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2016年11月7日月曜日

「倒錯天国日本」の本当の意味

英語版 Wikipedia の Perversion の項目は次のような記述で始まっている。

倒錯とは、正常あるいは規範と理解されているものから逸脱する人間行為の一類型である。倒錯用語はしばしば多種多様な逸脱形式を示し得るが、最も頻用されるのは、とりわけ異常な・嫌悪感を与える、あるいは強迫的と考えられる性的行為を示す。

そしてその「倒錯」の項目には次の画像が(のみが)貼り付けられている。



ーー「痴漢」とは標準的にはmolester (Molesting)と英訳されるが、ここではPerverts と訳されている。

日本は、(おそらく通念上)世界に名高い「Beware of Perverts!」、すなわち「倒錯」天国の国ということになる。

それは次の中井久夫の叙述も暗示している。

日本は今、世界最大の児童ポルノ・ビデオ輸出国である。(……)女性の実に半数以上が色々な段階の性的攻撃を受けていることが、小西聖子によって明らかにされた。男性による男性の性虐待はさらに隠微である。学校だけでなく職場をはじめ、いじめがいたるところにある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」)

もし日本の精神科医や精神分析家が社会構造分析をしたいなら、こういったところから始めなければならないのではないだろうか。それにもかかわらず彼らの多くは「倒錯」をめぐって寝言ばかり言っているようにみえる。

ラカンは次のように言っている。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化することである。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)
原文:Tout le problème des perversions consiste à concevoir comment l'enfant, dans sa relation à la mère, relation constituée dans l'analyse non pas par sa dépendance vitale, mais par sa dépendance de son amour, c'est-à-dire par le désir de son désir, s'identifie à l'objet imaginaire de ce désir en tant que la mère elle-même le symbolise dans le phallus.

古典的ラカン派観点からはーー人間の精神構造の三区分「精神病」「倒錯」「神経症」の構造的観点からはーー、性的倒錯行為をするから倒錯者なのではない。神経症者、精神病者も「性的倒錯行為」をする。性的倒錯行為をしない構造的倒錯者もいる。

(倒錯者の倒錯と)神経症者における倒錯的特徴との差別化が認知されなければならない。神経症的主体は倒錯性の性的シナリオをただ夢見る主体ではない。彼(女)は同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認するということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯社会の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の貧弱さを他者に向けて明示的に説教する。(バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF

このポール・バーハウの論文には次のような叙述もみられる。

・倒錯的シナリオの特徴は権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。

・実際上の性的法侵犯は、それ自体では必ずしも倒錯ではない。倒錯的構造が意味するのは、倒錯的主体は最初の他者(母)の全的満足の道具へと自ら転換し、他方同時に、二番目の他者(父)は挑発され受動的観察者のポジションへと無力化されることである。

・マルキ・ド・サドの作品は、この状況の完璧な例証である。そこでは読者は観察者である。このようなシナリオの創造は、実際上の性的行動化のどんな形式よりも重要である。というのは、倒錯者による性的行動化は神経症的構造内部でも同様に起こり得るから。(同バーハウ、2001)

一番上の文は、ドゥルーズがそのマゾッホ論で叙述した内容と相同的である。

マゾヒストの契約は父親を排除し、父権的な法の有効性の保証と適用の配慮を、母親に転位させることだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 P.117)

ここでもっと一般論的にいえば「倒錯者」の特徴は権威ではなく権力にある。バーハウの別の論文からなら次の通り。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

権力をめぐっては、中井久夫の「いじめ」論にもすぐれた指摘がある。

・権力欲は(……)その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる、このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。

・非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)

最も厄介なのは、明らかに「倒錯的構造」をもっているのに、自分では倒錯者ではないと思っている連中である。

偶然の一致では全くない、倒錯者がしばしば、あなた方が思いももうけなかった場所に見出されるのは。すなわち、司法・宗教・道徳・教育の分野である。事実、まさにこれらの舞台は、己れの法を押し出すための特権化された舞台である。(バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF

ところでラカン派精神分析家の藤田博史氏は次のように言っている。

官僚というエリートの集団の発想は、まさにそれが母の欲望にちゃんと答えてきた模範生としてのエリートであるゆえに、母親拘束から抜け出ていない人の集団だという風に考えるべきでしょう。母親拘束のなかで育ってきた優秀なエリートたちは、今度は自らが母親と同一化してその位置に立ち、迷える子羊たる国民を飼い馴らそうとするようになるのです。(藤田博史、セミネール断章 2012年 8月4日講義、PDF)。

藤田氏は直接「倒錯」という言葉を出していないが、これはあの官僚連中は「倒錯者」だと言っているようなものである。

斎藤環のヤンキー論もこの系譜にある。

切断的なものは父性ですね。それで、連続的、包摂的なものを母性と考えれば、厳しい母性がヤンキーだとなる。(斎藤環ーー「「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ」

浅田彰が30年近くまえに記した「共感の共同体」をめぐる指摘もこの文脈のなかで読める。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988 )

最後に海外住まいで日本の最近の状況に疎いが、自他ともに倒錯者としてミトメラレテイル蚊居肢散人に顔を出させていただければ、ツイッターでなにやら囀っている連中の大半は「構造的倒錯者」ーーすなわち「構造的痴漢」の典型である・・・


…………

※付記

ここに発達段階論的に書かれている2010年の論文(バーハウ他)から、その一部を抜き出しておこう。別の話題の論なのでやや簡略化され過ぎている嫌いはあるが、ラカン派の基本的な倒錯心因の捉え方である。

乳幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、彼は母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外を通して、自己のアイデンティティの基礎を獲得する。いったんこの基礎のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。

中間期は過渡的段階であり、子供は「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を 通して、安定した関係にまだ執着している。このような方法で、母を喪う不安は何とか対処されうる。標準的には、エディプス的状況・父の機能が、子供のさらなる発達が発生する状況を創り出す。母の欲望が父に向けられるという事実がありさえすれば。

倒錯の心理起因においては、これは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化のために、子供は母の支配下・母自身の部分であり続ける。したがって、子供は自身の欲動の表象能力を獲得できない。ましてやそれに引き続く自身の欲望のどんな加工も不可能である。

構造的用語で言えば、これはファルス化された対象 a に還元されるということである。その対象a を通して、母は彼女自身の欠如を塞ぐ。母からの分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる。…

こうして子供は自らを逆説的なポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなることは子供にとって勝利である。他方で、このために支払う代価は高い。分離がないのだ。自身のアイデンティティへのさらなる発達の道は塞がれてしまう。代りに、子供はその「勝利」を保護する企図のなかで、独特の反転を遂行する。彼は自ら手綱を握りつつ、しかも特権的ポジションを維持したままで、受動ポジションを能動ポジションへと交換しようとする。

臨床的用語では、これは最も歴然としたマゾヒズムである。マゾヒストは、全シナリオを作成してそれを指令しながら、自らを他者にとっての享楽の対象として差し出す。これが他者の道具となる 側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、瞭然と受動-能動反転がある。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。 (……)倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼はまた、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせる。 (When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe ,2010,PDF)


この文脈でいえば、倒錯といえば男性的な症状だと通説では言われてきたが(主流のラカン派においてさえ)、女性の倒錯も明らかにある。だが今までほとんど語られてこなかった。その精神医学・精神分析における欠陥は、英語版 Wikipediaにさえ指摘されている。

Freud wrote extensively on perversion in men. However, he and his successors paid scant attention to perversion in women. In 2003, psychologist, psychoanalyst and feminist Arlene Richards published a seminal paper on female perversion, "A Fresh look at Perversion", in the Journal of the American Psychoanalytic Association. In 2015, psychoanalyst Lynn Friedman, in a review of The Complete Works of Arlene Richards in the Journal of the American Psychoanalytic Association, noted prior to that time, "virtually no analysts were writing about female perversion. This pioneering work undoubtedly paved the way for others, including Louise Kaplan (1991), to explore this relatively uncharted territory."

このように女性の倒錯は無視されてきた、 ラカンはすでに1973-1974年の「アンコール」セミネールで次のように言っているにもかかわらず(日本ラカン派自体おおむね寝言派である)。

女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S.20)




2016年11月6日日曜日

わたくしはラカン派ではない

またなんたら言ってくる人がいるがーー別の人だと思うがーーわたくしはラカンをよくしらない。わたくしはラカンをまともに読んでいない。わたくしはラカン派ではない。わたくしは教師ではない。ラカンの科学をめぐる考え方を知りたければ、自分で読んだらよろしい。

わたくしの依拠している論文は、次の三つ。そこに引用されているラカン文の前後を原文にあたってみているだけである。

①:ロレンツォ・キエーザ、2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF

②:この①への応答してあるアレンカ・ジュパンチッチの論、Realism in Psychoanalysis 、Alenka Zupančič、2014、PDF

ラカンの科学理論とは何か。 同種の議論の文脈において、そしてジャン=クロード・ミルネールに依拠しつつ、この問いが最近になって再開された。そしてロレンツォ・キエーザによって大いなる重要性が与えられた。私のこの記事の議論はロレンツォに負っている。(ジュパンチッチ、2014)

③:より基本的にはジュパンチッチの次の叙述。

1、科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。…

2、宗教は、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定に基づいている。リアルは、不可能で禁じられており、超越的で手の届かないものである。

3、芸術は、リアルは内在的で手かないものという想定に基づいている。リアルは、表象に常に「突き刺さっている」、表象の他の側あるいは裏側に、である。裏側は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。どの動きも二つの物を創造する。目に見えるもの/見えないもの、聞こえるもの/聞こえないもの、イメージ可能なもの/不可能なもの。このように、芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。境界の彼方に「ヒーローたち」を送り込むのだ。しかしまた、鑑賞者を境界の「正しい」側に保つ。(ジュパンチッチ、Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan、PDFーー地球における最悪の病原菌)

