2016年12月29日木曜日

三種類の運動

冥府下りと冥府からの途切れがちの声」補足。


①言語活動により穴を作ろうとする芸術家
②言語活動を揺らめかすことによって穴を表わそうとする芸術家
③穴に遭遇してしまってその穴埋めという言語活動をする芸術家

一般的には①の作家に見えるかもしれないプルースト、だが彼の「心情の間歇」の章に真に触れればーープルーストは当初『失われた時を求めて』の題名を『心情の間歇』にしようと考えていたーー、プルーストは③の作家の面があることが知れる。プルーストは①②③がまじりあっている作家であり、ロラン・バルトがプルーストには何でもある、と言ったのはその意味合いでもあるだろう。

ーーと記したわけだが、で、またなんか文句があるらしいな。わたくしがプルーストファンなのは事実だが、これは「常識」なんだよ、わたくしも前投稿を記していてようやく気付いた「常識」だが。

ドゥルーズも書いている(もちろん微妙なニュアンスの相違はある)。

①共鳴の機械
②部分対象の機械
③強制された運動の機械

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros),・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos),である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時 le temps perdu のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時 le temps retrouvéのばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で le temps perdu d'une autre façon、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失 perte は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」)

ラカン理論的にいえば次の図がこの三つの側面を包含している。

(S19、03 Février 1972)


①見せかけ(semblant)→享楽(jouissance)が共鳴の機械
②剰余享楽(plus-de-jouir)→見せかけ(semblant)が部分対象の機械
③真理(vérité)→見せかけ(semblant)が強制された運動の機械

ま、③の運動とは実際は上の図の全運動なんだが(①②の運動もそれぞれ次の矢印に向う。たとえば共鳴の運動は剰余享楽を生む)。

それに「真理」とは何かはそれぞれの「思想家」によって議論はある。すくなくともある時期のラカンにとって「真理」とは「女」だ。

真理はすでに女である。真理はすべてではない(非全体)のだから。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(Lacan,Télévision,1973,AE540)

「女」=「非全体pas-tout」とは、言ってしまえば、「真理はないという真理」だ。

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)


でも、わたくしももうこういう話はどうでもいいよ。真理がないのが真理であったなら、こう記した文ももちろん真理ではないのだから。それぞれ勝手に解釈したらいいのさ。



2016年12月28日水曜日

冥府下りと冥府からの途切れがちの声

そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)

実際、「身体の出来事=サントーム un événement de corps = sinthome》 (Lacan,AE.569)に出会ってしまった主体はどうしたらいいのだろう?

世界は象徴界で出来上がっているのではなく、現実界に支配されていることが分かってしまったら。

全てが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性関係の不在という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ラカンはトラウマのことをトロウマ(穴ウマ)といっている。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

《誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(Miller,Tout le monde est fou Année 2013-2014)。--だがそれに気づかないで生きているうちはよい。だが、ヴァージニア・ウルフのいうように「むき出しの空虚」、ラカンのいう「トロウマ troumatisme」と直面するようになってしまったら。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ブラックホールとはトラウマのことである。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966ーー母なる超自我 surmoi mère、あるいは母の法 la loi de la mère)
現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11、12 Février 1964)
何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

 こういったものに遭遇した主体にとって、もはや《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》、つまり言語の象徴界的セリーとしては書くことができない。あの穴は《「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる ni même l'inconscient structuré comme un langage》(ミレール、2014)ものなのだから。

真の芸術家と偽の芸術家の区別は、ひょとしてここにあるのではなかろうか。もちろん穴との遭遇によって、その穴埋めの一手段「妄想」に専念することにもなりかねないのだが。だが「妄想」するのは何の悪いことがあろう?

芸術がメドゥーサの髪の毛を多数の蛇として造形することが多いのは、蛇もまた去勢コンプレックスに由来しているからである。注目すべき事実は、それら自体がいかに恐ろしいものでも、実際は「恐怖の緩和」として役立っていることである。なぜなら、恐怖の原因であるペニスの不在をペニスに置き換えているためである。(フロイト『メドゥーサの首』草稿、1922年執筆、1940年(死後)出版)

我々の身近にも穴と格闘した草間彌生という芸術家がいる(「シナナイタメニ」)。





とはいえ微かに穴を感じつつ、言語のセリーの徹底化によって穴づくりに励んでいる芸術家を偽の芸術家とは呼ぶまい。それは前期ラカンが壺作りのメタファーで語っている行為である。

ラカン理論における現実界と象徴界とのあいだの関係性…。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より明瞭な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。( Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、2002)
壺は穴を創造するものである。その表面の内部の空虚を。芸術制作とは無に形式を与えることである。創造とは(所定の)空間のなかに位置したり一定の空間を占有する何ものかではない。創造とは空間自体の創造である。どの(真の)創造であっても、新しい空間が創造される。

別の言い方であれば、どの創造も覆い(ヴェール)の構造がある。創造とは「彼方」を創り出し告知する覆いとして作用する。まさに覆いの織物のなかに「彼方」をほとんど触れうるものにする。美は何か(別のもの)を隠していると想定される表面の効果である。(ジュパンチッチ。Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,PDF)

だが後期ラカンはーーすくなくとも臨床的にはーー、散文的な壺作りから象徴界を「揺らめかす」詩人へと転換した(参照:柿の木と梨の木)。

ここまで記してきて気づいたが、おそらく芸術家には三つのタイプがある。我々は象徴界の住人なのだから、言語活動から逃れることはできない。音楽も絵画もすべて言語活動である。

絵画とは、他の言葉では表現することができない言語活動なのです。(バルテュス(=バルタザール・クロソウスキー)

三つのタイプとは次のようなものだ。

①言語活動により穴を作ろうとする芸術家、
②言語活動を揺らめかすことによって穴を表わそうとする芸術家。
③穴に遭遇してしまってその穴埋めという言語活動をする芸術家。

①は散文的な芸術家である。②がどんなタイプであるのかは、エリオットの詩の定義を読めば瞭然とする。《詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのもの》。

詩人としての①あるいは②と、穴に遭遇してしまった③の相違は、中井久夫によって鮮明に記述されている。

「若きパルク」は「誰が泣くのか、過ぎ行く一筋の風ならで/いやはての星々とともにひとりあるこのひとときに」で始まる。『ドゥイノの悲歌』は「誰が、たとえ私が叫ぼうとも、天使たちの序列の中から私の声を聞いてくれようか」で始まる。いずれも鋭い、答えのない「誰が?」で始まる。

そうして「若きパルク」では個人の意識の中に、『ドゥイノの悲歌』では人間の現存在世界とでもいうべきものの中に、ずんずん下って行く。『荒地』だけは問いかけではなく、「四月は残酷な月だ」で始まるが、中途に「誰が?」「誰だ?」という問いかけをいく度も放ちながら、現代社会の荒廃と索莫の地獄めぐりを行う。いずれの詩も最後近くににわかに上昇に転じ、肯定で終わるが、肯定は唐突であり、どこかに弱さがある。読み終えた者の耳に残るものは不安で鋭い問いかけの方である。

これらの詩を二十世紀後半の詩と隔てるものは何であろうか。

私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。

「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。

これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。

たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」『アリアドネからの糸』所収)

ここで中井久夫のトラウマ論からもつけ加えておこう。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
…… 境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りにならば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

もちろん「自由連想」とは、上に記したように、前期ラカンの《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》領野にある。そしてそれに馴染まない外傷性神経症患者とは、《「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる ni même l'inconscient structuré comme un langage》(ミレール、2014)対応をしなければならない。

…………

芸術創造者ではなく鑑賞者においても、①②③のどのタイプに親和性があるかで、その好みーーいや愛の対象ーーが変わってくるはずであろう。

たとえばベケットの作品がどのタイプであるかは、--言わずもがなである。

It is not mine. I have none: I have no voice and must speak. that is all I know. It's round that I must revolve, of that I must speak - with this voice that is not mine. bul can only be mine, since there is no one but me. (Or if there are others, to whom it might belong, they have never come near me.) (Beckett, The Unnamable、ベケット『名づけえぬもの』)
続けなくちゃいけない、

おれには続けられない、

続けなくちゃいけない、

だから続けよう、言葉をいわなくちゃいけない、言葉があるかぎりは言わなくちゃいけない、彼らがおれを見つけるまで、彼らがおれのことを言い出すまで、不思議な刑罰だな、不思議な過ちだな、続けなくちゃいけない、ひょっとしてもうすんだのかな、ひょっとして彼らはもうおれのことをいっちまったのかな、ひょっとして彼らはおれをおれの物語の入り口まで運んでくれたのかな、扉の前まで、扉をあければおれの物語、だとすれば驚きだな、もし扉が開いたら、

そうしたらそれはおれなんだ、沈黙が来るんだ、その場ですぐに、わからん、絶対にわかるはずがあるもんか、沈黙のなかにいてはわからないよ、

続けなくちゃいけない、

おれには続けられない、

続けよう。

ーーベケット『名づけえぬもの』 安藤元雄訳 白水社


そして一般的には①の作家に見えるかもしれないプルースト、だが彼の「心情の間歇」の章に真に触れればーープルーストは当初『失われた時を求めて』の題名を『心情の間歇』にしようと考えていたーー、プルーストは③の作家の面があることが知れる。プルーストは①②③がまじりあっている作家であり、ロラン・バルトがプルーストには何でもある、と言ったのはその意味合いでもあるだろう。

※補足→「三種類の運動


2016年12月25日日曜日

寛容という偽善

男女同権なんて言っている連中は偽善に決まっている」で記したことに、ラカン派によるひねくれた解釈云々と言ってくる人がいるが、あれらは基本的に「心理学」の話だよ。すぐれた「心理学者」による文学ーーたとえばドストエフスキーとかプルースト等ーーあるいはニーチェにはふんだんにある。

放棄する。--その所有物の一部分を放棄し、その権利を断念することは、ーーもしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。(ニーチェ『曙光』315番)
危険な美徳。--「彼は何ものも忘れない。しかし彼はすべてを大目に見る。」--そのとき彼は二重に憎まれる。というのは、彼はその記憶と寛容によって二重に人を恥かしがらせるからである。(『曙光』393番)

…………

享楽の基本的パラドックス…。享楽のどの放棄も、放棄することの享楽を生む。欲望のどの障害物も、障害物への欲望を生む、等々。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
…我々はまた、アイデンティティのポリティカル・コレクトネス主張という基本的パラドックスにおいて、剰余享楽 Mehrgenuss (plus-de-jouir )に出会う。周辺的で排除されたアイデンティティであればあるほど、人は民族的アイデンティティと排他的な生活様式の主張を許容される。これがポリティカル・コレクトネスの風景がいかに構成されているかの在り方である。すなわち西側世界から遠く離れた人々は、本質主義者-人種差別主義者のアイデンティティ(アメリカ原住民、黒人…)と公然と非難されることなく、彼ら固有の民族的アイデンティティの十全な主張を許容される。人が悪評高い白人の異性愛男性に近づけば近づくほど、そのアイデンティティの主張はいっそう問題視される。アジア人はまだ大丈夫だ。イタリア人、アイルランド人もたぶんいける。ドイツ人やスカンジナビア人は既に問題である…

しかしながら、白人の固有アイデンティティ(他者の圧制のモデルとして)のこのような禁止は、彼らの罪の告白を表出をしているとはいいながら、それにもかかわらず、彼らに中心ポジションを授与する。すなわち、彼ら固有のアイデンティティ主張のこの禁止自体が、彼らを普遍的-中立の媒介者、場ーーそこから他者の圧制についての真理が接近しうるーーにする。

この中心ポジションが剰余享楽 Mehrgenuss であり、アイデンティティの放棄によって生み出された快楽である。西側の我々が人種差別を本当に打倒したいなら、最初にしなければならないのは、この終わりなき自責のポリティカル・コレクトネス過程から離脱することである。

Pascal Bruckner の現代左翼への批判はしばしば冷笑に近づいているとはいえ、時に優れた洞察をもたらさないわけではない。人は彼に同意せざるを得ない。ヨーロッパ人のポリティカル・コレクトネス的自己責苦のなかに、転倒された優越性への執着を Bruckner が嗅ぎ付ける時。

西側の人間が非難された時、最初の反応は攻撃的防衛ではなく自己反省である。ーー我々はその報いを受ける何をしてきただろう? 我々は究極的には世界の悪の責任がある。第三世界の惨事とテロリストの暴力はたんに我々の犯罪への反応にすぎない…

このように、白人の「重荷」(植民地化された野蛮人を文明化する責任)のポジティブな形式が単にネガティブな形式に置き換わったにすぎない(白人の罪の重荷)。すなわち、我々がもはや第三世界の慈悲深い主人であり得ないなら、少なくとも特権化された悪の源泉であり得ると。恩着せがましく第三世界の破滅の責任を取り上げてやりつつ(第三世界のある国が酷い犯罪に携わったなら、それは決して彼らだけの責任ではなく、常に植民地化の後遺症だ。彼らは単に植民地の主人が為したことを模倣しているだけだ、等々)。この特権意識が、自責によって獲得された剰余享楽 Mehrgenuss である。 (Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016)

もっともこれは「質の高い」白人リベラルへの批判ではある。白人保守主義者たちは、米人、英人、仏人、独人等々、彼等自らのアイデンティティに恥じないだろう。

フランスは…わが国こそ世界で最も自由、平等、友愛の理念を実現した国だという自負そのものが、ナショナリズムや愛国心を生み、他国、他民族を蔑視し差別するメカニズムが働いてしまっている。…フランスは(人種差別において)ドイツやイギリスに比べてもはるかに悪い。(『ジジェク自身によるジジェク』)

さらに享楽の経済の一般論。

……もっと一般的に言えば、すべての政治は、あるレベルの享楽の経済に頼っているし、さらにそれを巧みに操ることにある。私にとって、享楽の最もはっきりした例は、1943年のゲッペルスの演説である。――すなわちいわゆる総力戦 Totalkrieg 演説だ。スターリングラードでの敗北後、ゲッペルスは総力戦を求める演説をベルリンでやった。すなわち、通常の生活の残り物をすべて捨て去ろう!、全動員を導入しよう!、というものだ。そして、あなたはこの有名なシーンを知っているだろう、ゲッペルスは二万人のドイツ人群衆にレトリカルな問いかけをするあのシーンだ。彼は聴衆に問う、あなたがたはさらにもっと働きたいか、もし必要なら一日16時間から18時間?そして人びとは叫ぶ、「Ja!」。彼はあなたがたはすべての劇場と高級レストランを閉じたいか、と問う。人々は再び叫ぶ、「Ja!」

