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2016年9月7日水曜日

言語自体がフェティッシュである

人はみなフェティシストである」にて、「言語を使用してコミュニケーション(交換)する動物は、みなフェティシストである」としたが、ジュリア・クリスティヴァが1980年に既に言語自体がフェティッシュféticheではないかと言っている文に出会った、《Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 》。

しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)

ここでのクリスティヴァの議論は、ラカンの友であったオクターヴ・マノーニ Octave Mannoni の名高い「よく知っているが、それでも…( je sais bien, mais quand-même)」のフェティシズムの論理をベースにしている。「よくわかっている、しかし、それでも……」という形式において、「それでも……」以下に語られる無意識的信念へのリビドー備給を示すフェティシズムの定式である。フロイト文脈で言えば、「母さんにペニスがないことは知っている、しかしそれでも…[母さんにはペニスがあると信じている]」ということになる。

だがクリスティヴァはこういった通念としてのフェティシズムの定義を超えて、言語自体がフェティッシュではないだろうか、と問うていることになる。

わたくしが、「言語を使用してコミュニケーション(交換)する動物は、みなフェティシストである」としたのは、ラカン派内では通説となっている次のような主人のシニフィアンS1の議論を元にしており、言語自体がフェティシュでありうることについてまでは思いを馳せていなかった。

…………

《「自己」とは、主体性の実体的中核というフェティッシュ化された錯覚であり、実際は何もない。》(ジジェク、2012)

あなたは、最低限の言語構造をもつために、少なくとも二つのシニフィアンが必要である。だから二つの用語がすでにある。それがS1とS2だ。S1は最初のシニフィアン、フロイトの「境界シニフィアン(境界語表象)border signifier」、「原シンボルprimary symbol」、さらに「原症状primary symptom」とさえ言えるが、特別な地位をもつ。それが主人のシニフィアンであり、欠如を埋めようとし、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。その意味で、S1は “le savoir”、その連鎖に含まれている知の分母denominatorである。 (ポール・ヴェルハーゲ、1995,Paul Verhaeghe、From Impossibility to Inability. Lacan's Theory of the Four Discoursesーー「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe))

《〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。》(ジジェク、Less than nothing、2012)

ラカンは、フロイトの Ich-Spaltung(自我の分割)概念ーーフロイトによって、フェティシズムと精神病の病理的領域に限られた概念--をすべての主体に拡張した。それは、まさに言表内容の主体 sujet de l'énoncé と言表行為の主体 sujet de l'enonciation とのあいだの言語学的区別に言及することによって、である。主体は、《彼が話す限りにおいてのみ主体となるという理由で que le sujet subit de n'être sujet qu'en tant qu'il parle》(E.634)、分裂(分割 Spaltung)をこうむる。

話すことにおいて、そして話すために、主体はけっして十全に自分自身を現しえない。それは、言表内容のなかに現れないのではなく、言表行為によって前提とされ喚起されるものによる(言語の法等々)。(ロレンツォ・キエーザ,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDF)。

 ………… ,

だがクリスティヴァの洞察を考え直してみると、「真のマルクス読み」は、それが暗示的な言い方であれ、既にとっくの昔から気づいていたと言ってよい。もちろんマルクスの「商品のフェティシズム」分析を読解することによってである。

たとえば27歳の小林秀雄。

吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。(……)

脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)

《遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない》における魔術とは、言葉というフェティッシュの魔術でなくてなんだろう?

貨幣物神(Geldfetischs)の謎は、ただ、商品物神(Warenfetischs)の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』)

通念としてのフェティッシュ(足フェチ、下着フェチ、靴フェチ等の謎は、言語フェティシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない・・・

本源的なアタッチメントは、身体の上に言語の痕跡を刻印することである。根本的出来事・情動の痕跡化の原理は、誘惑ではない。去勢の脅かしでもなく、愛の喪失でもない。両親の性交の目撃でもなく、エディプスでもない。そうではなく、言語との関係である。 (Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event.)

小林秀雄だけでなく、柄谷行人もとっくの昔から分かっていたとしてよい(以下の柄谷の『マルクスその可能性の中心』は 1978年出版だが、マルクス論自体は『群像』1974-1975に発表されている。33-34歳時に書かれたことになる)。

マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふるまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。

《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」)

むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。くまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

…………

以下、資料編としていくらかの文章を引用しておこう。

一見したところ、商品はきわめて明白で平凡な物に見える。だがそれを分析してみると、形而上学や神学の細かな問題が一杯詰まった、ひじょうに複雑な物であることがわかる。(マルクス『資本論』)

マルクスは、ふつうの啓蒙主義的な言説とはちがって、(神秘的で神学的な実体であるように見える)商品が「ふつうの」日常的な過程から生まれるということを主張しているのではない。彼は反対に、批判的分析の仕事とは、一見するとごくふつうの物に見えるものの中から「形而上学や神学の細かな問題」を発掘することだと主張しているのだ。商品の物神崇拝=フェティッシュ(商品は内在的・形而上学的力をそなえた魔法の品物だというわれわれの確信)を、われわれの心の中に位置づけてはならない。つまりそれは、われわれが現実をどう(誤)認識しているかという問題ではない。そうではなく、社会的現実そのものの中に位置づけなくてはならない。いいかえると、マルクス主義者が物心崇拝にどっぷり浸かったブルジョワ的主体と出会ったとき、その主体に対するマルクス主義者の批判は、「商品は、あなたの目には特別な力をそなえた魔法の品物のように見えるかもしれないが、じつは人間と人間との関係の洗練された表現にすぎないのだ」というのではなくむしろ、「商品は、あなたの目には社会関係の単純な具現化に見えると(たとえば金は、自分が社会的産物の一部になるための一種の証明書にすぎないと)思っているかもしれないが、本当はそう見えていないはずだ。あなたは自分の社会的現実の中で生き、社会的交換に参加しているために、本当に商品が特別な力をそなえた魔法の品物のように見えるという不気味な現実を目撃しているのだ」というふうなものであるべきだ。(ジジェク『ラカンはこう読め』原著2006年)
マルクスによる価値形態論は、古典経済学が「高慢に冷笑し」去った、貨幣の呪物崇拝(フェティシズム)を再び正面から見さだめようとする企てである。なぜなら、この呪物崇拝こそ、古典経済学が無視しているにもかかわらず、資本主義の原動力として存続しつづけているからだ。したがって、価値形態論が、貨幣の呪物崇拝を否定しているかのようにみえても、それはけっして啓蒙主義的な批判ではなく、むしろ啓蒙主義=古典経済学への批判なのである。すなわち交換に合理的な根拠があるという考えへの批判にほかならない。

