2016年1月31日日曜日

哲学書の読み方

さあて、日曜日だな
たまには初歩的教養ヴァージョンを投稿するよ、
このブログを覗いてくれている人のためにね

…………

ヘーゲルは自分が何をやってるのか分かっていなかったのさ。(……)だから彼を解釈しなくちゃいけない。知っての通り、ドゥルーズが哲学者を読むために使った言葉は、アナル解釈だ。オカマを掘らないとな。ドゥルーズが言うように、哲学者を尻から貫通するんだ、汚れのない受胎のためにね。すると怪物が産まれるわけだ。 (ジジェク An Interview with Slavoj ZizekEric Dean Rasmussen、2003、意訳)




オカマというのはよがりますよね。枕カバーがベットリ濡れるくらい涎を流したりするでしょう。するとやっているうちに、こっち側になりたいという気になってくる。だからオカマを抱いちゃうと、大体一割くらいのケースで、オカマになりますね。(野坂昭如ーー岩井志麻子『猥談』より)





哲学者がかつてその本当の最後の意見を書物のなかに表現したとは信じない。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるものではないか。(ニーチェ『善悪の彼岸』289番 秋山英夫訳)
偉大な哲学者達は、彼らがはっきりと公表していることはまったく考えていないし、また、たとえばデカルトについても、彼はほとんど神を信じていなかったが、それは彼の注釈家の誰々に都合よかったからだとか、その逆であるとか、など平気で考えるのだということである。(ラカン『同一化セミネール』)




ひとがものを書く場合、分かってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分かってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分かってもらいたくなかったのだ。

すべて高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこ起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである。ニーチェ(『悦ばしき知識』秋山英夫訳)



真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

…………

デリダ・インタビュー(1)、LAWEEKLY, 2002年11月8/14日

【問】映画の中で、あなたにある問いが尋ねられました--「尊敬する哲学者になにでも尋ねることができるとしたら、なにを質問しますか」と。すると「性生活についてですね。決して話そうとしないことですから」と答えておられました。ところがインタビュアーがあなたの性生活について質問すると、答えられませんでした。どこに境界があるのでしょうか。

【答】わたしが答えるのを拒んだのは、それが隠さなければならないことだからではなく、カメラの前で外国語で即興に話しながら、自分の生活のもっとも個人的な側面を明らかにしたくはなかったからです。こうした事柄について話すのなら、文章という自分の道具を研ぎ澄ますでしょう。わたしの書いたものを読んでいただければ、こうした事柄について、わたしなりのやりかたで検討しているのご理解いただけるでしょう。『郵便葉書』や『割礼告白』は自伝的な作品ですし、わたしの生活と欲望は、わたしのすべての文章に刻印されています。
【問】なぜ女性の哲学者はいないのでしょう。

【答】哲学のディスクールというものが、女性、子供、動物、奴隷をマージナルなものとして抑圧し、沈黙させるように組み立てられているからです。これは哲学の構造であり、これを否定するのはばかげたことでしょう。そのために偉大な女性の哲学者が現われないのです。もちろん偉大な女性の思想家はいますよ。でも哲学というのは、思想のうちでもごく特殊な思想、特別な考え方なのです。ただ現代では、こうしたことは変わりつつあります。

ーーと引用すれば、ジジェクによるデリダ罵倒を思い出したよ

デリダにおいて、全体化する例外の論理は、正義の公式においてその最高の表現を見いだすことができる、つまり「脱構築の脱構築されない条件indeconstructible condition of deconstruction」だ。全ては脱構築される、「脱構築の脱構築されない条件」自体以外は。たぶん、これこそが、全ての領野を暴力的に均等化する仕草だ。このようにして、全領域に対して、「例外」としての己れのポジションを形式化している。これは最も初歩的な形而上学の仕草である。(ジジェク、2012,私訳)


まあ、あまり信用するなよ、ラカン派なんてな

私が哲学を攻撃してるだって? そりゃひどく大袈裟だよ!(ラカン、Seminar XVII)

ーー《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら。》(バディウ、2005)


2016年1月30日土曜日

「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,p.55 原文PDF)
何が主体を分割するのか? ラカンの答は、シンプルかつラディカルである。すなわち、それは(象徴的)アイデンティティだ。異なった精神構造(神経症、精神病、倒錯)のあいだで分割されるよりも先に、主体はすでに分割される。一方で、そのコギトの空虚(言表行為の厳密な純粋主体)と、他方で、大他者のなかに或は大他者にとっての主体を同一化する象徴的特徴(他のシニフィアンに対して主体を表象するシニフィアン)ーー、この二つのあいだで分割される。 (同上、ジジェク、2012,p.488)

ジジェクはここで何を言っているのか。ロレンツォ・キエーザの叙述が理解の助けになる。

父性隠喩が成立する以前に、言語(非統合的 nonsyntagmatic 換喩としての)は既に幼児の要求を疎外している。(……)

幼児が、最初の音素を形成し、自らの要求を伝え始めるとき、疑いもなく、ある抑圧が既に起こる。彼の要求することは、定義上、言語のなかに疎外される。…その要求は、必ず誤解釈される。したがって、常に増え続ける欲求不満に陥るよう運命づけられている。(ロレンツォ・キエーザ 『主体性と他者性』Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007)

たとえば、乳幼児は、「寒い、温めて!」と喃語で要求したのに、母はお腹が減ったと誤解釈する。

人はこのように「言語」を使用することによって、「疎外」される。「言い得ぬもの」は、象徴界(快原理)の彼岸にあるのではなく、言語固有のものだ。こうして、$(分割された主体の空虚)は、《「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」》だ、と語られることになる。これは言語を使用する人間の宿命である。

これは前回引用したが、現実界は、象徴界(言語)の行き詰まり・非一貫性にしかない、という考え方と同じことを言っている。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK、LESS THAN NOTHING、2012)
現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためだ。というのは、現実界 the Real は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者的」重要性を与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり、よろめいたりするというだけではない。そうではなく、現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (同ジジェク、2012)

今、2012年の書から抜き出したが、ジジェクは90年代の半ばからすでに同じことを言っている。

象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)
 ※ここにある「棒線」の議論は、「“A is A” と “A = A”」を参照のこと。

単純化するために、最初に私のテーゼをプレゼンしよう。大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられこう言うんだな、「そうだわ、女たちのすべてが、ファリックな秩序(象徴秩序)に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、まるで片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足はミステリカルな女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。私のテーゼは、とても単純化して言うなら、ラカンの全体の要点は、われわれは女を統合化できないから、例外がないということなんだ。だから、別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方なんだな。これは究極的な男性の幻想だね。そして、ラカンが「〈女〉は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?(Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture、1995,ーー「象徴界(言語の世界)の住人としての女」)


ほかの言い方もある。現実界は超越的ではない、つまり象徴界の彼岸にあるものではなく、超越論的(横にずれる場、アンチノミー)にある、と。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesaーー超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))

これは、「現実界は分節化された象徴界の内部に外立ex-sistする」(Paul Verhaeghe)ということでもある。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence]である。(ラカン、Séminaire XXII R.S.I. 1975年2月18日)

※外立 [ ex-sistence]については、「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」を参照のこと。


これらは、柄谷行人によるカントの物自体解釈と同じである、すなわち、《物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない》。

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。

実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。

しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p81ーー

もちろん、カントの物自体やハイデガーの外立 Exsistenz の異なった解釈もあるのは言うまでもない。


2016年1月29日金曜日

得体の知れないものは形式化の行き詰り以外の何ものでもない

……だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。(岡崎乾二郎ーー共同討議「『ルネサンス 経験の条件』をめぐって」『批評空間』 第3期第2号,2001)

融合と分離、愛と闘争、 Zoë とBios(永遠の生と個人の生)」で、どこか「向こう」にあるかもしれないエロスをめぐって記したけど、ふつうはそんなもの、つまり得体の知れないものなど考えないほうがいいよ、オレみたいな暇人でも、どうでもよくなるからな、大事なのは、象徴界の非一貫性にめぐり会うことだね、とくに「創造者」はそうじゃなくちゃいけない。

ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)

ーー壺作りってのももちろん形式化のことだ、壺の面を念入りにつくって後、ようやく得体の知れない空虚にであうわけだよ


《われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。》(ZIZEK、LESS THAN NOTHING、2012

現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためだ。というのは、現実界 the Real は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者的」重要性を与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり、よろめいたりするというだけではない。そうではなく、現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (同ジジェク、2012)


バルトも、エロティックとは、象徴界の裂け目って言ってるからな、つまりやっぱり象徴界の非一貫性さ

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

エロスが何かを考えるより、たとえば、次のような文をひねりだすことだね、

「抱くつもりで来てくれたの」また繰り返してしまった床の中で泰子はたずねた。(……)
あなたに抱かれていると、死人のような気にさせられて……。(古井由吉『椋鳥』椋鳥)

…………

※追記

そういえば、バルトは《エロス化/エロティック》として、エロス化を《賛成》、エロティックを《反対》としているのを思い出した。とはいえ、上の文のエロティックは、実はエロス化のことのはず。これは仏原文云々の話ではなく、その意味内容としてはそう捉えられるということ。「出現ー消滅の演出」から憶測すれば、だが。

彼が好んで使う語は、対立関係によってグループ分けされている場合が多い。対になっている二語のうちの、一方に対して彼は《賛成》であり、他方に対しては《反対》である。たとえば、《産出/産出物》、《構造化/構造》、《小説的〔ロマネスク〕/小説〔ロマン〕》、《体系的/体系》、《詩的/詩》、《透けて見える/空気のような》〔ajouré/aérien〕、《コピー/アナロジー》、《剽窃/模作》、《形象化/表象化》〔figuration/ représentation〕 、《所有化/所有物》、《言表行為/言表》、《ざわめき/雑音》、《模型/図面》、《覆滅/異議申し立て》、《テクスト関連/コンテクスト》、《エロス化/エロティック》、など。ときには、(ふたつの語の間の)対立関係ばかりではなく、(単一の語の)断層化が重要となる場合もある。たとえば《自動車》は、運転行為としては善であり、品物としては悪だ。《行為者》は、反“ピュシス〔自然〕”に参与するものであれば救われ、擬似“ピュシス”に属している場合は有罪だ。《人工性》は、ボードレール的(“自然”に対して端的に対立する)なら望ましいし、《擬似性》としては(その同じ“自然”を真似するつもりなら)見くだされる。このように、語と語の間に、そして語そのものの中に、「“価値”のナイフ」の刃が通っている。(『彼自身のよるロラン・バルト』)



2016年1月28日木曜日

融合と分離、愛と闘争、 Zoë とBios(永遠の生と個人の生)

人類の共同生活は、外部からの苦難によって生まれた労働への強制と、愛の力 ――男性の側からいえば性欲の対象である女性を、そして、女性の側からいえば自分の分身である子供を、手許にとどめておこうとする愛の力 ――という二重の楔によって生まれたのだ。すなわち、エロス(愛)とアナンケ(宿命)は、人間文化の生みの親ともなったのだ。(フロイト『文化への不満』1930)
エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

フロイトのエロスとタナトスは種々の解釈がある(参照:フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって)。今でも誰もはっきり自信をもってこうだといっている論者は専門家でもない筈だ。一般の人ならなおさらそうであり、エロスとタナトスをなんとなく愛と死と思っているにちがいないし、それも当然だ。フロイト自身、タナトスを死の欲動としているし、エロスは上に見たように愛である。

だが、タナトスについては、最晩年、上のように言い換えている。宿命、あるいは闘争と。

ほかにもラカン解釈をへて、ジジェクは、タナトスを「死なない」衝動(≒欲動)としている。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

ドゥルーズならこうだ。

根源と根源を越えたところで快感原則に先行している反復は、いまや倒置されたかたちで体験され、その原則に従属する(あらかじめ獲得した、あるいは獲得すべき快感との関連で反復は行われる)。超越論的探求の結果明らかにされるものは、エロスは経験的な快感原則の創設を可能にするが、また、いかなる場合もタナトスを必然的に引きずっていくということである。エロスもタナトスも、与件たること、あるいは具体的経験たることはありえない。体験のうちに与件として示されるものは、両者の結合関係ばかりである。――エロスの役割は、タナトスのエネルギーを結びつけ、その結合を〈エス〉のうちで快感原則に従属せしむることにあるからである。それ故、エロスはタナトス以上に与件として示されるものではないにもかかわらず、すくなくともその声をあたりに響かせ、現実に顕著な影響を及ぼすものなのだ。だが、エロスに担われて表面まで導かれる底知れぬ深淵としてのタナトスは、本質的に口を閉ざしている。それだけに恐るるに足るものなのだ。だからこそ、フランス語では、この超越論的沈黙する審級を指し示すのに〈本能〉、死の本能という言葉をとっておくべきだと思われたのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)
まさしくエロスこそが、おのれ自身を循環として、あるいは循環のエレメントとして生きるのであって、それに対立する他のエレメントは記憶の底にある〈タナトス〉でしかありえず、それらの両者は、愛と憎しみ、構築と破壊として、引力と斥力として組み合わされるているのである。(『差異と反復』

口を閉ざしたタナトスという掌の上を、エロスが、タナトスの指令と快原理に従って、タナトスの影を帯びつつ反復し動き回るというわけだ。

フロイトには、Triebmischung(エロスとタナトスの欲動融合)と言う概念があるが、ドゥルーズやジジェク解釈では、この二つの欲動の融合の仕方が、タナトスという主人に従うエロスという手下という形になっている。

ところで、わたくしが最近依拠することの多いポール・ヴェルハーゲは次ぎのように言っている。

生の欲動 Eros は、融合と統一の状態への回帰を目指す。エロスは、分離した要素を結びつけることによって、これをする。それは、緊張(不安)の増加をもたらす。逆に、タナトスは、分離の状態への回帰を目指す。死の欲動 death drive は、結びついた要素のあいだのすべての結合を破壊することによって、これをする。それは、すべての緊張の低減をもたらす。もし、必要なら、ゼロ度まで。その意味は、事実上、死である。

ラカン理論は、この「生と死の問い」の言い直しを可能にさせてくれる。生の欲動は、「他の享楽」を目指す。結果として、大他者のなかに主体は消滅する。したがって、分離した存在としての主体の死をもたらす。死の欲動は「ファルス享楽」を目指す。それを通して、主体は大他者から己を分離する。したがって、この大他者から独立して、孤立した存在としての歩みを進める。このラカンの読解においては、生と死の概念は、ひどく相関的(親戚関係にある relative)である。すなわち、フロイトの生の欲動は、主体の死、主体の消滅を意味する。フロイトの死の欲動は、主体の生の継続を意味する。(ポール・ヴェルハーゲ、Obsessional Neurosis. The Quest for Isolation 、2001).

