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2016年1月7日木曜日

愛する女のように、未来を愛する人たちがいた

年少の友達から《――愛する女のように、未来を愛する人たちがいた、というアイルランドの詩人の一節を読みました》と、手紙に書いてきた。(『人生の親戚』)

(Amedeo Modigliani)


いいなあ、ほれぼれするなあ、

僕の前にまっすぐ支えられたまり恵さんの頭は、薄い脂肪のついた頸のいくつかのほくろと、固めた蠟のような質感の耳たぶが、そこに眼をとどめることにうしろめたさを感じさせるほどの印象なのだった。(同 大江健三郎 P.12)

大江健三郎の『人生の親戚』もいいなあ、ほかの作品と比べるほど、大江をたくさん読んでいるわけでもない、小説を数多く読んでいるわけでもないけど。

まり恵さんは、階段の昇り口からすぐ眼につくところのに、向日葵のプリントをしたワンピースの裾をひろげ、悠然と膝をくみ、頭をまっすぐあげて坐っていた。どこかの避暑地のホテルにしっくりしそうな雰囲気のまり恵さんは、鍔の狭い、軍帽のような麦藁帽子を、僕に向けて胸のところにかざした。その快活な身ぶりとはズレをきざんで、羞じらっていながら、しかしナニクソと自分を励ましている気配もあきらかで、僕はのちに受験に失敗した次男が報告に戻って示した表情から、この日のまり恵さんを思い出したものだ……(p.34)






以前、この写真を眺めてなにかのイメージと似ているな、と感じてそのままほうってあったのだけど、まり恵さんのイメージかもな、彼女はこの写真の女性よりずっとインテリだけどさ

彼女はうすものを羽織っているのみで、(……)下半身は裸、合成樹脂の黒いパイプ椅子に足を高く組んで掛けている。こちらはその前に立っているのだが、足場が一段低いので、頭はまり恵さんの膝の高さにある。p80

かつて「僕」が、まり恵さんと一緒に、プールで泳いだとき、《彼女の大きく交差して勢いよく水を打つ腿のつけねに、はみ出た陰毛が黒く水に動き、あるいは内腿の皮膚にはりつくのを見た》、その「出来事」が夢の表象として現われるーー。

まり恵さんの、腿に載せたもう片方の腿があまりに引きつけられているので、性器の下部が覗きそうだが、そこに悪魔の尻尾がさかさまに守っている。つまりはしっとりした黒い陰毛が、クルリと巻きこむように性器を覆っている。p80

ーー上の写真の女性は陰毛も淡すぎるし、脚の筋肉もまり恵さんのように訓練を積んだものではないんだけどな

ーー子供の頃、アメリカの学校で陸上競技をやらされたから、その時ついた筋肉はあまり変わらないのね、と深く背を曲げるストレッチ運動をしているまり恵さんは、しっかり張った尻の下に腿の紡錘形がふたつ並んでいる間からゆったりした声をかけてよこした。p.35

そうかといってモディリアーニの女というわけでもないな




ああ、モディリアーニもいいねえ、大江の文章と同じくらいか、それよりもずっともっと。

はたち前後にほれぼれした三十過ぎの女ってのは、もうオレにはないからな、いま二十前後の〈きみたち〉にしかないぜ、ワカルカ?

隠しマイクによる録音、ということからの先入見を裏切って、シーツのこすれる音もはっきりと聞こえる音の良さで、男と女の言葉少ない会話が再生された。すぐ性交にうつり、また会話。あらためて性交が始まろうとして、あきらかに男に対して年長の落着きをあらわした女が、――うしろからやろうよ、といい、カサカサとシーツが鳴り、――ちょっと待ってね、足をひろげるから、とさらに女はいった。おとなしく男はしたがうのだが、女がおおいにとりみだした後、男は余裕をえた具合に、――二度イッタけど、まだこんなだよ、という。――大きいのねえ、さすが二十三歳よ、と女は嗄れた声で心から応じていた……

男が、若さからの自己中心主義と、無経験からのおとなしさをあわせ示し、かつは性交をかさねるにつれて、しだいに大きな態度になる。その自然な変化に僕は興味を持ったが、はじめはピルを服用していることなど、経験豊かな様子で男の不安をしずめていた女が、二度目の性交が終ると男に対していかにも柔軟になっている、その性格の良さをあらわす進み行きに、僕は好意を感じた。……(大江健三郎『人生の親戚』p.37)

人間の原則はあのころのスケベ心だからな、それが凋みつつある齢になったらそろそろおしまいさ

人皆の根底にはその人の「原則」が巨大な文字で彫りつけてある。それをいつも見つめているわけではない。一度も読んでいないことも稀ではない。だが人はそれをしっかり守り、人の内部の動きはすべて、口では何と言おうとも、書かれているところに従い、決して外れることはない。考えも行いもそれに違うことはない。心の奥のそこには傲慢、弱点、頬を染める羞恥、中核的恐怖、孤立、なべての人が持つ無知がきらめいていて、世にあるほどのバカげた行為をいつも今にもやらかしそうだ―――。

