2016年11月30日水曜日

欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある

質問をもらっている。

何度か繰り返しているが、小笠原晋也氏のラカン解釈は、ごく初歩的な出発点から間違っている。すくなくとも彼のように欲望と享楽の相違を解釈しているラカン派は(私の知る限り)世界にひとりもいない。

@ogswrs Lacan の教えにおいて欲望という用語が pulsion[本能]という用語より如何に重要視されているかは,Écrits の目次を眺めるだけで見てとれます.

その最も基本的な出発点からの誤謬は、次の文の解釈である。

欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose(ラカン、E.853)

小笠原氏の解釈は次の箇所を見よ→「2016年03月17日(木)、ツイート

まずなりよりも、上の一文だけでいい。彼のように解釈しているラカン派が世界中にほかにひとりでもいるなら、それを示してほしい。わたくしの言いたいのはそれだけだ。

以下、ミレールによる小笠原氏と正反対の解釈。

◆ミレール、ラカンのテキストについての注釈1994より(「ミ レールのセミネール」 (Word 56KB)

ーー「フロイトの欲動精神分析家の欲望について」についての読解

このミレールの1994年注釈の基本は、2011年、L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller でもより鮮明な形で強調されている(参照:基本版:現代ラカン派の考え方

ラカンのテクスト「フロイトの〈欲動〉と精神分析家の欲望について Du «Trieb» de Freud et du désir du psychanalyste」(1966,初出1964)は、欲動と欲望とのあいだの区別を強調することを目的としています。

ラカンは初めにフロイトの欲動と精神分析家の欲望について語っていますから、このことは分かりにくくなっています。それでもなお、このテクストは欲動と欲望との区別に充てられています。このテクストはそれら二つを混同してはいけないということを強調しています。ラカン自身、「ファルスの意味作用」(Ecrits, 1958)においてこの二つを混同していたのです。

以前に私がコメントした文章を、このテクストに見つけることが出来ます――

欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》(E853)ラカンがここで強調していることは、シニフィアンの秩序――大他者であるその場所――と享楽のあいだの区別です。享楽は、セミネール VII『精神分析の倫理』で練り上げられたフロイトの概念である《モノ das Ding》を経由して、この論文で取り上げられています。

このテクストは「ファルスの意味作用」に逆らっています。なぜなら、「ファルスの意味作用」は欲動と欲望の混同に基づいているからです。ラカンは冒頭から、フロイトの著作では欲動はいかなる種類の性的本能とも区別されると宣言しています《 La libido n’est pas l’instinct sexuel. Sa réduction, à la limite, au dé­sir mâle, indiquée par Freud, suffirait à nous en avertir》( E851)。

なによりもまずそれは量化できるエネルギーであるからであり、そしてそのセクシュアリテは《空虚の色 couleur de vide》(E851)だからです。このイメージによって指摘されていることは、フロイトの欲動は両性間の関係に自然に記入されてはいないという趣旨です。欲動のそれ自身の満足への関係が大他者の性に関与していないことは明らかです。

………

ラカンは、欲動は《裂け目の光の中に保留されている suspendue dans la lumière d'une béance》(E851) と言いますが、これがその理由です。このイメージによってラカンが言おうとしているのは、欲動と-φと書かれる裂け目との関係です。

《欲望は快原理によって負わされた限界において〔この裂け目に〕出会う Cette béance est celle que le désir rencontre aux limites que lui impose le principe dit ironiquement du plaisir》(E851)とラカンは言っています。これは、欲望は快原理の諸限界の範囲内に刻まれている、ということを意味しています。

言い換えれば、欲望は快原理にとらわれたままなのです――これは私が指摘した快楽と享楽の対立にすでに示されています。欲望はとらわれたままであり、その彼岸には享楽の価値 la valeur de la jouissance があります。《欲望の難所は本質的に不可能性である le freudisme coupe un désir dont le principe se trouve essentiellement dans des impossibilités》(E852)とラカンが言うときに強調しているのはこのことです。これは何を意味しているのでしょうか?

ラカンはそのような欲望に現れている「否定」を際立たせています。それは侵犯 transgression の諸幻想を呼び起こすところまで進みます。フロイトの著作において、《欲望が禁止によって設立されている…institue par l'interdictionn… le désir est accroché à l'interdit》( E852)とラカンが言うことができるのは、このような意味においてです。これが、ラカンがエディプス・コンプレックスを取り上げるやり方です。

事実として、禁止、つまりよく知られた近親相姦の禁止は、何よりもまず、母の欲望 desir de la mere を満足させることに対する禁止へと形を変えます。それが享楽の《シニフィアンの禁止 l'interdir signifiant》についての隠喩であると、ラカンはセミネール VII で既に言及していました。

近親相姦の禁止が意味するのは「汝は汝の極上の享楽に到達してはならない」ということです。この物語において反響するのは、享楽それ自体にのしかかったシニフィアンの禁止です。この観点からラカンは、欲望はつねに享楽の禁止に繋がれており、それゆえ欲望の主要なシニフィアンが -φ であることを強調しています。欲望はつねに欠如によって設立されます。それゆえに、欲望は法と同じ側にあるのです。


侵犯の諸幻想について語れば語るほど、欲望の対象がまさに禁止された対象であると言ってしまうように導かれ、欲望が法に従属しているという事実を際立たせることになります。欲望は法に従属している 《 Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi》(E852)――これはこの短いテクストで公式化される重大な要点です。これが、欲望は大他者からやってくるということの意味です。

しかし、欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、また享楽で満たされる欲動なのです。この新たな概念の分割において、享楽は禁止に繋がれてはいません。

欲動は禁止についてそれ以上考えることができません。つまり、欲動は禁止については何もしらず、禁止を破ることなど夢にも思わないのです。欲動は自身の性向を追い、つねに満足を得ます。一方、欲望は「彼らは私がそれをすることを望んでいる、したがって私はしたくない」「私はそっちに行くように想定されていない、だから私が行きたいのはそっちなのだ。しかし、最後の最後でそうすることはできなくなるだろう」などと考えて気を重くしています。

言い換えれば、欲望の機能は従属と動揺の両方において現れており、去勢、享楽の去勢に密接に関係したものとして自らを現しています。欲望の主要な記号が -φ である理由はこれなのです。

享楽を具体化するものは何なのでしょうか? どのようにして享楽はこの弁証法に具体化されるのでしょうか? ここでのラカンの答えは、享楽はトカゲが自分自身を切断する〔災難にあったときに自らの尻尾を切る〕場合と同じように具現化される《…symboliserait au mieux l'automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse》 (E853)ということです。言い換えれば、享楽は失われた対象に受肉化されるのです。

そして《利益と損失を含んだ passer par profits et pertes》(E853)それら全ての対象は、ラカンが言うように-φの格納場所 place holders なのです。言い換えれば、ここで私たちは a/-φ という主要な公式を提供することが出来ます。この公式は、欲望は -φ に繋がっており、一方で享楽は対象 a に繋がっているということを意味しています。

a ◇jouissance[享楽]

-φ ◇desir[欲望]

神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。《享楽の垣根における欲望の災難 Mesaventure du desir aux haies de la jouissance》(E853) とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。

欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが -φ の素晴らしい表現であり、また、対象 a の表現でもあることを認めなければなりません。対象 a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで《同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される c'est que les identifications s'y déterminent du désir sans satisf aire la pulsion》(E853)とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。

※付記

①ほかのラカン注釈者もふくめた見解のひとつ→「欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)

②比較的よく読まれている欲望/享楽をめぐる最も基本的論文を三つ掲げておく。

A:Braunstein jouissance and Desire(PDF)

B:Frédéric Declercq CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE:(PDF)

C:Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013


わたくしにとっての決定版は、Cのコレット・ソレールのものだが(仏文)、英訳もネット上に落ちている。とはいえこの(平易な)インタービュー記事は、貴君のように基本的なところをおさえていない人物だと、何を言っているのかわからないかもしれない。

それぞれ解釈者によって微妙な差異はある。だが出発点はみな同じ。

Braunsteinの論文は次のように始まる。

On 5 March I958, the theory, the technique,·and the history of psychoanaly-sis were substantially changed. This change came about almost unnoticed by anyone, perhaps even unnoticed by Lacan himself, who could not have predicted where the path he had undertaken would lead.

ラカンのエクリとは、この 5 March I958よりも前に書かれたものが大半であり、だからナイーヴに読むと、そしてエクリに耽溺してしまうと、「小笠原病」の類が発生するのかもしれない。

Braunsteinは、上のように記したあと、ラカンのセミネールⅤ(5 March I958)を引用しているが、その箇所の原文は次の通り。

Aujourd'hui, ce n'est pas tellement cela que je vous rappellerai une fois de plus… encore que nous devions y revenir pour en repartir …mais je vous montrerai ce que signifie dans une perspective rigoureuse, celle qui maintient l'originalité de la condition du désir de l'homme, ce que représente pour lui ce quelque chose qui toujours pour vous est plus ou moins impliqué dans le maniement que vous faites de cette notion du désir et qui mérite d'en être distingué.

Je dirai plus : qui ne peut commencer d'être articulé qu'à partir du moment où, ici, nous sommes suffisamment inculqués de la notion de complexité dans laquelle se constituent ce désir et cette notion dont je parle, qui va être l'autre pôle du discours d'aujourd'hui, elle s'appelle la jouissance. (Lacan, S.5, 05 Mars 1958)

人間の欲望を条件づけるオリジナリティl'originalité de la condition du désir de l'homme ……人間にとってのこの何かを表象するもの、それは常に多かれ少なかれ、あなたがたが欲望概念を扱うやり方において絡み合っているものだが、それは欲望概念から区別されるに値する notion du désir et qui mérite d'en être distingu、という意味合いのことを言っている。


私はさらにこう言おう。欲望と私が話しているこの概念を構成している複合概念に十全に入り込む時がなければ、分節化を始めることさえできないと。今、言説の別の柱であるもの。それは享楽と呼ばれる。

Frédéric Declercq論文の結論は次の通り。

In the last phase of his teaching, Lacan’s major preoccupation is with the field of jouissance. In developing a notion of the real dimension of the body, Lacan stresses the cut between the subject and its jouissance. At first, Lacan shows us that, in the end, the subject does not have very much to do with jouissance. The agency that is concerned with jouissance, on the other hand, is the body. This situating of jouissance sheds new light on the dynamics and the treatment of neurosis and psychosis. Taking up Freud’s indications on this matter, Lacan points out that the real of the body is the agency that lies at the base of the fixation of the drives, which is the precursor to repression. Thinking the real of the body through to its logical conclusion, Lacan arrives at the conclusion that it is this same agency that chooses the signifiers that a neurosis is built with. Since jouissance is considered to be the cornerstone of psychopathological processes, ultimately the concept of the real of the body ties together aetiology and treatment.

ごたごた言わないで簡潔にいえば、「享楽」とはまずなりよりも「身体」だよ。欲望はシニフィアン(大他者)。

で、身体と言葉(シニフィアン)とどっちがわれわれの核なんだい?こんなことはラカン派でなくてもすでに鮮明になっている。

米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットによれば、人間が自発的行為を実行する時、その意図を意識するのは脳が行動を実行しはじめてから〇・五秒後である。脳/身体が先に動きだし、意識は時間を置いてその意図を知る。しかも、意識は自分が身体に行動するように指示したと錯覚しているーーということである。

(……)私たちは、指を曲げようというような動作をし始めてから意識が、「指を曲げることにするよ」という意図を意識のスクリーンに現前させるというわけだ。一世紀以上前に米国の哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームスは「悲しいから泣くのでなくて泣くから悲しいのだ」といった。それに近い話である。

これが正しければ、意識による「自己コントロール」は、まちがって踏みはじめたアクセルにブレーキを遅ればせにかけることになる。そして、意識は、追認するか、制止するか、軌道を修正するかである。ラテン語以来、イタリア、フランス、スペイン語で「意識」と「良心」とが同じconscientia(とそのヴァリエーション)であることに新しい意味が加わる。意識はすでに判断者なのである。抑止は、追いかけてブレーキをかけることである。〇・五秒は、こういう時にはけっこう長い時間であり、「車」はかなり先に行っている。(中井久夫 「「踏み越え」について 」初出2003『徴候・記憶・外傷』所収ーー「意識とは躊躇」と「無意識とは検閲」

ラカンはこういった考え方を確信するのに少し先行してただけだよ。


《考え、計算し、判断するのは(自我や主体ではなく)享楽である Ce qui pense, calcule et juge, c'est la jouissance》 (AE.551、1975)

《主体そのものは享楽とはあまり関係がない Un sujet comme tel n'a pas grand chose à faire avec la jouissance》(S.20、16 Janvier 1973)

《主体sujetとは……欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 rond brûlé dans la brousse des pulsionsにすぎない》(ラカン、E.666,1960)
存在は身体の享楽そのものである l'être c'est la jouissance du corps comme tel( S20、21 Novembre 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (S20、Février 1973)
現実界は話す身体の神秘、無意識の神秘である。Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  (S20、15 mai 1973)
いにしえの Unerkannt (知りえないもの)としての無意識は、まさに我々の身体のなかで何が起こっているかの無知によって支えられている何ものかである。

しかしフロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 」と「円環を作る何か、あるいは真っ直ぐな無限と言ってもよい(それは同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である.(S.23 le sinthome, 11 Mai 1976)


いやあ、もうなんか言ってくるな、今度いってくるときは、《欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》の小笠原流の「シュレーバー的妄想」解釈しているラカン注釈者をほかにひとりでもいいから示せ! 

