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2015年7月7日火曜日

「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」

ブルース・フィンクによる比較的評判の高い英訳『ラカンセミネールⅩⅩ(アンコール)』の翻訳者注にはこうある。

Ya d' l'Un is by no means an immediately comprehensible expression, even to the French ear, but the first sense seems to be "There's such a thing as One" (or "the One") or "There's something like One" (or "the One"); in neither case is the emphasis on the "thing" or on quantity. "The One happens," we might even say. A detailed discussion of Seminar XIX would be required to justify the translation I've provided here, but at least two things should be briefly pointed out: Y a d' l'Un must be juxtaposed with II n y a pas de rapport sexuel, there's no such thing as a sexual relationship (see Seminar XIX, May 17, 1972); and Lacan is not saying "there's some One" (in the sense of some quantity of One) since he is talking about the One of "pure difference" (see Seminar XIX, June 1, 1972).

ここではpure differenceに注目しよう。the One of "pure difference"、すなわち“純粋差異”の〈一〉とある。このおそらくドゥルーズの『差異と反復』を念頭において使用されたのだろう「純粋差異」とは、何だったか。ドゥルーズは、差異が可能になる条件を純粋差異と呼んだ。とすれば、〈一〉が可能になる条件がYa d' l'Unなのだろうか。

以下に、主にラカンの Y a d'l'Unをめぐる叙述を、ジジェクの『LESS THAN NOTHING』2012から抜き出すが、このジジェクの解釈が標準的なものなのかどうかは知るところではない(ラカンの解説書のなかでも、すくなくとも英語圏の論文では、Y a d'l'Un をめぐる叙述はすこぶる少ないーーもちろんわたくしの気づく範囲では、ということだが)。

ラカンの「〈他者〉は無い il n'y a pas de l'Autre」は、彼の Y a d'l'Un、つまり「〈一〉の何かが有る there is something of the One」と厳密な相関関係がある。Y a d'l'Un の〈一〉Unが「分割できない残余indivisible remainder」、性関係を存在しないものとする限りにおいて、Y a d'l'Unは「性関係は無い il n'y a pas de rapport sexuel」とも厳密に相関関係がある。それは、この関係のまさに対象-障害object‐obstacleである。Y a d'l'Un の〈一〉 は元来、神話的なすべてを包括する〈一〉ではない。フロイトが嘲弄した悪評高い「大洋的感情oceanic feeling」ではない。そうではなく、〈二〉Twoのハーモニーをかき乱す「現実界の破片little piece of the real」、糞便のような残余である。

この決定的な区別を明瞭化するために、Le Gaufeyは後期ラカンの微妙な一節に注意を促している。それは、“il n'y a pas de rapport sexuel 性関係は無い” から “il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る”である。この移行は、まさにカントの区別、否定判断(述語の否定)と無限判断(非-述語の肯定)のあいだの区別に合致する。

「性関係は無い」はいまだ二つの性のあいだの永遠の相克という古臭いモティーフにおける変奏の一つとして読みうる。「無-関係は有る」は遙かにラディカルな何かを意味する。すなわち、逆説的な「超-有限の」対象ーーそれ自身の欠如と重なり合う、あるいはそれ自身に関する過剰ーーにおける性関係の不可能性のポジティヴ化positivizationである。

この意味は、男性masculineと女性feminineは、単純に二つの「ズレた存在out‐of‐sync entities」ではなく、ある意味で、性差は二つの性(二つの性の差異のあること)に先行しているということだ。二つの性はどういわけか(論理的には)後に来る。二つの性は〈差異〉の袋小路に反応し、解消もしくは象徴化しようと努めるのだ。この袋小路は、対象aと呼ばれる疑似対象に具現化される

この理由で、我々は対象aのことを単純に性的sexualでないと言うべきではない。それは、不-性的un‐sexualなのである、吸血鬼が不死undeadであるというときとまさに同じ意味で、不-性的un‐sexualなのだ。「不死」とは、生きているのでも死んでいるのでもなく、怪物的な生ける死である。同様に、対象aは、性的でも非性的non‐sexualでもなく「性的に無性的sexually asexual」であり、二つの性のいずれにも等しくないが、それにもかかわらずいまだ性的なのである。ラカンが指摘したように、ここで問題になっているのは、「すべての原理の原理principle of all principles」における変化以外のなにものでもない。それは、無矛盾の存在論の原理から性関係は無いという原理への変化である。

「性関係は無いthere is no relationship」から「無-関係は有るthere is a non‐relationship」への移行いかにカントの否定判断から無限判断への移行をもたらすかは容易に見てとれる。「彼は死なない」は「彼は不死である」と同じではない。それは「性関係は無い」が「無-関係は有る」と同じではないのと同様である。性差に関するこの移行の重要性は次のことにある。もし我々の究極的な地平として「性関係は無い」に留まってしまえば、我々は二つの性のあいだの永遠の闘争という伝統的な空間に居残ったままだということだ。

ジャック=アラン・ミレールでさえ時にこのように見えることがある。例えば、 彼が「性関係は無い」を、「女に関して男は、その錠に合う鍵のようなものではない」という線で読むとき。これでは調和harmonyに対照させた非調和disharmonyの単純な主張にすぎない。一旦、我々が「無-関係は有る」に移行するとき、ヘラクレイトス的な「相克における統合/調和」の類さえ置き去りにする。というのは男性と女性はもはや左右対称の相反する軸ではないからだ。二つのうちの一つ(女性)はそれ自身の否定を含んでいる。そのため相反性の領野から抜け出す。ーー非-女は男ではなく、女性性内部の非-女という深い裂け目である。不死が死の領域内部にある(生ける死として)のと同様である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012、私訳 強調は訳者による)

※カントの否定判断と無限判断については、「「沖合いはるかな遠い未来のなか」へ送りだされたラカン理論」の後半を見よ。

ここでは、《非-女は男ではなく、女性性内部の非-女という深い裂け目である》についてのみ捕捉しよう。

“since woman is ‘non‐all,’ why should all that is not woman be man?” (Lacan,S.ⅩⅨ)

ーー《女は非-全体(無限集合)なのだから、女でない全てがどうして男だというんだね?》

排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

…………

次に、小笠原晋也氏のツイートによるY a d'l'Unの分かりやすい説明を掲げる。とはいえ、上のジジェクの文とはやや齟齬があるように思える箇所もある。ここではその齟齬のある箇所も含めて引用するが、小笠原晋也氏の独自のマテームφ barréの説明ともなっているので、先に氏によるその定義を掲げておく。

・我々の「抹消されたファロス」の学素 φ barréは,「性関係は無い」を形式化する学素です.

・Ⱥ は,他 A のなかの欠如と定義されていますが,それは,il n'y a pas d'Autre de l'Autre[他 A の他 A は無い]の学素でもあります.

ここにみられるように、この箇所においては上のジジェク解釈とほぼ等しい。再掲するなら、

ラカンの「〈他者〉は無い il n'y a pas de l'Autre」は、彼の Y a d'l'Un、つまり「〈一〉の何かが有る there is something of the One」と厳密な相関関係がある。Y a d'l'Un の〈一〉Unが「分割できない残余indivisible remainder」、性関係を存在しないものとする限りにおいて、Y a d'l'Unは「性関係は無い il n'y a pas de rapport sexuel」とも厳密に相関関係がある。(ジジェク)

すなわち il n'y a pas de l'Autre=Ⱥと il n'y a pas de rapport sexuelはY a d'l'Un とのあいだに相関関係があるとなっている。

これらから判断できるように、以下の文に現われる小笠原マテームはφ barré、「性関係は無い」、あるいはȺを代入して読んでもよいだろう。くり返せば、以下の文は、いささかの齟齬があるように思える部分や小笠原氏の独自のマテーム使用を除けば、Y a d'l'Unの説明としてとても分かりやすい。

一,Un について,この等価性を措定することができます:

Un ≡ φ barré

一,Un について,Lacan は Séminaire XIX ...ou pire でこの命題を提示します:

Y a d'l'Un.

Y a d'l'Un は,il y a de l'Un という文を日常会話における発音のしかたで発音した音をそのまま表記したものです.代名詞 il が省略されてしまい,また,de の母音が飲み込まれてしまいます.

il y a は存在を差し徴す表現です.英語の there is, ドイツ語の es gibt に相当します.
Y a d'l'Un は,日本語では「一が有る」と訳すしかありませんが,それでは重要な点が抜け落ちてしまいます.それは,de と定冠詞から成る部分冠詞の意義です.

部分冠詞は,非可算名詞に関してその何らかの量を差し徴します.たとえば英語で would you like some coffee ? と言うときの some に相当します.

フランス語では voulez-vous du café ? du は de と le の縮合です.

では,φ barré としての一,Un に部分冠詞が付されるのは,如何なることか?

存在の真理の現象学的構造 a/ φ barré に即して考えてみましょう.ちょうど昨日の東京ラカン塾精神分析セミネールで読解した Encore p.47 の一節で Lacan はこう言っています:

l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre.

一と autre (つまり,petit a) との関係の非十全適合.

signifiant a は Un に対して十全適合的ではない.そも,signifiant a は Un を代表する仮象にすぎません.

« y a d'l'Un » の部分冠詞は,signifiant の実在に対するこの非十全適合性を差し徴しています.

一,Un は,ひとつ,ふたつと数える際の単位ではなく,「すべて」のことです.「すべて」である Un という signifiant を以て存在事象そのもの全体を差し徴すと考えるなら,部分冠詞は必要なく,l'Un est ないし il est l'Un と言ってもよいでしょう.

しかし,Lacan が考えている Un は,存在事象ではなく,而して,存在 φbarréです.
signifiant Un を「すべて」として措定するとき,必ずそれに対して解脱的である何か,それに対して ex-sister する何かが存有します.「すべて」であるはずの Un は,実は「すべて」ではなく,ex-sistence を考慮に入れるなら,部分にすぎないのです.

かくして,« y a d'l'Un » の部分冠詞は,間接的に ex-sistence を指しているのだ,と読解することができます.