そして同様の問いーーそれらはすべて、快楽を放棄し、よりいっそうの困苦に耐えることをめぐっているーーが連続してなされたあと、彼は最後に殆どカント的な問いかけをする、カント的、すなわち表象不可能の崇高さを喚起するという意味だ。ゲッペルスは問う、「あなたがたは総力戦を欲するか? その戦争はあまりにも全体的なので、あなたがたは今、どのような戦争になるかと想像さえできないだろう、そんな戦争を?」 そして狂信的なエクスタシーの叫びが群衆から湧き起こる、「Ja!、 Ja!、 Ja!」ここには、政治的カテゴリーとしての純粋な享楽があると私は思う。完全にはっきりしている。まぎれもなく、人びとの顔に浮かんだ劇的な表情、それは、人びとにすべての通常の快楽を放棄することを要求するこの命令は、それ自体が享楽を提供しているのだ。これが享楽というものである。(Slavoj Zizek and Glyn Daly(邦訳名『ジジェク自身によるジジェク』,2004、私訳)

このあたりの機制は、政治学者や社会学者やらのあいだで流通している「パターナリズム」概念だけでは処理できない話だとわたくしは思う。

ほかにも若き柄谷行人によるすぐれた指摘がある。

《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

ーーニーチェがどこでいっているかと言えば、『道徳の系譜』において(『道徳の系譜』は、もっともよくまとまったニーチェの主著だろう。アフォリズムに鈍感な人でもあれを読めばある程度分かってくる)。

結局、ニーチェやジジェクなどがやっていることは次のような「嗅覚」にかかわる。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

《ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。》(フロイト『自己を語る』1925 ) 



2016年12月23日金曜日

母なる超自我 surmoi mère、あるいは母の法 la loi de la mère

症状とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

《ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. 》(ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

…………

埃っぽい路傍の早朝
幼児たちが不安そうな顔をして集まっている
集団登園の初日
母親たちもいる

子供たちは襷がけに白いハンカチをぶらさげている
彼だけが色物のハンカチだ
自分で気づいたのか
誰かに指摘されたのだったか
彼は顔をゆがめて泣き出した

母が慌てて傍によってくる
見知らぬまわりの子供たちのまなざし
付添いの母親たちのまなざし
母の紅潮して困惑した顔
「母の魂に最初の皺をつけたような、
そこに最初の一本の白髪を生じさせた」(プルースト)
母はハンカチにとりかえに
家に戻ったのだったか

田圃を貫く真っ直ぐな道
鎮守の森が遠くにみえる
丈たかい稲の穂が風に揺れている
あそこまで歩いていくのか
母なしで




もっとずっと遠い感じだったことを除けば、このウィキペディアの「鎮守の森」の項にある写真のような光景だった。道には草は生えていなかったけれど。

じつにブラックホールのような景色だ。何度も何度も夢に見て冷や汗が出た。
その夢がやんだのは母が死んだあとだった。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)





やあきみたちはいいね、こういった苦痛がないらしくて。蚊居肢散人は、最近ようやく分かって来たよ、これが分かりたいためにフロイトやラカンをひっくり返していたのだが。

昔は吉行などを読んで慰めを見いだしていたのだが、これもあくまで慰めにすぎないさ。

少年の頃、激しく傷つくということは、 傷つく能力があるから傷つくのであって、その能力の内容といえば、豊かな感受性と鋭い感覚である。(……)さらに、感受性や感覚のプラス自体が、マイナスに働くわけなので、結 局プラスをそのままプラスとして生かすためには、文学の世界に入って行かざるを得ない。 追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。(吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』)

やはり理論的に分かりたかった。ま、分かってどうなるものでもないのだが。

倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安と して解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配して いるのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由であ る。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不 安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

蚊居肢散人の攻撃性発露には気を付けたほうがいいよ、わかるかい、神経症諸君?

《母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである》(Lacan.S5)

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF
超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独自のシニフィアンから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(ジャック=アラン・ミレールーー女性嫌悪 misogyny をめぐって

S(Ⱥ)とは、ラカン派では、La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme を徴示するシニフィアンである。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)

さあてと、クリスマスだな、しばらくオヤスミすることにする。すこしは「自由」になった気分だな・・・

受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成するば、ただちに受動の感情ではなくなる。(スピノザ『エチカ』)


女性嫌悪 misogyny をめぐって

WikiPediaの「女性嫌悪」の項には、次のような記述がある。

ミソジニー (英:misogyny) とは、女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視の事である。女嫌い、女性嫌悪、女性蔑視などともいう。ギリシア語の μισος misos (嫌悪、憎しみ)と γυνε gune(女性)から由来し、女性を嫌悪する男性をミソジニスト(misogynist)と呼ぶ。

日本語版ではあまり多くは記されていないが、英語版 WikiPedia をみるととても由緒のある語であることが瞭然とする。

ミシェル・フーコーのよき友人だった古代ローマ史専門家(アナール派)のポール・ヴェーヌPaul Veyne は、コレージュ・ド・フランス講義1977-78で、古代ローマにおけるセクシュアリティと家族をテーマにした。

ヴェーヌの結論は、後期ローマ帝国ではほとんど何でも許され、近親相姦さえほとんど存在しなかったと。それは愉快な仲間たちのあいだで屁をひる程度にものだと考えられていた。そして唯一、醜聞として拒絶されたことは、受動性(受け身になること)だ、と。

さて表題を「女性嫌悪misogyny をめぐって」としたが、もちろんある立場から「のみ」の、しかもいくらかの文献列挙に終始する。

ただし、これらの資料は「受動性」--ラカンがフロイトの遺言と呼んだ『終りある分析と終りなき分析』1937に出現する、「受動的立場 passive Einstellung」、「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」という表現のまわりを巡っていることには間違いない。すなわち、以下の資料から判断できる核心、少なくともそのひとつは、女性嫌悪の起源は受動的立場の嫌悪である、ということに殆ど等しい。つまりはポール・ヴェーヌの見解に結びつく。そして我々人間のほとんど誰もが母なる大他者に支配されてーー受動的な立場に置かれてーーその生を出発する。


【前奏】
精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)
あまりにも顕著なのは、現代のジェンダー研究において、欲動とセクシャリティへの関心がいかに僅かしか差し向けられていないか、である。(Paul Verhaeghe, Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004、PDF
男は誰に恋に陥るのか? 彼を拒絶する女・つれないふりをする女・決してすべてを与えることをしない女に恋に陥る。(ポール・バーハウ、Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe、1998、PDF
女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
ファウスト

もし、美しいお嬢さん。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。

(……)

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、
溜まらなく嬉しいのだ。(ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳)


 【基礎篇】
構造的な理由により、女の原型は、危険な貪り食う大他者と等価である。その大他者とは原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返しうる存在である。したがって純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねに《魅惑と戦慄 fascinans et tremendum》の混淆である理由である。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆。このことが説明するのは、セクシュアリティそれ自体の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。すなわち、熱望するものは、享楽の原初の状態である。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。すなわち名状し難い、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(セミネール17)

これは、スフィンクスとその謎に直面した状況を我々に想い起こさせる。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンをもたらさなかったら。実のところ、我々は具体的な女について話しているわけではもはやない。逆に全ての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち女も男と同じように、生れたときは母の欲望に直面する:引用者[後引用])。さらに女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。

あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自体とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格 Geschlecht und Charakter』を、ジジェクのコメントとともに読んでみよう。この二つとも意図されずに、臨床的な事実の説明となっている。すなわちおどろおどろしい女性の姿形は、防衛的な機能を伴ったア・ポステリオリな構築物であるという事実を明かしている。(ポール・バーハウ1995,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL, Paul Verhaeghe,PDF

◆カーミル・パーリア「性のペルソナ」より
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。(女性に対する男性の)嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性とか論理といったものは、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安(に抗する為に)から生まれたのだ。………
西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。その典型的なイメージはファンム・ファタール、すなわち男にとって致命的な女のイメージである。宿命の女(ファンム・ファタール)は自然の精神的両義性であり、希望に満ちた感情の霧の中にたえず射し込む、悪意ある月の光である。………
宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………
社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………
自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。………

(性的な意味合いでの)自然とは、食うもの(食物連鎖の上、女を指す)と食われるもの(食物連鎖の下、男を指す)が繰り広げるダーウィン的な見世物である。生殖(性交)はどの側面を見ても食欲に支配されている。性交は接吻から挿入にいたるまでほとんど制御できない残酷さと消耗からなる。人間は妊娠期間が長く、子供時代もまた長く、子供は七年以上も自立することができない。この為に男たちは死ぬまで、(女性への)心理的依存という重荷を背負い続けなければならない。男が女に呑み込まれるのを恐れるのは当然だ。女は(自然を忘れた男を罰して食ってしまう)自然の代行人なのだから。(カーミル・パーリア「性のペルソナ」)


◆ジジェク=オットー・ヴァイニンガー=カフカ、1991
……Kは審問室に入り、判事席の前で熱弁をふるうが、それは猥褻な闖入によって邪魔される。そのとき、Kは洗濯女が法に対して重要な立場にいることを知る。

《そのとき、Kの熱弁はホールの向こう端から聞こえた金切り声によって中断される。何が起きたのかを見ようとして、彼は眼の上に手をかざした。部屋の湿気と鈍い日光のせいで、白い霧のようなものがたちこめていたのだ。騒ぎを起こしたのはあの洗濯女だった。Kは、彼女が部屋に入ってきたときから、なにか騒ぎを引き起こすかもしれないと予感していた。悪いのが彼女かどうかは、わからなかった。Kに見えたのは、ひとりの男が彼女を扉の近くの隅まで引きずっていき、抱きしめていることだけだった。ただし声をあげたのは彼女ではなく男のほうだった。彼は口を大きくあげて、天井を見上げていた。》(カフカ『審判』)

それでは、この女と法廷との間にはどんな関係があるのだろうか。カフカの小説では、「心理学的類型」としての女はオットー・ヴァイニンガーの反フェミニズム的イデオロギーとぴったり一致している。すなわち、女は本来の自己をもたぬ存在であり、倫理的な態度をとることができないし(倫理的な根拠にもとづいて行為をしているように見えるときですら、彼女は自分の行為から引き出す享楽を計算している)、真実の次元にけっして近づくことのない存在である(彼女の言うことが文字通り真実だとしても、その主観的立場の帰結として彼女は嘘をついていることになる)。そのような存在に関しては、彼女は男を誘惑するために愛しているふりをする、と言うだけでは不十分である。なぜなら、この見せかけの仮面の裏には何もないということが問題なのだから。仮面の裏には、彼女の実体そのものである、ねばねばした不潔な享楽しかないのである。そうした女性のイメージに直面したカフカは、ありふれた批判的・フェミニスト的誘惑(つまり、このイメージが特殊な社会的条件のイデオロギー的産物であることを明らかにしたい、あるいは別のタイプの女性のイメージと比較した、という誘惑)には屈しない。それよりもはるかに価値転倒的な身振りで、カフカは「心理学的類型」としてのヴァイニンガー的な女性像を全面的に受け入れ、それを、前代未聞の、前例のない場所に立たせる。その場所とは、法の場所である。スタッハがすでに指摘しているように、おそらくこれが、カフカの基本的戦略である。すなわち、女性的「実体」(「心理学的類型」)と法の場所を短絡させることである。でんとうてきには純粋で中立的な普遍性であった法が、猥雑な生命力に彩られ、享楽に貫かれた、さまざまな異物からなる、一貫性の欠如したプリコラージュの特徴を帯びるのである。(ジジェク『斜めから見る』P277-278)


【経験論篇】
…もう一つ書きたいと思ったのは、男にとって女とは何かです。母親ではあるんですよ。“一切の女人、これ、母親なり”という、仏典か何かにあるんだそうですね。例えば戦争中に戦地へ送り込まれた兵隊の間で、母親信仰というのが強かったと聞きます。

僕も母親と姉とに引かれて走っているわけですよ。逃げている周りに、やっぱり女性は多かった。これはもういかんというときに、女たちに包まれる。その感覚は成人しても濃厚に残っている。

だから、男女のこと、いわゆるエロティシズムのことだけじゃなくて、男が女に生命を守られるという境。それからもう一つ、女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998)
なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出会ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す、すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことである。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナ・デンタータ(「有歯膣」)の神話の言い換えである。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe)


【宗教書篇】
彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…

「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …」

「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」(ソレルス『女たち』)

ーーデボラは、ソレルスのパートナー、クリステヴァがモデルとされている。

ラカンの最初のエディプス理論とは次のような形で説明されている。母は子供を、ほとんど致死的な deadly 仕方で享楽する。主体は唯一、父の介入を通してのみ、母による潜在的に命取りのlethal 享楽から救われる。

同じ理屈が、三つの宗教書のなかに漸増する形で見出される。初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女への不安と憎悪、最後にムスリムのベール等への強制。

すなわち女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない、ということである。これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰して、もし必要なら、この他者を破壊することだ、と。

事実、享楽と他者とのあいだの、この発達的に基礎付けられる繋がりは、主体にとって享楽にかんする相克を外部化する道を開く。そうでもしなければ、自身の内部に留まったままになりうる。…

フロイトはくり返し言っている、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということである…。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)
注) 我々の現代的西欧社会では、最初の世話役は父でありうるし、ジェンダーの平等が多かれ少なかれ成就している。その社会では、男たちに向かっての女たちからの同じ反応を漸次、観察できるようになった。すなわち、男たちのエロティックな魅力の見せびらかしを非難しつつ、同時に、自らの欲動と享楽を見て見ぬふりをする女たちである。(同ポール・バーハウ、2009)
モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分ーーすなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)--の想像的な加工 elaboration、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムが統合されたものである。(ポール・バーハウ、New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009、PDF

《ラカンだけがこの陥穽から逃れた》とあるが、いかに逃れたのかの詳細説明は、「エディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ! 」を見よ。