これは、ジジェクやドゥルーズとは、一見したところ、大きな違いがある。ヴェルハーゲは、死の欲動は、ファルス享楽(快原則)を目指して、主体の生の継続を生むと言っている。他方、エロスは大他者のなかに消滅、つまり主体の死を生むとしている。

これはフロイトの「三人の女」のヴァリエーションである。フロイトのシェイクスピア小論『小箱選びのモティーフ』にはこうある。

ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』,1913)

この母なる大地に回帰することが、(ヴェルハーゲ解釈では)究極のエロスということになる。

ところで、ドゥルーズ自身、このフロイトの三人の女をめぐって次ぎのように言っている。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

子宮としての母親/エディプス的母親/死をもたらす母親とは、母それ自身/愛人/母なる大地というフロイトの解釈とほとんど異なるところはない。ドゥルーズの解釈なら、この死をもたらす口唇的な母親に回帰することは、エロスなのだろうか、タナトスなのだろうか。《エロスに担われて表面まで導かれる底知れぬ深淵としてのタナトス》という文節からは、タナトスと解釈せざるをえない。


ヴェルハーゲに戻れば、彼のいう(究極の)エロスとは、母なる大地という死の女神に抱きとられることである。そしてそれが、ラカンの享楽の対立軸、「ファルス享楽/ファルスを超えた享楽(他の享楽)」の後者だとしている。彼曰く、《生の欲動は、「他の享楽」を目指す》。

ほかにも彼は、別の論で、次ぎのように言っている。

フロイトのタナトス欲動は、〈他〉のなかの消滅に対抗して個の生の継続を確保する。このように解釈したら、死の欲動は、ビオス欲動である。ビオスBiosとは古代ギリシアの個の生の名である。それは死にいたるが、また個がどのように彼もしくは彼女自身の生を処するかにかかわる。ゾーエー Zoëは、逆に、永遠の生それ自体である。限定されたビオスを貫く縫い糸であり、個別的なものが消滅しても、ゾーエーは破壊されない。このように読めば、フロイトのエロスはゾーエー欲動であり、タナトスはビオス欲動である。(Paul Verhaeghe、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、2004)

ここでヴェルハーゲが依拠するカール・ケレーニイの記述を抜き出せばつぎの通り。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス,破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

「ディオニューソス,破壊されざる生」と出てきたので、ニーチェにもすこしだけ顔出し願おう、

――いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――(ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 )

さて、これらから読み取れるのは、ヴェルハーゲは、ラカンのいう「永遠の生」をゾーエー=究極のエロスとしていることだ、《永遠の生の喪失は、ひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる》(ラカン「セミネールⅩⅠ」)。永遠の生とは、ラカン的には、不可能な享楽、究極の享楽であり、ヴェルハーゲは、この享楽をエロスとしていることになる(この不可能な享楽 jouissance impossible と、剰余享楽plus‐de‐jouir とはまったく異なるものであることに注意。剰余享楽とは、享楽の喪失から生み出される対象aである)。

もうすこしヴェルハーゲの文を引こう。

まず我々は、性的に差異化された生の出現を生誕時に形成する。これが意味するのは、永遠の生ゾーエー Zoë の喪失である。ゾーエーは、個人の生ビオス Bios にとっての誘引力として機能し、ビオスはゾーエーに回帰しようとする。この回帰の代価は、個人の生の喪失である。これはもうひとつの傾向を生むだろう。それは、ゾーエーから逃げ出す反対方向の促しである。通常の解決法は、原初の問題をくり返すこと、たとえば相互作用を維持することだ。事実、ビオスは、性的再生産を通して、ゾーエーに参加しようとする。それは原初の喪失の反復を伴う。Paul Verhaeghe,2004)

《ビオスは、性的再生産を通して、ゾーエーに参加しようとする》とは、ヴェルハーゲ解釈に則れば、タナトスは、性的再生産を通して、エロスに参加しようとする、とできる。かつまた、ファルス享楽は、性的再生産を通して、他の享楽(ファルスの彼岸の享楽)に参加しようとする、ともできる。

ここで、欲動=死の欲動をめぐり、ラカンは次ぎのように言っていることを思い出しておこう、《……Trieb, la dérive de la jouissance.》(LACAN,Encore)。享楽からの逸脱(漂流)が、欲動である。このフレーズを、「死の欲動は原初のエロス(永遠の生)からの彷徨いだ」とすることができるなら、ヴェルハーゲの解釈と合致する。

いずれにせよ、これは、ドゥルーズやジジェク解釈とは(すくなくとも一見)正反対である。おそらくジジェクならマラブー批判と同様なことを言うのではないか。

マラブーがフロイトとユングを対照させて、ユングの(脱性化された)リビドーの一元論に対してフロイトの欲動の二元論を強調したとき、彼女は決定的なパラドックスを見ないで済ませてしまっている。すなわち、フロイトが欲動の二元論に頼ったまさにその時なのだ、フロイトが最もユング主義者であったのは。そこでは原始的な陰陽観の前近代的で根拠のないアゴニズムに退行してしまっている。(SLAVOJ ZIZEK. DESCARTES AND THEPOST-TRAUMATIC SUBJECT

もし、この三人の解釈を無理やり結びつけるなら、次のようなことになるのではないか。


   
      エロス(快原理)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 タナトス(永遠の反復運動=剰余享楽)
   ーーーーーーーーーーーーー

   究極のエロス(不可能な享楽)



すなわち、ドゥルーズ、ジジェクの釈迦の掌であるタナトス(分母)とその上であばれる猿エロス(分子)の関係は、分母そのものが、究極のエロス=ゾーエーに支えられている、と。

いまこう記して思い出したが、臨床的ラカン派であるヴェルハーゲは次ぎの文で、哲学的ラカン派の読みを批判しているように読めないでもない。

セミネールXVIIでは、享楽の喪失を引き起こすシニフィアンの導入がある。それは一見、ラカンの以前の立場の転倒にようにみえる。が、私の読解では、そうではない。シニフィアンによって引き起こされたこの喪失は、性的生の導入によって引き起こされた喪失の上に重なるものだ。それは、この原初の喪失の別の反復iterationだけではなく、この喪失への応答を練りあげる試みである。

この応答の試みは、構造的な理由で、失敗せざるをえない。それゆえ、必然的に「もっとencore」、ーーフロイトの反復強迫である。他の場所で(“BEYOND GENDER. From subject to drive ”2002)、私はこれを、絶えまないしかしつねに失敗する循環運動として叙述した。それは、原初の原因が原初の喪失(永遠の生の喪失)であるというはずみ車flywheelの動きなのであり、原初の喪失は継続して不可能な関係を反復する。それはそのたびごとに異なったレヴェル(有機体-身体、身体的イマーゴ-自我、自我-主体、男-女)での反復である。その上、この喪失はたんに一つの喪失ではない。シニフィアンの導入は喪失とならんで獲得をもたらす。それはさらに別の多義的な表現plus-de-jouirによって完全に表現されている。

ラカンはこの剰余享楽plus-de-jouirをマルクスの「剰余価値」概念と結びつける。剰余価値の獲得は、喪失のために必然的に生じる反復と密接な関係がある。これは既に、いかに曖昧な獲得かということを示している。どこかほかの場所、原初の享楽とは異なった場所にある享楽だからだ。マルクスと比較するのは、偶然の一致ではない。というのは、この「どこかほかの場所」は、文化と産業の生産物にかかわるからだ。それは我々に(常に)一時的で部分的な満足のみを供給する。

生産物として、それらは享楽の喪失の効果であり、かつこの喪失への応答である。この意味で、それらは剰余享楽plus-de-jouirとして我々に与えられる。ラカンはこれに「享楽の欠片 les lichettes de la jouissance」という名を与えている。このように、ラカンはマルクス概念「剰余価値」にきわめて接近している。それは使用されなければならないだけでなく、浪費さえされなければならない。(Enjoyment and Impossibility: Lacan's Revision of the Oedipus Complex,2006ーー「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」)

…………

先ずはわたくしにとって、ヴェルハーゲの観点ーーフロイトの原点に戻ったそれーーが、とてもおもしろいのは、次のような説明に使えることだ。

ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える。(ポール・ヴェルハーゲ、1998)

人びとや国家が融合(エロス)を目指せば目指すほど、分離と闘争(アナンケ)の破壊衝動が生じるという事態は、今この現在もわれわれは目にすることができるだろう。

国家が融合(エロス)に向かえば、各民族の個性(生活様式、文化等)は消滅(死)に向かう。われわれはそれにはたえられない。だから融合を破壊する方向(タナトス)に向かい、各々の民族として生きる方向を目指す。

さらには、より日常的なわれわれの社会活動面においても、エロス(同一化)とタナトス(差異化)ということがいえる。

人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』)

…………

ヴェルハーゲは、2009年の時点でも見解を変更する様子はない。

エロスとタナトスの二つの欲動は、全く反対の目的を目指す。一方で、融合することが、フロイトがエロスと呼んだものであり、分離することがタナトスである。そしてそれぞれ独自の快を持っている。この観点から、我々はなぜ「とことんまでall the way」行かないのかという我々の問いへの答えを示唆しうる。

まず最初に二つの相克する方向のせいであり、第二にどの方向も主体にとって堪え難い最終的な代償があるせいである。

タナトス欲動は理解するのに簡単だろう。それは解放とゼロテンションにむけて励む。それは最終段階としての死、そして死に向かった強烈な踏み台としてのオーガズムである。フロイトにとって、タナトスの目標とは分離であり、より大きな統一体からより小さな断片への絶え間ない分裂である。主体の水準において、これが意味するのは、他者からの分離であり、強化された個人的特性ーー私はここにいる、独立した人間として存在する、である。

エロスの目標は全く反対だ。それは融合であり、異なった要素を統合して、より大きな全体とすることである。そこでは個々の要素は、その個人的特性を失う傾向にある。生は、絶えず増大する緊張の集合体であり、それは純粋な享楽である。もっとも個人にとってはそうではない。個人は集合体へと消滅してしまう。個人はこの消滅をきわめて怖れることになる。

単独でタナトス欲動に従えば、我々は孤立して最終的には死ぬ。もっぱらエロス欲動に従えば、同様に我々は消滅する。今度はより大きな統合に飲み込まれるのだ。どちらもそれぞれ固有の享楽がある。どの人間も彼(女)自身の道の地図を作らねばならない。フロイトは、標準的な環境においては、二つの欲動は混ぜ合わされ(欲動融合Triebmischung)、各個人の人生において絶え間なく変化するカクテルだと言う。

ラカンはこのフロイトの論拠を引き継ぐ。享楽と死はきわめて近いものだ。享楽への道は、死への道である(Lacan, [1969-70], p. 18)。享楽それ自体、生きている主体には不可能である。というのはそれは自身の死を意味するのだから。唯一残された可能性は遠回りの道筋を取ることだ。目的地への到達を可能なかぎり遠くに延期してその道筋を行ったり来たりすることである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009)



2016年1月27日水曜日

ラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈

まず、ごく一般的に「母の去勢」から始める。

〔エディプスの衰退、父への同一化に〕先立って、父が母を剥奪するものとして機能し始める瞬間があります。つまり、父が母とその欲望の対象との関係の背後に、「去勢するもの」として姿を現す瞬間があるのです。(……)この場合、去勢されるのは主体ではなく、母だからです。(ラカン セミネールⅤ)
去勢不安そのものは、すでに地層にある原初の不安の防衛的な加工(エラボレーション)である。地層にある原初の不安とは、主体と〈他者〉 とのあいだの関係から起こる。各々の主体の原初の不安とは〈他者〉に 呑み込まれ貪り喰われることである。すなわ ち、〈他者〉の享楽の受動的な対象に還元されてしまうことである。概念的な用語なら、これが意味するのは、分離の可能性のない全的な疎外を意味する。

その原初の形式においては、この法は母にかかわる。彼女は禁じられているのだ、彼女の生産物を保持することを、たとえば子どもを彼女自身のものにすることを。 これが近親相姦の最初の意味である。すなわち、あなたは、あなたの子どもを自らの享楽 として捕えてはならない、ということだ。現在の、父と子とのあいだの近親相姦への強調は、 この原初の意味がほとんど忘れられてしまっているようなものだ。(「社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)」、1999)

ーーより詳しくは、「母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢」を参照のこと。

この1999年のヴェルハーゲの文は、旧来のラカン派の標準的な解釈だった筈だ。ところで、彼は、ラカンのセミネールⅩⅦを読み込むことによって、2006年前後から、新しい解釈を前面に出してきている。

…………

さて、PAUL VERHAEGHE の“new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex”2009(PDF)からである。

フロイトの古典的理論では、子どもに母を享楽することを禁じるのは、父である。ラカンの最初の解釈では、子どもを享楽することを禁じられるのは、母である。ラカンがその最後の理論で示したのは、この禁止がいかに社会的構築の産物かということだ。事実、それは、より根源的な何かのカモフラージュされた代替物にすぎない。その根源的なものとは、享楽の不可能性自体である。幼児研究とアタッチメント理論内部では、焦点はミラーリングの統制的特徴である。このまさに統制 regulation という考え方において、ここにも禁止の考え方が暗黙に存在する。

禁止は、これらのどの理論においても、その相違にもかかわらず、不可欠のように見える。しかし、ポストモダンの思考においては、禁止の考え方はほとんど消滅した。たぶん、関係性内でのどんな形の権力をも疑われるようになったせいだ。

ラカンの最後の論究にしたがえば、禁止の漸進的消滅は、パラドキシカルな効果をもたらす。享楽は以前よりも容易に手に入るようにならない。それは、享楽自体が不可能であるという理由のみではなく、不安が増えるという理由からだ。特に、保護膜の欠如のせいで、(欲動に)圧倒されるという神経症的不安が増大する。

別の予測も同様に容易になされうる。増えつづける不安のせいで、社会的狡猾機械は、反対方向への動きを誘いおこす。すなわち、ニュアンスのない形での禁止の唱導である。フロイト理論をベースにすれば、そのような動きは、原父という想像上の安全性へと回帰を押し進める。それに伴って、他者に対する攻撃性が発現する傾向を生む。ラカン理論をベースにすれば、女たちは、この他者の役割のなかに押しやられる。現在の極右保守主義、キリスト・ユダヤ・イスラム原理主義との組み合わせによる保守は、典型的事例である。救済は、またしても、全能の救済者から期待されるのだ。(ヴェルハーゲ、2009、私訳)

ここで、不可能な享楽(と剰余享楽)について捕捉しておこう。

現実界としての享楽は失われている。というのは、象徴秩序に住む人びとは決して直接には与えられない等々だから。しかしながら、享楽のまさに喪失が、それ自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生む。だから享楽は同時に、常に既に失われている何かであり、かつまたそれから決して免れえない何かである。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この根源的に曖昧な現実界の地位に基づいている。それ自体を反復する何かが、現実界自体である。そしてそれはまさに最初から失われており、何度も何度も回帰して、しつこく己れを主張し続ける。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
人間は、「社会的共謀」によって、自らを欺く。実に、「禁止」の用語にて、(享楽の)不可能性をリフレームすることは、我々を錯覚に憩ったままにさせる。すなわち、我々はこの禁止を超えて、享楽の至高形式を獲得できるかもしれないというイリュージョンである。(ヴェルハーゲ、2009)


途中、「社会的狡猾」(ラカン、セミネールⅩⅦ) という言葉が出てきたが、それを含めて言えば、次の通り(冒頭近くに記したが、彼のラカン解釈の転換点ともいえるーーと、わたくしには思えるーー2006年の論文からであり、これは、Reflections on Seminar XVII Justin Clemensand Russell Grigg, editors)に掲載されている)。

ラカンは、エディプス・コンプレックスを完全に再定義する。狡猾な社会制度としてである。それは(不可能な)享楽を異なった起源の何かと代替することによってだ。すなわち、剰余享楽 plus-de-jouir である。ラカン曰く、分析治療のあいだに我々に最も興味をもたらすのは、剰余享楽の機能が、ファルス享楽の禁止にとっての代替物として確立される仕方である。(ヴェルハーゲ、“Paul Verhaeghe, Enjoyment and Impossibility: Lacan’s Revision ofthe Oedipus Complex”、2006)

ヴェルハーゲの文に、《禁止の漸進的消滅は、パラドキシカルな効果をもたらす》とあったが、権威のない「自由な」社会となって何かがおかしくなっているとは誰もが気づいているだろう。ヴェルハーゲの説明は、極右や原理主義にかかわったが、小さな小文字の権威の乱立という側面は、ジジェクや日本では大澤真幸などによって、かねてより指摘されている。

ジジェクであるなら、「父の名」の隠喩の欠如は、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれる「見せかけsemblant」の、数々の「小さな〈大文字の他者たち〉little big Others」(”numerous little others or partial big Others”(Zizek=Tony Myers - 2004) としての「倫理委員会」,「小委員会」などを求めるようになるとされ、大澤であれば次の通り。

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸――『<自由>の条件』)


では、どうすればよいのか。ラカン派からの解答は、個人レヴェルではサントームの設置であり、社会レベルでは主人のシニフィアンの設置である(参照:Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる))。

なにはともあれ現在のイデオロギー、いやそれどころかヘゲモニーである「新自由主義」とは、人々の攻撃性がとんでもなく発露してしまう環境である。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

ーーこの文は、まちがいなくフロイトのエロス・タナトス論がベースにある。

アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)

90年以降の「市場原理主義」の時代の標語は、生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等々だろう。これら「経済のディスクール」が席捲する時代は、「エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性」という人間のタナトス的性格が支配する時代、すなわち弱肉強食の社会ダーウィニズムの時代である、《事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから》(柄谷行人)、《今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である》(中井久夫)。

我々の社会は、絶えまなく言い張っている、誰もがただ懸命に努力すればうまくいくと。その特典を促進しつつ、張り詰め疲弊した市民たちへの増えつづける圧迫を与えつつ、である。 ますます数多くの人びとがうまくいかなくなり、屈辱感を覚える。罪悪感や恥辱感を抱く。我々は延々と告げられている、我々の生の選択はかつてなく自由だと。しかし、成功物語の外部での選択の自由は限られている。さらに、うまくいかない者たちは、「負け犬」あるいは、社会保障制度に乗じる「居候」と見なされる。(ヴェルハーゲ「新自由主義はわれわれに最悪のものをもたらした Neoliberalism has brought out the worst in us"」Guardian(2014.09.29))

新自由主義のヘゲモニーのもと、《我々はシステム機械に成り下がった、そのシステムについて不平不満を言うシステム機械に。》(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

以下、2014年の書からのいくらかの摘要。

・…ポピュリストの批判は、大衆自らが選んだ腐敗した指導者を責めることだ。

・ラディカルインテリは、どう変えたらいいのか分からないまま、資本主義システムを責める。

・右翼左翼の政治家たちはどちらも、市場経済に直面して、己れのインポテンツを嘆く。

これら全てのナラティブに共通しているのは、何か別のものを責めたいことである。

だが我々皆に責務があるのは、「新自由主義」を再尋問することだ。…それを「常識」として内面化するのを止めることだ。


ごく一般的な定義(参照)、《神経症とは、内的な欲動を〈他者〉に帰することによって取り扱う方法》であるならば、我々はほとんど皆いまだ神経症的に振舞っている。



…………

※附記

セミネールⅩⅦにて、ラカンは父の役割を考え直し、どんな心理学的・道徳的解釈からも距離を取った。彼自らが作り出した解釈、鰐の口の母とそこから解放する父というものからさえも距離を取った。フロイトによるすべての女たちを享楽する全能の父は、今、錯誤 illusion と見なされる。「父は、一人の女さえ満足させる能力は滅多にない」 (Lacan, 2006 [1969-70], pp. 100, 124).