それ以外はもう返事はしない。




2016年11月29日火曜日

あらゆる人間関係が、つねに同一の徴に終わるような人がいる

以下に掲げるフロイトの『快原理の彼岸』の文は、後のフロイト解釈者たちの見解を思慮にいれると、語彙的にはいくらか疑念はある。

たとえば、反復と転移。

転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。(フロイト『快原理の彼岸』1920)

これに対して次のような話がある(反復と反復強迫の区別はしなければならないのだが、ここではそれにつっこむことはしない)。

・反復の概念は転移の概念とは何の関係もない le concept de repetition n'a rien a faire avec celui de transfert.(ラカン、S11、1964)
・転移は反復に要求の形式を与える le transfert donne à la répétition la forme de la demande

・転移以外には、反復は本質的に要求はない Hors transfert, la répétition n’est pas essentiellement demande (コレット・ソレール、2010_« La réptition ne se produit qu’une seule fois »par Colette Soler)

あるいは「永劫回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」、つまりは「同じものの回帰  retour du Même」について。

…われわれはこの「同一物の永劫回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。(フロイト『快原理の彼岸』)

 これに対して次のような話がある。

〈永遠回帰〉は〈反復〉である。だが、それは選り分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである。解き放ち、選り分ける反復という驚くべき秘密なのである。

L'Éternel Retour est la Répétition ; mais c'est la Répétition qui sélectionne, la Répétition qui sauve. Prodigieux secret d'une répétition libératrice et sélectionnante.(ドゥルーズ『ニーチェ』1965)
永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

このいささか難解な文とは別に、ドゥルーズはこうも書いている。

反復は本質において象徴的なものである。記号、シミュラークルが反復自体の文字である。la répétition est symbolique dans son essence, l symbole, le symuracle, est la lettre de la répétition même. (ドゥルーズ『差異と反復』) 

これはラカンの次の言明と「ともに」読むことができる。

「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19,1971-1972)
…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.9,1961-1962)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(S.19,1971-1972)


すこし前に掲げたドゥルーズの永遠回帰をめぐる文に、《純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi》とあったように、ラカンの「純粋差異」と(基本的には)同じことを言っている。

つまり核心としては純粋差異の「一の徴」なのだが、これらの前提はあるにしろ、以下のフロイトの『快原則の彼岸』の文は、しみじみと何かを感じさせる文で(雑音は脇にやって)素直にくり返し読んでみたいところがある。たとえば、《女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち》などという文に再会して、あっ、あっ、あっ、あー、あ~、と奇妙な叫び声がどこからか響きわたって来るのは、おそらく架空の登場人物蚊居肢散人の過去からの谺であろう・・・

いずれにせよ、《あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいる》における「同一の結果に終わる」という表現はーーいくらかフロイト後の注釈者たちの雑音に耳を傾けてもーー「同一の徴=純粋差異に終わる」と翻訳したらいいだけである。

精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格 dämonischen Zuges といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成 Symptombildung によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫 Wiederholungszwang と別個のものではない。

あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一物の永劫回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎんい三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(……)

以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。もちろん、反復強迫の作用が、他の動機の助力なしに純粋に把握されるのは、ごくまれな場合であることを知っておく必要がある。小児の遊戯のさいに、われわれは、その発生についてどのような別種の解釈ができるかをすでに指摘した(糸巻き遊び、fort-da「いないいないばあ」のこと:引用者[参考])。

反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い衝動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。転移の現象が、抑圧を固執している自我の側からの抵抗に奉仕しているのは明らかである。治療が利用しようとつとめた反復強迫は、快原理を固執する自我によって、いわば自我の側へ引き寄せられる。

運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多いと思われるので、新しい神秘的な動機を設ける必要はないように思う。もっとも明白なのは、災害の夢であろうが、ほかの例でも一層くわしく吟味すると、われわれがすでに知っている動機の作用によってはつくしがたい事態のあることをみとめなければならない。反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 ursprünglicher、一次的 elementarer、かつ衝動的 triebhafter であるように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年,pp,161-163、人文書院旧訳よりだが一部変更)

…………

※付記

■ドゥルーズ
フロイトのあらゆるテキストのうちで、傑出した書物たる『快感原則の彼岸』は、おそらくフロイトがこれこそ哲学的と呼ぶほかない考察のうちに、最も直線的に、しかも驚くべき才能をもって、透徹せる視線を注いだテキストであるに違いない。(……)

「彼岸」によって、フロイトが快感原則の例外的なものをいささかも意味していないのはたちどころに明瞭となる。(……)要するに、快楽それ自体の奇妙な複雑化現象がありはしても、快感原則には例外は存在しないのである。(……)快感原則には例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまり彼岸……が存在するということなのである。(……)

要するに、少なくとも快感だけでは説明しがたい何ものかがあり、それは快感の外部にとどまりつづけている。すなわちそれは、原則をめぐる価値であり、心的生活のうちにそれを求めねばならない。快感を一つの原則たらしめ、快感に原則たる地位を与え、快感を心的生活に従属させる上位の結合とはいかなるものか? (……)肝腎な点は、快感原則の例外ではなく、この原則の基礎の確立なのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』原著1967、蓮實重彦訳,pp138-140)
エロスの彼方にはタナトスがある。底の彼方には、底なしの深淵がある。絆としての反復の彼方には、消しゴムとしての反復があって、それにはものを消滅させ、殺害する力がそなわっている Au-delà Éros, Thanatos. Au-delà du fond, le sans fond Au-delà de la répétition-lien, la répétition- gomme, qui efface et qui tue (ドゥルーズ『マゾッホとサド』 p.141)

■ニーチェ
最大の重し:もしある日、またはある夜、デーモン Dämon が君のお前のあとを追い、お前のもっとも孤独な孤独のうちに忍び込み、次のように語ったらどうだろう。

「お前は、お前が現に生き、既に生きてきたこの生をもう一度、また無数回におよんで、生きなければならないだろう。そこには何も新しいものはなく、あらゆる苦痛、あらゆる愉悦、あらゆる想念と嘆息、お前の生の名状しがたく小なるものと大なるもののすべてが回帰 wiederkommenするにちがいない。しかもすべてが同じ順序で―この蜘蛛、樹々のあいだのこの月光も同様であり、この瞬間と私自身も同様である。存在の永遠の砂時計はくりかえしくりかえし回転させられる。―そしてこの砂時計とともに、砂塵のなかの小さな砂塵にすぎないお前も!」

ー―お前は倒れ伏し、歯ぎしりして、そう語ったデーモンを呪わないだろうか? それともお前は、このデーモンにたいして、「お前は神だ、私はこれより神的なことを聞いたことは、けっしてない!」と答えるようなとほうもない瞬間を以前経験したことがあるのか。

もしあの思想がお前を支配するようになれば、現在のお前は変化し、おそらくは粉砕されるであろう。万事につけて「お前はこのことをもう一度、または無数回におよんで、意欲するか?」と問う問いは、最大の重しとなって、お前の行為のうえにかかってくるだろう! あるいは、この最後の永遠の確認と封印以上のなにものも要求しないためには、お前はお前自身と生とにどれほど好意をよせなければならないことだろう?(ニーチェ『悦ばしき知識 Die fröhliche Wissenschaft』341番 信太正三訳→独原文


■フロイト
私は思弁のみに身を任せてしまったのではなく、逆に分析による資料を重視し、臨床的な技法的テーマを取り扱うことをやめなかった。私は哲学に近づくことは避け、大切な点ではフェヒナーに頼ることにしていた。精神分析がショーペンハウアーの哲学と広汎な一致があるとしても(彼は感情の優位性と性愛の意義を重視し、抑圧のメカニズムも知っていた)、私が彼の本を読んだのはずっと後になってからだ。ニーチェの洞察も精神分析の成果と驚くほど合致するのだが、だからこそ公正さを保持するために避けてきた。(フロイト『自己を語る』1925)


■ラカン
・その徴は、裂目clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる。(S17)

・「一の徴」の機能 la fonction du trait unaire、それは徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque であり、シニフィアンの起源 l'origine du signifiantである。(S17)

・反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(S.17)

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)


■ラカン解釈者たちの見解のいくつか

もちろん、上のようにラカンの言葉を並べても、では「享楽」とは具体的に何なのか、という問いはあるだろう。以下、いくらかの見解を並べる。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンは最初には「存在欠如 le manque-à-être」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »
リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)
《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》、つまり原初の欠如は、《生み出された=ジェンダー化された s'engendre》有機体が、まさにジェンダー を獲得しために喪うものである。それは、《生存在 l'être vivant》が《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》に服従することによる喪失である。すなわち《永遠の生(不死の生 vie immortelle)》の喪失。対象a とは、出産時に喪われた個人のその部分の、絶え間ない不可能な表象を表す。(ヴェルハーゲ、2001,Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive.、二重山括弧内はすべてラカンのS11から )

ーーこれが必ずしも正しいか否かはわたくしにはいまだ曖昧なままである(たぶん永遠に曖昧なままだ)。そんなこと(人間の生の謎、より穏やかにいえば反復強迫の謎)が分かってしまったら人生はつまらない・・・

いやあでも、ほんとに享楽欠如の享楽だけなんだろうか? 

誰も牡蠣 huitre やビーバー castor が何を享楽するのかについて知らない。というのは、シニフィアンがないため、享楽と身体とのあいだの距離がないから 。牡蠣もビーバーも植物と同じ水準にある。結局それらもおそらく享楽を持っているだろうが、その水準にてである!

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。(ラカン、セミネール17)


人間にも牡蠣やビーバーのように享楽(身体の享楽)することがあるんじゃないか。あるいは「器官なき身体」のように、あるいは《身体もなく、性もない処女 UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE 》(アルトー)として享楽することが。

だがこれも《生存在 l'être vivant》が《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》に服従することによる喪失》したものにかかわるのなら、やはり享楽欠如の享楽なんだろうか・・・

だったら結局「死」のまわりを循環運動しているだけじゃないか、つまらんね、人間というかすべての生き物ってのは。

死への道 le chemin vers la mort は、享楽 jouissance と呼ばれるもの以外の何ものでもない。(ラカン、S.17)
・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』)

ーーそんな程度のことならあらためて言われなくたってずっとむかしから分かってるさ。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(ビシャ――フーコー『臨床医学の誕生』より)
・昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。

・女が孕んで、立っている姿は、なんという憂愁にみちた美しさであったろう。ほっそりとした両手をのせて、それとは気づかずにかばっている大きな胎内には、二つの実が宿っていた、嬰児と死が。広々とした顔にただようこまやかな、ほとんど豊潤な微笑は、女が胎内で子供と死とが成長していることをときどき感じたからではないか。(リルケ「マルテの手記」)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。(リルケ「ドウイノの悲歌」)





2016年11月28日月曜日

人間の宿命:「愛されたいという要求」

3 週間ほどまえ子犬が3 匹生れた。今まで4 匹生んだり5 匹生んだりしていた母犬は、今度は3 匹で、母乳の配分が多いせいか、子犬たちの成長がいくらか早い(気がする)。もうよりよち歩きをし始めた。

子犬は(基本的に)すこし大きくなったら人にあげてしまうのだが、ときに全部あげてしまうのは忍びなく1 匹残したりすると、どんどん増えてしまう。現在5 匹いる犬とこの赤子の犬3 匹をふくめて8 匹。さて1 匹残すべきか。

赤子の犬が育つ様子を観察するのが私はとても好きで、彼らはとってもエライーーと感じる(人間の乳幼児に比べてという意味合いでだが)。空腹になって泣き叫ぶと母犬が訪れる。そうすると誕生直後からみずから這って母の乳房に吸い付く。人間の乳児は母が口元まで乳房をもっていかないと乳を吸わない(たしかそうだったはずだが、人間の赤子のほうは3匹3度、ときたま観察しただけだ・・)。