以上


2016年11月4日金曜日

猿の沈没

其れはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。(谷崎潤一郎『刺青』)

ははあ、もう沈没しちまったようだな、「愚」と云う貴い徳に溢れ返る貴君は。やめておいたほうがいい、と何度か言ったはずだがね。「愚」は「愚」らしくしていたらよろしい。谷崎のいうようにそれはなんのわるいことでもない。

蚊居肢散人による投稿せずままの「科学版在庫」は、まだ10ほどあるんだが残念だな。前回のは、ほんのサワリなんだがね。もうすこしサワリをここに掲げておくよ。

近代科学にとって……、自然は、科学の数学的公理の正しい機能に必要であるもの以外にはどんな感覚的実体もない。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002、私訳)
科学が物理学においてわれわれに捉えさせてくれた現実の構造はもはや知覚理論には関与しないということを、なぜ認めようとしないのだろうか。…あらゆることが示しているのは、ガリレオの動力学が天体を大地に組み込むことは重さに関するものや impetus(弾み、推進力、起動力)の知覚的直感の拒否によって得られたのだということである。(ラカン、メルロポンティ追悼 Merleau-Ponty: In Memoriam)

ーージャン=クロード・ミルネールは、ラカンを「拡張されたガリレオ主義」(le galiléisme étendu)者と呼んでいる(PDF)。

彼のことはつい一年前までまったく知らなかったが、なかなかの「男前」の人物だよ。




近代科学は…対象の数学化を要求する。それは対象が数学的本質であることを要求しない。したがって対象が永遠・完璧であることを要求しない。……むしろ、反対に、数学化の手段によって、対象の把握を目指す。数学化において、対象はそれ自体と異なることもありうる。対象は、実験上の、偶然的・反復的、したがって一時的な性質をもちうる。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002、私訳)

数学・科学は、「物質性の還元」、「自然の現実の忘却」 を基盤としている。まずなぜそれを認めようとしないんだろう? 世界は数学的「言語」で構造化されていることを。

我々は次の事実の視界を見失うべきではない。すなわち、科学によって探求される構造、《リアル、その内部に言説自体が帰結をもたらすものとしてのリアル réel dans lequel le discours lui-même a des conséquences 》は、同時に《最もリアルなもの le plus réel…全く隠喩ではなくnulle métaphore…リアル自体 le réel même》であるという事実を。

言い換えれば、《必然性と偶発的なものの多様性を以った帰結概念自体 la notion même de conséquence avec ses variétés du nécessaire ou du contingent》、ーーつまり蓋然的偶然としてのオートマンーーは、科学の言説によって為される言語の「物質性の還元 Réduction de matériel」と共存する。すなわち、「自然の現実の忘却 l'oublie comme réalité naturelle」を伴っているにも拘らず、それをそっくり保存し続けている。

我々はここで新しく意想外の観点を提供されている。「科学と真理」が、因果性の物質的次元の科学による排除と精神分析の共謀的ヴェール剥ぎ(科学の言説の覆いを取り除くこと)と定義したことについての予期されなかった転回である。それ自体としてどんな帰結もない。ゆえに必然性と偶発性とにあいだのどんな区別もない。非言語学的性質だけではなく、自然言語としての言語の水準においても同様である。すなわちーー非論証的/論証的ーー世界は、無因果(あるいは対象aの因果 l'a-cause)的である。事実、そのような区別は、ラカンが明記するように、全体化するメタ言語、つまり《数学的論理 logique mathématique》の導入を要求する。それは、自然言語としての言語のなかのメタ言語の欠如として現れるものを補填しようと努めることによって、《論証的亀裂 clivage discursif》を生み出すことに終わる。というのは《どんな論理もすべての言語を囲い込むことはできない pas plus de logique qui enserre tout le langage》から。(ロレンツォ、2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF

ラカンが「拡張されたガリレオ主義者」であるなら、柄谷行人も同じく(すくなくともある時期までの柄谷、社会運動を起こす以前の柄谷は)。

実際の数学の発展は“基礎”などに関知しない“応用数学者”によってなされており、また数学の発展はつねに“非合理的”になされてきたのである。他方“純粋数学者”もまた“基礎”にかかわるかぎりペーパーを書けないという体制の下で、“基礎”にかんして無関心である。(『隠喩としての建築』)

もちろん一般には応用科学者でよいのだが。その応用によってーー同じエピステーメ内であるならーー、成果を出すことができる。「猿」もそれに励んでおればよろしい。科学信者ーープラトニストーーでなんの悪いこともない。そもそも凡庸な科学者は、信仰を疑わないことで成り立っている。それはノーベル賞をとったって同じ。

浅田)アルチュセールがおもしろいことをいっている。科学者は最悪の哲学を選びがちである、と(笑)。細かい実験をやってて、そこではすごくハードな事実に触れているのに、それを大きなヴィジョンとして語り出すと、突然すごく恥ずかしい観念論になっちゃうことがあるわけ。それこそアニミズムとかね。 (浅田彰ーー村上龍との対談、2000)

ノーベル物理学受賞者のなかにも「すごく恥ずかしい観念論者」はいくらでもいるんじゃないか。蚊居肢散人は彼らにほとんど関心がないが。故郷の同じ小学校出身のノーベル物理学賞者が一人いるがね。

現代数学は、集合論と記号論理学によって、全数学領域を統一的に基礎づけることができるというたてまえに立っている、実際には、集合論のパラドックスからはじまり、ゲーデルの証明によってとどめをさされたように、それは不可能なのだ。むろん、このような‟基礎論”は、実践的な数学者=発明家にとっては無関係である。ある数学者はいっている。《われわれは、ウィークデーはプラトニストであり、日曜日は形式主義者となる》(デイヴィス、ハーシュ「数学的経験」)(『探求Ⅰ』)
ウィトゲンシュタインは、数学の哲学の根本問題と「私的言語論」の根本問題ーー感覚言語の問題ーーを、共に彼のパラドックスから発生しているところの、根源的には同一の問題である、と見なしている。

《私的言語論でほんとうに否定されているのは、規則に従っている、という事についての「私的モデル」である。》(クリプキ「ウィトゲンシュタインのパラドックス」)。

(……)言語について考えるとき、われわれは通常対象(物)に関係づけてしまう。ところが、言語の一方の極限である数学を例にとると、そうはいかない。数学的対象が実在していて、数学者はそれを探求し‟発見”するのだと考えるプラトニズム(ほとんど実際の数学者はそう信じている)を受けいれないとすれば、数学は、いわば規則を‟発明”する実践的な過程にほかならなくなる。この問題について語る前に、われわれは、数学的言語が、その‟対象”が実在するか否かが古代から問われた領域であり、むしろそこからギリシャの「哲学」の問題が出てきたことを確認しておこう。さらにまた、数学を、形式てな規則の体系(公理系)としてみる十九世紀後半の動向から、言語を、対象(レフアレント)と無関係に形式的な差異体系としてみる視点が出てきたことを。(柄谷行人『探求Ⅰ』)

この数学的言語の使用による「世界の貧困化」(中井久夫)は、日常言語でも同じ。というかそもそもラカンの「数学論」「科学論」は日常言語論からの演繹。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 p.66)

ラカンによる「数学」への言及の起源はこういったところにある。《言語による物の殺害》(ラカン、1953)とはまずは「世界の減圧、貧困化」のことを言っている。これをジジェクは巧みに記している。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

もっとも貴君はプラトニストどころか、「素朴な実感主義」者、「経験したものでなければわからない」派、「天動説の現代版」派じゃないのかね、こういった語彙群を使って斎藤環は10年ほどまえ茂木ちゃんを罵倒していたが。

とはいえ蚊居肢散人は「クオリア」について批判するつもりはない。仮に《クオリアは言語活動がもたらした幻想の一種》であろうとも(「斎藤環ー茂木健一郎の往復書簡」)。

われわれのやっていることの基盤は、日常言語であれ数学言語であれすべてその「言語」を通した「幻想」によるものなのだから。

幻想をフェティッシュと言い換えてもよい。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (ラカン,S.10)
フェティッシュと幻想は同じ地位にある。(Vincent Zumstein, 2006)
倒錯とは、欲望に起こる不意の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である。(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)

すなわち己れが倒錯者ではないと信じ込んでいる連中こそが究極の「倒錯者」、ラカン曰くの père-version(父のヴァージョン=倒錯)、 「天動説の現代版」派の典型であるだろう。

それはクリステヴァがとっくの昔に言っている(もっとも起源はさらに遡ってマルクスにあるが)。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980ーー言語自体がフェティッシュである

前回、貴君は19世紀に退行しているといってしまったが、シツレイした。蚊居肢散人の誤謬であった。ガリレオ以前、15世紀人と言うべきだった。

それともピラミッド以前の時代人だろうか。

個人にとって、強大な帝国の支配下にあるのと、乱世といずれが幸福かは、にわかにいうことができない。さらにいえば、歴史は、四大河流域における文明の勃興をなお善であり、進歩とするが、しかし、生涯をピラミッドの建設や運河の掘削に費やす生活と森の狩猟採集民の生活とのいずれを選ぶかは答えに窮する問題である。「桃源郷」は前者が夢見た後者であろう。(中井久夫「治療文化論再考」初出1994)

それであるならなんと幸福なことよ! ウラヤマシイ!!