マルクスは、古典経済学が冷笑した“幻想”をこそ重視したのである。価値形態をとりだすということは、価値尺度や流通手段にとどまらないような呪物としての貨幣をとりだすことであり、あるいは交換の非合理性(無根拠性)をとりだすことである。だが、この解明が、貨幣のフェティシズムから商品のフェティシズムのレベルに遡行されてなされるとき、それがもはやいかなる意味でも啓蒙主義的でありえないことに注意すべきであろう。それは、“幻想”を批判しうるような合理的立場にいたるのではなく、商品であれ言語であれ、交換という行為にともなう“悲劇的”な条件を照らし出すことになるからである。(柄谷行人『探求』1986年)
・貨幣とは、言語や法と同様に、純粋に「共同体」的な存在である。

・貨幣共同体とは、伝統的な慣習や情念的な一体感にもとづいているのでもなければ、目的合理的にむすばれた契約にもとづいているのでもない。貨幣共同体を貨幣共同体として成立させているのは、ただたんにひとびとが貨幣を貨幣として使っているという事実のみなのである。

・貨幣で商品を買うということは、じぶんの欲しいモノをいま手にもっている人間が貨幣共同体にとっての「異邦人」ではなかったということを、そのたびごとに実証する行為にほかならない。いささか大げさにいえば、それは貨幣を貨幣としてあらしめ、貨幣共同体を貨幣共同体として成立させた歴史の始原のあの「奇跡」を、日常的な時間軸のうえでくりかえすことなのである。(岩井克人『貨幣論』1993)
21世紀──言語と法と貨幣が生み出す社会の「危機」はさらに激しさを増すはずです。……おそらく人間は、言語や法や貨幣といった異物の介入を嫌悪し、知り合ったもの同士が身を寄せ合っていた、小さく安定していた共同体的な集団に回帰したい願望を、本能的に持っているはずです。だが、……もはや閉じた小さな社会への後戻りは不可能です。すでに人間は「自由」なるものを知ってしまったからです。

自由への欲望は無限です。人間が自由を求める限り、言語と法と貨幣の媒介が必要になります。自由を知った社会的生物としての人間は、いくら母胎回帰の願望が強くても、見知らぬもの同士が同じ人間として関係し合える「人間社会」の中で生きていかざるをえません。そして、それが、必然的に生み出していく人間社会の「危機」を、その場その場で一つ一つ解決していくよりほかにないのです。(岩井克人『経済学の宇宙』2015ーー岩井克人版「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」)

…………

マルクスと言わずとも、ニーチェも言語のフェティシズムを語っているとしてよいのかもしれない。

なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。

すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである。(ニーチェ「哲学者の本」(『哲学者に関する著作のための準備草案』1872∼1873))
どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

2016年9月6日火曜日

荷風という「純粋なフェティシスト」

以下、「人はみなフェティシストである」に引き続く。
…………

マルクスとフロイトの「フェティシズム Fetischismus」という用語の意味合いは異なる。

マルクスのフェティシズムの場合、モノではなく、形態 Form が強調される。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態 Form そのものからである。(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」ーー芸術作品とフェティシズム Fetischismus)

これは、マルクスが「貨幣のフェティシズム」から「商品のフェティシズム」へと遡行してフェティシズムを分析したことに大きくかかわる。

貨幣物神 Geldfetischs の謎は、ただ、商品物神 Warenfetischs の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』)

貨幣物神とすれば、我々はすぐさま黄金物神を想起し、それは、モノというフェティッシュを崇めること「錯覚」してしまう。だが商品物神への遡行とは、ある関係構造の場に置かれることを分析したということにかかわり、それが(柄谷行人、岩井克人、あるいはジジェクによれば)マルクスの価値形態論の核心である(参照:柄谷参照:岩井参照:ジジェク)。

大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(『資本論』)。ーー柄谷行人『トランスクリティーク』2001)

いわゆる中期柄谷行人なら次のように言う。

貨幣のフェティシズムは、守銭奴において、あるいは「黄金欲」において、典型的にあらわれる。しかし、マルクスが指摘したように、それは黄金という対象物に由来するのではなく、 黄金がたまたま(一般的)等価形態にあるということに由来する。守銭奴の貨幣フェティシ ズムは、黄金というもの(使用価値)に向けられた欲望から生じるのではなく、それが等価 形態にあり、したがって「直接的交換可能性」(交換価値)をもつがゆえに、その「可能性」 のみを蓄積しようとするところから生じている。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986,P.112)

他方、フロイトのフェティシズムとは、(一般に)フェティシュとしてのモノにかかわる。これは、われわれの通念上のフェティシズム、たとえば、足フェチ、靴フェチ、下着フェチ等々に合致する。

呪物 Fetisch とは、男児があると信じ、かつ断念しようとしない女性(母)の陰茎に対する代理物なのである。(…)

足とか靴が呪物――あるいはその一部――として優先的に選ばれるが、これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー瞥見した陰毛の生えている光景を定着させる。これにはあの強く求めていた女性の陰茎の姿がつづいていたはずなのである。(フロイト『呪物崇拝 Fetischismus』旧訳 フロイト著作集)

ジジェク=ラカンは、このフロイトのフェティシズムの捉え方を、マルクスの「形態」に近づけて再解釈する。

《母のペニスの欠如は、ファルスの特性が現われる場所である[… ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus]》(Lacan,E.877)。われわれは、この指摘にあらゆる重要性を与えなければならない。それはまさにファルスの機能とその特性を識別するものである。

そしてここに、我々はフロイトの紛らわしい「ナイーヴな」フェティッシュ概念、すなわち主体が、女のペニスの欠如を見る前に見た最後の物としてのフェティッシュという考え方を更生(リハビリ)すべきである。フェティッシュが覆うものは、単純に女におけるペニスの欠如ではない(…)。そうではなく、この、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者的」意味において、差延(ズレ)的であるという事実にある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

《この、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者的」意味において、差延(ズレ)的であるという事実》という表現から、わたくしは、ロラン・バルトの「出現ー消滅 apparition-disparition」をめぐる叙述を思いおこさざるをえない。

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

モノではなく、出現ー消滅の演出にどうしようもなく魅せられてしまうのが、真のフェティシストではないだろうか。




次のGIFは「純粋なフェティシスト」としてのわたくしには、いささか見えすぎるきらいがあるが、おおむね不純なフェティシストであるだろうみなさんのために掲げておこう。






ところで、現在のマルクス研究者のなかにも、通念としてのフェティシズム概念に囚われてか、「形態」ではなく「物象化」ーー使用価値等のモノ化--としていまだ捉えている場合も多いのかもしれない(すなわち彼らもいまだ不純なフェティシュ解釈にとどまっている)。

…我々は、標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品のフェティシズム」の題目を徹底的に再形式化するように強いられる。それは、後者が、確固とした対象としてのフェティッシュ、その安定した現前が社会的仲裁を煙に巻くものとしてのフェティッシュ概念に依拠しているかぎり、においてである。

逆説的に、フェティシズムは、フェティッシュ自体がまさに「脱物質化」されたときに、そのアクメ(絶頂)に達する。それは、流動的な「非物質的」ヴァーチャルな実在 entity に変換される。貨幣のフェティシズムとは、電子的形式への移行に伴って最高潮に達する。すなわち、貨幣の物質性の最後の痕跡が消滅するときである。(同ジジェク、2012)

とすればーージジェクのいうように、《流動的な「非物質的」ヴァーチャルな実在》が純粋なフェティッシュであるならばーー、いわゆる「足フェチ」の谷崎潤一郎よりも、「覗き趣味」の永井荷風のほうが、純粋なフェティシストであるということは言えないだろうか?

