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2015年10月7日水曜日

象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム)

ようやく「ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって」にて引用した「 Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa」の文を訳す気になった。2015年4月18日の記事であり、その気になるまで半年弱かかったことになる。すなわち十分に納得するまでにこの期間が必要だった。

ここではほぼ同じ文章が掲載されている 『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 』2007からの文を訳す。

ここで、私はことさら強調しなければならない、ラカンが JȺ ーーそれを彼はまた名高いサントームとも呼んでいるーーの出現と、現実界の名付け、かつ享楽の徴付けmarkingの話を結びつけて考えていることを。これは長いあいだ据え置かれたままの問いだった。これが関わっているのは、主体が象徴界のなかに再刻印すること、そして象徴界の再象徴化a reinscription in and a resymbolization of the Symbolic を成し遂げるやり方である。それは主体が〈他者〉におけるリアルな欠如 Ⱥ を一時的に引き受けた後のことだ。ラカンにとって、ジョイスは実に“Joyce-le-sinthome.”だった。

もし一方で、ジョイスが「シンボルを破棄した」こと…が本当なら、他方、それは同様に当てはまるのだ、(人の現実界の名付けとしての)「サントームとの同一化」、ーーラカンが精神分析の目標としての最後の仕事において提唱したそれーーは決して半永久的な「主体の解任 subjective destitution」、精神病的な象徴界の非機能 nonfunctioning にはならないことが。

このような誤った結論に対して、私は次のことを強調しなければならない

(1) ジョイスはーーDarian Leader によって提案された公式を採用するならーー「引き金を引かれていない non-triggered」精神病である。彼はもともと神経症と精神病との「どっちつかずの in between」状態にあった。そして引き続いて(部分的な)個人化された象徴界をなんとか生み出した

(2) 神経症者はいつかは彼らのイデオロギー的症状ーー支配的な根本的幻想によって課された享楽ーーを非精神病的サントームに変えることができる。無論「幻想の横断」を経た時の話である。すなわちそれは、象徴界からの「分離」の瞬間、そしてそれに引き続いた過程、新しい個人的な「主人のシニフィアン S1」を通した象徴的再刻印の過程による。これがまた意味するのは、ジョイスははっきりとした「精神病者」ではなかったにもかかわらず、彼はもともとどんな「根本的幻想の横断」をする必要なかったということだ。

神経症者と異なり、ジョイスは既に象徴界から分離されていた。その代わりに、彼は彼を基礎づける主人のシニフィアン S1を創造する必要があった。

※JOYCE LE SYMPTOME(LACAN Autres écrits)

Point souligné par moi, sans doute de ce qu'il reste après Joyce que j'ai connu à vingt ans, quelque chose à crever dans le papier hygiénique sur quoi les lettres se détachent, quand on prend soin de scribouiller pour la rection du corps pour les corporections dont il dit le dernier mot connu day-sens, sens mis au jour du symptôme littéraire enfin venu à concomption. La pointe de l'inintelligible y est désormais l'escabeau dont on se montre maître. Je suis assez maître de lalangue, celle dite française, pour y être parvenu moi-même ce qui fascine de témoigner de la jouissance propre au symptôme. (LACAN Autres écrits p.570)

…………

冒頭に上の文を訳すまで半年もかかった、と「カッコウをつけて」記したが、実はあの文以降のLorenzo Chiesaの叙述はすでに「なんとなく理解したままで」訳している。いまその一部を掲げておこう。

……神経症の標準的な状況では、父の名は、それが機能しなければ引き起こし得る破壊的な享楽を、症状を通して、統整する。その「否」を、我々は(イデオロギー的に仮装して)享楽する。そこで享楽するのは象徴界に穴を開ける欠如である。ラカンがジョイスについての後期のセミネールにて、さらに示唆しているようにみえることは、「引き金をひかれていないnon-triggered」精神病の場合では、この同じ統整ーーそれは主体を社会的領野に住むことを可能にするものだがーーが、究極的にサントーム自体によって実現されうることだ。

言い換えれば、〈他者〉の斜線化ーー構造的欠如の出現ーーに従った「父の名」の相対化は、究極的に二つの補足的な結果を伴う。それが症状にかかわる限りで、だが。

一方で、父の名はそれが事実上コンピタンスcompetenceの外部に横たわった場を占める限りーーというのは、欠如は現実界の領野に属するのだからーー、父の名はそれ自体、症状として捉えられる(故に、ラカンはセミネールXXIIIにて、「エディプスコンプレックスはそれ自体、症状である」と言っている)。

他方、「享楽を方向づけ組織しようとするものは何もかも」制御行動を行う。それはふつうは「標準的な」父の名によって成し遂げられるものだが、父の名が正しく機能しないなら、なにか他のものが必要だ。

ジョイスの父の隠喩には欠陥があった。すなわちそれは作者によって補わなければならない。このように「ジョイスJoyce」という名は、文字通り〈他者〉における欠如の独自のプレイスホルダplaceholder を具現化している。そしてエクリチュールの独特の仕方によって、父の隠喩の欠如を補足するのだ。……(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007ーーLorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる))

ようするにこのあたりのことがより鮮明にようやくなってきた、ということである。

ベルギーの精神分析家ポール・ヴェルハーゲがくり返し述べていることもこの主人のシニフィアンの再刻印、再象徴化にかかわることがようやく判然とした。

巷間のフロイト・ラカン派の分析家たちーーとくに日本ではーーはあまりに「主体の解任 destitution subjective」、「幻想の横断traversée du fantasme」(フロイト用語ならば「徹底操作durcharbeiten」)をいまだ強調しすぎているようにわたくしには思われる(勘違いでなければ)。これらはすべて脱象徴化にかかわる。だが患者によっては、そして社会構造のかわった現在では、ますます再象徴化ーー象徴化の構築ーーの手助けのが必要なのだという二人のラカン派の見解である。

それについては「旧態依然の破廉恥な精神分析家」に記した。

以下、症状の二重の構造を叙述するヴェルハーゲの文を貼り付けておく(上部の症状(象徴界)/地階の症状(現実界)。現在の「症状」は地階の症状が目立ってきたのであり、それは「父の名」の下落にかかわる。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)
フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2002)

トラウマももちろんこの二層構造になっている。ヴェルハーゲの言い方なら「構造的トラウマ」と「事故的トラウマ」である。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

日本でもすぐれた精神科医ならこのことをとっくに指摘している。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

最近、斎藤環氏が提唱している「オープンダイアローグ」についてもーーわたくしは寡聞にしてほとんどその内容を知らないがーー「象徴界の再象徴化・再刻印」の文脈で捉えうるものなのではないだろうか。

これらの対応を、「ボーダーライン」やら「ふつうの精神病」、あるいは「現実神経症」に対するものと呼ぼうが、肝腎なのは次のことであるだろう。

◆Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe(参照) 

三十年ほど前に、私は最初の患者に出会った。私のうけた古典的な教育と訓練は、次のような臨床的特徴に廻り会うよう想定されていた。すなわち患者は、解釈されうる症状をもっており、これらの症状は意味溢れる構築物だということ。もっとも患者は防衛メカニズムのためにこの意味に気づいていないのだが。患者はこれらの症状がライフヒストリーに関連することに気づいていた。話すことによる治療の目標は、この関連の覆いを取り除くことだった。そうするのは、その裏に潜んだ葛藤が、他のよりより解決法を導き得るようにするためだった。そのうえ、相対的には陽性転移がやがて手助けしてくれた。これは1905年にフロイトによって提唱された、精神分析治療を成功させるための、基本的規準だった。要するに、古典的な精神分析の治療とは、古典的な精神神経症psychoneurosisに向けられたものである。私はここで強調しなくてはならない、接頭辞“精神”を。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。(Aktualpathologie(現勢病理)≒Aktualneurose(現実神経症)

…………

さてここで飛躍してこうつけ加えておこう。

「父の権威」の崩壊後の世界(参照:「神の二度めの死」=「マルクスの死」)において、バディウ、ジジェク、Paul Verhaeghe、Lorenzo Chiesaなどまともなラカン派が考えようとしているのは、なにか?

父の権威の時代とは社会の構成員自体が、あるいは社会構造そのものが「精神神経症psychoneurosis」の時代であった。他方、マルクスの死以後の新自由主義の時代とは、「現実神経症Aktualneurose」の時代である、と仮にしてみよう。

われわれは現在、社会的にも《恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う》っているではないか? ナショナリズムやレイシズムの猖獗もこの文脈で捉えうる。

ラカンは早くも60年代に、今後数十年の間に新たな人種主義が勃興し、民族間の緊張と民族の独自性の攻撃的主張が激化するであろうと予言した。(ジジェク『斜めから見る』p.302ーー「人間の顔をした世界資本主義者たち」)

父の権威の没落後のこの非イデオロギーというイデオロギー「新自由主義」時代、まともなラカン派ーーフロイトのいう意味での「まともな」である。すなわち個人の病は社会構造が生む。とすればフロイトが『集団心理学と自我の分析』や『文化のなかの居心地の悪さ』などでやったように分析家とは必然的に社会構造に目を向けなければならないという意味だーーが考えようとしているのは、主人のシニフィアンS1の象徴界のなかへの再刻印・象徴界の再象徴化である(参照:フロイトとラカンの「父の機能」)。

わたくしに言わせれば柄谷行人がやろうとした・やっていることも(その統整的理念)、同じS1の象徴界のなかへの再刻印・象徴界の再象徴化である(参照:「主人のシニフィアンと統整的理念」)。


…………

※追記:ここに記されていることは次ぎの内容にもかかわる(参照:《症状のない主体はない》(ラカン))。

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))
われわれは不安の発展を危険状況によるものとしたが、これからさらにすすんで、症状は自我が危険状況からまぬかれるためにつくられるといいたい。症状形成がさまたげられると、じっさいに危険がおそってくる。(……)

症状の形成は、危険な状況をすてさるという実際の効果をもっている。症状形成には二つの面があり、一つはわれわれには秘密のままで、エスの中にある変化を起こし、この変化によって自我が危険をまぬがれるという面であり、他はわれわれにむけられた面であり、影響をこうむった衝動過程のかわりにつくりだしたところの代理の形成である。

ところで、もっと正確に表現するとすれば、ちょうどいま症状形成についてのべたことを、防衛過程に帰さなければならないし、症状形成という言葉自体を代理形成の同義語としてもちいなければなるまい。そうすると防衛の過程は、逃避と類似のものであることが明らかである。逃避とは、自我が外界のさしせまった危険からまぬかれる手段であるが、防衛過程もまた、衝動の危険からの逃避の試みといえる。(フロイト『制止、症状、不安』フロイト著作集6 pp358-359)

ーー症状が人の心理構造に安定化を与えるものであり、とりのぞくべきものではない場合があるという知見を得るには、なにもフロイト・ラカン派である必要はまったくない。ここで、わが国の最も優れた精神科医の一人であるに相違ない中井久夫の論からも抜き出しておこう。

医者にとって症状とは先ず診断の目安である。だからいろんな次元のものが混じっている。もう一つ、本来は診断の目安としての症状と治療の目的としての症状とは違うものなのだろう。双方は一致することも多いだろう。しかし、いちおう区別しておこう。

治療の目安としての症状は、第一に、それのあるなしが、病気がどこまで回復したかを教えてくれるものである。第二に、それがどの程度必要かどうかを決めるのがよいだろう。症状は何でも目の敵にして消してしまわなければならないとは限らない。(……)

