2016年6月30日木曜日

〈モノ das Ding〉というアトラクター

以下、主にメモ

◆ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012より

【対象a の地位の移行と外密 Extimité
ラカンのセミネールXVI へのミレール注釈は、対象a 、欲望の対象-原因の地位の決定的変化を詳述している。すなわち、身体上の標本(部分対象:乳房、糞便…)から純粋な論理的機能への移行。このセミネールで、《ラカンは本当は、対象a を身体上の標本として叙述していない。彼は、対象a を論理的一貫性、生物学の場のなかにある論理的存在として構築している。この論理的一貫性は、身体が、異なった身体的演繹を通して満足せねばならぬ機能のようなものである》(Jacques‐Alain Miller, “A Reading of the Seminar From an Other to the other,” 2007)。

この移行とは、外部の侵入者、徴示化機械 signifying machine のなかの砂粒ーーその砂粒が機械のスムーズな機能を邪魔するーーから、機械に完全に固有の何かへの移行である。

ラカンが、象徴空間の内部が外部に重なり合うこと(外密 ex‐timacy)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもないのだ。

※「ラカンの身体概念の移行」より(ヴェルハーゲ)

(1) 我々に入り込む外部のエイリアンがいる。
(2) 我々の内部には、我々を決定づけるエイリアンがいる。
(3) エイリアン自体がいる。

ここでのエイリアンとは、corps étranger.、我々に最も親密な異者、Extimité (外密)、あるいはフロイトのFremdkörper(異物)にほとんど等しい。


【本能/欲動】 
これが明らかにしうるのは、本能から欲動を分け隔てる裂け目との関係である。すなわち、一方で、欲動と本能は、同じ「対象」・同じ目的地を持つのだが、この二つを差違化するものは、欲動はその目的地に到達することに満足を見出すのではなく、目的地のまわりを旋回すること・到達の失敗の反復に満足を見出す、ということだ。

もちろん人は言うことができる。欲動が目的地に到達するのを妨害するものは、対象a だと。対象a は目的地を脱中心化する。我々が目的地に到達してさえ、対象は手に入らず、手続きの反復を余儀なくされる。しかしながら、この対象は純粋に形式的なものだ。それは、欲動空間の湾曲なのであり、したがって、対象に到達する「最短の道」は、直接的に対象を目指すことではなく、対象を包囲すること、対象のまわりを旋回することである。

【否定の否定】
この移行は、実にへーゲル的である。それは、ある種の「否定の否定」を形作る。すなわち、先ず、一貫的な「大他者」から始まる。自己包囲された象徴秩序である。次に、最初の否定において、この一貫性は、現実界の剰余によって掻き乱される。剰余とは、外傷的残滓であり、それが象徴界へ統合されることに抵抗し、したがって、その均衡を掻き乱す。象徴界を「斜線を引かれた」ものにし、裂け目、罅割れ、敵対関係 antagonism を導入する。ようは非一貫性である。しかしながら、二番目の否定(否定の否定)は、遠近法 perspective の移行を要請する。その遠近図において、我々は次のことを把握する。すなわち、現実界のこの侵入的残余自体が、唯一の要素ーー非一貫性的な大他者の最低限の一貫性を支える唯一の要素であることを。


【階級闘争としての外密】
階級闘争の論理を取り上げよう。それは、社会を「非一貫的」、敵対的、社会の均衡を掻き乱すものとする。しかしながら、階級闘争は同時に、全ての社会的身体、その底に横たわる構造化原理をひとつにまとめる。というのは、全ての社会現象は、階級闘争によって重層決定されているから。より散文的に言えば、しばしば階級闘争自体、基本的緊張自体が、異なった要素をひとつに保持するのではないだろうか? 闘争が消滅したとき、各要素は別々に彷徨い進む、不毛の冷淡な共存のなかへと

同じような仕方で、トラウマはもちろん、主体に象徴空間の均衡を掻き乱す。だが同時に、主体の心的生活における究極の参照点である。全ての象徴化活動は、心的外傷の対処、その抑圧、その置換等々である。

さらにもっとある。侵入する要素が、大他者を「ひとつにまとめる」だけではない。侵入者の不在のなかでは、大他者はばらばらになる。この要素、対象a は、どんなポジティブな対象的現実も持っていない。その地位は、純粋に論理的一貫性の地位である。それは、大他者の/のなかの非一貫性の原因として、論理的に暗示され仮定される。すなわち、対象a は、その効果を通して、遡及的にのみ識別される。

【アトラクター】 
数学におけるアトラクターを例にとろう。アトラクションの領野内の全ての線や点は、絶え間なく、アトラクターに接近するのみで、決して実際にはその形式に到らない。この形式の存在は、純粋にヴァーチャルなものであり、線と点がアトラクターに向かう形以外の何ものでもない。しかしながら、まさにそれ自体として、そのヴァーチャルな形式が、この領野の現実界なのである。すなわち、全ての要素がそのまわりを旋回する不動の中心的な点が。

このようにして、これらの捻りのヘーゲリアンの論理は、さらにいっそう正確に与えられうる。三段階ではないのだ。ここでは四つの段階が作用している。最初に、一貫的な大他者。次に、侵入する残余としての対象a に非一貫化された大他者。そして、大他者の「一貫性」を支えるものとしてのこの対象(多様な非一貫的象徴化は、侵入する対象への反応のネットワークとしてのみ「全体化」される)。最後に、最初に戻る。だが異なったレヴェルの最初だ。すなわち、「現実界」としての対象a は、象徴秩序自体の、純粋に形式的な歪曲・内的湾曲にとっての「名」に過ぎない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

…………

◆ジジェク『斜めから見る』1991より、「ストレンジ・アトラクター(奇妙な誘引者)」叙述箇所を抜き出す(『身体なき器官』にもアトラクターの叙述はあるが、ここではより詳細に書かれている初期ジジェクから)。

ーー以下、フロイト的な〈物自体 das Ding〉とされている訳語を〈モノ das Ding〉と変更した。

ラカンがフロイトから取り出した〈モノ das Ding〉とは、結局、≪対象aの初期ヴァージョン≫(フィンク、1997)である(もっとも対象aにも数々の使い分けがあり、そのどれに当たるかが問題ではあるが。参考:対象aの五つの定義)。 

一般のエコロジストたちの反応の根本的弱点は、その強迫的リビドー経済である。つまり、自然の回路の均衡を保ち、何か恐ろしい妨害が自然の流れの安定した規則性を乱さないようにするためにはあらゆる努力をしなければならぬ、という彼らの発想である。一般に広く浸透しているこの強迫的リビドー経済から逃れるためには、さらに一歩踏み出して、「死ぬまで病んでいる自然」である人間の介入によって「自然の均衡」が狂ってしまったという考え方そのものを捨てることである。ラカンの「女は存在しない」という命題にならって、自然は存在しないと主張すべきなのかもしれない。自然は「人間の不注意によって軌道から外れてしまった、規則的で均衡のとれた回路」としては存在しないのである。自然の均衡のとれた回路にとって人間は「過剰」である、という発想そのものも、最終的には捨てなければならない。均衡のとれた回路という自然のイメージは人間の遡及的な投射にすぎない。最近のカオス理論の教訓はここにある。「自然」はすでに本質的に乱れており、不均衡であって、その「規則」は、ある定点を中心とする均衡のとれた振動ではなく、カオス理論で「ストレンジ・アトラクター(奇妙な誘引者)」と呼ばれるもの、すなわちカオスそのものを指向する、規則性のげ限界内でのでたらめな散乱なのである。

カオス理論の功績の一つは、かならずしもカオスは計り知れないほど複雑に絡み合った原因を含むとはかぎらない、ということを証明した点である。単純な原因でも「カオス的」な行動を引き起こしうる。どんな過程も放っておけばかならず自然的均衡(静止点あるいは規則運動)へと向かう、というこの古典物理学の基本的「直観」であったが、カオス理論はそれを引っくり返したのである。

この理論の価値転倒的な側面は「ストレンジ・アトラクター」という述語に凝縮されている。あるシステムが「カオス的」・不規則的に行動し、すなわち絶対に以前の状態に戻らないが、それでもなおそれを規制するある「アトラクター」によって形式化の能力を保っている、ということがありうる。その「アトラクター」が「奇妙strange」であるのは、点とか対称図形といった形をとらず、「歪んだ」円とか「蝶々」とかの明確な図形の内部で、どうしようもなく絡み合った曲線の形をとるからである。

さらにここで、「正常な」アトラクター(混乱したシステムが指向すると考えられる均衡状態あるいは規則的振動)と「奇妙な」アトラクターとの対立を、快感原則が必死に向かう均衡状態と、享楽を具現化しているフロイト的な〈モノ das Ding〉との対立に重ね合わせてみたくなる。フロイトのいう〈モノ〉とは、心的装置の正常な機能を妨害し、それが均衡に達するのを阻止する、一種の「宿命的アトラクター」ではなかろうか。「ストレンジ・アトラクター」の形そのものが、ラカンの〈対象a〉の物理学的隠喩なのではなかろうか。〈対象a〉は純粋な形であるというジャック=アラン・ミレールのテーゼが、ここでも確証される。それはわれわれをカオス的振動へと引き寄せるアトラクターの形である。カオス理論の優れた点は、そのおかげでわれわれはカオスの形そのものを見ることができる、すなわちふつうは形のない無秩序にしか見えないところに一つのパターンが見えてくるということである。カオス理論の功績の一つは、かならずしもカオスは計り知れないほど複雑に絡み合った原因を含むとはかぎらない、ということを証明した点である。単純な原因でも「カオス的」な行動を引き起こしうる。どんな過程も放っておけばかならず自然的均衡(静止点あるいは規則運動)へと向かう、というこの古典物理学の基本的「直観」であったが、カオス理論はそれを引っくり返したのである。

こうして「秩序」と「カオス」という伝統的な対立は棚上げされる。株式の変動や伝染病の発生から渦巻きの形成や木の枝の配置にいたるまで、制御不能なカオスと見えたものが、ある一定の規則に従っているものだと見なされる。カオスは「アトラクター」によって統御されているのだ。重要なのは「カオスの背後に秩序を探る」ことではなく、むしろカオスそのものの、つまりその不規則な散乱の形、パターンを探ることである。一定不変の法則(原因と結果の不変な繋がりなど)にもっぱら注目した「伝統的」科学とは裏腹に、これらのカオス理論は、未来の「〈現実界〉の科学」の、すなわち象徴的自動人形とは反対の偶然性を生み出すような規則を作り上げる科学の、最初の青写真を提供しているのである。現代科学の真の「パラダイム・シフト」は、古臭い「機械論的」世界観に取って代わる新しい全体論的・有機的アプローチの確立をめざすと自称する人びとが素粒子物理学と東洋神秘主義の「綜合」と称している訳の分からぬ論文などにではなく、カオス理論にこそ見出されるといってよい。(ジジェク『斜めから見る』1991,鈴木晶訳、PP.79-81)

…………

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesaより、〈モノ das Ding〉をめぐって。

ラカンのフロイト解釈によれば、「至高善 Souverain Bien」は存在しない。なぜなら、その「善」を基礎づける道徳の法が、主体にとって至高の悪として禁止するものだから。《至高善はモノ das Ding である》(S.7)。

ラカンは躊躇わず、その禁じられた至高善ーーモノdas Ding の意味におけるーーを母(近親相姦の対象)と等価とする。

…par FREUD, est celui-ci, c'est de nous montrer qu'il n'y a pas de Souverain Bien, que le Souverain Bien, qui est das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, est un bien interdit, et qu'il n'y a pas d'autre bien.(Lacan,S.7)

(だが)もっと重要なことは、ラカンはまた、母なるモノは本源的に到達し得ない、と強調していることだ。かりに道徳法によって明瞭に禁止されていなくてさえも。

これはどういう意味だろうか? ここで我々は想起しなければならない。ラカンは、モノと原初の現実界をしばしば混同しているという事実があるにもかかわらず、彼は実際には、モノは原初の現実界ではない、と明瞭に信じていることを。すなわち、セミネールVII の文脈において、モノは実際は、原初の現実界のなかのシニフィアンの効果による「穴」である。したがって、享楽の喪失は、定義上、いつも-常に喪なわれている。象徴界の住人である主体にとっては、どんなポジティブな禁止とも関係なく、いつも-常に喪なわれている。

このロレンツォ・キエーザの注釈も、結局、《他のモノは、本質的に、モノである[« Autre chose » est essentiellement la Chose]》 (S.7)への注釈等へと移ってゆく(これは、モノ=対象a ということだ)。そして原初の享楽は決して、《モノとしての母と子どもとの融合ではない》と。

セミネールⅦというのは、上にロレンツォが指摘しているように、混同もある(モノが原初の現実界である、とはかつてはしばしば言われたものだ)。

ほかにも、ラカン注釈者たちにによって、90年代にしばしば強調されてきた セミネールⅦ におけるアンティゴネー叙述の過大評価(これはジジェクにも大いに責がある)や、《違反とは享楽への違反である [la jouissance de la transgression]》なども、(少なくとも今では)眉唾で読まなければならない。

たとえば、後者の《違反とは享楽への違反である≫とは、10年後のセミネール17では、《何も違反などしない![on ne transgresse rien ! ]》と正反対のことが言われており、明らかな移行がある。そして享楽への侵犯ではなく、「享楽の侵入 une irruption de la jouissance」が語られる。

だがこれでさえ、上にジジェク文を示したように、現在の哲学的ラカン組(ジジェク、ジュパンチッチやロレンツォ)は、異なった見解を掲げている。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張 「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。 (ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)
人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身 に対する不十分性 inadequacy にあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、 「純粋に」機能することの不可能性 inability であると。( Alenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value" 2006)
最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoens と Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界 の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa,2005ーー超越論的享楽)

アラン・バディウの l'Un n'est pascompte-pour-un なども(微妙な差異はあるようだが)、この考え方の文脈のなかにある。

対象Xは、…カントが、起源の統覚、あるいは Einheit (単一性 unicity)と呼んだ超越論的主体の機能である。バディウはこれを、多様性 manifold を「一として数えること counting-as-one」と定義した。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege),2014,PDF )