※ex-sistenceについては、「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン)を参照のこと。


ジジェクはほかにY a d'l'Unをめぐって、同じ書の「FROM THE ONE TO DEN」という節にて、プラトンの「パルメニデス篇における八つの〈一〉の仮定」を引用しつつ叙している。この箇所は、わたくしには難解で訳す気にもならないが、ここでは英文のまま後学?のために貼り付けておく。この箇所には、LESS THAN NOTHINGという表現が出て来ているように、おそらくこの膨大な著書の核心箇所のひとつであるだろう。以下の文で当面、注目すべきなのは(わたくしにとって)、〈一〉をサントームであると、ジジェクは記している箇所である。そしてここでのサントームは次ぎの意味と捉え得る。

症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、"分割不能な残余"であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は"症状との同一化"として再構成される。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

小笠原晋也氏が《Un は,存在事象ではなく,而して,存在 φbarréです》、もしくはȺとしていることにも再注目しておこう。ここでのジジェクと小笠原晋也氏の見解は等しいとは言いがたいながら、限りなく近い。

sinthome ……それは,存在の真理 φ barré を,仮象で覆うことなく,そのままに ex-sister させることです.(小笠原晋也 ツイッターセミネールより)

もっとも、ジジェク自身、〈一〉がサントームであると、90年代初頭からすでにくり返している。ここで厄介なのはサントーム概念そのものの捉え方が二種類あるようにみえることなのだが(参照:ラカン派の二種類のサントーム・症状)。すなわち現実界の症状の核という意味と、その核と同一化しつつも距離をとるために発明される父の名の代替物の新しいシニフィアンという意味があるように思える。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

ーー《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがまたサントームであるのだ。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

このあたりが、上にジジェクと小笠原見解が等しいとは言いがたいと口を濁した理由である。いずれにせよ。初期ジジェクの論では症状の現実界の核ばかりが強調されている。以下、1991年に上梓された『斜めから見る』から引用するが、ここでの見解は、現在そのまま通用するとは思われない。ただしサントームにをめぐる箇所は、2012年段階と同様な見解を示している。

……このことは、ラカンの『セミネールⅩⅩ』に見出されるもう一つの予期せぬ特徴を説明するのに役立つ。その予期せぬ特徴とは、シニフィアンからシーニュ(記号)への移行と同様の、〈他者〉から〈一者〉への移行である。晩年にいたるまでラカンの努力はすべて、〈一者〉に先行するある他者性の輪郭を描くことに向けられていた。まず最初に、シニフィアンの領域における異物として、すべての〈一者〉はその〈他者〉との差異関係の束によって定義される。つまり、すべての〈一者〉は前もって「他の中の一つ」として捉えられる。次に、偉大な〈他者〉(象徴的秩序)の領域それ自体の中で、ラカン派その〈疎遠なるもの ex-time〉、すなわちその不可能で現実界的な核を、「分離」し抽出しようと試みた(〈対象a〉はある意味で「〈他者〉そのものの真ん中にいる他者」であり、そのいちばん中心にある異物である)。だが『セミネールⅩⅩ』において、われわれは突然、ある〈一者〉と遭遇する(『〈一者〉がいるThere Is One, Y a d'l'Un』から)。この〈一者〉は他の中の一つではなく、〈他者〉の秩序に固有の分節にまだ参加していない。この〈一者〉はいうまでもなく意味-の-享楽の〈一者〉、まだ鎖に繋がれておらず、享楽にたっぷり浸って自由に浮遊しているシニフィアンの〈一者〉にほからない。この享楽が、シニフィアンが鎖の一つへと分節されるのを阻止している。この〈一者〉の次元をあらわすために、ラカンはサントーム le sinthome という新語をつくった。(ジジェク『斜めから見る』1991鈴木晶訳、p247)

鈴木晶氏の訳では〈一者〉となっているが、これは原文ではthe Oneである。

This helps us to explain another unexpected feature of Lacan's Seminar XX (Encore): a shift, homologous to that from signifier to sign, from the Other to the One. Up to his last years, all Lacan's effort was directed toward delineating a certain otherness preceding the One: first, in the field of the signifier as differential, every One is defined by the bundle of its differential relations to its Other, i.e., every One is in advance conceived as "one-among-the-others"; then, in the very domain of the great Other (the symbolic order), Lacan tried to isolate, to "separate" its ex-time, its impossible-real kernel (the objet petit a is in a way "the other in the midst of the Other itself," a foreign body in its very heart). But all of a sudden, in Seminar XX, we stumble upon a certain One (from There Is One, Y a d'l'Un) that is not one-among-the-others, that does not yet partake of the articulation proper to the order of the Other. This One' is of course precisely the One of Jouis-sense, of the signifier insofar as it is not yet enchained but rather freely floating, permeated with enjoyment: it is this enjoyment that prevents it from being articulated into a chain. To indicate the dimension of this One, Lacan coined the neologism le sinthome.

続きを邦訳のみいくらか附記しておく。

この点は、主体の整合性の究極の支えとして機能する。それは、「汝はそれである thou art that」の点、「主体の中にあって主体以上のもの」、したがって主体が「自分自身以上に愛している」ものの次元を示す点であり、それにもかかわらず症状でもなければ、幻想でもない(症状とは暗号化されたメッセージである。主体はそこにおいて、〈他者〉から自分自身のメッセージを裏返しの形で受け取る。幻想とは想像のシナリオで、それはその魅惑的な現前によって、〈他者〉、すなわち象徴的秩序における欠如、その非整合性、すなわち象徴化の行為そのものに含まれた根本的不可能性、「性的関係の不可能性」を隠蔽する)。(ジジェク『斜めから見る』pp.246-248)

さて、ふたたびLESS THAN NOTHING(2012)に戻って、パルメニデスと〈一〉にかかわる箇所を原文のまま掲げる(パルメニデス理解のさわりとしては、「プラトンの『パルメニデス篇』における「第一の仮定」」(岡崎文明)にパルメニデスの〈一〉の八つの仮定がまとめられてある)。

Parmenides's dialectical exercise is divided into eight parts: apropos of each of the two basic hypotheses—if the One is and if the One is not—he examines the consequences for the One, and the consequences for the Others; plus he adds a subtle but crucial distinction between the One which has being and the bare One, so that altogether we get eight hypotheses:

In the case of hypotheses 2, 3, 5, and 7, which predicate being (or non‐being) of the One, the result is positive: predication is possible; that is, positive statements can be made of the One (or of the not One). In the case of hypotheses 1, 4, 6, and 8, which put the One out of the sphere of being (or non‐being), the result is negative: predication is not possible; that is, nothing can be asserted of the One (or of the not One):

(1) “There is One,” but a totally ineffable‐unpredictable One without Being, a One which is neither true nor false—Dolar is right to point out that this One is not the non‐symbolic Real, but the lack of a signifier, the “barred” signifier ($), which is as such still inherent to the order of the signifier.40

(2) One with Being, “One is”: we can predicate it, we are dealing with One which is; but crucial here is the implied difference between One and Being: “If one is, it participates in being, and is therefore something different from being, for otherwise it would make no sense to assert that one is.”41

But the moment we concede this difference, we are compelled to repeat it indefinitely, i.e., within each of its poles: every One again is and is One, every being is and is one, etc.: “‘The one that is' falls apart into one and being, but in such a way that each part includes the other as its part. This inner division, once it has started, cannot be stopped: the moment we have two parts, we have infinitely many of them.”

Or, to put it in Hegelese, each term has two species, itself and the other term; each term is the encompassing unity of itself and its other. We enter thereby the problematic space of self‐referential paradoxes: “One is now at one and the same time the whole and the part, and so into infinity, it is both limited and unlimited, it both moves and stands still, it is both identical and different, like and unlike itself and others, both equal and unequal to itself and to others etc.”

If the result of the first hypothesis is that we cannot predicate anything of the One, the result of the second hypothesis is that “anything goes,” we can predicate all possible, even mutually exclusive, predicates. Dolar draws here exactly the opposite conclusion to Armand Zaloszyc: Lacan's Y a d'l'Un is a paraphrase not of the first, but of the second of Parmenides's hypotheses:

Lacan's famous dictum Y a d'l'Un can be read as a paraphrase of this second hypothesis. Translating it simply by “There is One” one loses the paradox of the French formulation, where the partitive article (de) treats the one as an indefinite quantity (as in Il y a de l'eau, “There is water,” i.e. an indefinite quantity of it), implying, first, that there can be an immeasurable quantity of one, i.e. of what is itself the basis of any measuring, and second, if the quantity is indefinite, then it is divisible (like water)—but into what, if one is the minimal unity?42

But does this weird immeasurable quantity not mean that the One of the second hypothesis should not be linked to Lacan's Y a d'l'Un, that the “One which is,” the unary signifier, S1, should rather be opposed to the immeasurable “there is (something of the) One,” which is characterized by a divisibility and thus a multiplicity not composed of Ones?

The paradox is here a very elegant Hegelian one: although Plato is the philosopher of the One, what he is unable to think (as opposed to just “represent”) is precisely the One as a concept. To do this, one needs not only a self‐relating reflexive predication (the One is a “one One,” an x which partakes of the Idea of One with regard to Oneness itself)—which Plato possesses—but also the positive concept of zero (which Plato does not possess): to get a pure concept of the One, not just the notion of one thing, the x which “partakes of the idea of One with regard to Oneness itself” has to be zero, a void, devoid of all content. Or, to put it in a more descriptive way: being‐a‐One adds nothing to the content of an object; its only content is the form of self‐identity itself.

In Dolar's reading, the first two hypotheses are two circles which partially intersect, so that the first hypothesis stands for the One without Being, that is, the One from which the part of it which intersects with Being is subtracted, and the second hypothesis stands for the narrow intersection of the two circles of One and Being.

(3) One with Being does not preclude Others with Being: there can be Others with predicates.

(4) One without Being precludes Others and thus also their predication.

(5) It concerns a One, something that is an entity, but which does not exist, i.e., does not have Being. Even if One is not, we can still predicate it, i.e., negative predication is possible, we know what we are saying when we negate a predicate.

(6) The One is here not only deprived of Being, but deprived of its very character of One: it is no longer a non‐existent entity, but a nonentity—and, as such, cannot be predicated.

(7) What does the fact that the One is a non‐existing entity mean for Others? As in the case of the hypothesis 5, Others can be predicated.

(8) If, however, One is not only a non‐existent entity, but a nonentity, then there are also no Others, existing or non‐existing—there is nothing at all.