ラカンの命題は、男と女、父と母は、避けがたく、あるポジションに無理強いされるということだ。そのポジションとは、元から在る事態を基盤としている。すなわち、享楽の不可能性。社会的ゲームの中で、またそれを通して、父に割り当てられる役割は、実に、禁止するという役だ。

この役割割り当てを超えて、ラカンは、父の機能を構造的な形で考え直した。それは、去勢の異なった理論を前面に出すことになる。フロイトによる去勢する原父の代わりに、ラカンは、去勢された父、いや辱められた父をさえ、我々に提示する。フロイトの考え方からの距離はひどく大きなものであり、新しい用語が必要となる。すなわち、象徴的去勢である。

この父にはひとつの任務がある。子どもにある機能を手渡すことだ。すなわち主人のシニフィアン S1を。それなしでは、アイデンティティ形成は不可能である。我々の誰もが、このような欠如や分裂(分割)のない主人のシニフィアンが必要である。我々がそれに一致するふりをすることができるシニフィアンである。要するに「それは私だ!」というシニフィアンだ。唯一この後なのである、我々が己れを疑うという贅沢が許されるのは。(PAUL VERHAEGHE “new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex”2009)
註)ラカンにとって、我々の元来のアイデンティティは、なによりもまず、全く元来ではない。それは、大他者の鏡(像)の反映 mirroring から来る。第二に、我々のアイデンティティは分割されたものだ。というのは、それは諸シニフィアンを基盤にしているから(ふたたび、異なった他者たちに表されたものとしての大他者から来る)。それは、相反する欲望を伝達する。主人のシニフィアンは「一」であり、唯一の例外である。それは、自身と一致したシニフィアン、どんな欠如や分割もないシニフィアンである。我々の名は、その最も顕著な例だ。(ヴェルハーゲ、2009)

中上健次にとってこの主人のシニフィアンが機能していなかっただろうことは、以前みた(参照:中上健次と「父の名」)。

図を描いたほうがわかりやすいのだが、母は三つの姓名(木下・鈴木・中上)を名のったのである。僕の兄や姉たちは最初の木下勝三(病死)の血をつなぎ、末っ子の僕だけが鈴木留造の子であった。放蕩者でバクチ好きの鈴木は、他に二人の女をつくって妊ませ、結局、僕には母千里の産みだした郁平、鈴枝、静代、君代の四人と、鈴木留造が女どもに産ませた一人の妹と二人の弟、そしてどこにいるのか生きているのか死んでいるのかわからない幻の妹が一人と、血のつながった兄姉妹でも九人いる計算になる。かくて幼い僕は母につれられて、最後の「父」である中上七郎の庇護をうけ、「父」の子である中上純一らと家庭を構成することになる。(中上健次「犯罪者宣言及びわが母系一族」)

おそらく彼にとっての「路地」というシニフィアンは、彼のサントーム(個人固有の主人のシニフィアン)であろうことも。



2016年1月26日火曜日

トラウマ患者の「暴力」性

男たちの暴力には、扉を隔てていても、何事もまだ起こっていなくても、においがある。

これは怯えのにおいだ。追いつめられて日がな部屋に閉じこもっていた頃の男の、あの独特な体臭と変りがない。外から扉をあけると、腐った果物のにおいのように流れて、思わず顔をそむけさせたものだった。(古井由吉『椋鳥』子安)

ーー攻撃は、外に露われでる怯えの最も典型的な仕方のひとつである。そしてそれは男たちに限らない。(ヴェルハーゲ、1998)

…………

反「惻隠の心無きは、人に非ざるなり」」にて、《トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか》(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷』所収)とある一連の文を引用した。

実は、この文は、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点とは、異なった面を持つとも読まなければならない。たとえば、中井久夫は、この同じ論文で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)患者をめぐって次ぎのように言っている。

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.106)

《外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」である》とある。これはほとんどPTSD患者は「暴力的」になると言っているのに等しくはないか。いや、それが言いすぎなら「情動的(情熱的)」になる、と言っているとしてもよい。

他者に対する情熱passionを公に示す事には恐ろしく暴力的なところがあるというのは当たり前ではなかろうか。情熱は定義からしてその対象を傷つける。相手が情熱の対象の位置を占めることに徐々に同意したとしても、畏怖と驚きを経ずして同意することは絶対にできない。(ジジェク『ラカンはこう読め』)P175)
感性的であるということ、すなわち現実的であるということは、感覚の対象であること、感性的な対象であることであり、したがって自分の外部に感性的な諸対象をもつこと、自分の感性の諸対象をもつことである。感性的であるということは、受苦的であるということである。

それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的〔leidend〕な存在であり、自分の苦悩〔leiden〕を感受する存在であるから、一つの情熱的〔leidenschaftlich〕な存在である。情熱、激情は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力をかたむける人間の本質力である。(マルクス「経済学・哲学草稿」第三草稿 城塚・田中訳)

トラウマとは、まずは、烙印された記憶であるだろう。その記憶をもつ人びとは、受苦的〔leidend〕=情熱的〔leidenschaftlich〕なのである。

烙きつけるのは記憶に残すためである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文「「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」)  

もっともトラウマといっても、後にPTSDを生むトラウマと、そこまで行かないトラウマがあるだろう。

男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。(……)

「身体の傷は何カ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す」と老いた詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)はその『カイエ』(生涯書き綴ったノート)に記している。心の傷の特性は何よりもまず、生涯癒えないことがあるということであろう。八カ月で瘢痕治療する身体の外傷とは画然とした相違がある。(……)

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.109)

さて、ここでふたたびニーチェにお出まし願おう。

権力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動(Affekte)は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

ラカンによる「情動」とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされることだ。これは限りなく「欲動」に近い。

権力への意志とは、『ニーチェと悪循環』のクロソウスキーによれば、衝動(impulsion)である。ドゥルーズの権力=〈力〉puissanceを援用するなら、権力への意志とは、〈力〉 puissance の衝動 impulsion である。これもほとんど「欲動」のことを言っている。そして、《権力とは延期された暴力である》(エリアス・カネッティ)。

なおここで、フロイトが次ぎのように言っていることを思い出しておこう、《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』)

すなわち、情動的とは実は破壊的でもありうる。

いずれにせよ、トラウマ被害者は、身体の脊髄反応(≒情動)が起こりがちなのだ。それが、どうやって、「同情」や「共感」に向かうか、ときに「暴力」に向かうかのかは、わたくしにはいまだ判然としていない。

ただし、こうは引用しておこう。

柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。(「「悪い年」を超えて」『批評空間』1996 Ⅱ-9 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会)
・罪責感は、ある場合には攻撃欲動の発動が中止された時に生まれるものである

・超自我が持っていると考えられる攻撃エネルギーについて二つの考え方があって、それはただ優位に立つ外部の他者の懲罰エネルギーを継続し心理生活のために保存しているにすぎないという考え方に対し、他方では、それはむしろ、自分自身の攻撃エネルギーで、この自分の欲動満足を制止する優位に立つ他者に向けられたものの使用されずに終わったものだという考え方がある。

・罪責感に本質的かつ共通な点としては、それが内部へ転位した攻撃欲動であるということだけが残った、(フロイト『文化への不満』より摘要)
最も純粋な超自我の審級……不可解な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。

超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的な核を途方に暮れさせることにある。この次元とは、ドイツの観念論者が否定性と呼んだものであり、そしてまたフロイトが死の欲動と呼んだものである。現実界のトラウマ的な固い核、――そこから昇華がわれわれを保護してくれるーーその核であるどころか、超自我そのものが現実界を仕切っている仮面なのである。(ZIZEK"LESS THAN NOTHING"私訳)

この外部に向かう「攻撃欲動」が反転して内面を律するようになることで、同情や共感が生まれうる、と断言するまでに、わたくしは至っていない。

…………

ところでわれわれは、事件としてのトラウマだけでなく、構造的トラウマを持っている。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

このヴェルハーゲの見解は、中井久夫の次の叙述が裏付ける。

……一般に、語られる外傷性事態は、二次的な体験、再燃、再演であることが多い。学校でのいじめが滑らかに語られる時など、奥にもう一つあると一度は考えてみる必要がある。(……)

しかし、再燃、再演かと推定されても、当面はそれをもっぱら問題にしてよい。急いで核心に迫るべきではない。それは治療関係の解消あるいは解離その他の厄介な症状を起こす確率が高い。「流れがつまれば水下より迫れ(下流の障害から除去せよ)」とは下水掃除の常道である。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.104)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

構造的トラウマは享楽にかかわる。しかも、我々の最初の大他者、母なる他者 (m)Oher による享楽の侵入と刻印に。

享楽はシニフィアン組織への入口である。というのは、一つの特徴unary trait が刻印されて享楽の徴として反復されるからだ。反復の目標は、それ自体享楽であり(享楽の侵入としての刻印の反復)、かつまたこの享楽に反対するものである(一つの特徴unary traitとシニフィアンはつねに喪失を意味する)。それゆえ、どの反復も反復しよとする未満のものである。 (Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006 私訳)

※より詳しくは、「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」を参照のこと。

さて、「侵入」という言葉が出てきたので、中井久夫の、《彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか》という文を再掲しておこう。

われわれは、幼児期、最初の大他者の侵入を受け、享楽の刻印を受けている。これが構造的トラウマのひとつの起源だというのがヴェルハーゲの見解である。

乳幼児は最初の大他者に対して必ず受動的(侵入される)ポジションに置かれる。そのため、後年その大他者に能動的、場合によっては攻撃的になりがちだ。つまり、《「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」》になる。それは、最初の大他者に対してなのであり、「母」ではない。ここではそのことのみを強調しておくだけにする。ただし、不幸にもその最初の大他者は、ほとんどの場合、いまだ「母」なのであり、これからもおおむねそうであろう。

そして、《母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。》((Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998)

フロイトはくり返し言っているが、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということだ…

三つの宗教の書、初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女の不安と憎悪、最後にムスリムのベールなどへの強制。女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない。これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰してもし必要なら、この他者を破壊することだ。
注) 我々の現代的西欧社会では、最初の世話役は父でありうるし、ジェンダーの平等が多かれ少なかれ成就している。その社会では、男たちに向かっての女たちからの同じ反応を漸次、観察できるようになった。すなわち、男たちのエロティックな魅力の見せびらかしを非難しつつ、同時に、自らの欲動と享楽を見て見ぬふりをする女たちである。(ヴェルハーゲ、2009)

…………

話を元に戻せば、ヴェルハーゲ、2006に記されている「一つの特徴unary trait」とは、フロイトのEin einziger Zug のことである。

同一化は前記のように、感情結合のもっとも初期のもっとも根源的な形式である。そして症状形成や、したがって抑圧や無意識の機制が支配する条件のもとでは、対象選択がふたたび同一化になり、このようにして自我が、この同一化のさいに、ときには好まない人物を、また、ときには愛する人物を模写することは注目に値する。両方の場合はいずれもこの同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物の一つの特色Ein einziger Zugだけを借りていることも、われわれの注意をひくにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』人文書院旧訳)

ーーすなわち「ときには好まない人物」にも、そしてたったひとつの特徴で、同一化する。そしてその同一化により、同情や憐れみが生まれうる。

さて、次の現象が起こるのは、想像的同一化(理想自我)によるものだろうか、象徴的同一化(自我理想)によるものだろうか。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

このあたりも、わたくしには曖昧なままであり、一見「想像的同一化」としてよいようにみえて、おそらくそれだけではない。

前回、フロイトの《同情は同一化から生まれる [das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)を想像的同一化に近いものとして扱ったが、Ein einziger Zugへの同一化は、象徴的同一化のことであり(ただし自我理想との同一化とはやや違う)、想像的同一化とは異なる。後者は動物にも起こる。前者は人間だけにおこる同一化である(ラカン『同一化セミネール』)。

ーーというわけで、「反「惻隠の心無きは、人に非ざるなり」」にての記述には、大いに疑わしいところがある、とここで白状しておこう。






2016年1月25日月曜日

反「惻隠の心無きは、人に非ざるなり」

人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隠の心有り。

交はりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。

誉れを郷党朋友に要むる所以に非ざるなり。

其の声を悪みて然するに非ざるなり。

是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。(孟子「公孫丑編」)

(子供を助けようとするのは)子供の父母と接点を持とうとしているからではない。
(このことで)世間の人や友人に褒められようとしているからではない。
(子供を助けなかったという)非難を受けるのを嫌がるからそうするのではない。

ーーとある。

果たしてほんとうにそうであろうか。

…………

同情は、同一化によってのみ生まれる [das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung](フロイト『集団心理学と自我の分析』1921)

これは同情するから同一化するのではなく、同一化の方が先にあるといっている。とすれば同一化しなければ同情しないということだ。

ラカン的には想像的同一化(理想自我にかかわる)、象徴的同一化(自我理想にかかわる)等々がある。ふつうは想像的同一化後、象徴的同一化が起こると理解されている。だがこのあたりはかなり複雑だ(ここでは同一化のひょっとしたら最も重要な機制、trait unaire(一つの特徴)の議論は複雑化するので外す)。

一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投影 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)

注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投影を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「形式」を提供すると(セミネールⅠ)。 ( (ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性』Subjectivity and Otherness、2007)

さらにラカンは 「理想自我は、また第二次の同一化のみなもとである」とさえ言っている。

Cette forme serait plutôt au reste à désigner comme Je-idéal(l'Ideal Ich de Freud), si nous voulions la faire rentrer dans un registre connu, en ce sens qu'elle sera aussi la souche des identifications secondaires, dont nous reconnaissons sous ce terme les fonctions de normalisation libidinale.(Laca,ecrits)

なおかつ「取り込みntrojection」自体が、「原始的な快自我 primitiven Lust-Ichs」の起源でもある。

快が見出されたものは何もかも内部に取り入れる。不快を生み出すものは何もかも外部に送り返す。これが意味するのは、緊張と緊張の解除の経験は、アイデンティティの発達自体をもたらす、ということだ。そしてこのアイデンティティは全的に外部から来る。発達途上の原自我は、外部の世界に直面し、文字通りにその世界の部分を取り込む。

不快な部分は、可能なかぎりすばやく吐き出される。したがって初期の段階では、外部の世界と悪い非-私は同じものである。逆に、快を与える部分は内部に残ったままだ。その意味は、原自我と快は同じものということだ。それをフロイトは「原初の快自我」と呼んだ。

この「取り込み incorporation」と「吐き出し expulsion」は、先駆者、ーー後に生じる「判断」における知的機能の前身である。知的判断においては、肯定 ( Bejahung)は「取り込み」の代用品であり、否定(Verneinung)は「吐き出し」の後継者である。

注意しておこう、フロイトにとって、「肯定」はエロスと融合の側にあり、「否定」はタナトスの側にあることを。死の欲動の特質、それは分離と分解へと向かう傾向をもつ(フロイト『否定』)。 “Sexuality in the Formation of the Subject”(ポール・ヴェルハーゲ 、2005、原文

ーーなどということになり、同一化は奥が深い。これらのことを念頭に置きながら、フロイトの「同情は、同一化によってのみ生まれる」という文の「同一化」は、ほぼ「想像的同一化」のことであるとしておく。

