2015年9月30日水曜日

旧態依然の破廉恥な精神分析家

「旧態依然の破廉恥な精神分析家」について罵倒系の文を記したのだが、それはこの際公表するのをやめてーーどうもわたくしは遠慮深いタチなのだーー、表題だけをそのままにして、その「悪態」のベースになる文献のみを掲げておく。

 …………

中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ーーくり返し引用している文だが、具体的に何が変わったのだろうか。

今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。精神分析学はすでに一九一〇年代から、特にハンガリー学派が成人言語以前の時期に挑戦し、そして今も苦闘している。ハンガリー学派の系譜を継ぐウィニコット、メラニー・クライン、バリントの英国対象関係論も、サリヴァンあるいはその後を継ぐ米国の境界例治療者たちも、フランスのかのラカンも例外ではない。

この領域の研究と実践とには、多くの人が臨床の現場でしているような、成人言語以前の世界を成人言語に引き上げようとすること自体に無理があるので、クラインのように一種の幼児語を人造するか、ウィニコットのように重要なことは語っても書かないか、ラカンのようにシュルレアリスムの文体と称する晦渋な言語で語ったり高等数学らしきものを援用するかのいずれかになってしまうのであろう。(中井久夫「詩を訳すまで」『アリアドネからの糸』所収)

エディプス期以降の病理とそれ以前の病理がある。それは神経症/精神病と言われたり、端境期の病理であるだろうボーダーライン、それ以外にも解離、自閉症等々が注目されるようになったのは周知だろう(ラカン派なら、「ふつうの精神病」、「ふつうの倒錯概念」が新たに現われている)。

ここで座談会「来るべき精神分析のために」(十川幸司/原 和之/立木康介、2009/05/29 岩波書店)から十川氏の発言を抜き出してみよう。

ところで先ほど精神病患者の変化という話をしましたが、 精神分析に来る患者も時代とともにずいぶん変わっています。

フロイトでも初期に診ていたヒステリー患者と、晩年に診ていた患者とではその間に大きな変化があります。 しかし、 全般的に言えるのは、 フロイトの時代と比べて、 今は患者がみずからの生を物語る能力がなくなってきている、 ということです。 このような現象も病理の軽症化と何らかの関係があるのかもしれません。 フロイトの患者たちは物語る能力に長けています。 そして、 その語りが、 患者が秘めた病理に向かって収束されていきます。 一方で、 現代の患者たちは--ヒステリー患者は貴重な例外です--みずからの生を散漫とした形で、 明確な歴史もエピソードも作ることなく生きているように思えます。 そういう患者たちの語りは、 病理の所在がはっきりせず、 また語りが病理の核心に向かうことがない。 こういう患者側の変化も精神分析の衰退の一つの要因になっているように思えます。 つまり、生が希薄化、 断片化していて、 しかもそれらが言葉によって歴史化されていないため、言葉を治療手段とする分析治療が鋭角的な手ごたえをもったものとして機能しない
もちろん分析家の側にも責任はあるでしょう。 分析家は、 患者の側の変化を敏感に感じ取ることなく、 いまだに硬直した理論で分析行為を行っています。 患者の生のあり方が変わってきたなら、 それに即して分析家は新しい臨床を始めていくべきなのです。それがほとんどなされていないのが現状なのです。

《いまだに硬直した理論で分析行為を行っています》とあるが、社会の病理、具体的には社会における〈他者〉、「父の名」の劣化が明らかなのに、実際のところいまだおどろくべき旧態依然の「分析家」を自称する人物がうようよと存在しないわけでは全くないだろう。

以下、十川幸司氏の問いがより鮮明に語られているベルギーの精神分析家のインタヴュー記事を私訳して掲げよう(いくらか意訳したところもあるので、原文をかならず参照のこと)。

An Interview With Paul Verhaeghe(Paul Verhaeghe and Dominiek Hoens,2011)

ほぼ15年前ほどから私は感じはじめたんだ、私の仕事のやり方、私の伝統的な精神分析的方法がもはやフィットしないようになってしまったと。私はとても具体的にこれが確かだとすることさえできる。あなたが分析的に仕事をしているとき、いわゆる予備会話をするだろう。この意味は誰かを寝椅子に横たえる瞬間をあとに延ばすということだ。あなたはいつ始めるかの目安をつかむ。あなたが言うことが出来る段階のね。さあ私は患者を寝椅子に横たえるときが来た、と。ところが多くの患者はこの段階までに決してならない。というのは彼らが訪れてくる問題は、寝椅子に横たえさせると、逆の治療効果、逆の分析効果をもっているから。

それで私は自問した、これはなんだろうと。ここで扱っているのはなんの問題なんだろう? と。どの診断分類なのだろう? あらゆる診断用語のニュアンスを以て、どの鑑別的構造に直面しているのだろう? 私が思いついた最初の答、それによって擁護しようと思った何か、いまもまだ擁護しようとしているものは、フロイトのカテゴリーAktualpathologie(現勢病理≒現実神経症)だった。

ここに私はこれらの患者たちのあいだに現れる数多くの症状の処方箋を見出した、まずはパニック障害と身体化somatisationだった、不十分な象徴化能力、徹底操作や何かを言葉にする能力の不足とともに。これが我々の最も重要な道具、「自由連想」を無能にしたのだ。

※Aktualpathologie(現勢病理≒現実神経症Aktualneurose)については、「忘れ去られたフロイトの現実神経症(現勢神経症)概念」を参照のこと。


古典的な精神神経症のグループは意味の過剰に苦しんだ、ヒストリー=ヒステリーの過剰、イマジネールなものの過剰に。そしてこれがあなたが脱構築しなければならないものだった。新しいグループは全てのレヴェルでこれらが欠けている。かつまた彼らは他者を信頼しない。転移があるなら陰性転移しかない。象徴化の能力はほとんどない。ヒストリー(歴史)も同じく。

いや彼らにヒストリーはある。だがそのヒストリーを言語化できない。…私はなんと逆の方向に仕事をしなければならないのだ。

社会的側面に戻れば、私が自問したのはなぜこのようなラディカルな移行が起こったのか、ということだ。なぜ古典的なヒステリーや強迫神経症者が少なくなったのか?…

答えは母と関係がある。母と子どものあいだの反映、つまり鏡(像)の過程にある。…
結果として我々は視界を拡げなければならない。母が以前に機能したようにはもはや機能していないのなら、異なった社会的文脈にかかわるにちがいない。そのときあなたは試みなくてはならないーーこれは古典的な分析家/心理学者にとってはひどく難しいのだがーー何を試みるべきかといえば社会的要因への洞察を得ようとすることだ。

さらに、あなたはイメージを形成するようにしなくてはならない、素朴な解決法に陥らないようにしながら。だから私は母親非難mother-blamingモデルの考え方を捨て去った瞬間をとてもよく覚えている。私はとても素早くそうした。そのモデルには別の危険が潜んでいる、すなわち保守主義だ。…

たとえばテオドール・ダーリンプルを同志としてあなたは見ることができる。心理的機能のレヴェルにおける変化、ーー増大する個人主義、利己主義、あまたの社会的不安等々ーーは新自由主義の結果であり、福祉国家のせいでは全くない、ダーリンプルが言うようにね。デジタル化された実力主義と共の新自由主義経済、(これが悪の根だ。)…

私は精神分析的にこの新自由主義社会のモデルに対して何かできるだろうか。もちろんだ、精神分析は享楽と欲望のレヴェルにおける個人と社会のあいだの緊張につねに取り組んできた。もしあなたがフロイト理論の核心を要約するなら、そうなる。

個人があり、社会がある。そして社会は快楽と欲望にかんしてある規則を確保する。個人はそれに抵抗する。と同時にその規則が必要だ。だが我々が今生きている社会モデルはフロイトの時代と全く逆だ。彼の時代は全てが欲望をめぐっていた。…だが我々の時代は快楽が強調されている。…

※「(これが悪の根だ。)」については、わたくしがややまわりくどい箇所を意訳している。ヴェルハーゲは、 最近でもGuardian(ガーディアン 2014.09.29) にて"Neoliberalism has brought out the worst in us"「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」という記事を記している(参照)。


――無意識にかんして質問します。無意識概念は新しい病理、新しいアイデンティティと主体性において役割があるのでしょうか、それともないのでしょうか?


異なった視点が必要だ。我々が無意識を概念的に検討するなら、フロイトが無意識のシステム、核(夢の臍、菌糸体等)と呼んだものと、抑圧された無意識がある。無意識の核にフロイトはリビドー的なもの、構成的なもの、かつまたトラウマ的なものを含めている。これらは明確には決して言葉で言い表されない。はっきりした象徴化は不可能だ。

抑圧された無意識、それは力動的無意識とも言われるが、それは再構築されうるし、言葉で言い表されうる。神経症とは抑圧された無意識の病理だ。この理由で古典的な技法ーー自由連想ーーの効果がある。だが我々は現在、以前に比べてとても頻繁に無意識の核に直面している。すなわちトラウマ的なもの、リビドー的なものであり、この理由で快楽と不安の病理がある。

こういった理由で、治療はむしろ数々の象徴化の構築の手助けに焦点を絞ることになる。それは古典的な神経症の治療とは全く逆だ。神経症では象徴化があまりにも多くありそれを剥ぎとらなければならない。
ーー別のカテゴリーから接近するなら、ラカンには主体概念があります。主体はシニフィアンの主体であり、このシニフィアンがほかのシニフィアンに対して主体を代表象する。これらの新しい病理は、主体を語ることにわずかな意味しか与えないように一見思えますが?


分裂Dividednessが中心の論点だ。トポロジーの遷移を見てみよう。フロイトとともに意識、前意識、無意識を。そしてラカンとともに(主体の分裂splitとして)、同一化、疎外と分離を。あなたは見るだろう、ラカンは徐々に分裂dividednessの側面を強調し、疎外と分離の側面を強調しないようになっていく。私の意見では、これはラカンが何かが変わりつつあることを悟っていた徴候だ。現代の主体はことさら分裂dividedしている。疎外と分離の側には置かれることは少ない。中心の論点は裂け目fissureなのだ。

このあと、ミレールの「ふつうの精神病」概念への批判がある。実際、この概念は、フロイトの「現実神経症Aktualneurose」とひどく類似しているように思われ、ヴェルハーゲの批判はまずは漠然とした「ふつうの」などという表現に苛立っていることにあるのだが、それについてはミレール派からの再批判もあるということだけを指摘しておくだけにし、ここでは詳しく触れるつもりはない。


ただしひとつだけ強調しておくが、ヴェルハーゲの見解に、新しい症状(現実神経症)では象徴化の構築の手助けが必要であり、かつての症状(精神神経症)では脱象徴化が必要である、とある。これはミレール派によるサントームの治療でも同様であり、サントームという父の名の代替物による象徴化が強調されている(参照:「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)。

あるいは、

エリック・ロランが特定するように、S1とS2の関係から、S1と対象aの関係への移行が、普通の精神病の臨床において決定的である。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant)

そして旧来の分析治療とはイデオロギー的な「父の名」、あるいはイマジネールなものとしての対象a(参照:「対象aの五つの定義」)を剥ぎ取り、裸の症状を露出させてしまうことだった。

ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)

脱象徴化はヴェルハーゲ自身、別の論で次のように言っている。

■“The function and the field of speech and language in psychoanalysis.” A commentary on Lacan's ‘Discours de Rome'. Paul Verhaeghe(2011)

分析の目的とは隠された無意識の意味を発見することではない。全く違う。そうではなく、〈他者〉から来る諸シニフィアンsignifiersの決定づけを与える効果から免れさせることだ。

これが私が考える治療的側面における我々の仕事である。そして神経症の場合なら、精神分析治療はひどく役立つ。もし誰かが私に会いにきて精神分析は何をしてくれるのでしょうと尋ねたら、私の答えは、あなたが日々直面している『制止、症状、不安Hemmung, Symptom und Angst』(フロイト)の代わりに、もっと選択の自由を得るでしょう、とするだろう。(ポール・ヴェルハーゲ)

 ここで彼は旧来の分析治療の側面を主に語っているといってよい。つまり単純には象徴化/脱象徴化という図式は描けないことは念を押しておこう。


…………

※附記

◆Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe 

三十年ほど前に、私は最初の患者に出会った。私のうけた古典的な教育と訓練は、次のような臨床的特徴に廻り会うよう想定されていた。すなわち患者は、解釈されうる症状をもっており、これらの症状は意味溢れる構築物だということ。もっとも患者は防衛メカニズムのためにこの意味に気づいていないのだが。患者はこれらの症状がライフヒストリーに関連することに気づいていた。話すことによる治療の目標は、この関連の覆いを取り除くことだった。そうするのは、その裏に潜んだ葛藤が、他のよりより解決法を導き得るようにするためだった。そのうえ、相対的には陽性転移がやがて手助けしてくれた。これは1905年にフロイトによって提唱された、精神分析治療を成功させるための、基本的規準だった。要するに、古典的な精神分析の治療とは、古典的な精神神経症psychoneurosisに向けられたものである。私はここで強調しなくてはならない、接頭辞“精神”を。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。






2015年9月28日月曜日

まずS(Ⱥ)= Φ (象徴的ファルス)から始めよう

Lacan makes this clear when he emphasizes how every One, every Master‐Signifier, is simultaneously S(Ⱥ), a signifier of the lack of/in the Other, of its inconsistency. (ZIZEK“LESS THAN NOTHING”2012)
Lacan’s twist here is that this presence of the objet a fills in the gap, the failure, of representation—his formula is that of the objet a above the bar, beneath which there is S(Ⱥ), the signifier of the barred, inconsistent other. The present object is a filler, a stop‐gap; so when we confront the tension between the symbolic and the Real, between meaning and presence—the event of presence which interrupts the smooth running of the symbolic, which transpires in its gaps and inconsistencies—we should focus on the way the Real corrodes from within the very consistency of the symbolic. And, perhaps, we should pass from the claim that “the intrusion of the Real corrodes the consistency of the symbolic” to the much stronger claim that “the Real is nothing but the inconsistency of the symbolic.”

