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2016年4月30日土曜日

吸啜・把握・エロス(中井久夫/フロイト)

原エロス対象の植民地化としてのフェラチオ」からひきつづくが、ほんとうに母の乳房が原初のエロス対象なのだろうか。

子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説』草稿 ――死後出版1940)

これ以外にも、フロイトの『あるヒステリー患者の分析の断片』1905 において、「性器の吸啜」やら「指啜りっ子」という言葉が出てくるなか、《唇と口腔粘膜が一次的な性感帯と見なしうることには、誰も異論を差しはさまぬだろう》とあった。

ところで、子どもがこの世に生まれでる前にも、すでに指啜りっ子であるのはよく知られている。次ぎのものは、五ヶ月の胎児の指啜りの画像である。


(Development of Fetus)



新生児には、いくつかの原始反射があるそうだが(参照:赤ちゃんの8つの原始反射)、そのなかの代表的なものは、「吸啜反射」と「把握反射」 とされる。

だが、新生児どころか、上の画像のように、わずか五ヶ月の胎児のときから「吸啜」仕草があって、その行為は、母の乳房を吸うのに先行している。

中井久夫は、《指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか》としている。

この行為がエロスの原型のひとつとはいわないでおくが、指を口にくわえることは、安心感の原型のひとつであることはほぼ間違いないだろう。

フロイト宛のロマン・ロランの書簡にあった「大洋的感情」ーーフロイトがいささか皮肉をこめて『文化の中の居心地の悪さ』で論評した言葉だがーーの起源でありうる。

乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感情としての外界を区別しておらず、この区別を、さまざまな刺激への反応を通して少しずつ学んでゆく。乳児にいちばん強烈な印象を与えるのは、自分を興奮させる源泉のうちのある種のものは――それが自分自身の身体器官に他ならないことが分かるのはもっとあとのことである――いつでも自分に感情を供給してくれるのに、ほかのもの――その中でも自分がいちばん欲しい母親の乳房――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところへやってこないという事実であるに違いない。

ここにおいてはじめて、自我にたいして「客体」が、自我の「そと」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現れてこないものとして登場する。感情の総体からの自我の分析――すなわち「非我」とか外界とかの承認――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快感原則が除去し回避するように命じている、頻繁で、多様で、不可避的な、苦痛感と不快感である。

こうして自我の中に、このような不快の源泉になりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我とは異質で自我を脅かす非我と対立する、純粋な快感自我を形成しようとする傾向が生まれる。この原始的な快感自我の境界線は、その後の経験による修正を免れることはできない。なぜなら、自分に快感を与えてくれるという理由で自我としては手離したくないものの一部は自我でなくて客体であるし、自我から追放したいと思われる苦痛の中にも、その原因が自我にあり、自我から引き離すことができないと分かるものがあるからである。

われわれは、感覚活動の意識的な統制と適当な筋肉運動によって、自我に所属する内的なものと外界に由来する外的なものとを区別することを学び、それによって、今後の発展を支配することになる現実原則設定への第一歩を踏みだす。この区別はむろん、現実の――ないしは予想される――不快感から身を守るという実際的な目的を持っている。自分の内部に由来するある種の不快な興奮を防ぐために自我が用いる手段が、外からの不快を避けるために用いるのと同じものだという事実は、のち、さまざまの重大な病的障害の出発点になる。

自我が外界とのあいだに境界を置くようになる過程は以上のようである。もっと正確に言えば、はじめは一切を含んでいた自我が、あとになって、外界を自分の中から排除するのである。したがって、今日われわれが持っている自我感情は、自我と外界の結びつきが今より密接であった当時にはふさわしかったはるかに包括的な――いや、一切を包括していた――感情がしぼんだ残りにすぎない。多くの人々の心にこの第一次的な自我感情が――多かれ少なかれ――残っているものと考えてさしつかえないならば、この感情は、それよりも狭くかつ明確な境界線を持った成熟期の自我感情と一種の対立をなしながらこれと並んで存続するだろうし、またこの感情にふさわしい観念内容とは、無限とか一切のものと結びついているとかいう、まさに私の友人が「大洋的な」感情の説明に用いたのと同じ観念内容であろう。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』(旧訳『文化への不満』より)。

ここでのフロイトの叙述は、遺稿である精神分析概説の叙述、《疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす》と重ねて読むことができる。

つまり、乳幼児が乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない状態を 「大洋的感情」の起源だとしていると読んでいいだろう。だが、中井久夫は遠回しにーーフロイトの名を出さずにーーほんとうにそうだろうか、と問うているのではないだろうか。

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」 『時のしずく』所収)

ここには、胎内にいるときからの「母子関係の物質的コミュニケーション」の可能性、あるいは「味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓」、「母親の心音」の重要性などとの叙述さえある。

《母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおり》なら、ひょっとしたら聴覚が、エロスの原型のひとつでさえありうる。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収)

ここでの中井久夫の叙述に従えば、、母の声は、母の乳房より、先行している。その母の声をエロスと呼ぶべきかどうかは、わたくしには、今のところはっきりしないが。

ただし、ラカン派にて、ララングが強調されるのも、実は、この母胎の中の母の声にかかわるのではないか、とさえ思いを馳せないでもない(もっとも正統的な解釈ではもちろん、出生後の身体の出来事とその刻印にかかわるのだが)。

いずれにせよ、ララング lalangue とはまずは、喃語 lalation と関係がある。そして、喃語の起源は、中井久夫の記すように、「母胎の中で母親の言語リズム」に相違ないだろう。

我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ヴェルハーゲ、2001)

母の舌語は、母胎内から始まっている。

ほかにも中井久夫は。「無時間的なものの起源」は母胎内ですごした時間としている(この表現は、上に掲げた「大洋的感情」を想起させる)。ここにもフロイトの「母の乳房」はない。

母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。父子にはそれはない。父親と過ごす時間には過ぎゆくものの影がある。長い時間の釣りでさえ、ハイキングでさえ、終わりがある。終わりの予感が、楽しい時間の終末部を濃く彩る。

友人と過ごす時間には、会うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せなさをしみじみと感じる。それは、友人であるかぎり、同性異性を問わない。恋人と言い、言われるようになると、無時間性が忍び寄ってくる。抱き合う時、時間を支配している錯覚さえ生じる。もっとも、それは、夫婦が陥りがちな、延びきったゴムのような無時間性へと変質しがちで、おそらく、離婚などというものも、この弾力性を失った無時間性をベースとして起るのだろう。

この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」 『時のしずく』所収)


さらに中井久夫は、乳幼児の「吸啜反射」と「把握反射」を連想させる「指しゃぶり」と「粘土を握る」ことについても、統合失調症の治療の文脈のなかでだが、次のように語っている。

患者の自傷他害についてはどう考えるのかということですが、患者さんがそういう行為に出るという場合はいくるかありますね。全然医療いかかっていない時期、つまり発病の間際に行うことが意外に多いんですが、これはおそらく自己感覚が薄れてくるからだと思います。離人症という名前がついていますし、もっと広い意味でもいいんですが、そういうとき、自己感覚を強めるためにスリルを求める。いっときは自己感覚が取り戻せます。

例えば自分の手首を切るとか、中二階から飛び降りるとか、あるいは行きずりの人を殴るということがありますが、殴るという行為の瞬間は心身が一まとまりになるのです。乱暴する瞬間はいわば皮質下的な統一があるのですね。皆さんも壁でも叩いてみるとおわかりだと思います。(……)

こういう場合にどうするかということですけどね、私が使った手段は、なんと粘土の塊を渡すことでありました。まだ駆け出しの精神科医の頃にやったんですね。何かを握っているのは実在感があるんですよ。壁を叩くよりも、粘土をこねまわしているほうが実在感がよみがえってきます。赤ちゃんが最初に子宮の中で自分を認識するのは指しゃぶりであり、自分の身体を触ることなんですよね。そのような対象に粘土を使う。何も細工しなくていんです、粘土をこねていれば。(中井久夫「統合失調症の経過と看護」『徴候・記憶・外傷』所収 PP.215-216)

もちろん粘土も母の乳房のかわりだとする捉え方もあるだろう。それは、われわれの先史時代のことであり、誰にもわからない。

だが、三歳以前の記憶が、先史時代であるなら、乳幼児期と胎児期の区別は決定的なものなのだろうか。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』ーー「幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)」)

…………

飯島耕一に

にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体をつかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっているけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
何をしていいか分からないから起きて書いてる
書いてるんだからウツ病じゃないのかな
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
いい細工の白木の箱か何かにね
さわれたら撫でたいし
もし撫でられたら次にはつかみたいよ
つかめてもたたきつけるかもしれないが
きみはどうなんだ
きみの手の指はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め


ーー谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』より


2016年4月29日金曜日

「私は完全なヒステリーだよ、症状のないヒステリーだな」(ラカン)

原エロス対象の植民地化としてのフェラチオ」にて、《いずれにせよ標準的な男たちーーたとえばゲイカップルを除いてーーは、この点、ひどく不利な条件を備えている》と記したが、これは標準的な男のみに限って、ということであり、軀の柔軟さとおちんちんのそれなりの長さがあれば、口唇欲動の満足は、むしろ男たちのほうが有利な条件を備えているとさえ言いうる。





わたくしも中学一年生だったか二年生のとき試みたことがあるのを隠すつもりはない。残念ながら、長さが足りなかったのか、柔軟性が足りなかったのかのせいで、不成功に終ったが。

いま思えば、もっと訓練しておけばよかったと思う。





とはいえ、やはり先天的に長さが足りない。次ぎの程度の長さがあれば、軀の柔かさがなくても比較的容易なのだが、残念ながら生まれつきの不幸を背負って生まれてしまった。





…………

一般的にはこのように言われてきた。

精神病者は自分の「汚れた洗濯物(内輪の恥)」をいとも簡単に露呈させ、精神病者以外では打ち明けることに恥じらいを覚えるような猥褻な感情や行為を、精神病者は公にする。

これに対して、神経症者はそのようなものを見えるところから隠し、他者からも、自分自身からも見えないようにしてしまう。抑圧とは、このような事実と関係している。(フィンク, "A Clinical Introduction To Lacanian Psychoanalysis", 1995)

というわけで、オレは相対的には精神病的だよ、倒錯的かもな。

神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)

神経症よりいいんじゃないかい?

とはいえ、倒錯者の「問いの欠如」なんて言われるのはヤダな

倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を<他者>に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(ジジェク『斜めから見る』1991)

で、ここは穏やかに精神病的だといっておくさ、「ふつうの精神病」という意味でのね。

でも、人は言語を使用したら、ヒステリー的なんじゃないか。

フロイトは、強迫神経症はヒステリーの「方言」だといってるわけで、ここでは厳密さを期さずに、強迫神経症をもふくめて「ヒステリー」といっておくが。

一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作もこのことを示している(「矛盾する同時性」)。患者は分析中に一方の性的意味から逆の意味の領域へと「隣りの線路の上へそらせるように」たえずそらせようとする。(フロイト『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』)

だれでもやってるだろ、この「矛盾する同時性」を。すこし着物をまくり上げるほうに好みがあるだけさ、オレは。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」1982)

ーーってなわけでね。しかも、ラカン自身、晩年はこういってんだから。

私は完全なヒステリーだよ、症状のないヒステリーだな…[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Le séminaire xxiv)

なにいってんだろうな、ラカンは一見はパラノイア的(精神病的)じゃないか、と思うんだが。

たぶん言語を使用したら、なんらかの形で、ヒステリー的だということじゃないか。

私は相対的にはマヌケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にマヌケだ。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな(ラカン、S.24,17 Mai 1977)

いくらラカンでも言語にいささか啓蒙されちまった存在なんだよ、だったらやっぱりヒステリー的だろ?

