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2016年6月7日火曜日

あるのはただフライド・ポテトのみ(ニーチェ)

フライド・ポテト化装置」補遺、--というか、そのとき浮かんできた文で割愛したいくつかの文である(まだいくらでもあるが、この程度にしておく)。

とくになんらかの意図があるわけではないが、在庫として「引き出し」のなかにある文章の断片を「画像」を貼り付けるようにして並べたパッチワークであり、このようにしておくと、ときにのちほど役に立つ場合がある。

なおここでのイメージ=概念とは、ソシュール的な「思考のイマージュ=概念」という観点からであり、スピノザの概念/観念(カントの一般性/普遍性)などの区別はうっちゃっている。すなわち、「概念」という用語のフライド・ポテト化のもとの引用である。

…………

ニーチェは、《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、といった。ところで、この理屈でいくと、ステレオタイプは《真理》に到る現実の道筋であり、案出された装飾を、記号内容の、規範的な、強制的な形式へと移行させる具体的な過程なのである。(『彼自身によるロラン・バルト』)
「真実は固形性の中にある」とポーが言った(『ユリーカ』)。それゆえ、固形性に耐えられない人は、真実にもとずく倫理に対して自分を閉じてしまう。彼は、語や命題や観念が《固まり》はじめ、固形状態へ、《ステレオタイプ》の状態へ移行するやいなや、それらを手離してしまう(《ステレオス》とは《堅い》という意味である)。(『彼自身によるロラン・バルト』)

ーーという具合にロラン・バルトのフライド・ポテト変奏はいくらでもあるのだが、ここではあまりくり返すのはやめて、すこし目先をかえて他の作家から引用してみよう。

現象に立ちどまって、「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うだろう。いや、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ、と。われわれは、いかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理だろう。(ニーチェ『力への意志』)
T.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

ここでフーコーの『臨床医学の誕生』から引用するべきかもしれないが、手元には英訳しかないので、蓮實重彦によるフライド・ポテト化(要約)で代用しておく。

(『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』)この三冊の歴史的な書物で問われているのは、まぎれもなく見ることの技術体系である。だが、視線が技術の問題であるとしても、その技術が何を見るのかのそれではなく、何も見ずにおくための技術であったという点は改めて強調しておく必要があるだろう。それは、不可視のまわりに配置された視線の体系なのだ。事実、技術に翻訳されえないが故に病気は病気なのだし、狂気は狂気なのだし、言葉は言葉なのだ。『臨床医学の誕生』で強調されていたのが、医師がいかに病気を見ていなかったかという点にあったことを思い起こすまでもなく、見ることは見ずにおくことの技術の体系として、ながらく人間的な思考を支えていたのだ。(「視線のテクノロジー」「第二次エピステーメ創刊〇号」初出1984――『表象の奈落』所収)

もちろんよく知られているように?、このようにフーコーを「要約」して流通させるのは、凡庸化と呼ばれており、これに対してわれわれは「闘争」しなければならない・・・

流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

ところで、概念自体・言葉自体が「何も見ずにおくための技術」ではないだろうか。

なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。

すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである。(「哲学者の本」)

このニーチェの文は、ジョン・ケージの「聾になるための訓練」とともに読むこともできる。

かつて音楽は、まず人々の―特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。ソルフェージュはまさに、音が発せられる以前に音を聞き取るようにする訓練なのです……。この訓練を受けると、人間は聾になるだけです。他のあれこれとかの音ではなく、決まったこの音あの音だけを受け入れられるよう訓練される。ソルフェージュを練習することは、まわりにある音は貧しいものだと先験的に決めてしまうことです。ですから〈具体音の〉ソルフェージュはありえない。あらゆるソルフェージュは必然的に、定義からして〈抽象的〉ですよ……。(ジョン・ケージ『小鳥たちのために』)

とはいえ、我々は「概念」を使って暮らしていかざるをえない。 ≪フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体である≫(ラカン、セミネールⅢ)であるとしても、いまさら言語や概念を使わないわけにはいかない。ニーチェのいうような≪ 一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験≫も、もしそれを表現しようとするなら、なんらかの形で言語を使用せざるをえない。

そもそも言語によるフライド・ポテト化には次のような効用もある。

私の子どもの観察であるが、ある子はしばしばうなされ、苦悶している時期があって、何とかしなければ、と思った。ところが夢を片言にせよ言語化することができるようになった途端に苦悶は止んだ。別のある子には、成人言語性を獲得してしばらく、親の後を追いかけてでも夢を聞かせようとする時期があった。私が言語の「減圧力」をまざまざと実感したのは、これらの観察によってである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)


ここで小林秀雄を嘲罵する柄谷行人をかかげよう(この柄谷行人の嘲弄はニーチェがベースにあるのは明らかだ。そもそも上に掲げたニーチェの「哲学者の本」からの引用は、彼の初期の『マルクス その可能性の中心』からの孫引きである)。

柄谷行人) 小林秀雄の有名な言葉で、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」というのがある。しかし「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう。ぼくは「花」なんて見たことがない(笑)。「この花」と言っても、結局は概念から逃れられない。ものを書くなら、そこで勝負するほかない。とにかく概念がいやなら、いっさい物を言わないことだね。「美はひとを沈黙させる」なんてことも、書くべきではない。(『闘争のエチカ』)

とすれば、われわれはなんらかの形でつねに「現実」をフライド・ポテト化して生きている。そして、柄谷行人のいうように、そのフライド・ポテト化された「概念」で勝負するよりほかない。もちろんどのような形で勝負するのかーー凝固したカチカチのフライド・ポテト=ステレオタイプにならないためにーーが肝要ではあるが、ここではそれには多くは触れない。