ーーこのようにバディウの捉え方を引用すると、対象aは、ほとんどS1のことを言っているのではないか、と思われる方がいるかもしれない。

(最後の)ラカンは「文字」、あるいは対象 a を、主人のシニフィアン S1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、この S1 は S2 (他の諸シニフィアンの一群)から 隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。 (ヴェルハーゲ、2002ーー欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)

このS1は、ミレールが1996年に(「逆方向の解釈 L'interprétation à l'envers」)、「ひとつきりのシニフィアン Le signifiant tout seul 」と言っているものである。


2016年6月29日水曜日

不気味な親密

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネールⅩⅥーー防衛と異物 Fremdkörper

…………

・こんな「親しい heimilich」場所を私は今まで見たことがない。(ゲーテ)

・「秘密の heimilich」力なき呪縛を解きうるは、ただ洞察の手あるのみ(ノヴァーリス)

・湖の左手に/牧場は森のなかに 「人眼に触れず heimilich」横たわっている(シラー)

ーーフロイトは100例前後はあるだろうこの類の文例を掲げたあと、次のように記している。

以上の長い引用のうちでわれわれにとってももっとも興味深いのは、heimlichという語が、その意味の幾様ものニュアンスのうちに、その反対語 unheimlich と一致する一つのニュアンスを示していることである。すなわち親しいもの、気持のいいもの des Heimliche が、気味の悪いもの、秘密のものdes Unheimliche となることがそれである。(フロイト『不気味なもの』1919)

「故郷の、故郷のような思いをさせる、自宅での、家内での」の意からさらに「人の眼に触れない、人の眼から隠されている」の概念が発生し、多様な関係において展開していった。(グリム辞典)

隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時は、なんでも「不気味なunheimilich」と呼ばれる。(シェリング)

『ツェック』の家の人はみんな heimlichだ」
Heimlich?彼らのいうheimlichとはどんな意味であろうか?
「そうだな……私にはあそこの人たちは、埋められた泉か、それとも干上がった池みたいな気がする。この泉か池に行くたんびに、いつかはもういちど水が出てくるだろう、という気にならずにはいらない」
しかし、われわれならそれをunheimlich(気味が悪い)といいます。ところがあなたはそれをheimlichというんですね。じゃ、いったいあなたはどういう点でこの家族が何か隠されたもの、信頼できないものをもっているとお思いなんですか?(グツコー)

≪不気味なものは実際にはなんら新しいものでもなく、見も知らぬものでもなく、心的生活にとって昔から親しい何ものかであって、ただ抑圧の過程によって疎遠にされたものである。≫(フロイト『不気味なもの』)

ーーここでの「抑圧」という用語は「防衛」ーー場合によっては原抑圧ーーと読みたいところである。

不安の問題についての議論に関連して、私は一つの概念――もっと遠慮していうと一つの術語――をふたたび採用した。この概念は、三十年前に私の研究の初めにもっぱら使用したが(『防衛―神経精神病』1894)、その後はすてておいたものである。私は防衛過程のことをいっているのである。そのうちに私はこの防衛過程という概念のかわりに、抑圧という概念をおきかえたのだが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの防衛という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。(……)

より一般的な「防衛」の傾向を「抑圧」から区別するのが適切である。抑圧は防衛に役立つ一つのメカニズムにすぎない(フロイト『制止、症状、不安』1926)

…………

ところで、heimilich = unheimlich とラカンの外密 Extimitéとどう違うんだろうか?

Extimité(外密)は親密の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。異物(フロイトのFremdkörper)、寄生物のようなものである(ミレール、参照

ラカン自身は、セミネールⅩⅥにて、フロイトのモノ das Ding と 隣人Nebenmenschtとを extimeに関連づけてはいる。

隣人が extime なら、フロイトが「不気味なもの」で関連づけた分身 Doppelgänger とどう違うのだろう?

ネット上を英文で探してみたかぎりでは、これといった指摘は見当たらない。当然すぎるからか?

分身とは、究極的には、「欲望の主体」としての自らのExtimitéである「欲動の主体」のことではないだろうか。≪欲望の主体は、欲動の主体のなかの己自身を認知しない。欲動の主体は、「彼の外部」にある。≫(ヴェルハーゲ、1998ーー享楽に対する防衛)

たとえば、漱石の遺作『明暗』の分身の話はそう読めないでもない。

以下、以前要約した文を掲げておこう(「それ自身の影を纏う」刻限(ジュパンチッチ=ニーチェ)

…………

田は到宿当夜、――翌朝、療養中のかつての女清子に果物籠を届けることになっているーーひと風呂浴びたあと自分の部屋に戻ろうとして、建て増しのために錯綜としている温泉宿の廊下に迷ってしまう。

広い宿は深閑としており部屋の在り処を尋ねる女中も見当たらない。行き当たりばったりに、ふと筋違いの階子段を二、三段あがると、《洗面台の白い金盥が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓の口から流れる山水だか清水だか、絶えずざあざあ落ち》ているのに、眼が、軀が、吸い込まれていく。

《縁を溢れる水晶のような薄い水の幕の綺麗に滑って行く様が鮮やかに眺められた。金盥の中の水は後から押されるのと、上から打たれるのと両方で、静かなうちに微細な震盪を感ずるものの如くに揺れた。》

津田はその水の渦巻に魅入られる。《ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。》大きな鏡があって、「自分の影像」が映る。《これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気が先ず彼の心を襲った。》(『明暗』第百七十五章)――こうやって、彼自身のなかにあって彼以上のもの(対象a)、彼の分身、ドッペルゲンガーに出会う。

…………

ところで、分身についてジジェクは次のように記している。

分身 Doppelgänger との不気味uncanny な遭遇において、我々の眼差しを回避するものは、常に分身の目である。分身は奇妙にも斜めから観察している。我々の目のなかにまっすぐ見詰めることによって、我々の眼差しを返すことはけっしてない。分身がそうした瞬間、我々の生は終わるだろう。

ラカンは指摘している、我々の「現実の経験」の一貫性は、現実から対象a を締め出すことにのみ依拠している、と。我々が正常な「現実へのアクセス」をするためには、何かが締め出されなければならない。「原抑圧」されていなければならない。精神病においては、この締め出しはなされていない。対象(この場合、眼差し、あるいは声)は現実のなかに含まれる。この結果は、我々の「現実の感覚」の崩壊、「現実の喪失」である。

注)この対象が、原初の幻想的対象(ラカンの幻想の式:$‐a を見よ)である限りで、同じ要点を別の言い方で指摘することができる。すなわち、我々の「現実の感覚」は、現実が我々の根本幻想にあまりに近くまで接近したとき、崩壊する、と。

我々は、ここでのパラドックスを逃さないように注意深くなけれなならない。いつ、正確に、「現実の喪失」が起こるのか? 人が思い描くようにではないのだ。「言葉」と「物」を分離する深淵があまりに懸け離れてしまって、「現実」がもはや、我々の象徴的「前-理解」の枠組み、あるいは地平に合致しなくなったせいではない。

そうではなく、反対に、「現実」が「言葉」にあまりもぴったりと合致したとき、我々の言葉の内容が、過剰に「文字通り」の仕方で実現されたとき、「現実の喪失」が起こる。

フロイトの不可思議な反応を思い起こすだけで充分だろう。アクロポリスについて長年の幻想をした後、彼は初めてそこに訪れる。フロイトはひどく驚かされる。青年時代以降、読んできたことが、実際に存在し、書物に叙述されていたのと全く同じ仕方で見ることができるという事実に。彼の最初の反応は「現実の喪失」の圧倒的な感覚だった、ーー「いや、これは本当ではない…」(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

≪我々の「現実の感覚」は、現実が我々の根本幻想にあまりに近くまで接近したとき、崩壊する≫とジジェクは言っているが、長いあいだ「幻想」した女性の性器に最初に遭遇した少年ーーあのときの感覚は、「いや、これは本当ではない…」という「現実の喪失」だったろうか・・・ひどく豊かな腰回りと太腿、そして濃密な陰毛をもった少女だったが、眩暈がしたのはたしかだった・・・





ーーこの荒木経惟の写真はわたくしにはどうもいけない・・・わたくしにはひどく「外密 extime」だ・・・母方の祖父の家の座敷を思い起こすということもある・・・

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって不気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『不気味なもの』)

…………

柄谷行人の「不気味なもの」の捉え方は、最初に読んだときから異和を感じたし、今もそうだ。

ウィトゲンシュタインは私的言語あるいは独我論に対して、社会的な言語の先行性を主張したといわれる。だが、そのようにいうことは、彼の「懐疑」をほとんど無効にしてしまうだろう。彼が否定したのは、「証明」というかたちをとる共同主観性あるいは対話それ自体の独我論性なのだ。私は、ここで、独我論とは、自分一人しかいないという思考ではなく、自分にあてはまることが万人にあてはまるという考えのことであるといおう。なぜなら、後者においては、結局他者は自己の中に内面化されてしまうのだから。同時に、私は、対話とは、規則を共有しない他者との対話、あるいは非対称的な関係にとどまるような対話であると定義したい。そして、他者とはそのような者である、と。といっても、他者は、人類学者がいうような異者(不気味なもの)ではない。フロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」である。つまり、自己投射にほかならない。また、われわれがいう他者は絶対的な他者ではない。それもまた自己投射にすぎない。われわれが考えるのは、むしろありふれた相対的な他者の他者性である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

そもそも、フロイトの「隣人」とは、ここでいうありふれた「相対的な他者の他者性」であろうし、それをラカンは外密という。「不気味なもの」もそうではないだろうか。

むしろ、以下の文で柄谷行人がいう≪物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない≫に近いものとしての、フロイトのdas Ding が「不気味なもの」はないだろうか。

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。

実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。

しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない


ラカン自身、このdas Ding(la chose) は、≪〈物〉 la Choseは、本質的に、〈他の物〉Autre choseである≫(S.7)と言っている。これ自体アンチノミーである。そしてこのla chose(物)がExtimité(外密)である(S.16)。


2016年6月28日火曜日

享楽に対する防衛

この投稿も前回に引き続き「在庫」整理の一環。

…………

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。[ le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.](ラカン、E825)

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

…………

《Trieb(欲動・衝迫)。何かが主体を駆り立てる、己自身が行きたくない場にまで。≫(ヴェルハーゲ、1998)

いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)

ーーもちろん、このプラトンの「欲望」という訳語はここでの文脈では、別の語に置き換えねばならない。

《過去には公開処刑と拷問は、多くの観衆のもとで行われた。…これは、ほとんどの我々のなかには潜在的な拷問者がいるということだ。≫ (ヴェルハーゲ、1998)

……残忍ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆んどすべての彼らの歓びに混入させられているか、他方また、彼らの残忍に対する欲求がいかに天真爛漫に現れているか、「私心なき悪意」(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》)すらもがいかに根本的に人間の正常な性質に属するものと見られーー、従って良心が心から然りと言う! ものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。(……)

死刑や拷問や、時によると《邪教徒焚刑》などを抜きにしては、最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、また意地悪を仕かけたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構いなしにできる相手を抜きにしては、貴族の家事が考えられなかったのは、まだそう古い昔のことではない。(ニーチェ『道徳の系譜』)

《あなたは義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、ひそかかに我々は知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。≫ (『ジジェク自身によるジジェク』)

人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)  

…………

我々のなかには抵抗できない何か起こる。理性と意志を超えた何かが。私のなかにある無思慮の気まぐれ。しかしながら、それは私の意志に反してして私を占領する。…欲動は現れるとき、意識・自己統御は占領されてしまう。…

欲動とは、何か別のものに駆り立てられて、そのなすがままになるということだ。統御不能の得体の知れないどこか別の場所から来るもの。欲動の領野は意識の外部に横たわっている。奇妙なしかし不可避の混淆、攻撃性とエロスの融合。 
いわゆる「非人間的振る舞い」、それはしばしば「動物的振る舞い」と叙述されるが、自然界における動物には決して現れない。それは人間に固有のものだ。…欲動は、主体によって欲望されない「快」の源泉である。…

欲望の主体は、欲動の主体のなかの己自身を認知しない。欲動の主体は、「彼の外部」にある。
誰が、あるいは何がここで快を楽しむのだろう? …自我にとって、この享楽の最初の出現は、不安・己れ自身の消滅の先触れ以外の何ものでもない。私は消滅する。何かに占領される。何の不思議でもない、享楽は自我が欲しないものであることは。代価は自我として存在することを辞めつつあることだ。この不安はエクスタシーへと変容される事実は、支払わなければならない代価を減らしはしない。

この光の下では、欲望は欲動と享楽に対する防衛として見られるべきである。人に快を提供する何かに対する防衛。もっとも、この文脈において「人」という語は全く明瞭ないし、「快」概念もまた奇妙である。(Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ,1998,私訳)

「彼の外部」とあるが、正確には、「彼の外立」であるだろう(おそらくヴェルハーゲは、この一般向けに書かれた書物(八か国語に翻訳されている)では、そこまでの議論は不要としたのだろう)。

ラカン用語の外立ex-sistenceは、ハイデガーの Exsistenz からだが、起源はギリシャ語 έκστασηからであり、エクスタシーという意味(参照:ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz)。

また、ラカンの使用するex-sistenceの意味合いは、Extimité(外密)、あるいはフロイトのFremdkörper(異物)とほぼ同一と捉えうる(参照:防衛と異物 Fremdkörper)。

たとえばジジェクは、Extimité(ex‐timate)という語を次のように使う。これが現代ラカン派の「正規」の使用法だろう(ラカンの文が愉快なので併せて引用しておく)。

享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 ex‐timate」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。《私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために。…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哀れにも流産した哲学のオタクどもThe wretched aborted freaks of philosophy(仏原文 ces misérables avortons de philosophie) 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(Jacques Lacan, seminar of June 8, 1966, in Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse (unpublished).(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

