々の問いへの答えを示唆しうる。

まず最初に二つの相克する方向のせいであり、第二にどの方向も主体にとって堪え難い最終的な代償があるせいである。

タナトス欲動は理解するのに簡単だろう。それは解放とゼロテンションにむけて励む。それは最終段階としての死、そして死に向かった強烈な踏み台としてのオーガズムである。フロイトにとって、タナトスの目標とは分離であり、より大きな統一体からより小さな断片への絶え間ない分裂である。主体の水準において、これが意味するのは、他者からの分離であり、強化された個人的特性ーー私はここにいる、独立した人間として存在する、である。

エロスの目標は全く反対だ。それは融合であり、異なった要素を統合して、より大きな全体とすることである。そこでは個々の要素は、その個人的特性を失う傾向にある。生は、絶えず増大する緊張の集合体であり、それは純粋な享楽である。もっとも個人にとってはそうではない。個人は集合体へと消滅してしまう。個人はこの消滅をきわめて怖れることになる。

単独でタナトス欲動に従えば、我々は孤立して最終的には死ぬ。もっぱらエロス欲動に従えば、同様に我々は消滅する。今度はより大きな統合に飲み込まれるのだ。どちらもそれぞれ固有の享楽がある。どの人間も彼(女)自身の道の地図を作らねばならない。フロイトは、標準的な環境においては、二つの欲動は混ぜ合わされ(欲動融合Triebmischung)、各個人の人生において絶え間なく変化するカクテルだと言う。

ラカンはこのフロイトの論拠を引き継ぐ。享楽と死はきわめて近いものだ。享楽への道は、死への道である(Lacan, [1969-70], p. 18)。享楽それ自体、生きている主体には不可能である。というのはそれは自身の死を意味するのだから。唯一残された可能性は遠回りの道筋を取ることだ。目的地への到達を可能なかぎり遠くに延期してその道筋を行ったり来たりすることである。(ポール・ヴェルハーゲ 2009)

【欲動一元論ーージジェク・ドゥルーズ】ーーカトリーヌ・マラブーの二元論に対して

次にジジェクによるエロス/タナトスの二元論解釈への異議を示す(マラブーのとる二元論への批判(=吟味)であるが、この文は、もちろんヴェルハーゲ批判としても読める(SLAVOJ ZIZEK. DESCARTES AND THEPOST-TRAUMATIC SUBJECT)。ここでも私訳だが、ドゥルーズの『差異と反復』箇所はことさら自信がないので、邦訳を参照のこと(私の手元には英訳しかない)。

……ここでマラブーは、あまりにもナイーヴなフロイト読解のために犠牲を払っているようにみえる。フロイトをあまりに(文字通りではなく、しかし)「聖書解釈学的に」取っており、フロイトの発見の真の核心と、フロイトが己れの発見の視野を自ら誤解した別のやり方とのあいだの区別をしていないのだ。

マラブーは、フロイトの欲動二元論を、それがまとめられた通りに受け取っており、精密な読解(ラカンからラプランシュまでの)を無視している。それらの読解は、この二元論は見当違いであり、理論的な退行であることを説得力をもって論証している。

だから皮肉なことに、マラブーがフロイトとユングを対照させて、ユングの(脱性化された)リビドーの一元論に対してフロイトの欲動の二元論を強調したとき、彼女は決定的なパラドックスを見ないで済ませてしまっている。すなわち、フロイトが欲動の二元論に頼ったまさにその時なのだ、フロイトが最もユング主義者であったのは。そこでは原始的な陰陽観の前近代的で根拠のないアゴニズムに退行してしまっている。

では、我々は、いかに正しく把握したらよいのか、フロイトをかわし彼をこの二元論に頼る方向に押しやったことをを正しく把握するためには?

マラブーが、フロイトにとって、エロスはその反対の〈他〉、すなわち破壊的な死の欲動に関係し、かつそれを包囲するというモティーフを変奏するとき、彼女はーーフロイトの誤った方向に導く公式化に従いーー二つの相反する力の相剋としてこの対立を捉えている。マラブーは、それを、より正確な意味での、欲動の固有の自己妨害self-blockadeとしては捉えていない。

だが「死の欲動」はリビドーに関して反対の力ではない。そうではなく、欲動を本能と区別する構成的な裂け目constitutive gap なのである(意味ありげなことは、マラブーはTriebを「本能」と翻訳してしまっている)。死の欲動は、常に脱線させられ、反復の輪に囚われ、不可能な過剰によって徴づけられたものである。

ドゥルーズはーーマラブーは他の点では、彼にしきりに頼っているのだがーー『差異と反復』においてこの点を明瞭化している。すなわち、エロスとタナトスは二つの反対の欲動ではない。それらは競合し二つの力を混ぜ合わせる(エロス化したマゾヒズムとして)ものではない。すなわち、ただひとつだけの欲動がある。それはリビドーであり、享楽を得ようと奮闘する。そして「死の欲動」は形式的な構造の湾曲した空間である。それは、

《超越論的原則の役割を果たす。他方、快原則はただ心理上のものである。この理由で、死の欲動はとりわけ沈黙しているのであり、他方、快原則は花盛りなのである。

最初の問いはこうだ。すなわち、死のモティーフーーそれは精神生活の最もネガティヴな局面を構成するようにみえものだーーが、いかにしてそれ自体で最もポジティヴな、超越論的にポジティヴなものなのだろうか、ということだ。ポジティヴというのは、反復を確約してくれる点で、という意味だ。 [...] エロスとタナトスは次の点で異なっている、エロスは反復されなければならない、反復においてのみ経験され得る。他方、タナトス(超越論的原則としての)は、エロスに反復を供与するものだ、反復にエロスを服させるものなのだ》(ドゥルーズ『差異と反復』)(ジジェク 2009)
フロイトが死の欲動の考え方にて目指していたものーーより正確にいえば、フロイト自身が彼の発見の真の重大性に盲目で気づいていなかった核心的な側面――は、ヘーゲルの「否定性」の非-弁証的な核、止揚や理想化のどんな動きもなしに反復される純粋な欲動である。(……)

欲動は心理学とはまるで関係がない。死の欲動(そして欲動とは、まさに死の欲動である)は、死や破壊にやっきになる心的な(あるいは生物学的な)ものではない、ーーラカンがくり返し強調しているように、死の欲動は存在論的な概念である。そして死の欲動の正しく存在論的な側面は、考えるのにひどく困難なものだ。フロイトは、Trieb(欲動)を、生物学と心理学のあいだ、あるいは自然と文化のあいだに位置する限定された概念として定義した。――心的表象と通してのみ知られる自然な力として。しかし、われわれはここからいっそう歩みを進め、フロイトをもっとラディカルに読まねばならない。(Zizek“LESS THAN NOTHING”2012 私訳)

【ドゥルーズの欲動一元論】

さて一つ前の引用におけるドゥルーズの見解は、わたくしの知るかぎり、マゾッホ論にも同様に表れている。

快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまり彼岸……が存在するということなのである。(……)

まず、一領域を統轄するものを人は原則と呼ぶ。その場合は、原則とは経験的な原理または法である。かくして快感原則は、<エス>にあって心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるものが何かを知ることは、まったく別の問題なのである。それとは違った別の原理、次元が一段上の原則が必要であり、それが、経験的原理へと領域が従属する必然性を説明することになるのだ。超越的とはこの別の原理のことである。快感は、心的生活を統轄する限りにおいて原則なのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』P139 蓮實重彦訳)

ーー今仏原文を探し出せないでいるのだが、『差異と反復』英訳においてタナトスが“transcendental”とされ、蓮實重彦訳の『マゾッホとサド』では、「超越的」とある。これはおそらく誤訳ではないか。

「超越論的」とは、あらゆる(可能な)経験の条件に関わるということである。付言すれば、 内在的な思考を貫こうとするドゥルーズ哲学の文脈においてはとりわけ、「超越論的」 (transcendantal)と「超越的」(transcendent)の二つの形容詞を混同しないことは重要である。後者が、 経験しうるものの彼方にあるという意味でまさに超越的なのに対し、 前者は、 経験を根底か ら規定しつつも経験と同じレベルに位置するという意味で、内在的とみなしうるものである。(箭内 匡 『映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察- 』)