これはルソーも同じであり、彼はたんなる「惻隠の情」の思想家ではない。

私たちはどのようにして憐れみに心動かされるのであろうか。私たち自身の外に身を置くことによって、 つまり、苦しんでいる存在に同化する (se identifier) ことによってである。彼が苦しんでいると判 断するのでない限り、私たちが苦しむことはないのであって、私たちは、自身のうちでではなく、まさに彼のうちで苦しむのである。この転移がいったいどれほど多くの獲得されたを前提としているか考えてほしい。私がそれについての何の観 念 も持っていないような不幸をどのように想像する (imaginer) というのであろうか。他人が苦しんで いることを知りもせず、 また、彼と私のあいだに共通するものがある ということを知らなければ、他人が苦しんでいるのを見ながら、どう して私が苦しむだろうか。決して反省(réfléchir) したことのない人間は、寛大でも公正でも憐れみ深く (pitoyable) もありえない( ルソー『言語起源論』)

いやこれだけでもない、ルソーは『エミール』では次のように書いている。

【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

第二格率は、「人は自分がまぬがれると考えれば、他人の不幸を憐れまない」とさえ「翻訳」できるだろう。とすればフロイトの「同一化しなければ、ひとは同情しない」と変奏できる観点を、ルソーはすでに言い当てている。

とすれば、ニーチェの度重なるルソー批判を額面通り受け取るのはいささか思い留まる必要があるのではないか。

カントをもまた、道徳の毒蜘蛛であるルソーが刺していた。カントにもまた、魂の底には道徳的な狂信の思想が伏在していた。(『曙光』序文 茅野良男訳)

むしろ、ニーチェの若き日の最大の師ショーペンハウアーや惻隠の情の孟子へその批判の矛先を向けるべきではないか。

すべての生きとし生ける者に限りない同情を持つことこそ、倫理的に正しい態度をとる上で最も堅固、確実な保証を与えるものであり、これについてとやかく良心の問題などを取り上げる必要はない。この気持ちに満たされた者は、必ずや、誰にも危害を加えたり、侵害したり、なんびとをも陥れようとせず、むしろできる限り他人のことをおもんばかり、あらゆる人を許し、助けるようつとめるであろう。さらにそうした人の行動は、正義と人間愛の刻印を担うことになろう。(ショーペンハウアー『存在と苦悩』)

たとえば、わが国の最もすぐれた精神科医のひとり中井久夫はどうか。氏は孟子の惻隠の情への言及が多い。ここではその一例だけあげよう。

……池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。中途放棄こそ許されないからである。(中井久夫「一九九六年一月・神戸」『復興の道なかばで  阪神淡路大震災一年の記憶』所収)

この文だけを取り上げれば、中井久夫の考え方はやや弱いように思う。つまり「惻隠〔みてしのびざる〕の情」への疑念なしにそれを絶対の前提として語ってしまっているように読めないでもない。それはほかに惻隠の情に言及している箇所についても同様な印象を受ける。もっとも、フロイトの《同情は、同一化によってのみ生まれる》に触れるのは、比較的多くの人に読まれるエッセイに書くのは敢えて思い留まったのかもしれない。

中井久夫の「本当の」惻隠の情をめぐる考え方を掴むには、すくなくとも次ぎの文と同時に読む必要がある。

……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷』所収) 

ここには《同情は、同一化によってのみ生まれる》へのヒントもある(かつまた、ここでの議論から外した、trait unaire(一つの特徴)ーー人間の最も初期の享楽≒トラウマの侵入ーーにもかかわると考えられる)。

そしてトラウマは外部からくる事故的トラウマのみではない。《トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。》(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

…………

ここで、惻隠の情、憐れみ、同情について考える上で、最もすぐれた文のひとつとして扱いたいニーチェの『曙光』の一節を、パラグラフ分けしてそれぞれに小題をつけて掲げよう。


【無思慮の同情】
「もはや私のことを思わない。」――まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえ彼が全く好きでないにもせよ、われわれがそのあとから飛びこむのは、なぜか? 同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っ ている。――と無思慮がいう。誰かが血を吐くと、彼に対して悪意や敵意さえ持っているの に、われわれが苦痛と不快を感じるのは、なぜか? 同情のためである。われわれはその際まさしくもはや自分のことは思っていない。――と無思慮が言う。

【無私の同情の嘘】
真実は、同情というときーー私は間違ったやり方で通常同情と呼ばれるのが常であるもののことを考えているのだが、――われわれはなるほどもはや意識的にわれわれのことを思 っていないけれども、極めて強く無意識的にわれわれのことを思っているのである。ちょうど足がすべったとき、われわれにとって現在意識されていないが、最も目的にかなった反射運動をし、同時に明らかにわれわれの知性全体を使用しているように。

【自己の名誉による同情】

他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの卑怯を確認させるであろう。言いかえると、 それはすでにそれ自体で、他人に対するわれわれの名誉の、またはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減少を必然的にともなう。換言すれば、他人の不幸と苦しみの中 にはわれわれに対する危険の指示がある。そして人間的な危うさと脆さ一般の目印としてだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。

【自己防衛としての同情】
われわれは、この種の苦痛と侮辱を拒絶し、同情するという行為によって、それらに報復する。この行為の中には、精巧な正当防衛や、あるいは復讐さえもありうる。われわれが根 底において強くわれわれのことを思うということは、われわれが苦しむもの、窮乏するもの、 悲嘆するものの姿を避けることのできるすべての場合に、われわれの行なう決心からして推測される。われわれが一層強力なもの、助けるものとしてやって来ることができるとき、喝 采を博することの確実であるとき、われわれの幸福の反対のものを感じるのを望むとき、あ るいはまたその姿によって退屈から脱出することを期待するとき、われわれは避けることを しまいと決心する。そのような姿を見るときわれわれに加えられ、しかも極めて多種多様で ありうる憂苦を同情と名づけることは、間違った道に導く。なぜなら、どんな事情があっても、 それは、われわれの前で苦しんでいる者とは関係がない憂苦であるからである。


【快楽としての同情】
しかしわれわれはこの種のことを、決してひとつの動機から行なうのではない。われわれが その際苦しみからの解放を望んでいることが全く確実であるように、われわれが同じ行為において、快楽の衝動に服従することもやはり確実である。――快楽が生じるのは、われわれの状態の反対のものの姿を見るときである。われわれが望みさえすれば助けうるとい う考えをもつときである。われわれが助けた場合、賞賛され、感謝されるという思いを抱くときである。行為がうまくゆき、そしてそれが一歩一歩成功するものとして実行者自身を楽しませるかぎり、助けるという行為そのものの中においてである。しかしとくに、われわれの行 為が腹立たしい不正を制限する(彼の腹立たしさの爆発だけでも気分をさわやかにする)という感覚の中においてである。


【ショーペンハウアーの誤謬】
この一切合財に、さらに一層精巧なものがつけ加わると、 「同情」である。――言語はそのひとつの言葉を用いて、何と不格好に、そのように多声的な存在の上に襲いかかることであろう! ――これに反して、苦しみを眺めるときに起きる同情が、その苦しみと同種のものであること、あるいは、同情が苦しみに対して特別に精巧な、透徹した理解をもつこと、この二つのことは、経験と矛盾する。そして同情をほかならぬこの二つの視点で称賛した者は、まさに道徳的なもののこの領域において、十分な 経験を欠いていたのである。ショーペンハウアーが同情について報告することのできるす べての信じがたい事柄にもかかわらず、これが私の懐疑である。彼はわれわれをして、彼 の大きな新発明品を信じさせようとしている。それによると、同情はーー彼によって極めて不完全な観察がなされ、全く粗悪な記述がなされた、まさにその同情はーー、一切のあら ゆる以前の、また将来の道徳的な行為の源泉であるーーしかも彼がはじめて捏造して、 同情になすりつけたほかならぬその能力のためにそうなのである。――

【同情をもたない人間の心理】
おしまいに、同情をもたない人間は、同情する人間と何で区別されるか? 何よりもまずー ーここでもやはり荒っぽくのべるだけであるがーー同情をもたない人間は、恐怖という刺激されやすい想像力や、危険をかぎつける鋭い能力をもっていない。さらに、何事か起きても、かれらが阻止できるならば、彼らの自惚れはそんなに速やかに傷つけられはしない。 (彼らの誇りの慎重さは、関係のない事柄に無益な干渉をしないように、彼らに命令する。 それどころか、彼らは自発的に、各人が自分自身を助け、自分自身のトランプで遊ぶことを好むのである。)その上彼らは大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない。

【道徳的流行としての同情】
最後に彼らにとっては心の優しい状態は、ちょうど同情する人間にとってストア主義的な無関心の状態が苦痛であるように、苦痛である。彼らはその状態に軽 蔑的な言葉を付加し、自分の男らしさと冷たい勇気がそれによって危険にさらされたと思う。 ――彼らは涙を他人の眼からかくし、自己自身に立腹して、それをぬぐう。それは、同情する人間とは別の種類の利己主義である。――しかし彼らをすぐれた意味で(英訳では in a distinct senseとなっている:引用者)悪いと呼び、 同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない。 ちょうど反対の流行にも時が、しかも長い時があったように! (ニーチェ『曙光』第133番 茅野良男訳)

ーーさてどうだろうか。おそらく最後のパラグラフにある文には、異議も多いだろう。

すなわち、同情しない人間を《悪いと呼び、 同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない》。

この文はたとえば『アンチ・キリスト』の次の文と共鳴する。

なんらかの背徳にもまして有害なものは何か? --すべての出来そこないや弱者どもへの同情を実行することーーキリスト教・・・(ニーチェ『反キリスト』)

このニーチェの「危険な」思考はここでは脇にやるとすれば、それ以外の箇所は、同情のメカニズムについてのとてもすぐれた叙述として読むことができる。

それは、惻隠の情なるものを、なんの思慮もなく人間の本性だと信じこみ、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》にならないためにーー。

たとえば、谷川俊太郎の次の詩は、上の『曙光』第133番の前半箇所の心の動きをたくみに表現しているといってよいのではないか。


見も知らぬ奴がいきなりヘドを吐きながら
きみに向かって倒れかかってきたら
きみはそいつを抱きとめられるかい
つまりシャツについたヘドを拭きとる前にさ

ぼくは抱きとめるだろうけど
抱きとめた瞬間に抱きとめた自分を
ガクブチに入れて眺めちまうだろうな
他人より先に批評するために
(……)

――谷川俊太郎『夜中に台所でばくはきみに話しかけたかった』より


…………

最後にフロイトに戻って問えば、同情する人間と同情しない人間の対比ではなく、どんな場合に、ひとは同一化して同情心をもつようにのか、同一化しない場合はどんな場合か、と問うべきなのだ。

ジジェク) リオ・デ・ジャネイロのような都市には何千というホームレスの子供がちがいます。私が友人の車で講演会場に向っていたところ、私たちの前の車がそういう子供をはねたのです。私は死んで横たわった子供を見ました。ところが、私の友人はいたって平然としている。同じ人間が死んだと感じているようには見えない。「連中はウサギみたいなもので、このごろはああいうのをひっかけずに運転もできないくらいだよ。それにしても、警察はいつになったら死体を片づけに来るんだ?」と言うのです。左翼を自認している私の友人がですよ。要するに、そこには別々の二つの世界があるのです。海側には豊かな市街地がある。他方、山の手には極貧のスラムが広がっており、警察さえほとんど立ち入ることがなく、恒常的な非常事態のもとにある。そして、市街地の人々は、山の手から貧民が押し寄せてくるのを絶えず恐れているわけです。……

浅田彰) こうしてみてくると、現代世界のもっとも鋭い矛盾は、資本主義システムの「内部」と「外部」の境界線上に見出されると考えられますね。

ジジェク)まさにその通りです。だれが「内部」に入り、だれが「外部」に排除されるかをめぐって熾烈な闘争が展開されているのです。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993.3『SAPIO』初出『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)


われわれは今この瞬間にも、世界の「外部」に排除されつつある人たちを、路上に転がるウサギのように扱っている。


※続く→「トラウマ患者の「暴力」性

2016年1月23日土曜日

L'Autre、c'est le corps ! (大他者とは身体のことである)

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

L'Autre、c'est le corps ! と要約できるだろう、すなわち大他者は身体である。L'Autre とあるのように実のところ人でなくてもよい、<他>は身体である、としたほうがよいか?

そしてこの身体とは、前期ラカンの「身体のイメージ」などとは異なる(参照:ラカンの三つの身体)。

ラカンが象徴秩序の決定的な影響を強調していたあいだは、身体は、たんなる効果、すなわち、徴示された身体 signified body 、想像化された身体 imaginarised body と考えられていた。事実、我々は、言語の効果と、この言語によって作り上げられた距離の効果としての身体を持っている。だが、いったんラカンが「現実界」を本気で取り上げたとき、別の身体が思考され始めた。それは、「身体」というシニフィアンさえも、本当はふさわしくないものだ。もし現実界が我々の出発点なら、そこで作用しているのは身体ではなく、有機体、もしくは器官である。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe,  (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real)

ラカン自身の言葉をいくらか抜き出せば次の通り。

主体と器官との関係が、我々の経験の核心である。《le rapport du sujet avec l'organe qui est au cœur de notre expérience》(セミネールⅩⅠ)
主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「哲学科の学生への返答」)

《Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps.》(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966)
もし存在を基礎づける何かがあるなら、それは間違いなく身体である。《Qu'il y ait quelque chose qui fonde l'être, c'est assurément le corps》(セミネールⅩⅩ)


とはいえ、なぜラカンの、この大文字の他者の身体的側面がほとんど注目されない(あるいは、忘れられている)のだろう。

たとえばブルース・フィンクの“THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE,1995”ーー『後期ラカン入門: ラカン的主体について』と題され最近日本でもようやく訳出された(2013)ーーの用語解説にはこうある。

Glossary of Lacanian Symbols

A — The Other, which can take on many forms: the treasure-house or repository of all signifiers; the mOther tongue; the Other as demand, desire, or jouissance; the unconscious; God.

ーー他Aについて、mOther tongue、jouissance とあるのが救いだが、「身体」はない。


Aは根源的他者、真の主体、そしてサンボリックの秩序の場とされる。(Wo Es war, soll Ich werden. Wo Es war, soll Ich werden. Wo Es war, soll Ich werden. Wo Es war, soll Ich werden.、向井雅明 、1995)

ーーこれも根源的他者とあるのが救いか? 

比較的評判のよい(よかった)ディラン・エバンスの“An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis”(Dylan Evans 1996)にはこうある(今でも英語のwikiには彼の定義が頻用される)。

other/Other

(autre/Autre) The ‘other' is perhaps the most complex term in Lacan's work. (……)It is the mother who first occupies the position of the big Other for the child(……)The Other is also ‘the Other sex' (S20, 40). The Other sex is always WOMAN, for both male and female subjects; ‘Man here acts as the relay whereby the woman becomes this Other for herself as she is this Other for him' (Ec, 732).

長いので途中を省略しているが、body という語彙は出現しない。

ーーと引用して、「女は女自身にとっても大他者である」、とはこれも思いの外忘れがちなので、原文を抜き出しておこう。

L'homme sert ici de relais pour que la femme devienne cet Autre pour elle-même, comme elle l'est pour lui.

<女>とは男たちと女たち両方にとって<他者>なのである。

It is the Other sex both for men and women.(The Axiom of the Fantasm、Jacques-Alain Miller

…………

以前、ツイッターでセミネールをやっている小笠原晋也氏に、他者は身体であることを掴んでいるのか、と(ややイジワルく?)質問してみたことがあるが、その応答は次ぎの通り。

2015年8月3日 @ogswrs
ところで Lacan は1966-67年の Séminaire XIV La logique du fantasme[幻想の論理学]において,他 A の場処を身体と定義します.他 A は徴象的他であり,他 A の場処は徴示素の宝庫です.では身体は徴象的なものと定義し直されたのか? 
8月4日 @ogswrs・Bonsoir, mes amis ! 身体について続ける前に,そのものとしては未読だった1966-67年の Séminaire XIV La logique du fantasme を拾い読みして気づいたことに言及しておきます.

・Miller 版が未出版の Séminaire XII から XV までについては Autres écrits に収録されている Lacan による要約を読んだだけでしたが,身体について御質問をいただいた機会に Staferla 版の XIV を部分的に読んでみました.

