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2015年12月7日月曜日

人を戦争に駆り立てる「なにか」

《ある事業が成功するかしないかは、いつに、その事業に人々を駆り立てるなにかがあるかなにかにかかっている。》(マキャベリ

・「歴史は徹底的であるから、何度でも〝追試〟させられる。しかも無反省な輩はその都度なんどでも同じ過ちをくりかえす」。友人Sさんの手紙のなかの1行。ニッポンの「国際反テロ戦争」参戦が近い、とかれはみている。わたしもそうおもう。参戦前夜をひしひしと予感する。「国際反テロ戦争」は、〝テロ〟現象の可変的深層をだれもつかみえないまま、拡大し、変容し、いたずらに泥沼化するだろう。〝テロ〟の様態はみるもののつごうで、つごうよく変えられ、表現される。そのとき、ひとびとの精神と立ち居ふるまいはどうなるだろうか。愛国化、民族主義化、祖国防衛戦線化しないものか。パルタイは「国際反テロ戦争」参戦にはっきりと反対できるだろうか。そこだ。〝追試〟とはそれなのだ。第二次世界大戦はファシズム対反ファシズムではなく、反ファシズム戦争の装いをした帝国主義戦争であった。〝追試〟のポイントはそこにある。パルタイは〝追試〟で合格するか。またも落第の公算が大ではないのか。「赤旗」のインタビュー・ドタキャン事件について、まだなんの連絡もきていない。パルタイ中央にはきっと「事件」の感覚もあるまい。みずからの歴史をいくども塗りかえてきたものたちに、歴史修正主義を難ずることはできないはずだ。歴史はあまりにも徹底的にめぐってくるので、わたしたちは何度でも〝追試〟をうけさせられる。コビトと犬と東口のカフェ。エベレストにのぼらなかった。(辺見庸 私事片々 2015/12/03

さて、日本にはその事業(戦争)に人々を駆り立てるなにかがあるだろうか?
いやなければ、作り出せばよい、とマキャベリはいうだろう。

誰でも すぐさま思いつくだろう「なにか」は、日本での--たとえばイスラム過激派たちによるーーテロ行為だ(あるいはそれに見せかけた自作自演のテロだ)。それがあれば人々はすぐさま「駆り立てられる」だろう。

すなわち安全保障感の喪失を生み出せばよい。

実際、人間が端的に求めるものは、「平和」よりも「安全保障感」である。人間は老病死を恐れ、孤立を恐れ、治安を求め、社会保障を求め、社会の内外よりの干渉と攻撃とを恐れる。人間はしばしば脅威に過敏である。しかし、安全への脅威はその気になって捜せば必ず見つかる。完全なセキュリティというものはそもそも存在しないからである。

 「安全保障感」希求は平和維持のほうを選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。まことに「安全の脅威」ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない。自国が生存するための「生存圏」「生命線」を国境外に設定するのは帝国主義国の常套手段であった。明治中期の日本もすでにこれを設定していた。そしてこの生命線なるものを脅かすものに対する非難、それに対抗する軍備の増強となる。1939年のポーランドがナチス・ドイツの脅威になっていたなど信じる者があるとも思えない。しかし、市民は「お前は単純だ」といわれて沈黙してしまう。ドイツの「権益」をおかそうとするポーランドの報復感情が強調される。(中井久夫「戦争と平和 ある観察」初出 2005 『樹をみつめて』所収)

以下の文は、ここでの文脈ではいくらかの書き換えが必要かもしれないが、敢えてそうしないでおく。たとえば「猖獗する反ユダヤ主義」を「猖獗する反イスラム国」と代入するなどして読もう。

……“la traversée du fantasme”(幻想の横断)の課題(人びとの享楽を組織しる幻想的な枠組から最低限の距離をとるにはどうしたらいいのか)は、精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、再興したレイシストのテンションが高まるわれわれの時代、猖獗する反ユダヤ主義の時代において、おそらくまた真っ先の政治的課題でもある。伝統的な“啓蒙主義的”態度の不能性は、反レイシストによって最もよい例証になるだろう。理性的な議論のレベルでは、彼らはレイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得的な理由をあげる。だがそれにもかかわらず、己れの批判の対象に魅了されているのだ。

結果として、彼の弁明のすべてはリアルな危機が起こった瞬間、崩壊してしまう(例えば“祖国が危機に陥ったとき”)。それは古典的なハリウッドの映画のようであり、そこでは悪党は、“公式的には”最後にとがめられるにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎこまれる核心である(ヒッチコックは強調した、映画とはバッドガイによってのみ魅惑的になる、と)。真っ先の課題とは、いかに敵を弾劾し理性的に敵を打ち負かすことではない。――その仕事は、かんたんに(内なるリビドーが)われわれをつかみとる結果を生む。――肝要なのは、(幻想的な)魔術を中断させることなのだ。“幻想の横断”のポイントは、享楽から逃れることではない(旧式スタイルの左翼清教徒気質のモードのように)。幻想から最小限の距離をとることはむしろ次のことを意味する。私は、あたかも、幻想の枠組みから享楽の“ホック(鉤)をはずす”ことなのだ。そして享楽が、正当には決定できないものとして、分割できない残余として、すなわちけっして歴史的惰性を支える、固有に“反動的”なものでもなく、また現存する秩序の束縛を掘り崩す解放的な力でもないことを認めることである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

やや難解な文であるかもしれない。いくらかの捕捉としては、「レイシズムと享楽(Levi R. Bryant+ZIZEK)」を見よ。

ここではフロイトに戻って次ぎのように引用してみよう。

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 P219)

こういった現象は島国根性の国、共感の共同体ではいっそう起こりやすい。

・この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。

・そのような『事を荒立てる』ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、実は抗争と対立の場であるという『本当のこと』を、図らずも示してしまうからである。

・「将来の安全と希望を確保するために過去の失敗を振り返」って、「事を荒立てる」かわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」のである。しかし、この共同体が機能している限り、ジャーナリズムは流通せず、「感傷的な被害者への共感」の記事に埋もれてしまう。(酒井直樹「無責任の体系」

共感の共同体では集団神経症にきわめてなりやすいといってよい。仏国や米国でも大きなテロ事件があったなら集団ヒステリーになってしまうのだから、日本ではなおさらである(参照:「〈ソリダリテ〉(連帯)」の悲しい運命)。

……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)

正義の味方としてふるまう元しばき隊の連中でも、その「おみこしの熱狂」ぶりは、最近ツイッター上で目にあまる(参照:構造的な類似(ネトウヨ/カウンター))。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

ーーいったい誰が止めうるというのか、おみこしの熱狂を。

《そのとき、ひとびとの精神と立ち居ふるまいはどうなるだろうか。愛国化、民族主義化、祖国防衛戦線化しないものか》と辺見庸は記しているが、実のところ彼はほとんど諦めているに違いない。

日本には「ユダヤ人」--すなわち、《固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟》をもった人物ーーもすくない。

ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。(フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶』)

数少ない「ユダヤ人」である古井由吉の文をここで挿入しておこう。

私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。しかしその悪癖がいまでは、群れを破壊へ導きかねない。たったひとりの気紛れが全体の、永遠にも似た忍耐をいきなり破る。(古井由吉『哀原』女人)

とはいえ、日本で、少数の弱々しい知性の声が果たして機能するとでも言うのか?