ナイーヴな「科学者」を相手にするつもりはない

いやあ、またなんだか言ってる「猿」がいるが、投稿しないままの在庫をーーヤムエズーー投稿しておくよ。すまんねえ、蚊居肢散人は「科学」にはとんと縁がないんだな、いわゆる「理系」の連中とかかわると寒イボが立っちまうぐらいでね、こういったことは投稿してもしようがないんだが、やむえない・・・

物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない。 c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire (ラカン、S.16,1968年ーー潜在的リアルについて初歩的なこともわかっておらん

ーーいやあ、この文でさえまったく意味がわからんらんようだからな、一度、脳味噌のなかを覗いてみたいもんだ・・・潜在的リアルどころの話じゃないわけだ・・・


…………

近代科学は…対象の数学化を要求する。それは対象が数学的本質であることを要求しない。したがって対象が永遠・完璧であることを要求しない。……むしろ、反対に、数学化の手段によって、対象の把握を目指す。数学化において、対象はそれ自体と異なることもありうる。対象は、実験上の、偶然的・反復的、したがって一時的な性質をもちうる。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002、私訳)

《科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)による》(柄谷行人、1983)

コペルニクス以前にも以後にも太陽はある。それは東に昇り、西に沈む。しかし、コペルニクス以後の太陽は、計算体系から想定されたものである。つまり、同じ太陽でありながら、われわれは違った「対象」をもっているのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001, p.61)

・自然は「非一 pas-une」だと私は言おう。(S.23)
・世界が「一」として構成されている Un constitue l'Univers などというのは信じ難い。(ラカン、S.23)

ーーラカンは何を言っているのか。

まずは、物理学の言説あるいは科学の言説が変われば、別の世界・別の自然がある、と言っていると捉えうる。これは、上の柄谷文の《われわれは違った「対象」をもっている》云々とともに読むことができるはずだ。もっともラカンのこのあたりの議論は錯綜してはいる(参照:ロレンツォ、2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF)。

いずれにせよラカンは、ナイーヴな科学者、その実在論者と唯物論者の議論を相手にするつもりはない、ということを言っている。

あれらの現実主義者 realist ……その「自然は常にそこにある la nature, dit-on, est toujours là 。我々がそこにいようといまいと nous soyons là ou pas 独立して」という考え方(信仰)に抵抗できない。我々と我々の科学…あたかも科学が実際に我々のものであり、我々は科学に決定づけられていないと考える。もちろん私はこれについて論争するつもりはない。(ラカン、S.16)

さて、ジャン=クロード・ミルネールの言っていることが分からない御仁もいると思われるので、柄谷ともう一度ラカンにて補足しよう。

数学者が――つねにきわめて少数であるが――数学の“基礎”に関して絶望的であるかすくなくとも謙虚であるにもかかわらず、科学者が抱いている数学的基礎づけに対するオプティミズムは、現代においては、代数的な「構造」にもとづく構造主義において典型的に示されている。それについてはのちにのべるが、逆説的なことは、科学者が、経験あるいは知覚に背を向けて、それらに何一つ負うていないかのようにみえる数学的な“建築”にもとづくことを科学的な知の保証とみなすにもかかわらず、諸科学の、そして数学そのものの発展を可能にしてきたのは、そのような厳密な建築性であるどころか、あるあいまいさにほかならなかった。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

ラカンはセミネール16の段階では、数学的言説(あるいは科学の言説)をめぐって、次のような言い方をしている、「その全体化するメタ言語、つまり、《数学的論理 logique mathématique》の導入は、自然言語としての言語のなかのメタ言語の欠如として現れるものを補填しようと努めることによって、《論証的亀裂 clivage discursif》を生み出すことに終わる。というのは《どんな論理もすべての言語を囲い込むことはできない pas plus de logique qui enserre tout le langage》から」(S.16、摘要)と。

そしてセミネール18ではあらためて次のように言うことになる。これは上の柄谷行人の文と「ともに」読むことができるだろう。

分節化ーー見せかけsemblantの代数的 algébrique分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これが実在 réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何が実在 réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。

科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が実在 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、実在 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistanceのである。(ラカン、S.18、1970-1971、私訳)


もちろん世界にはナイーヴでない科学者も――つねにきわめて少数であるが――いる。

科学における信仰の必要について私がのべたことは、純粋に因果的な世界や、確率が支配する世界にもひとしくあてはまる。純粋に客観的な個々の観察をいくら大量にあつめても、確率という概念が正当であることを証明することはできない。いいかえれば、論理学における帰納法の法則は、演繹によって樹立されることはできない。帰納的論理、すなわちいいかえればベーコンの論理は、われわれが証明しうる種類のものではなく、われわれの行動の土台にしうる種類のものであり、それに基づいて行動するということは、信仰の最高の表明である。(ノーバート・ウィーナー『人間機械論』1950)
J・ブローフスキー博士は、われわれの大部分があらゆる学問の中で最も事実に基づく科学だとみている数学は、頭に浮かべうる最も突飛なメタファー (隠喩)からなると指摘し、美的にも知的にも、そのメタファーの成功の程度によって判断されねばならないものだと唱えた。(ノーバート・ウィーナー『人間機械論』第二版)

日本にだって比較的まともな「理系」の方はすくなくともかつてはイラッシャラレタ。

◆野家啓一
柄谷は「形式化」の極限において体系がパラドックスに陥り、内部から自壊せざるをえない構造機制を不完全性定理にちなんで「ゲーデル問題」と名づけてい る。かつて『隠喩としての建築』を読んだ時、私はその着眼の卓抜さと鮮かなレトリックには感嘆したものの、「専門学者」としての見地から、彼のゲーデル理解とその敷衍の仕方には一種の「あやうさ」を感じざるをえなかった。というより、その「あやうさ」が後にエピゴーネンたちによって増幅され、「ゲーデル問題」が過剰な意味づけをされたまま安易なメタファーとして一人歩きし始めたことに危惧の念を覚えたのである。柄谷の問題提起の切実さに比して、一般に流布した「不完全性定理」の解釈はいかにも厳密さを欠き、寸足らずの安手の衣服をまとわされているように見えた。しかし、柄谷が抱え込まざるをえなかった困 難、あるいは彼がそのような〈問題〉に逢着した必然性は、私なりによく理解できたつもりである。(野家啓一「柄谷行人の批評と哲学」(『国文学』1989年1月号))


◆森毅
この本(柄谷行人『探求Ⅰ』)は、題名から知れるように、ウィットゲンシュタインから始まる。その上に、もうつきあうことに辟易している、マルクスまでが登場する。

それだのに、この本を読むことが、なぜか快感なのだ。おそらく、この一年ほどに読んだ本のうち、もっとも引きこまれた本のひとつだろう。

ウィットゲンシュタインの言語学批判と、マルクスの経済学批判とに、同型な構造を見る、その場所のゆえかもしれない。しかし、それだけではあるまい。

すごく明晰な論理はこびなのに、半分も読んで行くと、どこへ持って行かれるのか、いくらか不安になる。キルケゴールとか、レヴィナスとか、ぼくのもっとも苦手とする思想家どもが、現われはじめることになる。それに、数学論とドストエフスキー論とが入り乱れると、数学少年と文学少年のはさみうちに合うときのことを連想する。(森毅 『一刀斎の古本市』)
「柄谷のおもしろいところは、何をやっても愛嬌があって、ちょっととんちんかんなようで、なにかしらこちらがう-んと考えさせられるというところです。彼はムチャクチャ言っても済んじゃうわけです。 『あの頃、ちょっとぼく、頭がおかしくなっててね』とか言うと、みんな喜んじゃうんです。そういうイメージがあるから、かなりきついことを言っても愛嬌があるんです」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)

…………

以下、30年以上前の論から、抜き書きする。これが今でも正しいのか否かは、わたくしには「正確には」瞭然としないが、ーーだがこれが誤謬であるならば、どんな見解があるというだろうか? 19世紀に「退行」するほかないのではないだろうか・・・すまんねえ、蚊居肢散人の文系頭は30年前のままなんだな、現在の「聡明な」理系頭の方にぜひ反論してもらいたいものだ。ただし19世紀に退行しないでイタダキタイ・・・


【柄谷行人、1983】 
二十世紀において顕在化しはじめた文学や諸芸術の変化、たとえば抽象絵画や十二音階の音楽などは、互いに並行し関連しあっているだけではなく、物理学、数学、論理学の変化にも根本的に対応している。一般に、この変化を形式化(フォーマライゼーション)と呼ぶことができる。形式化とは、指示対象(レフアレント)や意味内容・文脈(コンテクスト)をカッコにいれて、項(それ自体は意味のない)と項の関係のみを考察することだといってよい。(……)

たとえば、ポパー、クーン、ファイヤアーベントらの「科学史」にかんする事実においては、科学が事実・データからの帰納や“発見”によるのではなく、仮説にもとづく“発明”であること、科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)によること……などという考えが前提になっている。考えてみればすぐわかることだが、このような科学史(メタ科学)的認識そのものが、その対象、たとえば量子力学やサイバネティックスにもとづいいる。科学史をそのように変化させたののは、すでに現代の科学が経験・データではなく知的構成(建築)にもとづくといわざるをえない事態である。科学史あるいはもっと広く思想史において用いられる理論的枠組(たとえば構造主義)は、科学自体から導入されている。この関係はのちに説明するように自己言及的(セルフ・リファレンシャル)である。すなわち、科学史あるいは思想史は、それが対象とするものに逆に属してしまうのであって、それらはけっして外在的、あるいは“超越的”(メタ)であることができない。

二十世紀の知において生じた事態は、さまざまな個別領域における変化だけでなく、またそれらが諸関係の網目をなすということですらもなく、そのことについての知がもはやそこから超越的ではありえないことなのである。くりかえしていえば、この事態の真に奇妙な性質は、知における変化にあるのではなく、むしろ知についての知(メタ科学・メタ数学・メタ歴史学)がもはや知に対して超越的ではないこと、ホッフシュタッターのことばでいえば、strange loop(不思議な円環)が形成されてしまっていることにある。「形式化」こそがそれを不可避にするのだ。(柄谷行人「隠喩としての建築」『隠喩としての建築』所収pp.40-41)
経験科学の真理にかんしては、「確証可能性 confirmability」をあげる論理実証主義者(カルナップ)と「反証可能性 falsifability」をとなえるポパーとのあいだに、有名な論争があった。ポパーの考えでは、科学的法則はすべて帰納的な支持をもつ仮説でしかなく、観察によってそれと衝突する「否定的データ」が発見されると、その例を肯定的事例として証明できるような新しい包括的な理論が設定され、理論の転換がおこる。したがって、「否定的データ」の発見が科学の進歩や発展の原動力である。ところが、T.クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される、と。そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。