精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。(ミレール)

[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants]


肝腎なのは、精神分析などといわないまでも、神経症的に言語に囚われた自らを、主体を、揺らめかすことだ、《vacille le sujet》((lacan.S.18)

で、相対的には精神病、相対的には倒錯、相対的には神経症だよ、オレは。絶対的に神経症になるのは御免蒙るってだけさ。




2016年4月28日木曜日

原エロス対象の植民地化としてのフェラチオ

まず、フロイトがロンドンの死の床で、枕元に草稿がおいてあったとされる『精神分析概説』-ーフロイトの概説のたぐいは精神分析入門者に向けて書かれているものが二つあるが、この草稿は専門家に向けて書こうと試みたものとされるーーから、最初のエロス対象=母の乳房をめぐる記述を抜き出す。

子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』草稿 ――死後出版1940)


次に中井久夫の文をかかげる。ここでは当面、《乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚》に注目して読もう。


成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体 harmonious mix-up の感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。

これに対して、外傷性体験の記憶は「成人世界の幼児型記憶」とはインパクトの点で大きく異なる。外傷性記憶においては視覚の優位重要性はそれほど大きくない。外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』P57~58)


次にポール・ヴェルハーゲの論(2009)から抜き出す。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)

われわれの症状は、このように二重化されている。仮に原初のエロス対象が、《乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚》であって、それが原症状であろうとも、象徴界に生きているわれわれは、その原初のエロス対象を別のものに置き換えて、症状を形成する。

より詳述化されている同じヴェルハーゲの論2002では、次の通り。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”(〔流動する〕身体somaの支配)と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2002)


現実界が象徴界によって植民地化(砂粒の真珠化)されるということは、常にありうる。たとえば、象徴界の諸シニフィアンの連鎖が、ドラの口唇享楽を変形した。つまり、欲動の現実界は、神経性の咳 tussis nervosa と嗄れ声 hoarseness の症状を通して、記号化された。

フロイトの臨床により、ドラの神経性の咳と嗄れ声の上部症状が取り除かれても、口唇欲動は治癒不可能な原症状である。

この原症状を語る文脈のなかで、ヴェルハーゲは次ぎのように記している(対象aは種々の意味があるが(参照)、ここでの対象aは、そのもっとも純粋な意味での対象aである)。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは純化された症状の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するEx-sistenzもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「症状は、こう定義するしかない。それは、各人が無意識を享楽する様態である – 無意識がそう定めるがままに 。」

ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel という彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, ,Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、2002)


ここで少し前に戻って、誰にでもその多寡はあれ残存していると思われる原初の口唇欲動は、一般にどのように変形されるのだろうか。つまりドラの咳や嗄れ声(失語症)のように生活に支障がきたすところまでいっていない症状も含めて考えてみよう。

ここではもうひとつの原初の症状といわれる肛門欲動の議論はしないでおく。ただ中井久夫の次の文を抜き出しておく。

口唇的な人は、結構、ナマコ、クサヤ、ふなずし、ブタの耳のサシミ(琉球料理)、カエル(台湾、広東、フランス料理)などの味も一度知れば楽しむ可能性のある人が多い。私は、喫煙をやめるという人には、やめたからには何かいいこともなくては、と言い、まず、ものの味がわかるようになり、朝、革手袋の裏をなめているような口内の感じがなくなりますよと言い、せっかくだからおいしいものを食べ歩いてはどうですか、それとも家でつくられますか、と言う。配偶者によって(時には子供によって)家族のメニューが決まるから、そのことをにらみあわせて答えを考える。配偶者と食べ歩き計画を立てるのもよい。そのうちに味をぬすんで家庭料理に取り入れる可能性も生まれてくる。喫煙者は皆が皆口唇的な人ではないが、私の観察では、強迫的(肛門的)な人は、タバコの本数は多いかもしれないが、どうも深く吸い込まない人が多い印象がある。けがれたものを体内に入れることに抵抗があるからだろうか。そして強迫的な人は、結構趣味のある人が多い(室内装飾からプラモデル作りまで)。禁煙を機に今まで買いたくて買えなかったものを自分に買うのを許すことが報酬になる。金銭的禁欲とそのゆるめは共に、精神分析のことばを敢えて使えば肛門的な水準の事柄である。(中井久夫「禁煙の方法について」『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収)  

ここには、肛門欲動とは別に、口唇欲動、すなわち、《乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚》が、食事の趣味、あるいは喫煙に変形される、ということが示唆されている。すなわち、現実界の口唇欲動が、口唇や喉頭にどろどろした感覚を与えてくれる食べ物やタバコを咥えることによって、象徴化されているということだ。くり返せば、現実界の象徴界による植民地化(砂粒の真珠化)である。

ブルース・フィンクならこう言う。

たぶん映画におけるステレオタイプのセックス後の煙草は、それにもかかわらず、ある享楽の欠如を示している。なにかがもっと欲望されている、口唇の快楽が満たされていないのだ。(Bruce Fink 「Knowledge and Jouissance 『READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love,Knowledge, and Feminine Sexuality』所収、2002)

ところで、口唇や喉頭にどろどろした感覚を与えてくれる象徴的振る舞いの究極のひとつは、フェラチオであり、口のなかに精子を射精されることだろう(わたくしの叔父は、なまこを咽喉奥あるいは胃まで垂らし込んで上下させるという技をもっていたが、あれもなかなかの効果があるかもしれない)。

ここで、いささかくどくなるかもしれないが、フロイトの「症例ドラ」の記述を掲げておこう。

いわゆる性倒錯のなかで、比較的厭わしくない者は、著述家をのぞき世人が皆知っているように、我が国民中に広く存在している。というよりも、むしろ著者たちもそのことを知っている、というべきかもしれない。ただ彼らは、それについて書こうと筆をとる瞬間に、そのことを忘れようと努めるだけなのである。それゆえ、このような性交(性器の吸啜)が存在することを耳にしていたわれわれのやがて十九歳になるヒステリー嬢が、無意識で、このような空想(ファンタジー)を展開させ、頸部の刺激感覚と咳によって表現したことは、驚くにはあたらない。そして私が他の女性患者について確定しえたと同じように、彼女が外から教えられなくて、このようなファンタジーに到達できたとしても、これまた驚くにはあたらない。というのは、彼女の例では、倒錯の実際行為とやがて重なりあるこのようなファンタジーを、独力でつくりかげるための身体的前提条件が、注目すべき事実であたえられたのである。

彼女は自分が子供のころ、「指啜りっ子」であったことをよく憶えていた。父もまた、彼女にその習慣をやめさせるのに、四歳か五歳になるまでかかったことを思いだした。ドラ自身も、彼女が左の親指をしゃぶりながら、片隅の床に坐り、右手で、そこに静かに座っている兄の耳たぶをむしっていた幼年時代の光景をはっきり記憶している。これこそ指しゃぶりによる自慰の完全な例であって、それについては他の患者もーー後には感覚麻痺の患者やヒステリーの患者もーー報告してくれたのである。私はそのなかのひとりから、この特異な習慣の由来を明らかにする報告をうることができた。この少女は、指しゃぶりの悪習をどうしてもやめられなかったのであったが、子供のころを回想したさいーー彼女のいうところでは、二歳の前半のことーー乳母の乳房を吸いつつ、乳母の耳たぶをリズミカルにひっぱっている自分の姿を思いだした。唇と口腔粘膜が一次的な性感帯と見なしうることには、誰も異論を差しはさまぬだろう。なぜなら、この意味の一部分は、正常なものとされている接吻にも温存されているのであるから。

この性感帯の早期における十分な活動が、後日、唇からはじまる粘膜道の「身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommen」の条件となるのである。そして本来の性的対象、つまり陰茎をすでに知っている時期に、温存されていた口腔性感帯の興奮がふたたび高進するような事情が生れると、すべての源である乳首、それからその代理をつとめていた手指のかわりとして、現実の性的対象、すなわちペニスのイメージを自慰のさいに用いることには、創造力をたいして使う必要もない。こうして、このはなはだ厭わしい、ペニスを吸うという倒錯的ファンタジーも、もっとも無邪気な源から発している。それは母または乳母の乳房を吸うという、先史的ともいえるファンタジーの改変されたものなのであり、普通、それは乳をのんでいる子供との交際でふたたび活発化したものなのである。その場合、たいていは乳牛の乳首が、母の乳首とペニスのあいだの中間表象として使用される。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』人文書院旧訳 フロイト著作集5 PP310-311)

さて、いずれにせよ標準的な男たちーーたとえばゲイカップルを除いてーーは、この点、ひどく不利な条件を備えている。いくらクリニングスをしても、その後、ゴックンというわけには(例外を除いて)いかないのだから。





もっとも性交相手の女性が妊娠中やその直後であって、乳がふんだんに出るなら状況はいささか異なるのかもしれないが。





だから、男たちは性交後に(性交でえた快楽のものたりなさを補うために)煙草に手が伸びることが多い。やはりソーセージと蝦蟇口の相違は大きい。

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』)

女たちも、性交後に、煙草のたぐいに手が伸びるとしたら、なにかが足りなかったせいだ・・・





ブルース・フィンクをくり返せば、《セックス後の煙草は…ある享楽の欠如を示している。なにかがもっと欲望されている、口唇の快楽が満たされていないのだ》。

男たちは解剖学上、始原のエロス欲動に近似した性の享楽から、女たちにくらべ遠く離れている。

詩人たちはそのことにとっくの昔から気づいている。

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。

ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より

Tristis post Coitumとは、「性交後の悲しみ」のことである。

だが、せめて男たちは、女たちが「性交後の悲しみ」、たとえば性交後に煙草などを吸わないよう、彼女たちに十分に貢献せねばならぬ・・・





なおかつ、次のような調査もある。

最近の調査が示しているのは、多くの女たちはフェラチオを、彼女たちが権力感として、経験していることだ。それは、もちろん、イニシアティヴをとるという条件において、であるが。言い換えれば、能動的役割をとるという条件において、である。(Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE.1998) 

解剖学的にどうしても受動的立場におかれやすい女たちの能動性発露の行為でもあり、やはり女性のために、よりいっそう賞揚せねばならぬのではないだろうか・・・

フロイトはくり返している、快と不快とのあいだの対立とは、別の対立を隠しているようにみえる、と。それは、はるかに重要な対立である。すなわち、他者に対して能動的であるか、受動的であるかの対立である。

もちろん例外はある。だが原初の口唇欲動までをも否定できるものだろうか。例外とは、多くの場合、なんらかの形式の「防衛」であるだろう。

……症状形成という言葉自体を代理形成の同義語としてもちいなければなるまい。そうすると防衛過程は、逃避と類似のものであることが明らかである。逃避とは、自我が外界のさしせまった危険からまぬかれる手段であるが、防衛過程もまた、衝動の危険からの逃避の試みといえる。(……)

抑圧は、根本的に逃避の試みである。抑圧されたものは、自我という大きな統制から追放され、除外されて、無意識の世界を支配する法則にのみ支配される。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