まず、谷崎という「不純な」フェティシストの文章を抜き出そう。

丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清の前を通りかかつた時、彼はふと門口に待つて居る駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足がこぼれて居るのに気づいた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持つて映つた。(谷崎潤一郎『刺青』)
私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて(『痴人の愛』)
春琴は寝床に這入つて肩を揉め腰をさすれと云われるままに暫く按摩しているともうよいから足を温めよと云ふ畏まつて裾の方に横臥し懐を開いて彼女の蹠を我が胸の上に載せたが胸が氷の如く冷えるのに反し顔は寝床のいきれのためにかつかつと火照つて歯痛がいよいよ烈しくなるのに溜まりか、胸の代わりに脹れた顔を蹠へあてて辛うじて凌いでいると忽ち春琴がいやと云ふ程その顔を蹴つたので佐助は覚えずあつと云つて飛び上がつた。(『春琴抄』)
盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(『瘋癲老人日記』)

以下は、荷風の覗き趣味の「噂」である。

「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」 (半藤一利と新藤兼人、そして松本哉の語る永井荷風
関根歌というそんなに美人さんじゃない芸者がいたんですが、荷風はこの関根歌を落籍せ、麹町に「幾代」という待合の店を持たせました

ここで素人客の部屋を覗き見することにしたのです
小さい柄のついた細長い鋸を買って、押入れの中で穴をあける作業に夢中
小さな穴が開くと、本気で大喜びし、夢中でのぞきました

でもって、「今のはあんまりよくなかった」とか、「あの方たちはいい。席料はまけてあげなさい」なんて言ったりしてました(のぞき癖
昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。

色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風さん陣こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。(古井由吉『東京物語考』)

これらは名高い話で荷風ファンなら当然知っているだろうが、なんと彼は戦後住まった市川の自宅まで覗きをしていたらしい。なんという至高のフェティシストよ!





…………

文脈の都合上、谷崎を不純なフェティシストとしてしまったが、もちろん異なった観点があるのを知らないわけではない。上にかかげた文だけを抜き出して足フェチに焦点を絞る見方は、たんなる通念としての谷崎のイメージの範囲を出ない。

『盲目物語』でも『春琴抄』でもべつだんとりたてて女性の乳房が登場するわけではない。だが、そこには、視力の喪失によってのみ可能となるような特異な官能性が漲っており、それは性交によるオルガスムスの擬似体験よりはむしろ、無意識的な幼児期における乳首と唇との至福の交合の不意の再現に近いものであるかに思われるのだ。谷崎の繰り出しつづける粘着的な言葉の流れに身を浸していると、人はあたかも羊水に全身を浸して暗闇を漂っているかのような印象さえ受ける。もはや遠近のパースペクティヴもなく、中心と周縁とを分かつヒエラルキーもない、パースペクティヴやヒエラルキーといった視覚的秩序によって組み立てられた世界像、つまり世界のイメージそのものが刻々と崩壊し、ワタシニ触レルナカレという命令が平然と無視されて、言葉と言葉との結びつきが肌の滑らかさや肉の柔らかさによってのみ可能となるような、イマジネール以前のイマジネールが展開してゆく。『春琴抄』の佐助は、晩年になってから「しばしば掌を伸べてお師匠様の足はちやうど此の手の上へ載る程であつたと云ひ、又我が頬を撫でながら踵の肉でさへ己の此処よりはすべすべして柔らかであつたと」語ったという。だがこれは、むしろ谷崎の言葉が言葉それ自身をめぐって呟いている感想なのではないか。

女体への谷崎の執着が、とりわけ足という部位に焦点を結ぶものであったことはよく知られている。若い女の柔らかな蹠をフェティッシュとして聖化しそれで顔を踏まれることの快楽を夢想してやまない谷崎的マゾヒズムが、文学的に昇華された倒錯的症例の一形態としてしばしば語られるわけだが、谷崎の織り上げてゆく言葉の物質的表情それ自体は、むしろ乳房と唇とのかすかな触れ合いがいつまでも引き延ばされてゆくといった印象をかたちづくっているように思う。盲目という特権的主題がそれをさらに誇張するのだが、瞳を失った者のイマジネールは、内面的な暗闇の中に引き籠もってゆく代わりに、肉と肉の物質的な接触へと向かってあくまで凶暴に開かれてゆくことになるのだ。乳首と唇のエクリチュール。……(松浦寿輝『官能の哲学』 「乳房が眼を閉じる」)

谷崎は盲目のエクリチュール、あるいは触覚の作家なのだ。この松浦寿輝の叙述する谷崎に「出現ー消滅 apparition-disparition」、「揺らめく閃光 un éclair qui flotte」(「揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉」)の作家谷崎潤一郎に思いを馳せないでどうしていられるというのだろう?

またすくなくとも谷崎のモノとしてのフェティッシュという「通説」の範囲にとどまってさえ、彼にとってのモノは、足から乳房へ、またその逆へ、と揺らめいているということは十分ありうる。たとえば「乳房」は随筆である『陰影礼賛』にさえあらわれる。

私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味(ぬくみ)とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではあゝは行かない。第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁(ふち)がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣(ふく)む前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心特、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。
私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。 (谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)

この谷崎の側面は、「雪子のシミ」でも示したが、『細雪』とは、雪子の顔にあらわれる「出現ー消滅の演出」の物語としても読める。






2016年9月5日月曜日

人はみなフェティシストである

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S.10)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
ラカンの定式において、フェティシストの対象は、− φ (去勢)の上の「a」である。すなわち去勢の裂け目を埋め合わせる対象a である。(ジジェク、パララックス・ヴュー、2006)
フェティッシュと幻想は同じ地位にある。フェティッシュは母の去勢を覆う。(Vincent Zumstein, 2006)

去勢という言葉が嫌いな人は、ここでこう引用しておいてもよい。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique (S,17)

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (S.17)

幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。
À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(S.20)


大事なのは象徴的去勢と想像的去勢を混同させないことだ。

フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を、人間発達に構造的帰結として定義した。ここで、人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に、我々は、我々自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能を補強する。というのは、主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの道によって進まざるを得ないから。こうして、享楽の不可能は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、〈他者〉から来た徴付けのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、まさにこれらのシニフィアンの使用は、ある帰結をもつ。すなわち、享楽は、決して十全には到達されえない。これは、象徴界と現実界の裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に抱くことは不可能なのだ。