※手許のPDF版はS(A)となっているが、文脈を読めば明らかにS(Ⱥ)なので変更した。

…………


対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」にあるS(Ⱥ)がわからないと質問してくるヤツがいるが、オレもわからんね。いろんなこというラカン派がいるからな。

これが貴君の問いの起源か・・・

小笠原晋也@ogswrs …… 昨日の続きです.Encore の最終回で提示されたこの式:
S1 ( S1 ( S1 ( S1 ( S1 → S2 ) ) ) )

つまり「徴示素一群が徴示素2に対して主体を代表する」は『主体のくつがえし』のなかのこの文を思い起こさせます:

「S(Ⱥ) は,其れに対してほかの徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素である.すなわち,この徴示素が無ければ,ほかの徴示素すべては何も代表しない」(Écrits, p.819).

つまり,S(Ⱥ) は S2 に相当します.一群 S1 は S(Ⱥ) に対して主体を代表します.しかも,S(Ⱥ) は,ひとつの徴示素がもうひとつのほかの徴示素に対して主体を代表する限りにおいて,徴示素の機能の必要条件です.というのも,S(Ⱥ) は徴示素の穴にほかならないのですから.

寝言だよ、 「S(Ⱥ) は S2 に相当します」なんてのは。いやいやシツレイ! オレにはひどい寝言にみえるってだけで、オレのような寝惚け頭には、「真理」が寝言にみえる場合があるからな。そういう意味での「寝言」だ。

S(Ⱥ) というマテームは、オレの知るかぎり、セミネールⅤにてはじめて語られた。

Au-delà de la parole, de la surparole, de quelque façon qu'on la dénomme, à savoir de la Loi du père, en fin de compte, il y a bien autre chose d'exigible.

Et bien entendu, naturellement au même niveau où se situe cette loi, s'introduit précisément ce signifiant électif, à savoir le phallus, qui fait que dans les conditions normales, ce qui ici se produit, se rencontre à un deuxième degré de la rencontre avec l'Autre.

C'est ce que, dans mes petites formules, je vous ai appelé S(Ⱥ), le signifiant de Ⱥ, c'est-à-dire très précisément ce que je viens de définir comme étant la fonction du signifiant phallus, à savoir ceci qui marque ce que l'Autre désire en tant que marqué par le signifiant, c'est-à-dire barré. (Le seminaire, livre Ⅴ p.655 )

とあるようにこの時点では、S(Ⱥ)= Φ (象徴的ファルス)なんだな。 たぶんその後なんやらと変わったって、S2になることなどアリエナイ! とまずは思うのが「常識」だろ? (参照:父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって

しかも後のアンコールの性別化の式や享楽の図にこうやってあらわれているんだぜ。






とはいえセミネールⅤのラカンは父の名ありのラカンだ、つまり〈他者〉の〈他者〉はありのラカンだ。その後、父の名はない、のラカンになった、つまり〈他者〉の〈他者〉はないのラカンだ。

初期のラカンにおいて、すべての強調は、父の名の隠喩に置かれた。その機能は、主体を母の欲望から解放すること等々だった。現代ラカン派に於けるこの理論的モティーフの継続的な流行は、ラカンの決断と鋭く相反する。その決断とは、ラカンはその理論的モティーフを捨て去っただけではなく、反対の考え方に置き換えさえしたのだ。すなわち〈他者〉の〈他者〉は存在しない、と。

父を信じることは、典型的な神経症の症状である。それはボロメオ構造の四番目の輪である。ラカンはそこから離れた。そして三つの輪を一緒にするために機能する新しいシニフィアンを探し求め始めた。この文脈において、重要なのは父とその機能を区別することである。すなわち、母と子の分離にかかわる機能、子どもが〈他者〉の享楽から解放されることを伴う機能である。もしこの分離が、二番目の〈他者〉である父への疎外に終わってしまったなら、それは構造的には、以前の疎外(母との同一化)と何の変わりもない。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 2002ーー簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」
……これらの相違点にもかかわらず、この点までのラカン理論は、フロイト理論と根本的に異なるところはない。しかし父の隠喩を導入した後すぐさま、ラカンは1960年に、象徴秩序における構造的に決定づけられた欠如の考え方を提示する。これはラカン自身の(そしてフロイトの)以前の論拠からのラディカルな旅立ちをしるすものだ。そして、フロイト用語では殆ど言い表せない何か根本的に新しいものを導入している。父の名は、もはや〈他者〉の、すなわち象徴秩序の、保証ではない。逆も同様である。反対に、〈他者〉の〈他者〉はいない("il n’y a pas d’Autre de l’Autre")。

以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは〈他者〉のなかの欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。(PAUL VERHAEGHE,2009ーー欲動の最も美しい定義

《父の名が保証するものは〈他者〉のなかの欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である》とあるが、この〈他者〉のなかの欠如は、Ⱥであり、そのシニフィアンはS(Ⱥ)だ。

ところで上のヴェルハーゲの文には注がついている。

象徴システムにおいて、このシステムが機能するための構造的に決定づけられた開口部や欠如の必要性は、ゲーデルの不完全性定理によって論理的に明証された。

この同じ必要性を明示するためのより簡潔な方法は、玩具、いわゆるスライディングブロックパズルを通して獲得しうる。人がブロックを正しく並べかえたいのなら、それらをグルリと移動させなければならない。移動させるためには、開口部、すなわち一つの要素が欠如している空隙が必要である。さもなければ、全ては文字通りかつ比喩的にも立ち往生する。欠如と移動の可能性(換喩を想起しよう)はどの象徴システムにおいても本質的な特徴である。(ヴェルハーゲ、2009)




つまり赤い穴がS(Ⱥ)だよ、まずはな。で、これが「父の(諸)名」でもあるんだよ

Name(s)-of-the-Father, he is speaking of something which is perfectly identifiable with Φ and S (A barred)In Seminar V , the Name-of-the-Father could be written as S (S/s), which is, after all, the same as S (A).(Lorenzo Chiesa、2007)

S (A)からS(Ⱥ)になったわけさ、父の名はな。

あとはどうなるのか、それについては、 S (A barred)の叙述がふんだんにある次の文を英文のまま貼り付けておくよ、貴君、訳してみたらどうだい? よく分かる様になるよ、それと小笠原解釈の無様さが。ーーくり返せば、オレの寝惚け頭の理解だがね。

Lorenzoの問いは、S(Ⱥ)、あるいはJ(Ⱥ)とΦをどうやって区別するかだ。それも彼の論の別の箇所にラカンを引用して書かれているが敢えてここには記さない。基本的には性別化の公式の男性の論理/女性の論理の穴にかかわる。

冒頭のジジェクを一部訳せば次の通り。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

Lorenzo Chiesaも同様。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)

ーーくり返せば、このジジェクや若き「哲学的」ラカン派Lorenzo Chiesaの解釈はかならずしも正しいというわけではないだろう。別の観点があってよい。

※ちなみにミレールはS(Ⱥ)=Σ(サントーム)と言っているし(Lacan's Later Teaching)、LorenzoはJ(Ⱥ)=Σと言っている(下にあるように1966年のときのミレールにとってS(Ⱥ)はSuture(縫合)だった。そしてサントームは後期ラカンの縫合にはちがいない)。

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa(2007)より

For the time being, what should concern us the most is that both quotations entail that, in Seminar V , Φ as the signifier of the “signified as such” is also the signifier of the lack in the Other, S (A barred), and thus has to be distinguished from the Name-of-the-Father, the “signifier of signifiers” whose nature as a transcendent sign excludes any irreducible lack.

To cut a long story short, at this stage, there still is an Other of the Other. It is important, however, to emphasize that in Seminar V the Other of the Other is, for Lacan, by no means irreconcilable with S (A barred). In other words, at this stage, the symbolic phallus Φ to be understood as that which “carries out” (“réalise”) S (A barred)61 is still “encircled” by the Name-of-the-Father.

This is definitely not the case in “Subversion of the Subject,” where Lacan makes it clear that there is no Other of the Other, nothing standing outside of S (A barred).

Consequently , the most important effect of the passage from “there is an Other of the Other” (A) to “there is no Other of the Other” (A barred) is that the lack in the Other—the fact that, because of the differential logic of the signifying structure, a signifier is always missing from the battery of signifiers—is no longer intrasymbolic but should be considered as real, as a presence of the Real in the open structure of the Symbolic.

Whenever Lacan refers now to the Name(s)-of-the-Father, he is speaking of something which is perfectly identifiable with Φ and S (A barred). In Seminar V , the Name-of-the-Father could be written as S (S/s), which is, after all, the same as S (A).

In “Subversion of the Subject,” when there is no Other of the Other, the Name-of-the-Father is S (A barred); the statement “the father [qua law] is a dead father”62 finds its true implication here. In other words, this means: the Master-Signifier S1 relies on A barred; there is a Father or Master-Signifier, but it cannot be detached from S (A barred).

As Lacan writes: “If we are to expect . . . an effect from the unconscious enunciation it is to be found here in the S (A barred) and read as: signifier of a lack in the Other, inherent in [that is immanent to] its very function as the treasury of the signifier”;63 the signifier of the lack in the Other is at the same time the signifier that, as S1, allows any “effect” of signification to follow “from the unconscious enunciation.”

Lacan then adds that the “lack referred to here is that which I've already formulated: that there is no Other of the Other.” If we compare these quotations with another passage from the same article in which Lacan argues that S (A barred) must be distinguished from other signifiers but not separated from them,64 we can conclude that the “inherency” in the function of the Other as the “treasury of the signifier” should be attributed to both the lack and its signifier.

What precisely does Lacan imply when he claims that S (A barred) is to be distinguished from while not being separated from the signifiers S2? I believe this can be explained by emphasizing how Lacan also mathematically qualifies S (A barred) as −1. Given that there is always a signifier missing from the Other, A is ultimately A barred. S (A barred) is −1 in the sense that the missing signifier is itself signifierized as missing, and hence as −1.

We could equally argue that Φ is the signifier that, due to castration and the resolution of the Oedipus complex, signifierizes itself as missing (−ϕ). Although the real lack in the Symbolic is never canceled, it is precisely by becoming −1 that it is phallically “organized”: such an “organization” of lack is nothing less than what allows the functioning of the symbolic order tout court by means of a sublation of lack.

To return to our original question: S (A barred) is both different from other signifiers S2 insofar as it represents the missing signifier, and not separated from them insofar as this missing signifier is counted within the set of signifiers as −1. As Muller and Richardson correctly remark, S (A barred) “must be somehow inside the universal set and conceived of as a lack (−1) within it. In this sense it is the complement of the universal set, i.e. an ‘empty ,' or ‘null' set.”65

But this is not the whole story . If, with respect to the signifiers S2, the missing signifier can be counted phallically as the “one-less,” with respect to the Real this same lack can be counted phallically as the “one-more.” Although this point remains implicit in “Subversion of the Subject,” it is clear that Lacan, having assumed that there is no Other of the Other, considers S (A barred) as both −1 and +1. The empty set which is complementary to the universal set is empty, yet it is still a set. Let us analyze this more closely .

Φ, S (A barred) is not only the signifier of the real lack in the symbolic Other (−1), it is also the signifier of the fact that this lack is real (+1) or, even better, that it is the Real tout court. In other words, S (A barred) as +1 is the signifier of the fact that the Real as lack is nothing but the consequence of the fact that the signifier as such originally holed the primordial Real, that language “killed the Thing,” and that before the advent of the signifier such a Thing was exactly no-thing. While the phallus as −1 is the signifier of the fact that the Real holes the Symbolic, the phallus as +1 is the signifier of the fact that the Real as 0 was primordially holed by the Symbolic, and that this 0 is now retroactively postulated as an absolute 1.

This last point, a cornerstone of the Lacanian logic of the signifier, was elucidated by Miller in his seminal article “Suture” as early as 1966; S (A barred) is nothing but the suture of the Symbolic. “There is 0, and 0 counts for 1 [compte pour 1]. . . . That which in the real is pure and simple absence finds itself . . . noted as 0 and counted as 1 [compté pour 1].”66

It is now important to distinguish between the retroactive mirage of a primordial 1 created by the disruptive emergence of the signifier out of a homeostatic zero (the primordial Real) from the actual fact that such an emergence is necessarily associated with a +1.

In other words, one has to distinguish the mythical 0 which the symbolic order makes us deceptively perceive as a Whole, as a lost 1, from the concrete presence of what remains of that 0 in the domain of signifiers in the guise of a +1 (as lack). This is nothing but the difference between the primordial Real (the mythical 1) and its remainder, which Lacan calls object a (+1).

To be perfectly clear, however, it should be emphasized that, strictly speaking, object a is not +1: rather, it is the real lack in the symbolic Other (A barred), which logically , if not chronologically , precedes its quantification as +1 by means of the signifying action of the phallus S (A barred). The signifier primordially holes the Real; such a hole transforms the “neutrality” of the Real into a lack which is then inextricable from the Symbolic as such; it cannot be “filled in,” despite the fact that the phallus manages to “organize”/mark it.