愛しているものの中にあれば弱く、愛しているもののためとあらば強い。(ヴァレリー『カイエ』Ⅳ(中井久夫訳)より)

あの原宿のカフェ・バーの名なんというんだったけな、70年代の後半のことさ、すてきなおねえさんに昼日中、安上がりで出会える稀な場所だったよ

出会える、だって?--いやウブなオレは眺めているだけだったよ、ほとんどな

そのようにしてまり恵さんと三人組が遊ぶ足場にしていた、原宿のカフェ・バーでーーこの種のものがあらわれはじめた最初のころだった。つまりまだ一般的な場所というのではなかったーー、その場には三人組も居あわせたのだが、ある日まり恵さんはテレヴィ局の録音技術者と知り合った。……p.31


(1979年の表参道)

ロマン主義的な追憶の描写における最大の成功は、かつての幸福を呼び起こすことではなく、きたるべき幸福がいまだ失われていなかった頃、希望がまだ挫折していなかった頃の追想を描くことにある。かつての幸福を思い出し、嘆く時ほどつらいものはない――だがそれが、追憶の悲劇という古典主義的な伝統である。ロマン主義的な追憶とは、たいていが不在の追憶、一度たりと存在していなかったものの追憶である。(ローゼンのシューマン論 ―― Slavoj Zizek/Robert Schumann-The Romantic Anti-Humanistよりの孫引き)

◆Faure Pavane Op 50 - Die 12 Cellisten der Berliner Philharmonker



2016年1月6日水曜日

補遺:パラノイアとスキゾフレニーの区分

前回(神経症と精神病区分の終焉?)、つけ加えようとしたのだが、長くなりすぎるので、おもい留まった文献をここに記す。主にミレールの「ふつうの精神病」概念提出以前の発言にかかわるが、後半は「精神病」(ふつうの精神病、現実神経症)をめぐる最近の議論展開にもかかわる。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・ヴェルハーゲの「現実神経症」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013(PDF))

…………

「精神病とは,対象が失われておらず、主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです。ラカンが、狂人は自由な人間だというのはこのためです。同時に、精神病では、大他者は享楽から分離していません。パラノイアのファンタスムは享楽を大他者の場に見定めることを伴います。…

…パラノイアとスキゾフレニーの差異を位置づけることができます。スキゾフレニーは言語以外の大他者を持っていないのです。また同時に、パラノイアと神経症における大他者の差異を位置づけることも可能です。パラノイアにとっての大他者は存在しますし、大他者はまさに対象aの大食家なのです」 (Clinique ironique. Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne 23、1993年)

はて、スキゾフレニーは言語以外の大他者をもっていない、とはどういうことか?

ラカンは、1950年代だが、スキゾフレニーとパラノイアをめぐって、「スキゾフレニーにとって、すべての象徴界は現実界である。これはパラノイアとはひどく異なる。パラノイアは想像界の構造が支配的である」というような意味のことを言っている。

Dans l'ordre symbolique, les vides sont aussi signifiants que les pleins; il semble bien, à entendre Freud aujourd'hui, que ce soit la béance d'un vide qui constitue le premier pas de tout son mouvement dialectique. C'est bien ce qui explique, semble-t-il; l'insistance que met le schizophrène à réitérer ce pas. En vain, puisque pour lui tout le symbolique est réel. Bien différent en cela du paranoïaque dont nous avons montré dans notre thèse les structures imaginaires prévalentes, c'est-àdire la rétro-action dans un temps cycli.que qui rend si difficile l'anamnèse de ses troubles, de phénomènes élémentaires qui sont seulement pré-signifiants et qui n'atteignent . qu'après une organisation discursive longue et pénible à établir, à constituer, cet univers toujours partiel qu'on appelle un délire. (Lacan,Écrits pp.392-393)

ラカンが「精神病」というとき、その下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある(それ以外に「倒錯」と「神経症」の大分類があり、神経症の下位分類は、ヒステリーと強迫神経症)。だが、ラカンは精神病についてふれるとき、ほとんどの場合、パラノイアをめぐってのみ語っているようにみえないでもない。そして、人は誤解しがちだ。精神病とは想像的なものだ、と。

たとえばミレールには次のような指摘がある。

セミネール III でさえ、 ラカンは精神病を本質的に想像的なものによって定義していました。ラカンはある意味、精神病と想像的なものは等価であると考えていたのです。ラカンの著作における想像的なものは、このように精神病的なものでありますから、鏡像段階をパラノイアの記述として読み直すこともできるでしょう。すなわち、他者との基礎的な衝突があり、それは他者が私の役割を強奪していくからである、と。鏡像段階は投影によって構造化されているのです。主体の天然のパラノイア、想像的レベルに位置する主体、正常性(象徴的正常性)へと加入することを許可する象徴的秩序、をラカンはたびたび強調していました。しかし最後には、ラカンは精神病的主体はまったく正常であると喜んでいうようになりました。これは、アブノーマルなのは象徴的秩序の方であり、人間の性質は基本的にパラノイア的であるということを意味しています。


