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2015年11月6日金曜日

プルーストの「象形文字 hiéroglyphes」

記号は芸術作品によって、彼が愛する人によって、出入りする環境によって発せられる。「固有名詞」もまた一つの記号であって、もちろん意味する(シニフィエ)することなく指示するような単なる指標ではなく、この点、パースからラッセルにいたる通念が要求するところとはちがう。記号としての「固有名詞」は探求の、解読の対象となる。「固有名詞」は(用語の生物学的意味における)《環境》であって、そのなかにとびこみ、それがもたらすあらゆる夢想にどこまでも浸らなければならないものである。と同時に、「固有名詞」は圧縮され香りがこめられている貴重品であって、花のように開かせなければならないものでもある。言いかえれば、「名前」(これからは固有名詞をこのように呼ぼう)は記号であるが、それはヴォリュームのある記号、密生した意味の厚さのために常にかさばっている記号であって、いかなる慣用もこのれ縮小し押しつぶすようなことはなく、この点、普通名詞が連辞によって必ずその意味の一つだけを引き渡すのとは反対である。プルーストにおける「名前」は、あらゆる場合に、ただそれだけで辞書のある項目全体の等価物である。ゲルマントという名前は、思い出や慣用や文化がそこに含ませうるものをすべて、ただちにつつみこむ。(ロラン・バルト「プルーストと名前」P.81)

ーーと、「あらゆるものを包みこむ「名前」による新しい階調」にて引用した。

そこでの問いは、この「固有名=名前」は、主人のシニフィアンとどう異なるのだろう、というものだった。

S1はシニフィアン〈一〉から来る、その格言「〈一〉のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの群)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20)。 (Paul Verhaeghe,Enjoyment and Impossibility ポール・ヴェルハーゲ「享楽と不可能性」より、2006,私訳)

ところで、ロレンツォ・キエーザのバディウ論のなかに、《the proper name as the redoubling of the letter, the unary trait, raises the issue of ‘the attachment of language to the real' (S.9)》という文がある(Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa)。

unary trait(一つの徴)とは、ラカンによって「最初のシニフィアン」とされるものだ(参照:「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)」)。

…la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est, à proprement parler, l'origine du signifiant.(Lacan,Séminaire ⅩⅦ Staferla 版 P.56)

こう引用したからといって、固有名 proper name が「記号」ではなく、主人のシニフィアンだと断言するつもりはない。ただバルトの「つつみこむ」は、ラカンにとっての「一つの封筒」としても読むことができ、これはS1(主人のシニフィアン)である。

今度はドゥルーズのプルースト論を掲げよう。

習得は本質的にシーニュにかかわる。シーニュは、時間的な習得の対象であって、抽象的な知識の対象ではない。習得することはまず第一に、ひとつの物質・対象・存在を、あたかもそれらが解読・解釈を求めるシーニュを発するものであるかのように考えることである。習得する者の中で、何かについての《エジプト学者》でないような者はいない。材木のシーニュを感知しないで指物師になることはできず、病気のシーニュを感知しないで医師になることはできない。職業は常に、シーニュとの関係による宿命である。われわれに何かを習得させるすべてのものがシーニュを発し、習得の行為はすべて、シーニュまたは象形文字 hiéroglyphes の解釈である。プルーストの作品の基礎は、記憶のはたらきの提示ではなく、シーニュの習得のである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』pp.4-5)

ここに「シーニュまたは象形文字 hiéroglyphes」とある。象形文字とは、マルクスの『資本論』やフロイトの『夢判断』にて、名高い「概念」である。

価値の額(ヒタイ)にそれが何であるかが書かれているわけではない。むしろ、価値が、どの労働生産物をも一種の社会的象形文字に転化するのである。後になって、人間は、この象形文字の意味を解読して彼ら自身の社会的産物--というのは、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的産物だからである--の秘密の真相を知ろうとする。(マルクス『資本論』
夢の思考は、聞けばすぐに理解できるようなものである。それにたいして夢の内容は、いわば象形文字で綴られており、その一つ一つの文字を夢思考の言語に置き換えなければならない。 (フロイト『夢判断』第四章「夢の仕事」

ここでふたたび Lorenzo Chiesa の別の書 (Subjectivity and Otherness A Philosophical Reading of Lacan” 2007)から抜き出してみよう。

To clarify this difficult point, Lacan perpetuates Freud's passion for hieroglyphics.

Lacan believes that hieroglyphics provide perfect evidence of the level of the Real-of-language. As he puts it, the signifying chain as letter “is found to survive in an alterity in relation to the subject [the individual subject's self-consciousness] as radical as that of as yet undecipherable hieroglyphics in the solitude of the desert.”(Lacan,Ecrits)

ラカンの原文から、その前後もいくらか含めて引用すれば、次の通り。

Encore est-ce trop parler de ce que nous donnons à cette attestation, alors qu’en son maintien elle nous néglige assez pour transmettre sans notre aveu son chiffre transformé à notre lignée filiale. Car n’y eût-il personne pour la lire pendant autant de siècles que les hiéroglyphes au désert, elle resterait aussi irréductible en son absolu de signifiant que ceux-ci le seraient demeurés au mouvement des sables et au silence des étoiles, si aucun être humain n’était venu les rendre à une signification restituée.(ÉCRITS,p.446)

ラカンにとっては、象形文字は絶対的なシニフィアンであることがわかる。

さて、ドゥルーズのプルースト論に戻る。

友情は、観察と会話とで育って行くことができるが、愛は、沈黙した解釈から生まれてそれを養分とする。愛される者は、ひとつのシーニュとして、《魂》として現われる。そのひとは、われわれにとっては未知の、ひとつの可能な世界を表現する。愛される者は、解読すべきひとつの世界、つまり解釈すべきひとつの世界を含み、包み、とりこにしている implique, enveloppe, emprisonne。(…)

…愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。愛される女がしばしば次のような風景と結びついているのもそのためである。…たとえばアルベルチーヌは、《浜辺と砕ける波》を含み、まぜ合わせ、化合させる enveloppe, incorpore, amalgame 。もはやわれわれが見ている風景ではなく、逆に、その中でわれわれが見られているような風景に、どのようにして到達できるだろうか。《もしも彼女が私を見たとして、私は彼女に何を示すことができたのか。どのような世界の内部から、彼女は私は見わけるのか。》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p.8-9)

ここには包み込むものとしてのシーニュが二箇所、現われる。

今はこれらの著者たちの書き物に現われた表現だけに注目しているのだが、シーニュ(記号)と主人のシニフィアンはどちらも包み込むものであり、それ以外にも似た表現に満ち溢れる。

そもそも、なにを記号として取るか、なにをシニフィアンとして取るかは、受け手の問題であり、記号、あるいはシニフィアンなるものの性質の問題ではない(「ほとんど」そうではない、と婉曲しておこう)。

医療診断学において、症状は、底に横たわる障害を指し示す記号として解釈される。その記号は、孤立化されると同時に一般化される。臨床的な精神診断学においては、われわれはシニフィアンに直面する。そのシニフィアンは、患者と〈他者〉とのあいだのその折々に見合った相互作用において絶え間なく移動する意味をもっている。(……)

臨床的な精神診断学の問いは、「この患者はどんな病気を持っているか?」というものではそれほどなく、むしろ「この症状は誰に、何に、差し向けられているのか?」というものである。底に横たわる、しかし目に見えない構造――患者に交差するすべてを決定する構造――があるに違いないというものである。

医療診断学は特定化(症状symptom)から始め、一般化に向かう(症候群syndrome)。それは、個々人の苦情に完全に焦点を絞った記号的なシステムsemiotic systemを基礎としている。臨床的な精神診断学は一般(化)(始まりの苦情)から始めて、個別化(N = 1)に進んで行く。それは、主体と〈他者〉とのあいだのより広い関係性の部分であるシニフィアンのシステムを基礎としている。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳ーーラカン派の「記号」と「シニフィアン」)