だが次ぎの文には「超越論的」と表れ、誤訳というのはわたくしの誤解かもしれない。

根源と根源を越えたところで快感原則に先行している反復は、いまや倒置されたかたちで体験され、その原則に従属する(あらかじめ獲得した、あるいは獲得すべき快感との関連で反復は行われる)。超越論的探求の結果明らかにされるものは、エロスは経験的な快感原則の創設を可能にするが、また、いかなる場合もタナトスを必然的に引きずっていくということである。エロスもタナトスも、与件たること、あるいは具体的経験たることはありえない。体験のうちに与件として示されるものは、両者の結合関係ばかりである。――エロスの役割は、タナトスのエネルギーを結びつけ、その結合を〈エス〉のうちで快感原則に従属せしむることにあるからである。それ故、エロスはタナトス以上に与件として示されるものではないにもかかわらず、すくなくともその声をあたりに響かせ、現実に顕著な影響を及ぼすものなのだ。だが、エロスに担われて表面まで導かれる底知れぬ深淵としてのタナトスは、本質的に口を閉ざしている。それだけに恐るるに足るものなのだ。だからこそ、フランス語では、この超越論的で沈黙する審級を指し示すのに〈本能〉、死の本能という言葉をとっておくべきだと思われたのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』p143 蓮實重彦訳)

ここで冒頭に掲げたヴェルハーゲの文に戻れば、ヴェルハーゲの二元論的解釈はマラブーとともに、おそらくジジェクやドゥルーズの立場からは、《原始的な陰陽観の前近代的で根拠のないアゴニズムに退行してしまっている》見解だということに(いったんは)なるのだろう。

ヴェルハーゲはジジェク読みである。すくなくとも2000年前後までは、しきりにジジェクを参照している。彼は、おそらくジジェクらの見解を知っているにもかかわらず、やはりエロス/タナトスの二元論の立場を取っていると憶測される。

たとえば、ヴェルハーゲは2002年の段階においても、次のようにジジェクに触れている。

「分離」、幻想の「横断」「主体の解任」:注目すべきなのは、この三つの概念のどれもラカン自身によっては十分に詳述されていないことだ。最後のもの“destitution subjective” – (J. Lacan, Proposition d'Octobre, Scilicet, 1, 1968, p. 23)は今日最もよく知られているが、これはジジェクの幅広い注釈によるところが大きい。.(ヴェルハーゲ、Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way 2002)

【ジジェクのエロス/タナトス二元論的叙述】

さて、ジジェクの書には、死の欲動概念が頻出するが、エロスについて語ることは少ない。最近の書(2012)から、その稀なエロスへの言及箇所を抜き出しておこう。

この文は、一見、エロス/タナトスの二元論的叙述のようにみえる。ただし《超自我の声もまた欲動を動員する》という表現があり、これは文脈を読めばわかるが、エロスはタナトスを動員すると変奏することはできる。

…この決定的なポイントをはっきりさせるため、精神分析理論における眼差しと声の地位を明確化することから始めよう。そこでは、我々は常に神経症、精神病、倒錯の異なった地位を念頭に置かなければならない。

(1) 神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。

(2) 眼差しと声のカップルは、また物表象Sach‐Vorstellungen と語表象Wort‐Vorstellungenのカップルにかかわる。「物表象」は眼差しを含んでいる(我々が物を見るとき)。「語表象」は声(声のイメージ)を含んでいる(我々が言葉を聞くとき)。

(3)さらに、眼差しと声はそれぞれ、イド(欲動)と超自我に関係する。眼差しは覗見欲動を動員し、声は超自我の審級ーー主体に圧迫をかけるーーの媒体である。しかしまたここで心に留めておく必要がある、超自我はイドからエネルギーを引き出していることを。その意味は、超自我の声もまた欲動を動員するということだ

このように、欲動の用語において、声と眼差しは、エロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。眼差しは「 一撃で打ちのめすsiderates」 、脱線させ、釘づけにする、あるいは主体の顔を不動化する、主体をメドゥーサのような恐怖ですくみ上がった実体にする。現実界への洞察は身体を苦しめる。それは死を表す(メドゥーサの頭自体、釘づけにされた/恐怖ですくみ上がった眼差しである。それを見ることは、私を盲目にしない。ーー反対に、私自身が釘づけにされた眼差しになる)。他方、誘惑的な声は、前エディプスの法の彼方/法の底にある母との繫がりを表す。(母の子守唄からから催眠術師に声までの)活気を帯びた臍の緒を表す。

(4) 四つの部分対象(口唇、肛門、声、眼差し)のあいだの関係は、二つの軸、「要求/欲望」と「〈他者〉へ/〈他者〉から」の軸に沿って構造化される四角形の関係である。

口唇対象は要求を伴う。それは〈他者〉へ向けられる(母へ、私が欲しいものを下さい!)。他方、肛門対象は、〈他者〉からの要求である(肛門経済において、私の欲望の対象は〈他者〉の要求へ降格される。ーー私は糞便を規則正しくしなければならない、 親の要求を満足させるため)。

同様に、覗見欲動は〈他者〉へ向けられた欲望を伴う(それを見せて!私に見させて!)。他方、声の対象は〈他者〉からの欲望を伴う(声は私から欲しいものを知らせる)。すこし異なったふうに言えばこうなる。主体の眼差しは〈他者〉を見ようとする試みを伴う。他方、声は懇願・呪文である(ラカンの懇願・祈り欲動 invocatory drive)。それは〈他者〉(神、王、愛された者)を駆り立てる試みである。この理由で、眼差しは〈他者〉に屈辱を与え-鎮定し-不動化するmortifies‐pacifies‐immobilizes。他方、声は〈他者〉を活気づけるvivifies。声は〈他者〉から言動を誘い出すのだ。

(5) 眼差しと声は、それでは、いかにして社会的領野に刻み込まれるのか。まずは、恥と罪である。過剰に視る・裸の私を見詰める〈他者〉の恥。他者たちが私について言っていることを聞くことにより引き起こされる罪。声と眼差しは、このように、超自我と自我理想の対照にかかわるのではないか? 超自我は、主体に纏いつき、主体の罪を見出す声である。他方、自我理想は、主体がその前で恥じ入る眼差しである。このようにしてトリプルな同等物の連鎖がある。「眼差しー恥ー自我理想」、そして「声ー罪ー超自我」である。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)

この文はここでの話題以外にもとても示唆的な文である。《四つの部分対象(口唇、肛門、声、眼差し)のあいだの関係は、二つの軸、「要求/欲望」と「〈他者〉へ/〈他者〉から」の軸に沿って構造化される四角形の関係》を図示すれば次の通り。




だが今はその話題ではない(参照:Paul Verhaegheによるヒステリーと強迫神経症の定義)。


【臍の尾=原抑圧】

途中、「臍の緒」という表現が出て来ているが、これはフロイトの「夢の臍」という表現を想起しつつ書いているはずだ。

フロイトは、原抑圧は欲動の身体的な構成物somatic component であり、これを夢の臍やら菌糸体と(我々の存在の核)といっている。

どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は未解決のままに放置しておかざるをえないこともしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けないたくさんの夢思想の結び玉があって、しかもその結び玉は、夢内容になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。これはつまり夢の臍、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいるところの、その場所なのである。判読(解読)においてわれわれがつき当る夢思想は一般的にいうと未完結なものとして存在するより仕方がないのである。そしてそれは四方八方に向ってわれわれの観念世界を網の目のごとき迷宮に通じている。この編物の比較的目の詰んだ箇所から夢の願望が、ちょうど菌類の菌糸体から菌が頭を出しているように頭を擡げているのである。(フロイト『夢判断』第七章「夢事象の心理学」新潮文庫 下 p279ーー夢の臍、あるいは菌糸体)

ところで、ドゥルーズには、「原抑圧」という語が次ぎのように現われる。

フロイトは、疑いもなくそのことを知っていた。というのは、彼は抑圧の偽装よりもより深い証拠を探し求めていたからだ。もっとも彼はそれを“原”抑圧という似たような語彙にて考えていたが。われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ。さらに言えば、――それは結局は同じことだがーー我々は、抑圧するから偽装するのではない。偽装するから抑圧するのだ。そしてわれわれは反復の決定的な核心の力によって偽装する。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

ヴェルハーゲの「原抑圧」の捉え方は次ぎの通り。

フロイト理論において、快感原則は、"シニフィアン内部"で機能する、すなわち表象Vorstellungenとともに、ということである。そこでの"拘束されたbound"エネルギーは、いわゆる二次的な過程内部に結びつけられる。快感原則の彼岸に横たわるものは、表象によって表現され得ず、一次的な過程内部での"自由なfree"エネルギーとともに作動する。後者は自我にトラウマ的な影響を与える。ラカンの現実界とは、フロイトの、原抑圧された無意識の臍であり、固着のせいで居残ったstays behindものである。"居残るstays behind"が意味するのは、「シニフィアンに、言語に転換されない」ということである(Freud, letters to Fliess, dd. 30th May 96, 2nd Nov.96)。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive、2002)

このようにして、「原抑圧」、あるいは「臍」が、欲動とかかわる表現であることが分かる。ここでドゥルーズのマゾッホ論にも、《タナトスは、本質的に口を閉ざしている》、あるいは《この超越論的で沈黙する審級》という表現があったことを想い出しておこう。


【ヴェルハーゲによる象徴界のエロス/現実界のタナトス】

さてここで、ヴェルハーゲの欲動二元論とジジェク・ドゥルーズの欲動一元論を繋げうる文を掲げよう。ほとんど冒頭に掲げた文と内容は殆ど同じなのでここではあえて訳さず、英文のまま貼り付ける。『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender 』(Paul Verhaeghe 2004)からである。

The easiest one to understand is the Eros or life drive, which attempts to return to a previous stage of wholeness and fusion by linking together as many elements as possible, with coitus as the most salient example. It is striking how, even in Freud, the relation between Eros and the symbolic is clearly visible, together with its effect on identity formation.
The death drive works against the tendency towards synthesis and induces a scattering of Eros. It disassembles everything that Eros brought together into One and makes this unity explode into an infinite universe. Moreover, this other drive works in silence; it has no connection whatsoever with the symbolic or the signifier (Freud, 1923b).