フロイトはこの晩年の論文で、『夢判断』1900以前に使用した語彙「防衛」を復活させようとしている。 《防衛という古い概念をふたたび採用するのに十分な根拠がある。防衛とは、同じ傾向ーー衝動の要求にたいする自我の保護ーーをもつ以上にのべた過程をすべて包含し、抑圧はその特別な場合としてこれにふくまれる》と。

抑圧という語彙が廃れつつある現在、われわれは防衛という語彙を使わなければならない。


2016年4月27日水曜日

乃公の愛した「ちあきなおみ」

一人のひと

 ひとりの男(ひと)を通して
たくさんの異性に逢いました
男のやさしさも 
こわさも 弱々しさも 
強さも だめさ加減や 
ずるさも 育ててくれた厳しい先生も
かわいい幼児も
美しさも
信じられないポカでさえ
見せることもなく全部見せて下さいました
 二十五年間 見ることもなく全部見てきました
なんと豊かなことだったでしょう
たくさんの男(ひと)を知りながら
ついに一人の異性にさえ逢えない女(ひと)も多いのに

ーー茨木のり子『歳月』所収




ちあきなおみ 夫急逝から23年…今も毎月の墓参りで涙流す


ツイッターで「ちあきなおみ」の名に遭遇したので、
何十年ぶりかで彼女の「喝采」を聴いてみた。





いやあ、じつにすばらしい、
昭和47年、つまり1972年か
乃公が北海道に親に内緒で独り旅に出た前年の紅白だな

なぜ長いあいだ忘れてたんだろう
女としてもこよなく魅惑的だが、
(なぜオレは、あのとき、ちあきなおみの付き人志願しなかったんだろ)
彼女の声はすばらしすぎる
何曲か聴いてみたが、オレにはこの喝采がいちばんいい
(武満徹、どうしてちあきなおみのためにジャズ編曲しなかったんだろ)

ははあ、若死にしちまった旦那(宍戸錠の弟)はなかなかいい男だな




……ま、それはこの際どうでもいいさ、
彼女の歌声だよ、問題なのは

サラ・ヴォーンと同じぐらいすばらしいといったっていい






ちあきなおみにクリフォード・ブラウンもマックス・ローチもいなかったのが残念だ






ちあきなおみは、今だってビリー・ホリデイのようにさえ歌うことができるんじゃないか





…………

ちあきなおみは、《米軍キャンプ、ジャズ喫茶やキャバレーで歌ったり、演歌歌手としての修行をしたり、下積み時代の10代は芸名を変えながら、いわゆるドサ回りで全国を回る》ということをしていたらしいが、それも今のわたくしには、とても好意がもてる。怪し氣なる洋裝の女、という感じがとてもよい。




荷風散人年六十八 昭和二十一年

八月十六日。

晴。殘暑甚し。夜初更屋内のラヂオに追出されしが行くべき處もなければ市川驛省線の待合室に入り腰掛に時間を空費す。怪し氣なる洋裝の女の米兵を待合すあり。町の男女の連立ち來りて凉むもあり。良人の東京より歸來るを待つらしく見ゆるもあり。案外早く時間を消し得たり。驛の時計十時を告げあたりの露店も漸く灯を消さんとす。二十日頃の月歸途を照す。蟲の聲亦更に多し。(『断腸亭日乗』)

というわけで、ちあきなおみから、「怪し氣なる洋裝の女」と、あの「歌詞の腸疾患的熱病の暗示」を除いたって、何かが残るのだよ、


抒情詩の歌詞と歌曲からあの腸疾患的熱病の暗示を除きさったら、いったい何が抒情詩や音楽に残るのであろうか?・・・ 残るのは、おそらくは芸術のための芸術、すなわち、その沼沢のなかで捨鉢にガアガアと寒さにふるえながら美事な咽をきかせる蛙の鳴き声であろう。(ニーチェ、遺稿)

なにが残るだって? オレがちあきなおみ風のやたらに無邪気でかつひどく艶っぽい田舎中学の少女に惚れてふられたせいで「絶望」して夏休みに「家出」した事実だって残ってるさ




精神の貴族としての倒錯者

読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。

そして、読書の神経症とテクストの幻覚的形式とを結びつけるだろう。

フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。

強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。

偏執症者(パラノイア)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。

(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなある批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ーーという神経症(ヒステリー・強迫神経症)、精神病(パラノイア)、倒錯(フェティスト)の区別をそれなりに信用してきたのだが、さて、ミレールが次ぎのように言うとき、これをどう処理したらいいのだろう。

神経症においては、我々は「父の名」を持っている、正しい場所にだ。「父の名」は、太陽の下に、その場がある。太陽とは「父の名」の表象だ。

精神病においては、我々が古典的ラカン派の仕方でそれを構成するなら、代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ。(…)

「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ。
(…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。

精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。(…)父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいは「それぞれに仕方で、みな妄想的である」に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも、まさにこのようにある。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳,PDF

このように神経症/精神病/倒錯の三区分を曖昧にされてしまうのは、いささか抵抗がある。

わたくしは御覧のとおり、《切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いている》タイプであり、すなわちフェティスト、倒錯者であることを自認してきた身としては。

どうも世間には、そうでないタイプ、パラノイアやら、ヒステリー、強迫神経症者がうようよしているように感じられる。

あれらの連中も「ふつうの精神病」の変種としてしまうのはーーそうであるのかもしれないがーー、人間観察上は、あまりおもしろくない。

むしろ、ミレールが以前言っていたような古典的区分けのほうが(人間観察上は)役に立つ。

ラカンが新しい概念をつかんだとき、あるいは臨床的仕事の新しい観点を強調するとき、彼はそれを神経症・精神病・倒錯に適用します。精神分析においては、新しい観点を作るならば、この三つの領域に関連付けて複雑にしなければならないのです。神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。…(「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」 ジャック=アラン・ミレール松本卓也訳)

仮に、前回記したように(参照)、「父の名」の下っ端の「父の諸名 les Noms-du-père」が、母から受動的に侵入・刻印された原初の徴とそこから逃れようとする個人の能動的な徴(名付け)の両方を表し、後者が神経症者におけるような「父の名」(父の法)が介入する以前の父の代りの倒錯ヴァージョンpère-version であるとしても、そうであるなら、神経症とはpère-version のヴァージョンが取り払われたれた究極の「倒錯」ーーかたまっちまった倒錯ーーとするわけにはいかないはずだ。

倒錯者と神経症者が、結局は、同じ構造であるなどといわれたら、倒錯者である〈わたくし〉は、あの神経症者のアホウどもといっしょにされたくない心持でーーひどい苛立ちを伴ったーー、さむいぼが立ってしまう。

しかも、ミレール曰く、タトゥーも「父の名」であり、仕事も「父の名」だって?

刺青は、身体との関係における「父の名」でありうる。…(場合によって)仕事の喪失は精神病を引き起こす。というのは、仕事は、生活手段以上のものを意味するから。仕事を持つことは「父の名」だ。

ラカンは言っている、現代の父の名は「名付けられる」 êtrenommé-à こと、ある機能を任命されるという事実だと。社会的役割にまで昇格させる事、これが現在の「父の名」である。(同 ミレール、2009)

だが、どうもこの両者(タトゥー者と仕事者)には根本的な相違があるという思いから逃れることはできない。(もっともユダヤ人たちなどのタトゥーのヴァリエーション、「割礼」が、父の名の変種であるだろうことは、十分ありうるだろうが(参照))。

そうはいっても、「仕事」などを奉じたてまつるのは、「三井人」のようになって何も恥じることのない究極の家鴨の群の種族ではないか。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

これは、たとえば「芸術家」という 「職業」に従事して、毎回かわりばえのないことをやっているーーなんのパッションもなく、ただひたすら芸の質を落とさないように精進しているらしき種族も同様である。

ところで、神経症者と倒錯者との境目は、大他者に帰して、自らの享楽を誤魔化すヤツと、自らの身体などで処理する「賢明さ」を備えた高貴な種族との差にあるのではないだろうか・・・

神経症とは何だろう? このシンプルな問いは答えるに難しい。というのは主に、フロイト理論が絶え間なく進化していくからだ。この変貌の主要な理由は、まさに強迫神経症の発見である、そしてそれはフロイトにとって生涯消え去ることのなった欲動をめぐる議論と組み合わさっている。私は、最初から結論を提示しよう。神経症とは、内的な欲動を〈他者〉に帰することによって取り扱う方法である。ヒステリーとは、口唇ファルスとエロス欲動を処置するすべてである。強迫神経症とは、肛門ファルスと死の欲動に執拗に専念することである。(Paul Verhaeghe、OBSESSIONAL NEUROSIS、2004


もちろん、わたくしが、神経症者とは異なって、「精神の貴族」に属しているのは、御覧の通り、切り取られたテクスト、引用や慣用語や活字の細分化、単語の快楽に耽溺していることから歴然としている・・・

人々をたがいに近づけるものは、意見の共通性ではなく精神の血縁である。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげに Ⅰ」井上究一郎訳)
人間は自分の精神が属する階級の人たちの言葉遣をするのであって、自分の出生の身分〔カスト〕に属する人たちの言葉遣をするのではない、という法則……(プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」同上訳) 

とはいえ、ここでジジェクの神経症、・精神病・倒錯の三区分の定義には、敬意を払っておこう。

神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012

ようするに神経症者は「盲目」なのである。 精神病者や倒錯者のほうがずっとましだ・・・

最後に、ネット上には、とんでもない不感症の神経症者たちが跳梁跋扈しているので、ここであらためて断わっておくが、わたくしの三点リーダー(・・・)とは、(笑)と同義である・・・



2016年4月26日火曜日

言語による世界の整合化と貧困化(中井久夫とラカン)

父の名(複数の父の名) 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。[…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)

このラカンの父の諸名は、その言葉の印象からくるのとは違って、母にかかわるだろうことをすこし前みた。

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話されている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語のなかで、話すことを学ぶ。この言語へに没入によって形成され、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。(Geneviève Morel、2009,私訳ーー参照

もっとも「母性のオルギア」(距離のない狂宴)、つまり母の享楽の徴から分離しようとする父の機能のヴァリエーションーーラカンの père-version (父のヴァージョン・倒錯)ーーという面はあるので、一概に「父の諸名」が、「母の法」にかかわるとしてしまうのは疑わしい。

Ce n'est pas que soient rompus le Symbolique, l'Imaginaire et le Réel qui définit la perversion, c'est que ils sont déjà distincts, et qu'il en faut supposer un quatrième… qui est le sinthome en l'occasion …qu'il faut supposer tétradique ce qui fait le lien borroméen, que « perversion » ne veut dire que « version vers le père », et qu'en somme le père est un symptôme ou un sinthome, comme vous le voudrez.(S.23)

だが、原初の刻印は母親役の人物から来るのはまちがいない。最初の徴、trait unaire(「一」の徴)は、《徴のもっともシンプルな形であり、厳密に言って、シニフィアンの起源》であり、そして 《享楽の侵入の記念物commémore une irruption de la jouissance》でもある(S.17)。(参照

「父の諸名 les Noms-du-père」とは、母から受動的に侵入・刻印された原初の徴とそこから逃れようとする個人の能動的な徴(名付け)の両方を表しているのではないか。後者は神経症者におけるような「父の名」(父の法)が介入する以前の父の代りの倒錯ヴァージョンpère-version ではないか。

きみたちは、私が何度もくり返したことを聞いたはずだろう、精神分析は、新しい倒錯を発明することさえ成功できていない、と。ああ何と悲しいことだ!