一般に症状とは無理にひっぺがすものではないように思う。幻聴でも、消えた後に空虚感、索漠感が残ることがある。幻聴を聞いている間はなかった「また幻聴が起こるのではないか」という恐怖と不安が起こってくることもある。幻聴の悪性度を減らし、いっぽうでそれが生活に占める比重を減らすような生活にして、なくなってもさびしくないような心境になれば自然になくなることが少なくないように思う。(中井久夫「症状というもの」1997『アリアドネからの糸』所収)



2015年10月6日火曜日

インドシナ難民とシリア難民



ーーアメリカに移住したベトナム難民の(いっけんして)豊かで知的な雰囲気をもつ家族である(ただし後列右にマスクをした子供がひとりいる)。

…………

インドシナ難民」(Wiki)の項目を眺めると次ぎのように記されている。

各国の現在までのインドシナ難民受け入れ数は以下となっている。

アメリカ - 823,000人
オーストラリア と カナダ - 各137,000人
フランス - 96,000人
ドイツ と イギリス - 各19,000人
日本 - 11,319人
イスラエル 400人

ーーと調べてみたのは、すこし前次のツイートに出合ったからだ。

@kawakami_yasu: 70年代のインドシナ難民は特別ですが、この時も150万人近い難民のうち日本が受け入れたのは1万人強で、カナダの受入数の10分の1ですね。呼び寄せ家族を入れて、2万人近くですか。アジアのことなのに、相対的には少ない受け入れですね。 (川上泰徳 元朝日新聞編集委員)





これも少し前だが緒方貞子さんの「難民受け入れは積極的平和主義の一部」というインタヴュー記事にはこうあった。

――日本の難民受け入れをどう考えていますか。

 「物足りない、の一言です。特に人道的なこういう事件(シリアなどからの大量難民)が起こったときに『まだか』という感じですよね。日本は、非常に安全管理がやかましいから。リスクなしに良いことなんてできませんよ」

 「簡単に言えば、難民受け入れがものすごく厳しいですよ。私が(難民高等弁務官だったのが)2000年までで、今、15年でしょう。変わっていないみたいですよ、残念ながら」

 ――現在のシリアを巡る情勢については。

 「難民については、必要な人の受け入れはしなければならない。それから、難民を出している国の安定というものに対して、技術援助や経済援助だけではできないものがある。政治的な介入が必要ですが、それはとても難しいだろうと思います」

 ――シリア情勢で、日本がすべきことは何ですか。

 「日本を目指して逃げて来る人は少ないんですよ。だけど、(日本にたどり着いた人については)もうちょっと面倒をみてあげてもよいんじゃないかと思います」

 「難民条約を技術的に堅く当てはめようとしたら、助けられる人も助けられない。日本は、それから外れることは非常に難しいんですよ。緊急の状態のときに出てくる人には、やはり柔軟性を持って助けてあげて、そして、その次の定住とかそういうものを考えるということではないか。緊急状態から出てきた人たちに猛烈に厳しいんですよ、この国は」

 ――日本が難民受け入れに消極的である根本的な理由は何だと思いますか。

 「長い間、島国でね、島国を守っていくということだけで来たからでしょう。そういう島国根性的なことは変わっていないと思いますよ。だけど国際化が進んで、非常に国際協力が発達したなかでは、前と同じ島国根性でやっていけるんでしょうかという疑問は持ちますよね」

異質なものを排除するムラ社会の土人」(2015年8月31日)という投稿をしたことがあるがね、どこかのネトウヨがなんたら言ってきたので。

インドシナ難民150万人弱とは比べものにならない難民が「この今」いるのだな


シリア難民400万人の受け入れ先


何度も記したがね、日本だけでなく、アジアがダメなんじゃないか

私は確信している、我々はかつてなくヨーロッパが必要だと。想像してごらん、ヨーロッパなしの世界を。二つの柱しか残っていない。野蛮な新自由主義の米国、そして独裁的政治構造をもった所謂アジア式資本主義。あいだに拡張論者の野望をもったプーチンのロシア。我々はヨーロッパの最も貴重な部分を失いつつある。そこではデモクラシーと自由が集団の行動を生んだ。それがなくて、平等と公正がどうやってあると言うんだ?(Zizek,The Greatest Threat to Europe Is Its Inertia' 2015.3.31ーー

とはいえわれわれはヨーロッパのレイシズム猖獗をすぐさま想起できないではない、あのフランスはいまではヨーロッパ最悪のレイシズム国になってしまった。だがジジェクのいっているのは、それにもかかわらず、ということだ(参照:「鎖国のすすめ」)。ヨーロッパの「理念」にたよらずに世界にほかになにがあるというのだろう? 

ドイツのメルケル首相は「ヴェルトオッフェンハイト Weltoffenheit(世界に開かれていることの重要性)」をしきりに強調している。島国根性の日本人には思いもよらぬ言葉だろう。

…………

東浩紀 ‏@hazuma 10月5日

どこの国でも大衆は保守で頑固で移民排斥したり福祉カットしたり同性愛差別したりするものであって、それを認めたうえでそれでもリベラルな理想を陰々滅々と掲げるのが知識人というものだと思うのだが、今年前半わかったのは、日本の知識人はまだその前段階で大衆の良識とか信じているということだ。

日本再生のためには、エリート復活しかないと思う。というか先進国は全体的にそれしかない。かなりマジで

とあるが、やっぱり民主主義やめたほうがいいんじゃないか。

《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる》(ノーム・チョムスキー)

《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(アラン・バディウ)

ーーこれらも何度も引用した。

穏健にいえば次のようなことでもいい。

ほんとうに怖い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。それは人権を内面化することでもあるのです。個人の独立であり、個人の自由です。日本社会は、ヨーロッパなどと比べると、こうした部分が弱いのだと思います。平等主義はある程度普及しましたが、これからは、個人の独立、少数意見の尊重、「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。さきほど述べたように、日本の民主主義は平等主義的民主主義だけれど、少数意見尊重の個人主義的な自由主義ではない。それがいま、いちばん大きな問題です。(加藤周一、『学ぶこと・思うこと』2003)

コンセンサスだけが能の民主主義はやめたほうがいいんじゃないか?

……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)

…………

現在上手くいっているだけかもしれないという前提で敢えて図式的にいえば、ノーベル平和賞候補のメルケル首相の画期的な成果・政策(タテマエだけの部分はあるにせよ)は、脱原発、脱財政赤字、難民大量受入ーーこれらは「最も民主主義的な」国民投票では(脱原発以外は)、日本でもドイツでも反撥にあうに決まっている。

ドイツには国民投票はない(ナチス時代の衆愚政治への反省のため)。そもそも衆愚政治と市民参加が活発なデモクラシーとを判別する手段はない。

メルケルは消費税(付加価値税)を16→19%にしたが基本的にはドイツの財政健全化策は、歳入増加よりも社会保障費や補助金等の削減による歳出抑制に重点を置いている点が特徴。

脱財政赤字や難民受入という理念としての人権政策は、いわゆる「民主主義」では達成しがたい。ドイツは日本と比べてひどくエリート主義だよ

たとえばドイツには高級官僚の休職制度がある。政治的に合わない政党が政権を取った場合に、官僚が一旦休職するという制度(高級官僚を 1.5 倍くらい雇うことになるが、これはエリート保護だろう)。財政再建のなかでもこの制度を死守している。

参照:「日本の民主主義制度のどこに問題があるのか ~ドイツと比較しながら検証する~」2015 / 03 / 13

メルケルは2010年のインタヴューで「ドイツはイスラム国になるだろう」と言っている。

「フランスでは20歳以下の子供の30%がムスリムです。パリやマルセイユでは45%の割合まで急上昇しています。南フランスでは、教会よりモスクが多いのです。

イギリスの場合もそれほど事態は変わりません。現在、1000を超えるモスクがイギリスには存在します。──ほとんどが教会を改築したものです。

ベルギーでは新生児の50%がムスリムであり、イスラム人口は25%近くに上るといいます。同じような調査結果はオランダにも当てはまります。

それは住民の5人1人がムスリムのロシアにも言えることです。」

この記事には次ぎの引用もある。

アラーは、ヨーロッパにてイスラムの勝利を授けてくれるだろう、剣も、銃も、征服もなしに。われわれにはテロリストは必要ない。自爆テロはいらない。ヨーロッパにおける五千万人超のムスリムが、あと数十年でヨーロッパをムスリム大陸に変えるだろう。(カダフィ大佐Muammar Gaddafi)

それにもかかわらずのドイツの大量難民受け入れ政策である。さてそれが民主主義で可能だろうか。《民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する》(柄谷行人)


しかも《大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれる》(ツキジデス『戦史』)のであり、これは昔も今も変わらない。

「一度限りの我らの言辞に欺かれ」ないまともな人の割合が、たとえば啓蒙によって日本人の過半数になるなどと〈あなた〉は想像することができるだろうか。いや過半数でなくてもいい。十分の一の人、つまり一千万人がそうなる可能性を想像できるだろうか?

「私は相対的には愚かに過ぎないよ、つまり他の人たちと同じでね。というのは多分私はいくらか啓蒙されてるからな」“I am only relatively stupid—that is to say, I am as stupid as all people—perhaps because I got a little bit enlightened”?  (Lacan“Vers un signifiant nouveau” 1979)

ーーさて啓蒙されるとはどういうことか? 

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄『ヒトラーと悪魔』)

何に、誰に、啓蒙されるのか。デマゴーグに啓蒙されるなどということはないか?

諸個人の能力差や権力欲がなくなると仮定することには何の根拠もない。むしろ、諸個人の能力差や権力欲が執拗に残ることを前提とした上で、そのことが固定した権力や階級を構成しないようなシステムを考えるべきなのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)



ラカンの形式化殺しのラカン派

(四つの言説)の形式的構造は、血と肉の外皮を十分に剝いでいるで、心理学化の可能性を減少させてくれます。たとえば、ひとが、フロイトの原父とラカンの主人のシニフィアンS1を比較するなら、その差異ははっきりしています。前者なら、誰もが、白い顎ひげの、彼の女たちのあいだをうろつく年配者を思い浮かべるでしょう。S1を使うことによって、白い顎ひげを思い浮かべるのはとても困難です。……これが、このとても重要な機能の別の解釈の可能性を開示してくれます。そしてそれが三番目の長所をもたらしてくれます。これらの構造は臨床上の実践をとても効率的に舵を取らせてくれます。

実に、これは大きな相違をもたらしてくれます。たとえば、主人のディスクールやヒステリーのディスクールをある所定の状況で使うとしましょう。それぞれの式は、あなたの選択した効果を予想させてくれるでしょう。もちろんこのシステムの短所もあります。フロイトの解決法、すなわち神話や古来の昔話に比較して、ラカンのアルジェブラalgebraは退屈で、うんざりさせさえします。実際、それはなんの血も通っていません。というのは裸の骨にしか関心がないのですから、そのために、フロイトの話に溢れかえる想像な秩序の魅惑は完全に欠けているのです。それは支払わねばならない代価です。(Paul Verhaeghe,1995)

※『FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES(Paul Verhaeghe)』1995よりだが原文はここから拾える→「Publicaties van Paul Verhaeghe

…………

以下、ラカンの形式化殺し(ラカンの心理学化)のラカン派精神分析家のツイート(2015年10月05日(月))

小笠原晋也@ogswrs
Bonjour, mes amis ! 今晩急な用事ができたので,いつもより早めに,短めに tweet します.引き続き,支配者の言説について.支配者の言説は Urverdrängung と Urphantasie に関連しています. https://pic.twitter.com/n3y9BoWZDR

Urverdrängung[源初排斥]と Urphantasie[源初幻想].後者は Urszene[源初光景,原光景]と本質的に同義です.ここで,Ur- のつくもうひとつの Freud の用語が想起されます : Urvater[源初の父]

Urvater は,周知のように,Freud が『トーテムとタブー』で提示した神話的な父です.原始部族ないし原始家族において,父はすべてを支配する権力者であり,部族ないし家族のなかの女すべてを自分のものにし,息子たちは何も所有できず,支配者たる父に奴隷として仕えていた.