これらはかつては、ボルクのネオテニー(幼態成熟)説やポルトマンの早産説などによって説明されてきたのだが、ラカンによって、「出生時の特異な未熟性 (prématuration spécifique de la naissance)」とか、「原初的不調和(une Discorde primordiale)」、「寸断された身体(corps morcelé)」などという表現で言われる現象でもある。

あるいはフロイトによって、寄る辺なさ(無力さ Hilflosigkei)や依存性と呼ばれたものである。 

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ Hilflosigkeit と依存性Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365)

《人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮》されているとあるが、犬は2か月ほどで生まれるじゃないかなどと言ってしまってはならない。これは相対的時間のことで、犬の時間と人間の時間は異なる。




犬の1年が人間の15歳であるなら、誕生直後の犬の 1か月は単純計算しても(15÷12)、1歳 2ヵ月強である。とすれば母胎のなかにいる 2 か月は、人間換算の 2 年半程度ということになる。

いずれにせよ人間は《失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象》である母が、《極度にたかい価値をおびてくる》動物であるのは間違いないだろう。そして原初の無力感(寄る辺なさ)はのちになっても、たとえば承認欲求という形で生涯尾を引く。

前期ラカンが,「欲望は承認欲望 désir de reconnaissance」、あるいは「承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir.E.151」と言ったのは、直接にはコジューヴ経由のヘーゲルが起源であるには相違ないが、とはいえ同時にフロイトの「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」とともに理解することもできる。

だからわれわれの承認欲望をナイーヴに否定するのは馬鹿げている。それは、われわれの原初からの宿命であり、のちに変奏ーー昇華・置換などーーによって、その原宿命が隠蔽されているだけなのだから。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらが原初の対象a(objets a primordiaux)の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(ミレール、2013,JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre)
作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。(中井久夫「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて)

人間の原初の寄る辺なさ、愛されたい要求とはーー厳密さを期さずに言えばーー「反復強迫」の起源のようなものでさえある。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動の概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ジャック=アラン・ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)

ここでフロイトの死の枕元にあったとされる『精神分析概説』草稿(死後出版1940年)からも引用しておこう。

子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。(……)

最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』 Abriß der Psychoanalyse 、私訳)

もっとも上の文をナイーヴに読んではならないのであって、すなわち反復自体は母への愛を反復するのではない。ひとつ前のミレールの文にあるように、欲動の固着という徴ーーこれを「一の徴」ともいい、原抑圧=原固着でもあるーーが我々人間の反復の起源であると、おおむねラカン派では言われる。だがこの徴とは結局、乳幼児にとって(殆どの場合)最初の大他者である母によって刻印された「徴」である。

その徴は、裂目clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる(ラカン、S17)

この「一の徴」とは、シニフィアンの起源であり、反復の徴である。

「一の徴」の機能 la fonction du trait unaire、それは徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque であり、シニフィアンの起源 l'origine du signifiantである。(ラカン、S17)
「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19)
・反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(S.17)

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

ーー《人は享楽の侵入(奔馬)を「一の徴」の鞍で以て飼い馴らそうと試みる。》(ヴェルハーゲ、2001)

ーー《フロイトが「一の徴 der einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。》(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

ラカン最晩年のサントーム概念さえもおそらく「一の徴」の変種である。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

…………

フロイトの「擬装された自叙伝」といわれることもある『夢解釈』に、《不滅の幼児願望たる「えらくなろう」という願望》という表現がある。

(わたしの夢)……なぜ私が日中思想の、ほかならぬこの代用物を選ばなければならなかったのか。これに対しては、ただ一個の説明があるのみであった。R教授との同一化に対しては、この同一化によって不滅の幼児願望たる「えらくなろう」という願望が充足させられるのであるから、私はすでに無意識裡にいつもその用意をしていたのである。(フロイト『夢解釈』高橋義孝訳)

この「えらくなろう」というのも「愛されたい」の変奏だろう。

わたくしはフロイトを比較的よく読むほうだが(もちろん一般の人に比べてという意味で、専門家のようにでは毛ほどもない)、長いあいだ頭像を作らせたはいけない、なんとはしたない!と思っていた。




だが情状酌量の余地は十分にある、と今では考えている。

十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしてこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」(フロイト『夢解釈』)




2016年11月26日土曜日

動物は神経症にならないだって? バカな!

人間の動物とちがう特権として、神経症になる素質をもっている…(フロイト『制止、症状、不安』1926年、旧訳P.363)

ーー以前どこかで読んだ文だと探したのだが、今日、意図せずにたまたま行き当たった。中井久夫はひょっとしてこの文への異議表明をしているのではなかろうか、《一般に神経症こそ生物に広く見られる事態である》と。

ただしフロイトの神経症という言葉を精神神経症としたらすべてはまるくおさまる、とわたくしは思う。動物は現勢神経症にはなるが精神神経症にはならない、と。

…現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917ーー「現勢神経症」スペクトラム

もちろん上に記されているように、人間は現勢神経症にもなるし精神神経症にもなる。

「現勢神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である(ヴェルハーゲ、2007[参照])

このヴェルハーゲの簡潔な文のみで、トラウマ神経症だけでなく多くの現代的症状(パニック障害、自傷行為等)が、ひょっとしてフロイトのいう「現勢神経症」ではなかろうか、という問いが生まてくるはずである。

…………

動物は端的に苦痛を表出し、強迫とヒステリー行動を示し、生命にかかわる拒食や変形を残す自傷を行い、時に死ぬが、また適切な精神療法に反応し、臨床心理士の実習に取り入れてよいとさえ思われる。ただ、擬人化した思い込みは、ある程度は人間の本性に根ざしたもので避け難い。しかし、その自覚は必要だろう。

「我慢する」動物ゆえに、ヒトの外傷は動物よりも発見が困難である。外傷的原因が特定できる阪神・淡路大震災においても、精神科医たちは初めPTSDが非常に少ないという印象を持った。それは、一つは「PTSD(Rを含む)にかかっている精神科医はPTSD(R)を診断することが困難である」という点にある。これは災害時だけでなく、自身に傷口が開いたままの外傷を持っている治療者には平時においても起こることと考えなければならない。(「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』P.95)
一般に神経症こそ生物に広く見られる事態である。その点は内因性精神障害と対照的であると私は思っている。私は獣医学にうといので、私自身の観察を挙げる。

1995年1月17日未明の阪神淡路大震災の直後から、私は折にふれてペットを観察した。多くのペットの受けたダメージはその飼い主であるヒトをはるかに凌ぐものであった。この地域は六甲山の北側であって地盤がよく、家屋損傷に留まり、震度は5程度であったかと思われる。
〔症例1〕 ある裕福な家庭のゴールデン・リトリーヴァーは、せっかくの訓練が全部抜けてただの甘え犬になった。初対面の私にもすりよってきた。(……)
〔症例2〕 一軒屋の家屋に接した犬小屋にいた雑種犬は、通りかかる人にいつも垣根の端から端まで吠えていた犬であった。震災の朝も彼は繋がれていなかったと思われる(……)が、道に面した凸レンズ形の庭石の上に「忠犬ハチ公」の姿勢で不動であり、前に立つ私を眼にもとめなかった。8カ月後にようやく私を認めて一声弱々しくワンと吠えた。彼が石を離れた時1年を越えていた。2、3年後には多少は吠えるようになっていたが、かつての元気が戻ることはなかった。(……)
〔症例3〕 震度6―7の地域のマンションの2匹の飼い猫である。若い1匹は本に押しつぶされたが、8歳のもう1匹は機敏に安全な場所に逃れた。大学英文科教授の夫人は、猫がおかしい行動をすると私に語った。その後まもなく、彼は、夫婦を起こすようになり、起きるまで髪の毛を前肢で掻くのであった。(……)起こすのは、朝の5時台で、必ず震災の起こった5時46分より前であった。(……)ちなみに、朝寝坊であった私も、震災以後、強力な睡眠薬を使用した数度を除いて、必ず、5時46分以前に目覚めて今に至っている。ちょうど、その時刻に目覚めることがある。このことを意識したのは、この猫をみて以来であった。最近、時刻の生物時計の全身細胞への分布が明らかとなっている。……
〔症例4〕 垣根の中で放し飼いだった2匹の犬は、震災直後も前同様、通りかかる私に吠えてやまなかった。この犬の飼い主にたまたま会った。犬は2匹とも2年以内に亡くなっていた。
(……)私が挙げた動物症例では、ペットに比して飼い主の地震に対する反応は非常に軽い。それはどうしてであろうか。さまざまな付随的事情が飼い主に有利なこともあろうが、ヒトが開発した言語の存在が大きいと思われる。言語は伝承と教育によって「地震」という説明を与えた。家族、近隣との会話を与えた。そして、ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。

しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。記憶はそもそも五官ではなしえない「眼の前にないものに対する警告」として誕生した可能性がある。外傷性記憶は特にそうである。その鮮明な静止的イメージは端的な警告札である。一般にイメージは言語より衝拍が強く、一瞥してすべてを同時的に代表象REPRESENTしうる。人間においてもっとも早く知られたフラッシュバックは覚醒剤使用者のそれである。そもそも幼児記憶も同じ性格を帯びており、基本的な生存のための智慧はそれによって与えられている。外傷性記憶が鮮明であるのに言語的な表現が困難であるのは、外傷という深く生命に根ざした記憶という面があってのことと思われる。「回避」はもっとも後まで残る症状とされるが、これは動物が主にそれによって行動するような言語以前の直観によるものであると私は思う。私がなぜ回避するかは、理屈はつけられるだろうが、実状は「いやーな感じ(あるいは恐怖のようなもの)がしてどうしても足が向かない」のが回避である。したがって、心的外傷は、言語によって知られる他の精神障害の多くより伝達性に乏しい。言語化しにくいだけではない。痛みというものは訴えても甲斐がない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006『日時計の影』所収)

ーーおそらくこの中井久夫の記述は、症状の言語的側面を強調しすぎる旧套のままのラカン派への批判としても読める。



2016年11月24日木曜日

ロラン・バルトのなかのフロイト・ラカン

「ロラン・バルトのなかのフロイト・ラカン」とはあまりにも当たり前かもしれない。バルトは両者の熱心な読者だったのだから。

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dérive と命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20)
享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』)

『彼自身によるロラン・バルト』に最初に書かれている文は(表表紙の裏)、《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである》である。

『声の肌理』には《私は、私という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる》とある。

こういった言明と類似した表現は数限りなくバルトのなかにある。

……たとえば、カフカは、《自分の不安を根絶する》ために、いいかえれば、《救いを得る》ために日記をつけた。私にはこの動機は自然とは思えない。少なくとも終始不変とは思えない。伝統的に「私的日記」に与える目的についても同様である。もはやそれが適切とは思えない。それは《誠実さ》(自分を語る、自分をさらけ出す、自分を裁く)の効用や威光と結びつけられてきた。しかし、精神分析、サルトルの底意批判、マルクス主義のイデオロギー批判が告白を空しいものとしてしまった。誠実さは第二度の想像物〔イマジネール〕でしかない。そうだ。(作品としての)「私的日記」を正当化する理由は、純粋な意味で、懐古的でさえある意味で、文学的でしかあり得ないだろう。 (ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収)

ーーサルトル、マルクスと並んで「精神分析」とある。ここで言われている精神分析とは、まずはフロイトの《自我は自分自身の家の主人ではない》の類がその代表的な依拠だろう。

ほかにもフロイトから「転移」をめぐる叙述をふたつほど抜き出してみよう。

……このように私は転移に驚かされ、私が彼女にK氏を思い起させることになったある未知の事情(X)のために彼女がK氏に復讐したのと同じように私に復讐し、K氏にあざむかれて捨てられたと思ったのと同じように私を捨てたのである。ドラは彼の記憶や空想のもっとも本質的な部分を治療のなかで再現するかわりに実際に演じたのである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』1905年)
要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agieren のである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復 wiederholen しているのである。

たとえば、被分析者は「私は両親の権威にたいして反抗的であり、不信を抱いていたことを思い出しました」とはいわないで、(その代わりに)分析医にたいしてそのような反抗的、不信的な態度をとってみせるのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』1914)

実際ーーツイッターを例にだせばーー、誰かが誰かを批判・嘲笑・罵倒しているツイートを眺めるとき、このような転移現象を疑いたくなるときがままある。

バルトの「省察」の記述に戻って「より標準的」にいえば、「私」は日記をつけるとき・何かを話すとき・ツイートをするとき、いくら誠実に振る舞っても、何か別のものに駆り立てられている。「私」は単なるその何かの代理人にすぎない。