とはいえ、ラカンは数年後、次のように言っていることを付け加えておこう・・・

《私が哲学を攻撃してるだって? そりゃひどく大袈裟だよ!≫(ラカン、Seminar XVII)


2016年6月27日月曜日

防衛と異物 Fremdkörper

引き続き在庫整理。

心的外傷、ないしその想起は、Fremdkörper異物ーーそれは、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』の予備報告、1893年)


◆フロイト『制止、症状、不安』1926より

…………

不安の問題についての議論に関連して、私は一つの概念――もっと遠慮していうと一つの術語――をふたたび採用した。この概念は、三十年前に私の研究の初めにもっぱら使用したが(『防衛―神経精神病』1894)、その後はすてておいたものである。私は防衛過程のことをいっているのである。そのうちに私はこの防衛過程という概念のかわりに、抑圧という概念をおきかえたのだが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの防衛という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。P.370

われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper と比較して、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状が形成されると、好ましからぬ欲動衝拍Triebregung にたいする防衛の闘いは終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動衝拍Triebregungにたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926、旧訳フロイト著作集6 p327-328 からだが、一部訳語などを変更)

症状とは中断された衝動満足の徴候と代償であり、抑圧過程の結果である。抑圧は自我から発する。自我は場合によっては超自我の命令によって、エスから生じた衝動の充当に協力するわけにはいかなくなる。自我は抑圧によって、好ましからぬ衝動の担い手である表象を、意識からとりのぞくことになる。P323


内部にある好ましくなり過程にたいする防衛は、外部の刺激にたいする防衛を手本にして行なわれ、自我は外の危険にたいすると同様の方法で、内の危険を防衛するのだろう……p324


より一般的な「防衛」の傾向を「抑圧」から区別するのが適切である。抑圧は防衛に役立つ一つのメカニズムにすぎないのである。P339


…………

Extimité is not the contrary of intimité. Extimité says that the intime is Other—like a foreign body , a parasite.(Jacques-Alain Miller,Extimity )

※仏原文を見出したので、この前文も含め追記(Extimité)。
Ce terme d’extimité est construit sur celui d’intimité. Ce n’est pas le contraire car l’extime c’est bien l’intime. C’est même le plus intime. Intimus, c’est déjà, en latin, un superlatif . C’est le plus intime, mais ce que dit ce mot, c’est que le plus intime est à l’extérieur. Il est du type, du modèle corps étranger.

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a
対象aの究極の外密ex-timate的特徴……私のなかにあって「エイリアン」…であるもの、まったく文字通り「私のなかにあって私自身以上のもの」、私自身のまさに中心にある「異物 foreign body」…(ジジェクーー「糸巻き」としての対象a

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")


以下の文で、「我々のリアルな有機体は、最も親密な異者 our real organism as the most intimate stranger」とあるのが、フロイトのFremdkörper〔異物)であり、ラカンの Extimité (外密)であるだろう。そして、セミネール23の“un corps qui nous est étranger”という表現の言い換えでもあるはずだ。


享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

…………

※追記

フロイトの「ヒステリー研究」は手元に邦訳がないのだが、そこでの「異物」の記述箇所のひとつを粗訳しておく。


我々はむしろ想定しなければならない。心的トラウマーーより正確に言えば、記憶痕跡ーーは、異物として振舞うことを。それは、侵入後も長く作用を及ぼし続ける代理人と見なされなければならない。(フロイト、ヒステリー研究)

Wir müssen vielmehr behaupten, daß das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß

…………

ラカンの「外密」は、セミネールⅦとセミネールⅩⅥにあらわれるが、たとえば後者の《要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。》で始まる箇所はそれに引き続いて次のようにある。

……en somme, ce qui nous est le plus prochain, tout en nous étant extérieur. Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit. À cette époque, je tirais de textes de FREUD… je n'ai pas le temps de m'étendre sur lesquels …la mise en fonction - sous sa plume - de ce terme que j'ai relevé, d'autant plus saisissant qu'il se distingue de tout ce qu'il a pu énoncer concernant « les choses »… « les choses » sont toujours « Sachen » pour lui …là, il dit « das Ding ».

Je ne vais pas ici reprendre, car là encore je n'ai pas le temps, quel accent j'ai mis sur ce « das Ding ». Tout ce que je peux dire ou rappeler, c'est que FREUD l'introduit par la fonction du Nebenmensch. Cet homme le plus proche, cet homme ambigu de ce qu'on ne sache pas le situer, qu'est-il donc ce « prochain » qui résonne dans les textes évangéliques au nom de la formule : « Aime ton prochain comme toi-même ». Où le saisir ? Où y a-t-il, hors de ce centre de moi-même que je ne puis pas aimer, quelque chose qui me soit plus prochain ?
C'est en tant qu'il est ici une place que nous pouvons désigner du terme conjoignant l'intime à la radicale extériorité, c'est en tant que l'objet(a) est extime et purement dans le rapport instauré de l'institution du sujet comme effet de signifiant, comme par lui-même déterminant dans le champ de l'Autre cette structure dont il nous est facile de voir la parenté, les variations dans ce qui s'organise de toute structure de bord en tant qu'elle a le choix, si l'on peut dire, de se réunir S.16


外密が、フロイトの「物das Ding」、あるいは「隣人Nebenmensch」と関連づけられている、かつ《l'objet(a) est extime》という表現があるのに注目しておこう。




ヒステリー/強迫神経症の特徴

以下、在庫整理。

一人の著作家だけを掲げることは極力しないようにしているのだが、ここではその規則を破る。

以下の抜粋は、必ずしも他のフロイト・ラカン派と同一ではないことを先に断っておく。

◆ヴェルハーゲ、「OBSESSIONAL NEUROSIS」(Paul Verhaeghe、BEYOND GENDER. From subject to drive 、2001、PDFより)ーー、一部、「Paul Verhaegheによるヒステリーと強迫神経症の定義」にもある。

そこにも抜き出されているように、この小論は、次の文で始まっている。

神経症とは何だろう? このシンプルな問いは答えるに難しい。というのは主に、フロイト理論が絶え間なく進化していくからだ。この変貌の主要な理由は、まさに強迫神経症の発見である、そしてそれはフロイトにとって生涯消え去ることのなった欲動をめぐる議論と組み合わさっている。私は、最初から結論を提示しよう。神経症とは、内的な欲動を〈他者〉に帰することによって取り扱う方法である。ヒステリーとは、口唇ファルスとエロス欲動を処置するすべてである。強迫神経症とは、肛門ファルスと死の欲動に執拗に専念することである。

…………

フロイトの最初の理論では、圧迫とそれに引き続く不快は、〈他者〉によって引き起こされる。外部の要因が患者を攻撃する。これがいわゆる誘惑とトラウマ理論であり、その理論では、すべての強調はヒステリーに置かれた。欲動は〈他者〉から来る。フロイトは、90年代の最後までこの考え方から離れていない。しかし、事態はすばやく変わる。幼児性愛の発見は、フロイトに提示することになる、欲動は内部に、自己の有機体のなかにあることを。この発見は、以前の理論を完全にひっくり返した。欲動は内部にある。そしてーーその上に--、欲動衝拍 Triebregung は快として経験される。その不快特性は、後の発達段階にて獲得した何ものかである。

快と不快とのあいだの対立とは、別の対立を隠しているようにみえる。それは、はるかに重要な対立であることがフロイトには分かった。すなわち、〈他者〉に対して能動的であるか、受動的であるかの対立である。

(……)前期フロイト理論において、防衛メカニズムは外部に向けられた。フロイトの新しい理論では、この防衛メカニズムは、主体自身の欲動に差し向けられる。

注)注意しておかなければならない。『ヒステリー研究』1895 の時点で、既にフロイトは、「異物としての身体(Fremdkörper)」概念を使用している。後に、『否定』1925 論文の時点になって始めて、フロイトはこのパラドックスを解決した。その論文にて、彼は、「内部」と「外部」とのあいだの関係性を完全に考え直した。

※参照:防衛と異物 Fremdkörper

(……)古典的フロイト批判のひとつは、フロイトは「すべて」を性化したというものだ。フロイトの『科学的心理草稿』1895 の叙述は忘れられてしまっている。この草稿には、性発達に先行した精神上の機能の起源をめぐる理論が詳述されているのだが。

(……)『科学的心理草稿』における論旨は次の通り。すなわち、人間の発達の出発点は、原初の不快経験、苦痛 (Schmerz)である。それは内的欲求からもたらされる。空腹と渇きがこの状況の典型だ。フロイトはこの苦痛を、圧迫の量的増大として理解した。それは、知覚の保護膜を通した刺激の突破をもたらす。ちょうど、肉体的怪我の場合のように。

言い換えれば、原初の苦痛の条件は、トラウマと比較されている。この不快な条件に対する乳幼児の反応は、典型的なものであり、すべてのそれに引き続く間主体的関係の基礎を構成する。無力(寄る辺なさ Hilflosigkeit)な幼児は、泣き叫ぶことにより、〈他者〉に向かう。この〈他者〉は「特別な行動」を取らなければならない。その行動を通して、内的圧迫は解放される。

この初期状況において、幼児は、余儀なく、他者に向かって受動的-依存的ポジションのなかに陥ることになる。…強調されなければならない。この典型的状況は、原初の内的緊張と他者とのあいだのつながりを引き起こすことを。二つのあいだのつながりとは泣き叫びである。泣き叫びを、より一般的な言い方をすれば、欲動の表現、あるいは欲動の表象である。言い換えれば、原初の身体的欲動は、まさに最初から、間主体的な側面をもつ

フロイトにとって、この状況は、原トラウマ的経験を表す。彼はそれを分離と呼ぶ。そしてその原トラウマ的経験を、大人が幼児の内的圧迫に充分には応答しない経験として理解している。…この不充分性とは、あまりにも過剰か、あまりにも過小かということであり、決してちょうどよいものではないということだ。(……)
(……)ヒステリーにおいては、すべてのアクセントは、快の部分の取り入れ・同一化に置かれる。ヒステリー的主体は、自らが〈他者〉を失うことを許容しえない。強迫神経症においては、すべてのアクセントは、不快部分の吐き出し・分離に置かれる。強迫神経症的主体は、自らが〈他者〉と融合することを許容しえない。

(……)この点において、我々は、ヒステリーと強迫神経症とのあいだの本質的な相違に遭遇する。

ヒステリーの弁証法的交換の場合、母はけっして子どもに充分に与え得ない。さらに、彼女は父のファルスは満足いくものではないことを子供にとてもはっきり分からせる。結果として、子どもは何かをもっと渇望するに至る。ファルスを持っていると想定される誰かに、もっと取り入れ・同一化することを決してやめない。が、別のメカニズムが働く。欲動自体における内的な相克、つまり、他者から分離に向かう傾向と、能動的ポジションに向かう傾向である。

強迫神経症の場合、母は子どもに過剰な存在として現れる。与えることと求めることの両面において。父は、不満足なものとして明示される。結果として、子どもはこの母の息苦しい子育て (s)mothering から逃れようとする。なによりもまず、貪り食う母から独立した分離ポジションを取ろうと試みる。すべての強調は、吐き出しと分離の過程に置かれる。が、ふたたび、ヒステリーの場合と同様に、別のメカニズムは働く。つまり、欲動自体の内的相克、融合と同一化に向かう傾向と、受動的ポジションに向かう傾向である。

これは、典型的な受動的セクシャルファンタジーを説明する。それは、どの強迫神経症者によっても秘かに心に抱かれているものだ。

このように、ヒステリー的な母は充分に与えない。強迫神経症的な母は過剰に与える。ヒステリー的な子どもは、〈他者〉からけっして充分に受けとらない。この帰結として、絶えまず要求する主体となる。〈他者〉によって受け入れられたいという主体だ。

強迫神経症的な子どもは、あまりにも過剰に受けとる。この帰結として、拒絶・拒否する主体となる。〈他者〉から可能なかぎり逃れたい主体だ。(私訳)


2016年6月25日土曜日

母性愛というコルク栓

…女は性関係において母としてのみ機能している。それは全体的に言って真実 vérités massives である。しかし我々はもっと先に導かれてゆく。(…)女の享楽 la jouissance de la femme は、非全体の穴埋め une suppléance de ce « pas-toute » を基礎としている。彼女は、非全体であるという事実を基礎にして、この享楽にとってのコルク栓 le bouchon を見出す。言い換えれば、子供によって構成された対象a のなかで ce (a) que sera son enfant、何処かにある 彼女自身から彼女を不在にする、主体として不在にする。(ラカン、 セミネールⅩⅩ、アンコール)

さて、ラカンは何を言っているのだろうか・・・

ここでは、わたくしの趣味からすれば、子供としてのコルク栓のみがまず印象的ではあるが。




これがラカンのいうコルク栓だとすれば、このストッパーの役目をするのが子供ということになる。とはいえ穴を塞いでも、母の享楽はときに噴出してしまうではないか・・・

ラカンは後年こうも言っている。

欠如の欠如が現実界を作る。それはただそこに、コルク栓としてのみ顕われる。このコルク栓は、不可能という語によって支えられる。我々が現実界について知る僅かなことが示すのは、全ての本当らしさへのそのアンチノミーである。(私訳)

Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible, dont le peu que nous savons en matière de réel, montre l'antinomie à toute vraisemblance.( Lacan17 mai 1976 AE.573)

これもひどく難解な文である・・・

とはいえ、二つの文から解釈されうるのは、母性愛とは、「本当らしさの見せかけ」としてのシャンパン栓の程度のものである、ということではないか。

…………

理性的には、もちろん、わたしたちはみんなが子供をもつ必要はないし、みんなが子供をほしくないというのは知っているわ。子供がいない生活はまったく妥当でありうるし、楽しいのかもしれない。でもわたしたちの多くは、子どもをもっていない女性をかわいそうに感じたり、見下していたり、わかってあげようとしていないんじゃないかしら? わたしたちは決めてかかっていない? 彼女たちは深い失望感を勇敢にもやりすごしているだけだって。こんなふうに思っていない? 彼女たちは、現状のままではしあわせじゃないかもしれないって。彼女たちの心の底には、なにか脆さや虚ろなものがあるんじゃないかって。これがフランスのフェミニスト、エリザベート バダンテールの議論で、わたくしもたぶん正しいと思うわ。