しかし、こうした考えは、それ自体、“事物”や“意味”は言語的あるいは理論的網目組織によって分節化されたものだという「形式主義」的観点にほかならない。しかも、このような科学史(メタ科学)的認識は、その対象、たとえば量子力学やサイバネティックスにもとづいている。科学史をそのように変化させたのは、すでに現代の科学が経験・データではなく知的構成(建築)にもとづくといわざるをえない事実であうる。科学史あるいはもっと広く思想史において用いられる理論的枠組(たとえば構造主義)は、科学自体から導入されている。この関係はのちに説明するように自己言及的である。すなわち、科学史あるいは思想史は、それが対象とするものに逆に属してしまうのであって、それらはけっして外在的、あるいは“超越的”(メタ)であることができない。同じことが、フランス的な文脈で語られたフーコーの“アルケオロジー”についてもあてはまる。「構造主義」を知における一つの徴候として読む「立場」は、超越的なものではありえず、それ自体「構造主義」に内属している。このような「不思議な円環」(ホッフシュタッター)を不可避的にするものをこそ、私は「形式化」とよぶのである。(柄谷行人「形式化の諸問題」『隠喩としての建築』所収P96-98)


【蓮實重彦、1979】 
だが、解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がた がいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。

それにもかかわらずクーンが提起したパラダイムの概念、およびそれが煽りたてたもろもろの議論に何がしかの意味があったとするなら、それは、科学の客観性と連続性という双生児的概念に人びとがようやく疑いの目を注ぎはじめたからではなく、科学をも含めたあらゆる今日的思考が、風景論の時代に属しているという現実をクーンが無意識ながら告白しているからにほかならない。またそれにもまして興味深いのは、風景論の時代に特有な認識の配置図や「知」の流通形態の全域を理論的に踏査しつくしたわけでもないのに風景論の時代の言説をもてあそび、そのことできわめて逆説的ながらみずからの立場を証拠だてているかにみえるクーンが、なおそのパラダイム概念の提起にあたって、ほとんどデカルト的というほかない認識のパターンに頼って自分を科学史という物語の話者に仕たてあげ、その視点を修正したり再強化したりしているという点である。その一点に限っていえば、あたかも彼は自分自身が世界の物語による分節をまぬがれ、風景の汚染に抗いうるとでも信じているかにみえる制度的楽天性がそこに露呈しており、その意味でクーンはいささかも革命的ではないし、ましてや反科学的でもない。彼は風景による教育にことのほか忠実なる風景論の饒舌な語り手にすぎないのだ。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批判宣言』所収)

《あたかも彼は自分自身が世界の物語による分節をまぬがれ、風景の汚染に抗いうるとでも信じているかにみえる制度的楽天性がそこに露呈》しているようなクーンのような姿勢を、蓮實はのちに、《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない》(『闘争のエチカ』1988)と言っている。

…………

※付記

ジジェクはかねてよりストレンジ・アトラクターへの言及をしていたが、2012年にこう記している(この文だけでは分かりづらいようであったら、「〈モノ das Ding〉というアトラクター」を見よ。ジジェクは1991年の段階ですでに「自然は存在しない」と言っている)。

数学におけるアトラクターを例にとろう。アトラクションの領野内の全ての線や点は、絶え間なく、アトラクターに接近するのみで、決して実際にはその形式に到らない。この形式の存在は、純粋にヴァーチャルなものであり、線と点がアトラクターに向かう形以外の何ものでもない。しかしながら、まさにそれ自体として、そのヴァーチャルな形式が、この領野の現実界なのである。すなわち、全ての要素がそのまわりを旋回する不動の中心的な点が。

このようにして、これらの捻りのヘーゲリアンの論理は、さらにいっそう正確に与えられうる。三段階ではないのだ。ここでは四つの段階が作用している。最初に、一貫的な大他者。次に、侵入する残余としての対象a に非一貫化された大他者。そして、大他者の「一貫性」を支えるものとしてのこの対象(多様な非一貫的象徴化は、侵入する対象への反応のネットワークとしてのみ「全体化」される)。最後に、最初に戻る。だが異なったレヴェルの最初だ。すなわち、「現実界」としての対象a は、象徴秩序自体の、純粋に形式的な歪曲・内的湾曲にとっての「名」に過ぎない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

最後に最も基本的な「愚直なnaive 科学者」への問いかけを掲げておこう。19世紀に退行してしまった連中にはこういったことも、おそらく意味不明なのだろうが。

今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。

あるいは、よりハイデガー的な言い回しを使えばこうです。世界の構造を理解すべく根本的な問いがある場合、世界という観念は単に宇宙であるとか、存在する万物であるというものではないのです。むしろ「世界」というのは、ある種の歴史的カテゴリーであり、世界が何たるかを理解することは、超越論的な用語で言えば、歴史的に以前から存在するアプリオリ(先験的)な構造――世界がいかに私たちに露呈されているのかをどう理解するかを決定する構造――を理解することなのです。

哲学は誇大妄想的なもの megalomaniac enterprise ではないと私が知ったのは、愚直なnaive 科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです((スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』)

※文句を言ってくる人がいるが、「猿の沈没」を読んでからにしていただきたい。

「思考のイマージュ」の遷移


フロイト新訳の岩波版全集では、「Verschiebung」を「遷移」と訳すことに統一したそうだ(フロイトの不思議のメモ帳)。わたくしは新訳を一度も眺めたことがないが。

ところで、この「遷移 Verschiebung」ーーかつては移動とか置き換えとか訳されているーーは、フロイト初期概念「誤った結びつき falsche Verknüpfungen」とほぼ同じ意味であると思う(参照)。ドゥルーズの「偽装 déguisemen」概念や「仮面 masque 」概念は、この falsche Verknüpfungen 概念の光の下で読むことができるのではないだろうか(まったく同じ意味と言うつもりはないが)。

ラカンはエクリにて fausse liaison という訳語を使っているが、Pierre-Gilles Guéguen によれば次の通り。

Lacan emphasizes in “The Agency of the Letter in the Unconscious” (Écrits) that this false connection contains a displacement involving the combination and substitution of signifiers in language. In short, transference, according to both Lacan and Freud, is transference from one signifier to another signifier, from one signification to another signification.(Pierre-Gilles Guéguen. “Transference as Deception.” In Reading Seminar XI.、1995)

…………

潜在的対象の遷移 déplacement は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisement とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。反復は、実在性 réalitéの〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立する。

ひとは、抑圧するから反復するのではなく、反復するから抑圧するOn ne répète pas parce qu'on refoule, mais on refoule parce qu'on répète。 また、結局は同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧する on ne déguise pas parce qu'on refoule, on refoule parce qu'on déguise。。

しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装する。偽装は反復に対して二次的であるということはなく、それと同様に、反復が、究極的あるいは起源的なものと仮定された固定的な項〔古い現在〕に対して二次的であるということもない。(ドゥルーズ『差異と反復』)
先ず、仮面 masque は偽装 déguisement を意味(徴示)する。それは、厳密に共存する二つの現実的諸系列(deux séries réelles)の項と関係に想像的効果を与える。しかしながら、さらに深い意味では、仮面は遷移(置換) déplacement を意味する。それは本質的に、潜在的な象徴的対象に影響を与える。その諸系列のなか、且つ潜在的対象が絶え間なく循環する現実的諸系列の両方において。(同上)

『差異と反復』には他に、《夢の仕事や症状のなかに見出される偽装ーー圧縮、遷移(置換)、上演 Les déguisements dans le travail du rève ou du symptôme - la condensation, le déplacement, la dramatisation》という叙述もある。この叙述からすれば、ドゥルーズの「偽装」とは、圧縮、遷移(置換)・上演を含めた概念ということになるが、上の叙述ーー第一に仮面=偽装、より深い意味では仮面=遷移ーーとはいささか齟齬がある。

偽装や遷移はフロイトの『夢判断』(旧訳だが)には次のような形で出てくる(ドゥルーズの使用法といささか異なるが、それを問題視するつもりはない、そもそもこの時期のフロイトは「転移 Übertragung 」概念さえ置換とほぼ同様の意味を持っていた。)

二、三の場合にあっては、表現交換はさらに近道を採って夢圧縮に奉仕する。すなわち表現交換は、曖昧な、いくつかの夢思想を同時に表現しうるような言葉の並べ方を見つけだすのである。こうして言葉の洒落の全領域が夢の作業のために動員される。夢形成のさいに言葉に負わされる大きな役割を訝ってはならない。幾多の観念の交叉点としての言葉は、いわばあらかじめ運命づけられた多義性なのであって、神経症(強迫観念、恐怖症)は、言葉がそんなふうに圧縮や偽装 Verdichtung und Verkleidungに役だつ利点を夢同様に遠慮なしに利用する。

表現が移動(置換、遷移 Verschiebung)すれば夢歪曲もいっしょに得をするということをしめすのは容易である。意味明瞭な二語のかわりに、意味のどちらともとれる一語が置かれれば、ひとは迷う。日常使われている抽象的な表現方法を、具体的な表現方法に置きかえることはわれわれの理解を妨げる。ことに夢というものは、それがわれわれに示してくれる諸要素が文字どおりに解せられるべきか、あるいは比喩的に解せられるべきか、また、夢材料に直接関係づけられるべきか、あるいは挿入された文句を媒介として関係づけられるべきか、その辺のことを絶対にいってはくれないからである。(フロイト『夢解釈』高橋義孝訳 下 pp.45-46)