これは誰にも否定しがたい事実であるはずだ。もちろん人はそんなことを忘れていることはできるし、「あなたのツイート」を他人がそんな風に読んでいる可能性を微塵も感じていない人もいるだろうが。

だが精神科医の中井久夫なら次の通り。

精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』)
…精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」)

もちろん精神科医だけの習慣ではない。

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。(『彼自身によるロラン・バルト』)

よく知られているようにロラン・バルトはフロイト・ラカン以上にプルースト読みである。

…なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは(……)、なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。(プルースト「見出されたとき」)

バルトはかのラ・ロシュフーコーの箴言でさえそのように読んでしまう。

ラ・ロシュフーコーは二つのやり方で読むことができる。引用するか、または続けて。第一の場合、わたしはときどき本を開いて、ある思想を取り出し、その妥当性を味わい、それを自分のものとし、この無名の形式をわたしの状況または気質から出た声そのものとする。(……)

第二の場合、わたしは格言を、物語かエッセーのように一歩一歩読んでいく。だが、その結果、この本はわたしとはほとんど関係がなくなる。ラ・ロシュフーコーの格言はあくまで同じことを言っているので、格言がわれわれに伝えるのは作者のことであり、彼の強迫観念であ(る)。(ロラン・バルト「ラ・ロシュフーコーの『格言集』」『新=批評的エッセー』所収)

さてかなり寄り道してしまったが、少し前に戻ってーーつまりフロイト文脈に還ればーー、「私」は単なるその何か(底にある真理、あるいは無意識)の代理人にすぎないという事実は、人のナルシシズムをひどく傷つける。だからフロイトはこれを人間における第三番目のナルシシズムの屈辱と呼んだ(コペルニクスが人間を宇宙の中心から追い出し、ダーヴィンが人間を生物界の特権的位置から追い出したのに引き続く第三の屈辱として)。

したがって、ナルシシストがかつてにもまして跳梁跋扈する現在では、フロイト・ラカンなど知りたくないという人が多くなっているはずだ。

ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics,2004,私訳)

フロイトは、上に記した第三番目のコペルニクス的転回を言い放つ文脈のなかで、冒頭近くに記した《私は自分の家の主人ではない dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus》と言っている(『精神分析入門』)。

このフロイトの言葉のラカン版が「シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant」である。

そしてこのラカンの言葉の最も基本的な図式は、「四つの言説」理論のベースとなる次の「形式的構造」図である。



ここでは最も基本的な注釈のみを掲げる。


話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )

さてこの注釈を前提として、以下のバルトの文を読んでみよう。「語る人」とは上の図の agent、「他者」とは autre、「剰余」とあるのは production のことである、と読める。

精神分析的記述(ラカンの記述である。語る人なら誰でも、ここで、その洞察の鋭さを確かめ得るだろう)に従えば、教師が聴講者にしゃべる時、「他者」はつねに存在し、彼の言述に穴をあける。そして、たとえ彼の言述が無謬の知性で完結し、科学的《厳密さ》や政治的急進性で武装していても、やはり穴はあけられるだろう。私がしゃべりさえすれば、私のパロールが流れさえすれば、私のパロールは外に流出するのである。もちろん、すべての教師が精神分析の被験者の立場にあるとはいっても、受講する学生が逆の状況を利用できるわけではない。なぜなら、まず第一に、精神分析的な沈黙には、何ら優越する点がないからである。第二に、時折、被験者が殻を破り、こらえることができず、パロールに身を焼き、弁論の淫らなパーティーに加わるからである(たとえ被験者が頑固に押し黙っているとしても、彼はまさに自分の沈黙の頑固さを語っているのだ)。

しかし、教師にとって、受講する学生は、やはり、模範的な「他者」である。なぜなら、彼らはしゃべらないふりをしているからであるーーしたがって、また、その無言の外見の中から、それだけに一層強く、あなたの中で語るからである。彼らの表に出ないパロールは私自身のパロールなのであるが、彼らの言述が私の中を満たさないだけに一層、私に打撃を与えるのである。

これが公的なパロールというものの背負う十字架である。教師がしゃべるにせよ、聴き手がしゃべるように要求するにせよ、いずれの場合も、まっすぐ(精神分析用の)長椅子に向かうのだ、教育の関係はその関係によって促される転移以上のものではない。《学問》、《方法》、《知識》、《観念》が群をなしてやってくる。それらは余分にあたえられるものであり、剰余である。(ロラン・バルト『作家、知識人、教師』1971,Tel Quel)

このようにして読むと、この文のなかには明らかにラカンの「四つの言説」理論がある。

ほかにも「穴が開く」とあるが、これは「語る人」、あるいはその発話内容に穴が開くということである。

・無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S.18)
精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants(ジャック=アラン・ミレール,1996
悟り(「禅」における出来事)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺らめかせるもの qui fait vaciller la connaissance, le sujet である。つまり、悟りはパロールの空虚 un vide de parole を生じさせてゆく。そして、パロールの空虚こそがエクリチュール écriture をかたちづくる c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture。(ロラン・バルト『記号の国』)

「見せかけ semblant」とは、四つの言説の形式的構造における文脈では、代理人 agent、もしくはその発話内容のことと捉えられる。

ーーさて、「この私」がこのようにブログ記事を記した今、その隠された動因(真理)はなんだろう。ときにはそうやって自分の文章を読みかえす習慣をもたなくてはならないはずである・・・

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)



2016年11月23日水曜日

欲望は大他者の欲望ではない le désir n’est pas désir de l’Autre

またなんかいってくるヤツがいるが(基本版:現代ラカン派の考え方)、なんの矛盾もないよ。

欲望とは、常に-既に「欲望の欲望/欲望への欲望」である。すなわち「大他者の欲望」のすべてのヴァリエーションは次の通り。

①私は私の他者が欲望するものを欲望する。
②私は私の他者によって欲望されたい。
③私の欲望は、大他者ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
④私の欲望は、リアルな他の物 autre chose の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

ーー他のモノ autre choseは 対象a の初期ヴァージョン(フィンク、1995)

核心は④だが、①②③もあるってだけだ。

・欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。
・「欲望は大他者の欲望 Le désir est désir de l'Autre」が意味したのは、欲求との相違において、欲望は、言語作用の効果 un effet de l'opération du langage だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける évide le réel, y fait trou。この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、「欲望は大他者の欲望」ではありません le désir n’est pas désir de l’Autre。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »

しかも L'Autre、c'est le corps ! (大他者は身体である、S14)でもある。つまり大他者の欲望ってのは「身体の欲望」としたっていい。日本ラカン派の寝言ばっかりきいてるから矛盾に感じるだけさ。

そもそもおまえさん、大他者を人物のことだと思い込んでるんじゃねえか? 大他者じゃなくて l'Autre だぜ、まずなりよりも大他者というのは言語だ。

・先ず、語 symbole は物の殺害 meurtre de la chose として顕れる。そしてこの死は、主体の欲望の終わりなき永続化 l'éterrusation de son désir をもたらす。(ラカン、ローマ講演)

・主体は、言わば、話すのではなく話させられる。 le sujet, peut-on dire, est parlé plutôt qu'il ne parle(ラカン、ローマ講演)

・フロイトの観点からは、人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3)


それに他の享楽 JȺ:(S.23)ってのも身体の享楽 jouissance du corpsだよ(基本版:現実界と享楽の定義)。

Ⱥ とあるようにちゃんと穴が開いている。






プラトンのなかのフロイト・ラカン

プラトンの邦訳文には「快楽」と「欲望」という語が次のように現れる。ここには「Wunsch(願望と欲望)とLust(快と欲望)」にて引用したニーチェやフロイトがすでにいるといってよいだろう。

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)
いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)

ーーもちろん原語がどうなっているのかは調べていないが、ニーチェやフロイト・ラカン文脈を念頭におけば言いたいことがとてもよくわかる文である。「快楽」は「享楽」、そして「欲望」は「欲動」に置きかえることができるとしてもよい。

※欲動と享楽の微妙な相違については「欲動と享楽の相違」を参照。

ラカンはフロイトの「女性的マゾヒズム」を享楽 jouissance とした。

……この女性的マゾヒズムは、原初の、性的 erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924)
現実界の享楽は…フロイトが観察したように…マゾヒズムを包含している。…マゾヒズムは現実界によって与えられる主要な形式である。

la Jouissance du réel comporte… ce dont FREUD s'est aperçu …comporte le masochisme… Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, (Lacan, S23, 10 Février 1976)
私が享楽と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張・強制・消費の審級、搾取とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れる始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。

… ce que j'appelle jouissance au sens où le corps s'éprouve, est toujours de l'ordre de la tension, du forçage, de la dépense, voire de l'exploit. Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur, et nous savons que c'est seulement à ce niveau de la douleur que peut s'éprouver toute une dimension de l'organisme qui autrement reste voilée.(ラカン,Psychanalyse et medecine,1966)

「苦痛のなかの快」--プラトンが言っている通りである。

そして、Trieb(欲動・衝迫)とは、何かが主体を駆り立てることである、自分自身が行きたくない処にまで。

フロイト曰く「欲動は我々の神話だ」と。これは、アンリアル l'irréel への言及として理解してはならない。何故なら、神話的に欲動するものがリアル le réel だから。神話が通常そうであるように。ここには現実界がある。主体と喪われた対象とにあいだの関係において、神話=欲動のなかに再生産によって欲望を創出するリアルである。(ラカン、Écrits, 853« Du ‘Trieb' de Freud et du désir du psychanalyste », 1966)

これだけでは分かりにくいかもしれない。ヴェルハーゲの叙述で補おう。

我々のなかには抵抗できない何か起こる。理性と意志を超えた何かが。私のなかにある無思慮の気まぐれ。しかしながら、それは私の意志に反してして私を占領する。…欲動は現れるとき、意識・自己統御は占領されてしまう。…

欲動とは、何か別のものに駆り立てられて、そのなすがままになるということだ。統御不能の得体の知れないどこか別の場所から来るもの。欲動の領野は意識の外部に横たわっている。奇妙なしかし不可避の混淆、攻撃性とエロスの融合。 (Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ,1998,私訳ーー享楽に対する防衛

まさにプラトンは既にこれらのことを記している。

べつに『パイドロス』からも引こう。

……魂の似すがたを、翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力であるというふうに、思いうかべよう。――神々の場合は、その馬と馭者とは、それ自身の性質も、またその血すじからいっても、すべて善きものばかりであるが、神以外のものにおいては、善いものと悪いものとがまじり合っている。そして、われわれ人間の場合、まず第一に、馭者が手綱をとるのは二頭の馬であること、しかもつぎに、彼の一頭の馬のほうは、資質も血すじも、美しく善い馬であるけれども、もう一頭のほうは、資質も血すじも、これと反対の性格であること、これらの理由によって、われわれ人間にあっては、馭者の仕事はどうしても困難となり、厄介なものとならざるをえないのである。(プラトン『パイドロス』)

ああ、なんというフロイト的プラトン!