知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。(フロイト『ある幻想の未来』)

ところで、「フランス極右政党が記録的得票、パリ同時テロ以降初の選挙」という〈予想通り〉の結果が生れたようだ(参照:「日の沈む地方の蛮族たちの末期の熱病」の末尾)。






田舎にいけばいくほど、ル・ペン党(国民戦線 Front National; FN)の勝ちだということがわかる。




2015年12月4日金曜日

日の沈む地方の蛮族たちの末期の熱病

「ヨーロッパ」という語の語源ははっきりしていないようだが、アッカド語の erebu、フェニキア語の ereb 等であるという説がある。

Europe from Latin Europa "Europe," from Greek Europe, which is of uncertain origin; as a geographic name first recorded in the Homeric hymn to Apollo (522 B.C.E. or earlier):
 
"Telphusa, here I am minded to make a glorious temple, an oracle for men, and hither they will always bring perfect hecatombs, both those who live in rich Peloponnesus and those of Europe and all the wave-washed isles, coming to seek oracles."
 
Often explained as "broad face," from eurys "wide" (see eury-) + ops "face," literally "eye" (see eye (n.)). But also traditionally linked with Europa, Phoenician princess in Greek mythology. Klein (citing Heinrich Lewy) suggests a possible Semitic origin in Akkad. erebu "to go down, set" (in reference to the sun) which would parallel orient. Another suggestion along those lines is Phoenician 'ereb "evening," hence "west."(Etymology Dictionary

アッカド語とは何だったか?

アッカド語は、「アッシリア・バビロニア語(Assyro-Babylonian)」とも呼ばれ、古代メソポタミアで、主にアッシリア人やカルデア人(バビロニア人)やミタンニ人に話されていた言語。当時は国際共通語でもあった。アフロ・アジア語族セム語派に分類される。(wiki)

フェニキアとは次の通り。

フェニキア(希: Φοινίκη, Phoiníkē, ポイニーケー、羅: Phoenices, Poeni, ポエニ、英: Phoenicia)は、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。(wiki)
……紀元前9世紀から紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリアの攻撃を受けて服属を余儀なくされ、フェニキア地方(現在のレバノン)の諸都市は政治的な独立を失っていった。アッシリアの滅亡後は新バビロニア、次いでアケメネス朝(ペルシア帝国)に服属するが、海上交易では繁栄を続けた。(同上)

ーーすこしまえ「シリアの地はバビロン川のほとりだ」としたが(参照「シリアの川のほとり」)、もう少し遡るべきだったか。


ヨーロッパという語の語源が、フェニキア語であるという説が記されている文をもうすこし抜き出しておこう。

Europa, Europe comes from the Phoenician word EROB, meaning where the sun set (west of Phoenicia,west of Bosphorus, Sea of Marmora). Erebo: I go under. Ereba: The land where I go under. Acu (pronounciatian asu) the land where I (the sun) are coming up: Ereb, ereba= europa Asu = Asie, Asia. (guardian,Where did the name Europe come from?
アジアという名称の起源は、古代(前11~前7世紀ごろ)地中海東部に栄えたフェニキア人が、その地より東方の地域をアスAsu(日の出る地方)、西方をエレブEreb(日の沈む地方)とよんだのが、アジアおよびヨーロッパの名称の始まりであるという。【出典:日本大百科全書】
 ……国名シリアは紀元前7世紀頃に最盛期を迎えたアッシリアにちなむという。アッシリアの首都はアッシュールで今のイラクの首都バグダッドの北にあたる。アッシリアの碑文に、"Asu"「日が昇る地方」というのがある。これにラテン語で地名につく語尾"ia"がついて、"Asia"つまりアジア、まさに太陽が昇る地方なのだ。  同じくアッシリアの碑文に、"Erb"「日が没する地方」があり、"Europa"の語源となったという。この"Europe"はギリシャ神話では"Europa"となる。この「エウロパ」は木星の衛星の一つの名でもある。  ところで「シリア」には現在の「シリア」のほかに「歴史的シリア」がある。昔のアッシリアほど広範囲ではないが、それでも、今のシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含んでいたからかなり広い。  

元に戻るが、「シリア」の正式名称は、「シリア・アラブ共和国」だ。これをアラビア語で表記すると、共和国・アラブの・シリアの語順になる。その「シリアの」の部分は「アッスリーア」で「スリーア」はまさに「シリア」なのだ。  

アラビア語の定冠詞は男性・女性とも"al"だが、"s"などで始まる語の前では、その音を重ねることになっている。代表的な例は「太陽」で単独では「シャムス」だが、定冠詞がつくと「アッシャムス」となる。つまり「シリア」=「アッシリア」だ。多分かれらは偉大な先祖を持っていることに誇りを持っていることだろう。(「シリア」の国名は「アッシリア」から、その「アッシリア」は「アジア」の語源となった「アッス」から

上に《アッシリアの碑文に、"Erb"「日が没する地方」があり、"Europa"の語源となった》とあるが、これは英文献でいくらか探してみたが、それに合致する記述は見当たらない。つまり、ここでは当面、信憑性は曖昧なままにしておく。

とはいえ、「ヨーロッパ」の語源が、アッシリアあるいはシリアの地にあることを、そろそろヨーロッパ人たちははっきりと認めるべきではないか。彼らの名づけ親(ゴッドファザー)は、シリアであることを。

The name Syria has since the Roman Empire's era historically referred to the region of Syria. It is the Latinized from the original Indo-Anatolian and later Greek Συρία. Etymologically and historically, the name is accepted by majority mainstream academic opinion as having derived from Ασσυρία, Assuria/Assyria, from the Akkadian Aššur or Aššūrāyu, which is in fact located in Upper Mesopotamia (modern northern Iraq southeast Turkey and northeast Syria).(Name of Syria

いや、20世紀の最も偉大な歴史家のひとりトインビーは、イスラム世界を顕揚したあまり最近ではまったく人気がないように、欧米人たちは、古代最古のメソポタニア文明の放蕩息子にすぎないことを公然とは認めたがらないのだろう。