Vous m'avez entendu très souvent énoncer ceci : que la psychanalyse n'a même pas été foutue d'inventer une nouvelle perversion. C'est triste !(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)


…………

以下の中井久夫の文には、晩年のラカンと同じように「名付け」と「母」という語が同時に出てくる。

◆中井久夫「発達的記憶論」2002より

「断続平衡論的発達観」にもとづけば最初の大きな断続=飛躍は出産である。この新しい世界の分節化に対応して空間開拓が開始される。それは、外界の開拓でもあるが、自己身体の空間開拓でもあり、心理的空間の開拓でもある。さらに時間の空間化・分節化もはじまる。これには内的なリズムと、それに応じた母親役の対応によって進行する。空間の開拓は日本の哲学者坂部恵、市川浩らが「みわけ」「ことわけ」として強調するように世界の分節化である。これと関連し並行的に進む過程があり、それは「名付け」naming である。「名付けること」によって、それ以前の混沌としたマトリックス的な世界の中にただよっているものが区分され明確となる。この過程をバリントは「物質」matter から「対象」object への移行と述べている。ここで「基盤」としてのマトリックス(語源的に「母」である)がなければ、空間開拓もありえないことを付言しておこう。

名付けることによって、人は世界を分節化する。

ラカン曰く、人が「昼と夜」と言えるようになる前には、昼と夜はない。 ただ光のヴァリエーションがあるだけだ、と。

世界に「昼と夜」というシニフィアンが導入されたとき、何か全く完全に新しいものがうまれる。 (ミレール、The Axiom of the Fantasm、 Jacques-Alain Miller、2013)

だが、中井久夫=バリントによれば、そのとき「物質」から「対象」の世界へと移行する、ともある。これを前期ラカンは、言語による「物の殺害 meurtre de la chose」(E.319)と呼んだ。

中井久夫はこれを言語化による「貧困化」としている。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 p.66)

言語にはこのように両面がある。《世界の整合化と因果関連化》(同中井、P.61)する面と、世界を貧困化する面と。

これは、ラカンによって、次ぎのように言われたことにもかかわる。

……われわれは、思考にとって「AはAである」ということが昔からいかなる困難を引き起こしてきたかを知っている。「AはAである」というとき、AがかくもAならば、なぜAを自分自身から切り離し、すぐに置き戻すのであろうかというものである。(ラカン『同一化セミネール』)

かつまたその変奏はいくらでもある(参照:“A is A” と “A = A”

ハイデッガーにとって、 “A is A” が “A = A”に還元されることは許されない。むしろ、そうしてしまうことがプラトン以来の「存在喪失」に帰着することになる。(柄谷行人「非デカルト的コギト」(初出 1992)『ヒューモアとしての唯物論』所収 P.96)  

存在喪失は、「物質」から「対象」の世界への移行によって起る。

ラカンの存在欠如 manque à être とは、言語の遡及的な rétroactif 効果 effet から生じる。《L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.》 (S.17)

ジジェクならこう言う。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。〔ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ここにも、中井久夫=バリントの《「物質」から「対象」の世界へと移行》があるといってよいだろう。

若きニーチェはすでにこう言っている。

なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。

すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである。(「哲学者に関する著作のための準備草案」1872∼1873)

さて、ここでふたたび中井久夫に戻ろう。

この「名付け」による対象化によって、対象極が形成される。正確には「自極」と「対象極」の分化である。

これは安永浩のファントム理論の用語である。安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。



われわれは、このようにして老年に近づいてゆくと、自極と対象極は、幼少時のように接近してゆく。すぐれた詩人が、少年期と老年期に傑作を生むのもこれに由来するのではないか。

《詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である》(中井久夫『現代ギリシャ詩選』一九八五年、序文ーー「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ」)

徴候感覚は、自極と対象極が接近していないければ、現われがたい。

真の詩人は、言語によって貧困化された「敷居」を超えなければならない。

しかし心得てほしい。われわれの語るところは、物たち自身が内々、おのれのことをそう思っているだろうところとは、けっして同じではないのだ。恋人たちの心に迫って、その情感の中で何もかもがこの世ならぬ恍惚の相をあらわすように仕向けるのも、滅多には語らぬ現世の、ひそかなたくらみではないのか。敷居はある。たとえ恋人たちがそれぞれ昔からある自家(いえ)の戸口の敷居をいささか、踰えることによって擦り減らしたところで、二人にとって何ほどのことになる。以前の大勢の恋人たちに後(おく)れて、以後の恋人たちに先立って、自身も痕跡を遺すだけのことではないのか……かすかに。リルケ「ドゥイノの悲歌」古井由吉訳)

さて、「発達的記憶論」より、もう一パラグラフだけ続ける。

 「名付け」による対象化の過程は「自極」の成立の過程でもある。また「名付け」は他者から与えられる。「自己は他者からの贈り物である」という新トマス学派ののカトリック哲学には聴くべきところがあると私は思う(エミール・ブレイエによる紹介の、記憶による引用)。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

《「名付け」は他者から与えられる》とあるように、ここにはラカンにはまったく囚われないままで、ラカン理論の核心のひとつが示されている、といってよい。ラカンにとって最初の同一化=疎外は、母とのそれである(末尾にヴェルハーゲによるその詳細説明を附記する)。

たとえば、われわれは、母なる他者から与えられる一人称単数代名詞、「アタシ、ボク」や、自分の固有名をえる。これらの名付けは、ラカン派では、S1 と呼ばれる。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)

このS1によって、世界は整合化されるが、世界は貧困化されもする。ラカンはそれを疎外とも呼ぶ。

Car c'est là l'aliénation la plus profonde du sujet de la civilisation scientifique et c'est elle que nous rencontrons d'abord quand le sujet commence à nous parler de lui(E.281)

すなわち、「主体が己れについて語りはじめるとき最も深く疎外されてしまう」、というのは誰でもが本当は知っているはずだ。もっとも、〈私〉という一人称単数代名詞の統合化機能の欺瞞を愚かにも信じ込んで生を送っている人間も多いには違いないが。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)


…………

※附記

◆“Sexuality in the Formation of the Subject”(ポール・ヴェルハーゲ 、2005)より(参照:原文


【原自我と世界】
…はるかにいっそう興味深いのは、フロイト理論のほとんど忘れられてしまった箇所だ。それは我々に、主体と他者のあいだの相互作用を通したアイデンティティの発達のよりよい理解を与えてくれる。この点にかんして、フロイトは、『快感原則の彼岸』(1920)と『否定』(1925)にて、「原自我」(原初の快自我primitiven Lust-Ichs)、「リアル自我 Real-Ichs」、さらには外部の世界に遭遇した細胞についてさえ語っている。

発達過程は、原自我と外部の世界のあいだの相互作用にて始まる。それが自我にもたらすのは、この外部の世界を三つの異なった局面に差異化をすることである。すなわち、快感を生むもの/不快を生むもの/無関心なままのものだ。

注意しておこう、我々はここで「満足」と「緊張の増減」に関わっていることを。フロイトはこの過程を、その多寡はあれ、生物学的に、さらには動物行動学的にさえ語っている。すなわち、原初における進化する有機体、細胞が文字通りに外部の世界の部分を取り入れることをめぐって。


【取り込みと吐き出し】
快が見出されたものは何もかも内部に取り入れる。不快を生み出すものは何もかも外部に送り返す。これが意味するのは、緊張と緊張の解除の経験は、アイデンティティの発達自体をもたらす、ということだ。そしてこのアイデンティティは全的に外部から来る。発達途上の原自我は、外部の世界に直面し、文字通りにその世界の部分を取り込む。

不快な部分は、可能なかぎりすばやく吐き出される。したがって初期の段階では、外部の世界と悪い非-私は同じものである。逆に、快を与える部分は内部に残ったままだ。その意味は、原自我と快は同じものということだ。それをフロイトは「原初の快自我」と呼んだ。

この「取り込み incorporation」と「吐き出し expulsion」は、先駆者、ーー後に生じる「判断」における知的機能の前身である。知的判断においては、肯定 ( Bejahung)は「取り込み」の代用品であり、否定(Verneinung)は「吐き出し」の後継者である。

注意しておこう、フロイトにとって、「肯定」はエロスと融合の側にあり、「否定」はタナトスの側にあることを。死の欲動の特質、それは分離と分解へと向かう傾向をもつ(フロイト『否定』)。

《判断は、もともと快感原則にしたがって生じた自我への取り入れ、ないしは自我からの排除の合目的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。結合の代用としての肯定はエロスに属し、排除の継承である否定は破壊衝動(タナトス)に属している。》(フロイト『否定』著作集3 p.361)


【母の乳房から母の舌へ】
すべての過程は、快と不快の経験によって方向づけられる。すなわち興奮の上下動に。人間の発達において、文字通りの「取り入れ」と「吐き出し」は、すぐに知覚的イメージの取り入れと吐き出しによって代替される。

この点において、イメージは言葉と繋がる。交流にかかわる人間にとって本質的なものが始まるのだ。この発達段階の大きな一歩が意味するのは、この点以降、我々はもはや有機体と外的世界とのあいだの交換を扱うのではなく、主体と他者とのあいだの交換を扱う、ということだ。

具体的に言うなら、母の乳房から母の舌への移行である。この理由で、ラカンの〈他者〉、大文字の他者は、「具体的な他者」と「他者が子どもに言ったこと全体」の両方を示すのだ。

言葉とイメージの使用は、アイデンティティ形成過程は同じままで、別のメカニズムを導入する。快を与える「外部」を文字通りに取り入れする代わりに、我々は今では〈他者〉のシニフィアンに同一化するようになる。不快をもたらす「外部」を文字通りに吐き出す代わりに、不快を生み出すものを抑圧するようになる(フロイト『欲動とその運命』1915)。


【ラカンの「a」】
ここでラカンのほうに顔を向けるなら、フロイト理論はラカンの鏡像段階理論にて容易に裏づけることができる。簡単に要約するなら次の通り。最初に、幼児は部分欲動から来る興奮を何か外的なものとして経験する。それは“ラカン派では”、文字「a」によって示される。

幼児はこの欲動を統御できない。この欲動を、全体としての身体自体に帰するものとして経験することさえできない。唯一、母の反応を通してのみ、子どもは、心理的には、自分の身体にアクセス可能なのだ。というのは、それが何で「ある」かのイメージを子どもに現わすのは母なのだから。

ラカンはこれを、光学器械からの一枚の鏡の構成として知られるもので描写した。凹面鏡と実際の花束、その下にある実際の花瓶をもっての工夫に富む構築の手段にて、花瓶のイメージは、花束の周りに投影される。

ここでの花束は部分欲動を表す。花瓶は容器を表すーーすなわち、欲動がその中で作用する幼児の全体としての身体である。光学器械の実験が示すのは、反射過程を通して、鏡は次のことを引き起こすのだ。すなわち、容器/身体の表面によって文字通りに包み込まれて、花束/部分欲動が現れる(incorporate[包み込む]のcorpusはラテン語で“身体”を意味する)。




【〈他者〉がメッセージを書き込む紙としての身体】
精神分析的観点からは、これは、母が幼児にその原アイデンティティを構築するイメージを現わすことを意味する。そのようなイメージは決して中立的なものではない。というのは、母は子どもの興奮を解釈する必要があるのだが、この解釈において、彼女自身の欲望と部分欲動への立場が中心的な役割を演じるからだ。ともかくも、アイデンティティの基礎的な層は、〈他者〉によって現わされたイメージに帰着する。そのイメージを子どもは取り込んだり拒絶したりはするが。フロイトにとっても(『自我とエス』1923)、自我は、まずは身体の表面であり、心理的な内容物は後からそこへ付けられる。