おそらくフロイトはプラトンをパクったのである。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較される。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923)

晩年のフーコーはドゥルーズに対して《自分は欲望 désir という言葉に耐えられない(……)僕が「快楽 plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ》と語ったそうだが(ドゥルーズ「欲望と快楽 Désir et plaisir」)、『性の歴史』でギリシャまで遡ったのフーコーが、その「快楽」概念でこういったことを考えていなかったはずはない。

フーコーがギリシャ文化から取り出した概念、enkrateia(克己)、sophrosyne(節制)などは、欲望の統御ではなく、「エスという奔馬を統御する騎手」、すなわち欲動の統御(自己陶冶)にかかわると捉えうる。





2016年11月22日火曜日

すべてに眉唾で生きるべし

《反復の概念は転移の概念とは何の関係もない le concept de repetition n'a rien a faire avec celui de transfert.》(ラカン、S11)

…………

以下、ジャック=アラン・ミレールによる「古典的な」注釈ーー英訳のcontext and conceptsは1995年、ただし仏語によるものはもう少し前に上梓されてるはずだが、不詳。


【転移:騙すものとしての現実性/反復:欺かないものとしての現実界】
ラカンは転移を心的現実と結びつけます。例えば、ラカンが転移を「無意識における現実性の現勢化」として定義するときです。しかし、この言葉は現実性[realite]と現実界[le reel]を区別したときにのみ、その真の意味を得ることができます。それゆえ、ラカンが転移を「無意識における現実性の現勢化」であるというとき、無意識における現実界の現勢化と言っているのではありません。あとで分かるように、これは基本的な区別です。ラカンは、無意識の現実性はつねに曖昧かつ騙すものであり、一方、反復は現実界と繋がっており、騙さないものであるということを示しています。セミネールXで不安について語るとき、ラカンは不安をその他のすべての情動と区別しています。分析においても生活においても、不安は欺いたり騙したりするような情動ではありません。ラカンは不安を、彼が現実界と呼ぶものと結びつけています。現実界とは人が掴むことのできないものですが、騙すことはありません。

セミネールXIを理解するためには、転移を騙すものとしての現実性と繋げる必要があります。そして、反復は欺かないものとしての現実界と繋げる必要があるのです。転移としての無意識を問題にするとき、欺いたり騙したりするものとしての無意識が提示されています――これはフロイトの著作に非常によく現れています。例えば、分析に関する患者の夢を議論するにあたって、フロイトは、 患者が夢をみることによって分析家のうちの何かを満足させるよう試みていることを指摘しています。もし、夢の柔軟性と流動性を真剣に受け取るならば、無意識は嘘のない真理それ自体ではないということを認めなくてはなりません。これが、ラカンが真理は虚構の構造を持っていると言うときに意味していることで す。これは、ここでの転移についての講義から生まれたのです。(「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」Context and Conceptジャック=アラン・ミレール


【出会い損ねとしての反復】
反復。何度も何度も、何かが繰り返されます。(セミネール XX『アンコール』のタイトルの真の訳語は、Again あるいは More とすべき でしょう) ラカンがセミネール XI の「無意識と反復」のセクションにおいて明らかにしていることは、反復するのは aim が満たされていないからだということです。人は何かを満たしますが、それは満たされるべきであったものとは違うものです。『アンコール』においてラカンは、人は満足を得ることはできるが、それはかくあるべき満足には絶対になりえないと言っています。ラカンが、主体にとって常に同じ場所に帰ってくるものとして現実界の概念を発展させたこ との理由がここにあります。ラカンは反復を、失敗の反復として捉えています。成功の反復ではありません。このことは、失敗神経症[failure neurosis]の概念すら生じさせるのです。

これが、ラカンが反復とその他の種類の行動を区別する理由です(S11- Fr143)。フロイトの反復[Wiederholung]の概念は、習慣やステレオタイプの行動とは何の関係もありません。なぜなら、フロイトが反復について語るとき、それは、つねに出会い損ねられる何物か、つまり欠如したものとの関係において語っているからです。このようにして私たちはフロイトが 「潜在期」という言葉で意味していたことをよりよく理解することができます。繰り返し関係を打ちたてようとした一次的対象があります。反復はつねに或る失われた対象と繋がっています――反復とはその失われた対象を再び見出そうとする試みなのです。しかし、その対象は<父の名>の操作を通して、 常に禁止され失われています。ラカンは母親が基本的なもの[Ding]であると言っています。これは常に失われたものであり、反復が回復しようとします が、常に出会い損ねるものです。

ラカンは現実界を、つねに間違いと不可能な遭遇と関連付けて語っています(S11-Fr53)。それ ならば、私たちはどこで現実界と出会うことができるのでしょうか? 私たちが精神分析の発見において持っているものは、一つの出会い、本質的な出会いであり、私たちを逃れる現実界とともに常に召集される約束です。それは一つの約束なのですが、何物かが出会いの場所に現れることがありえない約束です。

愛の領域における予約、出会い、デートの重要性を考えてみてください。現実界なしにはどのようなラヴ・ストーリーもありえません。なぜなら、人は会う約束をし、 何度も繰り返し日程を変更しますが、現れるのは何か違うものなのです。

これはオートマトンの彼岸である現実界との遭遇です。記号の執拗性あるいは回帰です。現実界とはオートマトンの背後にあるものです。この場所にラカンは反復を導入します。重要なのは反復ではなく、出会い損なわれるもの〔現実界〕なのです。

このようにして、ラカンの反復についての議論と、主体としての無意識の提示との相同的な関係がお解りになったことでしょう。それは常に、出会い損なわれるものについての問いです。そして、この間違いにおいて、それ〔現実界〕が位置し、また現れるのです。(同、ミレール1995)

ーーここにはオートマンという語彙しか出てこないが、「出会い損ねrencontre manquée」とあるようにテュケーについて語っている。つまりオートマン/テュケーの対比を「古典的には正当的」に指摘している。

テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

…………

ところで「古典的には正当的」な注釈とは反するミレールの注釈もある。

Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours (mercredi 9 septembre 2005、PDF)には次のような図が示されている。




症状/サントーム
真理/享楽
欲望/欲動
テュケー/オートマン
欠如/穴
存在欠如/存在
主体/話す存在
幻想/身体

ーーという対比がなされている。テュケー/オートマンとあるように、このミレールの図示によれば、オートマンがテュケーよりもより根源的なものと言っていることになる。

なぜ右側の項目がより根源的なものなのかは次の文が示している。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚voidを示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” excerpted at www.lacan.com

この文脈のなかでオートマンが右側にあるわけでーーわたくしは最初は目を疑ったぐらいだがーー、この話にはあまりかかわりたくないのだが、後学?のために今こうやってメモをしている。

おそらくすべては「話す身体」、「法のない現実界」などの晩期ラカンにかかわるのだが、主流ラカン派の権威でさえ10年のあいだにまったく正反対の注釈をしている。とくに21世紀になってラカン解釈にはおどろくほどの転回があるわけだが、それが正当的なものか一時的な仮定なのかは、わたくしにはよくわからない。

現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ。 Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  (S.20)

ーーこの文はセミネール20(アンコール)の最後近くで言われているのだが、ミレールによればここにラカンの転回点(後期ラカンへののひとつ)があるとされる。

たとえば、アンコールの中盤にあらわれる次の文ーー、

現実界とは象徴化あるいは形式化の袋小路である ( “Le reel est un impasse de formalization,” )(ラカン、セミネール20)

3年後のセミネール23にあらわれる次の文ーー、

法のない現実界(le Réel sans loi)……本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない[Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre](セミネール23)

この二文は互いに相容れない(いやそのような気がする、とだけ言っておこう[参照])。

ーーいやあ、わたくしはよくわからない。

但し、巷間のラカン派の言っていることは、すべて眉唾で読まねばならないことだけがわかりはじめてきた・・・

難問の「話す身体」ーーこれはひょっとしてドゥルーズ=アルトーの「器官なき身体」ではないかと「妄想」しているのだが[参照]ーー、これについてのもういくらかは次の通り。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER
言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlantとは、自ら享楽する身体un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF

ーー「自ら享楽する身体 un corps joui 」だったら、テュケーではなくオートマンかもしれない・・・いや触らぬ神に祟りなし。

みなさんもすべてのラカン派に不信の眼差しをむける習慣だけは保持しましょう・・・それが「大他者の大他者はない」のほんとうの意味です・・・つまりラカン注釈を支える大他者は何もない(これはラカン派だけでなくすべてに言える、たとえばデカルト注釈の変遷を思い起こすだけでよい)。

もちろんニーチェを引用したってよい。

………確信は虚言にもまして危険な真理の敵ではなかろうかとは、すでに長いこと私の考慮してきたところのことであった(『人間的、あまりに人間的』第一部 四八三)。このたびは私は決定的な問いを発したい、すなわち、虚言と確信とのあいだには総じて一つの対立があるのであろうか? ――全世界がそう信じている、しかし全世界の信じていないものなど何もない! ――それぞれ確信は、その歴史を、その先行形式を、その模索や失敗をもっている。長いこと確信ではなかったのちに、なおいっそう長いことほとんど確信ではなかったのちに、それは確信となる。えっ? 確信のこうした胎児形式のうちには虚言もまたあったかもしれないのではなかろうか? ――ときおり人間の交替を必要とするだけのことである。すなわち父の代にはまだ虚言であったものが、子の代にいたって確信となるのである。――私が虚言と名づけるのは、見ているものを見ようとしないこと、見えるとおりにものを見ようとしないことである。はたして目撃者の面前で虚言するのか、目撃者がいないとき虚言するのかは、考慮しなくともよいことなのである。最もふつうの虚言は、おのれ自身を欺くそれであり、他人を欺くということは比較的に例外の場合である。――ところで、この見ているものを見ようとしないこと、この見えるとおりに見ようとしないことは、なんらかの意味で党派的であるすべての人にとっては、ほとんど第一条件である。すなわち、党派人は必然的に虚言者となる。(ニーチェ『反キリスト者』)

ーーラカン小分派で凝り固まっている党派人たちこそ最も気をつけねばならない、日本ではたいしたことは分かっていそうにないのにーーシツレイ!--ラカンのまねをしてかセミネールなどという形式で、仔羊どもに虚言を教え込んでいるラカン党派がわたくしの知るかぎりでも三つ、四つほどあるが(シツレイ!)、ああいったのは遠眼で眺めて互いの齟齬を比較しつつ、にやにやするのみに限る・・・

で、なんであったかーー。ラカンの虚言、いや真理のゆらめきの事例である。

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの 場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)

これはまともなラカン派ならすでにとっくの昔からコンセンサスの筈なのだが(参照: 「メタランゲージはない」と「他者の他者はない」)、いまだ「空虚なパロールparole vide」/「充溢したパロールparole pleine」などと真顔でおっしゃられておられるラカン派さえ日本にはイラッシャル・・・大他者の大他者はないのに、どうして充溢したパロールなどというものがありうるのだろう・・・

パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である。La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé(Lacan,S.23、1976)

…………

さらにいえば、エクリ耽溺派の日本的ラカン派ーーいまだ鏡像段階のみが好きそうなラカン派ーーにだけにはことさら注意しましょう・・・

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか? 精神生活の始まりはなにか? 古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

次の藤田博史氏の文は誰を宛先にしているかが瞭然とわかってしまうので「とても愉快な」--いやシツレイーーとても教育的な文である(セミネール断章 2012年 11月10日講義より)。

ラカンについていうと、いまだに『エクリ』にこだわり続けている人たちが沢山います。「《盗まれた手紙》についてのセミネール」とか「論理的時間と予期される確実性の断言」といった論文にいまだにこだわっている人たちが少なからずいるということに驚いてしまう。勿論どちらも重要な論文であることには変わりありませんが、これが今現在における研究対象になり続けてもらっては困る。ラカンが辿り着こうとしていた場所から振り返れば、それらはいずれも遥か手前にあるものです。つまり通過点に過ぎません。ご存じのように、ラカンのエクリは1966年に出版された本ですから、世に現れてからすでに46年の歳月が流れています。これはラカン中期前半までの思想に相当します。当然のことですが、中期の後半から後期の思想は含まれていません。ラカンにおいて真に問題にしなければならないのはむしろエクリ以後の思想の流れです。にもかかわらず殆どの研究者がエクリという迷路のなかで立ち往生している。

そうではなく、わたしはラカンの中期の後半から始めようと思います。ラカンの年齢でいうと70歳から80歳までの10年間の思想です。したがって、そこにたどり着くまでにやっておくべきこと、その時点ではすでに自明になっていることが少なからずありますが、それは各自で勉強してください、と申し上げておきたいと思います。学問に過剰な優しさは禁物です。

出発点まで案内するのに手間がかかって、なかなか頂上目指して出発できないというのは、尖端でものを考えている人の足を引っ張ってしまいます。手取り足取りして出発点まで連れてきてあげる、というのは、学問においては親切でもなんでもなく、単なるお節介になってしまうことが殆どです。

分裂病の原因になる母親 Schizophrenogenic Mother という概念があります。子に過剰に関与して、自我の形成を阻害し、分裂病を発症させてしまうのです。過剰な親切は、ある意味暴力でもあるといってよいでしょう。ですから、わたしは一貫して「ここまでは皆さんが自力で歩いてきてください。わたしは、ここから話をします」という立場を取るのです。もし、麓から一緒に歩こうとしたら、恐らく五合目で疲れ果ててしまいます。

にもかかわらず、世間には「麓から一緒に登りましょう」という優しい先生が溢れています。あるいは、先回りして「五合目で待っているからあなたたちも五合目までは自力で来なさい」という先生もいるでしょう。そのようないい方をするならば、わたしの場合は「九合目で待っています」ということになります。ですから皆さんには、九合目まではとにかくご自分の力で歩いて来てもらいたいのです。そして「そこから頂上を目指す」ことに全力を注ぐのです。

ところが、こんなことをいうと怒られてしまうのですけれど、頂上から見渡すと殆どの学者さんが五合目で休んでいる。ずっと休んでいる。「いつまで休んでいるのですか?」と声を掛けたくなります。そこに二、三十年腰掛けたままの研究者もいるので「ちょっとちょっと」と思ってしまいます。

いやあ、わたくしは礼儀正しいほうなので、宛先を書くことはしない・・・もっとも『夢解釈』(1900)以前の論文がじつはフロイトの核心だという見解も現在はあるぐらいでーーこれはある意味もはや古典的認識だろうーー、エクリだってひょっとして悪くないのかもしれない・・・前期エクリの充溢したパロールだって復活するやもしれぬ・・・おどろくほどマヌケにみえるあれらの人物たちは実は近未来正当ラカン派であるかもしれず、わたくしのようについうっかり嘲弄してしまう人物こそ真のマヌケであるにソウイナイ・・・




2016年11月21日月曜日

ほれぼれするスカルラッティ

◆Scarlatti - Irina Zahharenkova (2012) - Various sonatas (K. 211, 213, 294)



Irina Zahharenkova (born 23 February 1976 in Kaliningrad) is an Estonian pianist and harpsichordist(WIKI)

惚れ惚れするスカルラッティだ、名手たちの演奏を忘れてしまうぐらい。

世の中はスカルラッティよりもモーツァルトのほうがいいという種族ばかりだが、あれはどういったわけだろう。いやそんなことはどうでもいい、モーツァルトだっていいさ。

彼女のK208 を聴きたい。

とても好きな曲なのだが、いままで聴いた演奏はどれも何かが足りない、というか多すぎるというのか(もともとギター編曲で演奏されることが多く、わたくしも最初はギター演奏で巡り合った)。

◆Scarlatti - K.208 - Jean Rondeau



◆Maria Joao Pires Scarlatti




なにが足りないって?なにが多すぎるって?