今後の反論は、この英文をじっくり読んでからにしてくれ、わかるかい? オレの今のところの S(Ⱥ)理解のベースはここだ。

あと、これ読んで基本的なところを勉強するって手もあるぜ、エリック・ローラン『疎外と分離』→ lacan.kill.jp/translation/texte/E_Laurent/alienationandseparation.doc





この図を眺めてなんとか小笠原寝言を貴君のために救おうとしたがオレにはムリだね、「S(Ⱥ) は S2 に相当します」ってヤツをな。

そもそも小笠原氏は以前はそれなりにまともなことを言っている(参照:twilog:S(Ⱥ))。ただし彼はセミネールⅤ以前とそれ以後が区別ついていないような発言もあるが。
.
こういったことは探せばすぐわかるのだから、直近の彼の「思いつき」発言だけでなんたら言ってくるなよ。

ようはツイッターでラカンセミネールやるオッチャンの言葉をそのつどマに受けたらダメだってことだ、彼はミレールの直弟子だからな、権威はあるんだろうよ、だが後期ラカンは十分には読めていないとみるね、ラカン訓読は得意らしいがね、そのあたりの訳者よりは、ってことだ。訓読に専念してくれたらもっと役立ったのにな・・・


と記せば、後期ラカンなどないという小笠原晋也センセの戯言を額面通り受けとってなんたら言ってくるのを憂え、こう記しておこう。

ラカンの仕事はーーちょうどフロイトの仕事と同じようにーー新しい洞察が古い洞察の上に積み上がる論理的-時間的な集積ではない。もしそういった集積物なら、我々はラカンの「最初の」理論、彼の「第二の」理論等々の用語で本当に語ることができるのだがそうではない。

実際のところ、彼の概念化はより一層すこぶる複雑である。「後期の」ラカンの考え方は初期の論文にすでに現れていたり、逆も真である。私が「後期の理論」について話すときは、彼の後期の産出物にて強い強調がなされていると私が考えるところの私の解釈を提示している。(ヴェルハーゲ、2009)



2015年9月27日日曜日

狂気とparlêtre(言存在)

デカルトは『省察』において狂気の考察をしているのだが、まずは《夜の眠りの中で、服を脱いでベッドのなかで横たわっている時に、自分がここで服を着込んで、炉辺に座っていると信じ込んでいる》という夢のなかの状況は狂人の妄想と同じだといっている。そして狂人たちは、《自分が極貧であるその時に王であるとか、素裸でいるその時に紫衣をまとっているとか》考えているとしている。この後者についてラカンが次ぎのように言い放っているのは比較的よく知られているだろう、

自分を王だと思う人間が狂人だとすれば、自分を自分だと思う自分もやはりそうだ。(ラカン、セミネールⅡ)

これには後年もいくつかのヴァリエーションがある。そのうちの一つを掲げれば次ぎのような文だ。

「我思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら……、それは「私は考えていると思っている」という意味…これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。(『同一化』セミネールⅩ)

つまり「私は何々と考える」、「僕の見解ではこう思う」等々とは、「彼女が私を愛していると私は思う」とするのと変わりがないと言っている。ここでの「彼女」は自分(自我 ego)ということだ。

ジジェク流の言い方ならこうなる。

〈自己〉とは主体性の実体的核心のフェティッシュ化された錯覚である。そこには実際は何もない。(ジジェク、2012)ーー「ラカン派の「記号」と「シニフィアン」」)

やや穏やかに言いかえれば、結局これらは言表内容enonceと言表行為enonciationとの間の還元不能な落差にかかわる。

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

われわれは言表行為をなす〈主体〉と、言表内容における〈私=エゴ〉があると言い換えてもいい。だがそれを混同してしまう。これについてはニーチェがすでに言っている、《<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている》と。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』湯浅博雄訳)

ニーチェ読み、ラカン読みのロラン・バルトが次ぎのように記すのは、上の内容とともに読めばよりよく分かるだろう。

……今日では、主観ないし主体は《ほかのところに》成立するのであり、また「主観性ないし主体性」が再帰する場所も螺旋の上の別の位置でありうる。その主観性ないし主体性は分解し、分離し、方向をそれて、錨を失っている。

「自我」がもはや「自身」でない以上、私が「自我」について語っていけない理由はないではないか。

人称代名詞と呼ばれている代名詞、すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私」は想像界を発動し、「君」と「彼」は偏執病を発動する。しかしそれと同時に、読み取り手によっては、ひそかに、モアレの反射のように、すべてが逆転させられる可能性もある。「私ですか、私は」と言うとき、「私」は「私ですか」ではない、ということがありうる。つまり「私」は「自我」を、いわばカーニヴァルの喧騒のうちにこわしてしまうのだ。

私は、サドがやっていたように、私に向かって「君」と言うことができる。それは、私自身の内部で、エクリチュールの労働者、製作者、産出者を、作品の主体(“著者”)から切り離すためだ。(……)そして、「彼」と呼んで自身について語ることは、私は私の自我について《あたかもいくぶんか死んでいるもののように》、偏執病的強調という薄い霧の中に捉われているものであるかのように語っている、という意味にもなりうるし、それはさらにまた、私は自分の登場人物に対して距離設定(異化)をしなければならないプレヒトの役者の流儀によって私の自我について語っている、という意味にもなる。(『彼自身によるロラン・バルト』ーー「この「私」に何の価値があるのでしょう?」)


…………

ところでラカンの概念に〈主人〉のシニフィアンというのがある。これはS1と表記される。われわれは〈主人〉という言葉にだまされてはならない。これは支配者とか王とかのたぐいの意味ではない。すくなくともそれだけの意味に限ってはならないというのが、ラカンの形式化の要であり、ラカンのS1に代表されるマテームとは、いわば空の箱であり、そこにはその機能を果たせば(たとえばS1の機能を果たせば)なんでも入る。

…l'expérience psychanalytique, et le plus simplement à partir de ceci, qu'il y a un usage du signifiant qui peut se définir de partir essentiellement du clivage d'un signifiant Maître avec ce corps justement dont nous venons de parler, ce corps perdu par l'esclave, pour qu'il ne devienne rien d'autre que celui où s'inscrivent tous les autres signifiants. (Lacan,SéminaireⅩⅦ)

さて〈私〉という人称代名詞がS1であるのは次ぎのように示される。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

〈私〉という一人称単数代名詞だけではない。たとえば人の名前も主人のシニフィアンである。

なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)

あるいは、この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)

ラカンはセミネールⅩⅦにて《主人の本質…は、彼が何を欲しているのか知らないことである。これが主人の言説の真の構造を構成している》という意味のことを言っている。

c'est bien en effet l'essence du Maître, à savoir qu'il ne sait pas ce qu'il veut. Car c'est cela qui constitue la vraie structure du discours du Maître.(Lacan,SéminaireⅩⅦ)

かつまた “m'être, m'être à moi-même”ともある。

Ce qui fait le Maître, c'est ceci : c'est ce que j'ai appelé, en d'autres termes « le cristal de la langue ».

Pourquoi ne pas utiliser ce qui en français peut se désigner sous l'homonymie de l'« m apostrophe être » m'être, m'être à moi-même ?

C'est de là que surgit le signifiant-m'être, dont je vous laisse le deuxième terme à écrire comme vous le préférerez.

Pour commencer d'articuler comment ce signifiant unique opère de sa relation avec ce qui est là déjà, déjà articulé, de sorte que nous ne pouvons le concevoir que d'une présence du signifiant déjà là, je dirais, de toujours.

Car si ce signifiant unique… le signifiant du Maître, à écrire comme vous voulez …s'articule à quelque chose d'une pratique qui est celle qu'il ordonne, cette pratique est déjà tissée, tramée, de ce qui, pas encore certes, ne s'en dégage, à savoir l'articulation signifiante qui est au principe de tout savoir, ne pût-il d'abord être abordé qu'en savoir-faire……

これは〈私〉という主人のシニフィアンは、私自身であり、私自身の主人であるというふうに理解できる。

すなわち主人の言説とは、フロイトの洞察ーーいわゆる人類のナルシシズムを打ち砕く「コペルニクス的転回」とフロイト自らが言うものだーーであるところの、「自我は自分自身の家の主人ではない」“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”に不感症の人物の言説だということになる(参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」)。

このフロイトの言明のラカンヴァージョンは、「シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」である(より詳しくは、→参照)。

このラカンの言明は、結局、次のようなことだ。

我々が主体となる以前にS2sは既にあり(誕生時に、いや母体内でもS2sはある)、S1は後にS2sの介入としてゲームに参入するにすぎない。そしてそれが主体の場を示す。S1の導入とは父の機能だが実はたんなる構造的なオペレーターにすぎないのであり、既に存在するS2sへのこの主人のシニフィアンの介入が「ほかのシニフィアンに対して主体を代表象する」ということになる。

…………

では、われわれは〈私〉という一人称単数代名詞を使ってはならないのか、使えば「狂人」と似たようなものなのだろうか。それについてはロラン・バルトが上に引用した文のなかで語っている、《「自我」がもはや「自身」でない以上、私が「自我」について語っていけない理由はないではないか》と。

バルトは『彼自身のロラン・バルト』で次の内容を二度も強調している。一度は表紙裏に、そしてもう一度は本文中に。

ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。(『彼自身によるロラン・バルト』)

これらのバルトの見解もニーチェの次の言葉とともに読むことでよりよく理解できるだろう。

われわれは時々、自分自身から逃れて息ぬきをしなければおさまらない、――自分というものを見下ろし、芸術的な距離をおいて遠くから、自分の姿について笑ったり泣いたりすることによって、われわれは、認識の情熱のうちに姿をひそめている主役と同時に道化をあばかねばならない。自分の知恵に対するたのしみを持ちつづけられるように、自分の愚かさを時々槍玉にあげて楽しめねばならぬのだ!

そして、われわれは、究極のところ、重苦しい、生真面目な人間であり、人間というよりか、むしろ重さそのものなのだから、まさにそのためにこそ、道化の鈴つき帽子はど、われわれに役立つものはない。(ニーチェ、悦ばしき知107 番 秋山英夫訳)

…………

ただしラカンの思考はこれらだけではない。ラカンはさらに後年、parlêtre(言存在、話す存在)ということを言い出した。

le sujet qui se supporte du parlêtre… au sens que c'est là ce que je désigne comme étant l'Inconscient((Lacan,SéminaireⅩⅩⅢ)

これはミレール曰くはフロイトの「無意識」概念を言い換えたものであるそうだ。

無意識を分析するなら解釈の意味は真理だ。 話す身体を分析するなら解釈の意味は享楽だ。 この真理から享楽への置換が、21世紀というparlêtre(言存在 )の時代の精神分析実践の基準である。(The Unconscious and the Speaking Bodyby JACQUES-ALAIN MILLER、2014)

これはシニフィアンの主体と享楽の主体にもかかわる(あるいはララングにも、参照:「私」とは他者である ''JE est un autre.''( ランボー))。われわれの無意識は二重構造になっているのだ(参照:二つの主体(二つの無意識)をめぐる)。


ここでやや飛躍的に記すが、話す存在として〈私〉という人称代名詞を使うのなら、それはかまわないとしてみたくなるところだ。

すなわち「自分の考え」を話すのではなく、「自分の声」で話すのなら。--《自分の声をさがしなさい》(須賀敦子

・声というのは不思議なもので、全部が全部自分の声じゃないんです。「あ、こんな声を出している自分がいるのか?」と思うことあるでしょう。これ親父の声じゃないかと思ったり、ご先祖様の声だと思ったりして(笑)。

・結局、言葉も声でしょう。読む人のなかで活字が声になって再生される。すると、やっぱり自分で声に出して自分で聞いて、ある程度恥をかかないといけないように思って、ある時期から朗読会をやりはじめました。

・昔は読むというのは本来、黙読じゃなかったんですね。音読です。声なんです。

・今、人は総じて耳が悪くなっていますよね。自分についてもそう思う。ひょっとしたら近代に入って、そうなったんじゃないでしょうか。つまり理論や観念が発達してくると、耳が悪くなる。

・変な商売で、しばらくしてもわかんないところがある。調子がいいときに書いたのがいいかというと、そんなことはなくて、もう鬱々と嫌々書いた文章のほうがいいことがある。生涯わかんないんじゃないかと思ってます。(古井由吉「新潮」2012年1月号又吉直樹対談)

《どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。》(『彼自身によるロラン・バルト』)

冒頭はデカルトの夢見る狂人の話で始めたのだ。最後にこう補っておく必要があるだろう。

夢に現れる思想の方がしばしば他の思想より力強くはっきりしていることがある以上、夢の思想のほうが他より偽であると、どうして確かに知りうるのであろうか。(デカルト「方法序説」)

(端折ったところはそのうち続く、--かもしれない)

2015年9月25日金曜日

ツイッターの役者たち

われわれの友人は、各自に多くの欠点をもっているから、そんな友人を愛しつづけるにはーーその才能、その善意、そのやさしい気立てを考えてーーその欠点をあきらめるようにするか、またはむしろ、積極的にわれわれの善意を出しきってその欠点をのんでしまうようにつとめなくてはならない。不幸にも、友人の欠点を見まいとするわれわれの親切な根気は、相手が盲目のために、それとも相手が他人を盲目だと思いこんでいるために、あくまでその欠点をすてないので、その頑固さにうちまかされてしまう。相手は、なかなか自分の欠点に気がつかず、また自分では他人に欠点を気づかれないと思いこんでいるのだ。 (プルースト『花咲く乙女たちのかげに 第二部』井上究一郎訳)

わたくしはどちらかというといわゆる「性格の悪い」方なのだが、たとえば他人のツイートを眺めているとどうもニヤニヤしながら悪口を言ってみたくなる傾向がある(わたくしがとくにツイッターでの発話に注目するのは海外住まいのせいで日本語でなされる「ナマの」発話行為は、ほとんどそこでしかお目にかかれないからだ)。他人の欠点とは自分の欠点よりもずっと目にとまりやすいものだから、自分の欠点に気づかぬままに他人を罵倒をしてはならぬと自制してみるのだが、ときおりふとその自制が剥がれてしまう。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫『世界における徴候と索引』)