だが、たとえば、ロラン・バルトの「研究の構想」というプルースト小論には、次のような文があり、ひょっとしてひとつのヒントかもしれない。

《入れ替わった項の一方が他方より《真実》であるわけではない。コタールは《偉大》でも《卑小》でもない。仮に真実があるとすれば、その真実は「他者」の言葉が彼に与える動揺全体にいきわたる言述の真実である。》

最後にプルーストの小説から、人間がほとんどの場合、「現実」をフライド・ポテト化して生きていることを示す具体的な叙述を抜き出しておこう。

「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為なのだ。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分のその人についてもっているすべての概念を注ぎこむ。したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頬にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)
ああ、私の帰ったことを知らされずに本を読んでいる祖母を私がサロンにはいって見出したとき、私の目に映ったのは、そのような幻影であった。私はそこにいた、というよりもまだそこにいなかった、というべきであった。なぜなら祖母は私がそこにいることを知らずに、物思いにふけっていたからであって、そんな姿を私のまえで見せたことはいままでになく、まるで彼女は、人がはいってくればかくしてしまうような編物か何かをしているところをふいに見つけられた女のようであった。私はといえばーー長くはつづかない特権、旅から帰った短い瞬間に自分自身の不在を突然まのあたりに見る能力をさずかるあの特権によってーー帽子をかぶり、旅行用のコートを着た、証人で目撃者、この家の者ではない外来の客、二度と見られない場所をフィルムにとりにきた写真師、といった要素しか残していない人間のようであった。私が祖母の姿を認めたこのときに、私の目のなかに機械的に写されたのは、なるほど一枚の写真であった。われわれがいとしい人々を見るのは、生きて動いている組織のなか、われわれのやむことのない愛情の永久の運動のなかにおいてでしかないのであって、愛情は、いとしい人々の顔がわれわれにさしむける映像をわれわれにとどかせるまえに、それをおのれの渦巻のなかにとらえ、そうした映像をいとしい人々についてわれわれがつねに抱きつづけている観念の上に投じ、その観念に密着させ、その観念に一致させるのだ。

(……)しかし、われわれの目がながめたのではなくて、単なる物質的な対物レンズとか写真の乾板とかがながめたのであったら、たとえば学士院の構内に見られるものにしても、それは辻馬車を呼ぼうとしている一人のアカデミー会員の退出の姿ではなくて、あたかもその人が酔っているか地面が凍ったぬかるみに被われているかのように、その人のよろめく足どり、うしろ向きに倒れないための用心、転倒の放物線であるだろう。おなじことは次の場合にも言いうる、すなわち、われわれの視線から、それがながめるべきではないものをかくすために、われわれの理知と敬虔とから出た愛情がうまく駆けつけようとするときに、偶然の残酷なたくらみがそれをさまたげてしまう、つまり愛情が視線に先手を打たれてしまう場合であって、視線が真先に即座にやってきて、機械的に感光板の作用をはたしてしまうのである、そんな場合、ずいぶんまえからもういなくなった愛するひと、しかし愛情がその死をけっしてわれわれにあらわに感じさせることを欲しなかったひと、そのようなひとの代わりに、視線がわれわれに見せつけるのは、新しいひと、日に百度も愛情がいつわりの親しげな類似の相貌をとらせる新しいひとなのである。

(……)私は、祖母すなわち私自身という関係をまだ断ちきっていなかった私は、祖母を私の魂のなかにしか、つねに過去のおなじ場所にしか、そして隣りあいかさなりあう透明な思出を通してしか、けっして見たことのなかったこの私は、突然、私の家のサロンのなかに、新しい一つの世界、時間の世界、「ひどく年をとったなあ」と人からささやかれる見知らぬ人たちが住んでいる世界、そんな世界の一部分となった私の家のサロンのなかに、はじめて、ほんの一瞬のあいだ(というのはそういう祖母はすぐにぱっと消えてしまったからだが)、ランプの下の、長椅子の上に、赤い顔をして、鈍重で俗っぽくて、病んで、夢にふけって、頭がすこしぼけたような目を本の上にさまよわせている、私の知らないうちひしがれた一人の老婆の姿を認めたのであった。(プルースト「ゲルマントのほうへ Ⅰ」 井上究一郎訳)

2016年6月6日月曜日

フライド・ポテト化装置

おそらくおおくのひとはフライド・ポテトが好きなんだろうし、ましてやツイッターなどで短く、かつ読み手に効果的に印象づけるにはフライド・ポテト化は欠かせない。

言語活動の体系の闘争。吸盤の隠喩。今度は、「イメージ」の闘争に話を戻しましょう。(《イメージ》とは、他者が私について抱いていると私が思う事柄です。)私についてのイメージは、どうして私が傷つくほどに《凝固する》のでしょう。また別の隠喩をお目にかけましょう。《フライパンに油がしかれます。平らに、滑らかに、音もなく(わずかに蒸気が上がる)。そこにじゃがいもを一切れ入れてごらんなさい。それは寝たふりをして機を窺っていた動物たちに餌を投げ与えたようなものです。いっせいに飛びかかり、取り囲み、音を立てて攻撃します。貪欲な饗宴です。じゃがいもの断片は包囲されますーー破壊されるのではなく。硬くなり、こんがり焼き色がつき、飴色になります。それは一つの対象、すなわち、フライド・ポテトになります。》このように、あらゆる対象にしたたかな言語体系は機能します。忙しく立ち回り、包囲し、音を立て、硬くし、金色に色づけます。あらゆる言語活動は沸騰の小=体系(ミクロシステム)、揚げ物料理です。これが言語活動の「マケー」の要点です。(他者の)言語活動は私をイメージに変えます。生のじゃがいもがフライド・ポテトに変えられるように。