呼吸するためではなくて、誰かの息が絶えるときのように、もはや自己の内部にあるのか外部にあるのかわからないが、いきなり口をあける深淵。音それ自体があまりにも稠密な光を放っているので、音は裏側にあるくぼみの反射でしかないのではないかと思われてしまう。音たちがみずからあがなうべき影、目に見えるものと目に見えないもののあいだにある絶対的な均衡の法則にしたがって音たちが死者の国から連れてくる影。(シュネデール、グールド、ピアノソロ)

Irina Zahharenkova にはこれがある? さあね、耳なんてのは錯覚でできあがってるのさ、でも「音、沈黙と測りあえるほどに」の演奏家には間違いないね、とくに二曲目のK213 の冒頭を初めとするいくつかの箇所なんて。
…………

セルゲイ・カスパロフ Sergey Kasprov の2008年版はネット上からなくなっているが、2009年版のk319を貼り付けておこう(2008年版は冒頭の天空に駆け上がる眩暈のするような音を初めとして、息詰まるような演奏だった、2009年版は、わたくしには緊張感がやや薄れてきこえる、でもこれもまたすばらしい演奏には相違ない。Horowitz の k319?あれは違った曲演奏してるんじゃないか・・・テクニックで飼い馴らされたスカルラッティ)。

◆Scarlatti Sonata k319 Sergey Kasprov, piano La Roque d'Antheron 2009



カスパロフの2008年とは、第2回スヴャトスラフ・リヒテル国際ピアノコンクール(2008)の第一次予選の録音(彼は二次予選で落ちた)。アファナシエフが絶賛しているのを知って探して聴いた。

その人物は腹の底からモスクワ音楽院仕込みのロシア人だった。演奏を開始する前のピアノを前にしての彼の挙措に、まず私は打たれた。あたかもステージを泳いで横切る準備をしているかのごとくに、体全体がピアノに向かって前のめりに傾けられたのだ。彼のスカルラッティのソナタに私は衝撃を受けた。モスクワの空気が、ソヴィエト連邦時代の生活にあった強烈さがそこにはあった。ロシア学派だ。ついに私は、それが意味するものをはっきりと理解した。(……)

彼ほど才能のあるピアニストはそうそう街を歩いてはいないものだ。私はこれほどの才能をもったピアニストを他には知らない――確かに、現在存命中のすべてのピアニストの演奏を聴いたわけではないけれど。・・・(中略)・・・カスプロフはステージで微笑んだりはしない。想像するに、彼は音楽の政治局の誰かの気を引こうとしてはいないのだ。(アファナシエフ『ピアニストのノート』

2016年11月20日日曜日

何だって耐えられる /楽しい日々が続く以外は

ゲーテにいたっては、「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」とさえ警告している。もっとも、これは誇張と言っていいかもしれない。(フロイト、1930)

この文は『文化の中の居心地の悪さ』の次の文の註として書かれている。

厳密な意味での幸福は、どちらかと言えば、相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話〔エピソード〕的な現象としてしか存在しえない。快感原則が切望している状態も、そのが継続するとなると、きまって、気の抜けた快感しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快感は与えられず、対照〔コントラスト〕によってしか強烈な快感を味わえないように作られているのだ。(註)

ゲーテの「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」の、フロイトによる引用原文を調べてみると、《Nichts ist schwerer zu ertragen als eine Reihe von schönen Tagen》となっている。

この文そのものはーーネット上でいくらか探すかぎりだがーーゲーテの詩句や文のなかには見当たらない。もうすこし探ってみると、いくらか語彙の違いはあるが、どうやら「格言風に Sprichwörtlich」にという晩年の詩からのように思える。

Alles in der Welt lässt sich ertragen,
Nur nicht eine Reihe von schönen Tagen.

ーー「この世の何だって耐えられる /楽しい日々が続く以外は」とでも訳せるか。

フロイトが言っているように「やや誇張」であるにせよ、これに似た感覚は誰にでもあるだろう。たとえば毎日、最高と思われる美食を食べ続けたら、うんざりするに決まっている。

どんなに好きなものも
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな(My Favorite Things 谷川俊太郎)

ーーであるのは実感上たしかだ。

人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

この文脈での決定版(のひとつ)は少し前引用したニーチェの次の文だろう。

人間は快 Lust をもとめるのではなく、また不快 Unlust をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。

快と不快 Lust und Unlust とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。

この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 Willens zur Macht を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。

人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。

──不快は、《私たちの力の感情の低減 Verminderung unsres Machtgefühls》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志の《刺戟剤 stimulus》なのである。(ニーチェ『力への意志』第702番ーー「Wunsch(願望と欲望)とLust(快と欲望)」)

わたくしはこのところツイッターを罵倒することしきりなのだが、あれは不快感を抱くには最適の場だよ。だからあながち全面否定というわけではない・・・

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)



2016年11月19日土曜日

ラカンによるレミニサンス réminiscence とトラウマ traumatisme

私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス(無意識的記憶)と呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。

…私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

ラカンはセミネール21で、トラウマのことを« troumatisme »という新造語で表現している。trou とは穴である。かつまたセミネール22には次のような表現がある。

無意識、それはリアル(現実界)である(……)。それが穴が開けられている troué 限りにおいて。

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI,1975)

フロイトと中期ラカンのトラウマ言及を並べれば次の通り。

我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)

※もういくらか詳しくは、「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を参照。


現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11)
トラウマの不透明性ーーフロイトの思考によってその初期作用 fonction inaugurale のなかで主張されたものであり、私の用語では、意味作用への抵抗 la résistance de la signification であるがーー、それはとりわけ想起の限界 la limite de la remémoration を招くものである。(ラカン、セミネール11)
テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更)

※これについてももう少し詳しくは、「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」を参照のこと。

ジャック=アラン・ミレールによるトラウマの叙述もひとつ掲げよう。

情動の痕跡を生みだす出来事の総合的定義は、フロイトがトラウマと呼んだものである。トラウマ化とは、それが快原理の失敗した効果によって生みだされる限りで、快原理の規範に従っては消し去りえない要素である。すなわち、トラウマは、快原理の統制の失敗を引き起こす。情動の痕跡の根本的出来事は、次のようなものだ…それは、身体のなか、心のなかに、興奮の過剰を持続させるもの・再吸収されえないもの。我々は、ここで、トラウマ的出来事の総合的定義を得る。それは、言存在 parlêtre のその後の人生において痕跡を残すものである。 (ジャック=アラン・ミレール(Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event, Lacanian Ink, 19)


そしてプルーストのレミニサンスである。

それというのも、フォークの音とかマドレーヌの味とかのような種類の無意識的記憶 réminiscenceであれ、私が頭のなかでその意味を求めようと試みていた形象――鐘塔、雑草といった形象が、私の頭のなかで、複雑な、花咲き乱れた、ある魔法の書〔グリモワール〕を編んでいたーーそんな形象のたすけを借りて書かれるあの真実であれ、それらのものの第一の特徴は、私が勝手にそれらを選びだしたのではないということであり、それらがありのままの姿で私にあたえられたということであったからだ。また、それこそが、それらのものの真性証明〔オータンテイシテ〕の極印になるのだと私に感じられた。私は中庭の不揃いな二つの敷石をさがしに行ってそこで足をぶつけたわけではなかった。そうではなくて、不可避的に、偶然に、感覚の出会がおこなわれたという、まさにそのことこそ、その感覚がよみがえらせた過去とその感覚がさそいだした映像との真実に、検印をおすものであった、その証拠に、われわれはあかるい光に向かってあがってこようとするその感覚の努力を感じるのであり、ふたたび見出された現実というもののよろこびを感じるわけなのだ。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)
しかしながら、記憶のそんな復活のことを考えたあとで、しばらくして、私はつぎのことを思いついた、――いくつかのあいまいな印象も、それはそれで、ときどき、そしてすでにコンブレーのゲルマントのほうで、あの無意識的記憶 réminiscence というやりかたで、私の思想をさそいだしたことがあった、しかしそれらの印象は、昔のある感覚をかくしているのではなくて、じつは新しいある真実、たいせつなある映像をかくしていて、たとえば、われわれのもっとも美しい思想が、ついぞきいたことはなかったけれど、ふとよみがえってきて、よく耳を傾けてきこう、楽譜にしてみようとわれわれがつとめる歌のふしに似ていたかのように、あることを思いだそうと人が努力する、それと同種の努力で私もそうした新しい真実、たいせつな映像を発見しようとつとめていた、ということを。(プルースト「見出された時」)

プルーストの思考に精神医学的側面があるのは、まともな精神科医なら常識であろう。

プルースト的精神医学といえば、まず「心の間歇」と訳される intermittence du cœur が頭ん浮かぶだろう。『失われた時を求めて』は精神医学あるいは社会心理学的な面が大いにあり、社交心理学ないし階級意識の心理学など、対人関係論的精神医学を補完する面を持つ……(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年ーー心の間歇・解離・倒錯

とはいえ、我々は《おろかなまねをするたわけ者 imbéciles》になってはならない。

プルーストにおいて新しいもの、マドレーヌの永遠の成功、永遠の意味作用にしているものは、単に忘我や特権的瞬間の存在ではない。文学には、そのような特権的瞬間の例が無数にある。それはまた、プルーストがそれらの瞬間を提示し、彼の文体の中で分析する独創的なやり方だけでもない。むしろそれはプルーストがそれらの瞬間を生産するという事実、そしてそれらの瞬間が、文学機械 machine littéraire の効果になるという事実である。

そこから、『失われた時を求めて』の終りの部分で、ゲルマント夫人の家において、反響 résonances が増大するとこになる。それはあたかも文学機械がその完全な体制を見出すかのようである。もはや、文学者が報告したり、利用したりする超文学 extra-littéraire 的な経験が問題なのではなく、文学によって生産される芸術的実験、文学の効果が問題である。ここで効果というのは、電気的効果とか、電磁的効果とかいう意味での効果である。(… )

芸術が生産するための機械であるということ、そして特に効果を生産するための機械であることについての、プルーストは、最も生なましい意識を持っている。ここで効果というのは、他人に対する効果である。なぜならば、読者または観客は、彼ら自身の内部と外部に、芸術が作品が生産しえたのと似た効果を、発見しようとするからである。《女たちが街を通りすぎて行くが、昔の女とは違っている。なぜならば、彼女たちはルノアールだからである。それは、昔われわれが女たちであると見るのを拒否したルノアールである。馬車も、水も、空もルノアールである。》 プルーストが、自分の書いた本は眼鏡であり、光学機械 instrument d'optique だと言うのは、この意味においてである。

プルーストを読んだあとで、彼が記述する反響に似た現象を体験したなどというおろかなまねをする痴者 imbéciles は大ぜいはいないし、また、そのような体験が、記憶錯誤症・記憶喪失症・記憶過多症のケースではないかと自問するようなペダンティックな者 pédants も多くはいない。プルーストの独自性は、この古典的な領域に、彼以前には存在しなかったメスを入れ、操作を導入した点にある。しかし、単に他人に対して生産された効果だけが問われるのではない。芸術作品こそが、それ自体の内部で、またそれ自体に対して、それ固有の効果を生産し、それによってみたされ、それを養分とするのである。芸術作品は、おのれが生む真実を養分とする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』 pp.169-170)