象徴的なものの視点からみれば、主体の天然のヒステリーを強調することができます。 ラカンが主体に$[S barre]というシンボルを用いるのはこのことを理由としており、このように書かれる主体はヒステリー的な主体なのです。余談ですが、主体の天然のパラノイアという概念は、クライン派における全ての主体の精神病的な核についての理論と同種のものです。そのため、クライン派は鏡像段階に興味を示すのでしょう。ラカンの鏡像段階の概念は、いまでは標準的なクライン派のトレーニングに取り入れられていますが、彼らはそこでおしまいにしてしまいます。鏡像段階は主体の発達の基礎的な段階だと考えられ、人間はみな本質的にパラノイアなのだと断言することができます。さらに、分析を精神病的な核の回帰としてとらえる方もいらっしゃいますが、ラカンは違います。ラカンは主体の天然のパラノイアについて語るとき、治療は想像的な軸に戻ることによってなされるのではなく、反対に、象徴的な軸を高めることによってなされると考えていたのです。(ジャック=アラン・ミレール 「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」 松本卓也訳)

これはパラノイアをめぐる説明なのであって、精神病一般の説明ではない。すなわち、スキゾフレニアはこうではないということになるはずだ。


かつまた、上の引用の最後の文、《分析を精神病的な核の回帰としてとらえる方もいらっしゃいますが、ラカンは違います。ラカンは主体の天然のパラノイアについて語るとき、治療は想像的な軸に戻ることによってなされるのではなく、反対に、象徴的な軸を高めることによってなされると考えていたのです》とは、分析と治療という語彙の扱いがひどく微妙であって、たとえば、前回引用したとJean-Louis Gault.の「分析」と「治療」の定義は次ぎの通り。

神経症においては、ポイントは症状の暗号を解読することである。それは象徴界から現実界へ動くことだ。この暗号解読が「分析」という語が目指すものである。

精神病においては逆に、考え方は、現実界から象徴界へと向かうこと、そして症状を構築することである。ここでは「治療」という用語がふさわしい。…ポイントは症状構築の手段による象徴界を以て現実界を治療することである。(Jean-Louis Gault.Two statuses of the symptom(2007)、私訳)

この文自体、「そのままとれば」奇妙な文ではある。神経症の「分析」が《象徴界から現実界へ動くこと》であるなら、それをおし進めれば、《精神病的な核の回帰》となってしまうはずだから。かつまた精神病を神経症にして治療するとさえ読めてしまう。

あるいは次ぎのような文をどう読むか?

ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)

これらはーー「精神病的な核の回帰」、「治療不能なものの前景化」などはーー、すくなくとも神経症の「分析」においては「主体の解任destitution subjective」にかかわる。フロイトの表現ならば、「真珠を生む砂粒」や「夢の菌糸体」にかかわる(参照)。

ここで、私はことさら強調しなければならない、ラカンが JȺ ーーそれを彼はまた名高いサントームとも呼んでいるーーの出現と、現実界の名付け、かつ享楽の徴付けmarkingの話を結びつけて考えていることを。これは長いあいだ据え置かれたままの問いだった。これが関わっているのは、主体が象徴界のなかに再刻印すること、そして象徴界の再象徴化a reinscription in and a resymbolization of the Symbolic を成し遂げるやり方である。それは主体が〈他者〉におけるリアルな欠如 Ⱥ を一時的に引き受けた後のことだ。ラカンにとって、ジョイスは実に“Joyce-le-sinthome.”だった。

もし一方で、ジョイスが「シンボルを破棄した」こと…が本当なら、他方、それは同様に当てはまるのだ、(人の現実界の名付けとしての)「サントームとの同一化」、ーーラカンが精神分析の目標としての最後の仕事において提唱したそれーーは決して半永久的な「主体の解任 subjective destitution」、精神病的な象徴界の非機能 nonfunctioning にはならないことが。 Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)

このあと、《このような誤った結論に対して、私は次のことを強調しなければならない》と続く(参照)。

われわれは、おそらくーーわたくしは専門家ではないので口はばったいことは言いたくないがーー晩年のラカンの次の文とともに「分析」という用語を理解しなければならない。

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))

それについてのやや詳細は、「象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム)」を見よ。

あるいはまたラカンの1976年の言葉にいくらか保留を加えるならば、1977年の次の文が核心のひとつであるだろう。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” (J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7)


この文の「症状symptôme」を、「裸の症状(精神病的な核)」とわたくしは読む。そしてその裸の症状と同一化しつつも、距離をとらなければならない、と読む。

日本でもラカンの上の文(「分析は突きつめすぎるには及ばない……」)を引用して、藤田博史氏が次ぎのように言っているようだ(そしてそれにひどく反撥する精神分析家もいる)。

これが分析の極意です.