どのようにして私がまったくマイナーな言語体系の攻撃を受けてイメージ(フライド・ポテト)になり果てるか、お目にかけましょう。『恋愛のディスクール・断章』のおかげで、ダンディーで《無作法》なパリ・スタイルになってしまうのです。《しゃれたエッセイスト、知的ヤングの人気者、アヴァンギャルドの収集家、ロラン・バルトは思い出を次々に並べてみせる。才気煥発なサロン的会話の語調というわけではないが、しかし、<法悦状態>について視野の狭いペダンティスムを少しばかり披露してくれる。またまた、ニーチェ、フロイト、フローベール等々の名前にお目にかかれるというわけだ。》どうしようもありません。私は「イメージ」を通過しなければなりません。イメージは社会的な兵役のようなものです。私はそれを免れることはできません、不合格にしてもらったり、脱走したりすることもできません。私は、「イメージ」に病んでいる、自分の「イメージ」に病んでいる人間を見ます。(……)

「イメージ」をはぐらかす一つの手段は、おそらく、言葉を、語彙を歪曲することでしょう。(……)私はゆがめることを承知で、他人の言葉を引用します。単語の意味をずらします。このようにして、私がその成立に手を貸した「記号学」についても、私は自分自身の歪曲者です。私は「歪曲者」の陣営に移りました。この「歪曲者」の陣営は美学である、文学である、といってもいいでしょう。……(ロラン・バルト「イメージ」『テクストの出口』所収)

さて、以下は蓮實重彦のロラン・バルトぱくり芸である。もちろん、よく知られているようにぱくりはなにも悪いことではない。そして蓮實重彦にはバルトのパクリ芸がいくつもあるが、いまはそのうちのひとつのみを掲げる。

……自分のこれまでの仕事を僕なりに振返ってみると、どうなるか。そもそも、自分の仕事をなぜ振返ったりするかというと、批評的な言説を読んでみてもどうもひとつピンとこない。それは自分の真意がよく理解されないことのもどかしさなどとは違った感慨であって、自分がしかるべき作品なり作家なりについて語るときに費やされる労力といったものが費やされていない物足りなさだと思います。

その物足りなさを自分自身で埋めあわせるというものあまり健全な話ではないかと思いますが、かりに自分が自分の批評家であったとするならば、蓮實重彦のこれまでの仕事は、一貫して、魂の唯物論的な擁護であるということになるでしょう。魂の唯物論的擁護ということが、僕自身にとっての批評の意味でもあるわけです。

魂というのは、きわめて具体的な言葉なら言葉の魂ということです。記号でも作品でもいい。文章でもかまわない。それを、ものとして、物質として、それが語られているその場で、みずから輝かせることが批評なのではないか。そして、自分自身の言葉が、他人によって輝いたという経験も記憶もないのです。それは、蓮實重彦を語る人の多くが、イメージを介してしか論じていないもどかしさを与えるのですが、もっと困るのは、そのイメージが、僕と適当に似ていることです。そしてその相似によって、魂の唯物論的な擁護がいたるところで流産されていると感じる。ということは、批評の魂がものとして輝いていないという意味でもあるわけですが、僕のもどかしさは、むしろ、ほどよい類似にたどりつくしかないイメージの貧弱さです。そしてそのことは、ほとんどの批評について言える弱点となっている。

魂の唯物論的な露呈をさまたげているもの、それはイメージです。観念といってもよい。つまり表象可能なものによってしか批評が支えられていない。ここで魂というものは、いささかも宗教的な意味ではないし、また、プラトニズム的な色彩も含んではいないものです。むしろ、ドゥルーズのいうアンタンシテ(強度)に触れて具体的に他となる部分が魂であって、唯物論的というのは、たんなる物質というのではなく、肉体的な運動、つまりアクションを必然化するものなのです。宗教やプラトニズムの残滓が、魂の唯物論的な露呈をさまたげているというべきなのです。その意味で、現代の批評は、宗教的でプラトニズム的だとさえ言えると思う。(蓮實重彦 柄谷行人対談集『闘争のエチカ』)


この文の意味内容の変奏として「イマージュのソシュールとソシュールのイマージュ」というものもある(ソシュールの記号概念をめぐって〔蓮實重彦))。われわれは誰もが「ソシュールのイマージュ」のたぐいのことをやっているのであり、というのも名高い古典的作家だけでもすべてを読むわけにはいかず、巷間に流通する「フライド・ポテト」をもって語らざるをえないから。

わたくしも以前、「ショパン派/リスト派」ということを記して、さるピアニストに怒られたことがある。

ところで最近、蓮實重彦はつぎのように言っている。

「人類は、つくづく物を読むのが嫌い。読まずに、ほかのことを考えるのが好きです。99%の批評家や理論家は、『ボヴァリー夫人』をじっくりと読んでない」 (構想45年!蓮實重彦さん「ボヴァリー夫人」論 : 本よみうり堂 : 読売新聞 2014.07.11)