この象形文字は、「なにを意味しているのか?」、と捉えるのが、「記号=シーニュ」として扱う方法である。他方、この象形文字は、「何に、差し向けられているのか?」とするのがシニフィアンとして捉えることである(参照:ラカンのシニフィアンの定義:「シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」)。

フロイトがはっきり言っているように、われわれは夢を前にしたとき、その全体やその構成要素のいわゆる「象徴的意味」を探すことを断じて避けなければならない。「この家は何を意味しているのか。屋根の上のボートは何を意味しているのか。走っている人物は一体何を象徴しているのか」といった質問をしてはならないのである。しなければならないことは、物をふたたび翻訳する、つまり物をそれを指す言葉に置き換えることである。判じ絵においては、物は文字通りその名前を表わしている。すなわちそのシニフィアンを表わしている。言葉表象Wort-Vorstellungenから物表象Sach-Vorstellungenへの移行――夢の中で作用しているいわゆる「表象可能性への配慮」――を言語から前言語的表象への一種の「退行」と見なしてはいけない理由が、これで明らかになっただろう。夢の中では、「物」それ自体がすでに「言語のように構造化されて」おり、その配置は、それが表わしているシニフィアンの連鎖によって規定されている。「物」から「言葉」への再翻訳によって得られる、このシニフィアンの連鎖のシニフィエが「夢思考である」。意味のレベルでは、この「夢思考」は夢の中に描かれた物と、内容的にはなんの繋がりもない(同様に判じ絵の場合、その解読は判じ絵に描かれた個々の物の意味とはなんの繋がりもない)。夢の中にあらわれた形象の「より深い隠された意味」を探そうとすると、その中に表現された潜在的「夢思考」が見えなくなってしまう。直接的な「夢内容」と潜在的な「夢思考」とは、言葉遊び、すなわち意味のないシニフィアン的物質のレベルのみで繋がっているのである。(ジジェク『斜めから見る』p103)

…………

《だがもっと後になると、わたしはこの同じ名前がわたしの心のなかで持続するにつれて七つや八つの異なった姿(フィギュール)をつぎつぎに見出す……》(プルースト『ゲルマント家のほうへ』)

プルーストにおける「名前」は、その意味論的厚みのゆえに(その《パイ皮性》〔葉層性〕のゆえに、と言えるものなら言いたいところだが)、真の意味素分析の対象となり、語り手自身その分析を志し、それに着手せずにはいない。彼が「名前」のさまざまな“姿〔フィギュール〕”と呼んでいるものは真の意味素であって、想像上のものという性格をもつにもかかわらず、完全な意味論的有効性をそなえている(記号内容を指向対象から区別することがいかに必要かを、このことが改めて証明する)。

たとえば、ゲルマントという名前は(ライプニッツの語を借用すれば)、いくつかの基本素を含んでいる。すなわち、《その高みから領主と奥方が家臣の生死を決定した、オレンジ色の光の帯にすぎない厚みを欠いた天守閣》、《歳月を経て、黄ばんだ、花形模様のある城塔》、《その名前と同じように透明な》ゲルマント家のパリの邸宅、パリのまんなかにある封建時代の城館、など。これらの意味素はむろん《イメージ》であるが、しかし文学という上位言語においては、これが純然たる記号内容であることに変わりなく、外示言語の記号内容と同じように、ある意味組織論全体の対象となるのである。

これらの意味素的イメージのうち、あるものは伝統的、文化的である。たとえばパルム〔パルマ〕は、エトルリア人によって建設され、ポー河の流域に位置し、人口十三万八千をもつ、エミリア地方の町を指示しない。この二つの音節の真の記号内容は、二つの意味素によって構成されている。つまり、スタンダール的な甘美さとすみれの花の光沢とである。他の意味素的イメージは個人的で記憶にもとづく。たとえばバルベックは語り手が聞いた二つの言葉を意味素としてもつ。一つはルグランダンの言葉(バルベックは地の果ての嵐の土地です)、もう一つはスワンの言葉(そこの教会はなかばロマネスク式のゴチック・ノルマン建築です)である。その結果、この名前は常に《ゴチック建築と海の嵐》という二つの同時的意味をもつのである。

(……)物語るということは、ある限られた数の充実した単位を換喩的過程によって互いに結びつける以外のことでは決してない(……)。たとえば、バルベックはいくつかの場面を内蔵するだけでなく、また、それらを同一の物語的連辞のなかに統合しうる運動をも内蔵しているのだ。その証拠に、バルベックという混質的な音節はおそらく、すたれてしまったある発音法から生れたもので、《わたしはその発音法が宿屋の主人のもとにさえ見出せると信じて疑わず、わたしが到着したときミルク・コーヒーを出してくれ、教会の前の荒海を見に連れていってくれるであろうこの宿屋の主人に、寓話詩の登場人物のような議論好きの、もったいぶった、中世的風貌を与えていた》からである。「固有名詞」が無限に豊かな触媒の対象となるからこそ、詩学的には『失われた時を求めて』全体があるいくつかの名前から出てきたと言うことができるのである。(ロラン・バルト「プルーストと名前」)

《このゲルマントこそ、小説の骨子〔カードル〕のようなものだった……》(『ゲルマント家のほうへ』)

実際、作家が固有名詞を案出するときはプラトンの言う立法者が普通名詞を創出しようとするときと同じ動機づけの規則にしばられる。(……)

プルーストにおける社会階級……もちろん、名前を貴族ふうにする小辞〔de〕などという粗雑な手段によるのではなく、ある広範な固有名詞体系の設定によるのであって、この体系は一方で貴族と平民の対立、他方では無音の語末をもった長母音(いわば長い引裾をつけた語末)と唐突な短母音との対立にもとづいて分節されている。つまり、一方にゲルマント、ローム、アグリジャントなど〔貴族名〕の範列があり、他方にヴェルデュラン、モレル、ジュピヤン、ルグランダン、サズラ、コタール、ブリショなど〔平民の名〕の範列があるのだ。

プルーストの固有名詞体系は高度に組織化されているように見え、たしかにこれが『失われた時を求めて』の出発点をなすと思われるのだ。名前の体系を手に入れることは、プルーストにとって、そしてわれわれにとっても、書物の本質的な意味作用と、書物の記号の骨組みと、書物の深層と統辞法とを手に入れることだった。

それゆえ、プルーストにおける名前は記号の大きな二つの次元を完全にそなえていることがわかる。つまり名前は一方においてまったく単独に、《それ自体として》、いくつもの意味作用の総体として(ゲルマントはいくつもの姿を含む)、要するにある本質として(プルーストの言う《本源的な実体》として)読むことができるし、あるいはまた、こう言ったほうがよければ、ある不在として読むことができる。というのも、記号は現存しないものを指示するからである。(同、ロラン・バルト)

《作家が固有名詞を案出するときは、プラトンの言う立法者が普通名詞を創出しようとするときと同じ動機づけの規則にしばられる》とある。この文を次ぎの文と「ともに」読んでみよう。

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。(……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、2012,私訳)

ーー主人のシニフィアンS1を案出する者は、プラトンのいう立法者であることがわかる。


…………

※附記

固有名の指すものがかりに実在しなくても、固有名は「現実的」である。その「現実性」は、いわば名前の受け手が名前を教えた者と同じものを指示しようとしない可能性から見たときに見いだされる。(柄谷行人『探求Ⅱ』p.56)

柄谷行人はこう記したあと、ヘーゲルの『小論理学』から引用している。上の文での「現実性」は、ヘーゲルの Wirklichkeit、あるいはenergeia エネルゲイアにかかわるようだ。

柄谷行人の引用は長いので、ここでは直接は引用しない。ネット上から拾える文を抜き出せば次の箇所にかかわる。

現実性(Wirklichkeit)とは、本質と現存在、あるいは内的なものと外的なものとの統一が直接的なものとなったものである。現実的なものの発現は、現実的なものそのものである。そこでそれは、発現の内にあっても同様に本質的なものにとどまり、そして直接的な外的な現存在の内にある限りにおいてのみ、本質的なものである。(ヘーゲル『小論理学』)