2015年はヨーロッパにおいて二人の父親殺しの記念すべき年である。前半にはギリシヤというヨーロッパ文明の「父」を半殺しにしたように、後半は「名付け親」のシリアを「連帯」して空爆して平然としている。とはいえ、まさか元奴隷民の成り上がり者たちのルサンチマンというわけでもあるまい。

《ある事業が成功するかしないかは、いつに、その事業に人々を駆り立てるなにかがあるかなにかにかかっている。》(マキャベリ)

……そのためには、理性的に判断して、自ら先頭に立って犠牲を甘受するエリート階級だけでは充分ではない。……民衆は、目先の必要性がないかぎり、感性に訴えられなければ、動かないものである。

最大の奴隷“資源”の産地は、いまだキリスト教化されていない地方であった。六世紀頃はアングロ・サクソン人が、九、十世紀に入ると東欧のスラブ民族が、奴隷市場で売られる主要な民族であった。

しかし、ヨーロッパのキリスト教化が進むにつれて、奴隷の供給源が減少し、十一世紀以後は供給源を求めて、ヴェネツィア商人は黒海へまで出かけていかなければならなくなった。それいしても、中世の奴隷は、ヨーロッパからアフリカへ流れていたのである。

少なくとも十四世紀までは、文化の程度は、断然、東のほうが進んでいた。(塩野七生『海の都の物語』上 P.86)

ーー元奴隷民たちは、なにに駆り立てられているというのだろう? 西欧文明の「父」を半殺しにした勢いで、ゴッドファザーの地をも殲滅しようとするわけか。

文章を作って、「ゆえに」と言うたびに、ギリシャ人たちは著作権料として10ドル受け取るべきであって、そうすればもうギリシャの負債などなくなるだろう。(ゴダール

彼らは、ヨーロッパと口にするたびに、シリアの難民を10人づつ受けいれるべきではないか? 爆弾ひとつ落すたびに、1000人づつ受け入れるべきではないか?

…………

ところでシロッコとはなんだったか? 




北は、トラモンターナ。トランス・モンターナの略で、山の彼方からの風、という意味である。
北東は、グレコ。言わずもがな、ギリシアのことだ。
東は、レヴァンテ。太陽の昇る方向を意味している。東地中海は、レヴァンテの海と呼ぶのが普通である。
東南は、シロッコ。シリアの方角から吹く風を意味している。
南は、アウストロ。オーストラリアの国名は、ここから来ている。
南西は、リベッチオ。リヴィアの方角からの風という意味である。
西は、太陽の沈む方角という意味で、ポネンテと呼ばれた。
北西は、マエストラーレ。現代フランスのパリ - ニース間の特急はミストラルという名あが、もともとはローマのある方角からの風という意味である。(塩野七生『海の都の物語』p.91)



シリアの方角から吹く風がそんなにいやか? Ereb(日の沈む地方)の諸君よ

アラーは、ヨーロッパにてイスラムの勝利を授けてくれるだろう、剣も、銃も、征服もなしに。われわれにはテロリストは必要ない。自爆テロはいらない。ヨーロッパにおける五千万人超のムスリムThe 50 plus million Muslims (in Europe)が、あと数十年でヨーロッパをムスリム大陸に変えるだろう。(カダフィ大佐Muammar Gaddafi)

ーーとは2010年のメルケル独首相による記事からである(Germany Will Become Islamic State)。

…………

と記したところで、次の記事に出会った。

@usui1965: 独軍1200人派兵へ…仏空母護衛・戦闘機支援。アフガン、コソボを上回る史上最大の軍事展開、ただし空爆は行わず。 https://t.co/9du8i7hEHx

ドイツも「連帯」しちまったようだぜ。とはいえ同時にこうもある。

@spearsden: メルケル独首相、難民受け入れ方針維持。英ガーディアン https://t.co/f8SncLhThq

フランスの人気者マリーヌ・ルペンーー日の沈む地方の蛮族の首領のひとりーーはこうオッシャッテイルらしい。

@ishikawayuichir

【仏ロプス誌】仏極右FN党首マリーヌ・ルペン、イスラム原理主義に対する「この戦争にわれわれは勝つしかない」「さもないとこの国はイスラム全体主義に権力を握られ、我々の憲法はシャリアに、法律は過激イスラム主義に代えられるだろう」。 https://dg7k.net/zspfk

ウエルベックの『服従』」(浅田彰)の筋書きの実現がいっそう現実味を帯びてきたようだ。

……2017年の大統領選挙でマリーヌ・ル・ペンの国民戦線が単独では一位になり、国民戦線政権だけは避けようという諸党派の合意に基づいて現職のオランドが決選投票に勝つのだけれど、その下でますます矛盾が激化し、2022年にはル・ペンがさらに大統領に近づく。そこにムスリム同胞団(架空)が登場するわけだ。とはいえ、それはイスラム過激派とはまったく違って、エコール・ポリテクニークと国立行政大学院(ENA)を出た如才ない若きエリートが党首を務めている。これなら国民戦線よりましではないか。いや、EU/ユーロ圏からの離脱を目指す国民戦線に対し、ヨーロッパをアフリカ北岸まで拡大しようとするムスリム同胞団の方が、資本の利害にも合致している。そこで、社会党から保守党までみながムスリム同胞団と連立を組んでイスラム政権が出来てしまう、というわけだ。荒唐無稽に見えて、それなりにリアルな想定ではないか。(ここでウエルベックがパラダイムとしているのは、2002年の大統領選挙で右のシラクと左のジョスパンが対決するはずだったのに極右のジャン=マリー・ル・ペンがジョスパンに勝って決選投票に残ってしまい、仕方なく他の全党派がシラクを支持した、あの現実の悪夢である。)

こうしてイスラム政権が出来ると、郊外の治安は一気に改善され、アラブのオイル・マネーが流入して財政もぐんと改善される。その一方で、しかし、社会的にはかなりラディカルな変革が進む。一言でいうと中世回帰だ。経済的には、生産手段の私有(資本主義)か国有(ソ連型社会主義)かが問題ではなく、生産手段を分散させて小さなアトリエのネットワークのようなものを主とする経済をつくることが大切だ、というチェスタートン流の分配主義が採用される。もちろんチェスタートンはこれをカトリック社会主義に近い立場で主張したのだが、それはシャリーア(イスラム法)とも適合するだろう、というわけだ。それに伴って、高等教育は大幅に縮減し、職業教育を充実させる。ソルボンヌもイスラム大学になり、主人公は教授を辞めることになる。しかし、彼は冷静だ。まだ40代なのに定年まで勤めたのと同じ年金が出るし、考えてみれば文学教育など95%の学生には無意味なのだから未練などない、ときどき女子学生と性関係をもっていた、その機会を失うのは残念だが、そもそもそんな性生活は荒涼としたものでしかなかった……。社会的にも、近代の「ロマンティック・ラヴ」イデオロギーは放棄され、恋愛結婚から見合い結婚に戻る、しかしイスラム教では一夫多妻制が認められるのだから、結構な話じゃないか……。