これは思いがけない結果をもたらす。我々自身の最も親密な部分、「我々自身の」身体が、〈他者〉によって我々に手渡されるのだ。ラカンによれば、無意識は言語のように構造化されている。この観点において、明らかなのは、身体は最初の紙の一枚として機能することだ、その上に〈他者〉がメッセージを書き込む紙として。

最初の〈他者〉、標準的には母は、要求と欲望を通して、幼児の身体のなかに〈他者〉の欲望を注ぎ込む。そうこうしているうちに、幼児は「自らの」欲望を通して「自らの」身体を持つという意識を獲得する(ラカン『セミネールⅧ 転移』)。結果的に、主体はヒステリー的な身体のイメージを得る。すなわち、〈他者〉のシニフィアンによって徴示された signified 身体のイメージである。

これは奇妙にみえるかもしれないが、ラカン理論のこの側面は、日常生活のなかにもひどく容易に認められる。社会的レヴェルでは、常に〈他者〉が身体の装いや外観を決定づける(ファッション、ジェンダーの役割、アート、ヘルスケア等々)。だが、それだけではない。とりわけいかに楽しむかを決定づける(身のこなし、食べ物、飲み物、エロティシズム)。ミクロレヴェルでは、両親、すなわち最初の〈他者〉と第二番目の〈他者〉は露骨に、見かけと楽しみの両面において、主体の身体の形式を躾ける。それ自体、この身体のイメージはアイデンティティの基礎的レイヤーを形作る。……

…………

最後に注意しておかねばならないのは、ラカンとバリントは幼児の世界の捉え方が異なることだ。中井久夫は『発達的記憶論』から上に引用した文では、バリントに依拠しつつも、ラカンの「幼児の世界は悲惨である」という観点と、バリントの「幼児の世界は至福である」という観点のどちらの立場も「表面的には」取っていないようにみえる。だが、中井久夫が幼児期の構造的な心的外傷を語るときーー《幼児型記憶と外傷性記憶が相似している》(参照)ーー、それはむしろラカン派の観点に近づいているように、わたくしには思える。

たとえば同じ発達的記憶論には次のような文がある。

成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体 harmonious mix-up の感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。

これに対して、外傷性体験の記憶は「成人世界の幼児型記憶」とはインパクトの点で大きく異なる。外傷性記憶においては視覚の優位重要性はそれほど大きくない。外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』P57~58)

ここにある《視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したもの》とは、乳幼児の「本源的な欲動のアナーキー(l'anarchie de ses pulsions élémentaires)」(ラカン)のことではないだろうか。

この「原始感覚」は、母の舌語の介入、あるいは言語によって、整合化・貧困化されなければならない。いや、その宿命にある、とだけいっておこう。

だが、はたして世界の整合化とは、母の舌語(ララング)・言語によるものだけなのか。「母親に抱かれた抱擁感」でさえ欲動の整合化の機能があるのではないだろうか。これも「身体の出来事=サントーム」(ラカン、オートルエクリ)、つまり身体の上の欲動の「原固着」あるいは「刻印」の一種と捉えられないのだろうか(参照)。このあたりが、わたくしには曖昧なままである。

いずれにせよ、この原初の固着や刻印があった後、はじめてエロス欲動やタナトス欲動がうまれる、という立場を、わたくしは最近ーーなんとなくーー取りつつある(参照:人間に「死の欲動」があるのは、言語を使うせいじゃないか?)。

つまり、乳幼児の「本源的な欲動のアナーキー」とは、いまだエロスでもなくタナトスでもない、と。それは、上の中井久夫の文にも、ある介入があって後はじめて、《個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり…》とあるように。

原初 primaire は最初 premierのことではない。(ラカン、S.20「アンコール」、摘要)

原初と思われているエロスとタナトスとは、事後的(遡及的 nachträglich )に見出されるものではないか。

核心となる問いはこうだ。すなわち、固着されるのは欲動なのか、あるいはこの固着が欲動の表象の原形式なのか? さらなる問いは、刻印の形式などあるのか? フロイトはそれを「Kern unseres Wesen (我々の存在の核)」、「mycelium(菌糸体)」と呼んだが、また躊躇ってもいる。(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaegheーー話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant

ここに、いささか雑に記したのは、フロイト・ラカン派や中井久夫の観点からいえばーーかつ大袈裟に言ってしまえばーー、言語を使用する人間という動物である「我々の存在の核(Kern unseres Wesen)」、我々の存在の臍とは何かという問いである。




2016年4月25日月曜日

転げ落ちる坂道、あるいは「格差社会」批判の寝言

道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。(二宮尊徳)

…………

子どもの貧困格差、日本は先進41カ国中34位」(朝日新聞 2016.4.14)という記事に以下の図がある。




1995年に日本を出たわたくしには、実に「感慨深い」図だが、いまもまだ日本という国は「引き返せない道」を転がり落ちているに相違ない。

一般に成長期は無際限に持続しないものである。ゆるやかな衰退(急激でないことを望む)が取って代わるであろう。大国意識あるいは国際国家としての役割を買って出る程度が大きいほど繁栄の時期は短くなる。しかし、これはもう引き返せない道である。能力(とくに人的能力)以上のことを買って出ないことが必要だろう。(中井久夫「引き返せない道」、1988年初出) 

…………

国民総所得が高い国でも、自由主義的な国は、貧困格差が大きい、ということはしばしば言われてきた(たとえば、米国、英国)。日本は、すくなくともかつては英米のようには自由主義的ではなかったはずだ。

ところで、バブル期、日本がひとりあたり国民所得が世界一と言われたこともあるが、実際は次ぎのようなことらしい(数字をこねまわせばこうなるということで、このデータといくらか偏差のあるデータもあるが、おおむねこの線であるのは間違いない)。





上に掲げた図の二番目の「PPPベース」については、次のような説明がある。

……豊かさの指標としては為替レート・ベースの比較には限界がある。これを克服しようとして開発されている指標がPPP(purchasing power parity、購買力平価)ベースのGDP比較である。これは一定の商品群を入手するのに各国の通貨でいくらあればよいかを調査して、これをもとにGDPを比較した指標である。

 同じくIMFのデータでPPPベースの1人当たりGDPのランキングを第2の図に掲げた。これを見ると1980年代の後半から日本の経済力は18位以下から12位にまで上昇したが、その後、1990年代の失われた10年といわれる時期に、再度低下し、1999年には20位となり、その後、20~22位を前後している。為替レートの影響を除いて観察すると日本経済の状況はこのような推移を辿っていることが理解される。


この説明を信じるなら、Japan as Number One とか「世界で最も成功した社会主義国」いわれりしたバブル期でも、日本人の裕福度はたいしたことはなかったことになる。

2015年時点の各国を比べれば次ぎのようになる。

◆世界の一人当たりの名目GDP(USドル)ランキング(2015)




PPPベースならどうなるのか。

するとこんな図に行き当たった(信憑性のほどは確認はしていない)。



これらの図表から判断するかぎり、子どもの貧困格差が世界34位というのは妥当な順位ではないか? さらにいえば、経済の下り坂が続いている国であり、反面、高齢者への社会保障給付がかつての経済絶頂期の残滓として維持されている日本では、子どもへの皺寄せがきて、子どもの貧困格差がひとり当り名目GNPの順位26位以下に落ち込んでもまったく不思議ではない。


…………

ところで、この傾向が続くとき、日本は「平等社会」を目指すべきなのだろうか、--と「挑発的に」言ってみよう。

たとえば、あなたに三人の子どもがいるとする。家計が不幸にして破綻しつつあり、支出を抑えなければならない。そのとき、あなたは三人に平等に教育費をたとえば三割減するだろうか。一人だけを「格差」をつけてーー「依怙贔屓」してーー教育費の支出を維持し、あとの二人は半額にするだろうか。おそらく後者を選択する傾向にあるのではないか。起死回生を狙うなら、いっそうのこと、一人だけに「投資」を集中することだってありうる。

教育費だけではなく、日本社会全体がそういう状況に陥っているようにさえ感じられないでもない。

それ以外にも、一方で、自らの低い地位の格差を歎く当事者からの「格差社会」非難というのは、よくわかるが、他方で、自らが格差社会をうまく泳ぎ、勝ち組/負け組の、勝ち組のポジションにあるものたちーーたとえば、大学教授、大手マスコミのジャーナリスト、大企業の経営者・上位管理職、医者などーーが「格差社会」を批判するとき(ツイッターなどでしばしば見かけるが)、その実状とは何だろう。

弱者への「同情・共感」とは、(ほとんどの場合)自分はそうでなくてよかったという「疚しい良心の裏返し』(参照)にすぎない。しかも多くのばあい、より根源的な(下部構造的な)社会的不正、資本主義(市場原理主義)の体系的暴力に対して「選択的非注意」をしつつの、である。

古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」)

格差社会の原因の主要な原因は、日本の経済の長い下り坂であり、かつまた少子高齢化社会のなかで、高齢者たちがかつての「経済的繁栄」の余韻のままに高額の社会保障給付を受け取っていることだ。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013 より、PDF

「勝ち組」が格差社会を真に批判をしたいなら、なによりもまずここに目を向ける必要があるはずなのだが・・・

ーーわたくしには連中の格差社会批判は、ほとんどつねに寝言にしか思えない。

…………

「消費税は弱者に厳しい税だ」という声も多い。だが、消費額に応じて負担するとい う意味での公平性があり、富裕層も多い引退世代からも徴収するという意味で世代間の公 平性もある。たしかに所得税は累進性をもつが、一方で、「トーゴーサン(10・5・3)」という 言葉があるように、自営業者や農林水産業者などの所得の捕捉率が低いという問題も忘 れてはいけない。(岩井克人

シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』には次のようなフレーズがある。

wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act

この「正しい理由から誤ったことをする/誤った理由から正しいことをする」の前文を、次のように変奏しておこう。短期的な弱者擁護の立場から、消費税増に反対して、長期的に誤ったことをする「美しい魂」がうようよしていると。

完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども(ニーチェ)

消費税増については、たとえばフリードマンの「負の所得税」などと抱き合わせで考えたらいいのであり、世界一の少子高齢化社会においては、論理的に大幅増は避けられないはずだ。

増税が難しければ、インフレ(による実質的な増税)しか途が残されていない恐れがあります。(池尾和人、2015)


財務省


消費税も20%以上にした方が公平でしょう。所得税と法人税は、現在の現役世代が主な負担者になります。それに対して、社会保障の世代間格差には、現在の高齢者が、現役世代のときに負担しなかったことが大きく関わっています。だから、現在の高齢者もふくめて平等に負担する消費税の方が公平なのです。

世代間格差から考えると、人口が減少している現在、現役で働く世代に主な負担がかかる所得税や法人税はむしろ逆進的です。消費税の方が非逆進的で、公平な課税なのです。お年寄りの負担がよく話題にされますが、公平な社会福祉をめざすなら、お年寄りもふくめて全員で負担を分かちあって、それで生活保護などを充実させて、お年寄りも含めて、本当に貧しい人の生活を支援するべきです。

「増税」か「年金の抑制」か、ではないのです。「増税」して「年金も抑える」しかない。それが「ポスト戦後」社会の現実です。だからこそ、そのなかで、各世代が公平に負担を負うようにしなければならない。それが世代間格差を解消することなのです。(佐藤俊樹