To account for the difference between hypothesis 5—one can talk (make propositions, say true things) about non‐being; truth has a structure of (symbolic) fiction—and hypothesis 7—everything is a fluid appearance—we must introduce a tripartite distinction between symbolic fiction, imaginary illusion, and the appearance of the Real: the One of hypothesis 5, the One that does not exist, but which we can talk about, is the symbolic fiction; the dispersed not‐One of hypothesis 7 is that of imaginary illusion; and, we may add, the One that is not One of hypothesis 8 is the Real as impossible.

Radically opposed to Dolar's reading of Parmenides is that of Armand Zaloszyc, according to whom “Y a d'l'Un” is the formula for the pure jouissance‐One, that is, a jouissance not yet mediated by the Other, the symbolic order, not yet “departmentalized,” accountable. The missing link which legitimizes us in establishing a connection between this thesis of Lacan and the first hypothesis of Plato's Parmenides (which asserts the One totally external to Being, with no relation to or participation in Being) is provided by the Neoplatonist “mysticism” of Plotinus—recall that, for Lacan, the mystical ex‐stasis is the paradigmatic example of the jouissance‐One. Parmenides was the Neoplatonists' favorite of Plato's texts, and they read it as a powerful assertion of the ineffability of the One with which the mystical experience reunites us:

The demonstration of the first hypothesis of the Parmenides leads to the conclusion that it is impossible that the One exists. So it is, the One of this first hypothesis, being one by definition, could neither have parts nor be a whole. Therefore, it will have neither beginning, nor end, nor limits. For the same reason, it will not participate in time. It will therefore have no being since to be implies the participation in a time. And, if it is not at all, then can it have something that belongs to it or comes from it? Most certainly not. Therefore it has no name; there is no definition, no perception, and no knowledge of it. Is it possible that this be so of the One? No. From this demonstration of impossibility it can surely be legitimately introduced that “since the One in no way participates with being,” it does not exist, that there is nothing beyond being, that being is therefore all. The Neoplatonists chose to read the Parmenides demonstration of impossibility differently. They agreed that there is an incompatibility between the One and being, but rather than deducing that the One does not exist, they concluded that no doubt the One did not exist in terms of being, but that beyond being, there is the One, that the One ex‐sists from being.

In this way, “there is the One” constitutes a formula that opposes ontology and leads towards the notion of the not‐all of a radical Other, in terms of the otherness with which there is no relation, where emerges the logic of the Parmenides demonstration. Being on one side, and on the other, the there is—they are incompatible. Being on one side, the real on the other. We immediately see that this opposition is the one at work in negative theologies, in the pursuit of a non‐knowledge that equals itself to learned ignorance, in the accounts given by the great Christian mystics of their experience, using oxymorons drawn from The Mystic Theology of Pseudo‐Dionysius the Aeropagite.43

There are two arguments for this reading. When Lacan talks about jouissance feminine, he always qualifies it—“if a thing like that were to exist (but it does not)”—thereby confirming its incommensurability with the order of being (existence). Plus, his formula is Y a d'l'Un, and the impersonal il y a is, like the German es gibt which plays such a key role in late Heidegger, clearly opposed to being (in English, this distinction gets blurred, since one cannot avoid the verb “to be” in translation). There is, however, one conclusive counter‐argument which pretty much ruins the case: Zaloszyc refers to the Neoplatonic mystics as the missing link between Plato and Lacan, yet, as we have already seen, Lacan explicitly rejects the Neoplatonist reading of Parmenides. It thus seems that Dolar's opposed reading—wherein the One versus Being is, in Lacanese, the symbolic versus the Real—is much more convincing. But let us see where Zaloszyc's reading leads him:

The One that there is, is the one of the jouissance One, that is, the jouissance designated in the terms of the first hypothesis of the Parmenides … it is opposed to a jouissance developed partes extra partes that is consequentially accountable and numerable according to the measurements of the signifier. If we think about it, the being itself is only determined by meaningfulness, whereas we refer the jouissance One to the real. The real as impossible, as we have already seen.

So there is a jouissance that is not without a relation to the Other of the signifier (that is alienated to the signifier), and there is an autistic jouissance, separated from the signifier and separated from the Other, for which the paradigm is the non‐relation. That is the jouissance One. From there, there are two ways to go: either maintain that there is no other being than being, with the will to foreclose the jouissance One, or support the idea that there is the One that exists apart from being, in which case the demonstration of impossibility takes into account the trace that this One leaves in the Other, in the form of “there is no sexual relation” …

The passage from the jouissance One to the Name‐of‐the‐Father is the passage from the not‐all to an all, but this passage leaves an un‐sublated remainder/excess, the trace that the jouissance One will leave there. One of the forms of this excess is jouissance feminine, the other is the Freudian Ur‐Vater, the one who enjoys all the women.44

Insofar as, for Lacan, this One is (also) an “indivisible remainder” which makes the sexual relationship inexistent, one can understand how Y a d'l'Un is strictly correlative to il n'y a pas de rapport sexuel: it is the very object‐obstacle to it; it is not primarily the mystical all‐encompassing One of the infamous “oceanic feeling” derided by Freud, but a “little piece of the Real,” the excremental remainder which disturbs the harmony of the Two. The equation of the two excesses (jouissance feminine and Ur‐Vater) also makes sense: it points towards Lacan's statement that “woman is one of the names of the father.”

What makes Zaloszyc's solution problematic is that it is ultimately incompatible with the very logic of the non‐All to which it refers: it reduces it to the “masculine” logic of exception; symptomatically, Zaloszyc himself uses the term “exception” to designate the feminine position: “The feminine side of sexuation will present itself, not without a tie to the phallic signifier, but also not without having preserved a relation with the jouissance One”; this is what “makes a woman an exception,” namely an exception to the phallic‐symbolic order.

How are we to relate the One of Y a d'l'Un (“there is [some] One, something of a One,” developed by Lacan in Seminar XX [Encore]) to the series of unary signifiers, prior to their unification through a phallic Master‐Signifier—the infinitely self‐divisible series of S1 (S1 (S1 (S1…))), which also replicates the frame of the materialist ontology of multiplicities and Void? There is a good reason Lacan uses the common French expression Y a d'l'Un, which is as far as possible from the elevated mystical assertion of the One beyond all being(s), epekeina tes ousias (like “there is water there”—an unspecified quantum). However, the One of Y a d'l'Un is not yet the One of counting: the diffuse “there is something of the One” precisely prevents the fixation of limits which would render possible the counting of Ones. What if one reads Lacan's Y a d'l'Un as the formula of the minimal libidinal fixation (on some One) constitutive of drive, as the moment of the emergence of drive from the pre‐evental One‐less multiplicity?

As such, this One is a “sinthome,” a kind of “atom of enjoyment,” the minimal synthesis of language and enjoyment, a unit of signs permeated with enjoyment (like a tic we compulsively repeat). Are such Ones not quanta of enjoyment, its smallest, most elementary packages?

Obscurantist idealists like to vary the motif of “almost nothing”: a minimum of being which nonetheless bears witness to divinity (“God is also present in the tiniest speck of dust …”). The materialist answer to this is the less than nothing. The first to propose this answer was Democritus, the father of Ancient Greek materialism (and also, incidentally, one of the first to formulate the principle of equality—“Equality is everywhere noble,” as he put it). To express this “less than nothing,” Democritus took recourse to a wonderful neologism den (first coined by the sixth‐century‐BC poet Alcaeus), so the basic axiom of his ontology is: “Nothing is no less than Othing,” or, as the German translation goes, “Das Nichts existiert ebenso sehr wie das Ichts.”45

It is crucial to note how, contrary to the late Wittgensteinian thrust towards ordinary language, towards language as part of a life world, materialism begins by violating the rules of ordinary language, by thinking against language. (Since med'hen does not literally mean “nothing,” but rather “not‐one,” a more adequate transposition of den into English would have been something like “otone” or even “tone.”46)

The Ancient Greeks had two words for nothing, meden and ouden, which stand for two types of negation: ouden is a factual negation, something that is not but could have been; meden is, on the contrary, something that in principle cannot be. From meden we get to den not simply by negating the negation in meden, but by displacing negation, or, rather, by supplementing negation with a subtraction. That is to say, we arrive at den when we take away from meden not the whole negating prefix, but only its first two letters: meden is med'hen, the negation of hen (one): not‐one.

Democritus arrives at den by leaving out only me and thus creating a totally artificial word den. Den is thus not nothing without “no,” not a thing, but an othing, a something but still within the domain of nothing, like an ontological living dead, a spectral nothing‐appearing‐as‐something.

Or, as Lacan put it: “Nothing, perhaps? No—perhaps nothing, but not nothing”;47 to which Cassin adds: “I would love to make him say: Pas rien, mais moins que rien (Not nothing, but less than nothing)”48—den is a “blind passenger” of every ontology.49 As such, it is “the radical real,” and Democritus is a true materialist: “No more materialist in this matter than anyone with his senses, than me or than Marx, for example. But I cannot swear that this also holds for Freud”—Lacan suspects Freud's link to kabbala obscurantism.50

In characterizing den as the result of “subtraction after negation” (something—nothing—othing), Cassin, of course, cannot resist the temptation to have a stab at Hegel: “It cannot be dialecticized precisely insofar as it is not an assumed and sublated negation of negation, but a subtraction after negation.”51 The rise of den is thus strictly homologous to that of objet a which, according to Lacan, emerges when the two lacks (of the subject and of the Other) coincide, that is, when alienation is followed by separation: den is the “indivisible remainder” of the signifying process of double negation—something like Sygne de Coûfontaine's tic, this minimal eppur si muove which survives her utter Versagung (renunciation). The later reception of Democritus, of course, immediately “renormalized” den by way of ontologizing it: den becomes a positive One, atoms are now entities in the empty space, no longer spectral “othings”(less‐than‐nothings).

The neologism den evokes density and thus points towards the primordial, pre‐ontological, contraction: den is, arguably, the first name for Lacan's Y a d'l'Un—there are ones, minimal points of contraction, of ens which is not yet the ontologically constituted One. Perhaps, an anachronistic reference to Kant can nonetheless be of some help here: meden follows the logic of negative judgment, it negates being as a predicate, while den asserts non‐being as a (positive) predicate—den is nothingness (the void) which somehow “is” in itself, not only as a negation of (another) being. In other words, den is the space of indistinction between being and non‐being, “a thing of nothing,” as the “undead” are the living dead. (The well‐known “Panta rei, ouden menei” of Heraclitus can thus be read as: “everything flows, nothing remains”—“nothing” as the very space of indistinction of things and no‐thing.)