ツイッターでは発話者の欠点が目につきやすいとまでいわないまでも、次のような「錯覚に閉じこもり得る」のがしばしばであるのは(わたくしの場合)歴然としている。

Twitter は、賛成や反対を表明するにしてもその表明の仕方において、また、無視するにしてもその流し方において、また、 皮肉や弁明や留保の書き方において、また、ツイートを停止するその時間の取り方において、その立場がモロに手に取るように透けて見えてくるツールである。恐ろしいものである。 (小泉義之「切れ目」などについて)

これ以外にもツイッターの現場感とは、「眼前でたえず生成するテキスト」であるだろう。それはメンションでやりとりして対話相手がアツクなったときにことさら著しい。

……精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007初出『日時計の影』所収)

ーーなどと記しているのは、小林秀雄の愉快な文に行き当たったからである。

文藝春秋祭で、毎年文士劇をやっている。今はもう面倒臭くなったから出ないが、以前は何度も出た事がある。だから役者の経験はあるなどと馬鹿な事を言うのではないが、役者とはこんなものという一種の感じだけは、はっきり摑めたように思っている。言ってみれば、見物を瞞着する快感である。この辺で笑うなと思っていると笑う。もうそろそろ泣き出すなと思っていると泣き出す。役者というものは、何と面白いものだろう、商売になったらやめられない筈だと思った。だが、そう言って了っても拙いので、やってみて初めてわかった感じはもっと微妙なものであった。

たかが文士劇だ、無論やる当人もそう思っていた。ところが、やってみると文士劇も芝居であると合点した。芝居という或るどうにもならぬ世界があって、其処へ、文士劇であろうが、何劇であろうが、這入って行く、どうもそういうものらしい。川口松太郎とか今日出海とかいう連中は実にうまいが、それは根が器用な男だからではない。私の観察によれば、彼等にはたかが文士劇と見くびる心が少しもない。彼等の身についた芝居の教養がそれを極く自然に許さない。そういう事だと思った。

菊池寛の「父帰る」をやった事がある。私が兄の賢一郎をやり、井上友一郎が弟の新二郎をやった。彼には初対面であったが、稽古をやり、東京で二回やり、大阪でやり、京都でやりしているうちに、お互いに妙に情のうつるものだ。個人的感情を越えた芝居の感情が作用するらしい。芝居がすんで、しばらくして、新二郎にぱったり出くわしたら、「今度、桃中軒雲右衛門という本を出すから、序文を書いてくれ、兄貴」と言われた。仕方がないから、中身はよく知らないが、弟が力作だというから面白いものだろう、どうぞよろしくと言った風な事を書いた。芝居がつづいているようなものである。

彼は舞台で、私とのやりとりで、感情がたかぶって来ると眼に涙をためる事があった。それが直ぐこちらに反射して、おやおやと思うほど妙に調子が合う事がある。夢中であってはいるのだが、頭の何処かが覚めていて、しめたうまく行っていると感じている。無論こんな事は、玄人からみれば、ほんの役者のいろはに違いないが、私にはやってみて初めて感じられてひどく面白い事に思えた。舞台で役に成り切るなどという事は嘘で、何かが覚めているものだ。玄人が新二郎をやれば、眼に涙なぞ溜めなくても、もっとうまくやるに決まっている。だが、私の言うのは、役者のいろはである。感情がたかぶらなければ、井上君は眼に涙を溜めやしないが、たかぶるのは日常現実の感情ではあるまい。芝居の秩序に従って整頓された感情であろう。泣いてはいるが、心を乱してはいまい。新二郎に成り切りながら、見物の眼をはっきり感じとっている。そういう時に、私はなるほど役者とはこれだなという言いようのない快感を覚えた。見物を瞞着する快感と前に言ったのはそういう意味だ。恐らく、この初歩的敬虔はどんな名優にも通じているものだと推察する。(小林秀雄「役者」『考えるヒント』所収)

まず冒頭近くに、《この辺で笑うなと思っていると笑う。もうそろそろ泣き出すなと思っていると泣き出す。役者というものは、何と面白いものだろう、商売になったらやめられない筈だと思った》とある。

ツイッターで多くのフォロワーをもった発言者はこれと似たようなことがあるのではないか。それをフォロワーを瞞着する快楽とまでは言わないでおくが(かつまたそれはフォロワー数の多寡にはあまり関係がないのかもしれない)。

そもそもリツイートやファヴォとは観衆の拍手や反応に似た効果をもっているのではないだろうか。そしてそれに《言いようのない快感を覚え》てしまえば、俳優的振舞いを《やめられない》ということになるのではないか。いずれにせよ彼らは多くの場合、《見物の眼をはっきり感じとって》ツイートをしているに相違ない。そしてそれは多かれ少なかれツイッターという場では誰もが同じだろう。ただ見物から多くの拍手を受けるかどうかの相違はあるということだけだ。

ところで上の文に引き続く文がさらに面白い。

「父帰る」をやっているうちに、だんだん巧くなった。大阪まで来ると、幕が下りても誰も手をたたかない。みんな泣いている。これはちと大袈裟だが、まあそいう言った具合で、大阪がすむと気がゆるんだ。今までも、芝居は何も芸で持って来たわけではない、ただ一所懸命で持って来たのであるから、気がゆるんだ途端に大失敗をした。

京都には井上君の知合いが多いらしく、「友チャーン」などと出ない前から騒々しい。私はちゃぶ台の前に坐り、お燗をしながら、弟の帰りを待っている。すると弟の奴、只今ァと玄関から草履をはいたまま上って来た。あわてて脱いだが、これは幸い見物には見えない。着物に着かえる時、袖も一緒に結んで了った。今日はちょっと様子がおかしいぞ、だが、これも大した事ではない。弟は、ちゃぶ台の前に坐り、二十年前に家を出た父親らしい人物を近所の人が見たという話をする。

言わばこのせりふで芝居が始まる、そういう大事なせりふで、やってみると、その切っかけと間(ま)とが容易でない事がわかった。二人で相談の上、兄から酒をついでもらい、一杯のんでから始めるという事にし、それでまことにうまくやって来た。ところが、今日は、盃などに目もくれず、坐るや否や、兄さんと来た。こりゃ、いけねえと私は思った。弟の意外な話を聞き終り、母親と兄弟と妹と四人がめいめい違った想いに沈み、しばらく舞台は沈黙する。ここで、弟は取って置きの名ぜりふを言わねばならぬ。菊池寛の芝居は大雑把のようでいて、実は細かいので、――「おたあさん、今日浄願寺の森で、モズが啼いとりましたよ。もう秋じゃ」――このせりふ一つで、急に見物は舞台に秋を感ずる。それを、弟の奴、フクロが啼いとりましたよ、とやって了った。

妙な事だが、と言って、考えてみれば少しも妙な事ではないのだが、見物はモズでもフクロでもどっちだって構わないのである。事実、見物はフクロが啼いとりましたでは笑わなかった。せりふというものはそういうものらしい。「もう秋じゃ」というこなしがあればよい。菊池寛のような写実のせりふでも、写実主義は台本の上にあるだけなので、とぼけていれば何の事なくすんだのに、あっモズだと訂正したからどッと来た。

これが切っかけで、「父帰る」という芝居の幕は下り、「父帰る」をやる文士劇の幕が開いて了ったのである。見物は大喜びで、こんどは何を笑ってやろうかと身構えて了った。この辺りから賢一郎の深刻なせりふがつづくのだが、こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいものはない。芝居が進んで、父親が登場し、父親から賢一郎と呼ばれて、「賢一郎は、二十年前、筑港で死んどる」と恨みをこめて発言すると、何がおかしいのか、未だゲラゲラ笑われるのには驚いた。私はこの時ほど、芝居というものの不思議さを、身にしみて味った事はない。この状態は長くつづいた。

見物が再び「父帰る」という芝居のうちに、這入り込んで来るのには、ずい分長い時間がかかった。この間の状態とは何だろう。私達素人役者の失敗によって、たまたまかもし出されたこの特別の状態とは何だろう。なるほど見物は芝居を見ることを止めたが、決して我れに還ったのではない。芝居をやる文士というもう一つの新しい芝居を見る事にしたのである。これは言葉を代えれば、見物席の見物が主役となり、舞台の役者が端役となって、新たな芝居が演じられる事になった、そういう状態に他なるまい。場内全体を舞台とする、このような芝居を見る人は無論いない。だが精神の眼には見えている。という事は、この特別の状態は、普通に芝居が行なわれている時にも、いつも潜在的に存する状態だと考えられるという事だ。劇場内の見物も亦役者と共演する一種の役者である。芝居を見る楽しさはそこにある。私達は芝居を見に行くのではなく、心のなかで役者と共演しに行くのである。(同「役者」)

ある失敗が切っかけで、《「父帰る」という芝居の幕は下り、「父帰る」をやる文士劇の幕が開いて了った》とある。そして《こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいものはない》と。

ツイッターでインテリ「役者」として振舞っている人物はいくらでもいるだろう。しかしあるしくじった発言をしてーー、たとえばふだんは正義派の発言をし続けていながら、ふとしたことから「人間の顔をしたル・ペン主義(差別主義者)」であることが周知してしまうとする。とすれば、そこでは「正義派」の芝居をやる差別主義者の芝居の幕が開くだろう。

すると《こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいものはない》ということになる。こうなれば観衆の出番だ。フォロワーたちが主役となり、《舞台の役者が端役となって、新たな芝居が演じられる事》になる。誰もがいままで何度もこういった現象を見てきたのではないか。

それは差別主義者ということだけではない。要はニーチェのいう《その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきもの》の悪臭がツイッター上で拡散してしまったという場合だ。

その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。(ニーチェ『この人を見よ』)

教育の上塗りによって隠れていた汚れが露顕するときほど、フォロワーにとって「嬉しい」ものはない・・・

かつまた《みにくさはたやすく美しくなるような顔立ちにおいていっそうよく目立つ》(アラン)のであれば、醜さはインテリ正義派として振舞う発話行為いおいていっそうよく目立つと言いうる。

わたくしはすぐさまツイッター上でこのような目に不幸にも遭遇した「知識人」の名を四、五人は挙げられそうだが、ここでは慎んでおく・・・

ところで小林秀雄は《見物が再び「父帰る」という芝居のうちに、這入り込んで来るのには、ずい分長い時間がかかった》と記しているが、幸いなことに最近の観衆はひどく健忘症なので、三ヶ月もたてばすっかり忘れている。インテリ役者にとってはひどく幸福な時代である。

とはいえ見物人はインテリ役者の失態を待ち望んでいることは昔も今もかわらない。

注目された〈わたし〉が落ちていく姿、それを誰もが見たいんだから……。自分は事故のとき痛切に感じたですね……。マスコミから一般の人たちの憶測に秘められた嬉しさ……、ちょっとゾッとしますね……(北野武のバイク事故後の発話より

仮に失態に親身に同情するかのようでも、それは殆どの場合、《権威が揺らいだにせの王への、無邪気に偽装された侮蔑》(大江健三郎)である。

《何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする》(中井久夫「いじめの政治学」)のであり、インテリ役者の凋落を嬉しがる心性もこの人間には免れがたいメカニズムの顕れにすぎない。

…………

蚊居肢子世ノ好事家ニ質サントス。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、
ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。

諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちぇト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。

性格の法則を研究する場合でさえ、われわれはまじめな人間を選んでも、浮薄な人間を選んでも、べつに変わりなく性格の法則を研究できるのだ、あたかも解剖学教室の助手が、ばかな人間の屍体についても、才能ある人間の屍体についても、おなじように解剖学の法則を研究できるように。つまり精神を支配する大法則は、血液の循環または腎臓の排泄の法則とおなじく、個人の知的価値によって異なることはほとんどないのである。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)


2015年9月24日木曜日

フロイトとラカンの「父の機能」(PAUL VERHAEGHE)

貴種流離譚変奏としてのフロイトエディプス理論」から引き続く。

女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ(ラカン、セミネールX(不安))

ーーもちろんこれはわたくしの意訳であるが、「Le seminaire, livre X: L' angoisse」に出てくる数箇所の la mante religieuse(カマキリ)をめぐる叙述をまとめればこう要約できる(参照:子どもを誘惑する母(フロイト))。

母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。(ラカン、セミネールⅩⅦ(精神分析の裏面))

などとしきりにオッシャラレタLacanだが、セミネールⅩⅦ以降は、こんなひどいことは言わなくなった(わたくしの知るかぎり)。なにか変わったのだろうか。齢を重ねたせいだけだろうか。

これは「父の機能」解釈にかかわるはずだが、比較的初期からその機能に言及していなかったわけではない(参照)。

ジジェクは「父の機能」がないとどうなるかについて、90年前後からしきりに記してわれわれはそれを面白く読んだ。

父親は不在で、父性的機能(平和をもたらす法の機能、父-の-名)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我は恣意的で、邪悪で、「正常な」性的関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想が不十分なために法が獰猛な母なる超自我へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』1991)

ジジェクと異なり穏やかで地味な臨床家ポール・ヴェルハーゲはーーとはいえ彼の90年代の仕事はジジェク解釈の引用が豊富であり、たとえば「主体の解任」という最も臨床的な概念でさえジジェクによって最初に鮮明に語られたと暗に他の分析家たちの凡庸ぶりを腐しているーーこのヴェルハーゲは父の機能についてこう説明する。

初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係symbiosisから解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、the NAMES of the father(Les Noms-du-Père引用者)と。疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけるnamegivingことを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体に独自のシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe,1999、私訳)

ここには後期ラカンのサントーム理論に近いことが記されているのだが、いまはそれに触れない(参照:「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)。