《アリストテレスはプラトンのイデアを「単なるデュナミス」と呼び、それに対して本来のイデアを「エネルゲイア、すなわち端的に外に現われている内的なもの、したがって内的なものと外的なものとの統一」として、したがったまたここで問題となっている意味での「現実性」として捉えた。》(ヘーゲルにおける現実性)。

すなわち、ヘーゲルの「現実性」(Wirklichkeit)とは、経験的に実在するというような意味ではない。

もちろんプルーストの現実性も同じく。

マドレーヌの力によって、なぜコンブレーはかつて存在した通りに再現する(単なる観念連合)ことに満足せず、かつて体験されたことのないかたちで、その《本質》もしくはその永遠性において、絶対的に現われるのか…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
コンブレーは、過去の感覚と結ばれて体験されたようにではなく、ひとつの輝きの中に、現実には全くそれと同じものがないような《真実》と共に現われてくる……(同上)
紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ途端、それを誘い水にして、コンブレは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現する。(ドゥルーズ『差異と反復』)

ーードゥルーズの「プルーストとシーニュ」、ロラン・バルト「プルーストと名前」に引き続いて、「プルーストとシニフィアン」があってもまったくわるいわけではないだろう・・・

……その境界はいっそう絶対的なものになった、というのは、おなじ日の、おなじ散歩に、二つのほうに出かけたことはけっしてなく、あるときはメゼグリーズのほうへ、またあるときはゲルマントのほうへ行ったそんな私たちの習慣が、そのふたつをたがいに遠くへひきはなし、たがいに不可知の状態に置き、別々の午後という、双方のあいだに流通のない、封じられたつぼとつぼとのなかに、その二つをとじこめていたからであった。(……)

コンブレーの周辺には、散歩に出るのに二つの「ほう」があった、そしてこの二つの方向はまるで反対なので、どちらへ行こうとするときも、おなじ門から家を出るということは実際はなかった……(プルースト「スワン家のほうへ」)

メゼグリーズとゲルマントというふたつのシニフィアンをめぐってプルーストの小説はすすんでいく。

そして最終巻「見出された時」では、この絶対的な境界がなくなってしまう(主人のシニフィアンとは境界シニフィアンでもある→参照:“A is A” と “A = A”)。

私達が歩いてゆくにつれて、土地も変化するように私には見えた、いくつかの丘をのぼらなくてはならないかと思うと、こんどはまた坂道をおりることになる。私たちはおしゃべりをつづけた。それが私には、ジルベルトと連れだっていて、非常にたのしみだった。といっても障害がなかったわけではない。多くの人間の内部には、みんなおなじではない、さまざまに異なる、いくつもの層がある、父の性格、母の性格がある、人はその一方の層を通りぬけ、ついで他の層を通りぬける。しかしその翌日は、層のかさなりの順序が逆になっている。そのようにして結局は、誰がその配分をするのか、そのきめ手を知るには誰にたよればいいのか、わからなくなる。ジルベルトは、政府が目まぐるしく変わるので迂闊に同盟できない国のようなものだった。しかし、ほんとうは、そういうのは正しくなかった。つぎからつぎへとじつにひんぱんに変わってゆく人間にあっても、記憶は彼の内部に一種の自己同一性〔アイデンティティー〕を確立していて、自分では署名しないでもはっきりおぼえている約束事には、けっしてそむかないように彼を仕向けるのだ。(プルースト『見出された時』)

このメゼグリーズ(スワン家のほう)の散歩のあと、ジルベルトは話者をびっくりさせることになる・・・

「あなたがおなかがすいていなくて、そのうえ時間がこんなにおそくなかったら、この道を左にとり、それから右にまがれば、十五分もしないうちに、私たちはゲルマントに行けるんですよ。」それは、あたかも、彼女がこういったかのようであった、「左にまがり、それから右に道をおとりなさい、そうすれば、あなたはさわることのできないものにふれるでしょう、地上で人が方向として、つまりどこそこの《ほう》としてーー知っているにすぎない、手でさわりに行くことができない、そんな遠方にあなたは到達するでしょう」(同上)

ーー《あなたはさわることのできないものにふれるでしょう》!

人はいま分かるだろう、正確な意味において、ラカンの命題が孕んでいるものを。その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2のカップルの十全な調和的現存 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)


2015年11月4日水曜日

この世の幸福

私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』)

ーーとツイッターのナボコフbotで拾ったのだが、別に何が言いたいわけでもない・・・

ああ、ここでいくらか記したことの変奏だな、と思っただけだ、→「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)


…………

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

そして《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(中井久夫超訳)》(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)のであり、ひとは他人より自分を取り調べるのが不得手だ。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)

だから、まずは他人の言説に目が向き、こんな具合の思いを抱くことになる、《「滑稽だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」》(夏目漱石『明暗』 第百八十三章)

…なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは(……)、なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても―――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて―――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)
心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五 原佑訳)

…………

ツイッターというのは「この世の幸福」を感じるのにまたとないツールである。

その「言いぶり」に、《彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでている》ことが多いから。

ラカンの「四つの言説」理論的にはーーすなわちマルクスの価値形態論的にはーー、人はあるポジションに置かれれば、構造的には相同的な「言いぶり」になる。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』「まえがき」)
イデオロギーの最も基本的な定義は、おそらくマルクスの『資本論』の次の文である、"Sie wissen das nicht, aber sie tun es" 、すなわち、「彼らはそれを知らないが、そうする」。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

上に記したようにわたくしの「メタ私」はこの際ムシすることにして記すなら、たとえば、《建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こう》としている人は、例外はあるにしろ、似たような「口ぶり」でツイートすることになる、--「彼らはそれを知らないが、そうする」

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳)

須賀敦子はこの文を引用して、次のように書いている、《自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか》と。(『遠い朝の本たち』)


《席が空かないかきょろきょろしている》のは、ここではインテリくんたちをシツレイながら標的にするなら、「研究者」とか准教授とかの人々だろう。

彼らの「言いぶり」は、--ボクチャンはこんなにワカッテイルのに、名の知れた先行研究者たちはクズばかりだ、という形式に還元できるツイートが多い(逆に、オベッカ使いもたまに見られるが)。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

キョロキョロ組のなかには唇の周りのビラビラ組も含まれる。

……自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか?(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」より)

ーーといってもツイッターではビラビラはやむえない。もともと「インテリのパチンコ」の場であろうから。

とはいえ、彼らの「難聴ぶり」を聴きとらずにはいられない。

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。(『彼自身によるロラン・バルト』)

その批判の正否はわたくしにはたいして興味はない。

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。……彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。(ラカン『同一化セミネールⅨ』)

《私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶり》なのだ。

(そして博士論文まじかの研究者にとってはことさらオリジナリティが大切なのだろうから、「引用」ですませればいいようなことでも「自分の言葉」で囀ることになる、ーーいわゆる夜郎自大言説の気味がないでもない。)


それなりに名の知れた「知識人」たちも、己れへの評価は自分の実力に見合っていないという思いを抱いている人が多いだろう。すると次ぎのような言説構造になる。

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
……すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批評宣言』)

…………

いやシツレイ! 昼食後のハラゴナシのための戯言である。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

…………

わたくしはまだ「老人」に片足を入れかけただけであるつもりだが、そして「研究者」ではまったくないが、海外住まいの身で、日本からは降りているので、《群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ》身分であるだろう。その自らの置かれた構造的場が、次のような言説を生んでいる可能性を否定するつもりはない。

その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。(クンデラ『生は彼方に』)


最後にニーチェやプルースト、ロラン・バルトやナボコフやらがなぜあんなに注意深いのだろうか、という問いをはなっておこう。

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)

研究者諸君はじつに〈わたし〉に似ているのだ、すくなくともかつての〈わたし〉に。

ーーもちろんこの文の〈わたし〉は、「研究活動」などという洒落たことをしたことはないこの〈わたくし〉(綿串→綿菓子)のことではない。





「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」)