ここで注目すべきなのは、エロスは象徴界の審級に属し、タナトスは象徴界あるいはシニフィアンと関わらないとある点だ。すなわち死の欲動は、現実界の審級に属するものである。

ドゥルーズ=ジジェクの「超越論的」という表現を思い起せば、超越論的=現実界として捉え得る。すなわちヴェルハーゲの見解は単純な二元論ではない。象徴界のエロス欲動を支えるものが、現実界のタナトス欲動なのであり、それがドゥルーズのいう「超越論的」である。ただし冒頭に掲げた文章は、あまりにも二元論的に読める。どうしたわけか? 態度変更があったのか。

わたくしはあの2009年に書かれた『New studies of old villains(古い悪党たちの新しい研究)』を、やや一般公衆向けの文章と捉え、象徴界/現実界の議論をはぶいたのではないかといったんは憶測したのだが、いや、フロイトとラカンの驚くべき精緻な読み手であるヴェルハーゲーー今、英語圏では代表的な論客である彼が、そんな迂闊なことをするはずはない。とすれば、次のようなジジェク組の読みにかかわるのではないか。

人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityであると。(ジュパンチッチAlenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value" 2006)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

ようするに前期ラカンでは現実界の審級に属するものとされた享楽は、象徴界(シニフィアン)の非一貫性にかかわるものだというふうに、セミネールⅩⅦにおいて転回があった。とすれば、象徴界/現実界の対照にて、エロス/タナトスを説くのは、逆に安易すぎることになる。

だが、ヴェルハーゲはかねてよりラカンのアンコールの言明「原初とは最初のことじゃない」を鍵言葉として、かさねて象徴界/現実界の対照を否定している。すなわち象徴界の行き詰まりにおいてのみ、現実界は現われるということだ。これはエロスの袋小路においてのみ、はじめてタナトスが現われると「翻訳」できる。それはかつまた象徴界の非-全体の領域内部に、外-存在するものとしての現実界という意味でもある。これはジジェクのいう「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」と同じ意味であるだろう。

より具体的にいえば、たとえば、われわれのほとんど誰もが次ぎのような思いを、性交後抱くのではないだろうか。

ファルスの快楽、とくにファルスの快楽の不十分性が、この残余を顕在化する。臨床的用語ならこうである。真理の彼方に(性関係の失敗)、現実界が姿を顕す。(Paul Verhaeghe、BEYOND GENDER. · From subject to drive、2002)



快楽の行為のあと、なにかが足りないのに気づくのだ・・・これは「原初」の不可能性(性関係はない)であるにもかかわらず、ファルスの享楽の後に遡及的に見出される。これがラカンのいう「原初とは最初のことではない」の意味である。

われわれはある過程において、“原初の”と“二次的な”と言うが、それはひどくイリュージョンを育む話し方なんだな。私に言わせれば、どんな場合でも、ある過程で“原初の”と言われるとき、――まあなんでもいいがね、結局のところそう言いたいときは、――それは最初に現われるということじゃないんだ。

個人的には、赤ん坊、--その赤ん坊に外部の世界はないという実感をもたないで眺めたことは一度もないね。はっきりしてるのは赤ん坊はなにも見てないんだよ、彼を興奮させるもの以外は。それはまさにその通りじゃないかい、赤ん坊がまだ話さないかぎりは。彼が話しはじめた瞬間からだな、まさにその瞬間以降であってその前じゃないんだが、私はやっと理解できるんだ、抑圧のたぐいがあるのが。快-自我の成り行きは“原初”だよ。そうでないわけあるかい? あきらかに“原初”なのさ、ただしいったんわれわれが考えだしてからのだ。でもそれは間違いなく“最初”じゃない。(『セミネールⅩⅩアンコール』フィンク英訳より私意訳)





ところで、2006年に出版されたセミネールⅩⅦ英訳版に付された何人かの論者の解説文のうちのひとつ、Paul Verhaegheの” enjoyment and impossibility”( 2006)には、こうある。

実に、フロイトの新しい欲動理論(エロスとタナトス)の不可避的な結論は、死が快の最終的な形式だということだ。

ラカンはこの同じ論拠の線に沿って続けている。セミネールXVIIにおける驚くべき新しい主題は、享楽とシニフィアンのあいだの初めからある関係性である。この意味は、主体におけるシニフィアンの機構の起源は、享楽に密接に関係があるということだ。これは、倫理についてのセミネールVIIとは全く対立する。Seminar VIIでは、享楽は象徴界の反対のものと見なされていた。それについて更に言うなら、シニフィアンと享楽にあいだの関係性は、セミネールXVIIにおいて、かつまたややパラドキシカルのままである。…ラカンにとって、シニフィアンは、享楽に至ることの不可能の原因であると同時に、その獲得への道であるのだ。(Paul Verhaeghe,2006)

(そのうち続く)

…………

【附記】

「欲動」という名のもとにわれわれが理解することのできるのは、さしあたり、休むことなく流れている、体内的な刺激源の心的な代表者以外のなにものでもないのであって、これは個別的に外部からやってくる興奮によってつくりだされる「刺激」とは異なるものである。だから欲動は心理的なものを身体的なものから区別する概念の一つである。この欲動の本性についてのもっとも単純でもっともらしい仮定は、欲動はその自身いかなる性質ももたず、心的生活に対する作業促進の尺度として問題になるにすぎない、というものであろう。あまたの欲動をそれぞれ区別して、これに特殊な性格を付与するのは、その身体的な源泉やその目標に対する欲動の関係なのである。欲動の源泉はある器官のなかで起る一つの刺激的な過程なのであって、欲動の当面の目標はこういう器官の刺激を除去することにあるのである。(フロイト『性欲論三篇』旧訳 p35)

《主体が囚われているのは意識ではない、身体である。》(ラカン「「哲学科の学生への返答」(1966 私訳)

"Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966

私が論じているのはもっぱら『性理論三篇』(1905 年)の欲動論で、のちの生の欲動と死の欲動は、厳密には欲動の問題ではないと思いますが……。 (十川幸司「来るべき精神分析」鼎談 2009
一般的に、幼児のセクシャリティは厳密に自体愛的だと言われる。だが私の視点からすれば、これはフロイトとその幼児セクシャリティの間違った読解である…〈他者〉を導入することによって前期フロイトの部分欲動と後期フロイトのエロス/タナトスを結びつけることができる(ヴェルハーゲ Sexuality in the Formation of the Subject,2005)

※参照:部分欲動と死の欲動をめぐる覚書


2015年6月4日木曜日

享楽について語ろうじゃないか、ボウヤたち!

アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方」にて、Bryantの名高いブログから2008年の記事を引用したが、昨晩、たまたま2013年の記事に出合った(Levi Bryantについては、WIKIPEDIAを参照のこと)。


ラカンまわりをマジに読みすぎると、たまにはこういうことをいってみたくなる気に(臨床家以外はほとんど誰でも)おそわれるのではないか・・・




 ーーとはいえ、ここではそのまま訳すことはせずに、自由連想意訳をしておく。

…………

なあ、たまにはラカニアンの汚れた洗濯に風を通さなくちゃな、とくに享楽ってのに。あれはいったいなんだっていうんだ? だれもまともにつかんでいるようにみえないな、オレだってサッパリだがね・・・しかもどいつもこいつもシャラシャラと享楽と口にだしやがる・・・

だいたい“a” ってのなんだろ? これは享楽のマークじゃねえのか? 対象a? 剰余享楽? トラウマ? それを反復強迫するってわけかい? ああ、Encore!もっとよ、もっとなの!

シャラくせえだけだよ、スペルマとバルトリン腺液の染みと臭いまみれの下着みてえなもんだぜ、窓を開けなくちゃな、空気を! もっと空気を!