ここではヴェルハーゲは最近の著書(2009)で次のように書いていることに注目したい。

フロイトの最晩年の著作『モーセと一神教』をめぐって書かれた箇所である。

……モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分、すなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)の想像的なエラボレーション、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の男性による投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムにて統合されたものである。.(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

フロイトやラカンの母や女が怖いなどという理論は、実際は、女たちを犠牲にした男自身の手に負えない欲動(享楽)への防衛機制による「投影」にすぎない、としている。ここにヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判がある。彼らの理論は神経症的であり、症状的なのである。


他方、ヴェルハーゲは、「父の機能」的側面について、後期ラカンがようやくその真価に気づいただけでなく、フロイトさえもそのエディプス理論再構築のなかで「父の機能」にほとんど気づいていた、としている記述もある。

彼はもともとこう書いていた。

『トーテムとタブー』1913の原父についてはただ忘れたほうがよい。『モーセと一神教』1939における臨床的な示唆を研究するほうがはるかに興味深い。この仕事において、フロイトは父の象徴的な機能の考え方をわれわれに提示している。それは、母たちから来る不可解な何かへの不安を基盤として、息子によって設置される何かである。そんなに難しいことではない、ラカンの後期の理論をこのフロイトの神話の中へ読み込むことは。主体は全的な疎外を怖れているのだ。すなわち、現実界の享楽のなかでの消滅を。そして象徴界のなかに対抗策を探し求める。この象徴界の影響は、フロイトの研究そのものの中に、まったく明白に見出せる、とくにラカンを通してフロイトを読むのなら。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)1999、私訳)

ーーフロイトの『トーテムとタブー』にあらわれるエディプス理論など忘れたほうがいい、ただし最晩年の『モーセと一神教』は傾聴に値すると。

今のは1999年の書の記述だが、ここでもう一度2009年の書に戻れば、ヴェルハーゲはフロイトの「モーセと一神教」から次ぎの文を抜き出して、フロイトを惜しんでいる、ああ、いま一歩のところだったのに、と。

That religion also brought the Jews a far grander conception of God, or, as we might put it more modestly, the conception of a grander God.

独原文は次ぎの通り。

Die Religion brachte den Juden auch eine weit großartigere Gottesvorstellung, oder, wie man nüch-tern sagen könnte, die Vorstellung eines großartigeren Gottes(Sigmund Freud、Der Mann Moses und die monotheistische Religion)

ようするに、ヴェルハーゲはここにフロイトにとっての「父の機能」概念を読み取っているのだ。

…………

肝腎なのは「権威としての父」ではなく「父の機能」である。われわれは勘違いしてきたのではないか。権威としての父を打ち倒したのはいい(フェミニスム運動等)。だがそれと一緒に「父の機能」まで捨て去ってしまったのではないか。

仏ラカン派女流分析家の第一人者 コレット・ソレールは、今世紀に入る前後、われわれの世紀を次ぎのように定義した、すなわちわれわれは「父」をその役割に教育しなおしたい世紀だと。 

「権威としての父」/「父の機能」とは、柄谷行人=カントの構成的理念/統整的理念に限りなく近い。

キルケゴールは、「思弁は後ろ向きであり、倫理は前向きである」といった。その意味で、彼はヘーゲルからカントに戻っている。実は、マルクスも同様である。彼もヘーゲルからカントに向かったのだ。未来に向かって現状を乗り越える、つまり事前の立場に立つ者は、理性の統整的使用を必要とする。マルクスは歴史に関して構成的理念を一切斥けた。つまり、未来社会についての設計を語らなかった。彼にとって、コミュニズムは統整的理念である。そして、彼はそれを生涯保持した。

しかるに、コミュニズムを歴史の必然として、社会を理性的に構成しようとしたマルクス主義者は、ヘーゲルの事後的な立場を、事前の立場に持ち込んだことになる。そのようにして、統整的理念と構成的理念が混同される。「理性の構成的使用」は暴力的強制となる。その結果、理念一般が、あるいは理性一般が否定されるようになった。(柄谷行人 第一回 長池講義 講義録 2007)


われわれは「権威としての父」/「父の機能」を混同して、父の機能さえ否定してしまったのではないか。

その結果なにが生じているか。

要なことは、権力powerと権威authorityの相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

明らかなことは、第三者がうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

さてどうしたらいいのか。すこし前に「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)との表題で主人のシニフィアンS1をめぐって曖昧に記した。ようするに皺のない新しいS1、新しい父の機能、新しい名付け、新しい統整的理念をめぐっている。そしてこの考え方のより基本的な起源は、Lorenzo Chiesaとジジェクによるミレールのサントーム解釈批判にある(参照)。

※ここで強調しておくが、「父の機能」を担うのは解剖学的な男/女とはまったく関係がない。すこしでも思い起してみればそれはすぐさま判然とするだろう、脱原発、脱財政赤字、難民受入れ推進のドイツ連邦首相メルケルとわが国の(安倍に代表される)総理大臣たちとどちらが「父の機能」をより発揮しているかを(参照:「きたるべきメーメーアイコク・ヒツジさんたち」)。

…………

最後にヴェルハーゲによるフロイト・ラカン批判ーー上に引用された内容のより具体的な記述ーーを掲げておこう。かつて次ぎのように書いたヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判である。

フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます。だがら、もしラカンが止揚(Aufhebung)したというなら、わたしたちはそれが何の意味なのか説明する必要があります。ラカンはその理論において何を獲得したのか? と。(ヴェルハーゲーー「忘れ去られたフロイトの現実神経症(現勢神経症)概念」)

さてヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判である。

後期ラカンはフロイトの錯誤(誤った推論)を公然と非難した。…

この非難はきわめて後期のセミネールでなされた。それ以前は、彼らは異なった時代に書いているにもかかわらず、二人の理論はとても似ている。両方の理論とも、母に関する欲動に支配された危険に対する欠かせない支えとして父への嘆願、陳謝にさえ至るエディプス理論を展開した。

両者のあいだの最も重要な相違は、フロイトにとって危険は母への子どもの欲望(事実上、息子の欲望)に起源があり、他方ラカンにとってはあべこべだということだ。

ラカンにおいては、危険は子どもをあまりにも強く欲望する母(事実上、彼女の息子への欲望)に起源がある。この相違を脇にやれば、彼らの理論は全能の父の形象からの解決を期待するという点で類似している。彼らの理論のまさにこの側面、ーー私はそれを底に横たわる問題への神経症的応答としての(理論を通した)治療上の裏書きendorsementだと考える。
誤解のないように言おう。私は子どもたちを損なって楽しむ超-権威主義的な父(原父のスタイル)の存在を否定するつもりはない。貪り食う母、ああ、それもたんなる神経症のフィクションではない。

私の批判はフロイトとラカンともにある方法論的錯誤に向けられている。彼らの臨床実践の過程で見出された不安と不安に対する防衛が(十分に)分析されていないのだ。その代わりにそれらは一般化された理論として提出され、患者の信念を支えてしまうものとして使われている。

これは精神分析治療が提供しうるものとは全く逆だ。我々自身の、かつまた我々の患者についてのイマジネールな構築物、欲動に対処するために我々が必要とする構築物に疑義を呈する可能性を作り出すこと。それが分析治療である。そうではなく、これらの構築物を臨床的に裏書きしてしまうなどということは、実質上問いの可能性の根を絶ってしまう。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

もちろんわれわれはこのヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判を額面通り受け取る必要はない。ただしこうはいっておこう、《真理への愛は弱さへの愛、真理が隠している去勢への愛である》と。

Cet amour de la vérité, c'est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s'appelle la castration.(Lacan,Séminaire 17 Staferla 版 p.66)




2015年9月23日水曜日

貴種流離譚変奏としてのフロイトエディプス理論

(フロイト理論というのは)ある場合は、経験から神話へと進行する、そして神話から構造へと。他の場合は、事実を説明するために神話が発明される。言い換えれば、(フロイトは)患者を診察するかわりに病人のように振る舞っている。(レヴィ=ストロース 『親族の基本構造』)

ーーこのように記すレヴィ=ストロースは、他方、『悲しき熱帯』にて、若き彼の二人の真の師としてマルクス、フロイトを掲げていることに注意しておこう。

…………

マルト・ロベールは、フロイトの「家族小説(ファミリー・ロマンス)」概念を元に「私生児」と「捨子」という類型を提唱したのだが、たとえばあらゆる作家はこの二類型に分類されるとしている(『起源の小説と小説の起源』)。これはいわば貴種流離譚の精神分析ヴァージョンであり、小説の分析ではなく物語の分析としては、実際のところ多くが当てはまる。村上春樹の小説などはその典型だろう。

蓮實重彦もその『小説から遠く離れて』にてマルト・ロベールに言及しているのだが(P.185)、マルト・ロベール=フロイトの「私生児」あるいは「捨て子」概念を援用した日本ヴァージョンの物語分析としてまずはよい。「まずは」、としたのは蓮實重彦はマルト・ロベールのような分析にはウンザリするといっており、『小説から遠く離れて』という表題は反語であり、物語/小説の対比がなされて後者の顕揚がなされるのがこの書のテーマだからだ。

とはいえ実際のところ日本の(すくなくともある時期の)名高い作家たちの作品は似たような物語構造に当て嵌まってしまう。

どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語が始まっている。その「依頼」は、いま視界から隠されている貴重な何かを発見することを男に求める。それ故に、男は発見の旅へと出発しなければならない。それが「宝探し」である。ところが何かがその冒険を妨害しにかかる。多くの場合、妨害者はしかるべき権力を握った年上の権力者であり、その権力維持のために、さまざまな儀式を演出する。儀式はある共同体内部での「権力の譲渡」にかかわるものであり、そこで譲渡されべき権力と発見される貴重品とは、深い関係にあるものらしい。そのため、依頼された冒険ははかばかしく進展しなくなるのも明白だろう。発見は、とうぜんのことながら遅れざるをえない。その遅延ぶりを促進すべく予期せぬ協力者が現われ、ともすれば気落ちしそうになる男を勇気づける。協力者は、同性であるなら分身のような存在だし、異性であれば妹に似た血縁者である。二人の協力者は、どこかしら近親相姦的な愛か、倒錯的な関係を物語に導入し、純粋な恋愛の成立をはばみつつ、貴重品の発見へと向けてもろもろの妨害を乗りこえることになるだろう。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』P250)

このように物語構造が洗い出されてしまった作品群は主に次ぎの七つの長篇小説だった。

村上春樹『羊をめぐる冒険』(1982)
井上ひさし『吉里吉里人』(1981)読売文学賞、日本SF大賞
丸谷才一『裏声で歌えよ君が代』(1982)
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(1980)野間文芸新人賞
中上健次『枯木灘』(1977)
大江健三郎『同時代ゲーム』(1979)
石川淳『狂風記』(1980)


…………

ところで貴種流離譚とは、捨て子であれ私生児であれ、私の親はいま私を養育してくれている親とは違う最も偉大な親だ、私は偉大な血統生まれなのだ、とまずは思い込む事態だろう。私生児であるなら、母から生まれた起源は否定しないまでも、父はどこか別の場所にいると空想された「貴人」なのだ、と思い込むことだ。

だがフロイトはこうも書いている、すなわち実際のところ、子どもは父の代替者を創造することはそんなに多くない、むしろ父をひどく高い場に置き直す、と(『ファミリーロマンス』)。

この置き換えは、父(あるいは母の場合もある)が疑いようもなく至高の権威であることを疑わなかった喪われた幼児期への憧憬の表現だ。

フロイトの原父の神話とは、実はファミリーロマンスのフロイトヴァージョンではないか。彼のエディプス理論は神経症の主体が構築する「家族小説」と似ている。疑いようもない父の権威の歴史的な支えをフロイトは幻想的に(神経症的に)作り出したのではないだろうか。

まだ若い頃のラカンは『les complexes familiaux(家族複合)』(1938)にて、当時の家族と社会における父の家父長的なイマーゴの下落が精神病理の主な原因であるとしている。彼は精神分析はこの危機から生まれたとさえ言っている。

この洞察を引き継ぎ、かつラカンの四つの言説理論を援用して、Serge Andre( “What Does a Woman Want? ”2000)は、シニカルなひねりを加えこう言う、《ヒステリーの主体は、主人の形象が必要である。これが精神分析を創作する手助けをした》と。

ラカンも後年(セミネールⅩⅦ)、エディプス理論はフロイトの夢である、と言っている。

Ce qui est clair c'est que… simplement à voir comment FREUD articule ce mythe fondamental : qu'il est véritablement abusif de mettre sous la même accolade qu'ŒDIPE… qu'est-ce que MOÏSE… foutre de nom de Dieu, c'est le cas de le dire ! …a à faire avec ŒDIPE et le père de la horde primitive ? …c'est qu'il doit bien y avoir là-dedans quelque chose qui tient du contenu manifeste et du contenu latent, que pour tout dire et pour conclure aujourd'hui, je vous dirai que ce que nous nous proposons, c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD. (Lacan,Le Seminaire XⅦ)

夢、すなわち症状である。エディプス理論はフロイトの症状なのである。

だが症状であって何がわるいのか、ーーと記せば言い過ぎである。治療者としてのフロイトが患者にフロイト自身の症状を使って治療したらわるいにきまっている(次投稿に記す予定)。

だがラカンは『セミネール22』(RSI)にてこう宣言している、《症状のない主体はない》。もっともラカンの「症状」概念は後年変遷していることに留意しよう(参照)。

いずれにせよ、ラカン晩期のサントーム理論自体エディプス理論の再構成として捉えうる(「主体の解任destitution subjective」後の主人のシニフィアンS1構築とさえいってよい、参照)。とすればラカンのサントーム理論もラカンの症状ではないか・・・、だが我々には症状が必要なのだ、「ポワン・ド・キャピトン(クッションの綴じ目)」が(より詳細には《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である》(Séminaire XXIV)にかかわる、参照)。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