前期,中期のラカン思想しか知らない人にはまったく意外でしょうが,これが晩年のラカンが到達した最終地点なんです.そして,わたし自身が現在臨床で実践している分析もまた同様の理念に依っています.

行き過ぎた分析は「死」を引き寄せ,「死」に直面し,不幸な結果を引き起こします.

あるいは「分析のための分析」というアディクションを引き起こし,自分は「存在」や「真理」について追求しているのだ,という錯覚を引き起こします.わたしはこれをあえてファルス享楽の追求と言いましょう.

その結果「人生のための分析」ではなく「分析のための人生」という,本末転倒の事態を引き起こします.一生を分析に捧げて,不幸なまま終わる人が少なからずいます.

そうではなく,とても単純なことですが,長年の臨床のなかで見えてくること,それは分析は不幸になるためではなく,幸せになるためにあるのだ,という単純な事実なのです.

前期,中期のラカン思想を過大評価しないように注意してください.寧ろ,晩年のラカンが到達したこのシンプルな地平こそ,現実にスキゾフレニアや,デプレッションや,摂食障害などを治癒させ得る治療理念なんです.



なお、前回も触れた「現実神経症」概念を前面に出すポール・ヴェルハーゲの考え方はつぎの通り。

精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない……。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論
分析の目的とは隠された無意識の意味を発見することではない。全く違う。そうではなく、〈他者〉から来る諸シニフィアンsignifiersの決定づけを与える効果から免れさせることだ。

これが私が考える治療的側面における我々の仕事である。そして神経症の場合なら、精神分析治療はひどく役立つ。もし誰かが私に会いにきて精神分析は何をしてくれるのでしょうと尋ねたら、私の答えは、あなたが日々直面している『制止、症状、不安Hemmung, Symptom und Angst』(フロイト)の代わりに、もっと選択の自由を得るでしょう、とするだろう。(“The function and the field of speech and language in psychoanalysis.” A commentary on Lacan's ‘Discours de Rome'. Paul Verhaeghe(2011ーー旧態依然の破廉恥な精神分析家)

2016年1月5日火曜日

神経症と精神病区分の終焉?

緊張病の極致は恐怖の世界です。この頃それが見えなくなってきましたね、緊張病の場合は薬で曖昧になるものですから。私も、ケースカンファレンスに出て、「この人は鬱病でしょうか」とか、「病気か病気でないかわかりません」といわれる人が、昔だったら急性の緊張病状態で重症となるはずの人でした。皮肉なことに、統合失調症で一番派手であり、重症の重症たるゆえんであると思われてきた緊張病状態に一番薬が効くんですね。いまのドクターもナースも、薬が入っていない患者さんは、初診のときにちょっと見るだけでしょう。あとは、薬が入っている状態ばかり見ているものですから、緊張病の世界がよくわからなくなってきている。

昔は緊張病で何年も全然動かない人というのがたくさんおられました。それは、すごい緊張のエネルギーを内側に向けている状態です。患者さんは「指一本動かしたら世界が壊れるかもしれない」と本当に思っているわけです。身動きしたら世界が壊れるかもしれない、自分は全世界に責任をもっているという感じです。これを緊張病性昏迷といいます。意識はあって、しかも刺激に対してまったく反応できない状況です。

それに対して、緊張病性錯乱の人は、世界が善と悪との分かれて戦っていて、自分は、本当は嫌なんだけれども、それに否応なしに巻き込まれているという人が多いです。……(中井久夫「統合失調病の経過と看護」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収 P.224)

ーーと中井久夫をまず引用したが、表題とは何の関係もない。下に緊張病という言葉が出てくるので、それへの参照である。

…………

神経症においては、我々は「父の名」を持っている…正しい場所にだ…。精神病においては、我々は代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ…。「ふつうの精神病」においては、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ…。とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている…。その何かが主体を逃げ出したり生き続けたりすることを可能にする。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳)
精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。…父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいは「それぞれに仕方で、みな妄想的である」に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでもかくの如しである。(同上)

« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan Tout le monde délire、1979)

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

※1:ラカンの父の名の理論的変遷の基本については、簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」を見よ。

※2:ミレールと異なった見解があり得るのは、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」を見よ。

いずれにせよ、すこし前までは次ぎのように言われた、これはミレール自身も同じ。

@schizoophrenie 2011/12/10 神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(松本卓也)

たとえば、それなりに権威がないわけではないだろうJean-Louis Gault.は Two statuses of the symptom(2007)で次のように言っている。

神経症においては、ポイントは症状の暗号を解読することである。それは象徴界から現実界へ動くことだ。この暗号解読が「分析」という語が目指すものである。

精神病においては逆に、考え方は、現実界から象徴界へと向かうこと、そして症状を構築することである。ここでは「治療」という用語がふさわしい。…ポイントは症状構築の手段による象徴界を以て現実界を治療することである。(私訳)