タブーは強くて、あからさまだわ。わたしたちが子供なしについてどんなふうに感じているのかについてね。もっとはっきりと言ってしまえば、タブーがなにを示唆しているのか、より鋭利に、より巧妙な形で言えば、なにか憐れみに近いものがあるんじゃないかしら。まるで子供のない女性はなんだか落ち着くことができず、まるで彼女たちは傷ついたり、さもなければ挫折している、と。とくに子供がいない女性が、わたしたちのクリシェの語り口にぴったりするときだわ。犬か猫、犬と猫、たくさんの犬と猫なんてね。ふうつの解釈では、彼女たちは淋しいってことね、他人と違ったことをしているというんじゃないわ。

わたしたちはもちろん子供のないようなほかの女性をそうなふうに判断なんかしていないと思い込んでいる。でも実際はいつも判断しているのよ。……
( Katie Roiphe、Do We Secretly Envy the Childfree? Or is childlessness still a taboo?、2012)

エリザベート バダンテールElisabeth Badinterという名が出てくる。Katie Roipheが言っている議論については無知だが、バダンテールははやくから次のようなことを指摘したフェミニストである。

いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする》(エリザベート・バダンテール『母性という神話(L'Amour en Plus)』(1980)訳者鈴木晶「あとがき」)

さて冒頭のラカンに戻ろう。

…いわゆる「去勢されていない」全能の貪り喰う母、すなわちリアルな母について、ラカンは注意を促している、《不満足な母というだけではなく、またあらゆる権力をもつ母。そして、ラカンの母のこの形象のおどろおどろしい側面は、彼女はあらゆる権力をもつのと同時に不満足であるということだ》(ミレール “Phallus and Perversion”2009)

ここにはパラドックスがある。母が「全能」として現れれば現れるほど、彼女は不満足(その意味は、欠如している)なのだ。《ラカンの母は「誰かを食い尽くそうと探し廻っているquaerens quem devoret」に相当する。そしてラカンは彼女を鰐として提示する。口をあんぐり開けた主体として》(ミレール“The Logic of the Cure,” 2009)

この貪り喰う母は(愛の徴を求める子どもの要求に)応答しない。そしてそれ自体、全能として現れる。《母は応答しない…それゆえ彼女はリアルな母に変容する。すなわち、権力へと…。もし大他者が応答しなければ、彼は貪り喰う権力と化すのと同様に》(ミレール、同上)

これらすべてから得られる教訓は、驚くべきことにフェミニストの教えである。すなわち、母であることは、女の実現の運命、あるいは道ではない。そうではなく、二次的代替にすぎない。母であることは、女を「所有する者」にする。彼女の欠如を煙に巻く。しかし母の背後には、常にメドゥーサがいる。

これは常に可能性の審級にある。そして母が模範的であろうとも、子どもは代替物にすぎない。人はここに現れている問いを背負わなければならない点に至る。すなわち、母性とは女性の実現の唯一の道、あるいは特権化された道なのだろうか、と。《ラカンははっきりと母性はその道ではないという考えを持っていた。母性は女の隠喩的部分である。私は考えている。精神分析の倫理は、実際にはこの理想を課しえない。それは代替の側面にあるものであり、フロイト自身にとってもそうだ。》(ミレール、同上)

「良い」母は、子供-フェティッシュを以って彼女の欠如を埋める。「悪い」母は、おどろおどろしくもぞっとする形象を以って欠如を埋める。…(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

子供とはフェティッシュなのである。たんなる穴塞ぎであり、蚊居肢とかわらない。すなわち男が女の内股を刺す蚊に魅せられるフェティッシュと。おわかりだろうか?

おわかりでない方々のためにこう引用しておくことにする。

スカートの内またねらふ藪蚊哉(永井荷風)

秋の蚊に踊子の脚たくましき(吉岡実)

みんなは盗み見るんだ
たしかに母は陽を浴びつつ
 大睾丸を召しかかえている
……
ぼくは家中をよたよたとぶ
大蚊[ががんぼ]をひそかに好む(吉岡実「薬玉」)


ところでボール・ヴェルハーゲは冒頭のラカン文に次のようなコメントをしている。

ラカンにとって、男たち、女たち、そして子供たちはシニフィアン以外の何ものでもない。これらの事において前言説的な現実性は何もない。女が他者性にかかわる何かがある限りで、それは女の主体性を超えたところに横たわっている。したがって、それについて何かを言う彼女の能力の彼方にある。

女性の享楽についてのポストラカニアンの「大騒ぎ hype」は、その特性上、掴み戻しえないものを掴み戻そうとするヒステリックな試みにすぎない。ラカンは、女たちにおける「他の享楽=女性の享楽」の発生について、たった一度だけ、はっきりとした言述を提示している。もっともほとんど何気なくだが。この言述にて、ラカンは暗黙に、他のところで言った見解をふたたび取り上げている。他の享楽が、再生産を通した死と組み合わさった生にかかわる影響へのコメントである。

この他の享楽が女たちに現れるかぎりで、それは彼女たちの子どもにかかわる。《彼女はこの享楽にとってのコルク栓を見出す(…)子どもによって構成された対象a のなかに》(S.20)。私の意見では、次のことの明瞭な示唆である。すなわち女性の倒錯を再考しなければならず、そして母性愛の神話の彼方を考慮しなければならないことの。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER. From subject to drive,2001)

※ここに出てくる「他の享楽=女性の享楽」については、「ラカンの身体概念の移行」を見よ。

さて、ヴェルハーゲの文にも≪女性の倒錯を再考しなければならず、そして母性愛の神話の彼方を考慮しなければならない≫とある。ミレールは子供-フェティッシュという。倒錯とはまずフェティッシュにかかわるとすれば、これはほとんど同じ問いである。

標準的には倒錯は男性のものだとされてきた。

ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。 (ミレール「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」:参照

だが後期ラカンでは、女性の倒錯を再考しなければならない、ということになる。

いずれにせよ、母性愛とは神話なのである。最近はコルク栓どころか、シャンパン瓶に近似したものにより子供の代替の穴塞ぎとして多用される時代でもあるのだから、なおさら当然である。









とはいえ、わたくしはこの手のコルク栓にはもはやあまり興味はない。むしろつぎのほうが品があり自然である。それはおそらく齢を重ねて発泡酒よりも穀物の純粋なエキスを好むようになったことにかかわるのだろう・・・





「若い方、――素朴なもの! 神聖なもの! 結構、あなたは私のいうことがおわかりです。一瓶のブドウ酒、湯気の立つ卵料理、穀物の純粋なエキス、――私たちはこれをまず初めに生かし、味わいましょう、それを十分に汲みつくし、十二分に味わい、それから初めてーー。だんぜん、あなた。決着。私はさまざまな人間を知ってきました、男と女を、コカイン常用者、ハシーシ常用者、モルヒネ中毒者をーー。結構、あなた! 完全! かれらの好きなように! 私たちは裁くなかれです。しかし、それらに閃光させるべきもの、素朴なもの、偉大なもの、神の直接の賜ものにたいして、その人々はすべてーー。決着、あなた。有罪。唾棄。かれらはみんなそれをおろそかにしました! あなたはなんというお名前であっても、若い方、――結構、私はお名前を存じていましたが、そのをまた忘れてしまいました、――コカインそのもお、阿片そのもの、悪習そのものがいけないのではないのです。ゆるすべからざる罪、それはーー」(トーマス・マン『魔の山』ーーペーペルコルンとその飲み仲間たち





ーー《「わめきなさい、わめきなさい、マダム!」と彼はいった。「きいきいと生気にあふれたひびきが、喉のずっと奥からーー》(同、トーマスマン)


ところで、皆さんご存知だろうか、打たれないとイケない女性がいるのを。

――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいないと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。 (Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”


最初は興味深くても、度重なるとひどく重労働であることをご存じだろうか・・・

…笑い話の一つに、サディストとマゾヒストが遭遇する自体が語られているのだ。マゾヒストが、「いためつけてくれ」という。するとサディストが、「ごめんこうむる」というものである。およそ笑い話といわれているもののうちで、この話はことのほか愚かしい。たんにそんな事態が起こりえないという理由からばかりでなく、そこには倒錯的世界を評価するにあたっての間がぬけた気取りが充ち充ちているからである。そんな事態が起こりえないからだという理由も、やはり理由としては根拠があろう。真のサディストは、マゾヒストの犠牲者を断じてうけつけないであろう(僧侶たちの犠牲に給された一人が『美徳の不幸』の中でいっている。「あの人たちは、自分が罪を犯せば必ず涙が流されねばならぬと確信したがっています。自分から進んであの人たちの犠牲になろうとするような女は、はねつけてしまうに違いありません」)。だが、マゾヒストとて真のサディストの拷問者をうけつけたりはしまい。たしかに、マゾヒストには女の拷問者に一定の性質がそなわっていなければならぬという。だがその「性質」を、マゾヒストは調教し、訓育し、内奥に深く隠されたおのれに企てに従って説得しなければならず、まだその企ては、サディストの女性との遭遇によって、ことごとく失敗に帰してしまうにちがいないものなのだ。ワンダ・ザッヒェル=マゾッホは、自分の女友達の一人であるサディストに夫がほとんど食指を動かさなかった事実におどろいているが、それはワンダが考え違いをしているというものだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)



2016年6月24日金曜日

ブレヒトからR・Bへの非難、あるいはS・Sへの非難

R・Bはいつも政治を《限定し》たがっているように見える。彼は知らないのだろうか? ブレヒトがわざわざ彼のために書いてくれたと思われる考えかたを。

「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)

彼の場所(彼にとっての《環境》)、それは言語活動である。その場所で、彼は選び取ったり、拒絶したりするのだ。彼の身体にとって何かが《可能で》あったり、《不可能で》あったりするのも、その場所においてである。彼の言語生活を政治的言述のいけにえに捧げるべきなのか? 彼は喜んで政治的《主体》になってもいいと思う。が、政治的《話し手》はご免だ(《話し手》とは、自分の弁説をよどみなく繰り出し、述べ立て、同時にそれが彼の言述であることを告示し、それに署名しておく人間のことだ。)そして、自分の《反復される》一般的な言述から政治の現実をはがし取ることが彼にはどうしてもできないから、けっきょく政治性から彼は排除されているのだ。しかし彼は、少なくとも、排除されているという事実を、自分が書くものの《政治的》意味につくり変えることができる。さながら彼は、ある矛盾現象を体現する歴史的な証人であるとでもいうかのように。それは、《敏感で、貪欲で、沈黙した》政治的主体(これらの修飾語群を分離させてはいけない)、という矛盾現象である。

政治的な言述ばかりが、反復され、一般化し、疲弊するわけではない。どこかに言述の突然変異がひとつ生じると、たちまちそこに、いわば公認ラテン語訳聖書が成立し、そのあとに、動きを失った文がぞろぞろお供について、うんざりさせる行列ができるものときまっている。その現象は珍しくもないが、それが政治的言述に現れたとき、とりわけ彼にとって許しがたいものと思われるのだ。なぜかというと、政治的言述における反復は、《もうたくさんだ》という感じを与えるからである。政治的な言述は、自分こそ現実に対する根本的な知識あるは科学であるという主張を押しつけるので、私たちのほうでは、幻想のあやかしによって、その政治的言述に最終的な権力を認めてしまう。それは、言語活動をつや消しに見せ、すべての討論をその実質の残滓に還元してしまうという権力である。そうだとすれば、政治的なものまでがことばづかいという地位に割りこみ、“おしゃべり”に変身するのを、どうしても歎かずに黙認しておけるだろうか?

(政治的な言述が反復におちいらずにすむ、いくつかのまれな条件がある。すなわち、第一は、政治的言述がみずから言述性のひとつの新しい方式を打ち立てる場合である。マルクスがそうであった。さもなければ、第二はもっと控えめな場合で、著述者が、ことばづかいというものについて単に《知的理解》さえもっているなら―――みずからの生む効果についての知識によって―――厳密でありながら同時に自由な政治的テクストを生み出せばいい。そういうテクストは、すでに言われていることをあらためて発明し変容させるかのように働き、自身の美的な特異性のしるしについて責任をもつことになる。それが、『政治・社会論集』におけるブレヒトの場合である。さらに第三の場合を考えてみるなら、それは政治的なものが、暗い、ほとんど信じられぬほどの深みにおいて、言語活動の材質そのものに武装をほどこし変形させてしまうときである。それが“テクスト”、たとえば“法”のテクストである。)


日本語によるツイッター上には、ブレヒトの非難に美的に応える唯一の実践者がいる。

日本糞尿垂れ流し会議。桜井のばばあは歯抜医者に行け! 口が臭い。神道だって? ほんとに戦死した日本兵が靖国で神になったと思ってるのか? 日本のことなど彼らはきれいさっぱり忘れたか、悪霊になったかだ。断じて神ではない! 神になれるのかな。人間様が?ギリシア悲劇かブランキを読めばいい(鈴木創士2016年06月02日)
安倍川糞餅はほっぺがたれているので砂にまぶしてどた靴で踏んづけヘドロのドブに捨ててやる方がいいのです。安倍川糞餅の寄生虫どもは元糞尿青年であれ元お子様であれ架空のぼんくらの惨めな成れの果てなのですから割れた金隠しの下に蛆虫と一緒に暮らす方がいいのです、とおじいさんが言いました。(2015年07月31日)
その日、日本の中心には一つ空虚がありました。そこは穴があいたように沼になっていて、元々はその水を飲むと馬鹿になると伝えられるドブ池でした。みんなが唾を吐き、ゴミを投げ込み、鼻汁やいろんな汚らしいものが流れ込んでいました。うんこも浮いています。安倍晋三や櫻井よしこが泳いでいました。(2015年08月09日)