息子たちは団結して,父に対して蜂起し,父を殺した.支配者の座についた息子たちは,しかし,父殺しの罪にさいなまれ,父の所有物であった部族(家族)内の女たちに手を出さない掟を自分たちに課した.Freud の神話はおおむねそのような内容のものです.支配者の言説は父の独裁にかかわります.

支配者の言説における S1 は Urvater の学素です(ドイツ語をよく知らない人のために Urvater の読みをカタカナ書きすれば:ウァファータ).源初の父は女すべてを悦していた.現存しない「女すべて」を.源初の父とは,定冠詞の抹消された La Femme を悦する者です.

キリスト教では,天にまします父なる神を omnipotent[全能]かつ omniscient[全知]なる父と呼びますが,Freud の源初の父は「全悦」[ tout-jouissant ] なる父です.現存しない「女すべて」は Ⱥutre であり,左下の真理の座に相当します.

禁止された悦の徴示素としてのファロス Φ は,源初の父のファロス,全悦なる父のファロスです.ですから,支配者の言説をこのように書き換えても良いでしょう: https://pic.twitter.com/FoNjvXLRnX

支配者の言説は,Hegel においては支配者 S1 と奴隷 S2 との対立の第一段階に相当しますが,Freud においては源初の父 S1 と息子たち S2 との対立の第一段階を形式化している,見なすことができます.いずれにせよ,支配者の言説は精神分析以前の状況にかかわっています.


以前誰かが質問したのだろう、その応答として次のようなツイートを見たことがある。

中井久夫先生の或る文章に関連して御質問をいただきましたが,あの手の心理学的言説に捕らわれないようにしましょう.そこにおいては適切に問いを立てることができませんから,答えも見つかりません.

このツイート、とくに中井久夫の文を「あの手の心理学的言説」とするのはとても印象深い発言でーーなぜだがはこのブログの読者なら分かるだろうーーこの際、記念に貼り付けておく。

なお小笠原氏の本日のツイートは、ある質問者からの次の問いへの応答にかかわるはず。

では単刀直入に質問しましょう。あなたはこう言われた。

①「支配者の言説」は左上の能動者の座(支配者の座)に位置するのが父の機能としての支配者徴示素 S1 である場合 ②四つの言説の四つの座の機能を説明している場合

支配者の言説が①のみではなく②であるのはミレール系の解釈者が25年まえから説明している。ところがあなたは次のように記している。

《ひとつの徴示素は,主体を,もうひとつの他なる徴示素に対して代表する”という公式は,Jacques-Alain Miller が繰り返し説明してきたように支配者の言説にかかわっているのではなく,分析の言説にかかわっている》(ハィデガーとラカン)

これは今でも正しいのか誤謬だったのに気づいたのか、yes/no のみでご返事を頂きたく思います。

一週間以上前になされた問いのようだが、通常、質問にたいして嬉々として翌日返答するのに、長い間応答できずにいたもののようだ。

はっきり言ってしまえば小笠原氏は主人のシニフィアンS1概念のラカンの理論的変遷をまったく捉えていないように思える。

…この段階(セミネールXⅦ)において、ラカンは重要なニュアンスをつけ加える。それによって「父の名」に関する以前の理論の相当な変化がもたらされる。すなわち、主人のシニフィアンはどんなシニフィアンによっても生みだされる(144)。このニュアンスは彼の理論の次の「進化」から理解することができる。「父の名」から「父の諸名」(複数の父の名)へと、さらには最終的には「主人の事例instance」(101)によるS1として生みだされる限りどんなシニフィアンでもいい、と。

はっきりしているのは、我々は「父の名」という排他的なシニフィアンから長い道のりを歩んだことだ。(Paul Verhaeghe, (2006). Enjoyment and Impossibility ポール・ヴェルハーゲ「享楽と不可能性」より、2006,私訳ーー"Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」

いやそもそも主人の言説とはラカンの最も基本的な幻想の式のヴァリエーションのはずであり、それを否定する解釈者には、寡聞にしてか遭遇したことがない・・・

幻想の式、すなわち$◇a であり、これは$ → S1→ S2 → a と分解できる。
そして主人の言説とは次の通りであり、まさに幻想の式の変形である。


すなわち《支配者の言説は精神分析以前の状況にかかわっています》とオッシャラレルお方は、精神分析の最も基本的な幻想の式を(わたくしの誤解でなければ)精神分析とは関係がないと言っていることになる。

わたしは、臨床において必要なものは、たった一つしかないと思っています。頭のなかにあるのは一つ、(……)ファンタスム、つまり人間の幻想(ファンタスム)の式です。

$◇a

これが幻想の式。ファンタスム。これ一つでいいんです。このなかに全てが入っています。これだけ知っていればいい。これが何たるかを本当に知っていれば、あとは何もいりません。(藤田博史「セミネール断章2012年2月」

さらにS1に限って言えば、ラカンは、master signifiers(主人のシニフィアン)を‘points de capiton’(クッションの綴じ目)と呼んでいる。解釈者あるいは訳者によって、ボタンの結び目、ネクタイピンなどどもされる。

すなわちひとびとの語り、シニフィアンのネットワークをピンで留めるシニフィアンであり、それは個々の主体だけではなくより広く社会においてもそうである(Stavrakakis 1999)。

それがあるために社会は整合化(秩序化)される(ジジェク)。

どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する(ジジェク)。

”anchoring point”(船が碇を下ろすポイント:ジジェク)とか“suture”(縫合する:ミレール)などの言い方がされるときもある。

なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。

この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)

――たとえば、certainty, the good, risk, growth, globalisation, multiculturalism, sustainability, responsibility, rationality等々が”master signifiers“である。


というわけで攻撃目標からそうそうに外さなければならない。

わたしの戦争実施要項は、次の四箇条に要約できる。第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃するーー事情によっては、それが勝ち誇るようになるまで待つ。第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立しーーわたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。わたしは、わたしを危険にさらさないような攻撃は、公けの場において一度として行なったことがない。これが、行動の正しさを判定するわたしの規準である。第三に、わたしは決して個人を攻撃しないーー個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが潜行性的で把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用するのである。わたしがダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのは、それである。より正確にいえば、わたしは一冊の老いぼれた本がドイツ的「教養」の世界でおさめた成功を攻撃したのであるーーわたしは、いわばこの教養の現行犯を押さえたのである……。わたしが、ワーグナーを攻撃したのも、同様である。これは、より正確にいえば、抜目のない、すれっからしの人間を豊かな人間と混同し、末期的人間を偉大な人間と混同しているわれわれの「文化」の虚偽、その本能の雑種性を攻撃したのである。第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。それどころか、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。わたしは、わたしの名をある事柄やある人物の名にかかわらせることによって、それらに対して敬意を表し、それらを顕彰するのである。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

彼の解釈をブログに記すことそれ自体がハシタナイ振舞いだったのかもしれない。それはすこし前からおぼろげに気づいてはいたとはいえ、本日追い討ちをかけられてしまった・・・

読者? 彼の「道化師的」ツイートをまともに追っている読者などいるようには思えない・・・
むしろいくらかまともに追ってしまったわたくし自身に忸怩たる思いを抱かないでもない。(参照:ハイデガー化されたラカン研究者小笠原晋也氏の「口すべり」

とはいえなぜ研究者とはマヌケがおおいのだろう、あのような児戯に類する視野狭窄症を患うのが研究者の常疾とでもいうものなのだろうか・・・

鈴木創士@sosodesumus
ああ、学者と称する人たち、哲学者、研究者と称する人たち、芸術家、作家も少し…俺は編集者まがいのこともやってたし、いまもほんのちょっだけやってるので、彼らがどれだけ頭が悪く、人格もなってなくて、くだらない連中かということに口を蓋できないときがある。特におっさんが最悪だ。お生憎様!

ーーそもそもラカンをめぐってブログなど記していると、《どれだけ頭が悪く、人格もなってなくて、くだらない連中か》と見なされてしまうのではないか・・・そんな疑念を抱かざるをえないほどの衝撃の小笠原チャンだった。


…………

さて冒頭のヴェルハーゲの文の全文も含めもうすこし長く引用しておこう。

ラカンに関するかぎり、彼が構造主義者であるかどうかという問いへ答えるのはやや困難です。このたぐいの論議は、すべて、そこに付随する定義しだいなのですから。それにもかかわらず、ひとつだけは、私にとって、とてもはっきりしています。フロイトは構造主義者ではありませんでした。もしラカンが唯一のポストフロイト主義者、すなわち精神分析理論をほかのより高い水準に上げたとするならば、この止揚(Aufhebung)、ヘーゲル的意味での「持ち上げ」は、すべてラカンの構造主義と形式主義にかかわります。残りのポストフロイト主義者は、フロイトの後塵を拝しています。プレフロイト主義の水準に戻ってしまっているとさえ、とても多くの場合、言いうると思います。フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます。だがら、もしラカンが止揚(Aufhebung)したというなら、わたしたちはそれが何の意味なのか説明する必要があります。ラカンはその理論において何を獲得したのか? と。

この点に関して、最も重要なラカンの構造は、もちろん四つのディスクールにおける理論です。(……)

これらの形式的構造の長所は明らかです。まずなによりも、抽象化の水準で目を瞠る利点があります。たとえばラカンのアルジェブラalgebra。あなたはそれらの“petites lettres”、小さな文字、aやSやA、そしてそれらの間の関係によって、なんでも代表象することができます。まさにこの抽象化の水準で、わたしたちはどの個別の主体も大きな枠組みにフィットさせることが可能になります。

.第二に、これらの形式的構造は、血と肉の外皮を十分に剝いでいるで、心理学化の可能性を減少させてくれます。たとえば、ひとが、フロイトの原父とラカンの主人のシニフィアンS1を比較するなら、その差異ははっきりしています。前者なら、誰もが、白い顎ひげの、彼の女たちのあいだをうろつく年配者を思い浮かべるでしょう。S1を使うことによって、白い顎ひげを思い浮かべるのはとても困難です。……これが、このとても重要な機能の別の解釈の可能性を開示してくれます。そしてそれが三番目の長所をもたらしてくれます。これらの構造は臨床上の実践をとても効率的に舵を取らせてくれます。
実に、これは大きな相違をもたらしてくれます。たとえば、主人のディスクールやヒステリーのディスクールをある所定の状況で使うとしましょう。それぞれの式は、あなたの選択した効果を予想させてくれるでしょう。もちろんこのシステムの短所もあります。フロイトの解決法、すなわち神話や古来の昔話に比較して、ラカンのアルジェブラalgebraは退屈で、うんざりさせさえします。実際、それはなんの血も通っていません。というのは裸の骨にしか関心がないのですから、そのために、フロイトの話に溢れかえる想像な秩序の魅惑は完全に欠けているのです。それは支払わねばならない代価です。
(FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES、Paul Verhaeghe、私訳)

…………

ヴェルハーゲのこの観点の論拠のいくつかは、セミネールⅩⅦから抜き出すなら次の通り。

……l'essence du Maître, à savoir qu'il ne sait pas ce qu'il veut. Car c'est cela qui constitue la vraie structure du discours du Maître.