ラカンも少なくとも1958年の段階では、圧縮(Verdichtung、condensation )/置換(遷移 Verschiebung、déplacement)を隠喩/換喩として截然と区別している。

「夢の解釈(Deutung)、日常生活の病理学、そして機知の(フロイトの天才における)出現に立ち戻ると、つまり無意識の名のもとで以後認識と実践の光を当てられるものの領域に立ち戻ると、無意識の因果関係を構成しているのは言語に固有な諸々の法と効果であることが認められる。論理的ということが矛盾律を受け入れるだけではなく、ロゴスの効果の受容であるとするなら、この因果関係は心的なものというより、むしろ論理的なものだと言うべきである。圧縮(Verdichtung)と置換(Verschiebung)といわれる機制は、言語において隠喩と換喩の効果が作用するための諸構造と厳密に重なる。つまり、言語理論の最も新しい構築(ローマン・ヤコブソンとその一派)が、(生物の中の、言語のためにある器官の生理学的働きそのものから切り離すことさえ不可能な)独特な構造のなかにシニフィアン固有の作用を包摂するための二つの様式であるが、この作用は、この作用がシニフィエとして印づけ、とらえる主体において意味作用を生みだすものとして考慮されなければならないかぎりにおいてあるのだ。(ラカン「真の精神分析と偽の精神分析」1958年)

この隠喩/換喩の区別はおそらく最後まで変更はないにしろ、後年、われわれの世界は見せかけ semblant の世界だと言うことになる。《ラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」と考えた。》(ヴェルハーゲ、2001)

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S.18)

・無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)

《精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants》(ジャック=アラン・ミレール,1996

ーーというわけだが、偽装 déguisement や仮面 masques と見せかけ semblant とは似たようなものではないか(よくわからないが、違うとしたらどう違うんだろ?)。

《真理は見せかけと反対のものではない。La vérité n'est pas le contraire du semblant.》(Lacan,S.18)

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』序文)

《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。「我思う」にしても同様である。教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立止まらないからにすぎない。》(Lacan,S.9)

《女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!(笑)la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! [ Rires ]》(Lacan S.18)

感情に強調が置かれる女に対して、ロゴスを代表するのが男ではない。むしろ、男にとって、全ての現実の首尾一貫・統一した普遍的原則としてのロゴスは、ある神秘的な言葉で言い表されない X (「それについて語るべきでない何かがある」)の構成的例外に依拠している。他方、女の場合、どんな例外もない、「全てを語ることができる」。そしてまさにこの理由で、ロゴスの普遍性は、非一貫的・非統一的・分散的、すなわち「非全体 pas-tout」になる。

あるいは、象徴的な肩書きの想定にかんして、男は彼の肩書きと完全に同一化する傾向にある。それに全てを賭ける(彼の「大義 Cause」のために死ぬ)。しかしながら、彼はたんに肩書き、彼が纏う「社会的仮面」だけではないという神話に依拠している。仮面の下には何かがある、「本当の私」がある、という神話だ。逆に女の場合、どんな揺るぎない・無条件のコミットメントもない。全ては究極的に「仮面」だ。そしてまさにこの理由で、「仮面の下」には何もない。

あるいはさらに、愛にかんして言えば、恋する男は、全てを与える心づもりでいる。愛された人は、絶対的・無条件の「対象」に昇華される。しかし、まさにこの理由で、彼は「彼女」を犠牲にする、公的・職業的「大義」のために。他方、女は、どんな自制や保留もなしに、完全に愛に浸り切る。彼女の存在には、愛に浸透されないどんな局面もない。しかしまさにこの理由で、彼女にとって「愛は非全体」なのだ。それは永遠に、不気味かつ根源的な無関心につき纏われている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー男は私のなかになにを見ているのかしら?

ようするに、《男はマヌケにも信じている、象徴的仮面に下に、己の実体、隠された宝があって、それが彼を愛するに値する者にすると。他方、女は知っている、仮面の下にはなにもないことを》(同ジジェク、2012)である。

もちろんここでの男女の差異は解剖学的性差ではない(参照:S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme)。とはいえおおむねそうだろう。

…………

いやあ、前置きのつもりだったんだが、長くなっちまった。以下が本題である(要するに上の記述はテキトウであるからそのつもりで)。


このところドゥルーズの『プルーストとシーニュ』を読んでいるのだがーーおそろしくゆっくり、すでに一か月半ほどまえからだがまだ読み終わらない。いままでまともに読んだことがなかった『差異と反復』まで掠め読みをすることになるーー、ようするにドゥルーズが引用しているプルーストの文をおおかたすべてあたりながら読んでいると、当然引用された箇所の前後を読むわけで、するとドゥルーズなどどうでもよくなる、というところがあるのだが、いや、ドゥルーズはひどく熱心なプルースト読みだったことがあらためてよく分かるわけで、それはどうでもよいことではない。

たとえば、ドゥルーズは《質的差異 la différence qualitative》とのみプルーストから引用している。とすれば「差異と反復」のドゥルーズはプルーストのどんな箇所からこの「差異」という語を抜き出しているのかと探ってみることになる。

文体とは、この世界がわれわれ各人にいかに見えるかというその見えかたの質的相違を啓示すること、芸術が存在しなければ各人の永遠の秘密におわってしまうであろうその相違を啓示することなのである。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

Il est la révélation, qui serait impossible par des moyens directs et conscients, de la différence qualitative qu'il y a dans la façon dont nous apparaît le monde, différence qui, s'il n'y avait pas l'art, resterait le secret éternel de chacun.

いやあ、まるでドゥルーズ自身が書いたような文がプルーストのなかにある! --と感嘆しつつ、本を読むこととは何なのだろう、と自問することになる。

プルーストやドゥルーズの再読?

……カンブルメール夫人が、「再読すべきだわ、ショーペンハウアーが音楽について述べていることを」といっているのを耳にはさむと、彼女(ゲルマント公爵夫人)ははげしい口調でこう言いながらその文句に私たちの注意をうながした「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない、だまそうとしたってだめなの、私たちを」老アルボンはゲルマントの才気の形式の一つを認めてにっこりした。(プルースト「見出された時」)

ところで『プルーストとシーニュ』は次のような成り立ちの書であるらしい。

◆ブルースト『失われた時を求めて』の解釈をめぐって(前) 増田靖彦、PDF

まずドゥルーズの『ブルーストとシーニュ』を取り上げよう。同書は一九六四年に上梓された。当時のドゥルーズはヒューム諭を嚆矢としてモノグラフを次々に発表していた時期で、その成果はやがて『差異と反復 (一九六八年)および『意味の論理学』(一九六九年)という主著となって結晶することになる。こうした経緯を踏まえると、マイケル・ハートがその研究書の副題に掲げている表現にもみられるように、『ブルーストとシーニュ』にドゥルーズの「哲学の徒弟時代 (apprenticeship philosophy ) 』に書かれた一冊と位置づけてよいだろう。ただし留意しておくべき点が一つある。それは同書が二度に渡って増補された事実である。もはや周知の事実だが、その内容を簡単に整理することから始めたい。

最初に公刊されたとき、同書は結論も含めて八章構成となっており、全体のヴォリュームも百頁に満たない小著だった(タイトルも『マルセル・プルーストとシーニュ』となっていた)。それが増補されたのは1970年。本論に「アンチロゴスあるいは文学機械」と題された一つの章(第八章)が書き加えられ、結論の直前に置かれたのである。ただし、そのヴォリュームは七十頁を超えており、テクスト全体も二百頁近くに倍増することとなった(タイトルが現行の『プルーストとシーニュ』に改められたのはこのときである)。既発部分に初版との異同はみられないものの、ドゥルーズが自らの手を離れた著書に後から手を入れた他のケースをわたしたちは知らないだけに、この事実はたいへん興味深い。しかも、その直前に上述した主著が相次いで上梓されたこと、そして何よりガタリとの出会いがあったことに鑑みれば、この増補にドゥルーズの思想の無視しえない進展を推測することは十分に可能である。さらに二度目の増補は一九七六年に行われた。差し換えられた第三版の序をみると、その直接のきっかけは、一九七三年にイタリアで刊行されたフランス文学に関する評論集に、 ドゥルーズがプルーストについての小論を寄稿したことにあったらしい。ところが、その小論を手直しした上で補綴として組み入れる際、 ドゥルーズは第二版までの体裁を大幅に変更するのである。

それを列挙すると、①第八章を従前の七つの章および結論から切り離して第二部とし、第一章から第七章までを第一部とする、②結論を第一部の結論として第七章の直後に配置する、③第二部となった第八章を五つの独立した章に細分する、④新たに追加される小論の改訂稿を第二部の結論とする、⑤第一部を「シーニュ」、第二部を「文学機械」と命名するとともに、第一章の章題を「シーニュ」から「シーニュのタイプ」に改める、といった按配である。こうした手続きを経ることで、第三版は第二版で生じた書物としてのアンバランスを解消し、より均整のとれた相貌を備えることに成功した。しかし論点はそれだけにとどまらない。全体の再構成がどのような意図の下になされたのかを探るのはもちろん、補綴された第二部の結論の射程および既発部分との異同を検討する必要がある。その際、ガタリとの三つの共著『アンチ・オイディプス』, 『カフカ』、『 千のプラトー』との関連を無視することができないのは、いうまでもないだろう。

これは手元の宇波彰訳の訳者前書きにもやや簡略した形だが書かれている(1977年増補版)。ただしドゥルーズ第三版(1976)の翻訳は、《本来からすれば新しい構成にしたがって章を立て直すべきものではあるが、さまざまな事情から、当分のあいだは旧版の……》云々と記されている。