以下、おおむね資料。

ポール・ヴェルハーゲ『享楽と不可能性』(Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility、2006)より(ラカンのセミネールⅩⅦ英訳に付された解説文のひとつ)。

別の解説者の一人ジュパンチッチの指摘を先に付しておこう。

人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityであると。より正確に言うなら、シニフィアンのそれ自身に対するこの不十分性とは、二つの名を持っている。言わば、二つの異なった実体entitiesにおいて現われるのだ。それはラカンのディスクール理論のシューマにおける二つの非シニフィアン化要素nonsignifying elementsである。すなわち主体と対象aである。シンプルに言おう。主体は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を代表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を代表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動きreferential movementを支えているのだ。他方、対象aは、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽surplus enjoymentと呼んだものである。剰余享楽surplus enjoymentのほかには享楽enjoymentはない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。(When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value(Alenka Zupancic)ーー「享楽とシニフィアン」より)

《享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにある》とは、セミネールⅩⅦになって唐突に出てきたのではない、という観点もあるだろう。

たとえばセミネールⅩⅣには、《すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴 示)することができないこと》とある。

il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( S.14,Logique Du Fantasme)

セミネールⅩⅦの三年後のセミネールⅩⅩ(アンコール)には、まさにジュパンティッチがセミネールⅩⅦから見出したとする考え方と上のセミネールⅩⅣを混淆させたような表現がある。

・il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a), et que l'autre ne saurait dans aucun cas être pris pour un « Un »

・l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (S.20)

《〈一〉と autre (つまり,petit a) との関係の不十分性(非十全適合性)》とは、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としてのl« autre »があるということだ。


さて、ヴェルハーゲの『享楽と不可能性』からである(途中にあるセミネールⅩⅦ、ⅩⅩの仏原文はわたくしが挿差している)が、ヴェルハーゲ自身もジュパンチッチと同じ口調で、三つの驚きを記している(「三つの驚き」としたが実質上は「二つの驚き」であるとも言える)。


【享楽とシニフィアンとの原初の関係性】

セミネール XVII の驚きをもたらす新しい主題は、享楽とシニフィアンのあいだの原初の関係性という考え方である。その意味は、シニフィアン組織の起源は、享楽と密接に結びつけられていることにかかわる。この考え方は、倫理のセミネール VII とは正反対のものである。そこでは、享楽は象徴界と対立するものと見なされていた。この件にかんして、セミネールXVII におけるシニフィアンと享楽のあいだの連繋はいささか逆説的でもある。(…)ラカンにとってシニフィアンとは、享楽に到達することの不可能の原因でもあり、同時に、享楽の達成への途でもあるのだ。

セミネールの冒頭にて、ラカンはフロイトの Jenseits(彼岸)概念に再訪する。生は死への途における自己流の回り道である。大抵の場合は、終点に到るのにそんなに急ぐことはない(pp.17-18)、と。人は、二人のアルコール依存症者のジョークを想い出させられる。「アルコールはきみをゆっくり殺すらしいぜ」「そうさ、そんなに急ぐことはないだろ?」

ラカンはこの回り道を本能 l'instinct と結びつけている。それは、享楽とある種の知の形式とのあいだを関連付けながらである。

《l'idée de l'instinct est bien l'idée d'un savoir》(S.17)

ーーラカンはここで本能l'instinctと言っていることに注意。

《フロイトのいう欲動 der Trieb を、ただちに本能 der Instinkt の概念に重ね合わせることはできない。本能とは『遺伝によって固定されたその種に特徴的な行動を示すための概念』であり、欲動とはそのような本能からのずれ、逸脱、『偏流 dérive』だからである》(ラカンS.20 藤田博史訳)ーー欲動の最も美しい定義(フロイト=ヴェルハーゲ)


この本能は、父祖伝来の知を含んでおり、生を死への途の上にゆっくり進むようにさせる。

死は享楽の最終的な形式なので、この回り道は同時に享楽への途である。知としての本能の論理は、ある種の知と享楽とにあいだに原初の繋がりがあることを意味する。

《Ce rapport primitif du savoir à la jouissance》(S.17)


【知と享楽のあいだの繋がり】

これはラカンの以前の理論の観点からみれば、さらにいっそう驚きをもたらす新しい主題を提供する。すなわち知と享楽のあいだの繋がりが、主体におけるシニフィアン組織の導入にとって基礎となるのだ。

ラカンはフロイトの反復理論にこの説明を見出している。反復とは、享楽に到達しようとする試みに根ざしている。…だが、ラカンは、フロイトと異なり、この享楽への回り道が歩まれる仕方の独特な詳述(elaboration)を展開する。

この論拠の流れは次の通り。すなわち、享楽は、侵入 irruption を通して、身体に起こる。この侵入は徴を獲得する。その徴は、大他者の介入を通して、身体の上に刻印される inscribed。享楽への途に沿って歩むなか、人は避けがたくこの徴に従うことになる。その徴とは、享楽の途のりの上で、以前に勃然としたもの erected である。本能的な知は、この地図作成の上に接ぎ木される。

《La répétition, c'est une dénotation, dénotation précise d'un trait… que j'ai dégagé du texte de FREUD comme identique au trait unaire, au petit bâton, à l'élément de l'écriture …d'un trait en tant qu'il commémore une irruption de la jouissance. 》(S.17)

※参照:享楽の「侵入」

人はこの論拠の胚芽をフロイトのなかに見出せる。フロイトは、どの母親も子どもを世話しているときに、子どもを「誘惑する」と仮定した。セミネールXXにて、ラカンは「享楽する実体 la substance jouissante」としてのリアルな身体を描いた。その「享楽する実体」のさなかの享楽の初期の経験(侵入 irruption)は、同時に身体の上への刻印を意味する。

《…le jouir d'un corps… d'un corps qui « l'Autre, le symbolise » …et comporte peut-être quelque chose de nature à faire mettre au point une autre forme de substance : la substance jouissante. 》(S.17)




【母のララングの介入・刻印】

これは「使用価値」であり、しかしそれ自体としては、主体の観点からは、享楽について語るには十分でない。不可欠な補足は、母の介入--「母のララング」--である。その介入が、子どもとの交流のうちに、享楽の侵入を徴付ける

この介入を通して、原初の使用価値は、主体と大他者のあいだの弁証法的交換に入っていく。そして享楽の経験は「交換価値」を獲得する。このように、享楽の地図は、徴の記号を通して構築される。

「侵入」と「刻印」の概念的分身 double は重要である。というのは、それが原初の両義性を設置し、この時点以降からのみ、その両義性が拡大していくのだから。侵入は享楽する身体にかかわる。「享楽の存在 being of jouissance」としての身体に。一見したところ、これは前期ラカン理論と完全に符合する。そこでは、享楽は、現実界の審級の何ものかと見なされていた。

他方、刻印は、刻印する何か、あるいは誰かにかかわる。すなわち大他者にかかわる。その上、「大他者の享楽 jouissance de l'Autre」は、セミネールXXにおいて、両義的な表現をもつようになる。そこでは、「大他者」は〈身体〉であると同時に、その身体の上に享楽を徴付ける大他者でもあるのだ。

ーーそもそも〈他者〉とか大文字の他者と訳される"L'Autre"は、「大文字の他」であり、人でなくてもよい。ラカンはすでにセミネールⅩⅣで、《大他者は身体である》と言っている。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! 》(10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

そして注意しなくてはならないのはこの身体は前期ラカン(鏡像段階)のイマジネールな身体ではないことだ(参照:ラカンの三つの身体)。


【刻印と「一つの徴」】

刻印の最も単純な形式は、「一つの徴 unary trait」である。同一化のセミネール IXにて、ラカンは、主体形成の出発点として「一つの徴」概念を使った。主体は大他者から来る「一つの徴」と同一化する。主体の存在欠如を覆って、各自のアイデンティティを構築するために。