これもパクリであるが、こっちのほうは自らが80年代に書いた文のパクリである。いや、むしろ自らの過去の文のフライド・ポテト化と言ったほうがいいかもしれない。

いずれにせよ、以下の文のさらに向こうにはロラン・バルトがいる、と言えるし、蓮實重彦とバルトの向こうにも、たとえばフローベールなどがいるはずだ。

だが、知っているとはどういうことなのか。ほとんどの場合、知っているとは、みずから説話論的な磁場に身を置き、そこで一つの物語を語ってみせる能力の同義語だと思われている。フローベールとは、十九世紀フランスの小説家で、『感情教育』などの客観的な長篇小説を書いた、というのがそうした物語である。青年時代に神経症の発作に見舞われていらい、世間との交渉を絶ち、ノルマンディーの田舎に閉じこもって、文章の彫琢に没頭した、というのも物語である。また、その他いろいろあるだろう。そんな物語の一つをつぶやくことができるとき、人は、そこで主題になっているものを知っていると思う。知は、物語によって顕在化し、また物語は知によって保証されもするわけだ。なにひとつ物語を語りええないものを前にして、人はそれを知らないという。だから、フローベールが未刊のままの草稿として残した倒錯的な辞典の題名をかかげてみても、知と物語との相互保証を導きだすことにしかならないだろう。ところで、フローベルが十九世紀の半ばに構想を得た辞典は、まさに、こうした知と物語との補完的な関係を断ち切ることにあったのだ。

実際、誰もがフローベールを知っている。そして、知っているという事実をたがいに確認しあうために、人は、フローベールをめぐって誰もが知っている物語を語りあう。その物語の中で、最も多くの人に知られているものこそ、フローベールが執筆を企てた辞典の項目たる資格を持つものである。誰にでも妥当性を持つことで、誰もがそれを口にするのが自然だと思われる物語。それが、知の広汎な共有を保証し、その保証が同じ物語を反復させる。かくして知は、説話論的な装置の内部に閉じこもる。まるで物語の外には知など存在しないかのように、装置は、知を潤滑油として無限に機能しつづける。するとどういうことになるか。

結果は目にみえている。人は、知っていることについてしか語らなくなるだろう。たまたま未知のものが主題となっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようなものにする。だから、物語は永遠に不滅なのだ。

ところで、この物語の無限反復の中に辞典の題名を導入するとどうなるか。それはギュスターヴ・フローベールの未完の草稿だと口にするだけで、この辞典が説話論的な磁場の中へ姿を消してしまうのは明らかだろう。あとはすべてが円滑に進行する。その倒錯的な辞典の倒錯性そのものに出会うことなく、誰もが物語を納得してしまうのだ。だが、フローベールとしては、みずからを無謀な編纂者に仕立てあげることで、この寛大な納得を、物語の模倣を介して宙に吊ることを目ざしていたわけだ。というよりむしろ、説話論的な磁場の保護から出て、誰もがごく自然に口にする物語を、その説話論的な構造にそって崩壊させるというのが、彼の倒錯的な戦略であったはずだ。物語に反対の物語を対置させることではなく、物語そのものにもっとも近づいて、自分自身を物語になぞらえさえしながら、物語的な欲望を意気阻喪させること。つまり、失望の生産とは、知と物語との補完的な関係をくつがえし、知るとは、そのつど物語を失うことにほかならなぬのだと、実践によって体得すること。事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかはないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれた欠落を埋めることで、ほどよい均衡におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出会いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたりもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を充塡して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。(蓮實重彦『物語批判序説』)




2016年6月4日土曜日

沈黙と測りあえるほどに、あるいはアンデルジェフスキ

知らなかったな、モーツァルトのこのソナタにこんなグリーグ編曲の二台のピアノ用があるなんて。

しかも、アルゲリッチとアンデルジェフスキのデュオできけるなんて。

◆Mozart - Piano Sonata No. 16 (Argerich, Anderszewski)



ーーこのあまりにも有名で、いささか陳腐化してきこえてこざるをえなかった曲をひさしぶりに新鮮な耳で聴くことができた。いやあ、実にキラキラ煌いている。


ところで、前回アンデルジェフスキの暁の歌を貼り付けたところなんだが、
彼のあの演奏はじつに惚れ惚れするな、
いま最高のシューマン弾きじゃないか


◆Schumann - Gesänge der Früge by Piotr Anderszewsky





シフの演奏が屁みたいにきこえてくるよ






この曲は「音、沈黙と測りあえるほどに」(武満徹)に弾かなくちゃならない

もっともシフにも見事な演奏はある。

◆Barbara Hendricks  Schubert "Nacht und Träume"







2016年6月3日金曜日

あなたは女性のからだを知らないのですね?

ぼくはヴェルトが打ち明けてくれたことを思い出す、彼がノイローゼにかかっていた頃のことで、ファルスの診察室にわりと足繁く通っていた。「あんなところに通うとろくなことはないよ」…彼はまさにそのために動顛させられた…→「彼に自分の今までの出来事を話しているうちに」、ヴェルトはつけ加えて言った、「突然わかったんだ、気のふれた奴とおしゃべりするなんて、ぼくはとんでもない阿呆だって」…明快な話さ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

さて、もちろん小説のなかの話ではあるが、ファルス(ラカン)はヴェルト(バルト)に何を言ったんだろう、どんな気のふれたことを。

まずはバルトと母との関係のことではないだろうか、ファルスが、それを言わずにすますわけがない。

≪女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ≫(Lacan, Le seminaire, livre X: L' angoisse[1962-63]ーー「子どもを誘惑する母(フロイト)」 )