要するに第二部、文学機械の構成が章分けされていないままの邦訳ということになる。

邦訳は第二版に基づく構成であり、それに第三版でドゥルーズがつけ加えた「狂気の現存と機能ークモー」が末尾に付されている形になっている。

第一章 シーニュ
第二章 シーニュと真実
第三章 習得
第四章 芸術のシーニュと本質
第五章 記憶の二次的役割
第六章 セリーとグループ
第七章 シーニュの体系の多元性
第八章 アンチロゴスまたは文学機械
結論   思考のイマージュ

「狂気の現存と機能ークモー」

そして1964年の初版は「第八章 アンチロゴスまたは文学機械」が欠けた小さな本だった、ということになる。

実際の第三版の構成は次の通り。





第三版では、第二版の「アンチロゴスと文学機械」の章が、「文学機械」という第二部となり、五つに章分けされていることになる(1、「アンチロゴス」、2、「箱と壺」、3、「探求のレベル」、4、「三つの機械」、5、「スタイル」)。

面白いのは、この章分けよりも「思考のイマージュL'image de la pensée」の位置の二度にわたる変動だろう。第一版では、末尾の結論(第八章)、第二版ではーー「アンチロゴスと文学機械」の第八章章を差しはさんでの末尾の結論、だが第三版では、第一版の位置に戻っている。書物全体としての最後の章は、「狂気の現存と機能ークモー」となっている。

以下の水色の枠が「思考のイマージュ」の章である。




「思考のイマージュ」の章には次のような叙述がある。この箇所は第二版で書物の末尾に置かれたことが頷けるように、「アンチロゴスと文学機械」と重なる叙述がふんだんにある。

哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志 esprits de bonne volonté のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。

プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 la bonne volonté de penser にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的 involontaire である。.

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。

このあと、二頁にわたる「見出された時」からの引用がある。『プルーストとシーニュ』における最も長い引用である。後にドゥルーズとプルーストに敬意を払いつつ、いくらか中略されている箇所も含めて引用することにして、当面、さらに「思考のイマージュ」の章からの引用を続ける。

(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

さてドゥルーズが引用している「見出された時」の箇所である(手元の井上究一郎訳では四頁にわたる)。いくらか段落分けして引用する。

…というのも、理知が白日の世界で、直接に、透きうつしにとらえられる真実は、人生がある印象、肉体的印象のなかで、われわれに意志にかかわりなくつたえてくれた真実よりも、はるかに深みのない、はるかに必然性に乏しいものをもっているからだ、ここで肉体的印象といったのは、それがわれわれの感覚器官を通してはいってきたからだが、しかしわれわれはそこから精神をひきだすことができるのである。要するに、いずれの場合でも、それがマルタンヴィルの鐘塔のながめが私にあたえた印象であれ、両足のステップの不揃いやマドレーヌの味のような無意識的記憶 réminiscences であれ、問題は、考えることを試みながら、言いかえれば私が感じたものを薄くらがりから出現させてそのをある精神的等価物に転換することを試みながら、それらの感覚を通訳して、それとおなじだけの法則をもちおなじだけの思想をもった表徴 signes にする努力をしなくてはならない、ということであった。

ところで、私にただ一つしかないと思われたその方法は、一つの芸術作品〔ウーヴル・ダール une œuvre d'art〕をつくることよりほかの何であっただろう? それに、諸般の結果は、すでに私の精神のなかにひしめいていた、それというのも、フォークの音とかマドレーヌの味とかのような種類の無意識的記憶 réminiscences であれ、私が頭のなかでその意味を求めようと試みていた形象――鐘塔、雑草といった形象が、私の頭のなかで、複雑な、花咲き乱れた、ある魔法の書〔グリモワール grimoire〕を編んでいたーーそんな形象のたすけを借りて書かれるあの真実であれ、それらのものの第一の特徴は、私が勝手にそれらを選びだしたのではないということであり、それらがありのままの姿で私にあたえられたということであったからだ。

また、それこそが、それらのものの真性証明〔オータンテイシテ authenticité〕の極印になるのだと私に感じられた。私は中庭の不揃いな二つの敷石をさがしに行ってそこで足をぶつけたわけではなかった。そうではなくて、不可避的に、偶然に、感覚の出会がおこなわれたという、まさにそのことこそ、その感覚がよみがえらせた過去とその感覚がさそいだした映像との真実に、検印をおすものであった、その証拠に、われわれはあかるい光に向かってあがってこようとするその感覚の努力を感じるのであり、ふたたび見出された現実というもののよろこびを感じるわけなのだ。その感覚はまた、つづいてそのあとにひきだされる当時のさまざまな印象の、画面全体の真実を証明する検印ともなるのであって、それらの印象は、光と影 lumière et d'ombre、浮彫と省略 relief et d'omission、回想と忘却 souvenir et d'oubliの、あのぴったりのプロポーションを伴ってひきだされるが、意識的な記憶や意識的な観察では、それらの点は、いつまでもなおざりにされるだろう。

未知の表徴 signes inconnus (私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴 signes en relief)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール règle〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為 un acte de création であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。

だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー génie〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ Car l'instinct dicte le devoir et l'intelligence fournit les prétextes pour l'éluder。ただ、口実は断じて芸術のなかにはいらないし、意図は芸術にかぞえられない、いかなるときも芸術家はおのれの本能に耳を傾けるべきであって、そのことが、芸術をもっとも現実的なもの、人生のもっとも厳粛な学校、そしてもっとも正しい最後の審判たらしめるのだ。

そのような書物こそ、すべての書物のなかで、判読するのにもっとも骨の折れる書物である、と同時にまた、現実がわれわれにうながした唯一の書物であり、現実そのものによってわれわれのなかに「印刷=印象アンプレッション l'impression」された唯一の書物である。人生がわれわれのなかに残した思想が何に関するものであろうとも、その思想の具体的形象、すなわちその思想がわれわれのなかに生んだ印象の痕跡 trace de l'impression は、なんといってもその思想がふくむ真理の必然性 vérité nécessaire を保証するしるしである。

単なる理知のみのよって形づくられる思想は、論理的な真実、可能な真実しかもたない、そのような思想の選択は任意にやれる。われわれの文字で跡づけられるのではなくて、象形的な文字であらわされた書物 Le livre aux caractères figurés、それこそがわれわれの唯一の書物である。といっても、われわれが形成する諸般の思想が、論理的に正しくない、というのではなくて、それらが真実であるかどうかをわれわれは知らない、というのだ。印象だけが、たとえその印象の材料がどんなにみすぼらしくても、またその印象の痕跡がどんなにとらえにくくても、真実の基準となるのであって、そのために、印象こそは、精神によって把握される価値をもつ唯一のものなのだ、ということはまた、印象からそうした真実をひきだす力が精神にあるとすれば、印象こそ、そうした精神を一段と大きな完成にみちびき、それに純粋のよろこび pure joie をあたえうる唯一のものなのである。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳、pp.335-338)

ーードゥルーズはこの「純粋のよろこび pure joie」という言葉で引用を終えている。

他方、第三版の末尾に置かれている「狂気の現存と機能ークモー」は次の文で締めくくられている。

しかし、器官のない身体 un corps sans organs とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない。クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュ moindre signe がその内部に到達する。

『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。語り手の極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で組織的ないかなる使用 tout usage volontaire et organisé もできない限り、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、強制され、無理じいされる contrainte et forcée ときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用 l'usage involontaire を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描 une ébauche intensive としてである。

そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性 Sensibilité involontaire、無意志的な記憶作用 mémoire involontaire、無意志的な思考 pensée involontaire。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモcorps-toile-araignéeである。

語り手の奇妙な可塑性 Étrange plasticité。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者ーー狂人 le fou ーー普遍的な分裂病患者 I'universel schizophrèneである語り手のこの身体=クモが、そこから自分自身の錯乱délireの操り人間、器官のないおのれの身体の強度な力 puissances intensives de son corps sans organes、おのれの狂気のプロファイル profils de sa folie を作るために、偏執病患者 paranoïaque であるシャルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂 érotomane であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能――クモーー」の章)

…………

ところで次のような指摘をかつて読んだことがある(わたくしはいまだ『差異と反復』のその箇所を読むことはしていないが)。

『プルーストとシーニュ』における、伝統的なロゴス的哲学とシーニュから出発する感受性の思考という対立は、『差異と反復』においても継承されている。しかし、ここで使用されている「思考のイマージュl’image de la pensée」という言葉は、もはや『プルーストとシーニュ』におけるような使い方ではない。逆に、かつて「哲学のイマージュ」と呼ばれていたものに相当している。『差異と反復』において「思考のイマージュ」と呼ばれるものはドグマティックなものであり、「差異と反復という、すなわち哲学的な開始と再開という、二つの力を疎外する」ものなのである。ドゥルーズは、ここでは求めるべきシーニュの思考を、新たに「イマージュなき思考pensée sans image」と呼び直している。(上利博規『記号と論理、一九六十年代のドゥルーズ』2003年,PDF

と記したところで、ついでにそのあたりの箇所をネット上であたってみれば、次の文に遭遇しえた。

En ce sens, la pensée conceptuelle philosophique a pour présupposé implicite une Image de la pensée, pré-philosophique et naturelle, empruntée à l’élément pur du sens commun. D’après cette image, la pensée est en affinité avec le vrai, possède formellement le vrai. Et c’est sur cette image que chacun sait, est censé savoir ce que signifie penser .(Gilles Deleuze, Différence et répétition, p.172)

まあ、ドゥルーズ専門家におまかせするよ、と口走りそうになったところで、ふとこれも以前読んだ、ドゥルーズの『シネマ』論である箭内匡氏の『映像について何を語るか-ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察-』PDFにおける記述を思いだすことになる・・・