主人の本質は、彼が何を欲しているのか知らないことである。これが主人の言説の真の構造を構成している。


この文からフロイトの「自我は自分自身の家の主人ではない」“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”を想起しないわけにはいかないだろう。

人類は時の流れのなかで、科学のために二度その素朴な自惚れに大きな侮辱を受けねばなりませんでした。最初は、宇宙の中心が地球ではなく、地球はほとんど想像することのできないほど大きな宇宙系のほんの一小部分であることを人類が知ったときです。・・・二度目は、生物学の研究が人類の自称する想像における特権を無に帰し、人類は動物界から進化したものであり、その動物的本性は消しがたいことを教えたときです。この価値の逆転は、現代においてダーウィンやウォレスやその先人たちの影響のものと、同時代の人々のきわめて激しい抵抗を受けながら成就されたものです。ところが、人間の誇大癖は、三度目の、そしてもっとも手痛い侮辱を、今日の心理学的研究によってあたえられることになります。自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない、ということを、この心理学的研究は証明してみせようとしているのです。人間の反省をうながすこの警告もまた、私ども精神分析家が最初に、しかも唯一の警告者として提起したものではありません。しかし、この警告をもっとも強力に主張し、一人一人の胸に身近にひびくような経験材料によって裏書きすることは、私どもにあたえられた使命であるように思われます。このためにこそ、私どもの学問に対して総反撃が起こり、いっさいのアカデミックな丁重さはかなぐり捨てられ、公平な論理からはまったくはずれた反対論が起こったのです。( フロイト『精神分析学入門』)

すなわち主人の言説は精神分析の基本である。ところが上に掲げたが《支配者の言説は精神分析以前の状況にかかわっています》などとオッシャラレル方がイラッシャル。この「支配者の言説」は「主人の言説Le discours du Maître」の小笠原訳であることはまちがいない。

さてセミネールⅩⅦから一つだけ邦訳してみたが、あとは原文と英訳(手許にあるいささか雑な旧訳だが)にする。


◆まずはS1(主人のシニフィアン)はその機能を果たすならどんなシニフィアンでもよい、と読み取れる箇所。

Le discours du Maître nous montre la jouissance comme venant à l'Autre. C'est lui qui en a les moyens. Ce qui est langage ne l'obtient qu'à insister jusqu'à produire la perte d'où le plus de jouir prend corps.

D'abord le langage, et même celui du Maître, ne peut être autre chose que demande, et demande qui échoue.

Ce n'est pas de son succès, c'est de sa répétition que s'engendre quelque chose qui est d'une autre dimension – que j'ai appelé la perte – où le plus de jouir prend corps.

Cette création répétitive, cette inauguration d'une dimension dont s'ordonne tout ce dont va pouvoir se juger l'expérience analytique, ceci peut aussi bien partir d'une impuissance originelle, de celle pour tout dire de l'enfant, loin qu'elle soit la toute-puissance.

Si l'on a pu s'apercevoir que ce que la psychanalyse nous démontre c'est que « l'enfant est le père de l'homme », c'est bien qu'il doit y avoir quelque part, quelque chose qui en fait la médiation.

Et c'est très précisément cette insistance du Maître, cette insistance en tant qu'elle vient à produire… et je l'ai dit : de n'importe quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître. (Lacan, Le SéminaireⅩⅦ Staferla 版 pp.179-180)
The Master‟s discourse shows us enjoyment as coming to the Other. It is he who has the means for it. Language only obtains it by insisting to the point of producing the loss by which surplus enjoying is embodied. At the start, language, even that of the master, can be nothing other than demand, a demand that fails. It is not from its success, it is from its repetition that something of a different dimension is generated that I have called the loss – the loss by which surplus enjoying is embodied. This repetitive creation, this inauguration of a dimension that organises everything by which analytic experience is going to be able to be judged, can also start from an original impotence, in a word, that of the child - which is a long way from omnipotence. If people have noticed that psychoanalysis shows us that the child is father to the man, it is very much because there must be somewhere, something that mediates between them, and it is very precisely the agency (insistance?) of the master, in so far as it managed after all to produce, out of any signifier whatsoever, the master signifier.

◆次ぎは、S1は〈私〉という一人称単数代名詞でもよいと読み取れる箇所(m'être, m'être à moi-même)

Ce qui fait le Maître, c'est ceci : c'est ce que j'ai appelé, en d'autres termes « le cristal de la langue ».

Pourquoi ne pas utiliser ce qui en français peut se désigner sous l'homonymie de l'« m apostrophe être » m'être, m'être à moi-même ?

C'est de là que surgit le signifiant-m'être, dont je vous laisse le deuxième terme à écrire comme vous le préférerez.(Lacan, Le SéminaireⅩⅦ、P.262)
He operates on what I have called, in different terms, the crystal of the tongue. Why not use in this respect what can be designated in French by the homonymy of m‟être, m‟être „à moi-même‟? It is from this that there emerges the m‟être signifier which I leave you to write as you prefer – [maître or m'être].

…………

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)

〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

2015年10月5日月曜日

簡略版:四つの言説

《主体とはそれ自身を徴示する(シニフィアンする)表象の不可能性以外のなにものでもない》(ジジェク、1989)

…………

例えばあなたはパーティに招かれるとする。初対面の人たちが多いパーティだ。あなたは自己紹介をくり返さなければならない。そのときあなたはシニフィアンを生みだす。だがそのシニフィアンは決してあなたに満足をもたらさない。シニフィアンを生みだせばだすほど、ギャップが明らかになる。

ここでのシニフィアンとは《どんな対象とも関係しない記号》(ラカン、S.Ⅲ)だ。それは《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》。さらにシニフィアンは必らずしも(発話行為ののなかの)言葉に相当しない。ボディランゲージ、つまり頭を振ったり頷いたり握手をしたりすることもシニフィアンとして働く。

《記号とはモノの殺害である》(ラカン、ローマ講演)。自己としてのあなたが話すかぎり、主体としてのあなたは殺される。この理由で《主体が最もひどく疎外されるのは、自分について話しはじめるときだ》(エクリ、p. 281)。

これらがより詳しく説明されるのが「四つの言説」理論であり、まずはその形式的構造である。




そしてその代表的な言説が「主人の言説」だ(参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」(フロイト))。


主体$は永遠に失われた対象aから二重斜線で隔てられている。発話者としての疎外された自己S1はシニフィアンの絶え間ない連鎖S2のもとに主体を出現-消滅させようとする。だがその試みは空しい。生みだされるのは失われた対象aのみである。

ここで生じるギャップ(欠如)は二つのレヴェルにある。上段は会話(象徴的な欲望のレヴェル)にかかわり、シニフィアンの定義上、不可能impossibilitéだ。下段は象徴的表象化に抵抗する残余としての生産されたa(現実界的な享楽のレヴェル)と主体$との関係であり、これは構造的にーー幻想の公式$◇aーー不能impuissanceである。


参照:ラカンのシニフィアンの定義:「シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」

…………

◆附記

第一の型、すなわち主人の言説では、あるシニフィアン(S1)が、別のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)のために主体($)を表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余残余、あるいは「排泄物」を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残余(有名な<対象a>と「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。(ジジェク『斜めから見る』1991)

ーーより詳しくは「資料:ラカンの幻想の式と四つの言説」を参照のこと。



四つの言説理論、この理論は疑いもなくラカンの形式化の最も重要な部分である。言説理論は手短かに言えばーー人は知らず自分にとってはーーラカン理論の頂点である。

勿論これが意味するのは、四つの言説理論はとても密度が高くそのためひどく難しいということだ。同時に、いったんその内的論理を把握してしまえば、とても理解しやすく扱い易い。(……)

さてよく知られた事実から始めよう。コミュニケーションという考え方はこの25年の間に多くの異なった領野で注目の焦点となった。それは「人間関係」から始まって電子工学、遺伝子工学にまでに亘る。いわゆるコミュニケーション理論においては、種々の異なった局面を特徴づける一つの統一した目標がある。すなわち、コミュニケーションを完璧な標準に至るまで育てたい、メッセージが送り手と受け手のあいだを自由に流通するよう、どんな種類の「雑音」をも取り除きたいというものだ。

これらの理論を支配する基礎的な神話は、どんな失敗もない完璧なコミュニケーションの存在に関わる。これらの理論は元々の言説(ディスクール)概念とはひどく異なる。その元々のディスクール概念とは、ミシェル・フーコーが1970年12月、コレージュ・ド・フランスでの就任スピーチで新しく作ったものだ。

彼にとって権力と言説あいだにはとても特別な関係がある。ある言説の影響力はほかの言説にそのシニフィアンを課すことによって鮮明になる。例えば湾岸戦争における爆撃が、「外科的精度」によって実現された「外科的手段」と表現されたとき、この隠喩は医学の言説の権力の表現である。というのは自らの「正当な」領域外で使用されているのだから。

この観点からは、言説の分析は権力の進化における歴史的研究の枠組内でとても役立つ道具である。それがまさにフーコーのやりたかったことだ。ところが今では全く異なった何かになってしまった。

ラカン理論はこの二つのどちらとも関係がない。彼の理論はコミュニケーション理論自体とさえ過激に反していると言える。実に彼はコミュニケーションは常に失敗するという仮定から始める。しかも失敗しなければならないと。それが我々が話し続ける理由であり、もし互いに理解してしまったら、我々は皆沈黙したままであり、幸運にも我々は互いに理解し合えないから相互に話し合うと。

言説は数多くの線を拡げる、その線に沿ってコミュニケーションの不可能性が起こり得る。これがフーコー理論との相違をもたらす。その言説理論において、フーコーはシニフィアンの具体的素材と供に作業をする。そこでは言説の内容にアクセントが置かれている。

ラカンは逆に内容を超えて作業し、発話行為から導き出された言説の形式的関係にアクセントを置く。これが意味するのは、ラカンの言説理論は先ずはどんな話された言葉からも独立した形式的システムとして理解されなければならない、ということだ。

言説は具体的に話されたどんな言葉以前に存在する。その上こうも言える、言説は具体的な発話行為を決定する、と。決定論の結果はラカンの基本的な仮定の反映である。すなわちどの言説も特定の社会的紐帯によってもたらされる基礎的関係性を描写するのだ。

四つの言説があるように、四つの異なった社会的紐帯がある。先に進む前にふたたび強調したいのは、いずれの言説もア・プリオリに空無であることだ。それらは特定の形式をもった空のバッグ以外のなにものでもない。その形式自体が人がバッグに入れる内容を決定する。 「FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES」 (Paul Verhaeghe,1995)


→続き:「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)

2015年10月4日日曜日

エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論

表題を「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」としたが、「旧態依然の破廉恥な精神分析家」の補遺でもある。

ここでの核心のひとつは次ぎの文にある。

(これはまた)精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。
That is also why the aim of a psychoanalytic practice is not to help someone get rid of his or her symptoms in order to find the right satisfaction. The aim is to install a different kind of symptom on top of the impossibility of jouissance.(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

《享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install すること》、これがラカンのサントームであるというPaul Verhaegheの主張である。

上の文と次ぎの文をともに読んでみよう。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)
主人のシニフィアンは、無意識的なサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。

The Master-Signifier is the unconscious sinthome, the cipher of enjoyment, to which the subject was unknowingly subjected.(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

フロイトのエディプス理論の「父」、ーーあるいはラカン的には主人のシニフィアンS1ーー、それは無意識なサントームなのであり、われわれはそのイデオロギー的「父の名」を取り払っていったん裸になり、その上に、つまり《享楽の不可能の上に》、意識的な、かつ個人特有の「父の名」ーー敢えて挑発的に「父の名」としたが、より穏健には「父の機能」とするべきだろう(参照)--を設置するのが、ラカンのサントーム理論である。

「creatio ex nihilo無からの創造」などと言われることもあるが、実態は裸の《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ》(Séminaire XXIV)なのであり、分析治療によってなにも自然にサントームが芽ばえてくるわけではない。このあたりの誤解があると、被分析者は裸の欲動のなずがままになってしまい、自殺衝動や破壊欲動の発露などが起こりうるはず(論理的にはそう思われるということであり、わたくしはまったく専門家でないことはここで断わっておこう)。

さる分析家の言葉を名を記さずに引用しておこう。

・わたしが殺人罪で服役した経歴を持ちながらも敢えて精神分析家として仕事を続けるのは,精神分析がわたしの lifework だからです.Lifework とは,存在 barréが請求していることです.