セミネールXVII において、ラカンは「一つの徴」と大他者のあいだの繋がりを、享楽概念を通して展開した。大他者は「一つの徴」を通して、享楽する身体の侵入を徴付ける。強制的な mandatory 反復はーー「強制的な」というのは、その侵入は享楽への途を徴付けるからだがーー、シニフィアンの起源に横たわっている、とラカンは云う。それゆえ、分析家の私たちに関心を与える知の起源である、と。

《…la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est, à proprement parler, l'origine du signifiant. …c'est que c'est du trait unaire que prend son origine tout ce qui nous intéresse, nous analystes, comme savoir. 》(Lacan,Séminaire ⅩⅦ Staferla 版 P.56)


【無頭の知 savoir acéphale】

このようにして、驚くべき結論がもたらされる、人間は、享楽を通して、シニフィアンについて学ぶのだ、と。言い換えれば、享楽はシニフィアン組織への玄関なのである。

刻印の反復は、シニフィアンの基礎を形作る。そして、古来の本能的な知へ、内容を授ける。これは無頭の知 savoir acéphale 、「頭なしの知」、すなわち自己意識なしの知である。これがフロイトが「原抑圧」と呼んだものの核心を形作る。…

その内容の観点からいえば、刻印の反復、無頭の知とは、生と死にかかわる。死に向かった生によって敷き詰められた回り道にかかわる。知として、それは身体に刻印される。身体の上への享楽の侵入は大他者によって徴付けられる。結果として、この知は、原初的に享楽の手段である。これは「話すこと speech」 自体とは殆ど関係ない。構造の問題なのだ。四つの言説理論は、これを最もよく説明している。というのは、実際の発言に先行する基礎的な関係を図示してくれるから。…

※参照:「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)

…………

※参考

一般によく知られている享楽は次ぎの四種類である。

・剰余享楽 la plus-de-jouir
・ファルスの享楽 la jouissance phallique
・大他者の享楽la jouissance de l'Autre
・意味の享楽 Jouis-sens

他に、セミネール22からセミネール23への移行期に、

・棒線を引かれた大他者の享楽 jouissance de l'Ⱥutre

ーーというのがある。

これはボロメオの輪にあらわれる。




さらには、

・他の享楽 l'autre jouissance
・女性の享楽 jouissance feminine
・大他者の身体の享楽 la jouissance du corps de l'Autre

・享楽する実体 la substance jouissante

ーーがある。わたくしの今のところの理解では、この四つは(最終的には)同じものである。

《 le signifiant se situe au niveau de la substance jouissante》(S.20.p.38)


「他の享楽 l'autre jouissance」と「大他者の享楽  jouissance de l'Autre 」は、(標準的には)別のものであることに注意しなければならない、しばしば「〈他者〉の享楽」と和訳される後者を、その混乱を避けるために、ここでは「大他者の享楽」とした。

[la jouissance phallique vise « L femme » comme S1 mais ne saisit que des objets (a) (objets partiels) et s'avère impuissante à aboutir à la jouissance du corps de l'Autre (l'autre jouissance) ce qui amène à distinguer les conceptions de l'amour physique et de l'amour extatique et l'Aphrodite « Ouranienne » de l'Aphrodite « populaire » ] (S.20.p.76)


ーーもっともこのあたりは実にワカラナイ。

日本の有能な若手ラカン派からも次ぎのような言葉が漏れる。

後期ラカン読むときに結び目の理論を勉強する必要はまったくないと思う。あれを真面目に受け取ってるのはヴァップローとか一部の超マニアックなラカニアンだけで、ミレールはじめ普通のラカニアンはあれを無視した上で、singularitéの議論とか、使えそうなところだけを取り出してる (松本卓也)

Lorenzo Chiesaはラカンの享楽の四つのヴァリエーション、ファルスの享楽 La jouissance phallique、大他者の享楽 La jouissance de l'Autre、他の享楽 JA( l'autre jouissance)、斜線を引かれた大他者の享楽JȺ(La jouissance de l'Ⱥutre)は、事実上すべて対象a(剰余享楽 Le plus-de-jouir)であるとしている。

ラカン後期のセミネール、そのなかでも最も注目に値するのはセミネールXXIIIにて、ラカンは少なくとも四つの異なった享楽概念の形態を活用しているが、にもかかわらず、私の意見では、直接的あるいは間接的に、すべて対象aに繋がっている。(Subjectivity and Otherness A Philosophical Reading of Lacan” 2007ーー超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)

そしてロレンツォ・キエーザは、女性の享楽jouissance feminineとは、アンコールのセミネールでは、他の享楽JAであったものが、ジョイス(サントーム)のセミネールでは、JȺになったとしている。そして、JȺとはΣ(sinthome)サントームのことでもある、と。

ヴェルハーゲはそこまで言っていないが、彼の(2009年時点での)「享楽」の説明は次の通り。これは2006年の論文で、《「大他者」は〈身体〉であると同時に、その身体の上に享楽を徴付ける大他者》とあることの詳述化であるだろう。

以下は上に「大他者」と訳した言葉が「〈他者〉」となっているが、敢えて変更はしない。

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳ーー「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」より)

…………

※参考2:「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」より

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S (象徴的見せかけ semblance)とJ (享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、S と J をひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテール Lituraterre 」(Autres écrits 所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S と J を永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊 specter である。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際 littorale 」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテール Lituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽の徴示する形式 signifying formula of enjoyment に縮減された文字の jouis‐sense を、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

※「リチュラテール Lituraterre 」は、1971年に書かれている(セミネールⅩⅦ(1969-1970)の直後)。


2015年11月3日火曜日

世界は驚くほど「平和」になっている(戦死者数推移)




War and Peace after 1945


世界はこの図表をみるかぎり驚くほど「平和」になっている。かつまた極東の小国が戦争法案なるものを通過させようがさせまいが、21世紀は、世界資本主義のせいもあり、大きな継続的戦争に突入しがたい構造がある。ようするに経済的利害が戦争に歯止めをかける傾向にあるはずだ(もちろん例外はある)。

では21世紀において、何が問題なのか。20世紀には今までになかったことが起こった。前世紀初頭ののヒトの数は20億だった。今、73億は間近で100億も遠くない。《こんなに急速に増えた動物の将来など予言できないが、危ういことだけは言える》(中井久夫)






人口増だけではない、同じ人口にかかわるなら、最も重要な問題のひとつは、世界が高齢化していることだ。







《地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないでしょうか。》(ジジェク『ジジェク、革命を語る』)

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。( 柄谷行人「反原発デモが日本を変える」

さて、破綻が迫っているとは具体的には何だろう。ここでは世界経済の破綻とまでは言わないでおこう。

まずは、少子高齢化社会の世界的な進展は明らかであり、いままでのシステム(とくに先進諸国における)が成り立たなくなるのは自明であるだろう(韓国や中国でさえもうすぐとんでもないことが起るのは、上に掲げたグラフから明らかだ)。

すなわち、いままでのシステムはすでに限界期に入っている。そもそも、日本だけではなく先進諸国でこれだけ少子高齢化がすすんでいってしまえば、いままでの形での年金や健康保険などの社会保障制度がどうやって維持できるというのだろう?