この文は、まだ若いJonathan D. Redmondの博士論文 「Elementary phenomena, body disturbances and symptom formation in ordinary psychosis」PDF(supervisorはラカン英訳で名高いRussell Grigg)からの孫引きであり、彼は上の文を引用して次ぎのように記している。

例えば、強迫症状は神経症と精神病ではひどく異なった機能をもちうる。神経症では、強迫症状はしばしば侵入的かつ破壊的で、個人にとって酷い苦痛をうむ。神経症主体にとって、強迫症状の分析と抑圧解除は、症状除去あるいは破壊的影響の調整をもたらす。対照的に、精神病における強迫症状の「防衛的機能」は、主体に精神病的現象の襲来にたいする「バッファ(緩衝物)」を提供する (Laplanche and Pontalis, 1973; McWilliams, 1994)。このように、精神病における強迫症状は、事例によっては、主体にたいして安定化機能をもちうる。(Jonathan D. Redmond、2012)

ーーとメモしたのは、ふつうの精神病と現実神経症の相違はあるのだろうかという問いからである。

精神神経症と現実神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現実神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)。これは、現実神経症的病理が単独での研究領域であることを正当化してくれる。さらにもっとそうでありうるのは、フロイトは、現実神経症を精神神経症の最初の段階の臍と見なしているからだ。(ポール・ヴェルハーゲ、2007ーーフロイトの美しい表現:「真珠を生む砂粒」と「夢の菌糸体」)

この叙述からも窺われるように、現実神経症とは実際には神経症とは言いがたいので、ヴェルハーゲは別に現実病理 actualpathology と命名している。

現実病理 actualpathology の因果要素…は、主体の内的欲動興奮が〈他者〉によって応答されないーーあるいは充分にされないーーという事実に横たわっている。 (a) からAへの移行、それを通して、〈他者〉は答えを提供し、第二次的な作用が動きだすのだが、その移行が起こらない。結果として、初期の興奮は不安に変わり、さらには分離不安に変わる。( (Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 2004).

要するに、「現勢神経症」(現実病理)の主な特徴とは、表象(象徴化)を通しての欲動興奮を処理することの失敗だということになる。

ふつうの精神病と現実神経症の相違については上に掲げた若いJonathan D. Redmondの論があるが、わたくしには理解し難い箇所がたくさんある。

彼の論文は次ぎのような紹介で始まる。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・ヴェルハーゲの「現実神経症」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013(PDF))

…………


ミレールの文に、精神病においては、我々は(父の名の)代わりに「穴」を持っているとあったが、中井久夫の以下の説明も分裂病におけるその穴の「補充」行為ーー身体症状あるいは妄想語りの出現ーーということになるのだろうか。いずれにせよ、それはある意味での「象徴化」であろう。

統合失調症の人は回復の途中にはあまり身体の症状がないと思われていたのですが、看護日誌を克明に洗って、時間の順序に並べてみると、非常に身体が揺れ動くときがあることがわかります。(……)

そういうふうに身体症状が、タイプによって消化管に出たり、血圧が上がったり、不明熱が出たり、ときには痙攣が起こったりすることもあります。そういうものが出だしたら、もう精神症状のほうは収まる頃であると、私は患者さんにもあらかじめいっておきます。「良くなりだしたら、エンジンをかけたときにブルブルというように、身体が……」と。(……)とにかく「最初は身体の乱れが出てくるので、出てきたらしめたもんですよ」と。特に女性の場合、無月経ですね。かえって重症のときは月経は通常です。「身体は知らんぞ」という感じですね。やはり個体保存のほうが子孫を残すより重要ですから。無月経になったら、「ひょっとしたら君、これは治る機会かもしれないぞ」といいます。(……)

このへんで妄想をはじめて話す場合がけっこうあるんですね。妄想を話したので悪くなったととる人が、ドクターの中にもいますし、症例報告の中にもあります。しかし、妄想が言葉になるというのは良くなってきたからです。つまり妄想と一体になっているときは言葉にならないものです。ボーッとしているような感じで、睡眠でも覚めているのでもないような状態です。

回復のはじめに悪夢を見るということもあります。私は、あまり内容は聞かないことにしているのです。ただ見たかどうかだけを尋ねます。幻聴の患者さんに告げておくのは、「もし幻聴が夢の中に入ったら教えてくれ、それは消える前兆だから」ということです。幻聴が夢の中に入ったときに「昼間はどうだ?」と聞くと、「昼間は弱くなりました」とか「あ、消えています」というのが普通です。(中井久夫「統合失調症の経過と看護」2002年初出『徴候・記憶・外傷』所収pp.225-226)