・他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました.文字どおり,突然足もとに穴が開いて,そこに呑み込まれてしまう感覚でした.実存構造の突然にして急激な解体が起きた場合,そのようなことが起こり得ます. 

同じ人物による《Lacan は芸術的創造を論ずるとき,「無からの創造」creatio ex nihilo という神学的概念を持ち出します.強調されるべきは,この ex nihilo です.これは,復活に関する決まり文句:「死者のうちからの復活」を想起させます》というツイートもある。

…………

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。上にサントームが意識的なS1(主人のシニフィアン)だと敢えて断言したのは、この文に由来する(別の見解があるのは承知で、という意味である)。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

無からの創造をするためには、裸の症状=享楽の不可能性を露出させなければなならない、《精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする》(ヴェルハーゲ、末尾掲載文より)。

あるいは、日本の若きすぐれたラカン派の次の文を引用してもよい。

ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)

この《治癒不可能なものを前景化》させることはラカン用語では、「主体の解任 destitution subjective」、「幻想の横断traversée du fantasme」(フロイト用語ならば「徹底操作durcharbeiten」)とされる。

ところが、次ぎのような指摘もあるのだ(参照:Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる))。

ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。

ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007)

これはLorenzo Chiesaによるジャック=アラン・ミレールへの批判である。ようするに幻想の横断、主体の解任を軽率に取り扱っているというものだ。ミレールはそれらを置き去りにしてしまっている、それではイデオロギー化された「父の名」やイマジネールな対象aが除去されないままではないか? 裸の欲動の固着が露出しないままで「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」などということがありえるのか、と。

このミレールの21世紀に入ってからの考え方は、ジジェクもラカンの言葉とともに引用して説明している。

◆「ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって」より

後期ラカンは、ラディカリズムを放棄し、精神分析の治療法をひどく穏健な方法にて捉え直した。「人は真理のすべてを学ぶ必要はない、僅かで充分だ。」(Lacan, “Radiophonie,”)ここではラディカルな"限界経験"としての精神分析の考え方が拒絶されている。「人は分析をあまりに遠くまで押し進めるべきではない。患者自身が生きていくのに幸福だと思えば、それで充分である。One should not push an analysis too far. When the patient thinks he is happy to live, it is enough」(Lacan, “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))

なんと遠くにわれわれはいることだろう、アンティゴネの英雄的な試みーー禁じられたate(迷妄)の領域に入り込み"純粋欲望"を獲得しようとする試みから! 精神分析の治療は、いまや主体性のラディカルな変質ではもはやなく、局所的な糊塗patching‐up なのであり、それは長期間の跡づけさえ置き去りにするleave any long‐term traces(この見解の流れのなかで、ラカンは次の無視されている事実に注意を促している。すなわち、フロイトが鼠男の治療後数年経って彼に再会した時、鼠男は完全にフロイトの治療のことを忘却していた事実に)。

このよりいっそう穏健な取り組みは、後期ラカンに照準を当てたジャック=アラン・ミレールの読解において、余すところなく明瞭に言い表されている。晩年のセミネールで、ラカンは、精神分析過程の締め括りの節目である"幻想の横断"概念を置き去ってしまう。その場所に、ラカンは全く反対の振舞いを導入する、すなわちサントームと呼ばれる究極の分析不能な障害を受け容れることを。症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、"分割不能な残余"であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は"症状との同一化"として再構成される。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

ーージジェクの記述はこの箇所にかんしてはひどくミレール寄りであり(同じ『LESS THAN NOTHING』には多くのミレール批判があるにもかかわらず)、Paul VerhaegheやLorenzo Chiesaの見解とは齟齬があるように思える。

あるいはまた上に引用した《他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました》とする精神分析家は次ぎのように言っている。

症状を成す悦,つまり剰余悦は,精神分析の経験のなかで失墜し,脱落し,捨て去られねばならないものです.なぜならそれは,異状を成す仮象にすぎないからです.仮面,偽り,誤り,否認なども仮象に関連する語彙です.

Miller は Lacan の sinthome としての症状の概念を全く誤解しています.それは,Lacan が saint homme[聖人]に言及したとき,Miller はそれが Lacan の冗談か何かだと思って,それについて真剣に考えなかったからでしょう.

ーーーここでの《症状を成す悦,つまり剰余悦は,精神分析の経験のなかで失墜し,脱落し,捨て去られねばならないもの》とは幻想の横断や主体の解任のことを言っており、それなりの正当性をもつ。だが彼の問題は、聖人=サントームを強調しすぎていることで、ひょっとしたら《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ》(Séminaire XXIV)が視野に入っていないのではないかと疑わざるをえない発言が多いところだ。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7

上にも引用したが技法的な側面を曖昧にしたまま「無からの創造」creatio ex nihilo という神学的概念のみを強調してはならないだろう、肝腎なのはラカンの死の二年前の言葉「新しいシニフィアンを発明すること」のはず。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Lacan, Le Séminaire XXIV, 1979, p. 21)

ここでひょっとして(隠された文脈上においては)ぴったりとしたミレールの言葉を掲げておこう。

「幻想の横断」は翼を与えるには違いないが、ある者はプラトンのハトになり、またある者はアホウドリになるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

ーーラカン的精神分析治療の分析は、凡庸な、あるいは十分な理解をしていないままの精神分析家がやると、ひどく危険なのではないのだろうか?

※別の側面からのジョイス=サントームをめぐっての記事が投稿しないままーー曖昧な理解のままだったのでーー放置してあるのだが、そのうち公開するかもしれない。


というわけだが、ここでの引用を中心にした叙述は、Paul VerhaegheとLorenzo Chiesaの読解に傾いたものであることを強調しておこう。

前置きが長くなったが以下本題にかかわる引用(私訳)である。

…………

1924年に、フロイトは『エディプスコンプレックスの没落』を上梓した。そこで叙述されているのはフロイトが考えるところのこの《幼児期の性的発達段階における中心的現象》(フロイト著作集6 p.310)の必要不可欠な破壊である。

ここで、エディプス願望は破壊される必要があるとしている。そして実に要求されているのは破壊であり、抑圧ではないのだ。《抑圧は病的作用を発揮する》(同 p.313)のみである。だがフロイトの経験が、そのような破壊の事例はきわめて稀であることを彼に教えるようになった時、1937年に、彼は結論づけざるを得なかった、精神分析的実践は、男の去勢不安と女のペニス羨望という生物学的行き詰りに遭遇する、と。

これは我々に最後のテーマをもたらす。もしエディプスコンプレックスが破壊されるべきなのに(フロイト)破壊されないのなら、そしてもしエディプス構造が享楽 jouissance の不可能の欠かすことのできない飼い馴らしstyling(ラカン)であるなら、そのとき享楽はいかにして扱われうるか?

この点にかんして、ラカン理論における応答は、フロイトの生物学的袋小路よりもすぐれて興味深い。ラカンの読解では、エディプス複合は、主体が自身の身体から来る欲動ととりわけ享楽に対処する欠かせない構造を隠している

その構造において、享楽の不可能は禁止に変形され、その結果、絶え間ない欲望と症状形成をもたらす。エディプスコンプレックスはそれ自体「症状」なのであり、その意味は、〈他者〉を媒介とした欲動の現実界のまわりのイマジネールな構築物だということだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

*ここでの〈他者the Other〉に注意(後述)

ここでの叙述から読み取れるのは、後期ラカンのサントーム理論でさえ、フロイトのエディプス理論の変種であるということだ。

この理由で、フロイトは正しく指摘している、どの症状も満足の形式である、と。ラカンが今つけ加えたのは、症状の不可避性である。セクシャリティ、欲望、そして享楽にかんして、症状のない主体はない。(後述)

これはまた精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install するこだ。

フロイトによるエディプスコンプレックスの終結点、ーー父との同一化ーーの代わりに、ラカンが奨励したのは、精神分析実践の最終ゴールとしての症状との同一化である。これが彼に次の対照を許すようになる、すなわちエディプス的解決と、現実界における解決と彼が呼ぶところのものの対照である。(同上、PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

※サントームについてのより具体的な記述は

1、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない
2、「ラカン派の二種類のサントーム・症状

などを見よ。

…………

以下捕捉。

◆〈他者the Other〉について

そもそも〈他者〉とか大文字の他者と訳される”L'Autre”は、「大文字の他」であり、人でなくてもよい。ラカンはすでにセミネールⅩⅣで、《〈他者〉は身体である》と言っている。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

あるいは、
主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「哲学科の学生への返答」(1966 私訳)

"Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966)

※参照:ラカンの三つの身体

ラカンの使用法では、〈他者Autre〉が常に身体corpsではないにしろ、この観点は、日本語の訳語では見逃されがちだ。

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

ーーこの文は主にラカンのセミネールⅩⅦとⅩⅩの記述をめぐっているのだが、ラカンの〈他者〉理解として決定的な文章のひとつではないだろうか。わたくしはこの文によって、いままで多くの不明だったラカン派の解釈者の叙述(その誤解もふくめ)を眺め直す機縁になった(くり返せばこの説明が完全に正しいということを言いたいのではない。別の解釈もあるだろう)。

※参照:享楽への道とは死への道(ラカン)


…………

 ◆〈症状のない主体はない〉について

ーーこれについては今まで私訳しつつメモしたものを貼り付けておくだけにする。

よくある臨床状況から始める。患者は、耐えられなくなった症状があるために、我々のもとに訪れてくる。ヒステリーの文脈内では、この症状は殆どあらゆるものであり得る、古典的な転換症状からはじめて、恐怖症の訴え、性的/関係性的問題、そして最後にはもっと漠然とした憂鬱や不満の訴えである。

患者は治療者に自らの問題を提示する。そして標準的な期待は、治療の努力によって、症状が消滅し、かつstatus quo ante、すなわち以前の健康な状態に戻ることだとされる。これは勿論、とてもナイーヴな観点である。なぜひどくナイーヴであるかといえば、注目すべき小さな事実を考慮していないからだ。その事実とは、大抵の場合、症状は急性なものではなく、反対に、むしろ古くからの、何月も前からの、ときには何年も前からのものでさえあるということだ。