現在のシステムが、いくらかの彌縫策を捻出すれば、何とかやりくりして維持できるだろうという認識を持っている連中は、《基本的な過ちを犯 している》。

……基本的な過ちを犯 している。ヨーロッパの体制側が依拠する筋書きは、巨大な赤字が金融部門の大規模な債務棚上げや不況期における政府の歳入の低落によって脹れ上がるという事実を曖昧にしている。アテネへの大規模な貸付は、ギリシアのフランスやドイツの巨大銀行に対する 債務支払のために用いられることになるだろう。欧州連合による債務保証の真の目的は、 民間銀行の救済にある。というのも、ユーロ圈の国家の1国でも破綻すれば、ユーロ圏全体が烈しい打撃を被るからである。他方で、抗議する側における筋書きは現代における左派の相も変わらぬ悲惨な状態を証して余りある。既存の福祉国家との妥協を一般的に拒否するにすぎないその要求に、具体的な計画的内容を見出すことはできない。ここに見ら れるユートピアはシステムの根源的な変更ではなく、福祉国家はシステム内部で維持可能だという思いつきである。
1つのことが明らかだ。それは、福祉国家を数10年にわたって享受した後に、相対的に 限界がある削減が、事態は急速に正常に戻るだろうという約束とともに、到来している現在、 われわれが、ある種の経済的非常事態が永遠のものとなり、生活様式にとって定常状態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育と いったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の恫喝とともに、到来している。 左派は以下の点を強調するという困難な任務に直面しているのである。それは、われわれが政治経済学に対処していること、そうした危機に「自然なもの」など一切存在しないこ と、現行の世界経済システムは一連の政治的決断に左右されることなどである。他方で同時に、左派は次の点にも自覚的でなければならない。つまり、われわれが資本主義システムに留まる限り、その規則の侵犯は、実質的には、経済的破綻の原因となるということであ る。というのも、このシステムは、自然を装う資本自身の論理に従っているからである。したがって、われわれが世界市場の諸条件(外部化など)によっていよいよ容易になった搾取の強化という新局面に突入したことが明らかだとしても、同時に胆に銘じておかねばならないのは、こうした事態が、財政と金融の崩壊につねに瀕しているシステムそれ自体の機能 によって、圧し付けられているということである。 したがって、現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは、無益なのだ。(ジジェク、「永遠の経済的非常事態」2010 長原豊訳

老人だけ参戦する戦争が世界的に起れば別だが、現状の「平和」が続けば、すくなくとも先進諸国のシステムは近未来に破綻するだろう。考え方を根本的に変えなければならない。ヨーロッパ諸国のように移民に頼ることさえ、もう期待薄だ。

現状維持派の〈あなた〉はひそかに世界戦争の勃発を期待しているわけでもあるまい?

世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策 で競っている。日清戦争 後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国 は不適格。私はインド がヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります。(柄谷行人、2013)

シツレイ! 口にしちゃいけないことを口にしてしまった・・・

本当のことを言うとね、空襲で焼かれたとき、やっぱり解放感ありました。震災でもそれがあるはずなんです。日常生活を破られるというのは大変な恐怖だし、喪失感も強いけど、一方には解放感が必ずある。でも、もうそれは口にしちゃいけないことになっているから。(古井由吉「新潮」2012年1月号又吉直樹対談) 

とはいえ、若い人たちは、戦争反対のデモをするのもいいが、そろそろ「真の問題」に気づいて、「老特会」でも結成したらどうだろう?(参照:「老特会」結成のすすめ


◆「ワカモノ・マニフェストYouth Policy 2009ー世代間格差の克服と持続可能な社会を目指してー」より




日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013 より)

老特会が唐突であるなら、手始めにアベノミクス擁護はどうだろう?

岩井) アベノミクスの真の狙いが、お年寄りから若い世代への所得移転を促すことにあると いうのは正しい。そして、わたしはすでに年寄り世代ですが、それは望ましいことだと考えています。 (お金とは実体が存在しない最も純粋な投機である ゲスト:岩井克人・東京大学名誉教授【前編】

アベノミクス擁護が、現状では既ににあまりに倒錯的だという観点もあろうなら、すなおに消費税増推進運動なども考えられる。

実際にこのままだとインフレ政策しか道はない、日本のように「消費税率」を上げるのが、たちまち「悪」だと見なされてしまう国では、ことさらだ。

・消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。

・日本のリベラルは増税と財政規模拡大に反対する。世界にない現象で不思議だ。高齢化という条件を選び取った財政拡大を。(「アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン」より)

《増税が難しければ、インフレ(による実質的な増税)しか途が残されていない恐れがあります。》(池尾和人、2015)

くり返せば、世界最先端の少子高齢化社会にもかかわらず消費税増、あるいは国民負担率増を「目先の正義」のために反対する庶民的「正義の味方」ばかりが跳梁跋扈している国では、インフレ政策しかない。

中福祉・中負担は幻想」(2013年9月12日 武藤敏郎)であるのは分かりきっているのに、いまだ幻想に耽りたいらしい輩ばかりが目立つ。

たとえ経済音痴であっても、日本語が読めるなら、「経済」を(根をつめて)一週間でも勉強すれば、必然的に次ぎのような結論がでるはずなのだが、連中はそんなことさえせず、いつまでも庶民的正義派として振舞いたいのだろう。

消費税も20%以上にした方が公平でしょう。所得税と法人税は、現在の現役世代が主な負担者になります。それに対して、社会保障の世代間格差には、現在の高齢者が、現役世代のときに負担しなかったことが大きく関わっています。だから、現在の高齢者もふくめて平等に負担する消費税の方が公平なのです。

世代間格差から考えると、人口が減少している現在、現役で働く世代に主な負担がかかる所得税や法人税はむしろ逆進的です。消費税の方が非逆進的で、公平な課税なのです。お年寄りの負担がよく話題にされますが、公平な社会福祉をめざすなら、お年寄りもふくめて全員で負担を分かちあって、それで生活保護などを充実させて、お年寄りも含めて、本当に貧しい人の生活を支援するべきです。

「増税」か「年金の抑制」か、ではないのです。「増税」して「年金も抑える」しかない。それが「ポスト戦後」社会の現実です。だからこそ、そのなかで、各世代が公平に負担を負うようにしなければならない。それが世代間格差を解消することなのです。(佐藤俊樹

いまここにいる生活困窮者への視点だけではにっちもさっちもいかないのだ。これのみが目に入るらしい庶民的正義派とは、将来世代(未来の他者)へ負担を先送りすることに汲々としている輩であり、「未来の他者」への最も冷酷な連中である(参照)。冷酷が言いすぎなら、アキメクラである。

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)
簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

いずれにせよ、庶民的正義派である彼らを寝言派という。

《道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である》(二宮尊徳)

公的債務とは、《親が子供に、相続放棄できない借金を負わせること》(ジャック・アタリ)にかかわるにもかかわらず、日本には消費税(国民負担率)増反対をコトアルゴトに主張するのが正義だと勘違いしている「極道たち」がウヨウヨしている。

…………

もちろん、われわれはここでピケティを思い起すこともできるのだろう。

■ピケティの衝撃が突き付けた2つの事実

ピケティの衝撃は2つの事実を突きつけました。1つは「落ち水効果」の不在、つまり、豊かな層から貧しい層へ豊かさが波及していく「トリクルダウン」は起きない、ということです。

2番目は、戦後の先進国や中進国でみられた急速な経済成長と豊かさ水準の向上は、1回きりの現象だということです。例えば日本の1950〜70年代のようにみんなが豊かになっていける状態はいつまでも続かないし、再び起きることも期待できないんです。その意味で、パイの拡大は不平等の本当の解決策にはなりません。

ピケティが不平等について言った本当に革新的なこと、経済学者があまり言ってこなかったことは、結局「経済で再分配は決まらない」ということです。トリクルダウンが起きないなら、経済の仕組みによって、みんなで自然に豊かになったりはしません。急激な経済成長が一度きりならば、パイの拡大は恒常的な解決策にはなりません。

だから不平等は、社会による再分配によって解いていくしかないのです。それが、格差の問題として今、突き付けられています。すべての先進国や中進国でそうなっていますが、とりわけ日本など東アジアの社会では、これが強く圧縮された形で起きています。欧米では200年くらいかかった経済と社会の転換を、非常に短い時間で経験しているからです。(「世代間格差の解決策は、預金を持って死ぬこと」佐藤俊樹・東大教授に聞く


《ピケティはユートピアンだよ、……すばらしいねえ、金持ちに80%タックスなんてね。しかも一国内でやったら税逃れがあるに決まってんだから、世界的にやろうっていうんだろ? ピケティ自身もいってるらしいな、資本に対する累進課税は、「ユートピア的」だってさ。どんな意味のユートピアか知らないが。

ピケティはわれわれを騙してんだよ、《 I think in this sense he cheats》--もっとも過去の経済データを分析するその膨大な手法の価値がそれで減るわけではないさ。お勉強にはいいんじゃないか。

オレはピケティに反対してるわけじゃないよ、80%のグローバル累進課税なんてすばらしいじゃないか。ああなんというユートピア! ただ問題は、それをしたら、金持連中は、逃道をさがすに決まってることだな。》(ピケティ、フリードマン、ジジェク三幅対


ベーシックインカムやフリードマンの負の所得税ならどうだって?