そもそもなんで幻想の式$◇aは“a” を目指すんだろ? 主体はトラウマの過剰と融合したいんだって? 究極の享楽=死へ向かう? 

《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (Lacan,S.XVII)だとよ

ーーゴメンだね、ゆっくり遠まわりしたい口だな、オレは。

享楽に、ファルスの享楽jouissance phallique、剰余享楽Le plus-de-jouir、〈他〉の享楽jouissance de l'Autreってのがあるのくらいわかってるさ、

ところがどっこい、さらに他の享楽l'autre jouissanceなんてのがあるんだな。で、〈他〉の享楽jouissance de l'Autreと他の享楽l'autre jouissanceは違うらしい・・・で、女性の享楽jouissance feminineはどうなるんだろ? はあ? 

さらにはアンコールには、〈他〉の身体の享楽(他の享楽) la jouissance du corps de l'Autre (l'autre jouissance)なんたらという記載もある・・・ なんだ、この身体って? 身体の享楽ってのは、<他>の享楽なんだろうか? それとも他の享楽なんだろうか? ラカンは少し前に、<他>とは身体っていってるんだな・・・

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

それに女の享楽、これは 他の享楽なんだろうか、それとも〈他〉の享楽なんだろうか? ーーわかるか、そんなもの! 

そもそも女だってファルスをカッツリつかんだり咥えこんだりする享楽あるだろ?





オレはファルスの享楽ってのがとりわけヤダね、〈他〉の享楽?ーーこれは敬して遠ざけておくよーー、そもそもファルスってのはありゃなんだい? オレがラカンの概念のなかで何がいちばん嫌いかっていえば、ファルスさ・・・

ファルスの享楽はセンズリ的だってラカンは言うんだが、これでさえナゾだな、それに去勢不安とかペニス羨望とかってマジかね、そんなもの人にあるわけねえだろ!






たとえばジジェクと会話すること想像してみろよ、 あのノンストップで怒濤のようにベラベラまくしたてるヤツ、あれはファルスの享楽じゃねえか? 相方なんてどこにもいないし、解釈の余地なんか毛ほどもないだろうな、こっちは口を開けて呆然としているだけさ、あれこそセンズリトークだよ・・・

で、日本のボウヤたちはなにいってんだい、ははあ、どうやらたぶん剰余享楽と〈他〉の享楽のようだが、ーーオレは知らねえぜ・・・


私は著書『原発依存の精神構造』(新潮社)で、二つのことを指摘した。

 一つは「フクシマを象徴化すべきではない」、いま一つは「原子力の享楽を警戒せよ」。くわしく説明する余裕はないが、私には日本人が、唯一の被爆国民であるがゆえに、原子力に強く魅了され、この狭く脆弱(ぜいじゃく)な国土に54基もの原発を建ててしまったのだと考える。原子力の可能性を過大評価することも、危険性を過度に煽(あお)り立てることも、“享楽的”であるがゆえに危険である。

 東らの「計画」に反対したいわけではない。不謹慎とも思わない。ただ「計画」が“原子力の享楽”の繰り返しにならないために、次の3点を提案したい。

 「最終的な脱原発」志向を明確に打ち出すことと、震災に関連するすべての死者への「鎮魂」の意図をこめること。地域住民や当事者と時間をかけて粘り強い折衝を重ね、その過程を透明化すること。

 退屈な提案だ。しかし、こうした「退屈さ」の導入こそが、象徴化や享楽の罠(わな)に陥らないために欠かせない配慮となるはずだ。(斎藤環の東北:8月 「ダークツーリズム」の享楽 毎日新聞 2013年08月13日 東京夕刊)
レイシストは彼らが敵として位置づける対象のなかに自らの享楽をみてとっているにすぎない。(松本卓也「レイシズム2.0?」)
千葉雅也@masayachibaどんだけ弱さとか自己破壊とか受動性とかをあえて肯定的に言うとしても、その肯定的に言ってること自体がそうした受動性が実は徹底してネガティブな状態ではなく耐えてサバイブできる程度のものであることを示しており、真のネガティヴィティは排除されてる、という話。はあ、他者探し乙……

なんかなあ。「弱度をあえてエンパワメント」するのもにもさらなる排除の構造があるとか言ったら、じゃあどうすればいいのよ。

この手の発想からすると、精神分析やドゥルーズでの、固有の享楽を見つけようみたいな誘いに対しては、どうにも享楽しようがない状況に置かれてる人はどうなるんだ、そこで「自分を騙して楽しいかのように思いなせ」というのか?!という批判が向けられそうだ。

おっと、斬新奇抜なplus-de-jouir(剰余享楽)解釈をする臨床家もいるじゃねえか、これだったらオレに安心感を抱かせてくれるな・・・

資本家のディスクールを論じるにあたって、ラカンが注目したのは l'objet petit a です。人間は、シニフィアンを掴んで、そこに意味を紡ぎ出し、価値を創り出し、悦びの連鎖すなわち「享楽 la jouissance」という独自の次元を創りだしてゆくのですが、その遥か彼方にある究極の享楽が l'oblet petit a です。いい換えるならば、わたしたちが日常体験している悦び以上の、いわば過剰の悦びなのです。ラカンはこれを le plus-de-jouir と表現します。もうこれ以上は享楽できないよ、という究極の享楽、わたしはこのニュアンスを出すために le plus-de-jouir を「極-楽(きょくーらく)」と翻訳しました。l'objet petit a は、生命の最終的な到達点つまり死 la mort でもあるわけですから、この究極の享楽を極楽(ごくらく)に掛けて、そこへハイフンを入れて「きょくらく」と読むことにししたのです。一般的な訳し方をすれば「剰余享楽」となるでしょう。恐らくここで、マルクス経済学を専門にしている人は「剰余」なる言葉に敏感に反応されるかもしれません。「剰余」つまり「剰余価値」を連想します。フランス語では la plus-value です。似ていますね。(藤田博史)

性関係は無いのですが,性的と呼べるような満足が無いわけではない.それを Lacan は「剰余悦」 le plus de jouir と呼んでいます.それをただ単に「悦」 jouissance と呼ぶこともあります.用語や表現の厳密さから言えば,もうちょっと気をつけて言ってほしいと頼みたくなりますが,この明治生まれのじいさんはお構いなしでした.(小笠原晋也)

おい、ファルス享楽のジジェクさんよ、笑っちゃだめだ、彼らは真剣なんだから

まさに享楽の喪失が、それ自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

おまえさんのやってることも、これさ




…………

※附記1:上に、jouissance de l'Autreを〈他〉の享楽としたが、日本ではふつう、〈他者〉の享楽とか〈大文字〉の他者の享楽とされるものである。

※附記2:Paul Verhaegheによる「剰余享楽le plus-de-jouir」の叙述

The question then is, What remains of the original jouissance? Again, Lacan answers with an equivocal expression: "le plus-de-jouir." In French, this can be understood both as "not enjoying any more" and as "more of the enjoyment." The jouissance that remains for the subject after its defensive elaboration is less than and different from the original form and will never be fully satisfactory.

……問題は、原初の享楽の残余は何かということだ。ふたたびラカンは曖昧な表現で答える、「剰余享楽le plus-de-jouir」と。仏語では、これを二つの仕方で理解され得る、「もはや享楽しないnot enjoying any more」と「もっと享楽をmore of the enjoyment」である。防御的なエラボレーションの後に、主体にとって残っている享楽は、原初の形式未満の異なったものであり、決して十分に満足を与えない。(ヴェルハーゲ 2009 new studies of old villains)

ジジェクは英文のまま貼り付ける。

Here Lacan's key distinction between pleasure (Lust, plaisir) and enjoyment (Geniessen, jouissance) comes into play: what is “beyond the pleasure principle” is enjoyment itself, the drive as such. The basic paradox of jouissance is that it is both impossible and unavoidable: it is never fully achieved, always missed, but, simultaneously, we never can get rid of it—every renunciation of enjoyment generates an enjoyment in renunciation, every obstacle to desire generates a desire for an obstacle, and so on. This reversal provides the minimal definition of surplus‐enjoyment: it involves a paradoxical “pleasure in pain.” That is to say, when Lacan uses the term plus‐de‐jouir, one has to ask another naïve but crucial question: in what does this surplus consist? Is it merely a qualitative increase of ordinary pleasure? The ambiguity of the French expression is decisive here: it can mean “surplus of enjoyment” as well as “no enjoyment”—the surplus of enjoyment over mere pleasure is generated by the presence of the very opposite of pleasure, namely pain; it is the part of jouissance which resists being contained by homeostasis, by the pleasure‐principle; it is the excess of pleasure produced by “repression” itself, which is why we lose it if we abolish repression.(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)