Predictably, the Eleatic Melissus, in his critique of Democritus, dismissed den with the scathing remark that “far from being a necessary existent, [it] is not even a word.” In a way, he is right: we need a non‐word to designate something that, precisely, does not yet exist (as a thing)—den lies outside the scope of the unity of logos and being. Democritean atomism is thus the first materialist answer to Eleatic idealism: Eleatics argue from the logical impossibility of the void to the impossibility of motion; Democritean atomists seem to reason in reverse, deducing from the fact that motion exists the necessity that the void (empty space) exists. The ultimate divide between idealism and materialism does not concern the materiality of existence (“only material things really exist”), but the “existence” of nothingness/the void: the fundamental axiom of materialism is that the void/nothingness is (the only ultimate) real, i.e., there is an indistinction of being and the void. If, for Parmenides, only being is, for Democritus, nothing is as much as being. In order to get from nothing to something, we do not have to add something to the void; on the contrary, we have to subtract, take away, something from nothing. Nothing and othing are thus not simply the same: “Nothing” is the generative void out of which othings, primordially contracted pre‐ontological entities, emerge—at this level, nothing is more than othing, negative is more than positive. Once we enter the ontologically fully constituted reality, however, the relationship is reversed: something is more than nothing, in other words, nothing is purely negative, a privation of something.

This, perhaps, is how one can imagine the zero‐level of creation: a red dividing line cuts through the thick darkness of the void, and on this line, a fuzzy something appears, the object‐cause of desire—perhaps, for some, a woman's naked body (as on the cover of this book). Does this image not supply the minimal coordinates of the subject‐object axis, the truly primordial axis of evil: the red line which cuts through the darkness is the subject, and the body its object?

※注

40 Dolar, “In Parmenidem Parvi Commentarii,” p. 67.

41 Ibid., p. 81.

42 Ibid., p. 82.

43 Armand Zaloszyc, “Y a d'l'Un,” intervention at the Congress of the World Association of Psychoanalysis, Rome, July 13–16, 2006.

44 Ibid.

45 This translation probably relies on Meister Eckhart, who had already coined “Ichts” as a positive version of “Nichts,” i.e., the void in its positive/generating dimension—the nihil out of which every creation proceeds. What Eckhart saw was the link between the subject and negativity.

46 Not to mention the weird fact that, in English, den means “cave, hideout, nest, safe place.”

47 Lacan, The Four Fundamental Concepts of Psycho‐Analysis, p. 62.

48 Alain Badiou and Barbara Cassin, Il n'y a pas de rapport sexuel, Paris: Fayard 2010, p. 82.

49 Jacques Lacan, “L'Étourdit,” Scilicet 4, Paris: Seuil 1973, p. 51.

50 Ibid.






2015年7月6日月曜日

現代日本の「自由のアマゾンヌ」たち




いい女がそろってるねえ
デモというのは、どうして女たちのほうが絵になるんだろ




おい、若い男ども、写真を撮りにいくだけでもいいから参加しろ!




総理がSEALDsを非常に気にしている。これまでネットの意見で若い世代に憲法改正を望む声が強いことから、総理は自分の路線が若者に支持されていると考えていた。選挙権の年齢引き下げも自民党に有利に働くとの読みがあった。

 しかし、渋谷のデモに多くの若者が参加するなど、予想に反する動きが広がっている。このままでは70年安保の新宿フォークゲリラ、神田カルチェ・ラタンのように、今後は渋谷が若者の反対運動拠点になりかねないと心配している。(裸の首相 裸だと指摘する者はメディアでも子供でも黙らす

現代日本版「自由のアマゾンヌ」に魅了されてヘボ男どももーーシツレイ!--参加すれば、こうなるのも夢じゃないぞ。





‏@bcxxx 7月3日この連ツイ、さっき途中で電池が切れてしまった。なぜこれを書いたかと言うと、TLで「15日に強行採決だとするとあと金曜日は2回しかない!」みたいな悲痛な声をいくつか見たからです。…全然違う。むしろ衆院で強行採決されてからが本番です。

衆院で強行採決をすれば、安倍の支持率は猛烈に低下する。そこからさらに参院で「みなし否決」までの60日を、安倍政権は国民の猛反対に晒されながら過ごすことになる。与野党共に政界にも様々な軋みが出てくる。政界地図に激変が起きるかも知れない。

安倍はこの夏を、民衆の怒りの炎に焼かれて火だるまになりながら進む道を選んだわけです。その間に、恐らくよほどのことがなければ安倍は総裁に無投票再選されるでしょう。そこまではもうレールが敷かれている。まずゆらがない。しかしその後がいよいよ安倍降ろしの本番です。

強行採決はガソリンです。安倍が頭からガソリンをかぶってくれる。火を点けて煽りまくり、焼き尽くすのは国民です。だから本当に衆院の強行採決は過程でしかない。むしろスタートラインでさえある。そして安保法制が最終的に可決されても、それもまたスタートラインであり、プロセスの途中に過ぎない。

学生さんたちは、他の世代が決して経験しなかった、凄い夏休みを経験することになる。一生の思い出に残る、日本の歴史の1ページに残る夏休みです。思う存分青春を爆発させてください。勤労者のおじさんたちも頑張って頭数になるよ。やってやろう!

それともお前らこっち系か?

@hazuma: 安倍政権にNOはいいけれど、というかぼくもそりゃNOなんだけど、それでつぎだれ/どの政党に政権任すの?という具体的な名前がないままに運動しても、それはやっぱり無責任のそしりは免れないわけでね。。(東浩紀)

ようするにデモに参加しないことの言い訳だな、これは。

※「野田やめろデモ」に向けての声明 (柄谷行人起草)

 野田が辞めたら、もっとひどい者が出てくる、自民党に戻ってしまう、という意見があります。しかし、そのときは、もっと反対すればよい。また、前任者が大衆的な反対運動で辞めた場合、新任者は同じことをやれないでしょう。それに対して、われわれが現政権をバカにするだけで、何もしないでいるなら、結局、マスメディアにおいて大衆的な人気のあるデマゴーグに政権を与えることになる。それこそ最悪です。




 Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.--Samuel Beckett "Worstward Ho" (1983)

何度やってもダメだったからって、それがどうしたのだ。もう一度やって、もう一度ダメになればいいのだ。以前よりマシならば、それでいいのだ。(ベケット)

昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。だから、ネットの世界でも議会政治と同じようになります。それが、この3月11日以後に少し違ってきた。以後、人々がデモをはじめたからです。インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。

 たとえば、中国を見ると、「網民」(網はインターネットの意味=編集部注)が増えているので、中国は変わった、「ジャスミン革命」のようなものが起こるだろうと言われたけど、何も起こらない。起こるはずがないのです。ネット上に威勢よく書き込んでいる人たちは、デモには来ない。それは日本と同じ現象です。しかし、逆に、デモがあると、インターネットの意味も違ってきます。たとえば、日本ではデモがあったのに、新聞もテレビも最初そのことを報道しなかった。でも、みんながユーチューブで映像を見ているから、隠すことはできない。その事実に対して、新聞やテレビ、週刊誌が屈服したんだと思います。それから段々報道されるようになった。明らかに世の中が変わった。しかし、それがインターネットのせいか、デモのせいかと問うのは的外れだと思います。(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」



ーー「エジプト革命」後4年経ってどんな具合になっているかだって? 
では、あの「奇跡」はなかったほうがよかったとでもいうのだろうか。

季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。(……)

「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを。(ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』)


2015年7月5日日曜日

ファルスΦと対象aの相違、あるいは二重の欠如

対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」に引き続く。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]).
ファルスは対象ではなく、他の源泉、すなわち対象aから来る享楽を統制する事例instanceである。これらの享楽は、ファルスのシニフィアンによって解釈されることを通して統制され、ファルスの快楽に変わる。構造的に、この象徴化は不完全のままである。対象aは、象徴化に抵抗する現実界の部分である。(Verhaeghe, P. & Declercq, F. (2003). Lacan's analytical goal: "Le Sinthome" or the feminine way

ーーΦ(象徴的ファルス)=S1(主人のシニフィアン)でありうるのは、「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」にて見た。以下の文の主人のシニフィアンは象徴的ファルスとして読もう。


◆ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012(私訳)より

…… (ふたつのあいだの)形式的な相同性、主人のシニフィアンの再帰的な論理ーーシニフィアンの欠如のシニフィアン、欠如の代替物(充填物)として機能するシニフィアンーー、そして対象aの論理も、またラカンによってくり返して定義されたように、欠如の充填物である。その地位は純粋にヴァーチャルであり、それ自体のどんな実体的一貫性もなく、ただ象徴秩序における欠如の実体化positivizationである。

何かが象徴秩序から逃れさる。そしてこのXが、対象a、私がしらないものje ne sais quoi として実体化される。それが、私にある物や人を欲望させる。(……)

しかしながら、主人のシニフィアンと対象aのあいだのこの形式的な類似に騙されるべきではない。どちらの場合も、欠如を埋める実体entityとして扱えるようにみえるが、対象aを主人のシニフィアンと分け隔てるものは、対象aの場合、欠如が二重化されていることだ。すなわち、対象aは、二つの欠如の重なり合いの結果である。その二つの欠如とは、〈大他者〉(象徴秩序)にある欠如と対象にある欠如である。ーー例えば、視覚領野において、対象aとは、我々が見ることのできないもの、絵画にかんするなら我々の盲点である。

二つの欠如の各々は互いに独立して作用しうる。我々はシニフィアンの欠如を持ちうる、例えば「言葉が行方不明になる」という豊かな経験をしたときに。あるいは我々は視覚において欠如を持ちうる。その欠如のために、まさに主人のシニフィアンと名づけられるシニフィアンがある。それは、対象の不可視の領域を再捕獲するようにみえる神秘的なシニフィアンである。