より専門的には「中福祉・中負担は幻想」を見よ。

だが、この「正統的」提案の受け入れは、「公共的合意」( ハーバーマス )やら、現在の選挙制度ではまったく期待できない。もちろん、これは構造的シルバー・デモクラシーのせいでもあるがーー年齢層からみた多数派で、投票率も高い高齢者集団は政治家にとってもっとも忠誠度の高い支持基盤であり、彼らの不利益になるような政策を掲げるはずはないーー、それ以前に、より本質的な問題があるからだ。

ノーベル経済学賞経済学者ジェームス・ブキャナンは、《民主政国家は債務の膨張を止めることはできない》と言っている。政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡大するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するから、というものだ。

《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる》(チョムスキー “Necessary Illusions”)

《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(バディウ)

…………

というわけで、何が言いたいのかといえば、勝ち組でも消費税増やインフレがいやなのはよく分かるつもりではあるのでーーそしてきみらのほとんどはとんでもない経済音痴であるのは片言隻語からすぐさま分かるのでーー、そうであるなら、エラそうに上っ面だけの「格差社会」批判云々を(善人ぶって)馬鹿のひとつ覚えのようにするな、ということだ。

それとも諸君らは、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(菊池寛)のたぐいかい? とすれば、経済・財政ぐらいすこしは掠め勉強してから「馬鹿」囀りやれよ(オレがやっている程度の「馬鹿」ぐらいはな、ーーとつけ加えておけば、きみらにすこしは気に入るかもな)。

きみらの「やましい良心」をなんとか埋め合わせたい心持というのは、もし近い未来の財政破綻の可能性・カタストロフィを考慮しなければ、短期的善人ぶりによる「正しい理由から誤ったことをしている」、という振舞いにすぎない。穏やかにいえば、《表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口》っていうやつだ。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)


格差社会を勝ち抜いてきたには違いないんだろ、いわゆる「勝ち組」のみなさんよ! 他者を(無意識的にせよ)蹴落としてな

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 ーーラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈

だから、この際、被害者の側に立って、肩の荷を軽くするってわけかい?

だが、財政破綻したら、公共サービスも年金給付も生活保護も止まり、餓死者もでるかもしれない。つまり弱者が一番被害を蒙る。諸君らの「美しい魂「は、この道を早めているんじゃないか、と一瞬でも疑ったほうがいいんじゃないかい?

アベノミクスの真の狙いが、お年寄りから若い世代への所得移転を促すことにあると いうのは正しい。そして、わたしはすでに年寄り世代ですが、それは望ましいことだと考えています。 (お金とは実体が存在しない最も純粋な投機である ゲスト:岩井克人・東京大学名誉教授【前編】

とはいえ、やむえず行われたーー長期デフレ(転げ落ちる坂道)治療のためにはあれ以外に手がないとの判断でなされたーーアベノミクスの博打は、残念ながら、大負けだというのが大方の見解だ……「日本は「最終局面」シナリオを実行中と前IMFの主任エコノミストが認める


最終局面とは、すなわち、そろそろ《賭けるものが無くなる》局面である。

……他に智慧が無いから博奕を打って閑を潰す。(……)博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭ける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きても止められない。仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける。愈々負けて復取られて終うと、終には賭けるものが無くなる。それでも剛情に今一勝負したいと、それでは乃公は土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節には必ず乃公が土蔵一ツを引渡すからと云うと、其男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好かろうというので、其の口約束に従ってコマを廻して呉れる。ひどい事だ。(幸田露伴『蒲生氏郷』)

黒田日銀にとっての「土蔵」がなんであるかは言うまでもないだろう・・・

いくら海外に「逃亡」したからといって、日本という土蔵が叩き売られるのは、あまりみたくない。




原抑圧・原固着・原刻印・サントーム

la passion du corps = l' Un de signifiant = Lettre = petit(a) --Lacan,S.22 pp.71-73

すなわち、身体のパッション=「一」のシニフィアン=文字=対象a。

un événement de corps = sinthome (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)

すなわち、身体の出来事=サントームである(参照)。

晩年のラカンの「文字 Lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着」あるいは「刻印」を理解する彼なりの方法である。(ヴェルハーゲ、BEYOND GENDER. From subject to drive Paul Verhaeghe 2001)

サントームには、いくつかの意味があるが、そのひとつは、《それ以上縮小できない症状、あるいは原抑圧としてのサントーム[sinthome as an irreducible symptom or primal repression (Urverdrängung)]》(Post-Fantasmatic Sinthome Youngjin, Park、PDF

ーーYoungjin Parkの断言、《サントーム=原抑圧》の正否は当面保留するにしても、その観点は十分にありうるとわたくしは思う。

のちに引用するが、ジジェク、2012も、サントームを、《欲動を構成する最低限のリビドー的固着》としている。原固着はフロイトにとって原抑圧のことである。

ところで、誰がわれわれに「身体の出来事」を引き起こし、われわれの身体になにものかを刻印するのだろうか。それは母なる大他者の侵入による刻印であるだろう。

享楽は、侵入 irruption を通して、身体に起こる。この侵入は徴を獲得する。その徴は、大他者の介入を通して、身体の上に刻印される inscribed。(Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility、2006ーー「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」))

この原固着は、原トラウマだとさえ言いうる。

Et c'est très exactement de façon corrélative à la forme première de l'entrée en jeu du langage, ce que j'appelle la marque, ce trait unaire et, si vous voulez bien, comme marqué pour la mort, si vous voulez lui donner son sens, observez bien que rien ne prend de sens que quand entre en jeu la mort.

C'est à partir de ce clivage, de cette séparation de la jouissance et du corps… désormais mortifié, jeu d'inscription, troupeau qu'on marque, comme le favori du trait unaire …c'est à partir de ce moment-là que la question se pose.(Lacan,XVII)

「一」の徴trait unaire の刻印 inscription とは、死の徴、死に向かう徴 marqué pour la mort である。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance ](S.XVII、参照

…………

……注目すべき点は、私たちが通常の知覚を獲得したり、シニフィアンを使用して言語的表象行うことができたりするようになるには、ばらばらの印象から一つのまとまったイメージへの移行と、イメージからシニフィアン的構造化への移行という二つの翻訳過程、二つの契機を経なければならないという論理だ。一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にあるが、たとえば精神病を父の名の排除という機制だけで捉えることは、精神病者においても言語による構造化はなされているという事実をはっきりと捉えられなくなってしまう。心的装置の成立過程に二つの大きな契機があるとかんがえると、主体的構造の把握がより合理的に行われるように思われる。向井雅明『自閉症と身体』2010)

上にあるように、フロイトの「原抑圧」という用語の理解は、専門家のあいだのなかでさえ、いまだ曖昧なままである。だが、原抑圧もすくなくとも二段階ある。そしてそれは、前期のラカンのテキストがすでに示している。

以下、ラカンのテキストととものロレンツォ・キエーザの解説を掲げよう(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDF)。

ラカンにとって、言語は無意識に先行する。より具体的に言えば、言語は無意識の完全な構造化に先行する。というのは、どんな隠喩的置換もなしに個人において、原抑圧ーー最初の泣き叫び・音素・言葉の換喩的発声ーーが起こるから。Laplanche とは異なり、ラカンは、本源的なelementary シニフィアン を考えた。その原シニフィアンとは、たんに対立的カップルとしてのシニフィアンでありーー母の不在によって引き起こされたトラウマの原象徴化の試み、フロイトによって描写されたFort–Da(いないないバア)のようなものーー、充分に分節化された言語と共の、厳密な意味での抑圧の平行的可能性は、エディプスコンプレックスの崩壊によってのみ、引き続いてもたらされる。(…)

父性隠喩の出現以前に、言語は(非統合的 nonsyntagmatic 換喩として)既に子どもの要求を疎外するーーしたがって、また何らかの形で抑圧されるーー。しかし、無意識も自己意識もいまだ完全には構造化されていない。原抑圧は、エディプスコンプレックスの崩壊を通してのみ、遡及的(事後的)に、実質上抑圧される。

(……)結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は、欲求が要求のなかに分節化された時の、欲望の疎外に相当する》(E690:摘要)。

明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的エゴの統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味で、原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、根本幻想の形成化に相当する。

ここで、ロレンツォ・キエーザとほぼ同様な見解のふたりの論者の見解を掲げておこう。

原抑圧は、まず何よりも「原固着」である。ある素材がその原初の刻印のなかに取り残されている。 それは決して言語表象に翻訳されえない。この素材は「過剰度の興奮」に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」として欲動を解釈した。これに基づいて、フロイトは、システム無意識 system Ucs(Ubw) 概念を開発した。このシステムは、「後期抑圧」の素材、力動的・抑圧された無意識のなかの素材に対して誘引力を行使する。(ヴェルハーゲ、2001(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe、原文ーー話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)
原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、システム意識/前意識system cs/pcs と無意識usc とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

以下、参考のために、ヴェルハーゲ、ジジェク、ロレンツォの別の文脈での解説を掲げておこう(短く抜き出しただけなので、詳細はリンク先を参照のこと)。

原無意識はフロイトの我々の存在の中核あるいは臍であり、決して(言語で)表象されえず、固着の過程を通して隔離されたままであり、背後に居残ったままのもの a staying behind である。これがフロイトが呼ぶところの原抑圧である。このフロイトの臍が、ラカンの欲動の現実界、対象aだ。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive,2001,私訳ーー「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)」)
ラカンによれば、〈母の欲望〉を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における(子どもの)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィアン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。すなわち、子どもが、要求のなかで、彼の欲求を表明 articulate し、要求が想像的シニフィアンを創造すれば、子どもは抑圧をこうむる。

ここから、我々は結論づけることができる。フロイトとは異なり、ラカンにとって、すべての「表象代理」Vorstellungsrepräsentanz は、それ自体、原無意識 proto-unconscious のなかに、必然的に抑圧/刻印される。いったん無意識が、父の隠喩の作用によって、自己意識から正しく区別されたら、そのような表象代理の絶え間ない刻印が続いてゆく。この理由で、我々は言うことだできる、ラカンにとって、正当な原抑圧が起こった後、すべてのシニフィアンは二重に刻印される、と(意識的な通時的鎖 diachronic chain と無意識的な共時的鎖 synchronic chains のなかに)。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDFーー「ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる」)
……ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が全てではない not all ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より私訳ーー「セックス戦争における最大の犠牲者たち」)


…………

そもそもラカンがセミネールⅩⅩ(アンコール)に次ぎのように記したのはなんだろう?(参照

l'essaim. S1 (S1 (S1 (S1 (S1 → S2) ) ) )


このS1は、後期ラカン版の原抑圧(原固着)、あるいは「父の名=S1」を示しているのではなかったか?