父子関係は、子の母親すなわち配偶者を大切にすることから始まる(……)。たしかに、配偶者との親密関係を保てない父が自然でよい父子関係を結べることはないだろう。また、父もいくらかは、“母”である。現実の母の行きすぎや不足や偏りを抑え、補い、ただすという第二の母の役割を果たすことは、核家族の現代には特に必要なことであり、自然にそうしていることもしばしばある。ただ、父子関係には、ある距離があり、それが「つつしみ」を伝達するのに重要なのではないだろうか。このようなものとして、父が立ち現れることはユニークであり、そこに意味があるのではないだろうか。

「つつしみ」といったが、それは礼儀作法のもっと原初的で包括的なものである。ちなみに「宗教」の西欧語のもとであるラテン語「レリギオ」の語源は「再統合」、最初の意味は「つつしみ」であったという。母権的宗教が地下にもぐり、公的な宗教が父権的なものになったのも、その延長だと考えられるかもしれない。ローマの神々も日本の神々も、威圧的でも専制的でもなく、その前で「つつしむ」存在ではないか。母権的宗教においては、この距離はなかったと私は思う。それは、しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。母親の名残りがディオニュソス崇拝、オレフェウス教として色濃く残った古代ギリシャでは「信仰」はあるが「宗教」にあたる言葉がなかったらしい。

宗教だけではない。ヒトの社会に「父」が参加したのは、始まりは子育ての助手としてであったというが、この本来の父の役割は、家族から社会、部族、国家へと転用された。この拡大は農耕社会に始まり現状に至っていると私は思う。父は狩人から始めて戦士となり航海者となり官僚となりサラリーマンとなった。そして国家、部族、地域社会はそれ自体が父親的である。しかし元来の父の役割はそうではなかったと私は思う。父を家の外に誘い出すことによって、家庭の父の役割は薄くなった。狩猟には父は息子とともに参加したのであろうが、おそらく農耕社会以後の父の実態は核家族と大家族と社会の三つの世界に引き裂かれた存在である。「レリギオ」はギリシャ哲学をラテン世界に紹介したキケロによって「良心」の意味に使われた。つまり「超自我」にこの名が与えられたのである。それがほどなく「宗教」の意味になったのは周知のとおりである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」『時のしずく』所収)


【古典的理論編】
本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, 25. Mai 1897,Draft M)
私は、「女性性の拒否Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(……)「受動的立場 passive Einstellung 」はやっきとなって抑圧されるものである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)
容易に観察されるのは、性愛の領域ばかりではなく、心的体験の領域においてはすべて、受動的にうけとられた印象が小児には能動的な反応を起こす傾向を生みだす、ということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。それは、小児に課された外界を征服しようとする仕事の一部であって、苦痛な内容をもっているために小児がそれを避けるきっかけをもつこともできたであろうような印象を反復しようと努める、というところまでも導いてゆくかもしれないものである。小児たちの遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置をくりかえすのである。受動的なことに反抗し能動的な役割を好むということが、この場合は明白である。(フロイト『女性の性愛について』)
幼い女児が母親を洗ってやったり、着物を着せてやったり、またはお手洗いにゆくようにしたりしたがるという話を、まれには聞くことがある。女児がまた、時には「さあ遊びましょう、わたしがお母さん、あなたは子供よ」などということさえある、――しかしたいていはこのような能動的な願望を、人形を相手に、自分が母親となり人形を子供にした遊ぶという、間接的な仕方でみたしているのである。人形遊びを好むことは女児の場合、男児とは違って早くから女らしさがめばえたしるしだと考えられるのが普通である。それは不当ではないにしても、しかしここに現れているのは女児の偏愛はおそらく、父親という対象をまったく無視する一方では排他的に母親に愛着していることを証明するものであるということ、を見逃してはならない。(フロイト『女性の性愛について』)
小さなクララは歯医者に行かねばならない。兄ーー既に10歳で、クララにとってある種の権威の人物であるーーは彼女をひどく脅かした。注射、ドリル、不快な騒音、ひどい苦痛、と。けれどクララは怯まず(比喩的に)歯を食いしばった。家に戻ると、人形相手に同じ遊戯をした、何週間も続けて、だ。歯医者のゲーム、クララは歯医者。この例は幻想の機能を示している。以前に比べてよりよい役を演じるために台本を書き換える。二等兵の役割は通り過ぎる。「よりよい」の意味はふつう、受動的・隷属的の代わりに、能動的・支配的であることである。現実において幻想へと踏み込む歩みは、ほんの半歩先でしかない。幻想には、我々の誰もが、己れの世界のディレクターとなる効果がある。それは「役」を与え、「俳優」を選択する。我々の現実は、虚構の構造をもっている。(ポール・ヴェルハーゲ、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998,PDF)
子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1940、死後出版)


【母の法篇】
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5)
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF
超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独自のシニフィアンから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(ジャック=アラン・ミレール)

S(Ⱥ)とは、ラカン派では、La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme を徴示するシニフィアンである。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)

【現代的解釈篇】
最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的 somatic な未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。「原不安」は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では「最初に世話する人」としてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに「分離不安」である。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「融合不安」呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別にである。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的なエラボレーションとさえ言いうる。原不安は二つの対立する形態を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。

ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる大他者 (m)Other に享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。それはフロイトの受動的ポジションと同様である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009PDF


【女性による女性嫌悪篇】
女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… 彼女たちは自由を待っている…空港にいるとぼくにはそれがわかる…家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々…あるいは逆に、熱に浮かされたような目…彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ。次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ! (ソレルス『女たち』)


【理想の女篇】
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) 

以下の文に現れる「もう一人の女 the Other Woman」と訳されている表現は、「他の性 Autre sexs」「他者なる女 l'Autre femme」、「他の女 une autre femme」ともされるものであろう(参照:歌う身体の神秘)。

ジョゼフ・マンキエヴィッツの古典的ハリウッド流メロドラマ『三人の妻への手紙』……失踪する婦人は、スクリーンには一度も登場しないのだが、ミシェル・シオンの言う<幻の声>として、つねにそこにいる。画面の外から聞こえる、小さな町に住む宿命の女、アッティー・ロスの声が、ストーリーを語る。彼女は、日曜日に河下りをしている三人の妻のもとに一通の手紙が届くように手配した。その手紙には、ちょうどその日、彼女たちが町にいない間に、彼女たちの夫の一人と駆け落ちするつもりだと、書かれている。旅を続けながら、女たちはそれぞれ自分の結婚生活の問題点をフラッシュバックで回想する。三人とも、アッティーが駆け落ちの相手として選んだのは自分の夫ではないか、という不安に駆られる。なぜなら彼女たちにとって、アッティーは理想的な女性である、妻には欠けた「何か」をもった洗練された女性であり、結婚そのものが色褪せて見えてしまうくらいなのだ。第一の妻は看護婦で、教養のない単純な女性で、病院で出会った裕福な男と結婚している。二番目の妻は、いささか下品だが、ばりばり仕事をする女性で、大学教授であり作家である夫よりもはるかに稼ぎがいい。三番目の妻は、たんに金目当てに裕福な商人と愛のない結婚をして労働者階級から成り上がった女である。素朴なふつうの女、仕事ができる活発な女、狡猾な成り上がり女、三人とも妻の座におさまりきらず、結婚生活のどこかに支障をきたしている。三人のいずれにとっても、アッティー・ロスは「もう一人の女 the Other Woman」に見える。経験豊富で、女らしい細やかな気配りがあり、経済的にも独立している、と。(……)

アッティーは三番目の女の夫である裕福な商人と駆け落ちするつもりだったのだが、彼は土壇場になって気が変わり、家に帰り、妻にすべてを打ち明ける。彼女は離婚して相当な慰謝料をもらうこともできたのだが、そうはせずに夫を許し、自分が夫を愛していることに気づく。かくして最後に三組の夫婦が一同に会する。彼らの結婚生活を脅かしているように見えた危険は去った。しかし、この映画の教訓は、第一印象よりもいささか複雑である。このハッピーエンドはけっして純粋なハッピーエンドではない。そこには一種の諦めがある。いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている、つまり、結婚生活に欠けているように思われるものを体現した別の女がいつ何時あらわれるかもしれない……。ハッピーエンド、すなわち夫が妻のもとに戻ることを可能にしているのは、まさしく、<もう一人の女>は「存在しない」のだ、彼女は究極的にはわれわれと女性との関係の隙間を埋める幻の存在にすぎないのだ、という経験的知である。いいかえれば、妻との間にしかハッピーエンドはありえないのだ。もし主人公が<もう一人の女>を選んだとしたら(もちろんその典型的な例はフィルム・ノワールにおける宿命の女だ)、その選択によって彼はかならずや無残な状況に陥り、命を落とすことすらある。ここにあるのは近親相姦の禁止、すなわちそれ自体すでに不可能なものの禁止、というパラドックスと同じパラドックスである。<もう一人の女>は「存在しない」からこそ禁じられる。<もう一人の女>が恐ろしく危険なのは、幻の女と、たまたまその幻の位置を占めることになった「経験的な」女とは、結局のところ一致しないからである。(ジジェク『斜めから見る』p157-158)


【自白篇】
「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい……ナイーヴで誠実な青年たちの血をすすって生きる雌ライオン - 私はそんな自分自身が恐ろしい。神様、許してください」  (神谷美恵子)

カナダ在住の比較文学者太田雄三氏の『喪失からの出発 神谷美恵子のこと』(岩波書店 2001年)より(「神谷美恵子の青春」からの孫引き)。

こんな女。母性型と妖婦型を持ち合せ、前者を聖にまでひきあげて見せる事によって人を次々と惹きつけて行く。そして自他共に苦ませる。しかし、結局一人づつとりあげては捨てて行く。迷惑なのはその「他」共。

私の内なる妖婦(ヴァンプ)を分析したら面白いだろうと思う。それは随分いろんなことを説明するだろう。みんなを化かす私の能力、みんなを陶酔させ、私を女神のようにかつがしめるあの妖しい魔力にどれほどエロスの力があずかっているかしれない。それを思うとげっそりする。

しかし一面私はたしかに自分のそうした力をエンジョイしている。あらゆる人間を征服しようとする気持ちがある。征服してもてあそぶのだ。

私の心は今ひくくひくくされている。私は才能と少しばかりの容姿-少なくとも母はこの点を常に強調する-の為に人から甘やかされ、損なわれた女だ。心は傲慢でわがままで冷酷である。そうして男をもてあそんでは投げ棄てる事ばかりくりかえしている。

自分の才能と容姿がのろわしい。平凡な心貧しき女であり度かった。
ある精神科医は彼女をまばゆい人であるという。彼女の品性と才能をみればたしかにそうであろう。別の精神科医によればたまらなくさびしそうに見えた人だというが、これもほんとうである。(中井久夫「精神科医としての神谷美恵子さんについて」)

…………

【付記:基礎教養篇】
現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11)

※フロイト・ラカンの叙述は「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を参照。

誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé(ジャック=アラン・ミレール、2013-2014セミネール、Tout le monde est fou Année 2013-2014ーー「一の徴」日記⑥
要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の通り。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファルスのシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの次元のシニフィアンが欠けているのだから。

この三つの次元というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coftum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。

これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。

この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。

結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞は「ラカンにとって女たちは存在しないんだとさ」と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。

たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係、と。どの子供も自分で答えを構築するようになる。それはまさに固有の構築物、いわゆる幼児性理論をもたらす。そこにおいては、ファリックマザーあるいは去勢された母、原父・原光景などに照準が当てられて、イマジナリーな前性器的内容がくり返し生み出される。(Paul Verhaeghe, TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998、PDF)




男女同権なんて言っている連中は偽善に決まっている

女はいかにしてフェミニスト主体になるか? 父権的言説によって提供される恩恵の習慣の数々と縁を切ることを通してのみフェミニストになる。「庇護」のために男たちを当てにすることを拒絶すること、男性の「女性に対する心遣い」(食事代を払う、ドアを開ける等)を拒絶することによってのみ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しいーーポリティカルコレクトネスなーー表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006 鈴木晶訳)
人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということ。(柄谷行人『「歴史の終わり」と世紀末の世界』))

男女同権なんて言っている連中は偽善に決まっている。

 だが「男女同権」に騙されない者は間違える。

ラカンは言った、《騙されない者は間違える les non‐dupes errent》と。すなわち、もし人が、見せかけがあたかも現実的なものであるかのごとく振舞わなければ、かつまた、もし人が、その見せかけの有効性に煩されないままなら、事態はさらに悪化するということだ。すべての権力の記号はたんなる見せかけであり、主人の言説の気まぐれに依拠していると考える者は、ぐれた連中だ。彼らはいっそう疎外される。(Fleury, Le réel insensé、2010)

…………

※付記

人は直接的には大他者の不在を手に入れえない。人は先ず大他者に騙されなければならない。というのは、「父の名 le Nom‐du‐Père 」とは、「騙されない者は間違える les non‐dupes errent」を意味するからだ。「知を想定された主体」の錯覚 illusion への屈服を拒絶する者たちは、この錯覚によって隠されている真理を失う。

このことは、我々に「神は無意識的である」へと引き戻す。すなわち〈神〉(知を想定された主体としての神、大他者としての神、経験上のすべての受け取り手を超えた究極の受け取り手としての神)は、半永久的な、言語の構成的構造である。〈彼〉なしでは、我々は精神病となる。ーー〈神-父〉の場なしでは、主体はシュレイバー的妄想に陥る(Lacan, “La méprise du sujet supposé savoir,” 1968)。

「知を想定された主体」としての神は、この上ないものであり、大他者、真理の場の基盤的側面である。このように、大他者は神性のゼロレヴェルである。…《もし私にこの言葉遊びが許されるのなら、le dieu—le dieur—le dire (神ー神話すー話す)がそれ自体を生みだす。話すことは無から神を創りだす。何かが言われる限り、神の仮説 l'hypothèse Dieu はそこにあるだろう》(Lacan, Le séminaire, Livre XX: Encore)。