2015年6月3日水曜日

古い悪党フロイトの女性論

《精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめるのです。》(ミレール『もう一人のラカン』)
…………

以下、ポール・ヴェルハーゲのPAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009(「古い悪党たちの新しい研究」)におけるフロイトの(悪評高い)女性論のまとめ箇所の抜粋(私訳)。

一連の文章だが、やや長いので段落を分けて小題をつけている。


【10年のあいだ〈女〉を探し求めたフロイト】

フロイトの自伝(『自己を語る』(……)、最初のヴァージョンである1925年版においては、エディプスコンプレックスは次のように要約されている。少年は性的欲望を母へと集中する。それ故、ライバルである父に対して憎悪感を育む。少女にとっても、類似した状況が当然の如く起る。欲望される対象としての父とともに、母はライバルの役割が授けられる。10年後、フロイトは注を付し、このエディプスの発展の問題において、少年と少女のあいだに想定された類似性を廃棄する。この10年のあいだ、フロイトは〈女〉を探し求めていた。結果として、彼は母に遭遇したのだ。(……)


【男女とも最初の愛の対象としての母】 

このフロイト理論の箇所は、比較的よく知られている。というのは、主にその議論の余地が大きい特徴のせいである(Grigg, 1999)。…まず問題含みの箇所を要約してみよう。

少年も少女もともに、母が最初の愛の対象である。息子にとっては、前エディプス期、エディプス期ともに、母は愛の対象のままである。そこで、父の介入がはっきりした効果を生む。すなわち去勢コンプレックスである。去勢不安のせいで、母は(愛の)対象としては放棄される。そして父の権威の内面化が生じる。このように、男性のエディプスコンプレックスは、去勢を施す父への恐怖の影響で、超自我を形成して終わる (『エディプスコンプレックスの消滅』 [1924])。近親相姦の禁止が、族外愛の強制を伴って設置される。いったん男になったら、以前の息子は性交にも同様にアクセスするが、他の女に対してである。この移行が常にはスムーズにいかないことは、既にフロイトによって、偉大な臨床的手練を以て叙述されている (『男性に見られる対象選択の特殊なタイプについて』[1910])。

事実上、前エディプス期の発見は、男-息子にかんするフロイトのエディプス理論に大きな変更を与えていない。ただ一つの例外がある。母はもはや、単に欲望される対象、受身の対象ではなくなる。彼女は前エディプス期の中心的形象となる。


 【少女の愛の対象の母から父への移行】

少女にとっては、事態ははるかに複雑である。前エディプス期のあいだ、彼女は母に向けて能動的な愛の衝動をもつ。それは少年と同様である。だが、それからどうやって正式の愛の対象、すなわち父への移行が起るのか? フロイトによれば、これは少女によるペニスの発見と「ペニス羨望」の出現によって引き起こされる。少女がペニスを与えられていないという事実は、劣等感と嫉妬感の上に、彼女は憎悪を以て母から身を翻し父へと向かうことを意味する。父へと向かうのは、彼女に欠けているものを父から受け取ろうと希望するからである。去勢不安の女性版対応物、ペニス羨望は、このようして、エディプスコンプレックスの設置を引き起こすものとなる。そこでは、少年側は事実上、エディプス期の終焉の始まりなのだが(『解剖学的な性差の若干の心的帰結』[1925])。フロイトにとって、女性のエディプスコンプレックスは男性と同じような明確な終焉点をもっていない。そしてこれは、女性の超自我が男性のそれのような厳しさを獲得することが決してないのを説明する。


 【二重の置換:クリトリス→ヴァギナ、母→父】

フロイトは二つのジェンダーのあいだの相違を、少女にのみ当て嵌まる二重の置換にて要約している。まず最初に、少女は性感帯を変えねばならない。男根的クリトリスはヴァギナと交換されねばならない。第二に、対象が変更されねばならない。父が母の場を占めるのだ(「女性性」[1933])。

この二つの移行は、さらにはっきりと解明され得る。最初の移行は、能動的・男性的クルトリスが、受動的で迎え入れる性質をもつ女性的ヴァギナと交換されなけばならないことを意味する。対象としての父への移行は、さらに二つの含意がある。第一に、もともと父から来るものとして欲望された対象としてのペニスは、子ども(赤ん坊)への欲望に変換されねばならない。第二に、この子どもは結局、男、彼女の男から欲望されなければならない。この男とは、彼女の父の場所を代わりに占める男だ。結局、フロイトは次のように書くことになる、女も後年、彼女の後の愛の対象として自分の母を探し求める、丁度どの男もそうするように、と(『女性の性愛』 [1931])。


【女になることの困難】

このように考えると、女になることはひどく複雑で困難な試みであるだけでなく、希望をもてないものになってしまう。注意深い読み手なら気づくことだろう、我々は振り出しに戻っていると。すなわち、母とともに始まり、最終的に母に戻るのだ、その母とは、すなわち、彼女自身が母となる少女である。さらに全体の過程は、男-父によって指図されている。男-父が事実上、女-母を生むのだ。この理論は数多くの拒絶反応を引き起こした。それがフェミニストからだけではないのは、驚くことではない。臨床的実践がたいした立証をもたらさないため、批判はさらに強くなる。

実際、ペニス羨望の存在はまったく明らかではない。そしてすべての娘が母から身を翻すわけではない。なぜ少女は父に向けて移行すべきなのか? フロイトの説明ーーペニスの欠如の発見に従った少女にとってのナルシシスティックな屈辱感が、少女を母から身を翻させて父に向かわせるーーこれは、ポストフロイト時代を通して、ひどく疑われた。そしてフロイト自身の論拠においてさえ、あのような展開は袋小路に行き着く。すなわち、少女は女にならない。単に母に変身させられるだけだ。こういったわけで、全く異なった解釈が可能だ。


【受動的ポジションから能動的ポジションへ】

袋小路はしばしば誤った前提の結果である。対象の変更のための動機としてのペニス羨望を、さらにもう少し検討しなくてはならない。フロイトが(少女が)母から身を翻す動機としてペニス羨望を議論したとき、彼は常に数多くの他の動機に言い及んでいた。それらは通常、ポストフロイト派の議論において無視されてしまっているが。

その動機の内で、中心的なものは、受動的なポジションから能動的なポジションへの移行である。我々はこう言うことさえできる、他者の他者であることから主体性への移行だと。ペニス羨望や去勢不安を言う前に、子ども、少年も含んだどの子どもも、既に、母との関係における受動的なポジションから離れて、能動的ポジションに移行しようと試みる。


【原不安としての分離不安と融合不安】

フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。


【ラカンの考え方】

ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる〈他者〉 (m)Otherに享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。フロイトの受動的ポジションと同様に、である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。


【エディプスコンプレックス劇場】

「前エディプス」期に先行されるエディプスコンプレックスという考え方は、主体の母、あるいは父への各々の焦点の輪郭を描くことになる。エディプスコンプレックス劇場では、全体として、父母の両方の人物像の配役がある。中心的な登場人物は母を以て始まる。母は、どの子ども、そのジェンダーにかかわりなく、いずれの子どもにとっても、最初の愛の対象である。この最初の関係は、とても特徴ある配役設定をもたらす。

一方で、能動的権力の体現者としての母がいる。拒絶したり、供与したり、さらに悪い場合は、不在である。他方、受動的で、受け取るしかないポジションの幼児がいる。そこでが選択は限られており、受諾か拒絶しかない。

ーー《エディプスコンプレックス自体が、症状である》(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)


【ファリックマザーとの同一化による全能感】

成人の神経症者に見られるいわゆる全能感は、想定された幼児期の全能感に戻ることではない。そうではなく、母の全能性への幼児期の同一化である。実に "Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut"(女が欲することは、神も同様に欲する)は次のように読むべきだ、"Ce que la maman veut, Dieu Ie veut" (母が欲することは、神も同様に欲する)と。既に(フロイトの症例ハンスの)小さなハンスが知っていた通りである。

もっとはっきり言うなら次の如し。成人の神経症の全能感は、幼児のファリックマザーとの同一化に戻ることだ(Lacan, 1994 [1956-57])。その意味は、ファリックマザーとは、欠如なしの母であり、母は子どもによってそう感受される。パラノイアが我々に示すのは、この関係性が取る病理的な形式である。より詳細には、母に殺される・貪り食われる・毒される恐怖である(フロイト『女性の性愛』 [1931])。


【母に殺される恐怖/サディスティック衝動】

フロイトの所見によれば、受動性は常に独特の反応を伴う。すなわち能動的反復である。人が受動的に経験しなければならなかった物事の能動的反復である(フロイト『女性の性愛』 [1931])。前エディプス期の母-子どもの関係はこの規則の例外ではない。