《私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた≫(加藤周一)ーーという状況が極まっているときに、本能にうながされた「誠実な詩人」の唯一の政治への抵抗の仕方である、と言っておこう。

未知の表徴(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。

だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。

しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ。ただ、口実は断じて芸術のなかにはいらないし、意図は芸術にかぞえられない、いかなるときも芸術家はおのれの本能に耳を傾けるべきであって、そのことが、芸術をもっとも現実的なもの、人生のもっとも厳粛な学校、そしてもっとも正しい最後の審判たらしめるのだ。そのような書物こそ、すべての書物のなかで、判読するのにもっとも骨の折れる書物である、と同時にまた、現実がわれわれにうながした唯一の書物であり、現実そのものによってわれわれのなかに「印刷=印象アンプレッション」された唯一の書物である。

人生がわれわれのなかに残した思想が何に関するものであろうとも、その思想の具体的形象、すなわちその思想がわれわれのなかに生んだ印象の痕跡は、なんといってもその思想がふくむ真理の必然性を保証するしるしである。単なる理知のみのよって形づくられる思想は、論理的な真実、可能な真実しかもたない、そのような思想の選択は任意にやれる。われわれの文字で跡づけられるのではなくて、象形的な文字であらわされた書物、それこそがわれわれの唯一の書物である。

といっても、われわれが形成する諸般の思想が、論理的に正しくない、というのではなくて、それらが真実であるかどうかをわれわれは知らない、というのだ。印象だけが、たとえその印象の材料がどんなにみすぼらしくても、またその印象の痕跡がどんなにとらえにくくても、真実の基準となるのであって、そのために、印象こそは、精神によって把握される価値をもつ唯一のものなのだ、ということはまた、印象からそうした真実をひきだす力が精神にあるとすれば、印象こそ、そうした精神を一段と大きな完成にみちびき、それに純粋のよろこびをあたえうる唯一のものなのである。

作家にとっての印象は、科学者にとっての実験のようなものだ、ただし、つぎのような相違はある、すなわち、科学者にあっては理知のはたらきが先立ち、作家にあってはそれがあとにくる。われわれが個人の努力で判読し、あきらかにする必要のなかったもの、われわれよりも以前にあきらかであったものは、われわれのやるべきことではない。われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所から、われわれがひっぱりだすものしかないのだ。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳ーー「今日、社会問題が、私の思想を占めているのは、創造の魔神が退いたからである」)

2016年6月23日木曜日

あなたは物の数にはいる何人かの作家を指摘できるか

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

真に偉大な哲学者でなくてもよい。真に偉大だとあなたが考える作家がいるとする。彼は、現在の世界をどう見るのか。世界でなくてもよい。現在の日本をどう見るのか。

こう問うたとき、そんな偉大な作家は、〈私〉にはいないと困惑する場合もあるだろう。このわたくしも実は途惑ってしまう。ニーチェの顔を思い浮かべはする。だが他に誰かいるだろうか、と。ようするにまともに書物を読んでこなかったせいである。

この問いに応じる作家としては、プルーストもロラン・バルトも物足りない。フロイトもだめだし、詩人たちにも無理だ。わたくしには、ニーチェしかいない。マルクスがいないのは残念だ。

ジジェクにとっては、ヘーゲルであり、マルクスであり、ラカンなのだろう。

ところで、〈あなた〉には誰かこの偉大な作家がいるか? もしいないなら、できるだけ若いうちに探し求めるべきではないだろうか。

君たちはたった一人だけでもヨーロッパにとって物の数にはいる精神を指摘することができるか? 君たちのゲーテ、君たちのヘーゲル、君たちのハインリヒ・ハイネ、君たちのショーペンハウアーが物の数にはいったように? ーーただ一人のドイツの哲学者ももはやいないということ、これは、いくら驚いてもきりのないことである。ーー(ニーチェ「ドイツ人に欠けているもの」)

こう問われて、〈あなた〉は物の数にはいる作家を何人か指摘できたら幸せである。もちろんそれは日本の作家でもいい。

もっともこの問いに次のように応じる方法もある。

そしてもし私が、ヘーゲルも、『クレーヴの奥方』も、レヴィ=ストロースの『猫』論も、『アンチ・オイディプス』も読んでいなかったとしたら?―――私が読まなかった本、しかも私がそれを読む時間を見つける以前にしばしば《私に向かって語られていた》本(それこそ、おそらくは私がそれを読まない理由なのだ)、そういう本もまた、読まれた本と同じ資格において存在している。それなりの知的理解可能性、それなりの記憶可能性、それなりの活動様式をそなえている。私たちに、あるテクストを《いっさい文字の外で》受信するだけの自由がないと言えるのか。

(抑制。ヘーゲルを読まなかったとなれば、それは途方もない失点だろう、哲学の教授資格をもつ人やマルクス主義の知識人やバタイユを専攻している人にとっては。しかし私だったら? わたしの必読義務はどこから始まるのか?)

エクリチュールの実践に身を置く人は、あまり嫌がらずに、自分の思考の感度や管轄を縮小したり逸脱させたりすることを受け容れる(次のようなせりふを言う際によくもちいられる口調を辞すべきではないというわけだ、たとえば《それが私にとって何だというのです?》とか、《私が肝心な点を押さえていないとでもいうのですか?》とか)。エクリチュールの中には、ある種の惰性、ある種の精神的《安易さ》のもたらす快楽があるのかもしれない、私はしゃべるときよりも書くときのほうが自分の愚かしさに対していっそう平気でいられる、とでもいった感じなのだ(教師たちは作家たちより何倍も知的らしくはないか)。 (『彼自身によるロラン・バルト』)

この「エクリチュールの実践に身を置く人」が、真の作家である、ということはありえる。だが真の作家には依拠する作家がなくてよいと言えるのか?ーーまさか!

誰かがしゃべっているのを私は聴いて
その人が上手にしゃべれば、──私は書く。
時折私は彼を繰り返ししゃべらせたり、遮ったりする……
しかしここには誰もいないのだ──
とすると存在している者(というのは〈彼〉はしゃべっているのだから)
と、非‐存在者(というのは私には聴き手しか見えてないのだから)とのこの結び付き、
それは〈私〉ということになる。(ヴァレリー『カイエ』1924 年)

蓮實重彦が《私は小説作品として(「探究」シリーズを)読んでいる。彼(柄谷行人)は『探究Ⅱ』を、デカルトとスピノザと3人で書いている。しかも、ワープロを使って》と言ったのはヴァレリーのパクリである。

いやブランショ経由のヴァレリーかもしれない。

書くこと、それは語り止むことのできないもののこだまに、己を化することであり、──そして、そのために、書くことがこだまとなるためには、私は何らかの方法でこの語り止まないものに沈黙を課さねばならない。私はこの絶え間ない発話に私固有の沈黙が持つ決定権、権能を据え付ける。自らの沈黙の媒介を通じて、私はこの途切れることのない発言、この巨大なるつぶやきを感知可能なものにする…(モーリス・ブランショ『文学空間』)

ヴァレリーの誰かは、ダ・ヴィンチであったり、デカルトであったり、マラルメであったりした。ニーチェでもあった。《私はニーチェが言っていることを気にかけない。ニーチェが考えねばならぬことに関心がある》(ヴァレリー『ニーチェ手稿』)

だがここでの問いは、「われわれのいる現状がその作家の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか」である。この問いは政治的・社会的な臭いがする。その問いに応じる作家がいなくてもよいものだろうか。

私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」あとがき 1979)
けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)

現在の日本が致命的なのは、10年後、20年後に今より良くなっているとはほとんど誰もが想像しえないことではないか。引き返せない長い下り坂が1995年前後から続き、さらに今後も長い下り坂を転げ落ちてゆくのが避けられないと観念しているせいではないか。なにやらが土足で踏み込んでくる足音がきこえくる。途中には財政破綻などの崖もありそうで、自分だけはなんとかその崖から落ちないようにと念じている・・・

もっともあなたがたの多くは、ひどく「文化的」であり、その下り坂や崖に気づかないふりをし、起きていることがあたかも起きていないように行動し続けているのだろう・・・

ところで、ロラン・バルトのなかにニーチェが最もたくさんいるのは、『テクストの快楽』と 『彼自身によるロラン・バルト』 だろうが(最晩年、母の死後にプルーストに変わった)、わたくしは、たとえば下のように書くジジェクのなかに、ラカンだけでなくニーチェがいるとの錯覚に閉じこもっている。

……いくつかの公文書や回想録によると、1970年代半ば、チトー(ユーゴスラヴィアの大統領)は、チトーの側近たちはユーゴスラヴィアの経済が壊滅的であることを知っていた。しかし、チトーに死期が迫っていたため、側近たちはかたらって危険の勃発をチトーの死後まで先延ばしにすることに決めた。その結果、チトーの晩年には外国からの借款が休息に膨れ上がり、ユーゴスラヴィアは、ヒッチコックの『サイコ』に出てくる裕福な銀行家の言葉を借りれば、金の力で不幸を遠ざけていた。1980年にチトーが死ぬと、ついに破滅的な経済危機が勃発し、生活水準は40パーセントも下落し、民族間の緊張が高まり、そして民族間紛争がとうとう国を滅ぼした。適切に危機に対処すべきタイミングを逃したせいだ。ユーゴスラヴィアにとって命取りとなったのは、指導者に何も知らせず、幸せなまま死なせようという側近たちの決断だったといってもいい。

これこそが究極の「文化」ではなかろうか。文化の基本的規則のひとつは、いつ、いかにして、知らない(気づかない)ふりをし、起きたことがあたかも起きなかったかのように行動し続けるべきかを知ることである。私のそばにいる人がたまたま不愉快な騒音を立てたとき、私がとるべき正しい対応は無視することであって、「わざとやったんじゃないってことはわかっているから、心配しなくていいよ、全然大したことじゃないんだから」などと言って慰めることではない。……(文化が科学に敵対するのはこの理由による。科学は知への容赦ない欲動に支えられているが、文化とは知らない/気づいていないふりをすることである)。

この意味で、見かけに対する極端な感受性をもつ日本人こそが、ラカンのいう〈大文字の他者〉の国民である。日本人は、他のどの国民よりも、仮面のほうが仮面の下の現実よりも多くの真理を含むことをよく知っている。(ジジェク『ラカンはこう読め』「日本語版への序文」)

現在の日本は、「トムとジェリー」の、《猫が、前方に断崖があるのも知らず、必死にネズミを追いかけている。ところが、足元の大地が消え去った後もなお、猫は落下せずにネズミを追いかけ続ける》状況であると、〈あなた〉は疑ったことはないか?

たとえばニュートンの有名なリンゴは重力の法則を知っていたから落ちたのだ、などという言い方は馬鹿げているとしか思われない。しかしながら、仮にそうした言い方がただの無内容な洒落だったとしても、われわれは、そうした発想がどうしてこれほど頻繁にコミックスやアニメの中に登場するのか、という疑問をもたねばならない。

猫が、前方に断崖があるのも知らず、必死にネズミを追いかけている。ところが、足元の大地が消え去った後もなお、猫は落下せずにネズミを追いかけ続ける。猫が下を見て、自分が空中に浮かんでいることを見た瞬間、猫は落ちる。まるで<現実界>が一瞬、どの法則に従うべきかを忘れたかのようだ。猫が下を見た瞬間、<現実界>はその法則を「思い出し」、それにしたがって行動する。

こうした場面が繰り返し作られるのは、それらがある種の初歩的な幻想のシナリオに支えられているからにちがいない。この推量をさらに一歩すすめるならば、フロイトが『夢判断』の中で挙げている、自分が死んだことを知らない父親という有名な夢の例にも、これと同じパラドックスが見出される。アニメの猫が、自分の足の下に大地がないことを知らないがゆえに走り続けるのと同じように、その父親は、自分が死んだことを知らないがゆえに今なお生きているのである。

三つ目の例を挙げよう。それはエルバ島におけるナポレオンだ。歴史的には彼はすでに死んでいた(すなわち彼の出る幕は閉じ、彼の役割は終わっていた)が、自分の死に気づいていないことによって彼はまだ生きていた(まだ歴史の舞台から下りていなかった)。だからこそ彼はワーテルローで再び敗北し、「二度死ぬ」はめになったのである。ある種の国家あるいはイデオロギー装置に関して、われわれはしばしばそれと同じような感じを抱く。すなわち、それらは明らかに時代錯誤的であるのに、そのことを知らないためにしぶとく生き残る。誰かが、この不愉快な事実をそれらに思い出させるという無礼な義務を引き受けなくてはならないのだ。(ジジェク『 斜めから見る』)


2016年6月22日水曜日

娼婦と「もらい湯」

……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。

そして私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)

…………

隠れた人生(デカルト)と神=女(ラカン)」にて、ジャコメッティの写真を貼り付けたこともあり、「アルベルト・ジャコメッティの視線(3) 外部性」という文を読んでみた。

いやあ、いい話だな。
ジャコメッティの「真価」についてはリンク元を読んでもらうことにして、
ここでは、≪我々の認識を実質的には少しも深めはしない
生活上の消息について、相当な好奇心を抱≫いてみよう。

ジャコメッティは食事はカフェでとり、入浴は知り合いの娼婦のところで「もらい湯」をするという非生活者として生きた。



ああ、なんという男前だろう

彼はほほえむ。すると、彼の顔の皺くちゃの皮膚の全体が笑い始める。妙な具合に。もちろん眼が笑うのだが、額も笑うのである(彼の容姿の全体が、彼のアトリエの灰色をしている)。おそらく共感によってだろう、彼は埃の色になったのだ。彼の歯が笑う――並びの悪い、これもやはり灰色の歯――その間を、風が通り抜ける。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)




わたくしは、少年時代、加藤周一 → 森有正 → 矢内原伊作という流れで、ジャコメッティを知ったのだが、そして東京で学生生活を送るなか、八重洲のブリジストン美術館の彼の作品をなんとか「盗む」方法はないかと思案したのだが・・・、まあそれはこの際どうでもよろしい。

私はこんな奇妙な印象を受ける、つまり彼がそこにいると、それに触れなくとも、すでに完成された古い彫像たちは、変質し変貌する、なぜなら彼は彫像たちの姉妹のひとりにいま取りかかっているからだ。しかも一階にあるこのアトリエはいまにも崩れ落ちようとしている。アトリエは虫食いだらけの木で、灰色の埃でできており、彫像は石膏製で、綱、麻屑、あるいは針金の切れ端が見えている、画布は灰色に塗られ、それが画材屋にあった頃にもっていたあの落ち着きをとっくの昔に失ってしまった、すべては染みだらけで、廃品同然だ、すべては不安定で、いまにも崩れ落ちそうだ、すべては分解に向かっていて、浮遊している。ところで、そんなすべてのものが、ある絶対的実在性のなかでつかみ取られたかのようなのだ。私がアトリエを後にして、表の通りに出ると、私を取り巻くものはもはやなにひとつ真実ではない。こう言うべきだろうか。このアトリエで、ひとりの男がゆっくりと死んでゆき、燃え尽きる、そしてわれわれの眼前で、幾人かの女神たちに姿を変えるのだ。(ジャン・ジュネ)





ああ、史上最高の色男!