そのとき訊ねるべき問いは、勿論、なぜ患者はこの今、訪れたのか、なぜもっと早く来なかったのか、ということである。人はこの状況を観察すれば、常に同じ答えを見出すだろう、すなわち、主体にとって何かが変化し、その結果、症状はその正しい機能を失った、と。

症状が、いかに苦しく或いはいかに無価値なものであろうと、明らかなことは、この変化以前は、症状は主体にとってある種の安定化を確保してくれるものだったということだ。この安定化の機能が故障したときのみ、主体は助けを求めるのだ。これが、ラカンが治療者は患者に彼の現実に順応させようとすべきではないと述べた理由である。反対に、患者はすでにあまりにも順応し過ぎているのだ。というのは、患者はまさに現実の構築にいそしんでいるのだから。

この点で、我々はフロイトの重要な発見のひとつに出会う。それは、どの症状も先ずは回復の試みだということだ。一定の心理構造の安定化を確保する試みなのである。この意味で、我々は患者の期待を言い換えねばならない。彼は症状の消滅を求めているのではない、否、彼はただ症状の元々の安定化機能を修復して欲しいのだ、その機能は状況の変化のせいで故障してしまっているのだから、と。

これがフロイトがひどく奇妙な考え方、奇妙というのは、上で言及したナイーヴな観点の下ではだが、すなわち「健康への逃避flight into health」という考え方を提示した理由である。この表現は鼠男のケーススタディに見られる。治療者はまだ始めたばかりで、いくらかの成果しかない。そして患者は中断する決心をする。彼は遥かに改善していると感じるからだ。症状そのものはほとんど変化していないが、見たところ、それは患者を悩ましていない。ただ驚いた治療者を悩ますだけである。(Paul Verhaeghe,PSYCHOTHERAPY, PSYCHOANALYSIS AND HYSTERIA、1994)

フロイトによる無意識の発見以来、病理上の過程は「防衛」を基にして説明されるようになる。すなわち「抑圧」概念が特権的な場所を占めるようになる。だがフロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかないということだ。実際、抑圧は欲動に対する防衛的過程の苦心作elaborationでしかない。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。

精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。これらの固着はもはやそれ自体としては変えようがない。身体の決断は取り消しようがない。これは欲動の過程に向けた主体の立場としてはその限りではない。欲動の固着は覆すことができる。二つの可能性があるのだ。主体が以前に拒絶した享楽の形態を今は受け入れるか、あるいは、主体はその拒絶を肯定するか、の二つがある。

抑圧はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の素朴な防衛手段である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も本能支配のためにそれを利用しようとするのである。新しい葛藤は、われわれのいい表わし方をもってすれば「後抑圧」Nachverdrangungによって解決されるというわけである。《……しかし分析は、一定の成熟に達して強化される自我に、かつて未成熟で弱い幼児的な自我が行った古い抑圧の訂正を試みさせるのである。抑圧のあるものは棄て去られ〔欲動は主体によって受け入れられる〕、あるものは承認されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される〔欲動はより断固たる方法で拒絶される〕》。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』旧訳からだが、亀甲括弧〔〕内はPaul Verhaeghe and Frédéric Declercqによる註釈)

この過程は、抑圧と症状形成の過程にはもはや属さない拒絶を必然的に伴う。「一言で言えば、分析は抑圧を有罪判決condemnationに変えるのである。」(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンス)人文書院5 p273)

われわれが強調しなくてはならない事実とは、この主体の決断は、純粋な形での欲動にのみ関わるということだ。すなわち、そのような決断をすることが可能なためには、主体は直接的な方法で<対象a>に結びつかねばならない、分析過程において事態を成行きにまかせて純化の仕事を成就しなければならない。その意味するところは、まずは抑圧を取り除くこと、すなわち、症状から象徴的な要素を片づけ去らなければならない。従って、分析の手間を省いて直接に基礎的な原因、つまり欲動の根元に向かうことは不可能なのである。フロイトによるこの考え方への答は、オットー・ランクの提案への返答に見出すことができる。ランクの提案とは、出産外傷の原トラウマに直接に取り組むべきだというものだが、フロイトはそれに対し、「おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合に、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけに満足する、といってことになってしまうのではないか」(『終りになき分析と終りある分析』人文書院6 P378)と答えている。

ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』P387)(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq).2002)

※英原文は次を見よ→ 症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)

2015年10月3日土曜日

"Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」

以下、「Y a d'l'Un〈一〉が有る」補遺。

…………

「Verhaeghe, P. (2006). Enjoyment and Impossibility : Lacan's Revision of the Oedipal Complex. Clemens, J. & Grigg, R. (eds.). Jacques Lacan and the Other Side of Psychoanalysis. Duke University Press, Durham and London, pp. 29-50.」より。

ーーとあるように、英訳版セミネールⅩⅦ(精神分析の裏面)の解説のひとつとして書かれたものであり、途中数字が記されているのは、この版の引用ページである。

…この段階(セミネールXⅦ)において、ラカンは重要なニュアンスをつけ加える。それによって「父の名」に関する以前の理論の相当な変化がもたらされる。すなわち、主人のシニフィアンはどんなシニフィアンによっても生みだされる(144)。このニュアンスは彼の理論の次の「進化」から理解することができる。「父の名」から「父の諸名」(複数の父の名)へと、さらには最終的には「主人の事例instance」(101)によるS1として生みだされる限りどんなシニフィアンでもいい、と。

はっきりしているのは、我々は「父の名」という排他的なシニフィアンから長い道のりを歩んだことだ。これは疑いもなく最も難解なテーマであり、ラカンはセミネールXXでふたたび取り上げた。主体の形成がなされるためには、S1の介入が必要である。そのときの問題は、このS1はどこから来るかだ。

ラカンはトートジカル(同義反復的)な答えを提供する。S1はシニフィアン〈一者〉から来る、その格言「〈一〉のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの群)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20→後述)。

これはラカンが既に同一化のセミネールで提示した思考の一連の流れにある。そのセミネールIXで、彼は主体の同一化の起源を他の主体から来る「一つの特徴」の上に置いた。その「一つの特徴」が主体をシンギュラーな〈一者〉として刻み込むのだ。このセミネールでも、「一つの特徴」は反復の必要があると言われている。というのは、〈一者〉は不在の上に来るからだ。底に横たわる実体的な主体はない。ただヒュポケイメノンhupokeimenon(アリストテレス=ハイデガー)、想定された存在presenceがあるだけだ。これはシニフィアンと物とのあいだの関係とまさに同じである。シニフィアンは他のシニフィアンに差し向けられるだけだ。他方、物自体は諸シニフィアンの鎖の外部にある。

この一連の理由づけにある袋小路は起源の問いにかかわる。ラカンはその全仕事を通してくり返したのだが、答えることは不可能だった。主体の形成は、S1から引き出される。そしてそのS1は、底に横たわる不在の上で反復される必要がある「一つの特徴」から来るのだ。私の読解では、これはまさにフロイトが陥ったのと同じ袋小路であり、しかも同じ話題においてである。父を基礎づけるために、フロイトは原父が必要だった。なにも不思議ではない、フロイトがこの循環論法で終わったのは。それは次の言葉とともにだった。 "Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」、と。(Paul Verhaeghe,  (2006). Enjoyment and Impossibility ポール・ヴェルハーゲ「享楽と不可能性」より、2006,私訳)

ーーここでは《主人のシニフィアンはどんなシニフィアンによっても生みだされる the master signifier can be produced by any signifier (144)》とあっさり記されているが、仏原文では、次ぎの箇所である(たぶん?)。

■セミネール17 Staferla 版 pp.179-180

Le discours du Maître nous montre la jouissance comme venant à l'Autre. C'est lui qui en a les moyens. Ce qui est langage ne l'obtient qu'à insister jusqu'à produire la perte d'où le plus de jouir prend corps.

D'abord le langage, et même celui du Maître, ne peut être autre chose que demande, et demande qui échoue.

Ce n'est pas de son succès, c'est de sa répétition que s'engendre quelque chose qui est d'une autre dimension – que j'ai appelé la perte – où le plus de jouir prend corps.

Cette création répétitive, cette inauguration d'une dimension dont s'ordonne tout ce dont va pouvoir se juger l'expérience analytique, ceci peut aussi bien partir d'une impuissance originelle, de celle pour tout dire de l'enfant, loin qu'elle soit la toute-puissance.

Si l'on a pu s'apercevoir que ce que la psychanalyse nous démontre c'est que « l'enfant est le père de l'homme », c'est bien qu'il doit y avoir quelque part, quelque chose qui en fait la médiation.

Et c'est très précisément cette insistance du Maître, cette insistance en tant qu'elle vient à produire… et je l'ai dit : de n'importe quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître. pp.179-180

英訳は、Patrick Valas(Staferla)のブログで手に入れた旧英訳(いささか雑な)しか手許にない。いまはそれで確認することはしない。

いずれにせよひとは、ヴェルハーゲの文で黒字強調をした箇所ーーとくに《主人のシニフィアンはどんなシニフィアンによっても生みだされる》--ということについて不十分な理解しかしておらず、おそらくS1を排他的なシニフィアンに近いものとして捉えているままだと(前期ラカンの解釈に囚われたままだと)、わたくしには致命的だと思われる次ぎのような誤読をしてしまうことになるのだろうか?

小笠原晋也@ogswrs …… 昨日の続きです.Encore の最終回で提示されたこの式:
S1 ( S1 ( S1 ( S1 ( S1 → S2 ) ) ) )

つまり「徴示素一群が徴示素2に対して主体を代表する」は『主体のくつがえし』のなかのこの文を思い起こさせます:

「S(Ⱥ) は,其れに対してほかの徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素である.すなわち,この徴示素が無ければ,ほかの徴示素すべては何も代表しない」(Écrits, p.819).

つまり,S(Ⱥ) は S2 に相当します.一群 S1 は S(Ⱥ) に対して主体を代表します.しかも,S(Ⱥ) は,ひとつの徴示素がもうひとつのほかの徴示素に対して主体を代表する限りにおいて,徴示素の機能の必要条件です.というのも,S(Ⱥ) は徴示素の穴にほかならないのですから.