ーー結構な話じゃないか? マルクスのアソシエーションの変種だぜ・・・

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

いずれにせよ、浅田彰による「ウエルベックの『服従』」の紹介を読めば、人は「ほどよく聡明な」ジャーナリストやら学者やらの見解ばかりに耳を傾けるのではなく、すぐれた小説家の想像力の片鱗にも触れなければならないことが分かるのではないか(参照:未知の表徴を探りあてるジェニー(大江健三郎))。





本当ノ事ヲイオウカ

「原発批判を口にしている私自身の心理の奥底に、原子力事故の到来を歓迎する危険な心理が潜んでいることを、私は正直に告白します。平生から〈きっと事故が起こる〉と警告している者にとっては、事故の発生はアタリですから〈それみたことか〉と快哉を叫びたくなる気持ちは抑えがたいものがあります。きわめて不道徳なことであることは百も承知でありつつも、危篤状態の大内さん〔臨界被曝したJCOの職員 〕の容態が持ち直すことを望まない心理すら、私自身の内部で頭をもたげることがなかったとはいえない。自分の手落ちで人が瀕死におちいればワラにもすがる思いで回復を神に祈るにちがいありませんが、自分自身に落ち度がなく〈向こう側〉の失策であるという事情が、つい良心を鈍らせます。これは俗人の業のようなものかもしれません。」(清水修二『臨界被曝の衝撃』、2000年)

「私は正直に告白します。シリア空爆をしている国々やその仲間たちの国で、テロ事件がふたたび発生するのを期待していることを」


ーーオレハ本当ノ事ヲイッタ

鳥羽1 谷川俊太郎

何ひとつ書く事はない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ

本当の事を云おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない

私は造られそしてここに放置されている
岩の間にほら太陽があんなに落ちて
海はかえって昏い

この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!

ーー「本当ノ事ヲイッタ〈私〉」は、そこの〈あなた〉のことでもあるのをわたくしはよく知っている。

2001年9月11日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)

とはいえ上の「本当ノ事ヲイッタ」はごくごく常識的な(?)本当ノ事だ
本当の「本当ノ事」をいったなら、「まったく出口なし」になる、
ーーそういったたぐいの本当ノ事ではまったくない。

〈あなた〉には出口なしになる「本当ノ事」はあるか?

……それからかれは、ニューヨークで僕の友人におなじ言葉を話したのは、この声によってだったにちがいないと思わせる声で、

「本当の事をいおうか」といった。「これは若い詩人の書いた一節なんだよ、あの頃それをつねづね口癖にしたいたんだ。……その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。蜜はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」

「本当の事をいおうか、と絶体絶命のところで決意する人間はいるだろう。しかしかれは、その本当の事をいったあと、殺されもせず、自殺もせず、発狂して怪物になることもなしに、なお生きつづける方途を見つけだすだろうさ」と僕は鷹四の不意の饒舌の意図を模索しながら反駁した。

「いや、そこが不可能犯罪的に困難なところだ」とこの命題を永く考えつづけてきたことの明瞭な断乎たる口調で鷹四は僕の思いつきの意見を一蹴した。「もし、本当の事をいってしまった筈の人間が、殺されもせず自殺もせず、なんだか正常の人間とはちがう極度に厭らしく凶々しいものに変ることなしに、なお生きつづけることができたとしたら、それは直接に、かれがいってしまった筈の本当の事が、じつはおれの考える意味での、発火しつつある爆発物みたいな本当の事とは違うものであったことを示すだけなんだ。それだけだよ、蜜」

「それでは、きみのいわゆる本当の事をいった人間は、まったく出口なしというわけかい?」とたじろいで僕は折衷案を提出した。「しかし作家はどうだろう。作家のうちには、かれらの小説をつうじて、本当の事をいった後、なおも生きのびた者たちがいるのじゃないか?」

「作家か? 確かに連中が、まさに本当の事に近いことをいって、しかも撲り殺されもせず、気狂いにもならずに、生きのびることはあるかもしれない。連中は、フィクションの枠組でもって他人を騙しおおす。しかし、フィクションの枠組をかぶせれば、どのように恐しいことも危険なことも、破廉恥なことも、自分の身柄は安全なままでいってしまえるということ自体が、作家の仕事を本質的に弱くしているんだ。すくなくとも、作家自身にはどんな切実な本当の事をいうときにも、自分はフィクションの形において、どのようなことでもいってしまえる人間だという意識があって、かれは自分のいうことすべての毒に、あらかじめ免疫になっているんだよ。それは結局、読者にもつたわって、フィクションの枠組のなかで語られることには、直接、赤裸の魂にぐさりとくることは存在しないと見くびられてしまうことになるんだ。そういう風に考えてみると、文章になって印刷されたものの中には、おれの想像している種類の本当の事は存在しない。せいぜい、本当の事をいおうか、と真暗闇に跳びこむ身ぶりをしてみせるのに出会うくらいだ」(大江健三郎『万延元年のフットボール』文庫p.229-230)

2015年12月3日木曜日

諸君人間通の人々よ、御自分をもっとよくお知りなさい!



最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦時状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? それ故に力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽である。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古いお祭りの歓楽の一つである。(……)



「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、苦悩は徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否認は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変更は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いない、と諸君はお考えになるか? おお、諸君人間通の人々よ、御自分をもっとよくお知りなさい!(ニーチェ『曙光』第一書 18番)



人間は、父親の殺されたのはじきに忘れてしまっても、自分の財産の損失はなかなか忘れないものであるから、とくに他人の持ち物には手をださないようにしなくてはならない。物を奪うための口実は、いくらでも見つかるものである。そのため、ひとたび略奪で暮らすことを味わった者は、他人の物を奪うための口実をつねに見つけるようになる、それに対して、血を流させるような口実は、やたらにさがせるものではなく、すぐ種切れになるものである。(マキャベリ『君主論』)