我々が話す瞬間、我々は(少なくとも、無意識的に)神を信じている。ここで我々は、ラカンの「神学的唯物論」に、最も純粋な形で遭遇する。発話行為(究極的には、我々自身)そのものが神を創造する。……(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
セミネールXX の決定的な箇所で、ラカンは苛立ちをもって認めている。神の仮説 l'hypothèse Dieu 宣言、すなわち、《誰かが何かを言う限り、神の仮説はそこにあるだろう》、かつまた《不可能なことだ、即座に、大他者の形式のなかに神を存在させる faire subsister ことなく何かを言うのは》ーーこれは容易に、ラカンに従う者たちに確信させてしまう、ラカンは神を信じている、と。( Lorenzo Chiesa, Psychoanalysis, Religion, Love,PDF)
自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう。(が)私は、女性の享楽を信じているんだよ…naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu : je crois à la jouissance」(Lacan,S20)

2016年12月22日木曜日

「抜き取り」あるいは「オカマを掘ること」

フロイトを読むときは、エディプス・コンプレクス、(想像的)去勢やらペニス羨望概念を抜き取って読まなければならない。ラカンを読むときも同様。

ある時期まで、ラカンはフロイトのエディプス理論を立証し増幅あるいは拡張した。彼は、父性隠喩の公式とともに構造主義的用語を以て、子どもが母から解放されるメカニズムを描いたのだが、それは父自身の介入ではなく彼が「父の名 le‐Nom‐du‐Père」と呼ぶところのものによってである。

この概念の宗教的含意(コノテーション)は、大文字の使用によって強調されているようにひどく鮮明であり、ほとんど自動的な嫌悪感をもたらしうる。ラカンの反-母性的見解は、その家父長制の密かな神格化と相俟って実にきわめてカトリック教義を連想させる (Tort, 2000)。もし人がこの嫌悪感をなんとかやり過ごすのなら、この公式にフロイト理論との二つの主要な相違を見出すだろう。…… → 続き.(ポール・バーハウ、PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009ーー「ラカン」を読むときには、手袋をはめたらよい)

あるいは前回、ニーチェの『この人を見よ』をから「女性嫌悪的」とも受け取られかねない文を引用したが、これも同じくである。

そうでないと、ある概念や考え方への脊髄反射的な嫌悪のみによって、すくなくともこの何世紀のあいだの「最も偉大な思想家」たちを読まずにすますなどという「破廉恥な」振舞いをすることになってしまう。


【抜き取り】

◆映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察- 箭内匡、2003,PDF
……ここで、 ドゥルーズ自身が他の哲学者や芸術家たち――映画監督をも含め――を取り上げる時の姿勢を思い起こしておきたい。 それは、 イタリアの演出家C・ベーネが用いた独特の方法を真似て言えば、 「抜き取り」の方法とでも言うべきものである。

ベーネの方法というのは、 例えば、 シェイクスピアの 『ロメオとジュリエット』 からロメオ――家族の権力を代表する人物であり、 作品に首尾一貫性を与える役割を果たす人物――を抜き取り、 ロメオの存在によって隅に押し込まれていた他の登場人物たちを自由に発展させてゆくことで、 このシェイクスピアの作品をまったく新しい形で再創造する、 というものであった。

後でも触れるように、 ドゥルーズが 『シネマ』 の中でベルクソンやパースを取り上げるときの方法も、 まさにこれであり、 彼らの哲学から主要な概念の一部を抜き取り、 他の概念を自由に発展させることで、 彼は、 ベルクソンやパースの哲学を一新しようとする (この手続きは、 『シネマ』でドゥルーズが映画監督たちの作品を論じる時にも見られるほか、彼のほとんど全著作に見出されると思われる)。
註)ドゥルーズによれば、ベーネの作品で「抜き取り」の対象となるのは、作品の中で何らかの意味で権力と結びついた要素であり、固定化した不変の要素、何か澱んだ、生成変化(devenir)から切り離された要素である(Deleuze et Bene 1979: 93, 94, 103)。このことは、ドゥルーズ自身が実践した「抜き取り」の方法にも正確に当てはまるだろう。 「抜き取り」の方法の出発点は、そう した澱んだ要素の同定である。


【オカマを掘ること】

◆ジジェク、2003、2007
ヘーゲルは自分が何をやってるのか分かっていなかったのさ。(……)だから彼を解釈しなくちゃいけない。知っての通り、ドゥルーズが哲学者を読むために使った言葉は、アナル解釈だ。オカマを掘らないとな。ドゥルーズが言うように、哲学者を尻から貫通するんだ、汚れのない受胎のためにね。すると怪物が産まれるのわけだ。 (ジジェク An Interview with Slavoj ZizekEric Dean Rasmussen、2003、意訳)
ショート(short circuit 短絡)が起こるのはネットワーク回路に誤った連結があるときだ。「誤った」とはもちろんネットワークの円滑な機能という立場からの意味である。とすればショートによる火花はクリティカルな読解にとって最もすぐれた隠喩のひとつではないだろうか。最も効果的な批評critical行為の一つはふだんは触れ合うことのない電線を交差させることではないか?

名高い古典(テキスト、作家、概念)を取り出しそれをショート回路的方法で読むこと、それは「マイナー」な作家あるいは概念的装置のレンズを通してだ(「マイナー」とはここではドゥルーズがいう意味で理解しなければならない。すなわち「劣った質」ではなく、支配的イデオロギーから外れたり否認された、あるいは「より低く」、威厳に劣った話題を扱うということに)。もしこのマイナーな参照がよく選ばれていれば、このようなやり方はわれわれの通念を完璧にかき乱し掘り崩す洞察へと導きうる。

これはマルクスが哲学と宗教にかんしてやったことだ(政治的経済のレンズを通して哲学的考察のショート回路、すなわち経済的考察)。そしてフロイトとニーチェが道徳についてやったことだ(無意識のリビドー経済のレンズを通して最高級の倫理的概念をショートさせること)。

このような読み方が獲得するものはたんに「脱崇高化」だけではない。より高い知的内容をより低い経済的あるいはリビドー的原因に引き下げるだけではない。このような接近法は、むしろ解釈されるテキストへの独自の脱中心化であり、「思考されていないもの」、否認された仮定と結果に光を照射するのだ。(ジジェク「Short Circuits 2007」序文)


あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えている

……全世界の者 ―― 通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭は全く問題外としてーーが根本において一致して認めているような諸命題が、わたしの著書においては、単純きわまる失策として扱われている。たとえば、「没我的」と「利己的」とを対立したものとするあの信仰である、わたしに言わせれば、自己〔エゴ〕そのものがひとつの「高等いかさま」、ひとつの「理想」にすぎないのだ …… およそ利己的な行動というものも没我的な行動というものもありはしないのだ。どちらの概念も、心理学的にはたわごとである。あるいは「人間は幸福を追う」という命題 …… あるいは「幸福は徳の報いである」という命題 …… あるいは「快と不快は相反するものである」という命題など、みなそうである ……

これらは、人類をたぶらかす道徳という魔女が、本来みな心理学的事実であるものに、徹底的に、まやかしのレッテルを貼りつけたのであるーーつまり道徳化したのであるーーこれが昂じてついには、愛とは「没我的なもの」であるべきだと説く、あのぞっとするナンセンスにまで至りついたのである …… われわれはしっかり自己の上に腰をすえ、毅然として自分の両脚で立たなければ、愛するということはできるものではないのだ。結局、このことをいっとうよく知っているのは女たちである。彼女らは、自我のない、単に公平であるような男などは、相手にしない ……

ここでついでに、わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してよいだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ―― 幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ …… わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! …… ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ―― 女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである …… すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。男女同権のために戦うなどとは、病気の徴候でさえある。医者なら誰でもそれを知っている。 ―― 女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。

―― わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。

―― いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ―― 「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。 ……

最も悪質な「理想主義」はーーもっともこれは男性にも現われる、たとえば、ヘンリック・イプセン、あの典型的老嬢におけるようにーーこの理想主義は、性愛における明朗さ、自然さに毒を盛ることを目的としている …… そして、この問題に関する正直で、かつ厳正なわたしの信念について、誤解をまねくなんらの余地も残さぬために、わたしはなおわたしの道徳法典の中から、悪徳排撃の一条をお伝えしておこう。「悪徳」という語でわたしが攻撃するのは、あらゆる種類の反自然、もしくは、美しい言葉がご所望なら理想主義のことなどだ。その一条というのはこうだ。「純潔をすすめる説教は、自然に反せよという公然のそそのかしである。性生活の軽蔑、『不純』という概念による性生活の不純化は、すべて、生そのものに対する犯罪であり、 ―― 生の聖霊に対する真の罪悪である。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

いやあ、実にすばらしい。補足としてラカン派の文をいくつか掲げようかと思ったがやめておく。

もちろんニーチェの文を「額面通り」読む必要はない。そして1948年の世界人権宣言の「成果」を否定するものでも全くない。問題はその後だ。

問いはこうだ。現在の流行でありポリティカル・コレクトネスである「男女同権」とはいったい何なのか。

今年のブラジルオリンピックの直前に男女の閾を徐々に取っ払おうじゃないかとの「提案」があったが(International Olympic Committee Considers ‘Gender Neutral’ 2016 Games)、論理的にはそうしないとおかしい。平等の権利と能力は異なるというなら、たとえば同性の競技者たちのあいだでも体格の違い(身長や足の長さの違いとか)で区分けしなくちゃならなくなる。

それはさておき、「男女同権」、--この美しい魂たちの「高等いかさま」標語のせいで人は不幸になってはいはしまいか。

「女性解放運動は、結婚、道徳、国家の終焉を生むだろう」と1970年に宣言したのはフェミニストGermaine Greer ジャーメイン・グリアだが、1996年のインタヴューで、予言が的中しつつあることにアンビヴァレントな表明をしている。

あるいは二人の名高いフェミニストはなんといっているか。

現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(エリザベート バダンテール Élisabeth Badinter、PDF
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。.(ドリス・レッシング、Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists、2001)

というわけで、日本でも次のような結果が生まれている。

昨今は独身男性の3割弱が「婚約者、恋人、異性の友人のいずれもほしくない」という。20代前半の男性の4人に1人は「セックスに関心がない/嫌悪している」との調査結果(特集ワイド:カノジョは面倒?「草食男子」ここまで)

もちろん女性側も「教養ある」孤独な女たちが輩出している。

ポリティカル・コレクトネスに囚われて思考停止になってしまわず、かつまたヘッポコ社会学者や心理学者たちの寝言に惑わされず、人は反時代的に考えねばならない。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)
現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」)

で、きみたち、つまり若いもんが考えろ。わたくしはなんとか現在のような不幸の時代がはじまる前に、幸運にもあの「永遠の戦い」をやりすごした世代だから。


※脊髄反応的な文句を言ってくるまえに「女性嫌悪 misogyny をめぐって」を見よ。




2016年12月21日水曜日

シーレとクリムト



ある人物のナルシシズムは、自己のナルシシズムを最大限に放棄して対象愛を求めようとしている他のひとびとにとっては非常な魅力をもつものだ(……)。小児がもっている魅力の大部分はそのナルシシズムや、自己満足や、近づきがたさにもとづいているのであり、われわれのことなぞ眼中いないようにみえるある種の動物、たとえば猫や巨大な肉食獣などの魅力もこれと同じであって、それどころか、極悪人や滑稽家などが文学作品のなかでわれわれの興味をそそるのさえ、それは彼らが自分の自我を傷つける一切のものを遠ざけておくすべを心得ている、ナルシシズム的な首尾一貫性によるのである。これはまるで彼らが幸福な心的状態を保持し、われわれ自身がすでに放棄してしまった不可侵なリビドーの状態を保持していることを、われわれがうらやんででもいるかのような有様なのである。しかしナルシシズム的女性のもつ大きな魅力にも欠点がないわけではない。恋着している男性が感じる不満や、女性の愛に対する疑惑や、女性の本質にひそむ謎に対する嘆きなどの大部分は、対象選択のこのような不一致に根ざしているのである。(フロイト『ナルシシズム入門』)




いやあ実にウンザリするからな、クリムトを眺めていると。好きな人もいるんだろうがね。フロイトが言うように猫好きはナルシシスト好きであるなら、クリムト好きということになるのではないだろうか。

わたくしは明らかに犬派であり、そしてこのクリムトとその弟子シーレの二人をくらべるならエゴン・シーレ好みだ。つまりは自分のナルシシズムを捨てていないってわけさ。





よくこんなに女の趣味が異なる男のもとに弟子入りしたもんだよ、




シーレと荒木はともに"不在"による"存在"を可能にしている。ならば荒木の写真にもシーレと同じように、モデルと作者との間には「のっぴきならない」"関係"が存在するのではないか。(……)

荒木の写真に出てくる女性たちは、たいてい裸である。そのうえ大股を広げたり、尻を突き出したりして性器を露に見せることも少なくない。時にはまさに性交の最中に撮られたと思われる写真もある。写された女性たちの姿は、暴力的なポルノグラフィーの姿とほとんど変わりはない。にもかかわらず荒木の写真がポルノグラフィーではないのは、作者の存在があるからであった。



(……)シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣






荒木経惟というのはバカにしちゃあいけないんじゃないかね、きみたちは女たちにこんな顔させることができるかい? 