私にとって家族は、ずっと前から、母と、血を分けた一人の弟だけだった。後にも先にもそれだけである(ただ、祖父母の思い出だけは別であるが)。家族集団を構成するためにどうしても必要とされる単位、《いとこ》は一人もいなかった。それに、家族というものを、もっぱら拘束と儀式だけで成り立っているかのように扱う、あの科学的態度は、どうにも我慢がならなかった。つまり家族は、直接的な帰属集団としてコード化されるか、または、葛藤と抑圧の結節点と見なされるのだ。われわれの学者たちには、《互いに愛し合う》家族もいるということが想像できないかのようである。

そしてまた私は、私の家族を「家族」一般に還元することを欲しないのと同じく、私の母を「母」一般に還元することも欲しない。ある種の一般的研究を読むと、それが私の状況に納得のいく形で適用できるということは私にもわかった。フロイト(『人間モーゼと一神教』)に註釈をほどこしつつ、J・J・グノーが説明するところによれば、ユダヤ教は、聖母崇拝の危険を避けるために偶像を排除したが、キリスト教は、母なる女性の表象を許すことによって「おきて」の厳しさを乗り越え、「想像的なもの」を受け入れたという。私は、偶像をもたず聖母を崇拝しない宗教(新教)に属しているが、しかしおそらく、文化的にはカトリック芸術によって培われてきたので、「温室の写真」を見て、「偶像」に、「想像的なもの」に帰依した、ということになるのである。それゆえ私は、自分に普遍性があることは理解できたのだが、しかし、理解したとはいいながら、どうしても割り切れない気持が残った。「母」一般のうちには、輝かしい、還元しえない一個の核、つまり、私の母が存在していたのである。

私は生涯母と一緒に暮してきたので、悲しみもまたひとしお深いのだ、と人は必ず思いたがる。しかし私の悲しみは、母があのような人であったことから来ているのである。母があのような人であったからこそ、私は母と一緒に暮してきたのである。母は「善」としての「母」であるうえに、さらに一個の人間としての魅力をそなえていた。プルーストの小説の「語り手」が祖母の死について言ったように、私もまたこう言うことができた。《私はただ単に苦しむというだけでなく、その苦しみの独自性をあくまで大事にしたかった》と。なぜなら、その独自性は、母のうちにある絶対に還元不可能なものの反映だったからである。そしてそれが、まさに還元不可能であるゆえに、一挙に、永遠に失われてしまったのだ。

喪は緩慢な作業によって徐々に苦悩を拭い去ると人は言うが、私にはそれが信じられなかったし、いまも信じられない。私にとっては、「時」は死別の悲しみを取り除いてくれる、ただそれだけにすぎないからである(私は単に死別したことを悲しんでいるのではない)。それ以外のことは、時がたっても、すべてもとのまま変わらない。というのも、私が失ったものは、一個の「形象」(「母」なるもの)ではなく、一個の人間だからである。いや、一個の人間ではなく、一個の特質(一個の魂)だからである。必要不可欠なものではなく、かけがえのないものだからである。私は「母」なしでも生きてゆくことができた(われわれはみな、遅かれ早かれそのようにしている)。しかし私に残された人生は、確実に、最後まで、形容しがたい(特質のない)ものとなることであろう。(ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳 PP.90-92

…………

モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分ーーすなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)--の想像的な加工 elaboration、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の男性による投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムが統合されたものである。
ラカンの最初のエディプス理論とはこうだ。母は子どもを、ほとんど致死的な deadly 仕方で、享楽する。唯一、父の介入を通してのみ、主体は、母の潜在する致死的 lethal 享楽から救われる。同じ理屈が、三つの宗教書のなかに…見出される。初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女の不安と憎悪、最後にムスリムのベールなどへの強制。女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない。

これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰して、もし必要なら、この他者を破壊することだ。

事実、享楽と他者とのあいだのこの発達的なつながりは、主体にとって、享楽にかんする相克を外部化する道を開く。そうでもしなければ、自身の内部に留まったままになりうる。…

フロイトはくり返し言っている、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということだ…(ヴェルハーゲ、New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009、PDFーーエディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ! C'est strictement inutilisable ! 》

…………

バルトの母は長寿であり84歳で亡くなっている(バルト62歳)。

年齢というのは、年代的与件、年月の連鎖であるとしても、それはほんの部分的でしかありません。途中、ところどころに、仕切りがあり、水面の高低差があり、揺れがあります。年齢は漸進的なものではありません。突然変異するものです。(……)私の年齢が潜め、また、動因しようとしている現実的な力はどういうものか。これが、最近、突然生じた問いです。そして、この問いが、今、この時点を《私の人生の道の半ば》としたように思えるのです。(……)

プルーストにとって、《人生の半ば》は、もちろん、母親の死でした(1905年)。生活の突然変異、新しい作品の開始が数年後のことであったとしてもです。つらい悲しみ、唯一の、何物にも還元できないような悲しみは、私にとって、プルーストの語っていた《個人的なものの頂点》をなし得るように思えます。遅まきながら、この悲しみは、私にとっても、私に人生の半ばとなるでしょう。というのは、《人生の半ば》とは、おそらく、死は現実的なものであって、もはや単に恐るべきものではないということを発見する瞬間以外のものではあり得ないからです。

このように道を辿って来ると、突然、次のような明白な事実が現われます。一方では、私にはもういくつもの人生を試みる時間がないということです。(ロラン・バルト《長い間、私は早くから床についた》)


『喪の日記』 バルト、加藤弘一

「喪の日記」カード群は1977年10月26日――バルトの母が亡くなった翌日――にはじまり、ほぼ二年間書きつがれた。(……)

母の死の翌日の日付のカードにはこうある。

新婚初夜という。
では、はじめての喪の夜は?