ーーさあね、消費税率30%ほどにしたらいけるかもな、(参照:「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人))。

2015年11月2日月曜日

ラカンによる「遡及性」とナンタラカンタラ blablabla

以下、概ね資料。

「発達段階 」の考え方、①快原理 →②現実原理…l'idée d'un « développement » [(I) principe de plaisir →(II) principe de réalité ] があるだろう?

フロイトは云ってるが、Real-Ich(現実自我)以前に Lust-Ich(快自我)があると。これは通念のなかに滑り込むに等しいね、「発達段階」という通念 l'ornière だ。単なる統御 maîtrise の仮説にすぎないよ。

そもそも赤子、あわれな幼児は、Real-Ich とは何の関係もない。わずかでもリアルle réel なんて概念を持つわけがない!

(……)さあ、「発展段階」の意味をすこしマトモに考えてみようじゃないか。

我々が、事の進行 processus に対して、「原初の primaire」 や「二次の secondaire」と言うとき、それは錯覚 illusion を誘い育む話し方だ。言わせてもらえば、どんな場合でも、それは、ある過程 processus が「原初の primaire」と言われるいるわけではなく、…結局、それは最初 premier に現れたもの qu'il apparaît le premier のことを言っている。

個人的には、私は赤ん坊を観察して、彼に外部の世界があるなどと感じたことはない。明らかなのは、赤ん坊は彼を興奮させるもの以外は何も見ていないということだ。

そしてそれはまさに妥当することだ、赤ん坊がいまだ話さない範囲で、だが。話し始めた瞬間から、まさにその瞬間以降からのみ、…抑制 refoulement の類があるようになると理解できる。

Lust-Ich(快自我) の事の起りprocessus は、原初 primaire かもしれない。どうしてそうでない訳があるだろう? それが「原初」なのは明瞭だ、いったん我々が考え始めた時には。しかし、それはたしかに「最初 premier」ではない。
Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier.

これが少し前に、私が言ったことだ…世界はレトリックの華 une fleur de rhétorique だ、と。文字通りの谺が自我 moi にも及ぶだろう、自我もまたレトリックの華でありうる、と。それは、快原理の壺 pot du principe du plaisir で育った、フロイト云くの "Lustprinzip" ――私は次のように定義しておくよ、《何んたらかんたら blablabla で満足しているもの》、と。(ラカン、セミネールⅩⅩ(アンコール)より粗訳)

ーー要するに「原初とは最初のことではない」、遡及的に原初と措定される。

とすれば神はどうなのだろう?

 …………

◆セミネールⅣにおける遡及性

人は常に把握しなければならない、すなわち、各々の段階の間にある時、外側からの介入によって、以前の段階にて輪郭を描かれたものを遡及的に再構成する remanie rétroactivement ということを。これは、子どもは単独ではないというシンプルな理由からである。(セミネールⅣ)

il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé dans l'étape précédente pour la simple raison que l'enfant n'est pas seul.


※ヴェルハーゲ 2001より

対象aから身体へ、自我へ、主体へ、そしてジェンダーへ、しかし後向きの配列で。すなわち、「以前 previous」は遡及的に存在するようになる。「次 next」ーーそのなかに「以前」が外立ex-sistする「次」から始めて。

「原初」要素は、「二次」要素の手段によって、遡及的に輪郭を描かれる。この「二次」要素のなかには、「原初」が含まれている、「異物」としてだが。

ここでの異物はフロイト概念である(フロイトはトラウマにかんしてこの語彙を使用した)。

たとえば、『ヒステリー研究』の予備報告 (1893年) にはこうある。

心的外傷,ないしその想起は,Fremdkörper異物〈其れは,体内への侵入から長時間たった後も,現在的に作用する因子として効果を持つ〉のように作用する。

《Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic》.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ",2001)


ーーこの論理でいくと、神は「異物」である(少なくともわれわれ象徴界の住人にとっては)。「異物」とは、対象aではなかったか?

Extimité is not the contrary of intimité. Extimité says that the intime is Other—like a foreign body , a parasite.(Jacques-Alain Miller,Extimity )
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a
対象aの究極の外-親密ex-timate的特徴……私のなかにあって「エイリアン」…であるもの、まったく文字通り「私のなかにあって私自身以上のもの」、私自身のまさに中心にある「異物 foreign body」…(ジジェクーー「糸巻き」としての対象a


…………


◆セミネールⅤにおける「遡及性」

エネルギーは、潜在的な状態で、川の流れのなかに、既にそこにある…これは何も意味しない。というのは、エネルギーが蓄積され始めたと瞬間からのみ、我々に興味をもたらすのだから。そして機械が働き始めた瞬間からのみエネルギーは蓄積される。

機械が川から来る推進力 propulsion によって現働化される activated のは確かだ。しかし《川の流れがエネルギーの原初の状態primitive order だと信じること》、それは《生地Stoff、原初の状態、あるいは本能》を象徴的アクチュアリティWirklichkeitと混同することであり、エネルギーをマナ、あるいは《川の流れの妖精》のエネルギーと取ることと同様に、ひどい間違いだ。(英訳からのテキトウ訳)

ーーだが、「機械」は誰が作ったのか。やはり神が創ったのではないか・・・

Dieu ex-siste (pas au Ciel : dans le nœud de la structure), il est l'ex-sistence par excellence (l'ex-sistence étant ce qui donne du jeu au réel du nœud), il est le refoulement en personne, et même la personne supposée au refoulement. C'est en ça que la religion est vraie. Dieu n'est rien d'autre que ce qui fait qu'à partir du langage, il ne saurait s'établir de rapport entre sexués. (le séminaire ⅩⅩⅡ R.S.I.)


※ロレンツォ・キエーザ、2007

潜在(潜勢)的現実界は象徴界に先行している。が、それは象徴界によってのみ現在(現勢)化される。

The virtual Real precedes the Symbolic, but it can be actualized only by the Symbolic.(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)
理想自我は、論理的には自我理想に先行している。だが理想自我は自我理想によって避けがたく作り変えられる。これが、ラカン曰くの(……)、自我理想は理想自我に「形式」を提供する、ということの意味である。

the ideal ego is logically prior to the ego-ideal,on the other, it is inevitably reshaped by it. This is why Lacan, following Freud, says that the ego-ideal provides the ideal ego with a “form.”

※ドゥルーズが、潜在性とか純粋過去とかナンタラカンタラ言っているのもこの口だろう。はて、あれはなんだったか?