これに比べてクリムトの女たち、それに敢えて貼り付けないが、篠山紀信の女たち、わたくしにはウンザリだな。ーーと書けば、浅田クンの雑音がきこえてこないわけではないが。

荒木経惟は、略、しみったれた私の人生の断片を薄汚い私写真として切り売りし、臆面もなく俗情に訴えてみせる。あざとい戦略であったにせよまさしく私への撤退だったわけです。もっとも、勤務先の電通のゼロックスを使って写真集をつくってしまうとか、猥雑表現の検閲と戦いながら穴倉のような小部屋を女性器の写真でうめつくすとか、略、そこには肥大した私へのだらしない居直りだけがのこるんですね。

 その篠山紀信から荒木経惟へ、極端に外在化されたものから悪い意味で内面化、主観化されたものへ、というシフトが起こった。それは一見、商業的なものから私的なものへのシフトのように見えて、実は私的なものこそが商業的により効果的だったという皮肉な落ちがついたわけです。(浅田彰 中平卓馬という事件。2

ーー勝手に言わしておけばよろしい。浅田クンはおそらく女に惚れて徹底的に苦しんだことがないんだろうから。

最近はこんなことまでオッシャッテいるようだが(前後関係はしらないが「成熟」という語が勘に触ったんだろう、きっと)。

@nariyuki_hanyu 小林秀雄『Xへの手紙』の有名な「女は俺の成熟する場所だった」に触れて「こんな恥ずかしいことを書くやつがいるのかと驚いた」「要するに、共通の女をダシにして自分と中原中也の関係を語るというホモソーシャルな話でしょう」(『ゲンロン4』浅田彰インタビュー)というの、身も蓋もなくて笑った

ま、「背が伸びなかったし(笑)」(金井美恵子)、惚れた腫れたの話がひどくキライなのもやむえないさ

人々は批評といふ言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいふことを考へるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいふものを、批評から大へん遠い処にあるものの様に考へる、さういふ風に考へる人々は、批評といふものに就いて何一つ知らない人々である。

この事情を悟るには、現実の愛情の問題、而もその極端な場合を考へてみるのが近道だ。(……)

恋愛は冷徹なものぢやないだらうが、決して間の抜けたものぢやない。それ処か、人間惚れれば惚れない時より数等利口になるとも言へるのである。惚れた同士の認識といふものには、惚れない同士の認識に比べれば比較にならぬ程、迅速な、溌剌とした、又独創的なものがある筈だらう。(……)

理知はアルコオルで衰弱するかも知れないが、愛情で眠る事はありはしない、寧ろ普段は眠つてゐる様々な可能性が目醒めると言へるのだ。傍目には愚劣とも映ずる程、愛情を孕んだ理知は、覚め切つて鋭いものである。(小林秀雄「批評について」)




私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない。私の女を私から奪略した男の所へ、女が行くといふ日、実は私もその日家を変へたのだが、自分の荷物だけ運送屋に渡してしまふと、女の荷物の片附けを手助けしてやり、おまけに車に載せがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、私の敵の男が借りて待つてゐる家まで届けてやつたりした。尤も、その男が私の親しい友であつたことゝ、私がその夕行かなければならなかつた停車場までの途中に、女の行く新しき男の家があつたことゝは、何かのために附けたして言つて置かう。 (中原中也「我が生活」)
「保証」は彼女の一番ほしいもので、半ば狂った頭は不貞を犯しても棄てない保証まで、小林に求めるようになる。しかも小林がそこにいるということが、彼女の憎悪をそそるらしく、走って来る自動車の前へ、不意に突き飛ばされるに到って、同棲は障害事件の危険をはらんで来る。

五月上旬の或る夜、泰子が「出て行け」といったら、小林は出て行った。軒を廻って行くのは、いつものように間もなく謝って帰って来る後姿だったということである。しかし小林はそれっきり帰らなかった。

小林は家を出る時、ああ、自分はこの家へはこれっきり帰って来ないなと思ったそうである。……(大岡昇平『中原中也』)
俺は今までに自殺をはかつた経験が二度ある、一度は退屈の為に、一度は女の為に。俺はこの話を誰にも語つた事はない、自殺失敗談くらゐ馬鹿々々しい話はないからだ、夢物語が馬鹿々々しい様に。力んでゐるのは当人だけだ。大体話が他人に伝へるにはあんまりこみ入りすぎてゐるといふより寧ろ現に生きてゐるぢやないか、現に夢から覚めてるぢやないかといふその事が既に飛んでもない不器用なのだ。俺は聞手の退屈の方に理屈があると信じてゐる。(小林秀雄「Xへの手紙」)
俺は恋愛の裡にほんたうの意味の愛があるかどうかといふ様な事は知らない。だが少なくともほんたうの意味の人と人との間の交渉はある。惚れた同士の認識が、傍人の窺ひ知れない様々な可能性を持つてゐるといふ事は、彼等が夢みてゐる証拠とはならない。世間との交通を遮断したこの極めて複雑な国で、俺達は寧ろ覚め切つてゐる、傍人には酔つてゐると見える程覚め切つてゐるものだ。この時くらゐ人は他人を間近かで仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える。従つて無用な思案は消える。現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取つて代る。一切の抽象は許されない、従つて明瞭な言葉なぞの棲息する余地はない、この時くらゐ人間の言葉がいよいよ曖昧となつていよいよ生き生きとして来る時はない、心から心に直ちに通じて道草を食はない時はない。惟ふに人が成熟する唯一の場所なのだ。(小林秀雄「Xへの手紙」)

小林秀雄が言っているのは、ドゥルーズ=プルーストの愛のシーニュの「習得」ではないだろうかね。小林ファンのわたくしはそう読むよ、「成熟」ではなくて。

習得は本質的にシーニュにかかわる。シーニュは、時間的な習得の対象であって、抽象的な知識の対象ではない。習得することはまず第一に、ひとつの物質・対象・存在を、あたかもそれらが解読・解釈を求めるシーニュを発するものであるかのように考えることである。習得する者の中で、何かについての《エジプト学者》でないような者はいない。材木のシーニュを感知しないで指物師になることはできず、病気のシーニュを感知しないで医師になることはできない。職業は常に、シーニュとの関係による宿命である。われわれに何かを習得させるすべてのものがシーニュを発し、習得Apprendre の行為はすべて、シーニュまたは象形文字 hiéroglyphes の解釈である。プルーストの作品の基礎は、記憶のはたらきの提示ではなく、シーニュの習得l'apprentissage des signesである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第一章)
真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

おしゃべり好きの浅田くんだからね、いやそれでも役には立ったよ、彼のおしゃべりは。それを否定するものではまったくない。

そして彼の言わんとしようとすることがスコシはわからないでもない。ゴダールなどの顔を思い浮かべてね。

戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。(浅田彰「憂国呆談」

ようは荒木経惟は才能があるのに、芸術のシーニュの創造に向うことを忘れてしまった、ということかもな。

芸術のシーニュが他のあらゆるシーニュにまさっているのは何においてであろうか。それは、他のあらゆるシーニュが物質的だということである。それらはまず第一に、シーニュが発せられていることにおいて物質的であり、シーニュのにない手である事物の中に、なかば含まれている。感覚的性質も、好きな顔も、やはり物質である。(意味作用を持つ感覚的性質が特に匂いであり味であるのは偶然ではない。匂いや味は、最も物質的な性質である。また、好きな顔の中でも、頬と肌理がわれわれをひきつけるのも偶然ではない。) 芸術のシーニュだけが非物質的である。恐らく、ヴァントゥイユの短い楽節は、ピアノとヴァイオリンとから流れでてくるもので、非常によく似た五つのノートがあって、そのうちのふたつが反復される、というように、物質的に分解されるものであろう。しかし、プラトンの場合と同じように、三プラス二は何も説明しない。ピアノは全く別の性質を持った鍵盤の空間的イマージュとしてしか存在せず、ノートは、全く精神的なひとつの実体の《音声的な現われ》としてのみ存在する。《まるで演奏者たちは、その短い楽節が現われるのに要求される儀礼をしているようで、演奏しているようではなかった……》 この点において、短い楽節の印象そのものが、物質なし(シネ・マテリア Sine materia)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』--社交・愛・感覚・芸術のシーニュ

それにくらべて中平宅馬を見よ、ということなんだろう。





このガソリンの臭いがしてきそうな中平の作品はクラクラすることがあるのを否定するわけでもない。これをシネ・マテリアというのかどうかは別にして。

生活欲はともあれ、若い性欲が世間の活気と、もどかしく立てる唸りと、没交渉であるわけもない。だいぶ年の行ってからのこと、私と同年配の男がごく若い頃のことだがと断わった上で、今ではまともに拭きつけられれば顔をそむける車の排気のにおいも、昔はにわかに人恋しさをつのらせて、その一日の残りをやり過ごしかねたばかりに、幾度、つまらぬ間違いをおかすはめになったことか、ともらした。しばらくばつの悪そうな間を置いてから話をつないで、それよりはまたすこし前のことになるが、車が走りながら油を零していく、その油が路上に虹よりも多彩な輪をひろげて、それが玉虫色に揺れ動く、あれを見るともう、と言って笑うばかりになった。聞いて私は、においと言えば昔、二人きりになって初めて寄り添った男女は、どちらもそれぞれの家の、水まわりのにおいを、いくら清潔にしていても、髪から襟から肌にまでうっすらとまつわりつけていたもので、それが深くなった息とともにふくらむのを、お互いに感じたそのとたんに、いっそ重ね合わせてしまいたいと、羞恥の交換を求める情が一気に溢れたように、そんなふうに振り返っていたものだが、車の排気と言われてみればある時期から、街全体をひとしなみに覆うそのにおいが、家々のにおいに取って代わっていたのかもしれない、と思った。(古井由吉「蜩の声」)  

わたくしにとっては20歳前後うろついた高田馬場の街の記憶が痛みをともなって蘇ってくる。

……青春の日々のことが、鼻の奥に淡い揮発性の匂いを残して掠め去って行った。

その瞬間から、傍らの女の存在が、強く意識されはじめた。それも、きわめて部分的な存在として、たとえば腕を動かすときの肩のあたりの肉の具合とか、乳房の描く弧線とか、胴から腰へのにわかに膨れてゆく曲線とか、尻の量感とか……、そういう離れ離れの部分のなまなましい幻影が、一つの集積となって覆いかぶさってきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)




ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ーーだよ、わたくしにとっては。だが荒木経惟の作品に果たしてそれがないと言えるのだろうか。

失われた時を考えるよう我々を強制する forcent シーニュがある。時の経過 passage du temps・過去にあったものの無化 anéantissement de ce qui fut・存在の交替 altération des êtres を考えさせるシーニュである。それはかつて親しかった人たちに再会したときに顕現 révélationする。なぜなら、彼らの顔は、もはや我々にとって習慣的なものではなくなっているので、純粋な状態での時のシーニュと時の効果 l'état pur les signes et les effets du temps を保っているから。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

それを感じるかどうかは、女に惚れた腫れたの強烈な経験の有無の差さ。

あるいはこう引用してもよい。

《正しい映像などはない、ただの映像があるだけだ》、ゴダールは言った。しかし私の悲しみにとっては、正しい映像、正当でかつ正確な映像が必要だった。ただの映像にすぎないとしても、正しい映像が必要だった。私にとっては、「温室の写真」がそれだった。(ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳)

荒木経惟はこの女のまなざしのまわりをつねにまわっている、それはほとんど間違いない。





もっとも荒木経惟には「牛乳売りの娘」はないといえるかもしれない。

……そんなとき、突然私が目にとめるのは、雨にぬれた路面が日ざしを受けて金色のラッカーと化した歩道にあらわれて、太陽にブロンドに染められた水蒸気の立ちのぼるとある交差点の舞台のハイライトにさしかかる宗教学校の女生徒とそれにつきそった女の家庭教師の姿とか、白い袖口をつけた牛乳屋の娘とかであって、(……)バルベックの道路と同様に、パリの街路が、かつてあんなにしばしばメゼグリーズの森から私がとびださせようとつとめたあの美しい未知の女性たちを花咲かせながら、それらの女性の一人一人が官能の欲望をそそり、それぞれ独自に欲望を満たしてくれる気がする、そんな光景に接するようになって以来、私にとってこの地上はずっと住むに快く、この人生はずっとわけいるに興味深いものであると思われるのであった。(プルースト「ゲルマントのほうⅠ」)
私は窓のところに行き、内側の厚いカーテンを左右にひらいた。ほの白く、もやが垂れて、あけはなれている朝の、上空のあたりは、そのころ台所で火のつけられたかまどのまわりのようにばら色であった、そしてそんな空が、希望で私を満たし、また、一夜を過ごしてから、ばら色の頬をした牛乳売の娘を見たあんな山間の小さな駅で目をさましたい、という欲望で私を満たした。(プルースト「逃げさる女」)

いや、ほんとにそうなんだろうか。





ここで安吾の「牛乳売りの娘」を貼り付けておこう。

勿論かうした山中のことで、美人を予期してゐないのが過大な驚異を与へるわけだが、脚絆に手甲のいでたちで、夕靄の山陰からひよいと眼前へ現れてくる女達の身の軽さが、牝豹の快い弾力を彷彿させ、曾て都会の街頭では覚えたことがないやうな新鮮な聯想を与へたりする。牝豹のやうに弾力の深い美貌の女が山から降りてくるのも見ました。また黄昏の靄の中で釣瓶の水を汲んでゐる娘の姿を、自然の生んだ精気のやうな美しさに感じたこともあるのです。また太陽へながしめを送りかねない思ひのする健康な野獣の意志を生き甲斐にした日向の下の女も見ました。その人たちがその各々の美しさで、僕をうつとりさせたのですね。(坂口安吾「木々の精、谷の精」)

カオリちゃんだって「牛乳売りの娘」か「黄昏の靄の中で釣瓶の水を汲んでゐる娘」だよ、きっと。





記しているうちにシーレとクリムトとは別の話になってしまったが、表題はそのままにしておこう。荒木経惟とか浅田彰とかの名を表題に掲げると、ネットでは蛆虫みたいなやつらがたかってくる場合があるから。

いずれにせよ、浅田彰ーーわれわれの時代の最もすぐれた「知性」の持ち主のひとりであるのは間違いないーーはあのように荒木経惟や小林秀雄を評価したということだけであり、それは彼の「眼鏡」を通したものにすぎない。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

浅田彰の基本スタンスは次の文に収斂している、《明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい》

浅田彰:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。 (平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰

問題は浅田彰のような「芸術好き」がたとえば次のプルーストの指摘をどう捉えているかだ。

…というのも、理知が白日の世界で、直接に、透きうつしにとらえられる真実は、人生がある印象、肉体的印象のなかで、われわれに意志にかかわりなくつたえてくれた真実よりも、はるかに深みのない、はるかに必然性に乏しいものをもっているからだ、ここで肉体的印象といったのは、それがわれわれの感覚器官を通してはいってきたからだが、しかしわれわれはそこから精神をひきだすことができるのである。要するに、いずれの場合でも、それがマルタンヴィルの鐘塔のながめが私にあたえた印象であれ、両足のステップの不揃いやマドレーヌの味のような無意識的記憶 réminiscences であれ、問題は、考えることを試みながら、言いかえれば私が感じたものを薄くらがりから出現させてそのをある精神的等価物に転換することを試みながら、それらの感覚を通訳して、それとおなじだけの法則をもちおなじだけの思想をもった表徴 signes にする努力をしなくてはならない、ということであった。(プルースト「見出された時」)

あるいはーー、

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)



サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(フロイト『抑圧』1915)

結局、原抑圧とは固着 Fixierung、なかんずく原固着Urfixierung のことであるだろう。

四番目の用語(サントーム)にはどんな根源的還元もない、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
Lacan affirme dans Le sinthome qu'il n'y a aucune « réduction radicale » du symptôme à attendre d'une cure, à cause de l'Urverdrängung, refoulement originaire jamais annulable (Lacan S23, 9 décembre 75).(Geneviève Morel.2000)

つまりはサントームが原抑圧であったら、サントームは原固着ということになる。

「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours、PDF)

で、サントームsinthome と「一の徴 trait unaire」とどう違うんだろ?