補遺:パラノイアとスキゾフレニーの区分

2016年1月4日月曜日

BWV797の間奏2

立ち昇る一樹。おお純粋の昇華!
おおオルフォイスが歌う! おお耳の中に聳える大樹!
すべては沈黙した。だが沈黙の中にすら
新たな開始、合図、変化が起こっていた。

静寂の獣らが 透明な
解き放たれた臥所から巣からひしめき出て来た。
しかもそれらが自らの内にひっそりと佇んでいたのは、
企みからでもなく 恐れからでもなく

ただ聴き入っているためだった。咆哮も叫喚も啼鳴も
彼らの今の心には小さく思われた。そして今の今まで
このような歌声を受け入れる小屋さえなく

僅かに 門柱の震える狭い戸口を持った
暗い欲望からの避難所さえ無かったところに――
あなたは彼らのため 聴覚の中に一つの神殿を造った。

ーーリルケ「オルフォイスに寄せるソネット」より 高安国世訳

…………

「Sinfonia 11」は,シチリアーノ風のリズムが魅力的である.しかし,単に舞曲ふうに演 奏するのではなく,そこに漂う哀しみを伴った深い情感を豊かに表現したい曲である.特に, 間奏2の崇高さは,特筆すべきものがある.「間奏2」に対応する「間奏6」を1オクター ブ低くしたのは,間奏2の崇高さを際だたせるためであったかも知れない.「極めて美しい ものは,二つあるよりも,ただ一つである方がよい」という判断からであろう.(J.S. バッハ作曲「三声シンフォニア」の楽曲分析と演奏解釈 −第 11 番 ト短調 BWV 797 − 藤本逸子,2012(PDF))

ーーああ、やっぱりBWV797の間奏2の至高の美しさを褒めている人がいるよ




グールドの演奏は、CDスタジオ版よりモスクワライブ版のほうがずっといいが、それでもまだわたくしの趣味からいえばテンポが速すぎる。とはいえ間奏2の最初の音の美しさはどんな演奏家にも負けない→Glenn Gould in Russia 1957

わたくしはーー何度も記しているがーー、13歳だったか14歳かのとき、スウィングル・シンガーズでこのBWV797を聴いてボロボロになった。


◆The Swingle Singers - J.S. Bach - Sinfonia XI (Three Part Invention) BWV 797 [HQ Audio]





LIGETI TRIOのBWV797 なんてものもあるな

このBWV797にはエロスがふんだんにあるよ、

ああ、《丘のうなじがまるで光つたやうではないか
灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに》(大岡信)

《美は耐えがたいものであり、また不寛容なものでもある。美は容赦なくわれわれの視線をさぐり、音を聞こうとする耳を誘惑し、待機中の言葉をつかみかかり、電撃と緩慢さを交錯させる。美はみずから充足し、わたしたち抜きで存在するのだが、それでいて嫌になるほど執拗に呼びかけ、こちらにはわかるはずもない答えを要求する。……》(シュネデール)

バッハはフランス組曲、イギリス組曲、パルティータなど組曲の6曲セットを作っている。当時のドイツは、ヨーロッパの田舎だった。文化の中心パリの流行は、周辺地の音楽家の手で古典性をおびる。それらはもう踊られるためのものではなく、むしろ音楽語法を身に着けるためのモデルであり、ヨーロッパ中心の音楽世界地図でもあった。その装飾的な線の戯れにはどこか、かつての性的身ぶりの残り香がある。若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。(踊れ、もっと踊れ  高橋悠治)

「性的身ぶりの残り香」いっぱいのイギリス組曲のガボットをも掲げておこう。

◆Bach English Suite No 6 in D minor BWV 811 Glenn Gould Gavotte.





2016年1月3日日曜日

精神分析における父→母→父→母

我々は思い出させられるよ、フロイトが父を過剰に強調して母をほとんどまったく無視したこと、それがクライン派とより広くいえばアングロサクソンスクールの過剰な修正を導き出したことを。そして今度はラカンの過剰修正が引き続いてね、要はまた父への焦点に戻ったのさ。とにかく、とっても注目に値するよ、現代の精神分析的アタッチメント理論 (Fonagy et al., 2002) の主要な仕事を読むのはね、その仕事の概念的と経験主義的箇所には、父はほとんど完璧に不在なんだな、事例研究とはひどくコントラストがあるね。(POSTTRAUMATIC STRESS DISORDER (PTSD), ACTUALPATHOLOGY, AND THE QUESTION OF REPRESENTABILITY、A Reply to “Attachment Deficits, Personality Structure, and PTSD” (J. Mills) Paul Verhaeghe, PhD, and Stijn Vanheule, PhD、2008、PDF

どこかで読んだのと似たような話だな

実存主義、構造主義、ポスト構造主義という通時的過程に眼を奪われている者は、それが理論的な態度と実践的な態度の交替にすぎないことを見落とす。(柄谷行人ーー「実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって」)

だいたいこうやってみておけば間違いないよ、新しい「思想」なるものはね

主体→非主体→主体→非主体ってわけだ
父→母→父→母 と同じようにね

で、それがわるいわけじゃないさ、必ずしもね、
な、そうだろ?