……仇討ちのおこなわれる国とは(すべて山国である点に注目しておこう)、中世の封建的正義の思想が十分に練り上げられず、浸透しきれなかった国々である。たとえば、ベルベルの国々であり、コルシカ島であり、アルバニアである。サルディーニャ島に関する研究についてマルク・ブロックが指摘しているところによれば、島は「長い間、大陸にいきわたっている大きな影響の潮流から免れていた」ために、中世に「封建主義化されないで、広く領土支配を受けた社会であった。」これはサルディーニャ島の島国性を強調することになるし、事実、それはサルディーニャ島の過去の決定的な力である。しかし、この島国性とは別に、やはり強力な、山があったのである。山は、海以上ではないにしても、海と同じくらい、人口の孤立化の責任を負っている。山は、我々の目の前で、オルゾコロや他のところで、近代国家とカービン兵の配置ゆえに暴動を引き起こすあの悲壮で残酷な無法者をつくりだす。民族学者も映画人もこの感動的な現実に心をとらえられた。「盗みをしない者は、人間ではない」とサルディーニャ島のある小説の主人公は言う。「法律は、自分の手で手に入れる。自分に大切なものを取るのだ。」(フェルナン・ブローデル『地中海』)




※もちろん、ここで引用した文と画像とはまったくーーいやほとんど関係がないことを念押ししておこう。

…………

(山内)いったい遊牧民を蛮族視する見方は、中国に限らず、有史宗教または世界宗教が農耕文明と結びついた第二次農耕文明の成立後、騎馬遊牧民の侵入に苦しめられた農耕民による偏見なのです。(蓮實重彦、山内昌之『20世紀との訣別:歴史を読む』岩波書店、1999年2月)

むしろわれわれは、山地人の仇討ちよりは、平地の人間の集団ヒステリー的熱病、平野を襲う疫病神による病いのほうがより重度の残酷さをもっているのではないかと疑うべきだろう。

山は(……)他人が使うための人間をつくりだすところだ。山の生活が四方に広がり、惜し気なく与えられ、海の歴史全体を豊かにする。おそらく山は、その起源において、この海の歴史をつくりさえしたのだ。なぜなら山の生命はたしかに地中海の最初の生命であったように思われるからだ。そしてこの地中海の文明は、「中近東や中央アジアの文明とまったく同様に、羊飼いの生活基盤をカバーしえいるが、隠すことはできない。」(Jules BLANCHE)羊飼いの生活基盤というと、狩猟者と家畜飼育者の原始的な世界、ここかしこで焼き畑農業をしながらの移牧と遊牧生活が思い起される。人々が非常に早い時期に開墾した高地に結びついた暮らしである。

その理由はなにか。おそらく山の資源のさまざまな見本作りである。また平野は、もとは淀んだ水とマラリアの領分であったという事実がある。あるいは大河の変わりやすい水が溢れ出てくる地帯であった。人の住む平野、これは今日では繁栄のイメージがあるが、それが達成されたのは遅く、何世紀にもわたる集団の努力の骨折りの結果である。古代ローマのヴァロの時代には、人々がヴェルブルム〔ローマの町〕に小舟で行った時代の思い出がまだ生きていた。高いところに住む人々の居住が、溜まり水のきらきら光る、熱病がちの低地の人々のほうへと徐々に広がっていった。(ブローデル『地中海』P.76)



……結局、ほとんどすべての平地には、水の停滞がある。しかもその帰結は至るところで同じだ。Acqua, ora vita, ora morte〔水は、生の国であり、死の国である〕 ここでは、水は死の類義語である。動かない水は、葦と籐の非常に大きな茂みをつくり出す。少なくとも、水は、夏には、浅瀬や川床の危険な湿気を保つ。この湿気から恐ろしいマラリア熱、つまり暑い季節の間、平野を襲う疫病神が生じる。(同、ブローデルP.99 )

2015年12月2日水曜日

安倍唯一の起死回生策「難民100万人受け入れ計画」

哀れな破廉恥政治! 哀れなリベラルインテリ!」より引き続く。


まずは自民党の「外国人材交流推進議員連盟」が2008年に作成した「1000万人移民計画」の提言書、「人材開国!日本型移民政策の提言 世界の若者が移住したいと憧れる国の構築に向けて」より。

「人口危機に立ち向かうため日本は『移民国家』へ移行する」と政治が決断すれば、国際社会は国の形を「多民族国家」に変える究極の構造改革を評価し、「日本買い」に転じるだろう。
厳しい試練の時を迎えて、日本の未来に危機感を抱く国民が移民国家建設のため立ち上がれば、50年間で1000万人規模の移民受け入れを達成することも決して夢でない。
日本型移民政策は、日本人口の10%を移民が占める未来の日本人が、「移民が日本の危機を救ってくれた」と感謝し、「世界で保護を求めている人々の救済に日本が貢献した」と誇りを持てる社会の実現を目標とする。

移民1000万人計画がある(あった?)のだから、それをいささか変奏させて難民100万人計画があってもまったくおかしくない。もちろんわれわれは移民政策の問題と難民受け入れの問題は区別すべきであり、危機にあたっての難民受入れは人道の話ではあろうが、それを考慮に入れつつも、移民計画を一部変更させて、10分の1の100万人を難民に変更してもなにも悪いことはないだろう。


そしてシリア難民はすこし前のデータだが、1000万人以上いる。今後、それは減る気配はなく、むしろ増える傾向にあるとしてよいだろう。


先進諸国、たとえばG8でこれらの難民を受け入れる計画があったとしてーー国土の広さや人口密度などの問題はあったり、いまどきG8などというのは時代錯誤的という批判はあるのはわかっているが、ここでは仮にそうしてみるとしてーー難民100万人受け入れ計画とは、日本の世界経済におけるポジションからして、けっして過剰な人数ではない。

…………



ーーははあ、顔は売れているようだな・・・パリ中にあるらしいぜ




さてここでは原発復活の話はしないでおくが、世界の視線に鑑みて、安倍の起死回生策はもはや難民受け入れ計画しかないんじゃないか。それも、ちゃちなことは言わず、たとえば「難民100万受け入れ計画」くらいではないか、あの世界の孤児的汚辱を漱ぐためには(ネトウヨのたぐいは、こう記せば、すぐさま「妄想的」というだろうがね)。

100万人といってもたいした数ではない。日本は今後毎年30万ほどは人口減少していくのだから、1年10万人受け入れる10年計画でいい。

実際、今年のドイツは当初の80万予想から150万人などという話もある(おそらくそこまでは抵抗があっていかないだろうが)。




人口がわずか100人のドイツ北部の村では、数週間以内に1000人の難民が到着することになり、村民らは村の治安が悪化するのを恐れています。地元当局が、村営アパートからドイツ人の住人を追い出し、難民らに部屋を提供することにしたため、多くの村民らが激怒しています。(「ドイツの極寒の難民キャンプで暴動が起こりそうです」)

ーーだそうだが、すこしは助けてやらなくちゃな、死にものぐるいで脱出する難民だけでなく、ドイツを、だ。

日本には過疎村がいくらでもあるのだから、1000人くらいへいっちゃらじゃないか。1000人で、100箇所だったら、1年毎10万人だ。

毎年そうやって受け入れて場所がなくなったら、あるいは僻地にばかり押し込めるのは「差別」だというのなら、神社の境内や学校の運動場などはどうだろう? 