その次の日はこうだ。

「あなたは女性のからだを知らないのですね?」
「わたしは、病気の母の、そして死にゆく母のからだを知っています。」

…………

母の病気のあいだ、私は母を看病し、紅茶茶碗よりも飲みやすいので母の気に入っていたお椀を手にもって、お茶を飲ませてやった。母は私の小さな娘になり、私にとっては、最初の写真に写っている本質的な少女と一つになっていたのだ。(……)母と私は、互いに口にこそ出さなかったが、言葉がいくぶん無意味になり、イメージが停止されるときこそ、愛の空間そのものが生まれ、愛の調べが聞かれるはずだと考えていた。あんなに強く、私の心の「おきて」だった母を、私は最後に自分の娘として実感していた。(……)私は実際には子供をつくらなかったが、母の病気そのものを通して母を子供として生み出したのだ。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ーー≪あんなに強く、私の心の「おきて」だった母を、私は最後に自分の娘として実感していた≫[Elle, si forte, qui était ma Loi intérieure, je la vivais pour finir comme mon enfant féminin]

バルトのいう母の「おきて」とは具体的にはなんだったのだろう・・・

……ここではごく一般的な「母の法」を示しておく。

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話されている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語のなかで、話すことを学ぶ。この言語へに没入によって形成され、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。(Geneviève Morel 、‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF

もちろん、ここで古典的なフロイトを引用することもできる。バルトがきっとくりかえし読んだだろうフロイトの「同性愛」をめぐる叙述を。

……われわれが調査したすべての同性愛者には、当人が後でまったく忘れてしまったごく早い幼年期に、女性にたいする、概して母にたいする非常に激しい性愛的な結びつきがあったのであるーー母親自身の過度の優しさによって呼び醒まされたり、あるいは助長させられたりして、さらにはまた幼児の生活中で父親があまり出てこないということによって。サードガーの主張するところでは、彼の扱った同性愛患者たちの母親は、しばしば男まさりの女であった。つまり精力的な性格の女たちで、亭主を尻に敷いてしまうような女たちだったという。私も往々同様のことを目撃した。それよりも強い印象をうけたのは、父親が最初からいなかったとか、早くいなくなってしまうかして、その結果、男の子がもっぱら母親の影響ばかりを受けたような場合には、ことさらその印象が強かった。もし力強い父親がいたならば、息子は異性選択において正しい決定をしていただろうと思われるのである。

さて、この予備段階の後に一つの変化が起こる。この変化の機制はわれわれにはわかっているが、その原因となった力はまだわかっていない。母親への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥るのである。子供は自分自身を母の位置に置き、母と一体化し、彼自身を手本にして、その手本に似た者から新しい愛の対照を選ぶことによって、彼は母親への愛を抑圧する。子供はそれほど同性愛的になってしまったわけである。いや実際には、いまや青年たる彼が愛している少年たちとは実は、かつて子供の彼を母が愛したごときに、いま彼がそんなふうに愛している、子供としての彼自身の代償であり更新に他ならないのであるから、彼はふたたび自己愛に落ちこんだというべきであろう。それをわれわれは、彼は愛の対象をナルシシズムの途上で見出すというように表現するのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソスと呼んでいるからである。

心理学的にさらに究明してゆくと、このような途をたどって同性愛者となった者は、無意識裡に自分の母の映像をいつまでも持ちつづけているという主張が是認される。母への愛を抑圧することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、かくしてそれ以後つねに母に忠実な者となるのである。彼が恋人としては少年のあとを追い廻しているように見えても、じつは彼はこうすることによって、彼をその性的義務にそむかせるかもしれぬ他の女たちから逃げ廻っているのである。われわれはまた直接個々の場合を観察した結果、一見男の魅力しか感じない者も本当は普通人と同様、女の魅力のとりこになることを証明しえた。しかし彼はそのつど急いで、女から受けた興奮を男の対象に移し、かくしてたえず、彼がかつて同性愛を獲得したあの機制を繰り返すのである。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』)


◆Schumann - Gesäng der Frühe - I. In ruhigen tempo




ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体)から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのだから、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないだろう。…(ロラン・バルト『明るい部屋』)

2016年6月2日木曜日

処女らの笑ひのにほひ

あをによし寧楽の都は咲く花の薫ふがごとく今盛なり 〔巻三・三二八〕 小野老


いやあ、実に見事な歌だ。このところ万葉集を読んでいるのだが、ようやくこの歌に行き当たった。この誰でも知っているだろう歌を、わたくしはすっかり失念していた。

この音調、この恩寵。この天真、この爛漫、この喜悦。この歌はわたくしには完全なものと思われる。原文は「青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有」。どの漢字も美しい。

「あをによし」を枕元言葉として読む必要はまったくない。「青丹吉」。世界は美しいのだ。雨季に入って、半年ほどの乾季のあいだに埃にまみれた葉叢が隅々まで洗われ、青丹色に光り輝く。白い花が香り高く匂ひ立つ。「寧楽乃京」もなんという美しい字面だろう。この寧夏寧日の寧静寧謐に「咲花乃 薫如 今盛有」。

短かかつた耀かしい日のことを寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ(伊東静雄)

なでしこが花見る毎に処女らが笑ひのにほひ思ほゆるかも  大伴家持


波紋のように空に散る笑いの泡立ち
(……)
芝生の上の木漏れ日であり
木漏れ日のおどるおまえの髪の段丘である
ぼくら  (大岡信)

《優れたものは軽やかであり、一切の神的なものは華奢な足で走る》(ニーチェ)

ああ、あれら万葉人たち!