子どもは能動的に振舞いたい(上演したい)のだ、母から受動的に我慢せざるを得なかったことを。最初の移行は、母乳を飲まされることから能動的に乳を啜ることの段階にかかわる。それは場合によって口唇-サディスティックな局面を伴う。病理的事例では、これは間違えようがない。母に向けての攻撃的な口唇-サディスティック衝動はその反対物を見出す。母に殺される恐怖である。

この口唇期の例は単なる暗号ではない。実際、二つの対立する極ーー能動性対受動性ーーは、母と子の関係における享楽の局面に関係する。

受動の極から能動の時空への移行をする子どもの試み(それは少女だけではなく少年も同様)は、次のように理解されなければならない。すなわち、(母の)享楽の受動的対象にあるポジションから逃れ出し、快の能動的コントロールに向かう試みだと。


【子どもを誘惑する母】

最初期の理論にて、フロイトは、父による誘惑という考え方と神経症者にとっての基盤として幼児の性的トラウマを唱えた。神経症の遍在はこの考え方から距離をとることを余儀なくさせたのだ、もっとも実際にはそれを廃棄することは決してなかったが(Freud, letter to Fliess, September 21, 1897 [1978 (1892-99)])。

三十年後、彼はこの考え方を定式化し直した。原初の誘惑は、保育する状況以外の何ものでもない。母が子どもをある享楽の形式に「誘惑する」のだ。後ほど、すなわち最終のエディプス段階に過ぎない、誘惑者のポジションが、子どもの想像力のなかで父に移行するのは。

ついにフロイトは見出したのだ、想定されたトラウマ的誘惑の遍在にとっての本当の基盤を。どの保育状況も、潜在的に、誘惑的であり享楽的である。このまさに同じ状況における、トラウマ的で故にぞっとさせる側面は次の事実に関係する。すなわち、主体は他者の享楽の受動的対象のポジションに陥れられることである。そのような関係の原初のヴァージョンは、初期エディプスの、母と子のあいだの紐帯である。

ーーより詳しくは、「子どもを誘惑する母(フロイト)」を見よ。


【二者関係から三者関係へ】

この二者関係からの退出は、第三の形象、父によって可能になる。それは受動的から能動的なポジションへの移行を伴っている。

初期ラカンの枠組み内での類似の論考は次の通り。子どもはもともと二者関係内で母の享楽の受動的対象である。この享楽は、シニフィアンの象徴的秩序外部に位置するため、シニフィエ(意味づける)ことが不可能である。

ふつうは、父の介入が、意味作用と規制を導入することを通して、象徴秩序を導入する。ふたたび注意すべきなのは、この論旨において、フロイトとラカンともに、危険は母にあり、救いは父にあるということだ。二人のあいだの相違は、ラカンにとって、原父どころか父自身でもなく、父の象徴的機能にアクセントが置かれていることである。

…………

【補遺】--ここまでは一連の文章だが、以下は同じ書物の別の箇所から抜き出している。

後期の理論で、ラカンはフロイトの錯誤を公然と非難した。

それにもかかわらず、現在、フランスに精神分析のある保守的な層において、権威ある父の再生された懇願が聞かれうる (NAOURI , A. 2004)

この非難はラカンのセミネールの極めて後期に現れる。それ以前は、フロイトとラカンは異なった時代に書いているにもかかわらず、彼らの理論は、この点に関して、とてもよく似ている。二人ともエディプス理論を展開したのだ。それは父への懇願であったり、父への謝罪でさえある。その父とは、母に関する欲動に駆られた危険に対する不可欠な保証人である。

この二人のあいだにある最も重要な相違は、フロイトにとって、危険は、母への子どもの欲望(事実上、息子の欲望)を起源とすることだが、ラカンにとっては、全く反対方向だということだ。すなわち彼にとっては、子ども(事実上、息子)をあまりにも欲望する母に起源があるということだ。

この相違を脇にやれば、彼らの理論は似通っており、どちらも絶大な権威をもった父の形象から解決を期待している。まさに彼らの理論のこの側面が、私が考えるに、底辺に横たわる問題への神経症的な応答、その治療上の(理論の媒介による)承認に過ぎないのだ。後に詳述するが、この問題は、ラカンがその後期理論にて理解したものとしての「享楽」概念にすべてが関係する。


ーー以上のヴェルハーゲの叙述において注目すべきなのは、フロイトの「去勢不安」(かつ「ペニス羨望」)を、ふたつの原不安である分離不安と融合不安として再構成したことだ。

そして「分離」と「融合」という言葉は、タナトスとエロスにかかわる用語である。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

《ますます大きな統一に包括しようと努》めることは、「融合」であり、かつエロス欲動である。

《統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》ことは、「分離」であり、タナトス欲動である。


ただし上に抜き出した箇所だけでは、なぜ一般的に女性が男性を愛するようになるのかの説明が不十分である。だが、それについてはヴェルハーゲはかつてからくり返しているので、ここでは省いたと思われる。たとえば、1998年に上梓された書にはこうある。


【男の子と女の子の愛の対象】

男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。これは次の奇妙な事実を説明してくれる。つまり結婚後しばらくすれば、多くの男たちは母に対したのと同じように妻に対するということを。

反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。これは同じように奇妙な次の事実を説明してくれる。多くの女たちは妻になり子供をもったら、女たち自身の母親のように振舞うということを。


【女性における関係性の重視】

この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な結果は、彼女たちは関係それ自体により多く注意を払うようになるということだ。それは男たちがファリックな面に囚われるのと対照的である。少女における、対象への或いはファリックな面への興味の欠如と、関係性への強調は、後年、その関係を願う相手は、(ひとりの)男とである必要はない結果を生むかもしれない。結局のところ、彼女の最初の対象は同じジェンダーであり、思春期の最初の愛はほとんどいつも他の少女に向けられることになる。(Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、Paul Verhaeghe)

そしてジジェクなら、こういった考え方から次ぎのように言うことになる。


【女はパートナーに依存することが少ない】

男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェクZizek『Less Than Nothing』 2012)

《女は、はるかにパートナーに依存することが少ない》とは一見、奇妙かもしれない。それについては、仏女流分析家第一人者のコレット・ソレールの考え方によれば次の通り。


【失恋による〈他者〉としての彼女自身の喪失】

女性が失恋したとき、悲しみへの没入、あるいは自傷行為さえもしばしば起こる。とはいえ、どうしてこの喪失がそんなに絶望的な反応を引き起こすのだろう?ラカンに依拠しつつ、コレット・ソレールは、それは女性の享楽の特質のせいであると主張する。人は女性のなかに選択された愛への特別な呼びかけを見出す。それはファルスの享楽と女性の享楽のあいだの不調和を解消し得ない。

「愛は彼女から立ち去る。そのとき、彼女の他者性とともに独りぼっちだ。しかし少なくとも、愛が齎した〈他者〉は、彼女の愛人の名ともに彼女を刻印する。ロメオによってジュリエットは永遠化され、トリスタンによってイゾルデ、ダンテによってベアトリーチェ…。私たちはこの事実から推しはかることができる、女にとって、愛の喪失は、フロイトが還元してしまったファリックな局面を超えたものだということを。愛を喪ったことで女が喪失したものは、彼女自身、〈他者〉としての彼女自身なのだ。」(Colette Soler, “A ‘Plus' of Melancholy 1998)ーー(Renata Salecl,Love Anxieties 2002 私訳)


男にとって〈女〉は〈他者〉だが、女にとっても〈女〉は〈他者〉である》“woman is the Other for both men and women。”(Miller)。ーー男と女をめぐって(ニーチェとラカン)

…………

※附記:ラカンの『ファルスの意味作用』より


【去勢感をおぼえる少女】

幼い少女は、一時的であるにせよ、ファルスを奪われたという意味で自分は去勢されたと考えます。少女は自分を去勢した相手を、まず最初は自分の母親であると認識し、そして――これ〔=この転換〕が重要な点なのですが――、続いて自分を去勢したのは父親である、と認識するようになりますが、これは一体何故なのでしょうか。ここに言葉の分析的な意味における転移を認めなければならないでしょう*7

※注7
去勢を施したのが最初は母親であり、次に父親であると思うという少女における現象には、転移が認めらる、ということ。フロイトの論文「女性の性愛について」では、女性において、父親に対して特に激しい愛情が存在する場合には、それ以前に、同じように強い愛情を母親に注いだ時期があったことを指摘している。つまり、幼い少女の心的生活において、愛情の対象を母から父に取り替える作業が行われるのである。ラカンはこのことを「父性隠喩」という概念で論じる。cf.Lacan, S4, Jb225/Fr367.「母による去勢の先行性があり、父による去勢はその代入です。」その他、 S5, Ja253-257/Fr173-176.など。


【ファリック・マザー】

次は、さらに根源的な話になりますが、少女だけでなく少年も、母親をファルスを授けられたもの、つまり、いわゆるファリック・マザー*8として考える、ということは一体どう解釈すればよいのでしょうか。

※注8
ファリック・マザー[mere phallique]は、男性同性愛の構造の問題と関わっている。ラカンは、男性同性愛ではエディプスの三つの時において、法をなしたのが父ではなく母であり、母が父に対して法をなしたことを強調している。反対に、異性愛者では父が母に対して法をなす。cf.S5, Ja305-310/Fr208-212ならびにS5, Jb392/Fr516. セミネール5巻でのファリック・マザーについての言及はもう一箇所あり、そこでラカンは、服装倒錯では主体がファリック・マザーに同一化しているとの俗見を排して、服装倒錯の主体が同一化するのは、母の衣装の下に隠されたファルスに対してであると主張している。cf.S5, Ja270/Fr184.