この新しいシニフィアンはS1、あるいはΣとも記されるのだがーーミレールは”S of barred A as sigma”とさえしている、S(Ⱥ)の定義のラカンの変遷はあるにしろ(参照:「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」)、ある時期のこのマテームは、すなわち S(Ⱥ)=Σと読めるのだ(“Lacan's Later Teaching”)ーー、実のところ「父の名」の個人ヴァージョンなのだ。イデオロギー的父の名を取り払い(主体の解任)、新しく個人独自の父の名を構築するのがサントーム理論である(参照)。

実際、ミレール派の分析家からはこんな言葉さえ洩れている。

《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)

"普通の精神病"をテーマにしたパリの英語セミネールにての最も目を瞠る事例のいくつかにおいて、われわれはまさにこの過程を聞くことができた。すなわち、"彼自身の個人的神話の創造"、"〈大他者〉とのひとつの絆の創造"、"世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造"、"〈大他者〉の言説へ入り込むことを彼女に容認させること"、そして"ファミリーロマンスを構築"。実にサンブランへの〈大他者〉の全き脱実体化であり、それは精神病者にとっての新しい診断の俯瞰図であるだけでなく、治療における新しい可能性の地平である。(同Thomas Svolos,私訳)

ここでジジェクの主人のシニフィアンS1の思いがけない簡潔な定義を挿入しておこう。

主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。

The Master-Signifier is the unconscious sinthome, the cipher of enjoyment, to which the subject was unknowingly subjected.(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

ーーそもそもこの私には驚くべき定義がはたして正しいのかを探るために、S1やらΣやらS(Ⱥ)やらΦやら父の名やらの繋がりを調べだしたのだが、ひどく手間がかかった。

ただしおかげで今では次ぎのような文に巡り合っても驚くことはなくなった。

タトゥー(刺青)は身体との関係における父の名になるだろう。(J.-A. Miller: Effet retour sur la psychose ordinaire. Quarto94-95, 2009

…………

さて、ここで「偽装された自叙伝」としても読めるフロイトの『夢判断』からぬき出しておこう。彼は名高い「ローマの夢」の記述のあと、次ぎのように書いている。

……ハンニバルは私の少年時代の大好きな英雄だった、少年の誰でもそうであるように、私もカルタゴ戦争のあいだローマの戦士たちではなく、カルタゴの英雄に心を惹かれていた。さて上級生になって自分が異人種の血を引いているといいうことのもたらすいろいろの結果がわかりはじめ、また同級生間の反ユダヤ的な感情を見て、これはぼんやりしていられないぞと思いはじめるときがきてからは、このユダヤの英雄はますます偉いものに見えてきた。青年時代の私には、ハンニバルとローマとは、それぞれユダヤ人の頑張りと旧教教会の組織との象徴のごとくに思われた。爾来反ユダヤ運動がわれわれの情意生活に対して持っている意義は、幼少時代の思念や感情を固定せしめた。かくしてローマを訪れたいという願望は、私の夢の生活にとってはその他いろいろの烈しい願望の仮面かつ象徴となったのである。そして私はそういう数々の願望の実現にはかのハンニバルのごとき忍耐と専心とをもって当らなければならず、また、それらの願望の充足は、ローマに進駐したいというハンニバル畢生の願望のごとく、時には運命の恵みを享けることのまことにすくないもののように思われるのである。

さて今にしてようやく私は、すべてこれらの感情や夢のうちに今日もなおその威力を示している少年時代の一体験に到達するのである。

十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしえこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」 これはどうも少年の手をひいて歩いてゆくこの頑丈な父親にふさわしくなかった。私はこの不満な一状況に、ハンニバルの父、ハミルカル・バルカスが少年ハンニバルをして、家の中の祭壇の前でローマ人への復讐を誓わせた一場、私の気持にぴったりする一情景を対置せしめた。爾来ハンニバルは私の空想中に不動の位置を占めてきたのである。(フロイト『夢判断』上p254 新潮文庫 高橋義孝訳)

《爾来ハンニバルは私の空想中に不動の位置を占めてきた》、--ここにエディプス理論の起源のひとつがあるに相違ない。


(つづく)


2015年9月22日火曜日

母猿に舐められつづけた小猿の流儀

佐々木敦@sasakiatsushi
起業家みたいな人たちが妙に現政権寄りで、またそのことを隠そうともしてないのは、アベノミなんたらのせい以前に、彼らが定められたルールの中での勝ち負けで生きており、ルール自体の書き換え可能性には思いも寄らない、というかそれには反対であるということが多分に関係してるのじゃないかと思う。

ーーというのは、学者、講壇批評家もあまりかわりがないよ(参照:「リベラル学者という道化師たち」)。

そもそも研究者たちの「科研費」取得システムとは、《定められたルールの中での勝ち負けで生き》る新自由主義システムの侍僕に飼い馴らす仕組みさ。

生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション、勝ち組と負け組ーーこれらはすべて経済のディスクールだからな、(参照:Paul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities http://gfm.statsvet.uu.se/Portals/1/UppsalaUfourdec2013.pdf)

科研費獲得とは、この新自由主義の標語に精を出すことではないか。

ーーいやいやそんなことはない、どうやらリッパなシステムらしい・・・(科研費による研究者養成」福田秀樹 神戸大学・学長)。

とはいえ二十代のときにまともなことを書いていたようにみえるのに、博士論文後しだいに凋んでいくヤツが多いのは、アレはナンダロウ・・・

フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」(ナンシー・フレイザー)のと似たようなもんじゃないかい?

あれは《ルール自体の書き換え可能性には思いも寄らない》、システムという母熊に舐められつづけているのが研究者の姿ではないかね?

サドは人間の天体が、まともな実生活から遠く離れた、歌う無為の太陽たちの回帰線に傾くことを祝う。彼は人間の非社会化を祝い、母熊に舐められた〔躾けられた〕部分を徐々に捨てることを教える。(『詩におけるルネ・シャール』ポール ヴェーヌ, Paul Veyne, 西永 良成訳)

いずれにせよ、次の通り。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)

“Sie wissen das nicht, aber sie tun es” 、「彼らはそれを知らないが、そうする」のだ。

さてもうすこし蓮實重彦の「話芸」を貼り付けておこう。

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批評宣言』)

佐々木敦氏もどちらかというと《どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口に》するタイプなんじゃないか、オレは読んだことはないがね、ツイートを眺めるかぎりではの印象さ。いまだ「青春」をやっているわけでもないだろうが。

知識も基礎学力もない人たちが、こうまで簡単に批評家になれるとはどういうことですかね。最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。要するに芸がなくてもやっていけるわけで、こういう人たちが変な自信をまでもっちゃった。(『闘争のエチカ』蓮實重彦)

ーーシツレイ! これはどこかの馬の骨の憶測にすぎないよ・・・

……個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」より)

…………

制度に抗うには、 少なくとも抵抗すべき対象を見据えうる程よく聡明な視線がそなわっていなければならぬ。 その意味で、 あらゆる反抗者は、いくぶんか制度的な存在たらざるをえないだろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
誰もが、 いかにも今世紀にふさわしい流行だねとささやきあいながら流行をまぬかれたつもりでいるが、 まさにそう口にすることそのものが流行になっているということには気づいていないのである。(同『凡庸な芸術家の肖像』)

誰もが、いかにも《ルールの中での勝ち負けで生きている》ヤツラばかりだねとつぶやきながら、己はそれからまぬかれたつもりでいるが、まさにそう口にするヤツが制度的な存在であることには気づいていないのである。

ーーオレかい? オレも気づいていないんだよな、どこかの馬の骨と記したばかりじゃないか? 凡庸な似非インテリの肖像を自ら描いているだけだよ、〈あなたたち〉のためにな

というかそもそもツイッター言説、ブログ言説の限界でもあるさ

自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)



2015年9月21日月曜日

「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)

これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい(野間易通)」補遺。

バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの付加的な説明が必要となる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012私訳)

要するにジジェクの考えは「正義」ではなく別のシニフィアンが必要だということ。だが誰もそれを提案できていない。

とすれば当面、この主人のシニフィアンを使わざるをえない立場の人たちがいるのは分かる。だがそれでは「正義」というシニフィアンに嫌悪を抱く数多の人たちの抵抗や嘲弄を免れることはできない。もちろんどんな主人のシニフィアンでも抵抗や嘲弄はあるが、「正義」というシニフィアンは手垢にまみれてすぎている。「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)が必要なのだ。

※参照
1、主人のシニフィアンと統整的理念
2、Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる)


小泉義之氏が最近再開されたブログで次のように言っているのはこれらの文脈のはず。

仮に既成政党をガラガラポンするにしても、そのためには、既成政党を少しばかり越え出 る大義が必要である。外部注入が必要である。超越的シニフィアン、空白の玉座、空虚な シニフィアンが必須である。累進課税やデフレ脱却や公務員拡大や大学保護や反極右 などといったものが、そのポジションを占めるはずがない(残念なことに、と言い添えてもよ い)。ちなみに、現在の主流派は、日本・ジャパン・グローバル・国際・経済成長などといっ たものをそのポジションに据えて、(ラクラウ的な意味での)ポピュリズム的な勝利を続けて いる。これに対し、平和・反戦・戦後・敗戦後(?)・反(脱)原発・復興などは、一定の運動を 統合するシニフィアンにはなりえても、特定の政党に票を掻き集めるシニフィアンにはなり えない。福祉・医療・教育がそうはなりえないのと同じことである。要するに、選挙となれば どの政党でもそれらを言い募り、大差のない似たことしか言わなくなるからである(ここに社 会派の苛立ちがある)。この事態を断ち切るには、既存のものに対して、上から/外からの 新たな介入が不可欠である。その点で、一部には君主(制)の旗を掲げようとする向きもあ るが、君主自身が他を道連れにして身を廃する構えをとるのでなければ、成功するはずも なかろう。要するに、手詰まりなのである。そして、それは喜ばしい報せである。ゼロベース でやり直すしかないからだ。(現時の閑話休題

ーー用語遣いにわたくしはやや抵抗はあるが。ラカン派や柄谷行人の文脈では超越的シニフィアンではなく、超越論的シニフィアンにしなければならない(参照:超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))。また「大義=構成的理念」は「統整的理念」にしなければならない(参照)。

だが細部に拘らなければ言いたいことはよくわかる。いずれにしろわれわれは新しい「言葉」を探さなくてはならない。

さてジジェクが「正義」というシニフィアンに抵抗をしめすのは、次の文脈だろう("正義"という「主人のシニフィアン」(バディウ=ジジェク))。

彼は『国家』のなかで次のように説いています。一人の人間の中には、魂の三つの 部分――理性、精神、欲求――とそれぞれに関係する三つの徳――知恵、勇気、節制―― があり、それぞれが互いと適切な関係を保っている。社会における正義も同じようなもの だ。社会では、それぞれの階級が、他の階級の邪魔をすることなく、それぞれの性質にふ さわしい仕事をこなすことで、それぞれの階級独自の徳を行使している。知恵と理性にあ たる階級は統治にたずさわり、勇気と精神にあたる階級は軍事にたずさわり、残りの部分、 つまり特別な精神や知性はないが節制にすぐれている階級は農業や単純作業にたずさわる。 正義とは、こうした構成要素の間に調和がとれていることなのだ、と。(ナンシー・フレイザー「正義〔正しさ〕について――プラトン、ロールズそしてイシグロに学ぶ」ーー「正義とは不快の打破である」)

プラトンの『国家』における「正義」はこれだけではない、という見解もあるだろうが、やはり『国家』における対話を読めば、ほぼこういう「正義」概念である、とすることができる。

たとえば『国家』には、上の「正義」概念以上に驚くべきエリート偏重の主張がなされている。
「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」

(……)
「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」
(……)

「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」

(……)
「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」
――プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369

…………

※附記

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。大学のディスクールは、知のネットワークーーこの判読可能性を、定義によって支えるーーを分節化するわけだが、その言説は、当初の主人の振舞いを前提条件とし、それに頼っている。  その言説は、当初の〈主人〉の振舞いを前提条件とし、それに頼っている。〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、2012,私訳)

もちろんジジェクはここでランボーのA une raisonに触れている(ラカンの『アンコール』に引用がある)、《Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie.(君の指先が太鼓をひと弾きすれば、音という音は放たれ、新しい階調が始まる)》。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

《ひとびとはある人を王(S1)として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々(S2)が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ。》(マルクス『資本論』)

ーーもちろんS1とS2はわたくしがつけ加えている。

(1)《シニフィアンはどんな対象とも関係しない記号である》(S.3)。それは《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(S.3)。さらにシニフィアンは必らずしも(文のなかの)言葉に相当しない。音素から文までの言語のあらゆる階層的レヴェルでの対立するユニットはシニフィアンとして機能しうる。人のボディランゲージもーー例えば、頭を振ったり頷いたり手を振ったり等々ーーそれが多義的である限りにおいてシニフィアンとして働きうる。

(2) 記号とは、厳密に言えば、コード概念、あるいは「生物学的な記号」と重なり合う何かである。索引と指示物とのあいだのとゲシュタルト的/想像的なーー両-一義的な bi-univocal ーー関係である。これは動物のコミュニケーションの領域である(思い起こしてみよう、例えば動物においてある色の出現はそのパートナーにおけるある性的反応を惹き起こす仕方を)。このように動物のコミュニケーションは「(特別の)意味をもつ significant」。他方、人間のコミュニケーションは「徴示する signifying」。その意味はけっして「両-一義的 bi-univocal」でないことである。というのは根絶できない虚偽の可能性ーー象徴的局面の精髄ーーが間違いなくあるのだから。