・そこでは jouissance という用語が単独で「禁止された悦」の意味においてしばしば用いられていました.したがって,Lacan のテクスト全体においては単独で用いられた jouissance はもっぱら剰余悦を指すと以前言ったことを撤回して,次のように言い直したいと思います:

・jouissance も,a と同様,実在,徴在,影在の重ね合わせである.影在的悦は,autoerotisch な悦です.実在的な悦は,禁止された近親相姦的な悦,つまり「性関係は無い」ことにおける不可能な悦です.そして,徴在的な悦は,目標に関して制止された昇華の悦です.


聴衆には判然としないようにうまく誤魔化しているが、おそらく思いがけない質問だったのを白状しているという錯覚にわたくしは閉じこもりえている。

しかも、《jouissance はもっぱら剰余悦を指すと以前言ったことを撤回して》とは、jouissance は「禁止された悦」ではないと一週間以上、言い張っていた結果のこの応答である(参照:メモ:ラカンのセミネールⅩⅩⅡからⅩⅩⅢへの移行(JA→JȺ))。


そもそも彼は、身体としての欲動についてまったく分かっていないように思えて仕方がない。そうでなければこんなツイートをするはずはない。

Freud が死の本能と呼んだものは,我々の学素では φ barré です.Lacan の概念では,欲望です.(2014.9.4) 

あるいは次の解釈は、ジャック=アラン・ミレールの解釈とまったく相反する(参照:資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより))。

9月13日小笠原晋也@ogswrs
『フロイトの "本能" と精神分析家の欲望とについて』にこうあります:Le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose. 「欲望は他 A に由来し,そして,悦は物の側にある」.

ここでは欲望と悦とが対置されています.Lacan の欲望の概念は Freud の本能(欲動)の概念の取り上げ直しであり,悦の概念は Lust の概念を再検討することによって作られました.Freud は,本能の満足は Lust に満ちている,と公式化しています.それに照合すれば,

悦は,欲望の満足です.ただし,全的な満足ではなく,部分的な満足です.精神分析においてかかわる「本能」は常に「部分本能」ですから.ところで,欲望の満足は客体において達成されます.さきほどの命題では Lacan は客体を「物」と呼んでいます.そして,欲望は manque à être

存在欠如,他 A の場処のなかの欠如,つまり,欠如せる徴示素ファロス φ barré です.かくして,やはり a / φ barré の構造に準拠することによって,欲望は φ barré として signifié の座に位置づけられ,悦は徴示素の座の a です.

次に,欲望は imaginaire であるか?欲望のグラフでは確かに,欲望 d は幻想 ($◊a) と対にされて imaginaire な項として措定されています.しかし,1958-59年の Séminaire VI 『欲望とその解釈』にはこの命題が見出されます:

La chose freudienne, c'est le désir. 「フロイト的な物,それは欲望である」.先ほどの命題では「物」は客体 a でしたが,ここでは違います.「フロイト的な物」は,主体の存在の真理であり,四つの言説の構造において左下の真理の座に位置します.

つまり,欲望は φ barré です.この解釈は,欲望は manque à être 存在欠如である,という命題と合致します.かくして,欲望は,imaginaire ではなく,而して,不可能としての実在 le réel である,と言わねばなりません.

ミレール解釈が絶対というつもりはないが、この欲望と享楽についての小笠原晋也氏の解釈は、わたくしには絶句ものである。

欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、また享楽で満たされる欲動なのです。(ミレール)

このミレールの解釈は、たとえば、ラカンのエクリから次ぎの文を抜き出して裏付けることができる。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir.

いずれにせよ、これらはラカン解釈の「不幸」とでもいうべきものであり、もちろんラカンにもその原因がないわけではない。

享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)


《我々のリアルな有機体は、最も親密な異者》とあるように、ヴェルハーゲの叙述から読み取ったわたくしの今のところの理解では、フロイトのFremdkörper(異物としての身体)が核心である。


心的外傷、ないしその想起は、Fremdkörper異物〈それは、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ〉のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』の予備報告、(1893年)
Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe " Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock."、2001)

かつまた、ラカンの「サントーム」のセミネールⅩⅩⅢの、”un corps qui nous est étranger”は「異物としての身体Fremdkörper」として理解できるだろう。


l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

…………

ポール・ヴェルハーゲ PAUL VERHAEGHE の“new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex”2009がネット上から無料PDFでダウンロードすることができる(ただし、この無料版は、頁毎の画像PDFであり、文字変換する必要があるだろう)。

いくらかの箇所を何度か私訳して掲げているが、この小さな本は実に見事な書き物で(しかも冒頭近くに掲げたいくつかの専門的論文とは異なり、一般向けに記されている)、エディプス・コンプレックスとは実際は何なのか、父とは、母とは実際には何なのか、を知るだけでなく、ラカンの享楽、アイデンティティ、サントームとは何なのかを捉えるためには、またとない手引きである。

エディプス・コンプレックスの核心の問いとは何だったか。それは、アイデンティティと欲動ーーすなわち、人の欲動興奮と結合した欲望--をいかに統合するかである。主体にとって、通常の解決法は、誰か他の人に責任を負ってもらうことだ。普通は、享楽に関して女-母に。禁止に関して男-父に。

ふたたび強調しよう。このような解決法は、大部分が、底に横たわる問題を隠蔽している。それは、自身の欲動興奮の統御と結びついた、人の自己アイデンティティの獲得の問題だ。親たちとの奇妙な共謀において、精神分析家と精神分析理論は、典型的な神経症的解決法を支持してしまっている。(ヴェルハーゲ、2009)

ーーこうやって、フロイトとある時期までのラカン(1969年前後までのラカン)さえ批判にさらされる。

モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分ーー欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)--の想像的なエラボレーション、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の男性的投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムが統合されたものである。(同、ヴェルハーゲ)


ラカンの英訳者としてまずは知られているだろう Russell Grigg ーーフロイト・ラカンのエディプス理論の秀逸な解釈者としても知られるーーは次ぎのように評している。

“Verhaeghe takes one of the fundamental issues in psychoanalysis, the Oedipus complex, and with the conceptual precision and clarity of exposition we have come to expect from him, effortlessly exposes the paradoxes in the work of Freud. This is a fantastic little book which brings clarification to a field where so often there has been confusion.” – 

もちろんーーくり返しておくがーー、全面的に信用する必要は毛頭ない。

…………

わたくしの理解では、ラカンの身体としての大他者、器官としての大他者は、欲動としての大他者は、アルトーの「器官なき身体」に限りなく近似している、《我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である》、《我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで》(ヴェルハーゲ)。

人間に器官なき身体をつくってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。(アントナン・アルトー  「神の裁きと決別するため」)
いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化といった流体的伝勤によって、一切のことを行なう。これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」)

 もっとも「有機体」や「器官」、あるいは「身体」という用語の意味内容をいささか変換して読まなければならないのは当然である。

われわれはしだいに、CsO(器官なき身体:引用者)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)P182)




2016年1月22日金曜日

「殺すな!」という定言命法とトマト・ジュース

標準的な批判によれば、カントの「定言命法 (Kategorischer Imperativ 」(人の義務を為すための無条件な命令)という普遍倫理の限界は、その形式的不確定性にあるとされる。すなわち、道徳法則は、私の義務が何か教えてくれない。たんに私は私の義務を果たすべきだと告げるだけだ。だから、空虚な主意説 empty voluntarism の余地が残されている(私が私の義務だと決めたことは何でも私の義務だ)。

しかしながら、限界であるどころか、まさにこの特徴が、カントの倫理的自律性の核心を我々に与えてくれる。すなわち、道徳法則自体から、人の特殊な状況に染みついている具体的責務を引き出すことは不可能である。これが意味するのは、主体自身が抽象的な命令を一連の具体的責務に翻訳する責任を負わなければならないということだ。このパラドックスを十全に引き受けることによって、我々は、言い訳としての義務へのどんな参照をも余儀なく拒絶せざるをえない。「私は知っている、これは骨が折れ痛みをともない得ると。しかし私にどうしろと言うんだ、これは私の義務だ…」

カントの倫理は、しばしばこのような姿勢を正当化するように取られる。何の不思議でもない、アドルフ・アイヒマン自身がカントに言い及んだのは。それは、ホロコーストを計画し実行する彼の役割を正当化しようとする時だった。つまり、彼は、ただ彼の義務を果たし、総統の命令に従っただけだと。しかしながら、カントの強調、ーー主体の全的道徳自律性と責任とへの強調の目標は、まさに、アイヒマンのようにして、大他者のある形象に責任を負わせるような、そのどんな策略をも防止することである。

私がベルナール=アンリ・レヴィと行った不幸な討論(パリのLe Nouvel Observateur のオフィス内での)にて、レヴィは物語った(たぶん、そうであったはずだ)、殺人に反対する説明のための個人的な経験を。1990年代初めのボスニア戦争のあいだの話だった。彼は包囲されたサラエヴォを訪れた。そこで、ボスニア政府の士官に前線の塹壕に連れていかれた。

ここからは、銃の照準器を通して、セルビア兵士が見える。近くの丘の上で、この兵士は、時おり、街の市民たちを銃撃している。引き金の上に指をおいて兵士を観察しつつ、レヴィは撃とうとした。しかし彼は抵抗したーー「殺すな!」という命令が、彼にとっては、無条件だ。

私には、このような反応は、最も純粋な道徳的偽善だった。レヴィは、この紛争においてボスニア側を全面的に支持していた(私もそうだった。だからそこには何の意見の相違もない)。しかし彼の銃撃の拒絶が意味するのは、彼は同じ立場にあるボスニア兵士には引き金を引くことを期待しつつ、レヴィ自身は手をきれいなままにしていたいということだ。そして不可欠な汚れ仕事は、他者に委ねようと。このようなジレンマに直面して、唯一のほんとうの普遍的態度は、自身の手を汚すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

さて、このジジェクの論理は、 カントの『人間愛から嘘をつく権利の虚妄』の論理と整合性があるだろうか。すなわち、 《友人を追ってきた刺客の質問に対して、自分は友人を匿っていないという嘘の返答をすることは許されるか》という問いだ。カントは、これに対して、 嘘をつくべきではないと答えている。

ジジェク組(ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』)の応答は、ここにまとめてある、→PDF:「ハンナ・アーレントが言わなかったこと」(伊藤正博)。アーレントによるアイヒマンの釈明への問いも記されている。

…………

 しかし彼が谷の向こうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見た時、私の心で動いたものがあった。

それはまず彼の顔の持つ一種の美に対する感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他我々の人種にはない要素から成立つ、平凡ではあるが否定することの出来ない美の一つの型であって、真珠湾以来私の殆ど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、その敵前にある兵士の衝動を中断したようである。

私は改めて彼の著しい若さに驚いた。彼の若さは最初私が彼を見た時既に認めていたが、今さらに数歩近づいて、その前進する兵士の姿勢を棄て、顔を上げて鉄兜に蔽われたその全貌を現した時、新しく私を打ったのである。彼は私が思ったよりさらに若く、多分まだ二十歳に達していないと思われた。

 彼の発した言葉を私は逸したが、その声はその顔にふさわしいテノールであり、言い終わって語尾を呑み込むように子供っぽく口角を動かした。そして頭を下げて谷の向こうの僚友の前方を斜めにうかがうように見た。(この時彼がうかがわねばならなかったのは、明らかに彼自身の前方であった)

人類愛から発して射たないと決意したことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。(大岡昇平“捉まるまで”―『俘虜記』)

ジジェクはユーゴスラビア戦争をかい潜って、あるいは残酷非道な映画を見過ぎて、自ずと「脱感作」の訓練をしているんじゃないか。

《言っておかなくてはならない最初のことは、哲学は私の最初の選択ではなかったことだ。クロード=レヴィ・ストロースの古いテーゼが断言しているのは、どの哲学者、どの理論家も、彼らが果たせなかった別の職業をもっているということだ。そしてその不首尾が彼らの全存在に徴づけられている。クロード=レヴィ・ストロースにとって、彼の最初の選択は、音楽家になることだった。これが、レヴィ・ストロースにあるような構成的なメランコリーの光沢をもたらす。私にとって、私の書き物から明らかなように、それはシネマだった。》(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

デイヴ・グロスマンの『「人殺し」の心理学』……まあ、軍に雇われた心理学の報告ですから、文字通りに真に受けていいかどうかわかりませんが、とりあえずこの本を信じるとすると、南北戦争から太平洋戦争まで、敵と対峙したとき味方の兵士がどのくらいの確率で実際に敵に対して発砲するかどいう発砲率は10~15パーセントなんだそうです。つまり、いざ敵に向かうと、兵士はグロスマンの言う「インスタントな良心的兵役拒否者」になる。人間はその程度には良心的であって、もともと殺人に対して心理的抵抗がある、と。(……)

そういうことに軍が気づいたのは1946年だそうで、マーシャルという准将が、海軍の心理学者に、発砲率向上の心理学的テクニックを考案せよ、という命令を出した。これが非常に成功をおさめ、発砲率を、朝鮮戦争で55パーセント、ヴェトナム戦争で95パーセントまでもっていけたというんです。(……)

まず、心理学的な訓練に順応しやすい若い兵士、だいたい18歳くらいの兵士を使った。(……)そして三つのテクニックを使った。一番目は脱感作desensitization です。具体的なトレーニング方法としては、兵士の首を固定しておいて、残虐な戦闘シーンを延々と見せる。二番目は条件付け conditioning です。いままでのように同心円の的を撃たせていたのでは実践では全く役に立たないから、中をくり貫いてトマト・ジュースを入れたキャベツを、的にする人形の中に仕込んで、その人形を木立の中からチラチラ見え隠れするように動かす、それを撃つんです。命中すると、中身のトマト・ジュースが飛び散る。要するに、発砲と中身が飛び散ることとの条件付けをこの訓練でやった。脱感作をも含んでいると思いますがね。三番目は否認機制です。相手(「グック」=ヴェトナム人を中心とするアジア人)は人間ではないという意識を徹底させる訓練です。(……)ヴェトナム帰還兵の社会への不適応率の高さはこの訓練があれば全く怪しむに足りません。(『批評空間』2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)ーー中井発言)


ジジェクには否認機制はなかったはずだーー。

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。 (ジジェク『快楽の転移』)

要するに、唐突に戦場を訪れた人間にとっては、ベルナール=アンリ・レヴィのような態度は、むしろ自然でありうる。それを「最も純粋な道徳的偽善」とするのはいささか酷ではないか。もっとも、これはカントの倫理解釈とは別の話である。

…………

発砲率95パーセントの兵士は社会復帰できません。ヴェトナム戦争のPTSDの特徴は、みんな加害体験によるものだ、という点です。被害体験はごくわずかだし、そのほうが軽症なんです。(同 中井久夫)
トラウマの歴史は、ベトナム帰還兵問題とともに始まる。一九七二年に終結したベトナム戦争からの帰還兵は米国社会において疎外され、社会問題を起こした。テレビ中継などで米国民は戦争の汚い現実を見た。この戦争における残虐性と不条理性(……)は、米軍は民主主義的軍隊だという国民的自己規定を粉砕した。しかも米軍史上最初の敗戦であった。米国民の誇りも倫理感覚も著しく傷ついた。ある意味では米国民全員が戦争神経症者となり、米国のエートスの一九七〇年代の大変化にはPTSDを考慮に入れる必要があるかもしれない。ベトナム戦争世代の米国PTSD研究者は一九九五年の阪神・淡路大震災を機に来日した時、帰還兵がいかに冷たく迎えられたかを強調し、「パレードも楽隊もなく/故郷に待つものは小石の上をさらさら流れる水ばかりだった」という詩を朗読した。ハーマンの著作にも、ベトナム戦争記念碑の建立がいかに精神的に救いだったかを記している。戦友会(ラップ・グループ、話そう会)の意義も語られた。この辺りは、第二次大戦におけるわが国の復員兵の迎え方、初期からの戦友会の存在、多数の戦争記念碑と異なる。これは、国民全体が敗北を受け入れたわが国と、軍だけが敗れたとする米国との差であろうか。あるいは、情報量が少なく、それもおおむね戦争美談に終始したわが国と、リアル・タイムの「テレヴァイズド・ウォー」だったベトナム戦争の差であろうか。リアルな戦争報道に懲りた米軍は一九九〇年の湾岸戦争においては報道陣の参入を厳しく制限し、その残酷さの隠蔽に成功した。しかし、この戦争参加者における身体的愁訴の多さは一部は化学戦によるもの、一部は敵の部隊をまるごと砂漠に埋めたといわれるごとき残虐不条理性によるPTSDの心気症的側面でなかろうか。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 PP.89-90)

ここで中井久夫は何を言おうとしているのか、《第二次大戦におけるわが国の復員兵の迎え方、初期からの戦友会の存在、多数の戦争記念碑……》。

「靖国神社」の効用もあった(ある)、と言ってはいないか。



2016年1月20日水曜日

「manque à être(存在欠如)」としての「承認欲望」の必然

「承認欲求」という概念が日本ではかねてより流通している。と記せば、何か文句をいいたいのか、と思われる方もイラッシャルかもしれないが、文句を言うつもりは毛筋ほどもない。

ただし、ラカンは「欲求 need(besoin)」「要求 demand(demande)」「欲望 desire」の概念を次ぎのように区分けしている。

ヒトの個人は、ある対象で満足させられる生物学的欲求を持つ特定の器官から出発する。言語の習得はこれらの欲求 besoin にどのような影響をおよぼすだろうか? 