私はモリエール女子高等中学校で教えていた。……私たちはキャフェ・ドームを根城にしていた。(……)

サルトルやオルガとしゃべっている時には、私は出たり入ったりする人を眺めるのが大好きだった。(……)とりわけ私たちの興味をそそり、何者だろうと思った男がいた。ごつごつした美しい顔に、髪はぼさぼさ、貪るようなまなざしの男で、彼は毎夜、ひとりきり、または非常に美しいひとりの女性と連れだって、通りを徘徊していた。彼は岩のように強固な、同時に妖精よりも自由な様子をしていた。あんまりすばらし過ぎる。私たちは外見に騙されてはならないことを知っていたし、彼の風貌はあまりにも魅力に溢れていて、見かけ倒しではないかと思いたくなるほどだったのである。彼はスイス人で彫刻家、その名はジャコメッティといった。(ボーヴォワール『女ざかり』ーー「ジャコメッティとジャン・ジュネ(ボーヴォワール自伝より)」)




やはり世紀の色男は娼婦が最高だとおっしゃっているようだ・・・

ところで、「すべての女は娼婦である」と吉行淳之介が言っていたが、こちらの娼婦はやや異なった意味である。

ラカン=ジョン・リヴィエールJoan Rivièreの「仮装としての女性性Womanliness as a Masquerade」とは、「女はすべて娼婦である」こと以外の何ものでもない。ラカンの言葉自体は、「ひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない」を見ていただくことにして、ここではその簡潔な要約のみをエリザベス・ライトから引用しておこう。

どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、≪女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである(ジジェク)≫。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』)

もし、この言明の消息を「理論的に」知りたければ、 「古い悪党フロイトの女性論」に、フロイト、ラカン、ヴェルハーゲ、ジジェクの見解がまとめてある。 「女性の仮装性」とは構造的な問題であり、それを一部の人間が媚態とか娼婦とか呼んでいるだけであり、なにやら貶めているわけでは微塵もない。

たとえば、次のような文は女性の仮装性の説明のヴァリエーションである。

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(”Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe,1998,私訳)

たとえば日本におけるミニスカの氾濫とは、この女性の仮装性の顕現のひとつにすぎない(参照:ミニスカ症候群と集団ヒステリー)。

次のジジェクの文も上のヴェルハーゲの説明の変奏である。

……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(…)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

より詳しくは、「男は私のなかになにを見ているのかしら?」を見よ。

いずれにせよ、我々は見ることを学ばなければならないーー。

人は見ることを学ばなければならない、人は考えることを学ばなければならない、人は語ることと書くことを学ばなければならない。これら三者のすべてのおける目標は一つの高貴な文化である。――見ることを学ぶとはーー眼に、落ち着きの、忍耐の、対象をしてわが身に近づかしめることの習慣をつけることであり、判断を保留し、個々の場合をあらゆる側面から検討して包括することを学ぶことである。これが精神性への第一の予備訓練である。すなわち、刺激にただちに反応することはなく、阻み、きまりをつける本能を手に入れることである。私が解するような見ることを学ぶとは、ほとんど、非哲学的な言い方で強い意志と名づけられているものにほかならない。その本質的な点は、まさしく、「意欲」しないこと、決断を中止しうることである。すべての非精神性は、すべての凡俗性は、刺激に抵抗することの無能力にもとづく、――だから人は反応せざるをえず、人はあらゆる衝動に従うのである。(ニーチェ「ドイツ人に欠けているもの」『偶像の黄昏』所収)

で、なんの話であったか、ーーああ女たちよ!

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

ジャコメッティはじつは女だったのではなかろうか・・・

性別化とは生物学的な性とは関係がない(……)。ラカンが男性の構造と女性の構造と呼んだものは、人の生物学的器官とは関係がない。むしろ人が獲得しうる享楽の種類と関係がある。(ブルース・フィンク,Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink,2004ーーS(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme)

わたくしの愛する芸術家や詩人たちはすべて女なのではないだろうか




…………

ここで最後になぜかバルテュスのアリスを貼り付けておこう。

ーー人々の妄想の鏡のなかですでにアリスの靴や靴下そして下着まで濡れているんだ(吉岡実「人工花園」 )




「ただ この子の花弁がもうちょっとまくれ上がってたりら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

ーーいや、わたくしはこの程度で充分すぎるくらいだ・・・

ユジャ・ワン (王羽佳)の↓これではややものたりないが、

◆Yuja Wang plays Chopin op 66 Fantasie impromptu




これなら↓充分すぎるくらい堪能できる・・・

◆Yuja Wang Bizet/Horowitz Carmen Variations (encore from Carnegie Hall)




ああ、現代の稀にみるアリス!

彼女のコンサートは、曲目よりもどんな衣装かを告知したほうがいいんじゃないか

いくらわたくしの好みのガーショインでも↓この衣装では悦びが十分の一程度になってしまう。

◆George Gershwin Piano Concerto in F major Wang Yuja - HD





Marcus Robertsと小澤征爾の名演にはかないっこないんだから、衣装で勝負しなくちゃな、アリスちゃん!

◆Gershwin PIANO CONCERTO in FA Marcus Roberts Trio, Ozawa, Berliner Phil






2016年6月21日火曜日

結婚の真理

今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出『時のしずく』所収ーー「二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障」)

≪家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがち≫とある。結婚したカップルも経済単位である。困難な時代にはなおさらである。日本は困難な時代に入りつつあるのではないか。

ところで、ニーチェは間違っていたのではないだろうか、≪結婚の基礎は「恋愛」にあるのではなく、 ――その基礎は、性欲に、所有欲に(所有者としての妻や子供)、支配欲にある≫などとは。

カントによる結婚の定義も同じく。結婚とは≪性の異なる二人の成人が互いの性器の使用に関して取り交わす契約≫。

彼ら二人とも独身で生涯すごすことによって、結婚に極端な偏見と怨恨(とひょっとして過剰な憧憬)をもっていたに相違ない・・・

時代や階級的背景があるにしても、まだ日本の論者の指摘のほうがすくなくとも大衆社会における結婚の真理に近い。すなわち、《「結婚」とは、もてない男を孤独から救う制度である。逆に言えば、自分で多くの友人や恋人を獲得する能力がある「もてる男」ならば、「結婚」などする必要がない》(小谷野敦(『もてない男』)とか、タガメ女論、結婚とは《男性を”搾取”するシステム》等々。

もちろんここで上野千鶴子女史のマルクス起源だと思われるもする言葉を引用してもよい、 《結婚は合法的売春である》と。だが、これもどこかピントがはずれている。

結婚が経済単位であるのは思慮外におき、なおかつ性に焦点を絞れば、ラカン派的観点が結婚の真実である。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)

ニーチェさん、あなたにも穴があるのだ。

私はときどき考えているのだが、ニーチェの長患い(頭痛やら眼のトラブル)は、若く才能のあるインテリたちの間で観察してきた病気と同じケースじゃないか、と。私はこれらの若者たちが朽ち果てていくのを見てきた。そしてただひたすら痛々しく悟ったのは、この症状はマスターベーションの結果だということだ。(ワーグナー、 April 4, 1878ーー「オナニスト」ニーチェ

ーー私は少しばかり窓を開けたい。空気を! もっと空気を!(ニーチェ『ヴァーグナーの場合』)

次の文は窓を開けないまま書いたに違いない。それともアリアドネにふられた恨みが残りつづけていたのだろうか・・・≪賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。≫(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』)。

賢くあれ、ニーチェ! あなたは「内耳」(Labyrinth)=「迷路」(Labyrinth)を彷徨ったのだ・・・

…… 今日のために生き、きわめて迅速に生き、 ――きわめて無責任に生きるということ、このことこを「自由」と名づけられているものにほかならない。制度を制度たらしめるものは、軽蔑され、憎悪され、拒絶される。すなわち、人は、「権威」という言葉が聞こえるだけでも、おのれが新しい奴隷状態の危険のうちにあると信じるのである。

それほどまでにデカタンスは、私たちの政治家の、私たちの政党の価値本能のうちで進行している。だから、解体させるものを、終末を早めるものを、彼らはよしとして本能的に選びとる・・・その証拠は近代的結婚。近代的結婚のうちからは明白にあらゆる理性が失われてしまっている。しかしこれは結婚に対して異論をとなえるものではなく、近代性に対してである。

結婚の理性 ――それは男性だけが法律的責任を負うことにあった。このことで結婚は重力をもっていたのに、今日では結婚は両脚でびっこをひいている。結婚の理性 ――それは原理的に離縁できないことにあった。このことで結婚は、感情、激情、瞬間の偶然に対して、心に聞くことを心得ている一つのアクセントをえていた。同じくそれは配偶者の選択に対して家族が責任を負うことにあった。

人はますます寛大となって、恋愛結婚に有利なように、まさしく結婚の基礎を、結婚をしてはじめて一つの制度たらしめるものを除去してしまった。人は制度というものを或る特異体質のうえに建てることは絶対にない。

すでに言ったごとく、結婚の基礎は「恋愛」にあるのではなく、 ――その基礎は、性欲に、所有欲に(所有者としての妻や子供)、支配欲にあるのであって、この支配欲が、家族という最小の支配形態をたえず組織化し、権力、感化、富の達成された量を生理学的にも固持するために、長い課題を、何百年かのあいだの本能の連帯性を準備するために、子供と後継者とを必要とするのである。

制度としての結婚は、最大の、最も持続性のある組織形式の肯定をすでにそれ自身のうちにふくんでいる。だから、社会自身が全体として最も遠い世代の先までおのれを保証することができないなら、結婚は総じて意味をもたない。―― 近代的結婚はその意味を喪失した、 ――したがってそれは廃止されるのである。 ――(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」三十九 )


いや、わたくしはあなたを敬愛し続けている。ただし女と性欲は、あなたでさえ誤りへと誘惑する相当なものなのだ・・・

私の誤りは、(……)少なくとも不名誉にはなっていない! そうした見当ちがいをするということは、相当のことであり、ほかならぬ私をこのように誤りへと誘惑するということも、やはり相当のことである。(ニーチェ「「ヴァーグナーの場合」のための最初の覚え書き」)

それもやむえない、なぜなら、女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている![la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant !] [ Rires ](ラカン、セミネール18)ーーから。

あなたも言っているではないか。

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』序文)

女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口をやってしまったのではないだろうか・・・


もちろんここでの記述は、 [ Rires(笑) ]をベースにしていることを断っておかないと、ネットというのは厄介なことになりかねないーー。




2016年6月20日月曜日

隠れた人生(デカルト)と神=女(ラカン)

以下、「他者に愛されたいという欲望(承認欲望)」から引き続く。

…………

《自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚びである》(ラ・ロシュフーコー)

ーー自分には決して承認欲望はないと知らせることは、すでに一種の承認欲望である。

…………

私は、自分から進んでものを書いたことがほとんどない。私は探求ほどには執筆に魅力を感じない。学術論文も含めて、私の書いた散文はほとんどすべて依頼原稿から成り立っている。詩の翻訳の一部だけが例外といえば例外である。しかし、現代ギリシャ詩の訳も最初は私家版で出したものであった。私に書き下しを求めた編集者は少ないとはいえないが、今日まで私はほんとうの書き下しを一冊も書いていない。 (中井久夫「編集から始めた私」『時のしずく』所収)
私は高校二年の時、「隠れた人生が最高の人生である」というデカルトの言葉にたいへん共感した。私を共鳴させたものは何であったろうか。私は権力欲や支配欲を、自分の精神を危険に導く誘惑者だとみなしていた。ある時、友人が私を「無欲な人か途方もない大欲の人だ」と評したことが記憶に残っている。私はひっそりした片隅の生活を求めながら、私の知識欲がそれを破壊するだろうという予感を持っていた。その予感には不吉なものがあった。私は自分の頭が私をひきずる力を感じながら、それに抵抗した。それにはかねての私の自己嫌悪が役立った。 (同上)

 「隠れた人生が最高の人生である」という言葉に共感する中井久夫が、なぜ「無欲な人か途方もない大欲の人だ」と評されたのだろうか。

「隠れた人生」とは、他者と極力交わらず、我が道を独り歩むということだろう。前回、ラカンの「人間の欲望は他者の欲望」、あるいはヘーゲルの「他者に承認されたい欲望」に触れたが、「隠れた人生」願望は、そこから逃れようとすることだろう。それは「無欲」につながる、とまずはいえる。

だがそんなことはありうるのだろうか。友人が「途方もない大欲の人」だと言ったのは、そんなことはありえそうもないよ、という感慨からの言葉なのではないか。

ここでは、中井久夫が「隠れた人生が最高の人生だ」と友人に漏らしたという前提で話をすすめる(実際のことろは上の文章からは不明だが)。そしていささか飛躍がありはしないかということを恐れるが、それは「承認欲望」の拒絶宣言とわたくしはとる。