【母の去勢】

去勢の意味作用[signification]が症状の形成に関して、かなりの重みを担っていることは臨床的に明らかなとおりですが、〔上にあげた二つの問題と〕相関して、それ〔=去勢の意味作用による症状形成〕は、その去勢が「母の去勢」であると発見されることに基づいてのみ起こる*9、というのは、一体どうしてなのでしょうか。

※注9
母の去勢によって、事後的に去勢コンプレックスが確立される、ということ。セミネール5巻「エディプスの3つの時」の講義と、当論文の後半の議論を参照のこと。

※参照:母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢


【クリトリスの自慰の享楽】

以上三つの問題は、最終的には、発達において「ファルス期〔=男根期〕」*10が存在するのは何故なのか、そして何のためなのか、という問題に至ります。みなさんご存知の通り、フロイトは最初の生殖的成熟について言及するに際してこの〔ファルス期という〕用語を使っています。フロイトは、ファルス的属性の想像的優位や自慰の享楽がファルス期の特徴であるとしているようです。しかしまた一方で、フロイトは次のようにも言っています。つまり、この〔自慰の〕享楽は女性の場合ではクリトリスに局在させられ、それによって〔女性にとっては〕クリトリスがファルスの機能へと昇格するのである、と。フロイトはこのようにして、このファルス期の終わり、つまりエディプス・コンプレックスの解消が起こるまでは男性においても女性においても膣を生殖的な挿入の場所として本能的にマッピングすることがまったく起こらないとしているように思われます。

※注10
幼児(ファルス期)の性生活は成人(性器期)の性生活と酷似しているが、幼時期の体勢においては、両性において一つの性器(つまりファルス)だけが重要な役割を果たしている、とフロイトは指摘している。(フロイト「幼児の性器体勢」、『エロス論集』pp.204-5.)

【膣への無知】

このような〔ファルス期において、膣を性的な挿入の場とみなさないという〕無知[ignorance]は、技法的な意味での用語としての「誤認 [meconnaissance]」の疑いが大いにあります。また、このような無知は、ときに捏造された無知であることもあるだけに、いっそう「誤認」の疑いがあるのです。ロンゴスは、ダフニスとクロエー〔という二人の男女〕の性行為が開始されるためには、ある老女の説明が必要であった、という寓話*11を描きましたが、この寓話はまさにこのような誤認と合致しているのではないでしょうか。

※注11
cf. ロンゴス『ダフニスとクロエー』松平千秋訳、岩波文庫、1987. ロンゴスの牧歌劇[pastorale]『ダフニスとクロエー』についてラカンは何度か言及しているが、とりわけS11, J265/Fr186.を参照。「性的関係というものは《他者》の領野の偶然に任されているのです」。その他、E669等。


2015年6月2日火曜日

欲動の最も美しい定義(フロイト=ヴェルハーゲ)

Enfin pour l'instant on a Les Trois Essais sur la sexualité auxquels je vous prie de vous reporter d'ailleurs, dont j'aurai à faire usage, comme j'ai fait autrefois usage de ces écrits sur ce que j'appelle « la dérive » pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (LACAN,Encore,1972–73 )

《きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしは《la dérive》と命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive漂流」と翻訳する》(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳(イイカゲン訳))

※2015.7.2追記:《dérive de la jouissance[悦の逸脱]と同義の表現として,1973年の Télévision に見出される égarement de notre jouissance[我々の悦のさまよい](Autres écrits, p.534) も想起されます》(7/2小笠原晋也氏ツイート)--とあるようにdérive は「逸脱」とも訳されるようだ。ただし「さまよい」を同義としているので、「漂流」でもおかしくはないだろう。

…………


PAUL VERHAEGHE,の『New studies of old villains』2009から引用するが、書名を訳せば、「古い悪党たちの新しい研究」 とでもできる。ポール・ヴェルハーゲにとっての研究対象である古い悪党たちは二人いる。それはフロイトとラカンである。この二人に対して、それなりの批判(吟味)がなされている論ということになる。

ーーと書けば、誤解を恐れるので、先に、次ぎの文を掲げておこう。これは1998年前後に書かれた論文での見解であり、最近のヴェルハーゲ自身は当時の見解そのままかどうかは窺い知れないが。

ラカンに関するかぎり、彼が構造主義者であるかどうかという問いへ答えるのはやや困難です。このたぐいの論議は、すべて、そこに付随する定義しだいなのですから。それにもかかわらず、ひとつだけは、私にとって、とてもはっきりしています。フロイトは構造主義者ではありませんでした。もしラカンが唯一のポストフロイト主義者、すなわち精神分析理論をほかのより高い水準に上げたとするならば、この止揚(Aufhebung)、ヘーゲル的意味での「持ち上げ」は、すべてラカンの構造主義と形式主義にかかわります。残りのポストフロイト主義者は、フロイトの後塵を拝しています。プレフロイト主義の水準に戻ってしまっているとさえ、とても多くの場合、言いうると思います。フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます。だがら、もしラカンが止揚(Aufhebung)したというなら、わたしたちはそれが何の意味なのか説明する必要があります。ラカンはその理論において何を獲得したのか? と。

……この点に関して、最も重要なラカンの構造は、もちろん四つのディスクールにおける理論です。(……)

これらの形式的構造の長所は明らかです。まずなによりも、抽象化の水準で目を瞠る利点があります。たとえばラカンのアルジェブラalgebra。あなたはそれらの“petites lettres”、小さな文字、aやSやA、そしてそれらの間の関係によって、なんでも代表象することができます。まさにこの抽象化の水準で、わたしたちはどの個別の主体も大きな枠組みにフィットさせることが可能になります。

第二に、これらの形式的構造は、血と肉の外皮を十分に剝いでいるで、心理学化の可能性を減少させてくれます。たとえば、ひとが、フロイトの原父とラカンの主人のシニフィアンS1を比較するなら、その差異ははっきりしています。前者なら、誰もが、白い顎ひげの、彼の女たちのあいだをうろつく年配者を思い浮かべるでしょう。S1を使うことによって、白い顎ひげを思い浮かべるのはとても困難です。……これが、このとても重要な機能の別の解釈の可能性を開示してくれます。そしてそれが三番目の長所をもたらしてくれます。これらの構造は臨床上の実践をとても効率的に舵を取らせてくれます。

実に、これは大きな相違をもたらしてくれます。たとえば、主人のディスクールやヒステリーのディスクールをある所定の状況で使うとしましょう。それぞれの式は、あなたの選択した効果を予想させてくれるでしょう。もちろんこのシステムの短所もあります。フロイトの解決法、すなわち神話や古来の昔話に比較して、ラカンのアルジェブラalgebraは退屈で、うんざりさせさえします。実際、それはなんの血も通っていません。というのは裸の骨にしか関心がないのですから、そのために、フロイトの話に溢れかえる想像な秩序の魅惑は完全に欠けているのです。それは支払わねばならない代価です。〔『FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』(Paul Verhaeghe) 私訳)

…………

さて、「古い悪党たちの新しい研究」からである。この文は敢えて邦訳するまでもないだろうから、英文のままとする。

Freud's most beautiful definition: "a drive is without quality, and, so far as mental life is concerned, is only to be regarded as a measure of the demand made upon the mind for work" (Freud, 1978 [1905d], p. 168), to which he added in 1915: "in consequence of its connection with the body" (1978 [1915c], p. 122).(PAUL VERHAEGHE 2009、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex )

――ヴェルハーゲの論文や書物をこの二年前ぐらいから比較的熱心に読んでいるのだが(わたくしは専門家ではないので、もちろん断続的に、である)、このフロイトの性欲論にある「最も美しい定義」という表現に、既に三度目か四度めぐり合っている。