そこには、主人のシニフィアンの錯覚 illusionがある。すなわち主人のシニフィアンは対象aと合体する。そして主体の〈大他者〉/〈主人〉は、主体が欠如しているものを所有しているようにみえる。これをラカンは疎外と呼んだ。すなわち、主体が欠けているものを所有している〈大他者〉との主体の遭遇である。疎外にひき続く分離においては、対象aもまた〈大他者〉から、主人のシニフィアンから分離する。すなわち、主体は見いだすのだ、〈大他者〉もまた彼に欠けているものを持っていないことを。ラカンに従って金言を掲げれば、「aなしの私はないno I without a」である。〈私〉(たった一つの特徴unary feature、主体を表象するシニフィアン化の徴)が出現するときはいつでも、〈a〉が伴うのだ、リアルの意味作用における喪われたものの代替物としての〈a〉が。

それでは、対象aは、S1の、主人のシニフィアンのシニフィエだろうか。一見そのようにみえるかもしれない。というのは、主人のシニフィアンは、まさに図り知れないXーー「ふつうの」シニフィアンたち (S2)の連鎖によってシニフィエされる一連の実体的な属性から逃れるXを意味づけるsignifiesのだから。しかし、より精緻にみると、我々はその関係はまったく正反対であることが分かる。すなわち、シニフィアンとシニフィエのあいだの分解にかんして、対象aはシニフィアンの側にあり、それはシニフィアン“の中の/の”欠如を埋める。他方、主人のシニフィアンは、シニフィアンとシニフィエのあいだの「縫合点」であり、その点において、シニフィアンはシニフィエのなかに落ちる


※ジジェクは、“the signifier falls into the signified.”(シニフィアンはシニフィエのなかに落ちる)と記しているが、引用元の記載はない。

ただし、ラカンのセミネール20に次の表現はある。《il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié》

il y a du signifiant qui passe sous la barre. S'il n'y avait pas de barre vous ne pourriez pas voir qu'il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié

(フィンク英訳)

Were it not for this bar above which there are signifiers that pass, you could not see that signifiers are injected into the signified.

(フィンク注)

Lacan's French here, vous ne pourriez pas voir qu'il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié, is rendered a bit odd because Lacan doesn't say a signifier or several signifiers, but rather some signifier, in the sense un which we speak in Enghsh about "some bread" or "some water," in other words, as an unquantifiable substance. Here, signifier is injected into the signified, apparently like fuel is injected into an engine.

ーーー「シニフィアンがシニフィエのなかに投入される」とは、見たところ、「ガソリンがエンジンのなかに投入される」というようなものだ、とされている。

…………

※附記:「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」より

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテールLituraterre」(Autres écrits所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S とJを永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊specterである。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際littorale」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテールLituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際littoraleがある」と言うとき、jouis‐senseの喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式signifying formula of enjoymentに還元された文字のjouis‐senseを、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

※附記2:

象徴秩序、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者One〉を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムとしての象徴秩序は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。それ故、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二項対立の論拠、ある者かそのある者でないか、を適用することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe、Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2002 私訳)
性の差異が、ファルスのシニフィアンにどう関係するのかのパラドックス…。我々がシニフィアンとしてのファルスを考えるとき、そして能力、肥沃性等々のイメージ(シンボル)としてのみ考えるのではないとき、我々は先ずは次のように考えるべきである。すなわち、ファルスとは、女性はペニスが欠けているといまさにその事実のせいで、彼女に属する(もっと正確にいえば、母に属する)何かだと。

だから、こうではないのだ、最初の瞬間、男は「それを持っている」、そして女は「持っていない」、そして次の瞬間、女は「それを持つ」ことを幻想する、ーーこうではない。ラカンは『エクリ』のまさに最後のページでこう書いている、「母のペニスの欠如が、《ファルスの特性natureが現れる場処である》。我々はこの指摘を最重要なものとして扱わねばならない。それはまさにファルスの機能とその特性を区別するのだから」( Miller, “Phallus and Perversion”)

そしてここである、我々が、フロイトのフェティッシュという人を迷わす「ナイーヴな」概念を修復すべきなのは。それは、主体が女にペニスの欠如を見る前に見た最後のものとしてのフェティッシュである。フェティッシュが覆うものは、単純に、女におけるペニスの不在ではない。そうではなく、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者」的な意味で、差延的differentialであるという事実だ。
ファルスのシニフィアンをこのような複雑な概念にしているのは、象徴界、想像界、現実界の局面が絡み合っているだけでなく、「否定の否定」の過程を不可思議にも模倣するような二重の自己再帰段階があるからだ。それは三つの水準に要約される。

(1)ポジション:喪われた部分、主体がシニフィアンの秩序に入る(あるいは帰順する) とともに喪いかつ欠けてしまった何かのシニフィアン。 (2) 否定:この欠如のシニフィアン。 (3) 否定の否定:欠如する/喪うlacking/missingシニフィアン自体。

ファルスは象徴界への入場に伴って喪われた(犠牲にされた)部分である。と同時に、この喪失のシニフィアンである。 (このように、ファルスのシニフィアンと父の名、父の法のあいだにはリンクがある。ここでもまた、ラカンは同じ自己再帰的な反転を成し遂げている。父の禁止はそれ自体禁止されなければならない、と)。なぜこれはそうなのだろう? なぜ禁止自体が禁止されなけれならないのか? 答えは次の通り。すなわち、「メタ言語はない」から。……(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)
ファルスの用語に関して、ラカンは、セミネールⅩⅩにて、ファルスを、シニフィアンとシニフィエ (S/s)のあいだの横棒と同じものとして扱っているのに注意しよう.(Bruce Fink  “KNOWLEDGE AND JOUISSANCE ”)

2015年7月4日土曜日

享楽 (a) とファルス化された対象a(Paul Verhaeghe)

幼児のセクシャリティは自体愛的ではない(Paul Verhaeghe)」補遺。

表題を「享楽 (a)とファルス化された対象a」としたが、この観点は次ぎの通り(論者によっては、二つどころか、より精緻に対象aの五つの定義を示す場合さえあるのは「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」で見た)。

……フロイトと対照的に、ラカンは欠如を二重化する。一方で、現実界的な対象aの喪失がある。他方、それは、二次的な欠如を通して象徴界と現実界の混淆において加工される(“ファルス化された”対象a)。(Paul Verhaeghe、Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real,1999)

「ファルス化された対象a」とあるが、ファルスは対象aの一形態である(ただしそれだけではない(「特別の地位」。ジジェク2012も同様の見解を示している)。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001])

以下、もちろんのこと一つの解釈であり、別の(多様な)見解があることはいうまでもない。


◆Paul Verhaeghe ,OBSESSIONAL NEUROSIS. The Quest for Isolation 2001より(私訳)

どの神経症も、いやさらにどの神経症の症状でさえ、次のふたつのレヴェルをもっている。一方で、現実界の核、たとえば欲動の根あるいは固着、他方で、象徴界-想像界のレヴェルでのーーたとえば〈他者〉のレヴェルでのーーその防衛的な作り直しworking-overである。私の読み方では、神経症の一般的なスキーマは次の通り。



原防衛を通して、享楽 (a) と主体のあいだの最初の内的葛藤(a →$) は、主体と他者のあいだの関係に接続する。すなわち、$◇A。

菱形紋 ( ◇ )は、主体-他者の関係における疎外(結合/同一化)と分離にあいだのフライホイールflywheelの動きを示す。

この二つのレヴェルを通して、さらにまた別の対立が作用する。すなわち欲動自体の内的対立である。フロイトが快と不快にかんして抱いた問題ーー何が快で何が不快なのかーーは、この内的な矛盾に密接にかかわる。

生の欲動あるいはエロスは、融合を目指す。それは緊張の増大をもたらす。このことは、〈他者〉との融合として理解される疎外過程の基礎を形づくる。死の欲動あるいはタナトスは、分離を目指す。それは緊張の低下をもたらす。このように、フロイトによって使用された用語の観点にては、我々はパラドックスを押しつけられたままである。

いわゆる死の欲動は、(a) とAから隔離されるとはいえ、自我にとっての生の継続を目指す。他の欲動であるエロスは、自我の死を意味する。というのは、それは、融合を通して、(a) とA のなかに自我が消滅することを余儀なくさせるから。

(a) と主体のあいだの関係(a →$) の最初の防衛的エラボレーションは、エディプス構造を通して遡及的に処理される。こうして、その関係はファルス的-性的な関係に変わる。

原防衛は、(a)の享楽それ自体に向かったが、二次的な防衛は、つねにファルス的なもの(a/− φ)にかかわる。今度は、主体と〈他者〉のあいだなのである。彼(女)自身を分離あるいは疎外(タナトス/エロス)しなければならない代わりに、主体は部分対象へと向かうことが可能になる。

ここでのエロスが《自我の死を意味する。というのは、それは、融合を通して、(a) と大他者A のなかに自我が消滅することを余儀なくさせる》とは、ヴェルハーゲ解釈では次の文にかかわる。

エロスとタナトスの二つの欲動は、全く反対の目的を目指す。一方で、融合することが、フロイトがエロスと呼んだものであり、分離することがタナトスである。そしてそれぞれ独自の快を持っている。この観点から、我々はなぜ「とことんまでall the way」行かないのかという我々の問いへの答えを示唆しうる。

まず最初に二つの相克する方向のせいであり、第二にどの方向も主体にとって堪え難い最終的な代償があるせいである。

タナトス欲動は理解するのに簡単だろう。それは解放とゼロテンションにむけて励む。それは最終段階としての死、そして死に向かった強烈な踏み台としてのオーガズムである。フロイトにとって、タナトスの目標とは分離であり、より大きな統一体からより小さな断片への絶え間ない分裂である。主体の水準において、これが意味するのは、他者からの分離であり、強化された個人的特性ーー私はここにいる、独立した人間として存在する、である。

エロスの目標は全く反対だ。それは融合であり、異なった要素を統合して、より大きな全体とすることである。そこでは個々の要素は、その個人的特性を失う傾向にある。生は、絶えず増大する緊張の集合体であり、それは純粋な享楽である。もっとも個人にとってはそうではない。個人は集合体へと消滅してしまう。個人はこの消滅をきわめて怖れることになる。

単独でタナトス欲動に従えば、我々は孤立して最終的には死ぬ。もっぱらエロス欲動に従えば、同様に我々は消滅する。今度はより大きな統合に飲み込まれるのだ。どちらもそれぞれ固有の享楽がある。どの人間も彼(女)自身の道の地図を作らねばならない。フロイトは、標準的な環境においては、二つの欲動は混ぜ合わされ(欲動融合Triebmischung)、各個人の人生において絶え間なく変化するカクテルだと言う。