S1 はシニフィアン〈一〉から来る、その格言「〈一〉のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。 これに基づいた S1 はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊び S1、 essaim(ミツバチの群)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つ の袋(envelope 封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20)。 (Paul Verhaeghe,Enjoyment and Impossibility、2006,私訳)
どうだろう、ラカンの Y a d'l'Un を、(いくつかの「一」の上に)欲動を構成する最低限のリビドー的固着の式として読むのなら? プレ出来事的な「一」のない多数性から欲動の出現の瞬間として、である。そうであるなら、この「一」は、サントーム、「享楽の原子」、言語と享楽の最低限の統合である。享楽に浸透された記号の一単位(我々が強迫的に反復するチック〔痙攣〕のようなもの)である。そのような「一」は、享楽の微粒子、最も微細で本源的な袋 packages ではないか?(ジジェク、2012)

この後期ラカンの痕跡は、すでにセミネールⅢ(精神病)にある。

精神病者は、もし諸シニフィアンのシニフィアン signifier of signifiers (父の名)が排除され ているなら、いかに意味作用あるいは意味されるものを生み出すのだろうか? 私は、精神病にて《S2s はそれら自身のあいだに関係をもつ》(B. Fink, The Lacanian Subject [1995]) について十分に議論されていないと信じている。

もし、精神病にて、S2s のあいだの関係が、言語のリアル(文字)の領野を超えてゆくのなら、 もし、精神病者がしばしば潜在的(非発病)で、その主体は意味作用の生産をなんとかや っているのなら、ある数のシニフィアンーーS2s を越えたものでありながら正当な S1 の地 位を獲得していないいくつかのシニフィアンの手段によってのみ、そうし得る。

これは次のラカンの言明を説明するだろう、《人間にとって、「正常 normal」と呼ばれるため には、彼は「最低限の数」の縫合点 “a minimal number” of quilting points を獲得しなけ ればならない》(The Seminar Book III, pp. 268‒269)。

言い換えれば、精神病者は縫合点がないわけではない……精神病者は、原初の(そして 質的にはより重要な)縫合点、父性隠喩によって生み出された縫合点を排除している。と はいえ、それにもかかわらず、精神病者は(量的に不十分な数の)他の縫合点を持ってい る。それは定義上、S2 の地位におとしめることはできないものだ。もしこれがそうでなかっ たら、彼はシンプルに「完全な狂人」だろう、彼は我々の言語を話さない…… (ロレンツォ,2007---精神病、あるいは「父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す」症状)

…………

※附記

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に定着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(……

抑圧の第二階段、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。

こういう関係からこの表象は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後期抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、意識から抑圧されたものに作用する反撥だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと関連する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。

精神分析は、精神神経症における抑圧の働きを理解するのに重要な、別のものをわれわれにしめすことができる。

たとえば、欲動の代表 Triebrepräsentanz が抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展することなどである。

それはいわば暗闇の中にはびこり、極端な表現形式を見つけ、もしそれが神経症者の心の中に植えつけられて育つと、患者にとって異物とみられざるをえないばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärke という幻像によって患者をおびやかすのである。

人をあざむくこの欲動の強さ Triebstärke は、空想の中で制止されずに発展した結果であり、たびかさねて満足が拒絶された結果である。この後者の結果が抑圧と結びついていることは、われわれが抑圧の本来の意味をどこに求めるべきかを暗示している。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung,1915

フロイトは後年、『制止、症状、不安』(1926)にて、「後期抑圧」(後の大半の抑圧 Mehrzahl aller späteren)と「最初期の抑圧 (frühesten Verdrängungen )」とを比較して、第二の場合(原抑圧)は現実神経症 Aktualneuros の原因、第一の場合(後期抑圧)は精神神経症 Psychoneuros の特徴としている。

daß der zweite Fall in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist, der erste für die der Psychoneurosen charakteristisch bleibt.

ーー精神神経症とは「抑圧」による病理、現実神経症とは「原抑圧」による病理といってよいのではないか。

そして、このフロイト的観点からは、どの精神神経症にも、その根には、現実神経症がある。

精神神経症と現実神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現実神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)。これは、現実神経症的病理が単独での研究領域であることを正当化してくれる。さらにもっとそうでありうるのは、フロイトは、現実神経症を精神神経症の最初の段階の臍と見なしているからだ。(“ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER:” BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK、2007ーー神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化(中井久夫)

ようは、神経症の症状とは二重構造になっている。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq

※より詳しくは、忘れ去られたフロイトの現実神経症(現勢神経症)概念を見よ、


Somatisches Entgegenkommenーー「身体側からの対応」とフロイト旧訳では訳されているが、英訳ではsomatic complianceであり、これは「(流動する)身体 soma の服従」とでもできるだろうーー この語は「欲動の固着」のことでもある。これが晩年のラカンの「身体の出来事 un événement de corps」でなくてなんだろう。すなわち、Somatisches Entgegenkommen は、明らかに原抑圧=サントームにかかわる。






2016年4月24日日曜日

お前さんは曲がつている

美しいものは裸の女神よりも
裸の樹の曲り方だ。(順)

夕方庭に水を撒いていると
プルメリアの古木に西日があたって
その曲がりぐあいがひどく美しい
めったにないことなのに
今夕はしばらく呆然としていた

……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまが明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……

それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。……

自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか?  (大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』)  

タバコをやめたから
ダンヒルのパイプを河原のすすきの中へ
すててヴァレリの呪文を唱えた
「お前さんは曲がつている。すずかけの木よ」(順)

だがまだタバコはやめない

この地におとずれて最初に魅せられたのは
プルメリアの樹の曲がりぐあいだ
白い花とその芳香もすばらしい
芳醇な花々をふんだんに身にまとった清純な乙女
というわけではない
たわわな白い花のすこしただれたかおり

庭には百年を超えるという老樹が四本ある
このプルメリアは亜熱帯の樹木には珍しく
ひどく成熟がおそい
豊かな樹幹をえるのは長い年月がかかる

当時は遠くの植木屋までさがしまわって
ようやく手に入れた四本だ
いまあらためてその樹々がいとおしい

2016年4月23日土曜日

睡眠=母胎内への回帰(エロス)

誕生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、すなわち睡眠欲動が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内への回帰である。(フロイト、精神分析概説、1938)

フロイトは永遠の睡眠が間近に迫っていることを悟っていたこともあって、最晩年になって母胎内への回帰=睡眠を記したのではないか、--などとわたくしは穿った見方をしたくない。

フロイトは八十三歳まで生きて、最後の十六年は上顎癌の手術につぐ手術で、それでも死の一か月前まで仕事をして、友人に「もういいよ」とささやいて、かねて約束の致死量のモルヒネを打ってもらって死んでいった。それはそれで首尾一貫した生き死にだけれども、彼のもっぱら親しんだのがギリシャ悲劇であるのは、タナトスの血なまぐささと無関係でないような気がする。 (中井久夫「きのこの匂いについて」より『家族の深淵』所収)

ーー睡眠欲動には、タナトスの血なまぐさはない。睡眠欲動とは、フロイトの死の直前の言葉とは関係なしに、母胎内への回帰欲動だろう(もちろん、ここでは疲労等による睡眠「欲求」の話はしていない)。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance ](S.XVII)。

あるいは《人生は、自己流儀の死への廻り道であり、大抵の場合、人生は、急いで目標に到達するものではない。》(同セミネールⅩⅦ)

ーーと、ラカンが享楽と死とを結びつけているからといって、享楽は死の欲動にかかわるなどと単純に思い込んではならない。究極のエロス=享楽(死)への回り道が、タナトス=剰余享楽である。

享楽の原初の(不)可能性は、元々「享楽の存在 l'être de jouissance」としての生きた身体に位置したのだが、享楽の可能性そして同時にその失敗の必要性は、今では母へ投影される。社会の共謀によって、子どもは母へと固着させられる。彼女は絶対の享楽と禁止の選ばれた座席になる。

そのときの問題は、原初の享楽の残余は何かということだ。ふたたびラカンは曖昧な表現で答える、「剰余享楽 le plus-de-jouir」と。仏語では、これを二つの仕方で理解され得る、「もはや享楽しないnot enjoying any more」と「もっと享楽をmore of the enjoyment」である。防御的なエラボレーションの後に、主体にとって残っている享楽は、原初の形式未満の異なったものであり、決して十分に満足を与えない。(PAUL VERHAEGHE,New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009

《……注意しておこう、フロイトにとって、「肯定」はエロスと融合の側にあり、「否定」はタナトスの側にあることを。死の欲動の特質、それは分離と分解へと向かう傾向をもつ(フロイト『否定』)。》(ポール・ヴェルハーゲ 、Sexuality in the Formation of the Subject、2005、原文ーー「ゼロと縫合」)

《結合の代用としての肯定はエロスに続し、排除の継承である否定は破壊欲動に属している》(フロイト『否定』旧訳)--[Die Bejahung – als Ersatz der Vereinigung – gehört dem Eros an, die Verneinung – Nachfolge der Ausstoßung – dem Destruktionstrieb.](Freud: Die Verneinung,1925)

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos 闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

エロスとは、《現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め》るものだ。とすれば、究極的に統合されてしまえば、個体の死がある。たとえば、《ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える》(ポール・ヴェルハーゲ、1998)。

タナトスとは、その融合から逃れようとする衝動である。それを破壊欲動とも呼ぶ。ここに中井久夫のいうような「血なまぐさ」の起源がある。

と、いささか断定的に記したが、わたくしはエロス/タナトスについて、ヴェルハーゲの解釈を最近ますます信頼している。多くの解釈者のエロス/タナトスはほとんど寝言ではないか、とさえ疑っている(参照:フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって)。

エロスとタナトスの二つの欲動は、全く反対の目的を目指す。一方で、融合することが、フロイトがエロスと呼んだものであり、分離することがタナトスである。そしてそれぞれ独自の快を持っている。この観点から、我々はなぜ「とことんまでall the way」行かないのかという我々の問いへの答えを示唆しうる。

まず最初に二つの相克する方向のせいであり、第二にどの方向も主体にとって堪え難い最終的な代償があるせいである。

タナトス欲動は理解するのに簡単だろう。それは解放とゼロテンションにむけて励む。それは最終段階としての死、そして死に向かった強烈な踏み台としてのオーガズムである。フロイトにとって、タナトスの目標とは分離であり、より大きな統一体からより小さな断片への絶え間ない分裂である。主体の水準において、これが意味するのは、他者からの分離であり、強化された個人的特性ーー私はここにいる、独立した人間として存在する、である。

エロスの目標は全く反対だ。それは融合であり、異なった要素を統合して、より大きな全体とすることである。そこでは個々の要素は、その個人的特性を失う傾向にある。生は、絶えず増大する緊張の集合体であり、それは純粋な享楽である。もっとも個人にとってはそうではない。個人は集合体へと消滅してしまう。個人はこの消滅をきわめて怖れることになる。

単独でタナトス欲動に従えば、我々は孤立して最終的には死ぬ。もっぱらエロス欲動に従えば、同様に我々は消滅する。今度はより大きな統合に飲み込まれるのだ。どちらもそれぞれ固有の享楽がある。どの人間も彼(女)自身の道の地図を作らねばならない。フロイトは、標準的な環境においては、二つの欲動は混ぜ合わされ(欲動融合Triebmischung)、各個人の人生において絶え間なく変化するカクテルだと言う。

ラカンはこのフロイトの論拠を引き継ぐ。享楽と死はきわめて近いものだ。享楽への道は、死への道である(Lacan, [1969-70], p. 18)。享楽それ自体、生きている主体には不可能である。というのはそれは自身の死を意味するのだから。唯一残された可能性は遠回りの道筋を取ることだ。目的地への到達を可能なかぎり遠くに延期してその道筋を行ったり来たりすることである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009)