社会的に言えば、この構造的な既成事実の行使は、女と享楽・父と禁止をつなぐ。ともに、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の命取りの享楽・父-去勢者の復讐ーーと結びあわさったものだ。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる〈他者 〉(m)Other が、子どもの身体の上に、享楽の侵入を徴付けるから。子ども自身の享楽は、〈他者〉から来る。

享楽を近づけないようにする必要と、享楽への道の上に歯止めを作る必要は、次に、母と彼女の享楽を、ともに禁止されたものとしてーー想定上、父によって、去勢によって罰されるもにとしてーー特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人が話す瞬間から、享楽は不可能であるという真理を。これが、構造の既成の事実としての「象徴的去勢」である。

この理論とともに、ラカンは、フロイトのエディプスコンプレックス、そして彼自身の以前のその概念化の両方から、ともに離れた。享楽を禁止し主体を去勢で脅かす権威主義的父、それは、社会的神経症の構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな既成の事実、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティあるいは享楽の問題であれ、最終的な全体性の可能性が夢みられたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、いっそう更に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。……(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009、私訳)

…………

さて、もとの文脈に戻れば、われわれはみな「倒錯的」である(参照:梯子 échelle と脚立 escabeau)。

去勢が意味するのは、欲望の〈法〉の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない、ということである。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827] 
倒錯とは、欲望に起こる不意の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である。享楽がけっしてその場ーーいわゆる象徴秩序が欲望をそこに置きたい場のなかにないという意味で。そしてこれが、ラカンが後に父の隠喩についてアイロニカルであった理由だ。彼は言う、父の隠喩もまた倒錯だ、と。彼は、父の隠喩をpère-version と書いた。…父へと向かう動き [vers le père]と。(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)

ラカンが言うように、人間の現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」(S.18)であるなら、我々はみなフェティシストである。

ーーやあ、で、人間はみな妄想的だ、ってのとどう違うんだろ、これ?

人は皆妄想的である、« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan 1978)

いずれにせよ、マルクス『資本論』の「商品のフェティシズム」分析というのは、このフェティシズム=世界は見せかけの文脈で読まなくちゃいけない。

人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。[Chercher l'origine de la notion de symptôme… qui n'est pas du tout à chercher dans HIPPOCRATE …qui est a chercher dans MARX]》(Lacan,S.22,18 Février 1975)

資本論だけでなくさらに遡っても、「外被」とか「言語の異国性」とか言っている(参照)。

交換価値とは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。(マルクス『経済学批判』)
貨幣を言語と比較することも、これ(貨幣を血液と比較すること)におとらずまちがっている。(……)類推は言語のうちにあるのではなく、言語の異国性 Fremdheit のうちにある。(マルクス『グルントリセ』ーー)

すなわち言語を使用してコミュニケーション(交換)する動物は、みなフェティシストである。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリステヴァ1980、J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection)



2016年9月4日日曜日

雪子のシミ

一人の立派にハジ(聖地巡礼をすませた回教徒の尊称)。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真っ白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。

しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかなしみがある。純白の頭巾に。(ロラン・バルト『偶景』)

《シミが現れるとともに、欲望の領野において、その背後に隠されたものの蘇生の可能性が準備される。Avec la tache apparaît, se prépare la possibilité de résurgence, dans le champ du désir, de ce qu'il y a derrière d'occulte》(ラカン、S.10)

ーーここでのシミとは対象a のことであり、外密(あなたのなかにあって最も親密なものでありながら外部にあるもの)のことである。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité

ーー異物とはフロイト概念Fremdkörper が起源(参照)。

『細雪』とは、実は外密=異物の物語としても読める。

雪子の左の眼の縁、―――委しく云えば、上眼瞼の、眉毛の下のところに、ときどき微かな翳りのようなものが現れたり引っ込んだりするようになったのは、つい最近のことなので、貞之助などもそれに気が付いたのは三月か半年ぐらい前のことでしかない。
……結果、これは妙子の方がよい、幸子だと却って大層らしくもなり、当然貞之助までがその議に与っているように邪推される恐れもあるから、妙子が何気ない風をして軽く切り出したら、と云うことになった。で、その後又雪子の顔にシミが濃く現れていた或る日、彼女がひとり化粧部屋で鏡に向っている時に、偶然妙子がそこに居合せたようにして、

「雪姉ちゃん、その眼の縁のもん心配せんかてええねんで」と、小声で云ってみた。雪子はただ鼻で、「ふん」と云っただけであったが、妙子は努めて彼女と視線を合せないように下を向いたままで、「そのこと、婦人雑誌に出てたのん、雪姉ちゃん読んだやろか。まだやったら見せたげよか」「読んだかも知れん」「ふうん、読んだのん。―――それ、結婚したら直るもんやし、注射でも直るもんやねんて」「ふん」「知ってるのん、雪姉ちゃん」「ふん」(谷崎潤一郎『細雪』)

《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.]》(ラカン、セミネール11)

雪子は結婚を間近にして、シミは消え去った。細雪の最後の文はこうだ、《下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまた続いていた》。もちろん糞便もラカンにとっては対象aである。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

ーーというわけで、ひさしぶりに青空文庫の大きな文字で、『細雪』上中下の上のみーーまだ入庫しているのは上のみーーを読んでみたけれど、たぶん中下を読んでもそういうことが言えるんじゃないか。


…………

《これらの長篇を精神分析的に解読した場合になる解釈……そんな解釈を得意がって提起するほどわれわれは文学的に破廉恥ではないつもりだ。そうした事実とは、どんな不注意な読者でも見逃しえない図式として、そこに露呈されているだけなのである》(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)




2016年9月3日土曜日

アリアドネ・石鹸の広告・対象a

いやあ君、「人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望」で記したことは、まともな芸術家や文学者ならとっくの昔から分かっていることだよ、繰り返すけど。

文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは、よくみるためではなく、みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。窓が景色を作るのだ。(ロラン・バルト『S/Z』沢崎浩平訳)

René Magritte,La condition humaine,1933


ラカンはセミネールX にて、根本幻想を《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》として明瞭に叙述している。この《馬鹿げたテクニックTechnique absurde》は、まさに《人が窓から見るものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》こと、斜線を引かれた大他者・大他者のなかの欠如Ⱥ を見ないことにある、と。(ロレンツォ・キエーザ、2007)


たとえば以下の文はすべて対象aだよ。


プルーストより。

 【石鹸の広告】
われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」)

【シャンゼリゼの雪】 
きょうの私自身は、見すてられた石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、――われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。

たとえば本は、その点に関しては、事物としてこんなはたらきをする、すなわち、その背の綴目のひらきかたとか、その紙質のきめとかは、それぞれそのなかに、りっぱに一つの回想を保存していたのであって、当時の私がヴェネチアをどんなふうに想像していたか、そこに行きたいという欲望がどんなだったか、といったことのその回想は、本の文章そのものとおなじほど生き生きしている。いや、それ以上に生き生きしているとさえいおう、なぜなら、文章のほうは、ときどき障害を来たすからで、たとえばある人の写真をまえにしてその人を思いだそうとするのは、その人のことを思うだけでがまんしているときよりも、かえってうまく行かないのである。