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ KSA 3,S.352)

われを愛する者は、わが言葉を守らん[Wer mich liebet, der wird mein Wort halten]

◆J.S.Bach: Cantata BWV 59






2016年6月1日水曜日

寝椅子の時代の終わり

現在の米国の有様を見れば、精神病の精神療法は、医師の手を離れて看護師、臨床心理士の手に移り、医師はもっぱら薬物療法を行っている。わが国もその跡を追うかもしれない。すでに精神療法を学ぼうという人たちの多くは、医師よりも臨床心理士ではないだろうか。(中井久夫「統合失調症の精神療法」1989)

………………

表題を「寝椅子の時代の終わり」としたが、実際上は、いまだやっているのだろうし、フロイト時代のような寝椅子分析に適した旧症状(精神神経症)の患者も細々と生き残っているのだろう。

なおかつ、以下の文は、「移り変わる空間 transitional space」の後半にあるジャック=アラン・ミレールの精神分析臨床の「測り知れない価値」を説く文を読んでからにしたほうがよいかもしれない。

いずれにせよ、ここにあるのは、まったく専門家でない者のほぼ純粋な私訳メモにすぎない。

ベルギーの臨床医ーー英語圏ではラカン理論の代表的論客のひとりーーポール・ヴェルハーゲの考え方の備忘メモが中心であるが、彼にはミレール批判があることを先に示しておく。

……ポストラカニアンは、実にこれを「ふつうの精神病」用語で理解するようになっている。私はこれを好まない。二つの理由があります。一つは、「ふつうの精神病」概念は、古典的ラカンの意味合いにおける精神病にわずかにしか関係がない。もう一つは、さらにいっそうの混乱と断絶をもたらしています。非精神分析的訓練を受けた同僚とのコミュニケーションとのあいだの混乱・断絶です。(PSYCHOANALYSIS IN TIMES OF SCIENCE”(An Interview With Paul Verhaeghe,2011ーーふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代

なおかつ強いDSM (精神障害の診断と統計マニュアル)批判の論客でもある。だがここでは中井久夫の「黒船」襲来という文だけを掲げておこう。

1980年に米国でDSM‐Ⅲが公刊されると、この黒船によって、日本の精神医学はがらりと変わった。本質的にクレペリン精神医学によって立ち、クルト・シュナイダーK.schneiderの操作主義とエルンスト・クレッチマーE.Kretschmerの多次元診断によって補強されたDSM体系は、日本の精神医学の風土を変えた。(中井久夫『関与と観察』)

さらに、さきに次の文を抜き出しておく(座談会「来るべき精神分析のために」(十川幸司/原 和之/立木康介、2009/05/29 岩波書店)よ十川幸司氏の発言)。

ところで先ほど精神病患者の変化という話をしましたが、 精神分析に来る患者も時代とともにずいぶん変わっています。

フロイトでも初期に診ていたヒステリー患者と、晩年に診ていた患者とではその間に大きな変化があります。 しかし、 全般的に言えるのは、 フロイトの時代と比べて、 今は患者がみずからの生を物語る能力がなくなってきている、 ということです。 このような現象も病理の軽症化と何らかの関係があるのかもしれません。 フロイトの患者たちは物語る能力に長けています。 そして、 その語りが、 患者が秘めた病理に向かって収束されていきます。 一方で、 現代の患者たちは--ヒステリー患者は貴重な例外です--みずからの生を散漫とした形で、 明確な歴史もエピソードも作ることなく生きているように思えます。 そういう患者たちの語りは、 病理の所在がはっきりせず、 また語りが病理の核心に向かうことがない。 こういう患者側の変化も精神分析の衰退の一つの要因になっているように思えます。 つまり、生が希薄化、 断片化していて、 しかもそれらが言葉によって歴史化されていないため、言葉を治療手段とする分析治療が鋭角的な手ごたえをもったものとして機能しない。
もちろん分析家の側にも責任はあるでしょう。 分析家は、 患者の側の変化を敏感に感じ取ることなく、 いまだに硬直した理論で分析行為を行っています。 患者の生のあり方が変わってきたなら、 それに即して分析家は新しい臨床を始めていくべきなのです。それがほとんどなされていないのが現状なのです。

…………

さてここでの本来のメモである。


◆An Interview With Paul Verhaeghe(Paul Verhaeghe and Dominiek Hoens,2011)PDF

ほぼ 15 年前ほどから私は感じはじめた、私の仕事のやり方、私の伝統的な精神分析的方法がもはやフィットしないようになってしまったと。私はとても具体的にこれが確かだとすることさえできる。あなたが分析的に仕事をしているとき、いわゆる予備会話をするだ ろう。この意味は誰かを寝椅子に横たえる瞬間をあとに延ばすということだ。あなたはいつ 始めるかの目安をつかむ。あなたが言うことが出来る段階のね。さあ私は患者を寝椅子に 横たえるときが来た、と。ところが多くの患者はこの段階までに決してならない。というのは 彼らが訪れてくる問題は、寝椅子に横たえさせると、逆の治療効果、逆の分析効果をもっ ているから。

それで私は自問した、これはなんだろうと。ここで扱っているのはなんの問題なんだろう? と。どの診断分類なのだろう? あらゆる診断用語のニュアンスを以て、どの鑑別的構造に 直面しているのだろう? 私が思いついた最初の答、それによって擁護しようと思った何か、 いまもまだ擁護しようとしているものは、フロイトのカテゴリーAktualpathologie(現勢病理≒ 現勢神経症)だった(参照1参照2)。