真のシミュラークルとしての映像、真に蝶番から外れた映像、特定のイメージないしイデアの表象(représentation)ではなく、 それ自体でそれ自体の時間性を提示するもの(présentation)としての映像が存在しうるのではないだろうか。 映画の領域において、 ドゥルーズが 「時間イメージ 」と呼ぶものはまさにそうした映像であり、1930 年代以降、地味ながらも少しずつ世界の各地に広がって、 いわば 「もう一つの映画」 として展開してきたものである。 そうした映像を見るとき、我々はもはや、映像の「ストーリー」 (行動の連鎖)を論理的に説明することができないか、 あるいは説明しても最も大事な部分が抜け落ちてしまう。 つまり、 核心となる映像が行動イメージへとスムーズに移行しないため、 それを言葉にするのが困難であるだけでなく、そうした映像は、時系列の外に脱け出てしまうため、一定の「時間のイメージ」の中で語ることができないのである。
註)…これをドゥルーズは「時間の間接的イメージ」あるいは「時間のイメージ 」(image du temps) と呼び、 後で出てくる、 「時間」 を直接的に提示する 「時間イメージ 」 (image-temps)と区別する。(箭内匡,2003)

勝手な思いつきを言わせてもらえば、『プルーストとシーニュ』の「思考のイマージュ image de la pensée」 とは、実は「思考イマージュ image-pensée」ではないだろうか。




2016年11月3日木曜日

潜在的リアルについて初歩的なこともわかっておらん

《証明の背後にある何かが証明するのではなく、証明が証明するのである。》(ウィトゲンシュタイン『数学の基礎』)

《物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない。 c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire 》(ラカン、S.16,1968)

…………

《潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。》(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)

ーー内面は潜在的に言語に先立つ。しかしそれは言語の使用によってのみ内面化される(参照:「内面」とは言語の結果である)。

ーー死の欲動(エネルギー)は、人間の出産直後から「本源的欲動のアナーキー l'anarchie de ses pulsions élémentaires(河川の流れ)」のなかに潜在的なものとして既にある、だが言語の世界に入場した瞬間に初めて「死の欲動(エネルギー)」となる。

すべての欲動は、潜在的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》(Lacan Ecrit.848)

ーー死の欲動があるのは、人間が言語を使用する結果である。

…………

潜在的なもの Le virtuel は、リアルなもの réel には対立せず、ただアクチュアルなもの actuel に対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る十全な実在性 pleine réalité を保持している。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴 résonanceの諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、《アクチュアルではないリアル、抽象的ではない観念的なものréels sans être actuels, idéaux sans être abstraits》(「見出された時」)ということ、そして、虚構でない象徴的なもの symboliques sans être fictifsということ。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

《或る十全な実在性 pleine réalité》、--それは(精神分析にとって)何も意味していない、と言いうるだろうか。

原初 primaireとは最初 premier のことではないーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》(ラカン、 S.20、1973-1974)

ーートラウマ経験はその経験の反復衝迫に先立つ。しかし反復衝迫によってのみ外傷化される。

精神分析における決定的瞬間が起こったのは、フロイトが、ある点で、現実的な réels 幼児期の出来事の仮定を放棄した時である。Un moment décisif de la psychanalyse fut celui où Freud renonça sur certains points à l'hypothèse d'événements réels de l'enfance(ドゥルーズ『差異と反復』)

これはまずは「正当な」指摘だろう。《ある点で sur certains points》とあるのをどう読むかにもかかわるが。フロイトは、ある時期、幼児の「現実的な」トラウマの考え方を放棄した。

無意識のなかの現実にはどんな目安もない es im Unbewußten ein Realitätszeichem nicht gibt。したがって人は、真実、そして情動に備給された虚構とのあいだの区別をし得ない daß man die Wahrheit und die mit Affekt besetze Fiktion nicht unterscheiden kann。(フロイト、Draft M,1887-1904)

だが、フロイトは、「リアルなもの」としての幼児の出来事(構造的トラウマー身体の出来事 un événement de corps (Lacan,JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)を一度も放棄したことはない。それはラカンも同じく(参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)

リアルな原トラウマとは、フロイトの遡及性 Nachträglichkeit 概念にかかわる。

アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって〈現実界〉 ―〈物〉― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。

後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な〈現実界〉にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

ーーより詳しくは、 「静止的視覚映像による遡及的なトラウマの構成」を見よ。


…………

以下、潜在的/現勢的の語彙の使用サンプルを蓮實重彦から掲げよう。現行化、顕在化とされているのは、最後の文例から分かるように現勢化のことである。

批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬける(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2
「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」)




よく見てみるがよい。そこには、その後に「映画」の名で呼ばれることになる貴重な何かがまぎれもない潜在態として生々しく息づいている。そして、ひとまず『あなたが何を考えているかわかっているわ』と呼んでおくこの「無声映画」は、潜在態として息づいているその貴重な何かを現勢化させるという目的のためなら、誰がやってもおかしくなかった試みにほかならない。それは、マネの絵画を題材としたゴダールの作品ですらなく、ことによったらこのようなものとして映画は生まれたのかもしれないという映画自身の発生期の自画像のようなものだ。また、そのようなものとして撮られているかぎり、シネマトグラフが「思考する形式」として人類の資産となったことを忘れさせない何かが、この「無声映画」にこめられているはずでもあろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)


浅田彰による「標準的な」説明も掲げておこう。

……ベルクソン哲学との関連では、そのような領野は「潜在的<潜勢的>なもの(ヴィルチユエル)」の場として規定されます。そこでは、差異的=微分的 differentiel な諸関係とそれに対応する諸特異点から成る潜在的な多様体があって、それが分化 differenciarion の過程を通じて顕在化<現働化>(アクチュアリゼ)されることで、現象が構成されることになるんですね。(浅田彰(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人

とすれば吉本隆明曰くの「知の三馬鹿トリオ」 のもうひとり、柄谷行人にも登場願うことにする。

柄谷行人)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(……)

ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。(『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」財津/蓮實/前田/浅田/柄谷)

「事後的」とは、もちろんフロイトの「遡及的 nachträglich」の意味でもある。

我々はラカンの断言「象徴的大他者の大他者はない」を思い起こす必要がある。この意味は何よりもまずなによりも、象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(〈父の名〉の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり得ないことである。

言い換えれば、倫理のセミネールVII に反して、最後のラカンにとっては、「根源的な〈一者〉は存在しない」ーー、それは象徴界によって原初に「殺された」のである。すなわち、「純粋な」根源的〈リアル〉はない(真の現実界はない)。象徴界の〈リアル〉Real-of-the-Symbolic の次元を超えた現実界はない。すなわち、象徴界に(想像界に接合しつつ)「穴を開ける」現実界の残余の側面を超えた現実界はない。

さらに私は強調しなければならない。ラカンにとって、「「根源的な〈一者〉」ーー真の現実界ーーは「非一」not-one である。まさにそれが《「一」として数えられる》ことが出来ない限りで。すなわち、現実界はゼロに相当する。セミネールXXIIIの鍵となる一節にて、ラカンは指摘している、《現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない》と。というのは、《燃えている火(「渦巻く」享楽の蜃気楼)はたんに現実界の仮面》なのだから、と。(S.23 Le sinthome,)

我々はこのゼロを遡及的にのみ考えうる。「まやかしのfake」象徴的/想像的〈一者〉(ラカンが見せかけ semblant と呼んだものだ)の立場からのみ。(…)ゼロは全く何物でもない。しかし「まやかしの」〈一者〉の限定された観点からのみの何かである。モノ自体は無-物であるとラカンは言う。それは l'achoseだと。(ラカンは、l'achose を l'insub-stanceと同じものとしている。(S.17)(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)




2016年11月2日水曜日

リアルな対象a とイマジネールな対象a

《a は、現実界の位のものである le a est de l'ordre du réel》(ラカン、S.12)

…対象a という用語が、現実界の位にあることは疑問に付される(……)。

アンコールの八章で、ラカンが対象a を現実界の位から降格させているのを見ると、人は衝撃を受ける…ここなのだ、我々が、後期ラカンが奏でる突破口の準備を見るのは。(Jacques-Alain Miller,2002

(ラカン、S.20、アンコール第八章)




前期ラカン(セミネール4、5)には le réel dans le symbolique/le réel symbolique という表現がある。ロレンツォ・キエーザは、すでにこの時期にーーセミネール7で示された 超越的なリアルという一時的な気の迷いに反してーーラカンは超越論的リアルを考えていたと想定している。

現実界のないの象徴界はない。そして象徴界のない現実界はない。(……)

象徴界のなかの現実界 le réel dans le symbolique がある限りにおいてのみ、象徴界は象徴的である。 象徴的現実界 le réel symboliqueがある限りにおいてのみ、現実界は現実界的である。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、2007)

いずれにしろ、ラカンはセミネール22、23で、対象a のポジションを象徴界・想像界・現実界の重なる場所に置いている。






核心は、対象aは外密« l'objet a est extime » (S.16)であり、 現実界は外立 «Le Réel ex-siste » (S.22)であることだろう。外密も外立も相同的である。ようするに象徴界内部に(象徴界の非全体pas-tout の領域に)外密‐外立する(参照:基本版:現実界と享楽の定義)。

最初はミレールの「脅し」のような問いかけにビックリしなかったことはないが、いまでは冷静に?古典的ラカンを交えながら、対象aを捉えている(ま、細部の議論は勝手にやってください、ということ)。対象a の核心は、フロイトの喪われた対象 objet perdu であることには変わりはないだろう、と念じている。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S.17ーー永遠回帰・享楽回帰・純粋差異)

…………

現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan,E.554,1966)

◆ミレールの古典的な注釈(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré 1984)

対象を〈現実界〉として密かに無視することによって、現実の安定が「ひとかけらの現実」として保たれているのだ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉がなくなったら、〈対象a〉はどうやって現実に枠をはめるのか。   



〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実を枠にはめるのである。 〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを取り除くことが、それに枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,1984)