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印の戯れ jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、セミネール17)

以下のフロイト文はとくには関係がないかもしれないが、たまたま欲動の戯れ Spiel der primären Triebregungenという語に遭遇したのでここにメモしておく。

おそらく判断ということを研究してみて始めて、第一次的な欲動の戯れ Spiel der primären Triebregungen から知的機能が生まれてくる過程を洞察する目が開かれるであろう。判断は、もともと快原則にしたがって生じた自我の取り入れ Einbeziehung、ないしは自我からの排除 Ausstoßung の合目的的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。結合 Vereinigung の代理 Ersatzとしての肯定 Bejahung はエロスに属し、排除 Ausstoßung の継承Nachfolgeである否定Verneinungは破壊欲動Destruktionstriebに属している。(フロイト『否定』1925)

で、話を戻せば、サントームsinthome と「一の徴 trait unaire」とどう違うんだろ?

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

ミレール派肝入りの論文集 L'INCONSCIENT ET LE CORPS Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF から引用する。

ラカンがサントームを「Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーーシニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返しréel essentiel l'itération」を解き放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération においてそれ自体を反復するのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの彼方には、身体と享楽がある。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaud)
言語は、生きた身体をかみ裂く「一の徴」に水準に囚われている。ララングの Y'a d'l'Un は意味を解きほぐす。そして身体と出会いつつ、身体を享楽の効果に委ねる。(Les impensables du corps. L'avoir, le panser, l'être Pascal Pernot)

サントームは「Y'a d'l'Un」の側にあり、「一の徴」ではない、と彼らは言っていることになる。

いやあ実にラカン派ってのは、みなさんそれぞれ勝手なことをオッシャル種族だよ・・・


以下の文は訳す気にならないのだが、-- « osbjet », la lettre petit a.などとケッタイな表現が出て来るので、つまり骨対象、骨象a?(ネットで検索するかぎり誰もまともに触れていない)ーーやっぱりラカンが悪いんだろうな、勝手なことばかり言ってるから。

La seule introduction de ces noeuds bo, de l’idée qu’ils supportent un os en somme, un os qui suggère, si je puis dire, suffisamment quelque chose que j’appellerai dans cette occasion : « osbjet », qui est bien ce qui caractérise

la lettre dont je l’accompagne cet « osbjet », la lettre petit a.

Et si je le réduis - cet « osbjet » - à ce petit a,

c’est précisément pour marquer que la lettre, en l’occasion,
ne fait que témoigner de l’intrusion d’une écriture comme autre, comme autre avec, précisément, un petit a.

L’écriture en question vient d’ailleurs que du signifiant. C’est quand même pas d’hier que je me suis intéressé à cette affaire de l’écriture, que j’ai en somme promue
la première fois que j’ai parlé du trait unaire :einziger Zug dans FREUD.(Lacan,S23, 11 Mai 1976)

それはともかく、「文字 lettre」は「一の徴trait unaire」だって言ってるように読める、目の錯覚じゃなければ。

文字 lettre とは…身体に出会ったシニフィアンの最初の徴である。この意味で、文字は、対象と「一の徴 trait unaire」の徴 marque と関係がある。(Chapitre VIII, commentaire Anne-Marie Le Mercierーー L'INCONSCIENT ET LE CORPS Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF )

いやあ、なんどかサントームと「一の徴」を同じものとして扱いたいんだが・・・

《「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。》(Lacan,S.17)

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
反復は、最初の遭遇の痕跡を刻印する「一の徴 trait unaire」に起源がある。その痕跡は三度反復されたとき、喪失の反復を引き起こす。一度目は、遭遇の記念物として徴を「固着」する。二度目は、徴を再発見することにより、最初の享楽の喪失を仕上げる。したがってエントロピーがある。三度目は、二番目の喪失である。それは「出会い損ねrencontre manquée」として、ad infinitum(無限に)反復される。そしてその反復は、これらの徴のセリー(系列)としてのみ享楽を生き延びさせる。結果は、《ré-pétition》である。それは、ラカンが『エトゥルディ L'étourdit,』(AE493)で記したように二つの部分に書かれうる。「請願 pétition」と「欲求 appétit」の反復である。というのはラテン語のpeto は両方の語の共鳴があるから。コレット・ソレール、2003 Colette Soler Ce que lacan disait des femme)
乳幼児はまず最初になによりも母へ訴えなければならない。その訴えとは、欲動興奮と無力感の混淆物を基礎にしてである。母の応答は(鏡像段階を想起せよ)、(欲動興奮を)統御し、徴をつけ、満足を与える形で作用する。子どもがふたたび、同じ享楽(の統御)を見出したとき、母へとその「要求」を呼びかけねばならない。結果として、子どもは母の応答と同一化しなければならなくなる。そして母が既に生み出した徴の点に同一化することになる。 (ポール・ヴェルハーゲ、2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complexーー「一の徴」日記⑤

Ya d’l’Un とは女 la femme のことである・・・(参照:「一の徴」日記⑥:誰もがトラウマ化されている」)。

という前提にて、Ya d’l’Un → 「一の徴」→「母の徴」(母による徴)としたい・・・

とはいえこれは、いささかフロイトよりの解釈であることを断っておかねばならない。

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版、1940、私訳)

やっぱりフロイトがえらいんじゃないか。

いや安吾だっていいさ、《私の好きな女が、みんな母に似てるぢやないか!》(坂口安吾

二人とも地に足がついているよ。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)

それにくらべてラカン派連中ってのは厄介至極だね。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)



2016年12月20日火曜日

「フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム」補遺

以下のポール・バーハウ2001の文は、「フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム」でいくらか引用したが、もう少し長くーー以前に雑に訳した文をいくらか改訳して資料として掲げる(訳出先は英文だが、フロイト・ラカン用語は拾えるかぎり独語・仏語を貼付した)。

ラカン解釈者の文を掲げるときは、何度もくり返しているが、この解釈が必ずしも正しいわけではないことに注意。ただし2001年の解釈としてはとてもすぐれている、とわたくしは思う。

というのは、ラカン主流派の首領ジャック=アラン・ミレールは前回見たように、2011年になってようやくーー以前から曖昧な形では類似の解釈をしていたのかもしれないがーー、次のように言っているのだから。

「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours、PDF)

この《固着》と《Yad'lun》ーーYad'lun をめぐってはラカン主流派の2010年前後の捉え方を前回いくらか掲げたーーをつなげる考え方は以下の文に既に現れている。


◆ポール・バーハウ、Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive.より

【話す身体 le corps parlant/話す存在 l'être parlant】
…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけてゆく。もっともこの身体は、前期ラカンのように大他者を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、《現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient》(15 mai 1973 du séminaire Encore)と。

この知は、無意識によって我々に明らかになった謎である。反対に分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何ものかであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし無意識は、《話す存在 l'être parlant》 の知から逃れる知をとりわけ証拠づける。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それは《ララング Lalangue》 によって情動化されている。ララング、すなわち《母の舌語 la langue dite maternelle》が、謎の情動として顕現する。分節化された知のなかで《話す存在 l'être parlant》が分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として、である。


【Yad'lun の起源】
無意識は、母のララングからやって来るこの情動を扱う方法として捉えうる。ララングは《stoïkeïon(στοιχεῖον 原要素)》、知のアルファベットの原文字を含んでいる。この原要素こそが、主体の記号へのなかに移行させねばならぬものである。

分析は、分析主体(被分析者)の言っていることを超えて、これらの《文字 lettre》を読むことを目標にしなければならない。分析主体は分析を通して、これらの《文字》を読み・読むことを学びうると想定される。

この《文字》は、無性 (a)sexuée の痕跡とシニフィアンとのあいだの神秘的な架け橋を提供する。この記号は、身体と主体との統合を請け合う主人のシニフィアン S1 の作用を通してのみ発足されうる。

次の段階は「交換価値」を伴ってやって来る。それは、主体はシニフィアンによって分割され、欲望の弁証法に入る手法によってである。したがって無意識は、母のララングからもたらされる情動を、《「一」のシニフィアン l'Un-signifiant》 を適用することによって取り扱う方法である。それは身体からやって来るのではなく ne pas venir du corps、シニフィアン「一」からやって来る vient du signifiant l'Un 。《Yad'lun(「一」のようなものがある)》。残されたままの問い、《Yad'lun が意味するのは何か? それはどこからやって来るのか》? ラカンはこの問いをセミネールを通して何度も繰り返す。しかし答えはもたらされない。実際のところ彼はその仕事を通して、とくに『アンコール』の一つ前のセミネールXIXにて、Yad'lun の起源を追求している。


【フロイトの通道 Bahnungen】
フロイトとのつながりはひどく明白であり、いくつかの観点において理解の助けになる。フロイトは『科学的心理学草稿』(1895)にて《通道 Bahnungen》の考え方を詳述している。心的素材は、この《通道 Bahnungen》 によって刻印される。交換価値は後に現れる。『草稿』にてフロイトはこの理論を、疑似-神経学用語で言い表している。

同じ一連の論究が、無意識におけるフロイト理論のまさに最初から再現する。そこにおいて彼は、心的素材が異なったレイヤーにおいて刻印され、それぞれのレイヤーにたいして異なった刻印(《Niederschrift 経験の記載》)があるという仮説を立てている。

発達におけるどのいっそうの歩みも、先立つの素材を次のレイヤーの刻印形式に翻訳する必要がある。これ自体が、防衛の可能性を作り出す。危険な・不快な素材は、先立つレイヤーの刻印形式のなかに取り残されうる。刻印の新しい形式に翻訳されないなら、それは奇妙な仕方で、己れを強く主張する。


【二種類の無意識】
この理論は、《抑圧 Verdrängung》概念にて、いっそうの分節化を与えられる。重要なことは、フロイトは無意識の二つの異なった形式、知の二つの異なった形式を導入していることだ。

正式の抑圧ーー文字通りには《後期抑圧 Nachdrängung》--は、言葉の素材、不快の担い手となる《言語表象 Wortvorstellung》をターゲットにしている。抑圧過程は、これらの言語表象から逃れようと旺盛な《備給 Besetzung》(カセクシス cathexis)をする。したがって、言葉の力動的意味において、それらを無意識にする。

この《備給 Besetzung》は、別の言語表象に移し変えられる。そこにおいて抑圧されたものの回帰が起こる。《後期抑圧 Nachdrängung》は、《抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt》、あるいは《力動的無意識 dynamischen Unbewußt》を形成する。

ここにラカンの考え方、《無意識は言語のように構造化されている L’inconscient est structuré comme un langage》を認めるのはそれほど難しくはないだろう。事実、抑圧された無意識は、大他者からやって来るシニフィアンを伴っている。それは、欲望(《人間の欲望は大他者の欲望 Le désir de l'homme est le désir de l'Autre》)を基盤とした交換(《無意識は大他者の言説 L'inconscient est le discours de l'Autre》)、その交換のあいだにやって来るシニフィアンである。

これは素材の交換価値である。シニフィアンとして、大他者から来る知を含んでいる。この知は、《抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten》によって、十全に知られうる。主体は、これらの事柄において「全て」を知っている。しかし、知っていることを知らない。この知は性的・ファルス的知にかかわり、フロイトは、解釈はつねに同じ事に終わると不平を漏らした。


【原抑圧・システム無意識/抑圧・力動的無意識】
この知は、フロイトの思考においても同様に限界に到る。《後期抑圧 Nachdrängung》の彼方には、無意識の別の形式に属する《原抑圧 Urverdrängung》が潜んでいる。したがって、知の別の形式も同様にある。原抑圧は過程として、まず何よりも《原固着 Urfixierung》である。すなわち或る素材がその原初の刻印のなかに取り残される。

それは決して《言語表象 Wortvorstellung》に翻訳されえない。この素材は《興奮の過剰強度 übergroße Stärke der Erregung》に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは《欲動、それは享楽の漂流 Trieb, la dérive de la jouissance》と解釈した。

フロイトはこれに基づいて、《システム無意識 System Unbewußt (Ubw)》概念を開発した。このシステムは、《後期抑圧Nachdrängung》の素材、力動的・抑圧された無意識のなかの素材に対して誘引力を行使する。


【分節化された知 a / − φ 内部の非全体に外立する (a) 】
ラカン的観点からは、これは次のように記しうる。すなわち、性化・ファルス化されて分節化を受けた素材は、この分節化された部分内の《非全体 pas-tout》の領域-- a / − φ 内部の (a) --によって誘引される、と。

《力動的・抑圧された無意識 dynamischen Unbewußt・verdrängtes Unbewußt》とは反対に、この《システム無意識 System Bewußt》には言語表象はない。


【固着 fixierung・身体側からの反応 somatische Entgegenkommen】
そのとき核心となる問いはこうだ。すなわち、固着されるのは欲動なのか、あるいはこの固着が欲動の表象の原形式なのか? さらなる問いは、刻印の形式などそもそもあるのか? フロイトはそれを《我々の存在の核 Kern unseres Wesens》・《菌糸体 mycelium》と呼んだが、また躊躇ってもいる。

実際のところ、問いが立てられなければならない。潜在夢思考は一体どこかに「現前」しているのか? 一体どこかに刻印されているのか? あるいは、あのような夢形成は元来欠如している心的エラボレーションに取って代わるようなものであるなら、元々非存在しないものとして考えられるべきではないのか?