むろん、私の少年時代の多くの本、そして、ああ、ベルゴット自身のある種の本については、疲れた晩に、それらを手にとることがある、しかしそれは、私が汽車にでも乗って、旅先の異なる風物をながめ、昔の空気を吸って、気を休めたいと思ったのと変わりはなかった。しかも、求めてえられるその種の喚起は、本を長くよみつづけることで、かえってさまたげられることがあるものだ。ベルゴットの一冊にそんなのがある(大公の図書室にあるそれには、極端にへつらった俗悪な献辞がついていた)、それを私は、ジルベルトに合えなかった冬の一日に読んだ、そしていまは、あのように私が愛していた文章を、そこからうまく見つけだすことができない。いくつかの語が、その文章の個所を私に確信させそうだが、だめだ。私がそこに見出した美は一体どこへ行ったのか? しかしその書物自身からは、私がそれを読んだ日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える。(プルースト「見出されたとき」)


以下、ロラン・バルトの『明るい部屋』より

【プンクトゥム】
ある種の写真に私がいだく愛着について(本書の冒頭で、すでにずっと前に)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりその場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥムと呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕〔ステイグマ〕》が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間」である。「写真」のノエマ(《それは=かつて=あった》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象である。(p.118)

【私自身を引き渡すもの】 
たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。 (p.58)

【何ものかの一閃】 
ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻である。ある何ものかの標識がつけられることによって、写真はもはや任意のものではなくなる。そのある何ものかが一閃して、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのである(指向対象=被写体が取るに足りないものであっても、それは大した問題ではない)。p.62

【アリアドネ】
その特別の写真のなかには、何か「写真」の本質のようなものが漂っていた。そこで私は、私にとって確実に存在しているこの唯一の写真から、「写真」のすべて(その《本性》を《引き出す》こと、この写真をいわば導き手として私の最後の探求をおこなうことに決めた。この世にある写真の全体は一つの「迷路」を形づくっていた。その「迷路」のまっただなかにあって、私は、このただ一枚の写真以外に何も見出せないことを知り、ニーチェの警句を地で行くことにしたのだ。すなわち《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。これからは、快楽の観点に立つのではなく、ロマン主義的に言えば愛や死と呼ばれるであろうものとの関連において、「写真」の明証を問わなければならない、ということを私は理解したのだった。

(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。)(ロラン・バルト『明るい部屋』pp.88-89)

これらはすべて(基本的に)対象a=眼差しのことを言っている。

・目と眼差しL’œil et le regard の二律背反的な関係を思い出してみよう。ラカンによれば、対象を見ている目は主体の側にあるが、眼差しは対象の側にある。私が対象を見るとき、かならず対象はすでに私を見つめている。その点に立つと私には対象が見えないような、ある点から。
・眼差しとは、いわば、(私の眼差しの)枠がすでに絵の「内容」の中に書き込まれているような点である。(ジジェク、斜めから見る、1991)

対象a、すなわち剰余享楽のこと。

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽jouissance、それは欲望《に応える》もの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

もちろん、眼差しとは中井久夫のように捉えてもいい。

経験的自己のあり方は感覚によって違う。(……)視覚は、(成人の場合)頭部の15センチ後ろから見るような映像として視覚世界を把握している。ここは身体外の空間であって虚点である。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)



分身とは、私 moi プラス対象aーー私のイメージに付け加えられた不可視の部分ーーと同じものである。…ラカンは「眼差し」を喪われた対象の至高の現前 presentationとした。鏡のなかで、人は自分の目を見る。しかし喪われた部分である眼差しを見ない。…分身が生み出す不安とは、対象の現象(幽霊)の最も揺るぎない徴 the surest signである。(Mladen Dolar,I Shall Be with You on Your Wedding-Night": Lacan and the Uncanny,1991、ーー「分身Doppelgänger =想像的自我+異物 Fremdkörper」)

…………

それにセミネールⅩの記述とは、現在では次の評価を受けている。

セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!

そして私は、ラカンはセミネールX 後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と自問した。…いや私はそんなことは言わない。それは私の考えていることでない。

ラカンはセミネールXXに引き続くセミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。…あたかもセミネールX にて描写した視野を再び取り上げるかのようにして。

…不安セミネールにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ミレール,Objects a in the analytic experience、2006

もちろん古典的なミレール=ラカンの読解はある。

現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan,E.554,1966)

◆ミレールの注釈(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré 1984)

対象を〈現実界〉として密かに無視することによって、現実の安定が「ひとかけらの現実」として保たれているのだ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉がなくなったら、〈対象a〉はどうやって現実に枠をはめるのか。   




〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実を枠にはめるのである。 〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを取り除くことが、それに枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,1984)

だが、ここからは既にいくらか距離をとっている。

でも基本は同じ(以下、幻想と対象a)

◆Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”

――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいないと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。



2016年9月2日金曜日

人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望

◆言存在(語る存在 parlêtre)

『テレヴィジョン』1973のテキストにあたれば、あなたがたは「無意識」という言葉について私がラカンに質問しているのを見ることができます。私はシンプルに告げている、《無意識ーーなんと奇妙な言葉でしょう! L'inconscient - drôle de mot ! 》。

というのは、人はいざ知らず私には、この用語は実際のところ、ラカンがその教えで到った核心とはあまり合致しないように見えたからです。彼は応答した…きっぱりとした口調で取り下げた、《フロイトはそれ以上のものを見いださなかった。そしてそれについてとやかく言うことはない。Freud n'en a pas trouvé de meilleur, et il n'y a pas à y revenir》。

ラカンは認めはした、「無意識」は不十分だと。けれどもそれを変えるどんな試みも拒絶した。しかしながら二年のち翻意した。『Joyce le Symptôme』1975のテキストに当たれば見ることができます。そこには新造語が提出されている。…ラカンはフロイトの「無意識」という言葉を「言存在 parlêtre」に変えました。(L’INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT,LECTURE BY JACQUES-ALAIN MILLER,2014)

ーー《D'où mon expression de parlêtre qui se substituera à l'ICS de Freud (inconscient, qu'on lit ça)》(Lacan,AE.565)

parlêtre用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)

-ーー《では私たちは考えるべきなのだろうか、ラカンの教えにおける1970年代の享楽の効果は、1960年代の欲望の効果にとって変わったと?…全くそうではない。》(Du parlêtre  par Colette Soler,2008)


◆享楽の主体、欲望の主体、幻想の主体

「享楽の主体 sujet de la jouissance 」という表現は用心して使わなければならない。私が知る限り、ラカンは一度しかその表現を使用してない。問題はまさに享楽の主体のようなものがあるのかどうかだ。差し当たって、我々が知っていることの全ては、まさに問題含みの幻想のなかの主体の位置である。(ミレール、The Axiom of the Fantasm Jacques-Alain Miller