いやそれ以前に、そもそもエクリの『主体の転覆』における「S(Ⱥ) は,其れに対してほかの徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素である.すなわち,この徴示素が無ければ,ほかの徴示素すべては何も代表しない」(Écrits, p.819).とは原文では次の箇所なのだが、この文はフィンクによれば解釈者たちの誤読が甚だしいらしい。

Pour nous, nous partirons de ce que le sigle S (Ⱥ) articule, d'être d'abord un signifiant. Notre définition du signifiant (il n'y en a. pas d'autre) est : un signifiant, c'est ce qui représente le sujet pout un autre signifiant. Ce signifiant sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant, tous les autres ne représenteraient rien. Puisque rien n'est représenté que pour.(E.819)

フィンクはこの箇所をもう少し長く引用して、次のように言っている。

This passage, without any further explanation, is obviously incomprehensible.(Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely、 Bruce Fink 、2004、p.132

だがここではその話はこれ以上しないでおく。上に掲げた「S(Ⱥ) は,其れに対してほかの徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素である」という文にPatrick Valasは、次ぎのようにマテームを捕捉をしている。

Ce signifiant [ S1 ou S (Ⱥ)]sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants[S2]représentent le sujet [$](Patrick Valas)

すなわち小笠原晋也氏の《S(Ⱥ) は S2 に相当します.一群 S1 は S(Ⱥ) に対して主体を代表します》とはトンデモ誤読にようにわたくしにはみえる。なぜこのような解釈がなされてしまうのか、シツレイながら頭を割って脳味噌の中身を調べてみたいくらいの誤読である・・・それとも日本井蛙ラカン研究者による“Credo quia absurdum”の実践なのだろうか・・・

※S(Ⱥ)はS1の変種であり、かつまたサントームであるだろうことは「まずS(Ⱥ)= Φ (象徴的ファルス)から始めよう」でみた。

…………

さて上で引用訳した文においてヴェルハーゲはセミネールⅩⅦの解説として語っているので、フロイトだけでなくラカンの「循環論法」を強調しているが、別にサントームにかかわるセミネール(ⅩⅩⅢ、ⅩⅩⅣ)をめぐる箇所では、ラカンのサントームをより肯定的に説明している。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

あるいは《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である》(Séminaire XXIV)にもかかわる(参照:ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって)。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7

…………

◆途中でてくる「ひとつの特徴」"unary trait" ーーフロイトのeinziger Zugについては、同じセミネールⅩⅦの解説としてふされたジュパンチッチの”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value"(Alenka Zupancic)PDFのいくらかの私訳をみよ。

ラカンはこれを彼の概念的な骨組みframeworkに転置する。それはたった一つの特徴unary traitを次のように解釈することによってである。《徴の最もシンプルな形、それは正しく言うならば、シニフィアンの起源である》(S.17)。ラカンは、フロイトのたった一つの特徴を、彼がS1として書くものと繋げている。さらに、彼は、喪失の瞬間と埋め合わされた満足あるいは享楽enjoymentをある唯一の瞬間に、非線形化delinearizeし濃縮condenseする。原初の喪失(対象の)の概念から逃れ去り、喪失の概念は、残滓wasteの概念、無用の剰余あるいは残存物remainderの概念に、より近づく。それが、享楽jouissanceそれ自体に固有であり本質的なものなのである。(アレンカ・ジュパンチッチ、2006)

◆ラカンの言葉遊びS1、essaim(ミツバチの巣)についてはアンコールの次の箇所。


「Séminaire 20 Staferla 版 p.135」より

Le corps, qu'est-ce donc ? Est-ce ou n'est-ce pas le savoir de l'Un ? - Le savoir de l'Un se révèle ne pas venir du corps, - le savoir de l'Un… pour le peu que nous en puissions dire, …le savoir de l'Un vient du signifiant 1 [S1].

Le signifiant Un vient-il du fait que le signifiant comme tel ne soit jamais que l'un entre autres, référé comme tel à ces autres comme en étant la différence d'avec les autres ?

La question est si peu résolue jusqu'à présent que j'ai fait tout mon séminaire de l'année dernière pour interroger, mettre l'accent sur ce « y'a d'l'Un ». Qu'est-ce que veut dire y'a d'l'Un ? Ce que veut dire y'a d'l'Un est ceci que permet de repérer l'articulation signifiante que de un entre autres… et il s'agit de savoir si c'est « quel qu'il soit » …se lève un S1, un essaim de signifiants, un essaim bourdonnant lié à ceci que ce 1 de chaque signifiant… avec la question de « est-ce d'eux que je parle ? » [cet essaim est-ce d'eux ?] …ce S1 que je peux écrire d'abord de sa relation avec S2, eh bien c'est ça qui est l'essaim.

S1 (S1 (S1 (S1 (S1 → S2) ) ) )

Vous pouvez en mettre ici autant que vous voudrez, c'est l'essaim dont je parle. Le signifiant comme maître, à savoir en tant qu'il assure l'unité, l'unité de cette copulation du sujet avec le savoir, c'est cela le signifiant maître, et c'est uniquement dans lalangue, en tant qu'elle est interrogée comme langage, que se dégage - et pas ailleurs – que se dégage l'ex-sistence de ce dont ce n'est pas pour rien que le terme στοιχεῖον [stoïkeïon] : élément [élément premier→ élémentaire] soit surgi d'une linguistique primitive[cf. RSI, 18-02-1975], ce n'est pas pour rien :

le signifiant 1[S1] n'est pas un signifiant quelconque, il est l'ordre signifiant en tant qu'il s'instaure de l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste.

翻訳者たちの悪訳で名高いラカンであり、わたくしは基本的にラカンの文を訳すつもりはない。というわけで、英訳を貼り付けておく。

「BOOK XX Encore 1972-1973 TRANSLATED BY Bruce Fink」より

What then is the body? Is it or isn't it knowledge of the one? Knowledge of the one turns out (se révèle) not to come from the body. The little we can say about knowledge of the one comes from the signifier "One." Does the signifier "One" derive from the fact that a signifier as such is never anything but one-among-others, referred to those others, being but its difference from the others?

The question has been so little resolved to date that I devoted my whole seminar last year to accentuating this "There's such a thing as One" (y'a d'l'Un). What does "There's such a thing as One" mean? From the one-among-others - and the point is to know whether it is any old which one - arises an S1, a signifying swarm, a buzzing swarm. If I raise the question, "Is it of them-two that I am speaking?", I will write this S1 of each signifier, first on the basis of its relation to S2. And you can add as many of them as you like. This is the swarm I am talking about.

S1 (S1 (S1 (S1 ~S2)))

S1, the swarm or master signifier, is that which assures the unity, the unity of the subject's copulation with knowledge. It is in llanguage and nowhere else, insofar as llanguage is investigated qua language, that what a primitive linguistics designated with the term στοιχεῖον, element - and that was no accident - can be discerned. The signifier "One" is not just any old signifier. It is the signifying order insofar as it is instituted on the basis of the envelopment by which the whole of the chain subsists.

…………

さて「Y a de l'Un」については、セミネールⅩⅩからセミネールⅩⅩⅢへとその解釈が変わっているという見解がある(JA → JȺに伴なって)。(参照:超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))。ここにいわゆるジジェク組、あるいは「哲学的」ラカン組の現在の究極のラカン解釈(のひとつ)があるはず。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

もっとも「臨床的」ラカン派からはやや異なった見解がある(「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」)。


■Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007

Lacan seems to become aware of this deadlock in Seminar XXIII, in which in fact J (A barred), a fourth variant of the notion of jouissance, takes the place of JA in the Borromean knot (see graph 5.5).273

In one of the most important lessons of that year, Lacan says: “J (A barred) concerns jouissance, but not Other-jouissance . . . there is no Other-jouissance inasmuch as there is no Other of the Other.”274

The passage from the notion of Other-jouissance JA to that of the jouissance of the barred Other J (A barred) epitomizes the distance that separates Saint Teresa's holy ecstasy , as referred to by Lacan in Seminar XX, from the “naming” of lack carried out by Joyce-le-saint-homme, as analyzed in detail in Seminar XXIII. In this seminar, JA (of Woman; of God) becomes impossible; however, feminine jouissance could be redefined in terms of J (A barred).275

J (A barred) is therefore a (form of ) jouissance of the impossibility of JA. Most importantly , I must emphasize that the jouissance of the barred Other differs from phallic jouissance without being “beyond” the phallus.

The elaboration of the notion of J (A barred) also has a significant repercussion for Lacan's late dictum according to which “Y a d' l'Un” (“There's such a thing as One”).276

In Seminar XX, Lacan seems to identify this One with JA, with the idea of a pure Real conceived of in the guise of pure difference, a fermenting Nature; although in Seminar XXIII he declares that JA is meant to designate the fact that there is a Universe, he nevertheless specifies that it is quite improbable that the Universe is, as such, a Uni-verse, that the Universe is a One (of pure, Other-jouissance).277

That is to say , a pure, mythical Real—the undead—must be presupposed retroactively , but it cannot be counted as (a self-enjoying, divine) One, not even as the supposedly “weaker” One of pure difference.


注)
273.See Le séminaire livre XXIII, p. 55.

274,Seminar XXIII, lesson of December 16, 1975. This passage has been modified beyond recognition in the Seuil version of Seminar XXIII. I rely here on the version provided by the École Lacanienne de Psychanalyse.

275.In this way , it would be easy to think of Joy-cean jouissance as a thorough reelaboration of the jouissance of the mystic which Seminar XX had already paired up with feminine jouissance. It then also becomes clear why Lacan's recurrent parallelism between Joyce and a saint is far from being gratuitous (“Joyce-the-sinthome is homophonous with sanc-tity”; J. Lacan, “Joyce le symptôme,” in Le séminaire livre XXIII, p. 162).

276.See, for example, The Seminar. Book XX, p. 5.

277.Le séminaire livre XXIII, p. 64. Lacan also unequivocally states: “I would say that nature presents itself [se spécifie] as not being one. From this then follows the problem of which logical procedure [we should adopt] in order to approach it” (ibid., p. 12).


2015年10月2日金曜日

テレビ撮影用のデモ

おい、歴史の教科書によればフランス革命は1789年だったな、年を特定するのは困難だとはいえ(1787-1799)

ロシア革命は1917年だ。ーーええっと 1917-1789=128 だ

1917+128=2045年か、計算間違えないだろか、かなり先だな、次ぎの「革命」は。オレはもう生きてそうもないよ・・・

この際、1799年のナポレオンによるクーデター年から計算することにすれば、2035年だな、これはまだ場合によっては遭遇できそうだ

李鵬が1997年に「まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう」と言ったのだが、日本だけに限っていえば「あと30年」とは2027年だな、オリンピック後だし、ちょうど頃合じゃないか。こっちの予測が起こらないかね、まずは日本で。

…………

ところできみらはマジでいまのシステムが続きうると思ってんだろうか、「オレたちは保守だ」などとほざいている社会運動家の諸君よ!

@kdxn 2014.11.14
とはいえ、安倍政権にしろネトウヨにしろ決して復古主義はなく、自分たちのほうが古い左翼的価値観を打破する最新思想だと思っているので、あながち適用できないわけでもないか。ここ何回も強調しとくけど、現在の日本においては保守を名乗る極右こそが革命勢力で、リベラルは反革命/保守勢力です! (野間易通)

彼をはじめとするカウンターの連中をアホウドリだとは言わないでおくが、徹底的な経済音痴だね(参照:「この世の不幸のもとは安倍政権だ」)。

社会運動やってて、いまどきエコノミーを外すって手があるんだろうか(参照:イデオロギー、ヘゲモニー、エコノミー(ネーション、ステート、資本制)の三幅対)。





もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収)

われわれは忘れるべきではない、二十世紀の最初の半分は“代替する近代”概念に完全にフィットする二つの大きなプロジェクトにより刻印されれていたことを。すなわちファシズムとコミュニズムである。ファシズムの基本的な考え方は、標準的なアングロサクソンの自由主義-資本家への代替を提供する近代の考え方ではなかったであろうか。そしてそれは、“偶発的な”ユダヤ-個人主義-利益追求の歪みを取り除くことによって資本家の近代の核心を救うものだったのでは? そして1920 年代後半から三十年代にかけての、急速なソ連邦の工業化もまた西洋の資本家ヴァージョンとは異なった近代化の試みではなかっただろうか。(ジジェク『LESS THAN NOTHIN』2012 私訳)

なぜ彼らは現在のファシズムやレイシズム、戦争法案、あるいはアベノミクスが新自由主義の危機からの脱出のせいかもしれないと一瞬でも想起しないんだろう? 

ファシズム、レイシズム=イデオロギー(ネーション)
戦争法案=ヘゲモニー(国家)
アバノミクス=エコノミー(経済)

ーーじゃないのかい?