この場合夢分析は、隠蔽された刻印の発見にはつながらない。逆に、シニフィアン内部でのエラボレーション過程--元々そこにはない何かを生む過程--ということになる。

ここで注意しておかねばならない。フロイトは同じ種類の議論を、トラウマを語ったときに提示していることを。トラウマの外傷的影響は、トラウマが生じたときに言葉で言い表せないという事実によって引き起こされる。シニフィアン内でのエラボレーションが欠けているのだ。

これは、セミネールXI におけるラカンの考え方と完璧に一致する。ラカンはその講義で、無意識を実体的な核としてではなく、 何ものかが実現されることに失敗する《偶然的裂目 cause béante》として叙述している。

フロイトにおいて、《システム無意識 System Unbewußt》における欲動刻印の特性についての最終的議論はない。彼にとってそれは、一般的には「固着」、個別的には「身体」という考え方を包含している。したがって我々は、《固着 fixierung》 と似たような表現、構成・欲動の根・《身体側からの反応 somatische Entgegenkommen》を見出す。これらの表現は、フロイトの症例研究すべてに現れる。そして常に幼児の快形態につなげられている。


【ラカンの格闘】
1964年以降、ラカンはこの問いを取り上げ格闘した。Bonneval 会議とRicoeurとの議論を手始めに、彼の弟子である Laplanche と Leclaire との議論。ラプランシュとルクレールは、無意識の核には表象的システムがあるという仮説を提議した。ルクレールにとっては音素、ラプランシュにとってはイマーゴ imago(シニフィアンなしの感覚映像)である。

ラカンは最終的にどちらの答も拒絶し、彼自身の解決法、対象a と文字 lettre の理論を提示する。ラカンはセミネールXXII(R.S.I.)でも、《システム無意識 System Unbewußt》における欲動の表象代理として、再び《文字 lettre》の考え方を取り上げる。この文字は、個別な形で我々に現れる。その形式において、欲動は個別の主体にとって固着されるが、「一」のファルス的シニフィアンのような明確な仕方ではシニフィエされえない。

文字として、それは知を含んでいる。しかしこの知は、大他者の《非全体 pas-tout 》の部分を形成している。したがって、この大他者はその知について無知である。この知を覚えているのは、「身体の大他者」である。そして、享楽経済内部でその度毎に、同じ道を追跡する(フロイトの《通道 Bahnungen》)。しかし享楽の経済は、謎のままである(S22, p. 105)。

この概念化は、分析の終りをいかに捉えるかにとって重要である。一方で、システム無意識の核が表象代理的性質ならば、それは言語化され、治療のあいだに解釈される。他方、もしそうでないなら、治療の最終目標は見直されなければならない。というのは《充溢したパロール parole pleine》は構造的に不可能となるから。ラカンは彼の最後の理論で、後者の選択肢を選んだ。そして、分析の最終の目的として、症状の現実界との同一化を奨励する。


【他の享楽 l'autre jouissance とファルス享楽 la jouissance phallique】
大他者のなかの非全体 pas- tout の部分として外立 ex-sistence する《他の享楽 l'autre jouissance》が意味するのは、享楽の経験・身体の上に刻印を引き起こす経験を通して、身体によって獲得されるということである。この知は、シニフィアンの大他者の、分節化されたファルス的知の非全体の部分にかかわる。知として、それは言語の大他者に属していない。かつまた想定された底に横たわる存在にも属していない。それはエクリチュールを通してのみ把握されうる。もっとも我々は、それを形式化しようとするどんな試みも袋小路に遭遇することを認めなければならない。

これに関連して、無意識の二つの形式、知の二つの形式がある。《システム無意識 System Unbewußt》は、言語化されえない裂け目であり、欲動と享楽を含んでいる。したがって原因-根拠として作用する。この 《システム無意識 System Unbewußt》は、《抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt》--そこには、主体によって知られうる分節化された知があるーー、この内部に外立する。この知は、交換価値、したがって大他者の言説と大他者の欲望に関係がある。この分裂(分割)は、《他の享楽 l'autre jouissance》と《ファルス享楽 la jouissance phallique》とのあいだ、「他の知」と「分節化された知」のあいだに描かれる。…(ポール・バーハウ、Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive.


2016年12月19日月曜日

フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム

【身体器官/意識作用】
われわれが心的なもの(心の生活)と呼ぶもののうち、われわれに知られているのは、二種類である。ひとつは、その身体器官と舞台、すなわち脳(神経系)であり、もうひとつは、われわれの意識作用である。……(フロイト『精神分析概説』1940,死後出版、岩波新訳)

Von dem, was wir unsere Psyche (Seelenleben) nennen, ist uns zweierlei bekannt, erstens das körperliche Organ und Schauplatz desselben, das Gehirn (Nervensystem), andererseits unsere Bewusstseinsakte, ……(Freud, Abriß der Psychoanalyse,1940)

【精神病/神経症】
私は最近神経症と精神病とを区別する特徴の一つを次のように規定した。すなわち、神経症においては、自我が現実にしたがってエス(欲動生活)の一部を抑圧するのにたいして、精神病では同じ自我がエスに奉仕して、現実の一部からしりぞくということである。したがって、神経症では現実の影響が優勢であろうし、精神病ではエスの優勢が決定的であろう。精神病においては現実の喪失は最初から現れるのだろうが、神経症においては、それはさけられているのであろうと考えるべきであろう。(フロイト『神経症および精神病における現実の喪失』1924)

Ich habe kürzlich [Fußnote] einen der unterscheidenden Züge zwischen Neurose und Psychose dahin bestimmt, daß bei ersterer das Ich in Abhängigkeit von der Realität ein Stück des Es (Trieblebens) unterdrückt, während sich dasselbe Ich bei der Psychose im Dienste des Es von einem Stück der Realität zurückzieht. Für die Neurose wäre also die Übermacht des Realeinflusses, für die Psychose die des Es maßgebend. Der Realitätsverlust wäre für die Psychose von vorneherein gegeben; für die Neurose, sollte man meinen, wäre er vermieden. ( Freud, Der Realitätsverlust bei Neurose und Psychose, 1924)

…………

【現勢神経症/精神神経症】
…現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)
…現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「精神的に選択され、精神的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912)

Ich sehe es noch immer so, wie es mir zuerst vor mehr als fünfzehn Jahren erschienen ist, daß die beiden Aktual-neurosen — Neurasthenie und Angstneurose — (vielleicht ist die eigentliche Hypochondrie als dritte Aktualneurose anzureihen) das sornatische Entgegenkommen für die Psychoneurosen leisten, das Erregungsmaterial liefern, welches dann psychisch ausgewählt und umkleidet wird, so daß, allgemein gesprochen, der Kern des psychoneurotischen Symptoms — das Sandkorn im Zentrum der Perle — von einer somatischen Sexualäußerung gebildet wird.(Freud, Zur Onanie-Diskussion、1912)

【砂粒/真珠】
さてここで、咳や嗄れ声の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。最下部には器質的に条件づけられた真実の咳の刺激があることが推定され、それはあたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなものである。

この刺激は固着しうるが、それはその刺激がある身体領域と関係するからであり、その身体領域がこの少女の場合ある性感帯としての意味をもっているからなのである。したがってこの領域は興奮したリビドーを表現するのに適しており、おそらくは最初の精神的変装 psychische Umkleidung、すなわち病気の父親に対するイミテーションの同情、そして「カタル」のために惹き起こされた自己叱責によって固着させられるのである。(フロイト、症例ドラ、p.335、旧訳)

Wir können nun den Versuch machen, die verschiedenen Determinierungen, die wir für die Anfälle von Husten und Heiserkeit gefunden haben, zusammenzustellen. Zuunterst in der Schichtung ist ein realer, organisch bedingter Hustenreiz anzunehmen, das Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet.

Dieser Reiz ist fixierbar, weil er eine Körperregion betrifft, welche die Bedeutung einer erogenen Zone bei dem Mädchen in hohem Grade bewahrt hat. Er ist also geeignet dazu, der erregten Libido Ausdruck zu geben. Er wird fixiert durch die wahrscheinlich erste psychische Umkleidung, die Mitleidsimitation für den kranken Vater und dann durch die Selbstvorwürfe wegen des »Katarrhs«.(Freud, Bruchstück einer Hysterie-Analyse,1905)

◆psychische Umkleidung(精神的外被・精神的変奏・心的被覆)
性愛的マゾヒズムはリビドーとその一切の発展段階をともにし、それらの発展段階から変化に富んだ心的被覆 psychischen Umkleidungen を借用する。トーテム動物(父)によって食われるという不安は、原始的な口唇的体制に由来し、父に撲たれたいという願望は、それにつづくサディズム-肛門期から生じ、去勢は、男根的段階または体制の名残りとして、のちに否定されるにせよ、マゾヒズム的空想の内容となり、また交接され、子供を生むという女性固有の諸状況は、究極的な性器的体制から由来するのである。マゾヒズムにおけるお尻の役割もまた、明白な現実的根拠を別としても、容易に理解される。乳房が口唇段階でとくに重要な役割を演ずる身体部位であり、同じくペニスが性器段階でのそれであるように、お尻はサディズム-肛門期で性愛的にいってとくに関心の持たれている身体部位である。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924、旧訳)

Der erogene Masochismus macht alle Entwicklungsphasen der Libido mit und entnimmt ihnen seine wechselnden psychischen Umkleidungen. Die Angst, vom Totemtier (Vater) gefressen zu werden, stammt aus der primiti­ven, oralen Organisation, der Wunsch, vom Vater geschlagen zu werden, aus der darauffolgenden sadistisch-analen Phase; als Niederschlag der phalli­schen Organisationsstufe 2) tritt die Kastration, obwohl später verleugnet, in den Inhalt der masochistischen Phantasien ein, von der endgültigen Genital­organisation leiten sich natürlich die für die Weiblichkeit charakteristischen Situationen des Koitiertwerdens und des Gebarens ab. Auch die Rolle der Nates im Masochismus ist, abgesehen von der offenkundigen Realbegrün­dung, leicht zu verstehen. Die Nates sind die erogen bevorzugte Körperpartie der sadistisch-analen Phase wie die Mamma der oralen, der Penis der genitalen.(Freud,Das ökonomische Problem des Masochismus,1924)

ーーpsychische Umkleidung(精神的外被・精神的変奏・心的被覆)とは、《症状の形式的封筒》のことであろう。

l'enveloppe formelle du symptôme 症状の形式的封筒 (Lacan, De nos antécédents, E.66、1966)

《l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste( l'essaim(=S1) 全てのシニフィアンの鎖が存続するものとしての封筒(エスアン=S1[分封するミツバチの密集した一群])》(ラカンS20、アンコール)


【原抑圧/抑圧】
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(……)

Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; die betreffende Repräsentanz bleibt von da an unveränderlich bestehen und der Trieb an sie gebunden. Dies geschieht infolge der später zu besprechenden Eigenschaften unbewußter Vorgänge.
抑圧の第二階段、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。

Die zweite Stufe der Verdrängung, die eigentliche Verdrängung, betrifft psychische Abkömmlinge der verdrängten Repräsentanz oder solche Gedankenzüge, die, anderswoher stammend, in assoziative Beziehung zu ihr geraten sind.
こういう関係からこの表象は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後期抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、意識から抑圧されたものに作用する反撥だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと関連する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。(フロイト『抑圧』1915)

Wegen dieser Beziehung erfahren diese Vorstellungen dasselbe Schicksal wie das Urverdrängte. Die eigentliche Verdrängung ist also ein Nachdrängen. Man tut übrigens unrecht, wenn man nur die Abstoßung hervorhebt, die vom Bewußten her auf das zu Verdrängende wirkt. Es kommt ebensosehr die Anziehung in Betracht, welche das Urverdrängte auf alles ausübt, womit es sich in Verbindung setzen kann. Wahrscheinlich würde die Verdrängungstendenz ihre Absicht nicht erreichen, wenn diese Kräfte nicht zusammenwirkten, wenn es nicht ein vorher Verdrängtes gäbe, welches das vom Bewußten Abgestoßene aufzunehmen bereit wäre. (Sigmund Freud, Die Verdrängung, 1915)


【原抑圧=現勢神経症/抑圧=精神神経症】
……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧 :引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

…in der Tat sind die wahrscheinlich frühesten Verdrängungen, wie die Mehrzahl aller späteren, durch solche Angst des Ichs vor einzelnen Vorgängen im Es motiviert. Wir unterscheiden hier wiederum mit gutem Grund die beiden Fälle, daß sich im Es etwas ereignet, was eine der Gefahrsituationen fürs Ich aktiviert und es somit bewegt, zur Inhibition das Angstsignal zu geben, und den anderen Fall, daß sich im Es die dem Geburtstrauma analoge Situation herstellt, in der es automatisch zur Angstreaktion kommt. Man bringt die beiden Fälle einander näher, wenn man hervorhebt, daß der zweite der ersten und ursprünglichen Gefahrsituation entspricht, der erste aber einer der später aus ihr abgeleiteten Angstbedingungen. Oder auf die wirklich vorkommenden Affektionen bezogen: daß der zweite Fall in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist, der erste für die der Psychoneurosen charakteristisch bleibt.