もしプルーストとラカンをつなげるのなら、ドゥルーズ=プルーストの芸術のシーニュ signes de l'artは、ひょっとしてラカンのサントームsinthome の一種ではなかろうか、--という類の思考が必要だろう。

※参照:

2016年11月18日金曜日

基本版:二つの欠如

熱心な質問者がいるが、で、何が疑問なのかわたくしにはさっぱりわからないね。それともこっち系の質問なんだろうか・・・

質問とはあることを知りたいと思うことである。しかし、多くの知的論争においては、講演者の発表に続く質問は欠如の表明ではなく、充実の確認である。質問という口実で、弁士にけんかを仕掛けるのだ。質問とは、その場合、警察的な意味を持つ。すなわち、質問とは訊問である。しかし、訊問される者は、質問の意図にではなく、その字面に答えるふりをしなければならない。その時、ひとつの遊戯が成立する。各人は、相手の意図についてどう考えるべきか、わかっていても、遊戯は、真意にではなく、内容に答えることを強制する。誰かが、さりげなく、《言語学は何の役に立つのですか》と、私に質問したとする。それは、私に対して、言語学は何の役にも立たないといおうとしているのだが、私は、《これこれの役に立ちます》と、素直に答えるふりをしなければならない。対話の真意に従って、《どうしてあなたは私を攻撃するのですか》などといってはならない。私が受け取るのは共示〔コノタシオン〕であり、私が返さなければならないのは外示〔デノタシオン〕である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

…………

以下、すべて以前に書いたものの再掲。

現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan,E.554,1966)


◆ミレールの古典的な注釈(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré 1984)

対象を〈現実界〉として密かに無視することによって、現実の安定が「ひとかけらの現実」として保たれているのだ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉がなくなったら、〈対象a〉はどうやって現実に枠をはめるのか。   





〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実を枠にはめるのである。 〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを取り除くことが、それに枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,1984)

ーー現在の主流ラカン派(ミレール等)は、この説明にある「存在欠如」は「享楽欠如」に修正。とくにコレット・ソレールの見解が鮮明→参照:「リアルな対象a とイマジネールな対象a

つまり微調整するところはないではないが、この説明が基本。ただし二つの欠如への言及が欠けてはいる。

【二つの欠如 Deux manques】

ラカンはセミネール11で、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》と言っている。

【主体の到来と生存在(生物)の到来】

一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如のこと。

続いて同じ内容を重ねて強調している。このリアルな欠如は、生存在が性的な形で再生産された時に、己れ自身の部分として喪失した欠如である、と。《Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant : - à être ce vivant qui se reproduit par la voie sexuée》


【ラメラ神話】

この欠如がラメラ神話にかかわる、ということ。

このラメラ lamelle、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。

それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.(ラカン、S.11ーーエロス的主体による絶え間ない反復

そしてこのラメラがリアルな対象a、あるいは《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》(S.11)にかかわる。




ーーより詳細には、「二つの欠如 Deux manques (Lacan , Paul Verhaeghe)」(ただし英文・仏文を貼り付けているだけのメモ)

これは基本的な区別。ほかにも種々の形式で対象aはありうる。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらは原初の対象a objets a primordiaux の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre Athens, May 2013)

…………

で、荻本氏の次の記述のどこが問題があるんだろ?

フロイトは『制止、症状、不安』のなかで、安易に、不安信号の布置が形成されるのは、生下時の新生児の血管運動性反応、呼吸困難としていますが、分離不安というものを云々するのであれば、この最初の分離において、主体が分離するのは母親ではありません。胎児は子宮内において卵膜に包まれ、羊水のなかに浮かんでいます。卵膜は母体由来の脱落膜、胎児由来の絨毛膜,羊膜からなり、一部分が胎盤として形成されます。胎盤はいわば寄生的に形成される母体と胎児を連絡する器官であるといえます。母体由来の基底脱落膜と胎児由来の絨毛膜有毛部とが複雑にからみあっています。分娩時にこどもは文字通り生下つまり落ちるのですが、同時に羊膜も落ちます。分離するということであれば、こどもは、生下時、羊膜と別れるのであり、鏡像段階以前ということにあえて言及するならば、a はこどもの身体の一部でもあった羊膜であるといってしかるべきです。(荻本芳信,2008)

ラメラってのは薄片なんだから羊膜みたいなもんだろ、「羊膜」神話でいいじゃないか。

新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る、とちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレットhommelette)、ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。(ラカン、S.11)
例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11)

…………

で、象徴的去勢・想像的去勢があるとしたら、このラメラ喪失を現実界的去勢(原去勢)と読んで何が悪いんだろ?

以下の文に、《原初の享楽の不可能性を強化する》とあるが「強化する」とは現実界的去勢を強化するの意味だよ。

フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を人間発達の構造的帰結として定義した。ここで人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に我々は、己れ自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能性を強化する。というのは主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの手段にて進まざるを得ないから。こうして享楽の不可能性は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、大他者から来た徴付けのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、これらのシニフィアンの使用はまさにある帰結をもたらす。すなわち享楽は、決して十全には到達されえない。これは象徴界と現実界とのあいだの裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に抱くことは不可能である。

社会的に言えば、この構造的与件の実装は、女と享楽・父と禁止を繋げる。両方とも、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の破壊的享楽・父-去勢者の懲罰ーーと結びついている。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる大他者 (m)Other が、子供の身体のに、享楽の侵入を徴付けるから。子供自身の享楽は大他者から来る。

次に、享楽を寄せつけないようにする必要性・享楽への道の上に歯止めを架ける必要性は、母と彼女の享楽の両方を、あたかも父によって禁止されたもの・去勢によって罰されるものとして、特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人は話す瞬間から享楽は不可能であるという真理を。これは、構造的与件としての「象徴的去勢」である。

ラカンはこの理論を以て、フロイトのエディプス・コンプレックス、そして以前のラカン自身のエディプス概念化の両方から離脱した。享楽を禁止する権威主義的父、ついには主体を去勢で脅かす父は、社会上の神経症的構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな与件、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティの問題、あるいは享楽の問題であれ、最終的統合の可能性が夢見られたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、さらに根本的に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。(もっとも)ラカンがこの欠如を象徴的去勢と命名した事実は、彼の理論の理解可能性を改善したわけではない。…(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009、私訳ーー第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢



二種類の漁色家

欲望と愛は、構造的に相容れない。欲望とは欠如の欲望であるというような意味のことをラカンは言っている。

より正確に言えば、欲望において、《〈他者〉のなかに探し求めるものは、手に入れたい(欲望しうる)le désirable ということであるよりは、欲望する le désirant ということであり、それは〈他者〉が欠如しているものを欲望するということである ce que cherche le désir c'est moins, dans l'autre, le désirable que le désirant, c'est-à-dire ce qui lui manque》(ラカン、セミネール9)と。

さらによりいっそう古典的ラカンなら次のような言明がよく知られている。

欲望は、満足への欲求(性向appétit)でも、愛への要求でもなく、二番目のもの(愛への要求)から最初のもの(満足への欲求)を引き算することから生じる差異である。

C'est ainsi que le désir n'est ni l'appétit de la satisfaction, ni la demande d'amour, mais la différence qui résulte de la soustraction du premier à la seconde,(ラカン、エクリ、La signification du phallus

他方、欲動をめぐっては、セミネール11で次のように言っている(仏語では、目標/目的の区別がないらしく、英語の aim/goal を使って語っている箇所である)。

……ここで我々は zielgehemmt(目標を禁止されたもの)ーーフロイトの『集団心理学と自我の分析』などに出現する語ーーの謎を解明することができる。欲動は、その目的に到らないままで満足を獲得しうる形態の謎について。(……)

欲動は、目的 goal に到達しないままで、満足されうる。…その目標 aim は…円環への回帰 retour en circuit である。…(欲動の)対象は、実際には、シンプルに空洞 creux・空虚 vide の現前であり、フロイトが言うように、どんな対象によっても占められうる。そしてこの空洞の代理を、喪われた対象a の機能の形式のなかでのみ我々は知っているだけである。この対象a は口唇欲動の起源ではない。対象a は原初の栄養物(母乳)によって導入されるものではない。どんな栄養物も口唇欲動を決して満足させない。ただ永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant の周りを循環する contourner ことのみが満足をもたらす。(ラカン、S.11、私訳)

この文はフロイトの「快の獲得」をめぐる叙述とともに読むことができる。

まずはじめに口 der Mund が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは‘性的 sexuell'と名づけることができるし、またそうすべきものである。(Freud,S.1940 "Abriss der Psychoanalyse" 「精神分析学概説」1940)

事実、ラカンは後年、次のように言っている。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(Lacan,S.21)

欲望と欲動をめぐってはもちろんこれだけではない。いろんなことをいうラカン派がいてわたくし自身あまり瞭然としていない。ただ上のような捉え方における欲望と欲動の対比をアレンカ・ジュパンチッチは「とても愉快に」説明している。

ラクロ(『危険な関係』)のヴァルモン子爵、モリエールのドン・ファン。ジュパンチッチが『リアルの倫理』で叙述した欲望と欲動の漁色家の相違とはおおよそ次のようなものである。

ヴァルモン子爵は欲望の英雄的人物像とされる。それは、欲望は常に、欠如の欲望・失われているものの欲望である(すなわち欲望は、欲望自体の永続化を欲望する)という意味において。

たとえばヴァルモンは愛の落し穴に陥ることを拒絶する。彼はどんな特定の対象に落着くことも拒絶する。永遠に失われている「正しい女」への絶え間ない探求を繰り返すために、彼自身の幸福さえ犠牲にする。《欲望を「満足させる」かに見せかけるどんな愛の対象からも欲望を分け隔てる裂目》(ジュパンチッチ)ーーその裂目を情け容赦なく開いたままにしておくタイプである。

対照的に、ドン・ファンは《満足感を以て彼の行動の欲動を構成する裂目を見出す。ドン・ファンの事例は、欲望の換喩の例ではない。「真の」(欲望の)対象の永遠の到達し難さではない。彼は正しい女を探し求めていない。(…)それどころかドン・ファンにとって、どの女・すべての女は正しい女である。彼をいっそう駆り立てる(ドライブdriveする)のものは、以前の愛人のなかに見出せなかったものではなく、彼がまさに見出していたものである。ドンファンは目標に至らずに満足を獲得する。より正確にいえば、彼の目標は「循環運動に復帰すること」である》。


ーー上の文に「欲望の換喩の例ではない」と「換喩」という言葉が出てきているが、これはまず、《欲望は存在欠如の換喩であるle désir est la métonymie du manque â être, (Lacan,E.640)に依拠しているはず。

これをめぐってはーー上にいろんなことをいうラカン派がいると記したようにーーわたくしは現在、コレット・ソレールの《欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩である la métonymie qui vaut pour le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.》(2013)という見解に傾きつつあるのだが、ここでは旧来の古典的ラカンの欲望/欲動解釈に基づいた記述に終始している。

※古典的ラカンを覆す最新のラカン派の見解のさわりは、「欲望は剰余享楽の換喩である」にいくらかのメモがある。

…………

女のことに限らず、さてわれわれはどっちのタイプなんだろう? 