小学生や中学生が休み時間に難民たちとコミュニケーションをとったりなんらかの支援をするなどということは夢物語だろうか?

かつてのヴェネチア「難民」はーー要するにアッチラから逃げ、次いでロンゴバルト族から逃げなどしたヴェネチア難民たちだーー教区〔バロツキア〕毎に移住したそうだが、1教区の構成員は、平均して1500人ほどだったそうだ。

ドイツなどは教会がモスクにどんどん変わっているのだから、日本の神社がモスクに変わったって「積極的平和」のためにはどうあっても許容しなくてはならない。

「我々の国は変わり続けるでしょう。また、移民の問題解決を取り上げるにあたっては同化が課題です。」

「長い間我々は、それについて自国を欺いてきました。例えばモスクです。それは今までよりずっと、我々の都市において重要な存在となるでしょう。」

「フランスでは20歳以下の子供の30%がムスリムです。パリやマルセイユでは45%の割合まで急上昇しています。南フランスでは、教会よりモスクが多いのです。

イギリスの場合もそれほど事態は変わりません。現在、1000を超えるモスクがイギリスには存在します。──ほとんどが教会を改築したものです。

ベルギーでは新生児の50%がムスリムであり、イスラム人口は25%近くに上るといいます。同じような調査結果はオランダにも当てはまります。

それは住民の5人1人がムスリムのロシアにも言えることです。」(メルケル首相「ドイツはイスラム国家になるだろう」


日本はシリア難民にとっては、遠すぎるだって? インドシナ難民(ヴェトナム難民が主)をあの遠いところにあるカナダは何人受け入れたっけ?

@kawakami_yasu: 70年代のインドシナ難民は特別ですが、この時も150万人近い難民のうち日本が受け入れたのは1万人強で、カナダの受入数の10分の1ですね。呼び寄せ家族を入れて、2万人近くですか。アジアのことなのに、相対的には少ない受け入れですね。(川上泰徳)

ーー日本から船ぐらい出したっていいじゃないか、中東エリアに、さ。5000人程度の乗客数の船はいくらでもあるだろう。

難民受け入れのデモをしているSELDSなどの連中も、その心意気はみとめるが、韓国並の200人とか、米国並の2000人とかちゃちな話じゃなくて、どんと100万人いけよ、ドイツは今年だけで150万人がありうるんだぜ。

(米国はいままでのシリア難民受け入れは、 《Since 2012, the US has accepted 2,174 Syrian refugees》(参考)、オバマは、2016会計年度(15年10月~16年9月)に少なくとも1万人を受け入れると言っている、韓国は、この11月18日の情報では、シリアからの難民200人が韓国政府に対して受け入れの申請を行い、うち135人が人道的措置として「準難民」の地位を得て、韓国に臨時滞在中とのこと)

「緊急事態において(難民に)優しくしたことを謝罪し始めなければならないとしたら、そんな国は私の国ではない」(メルケル首相の歴史的決断に国内世論が変化、The Economist 2015年10月16日

難民に優しいだけでなく、ドイツ大衆に苛められつつあるメルケルにたいしても応援すべきだよ、きみたち!




ドイツのメルケル首相は、内戦を逃れてきたシリア難民には国境を開放するスタンスを貫いてきた。だがここ数カ月で、高まる一方の国内批判や支持率の急降下、連立与党内部の足並みの乱れといった痛手を被っている。

だが同首相にとってより困難な課題は、中東からの難民締め出しをドイツに望むフランスの要請をはねつけることだろう。この要請を無視すれば、欧州の統合が危うくなる可能性がある。

バルス仏首相は25日、欧州各国は中東からの難民に対して国境を閉鎖するべきと述べ、ドイツを暗に批判した。欧州の政治家がドイツの難民危機対応を批判したのはこれが最初ではない。これより以前には、ハンガリーのオルバン首相やポーランドの新政府もドイツにジャブを浴びせていた。(「難民受け入れで孤立化するドイツ、方針転換はあるか」2015年 11月 30日)

ーードイツにはない国民投票はどうだって? 庶民的正義の味方の国民は、いざとなったら 90%は不賛成にきまってるだろ、そんなものはしちゃあいけない、デモクラシーとは自らの生活流儀をまもるシステムさ。

民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する(柄谷行人『終焉をめぐって』)

肝腎なのは、大衆の「通念」を蹴散らかす「理念」を謳いあげることだよーー構成的理念ではなく統整的理念をなーー、そう、核心は、「民主制社会という一かけらの精神もない巨獣」を果敢に手なずけることさ、若き力でな。母熊に舐められた部分をいつまでも慈しんでいるネトウヨ連中はほうっておかねばならぬ!

サドは人間の天体が、まともな実生活から遠く離れた、歌う無為の太陽たちの回帰線に傾くことを祝う。彼は人間の非社会化を祝い、母熊に舐められた〔躾けられた〕部分を徐々に捨てることを教える。(『詩におけるルネ・シャール』ポール ヴェーヌ, Paul Veyne, 西永 良成訳)

《もしこのラディカルな選択を、涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!》 (バトラー、ラクラウ、ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』





なにはともあれ、若きデククラシーの星である〈きみたち〉は、いまのままじゃ「正義派」ぶりたいだけの「最悪の」偽善者たちと邪推されてもやむえないぜ。

「実は左派リベラルは、心の中ではすでに、国境をなくすことなどできないと感じている。そ もそも、そんな動きが強まれば、極右が大衆を巻き込んで力を蓄え、大変なことになるは ずだ。ところが、それにもかかわらず心清き人々を装い続けている。そして、"可哀想な難 民を見殺しにしてはいけない"、"EU の門戸を開こう"と唱えて、自分たちを倫理の高みに 置いている」

「一方、右派は、難民が自分たちの力で母国の状況など変えられないことなど百も承知で、 すべての国民は自らの生活は自分たちで守るべきだという正論を主張する。どちらも悪い。 両方とも偽善にすぎない」

しかし、ここで興味深いのは、左派である彼が、左派リベラルの偽善のほうが、難民排斥を 訴える右派ポピュリストたちのそれよりも、より悪質だと結論付けている点である。「難民問題における最大の偽善者は、国境をなくそうというプロパガンダに励む左派リベラルである」 というのが彼(ジジェク)の主張だ。 グローバリズムとは現代の「奴隷制度」である! 、川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」) 

せいぜい庶民的正義派とかな、若き高貴な民主主義者くんたちよ! ーーそうみなされるのはイヤだろ?