ーー欲望の主体 sujet du désir という表現は用心して使わなければならない。実際は、幻想の主体sujet du fantasme のことである。

ーー疎外された労働を乗りこえようとする革命的実践の主体と、疎外された欲望の主体Sujet du désir aliéné のあいだにはどんな関係があるのでしょうか。(……)

疎外された欲望の主体 Sujet du désir aliéné というのは、おそらく私が、「~の欲望は〈他者〉の欲望である」と表現することをおっしゃりたいのでしょう。それは正しいのですが、ただ、欲望の主体というものはありません il n 'y a pas de sujet du désirあるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme 、つまりある対象によって引きおこされた主体の分裂、つまり対象によって覆われた主体の分裂、より正確にいえば、この対象 l'objet petit aとは、その場所が原因というカテゴリーによって主体の中で占められるような対象なのですが、こうした対象によって覆われた主体の分裂です。

この対象は、哲学的考察には欠如しており、そのために哲学的考察は自らを位置づけることができなくなっている、つまり、自らが無意味であることを隠しているのです。 (ラカン、哲学科の学生への返答( Lacan,REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966、向井雅明訳)

《皆さんは焦らないようにしてください。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうからです。Méfiez-vous donc de votre précipitation: pour un temps encore, l’aliment ne manquera pas à la broutille philosophique.》(同上)

私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哲学の哀れな流産 ces misérables avortons de philosophie 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。( Lacan, Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse,1966)

この1966年前後、ラカンはことさら哲学罵倒が際立ったようだ。数年後には、やや穏和になる。

私が哲学を攻撃してるだって? そりゃひどく大袈裟だよ!(ラカン、Seminar XVII、1969-1970)

とはいえ、対象a、すなわち剰余享楽、あるいはマルクスの剰余価値なしでどんな哲学ももはやない、ーー《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら。》(バディウ、2005)

何でも対象aで解釈しやアがるだと? マルクスが剰余価値を発明したように、わしは剰余享楽(対象a)を発明したのだよ、マルクスの概念が永遠であるように、わしの概念も永遠だよ・・・

ーーもちろん意訳である。

《Ce plus-de-jouir est apparu, dans mes derniers discours, en fonction d'homologie par rapport à la plus-value marxiste. Homologie, c'est bien dire - et je l'ai souligné - que leur rapport n'est pas d'analogie, il s'agit bien de la même chose.

Cet objet(a), si en un certain sens je l'ai inventé… comme on peut dire que ce que le discours de MARX invente - qu'est-ce à dire ? - c'est la trouvaille de la plus-value …》(Lacan.S.16,27 Novembre 1968)

「そうだな、わしが真に理解されるようになるのは少なくとも50年ほどかかるのだよ、マルクスが真に理解されるようになったのにどれほどかかったのかに思いを馳せてみるべきだね」(参照

※ジジェク、2016による「快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir」を参照のこと。

さて、いささか寄り道したがもとの文脈に戻る。

あなたは精神分析家として機能しないだろう。もしあなたが知っていること、あなた自身の世界が妄想的であることに気づいていないなら。ーー我々はこれを幻想的と言う。だが、幻想的という意味は、妄想的のことだ。分析家であることは次のことを知ることである。あなた自身の世界・あなた自身の幻想・あなたが「意味をなす make sense」仕方が妄想的であることを。この理由で、あなたはそれを捨て去らなければならない。あなたの患者の正しい妄想、患者の「意味をなす」仕方に、ひたすら気づくために。

これが、あなたがたにエラスムスの『痴愚神礼讃』を推奨する理由だ。この古典、彼自身の仕方で、エラスムスはまさにこう言う、ーーみな妄想的だ、と。私はこの話をこの文をもって終える。「意味をなすこと」は、それ自体妄想的である。すなわち、意味をなすことは、我々を現実界から引き離す。我々が現実界と呼ぶものは、「意味をなさない」何ものかだ。そして、この理由で、我々は現実界というカテゴリーを使用する。だから、意味をなすことに御用心! 私は気づいている、この一時間半、私が「意味をなした」ことを。だから、私が言ったことに御用心!(ミレール、Ordinary psychosis revisited,2008ーー「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」)

ーーかつて神経症の主体は、幻想の主体と言われ、精神病の主体は、妄想の主体と言われたが、最後のラカンにとって結局、われわれは皆「妄想の主体」ということになるのだろうか。

人は皆妄想的である、« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan 1978)

欠如 している大他者という概念は、幻想への新しい接近の領野を開く。まさにこの大他者の欠如を満たす試み、大他者の一貫性を再構成するものとして捉えるかぎりにおいて。この理由で、幻想とパラノイア(妄想)は本来、その最も基本的なレベルでは、互いに繋がっている。パラノイアとは「大他者の大他者がある」という信念である。別の大他者、外部に現われた社会的現実の大他者の裏に隠れた大他者、社会的生活の不足の効果をコントロールし、その一貫性を保証してくれる「大他者の大他者」への信念である。((ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

さて、ここで唐突にこう引用しておこう。

私は相対的にはマヌケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にマヌケだな。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな(ラカン、S.24,17 Mai 1977)

Comme je ne suis débile mental que relativement… je veux dire que je le suis comme tout le monde …comme je ne suis débile mental que relativement, c'est peut-être qu'une petite lumière me serait arrivée. (S.24)


…………


◆享楽、不安、欲望

ミレールが《ラカンは一度しかその表現を使用してない》というラカンの「享楽の主体」という用語は次のような形で現れる。その前段も含めての摘要。

ーーセミネールⅩ「不安」1962-1963より(Patrick Valas版(Staferla版PDF))

・セミネールⅩ、p.39



対象a とは、主体の構成の残余であり、大他者の他者性 l'altérité de l'Autre の唯一の証拠である。 cette preuve et seule garantie en fin de compte de l'altérité de l'Autre, c'est le petit(a). P.39

対象a とは、主体から喪われたもの・主体の落し物・言説の普遍性から締め出されたものである。

ーーもちろん、表現の仕方が異なるだけで、この「落し物」はまともな詩人なら(哲学者とは異なり)とっくの昔から知っている。

ふっと沈黙が訪れたときに
忘れ物をしてきたことに気づく
何かをどこかに置いてきてしまった

ーー谷川俊太郎「読まない」『詩に就いて』、2015年
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

――「かなしみ」 『二十億年の孤独』 1952年

ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…

«Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez» (Lacan,S.24 du 17 mai 1977).