中井久夫自身、次のように記している。

「死の本能」は戦争が生み出したものであって、平時の強迫神経症はむしろ、理論の一般化のための追加である。裁判でフロイトは戦争神経症を診ていないではないかと非難され、傷ついたであろう。これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。しかし、私は、「死の本能」を仮定するよりも、夢作業が全力を尽くしても消化力が足りないと考える。このほうが簡単である。そもそも目覚めてもしばらくは記憶している夢は夢作用が消化しつくせなかった残りかすではないか。夢の分りにくさと、その問題性とは、夢作業の不消化物だからではないかと私は思う。(「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 53頁)

「夢作業の不消化物」が「死の本能」の実態ではないか、とある。わたくしは、これを究極の享楽=睡眠(エロス)の残滓が、剰余享楽=タナトス欲動だという風に読みたい。

もちろん、エロス/タナトス概念はほとんどどの論者は曖昧なままであり、中井久夫の次の文もそうだ。

……実際、背の下にふかぶかと腐葉土の積み重なるのを感じながら、かすかに漂う菌臭をかぎつつ往生するのをよしとし、大病院の無菌室で死を迎えるのを一種の拷問のように感じるのは、人類の歴史で野ざらしが死の原型であるからかもしれない。野ざらしの死を迎える時、まさに腐葉土はふかぶかと背の下にあっただろうし、菌臭のただよってきたこともまず間違いない。

もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」より『家族の深淵』所収ーー「トラウマを飼い馴らす音楽」より)

このように、一般には、フロイトのTriebmischung(エロスとタナトスの欲動融合)概念を言うのが無難ではあるが、わたくしは母胎内回帰とは、タナトスではなく、究極のエロスとしたい。

……ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』,1913)

この母なる大地に回帰することが、ヴェルハーゲ解釈では究極のエロスであり、冒頭に掲げたフロイトの「母胎内への回帰」である。

ところで、ドゥルーズ自身、このフロイトの三人の女をめぐって次ぎのように言っている。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

口唇的な母親、ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親に回帰することが、エロスでなくてなんだというのか。

より詳しくは、「融合と分離、愛と闘争、 Zoë とBios(永遠の生と個人の生)」を見よ。

…………

※附記

全ての欲動は、潜在的に〔実質的に)死の欲動である〔…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.〕(Lacan Ecrit 848)とラカンはいってはいる。

だが、ラカンは「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」(セミネールⅩⅩ)として欲動を解釈している。

剰余享楽 plus-de-jouir を「享楽の欠片 les lichettes de la jouissance」(セミネールⅩⅦ)ともしている。もちろん、剰余享楽とは、死の欲動(タナトス)にかかわる。

半永久的な反復運動としての死の欲動は、喪われた享楽 jouissance perdue =究極のエロスの周囲を永遠に旋回する、としてよいのではないか。

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

この理由で、欲動に駆り立てられるセクシャリティは、fascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の反復運動となる。なぜなら、エロスが真に実現してしまえば、それは主体の死となるのだから。

どの「標準的な」男も、否応なしに女へと駆り立てられる。焼けつくような燈火へ向かう蛾のように、男は欲動に駆り立てられる。それは、萩原朔太郎の「青猫」序文にあるごとく。


燈火の周圍にむらがる蛾のやうに
ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ
そが見えざる實在の本質に觸れようとして
むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる
私はあはれな空想兒
かなしい蛾蟲の運命である。

…………

最後にラカンによるラメラの「神話」を掲げておこう。

新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る、とちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレットhommelette)、ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。

ラメラ、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただしアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係がある何物かです。それがなぜかは後ですぐお話しましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走り回ります。

ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと想像してみてください。

こんな性質をもったものと、われわれがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。
このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。

それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

Cette lamelle, cet organe qui a pour caractéristique de ne pas exister, mais qui n'en est pas moins un organe - et je pourrai vous donner plus de développement sur sa place zoologique - je vous l'ai déjà indiqué, c'est la libido.

La libido, je vous ai dit, en tant que pur instinct de vie, c'est-à-dire dans ce qui est retiré de vie, de vie immortelle, de vie irrépressible, de vie qui n'a besoin, elle, d'aucun organe, de vie simplifiée et indestructible, de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée.

C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.


ーー性的存在としての個人の誕生は、不死の生 vie immortelle の喪失を意味する、と読んでいいだろう。



2016年4月22日金曜日

おかあさん あなたはうしろ向きで 地面に しゃがんでいた

今朝がた 夢にあなたを見た
あなたはうしろ向きで
地面に しゃがんでいた
ぼくは声をかけようとしたが
やめた
あなたが ぼくのことを
憶えていない と思えたから
死の床のあなたは
未知のむこうが愉しみだ
と 顔じゅうでかがやいた
むこうがわに着いて
そこがどんなか
知らせる方法が見つかったら
きっと背中を押すから
と ほほえんだ
あれから七年
あなたは忘れてしまったのだ

ーー高橋睦郎「おくりもの   七年後の多田智満子に」より

ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、ながい時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心に戻ってくることがある。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)

おかあさん
ぼく 七十歳になりました
十六年前 七十八歳で亡くなった
あなたは いまも七十八歳
ぼくと たったの八歳ちがい
おかあさん というより
ねえさん と呼ぶほうが
しっくり来ます
来年は 七歳
再来年は 六歳
八年後には 同いどし
九年後には ぼくの方が年上に
その後は あなたはどんどん若く
ねえさんではなく 妹
そのうち 娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね

ーー高橋睦郎「奇妙な日」


私にとって家族は、ずっと前から、母と、血を分けた一人の弟だけだった。後にも先にもそれだけである(ただ、祖父母の思い出だけは別であるが)。家族集団を構成するためにどうしても必要とされる単位、《いとこ》は一人もいなかった。それに、家族というものを、もっぱら拘束と儀式だけで成り立っているかのように扱う、あの科学的態度は、どうにも我慢がならなかった。つまり家族は、直接的な帰属集団としてコード化されるか、または、葛藤と抑圧の結節点と見なされるのだ。われわれの学者たちには、《互いに愛し合う》家族もいるということが想像できないかのようである。

そしてまた私は、私の家族を「家族」一般に還元することを欲しないのと同じく、私の母を「母」一般に還元することも欲しない。ある種の一般的研究を読むと、それが私の状況に納得のいく形で適用できるということは私にもわかった。フロイト(『人間モーゼと一神教』)に註釈をほどこしつつ、J・J・グノーが説明するところによれば、ユダヤ教は、聖母崇拝の危険を避けるために偶像を排除したが、キリスト教は、母なる女性の表象を許すことによって「おきて」の厳しさを乗り越え、「想像的なもの」を受け入れたという。私は、偶像をもたず聖母を崇拝しない宗教(新教)に属しているが、しかしおそらく、文化的にはカトリック芸術によって培われてきたので、「温室の写真」を見て、「偶像」に、「想像的なもの」に帰依した、ということになるのである。それゆえ私は、自分に普遍性があることは理解できたのだが、しかし、理解したとはいいながら、どうしても割り切れない気持が残った。「母」一般のうちには、輝かしい、還元しえない一個の核、つまり、私の母が存在していたのである。

私は生涯母と一緒に暮してきたので、悲しみもまたひとしお深いのだ、と人は必ず思いたがる。しかし私の悲しみは、母があのような人であったことから来ているのである。母があのような人であったからこそ、私は母と一緒に暮してきたのである。母は「善」としての「母」であるうえに、さらに一個の人間としての魅力をそなえていた。プルーストの小説の「語り手」が祖母の死について言ったように、私もまたこう言うことができた。《私はただ単に苦しむというだけでなく、その苦しみの独自性をあくまで大事にしたかった》と。なぜなら、その独自性は、母のうちにある絶対に還元不可能なものの反映だったからである。そしてそれが、まさに還元不可能であるゆえに、一挙に、永遠に失われてしまったのだ。

喪は緩慢な作業によって徐々に苦悩を拭い去ると人は言うが、私にはそれが信じられなかったし、いまも信じられない。私にとっては、「時」は死別の悲しみを取り除いてくれる、ただそれだけにすぎないからである(私は単に死別したことを悲しんでいるのではない)。それ以外のことは、時がたっても、すべてもとのまま変わらない。というのも、私が失ったものは、一個の「形象」(「母」なるもの)ではなく、一個の人間だからである。いや、一個の人間ではなく、一個の特質(一個の魂)だからである。必要不可欠なものではなく、かけがえのないものだからである。私は「母」なしでも生きてゆくことができた(われわれはみな、遅かれ早かれそのようにしている)。しかし私に残された人生は、確実に、最後まで、形容しがたい(特質のない)ものとなることであろう。(ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳 PP.90-92


…………

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的であるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう…(アルベール・カミュ『異邦人』 英語版自序)
社会を構成する事実は慣習である。慣習とは、どのような方法をもってしても、またどのように程度をかげんしても、他に方法がないゆえに個人が受け入れ逐行するところの人間的ふるまいの形態である。それらは共存から成り立っている周囲世界、すなわち「他の人たち」、「人びと」……そして社会によって押しつけられたものである。(オルテガ・イ・ガセト『個人と社会─人と人びと─』)

「下顎呼吸がはじまったな」と看護人が云った。 母は口をひらいたままーーというより、その下顎が喉にくっつきそうになりながらーー喉の全体でかろうじて呼吸をつづけている。「これがはじまると、もういかんですねえ」と、看護人は父をかえりみた。

父は無言でうなずいた。そして信太郎に、「Y村に電話するか」と云った。

すると信太郎は突然のように全身に疲労を感じた。と同時に、眼の前の二人に、あるイラ立たしさを覚えて云った。

「べつに、また死ぬときまったわけじゃないでしょう。それに電話したって、伯母さんは来れるかどうか、わからんですよ」

二人は顔を見合わせた。やがて父は断乎とした口調で云った。「Y村へは報せてやらにゃいかんよ。報せるだけでも……」

たしかに、自分の云ったことは馬鹿げたことだ、と信太郎はおもった。しかし確実にせまってきた母の死を前にして、儀礼的なことが真先にとり上げられるということが、なにか耐えがたい気持だった。(……)

すべては一瞬の出来事のようだった。

医者が出て行くと、信太郎は壁に背をもたせ掛けた体の中から、或る重いものが抜け出して行くの感じ、背後の壁と“自分”との間にあった体重が消え失せたような気がした。そのまま体がふわりと浮き上がりそうで、しばらくは身動きできなかった。

看護人が母の口をしめ、まぶたを閉ざしてやっているのに気づいたのは、なおしばらくたってからのことのようだ。看護人の白い指の甲に黒い毛が生えているのがすこし不気味だったが、彼の手をはなれた母を眺めるうちに、ある感動がやってきた。さっきまで、あんなに変型していた彼女の顔に苦痛の色がまったくなく、眉のひらいた丸顔の、十年もむかしの顔にもどっているように想われる。……そのときだった、信太郎は、ひどく奇妙な物音が、さっきから部屋の中に聞こえているのに気づいた。肉感的な、それでいて不断きいたことのなお音だ。それが伯母の嗚咽の声だとわかったとき、彼は一層おどろいた。人が死んだときには泣くものだという習慣的な事例を憶い出すのに、思いがけなく手間どった。なぜだろう、常人も泣くということを彼は何となく忘れていた。その間も絶えず泣き声がきこえてきて、その声はまた何故ともなく彼を脅かし、セキ立てられているような気がした。ついに彼は泣かれるということが不愉快になってきた。それといっしょに、泣き声をたてている伯母のことまでが腹立たしくなった。あなたはなぜ、泣くのか、泣けばあなたは優しい心根の、あたたかい人間になることが出来るのか。(安岡章太郎『海辺の光景』)