真の敵は「新自由主義」だよ、それに気づかないってのは・・・

バカジャナイノカ? いやいやシツレイ! バカじゃなくて、「ユートピアン」なんだろうよ

人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。(ジジェクーーユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち

ユートピアン、すなわちそれを寝言派という。

《道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である》(二宮尊徳)


…………

・いまさらわざとらしい顔をするなよ。もうあきるほどいいふるされているじゃないか。そして敵は依然として勝ちつづけている、と。未来はいうまでもなくひたすら空虚である。万が一、敵に勝ったとしても、だ。総員おためごかし。(辺見庸 日録 2015/09/17

おい、辺見庸はおまえらにカツいれてんだよ

 確かに、良質の諷刺には愛嬌がつきものである。しかし、過激でない諷刺、「他者への配慮」によって去勢された諷刺など諷刺とは言えず、諷刺のないところには民主主義も文化もない。(浅田彰「パリのテロとうエルベックの服従」

おまえらそれも分からなくなっちまったのか、そもそも辺見庸の「日録」ってのが、荷風の「断腸亭日乗」のパロディだということさえ分からぬ文学音痴なんだろうよ。

ただし8・30の絵を作ったことには敬意を表するよ、

@kentarotakahash
3万人だろうが、12万人だろうが、35万人だろうが、この絵を作ったことで、もう日本は変わっている。 https://pic.twitter.com/AoS5jP6QrA

《ほぼ官製・完全順法管理無害ハナクソデモ。ジンコウモタカズヘモヒラズのテレビ撮影用のパレード》だって、ないよりはズーッとましさ。

・「見ずして信ずるものは幸いなり」。ジョージもエルナもエレーナも知らない、とってもお寒いやつら。いつかアイコク・ボウエイタイになるアホウども。大韓民国全羅南道高興郡金山面出身のキムイル(김일)氏のことも、かれのつらさも、パチキのすごさも知らない、あまったれのクソッタレ・ニッポンジンども。どこでだれにどういう教育をうけたのかね。おまえたちの、ほぼ官製・完全順法管理無害ハナクソデモ。ジンコウモタカズヘモヒラズのテレビ撮影用のパレード。中平卓馬も安田南も堀内義彦も天国であきれてるぞ。「ふざけるな、ぶんなぐってやる!」。あはは、中平さんはネコパンチだけどもね。オマワリとあらかじめウチアワセしたり、いちゃついたり。おまえら、まったく気色わるいぜ。反吐がでるぜ。まだましなのは、なにもおこなわない(しない、やらない、やらされない、やろうともしない、誘導もされない、すこしの移動もしない、そのようにそそのかされもしない、説得をうけつけない、とくだんの意思もなく、ただそこにあるだけ)で、にもかかわらず、ときに、なにかしずかにきわだっているようにもみえる、ひとつのものだ。それは、存在を、影ごとみずからの内側に、イソギンチャクのようにくぐもらせてゆく(みずからがみずからの内側に埋まってゆく)……それ以外ではまったくありえようもない、ひとつのなにかだ。じぶんをじょじょに内側にたぐりこみ、引きこんでいって、ついに消えてゆくじぶんだ。きのうはエベレストにのぼった。けふはダフネにいったけれど、エベレストにはのぼらなかった。さらばじゃ、クソッタレ!(2015/09/30)

 ーーで今からでも遅くないから「経済」勉強したらどうだい?

きみらは基本的な過ちを犯しているのだよ。

……基本的な過ちを犯 している。ヨーロッパの体制側が依拠する筋書きは、巨大な赤字が金融部門の大規模な債務棚上げや不況期における政府の歳入の低落によって脹れ上がるという事実を曖昧にしている。アテネへの大規模な貸付は、ギリシアのフランスやドイツの巨大銀行に対する 債務支払のために用いられることになるだろう。欧州連合による債務保証の真の目的は、 民間銀行の救済にある。というのも、ユーロ圈の国家の1国でも破綻すれば、ユーロ圏全体が烈しい打撃を被るからである。他方で、抗議する側における筋書きは現代における左派の相も変わらぬ悲惨な状態を証して余りある。既存の福祉国家との妥協を一般的に拒否するにすぎないその要求に、具体的な計画的内容を見出すことはできない。ここに見ら れるユートピアはシステムの根源的な変更ではなく、福祉国家はシステム内部で維持可能だという思いつきである。(マージナルなものへのセンスの持ち主だけの資本主義崩壊「妄言」

ーーやあすまなかったな、「妄言」を記してしまって。

…………

文句をいってくるヤツがいるのを憂え先に記しておくが、リンク先を読んでからにしてくれよな、文句は。とはいえ、だいたい元じばき隊の諸君やそのシンパは「キャッチーさ」のみがお好みらしいから、長たらしい文献などは読まない・読めないのだろうがね(参照:旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。

だからいつまでも経済音痴で通すつもりなんだろ? 寝言派でな。

‏@kdxn野間易通
経済の話と日本史の話が始まると、貝のように口を閉ざす。

知ったかぶりするネタすら持っていない。

ーー「これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい」(野間易通)ぜ、なあ、おい!


だから元しばき隊のおそらく中心メンバーの一人だろう「ばんちょう」氏は次のような厚顔無恥なことをつぶやいてしまう。

9月30日@bcxxx
実際にはあんたらが社会構造の問題だと思ってる物事のほとんどは、特定の政治家や政党や官僚の産み出した政策のせいだよ。

社会構造のせいにし続ける限り、あんたらは本当の敵を見失って、あんたらの寝言を優しく聞いてくれそうな隣の誰かさんのことを殴り続けることになる。

これでは「経済的下部構造」について無知のままでいたいと自白しているようなものではないかね

近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。

(……) 資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再配分)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かうことになる。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本=ネーション=ステートは三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。資本の運動を制御しようとする、コーポラティズム、福祉国家、社会民主主義といったものは、むしろそのような環の完成態であって、それらを揚棄するものではけっしてない。(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.35-36)

そもそも日本だけではなく世界が次ぎのごとく高齢化しているなかでどうやっていままでのシステム(社会保障制度をはじめとする制度)を保つってわけだい? 税金(国民負担率)倍増しないともたないに決まってんだろ!








2015年10月1日木曜日

口にしちゃいけないこと

襖一枚の隔てて筒抜けの隣の声」で、こう引用した。

僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。そのひとつの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか、不要になった防空壕の片隅とか、家族がみんな疎開して亭主だけ残され、近所の家にお世話になっているうちにそこの娘とできてしまうとか、いろんなことがありました。(古井由吉『人生の色気』)

――こうやってくり返して引用したくなる文なのだが、「焼け跡で交わっている男女」のようなものを見たことがあるとでもいうのか。

ある場所で彼が立ち止まって首をまわすと、その方角に明けっぴろげになった小さな家が映り、次にその奥が大写しになると若い夫婦が性交している。チャブ台の向こう側で脚や腕がさかんに動いている。仰向いた女の美しい胸と首と、そこに無闇に顔をこすりつける男の後頭部が映る。男の手首が女の太股の下のほうから撫であげたり、女の肉付きのいい脚が曲がったり伸びたりする。――彼は道に立ってぼんやりそれを眺めている。(藤枝静男「欣求浄土」)

いやいやこんな光景にはめぐりあっていなしまたもちろんやったこともない。わたくしは阪神大震災のとき京都に住んでいたのだが、被災の現場にーーここでは、ある「やむえない」理由で、と書いておこうーー訪れたが、そこでもめぐりあっていない。

避難民は避難民同士という垣根のない親身の情でわけへだてなく力強いところもあったが、垣根のなさにつけこんで変に甘えたクズレがあり、アヤメも分たぬ夜になると誰が誰やら分らぬ男があっちからこっちから這いこんできて、私はオソヨさんと抱きあって寝ているからオソヨさんが撃退役でシッシッと猫でも追うように追うのがおかしくて堪らないけど、同じ男がくるのだか別の男なのだか、入り代り立ち代り眠るまもなく押しよせてくるので、私たちは昼間でないと眠るまがない。(坂口安吾 「青鬼の褌を洗う女」)

夜這いなどということもしたことはない?

庶民は若くして奉公にでます。奉公先ではふすま一つ隔てて、若い男女が寝ています。つい夜這いも活発になろうというものです。(永井義男「お盛んすぎる江戸の男と女」)

ああやりのこしたことがたくさんある。

恋の闇 下女は小声で ここだわな
早くして 仕舞いなと 下女ひんまくり
をしいこと まくる所を下女 呼ばれ
ーーー「諧風末摘花」より

(円山応挙 すえつむ花 夜這い)

江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉を塗った女が入浴の男を捉えて戯れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群の戯れ遊ぶ浴殿の歓楽さえさして羨むには当るまい。(永井荷風「伝通院」)

西洋など羨むには当らない国に住んでいたのに。


…………

本当のことを言うとね、空襲で焼かれたとき、やっぱり解放感ありました。震災でもそれがあるはずなんです。日常生活を破られるというのは大変な恐怖だし、喪失感も強いけど、一方には解放感が必ずある。でも、もうそれは口にしちゃいけないことになっているから。(古井由吉「新潮」2012年1月号又吉直樹対談) 

人は生涯日常性が破られるという経験がなくてはたして「幸せ」なんだろうか。

グルリと空を見廻したあの時の私の気持というものは、壮観、爽快、感歎、みんな違う。あんなことをされた時には私の頭は綿のつまったマリのように考えごとを喪失するから、私は空襲のことも忘れて、ノソノソ外へでてしまったら、目の前に真ッ赤な幕がある。火の空を走る矢がある。押しかたまって揉み狂い、矢の早さで横に走る火、私は吸いとられてポカンとした。何を考えることもできなかった。それから首を廻したらどっちを向いても真ッ赤な幕だもの、どっちへ逃げたら助かるのだか、私はしかしあのとき、もしこの火の海から無事息災に脱出できれば、新鮮な世界がひらかれ、あるいはそれに近づくことができるような野獣のような期待に亢奮した。 (坂口安吾 「青鬼の褌を洗う女」)
私にとっては私の無一物も私の新生のふりだしの姿であるにすぎず、そして人々の無一物は私のふりだしにつきあってくれる味方のようなたのもしさにしか思われず、子供は泣き叫び空腹を訴え、大人たちは寒気と不安に蒼白となり苛々し、病人たちが呻いていても、そしてあらゆる人々が泥にまみれていても、私は不潔さを厭いもしなければ、不安も恐怖もなく、むしろ、ただ、なつかしかった。(同上)

もちろん、次ぎのような日常性の破壊を「楽しむ」ことはできないではない(津波被害についてはまだそれほど月日がたっていないので口を慎んでおくことにする)。

2001年9月11日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)

これは別にラカン派の発見でもなんでもない。すでにプラトンがこう書いている。

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

 この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)
いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)

われわれは他人の不幸を「公式的には」には憐れむ。だがすくなくとも自らが関係しないとなったら、そこには享楽のリビドーが注ぎ込まれる。

それはまるで古典的なハリウッド映画のようであり、そこでは、悪党は、――“公式的には”、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれの(享楽の)リビドーが注ぎ込まれる(ヒッチコックは強調したではないか、映画とは、ただひたすら悪人によって魅惑的になる、と)。(ジジェク、2012--「嫌煙運動、あるいは「憎むことを愛する」」より)

《人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。 》(ルソー『エミール』)

《人が同情を寄せる相手は、知らない人びと、想像で思い描く人びとであり、すぐそばで卑俗な日常生活のなかにいる人たちではない。》(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)