ラカンはこのフロイトの論拠を引き継ぐ。享楽と死はきわめて近いものだ。享楽への道は、死への道である(Lacan, [1969-70], p. 18)。享楽それ自体、生きている主体には不可能である。というのはそれは自身の死を意味するのだから。唯一残された可能性は遠回りの道筋を取ることだ。目的地への到達を可能なかぎり遠くに延期してその道筋を行ったり来たりすることである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains(「古い悪党たちの新しい研究 2009)ーー「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって」)

ヴェルハーゲは、2004年に書かれた論文では(いささか挑発的に?)次のようにさえ言っている。

生の欲動(エロス)は死に向かい、死の欲動(タナトス)は生に向かう。

life drive aims towards death and the death drive towards life (『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』ーー部分欲動と死の欲動をめぐる覚書

挑発的としたがーーすなわち一般的な「常識」から外れる見解にようにみえるが、これは最晩年のフロイトのエロスとタナトスの解釈に基づく。

アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)

エロスは、《現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め》る。この融合によって個人としては死ぬ。タナトスは、《統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》、すなわち個人の生へと向かう。

この観点をとると、幼児の初期にあるだろう融合不安と分離不安が豊かに解釈できる。

フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。る(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009ーー「幼児のセクシャリティは自体愛的ではない(Paul Verhaeghe)」)

※他の参照としては、「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」を見よ。



2015年7月3日金曜日

対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)

【Lorenzo Chiesa2007による対象aの五つの定義の要点】

①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象 
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象 
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ 
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望 
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの(ただし厳密にはやや異なる)。

ーー私が出会った論文のなかで最も詳細にわたって対象aをめぐる叙述がなされているものだが、これがいかに説明されるかを、下に掲げる。

まずそのまえに対象aの「標準的な」説明では次ぎのように言われることが多い。

対象aの概念は、たぶんラカンによる精神分析理論への最もオリジナルな貢献である。小文字の "a," "autre,"の最初の文字は、他者との本質的な関係を示すとともに、数学的な意味での、アルジェブラの変数、あるいは「機能」を示すことが意図されている。(……)

たぶん対象aの最も挑発的な側面は、その閾的な特徴である。そしてそれは二つの意味において、である。まず、対象aは奇妙にも主体と他者のあいだに宙吊りになる。どちらにも属しているし、どちらにも属していない。同時に、〈他者〉のなかにある最も他者的なものを示すのだが、しかしそれは主体自身に親密につながれている。(……)

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。

しかし、対象aはまた二番目の意味でも限界的である。それはラカンの基礎的なカテゴリー、想像界、象徴界、現実界の三つのすべてに関与しつつ、そのどれにも限定的には属さない。想像界において、いかにも身体のイメージされた部分(乳房、糞便…)として、最も原初の表象を見いだす対象aではありながら、ラカンによって意図されているのは想像的なものの限界を徴づけもする。(Richard Boothby, Freud as Philosopher, 2001”より“FIGURATIONS OF THE OBJET”

以下、個人的資料とはいえ、二つの用語の定義めいたものーーおそらくこれ自体異論があるだろうーーだけを先に示しておく。


【S(Ⱥ) 】

「大他者 のなかの欠如のシニフィアン」[ signifiant d'un manque dans l'Autre ](Lacan, Écrits p.818)

すなわち、S(Ⱥ)/Ⱥと記すことができる(大他者のなかの欠如のシニフィアン/大他者の欠如)。

S(Ⱥ) ーー〈他者〉のなかの欠如のシニフィアン。〈他者〉は構造的に不完全であるので、欠如は〈他者〉の固有の特徴である。しかし、その欠如はつねに主体に明白であるわけではないし、明白であるときでさえ、つねに名づけ得ない。ここで我々はその欠如を名付けるシニフィアンをもつ。それは、全ての象徴秩序、全ての他のシニフィアン (S2)の「錨を留める点anchoring point 」であり、しかし精神病においては(父の名として)排除されている。女の構造のラカンの議論においては、それは、言語の物質性もしくは実体により関係(そしてsignifiernessとしての対象aに関係)があるようにみえる。(Fink,1995)
ラカンのテキストにおけるシンボルの意味は、長い年月をかけて、しばしば驚くほど変貌していく。私は提案しようと思う、セミネールⅥとⅩⅩの間で、S(Ⱥ)は、〈他者〉の欠如もしくは欲望を意味するものから、“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss.36を意味するものになっている、と(そのシフトは審級の変化に相当する。それはあまりにもしばしばラカンの仕事の事例である。すなわち象徴界から現実界である。すべての要素は“男たち”の下ではシンボリックにかかわり、“女たち”の下ではリアルにかかわるのが見出されることに注意を促しておく)。最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。

それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。

最初に除かれたシニフィアンの地位は、明らかに他のシニフィアンたちの地位とはまったく異なる、ーーそれは(象徴界と現実界のあいだの)境界現象以上のものーーそして原初の喪失、あるいは主体の起源にある欠如のシニフィアンと強い類縁性をもっている。こうして私は提案しようと思う、最初の除外、あるいは喪失は、ともかくも代表象あるいはシニフィアン、すなわちS(Ⱥ)に見出すことができる、と。(同上)

《〈大他者〉の最初の形象は母なのだから、「〈他者〉はいない」ということの最初の意味は母は去勢されているということである。》(ジジェク、2012)


【(基本的な)幻想】

幻想とは象徴界に抵抗する現実界の部分に意味を与えようとする試みである(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN)
ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「眼差し」自体である。(ジジェク、Conversations with Žižek, with Glyn Daly)
幻想の中にあらわれた欲望は主体自身の欲望ではなく他者の欲望、つまり私のまわりにいて、私が関係している人たちの欲望だということである。幻想、すなわち幻の情景あるいは脚本は、「あなたはそう言う。でも、そう言うことによってあなたが本当に欲しているものは何か」という問いへの答である。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹、おじ、おばが、彼のために戦いを繰り広げる。母親は息子の世話と通して、息子の父親にメッセージを送る、子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのかは、理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。どんな単純な幻想も、私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的な性格を見てとることができる。たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

…………

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa(2007)よりの私訳。

【(1)】対象aは、基本的な幻想のなかの欠如の想像的表象である。S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目cutのイメージである。そのようなものとしてまた、去勢 (−ϕ)の結果consequenceとしても理解されるべきだ。

【(2)】 対象aは、主体から想像的に切り離される取りはずし可能な部分対象である。そして定義上、「人がもはや持っていないもの」“what one n'a plus”(Le séminaire livre X, p. 139)である。

この意味で、(1) とは逆に、対象aと想像的ファルスϕは、互いに排他的なものではない。セミネールVIで、ラカンは明確に定義している、対象aを、象徴的ファルスΦによってもたらされた去勢の「効果effect」であり、かつ去勢の「対象」としての想像的ファルスϕであると。

しかしながらこの区別は、部分対象もまた対象aと呼ばれる事実、とりわけ部分対象のひとつがまさに想像的ファルスϕであることによって複雑化される(これに加え、基本的な幻想が形成されたとき、前性器的な対象である乳房と糞便が、ϕを通して遡及的にファルス化される)。(R. Boothby , Freud as Philosopher,2001)

【(3)】対象aは、現実界の欠如real lackであり、幻想のなかでのその想像(界)化imaginarizationに先行する。対象aは、シニフィアン化signifierizationされる前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥであり、それが上記の(1) を生み出す。この意味で、対象aは、喪われた現実界の対象real objectである。それは先ずなりよりも母の乳房であり、その喪失は想像的ファルスϕーー現実界Realのなかで喪われていない唯一の部分対象ーーを通した基本的な幻想のなかで遡及的にファルス化される。

人はかんたんに主張するかもしれない、 (2) と (3) の機能は、結局ひとつであり同じ要点だと。しかしながら、このような区別は教育上は興味深いものだ。それが示すのは、いかにラカンがーーセミネールVIの最後に向けて、そして特にセミネールXにおいてーー、漸進的に、対象aの現実界的側面を仮定することを余儀なくされたか、象徴界のなかの欠如としての現実界、《〈他者〉の他者性alterityの結局唯一の支えである「非合理的な残余」》(séminaire X)を仮定することを余儀なくされたかが分かる。いうまでもなく、対象aの最初の二つの(相反する)機能は、論理的にはこの三番目の機能に依拠している。

【(4)】 対象aは母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望である(See Seminar VI, lesson of June 3, 1959; Le séminaire livre X , p. 35.)。これが機能 (3)にいかにかかわるかは容易に理解されるだろう。乳房は、母なる〈他者〉の欲望が原初の欲求不満を引き起こしたときに、子どもによって初めて喪われる。すなわち、この欲望は後に、窮乏privationの瞬間にそれ自体として感知される。そして、去勢の後に遡及的に意味作用化signifierized/“緩和化mitigated"される。

対象aのこの四番目の機能は、いかにそれが主体の欲望の「原因」として理解されうるかを明白に証明している。それは「欲望の背後」、どんな「内面化」(Le séminaire livre X, pp. 120‒122)にも先行する「外部」に横たわっている。主体の欲望の出現の後にはじめて、対象aとしての母なる〈他者〉の欲望は欲望の対象となる。

【(5)】自己意識においては、対象aはラカンが呼ぶところのアガルマに関係する。アガルマ、すなわち隠された秘宝、他者のなかにあって彼自身以上のもの、そしてその理由で、主体は究極的に彼を欲望する。これは余儀なく隠蔽された部分対象ϕ以外のなにものでもない。それは自己意識のなかではつねに失われている対象である。そしてアガルマは、ただ想像的ファルスの欠如−ϕとして否定的にのみそれ自身を顕す。

ここで把握すべき最も重要な点は、主体はリビドーの注ぎ込みを、身体の非鏡像的な残余non-specular remainderの上に継続的に投影していることだ。それは理想自我によって維持される鏡像的関係を越えたものである(Le séminaire livre X, pp. 50‒52, p. 74)。

そのような注ぎ込みは、次のどちらの場合にも作用している。主体が要求の弁証法に囚われたままーー彼はつねに「なにか他のもの」を要求し、直接にはアガルマを求めていないーーそんな時。もうひとつは、彼が表立ってアガルマを欲望しているーー他者のなかにあって他者自身以上のもの、他者のなか/の空虚(彼自身の欲望)としてのアガルマを欲望していれる時。