・セミネールⅩ、p.312-314






対象a とは、欲望の原因であり、主体の背後にあって主体に先立つ。対象a は、主体の動因であり、主体を衝迫し欲望の力動性をもたらす。

対象aとは、Ⱥから縦線によって分離されている。が、この他者Aの欠如に近接している。対象a とは、他者Aのなかに欠如しているものとして幻想のなかに現れる享楽の残余である。








・セミネールⅩp.336



人間には根源的な三つの次元がある。すなわち、享楽・不安・欲望 la jouissance, l'angoisse et le désir である。

主体になることとは、常に言語の主体になることである。主体化の過程は、既に存在しているシニフィアンを通して起こる。ここで架空の主体S(原主体・来るべき主体)を「享楽の主体」と呼ぶ。 sujet …mais mythiquement, nous l'appellerons …« sujet de la jouissance »


享楽の主体S は、他者A の領野に場所を見出さねばならない(S →A)。シニフィアンを提供する最初の〈他者〉は母であり、原享楽が位置づけられる場である。

この分割作用の結果は、Ⱥ ・他者A のなかの欠如によって決定づけられている。この結果は、主体は完全には他者Aのなかに入り込めないという事実から来る。すなわち、残余a がある。この残余は象徴化 la significantisation に抵抗するものであり、シニフィアンに還元され得ない享楽の部分・対象a である。

主体$ がこの対象a に直面するときとは、常に不安の瞬間である。それはシニフィアンが欠けている現実界に対する反作用としての不安である。

この作用において、対象a は原因-動因の場をとる。ここに主体の分割と欲望の起源が位置づけられなければならない。欲望の原因は、構造的に主体の分割・対象a と等価である。

欲望は何に向かうのか? 欲望は、シニフィアン、すなわち他者A のなかに入り込むことによって、不安を捨て去りたい。この点において、対象a は他者A への入口である。他者A への欲望は常に対象a への欲望である。ここでは不安は欲望と享楽とのあいだの仲介として機能する。l'angoisse fait le médium du désir à la jouissance

ここにおいて、 欲望にとっての支え・欲望のモデル化としての幻想がある(幻想の式:$ ◊ a)。幻想は、主体$ と他者A とのあいだに二重の拘束を作り上げる。主体$ の欲望は、他者Aの欠如に向かう。


ーー以上の摘要は、次の三つの論文を参照した。

1、‘Increasing Forms of Anxiety in Neuroses and Psychoses’ by Carmen Gallano PDF

2、ヴェルハーゲ,1999(DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE,PDF, pp.173-174)

3、Rapunzel APHORISMS ON LOVE,2015


ここでセミネールⅩⅨに現れる四つの言説の基礎となる形式的構造を示す次の図を掲げる。



一般的によく知られているのは、セミネールⅩⅦなどに現れる次の図である。





ここでは当面次のように読んでおこう。すなわち、Ⱥという真理の原動因に衝き動かされた見せかけ SEMBLANTの主体は、大他者Aの享楽に到ろうとするが、完全には他者Aのなかに入り込めない。ゆえに剰余享楽(対象a)が生み出される。


…………

◆不安と幻想


以下、ロレンツォ・キエーザによるやや難解版。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)

ーーこの文は、五種類の対象aについての記述の後に引き続いてある(参照:「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」)。


【主体は大他者の欲望の対象aとは何?】
主体は大他者の欲望の対象a である、そしてこの条件は究極的には主体自身の幻想的欲望の核と見なされるべきだとラカンが言うとき、その正確な意味は何なのだろうか?

ラカンはセミネールX にて、根本幻想を《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》として明瞭に叙述している。この《馬鹿げたテクニックTechnique absurde》は、まさに《人が窓から見るものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》こと、斜線を引かれた大他者・大他者のなかの欠如Ⱥ を見ないことにある、と。

【分身と対象a】 
(……)我々は既に吟味した。子どもが大他者が斜線を引かれていることȺ を悟るずっと前に、彼は欲求不満の象徴的弁証法のなかに入り込む仕方を。すなわち始まりには、原象徴化の窓がある。それはエディプス・コンプレックスの最初の段階である。次にエディプスコンプレックスの第二段階の初めに、窓は深淵を枠組みしていることに子どもは気づく。彼は窓から容易に落ちる(母に呑み込まれる)かもしれない。したがって絵によって描写された光景は、深淵を覆い隠す機能を持っている。

さらに重要なのは、ラカンはセミネールX にて、そのような「防衛的」光景は、異なった諸主体にてどんな個別の特徴があろうとも常に、「分身」としての他者の非鏡像的 unspecularizable イマージュの肖像を描くことを暗に示している。言い換えれば、根本幻想のなかで、想像的他者は「欠如していないイマージュnonlacking image」として「見られる(観察される)」。このイマージュとは、主体から去勢され喪われた部分対象を所有している。したがって「分身」とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象a である。

これが殊更はっきりと現れるのは、フロイトの名高い症例狼男においてである。ラカン曰く、彼の反復される夢は我々に《その構造のなかでヴェールを剥ぎ取られた純粋幻想 le fantasme pur dévoilé dans sa structure》の見事な事例を提供すると。窓が開かれ、狼たちが樹上に止まって患者を見詰める、彼自身の眼差しで(狼男自身の身体の非鏡像的残余にて)。ラカンはまたホフマンの『砂男』の物語において同様の光景に言及する。人形オリンピアは学生ナターニエルの目によってのみ完成されうる、と。

※ 《「人間は想像界から始まる」という通念は疑わしい》(ミレール、2008)


【ファルス化された対象aの機能】
これらの事例が示しているのは、喪われた部分対象a ・まずなによりもファルス化された眼差しは、いかに大他者のなかの空虚ーーȺとしての彼の純粋欲望ーーを覆い隠すものかであり、それがいかに無意識の根本幻想のなかで「分身」として現れるかということである。幻想のなかで、私は私たち自身を大他者のファルス化された欲望として見る。私は私自身を大他者のなかに見る、彼のリアルな欲望のなかに「崩れ落ちる」ことのないように。

したがって、もはや大他者の欲望としての主体の欲望について語るのは十分でない。我々がここでより明確に次のことを取り扱っている限り。《大他者のなかの欲望…私の欲望は空洞のなかに入り込む、私であるところの対象の形式(偽装)のなかにある空洞に。désir dans l'Autre…mon désir entre dans l'antre où il est attendu de toute éternité sous la forme de l'objet que je suis》(S.10)

ゆえに最も純粋には、私の幻想的欲望(防衛としての欲望)の対象は「私が私自身、対象である」という事態のなかの大他者の欲望である。これが説明するのは、なぜ幻想はーーシンプルに二次的同一化と個体化をもたらすものにも拘わらずーー本質的には《根源的脱主体化 désubjectivation en tout cas radicale》を基盤とした構造であるかということである。それは《主体が観客、単純には目の状態へと還元される le sujet n'est plus là que comme une sorte de spectateur réduit à l'état de spectateur, ou simplement d'œil》(S.4)ための脱主体化である。

この引用を解釈するとき、(観客の)個人化された行為としての視覚のようなものと我々はうっかりと考えてしまう危険を避けねばならない。ちょうど今、上に事例にて叙述したように、幻想はむしろ「相互受動的 interpassive」光景であり、そこでは人は「分身」のなかに位置する喪われた部分対象としての「彼の」眼差しによって「自分自身が見られる」。