(3)「主体性のどんな科学的定義もない、次ぎのように考え始める以外は。すなわち意味する先ではなくnot significant ends、純粋に徴示するものpurely signifyingに対するシニフィアンを扱うことの可能性から始めること。これは、欲求の秩序とのどんな直接の関係性もないことを言っている」(Seminar. III, p. 189) この定義はすでに1960年代初めのラカンの名高い公式の基本を提示している。その公式によれば、主体はほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって代表象される。主体はシニフィエに還元され得ない。シニフィエの主体the subject of the signified とは自我egoに相当する。他方、主体はシニフィアンにさえ同一化できない。というのはシニフィアンの行為そのものが言表内容と言表行為のあいだで主体を分裂させるからだ。どんなシニフィアンも主体を十分に徴示するsignifiesことはない、それが「特権的なシニフィアン」であってさえも。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』、2007、私訳)

一見、〈私〉というシニフィアンをめぐってLorenzoの叙述(黒字強調箇所)と上の二人の叙述は齟齬があるようにみえるかもしれないが、これは異なった側面からの(シニフィアン、あるいはシニフィエからの)同じ指摘である。

……the signifier “I” which gives us the illusion of an identity of our own.(Paul Verhaeghe,FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES,1998)

〈自己〉とは主体性の実体的核心のフェティッシュ化された錯覚である。そこには実際は何もない。

the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing.(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

これらは、フロイトの《自我は自分の家の主人ではない“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”》をめぐっていると言ってよい(参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」)。





2015年9月20日日曜日

これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい(野間易通)

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。(『看護のための精神医学』中井久夫

…………

小池一夫@koikekazuo

「いいか。世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ」(『翼を持つ少女』)

野間易通)《@kdxn: この文章は前段と後段が矛盾している。「正義だと信じた」ということは実は正義ではなかったって意味なので、「最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ」という文は間違っていることになる。これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい。 https://t.co/yl4DDMfbtv》

《@kdxn: 「正義と称するが正義ではないもの」と「正義」をきちんと区別することができないと、本当の正義を行うことができないばかりか、それを行っている者を疑い、嘲笑する醜い不正義の人間になってしまう。》

‏@G2Nakamura

これ、わからないのは「実は正義ではなかった」というのはどの立場から言っているのかというところ。まるで神のように一段上から見下ろしてないか?所詮、絶対的な正義など分からないのだという諦念を前提にしている分、小池一夫のほうが共感できる。

《@kdxn: 「実は正義ではなかった」とみなしてるのは小池さん(が引用した文)なので、読み取りがおかしい。 https://t.co/CbV64l9QgK》

《@kdxn: あと「絶対的な正義など分からないのだという諦念を前提にしている」のは信用ならない。絶対概念は神にのみ適用されるもので、世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの。なので「絶対正義などない」という諦念表明は何も言ってないに等しい。 https://t.co/CbV64l9QgK》


…………

野間易通氏の本日のツイート(2015.9.20)だが、さてあなたはどう思う?

《これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい》な、《世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの》などという考え方は。

ことわっておくが、わたくしは野間易通氏のファンだがね、

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

少なくともこういった発言には抵抗しようがない(参照:「何もしないことのエクスキューズ」)。

だが、正義とは《世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの》とするのはいかにも浅墓すぎる。すでにかつてなんどもくり返し議論されて(とくに環境問題のとき)、すくなくとも現在生きている「人間同士の合意」では扱えない「正義」があることは、「識者のあいだでは」明らかになっているはずだ。すなわち、野間易通の考え方は「ほどよく聡明な」正義の現場派には《よくあるパターンなので早々に脱却したい》。

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。また、過去の人間との対話や合意もありえない。彼らは何も語らない。では、われわれはなぜ責任を感じなければならないのか。実際、何の責任も感じない人たちがいる。国家や共同体に関して「道徳的」な人たちが特にそうである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P192)

人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとること——それが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。

 経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共〉の目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。(……)

未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。その未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。(岩井克人「未来世代への責任」

とはいえツイッターでメンションを入れるのはやめにしていまこうやって記している。いま野間易通氏は他人の批判を受け入れがたいまでに自らの「正義」を確信する領域にはいってしまっているようにさえみえるからだ。

林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄)

…………

くりかえせば、《一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは……視野の幅が狭くなっていることが多い》のであり、野間易通氏もそれから免れていない。かつまた彼の繰り言「ポストモダン」批判(参照)も素直に耳を傾けるわけにはいかない(参照:元「しばき隊」諸君の「ポストモダンと冷笑」批判)。

ポスト・モダニズムについては、僕もさまざまな、かつ相互に矛盾しあうような考えをもっています。ある者たちに対して、僕は、自分はポストモダンだと宣言するでしょう。しかし、それは、ポスト・モダンがモダンのあとにくる「状態」や「段階」でなのではなく、モダンなものに対してその自明性をくつがえすという“超越論的”な「姿勢」であるかぎりにおいてです。だから、それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない。(柄谷行人『闘争のエチカ』P18)

たとえば野間易通氏に代表される社会運動家たちは、ほとんどが消費税増反対だろう。消費税増に反対することは今生活している人(とくに低所得層)にとっての短期的な正義であるには相違ない。

だが消費税増ーーもっと大きく言えば国民負担率増ーー反対などというものは、《文句も言えない将来世代》への残忍非道の振舞いではないか(参照)。

いずれにしろ人は《邪な心を抱いて正しい行為をする》こともあるし《正しい心を抱いて邪な行為》をすることもある(シェイクスピア『終わりよければすべてよし』)。視野の幅が狭い(短期的な)正義は、長期的には悪であることがしばしばあるのは周知だろう。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

「日本の国債市場と投資家行動 」(2014年10月3日 角間和男 野村アセットマネジメント)に引用されている橘玲氏の『(日本人)』におけるブキャナンの財政赤字の膨張の不可避性の見解はつぎの通り(もっともドイツは政治家の「秀れた」リーダーシップでそこから脱出したのだが)。

ジェームス・ブキャナンは「民主政国家は債務の膨張を止めることはできない」という論理的な帰結を1960年代に導き出した。政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡大するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するからだ。

このような説明は、ほとんどの人にとって不愉快きわまりないものにちがいない。だが 現実には、日本国の借金は膨張をつづけ、ついには1000兆円という人 類史上未曽有の額になってしまった。ブキャナンの「公共選択の理論」は、 この事実を見事に説明する。そしてこれまで誰も、国家債務が膨張する 理由について、これ以上シンプルな説明をすることができないのだ。(橘玲『(日本人)』)

こういったわけで、われわれは財政危機という課題をつねに未来へ先送りする傾向をもつ。「公共的合意」では埒が明かないのだ。

◆補遺:「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)


…………

※附記

あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。 (『ジジェク自身によるジジェク』)

変奏:〈あなた〉が正義という理念のために己の正義を果たしていると考えているとき(たとえば安倍晋三を罵倒するとき)、〈わたくし〉は知っている。〈あなた〉のふだんは行き場のない攻撃欲動をこのときばかりと発散し、それを享楽していることを。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収ーー「で、どうおもう、〈あなた〉は?」)

《すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としているのだ》(ニーチェ遺稿「生成の無垢」)

ーーこのニーチェの言葉の例証として、日本では代表的な聖女とされるだろう神谷美恵子さんをめぐってみてみたことがある(参照:「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」(神谷美恵子))。

義務こそが「最も淫らな強迫観念」……。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』)

さてどうしたらよいのか。まずは正義だと思い込んでいる自らの背後にある攻撃欲動(享楽)を認めることだ。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫『「踏み越え」について』2003)
……“la traversée du fantasme”(幻想の横断)の課題(人びとの享楽を組織しる幻想的な枠組から最低限の距離をとるにはどうしたらいいのか)は、精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、再興したレイシストのテンションが高まるわれわれの時代、猖獗する反ユダヤ主義の時代において、おそらくまた真っ先の政治的課題でもある。伝統的な“啓蒙主義的”態度の不能性は、反レイシストによって最もよい例証になるだろう。理性的な議論のレベルでは、彼らはレイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得的な理由をあげる。だがそれにもかかわらず、己れの批判の対象に魅了されているのだ。

結果として、彼の弁明のすべてはリアルな危機が起こった瞬間、崩壊してしまう(例えば“祖国が危機に陥ったとき”)。それは古典的なハリウッドの映画のようであり、そこでは悪党は、“公式的には”最後にとがめられるにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎこまれる核心である(ヒッチコックは強調した、映画とはバッドガイによってのみ魅惑的になる、と)。真っ先の課題とは、いかに敵を弾劾し理性的に敵を打ち負かすことではない。――その仕事は、かんたんに(内なるリビドーが)われわれをつかみとる結果を生む。――肝要なのは、(幻想的な)魔術を中断させることなのだ。“幻想の横断”のポイントは、享楽から逃れることではない(旧式スタイルの左翼清教徒気質のモードのように)。幻想から最小限の距離をとることはむしろ次のことを意味する。私は、あたかも、幻想の枠組みから享楽の“ホック(鉤)をはずす”ことなのだ。そして享楽が、正当には決定できないものとして、分割できない残余として、すなわちけっして歴史的惰性を支える、固有に“反動的”なものでもなく、また現存する秩序の束縛を掘り崩す解放的な力でもないことを認めることである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)




事の理非を糾す暇もないままに一度限りの言辞に欺かれる大衆

「我々は君らの市民に直接語りかける機会を与えられていない。なぜならば、大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれるかもしれないとの恐れ(それゆえ我々は君ら少数の選ばれた者を招集したのだ)があるからだ。さればここに列席する諸君に、さらに万全を期しうる方法を提案しよう。この会談が一度限りの一方的な通達に終わらぬよう、君たちの一つの論に私たちが一つの弁で答える。我らの言葉に不都合なりと覚える点があれば、直ちに遮って理非を糾して貰いたい。まずはこの点に満足か答えて貰いたい」(ツキジデス『戦史』)
国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

さて、ツキジデスやヘーゲルの時代とわれわれの時代は違うから(民衆は教育されているのだから)、今ではこうではないといえるだろうか。今は「民衆」の意見を十分に取り上げてそれを政策に活かすべきだろうか。

二〇〇七年の秋、チェコ共和国で、米軍レーダー基地建設をめぐって世論が沸騰した。国民の大多数(ほぼ七〇パーセント)が反対しているのに政府はプロジェクトを強行した。政府代表は、この国防問題に関わる微妙な問題については投票だけでは決められない――軍事の専門家に判断をゆだねるべきだとして、国民投票の要求をはねつけたのだ。この論法に従っていくと、最後には、おかしな結果になる。すると投票すべき対象として何が残るというのか?たとえば経済に関する決定は経済の専門家に任せるべき、という具合にどの分野にもあてはまるのではないか? (ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

さて、大衆の判断に任せるべきであろうか、それとも専門家に任せるべきであろうか、専門家が私利私欲による誘惑に駆られた判断をする可能性は大いにあるにしろ、ではそれを大衆の判断で是正するなどということがあり得るのか。その「大衆」とはどの大衆なのか。その大衆とは、《立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれる》大衆ではないのか。

とすれば煽動家が要の役目をすることになる。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄『ヒトラーと悪魔』)

煽動家とは、究極的にはファシストのように振舞うことではないか。そもそもファシズムの語源は「絆」である(伊: fascismoの語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)。

ファシズムについては次ぎのような見解さえある。

福田和也)僕は20代前半ぐらいに、バタイユとか、ブランショとか、前期ハイデガーとかを、けっこう熱心に読んでいたときに、革命ということを考えていくとどうしたって、バタイユは特にそうですが、ファシズムになってしまうんですよね。だから逆に、革命というためにはファシストであらねばならないということが非常によくわかってしまって、その認識に誠実であるためにファシストと称しているんですけれど。

柄谷行人) たぶん革命という概念でやると、ファシズムになるでしょうね(笑)。みんな、それに気づいていないだけで。(『スーパーダイアローグ』)
宮台氏は、日本はファシズム化するしかない、という。ただし、それは 「国家を強くする」 というナチスドイツ的なファシズムではなく、「社会を強くする」 というムッソリーニ的なファシズムである。つまり 「価値の埋め込みによる長期的な動員」 ないし社会をよりよくしようという動員――日本もこれをやるしかない。そして、「大きな社会=包摂性のある社会=相互扶助的な社会」 を構築していくことで、日本社会の強化を進めていくべきだ、と。(田原総一郎×佐藤優×宮台真司 『日本流ファシズムのススメ。』

カール・シュミット(ナチスの理論家)によれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。


ところでネット選挙が解禁され、ソーシャルメディアでの情報発信やニコ生討論会などで、大衆は投票することになるとしよう。

浅田彰)ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.(「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」)

おそらくこういった現象が起こるに相違ない。 すなわちやはり《大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれるかもしれない》のだ。とすればどうしたらいいのか。やはりヘーゲルのいうように「国家の最高官吏たち」に任せるべきなのか。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)
人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001ーー「民主主義の中の居心地悪さ」より)

だがわれわれは国家のエリートたちを信用できなくなっている。

いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

ーーここまでは一年弱前に記した「民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である」のほとんどくり返しである(ファシズム箇所を除いて)。

以下、そこでは引用していない文を掲げよう。

バクーニンのようなタイプのアナーキストは、一切の権力や中心を否定する。そこには、抑圧から解放された大衆は、おのずから自由連合によって秩序を作り出すだろうという暗黙の仮定がある。しかし、プルードン自身がいったように、けっしてそうはならない。逆に、それは強力な権力を招来するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』p.280)