ヴァレリーはまずはーーあるいはすくなくともある時期はーー、デカルトの人であっただろうし(『方法序説』の美しい序文を書いている)、中井久夫はヴァレリーの人である。

彼が独占的にヴァレリーであったことは一度もないのだ。彼はヴァレリー‐マラルメであったし、ヴァレリー‐ダヴィンチであったし、ヴァレリー‐ワグナーであったし、ヴァレリー‐デカルトであった。彼はヴァレリー‐テストでさえあった。彼はこれらの人物たちのいずれかの権威の下に自分の身を位置付けてきた。時に応じ必要に応じて、同一化するならばこちらの人物よりもあちらの人物にした方が多少は適当であるという判断に応じて、彼はそうしてきたのである。(Denis Bertholet, Paul Valéry 1871-1945, 1995)
フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。 (中井久夫「ヴァレリーと私」(書き下ろし)『日時計の影』2008)

ーーヴァレリー先生、あなたならどう考えますか、隠れた人生について。

《われわれは自分の考えをあまりに他人の考えのかたちに照らし合せて評価しすぎるということだ!》

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

だが中井久夫はこうも指摘している、《大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)≫ (中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」)

この「弱さ」とは何か。まず職業としての詩人・作家に誘惑されてしまった(生活のために)という含意があるはずだ。

ところで、ヴァレリーは後年つぎのようにも言っている。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)

ーーこの文への中井久夫のコメントは、≪訳者によれば、この手段は「言語」であるそうだが、ヴァレリーがそう考えていたにせよ、それは言語に限ったことではないと考えてもよさそうである。私は、このアフォリズムを広く解して「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」というふうにした。≫(「ヴァレリーのカイエと中井久夫」)とある。

「言語」も、そしてここで中井久夫がいう「他者」も、「欲望は他者の欲望」(ヘーゲル=ラカン)の他者であるとしてよいだろう。

このように、人は「他者」が必要なのである。それがどんな他者かは、各人違いはあるだろうが。

欲望とは、常に-既に「欲望の欲望/欲望への欲望」である。すなわち「大他者の欲望」のすべてのヴァリエーションは次の通り。

・私は私の他者が欲望するものを欲望する。
・私は私の他者によって欲望されたい。
・私の欲望は、大他者ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
・私の欲望は、リアルな他の物 autre chose の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

デカルトの他者はまずは「神」であっただろう。

われわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものはすべて真であるということすらも、神があり現存するということ、神が完全な存在者であること、および、われわれのうちにあるすべては神に由来しているということ、のゆえにのみ、確実なのである。(デカルト『方法序説』)

デカルトの時代には、神という他者があった。

(グールドは)演奏家、作曲家、聴衆が分れていない黄金時代を夢みた。

グレゴリア聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(ミシェル・シュネデール、グールド『孤独のアリア』)

とすれば、「神」がないわれわれの、まずは第一に頼るべき他者はなんだろうか。

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ、 サントーム)

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».

とはいえ、〈女〉とは実際のところは何か? 信頼に値する異性の友人だろうか。

創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて)

それともアノ女だろうか。

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)


さて、ここではラカンも「女狂い」だったという噂話にはしらんぷりして(「じいさん」の覗き趣味)ーーだが、神のいない現在、われわれは、実のところ、ラカンや荷風やらのように覗き見によって「漂流(出現ー消滅)する女たち」を神のかわりにすべきではないだろうか・・・





ーーいやいや、「正統的」?ラカン派観点からいえば、神とはS1(主人のシニフィアン)であり、女は対象aである。

不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1 ではなく対象 a である。((ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012ーー難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン))

ラカンには、《女は男のサントームである [Une femme est pour tout homme un sinthome]》(S.23)という言明もあるが、このサントームも結局対象aにかかわる(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。

そして、女たちにとっても〈女〉は他者である。《他の性 l'Autre sexe は、男たちにとっても女たちにとっても〈女〉La Femme である》(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasmーー「女性嫌悪のメカニズム」)。

とすれば、女は、究極的には、男のサントームだけではなく、人間のサントームである。サントームとは身体の出来事、母による最初の侵入の徴(原刻印)、享楽の原子等々である。

(格調高く始まったはずのこの記事が、女狂いや覗き趣味の話をかすかに掲げただけで、いささか地に堕ちつつあるので、このあたりで飛躍を厭わず軌道修正しなくてはならぬ・・・)

ここでなぜか、プルーストの「洗濯屋の二人の小娘」の話を挿入することにする。

アンドレを見つめているうちに、これまで何度も想像しようと努力してきてやっとかいま見たと思った、あのアルベルチーヌの快楽、それのあらわれを、こんどはべつのときに、目によってではなく耳によって、とらえたと思ったことがあった。私はアルベルチーヌがよく行ったというある地区の洗濯屋の二人の小娘を、ある売春宿にこさせたのであった。その一人に愛撫されたもう一人の小娘が突然何やら口にしはじめたとき、それがなんのことか、最初私にはよくききわけられなかった、なぜなら、人は自分の経験していない感覚が発する独自な一くせある音声の意味を、けっして正確につかむものではないからである。隣室にいて人が何も見ずにきくとき、麻酔で眠らせられずに手術を受ける患者が放つ苦痛の声を、人はばか笑とまちがえることがある。また、子供がたったいま死んだときかされる母親の口から出てくる声についても、われわれが事情を知らなければ、そこに人間的な解釈を適用することが困難なのは、獣とか竪琴とかからきこえてくる音の場合とおなじである。上に挙げた患者と母親との二つの声があらわしているのは、われわれ自身がそれまでに知ることのできた、しかしこの場合とはちがった感覚との類推によって、われわれが苦しみと呼んでいるものである、ということを理解するには、いささか時間の余裕を必要とするのである。したがって、くだんの小娘の口から出た音声があらわしていたのは、私自身がそれまでに知っていてこの場合とはちがっていた感覚との同様の類推によって、私が快楽と呼んだものである、ということを理解するには、私にとってもやはり時間の余裕を必要としたのであった。しかも、その快楽は、よほど強烈なものであったにちがいなく、それを感じている女を極度にふるえわななかせ、口からは未知の言葉をしきりに吐きださせていた。その未知の言葉は、この小さな女が身をもって演じている快い劇の全局面をはっきりコメントしているように思われるが、その劇を私の目からかくしているのは、当の女以外の者にたいして永久におろされた幕で、その見えない舞台はそれぞれの女の内密の神秘のなかに経過してゆくのである。(プルースト「逃げさる女」井上究一郎訳)

ーー「肝心のとこがもう一つけけん。そやけどよく唸りはる女や」(野坂昭如『エロ事師たち』)


………こうして、コレット・ソレールの言明、「欲望は剰余享楽の換喩である」をめぐって思考することが可能になる。剰余享楽とはもちろん対象aのことであり、上にジジェク文を引用したように、≪私の欲望は、リアルな他の物 autre chose の深淵によって支えられている≫とされるときのautre choseでもある。

ところで、ラカンの名高い「昇華」 la sublimation の定義に、《物の尊厳への対象の昇化[l'objet, ici, est élevé à la dignité de la Chose]》(S.Ⅶ)という定式がある。

だがこの≪〈物〉 la Choseは、本質的に、〈他の物〉Autre choseである≫(S.Ⅶ)、すなわち剰余享楽、あるいは対象aである。

だが対象aとは具体的にいえばいったいなんなのか。

もしロレンツォ・キエーザの次の五種類の定義に依拠するなら、そのどれなのか(参照:対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa))。

①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの

最も根源的な対象aとは、③である。そしてȺ とは原トラウマ、そしてそのȺ のシニフィアンS(Ⱥ)が、≪書かれぬことをやめぬ[ce qui ne cesse de ne pas s'écrire]≫(Lacan, S.XX)ものであり、サントーム、あるいは斜線を引かれた女 Lⱥ Femmeの主要なの意味のひとつである(参照:S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme)。

上の対象aの定義④≪母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望≫もS(Ⱥ)と捉えうる(参照:ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる)。

「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我S(Ⱥ) は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望とは、父の名によって隠喩化され、支配さえされする以前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーー参照
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話されている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語のなかで、話すことを学ぶ。この言語へに没入によって形成され、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。(Geneviève Morel、2009,私訳) 

この母なる超自我、あるいは母の法が、われわれの神であり、Lⱥ Femmeである。晩年のラカンの≪〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だ≫はこのように読まなければならない。そしてこれがリアルな「他者」である、≪私の欲望は、リアルな他の物 autre chose の深淵によって支えられている≫(ジジェク、2012)。

このようにみてくると〈他の物〉Autre chose の真の核心は、他の性 Autre sexe なのではないか。

ここで中井久夫に戻れば、氏は遠慮してこう言っているが実のところ分かっているに相違ない、《私にはやはり、ジ・アザー・セックス、ジェンダーは謎のままにして置きたいですね》(「「身体の多重性」をめぐる対談ーー鷲田清一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

もちろんこの女 Lⱥ Femmeは、原トラウマ(のシニフィアン)のことでもあり、すなわち原初の傷・原刻印である。

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)




原トラウマとは、母によって徴付けられる。

ラカン的観点からは、我々はこう言うことができる、乳幼児を世話するとき、〈他者〉としての母(m)Otherは、子どもの身体に彼女の享楽を徴づけると。言い換えれば、初期の幼児の世話の経験ーーアタッチメント理論や発達研究などであんなにも焦点を当てられいるーーは、ラカン派の用語でも、まさに同じく、〈他者〉の欲望の経験である。

ラカンが適切に言ったように「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」。母は「誘惑する女seductress」だというフロイトの仮定は、このレンズを通して眺めると意義深い。

この心理的な他者の表現-能印expressionは、幼児にとって印象-受印impressionとなる。他者の反応を通して、子どもは、身体のリアルにおいて何を経験しているかということに、メンタルな接近を獲得し得る。それと同時に、他者を通して、身体のリアルを取り扱う最初の方法を学ぶのだ。

快あるいは不快の時、親は「どうやって取り扱うか」というメッセージを鏡像化mirroringして伝える。ラカンをパラフレーズするなら、我々はこう言うことができる、〈他者〉の言説なのは無意識だけではない、実に意識も同様なのだ、と。この場なのである、我々のアイデンティティの基礎を見出すのは。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009 私訳ーー享楽の「侵入」

この享楽の徴が、書かれぬことをやめぬもの“ce qui ne cesse de ne pas s'écrire”(Lacan, Séminaire XX Encore)である。そしてそれは上にGeneviève Morelを引用したように≪これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる≫。

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
享楽はシニフィアン組織への入口である。というのは、一つの特徴 unary trait が刻印されて享楽の徴として反復されるからだ。反復の目標は、それ自体享楽であり(享楽の侵入としての刻印の反復)、かつまたこの享楽に反対するものである(一つの特徴 unary trait とシニフィアンはつねに喪失を意味する)。それゆえ、どの反復も反復しよとする未満のものである。 (Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006 私訳ーー二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe))

すなわち、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶としての最初のトラウマである。これが、 身体の出来事=サントーム《un événement de corps = sinthome》 (Lacan,JOYCE LE SYMPTOME,AE.569,1975) の核心の意味である・・・

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収ーーある臨界線以上の強度のトラウマ

(さて、ここに記された文は、どこまでマジなのだろうか・・・その判断は〈あなた〉にお任せする)



2016年6月19日日曜日

他者に愛されたいという欲望(承認欲望)

欲望とは、常に-既に「欲望の欲望/欲望への欲望」である。すなわち「大他者の欲望」のすべてのヴァリエーションは次の通り。

・私は私の他者が欲望するものを欲望する。
・私は私の他者によって欲望されたい。
・私の欲望は、大他者ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
・私の欲望は、リアルな他の物 autre chose の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

…………

たとえば、ニーチェが次のように書くとき、ニーチェの欲望は大他者の欲望だろうか。

この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないであろう。それは、私のツァラトゥストラを理解する人たちであるかもしれない。今日すでに聞く耳をもっている者どもと、どうした私がおのれを取りちがえるはずがあろうか? ――やっと明後日が私のものである。父亡きのちに産みおとされる者もいく人かはいる。

人が私を理解し、しかも必然性をもって理解する諸条件、――私はそれを知りすぎるほどしっている。人は、私の真剣さに、私の激情にだけでも耐えるために、精神的な事柄において冷酷なまでに正直でなければならない。人は、山頂で生活することに、――政治や民族的我欲の憐れむべき当今の饒舌を、おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない。人は無関心となってしまっていなければならない、はたして真理は有用であるのか、はたして真理は誰かに宿業となるのかとけっして問うてはならない・・・今日誰ひとりとしてそれへの気力をもちあわせていない問いに対する強さからの偏愛、禁ぜられたものへの気力、迷路へと予定されている運命。七つの孤独からの或る体験。新しい音楽を聞きわくる新しい耳、最遠方をも見うる新しい眼。これまで沈黙しつづけてきた真理に対する一つの新しい良心。そして大規模な経済への意志、すなわち、この意志の力を、この意志の感激を手もとに保有しておくということ・・・おのれに対する畏敬、おのれへの愛、おのれへの絶対的自由・・・

いざよし! このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわありがあろうか? ――残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。――人は人類を、力によって、魂の高さによって、凌駕していなければならない、――軽蔑によって・・・(ニーチェ「反キリスト」序言 原佑訳)

ここではこの文を文字通り読むだけにするが、それでもたちまち、たとえば「ごく少数の人たち」「私の予定されている読者」という表現があるように、ごく少数の人たちに欲望されたいという欲望、もしその少数の人がその当時ひとりもいなくても、未来の大他者の欲望ーー未来の大他者に承認されたい欲望ーーが記されている。