注:《これ明白にふたつの異なった主体のポジションである。一方において、主体はつねに新しいことを要求しつづける。しかし彼はどの要求も「彼がほんとうに欲しいもの」と見なしている。他方においては、主体は(一時的に)、彼の愛をもとめる要求の満足の不可能性を想定する。そして、他者が彼に提供するものに対して「いいや、それじゃないんだ…」と言うことにより、彼は(空虚の)純粋欲望に接近する。

言い換えれば次のふたつを区別するのは必須である。たんなる欲求不満の結果である新しい想像的な同一化ーー日常生活において「数多くの「ナルシシスティックな」仮面がある、不満足の形式と同様に」 (Le séminaire livre V , p. 333)ーー、そしてもうひとつ、「恋に陥る」(相互の)経験に従った同一化。後者は、空虚としての現実界、アガルマが、想像的-象徴的な現実のヴェールを引き裂き、自己意識のなかに現れる束の間の瞬間との同一化である。

究極的にこの相違は、〈他者〉の要求(我々の要求において欲求不満にとらわれて、彼になにかを要求する、その結果として彼に同一化すること)と〈他者〉の純粋欲望(そして純粋に欲望する)への一時的なかかわりとのあいだの相違である。…》

しかしながら、Safouanは、アガルマは、厳密に言えば、隠蔽された部分対象としての対象a(あるいはϕ)とは異なることを正しく観察している。それは《部分対象aが現れない限りでのみ、アガルマとしての特質を保持する》xである(Safouan, Lacaniana)。注)あるいはむしろ、《対象aが、一時的に現れた後、すばやく消滅する限りでのみの》x

言い換えれば、xとしてのアガルマは、喪われた現実界の対象としての部分対象の「他の側」、意識の側である。ラカン曰く、《我々は「基本的な幻想」の「無意識の」ステージにいつもいるわけではない。ステージがとても遠くまで拡がる、夢の領域にまで拡がるときでさえ、そうではない。そして無意識のステージではなく、「意識の」側のままであるとき…我々はxとしての欠如だけを見出す》(Le séminaire livre X, p. 127)。

他方、部分対象が自己意識のなかにそれ自体として現れるのは、アガルマの空の場x、自己意識のなかの−ϕの直接の結果が、ある縁、ある開けーーそこでは鏡像イメージの構成はその限界を示すーーによって外接されうるときのみである。「窓」はこのようにして空虚に開かれる。

これが意味するのは、空虚それ自体が境界を画され、自己意識のなかで「物質化される」ということだ。ラカンはこの過程の生産物を「欠如の欠如」(−ϕの中断)という用語で簡潔に定義した。これは「不安の選択的坐」(Le séminaire livre X, pp. 127‒128)である。…

注:《セミネールVIにおける対象aの最初の詳細にわたる分析にて、ラカンははっきりと関連づけている、前性器的な部分対象を遡及的にシニフィアン化する「特権的な」部分対象をファル的ゲシュタルトに。これは数年後、確かにもう当てはまらくなった(ここでセミネールXIにおける欲動回路の議論を想い出すだけで十分だろう、そこでのラカンによる詳述には四つの部分対象のあいだにファル的ゲシュタルトは含まれていない)。

では我々はどのように理解すべきなのか、意識的な生活で究極の欲望の対象としてのアガルマの錯覚的「視覚効果」を作りだす隠された部分対象a(あるいは想像的ファルスϕ)を。定義上、鏡面性を超えるものとして、隠された部分対象a(あるいはϕ)は、眼差し以外のなにものでもない。

ラカンにとって、a としての眼差しは、ファルス的部分対象である。それは、基本的な幻想と個体形成が去勢を通して同時に出現したとき、想像的に失われた対象である。すなわち、眼差しは特権的な「性器的」対象aであり、それは遡及的に二つの種類の「前性器的」対象a(乳房と糞便)をファルス化したものである。

言い換えれば、すべてを網羅する性器的/ファルス的欲動それ自体はない。むしろ、性器偏重ーーポストエディプス欲望ーーは、視姦部分欲動partial scopic driveによって(そして対象aとしての声のまわりを循環する呼びかけ欲動invocatory drive によって)支えられている。すなわち人が「ファルス的に」恋に陥るのは、愛された者の目と声を超えたところに横たわっている言葉で言い表されないものje ne sais quoi によってである・・・。》

重なり合っているものとしての (4) と (5) の機能を理解することにより、対象aとしてのアガルマを欲望する主体は、ただ空虚/欠如としての〈他者〉の欲望を欲望しているに過ぎないことに気づく。ラカンはセミネールVにおいてはやくもこれを認知していたーー《欲望は欠如の欲望であり、その欠如は〈他者〉のなかの別の欲望を指す》(Le séminaire livre V , p. 329)ーーにもかかわらず、彼は通常このような定義がいかに二つの相反する意味をもつかを指摘しなかった。

もし欲望が欠如の欲望としての〈他者〉の欲望the desire of the Otherであるなら、これは、人の幻想の対象ーー欠如を表象する対象としての〈他者〉の欲望Other's desireを欲望することに等しい。かつまた〈他者〉の欲望Other's desireの純粋欲望に等しい。純粋欲望、すなわち還元不能な現実界の欠如、象徴界のなかの前幻想的なリアルな空虚、最初の場処において主体の欲望を生み出すものである。

とりわけ重要なことは、「幻想の操り人形」のレヴェルにおける主体の欲望と〈他者〉の欲望(“緩和化された”空虚としての)の同一化は、別のより本質的なレヴェルのものと混同すべきではないことだ。その別のレヴェルでは、幻想化を蒙っているにもかかわらず、〈他者〉の欲望は主体に知られないままであること、その欲望に遭遇したとき、不安が引き起こされる。

やや異なった観点から見れば、この区別が理解させてくれるのは、基本的な幻想における〈他者〉の欲望としての主体の欲望は、いかに未だ承認欲望のままであるかだ。結果として、承認欲望を擬似ヘーゲル的な意識的欲望概念ーーラカンが1950年代前半に受け入れたものーーへと追いやるのは間違っている。

ラカンが、欲望は欠如としての〈他者〉の欲望の欲望desire of the Other's desire as lackと言ったとき、これは次の可能性を必ずしも除外してはいない。すなわち、基本的な幻想において、同じ欲望が、同時に、無意識的承認の欲望であることを。

複合的な幻想の特性ーーそこでは逆説的にも欠如が表象されるーーのせいで、無意識的欲望は欠如への欲望であると同時に、この欠如を縫合sutureする欲望でもある。欠如が幻想のなかで縫合される限りで、欠如としての〈他者〉の欲望の欲望としての主体の欲望subject's desire as desire of the Other's desire as lack は、(幻想化された)承認欲望のままである。ーー欲望されることの欲望、よりよく云えば、〈他者〉に愛されることの欲望である。

主体の基本的な幻想が欠如を縫合するのは、$(斜線を引かれた主体)が同時に(主体の幻想のなかで)〈他者〉の欲望の対象aである限りである。

要点をふり返ってみよう。幻想のレヴェルにおいて、主体の欲望は〈他者〉の欲望であり、またその逆に、〈他者〉の欲望は主体の欲望である。これゆえ、(1) 主体の欲望は〈他者〉の欲望の対象aであり、さらに重要なのは、 (2) 主体の欲望は、究極的には、〈他者〉の欲望の対象aとなることの欲望である。

反対に、純粋欲望は〈他者〉のなかで「欲望すること(le désirant)」を欲望する、何を欲望するのかといえば、無意識的承認の幻想的なヴェールを超えたところに横たわっている〈他者〉のリアルな他者性alterityである。

このすべては次のように言うことによって再定式化できる。欠如としての〈他者〉の欲望への欲望としての〈他者〉の主体の欲望the subject's desire of the Other as desire for the Other's desire qua lackは、欲望を再生産する欲望としての〈他者〉の主体の欲望the desire for the Other as the desire to reproduce desire以外のなにものでもない、と。

すなわち、人が欠如としての〈他者〉の欲望を欲望し続けることができるのは、ただ幻想の式$◇a(そこではa は、「飼い馴らされた」欠如としての〈他者〉の欲望を表している)のなかで欲望を再生産し続けるときのみである。幻想を超えた「なまの欠如」として思い描かれる〈他者〉に欲望に直面しようとするどんな直接の試みも、不安を解き放ち、我々が見てきたように、逆説的な欲望の終結をもたらす。


2015年7月2日木曜日

幼児のセクシャリティは自体愛的ではない(Paul Verhaeghe)

原 和之)
 フロイトでは、いわゆる二大欲動である「生の欲動」と「死の欲動」、それから部分欲動という二つのものが同じ「欲動」というタームで語られてしまっているところがありますが、十川さんが「欲動」とおっしゃる時の欲動概念をフロイトの二つの欲動、つまり生の欲動と死の欲動のレベルと関連させると、どういうことになるんでしょうか?