というわけで、彼に敬意を表して、まずはフロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)から拾っておく(独原文から拾うのは遠慮しておく)。ただしこの英訳は、Trieb(欲動)の訳語が、driveではなくinstinct(本能)になっていることで悪評が高い(?)。

本能と欲動をめぐっては、日本でさえ既に1980年代の初め、20代前半の若き浅田彰の次のような指摘がある。

本能という語は、有機体を生のサンスにかなった行動に導くガイドとして機能する内的な情報機構を指し示している。これに対し、過剰なサンスを孕むことによって錯乱してしまった本能が欲動である。例えば、性本能が種の保存のために、「正しい」相手に対する、時宜にかなった、「正しい」性行動を導くのに対し、性欲動は時と場所を選ばずありとあらゆる対象に向かって炸裂する。フロイトが喝破した通り、本来、人間は多形倒錯なのである。「正しい」異性愛のパターンが社会制度として課されねばならないのは、まさにこのためである。また、攻撃本能が適当なシグナルによって解除され、同類の無用な殺し合いが避けられるのに対し、攻撃欲動は見境なしに発動され、恐るべきジェノサイドを現出する。人間の歴史はまさしく血塗られた歴史であり、いかなる社会的規制も、より大きな暴力をもたらしこそすれ、永続的に平和を築くことができなかったというのは、周知の事実である。(浅田彰『構造と力』)

ヴェルハーゲならこうである。

動物にはアウシュビッツもコソボもない。生物学の要素は心理学に転換され得ないし、逆も真である。欲動はこの二つの領域のあいだの中間地帯に現れ、境界線の不可能な越境の効果である。欲動にしばしば伴う怒りも攻撃性も、動物には馴染みのない不能と無力の表現である。動物には本能はあるが、欲動はない。(ポール・ヴェルハーゲ Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998)

さて寄り道が長くなった。まずは『性欲論三篇』1905からである。

By an ‘instinct' is provisionally to be understood the psychical representative of an endosomatic, continuously flowing source of stimulation, as contrasted with a ‘stimulus', which is set up by single excitations coming from without. The concept of instinct is thus one of those lying on the frontier between the mental and the physical. The simplest and likeliest assumption as to the nature of instincts would seem to be that in itself an instinct is without quality, and, so far as mental life is concerned, is only to be regarded as a measure of the demand made upon the mind for work. What distinguishes the instincts from one another and endows them with specific qualities is their relation to their somatic sources and to their aims. The source of an instinct is a process of excitation occurring in an organ and the immediate aim of the instinct lies in the removal of this organic stimulus.¹ There is a further provisional assumption that we cannot escape in the theory of the instincts. It is to the effect that excitations of two kinds arise from the somatic organs, based upon differences of a chemical nature. One of these kinds of excitation we describe as being specifically sexual, and we speak of the organ concerned as the ‘erotogenic zone' of the sexual component instinct arising from it.

手元にある人文書院のフロイト著作集からも抜き出しておくが、何の「美しさ」もない訳文である。岩波新訳ではどうなっているのか、――は知るところではないし、たいして知りたくもない。

「欲動」という名のもとにわれわれが理解することができるのは、さしあたり、休むことなく流れている、体内的な刺激源の心的な代表者以外のなにもにでもないのであって、これは個別的な外部からやってくる興奮によってつくりだされる「刺激」とは異なるものである。だから欲動は心理的なものを身体的なものから区別する概念の一つである。The concept of instinct is thus one of those lying on the frontier between the mental and the physical. この欲動の本性についてのもっとも単純でもっともらしい仮定は、欲動はそれ自身いかなる性質をももたず、心的生活に対する作業促進の尺度として問題になるのすぎない、というものだろう。あまたの欲動をそれぞれ区別して、これに特殊な性格を付与するのは、その身体的な源泉やその目標に対する欲動の関係なのである。欲動の源泉はある器官のなかで起こる刺激的な過程なのであって、欲動の当面の目標はこういう器官の刺激を除去することにあるのである。(フロイト1905、性欲論三篇、P35)

次ぎはヴェルハーゲ曰く、フロイトが1915年に付け足したとされる"in consequence of its connection with the body"の箇所(『欲動とその運命』)から。

If now we apply ourselves to considering mental life from a biological point of view, an ‘instinct' appears to us as a concept on the frontier between the mental and the somatic, as the psychical representative of the stimuli originating from within the organism and reaching the mind, as a measure of the demand made upon the mind for work in consequence of its connection with the body
次に生物学的側面から精神生活を考察してみると、「欲動」は精神的なものと身体的なものthe somaticとのあいだの境界概念であるように思われる。すなわち欲動は肉体organism内部に由来して、精神の中に到達する刺激の心的代表者であり、肉体body的なものとの関係の中で、精神的なものに課せられる活動要求を測る一つの尺度である。(フロイト1915、欲動とその運命、p63)

 …………

※追記


冒頭近くにやや曖昧に、《フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます》(1998)というヴェルハーゲの見解は当時のままかどうか窺い知れないと記したが、その所以は次ぎの文を読んだせいである。別の話題をめぐってすこし前、雑に訳したものだが、この文が活用できるのはいつのことになるやらわからないので、とりあえずここに先に貼り付けておこう。同じ、PAUL VERHAEGHE,の『New studies of old villains』2009からである。


実のところ、母が行ったり来たりすることは、幼児にとって予測できない。その意味は、母の欲望は予測できない、故に脅迫的だということだ。それが脅迫的というのは、幼児は、判然としない理由でそこにいたりいなかったりする誰かに依存しているからだ。そのとき、母は子どもを超えて別の関心があることがはっきりする。すなわち、母の行ったり来たりは、まずは〈父〉への欲望によって決定づけられている。母の欲望に対して不快感に襲われる幼児の感覚は、幼児が母の欲望を象徴的・ファルス的用語でシニフィアン(意味づけ)出来るときに鎮められる。この意味は、母もまた規則に隷属している、すなわち社会の法と構造に服従しているということだ。そしてそれは父の名を通してシニフィエされる。

これらの相違点にもかかわらず、この点までのラカン理論は、フロイト理論と根本的に異なるところはない。しかし父の隠喩を導入した後すぐさま、ラカンは1960年に、象徴秩序における構造的に決定づけられた欠如の考え方を提示する。これはラカン自身の(そしてフロイトの)以前の論拠からのラディカルな旅立ちをしるすものだ。そして、フロイト用語では殆ど言い表せない何か根本的に新しいものを導入している。父の名は、もはや〈他者〉の、すなわち象徴秩序の、保証ではない。逆も同様である。反対に、〈他者〉の〈他者〉はいない("il n’y a pas d’Autre de l’Autre")。

以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは〈他者〉のなかの欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。

同時に、新しい問題が出現する。構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一感)は父の名の効果だと想定された。

ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一感のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「〈一者〉があるil y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論の本質と極めて首尾一貫したものだ。

…………

※追記2:

フロイトの「性欲論」と「欲動とその運命」の原文は次ぎの通り。

◆Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie

Unter einem »Trieb« können wir zunächst nichts anderes verstehen als die psychische Repräsentanz einer kontinuierlich fließenden, innersomatischen Reizquelle, zum Unterschiede vom »Reiz«, der durch vereinzelte und von außen kommende Erregungen hergestellt wird. Trieb ist so einer der Begriffe der Abgrenzung des Seelischen vom Körperlichen. Die einfachste und nächstliegende Annahme über die Natur der Triebe wäre, daß sie an sich keine Qualität besitzen, sondern nur als Maße von Arbeitsanforderung für das Seelenleben in Betracht kommen. Was die Triebe voneinander unterscheidet und mit spezifischen Eigenschaften ausstattet, ist deren Beziehung zu ihren somatischen Quellen und ihren Zielen. Die Quelle des Triebes ist ein erregender Vorgang in einem Organ, und das nächste Ziel des Triebes liegt in der Aufhebung dieses Organreizes.

◆Triebe und Triebschicksale

Wenden wir uns nun von der biologischen Seite her der Betrachtung des Seelenlebens zu, so erscheint uns der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem, als psychischer Repräsentant der aus dem Körperinnern stammenden, in die Seele gelangenden Reize, als ein Maß der Arbeitsanforderung, die dem Seelischen infolge seines Zusammenhanges mit dem Körperlichen auferlegt ist.

藤田博史氏の次のような訳文にめぐりあったので追記しておく。

「・・・・・《欲動》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenz-begriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代表 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。」(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)
「フロイトのいう欲動 der Trieb を、ただちに本能 der Instinkt の概念に重ね合わせることはできない。本能とは『遺伝によって固定されたその種に特徴的な行動を示すための概念』であり、欲動とはそのような本能からのずれ、逸脱、『偏流 dérive』だからである」(ラカンS.20 藤田博史訳)