《実在のarticulation =潜在的なものは、differencie されているが、differentier されていない》(参照:ドゥルーズの時間論

紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ途端、それを誘い水にして、「コンブレは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現する」。「コンブレがかつて現在であったためしがない〈純粋過去〉という形式で、つまりコンブレの即自という形式で出現する。(ドゥルーズ『差異と反復』p140)

 柄谷行人は、90年代だが、次のようにぼやいていたが。

柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(中略)

ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです ―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷行人)

ここに「ア・プリオリ」も「事後的」も、「遡及的」ということである。すなわちよく知られているように?(ユング派以外は)、無意識は遡及的なものである。

もちろん、ラカンの「享楽」も「現実界」も遡及的なものである(参照:超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))。

…………

※附記:ジジェク、2012における遡及性

…ここにいかにヘーゲル的な「仲直り」が作用しているかーー、対立を解決するとか克服するとかの積極的な仕草ではなく、いかに本当は深刻な対立など決してなかったかの遡及的なretroactive納得、いかに二人の対立者は常に味方同士だったかの事後的なretroactive納得として。

この遡及性は、「仲直り」の固有の一時性(はかなさtemporality)をも説明する。謝罪過程のパラドックスを想起してみよう。もし私が、思いやりのない意見を言って、誰かを傷つけたなら、私にとってなすべき正しい事は、誠実な謝罪をすることだ。そして彼女にとってなすべき正しい事は、次のようなたぐいのことを言うことだ。「ありがとう、とっても。でもそんなつもりで言ったんじゃないのよ、私はわかってたわ、あなたが、そんなこと言うつもりじゃないのを。だから謝ることなんて全然ないのよ」。

もちろんポイントは、この最後の結果にもかかわらず、人は謝罪の申し出の全過程を横断しなけれならないことだ。すなわち、「あなたは謝まる必要は全くない」と言いうるのは、私が謝罪を申し出た後でしかない。だから、形式的には「何も起こらない」、そして謝罪の申し出は不必要なことと明示されているにもかかわらず、過程の最後に何かが手に入ったのである(たぶん、実際に友情が救われたのだ)。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,私訳)

ーーいずれにせよ、(父の名に)騙されない者は間違える(参照:「神の二度めの死」=「マルクスの死」).。

……正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は間違える」の意味するところは全く反対である。真の錯誤illusionとは、見せかけを現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に見せかけの織物に降格してしまうことが真の錯誤である。言い換えれば、 間違える者たちは、象徴的織物を単に見せかけとしてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、間違える者たちである。(ジジェク、2012)

この論理でいくと、神を実体としてはならないが、その効力には敬意を払わなければならない、ということになる。

“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)

《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。》

ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。(『零度のエクリチュール』1964)

ーーもちろん、神も全きゼロの側に探さなければならない。

※ゼロ記号の議論については、柄谷行人の『トランスクリティーク』の叙述を参考にせよ。上に掲げた「事後的=超越論的」についても理解が深まりうる(人によれば、つまりわたくしのような数学的頭をもっていない人物でなければ)→ 「メタランゲージはない」と「他者の他者はない」。

…………

《神とは シンプルに〈女〉のことさ、〈他者〉の〈他者〉があるなら、〈女〉が存在するってことさ》(ラカン、S.23)

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (Séminaire ⅩⅩⅢ Staferla 版 p.173)

我々は、ラカンの一連の“il n'y a pas…” (de l'Autre)と一連の “n'existe pas”を混同してはならない。 “n'existe pas”とは、打ち消された対象の十全な象徴的存在の否定である。他方、“il n'y a pas”とはもっと根源的である。それが否定するのは、まさに前存在論的な実体である。(ジジェク、2012,摘要)

要するに、la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes である。

〈女〉は存在しないが、女たちはいる。

実際、女たちはわれわれに取り憑く。

存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。(……)

女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ミレール 『エル ピロポ』)
無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。

しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性Autre sexsというエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(……)

科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

ここでミレールが言っているのは、女たちにとっても〈女〉は他者である、ということだ。

Other sex as such, for both sexes, is the female sex. It is the Other sex both for men and women.(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasm)

そして科学があるのも、--よく知られているように?--〈女〉のせいである。

やや穏やかにいえば、次の如し。

男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。この孤独が生産的な文化の母胎であった。 (三島由紀夫「女ぎらいの弁」)

くり返せば、〈女〉は存在しないが、女たちはいる。

とすれば、〈神〉は存在しないが、神たちはいる。

聖アウグスティヌスによれば、神とは包み込みながら満たすものだというが、音楽はそのような神の属性をそなえている。音楽はまわりを取り巻き、包囲し、しかも内部にとどまっている。それは部分の部分であり、耳に向かってたちのぼってくる苦痛あるいは快楽の切っ先である。(シュネデールーー杣径のなかの信仰を持たない者の祈り

ーーはて、遡及的な効果はあっただろうか・・・


2015年11月1日日曜日

火傷するほど「熱い」Raquel Andueza

歌をうたうとかさ、そういうことが大事だってことをもう一度思い出さなきゃ。大事なのは、音楽が非常にパーソナルな、個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。-武満徹

…………

Chanson d'amour(Lois Marshall)」という投稿をするときに、フォーレの「Chanson d´Amour」を何人かの歌手の録音で聴いてみたのだが、そのとき、Raquél Andueza(ラケル・アンドゥエサ)の歌い方には、いささか違和があった。思い入れが込められすぎている、感情過多だ、清澄さに欠ける等々、--これではフォーレにふさわしくない、と感じたのだ。

◆Chanson d´Amour, Gabriel Faure, Raquél Andueza.




昨晩ふたたび聴いてみると、以前とは異なってとても惹きつけられる。二十前後の青春期の男が、このオネエサンすごいなあ、と口をポカンと開けて聴き惚れているような感覚にとらわれた。すなわち、青春期に戻った気分になっているわたくしを見出した。

なぜそうなったのかは記すと長くなるのでーーそれだけでなく、わたくしのヒミツにも触れそうな気がするのでーー書かない。ようするに、《火傷するほど「熱い」》ことにかかわりそうなのだ。

わたくしは当時、アマチュア合唱団に所属していた(大学内部のではなく、年輩者も多い合唱団である。 岡村喬生と共演したこともある、--といってもわたくしは後ろにひかえる多人数の一人であったにすぎないのは言うまでもない、小澤征爾のような髪型をしたやんちゃな指揮者が合唱団員をしごいた、指揮棒が飛んできた・・・ )。

ヴェルディのラクリモーサを歌うあのときのおねえさんはひどくウツクシカッタ・・・




すでに出版された自著への態度は人によって非常に異なるようである。私は普通、改訂はしない。読み返すこともほとんどない。書店に入っても著書が並んでいる本棚の前は避けて通ってしまう。私にはまだ手にとって火傷するほど「熱い」のである。

翻訳の場合にはこの過敏症はない。特に訳詩となると、これは少し間を置けば何度読み返しても飽きないし、少しずつ訂正してしまう。書店に並んでいるとほっとしてその書店を祝福したくなる。これはおそらく私が翻訳という安全な隠れ蓑を着て私の著作家としてのナルシシズムを安全無害に放電しているのであろう。もし私の詩集という実在しないものが書店に並べば私はその前をとおりにくいのは他の著作以上だろう。 (中井久夫「執筆過程の生理学」)

Raquel Anduezaはもともとバロック以前の作曲家たちの歌い手のようだ。Philippe Jarousskyとも共演しているが、わたくしは彼の歌唱に馴染めないので貼り付けない(これもいつ変わるかわからない)。





◆Raquel Andueza - L'amante segreto - Barbara Strozzi




◆Sé que me muero - RAQUEL ANDUEZA & LA GALANÍA




◆Raquel Andueza y la Galanía, con Monteverdi



プルーストのいうように、書物だけでなく芸術作品は自分を読む「眼鏡」である。《自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせる》ものなら、なんでもすばらしい。もちろん最低限の形式的な美をもっていなくてはならない、という観点はあるだろう。

だがプルーストは次ぎのようにさえ言っている、《われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。》(プルースト「逃げさる女」)

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。

したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。

さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べている。

粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。

こう引用したからといって、Raquel Anduezaが「粗悪の歌手」だとか「石鹸の広告」だとか言いたいのではない。彼女のBarbara Strozzi(バルバラ・ストロッツィ)などの清澄な歌声の裏には、冒頭のフォーレと末尾のモンテヴェルディの歌い方がある、ということを言いたいだけだ。

彼女のバッハを二曲ほど聴いてみたが、あれは、--ちょっといけない。
実は『失われた時を求めて』執筆の前にプルーストが手がけた未完の二人称小説『ジャン・サントゥイユ』の中には、主人公ジャンがサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに耳傾ける場面があるのだという。このことから、サン=サーンスを好まないと1915年の時点で書簡にプルーストは書いているものの、人の嗜好は変化するものであって、プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している(p108)。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。(安永愛

スワンのオデットへの愛、主人公のジルベルトやゲルマント公爵夫人、あるいはアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。