すべての発話 parole は要求 demande である。なぜなら、発話はその発話の宛先となる大文字の他者と、組織立てられた表現=公式化 formulation のなかに運び込まれるその諸シニフィアンを事前に前提しているからである。同様にして、大文字の他者から来るものは、欲求の個別の満足のようにではなく、むしろ訴え appeal、贈り物 gift、愛のしるし token of love に対する返答として扱われる。欲求とそれを伝える要求のあいだに十全性 adequetion はない。実際、それら2つのあいだのギャップは、欲求のようにすぐに特定の欲望を構成するのと、要求のように絶対的に欲望を構成するのとの違いである。欲望(基本的に単独で)は、象徴的表現=はっきりいうこと articulation の持続的効果である。それは食欲のような何かを満たすための欲 appetite ではない。欲望は、本質的にエキセントリックであり、飽くこと、つまり満足することをしらない。ラカンが欲望を、欲望を満たすように見える対象ではなく、欲望を引き起こす対象と等置したのはこのためである。(アラン・シェリダン訳Ecritsの序文)

このラカン理論による定義であるならば、承認欲求であるよりは、「承認欲望」のほうが好ましい。

もし他人がわれわれの望みに応えてくれたとしたら、彼はそれによってわれわれにたいしてある一定の態度表明をしたことになる。したがって、ある物にたいするわれわれの要求の最終目標は、その物と結びついた欲求の満足ではなくて、われわれにたいする他者の態度を確かめることなのである。たとえば子どもにミルクをやるとき、ミルクは彼女の愛情の証になる。(ジジェク『斜めから見る』1991)

乳児は、空腹感のため、母乳が飲みたい(欲求)。そして泣き叫ぶ(要求)。母がやってきて乳を与える(欲求の満足)。この過程は、しかし要求の弁証法によって、母の愛情の証をもとめる欲望に変質していく、というわけだ。

「承認欲求」概念は、巷間では嘲弄のために使用されることがあるだろう、アイツは承認欲求の塊りみたいなヤツだ、などと。

だが「承認欲望」とすれば、ラカン理論的には、それは人間の最も根本的なものである。以下の文章をそれを説明している。

◆PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR A Qualitative Study From a Lacanian Perspective(Stijn Vanheule, PhD Ghent University Paul Verhaeghe, PhD Ghent, Belgium, and Ghent University、2005)より(PDF,私訳)。

ーー表題にあるように BURNOUT(燃え尽き症候群)をラカンの鏡像理論によって解釈する論だが、その前段箇所より。

ラカンの思考においての決定的な「かなめ」は、人びとは、オリジナルな、あるいは固有のアイデンティティを持っていない、ということだ。逆に、ラカンにとって、アイデンティティの臍は、内なる欠如あるいは空虚によって構成されている。人間の主体性は、 manque à être(存在欠如)によって、根本的に徴づけられているとラカンは言う(LA DIRECTION DE LA CURE ,1958)。これが意味するのは、非同一的かつ掴みえない(ラカン用語では「現実界」の)「欠如」が、人びと自身の持っているすべての表象をかき乱すということであり、結果として「分裂(分割)された」アイデンティティをもたらす。

※ラカン理論におけるアイデンティティ概念の詳細は、「「アイデンティティ」という語の濫用/復活」を参照のこと。

一方で、我々の存在の核に、この捻じ曲がりを生む空虚がある。その空虚は、すべて身体的な欲動にかかわる。他方で、我々は自己表象をもっている。それはラカンが「象徴秩序」と呼ぶものを基盤にしている(象徴秩序とは、すべての典型的な文化生産物から成り立っている。言語、慣習、社会構造などだ)。その「象徴秩序」を基盤とした表象は、「manque à être(存在欠如)」を決して充分には掴み取ったり覆ったりしえない。

ラカンは言う、「manque à être(存在欠如)」は実際は「want to be (ありたい)」として機能する、と(ラカンは、"manque-à-être" の英訳を "want-to-be"にするよう提案している。とすれば、邦訳の「存在欠如」とは、いかにも、こごしくこちたない:引用者)。
言い換えれば、内部の欠如は、主体の欲望を駆り立ててdrives、補完物を求めるよう促す。人間は、典型的には、他者のほうに向くことによって、この欠如に打ち勝とうと目指す。人は、他者に呼びかけ、それによって暗黙に想定するのだ、他者への弁証法的関係において、存在の贈物が達成されうると。「欲望は…「ありたい want-to-be」に光をもたらす。〈他者〉からの補完物を受け取るための呼びかけとともに」(Lacan, 1958)。

(この1958年当時、「欲望」にかかわる manque à être とともに、「要求」にかかわる manque à avoir という表現もあることを想起しておこう)

この考え方の線内部では、承認されたいという欲望 the desire to be recognized は最も根本的になものである。というのは、その承認欲望は、より大きな主体性達成を獲得するための手段として機能するから。間主体(間主観)的な承認が言い表しているのは、他者の欲望が主体のところにやって来て、主体を他者と結びつけ、そうして主体を社会関係の構造に組み入れるということである。他者の承認は、主体のアイデンティティ欠如を、部分的に埋め合わせる。この社会関係の手段によって、主体は少なくとも、他者との関係のなかで、私は誰なのかという思いを展開しうる。

…………

以上から読み取れるのは、われわれには承認欲望は欠かせないということだ(例外はあるだろう、一部の精神病質者など)。誰に承認されたいかという相違はあるが、誰かが必要である。「孤独」を気取るのは馬鹿げている。

作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。(中井久夫「創造と癒し序説」

クンデラは他者の眼差しの四つのカテゴリーを次ぎのように記している。

《誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』より(p.310~)。

これは承認欲望の四つのカテゴリーとして捉え得る。

ーーまなざしと言説とは関係ないよ、拡大解釈すぎるよ、とオッシャル方がイラッシャルかもしれないが、そうではない。もし、そういう印象をうけるのであれば、「言説」という訳語がわるいのであって、言説には言語が必要あるが、パロールなしにも言説は成り立つ。事実、ラカンが四つの言説理論をはじめて語るようになったセミネールⅩⅦのひとつまえのセミネールⅩⅥで、ラカンは、《un discours sans parole》と連発している。

人は、各々の言説構造の場に置かれれば、無言のままでもそれぞれの言説として機能する。言説とは社会的絆にかかわるものであり、それはクンデラのいう眼差しとほぼ等しい。


【第一のカテゴリー】
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。

クンデラはこのように書き、そこでその小説の登場人物の例があげられている、《これはドイツの歌手、アメリカの女優、それにまた、大きなあごをした編集者のケースである.。彼は自分の読者に慣れており、ある日ロシア人が彼の週刊新聞を廃止したとき、百倍も薄い大気の中に残されたように感じた。何人〔なんびと〕も、知らない人びとの目という視線を彼におぎなってやることはできなかった。彼は息がつまるように思えた。するとある日のこと、たえず警察につけられ、電話が盗聴され、それどころか路上で密かに写真を撮られていることに気がついた。無名の目が突然いたるところで彼と共にあり、彼はふたたび息をふきかえすことができた。幸福になった! 壁に仕込まれたマイクに芝居のせりふのように話しかけた。警察の中に失われた大衆を見出したのである》、と。もちろん、このカテゴリーには「政治家」も含まれるだろう。


【第二のカテゴリー】
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。

――そして、《この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す》、と。


【第三のカテゴリー】
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。

――こう書かれ、そして彼の小説の主人公の二人の名があげられる、《この人たちの中にテレザとトマーシュが入る》と。


【第四のカテゴリー】
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。

――ここでも小説の登場人物の名があげられる。

・《フランツ。彼はただサビナのためにのみカンボジア国境まで歩を運んでいる。バスはタイの道路をがたがたと走り、フランツは彼のことをじっと見ているサビナの長い視線を感ずるのである。》

・《トマーシュの息子。……憧れを抱く目はトマーシュの目である。署名運動にまき込まれた後、彼は大学からほうり出された。彼がつき合っていた娘は田舎の仔細の姪であった。彼女と結婚し、集団農場のトラクター運転手、カトリック信者、父親になった。そのあと誰かから、トマーシュも田舎に住んでいることをきき、喜んだ。運命が二人の人生をつり合のとらた道へと導いた! このことが、トマーシュへ手紙を書かせる勇気を与えた。返事は要求しなかった。ただトマーシュが視線を彼の人生にあてることだけを欲した。》


…………

このクンデラの四つの眼差しは、ラカンの四つの言説理論といくらか重なる部分さえある(参照:「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)。

たとえば、第一のカテゴリーはほぼS1→S2(主人の言説) 第四のカテゴリーは$→S1(ヒステリーの言説)とすることができる。

第二、第三のカテゴリーはラカンの四つの言説内に当てはめるのはやや困難かもしれない。第二のカテゴリーはおそらく、想像的ディスクール(参照)とでもいうべきものか(クンデラの叙述を拡大解釈すれば、という意味だが)。

想像的ディスクールとは想像的ファルスにかかわる。父の名の支えが弱いときには、ひとはそのディスクールに傾きがちだ。そしてそれは基本的に二項関係の言説である。

"I have/am the phallus more (or less) than that other" (competition).
"The other doesn't give me enough of the phallus" (revendication).
"Not I but that other has/ is the phallus" (jealousy).
"I don't have/ I'm not the phallus and will never have/ be it" (depression).
"I have/ am the phallus" (narcissism).

PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009

〈競争〉
・ボクは他の人よりももっと(or すこし)ファルスを持っているよ
・アタシは他の人よりももっと(or すこし)ファルスだわ

〈クレーム〉
・他の人は、ボク(アタシ)にじゅうぶんにファルスをくれない…

〈嫉妬 〉
・ボクじゃないんだ、他の人のほうがファルスを持ってるんだ
・アタシじゃないの、他の人がファルスなの

〈抑鬱〉
・僕はファルスを持っていないし、けっしてこれからも持たないな
・アタシはファルスじゃないし、けっしてこれからもそうじゃないわ

〈ナルシシズム〉
・ボクはファルスを持ってるさ
・アタシはファルスよ

ーーここでのファルスはほぼ「(他人の)欲望の対象」と置き換えてよいだろう。“objet du désir”であって、セミネールⅩ以降明確化された対象aの定義、“objet cause du désir”とは異なる。

あるいは次ぎの文とともに読めばよりわかりやすい。

男は十分に想像的ファルスを持っていないことを怖れる。女は十分に想像的ファルスでないことを怖れる。(ラカン、セミネールⅣ、摘要)

ーーラカンはこの時点では対象a概念が曖昧なままで、後に明確化されるその概念のうちのいくつかの定義のうちの一つにはほぼ等しい(参照:定義②)。

そして二項関係とは、「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちとの二項関係という意味である。

父なき時代(参照)には、このカテゴリーの人びとが増えてきたということはいえる。かつまた一神教ではない日本は父なき時代の先進国のひとつだという観点もあろう。父の名など昔から機能していなかったよ、と。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 )

そうとはいえ、父の機能がまったくないではない。

父の機能は、ユルんだにしろ、まだ生き残ってるさ。より普通の地位の父だがね…オヤジ言葉で印象づけたり驚かしたり父がいるじゃないか…ミレールが言ってるが、現代の政治家だって、道化ているが、印象づけようとしているぜ…これが「ふつうの父の名」さ。(エリック・ロラン Psychosis, or Radical Belief in the Symptom" 2012、超訳)

この「ふつうの父の名」をかかえた人たちが、世界的に増えてきているし(象徴的権威の崩壊による)、さらには日本はその先進国であるということはいえる。つまり日本では、欧米諸国とくらべて、より「想像的ディスクール」が活発なのはやむえない。しかも言語の構造が二項構造をもっている。時枝誠記が言った《日本語は本質的に「敬語的」》とは実は二項関係構造という意味でもある(参照)。

おそらく、この想像的ディスクールがかねてより蟠踞する国での、承認欲望猖獗はやむえない。アイツは承認欲求の塊りだよ、というたぐいの嘲弄でさえ、上の想像的ファルスの五様態の記述から判断するかぎり、承認欲望言説でありうる。

…………

かつては「後姿や背中でものを言う時代」、すくなくともその「ふり」をする時代があった。今は多くの人にレスポンスを貰うことを指向し、いろいろな仕組み作りを試みる時代だ。蓮實重彦曰くの「貧乏臭い」時代。

もちろん「背中の時代」でさえ、荷風の文章ように、《背が見えていたかと思うとくるりと顔がこちらへ向き直るという戦慄》(古井由吉『東京物語考』)はある。つまり、時に読者に面と向かって「想像的に」語りかける。それはしかし須臾の間だから尊いのであって、ふだん背中でものを言っていたおかげの戦慄である。

《私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなものだったのかも知れません》と言う蓮實重彦は、荷風と同様ーーいや、荷風は第四のカテゴリーかもしれないーー、第三のカテゴリーの人としてよいのだろうか。《愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリー》の人として。

すくなくともその「ふり」をした、そしてそれが可能であった時代の批評家だろう。


「寛容」概念の猖獗とは、政治的解決からの退却のせいだ

「俺の放言放言と言うが、みんな俺の言った通りになるじゃないか」と彼は言う。言った通りになった時には、彼が以前放言した事なぞ世人は忘れている。「馬鹿馬鹿しい、俺は黙る」と彼は言う。黙る事は難しい、発見が彼を前の方に押すから。又、そんな時には狙いでも付けた様に、発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人が現れる。林は益々頭の粗雑な男の様子をする始末になる。(小林秀雄『作家の顔』)

…………

あのね、1994年の時点で、こういうことがいえる人はすごいと思うわけよ
前回記したことは瑕瑾にすぎないよ

歴史は、中国において統一国家のもとにあった時期合計がそうでない時期よりも短いことを教えている。ローマ帝国の崩壊後の西欧および東欧がローマ帝国時代の統一に匹敵する安定に達したことはなかったといえるかもしれない。この二つの帝国は絶えず民族移動の波にさらされた。現在起こっていることは、歴史上何度も起こった民族移動であって、それにタガをかけて止めることはできるかどうか、ということは難しい。難民という形の移動はいっそうとどめがたいであろう。しかし、こういう時代が人類の常態であるかもしれない。歴史が進歩するという信念は、歴史において新しく、かつ珍しいものである。歴史は退化する、あるいは近く終末を迎えるという信念のほうが一般的であった(私はどちらにも決まっていないと思う)。

個人にとって、強大な帝国の支配下にあるのと、乱世といずれが幸福かは、にわかにいうことができない。さらにいえば、歴史は、四大河流域における文明の勃興をなお善であり、進歩とするが、しかし、生涯をピラミッドの建設や運河の掘削に費やす生活と森の狩猟採集民の生活とのいずれを選ぶかは答えに窮する問題である。「桃源郷」は前者が夢見た後者であろう。

人類の特権的位置もいささか怪しくなっている。進化論は、進歩の信念の強固な支柱であったが、進化が必然というよりは大幅の偶然に委ねられていること、生物の最盛期はすでに過ぎ去っているかもしれないことを示唆する説が有力となっているかに見える。これは時代精神の変化の反映であろうか。高等猿類と鯨類とに人類並みの権利を与える運動も、その一環であるのかもしれない。もっとも、人類が最高であるという人類の信念は、原始美術の研究家ギーディングによると比較的新しく、旧石器時代には周囲の動物たちに比べて劣っているという信念が一般的であったという。トーテミズムはその残映である。人間がもっとも堕落した存在だという信念も人類史上珍しいわけではない。

おそらく、過去に存在した二十幾つかの文明圏、数百数千を数えるであろう「原始」社会(「原始」の用語はなお文化人類学者の公式用語であるという)を同時代的であり同等であるとせよというトインビーの要請から再出発するのが一つの行き方であろう。人類は生物学的に謙虚になれという要請にも耳を傾ける必要があるだろう。