さらにまた次の文を読んでみよう。

自己認識と行動にかかわる固有の劇場性。どんな行動あるいは動機も直接には自分自身ではなく、その行動や動機に対する他者の反応の光の下で判断されなければならない。すなわち、彼が彼自身を理解するのは、彼がその行動のなかで纏っている仮面の光のなかで己れの振舞いを絶え間ず観察することによってである。(Allen Speight, Hegel, Literature and the Problem of Agency,2001)
ラカンが「大他者」と呼ぶものは、社会的規則と外観の代理人である。それは、我々のなす全てのことに劇場性の最低限の様相を授ける。すなわち、我々がいかに情熱的に行動しようと、我々の欲望はつねに大他者の欲望である。それは大他者(可能なる欲望にとっての台本を提供する象徴的織物)によって仲介されている。我々は直接には我々自身ではない。我々は自分自身の役割を演じている。我々は我々であることの虚構を模倣している。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

ニーチェの文章にはこの劇場性・仮面性がふんだんにある。上の文もそうだが、最晩年の『この人を見よ』などでは、実にふんだんにフモールあふれるニーチェの劇場的側面が表現されている(参照:この「私」に何の価値があるのでしょう?)。

いまはその話に深入りしないが、ジジェクの説明にあるように、この仮面性も大他者の欲望であり、かつまた承認欲望の変奏である。承認欲望とは、「他者に欲望されたいという欲望」、あるいは「他者に愛されたいという欲望」と言い換えることができる。

初期ラカンが,「欲望は承認欲望 désir de reconnaissance」、あるいは「承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir.E.151」といったのは、よく知られているようにコジューヴ経由のヘーゲルからだった。

欲望は剰余享楽の換喩である」等で記したのは、この承認欲望から逃れる欲望がある、あるいはそういう観点があるということだけであり、古典的ラカンの「欲望は大他者の欲望」、あるいは「欲望は承認欲望」ということが捨てさられたわけではけっしてない。

われわれのやっていることのほとんどは承認欲望である。どんな他者に欲望されたいのかの相違があるだけだ(想像的他者、象徴的他者…)。そして他者とは、実は〈他〉l'Autre であり、生身の人物でなくてもよい。神、イデオロギー、理念等も他者である。

日本では「承認欲求」という用語で、批判的に語られることが多い承認欲だが、ナイーヴに批判するのは馬鹿げている。もっともそれを「意識的承認欲望」(さらにイマジネールな)と言い換えれば、大人げない振舞いだとする観点もあろうが、さて、はたして誰が「無意識的承認欲望」から免れているというのか。

もし承認欲を批判するなら、想像的他者ーー「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちーーへの承認欲求に(おおむね)焦点を当てなければならない。

ラカンの思考においての決定的な「かなめ」は、人びとは、オリジナルな、あるいは固有のアイデンティティを持っていない、ということだ。逆に、ラカンにとって、アイデンティティの臍は、内なる欠如あるいは空虚によって構成されている。人間の主体性は、 manque à être(存在欠如)によって、根本的に徴づけられているとラカンは言う(LA DIRECTION DE LA CURE ,1958)。これが意味するのは、非同一的かつ掴みえない(ラカン用語では「現実界」の)「欠如」が、人びと自身の持っているすべての表象をかき乱すということであり、結果として「分裂(分割)された」アイデンティティをもたらす。

一方で、我々の存在の核に、この捻じ曲がりを生む空虚がある。その空虚は、すべて身体的な欲動にかかわる。他方で、我々は自己表象をもっている。それはラカンが「象徴秩序」と呼ぶものを基盤にしている(象徴秩序とは、すべての典型的な文化生産物から成り立っている。言語、慣習、社会構造などだ)。その「象徴秩序」を基盤とした表象は、「manque à être(存在欠如)」を決して充分には掴み取ったり覆ったりしえない。

ラカンは言う、「manque à être(存在欠如)」は実際は「want to be (ありたい)」として機能する、と。

言い換えれば、内部の欠如は、主体の欲望を駆り立ててdrives、補完物を求めるよう促す。人間は、典型的には、他者のほうに向くことによって、この欠如に打ち勝とうと目指す。人は、他者に呼びかけ、それによって暗黙に想定するのだ、他者への弁証法的関係において、存在の贈物が達成されうると。「欲望は…「ありたい want-to-be」に光をもたらす。〈他者〉からの補完物を受け取るための呼びかけとともに」(Lacan, 1958)。

この考え方の内部では、承認されたいという欲望は最も根本的になものである。というのは、その承認欲望は、より大きな主体性達成を獲得するための手段として機能するから。間主体(間主観)的な承認が言い表しているのは、他者の欲望が主体のところにやって来て、主体を他者と結びつけ、そうして主体を社会関係の構造に組み入れるということである。他者の承認は、主体のアイデンティティ欠如を、部分的に埋め合わせる。この社会関係の手段によって、主体は少なくとも、他者との関係のなかで、私は誰なのかという思いを展開しうる。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR A Qualitative Study From a Lacanian Perspective(Stijn Vanheule,  Paul Verhaeghe、2005)より(PDF,私訳)。

※この文は、ここでの文脈から離れて言えば、「身体の欲動」が肝要なのだが、ーーたとえば前回引用したコレット・ソレールの《ラカンは最初には「存在欠如(le manque-à-être)」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない≫にかかわってーー、いまはその話に入らないまま、《承認されたいという欲望は最も根本的になもの≫にのみ注目しておこう。

…………

ところで、ラカンの観点からは、ヒステリーの言説とは、欲望の言説である。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な発話関係というよりは、発話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」ーー「シェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説)」)

そして、話す主体がすべてヒステリー的であるならば、発話行為そのものが承認欲望にかかわる。

パラノイア的主体とみえないでもないラカンは、最晩年、こう言っている。

私は完全なヒステリーだよ、症状のないヒステリーだな…[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Le séminaire ⅩⅩⅣ)

…………

以下、ロレンツォ・キエーザ、2007から引用するが、大他者とか〈他者〉、あるいは大文字の他者と訳されることの多い l'Autre をすべて「他者」とした。

ラカンが、根本幻想のなかの他者の欲望といったとき、それはいまだ承認への欲望である。承認欲望を追放したとするのは間違っている。(……)

ラカンが、「欲望は、欠如としての他者の欲望の欲望である」と言ったとき、この同じ欲望が同時にまた、根本幻想における「無意識の承認欲望」であることを必ずしも排除しない。すなわち、幻想の複合的特性ーーそこでは逆説的に、欠如が表象されるーーのせいで、無意識の欲望は、欠如への欲望であると同時に、この欠如を縫合 suture する欲望でもあるから。

欠如が幻想のなかで縫合される限り、欠如としての他者の欲望としての主体の欲望は、(幻想化された)承認欲望ーーつまり「他者に欲望されたいという欲望」、よりよく言えば、「他者に愛されたいという欲望」ーーのままである。主体の根本幻想は欠如を縫合する、$(分割された主体)が同時に(主体の幻想のなかで)他者の欲望の対象a である限りで。

要約しよう。幻想のレヴェルにおいて、主体の欲望は他者の欲望であり、逆に、他者の欲望は主体の欲望である。したがって (1)主体の欲望は他者の欲望の対象a である。より重要なのは、 (2)主体の欲望は究極的に他者の欲望の対象a になる欲望である。

対照的に、純粋欲望は、他者のなかーー無意識の承認の幻想的ヴェールの彼方に横たわる他者のリアルな他者性のなかーーで「欲望するもの(le désirant) 」を欲望する。

これらすべては、次のように言うことで再形式化されうる。すなわち、欠如としての他者の欲望への欲望としての「主体の他者の欲望」は、「欲望を再生産する欲望」としての「他者への欲望」以外の何ものでもない。すなわち、人は、幻想の式 $ ◊ a(ここでの a は、「飼い馴らされた」欠如としての他者の欲望を表す)における欲望を再生産し続ける限りにおいてのみ、欠如としての他者の欲望を欲望し続けることができる。

幻想の彼方にある「生の欠如」として考えられる他者の欲望に遭遇しようとするどんな直接的試みも、不安を解き放つ。我々が見てきたように、これは逆説的に欲望の終りをもたらす。 (ロレンツォ・キエーザ 『主体性と他者性』Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007)

一般的にはこのように言われてきた。

「生の欠如」とは「穴」のことである(参照:欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ))。

この穴に遭遇するとき、原不安に襲われる。そしてロレンツォの言うように欲望の解消があり、欲望は欲動に移行する、と。

ラカン自身もすくなくともある時期まではそう言っている。

その作用において精神分析主体を支えてきた欲望が解消されてしまうと、彼は最後にはもはや欲望の選択、すなわち欲望の残余を格上げしたいとは望まなくなる。この残余とは、彼の分割を決定づけているものであり、彼の幻想を失墜させ、主体である彼の地位を解任する。(Lacan , Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'Ecole. Autres écrits)
「主体の解任」は、欲望から欲動へと領域を変える。欲望は、歴史的-ヒステリー的であり、主体化されている。常に、そして定義上、不満足なもの、換喩的 metonymical であり、ひとつの対象から別の対象へと移行する。というのは、私は実際には、私が欲するものを欲望していないからだ。

私が実際に欲望するのは、欲望自体を持続させるため、その満足のおぞましい瞬間を延期するためである。他方、欲動は、ある種の緩慢な満足を含んでいる。それは常にその道を見出す。欲動は、非-主体化的である(無頭的 acephal)。(ジジェク、From desire to drive、1996ーー主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten
対象a との主体の関係の位置づけ後、根本幻想の経験は欲動になる。après ce repérage du sujet par rapport au (a), cette expérience du fantasme fondamental devient la pulsion(S.11)

ほかにも、セミネール14には、désêtre 非在、désirpas 不欲望、dés-espoir 欲亡等の新造語も出現するが、これらはすべて欲望の袋小路 impassé du désir にかかわる。

というわけで、このとき「欲望は〈他者〉の欲望ではない」にて引用したコレット・ソレールの《私たちは、欲望/享楽の二項対立をお終いにしなければなりません≫という言明をどうやって処理したらいいのかは、わたくしには曖昧なままである。

…象徴的ファルスの機 能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こる。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとした。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり…享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本 質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになる。(ジャック=アラン・ミレール「セミネールDonc」1994年)

ミレールは、2011年のセミネールでも、同様に「欲望のデフレune déflation du désir」を語り、《承認から原因へと移行したとき、ラカンはまた精神分析の適用の要点を、欲望から享楽へと移行した》と言っている。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller )



2016年6月18日土曜日

欲望は剰余享楽の換喩である

前回、コレット・ソレールColette Soler、2013から次の文を拾った。

・精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、欲望は〈他者〉の欲望ではない。

・欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩である。

これは、巷間に流布する旧来のラカン派の「常識」を覆そうとする文である。

そもそもラカン自身がある時期まで、「欲望は大他者の欲望である」と何度も繰り返している。

・ Le désir de l'homme, c'est le désir de l'Autre »(セミネールⅩⅠ)

・le désir inconscient est le désir de l'Autre. ≫(LA DIRECTION DE LA CURE ,E.632)  

「欲望は存在欠如の換喩」についても同じく。

le désir est la métonymie du manque â être, E.640

ところで、ジャック=アラン・ミレールが次のように言っているのも前回みた。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller

Pierre-Gilles Guéguen もーー彼はミレール派なので当然かもしれないがーー次のように言っている。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen「21世紀における話す身体とその欲動 LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF)

このPierre-Gilles Guéguenの直近の論文の表題にある「話す身体」が核心(のひとつ)だろう。

…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。(ヴェルハーゲ、2001(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaegheーー話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant


ところで、これも前回、コレット・ソレールが次のように言っているのをみた。

ラカンは最初には「存在欠如(le manque-à-être)」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)

すなわち、彼女の言明、「欲望は剰余享楽の換喩」とは、「欲望は享楽欠如の換喩」と言い換えることができる。

では、享楽の欠如とはなにか?

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
享楽はシニフィアン組織への入口である。というのは、一つの特徴 unary trait が刻印されて享楽の徴として反復されるからだ。反復の目標は、それ自体享楽であり(享楽の侵入としての刻印の反復)、かつまたこの享楽に反対するものである(一つの特徴 unary trait とシニフィアンはつねに喪失を意味する)。それゆえ、どの反復も反復しよとする未満のものである。 (Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006 私訳ーー二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe))

では、そもそも享楽とはどこから来るのか?

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳ーー「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」より)

…………

※付記

ラカン派によるドゥルーズ読解の出発点は、情け容赦ない直接的な読み替えである。すなわち、ドゥル ーズ&ガタリが「欲望機械(machines désirantes)」について語るとき、我々はその用語を欲動に置き換えるべきだ。

ラカンの欲動ーーそれは、エディプスの三角形とその禁圧的な法/その法への侵犯の弁証法に先んじる匿名/無頭的で不滅な「身体なき器官」の反復への執拗さであり、ドゥルーズが前エディプスのノマド的な「欲望機械」として境界を引こうとしたものと完全に一致する。実際、セミネールⅩⅠの欲動に捧げられた章で、ラカン自身が、欲動の「機械的な」特徴・反有機的な anti‐organic 性質(その人工的な要素、あるいは異質の成分からなる部分のモンタージュの特質)を強調している。

しかしながら、これは出発点にすぎない。問題をすぐさま混み入らせるのは、この読み替えにおいて、何かが失われてしまうという事実である。すなわち、欲動と欲望とにあいだにある、まさに還元し得ぬ相違、この差異の視差的 parallax 性質があり、一方から他方へと跡づけたり生み出したりするのは不可能なのだ。

言い換えれば、ラカンには全く異質なものは、ドゥルーズの反-表象主義者的な欲望欲望の概念である。それ自体が表象や抑圧の場面を創造する原初的流動 fluxとしての欲望概念。これはまた、ドゥルーズが欲望の解放について語る理由だが、ラカンの地平ではまったく無意味である。

ドゥルーズにとって、最も純粋な欲望とはリビドーの自由な流動だが、ラカンの欲動は、基盤となる解決しえぬ袋小路によって構成的に徴づけられている。ーー欲動は行き詰まりであり、まさに行き詰まりの反復において満足を見出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)