この文脈においてのみ、我々はセミネールX にて提供された幻想の謎めいた定義を理解しうる、《私は言おう、a という$ の欲望 ・幻想の式 $ ◊ a は、この展望のなかで次のように翻訳しうる、と。je dirai que $ désir de (a), $ ◊ a formule du fantasme, ça peut se traduire, dans cette perspective 》、すなわち《大他者は姿を消してゆく、気絶する、私がそうであるところの対象の前で。私が己自身を見ることから差し引かれものの前で。 l'Autre s'évanouisse, se pâme, dirais-je, devant cet objet que je suis, déduction faite de ce que je me vois 》(S.10)

【リアルな対象aとは?】 
疑いもなく、幻想の視覚的な相互受動性において姿を消してゆくのは、リアルな欠如としての大他者の欲望・リアルな対象a(= Ⱥ)である。したがってラカンは次のように言うことができる、(神経症的)幻想のなかの対象a の想像化は、主体を不安から防御する、《[想像的] 対象a が人工的なもの postiche である限りにおいて》。

しかしながら同時にーー私は既に凍りついた恐怖映画の例にて描写したがーー「枠組みを嵌める framing」不安、《寄る辺なさHilflosigkeit を越えた最初の治療 le premier recours au-delà de l'Hilflosigkeit》であるところのものにおいて、根本幻想はまた、無意識の水準において、不安の現実界を効力化する、《それは敵対性自体の(主体の)構成である c'est la constitution de l'hostile comme tel》。フロイトが名付けた性的 erogenen マゾヒズム、ラカンが享楽 jouissanceと名付け直したものの誕生である。


【三つの不安】
したがって我々は、不安の三つの論理的時間をーー対象a と根本幻想に相対してーー区別すべきである。

① エディプス・コンプレックスの第二段階の開始における、前幻想的な「窓から首を出すこと leaning out of the window 」、リアルな対象a としての母なる大他者の欲望とのカオス的遭遇ーーそれは根本幻想の形成になかでそのカオスの鎮静後にのみ、それ自体として感知されるリアルな対象a(= Ⱥ)である。

ここにある不安は、ラカン曰く《何かの予兆 pressentiment de quelque chose》である。しかしまた全ての(象徴的)偽りの感情に先立つ《前感情« pré » du sentiment》・《おどろおどろしい確実性 affreuse certitude》(S.10)である。そしてそれに対する反応は、最初の疑念「母なる大他者は何を欲しているのか」を形成する。

この最初の意味で、《(構造化されていない)不安は鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》・Ⱥの原初的出現であり、それなしでは、リアルのなかのシニフィアンの現前・その機能・その登場・その徴は考えられもしない 《sans laquelle la présence du signifiant, son fonctionnement, son entrée, son sillon dans le réel est impensable.》(S.10)。

② 対象a の想像化による根本幻想の絵のなかの《不安の枠組み化 encadrement de l'angoisse》(S.10)。ここで敵対性 l'hostile は《飼い馴らされ、懐柔され、受け入れられる amadoué, apaisé, admis》。そして客 l'hôte になる。しかしながら、母なる大他者の欲望によって生み出された不安に枠を嵌めるために、主体は去勢されて大他者のなかの対象として現われなければならない。そして《これは堪え難いものである c'est là ce qui est intolérable 》。言い換えれば、この観点からは、幻想のなかで根本的に抑圧されるものは、主体の非自律性 la non-autonomie du sujet の顕現である。(……)

③ 厳密な意味での不安、それは、幻想のなかで不安に枠を嵌める責を負う欠如のシニフィアン S(Ⱥ)自体が喪われているときに起こる不安である。すなわち、(幻想の彼方にある)大他者のリアルな欲望の過剰な近接性のせいで去勢 (−ϕ)が宙吊りにされたときに起こる。これは、自己意識のなかで《欠如自体が欠けている le manque vient à manquer》(S.10)不気味な刻限に他ならない。

【欠如の欠如という自己喪失】
疑いもなく、要求の通時的次元は、アガルマという換喩の空虚の場によって特徴づけられる。すなわち欠如は想像的自己意識のなかに現前している。しかしながらこれは、我々が通常この欠如のイマージュをもっていることを全く含意しない。

不安が出現するのは、まさに主体が「陽画的positive」欠如のイマージュを得たときである、《C'est ce surgissement du manque, sous une forme positive, qui est source de l'angoisse.》--すなわち「窓」が、主体の鏡像的投影によって隠された空虚に向かって開かれたときであるーー、そしてアガルマ、鏡像の彼方にある《我々がいる場の不在 l'absence où nous sommes》は、このようにしてその真の特性のなかで曝露される。すなわち、《どこか別の場にある現前présence ailleurs》、《一ポンドの肉 la livre de chair》、私があるところの部分対象、私の幻想のなかの大他者の欲望にとっての部分対象(欠如のイマージュ)である。したがって不安とは、部分対象の束の間の浮上・主体自身の目にて主体を眼差す分身の出現に相当する。

言い換えれば不安とは、自己意識のなかでの私自身の幻想の「消滅の顕現 appearance of the disappearance 」であり、私の存在は大他者の幻想的対象以外の何ものでもないという堪え難さの顕現である。したがって、幻想の「意識的」顕現は、必然的に幻想の消滅と合致する。そしてそれに伴い自己意識の喪失をもたらす。

ここで強調すべき重要なことは、不安とは消滅のなかで経験された「感情 sentiment」ではないことだ。そうではなく、消滅する危険を上演する信号signalである。すなわち大他者に呑み込まれる危険の上演の信号。絶対的な脱主体化でありうるものの一時的な顕現……。

須臾の間、原初に部分対象a の喪失を引き起こした大他者Ⱥのリアルな欲望が部分対象とともに顕れる。須臾の間、対象a は同時に、欲望の対象であり欲望の原因である両方のものとして感知される。

…………

◆幻想をめぐる簡略版

幻想とは象徴界に抵抗する現実界の部分に意味を与えようとする試みである(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)
ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「眼差し」自体である。(ジジェク、Conversations with Žižek, with Glyn Daly、2004)
……幻想の中にあらわれた欲望は主体自身の欲望ではなく他者の欲望、つまり私のまわりにいて、私が関係している人たちの欲望だということである。

幻想、すなわち幻の情景あるいは脚本は、「あなたはそう言う。でも、そう言うことによってあなたが本当に欲しているものは何か」という問いへの答である。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。

幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹、おじ、おばが、彼のために戦いを繰り広げる。母親は息子の世話と通して、息子の父親にメッセージを送る、子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのかは、理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。どんな単純な幻想も、私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的な性格を見てとることができる。

たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳,2005)

最後にロレンツォの注釈文の、 《幻想はむしろ「相互受動的 interpassive」光景であり、そこでは人は「分身」のなかに位置する喪われた部分対象としての「彼の」眼差しによって「自分自身が見られる」》を再掲し、上のジジェク文の《どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的 intersubjective な性格を見てとることができる》の前後と「ともに」読んでおくことにしよう。