ここに私はこれらの患者たちのあいだに現れる数多くの症状の処方箋を見出した、まずは パニック障害と身体化 somatisation だった、不十分な象徴化能力、徹底操作や何かを言 葉にする能力の不足とともに。これが我々の最も重要な道具、「自由連想」を無能にしたのだ。
古典的な精神神経症のグループは意味の過剰に苦しんだ、ヒストリー=ヒステリーの過剰、 イマジネールなものの過剰に。そしてこれがあなたが脱構築しなければならないものだっ た。新しいグループは全てのレヴェルでこれらが欠けている。かつまた彼らは他者を信頼 しない。転移があるなら陰性転移しかない。象徴化の能力はほとんどない。ヒストリー(歴史)も同じく。

いや彼らにヒストリーはある。だがそのヒストリーを言語化できない。…私はなんと逆の方向に仕事をしなければならないのだ。

社会的側面に戻れば、私が自問したのはなぜこのようなラディカルな移行が起こったのか、 ということだ。なぜ古典的なヒステリーや強迫神経症者が少なくなったのか?…

答えは母と関係がある。母と子どものあいだの反映、つまり鏡(像)の過程にある。… 結果として我々は視界を拡げなければならない。母が以前に機能したようにはもはや機能 していないのなら、異なった社会的文脈にかかわるにちがいない。そのときあなたは試み なくてはならないーーこれは古典的な分析家/心理学者にとってはひどく難しいのだが ーー何を試みるべきかといえば社会的要因への洞察を得ようとすることだ。

さらに、あなたはイメージを形成するようにしなくてはならない、素朴な解決法に陥らないよ うにしながら。だから私は母親非難 mother-blaming モデルの考え方を捨て去った瞬間を とてもよく覚えている。私はとても素早くそうした。そのモデルには別の危険が潜んでいる、 すなわち保守主義だ。…
こういった理由で、治療はむしろ数々の象徴化の構築の手助けに焦点を絞ることになる。 それは古典的な神経症の治療とは全く逆だ。神経症では象徴化があまりにも多くありそれ を剥ぎとらなければならない。(ヴェルハーゲ、2011、私訳)

ーーというわけだが、寝椅子の治療、すなわちその典型である自由連想が機能しないとしたら、何をすべきなのか。上に「象徴化の構築の手助け」とヴェルハーゲは言っているが、症例ジョイスに触れつつのロレンツォ・キエーザ、2007ーー彼はジジェクがしばしば引用したりその著書を紹介したりして名が知れるようになったーー も似たようなことを言っている(参照:「象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム)」)。

そして、Geneviève Morel の‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law'(2009、PDF)からも、いくらか私訳引用しておこう。

ラカンはその教えの最後で、父の名と症状とのあいだの観点を徹底的に反転させた。彼の命題は、父の名の「善き」法にもかかわらず症状があるのではなく、父の名自体が、あまたある症状のなかの潜在的症状ーーとくに神経症の症状--以外の何ものでもない、というものだ。ヒステリーの女性たちとともにフロイトによって発明された精神分析は、まずは、父によってつくり出された神経症的な症状に光を当てた。だが、精神分析をこれに限るどんな理由もない。事実、精神病においてーーそれは格別、我々に役立つ--、主体は、母から分離するために、別の種類の症状を置こうと努める。

この新しい概念化において、症状は、たとえ主体がそれについて不平を言おうとも、母から分離し、母の享楽の虜にならないための、必要不可欠な支えなのだ。分析は、症状の病理的で過度に制限的な側面を削減する。すなわち、症状を緩和するが、主体の支えとしての必要不可欠な機能を除去はしない。そして時に、主体が以前には支えを仕込んでいない場合、患者が適切な症状を発明するよう手助けさえする。(Geneviève Morel、2009)

現代ラカン派の最先端のひとつ、サントームの治療自体、この症状の構築の手助け(その代表的なものとして妄想形成)のことをほとんど言っているようにみえる(もっともラカン主流派が寝椅子をやめにしているとはわたくしには思えないが、詳しいことは知らない)。

たとえば、ミレール派のThomas Svolosによるサントーム小論(Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant)にはこうある。

「彼自身の個人的神話の創造」、「大他者とのひとつの絆の創造」、「世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造」、「大他者の言説へ入り込むことを彼女に容認させること」、そして「ファミリーロマンスを構築」……(《症状のない主体はない》

要するに、患者に精神神経症的症状があれば、その症状を場合によっては脱構築して、新しい症状(サントーム)を再構築する。身体的な(原)症状しかない現勢神経症のような状態の場合、むしろ新しい症状の構築が主眼になる、ということではないか。すくなくとも、Thomas Svolos が次のように言っているのは、その文脈のなかにあるように、わたくしは思う。≪父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ≫。

ヴェルハーゲもしかり。

……精神分析実践の目標は、人を症状から免がれるように手助けすることではない……。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することである。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論
≪なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。≫[Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?](Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre,)

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわち creatio ex nihilo 無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

もちろんよく知られているように(?)、新しいシニフィアンのなかには、倶利伽羅紋々シニフィアンもある(実際にヤクザの若い衆は「タトゥー」等をすることで初めて身体の享楽ーー攻撃欲動などーーをいくらか飼い馴らせるようになるのではないだろうか)。

刺青は、身体との関係における「父の名」でありうる。…(場合によって)仕事の喪失は精神病を引き起こす。というのは、仕事は、生活手段以上のものを意味するから。仕事を持つことは「父の名」だ。

ラカンは言っている、現代の父の名は「名付けられる」 êtrenommé-à こと、ある機能を任命されるという事実だと。社会的役割にまで昇格させる事、これが現在の「父の名」である。 (Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳,PDF