ラカンは1968年の学生運動のさなか次ぎのように言い放った、《君たちは新しい主人を求めるている、やがて君たちはそれを得るだろう》Vous voulez un maître, vous l'aurez(1968)。

ふたたび柄谷を続ける。

また、諸個人の能力差や権力欲がなくなると仮定することには何の根拠もない。むしろ、諸個人の能力差や権力欲が執拗に残ることを前提とした上で、そのことが固定した権力や階級を構成しないようなシステムを考えるべきなのだ。マルクスは、それについて特に書いていない。しかし、主としてプルードン派の構想にもとづくパリ・コンミューンを擁護し高く評価したとき、彼はそこに「可能なるコミュニズム」への鍵を見だした。そして、それは若い時期からの彼の考えと特に異なるものではない。(同上p281)

《権力や階級を構成しないようなシステム》とはなにか。柄谷行人にとっては「くじ引き」である。

われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打倒するところから生れたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられたシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きにある。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(『トランスクリティーク』

柄谷行人はいまでもこのように考えているはずだ(参照:世界危機の中のアソシエーション・協同組合柄谷行人と生活クラブとの対話)。ジジェクもこの柄谷行人の「くじ引き」制度の提案を最近の著書にいたるまで何度も引用している。

(2010年に提案された鈴木健のゴールデンパラシュート論は、ここでの話とはやや異なるが、高級官僚が《私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策》(柄谷行人)を実施できるような環境(のひとつ)を整えるという案とみなすことができる、ーーすなわち退職後の再就職を禁ずるかわりに(企業などとの癒着の根を断ち切るために)官僚に対して退職金の大幅割り増しをするという制度である。)

…………

ノーム・チョムスキー曰く、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる》(Noam Chomsky,“Necessary Illusions”)

アラン・バディウ曰く、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳



2015年9月19日土曜日

暴力と精神衛生

一つの悪徳を行使しなくては、自国の存亡にかかわるという容易ならぬばあいには、悪徳の評判などかまわずに受けるがよい。
私は、用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神が女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突きとばしたりすることが必要である。運命は、冷静な行き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである。

要するに、運命は女性に似て、若者の友である。つまり、若者は、思慮は深くなく、あらあらしく、きわめて大胆に女を支配するからである。(マキャベリ『君主論』)

…………

なにやら言ってくるヤツがいるが、二つの投稿にある文が矛盾していると。

《おまえらよく「秩序を以て行列をつくる国民」のデモをいまだやってられるな、感心するぜ!》(「きたるべきメーメーアイコク・ヒツジさんたち」)

《デモぐらい行けよ、だがデモの熱狂を疑えよ》(「で、どうおもう、〈あなた〉は?」)

ーーそうかい? そうかもな。

オレはつねに矛盾しているのさ。なにが善でなにが悪かなど、オレのようなどこかの馬の骨にわかるわけないだろ。気に入らなかったら読むなよ!

馬の骨とケンソンしてしまったが、「不確実性の知恵」さ、おまえらのように、コトアルゴトニ、「非暴力の抵抗」っていってるヤツラにはウンザリなのさ。

人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 )

韓国人のようにアツクなったらダメかい、ときには? オレはたまに当地で仕事をしている彼らとテニスをするんだが、やつらはアツイねえ、ダブルスのペアなんか組んで迂闊なヘマをするとラケットが飛んできそうな顔するぜ。

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。このような人たちが、激しいデモや抗議活動に向かうことはめったにない。

 私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」

で、貴君は惚れこんだ女がヒドイ目にあってもその暴漢野郎に仕返ししないタイプかい? 非暴力に終始するわけかい?

まあそれはそれでいいさ、オレはたぶんそのタイプではないというだけだな

「何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ。昔柔道をやっていたのでね」と、いった。

重い椅子を持ったままの片手を頭の上へまっすぐのばすのに成功すると、サビナがいった。「あんたがそんな力持ちだと知って嬉しいわ」

しかし、心の奥深くではさらに次のようにつけ加えた。フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。

サビナは椅子を高くかざしたまま部屋中を歩きまわるフランツを眺めたが、その光景はグロテスクなものに思え、彼女を奇妙な悲しみでいっぱいにした。

フランツは椅子を床に置くとサビナのほうに向かってその上に腰をおろした。

「僕に力があるというのは悪いことではないけど、ジュネーブでこんな筋肉が何のために必要なのだろう。飾りとして持ち歩いているのさ。まるでくじゃくの羽のように。僕はこれまで誰ともけんかしたことがないからね」とフランツはいった。

サビナはメランコリックな黙想を続けた。もし、私に命令を下すような男がいたら? 私を支配したがる男だったら? いったいどのくらい我慢できるだろうか? 五分といえども我慢できはしない! そのことから、わたしにはどんな男もむかないという結論がでる。強い男も、弱い男も。

サビナはいった。「で、なぜときにはその力をふるわないの?
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P131-132)

集団行動の熱狂はキライだが、一貫した非暴力もキライさ、わるかったな、アバヨ!!


※附記:「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ」より

……事後的な言語化の意味と効用について述べたが、皮肉なことに、行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。(中井久夫「「踏み越え」をめぐって」『徴候・記憶・外傷』所収)
行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。

DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収pp311-313)

2015年9月18日金曜日

きたるべきメーメーアイコク・ヒツジさんたち

@OesWords: しかし、いまここに来て見ると、若い人が力強い声を発している。民主主義の基本の力がこのように活発で失われていない以上、自分たち老人がもう希望はないとへたり込んでしまうことはできない。(2015.9.14国会前)大江健三郎

ーーということをおっしゃっているようだが、辺見庸氏のブログが「おひさしぶり」(9月15日)に更新されて大江健三郎にも触れている。前投稿は8月8日であり一カ月以上の空隙がある。体調でも崩されかとシンパイしていたが、おゲンキなようだ。

・おひさしぶりだというのに、あまりにも唐突で恐縮ですが、あの醜いブチハイエナは、ちょっと嗅ぎでもしたらたちまち失神するか、あなたが虚弱体質のばあい、ころりと死にいたるほど、とんでもなくくさい屁をするのだ。食性はいうまでもなく肉食で、ものすごいアゴの力で骨までばりばりと嚼みしだく。並はずれた体力と(無)神経をもち、10数種類の鳴き声をときにおうじて器用に鳴きわける。英名はspotted hyenaだが、ひとをこばかにして「アハハハ…」「へへへへ…」「ヒヒヒヒ…」などとよく笑うことから、 laughing hyenaともよばれる。いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう(ex.inada gas-hyena)。ブチハイエナは雌雄ともいっぱんに無用のけんかをこのまないが、いったんしかけられたら、集団であいてを傷めつくし殺しつくすまでたたかう。しかるのちに敵を食いつくし、みなで放屁しながら「アハハハ…」「アへへへへ…」「アヒヒヒヒ…」と笑うのである。ブチハイエナは、つまり、本質的には超過激で超強力な暴力集団であることをわすれてはならない。話などつうじるものではないのだ。さて、数十頭の群れ(クラン)からなるブチハイエナ集団を覆滅するにはどうすればよいのか。それが問題だ。そろいの字体のプラカードをぶらさげた無害なヒツジさんたち数万頭で、ブチハイエナたちをミンシュテキに包囲し、メ―メ―メ―メ―鳴けばよいというのか。メ―メ―メ―メ―・オマワリサン・ケフモ・オツカレサマ・コンバンモ・ゴクロウサマ!まいどおなじみ大江健三郎たちに、やくたいもないスピーチをさせて、メ―メ―メ―メ―、無傷でもりあがろうってか!?おい、大江、このクニに戦前も戦後もいちどだって民主主義なんてありえたためしがないことぐらい知っているだろうが。まもるものなんてヘチマもない。ならば、大江よ、なぜそう言わないのだ。なぜこうなったのかをかたらないのか。このていたらくのわけを。血のいってきもながさずに、無傷ではなにもできはしない、虫がよすぎる、と。たとえ50万いや100万のヒツジさんたちが、ペンライトをケツの穴から夜空に照らして、メ―メ―メ―メ―、ミンシュテキに鳴いてみたところで、takaichi gas-hyenaの屁いっぱつ、たちまち異臭さわぎで全員気絶だぜ。おい、大江、もうちょっとましな演説ができないのかね。あんたも、もうかるくいっぱつ、頭にかまされたんとちがうか。なに?オナラは暴力ではない?あくまでミンシュテキに、ボウリョク・ハンタイだと?……ああ、見解のそういですな。ひつようなのは、laughing hyena集団の国家暴力をはばむ対抗暴力のイメージだ。やかましい、メ―メ―メ―メ―鳴くんじゃない、きたるべきアイコク・ヒツジさんたちよ、さっさとブチハイエナどもに骨ごと食われてしまえ。いでよ、ふかき憎悪もて、群れず、ひとり闇をさまようもの。暗きうちを歩みて、おのが往くところを知らず、これ暗黒がその眼をくらましたればなり……。されど、いでよ!(2015/09/15

ーーでこの「名文」を引用すれば、ガンジーの非暴力やらなんたらと言ってくる連中がいるかもしれないのを憂え、ここでガンジーの言葉をも引いておこう。

侵略者達にあなたがたの屍の上を歩かせなさい、罪のない人々の屍の上を踏み越してゆくような軍隊は二度と同じ経験をくりかえすことはできないでしょう。(ガンジー『非暴力の精神と対話』)。

屍になるまでの覚悟があるなら非暴力もよろしい。ブチハイエナどもに貪り喰われる覚悟があるのなら。

そして《いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう》ブチハイエナどもである。

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」《不滅》クンデラ

ーーなぜこうなのか? いやいやソンナコトハナイ、ある種の男たちの錯覚である・・・

だがある種の女たちもどうやらそうであるのではないかとシンパイしているらしい。

イギリスのラディカル・フェミニスト・グループの創設者の一人であったジュリエット・ミッチェルJuliet Mitchellは精神分析フェミニズム系のフェミニストで名高いが、21世紀になって、ラカン派の臨床医の書(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、PAUL VERHAEGHE 2009)の序文をーー序文にしてはいささか長すぎるほどの文をーー書いている。

このヴェルハーゲの書のフロイト・ラカンの女性論をめぐる箇所のまとめ(のいくらか)は「古い悪党フロイトの女性論」にある。だがいまはその話ではない。ラディカルフェミニストの序文の話である。

ジュリエット・ミッチェルはその長々しい序文で、シルヴィア・プラスの詩、 「すべての女はファシストを崇拝する Every woman adores a Fascist(Sylvia Plath)」を引用して、なにやらを説明しようとしている。ただし、女のほうが残酷である、などということは口が裂けても記さない、ただ「父なる超自我」/「母なる超自我」に近いことを口に出そうとはしている。

「母なる超自我」とは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない「猥褻かつ苛酷な形象」[ la figure obscène et féroce ] (Lacan)である。

ーーというわけで女性のみなさん、フロイト・ラカンなどは決して読まないようにしましょう! そんなものを読めばラディカルフェミニストでもこんなことを口にだそうとしてしまいます!


さてなんの話だったか?


ベンヤミン(『暴力批判論』)は問う、「係争をなんとかして非暴力的に解決することは可能なのか?」

彼の答えは、非暴力的な解決が可能なのは、礼儀、共感、そして信頼のある「内輪の人間どうしの関係において」である、としている。「暴力を行使せず人間同士が合意する領域というものが存在するのは、それが隈なく暴力を受けつけない場である場合だ。すなわち、「理解」(悟性)に固有の領域、言語である。」

ブチハイエナとメーメーこひつじさんたちは、「内輪同士の関係」にあるつもりなのだろうか。それなら「非暴力」に徹したらよろしい。


ところでヒトラーにひとは「非暴力」で対抗できるだろうか。




《ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。》

彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。(小林秀雄『ヒットラーと悪魔』)
人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかあったところに現れたと言った方がよかろう。(同上)


ところでヒットラーは1930年代の日本を羨んだらしい。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収

この「会社主義」の主要な原因(のひとつ)はなにか。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号

 父権的/母性的などとある。これもある種の男たちの錯誤である・・・

とはいえかの上野千鶴子さんーー思想界の注目すべきメス個体、《陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう》などとはわたくしはケッシテイワナイーーがひどくお好みになっているらしい精神科医中井久夫もこっそりとこんなことを言っている、→「母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)」。

というわけで、女性のみなさん、「思想家」の本など読まないようにしましょう! 穏やかでスカスカの人生指南書のたぐいだけ読みましょう!

…………

※附記:念押ししておけば、ここでの男/女は解剖学的な性別ではない。たとえばラカン派では男と女とはシニフィアンにすぎない(参照)。

いまの総理大臣をどうして「男」だと決めつけるのか、あの解剖学的には男であるらしい人物が実は「女」であると推定してどうしてワルイわけがあろう?


…………

で、何が言いたいんだってーー。

おまえらよく「秩序を以て行列をつくる国民」のデモをいまだやってられるな、感心するぜ!

たしかに権力者に人民への恐怖はある。連合艦隊司令長官山本五十六は、東京が空襲されれば「近衛や自分などは3度ぐらい八つ裂きにされる」と言ったという。だが、それどころか、実際に起こったのは敗戦をお詫びする人民の群れであった。当時の首相は一億が総懺悔せよと言った。

今、原発の真実を知らなかったと自分を責める普通の人たちがいる。その気持ちはどこか私にもある。しかし、一億総懺悔に陥ってはなるまい。どこに、当日、秩序を以て行列をつくる国民があるか。こんな治めやすい国があろうかと多くの国の為政者は羨ましく思ったにちがいない。しかし、不信や「なめるな」の思いが積もっていった。風評被害はその延長上にある。(中井久夫 「清陰星雨」(9.18)より

※補遺→ 暴力と精神衛生