十中八、九、新しいことは新奇さのステレオタイプでしかない。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

 だいたいこうやってこと新しく言ってみるのも新しい紋切型じゃないかね?


2016年1月2日土曜日

日本酒特有ノ屁屎尿ノ醗酵臭

日本酒をそれなりの量飲むと、腸にたまって醗酵する。そして独特の臭気の屁が出る。ひさしぶりにそのひどく臭いオナラが出た。この臭いは海外ではほとんど嗅いだことがない(日本料理店にはあるのかも)。なぜ東京の地下鉄車輌はあんなに臭いのだろうか、と感じたことはないか。もちろん乗車する人が多すぎるということもあるが、たぶん日本酒のせいもあるのではないかーー。

と、わたくしは馬鹿なことを言っているのではないかと思い、すこし調べてみたらこうある。

お酒を飲みすぎて二日酔いとなると、凄く臭くなってしまいます。

これはアルコールが代謝されることでアセトアルデヒドという物質に変わるのですが、これが強烈な臭いを発するのです。

この一部は汗や尿から体外へと排出されるのですが、その残りが体臭となって表れます。

この際に体臭だけに表れるのではなく、実はおならの臭いにもこの成分は混じってしまうのです。

そのため、お酒をたくさん飲んだ後に出るおならは臭いということを把握しておかなければなりません。(おならとお酒について

とはいえ、アセトアルデヒドは日本酒だけに特有のものでもあるまい。

日本酒やワインなどの醸造酒はさまざまなアルコールが複雑に絡み合って出来上がっており、アセトアルデヒドが複雑に発生し分解もしにい。焼酎などの蒸留酒はシンプルな構成のアルコールなので、アルデヒドを発生させにくいうえに、分解も早いといわれる。これが、焼酎は悪酔いしないといわれる要因かもしれない。

では焼酎と同じ蒸留酒のウイスキーとかブランデーも同じなのか? そう、実は同じ。樽熟成するぶん香気成分が含まれるのでより濃厚で複雑なアルコールのように思えるが蒸留酒のアルコールには変わりない。(焼酎、本当に「悪酔い」しない?

ははあ、醸造酒がいけないのだな、わたくしは当地産の純米酒や米焼酎をそれなりの量飲むことはしばしばあるのだが、このオナラの臭いがしないのだ。

いやあ、でもじつに懐かしい。日本の風土独特の粘り気のある臭いなのだ、この「蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおい」は。この「鼻を刺激する醗酵性のにおい」は。日本列島の曖昧模糊として春のような風土につねに纏わりついている腐臭かつてウール製ズボンの臀部にクリーニングに出してもへばりついていたあの臭い!

(この中年男の)機械的に熱中ぶりを操作しているといったふうな長広舌が続いている間、わたしは濡れた身体を濡れた衣服に包んで、それが徐々に体温でかわくのをじっと待っていたが、部屋の空気は湿っていたし、それに、すり切れた絨毯や、 同じようにすり切れてやせた織糸の破れ目から詰め物とスプリングがはみ出ているソファが、古い車輌に乗ったりすると、時々同じようなにおのすることのある、人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおいを発散させていたので、その鼻を刺激する醗酵性のにおいに息がつまりそうになり、わたし自身の身体からも、同じにおいを発散させる粘り気をおびた汗がにじみだして来ては、体温の熱でにおいをあたりに蒸散させているような気がした。(金井美恵子『くずれる水』)

蚊居肢子晩酌シテ酔ヘリ。
寝ニ就カントスルニ猶早シ、書ヲ読マントスルニ亦懶シ。
鳥語ニ耳ヲ傾ケントついつたあノ窓ヲ覘クモ欠伸スル而已。
毫モ感ズル所無シ。

諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちえト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。

蚊居肢氏喟然トシテ嘆ジテ曰ク、衆何ノ為メニ囀ルヤ。
其ノ無用ナル之レヲ号ケテ屎ト云フモ可ナリ、屁ト云フモ亦可ナリ。




2016年1月1日金曜日

美酒と思い出

時間がたつのが確実に解るというのが一般に考えられている程簡単なことではないということをのければ酒にはそれを飲むのに先ず目的がないと言った方が早い。(吉田健一)


輸入食料品の会社に勤めている義理の弟が、昨日、日本酒を届けてくれた(それとキャビア)。尾張の「男山」という名の吟醸酒で、これがひどくいける。わたくしは、当地産の日本酒をふだんは飲んでいるのだが(「越の一〔はじめ〕」という純米酒ーー九州出身の杜氏による)、この「男山」は安価にもかかわらず、ひさしぶりに日本産の吟醸酒を飲むわたくしにはひどく美味だ。