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

金はどうしたらいいんだって? 「Refugee crisis 'to cost Germany 10 billion euros'」などという記事があるが、難民1人あたり月に食事代5万円(現物支給もふくめ)援助なら年60万円、100万人の難民なら6000億円さ、しれてるぜ。その他経費がこの2倍以上かかるとしても、しめて2兆円だ。消費税1%上げたら、2.5~3兆円はある。 国民平等に「積極的平和」のための負担をするには、消費税が1番だよ。この計算が甘いというのなら、消費税2%増という手もある(たとえば1年後にも職が見つからない難民が積み重なれば、食費援助だけでも10年間で6兆円近くになってしまう可能性はないのか、とかの心配性の方々は世の中にはたくさんイラッシャルだろうよ)。

敢えていえば、消費税はヨーロッパ諸国並に20%、あるいは少子高齢化先進国、世界に稀にみる債務国としてはそれ以上あげなくてはならないのはほとんど必然なのだから、人びとに消費税増は避けがたいものなのを認知してもらうためのよい機会じゃないかい?(参考)彼らも日本に居つけば、消費税支払い予備軍さ。

とはいえ日本の「左翼」というのは飛んでもない連中がうじゃうじゃいるからな(参照)。

少し前のものだが、たとえば、「いのちとくらし」事務局長さんのなんという素晴らしいツイート!

河添 誠@kawazoemakoto

・「消費税増税で低所得層に打撃になるのは問題だと思うけれど、今の日本の財政では云々」という人へ。前段の「低所得層への打撃」だけで、消費税増税に反対するのに十分な根拠になるはず。なぜ、財政を理由に低所得層の生活に打撃になるような増税が正当化されるのか?この問いにだれも答えない。

・「消費税増税にはさまざまな問題がありますが、財政の厳しい状況では仕方ないですね」と、「物わかりよく」言ってみせる人たち。低所得層の生活が破壊され、貧困が拡大する最大の政策が遂行されるときにすら反対しないのかね?まったく理解不能。

まだ若い「ほっとプラス」代表理事さんだって負けてはいない!

藤田孝典@fujitatakanori:

・みんなが社会手当を受けたら、国の財源がなくなるという人々がいる。それはウソ。それなら欧州の国々はとっくに破綻している。

・ 財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する。

論理的に言って、こういった経済音痴かつ近視眼的「正義の味方」氏たちが、結果的に最も「残酷な」連中であるのは、よく知られている。財政破綻になって最初に苦境に陥るのは「弱者」たちである(公共サービスも年金給付も生活保護も止まり、餓死する人が出る)。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)




・消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。(岩井克人)

とはいえ、中福祉中負担はもはや幻想であり、中福祉高負担しかないのだ。「増税」か「社会保障費の抑制」か、ではない。「増税」して「社会保障費も抑える」しかない事態となってしまっている。

※小黒一正教授の「半歩先を読む経済教室」(2015.11.21)
消費税、最終的に最高32%との政府試算 収支改善なければ財政破綻必至か



ーーこういったデータを眺めれば、行政当局は、ごく自然にやけくそになりがちなのさ、しかもわずかな消費税増さえも、庶民派正義の味方くんたちは許容しないというあの宇宙人のようなテイタラク・・・しかもああいった連中がどこかの大学で講師などをしているのが日本という社会なのだ。

安倍によって奇跡的に(あるいはヤケクソ気味に)、こういった「奇想天外の」難民100万人計画だされていいこぶられないようにーーヤツのとりまき連中は「国民投票」やらといって「民主主義」なるもの醜悪な面の恥を晒そうとするにきまってるから杞憂だがーー、先に「具体的な」計画だせよ、若きうつくしいリベラルの諸君よ!

きみらの主張には、残念ながら今のところ、まったく具体性がなく掛け声だけのようにみえるのだな、それともせいぜい韓国並の200人前後の受け入れでお茶を濁していいこぶる態度とかな。

現代日本のネトウヨが猖獗する社会においては、掛け声だけでも評価しないではないが、そのままではそのうち左翼学者たちと同じ穴の狢に思われちまうぜ。

ひとが本当に恐れているのは、自分の要求が完全に受け入れられることである(……)。そして、今日の「ラディカルな」学者も、これと同じ態度(やるならやってみろという態度)に出られたら、パニックに陥るのではないだろうか。ここにおいて、「現実主義でいこう、不可能なことを要求しよう」という68年のモットーは、冷笑的な、悪意にみちた意味を新たに獲得し、その真実を露わににするといえるかもしれない。(……)

「現実主義でいこう、われわれ左翼学者は、体制が与えてくれる特権をすべて享受しながら、外面的には批判的でありたいのだ。そのために、体制に対して不可能な要求をなげつけよう。そうした要求がみたされないことは、みな分っている。つまり、実際には何も変わらず、われわれがこれまで通り特権化されたままでいられることは確かなのだ。(ジジェク『操り人形と小人』 )

カゲでこそこそささやかれている「生活保守主義」、「利己的個人主義」のボク珍たちという汚名をそそぐチャンスだぜ。

猫飛ニャン助 ‏@suga94491396 9月11日
優秀な社会学者コグマが言うとおり、今のデモは生活保守主義で「動員」されている。先日、武見敬三(自民)とSEALDs等との討論見たが、武見は後者の東アジア情勢への無知たしなめるだけで、両者には何の対立もない。「あなたたちの存在こそ民主主義の証」と武見に褒められて、メデタシメデタシ。(スガ秀実)
同9月12日)コグマの言う生活保守は、少し前に自民党(後に離党)の武藤某が指摘した「利己的個人主義」と同じだろう。だとすれば、コグマ批判のなんリベは、武藤の批判を相対的にでも受け入てから発言すべきかと。コグマをめぐる論争が、学界内のコップの中でしかないように見える理由。アウエイも射程にやれ。

なにはともあれ、日本という島国根性の国では、100万人難民受け入れ計画があっても、なにやかんやで10万人、いや1万人になってしまうのだから、最初はぶちあげろよ、果敢さは若ききみたちにしかできないぜ。

「生活保守主義」なんて、「島国根性」って言われているようなもんじゃないか、諸君、いきどおれ!