…………

30年前の注釈なので古くなっているところはある(たとえば穴の意味)。だが基本的にはこの穴自体としてのリアルな対象a、そしてこの穴を埋めるイマジネールな対象aがある、ということには変わりはない、とわたくしは思う。

穴を埋めるものは、まず代表的にはフェティッシュである。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ここでジジェク=ミレールの言っている「無」とは「穴(ブラックホール)」のことである(このあたりが古典的ミレールの注釈には欠けている)。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

Ⱥ とはラカンの対象a のいくつかある定義(参照:対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa))の内のひとつ、リアルな対象aのことである。

大他者のなかのリアルな穴 real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアル Whole Real の欠如(原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しない)、すなわち享楽不在としての穴である。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

そしてよく知られているように(?)、〈女〉とは、Ⱥ=穴(ブラックホール)を徴示するシニフィアンS(Ⱥ)のことである。

S(Ⱥ)は、「La Femme n'existe pas〈女〉は存在しない」を徴示する。(ヴェルハーゲ、1999)
S(Ⱥ) から Φ (ファルス)への移行は、不可能 性から禁止への移行である。S(Ⱥ) とは、大他者のシニフィアンの不可能性を徴示する。「大他者の大他者はいない」という事実、大他者の領野は、本質として非一貫的(非全体 pas-tout)であるという事実のシニフィアン(徴示素)である。Φ はこの不可能性を例外へと具象化する。 神聖な、禁止された/到達しえない代理人ーー去勢を免れ、全てを享楽する形象のなか へと具現化する。(ジジェク,1995ーーS(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme

ではファルス Φ も穴埋めの一種なのだろうか。

ファルスは繋辞である。そして、繋辞は大他者に関係がある。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽のモードを刻んでいる。しかし、大他者との関係から切り離された享楽だ。

人が、対象a と書くとき、正当的な身体の享楽に向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-sistence する享楽に。

ラカンは対象a にて止まらない。なぜか? 彼はセミネールXX、ラカンの教えの第二段階の最後で、それを説明している。対象a はいまだ幻想のなかに刻まれた sens joui (享楽する意味)である。

我々が、この機能について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」(参照)の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。((ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002)

あるいは次のような説明もある(参照:ファルスΦと対象aの相違、あるいは二重の欠如)。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]).
ファルスは対象ではなく、他の源泉、すなわち対象aから来る享楽を統制する事例instanceである。これらの享楽は、ファルスのシニフィアンによって解釈されることを通して統制され、ファルス快楽に変わる。構造的に、この象徴化は不完全のままである。対象aは、象徴化に抵抗する現実界の部分である。(Verhaeghe, P. & Declercq, F. 2002 Lacan's analytical goal: "Le Sinthome" or the feminine way

ブルース・フィンクはすでに、S(Ⱥ)はS(a)と書けるかもしれない、と1995年に指摘している(父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって)。すなわち、Ⱥ=a。ようするに対象a とはイマジネールなものだけではない。リアルな対象a がある。

もちろん、シンボリックな対象a もある、S(Ⱥ)はシニフィアンである。あるいは斜線を引かれた「一」(l' Un de signifiant)も同じく(これは「一の徴 trait unaire」(フロイトの der einzige Zug)のことでもある筈)。

(ヴェルハーゲ、1999)


この原トラウマにかかわる対象a、あるいは原トラウマ Ⱥ のシニフィアン S(Ⱥ) は、「一のシニフィアン」、身体のパッションーー身体の出来事=サントームーー、文字Lettre ともされる。

la passion du corps = l' Un de signifiant = Lettre = petit(a) --Lacan,S.22 pp.71-73

くり返せば、この対象aは「文字」とされるているように、原トラウマにかかわるが、直接的に原トラウマではない。象徴的なものである。

・「一の徴 trait unaire」の機能 la fonction du trait unaire は…、徴のもっともシンプルな形 la forme la plus simple de marque であり、厳密に言って、シニフィアンの起源 l'origine du signifiantである。

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

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以上をいささか補足するならば現在は次のように言われている(これは、専門的なラカン派内で議論したらいい話であるが敢えて付け加えるならば)。

もう一度、古典的ミレールの文に戻れば、《斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである》とあった。

この存在欠如についてもミレールは修正している。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

コレット・ソレールはよりいっそう明確にこう言っている。

ラカンは最初には「存在欠如(le manque-à-être)」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望

これがリアルな対象a にかかわるものである(筈)。

リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

結局、アンコール第八章の図の真ん中のJ (JOUISSANCE 享楽)は、斜線を引かれたJ、すなわち享楽欠如 manqué à jouir とされるべきものだ、とわたくしは思う。






2016年11月1日火曜日

永遠回帰・享楽回帰・純粋差異

・反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S.17)

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

・「一の徴 trait unaire」と反復――徴 marque として享楽を設置するものーー、それは享楽のサンスのなかに極小の偏差(裂け目) très faible écart に起源を持つのみである。…du trait unaire, de la répétition, de ce qui l'institue dès lors comme marque, …s très faible écart dans le sens de la jouissance que cela s'origine.

・…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.19)

・「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19ーー潜在的対象・純粋過去・純粋差異・反復)

ここでラカンの言っている反復は、転移による反復 Wiederholen (前期フロイト)ではなく、後期フロイトの反復強迫 Wiederholungszwang という意味での反復である。

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《ラカン派においては、純粋差異は潜在的対象(ラカンの対象a)の補填にかかわる。In Lacanese, pure difference concerns the supplement of the virtual object (Lacan's objet a)》(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

〈永遠回帰〉は〈反復〉である。だが、それは選り分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである。解き放ち、選り分ける反復という驚くべき秘密なのである。

L'Éternel Retour est la Répétition ; mais c'est la Répétition qui sélectionne, la Répétition qui sauve. Prodigieux secret d'une répétition libératrice et sélectionnante.(ドゥルーズ『ニーチェ』1965)


すこし前に戻るが、ジジェクの文に supplement という語が現われている。ラカンにはその語を次のように使用している文例がある。

…c'est une suppléance de ce « pas-toute » sur quoi repose – quoi ? – la jouissance de la femme. C'est à savoir que cette jouissance qu'elle n'est pas-toute, c'est-à-dire qui quelque part la fait absente d'elle-même, absente en tant que sujet, qu'elle y trouvera le bouchon de ce (a) …(ラカン、 セミネール20)

ブルース・フィンクは une suppléance de ce « pas-toute » を a supplementation of this not-whole と訳している。

ラカンは、《女性の享楽は非全体の補填(代替)を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓を見いだす》という意味合いのことを言っていることになる。

女性の享楽 La jouissance féminine はーーすくなくともセミネール20(アンコール)の時点では、他の享楽 l'autre jouissance のことである。あるいは身体の享楽 la jouissance du corps ともされる。

他の享楽とはファルス享楽 la jouissance phallique の彼方にある享楽である。《ファルスの彼方には Au-delà du phallus、身体の享楽 la jouissance du corpsがある》(S.20)。


もう一つジジェクが「潜在的対象(ラカンの対象a)」としている対象aは、もちろん上にラカンが言っている喪われた対象のことである。《反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる》(S.17)

※セミネール17は1969-1970年のセミネールであり、ラカンはその前年のセミネール16でドゥルーズの『差異と反復』1968を絶賛している。

《現実界は《快原理の障害物である l'obstacle au principe du plaisir》(Lacan,S.11)。オートマンと象徴界によるシステム的決定因の彼方には、テュケー・遇然的要素としての欲動の現実界が待っている。

ラカンによれば、この遇発性はすべて欲動にかかわる。彼は、フロイトに従って、欲動に随伴する部分対象と共に欲動における部分的側面を強調する。フロイトによれば、対象 Objekt は欲動の最も重要でない部分である(欲動 Trieb の源泉 Quelle、衝迫 Drang、目標 Ziel という他の部分に比べて)。

部分対象が重要性に劣ることについて、ラカンは次のように説明している。どの対象も決定的に原初の喪われた対象a (l'objet perdu (a))の場に現れる。《この喪われた対象は、実際には、シンプルに空洞・空虚の現前であり、フロイト曰く、どんな対象によっても占められうる Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide… occupable, nous dit FREUD, par n'importe quel objet》(S.11)。》(ヴェルハーゲ、2001、 Beyond Gender. From Subject to Drive.

ところで無意志的記憶の回帰とは、永遠回帰、あるいは享楽回帰の縮小版に相違ない。

無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964-1970-1975)

《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (ラカン、S.17)

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、その究極的統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

ドゥルーズの文に《純粋な…差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである》とあった。

力の意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動は単にその発現形態であること、――(……)「力の意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

この情動は、欲動とほとんど等価である。実際に、欲動と訳している研究者もいる(『「権力への意志」の冒険』砂原陽一、PDF)。

そして、《すべての欲動は、潜在的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》(Lacan Ecrit848)


さらに言えば、享楽回帰とは、ロラン・バルトのプンクトゥム回帰ーーわたくしはプンクトゥムとは対象aのことに相違ないと考えているーーでもあるだろう。

ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』ーー時の悲痛な叫び
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(『明るい部屋』)

※ストゥディウムの定義は、「偶然/遇発性(Chance/Contingency)」を見よ。

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※追記

ヘーゲルとドゥルーズとのあいだの《相違は、内在性と超越論性とのあいだにあるのではなく、流体と裂目とのあいだにある。ドゥルーズの超越論的経験論の「究極的事実」は、純粋な生成,、その継起的流体の絶対的内在性である。他方、ヘーゲルの「究極的事実」は内在性「の/内部の」削減しえない亀裂である。》(ジジェク『身体なき器官』2004)

自由状態での純粋な流体un pur fluide à l'état libre(ドゥルーズ&ガタリ『アンチオイディプス』ーー潜在的対象・純粋過去・純粋差異・反復