Wahrscheinlich würde die Analyse der traumatischen Kriegsneurosen, welcher Name allerdings sehr verschiedenartige Affektionen umfaßt, ergeben haben, daß eine Anzahl von ihnen an den Charakteren der Aktualneurosen Anteil hat. (Freud, Hemmung, Symptom und Angst, 1926)

※《他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって……》(1926)

→出産外傷の否定(1937)

…ランクは出生という行為は、一般に母にたいする(個体の)「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出生外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。この仕事のためには、わずかに二、三ヵ月しか要しないはずである。ランクの見解が大胆で才気あるものであるという点には反対はあるまい。けれどもそれは、批判的な検討に耐えられるものではなかった。(……)

このランクの意図を実際の症例に実施してみてどんな成果があげられたか、それについてわれわれは多くを耳にしていない。おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』旧訳pp.377-378)

Einen besonders energischen Versuch in dieser Richtung hat O. Rank gemacht im Anschluß an sein Buch »Das Trauma der Geburt« (1924). Er nahm an, daß der Geburtsakt die eigentliche Quelle der Neurose sei, indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung« an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung« fortbesteht. Durch die nachträgliche analytische Erledigung dieses Urtraumas hoffte Rank die ganze Neurose zu beseitigen, so daß das eine Stückchen Analyse alle übrige analytische Arbeit ersparte. Einige wenige Monate sollten für diese Leistung genügen. Man wird nicht bestreiten, daß der Ranksche Gedankengang kühn und geistreich war; aber er hielt einer kritischen Prüfung nicht stand. (…)

Man hat nicht viel davon gehört, was die Ausführung des Rankschen Planes für Krankheitsfälle geleistet hat. Wahrscheinlich nicht mehr, als die Feuerwehr leisten würde, wenn sie im Falle eines Hausbrandes durch eine umgestürzte Petroleumlampe sich damit begnügte, die Lampe aus dem Zimmer zu entfernen, in dem der Brand entstanden war. Eine erhebliche Abkürzung der Löschaktion wäre allerdings auf diese Weise zu erreichen. (Freud Die endliche und die unendliche Analyse, 1937)

ラカンのラメラ神話とは、「出産外傷」に近似的である。

このラメラ lamelle、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。

それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.(ラカン、S.11ーー基本版:二つの欠如

…………


【原抑圧 Urverdrängung ≒サントーム sinthome】
四番目の用語(サントーム)にはどんな根源的還元もない、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

《Lacan affirme dans Le sinthome qu'il n'y a aucune « réduction radicale » du symptôme à attendre d'une cure, à cause de l'Urverdrängung, refoulement originaire jamais annulable (Lacan 1, 9 décembre 75)》.(Geneviève Morel.2000)

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事」とフロイトが「固着」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

サントームとは、Yad'lun のこと、「一」のことである。

Si je veux inscrire le Sinthome comme un point d'arrivée de la clinique de Lacan, je l'ai déjà identifié à ce titre, une fois que Lacan a émis son Yadlun, une fois qu'il a réduit le symbolique à l'Un, une fois qu'il a renié décidément l'ontologie pour la logique, et à cause de la logique, (il a fait ça, ça a lieu dans son séminaire Ou pire, ça se poursuit dans son célèbre Séminaire Encore, Séminaire XX, c'est avec le Séminaire XXIII que nous avons la formulation du terme autour duquel tourne sa dernière clinique.(同ミレール、2011)


Yad'lun(一のようなものがある) = sinthome=原固着Urfixierung ということになる。

《後期抑圧 Nachdrängung 》の彼方には、無意識の別の形式に属する《原抑圧 Urverdrängung》が潜んでいる。したがって、知の別の形式も同様にある。原抑圧は過程として、まず何よりも《原固着 Urfixierung》である。すなわち或る素材がその原初の刻印のなかに取り残される。それは決して《言語表象Wortvorstellung》に翻訳されえない。この素材は《興奮の過剰強度 übergroße Stärke der Erregung》(フロイト、1926)に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは《欲動、それは享楽の漂流 Trieb, la dérive de la jouissance》と解釈した。(ポール・バーハウ、Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive.


《サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, 》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
ラカンがサントームを「Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーーシニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返しréel essentiel l'itération」を解き放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération においてそれ自体を反復するのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの彼方には、身体と享楽がある。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaudーー「一の徴」日記⑤

…………

【身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen】
……ヒステリーの症状は精神的なもの psychischen から発するものなのか、それとも身体的なもの somatischen から起こるのか、さらにまた、前者だとしたら、症状はすべて精神的なもののみで規定されるのだろうか、というすでに何回となく提出されてきた疑問が思い起こされる。しかしこの疑問は(……)その設問そのものが適当でない。

実際の事態は、そのような二者択一の形には包含しえない。私の見るかぎり、ヒステリー症状には、どれも心身両面の関与が必要なのである。それはある身体器官Organe des Körpersの、正常ないし病的現象によってなされる「身体側からの対応 somatisches Entgegenkommen」がなければ、成立しない。そして、もしそれが精神的意義をもたないなら、(……)何回も起こることはないのであり、しかもヒステリー症状の特徴の一つは、この再現能力にあるのである。(……)

ヒステリー症状を解消するには、その症状の精神的意味を探求せねばならない。こうして、精神分析で除去できるものを清掃し終わると、症状の身体的なーー通例、体質的、器質的なーー基底について、種々のおそらくは適切な推量を試みることができる。ドラの症例の咳と失声の発作についても、われわれはその精神分析的解釈をあたえるだけで満足せず、症状の背後にひそむ器質的契機 organische Moment をもしめさねばならぬ。この器質的契機から、ときどき不在となる彼女の恋人に対しる思慕の表現への、「身体側からの対応 somatische Entgegenkommen」が生まれたのである。(……)

この点に関し、私はつぎのようにいわれる覚悟をしている。すなわち、精神分析によって、ヒステリーの謎を、もはや「神経分子の特殊な過敏性 besonderen Labilität der Nervenmoleküle」のなかや、類催眠状態の可能性のなかなどに探し求める必要はなくなり、「身体側からの対応 somatischen Entgegenkommen」のなかに探せるようになったとしても、それはたいして得にもならない、と。

この抗議に対し、私は、その謎はこうして一歩ずつ後退させられてゆくばかりではなく、またすこしずつ縮小されてゆくことを強調したい。もはや謎全体を問題とするのではなく、ヒステリー Hysterie を他の精神神経症 Psychoneurosen から区別する特別な性格をふくんでいる部分だけが問題なのである。精神神経症のすべてのタイプを通じ、その精神過程は、無意識の精神現象に身体的な出口を用意する「身体側からの対応 somatische Entgegenkommen」が問題になるまでは、皆同一なのである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』フロイト著作集5、PP.301-303、Bruchstück einer Hysterie-Analyse, 1905)


【身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen=欲動の固着 fixierten Trieben、Fixierung der Libido】
フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(心的なもの)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初の事例であるドラの症例においてはっきりと現れている。(……)

この事例の核心は、二重の構造にあると言いうる。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが《身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen》と呼んだものーーである。のちに『性欲論三篇』にて、《欲動の固着fixierten Trieben、Fixierung der Libido》と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因的な表象の抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動である。
この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、《症状の形式的な外被l'enveloppe formelle du symptôme》に帰着する。すなわち、それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)である。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、《あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの》(『あるヒステリー患者の分析の断片』)である。享楽の現実界は、症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2003)

【補足】

《独語表現「Somatisches Entgegenkommen」は、英語の「somatic compliance」に比べてより強く・より能動的である。フロイトはこの概念にて、いずれの症状も、器官あるいは身体の部分のなかで、如何に正常な過程あるいは病理的過程に煮詰まってゆく boils down to かを示している。》(ポール・バーハウ、2004)

フロイトのよく知られた隠喩、砂粒のまわりに真珠を造る真珠貝…。砂粒とは現実界とテュケーの審級であり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒へのオートマン-反応であり、封筒あるいは容器、すなわち症状の可視的な外側である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。フロイトはヒステリーの事例にて、「somatic compliance(Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体側からの対応 omatisches Entgegenkommen」とは、いわゆる欲動の「根」、あるいは「固着」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。症状形成の回路図を示せば次の通り。(ポール・バーハウ2004,On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,Paul Verhaeghe)


対象aを最初のポジションに置くことにたいして異和のあるラカン派もいるだろう。だが晩年のラカンは次のように言っている。

《文字 lettre は対象a、かつ「一つの徴 trait unaire》(S.23)ーーただし« osbjet »という奇妙な言い方もしている、骨象?)。

La seule introduction de ces nœuds bo, de l'idée qu'ils supportent un os en somme, un os qui suggère, si je puis dire, suffisamment quelque chose que j'appellerai dans cette occasion : « osbjet », qui est bien ce qui caractérise la lettre dont je l'accompagne cet « osbjet », la lettre petit a.(S.23)

ポール・バーハウの言う《元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている》については、《他の享楽は、異物として機能しつつ、ファルス享楽内部に外立する》(バーハウ、2001)とともに読む必要がある。

《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S.23)= 異物 Fremdkörper (フロイト、1893ーー基本的なトラウマの定義)

・autre jouissance(他の享楽)、
・jouissance du corps(身体の享楽)
・jouissance féminine(女性の享楽)

は等価であり、ラカンは、jouissance phallique(ファルス享楽)と対比している。


非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
男性は、まったく、ああ、ファルス享楽 jouissance phallique そのものなのである。l'homme qui, lui, est « tout » hélas, il est même toute jouissance phallique [JΦ](Lacan,La troisième,1974)

《身体の享楽 jouissance du corps》や《異物 Fremdkörper, un corps qui nous est étranger》とは結局、《自由に活動する備給エネルギーrei bewegliche Besetzungsenergie》にかかわるのではないか。

われわれは、心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する衝動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程を二次過程に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給に変化させることなどのことを見出した。この転換の行なわれるあいだに、不快の発展を顧慮していることはできないが、だからといって快原理は放棄されるのではない。むしろ快原理に沿うように行なわれる。拘束は快原理の支配の端緒となり、それを確実なものとする一種の準備行動なのである。(フロイト『快原理の彼岸』1920)
Wir haben es als eine der frühesten und wichtigsten Funktionen des seelischen Apparates erkannt, die anlangenden Triebregungen zu »binden«, den in ihnen herrschenden Primärvorgang durch den Sekundärvorgang zu ersetzen, ihre frei bewegliche Besetzungsenergie in vorwiegend ruhende (tonische) Besetzung umzuwandeln. Während dieser Umsetzung kann auf die Entwicklung von Unlust nicht Rücksicht genommen werden, allein das Lustprinzip wird dadurch nicht aufgehoben. Die Umsetzung geschieht vielmehr im Dienste des Lustprinzips; die Bindung ist ein vorbereitender Akt, der die Herrschaft des Lustprinzips einleitet und sichert.(Jenseits des Lustprinzips、1920)

《侵入する衝動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」》


「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

《人は享楽の侵入(奔馬)を「一の徴」の鞍で以て飼い馴らそうと試みる》(ポール・バーハウ、2001)

……このような想定と、ブロイアーが、心理的体系の諸要素について、静止せる(拘束された)  備給エネルギーBesetzungsenerと自由に活動しうる備給エネルギーとを区別した見解とをむすびつけて考えることができる。Bwシステムの諸要素は、そのとき拘束されたエネルギーをもたず、ただ自由に放出できるエネルギーしかそなえていないだろう。(同、フロイト『快原理の彼岸』)

Man kann mit dieser Vorstellung die Breuersche Unterscheidung vonruhender (gebundener) und frei beweglicher Besetzungsenergie in den Elementen der psychischen Systeme zusammenbringen; die Elemente des Systems Bw würden dann keine gebundene und nur frei abfuhrfähige Energie führen.


最後にもう一度、フロイトの現勢神経症/精神神経症の区別に注目して図示すれば次のようになる。


フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ポール・バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)))

おそらく、ラカンの《刻印 inscription》という用語は、フロイトの《固着 Fixierung》の変奏であろう。

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、セミネール17)


…………

なおジャック=アラン・ミレールは、2005年のセミネールで次のような区分をしている(Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours (mercredi 9 septembre 2005、PDF)



21世紀における精神分析は変貌している。既に確立されているもの以外に、他の象徴秩序 autre ordre symbolique・他の現実界 autre réel を考慮しなければならない。…

「言存在 parlêtre」を分析することは、もはやフロイトの意味における無意識を分析することとは全く異なる。(以前のラカンの)「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる。…

例えば、我々が、サントーム sinthome としての症状について語る時。この言葉・概念は「言存在 parlêtre」の時代から来ている。それは、無意識の症状概念から「言存在 parlêtre」への移行を表している。……

ご存知のように、言語のように構造化された無意識の形成としての症状は、隠喩である。それは意味の効果、一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して代替されることによって引き起こされる症状である。

他方、「言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER 、2014)

ここまでの記述をーーとくにフロイトによる症例ドラの記述、《psychische Umkleidung(精神的外被・精神的変奏・心的被覆》、ラカンの《症状の形式的封筒》ーーを補足する意味で、Florencia Farìas、2010の叙述はとてもすぐれている、とわたくしは思う。

ヒステリー的女が、彼女の身体的症状を通して、私たちに教えてくれるのは何か? ヒステリーの身体は、主体としてのその単独性に加えて、その受難・その転換(症状)を通して、話す。身体の象形文字は、ヒステリーの症候学においての核心であるソマティック(流動する身体)の機制に私たちを導く。ソマティックな症状は、現実界と言語とのあいだの境界点に位置づけられる。全ての「ヒステリー的作用 opération hystérique」は、症状の身体を封筒(覆い enveloppe)のなかへ滑り込ませることによって構成されている。

私たちは言いうる、ヒステリーは身体のなかの身体を再発明する réinvente un corps dans le corps、あたかも肉体 anatomie が存在しないかのように進みつつ、と。しかしヒステリーは肉体といかに戯れるか、そして大胆な身体的地理学 audace géographie corporelle を設置する症状をいかに奨励するかを知っている故に、症状の欲求に応じるイマジネールな肉体がある。歴史(ヒストリー≒ヒステリー)は身体的症状のなかに刻印される。純粋なヒステリーの目的は、リアルな身体 corps réel を作ることである。この身体、「症状の出来事 événement du symptôme」の場は、言説に囚われた身体とは同じではない。言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、Florencia Farìas、2010,PDF」ーー歌う身体の神秘

ジジェクによる旧来の症状とサントームとしての症状についての簡潔な表現も付記しておこう。

症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、「分割不能な残余」であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あ るいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は「症状との同一化」として再構成される。(ジジェク2012,LESS THAN NOTHING, 私訳)

…………

※以上、言うまでもないことだが、フロイト・ラカン引用以外のここに記されたことは、上のような解釈があるということだけであり、これらが必ずしも正当的なものだとは限らない。


※追記

サントームはすくなくとも三つの意味がある。ここでの記述はその一部に過ぎないことを断っておこう(以下の三番目のみ。ラカン自身の言葉の引用は、「一の徴」日記⑤の末尾近くを参照)。

i) the clinical necessity to knot the Imaginary and the Symbolic, and the Symbolic and the Real through splicing or suturing,

ii) Joyce's proper name or ego as a compensation for the lack of the paternal function and the imaginary relation,

iii) sinthome as an irreducible symptom or primal repression (Urverdrängung).(Post-Fantasmatic Sinthome Youngjin, Park、PDF


「フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム」補遺