現代は、多くの思い込みを去って正気になれるという意味では良い時代であるのかもしれない。(中井久夫「治療文化論再考」初出1994 『家族の深淵』)

もっと決定的なのは1988年というバブル最盛期に書かれた「引き返せない道」だろうけど。
一般に成長期は無際限に持続しないものである。ゆるやかな衰退(急激でないことを望む)が取って代わるであろう。大国意識あるいは国際国家としての役割を買って出る程度が大きいほど繁栄の時期は短くなる。しかし、これはもう引き返せない道である。能力(とくに人的能力)以上のことを買って出ないことが必要だろう。平均寿命も予測よりも早く低下するだろう。伝染病の流入と福祉の低下と医療努力の低下と公害物質の蓄積とストレスの増加などがこれに寄与する。ほどほどに幸福な準定常社会を実現し維持しうるか否かという、見栄えのしない課題を持続する必要がある。国際的にも二大国対立は終焉に近づきつつある。その場合に日本の地理的位置からして相対的にアジアあるいはロシアとの接近さえもが重要になる。しかし容易にアメリカの没落を予言すれば誤るだろう。アメリカは穀物の供給源、科学技術供給源、人類文化の混合の場として独自の位置を占める。危機に際しての米国の強さを軽視してはならない(依然として緊急対応力の最大の国家であり続けるだろう)。(中井久夫、1988)


ここで.ジジェクの2007年の論文、Tolerance as an Ideological Category を並べておこう。私訳だが、どうやらジジェクの『暴力』にほぼ同じ文章が掲載されているようだ。

どうしてだろう、 現在、とても多くの問題が「不寛容」の問題として受けとめられるのは? 不平等や搾取、不正議の問題としてではなく、「不寛容」なのは? どうしてだろう、提案される治療法は「寛容」であって、束縛からの解放や政治的闘争、さらには武力闘争ではないのは? すぐさま返ってくる答は、リベラル多文化主義者たちの基本的イデオロギー操作だ。すなわち「政治の文化化 culturalization」ーー政治的差異、政治的不平等や経済的搾取などに条件づけられた差異ーーは「文化的」差異や異なった「生活様式」へと順応させられ/脱色化される。それらは、与件としての何か、克服されえず、たんに「寛容」に扱われなければ何かということになる。

(……)この「文化化 culturalization」の原因は、直接の政治的解決(福祉国家、社会主義的プロジェクト等々)からの退却、失敗のせいだ。「寛容」は、それらのポスト政治的模造品である。(……)

現代のリベラリズムは、イデオロギー、制度化した実践、非制度的実践の複合的ネットワークを形成している。しかしながら、この多様性の底に横たわっているのは、全てのリベラルの展望が依拠している次の対立だ。一方に、文化によって支配されている人びと、つまり彼らが生まれた生活世界に全的に決定づけられている人びとがいる。他方に、たんに彼らの文化を「楽しんでいる」人びと、つまり彼らの文化を自由に選んで、文化からいっそう高く昇り上がった人びとがいる。この二種類の人びとのあいだの対立である。

これは我々に次のパラドックスをもたらす。すなわち、野蛮主義の究極的な源泉は、文化自体だ、と。特殊な文化への同一化は、他の文化への不寛容を生む。とすれば、基本的対立は、集団と個人とのあいだの対立である。文化は定義上、集合的かつ特殊・地域的であり、他の文化に対して排他的だ。他方ーー別のパラドックスだーー、個人は普遍的であり、普遍性の場である。もっとも、彼(彼女)が個別の文化から解放され、その個別の文化からいっそう高く昇り上がった人である限りで、である。

しかしながら、どの個人も、いかんせん「個別化されている」。彼らは個別の生活世界に居住しなければならない。したがって、この袋小路を解決する唯一の方法は、個人を普遍と個別へと分割するしかない。公的(普遍的)と私的(個別的)とに分割するしかない(ここでの「私的」とは、家族の「安息の地」と、市民社会(経済)の非国家的な「公的」領域を二つとも含む)。リベラリズムにおいて、文化は生き残る。が、私有化 privatized されたものとして、だ。ここでの「私有化」とは、生活様式としてであり、規範と規則の公的ネットワークではなく、信念と実践の組み合わせとしてである。このようにして、文化は、文字通り、全質変化 (transubstantiated:神学用語、葡萄酒とパンが血と肉に変わること)される。すなわち、信念と実践の同じ組み合わせが、集団を結合する力から、個人的かつ私的な特異性へと変わる。

文化自体が野蛮と不寛容の源泉である限り、避けがたい結論はこうだ。すなわち、不寛容と暴力に打ち勝つ唯一の方法は、主体の存在の核、その普遍的エッセンスを、文化から解放することである。その核において、主体は、根無し草(文化のゼロ度 kulturlos)にならなければならない(これは、偶然にも、ヨーゼフ・ゲッペルスの悪評高い文言への新しいヒネリを提供している。「文化という語を聞くと、私は銃に手を伸ばすことになる」……)。

で、きみたちはひょっとしてゲッペルス待望論かい?

ーー”Slavoj Zizek and Glyn Daly”(邦訳名『ジジェク自身によるジジェク』)からだが、これも手元に訳本がないので、私訳。

……もっと一般的に言えば、すべての政治は、あるレベルの享楽の経済に頼っているし、さらにそれを巧みに操ることにある。私にとって、享楽の最もはっきりした例は、1943年のゲッペルスの演説である。――すなわちいわゆる総力戦Totalkrieg演説だ。スターリングラードでの敗北後、ゲッペルスは総力戦を求める演説をベルリンでやった。すなわち、通常の生活の残り物をすべて捨て去ろう!、全動員を導入しよう!、というものだ。そして、あなたはこの有名なシーンを知っているだろう、ゲッペルスは二万人のドイツ人群衆にレトリカルな問いかけをするあのシーンだ。彼は聴衆に問う、あなたがたはさらにもっと働きたいか、もし必要なら一日16時間から18時間?そして人びとは叫ぶ、「Ja!」。彼はあなたがたはすべての劇場と高級レストランを閉じたいか、と問う。人々は再び叫ぶ、「Ja!」

そして同様の問いーーそれらはすべて、快楽を放棄し、よりいっそうの困苦に耐えることをめぐっているーーが連続してなされたあと、彼は最後に殆どカント的な問いかけをする、カント的、すなわち表象不可能の崇高さを喚起するという意味だ。ゲッペルスは問う、「あなたがたは総力戦を欲するか? その戦争はあまりにも全体的なので、あなたがたは今、どのような戦争になるかと想像さえできないだろう、そんな戦争を?」 そして狂信的なエクスタシーの叫びが群衆から湧き起こる、「Ja!、 Ja!、 Ja!」ここには、政治的カテゴリーとしての純粋な享楽があると私は思う。完全にはっきりしている。まぎれもなく、人びとの顔に浮かんだ劇的な表情、それは、人びとにすべての通常の快楽を放棄することを要求するこの命令は、それ自体が享楽を提供しているのだ。これが享楽というものである。(ジジェク)


まあ、いいさ、肝腎なのは、この今のことをゴタゴタ言ってばかりいないで、中井久夫のように二十年後、あるいは三十年後、 世界はどうなっているのか、をたまには考えてみることさ

次ぎの文には、ヘーゲル主義者による通念としてのヘーゲル「ミネルバの梟が夕暮れに飛ぶ」の驚くべき反転がある。

過去と未来の閉じた回路である時間―未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、 その一方で、 われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。

『大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていて も、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのだ(Jean=Pierre Dupuy, Petit métaphysique des tsunami, Paris, Seuil 2005, p. 19.)。』

もしも―偶然に―ある出来事が起こると、 そのことが不可避であったように見せる、 それに先立つ出来事の連鎖が生み出される。 物事の根底にひそむ必然性が、 様相の偶然の戯れによって現われる、 というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。 この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、 おのれの運命を自由に選べるのだ。

環境危機に対しても、このようにアプローチすべきだと、デュピュイはいう。 大惨事の起こる可能性を 「現実的」に見積もるのではなく、 厳密にヘーゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである―もしも大惨事が起こったら、 実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。 このように<運命>と ( 「もし」 を阻む)自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。

つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。 まずそれが運命であると、 不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、 その観点から (未来から見た) 過去へ遡って、 今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

※参照:カサブランカとプロパガンダ



2016年1月19日火曜日

自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である

阿片となると、ド・クィンシーの『阿片常用者の告白』がまず挙げられよう。遡れば、むろんポーであり、ホフマンである。『アラビアン・ナイト』が西欧にウケたのも、この物語の底にハッシシュ(マリワナ)酩酊があるからかもしれない。 (中井久夫「多重人格をめぐって」初出1993,3月号「本」『家族の深淵』所収)

ド・クインシー(Thomas De Quincey 1785年8月15日 – 1859年12月8日)

ーー『阿片常用者の告白』は1822年出版

ポー(Edgar Allan Poe、1809年1月19日 - 1849年10月7日)
ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1776年1月24日 - 1822年6月25日)

ーーちょっと変だな、《遡れば、むろんポーであり、……》というのは。

とはいえ、このくらい誰にでもあるよ

このところ中井久夫を顕揚しすぎの気味があるので、ささやかな「反動」さ

…………

炭酸ガス増加も石油不足も食糧難も、世界人口の急増なくしてはありえない。二十世紀初めの世界人口は二〇億だった。今、七〇億は間近で百億も遠くない。ホモ・サピエンス(賢いヒト)という現人類が二万年前に現れてからの総人口が推定百億で、今生きているのが六〇億超だ。総死者のほうが少ない。これは異常な大発生ではないのか。(中井久夫「先が見えない中を生きる」初出2008.6 「神戸新聞」 『日時計の影』所収)
現生人類は第四氷河期を生き延びて、今は第四間氷期にいる(もっとも最近の研究でも氷河期は十二回あったそうだ)。だが氷河期百万年の歴史も宇宙の歴史からみれば一瞬である。実際、今までに存在した現生人類は(推定の根拠は知らないが)百億人、そのうち今生きている人は二〇〇八年で何とその三分の二の六七億人だそうである。人類はバッタの大発生の一回分にすぎないのかもしれない。そして、人類の垂れ流した大量の物を黙々と吸収している最大のものは海洋であって、深海がついに汚染で飽和する時が人類の究極の危機だという。(中井久夫「焔とこころ、焔と人類」初出2007.9 「ガスエネルギー新聞」『日時計の影』2008所収)

ほかにももっと以前のエッセイに、わたくしの気づいた範囲で、二箇所ほど似たような記述がある。上の文は、一方は「神戸新聞」、他方は「ガスエネルギー新聞」に掲載されている。誰も気づくことがなかったのだろうか。たとえば中井久夫のエッセイーの主な出版元「みすず書房」の編集者たちは気づかなかったのだろうか。

ーー《現人類が二万年前に現れてからの総人口が推定百億》というのは桁間違いであるはずなのに。

Most studies place the total number of human beings to have ever lived at 60 billion to 120 billion and since the world population right now is a mere 6 billion, the percent of humans who have ever lived and are alive today is anywhere from a mere 5 to 10 percent.Interesting Geography Facts

粗訳すれば、《たいていの研究は、いままでに存在した人間の全総数は、600億から1200億としている。そして世界人口はこの今、わずかに60億であり、現在生きている人間はいままで存在した人間の数の5%から10%あたりである》となる。


ほかにも、たとえば"How Many People Have Ever Lived on Earth?"では、次ぎのような資料が掲載されている。




いままで生れた人間の総累計が、1076億

2011年世界人口が、70億(mid-2011) ほどとなっている。

つまり現在の人口は 6.5%ほどとなり、中井久夫の記述とは桁が違う、《現人類が二万年前に現れてからの総人口が推定百億で、今生きているのが六〇億超だ。総死者のほうが少ない》(中井久夫)

※計算方法は次ぎのようになるらしい、→ How many people have ever lived? Keyfitz's calculation updated (done June 18, 1999)


ーーでもいいさ、「知性の巨人」ヴァレリーだって、自らの精神修養として課した、カイエにおける数学の練習には間違があるそうだそうだからな

あるタイプの記憶は、何十年を経ても、薄れないということです。「心の傷は体の傷と違う、二十歳の失恋の記憶が五十年経っても昨日のことのように疼く」とポール・ヴァレリーのノートにあるます。死後五十年は発表するなという遺言を、ドゴールが、原子戦争近しというので破らせてファクシミリで刊行し、当時で二十六万円で売り出してフランス政府が儲けたという代物です。もっとも、若い時の性の相手に順番に番号がふってあったり、簡単な数式が間違っていたりして「第三共和国を代表する知性の人」にだいぶ傷がついたので、活字に直したものはずいぶんきれいごとになっています。(中井久夫「分裂病についての自問自答 初出1992 『精神科医がものを書くとき』所収)

ヴァレリー先生、あなたならきっとおゆるしになるでしょうーー、あなたでさえ、《それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然》とおっしゃておられるのですから。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。医師となってからは遠ざかっていたが、君野隆久氏という方が、私の『若きパルク/魅惑』についての長文の対話体書評(『ことばで織られた都市』三元社  2008 年、プレオリジナルは 1997年)において、私の精神医学は私によるヴァレリー詩の訳と同じ方法で作られていると指摘し、精神医学の著作と訳詩やエッセイとは一つながりであるという意味のことを言っておられる。当たっているかもしれない。ヴァレリーは私の十六歳、精神医学は三十二歳からのお付き合いで、ヴァレリーのほうが一六年早い。ただ、同じヴァレリーでもラカンへの影響とは大いに違っていると思う。 ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。 (中井久夫「ヴァレリーと私」(書き下ろし)『日時計の影』2008)

わたくしは、高校時代、田舎の高校生であったため、通信添削のZ会をやっていた(ようは、その高校にはまともな教師がすくなかった)。そこでの答案投稿名は「ヴァレリーの方法」だった。もちろん『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にイカレタせいである(岩波からでていたダ・ヴィンチの高価なデッサン集まで手に入れたよ)。

Z会の会報には、「ヴァレリーの方法」という名の成績優秀者名が、英語と数学の名簿でーー田舎高校生徒には珍しくーーほぼ毎回掲載された(灘高とかの連中とともにだぜ)。

オレの数学はあの頃のみに花が咲き、その後はすっかり枯れちまったよ

英語のbillionという語は厄介だな
日本語の億兆という語も厄介だ
邦訳しようとしてかなり悩んじまったよ

「万」がゼロ4つ、というのは誰でも覚えていると思うが、
「億」がゼロ8つ、という事実は、知ってはいるんだろうけど、頭に置いている人は案外少ない(たぶん)。(「Billion, Millionなど英語の数字単位を頭の中で日本の単位に換算する方法」)

ーーと記している人がいて安心したな






で、上の図の億兆ってのはあってるんだろうか?