――日本の難民受け入れをどう考えていますか。

 「物足りない、の一言です。特に人道的なこういう事件(シリアなどからの大量難民)が起こったときに『まだか』という感じですよね。日本は、非常に安全管理がやかましいから。リスクなしに良いことなんてできませんよ」

 「簡単に言えば、難民受け入れがものすごく厳しいですよ。私が(難民高等弁務官だったのが)2000年までで、今、15年でしょう。変わっていないみたいですよ、残念ながら」

 ――現在のシリアを巡る情勢については。

 「難民については、必要な人の受け入れはしなければならない。それから、難民を出している国の安定というものに対して、技術援助や経済援助だけではできないものがある。政治的な介入が必要ですが、それはとても難しいだろうと思います」

 ――シリア情勢で、日本がすべきことは何ですか。

 「日本を目指して逃げて来る人は少ないんですよ。だけど、(日本にたどり着いた人については)もうちょっと面倒をみてあげてもよいんじゃないかと思います」

 「難民条約を技術的に堅く当てはめようとしたら、助けられる人も助けられない。日本は、それから外れることは非常に難しいんですよ。緊急の状態のときに出てくる人には、やはり柔軟性を持って助けてあげて、そして、その次の定住とかそういうものを考えるということではないか。緊急状態から出てきた人たちに猛烈に厳しいんですよ、この国は」

 ――日本が難民受け入れに消極的である根本的な理由は何だと思いますか。

 「長い間、島国でね、島国を守っていくということだけで来たからでしょう。そういう島国根性的なことは変わっていないと思いますよ。だけど国際化が進んで、非常に国際協力が発達したなかでは、前と同じ島国根性でやっていけるんでしょうかという疑問は持ちますよね」(緒方貞子「難民受け入れは積極的平和主義の一部」)





2015年12月1日火曜日

哀れな破廉恥政治! 哀れなリベラルインテリ!

すこしまえ安倍晋三は、第70回国連総会で演説したがガラガラだった(日本時間の9月30日)、3日間ニューヨークにいてオバマにも会えなかったという「情報」が流通していたな。




あの「難民」問題について破廉恥きわまりない演説をした安倍ちゃんであったな。

ところでエリック・C氏がCop21会議の安倍ちゃんについて次ぎのようなツイートをしている。極度の安倍嫌悪の日本国籍元フランス人か、親がフランス人かの方だが、ここでは、そのいささか「偏見」であるかもしれない観点を楽しもう、安倍が世界的に軽んじられているのはたしかだろうから。

@x__ok: 「パリ到着の安倍首相、同時多発テロ現場で献花」 https://t.co/vbAUeBQHbf この映像見たときに何か変だなと思ったが気がつかなかった。考えてみるとフランスの大統領も総理大臣も内務大臣も誰も安倍と一緒じゃない。安倍は無視されている。皆と並んでいるときも最後列だ。

@x__ok: 【安倍】 映像を良く見てみよう。安倍がどこにいるのか。国際会議はその人の重要度でいる場所が決まる。安倍は国際社会から完全に無視されている。環境問題の会議なのだから当然だ。「COP21開幕、大国間のし烈な首脳外交も」 News i https://t.co/SXuXqFp56E

@x__ok: 【COP21開幕】記念写真で安倍がどこにいるのか探してみよう。国際会議はその人の重要度でいる場所が決まる。安倍は国際社会から完全に無視されている。環境問題の会議なのだから原発事故安全デマ氏には当然の事だ。テロ追悼に行った時も誰も要人が付き合ってもくれなく一人だった。さびしい日本。



@x__ok: 環境会議であるCop21で、うっかりどこかの国の要人が原発事故安全嘘野郎の安倍と仲良く話しているところがテレビにでも映ったら選挙票を失いかねないという事もあるのだろう。だから安倍はパリのCop21会議で後ろの方にされている。 https://t.co/8TIwiNm68w




@x__ok: あまりにも良くわかる写真だ。原子力事故安全嘘野郎は、世界環境会議の記念写真に写してもらえない。 https://t.co/doIzNJT8C8




@x__ok: 原子力事故安全嘘野郎の安倍。世界環境の会議で世界から嫌われていて仲間はずれ。記念写真も後ろの方で顔も見えない。だから産経新聞もこんな写真しか出せるものがない。⇒COP21の記念撮影前にトルコのエルドアン大統領(左奥)と話す安倍首相 https://t.co/rthFN1wXAJ

@x__ok: 大統領(中心)の後ろにアジア人を代表する3人がいるが、原子力安全嘘野郎の日本の首相は、ここには入れてもらえない。国際会議での場所はその人の政治的重要度で決まる事になっています。 https://t.co/btMMiESAZU

@x__ok: 説明してあげなければいけなかった。国際会議では場所が重要なのです。Cop21で安倍がちゃんと写っている写真がどこにもないのです。テロの追悼に行った時は誰もついて来てくれなかったのです。放射能安倍は世界から嫌われているのです。 https://t.co/xysPeTwcb3



おい、やっぱり「世界の孤児」の道、まっしぐらだぜ。もはやトルコと仲良くしてクルド人などを虐待するくらいしか道がないんじゃないか。

「最も険しい場所は、つねに自由の聖域であった」と、トット男爵はその『回想録』のなかで衒学的に語っている。「シリアの海岸を一巡してみると、(トルコの)専制政治が浜辺全体に広がり、山のほうの、最初の岩で、防御しやすい最初の峡谷で止っているのがわかる。それに対して、〔アルメニア高原の〕クルド人、ドルーズ人、そしてレバノン山脈とアンチ・レバノン山脈の支配者であるムチュアリス人は始終その独立を保っている」と彼は注記している。トルコ人の哀れな専制政治!(フェルナン・ブローデル『地中海』)

諸君はよく我慢できるな、このあまりにも破廉恥な状況に「無関心」のままで、ツイッターなどで平然とつぶやいていられるな、ってことだ、わかるか?

あられリベラルなつもりの学者たち、研究者たち、文芸愛好者たちなどこそーーここでは、役人、企業人などの体制主義者たちは無視しておこうーー、安倍の破廉恥ぶりの維持にひどく貢献しているのさ。

・自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが……。

・混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に無自覚であることの高度の政治的選択。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)


中井久夫は第一次安部政権発足時、次のように書いているがね、

「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」

「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」ーー2006.9.30神戸新聞「清陰星雨」初出『日時計の影』所収)

世界の孤児ヒステリーをおこして、さらに日本を深みに引きずり込むんじゃないだろうか? ーーなどと疑問符を捏造して慨嘆してすむ敷居はとっくに越えちまったな

第一次世界大戦後、日本は「孤立」してどうなったかは誰もが知っている。