(十川幸司)
 それはフロイトがかなりあとになって使った欲動の概念ですよね? 私が論じているのはもっぱら『性理論三篇』(1905年)の欲動論で、のちの生の欲動と死の欲動は、厳密には欲動の問題ではないと思いますが……。(来るべき精神分析のために

※参照:部分欲動と死の欲動をめぐる覚書

以下、上の十川氏の見解と齟齬があると思われるポール・ヴェルハーゲの考え方のメモ。

◆Sexuality in the Formation of the Subject Paul Verhaeghe 2005(私訳)ーー原文は、「Publicaties van Paul Verhaeghe」から拾うことができる。

一般的に、幼児のセクシャリティは厳密に自体愛的だと言われる。だが、私の視点からすれば、これはフロイトとその幼児セクシャリティの間違った読解である。(……)

〈他者〉を導入することによって、前期フロイトの部分欲動と後期フロイトのエロス/タナトスを結びつけることができる。(……)

フロイトにとって、人間の発達の出発点は、元々からある不快の経験、痛みSchmerz (フロイト『Entwurf 』1895)と呼ばれるものだ。それは内的な欲求、典型的には、空腹や渇きから生じる。

フロイトは、この痛みを緊張の集積として理解する。この興奮を(諸)部分欲動component drivesの影響として理解するのはそんなに難しくない。幼児のこの不快な状況に対するリアクションは典型的なものであり、全てのそれに引き続く間主観-間主体的なintersubjective関係の基礎となる。無力な赤子は泣き叫んで他者に向かう。他者は「独自の行動」で世話をし、内的な緊張を取り除こうとする。このような介入は常に言葉と行動の組合せでなされる。それは子どもに示すだろう、〈他者〉は要求を理解し応答しよう努めることを。

この最初のふれあいinteractionの重要性は見逃し得ない。というのは全てのそれに引き続く関係の基礎となるものだから。

第一に、(諸)部分欲動component drivesによって引き起こされた元々の身体的somatic緊張は、しっかりと〈他者〉につながるものとなる。その意味は、部分欲動はまさに最初から間主体的局面をもつということだ。〈他者〉は私の緊張を取り除く責任があると見做されるのだから、いっそうそうだ。

第二に、まず初めに、未来の主体subject-to-beは受動的な位置を取らなければならない。彼(女)は完全に〈他者〉に依存している。

第三に、我々はここで出会うだろう、どの主体にもある原初の不安に。その意味は分離の不安である。〈他者〉の不在、あるいは他者の応答の欠如は堪えがたい。

したがって、我々はここに原初の渇望をも同様に見出すことができる。例えば、〈他者〉と一つになりたいということだ。後ほど見るように、これらの三つの点のどれもが、さらなる主体形成のあいだに、反対方向へと向かう。

エディプス期は主体に〈他者〉の欠如の責任を取るよう促す。いやその前でさえ、能動的立場への促しが既にはっきりしている。分離への不安はふつうは自律への欲望に取って代わられる。唯一、残っている変わらぬことは、〈他者〉の反応が未来の主体subject-to-beのアイデンティティを決定づけることだ。我々はこの最後の点に焦点を絞ろう。

元々、心的なアイデンティティなどというものは何もない。乳幼児は有機体として機能する。自動的に欲求と部分欲動によって駆り立てられる。精神分析の伝統では、これが自体愛の時期であり、その後自我が発達する。

公式のフロイト理論では、自我が発達するのは、ナルシシズムの時期なのだ。もっともフロイトはこの点についてあまり鮮明ではないが。ずっと興味深いのは、フロイト理論でほとんど忘れられている箇所に注意することだ。おそらくそれは、主体と他者のあいだの触れ合いを通してアイデンティティの発展のより良い理解をもたらしてくれるだろう。

これについて、フロイトは(1920g: 1925h) 、「原初の自我primal ego」、リアル自我 real ego」、さらには外部の世界に直面した細胞cellについてさえ語っている。

発達過程は原初の自我primal egoと外部の世界とのあいだの相互作用を以て始まる。その結果、自我は、この外部の世界の三つの異なった局面の差異化をするようになる。

それは快を生むもの、不快を生むもの、そして無関心なものである。注意すべきなのは、このような区分けは満足とともに為されることであり、それゆえ緊張の高まりと低下を伴っている。

フロイトは多かれ少なかれこの過程を生物学的に、さらには動物行動学ethologicalの用語で叙述している。原初の進展する有機体organism-in-process、細胞が、文字通り外部の世界の部分を取り入れるのだ。

快として見出したものは何でも内部に取り込む。不快を生み出されたものは何でも外部に送り返す。この意味は、緊張と緊張の解除の経験がアイデンティティ発達それ自体を齎すということだ。そしてこのアイデンティティは全ての外部から来る。

原初の進展する自我primitive ego-in-processは外部の世界に遭遇し、文字通りその一部を取り入れる。不快な部分は可能なかぎりすばやく叩き出す。このように初期の段階では、外部の世界と悪い非-私bad not-I は同じものである。

逆に、快の部分は内部に居残る。これが意味するのは、原初の自我primary egoと快は同じものだということである。それをフロイトは原初の快-自我primitive pleasure-egoと呼んだ。

これらの取り入れと吐き出しの過程は、後の判断の知的機能の先駆であり、肯定(Bejahung)は取り入れの代用であり(「はい、これは私のものよ」)、否定は吐き出しの後継である(「いいえ、私のものじゃないわ」)。

注意すべきなのは、フロイトにとって肯定はエロスと融合の側にあり、否定は分離・分解に向かう死の欲動の傾向の結果effectだということだ(Freud 1925h)。

全ての過程は快と不快の経験、すなわち興奮の高揚と低下によって方向づけられる。人間の発達において、文字通りの取り入れと吐き出しは、ほどなく知覚イメージの取り入れと吐き出しに取って代わられる。

イメージが言葉につながった点で、触れ合いについての心底人間的なものが始まる。この主要な発達段階が意味するのは、その時期以降、我々はもはや有機体と外部の世界のあいだの交換ではなく、主体と〈他者〉のあいだの交換を取り扱うということだ。

具体的に言えば、母の乳房から母の舌への移行である。この理由で、ラカンにとって〈他者〉、大文字のそれは、具体的な他者と他者が子どもに言うことの全てを指し示す。

アイデンティティの形成は同じままながら、言葉とイメージの使用は他のメカニズムを導入する。文字通りの快を与える「外部」の取り入れの代わりに、〈他者〉のあるシニフィアンとの同一化をするようになる。

文字通りの不快な「外部」の吐き出しの代わりに、不快を生み出すものを抑圧-放逐repressionするようになる (Freud, 1915c, 135ff).。

ここでラカンのほうに向いてみるなら、フロイト理論をラカンの鏡像段階に重ねてみることはとても容易だ。

簡潔に要約してみよう。ラカンの理論は次の通り。最初に、乳幼児は(諸)部分欲動component drivesから来る興奮を、何か外部のものとして経験する。それは「ラカン派」では、文字「a」で示される。

幼児はこれらの欲動を制御できない。いやさらにそれらを自身の全体としての身体として経験することさえできない。ただ母の反応を通してのみなのだ、子どもが自身の身体に心理的にアクセスできるのは。というのは、それが何であるかのイメージを子どもに表象するのは母なのだから。……

(以下、略)


途中、分離不安という言葉がでてくる。ヴェルハーゲはここではそれを強調しているが、後に分離不安/融合不安と定式化することになるPAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009(「古い悪党たちの新しい研究」)。

フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。

Pur ti miro:(ただあなたを見つめ)

歌をうたうとかさ、そういうことが大事だってことをもう一度思い出さなきゃ。大事なのは、音楽が非常にパーソナルな、個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。-武満徹

《彼はピアノの回想そのものが、音楽についての彼の物の見かたをゆがめていることを知った》(プルースト)

われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳) 

《〈対象a〉は奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によって歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。》(ジジェク『ラカンはこう読め』p121)

対象aは、アガルマーー〈あなた〉のなかにあって〈あなた自身〉以上のものーーであり、かつ究極的には〈あなた〉を見つめる眼差し自体である。

◆Anne Sofie von Otter, Sandrine Piau, Monteverdi, L'incoronazione di Poppea, "Pur ti miro"





「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。
私をそのようにした、私の中にあるものは何? 
私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」

ーーシェークスピア『リチャード二世』

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”より

◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans le bois"; G. Fauré




はじめてヴェルデュラン家を訪れた晩、あの小楽節を演奏してもらった彼が、その夜会のあとで、なぜ小楽節が匂のように愛撫のように自分をとりまき自分をつつんだかを見きわめようとつとめたとき、あの身の縮まるような、冷気のしみこむような、快い印象がわきおこったのは、小楽節を構成する五つの音のあいだのわずかなひらきと、それらのなかの二つの音の不断の反復とによることをスワンは理解したのであった、(……)彼はピアノの回想そのものが、音楽についての彼の物の見かたをゆがめていることを知ったし、また音楽家にひらかれている領域は、七つの音の貧弱な鍵盤ではなくて、際限のない、まだほとんど全体にわたって知られていない鍵盤であり、そこにあっては、鍵盤を構成している愛情、情熱、勇気、平静の幾百万のキーのうちのいくつかが、わずかにあちこちに、未踏の地の濃い闇によってたがいにへだてられて、それらのおのおのは、ちょうど一つの宇宙が他の宇宙と異なるように、他のキーと異なっているのであって、それらは、数人の大芸術家によって発見されたので、その人たちとこそ、彼らの見出したテーマと交換しあうものをわれわれのなかに呼びさましながら、どんな富が、どんな変化が、われわれの空虚と見なし虚無と見なす魂のあのはいりこめない絶望的な広大な闇のなかに、知られずにかくされているかをわれわれのために見せてくれるのだ、ということを彼は知るのであった。(「スワン家のほうへ 第二部」)

◆Magda Tagliaferro plays Fauré Ballade Op. 19(1928)




ヴァントゥイユのソナタの聴取の記述に最も大きなインスピレーションを与えたものと、プルーストの書簡から読み取られるのは、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタである。しかし奇妙なことに、プルーストはサン=サーンスについて、自分の好みではなく凡庸な作曲家だと、1915年にアントワーヌ・ビベスコ宛ての書簡で述べている。これは一体いかなることなのだろうか。アンヌ・ペネスコは、その答をボードレールについてのプルーストの評論の記述の中に見出している(p104)。それによれば、音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではないというのである。また、プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べているという。「粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ」と。

サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れないだろうが、良い音楽か否かは間わず、「夢」や「涙」と結びつく音楽であればポエジーの糧になるというプルーストの考え、そして彼が必ずしも好みではない音楽家の作品を『失われた時を求めて』における音楽の記述の発想源としていたというのは、興味深い。

実は『失われた時を求めて』執筆の前にプルーストが手がけた未完の二人称小説『ジャン・サントゥイユ』の中には、主人公ジャンがサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに耳傾ける場面があるのだという。このことから、サン=サーンスを好まないと1915年の時点で書簡にプルーストは書いているものの、人の嗜好は変化するものであって、プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している(p108)。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。(安永愛書評『Anne Penesco Proust et le violon interieur (Les Editions duCerf, 2011)』)

◆Anne Sofie von Otter: The complete "3 Poèmes de Stéphane Mallarmé" (Ravel)




ーー音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a
対象aの究極の外-親密ex-timate的特徴……私のなかにあって「エイリアン」…であるもの、まったく文字通り「私のなかにあって私自身以上のもの」、私自身のまさに中心にある「異物 foreign body」…(ジジェクーー「糸巻き」としての対象a