(wiki:)



2016年1月18日月曜日

文体の一層の洗練を願うーー「のだ」「なのだ」の節約など

中井久夫「翻訳の世界」翻訳者選者としてのコメント(1992年)

①美わしのベンガル(ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅彦訳…)
②官能の庭(マリオ・プラーツ、若桑みどり訳…)
③パウル・ツェラン全詩集(中村朝子訳……)
④フランス中世文学集3 笑いと愛と(新倉俊一、神沢栄三・天沢退二郎訳…)
⑤比較精神医学(H・B・マーフィ、内沼幸雄他訳…)
⑥地中海Ⅰ、Ⅱ(F・ブローデル、浜名優美訳…)
⑦カミュの手帖(大久保敏彦訳…)
⑧世界宗教史Ⅲ(ミルチャ・エリアーデ、鶴岡賀雄訳…)
⑨オランダ・ベルギー絵画紀行(フロマンタン、高橋裕子訳…)
⑩現代ロールシャッハ・テスト体系(エクスナー、秋谷たつ子他訳…)
 臼田訳は一読脊髄を快い戦慄が走る。熱帯樹を伝う雨の雫、稲田にこもる湿気がそくそくと身に迫る。体言止め、SVO文の多用。しかも違和感なく、立原道造より出て彼を超える詩語の可能性を示す。早世したベンガル詩人の原語よりの訳という珍しさをはるかに超えている。 『官能の庭』の訳には敬服。ツェラン単独訳は力業。ただ「ぼく」「お前」はリルケ邦訳ですり切れた代名詞かと思う。『フランス中世文学集』はチョーク臭のない学者と詩人の愉しい共作。読みとおせる長い訳詩はなかなかない。重要な大部の学術書訳出の努力に感謝し、文体の一層の洗練を願うーー「のだ」「なのだ」の節約など。妄言多謝。

ははあ、なるほど、《重要な大部の学術書訳出の努力に感謝し、……》とあるのだ

アナトリアのアマジのトルコ軍の野営地では近衛歩兵たちが毎日雪の水を飲んでいるのを見てびっくりしたビュスベックも言っているように、一年中雪が見つかったのだ。雪の商売は大変重要なので、〔オスマン帝国の〕バシャ一族は「氷採掘」に手を出すほどである。(……)

他のところ、エジプトでは早馬によるサービスが雪をシリアからカイロまで持って来たし、リスボンでは雪を非常に遠くから持って来させた。(……)マルタ島では、騎士たちは、彼らの言うことを信じれば、ナポリ発の雪の入荷がないために死んでしまった。彼らの病気は、「この上なくゆき効く薬」として雪を必要としたのである。雪は高級食品であったのだ。(フェルナン・ブローデル『地中海』浜名優美訳 上 p.38)

文体の洗練されていない翻訳書や学者の論文ばかり読んでいると、この文末の癖に不感症になってしまう場合があるのだ。それは、中井久夫が「出版ダイジェスト」1985年7月1日にも次ぎのように書いているのを知っているにもかかわらずなのだ。だが、それはチョーク臭とでもいうべきなのだ

……日本語の敬語もよく考えると単に丁寧さの程度だけではない。われわれは同じ対象に向って「です、ます」調で講演し、「である」調で文を綴る。

「です、ます」調が講演や会話で選ばれるのは、接続がやさしいからである。実際、「です」「ございます」は、文から独立して、喚起的な間投詞(というのであろうか)として使用されている。「あのですね、実はですね、昨日のことでございますが、あのう、お電話をさしあげたんですがね、いらっしゃいませんでしたですね。それでですね……」。こういう用法は、顔が見えない電話での会話で頻用される。

「である」にこの作用をもたせると、政治演説になる。「のであるんである」は政治家の演説を嘲笑するのに恰好である。しかし、予想外に多くの批評家の文に「のである」の頻用を発見する。「だ」の間投詞的用法は某政治家が愛用して「それでだ、日本はだ、再軍備してだ……」とやっていたが、「突っぱねるような調子」と批評され、不人気の一因となった。

「のである」を、私は「ここで一度立ち止まっていままでの立論を振り返れ」というしるしと見る。どうしてもなくてはかなわぬ場合以外に使用すると相手をむやみに立ち止まらせ、相手の頭にこちらの考えを押し込もうとする印象の文になり。品が下る。

「です、ます」調で書かれた文は、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つと私は思う。「です、ます」調の文に対しては批評意識が働かせにくい。京都学派がかつて頻用した「なかろうか」にも同じ傷害を感じる。

日本文の弱点は語尾が単調になることで、語尾を豊かにしようと誰も苦心するはずだ。動詞で終ることを多くする。体言止めにする。時に倒置法を使う。いずれもわるくない工夫である。

接続が日本語において重要であることは、従来から意識されてきた。西鶴の若い時の文体や野坂昭如の文体においては、文の独立性を不明瞭にすることによって、柔軟な接続に成功している。一方、晩年の西鶴やそれを模した志賀直哉の文体、あるいは谷崎の文章読本に説くような、極度の接続詞の節約は一見反対のように見えて同じことの裏の面である。接続詞抜きでよい接続をすることが高い美学的価値を生む芸当であるのだ。もっとも接続詞の極端な禁欲は、文章を点描法の画に近づけ、一般に随筆的な文章とする。メリハリのためには、多少の接続詞が必要である。また、主語の明示をにくむこと、親のかたきのごとくであるのも、狭量であると私は思う。しかし、「で」で続くたるんだ接続をよしとするわけではけっしてない。これはジャーナリストの文章に多くを見る。……(中井久夫「日本語を書く」1985初出『記憶の肖像』所収)

ははあ、西鶴は前期と後期で文体が違うのだ。西鶴などまともに読んだことのないヤツラは、オレと同じように、しらなかっただろ?

仙台につきてみれば、この所の傾城町はいつの頃絶えて、その跡なつかしく、松島や雄島の人にもぬれて見むと、身は沖の石、かわく間もなき下の帯、末の松山腰のかがむまで色の道はやめじと、けふ塩竈の明神に来て、御湯まゐらせける人をみるから恋ひそめ、社人に近寄り、「我は鹿島より当社に参り、七日の祈念して帰れとの霊夢にまかせ候」と申せば、いづれも、「有難き事かな」と様々いさめけるうちに、かの舞姫、男あるをそそのかして色々おどせば、女ごころのはかなく、おしこめられて声をも得てず、この悲しさいかばかり、「道ならぬ道ぞ」と膝をかため泪をながし、こころのままにはならじと、かさなればはね返して、命かぎりとかみつきし所へ、男は夜の御番勤めし、夢心に胸さわぎ、宿に盗人の入ると見て立帰り、女は科なき有様、世之介を捕へて、とかくは片小鬢剃られて、その夜沙汰(さた)なしに行方しらずなりにき。(西鶴『好色一代男』)
人のになる事、仕合せといふは言葉、まことは面々の智恵才覚を以てかせぎ出し、其家栄ゆる事ぞかし。

これ福の神のゑびす殿のまゝにもならぬ事也。大黒講をむすび、当地の手前よろしき者共集り、諸国の大名衆への御用銀のの内談を、酒宴遊興よりは増したる世のみとおもひ定めて、寄合座敷も色ちかき所をさつて、、下寺町の客庵を借りて、毎月身体にくれて、命のかたぶく老体ども、後世の事はわすれて、ただ利銀のかさなり、富貴になる事を楽しみける。(西鶴『世間胸算用』)


晩年西鶴の文体が、志賀直哉で、前期が野坂昭如ともあるのだ

志賀直哉くらいはいまの若い皆さんも読むだろうよ。

或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴつたりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がつていた。他の蜂は一向に冷淡だつた。巣の出入りに忙しくその傍を這ひまはるが全く拘泥する様子はなかつた。 (……) それは三日程その儘になつていた。それは見ていて、如何にも静かな感じを興へた。淋しかつた。他の蜂が皆巣箱へ入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見る事は淋しかつた。然し、それは如何にも静かだつた。夜の間にひどい雨が降つた。朝は晴れ、木の葉も地面も屋根も綺麗に洗はれていた。蜂の死骸はもう其処になかつた。今も巣の蜂共は元気に働いているが、死んだ蜂は雨樋を傳つて地面へ流し出された事であらう。足は縮めた儘、触角は顔へこびりついたまま、多分泥にまみれて何処かで凝然としている事だらう。 (中略) 自分はその静かさに親しみを感じた。 (……) 生きて居る事と死んで了つている事と、それは両極ではなかつた。それ程に差はないやうな気がした。(志賀直哉 『城の崎にて』)

これを「五石六鷁の作法」というらしいのだ。おわかりだろうか。

野坂文体も手許にある文を貼り付けておくが、ただしオレのこのみで、前期西鶴文体がひどく目立つ箇所というわけではないかもしれないのだ

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)
……「肝心のとこがもう一つけけん。そやけどよく唸りはる女や」

スブやん、情けなく溜息をつけば、伴的はなぐさめるように、「京都の染物屋の二号はんや、週に二へんくらい旦つく来よんねん、丁度この二階やろ、始ったら天井ギイギイいうよってすぐわかるわ、もうええ年したおっさんやけど、達者なもんやで」

ちょいまち、とズブやん大形に手を上げ伴的をとめる、女がしゃべったのだ。

ーーあんた、御飯食べていくやろ、味噌汁つくろか。

男はモゾモゾと応え、ききとれぬ。と、突拍子もない声がズブやんの鼓膜にとびこんできた。

ーーお豆腐屋さん! うっとこもらうよオ。

男再び何事かしゃべり、女おかしそうに笑う。やがてドタドタとアパートの階段を乱暴にかけ上る音。ドアのノック、咳ばらい。

ーーそこに置いといて頂戴、入れもんとお金は夕方に一緒でええやろ、すまんなア。

しばし静寂の後、再び床板きしみ女は唸り、ズブやんあっけにとられるのを、伴的ひと膝にじりよって、「やっとる最中に飯のお菜たのみよったんや、ええ面の皮やで豆腐屋も」(野坂昭如『エロ事師たち』)


臼田訳の美については中井久夫は後にもくり返しているのだ

ジボナノド・ダーシュ『詩集・美わしのベンガル』臼田雅之訳

ありえないほど美しい訳。ベンガル語がわかるわけではむろんないが、リズムと母音子音の響き合いの中から、ベンガルの稲田の上にただよう靄の湿りが、密林に鳴く鳥の声が、木末を滴る雨の音が、乙女の黒髪の匂いがせまってきて、背を快い戦慄が走ります。詩人の故国ベンガルへの強い抑制のかかった烈しい愛も。……(「みすず」第382号、1993年)

最近の書『私の日本語雑記』でも、『美わしのベンガル』について繰り返されているのだ。《したたるほどのイメージが(いや視覚だけでなく聴覚も嗅覚も身体感覚さえも)鮮明強力に立ち上がってくるすばらしい例を挙げたい》とあるのだ

《体言止め、SVO文の多用。しかも違和感なく、立原道造より出て彼を超える詩語の可能性を示す》などとは、隠れ立原ファンのオレにとって、とてもうれしくなる指摘なのだ

知らなかった こんなにやわらかな匂いが立つとは 美しい女(ひと)の結いあげた髪に 

ーージボナノド・ダーシュ『詩集・美わしのベンガル』)
沈黙は 青い雲のやうに
やさしく 私を襲ひ……
私は 射とめられた小さい野獣のやうに
眠りのなかに 身をたふす やがて身動きもなしに

ーー立原道造 「暁と夕の詩」


ここで堀辰雄や立原道造への恥ずかしい愛を白状しておくのだ

私たちが其処にぼんやりと立ったまま、気持ちよさそうにつめたい風に吹かれていると、丁度その瞬間、その真向うの小山のてっぺんから少し手前の松林にかけて、あたかもそれを待ち設けでもしていたかのように、一すじの虹がほのかに見えだした。

「まあ綺麗な虹だこと……」思わずそう口に出しながら私はパラソルのなかからそれを見上げた。森さんも私のそばに立ったまま、まぶしそうにその虹を見上げていた。そうして何だか非常に穏やかな、そのくせ妙に興奮なさっていらっしゃるような面持をしていられた。(堀辰雄『楡の家』)
君の詩集(「萱草に寄す」)、なかなか上出來也。かういふものとしては先づ申分があるまい。何はあれ、我々の裡に遠い少年時代を蘇らせてくれるやうな、靜かな田舍暮らしなどで、一夏ぢゆうは十分に愉しめさうな本だ。しかしそれからすぐにまた我々に、その田舍暮らしそのものとともに、忘られてしまふ……そんな空しいやうな美しさのあるところが、かへつて僕などには 〔arrie`re-gou^t〕 がいい。

……ただ一ことだけ言つて置きたい。君は好んで、君をいつも一ぱいにしてゐる云ひ知れぬ悲しみを歌つてゐるが、君にあつて最もいいのは、その云ひ知れぬ悲しみそのものではなくして、寧ろそれ自身としては他愛もないやうなそんな悲しみをも、それこそ大事に大事にしてゐる君の珍らしい心ばへなのだ。さういふ君の純金の心をいつまでも大切にして置きたまへ。(掘辰雄「夏の手紙 立原道造に」)

おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)

さてもうなんでもいいのだ。とはいえ、若いうちに、中井久夫の指摘を肝に銘じておくことが大切なのだ。それは、オレのようなケッタイな文体にならないためなのだ

わたしは今の高校生と大学生に、中井久夫の文章を読むことを勧めたい。(……)

日本語の「風味絶佳」とは何かということを若いうちに自分の身体で体験することは重要だ。(……)ぜひ中井久夫を読んでほしい。現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っているからである。(松浦寿輝『クロニクル』)

おい、きみたち! 中井久夫が古臭い、精神医学くさいというなら、佐々木中を読むべきなのだ。いくらニブイきみたちでも、次ぎの文にーーおそらく中井久夫の絶賛を通したーー、臼田訳ジボナノド・ダーシュがいるのに気づかないわけがないのだ、《知らなかった こんなにやわらかな匂いが立つとは 美しい女(ひと)の結いあげた髪に》。

知っていた。知っていた、筈、だった。そうだ-中井久夫がこういう男だということを、われわれはすでに仄かに、彼自身の文章から感じ取っていたのではなかったか。彼の文体は時にあわい甘やかさを香らせて読む者をゆくりなく蕩(とろ)かせる。 陶然とも唖然ともさせてくれる。が、彼の文章は一文たりともそのくっきりと真明(まさや)かな輪郭を張り詰めた抑制を失わない。常に簡潔で静謐であり、叫ばず声を嗄らすことなくゆるやかにまた慄然とその歩みを進める。

この日本精神医学最大の理論家にして雅趣と叡智を併せ持つ随筆家は、類ない語学力に支えられて文学や歴史に通暁する碩学でもあり、さらに詩と論文とを問わぬその翻訳の質の高さとそこでも発揮される文体の気品はわれわれを驚嘆させ続けてきた。

まず第一にその文字の流れの面にうつろい映える所作の優雅において。だが。ここにいるのは楡林達夫という、三十歳にもならぬ一人の医師である。然るべき理由あってこの筆名で自らを隠した中井久夫である。その情熱、その反骨、その孤高、その闘争の意思たるや。

それは長く長く中井久夫を読みその軌跡に同伴するを歓びとしてきた者すらをも瞠目させ狼狽させ得る。しかし、繰り返す。われわれはあの高雅なる中井久夫の姿に、密やかにこの若き楡林達夫の燃え立つ瞋恚を感じ取っていたのではないのか。 この、ふつふつと静かに熱さを底に秘めて揺らぐ水面のような、執拗な反抗を止めない微かに慄える怒りを、そしてこの世の正を求めるゆらぎなき意思を。 ―――「胸打たれて絶句する他ない抵抗と闘争の継続」―『日本の医者』中井久夫を読む。『アナレクタ3』佐々木中より)

ここまでの文体の洗練は通常の散文には必要がないとするべきか。たとえば、倒置法(SVO文)、句読点の使い方のなんと驚くべきことか。

とはいえ、ツイッターなどでの安易な「です、ます」調だけはやめておくべきなのだ。オレはそれを「空気読み」文体、「同調圧力」文体と呼ぶのだ(もちろん、意図的ですぐれた「です、ます」調という例外はあるよ)。

「です、ます」調で書かれた文は、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つと私は思う。「です、ます」調の文に対しては批評意識が働かせにくい。(中井久夫)

あるいは「女の腐ったの」文体とも呼ぶのだ

女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていたのである。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)

ここで注意しなければならないのは、「である」調であっても、その底に「です、ます」調の「女の腐ったの」文体の谺をあなたが読みとる耳があるかなのだ。世の中にはタツル文体というものがあり、あれがまともな知識人の文章だと錯覚してしまっているボウヤ・オジョウチャンたちが実に多いのだ

○○○の文章は、客観性に乏しく、一人芝居的。殆どの話題や対象は、自分流に改変され、あたかも幼児が玩具を自分の周りに散らかして、そのなかで空想物語を作り続けているようだ。自分の空想のなかで、対象どうしの関係を想像的に決めて語り続ける。語りは「私は~」という一人称で連続してゆく。つまり、論考自体が自閉的な性質を持っている。精神分析ではこういう語りを「想像的ディスクール」と呼んでいる。すべての価値は判断主体である「私」との双数的関係のなかで決まっており、何でも言えるし、何を言っても仕方のない領野である。(objet petit a オブジェプチタ

《彼の語り口は意図的に「上から目線」ではなく「下から目線」であるかのようになされ、日常のなかで「上から目線」で圧迫を受けている人たちの共感を引き出す》のだ。それを、「知っていた。知っていた、筈、だった」などと誤魔化してはならないのだ。「知らなかった こんなにはしたない悪臭がにおい立つとは 美しい魂、すなわち根っからの猫かぶりどもの猫撫で声に」とそうそうに悟るべきなのだ

いやシツレイ! オレの錯覚かもしれなのだ、いずれにしろあれは「一度は母親の鏡と子宮に印された/美しい魂の汗の果物」(吉岡実)なのだ。油断したり読者への媚態をふりまこうとすれば、だれでもああなってしまいがちなのだ。しかもタツルちゃんがときにひどく役にたつこともあるのを否定する者ではないのだ

さて妄言多謝なのだ