たとえば野坂昭如の次の叙述は、いっけんヴァルモン子爵タイプ(欲望タイプ)のことを言っているように読めないではない。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)

だが実情は、その都度満足を見いだすドン・ファンタイプ(欲動タイプ)がエロ道の真髄なのではなかろうか。すなわち、ラカン曰くの《ただ永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant の周りを循環する contourner ことのみが満足をもたらす》タイプ・・・

どうだろう、研究者やら、いやもっと「格調高く」芸術家諸君でもよい。どっちのタイプなんだろ? 実は永遠に失われている「真理」や「美」の周りを循環することに満足を見いだしてるんじゃないか。 文芸愛好家にすぎないわたくしはすくなくともそうだね。

(さてソウカナ・・・。たとえば音楽のドンファンではなさそうな気がしないではない・・・、たぶんコレット・ソレールのいうような混淆系ではなかろうか、つまり欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩型ではなかろうか)

次の文は、すこし異なった意味(「崇高」)で言われている内容だが、わたくしは今いった文脈で読みたくなる。

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S.7ーーカントの「美は無関心」をめぐって




2016年11月17日木曜日

エロス的主体による絶え間ない反復

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos 闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)
エロスは己れ自身を循環として・循環の要素として生きる。それに対立する要素は、記憶の底にあるタナトスでしかありえない。両者は、愛と憎悪、構築と破壊、引力と斥力として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』)

(Lacan, S.19, p.425)




祖母の思い出の中に、何が起こったのか。ひとつの強制された運動が、ひとつの反響とかみ合うのである。死の観念を持った拡がりが、共鳴する瞬間を除去してしまった。しかし、見出された時と、失われた時とのあいだの、あれほど激しい矛盾は、両者のそれぞれを、その生産の系列と関連させている限り、解決される。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(衝動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros),・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos),である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964-1970-1976「三つの機械 Les trois machines”」)

※プルーストの「祖母の思い出」ーー実際は「母」--にかかわる心情の間歇をめぐっては、「心の間歇と心の傷」を参照。


ここでラカンの図式ーー人間の生の図式とさえいるーーをもう一度掲げよう(上に掲げた図の詳細版)。

(Lacan, S.19, p.157)


そして。ためしに次のように変奏してみることにする。





プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』)

究極の「エロス的統合」とは究極の「享楽」である。だが、それは主体の死を意味する。《この享楽の形式は、象徴界を離れることを意味する。したがって、消滅、すなわち、主体の死である》(ヴェルハーゲ、2001

死への道 le chemin vers la mort は、享楽 jouissance と呼ばれるもの以外の何ものでもない。(ラカン、S.17)
・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』)

もちろん雑な図式化であるのは分かっている。たとえば潜在的対象をタナトスの位置に置くことも可能だろう。ただしドゥルーズのいう仮面とは、エロス的主体であり、ラカンの semblant(見せかけの主体)であるのは間違いない(あるいは別に代理人 agent)。





ーー上部が象徴界(快原理の此岸)、下部が現実界(快原理の彼岸)である。ようするにエロスは上部構造、タナトスは下部構造にある。《even in Freud, the relation between Eros and the symbolic is clearly visible…》(Paul Verhaeghe , Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、PDF)

この世(象徴界)が見せかけ・仮面の世界であることは既にシェイクスピアが言っている。

この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』)

《言説自体、いつも見せかけの言説である。le discours, comme tel, est toujours discours du semblant》(ラカン、S.19)

ラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」としている(S.18)

とすれば、次のような言い方もできるかもしれない。

仮面(見せかけ)の主体は、潜在的リアル(真理)に導かれて他者に融合しようとする(究極のエロス=享楽=融合)。だがタナトスの斥力があり完全には融合できない(そもそも完全に融合してしまったら、主体の消滅・主体の死である)。その代わりに産出物として剰余享楽が生まれる。剰余享楽とは真理(潜在的リアル)とは一致しない。こうして終りなき反復が生じる。




ドゥルーズが無意識的記憶をめぐって次のように言っているのは、究極的にはあの現象は主体の消滅、主体の死だからである。

無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

※参照:「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」

これらのメカニズムの最もわかりやすい事例のひとつは、次の指摘だろう。

ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える。(ポール・ヴェルハーゲ、1998ーー欲動と享楽の相違

すなわち各々の国は自らの「主体の死」を恐れ、破壊衝動が生まれる。

またここまでの記述でエロス的主体といっている内実はヒステリーの主体のことである。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」私訳)

強迫神経症とはフロイトのいう通り、ヒステリーの「方言」に過ぎない。倒錯・精神病(緊張型分裂病catatoniaを除いて)も言語を使うかぎり、なんらかの形でヒステリー的でありうる(ミレールのふつうの精神病をめぐる記述を見よ)。
…………

以下、資料のいくつか(近未来の微調整のために)。

先ず、仮面 masque は偽装 déguisement を意味(徴示)する。それは、厳密に共存する二つの現実的諸系列(deux séries réelles)の項と関係に想像的効果を与える。しかしながら、さらに深い意味では、仮面は遷移(置換) déplacement を意味する。それは本質的に、潜在的な象徴的対象に影響を与える。その諸系列のなか、且つ潜在的対象が絶え間なく循環する現実的諸系列の両方において。((ドゥルーズ『差異と反復』)
エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。(ドゥルーズ『差異と反復』)
快感原則には例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまりは彼岸……が存在するということなのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)
エロスの役割は、タナトスのエネルギーを結びつけ、その結合を〈エス〉のうちで快感原則に従属せしむることにある。それ故、エロスは、タナトス以上に与件として示されるものではないにもかかわらず、すくなくともその声をあたりに響かせ、現実に顕著な影響を及ぼすものなのだ。だが、エロスに担われて表面まで導かれる底知れぬ深淵としてのタナトスは、本質的に口をとざしている。それだけに怖ふるにたるものなのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

《反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.》(ラカン、S.17)

永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)
〈永遠回帰〉は〈反復〉である。だが、それは選り分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである。解き放ち、選り分ける反復という驚くべき秘密なのである。

L'Éternel Retour est la Répétition ; mais c'est la Répétition qui sélectionne, la Répétition qui sauve. Prodigieux secret d'une répétition libératrice et sélectionnante.(ドゥルーズ『ニーチェ』1965)

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

・「一の徴 trait unaire」と反復――徴 marque として享楽を設置するものーー、それは享楽のサンスのなかに極小の偏差(裂け目) très faible écart に起源を持つのみである。…du trait unaire, de la répétition, de ce qui l'institue dès lors comme marque, …s très faible écart dans le sens de la jouissance que cela s'origine.

・…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.19)

・「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19ーー永遠回帰・享楽回帰・純粋差異

次のジャック=アラン・ミレールの「見せかけ」の底にあるものの定義というのは、また別の観点で上の図を捉え直すヒントである。

すべてが見せかけ semblant ではない。ひとつの現実界 un réel がある。社会的紐帯の現実界 Le réel du lien social は、性関係の不在 l'inexistence du rapport sexuel であり、無意識の現実界 Le réel de l'inconscient は話す身体 le corps parlant である。 (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

「話す身体 le corps parlant」は、ドゥルーズ=アルトーの「器官なき身体 corps sans organes」のこととしてよいだろうから(参照:話す身体と分裂病的享楽)。

…………

※付記

フロイトによるプラトンの饗宴の「神話」をめぐる箇所を付記しておこう。この『饗宴』のアリストファネスの話は、ラカンがセミネールⅧで延々と語ったことでも知られる。

……われわれは科学の領域で性の発生の問題についてわずかしか発見したものをもたないので、この問題は、仮説という光線すらも射し込まない暗闇に比することができるほどである。まったく別の場所で、むろん、われわれはこのような仮説に出くわすことはあるけれども、それは非常に空想的なものである。たしかに科学的な説明というよりは、むしろ一つの神話である。だがそれは、われわれがまさにのぞんでいる一つの条件を満たすものであって、もしそうでなかったら、私はあえてここで引用する勇気をもたなかったであろう。それは、つまり以前の状態を回復するという要求から一つの本能を演繹しているのである。

言うまでもなく私はここでプラトンが『饗宴篇』の中で、アリストファネスを通じて展開させている理論のことをさしている。この理論は、性的衝動の起源のみならず、対象に関するその重要な変型の由来をも論じている。

「つまりわれわれの身体は、もとは現在とおなじにつくられていなかった。それはまったく別物だった。最初に三つの性があった。いまのように男と女だけでなく、この二つの性を結びつけていた第三の性……つまり男女〔おとこおんな〕があった……」この種の人間ではすべてが二重になっていた。つまり四本の手と四本の足、二つの顔、二重の陰部などをもっていた。ところがゼウス神は、あらゆる人間を二つの部分に分けようという気になった。「ちょうど『まるめろ』の実を漬け物にするために真っ二つにするように……こうして全体が二つに断ち切られてしまったため、二つの半分はたがいに憧憬に駆りたてられた。彼らは手と手で抱き合い、合体しようとの望みをいだいて、たがいにひとと絡み合った……」

われわれは、詩人哲学者の暗示にしたがって、生命ある物質は生を享けたさいに、小部分に引き裂かれ、これら小部分はその以来というもの、性的衝動によってふたたび結合しようと努めると、勇んで仮定すべきなのであろうか?(……)

しかし、批判的な考慮から出た数言をつけ加えておく必要があろう。ここに展開した仮定を、果たして確信しているかいないか、また、どの程度まで信じているのかと問う人があるかもしれない。私は自分でも信じていないし、他人にもそれを信じよなどと求めはしないと答えたい。もっと正確にいえば、私がどの程度それを信じているのか分からないのである。確信というような感情的な要素は、ここではまったく問題とするに足りないように思われる。われわれは、ある思考過程に身をまかせ、それがみちびくところまでついて行くことはできるが、それはただ学問的な好奇心からである。いってみれば、悪魔の代弁者として思考の路を追うのだが、だからといって、悪魔に身を売ることにはならない。(……)

以前の状態を回復しようとするのが、現実に本能の一般的な性質であるとすれば、精神生活において多くの事象が快感原則の支配をうけずに成就されることは、あやしむにたりないであろう。この性質はそれぞれの部分的衝動につたえられて、それぞれの場合に応じて発展経路の一定段階にふたたび到達することになるであろう。しかし、これらのすべてのことは、快感原則がまだ支配するにいたらない場合のことであるから、快感原則に対立する必要はないのであって、衝動的な反復現象が快感原則の支配とどのような関係があるかは、未だに解決されていない課題である。(フロイト『快感原則の彼岸』)

実は究極の「享楽」概念とはここに起源があるとさえ考え得るし、ラカンのセミネールⅩⅠのラメラ lamella 神話も同じく。同じセミネールに現れる「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」やら 「生きる存在(生物)の到来 l'avènement du vivant」という表現もこの神話にかかわるのだが、ラカン派でさえこれをめぐって語る人は少ない(二つの欠如 Deux manques)。

だが対象a の最も原初的意味を問いたければ、この神話に思いを馳せざるをえないはずである。

フロイトの上の文をラカンがどう捉えているのかを知るためにも、セミネールⅩⅠに現れる「アリストファネスの神話 le mythe d’ARISTOPHANE」の箇所は決定的だろう。




己を補完してくれるものの探求というアリストファネスの神話は、悲劇的で魅惑的なイメージを織り上げています。この神話は、生命体が愛において求めているのは、他者であり、性的半身であると述べています。愛の神秘のこの神話的表現に代えて、精神分析体験は、性的補完物の探求とは違う主体による別の探求を置きます。それは、自分自身から永久に失われてしまった部分の探求です。この部分を構成しているのが、己は有性の生命体にすぎず、もはや不死ではないという事実です。(ラカン、S.11、ミレール版邦訳、p.274)

日本では荻本氏が次のように語っている。

フロイトは『制止、症状、不安』のなかで、安易に、不安信号の布置が形成されるのは、生下時の新生児の血管運動性反応、呼吸困難としていますが、分離不安というものを云々するのであれば、この最初の分離において、主体が分離するのは母親ではありません。胎児は子宮内において卵膜に包まれ、羊水のなかに浮かんでいます。卵膜は母体由来の脱落膜、胎児由来の絨毛膜,羊膜からなり、一部分が胎盤として形成されます。胎盤はいわば寄生的に形成される母体と胎児を連絡する器官であるといえます。母体由来の基底脱落膜と胎児由来の絨毛膜有毛部とが複雑にからみあっています。分娩時にこどもは文字通り生下つまり落ちるのですが、同時に羊膜も落ちます。分離するということであれば、こどもは、生下時、羊膜と別れるのであり、鏡像段階以前ということにあえて言及するならば、a はこどもの身体の一部でもあった羊膜であるといってしかるべきです。(荻本芳信,2008)

これはーー荻本氏はラメラ神話に触れていないにもかかわらずーー、その文脈のなかで読みうる「すぐれた」指摘である、とわたくしは思う。

ラカンのラメラ神話は次の通り。

新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る、とちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレットhommelette)、ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。

ラメラ、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただしアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係がある何物かです。それがなぜかは後ですぐお話しましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走り回ります。

ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと想像してみてください。

こんな性質をもったものと、われわれがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。
このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。

それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のもの(形象化したもの?)です。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)
Cette lamelle, cet organe qui a pour caractéristique de ne pas exister, mais qui n'en est pas moins un organe - et je pourrai vous donner plus de développement sur sa place zoologique - je vous l'ai déjà indiqué, c'est la libido.

La libido, je vous ai dit, en tant que pur instinct de vie, c'est-à-dire dans ce qui est retiré de vie, de vie immortelle, de vie irrépressible, de vie qui n'a besoin, elle, d'aucun organe, de vie simplifiée et indestructible, de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée.

C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.


わたくしはドゥルーズの珍しくやや曖昧な表現ーー神話的な表現ーーでさえこの文脈のなかで読みたくなる・・・

母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。

しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》

恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)