義理の弟は、仏人の血が混じったクオーターであり、母親がハーフ。父と母は彼が少年のころ離婚して、今はその父が経営する会社に勤めている。ひどく巨漢であり、ジェラール・ドバルデューに躰つきだけでなく顔つきも似ている。トリュフォーが使ったときのまだ若いドバルデューに。





いまあまり多飲多食はできない身だが、昨晩二合ばかり、今日は昼食に一合半ほど飲んだ。昨晩は魚の鍋にキノコのたぐいやら牡蠣をすこし入れて酒とともに食し、こちらのやや水っぽい餅をいれてかつおぶしをふりかけ食す。こちらはテト祝いの土地なので、新年は今日だけが休日である。


「男山」は、長く飲むとやや濁りは感じられて、真の「いのちの水」という具合にはいかないが、たまにはこのたぐいの酒でもいいからえんえんと飲みたいものだ。

本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのは常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。庭の石が朝日を浴びているのを眺めて飲み、そうこうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白み掛っているのに気付き、又庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と相手に言うのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れ兼ねている。(吉田健一『金沢 酒宴』) 

ああ酒を飲んでいるといろんなことを思い出すよ、京都で出入り禁止になった料理屋が二軒あるのだが(一軒はテキーラの過飲のせいでなぜかトイレのドアを壊し、一軒は由緒正しい料亭で裸踊りからワカメ酒への展開となって顰蹙を買い……)、わたくしは当時宴会の幹事をしばしば押しつけられた。いや「宴会」といえば、わたくしに指名がかかるに決まっていたのだが、あれはその役割の無理がたたったのさ

あれは、「いけツバメの奴!」って若い連中に強いちゃったんだな

けやきの葉先が黄色にぼける頃
遠く遠く生垣にたよつて
猿の鳴く山の町へ行け
白い裸の笛吹きのように言葉を忘れた
舌をきられたプロクネ
口つぼむ女神に
鶏頭の酒を
真珠のコップへ
つげ
いけツバメの奴
野ばらのコップへ。
角笛のように
髪をとがらせる
女へ
生垣が
終わるまで

ーー西脇順三郎『第三の神話』「プレリュード」

一体に人間はどういうことを求めて一人で飲むのだろうか。そうして一人でいるのに飲むことさえも必要ではなさそうにも思えるが、それでも飲んでいれば適当に血の廻りがよくなって頭も煩さくない程度に働き出し、酒なしでは記憶に戻って来なかったことや思い当らなかったことと付き合って時間が過ごせる。併しそれよりも何となし酒の海に浮かんでいるような感じがするのが冬の炉端で火に見入っているのと同じでいつまでもそうしていたい気持を起こさせる。この頃になって漸く解ったことはそれが逃避でも暇潰しでもなくてそれこそ自分が確かにいて生きていることの証拠でもあり、それを自分に知らせる方法でもあるということで、酒とか火とかいうものがあってそれと向かい合っている形でいる時程そうやっている自分が生きものであることがはっきりすることはない。そうなれば人間は何の為にこの世にいるのかなどというのは全くの愚問になって、それは寒い時に火に当り、寒くなくても酒を飲んでほろ酔い機嫌になる為であり、それが出来なかったりその邪魔をするものがあったりするから働きもし、奔走もし、出世もし、若い頃は苦労しましたなどと言いもするのではないか。我々は幾ら金と名誉を一身に集めてもそれは飲めもしなければ火の色をして我々の眼の前で燃えることもない。又その酒や火を手に入れるのに金や名誉がそんなに沢山なくてはならないということもない。(吉田健一『私の食物誌』)

やっぱり正月の酒にはキャビアじゃなくて筋子か数の子がいいよ、鮒鮨のたぐいはこちらにもあるのだけどさ、それと粕汁の雑煮食いたいなあ・・・京都大丸の駐車場裏(烏丸通りから錦小路を東に入りさらに袋小路とさえいえないような小路を北へすこし入った突き当たり)に昼間だけやっているカウンターのみの一膳飯屋があったーーいまネット上を探しても見当たらないのでなくなっているのだろうーー、そこの粕汁は絶品だったよ。

新潟の筋子──「今でも新潟と聞くと筋子のことが頭に浮かぶ。それも粕漬けがいい。(中略)粕漬けだと筋子が酒に酔うのか他の漬け方では得られない鮮紅色を呈して見ただけで新潟の筋子だと思う。(中略)肴なしで飲める日本酒という有難い飲みものの肴にするのは勿体なくて食事の時に食べるものだという気がする。その上に白い飯の上にこの柘榴石のようなものの粒が生彩を放つ。」


近江の鮒鮨──「その幾切れかを熱い飯に乗せて塩を掛けて食べるのであるが、それにはその頭の所が最も滋味に富んでいるというのか妙であるというのか、そう言えば大概の動物が頭が旨いのはやはりそこに一番いいものが集っているのだろうか。(中略)人間も含めて凡て動物というものの体の構造から鮒も頭が全体に比べて少ししかないのが残念に思われる。」