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2016年12月7日水曜日

「一の徴」日記⑤

以下、難解版。つまりわたくしはあまり分かっていない。だが「一の徴」という舟に乗ってしまったので、一応どうわかっていないのかを記しておかねばならない。

……構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一)は父の名の効果だと想定された。

ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「一のようなものがある il y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論(の本質と極めて首尾一貫したものだ。(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009ーー「一の徴」日記②

ーーとされ、ラカン自身もはっきりした答えを出していない部分の「さわり」にかかわるのだろうが、ざっとみるかぎりでは実に諸説紛々である。

 …………

ラカンは「一の徴 trait unaire」を熟慮した後、S1(主人のシニフィアン)というマテームを発明した。S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである。しかし疑いなく、S1 の価値のひとつは「一の徴」である。(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasmーー「一の徴」日記②)

ジャック=アラン・ミレールの言っているのと同様に、S1とは抑圧された「一の徴」である、という指摘がロレンツォ・キエーザーー彼はジジェクの紹介によって名が知られたーーにある。

構造としての無‐意識的な un-conscious 「一の徴 trait unaire」は、主人のシニフィアンS1ーー構造的なもの・メタ構造の側にある無意識的なもの unconsciousーーである 。また S1 とは、抑圧された「一の徴」であるとも正当的に示唆しうる。ラカン自身、「一の徴」とS1とのあいだの類似性を強調している。初めて「主人のシニフィアンS1」概念を導入したセミネールXⅠ にて、彼ははっきりと示している、原狩猟人によって棒切れの上に刻まれた切り込み(セミネールⅨ における「一の徴」をめぐる叙述と同様に)とS1との関係性を。(ロレンツォ・キエーザ2006、Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa,PDF

他方、ジジェクには次のような記述がある。

主人のシニフィアンは無意識のサントームであり、享楽の暗号である。主体は、知らないままに、その主人のシニフィアンに支配されている。(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006、私訳)

・S1は抑圧された「一の徴 trait unaire」(ロレンツォ)
・S1は無意識のサントーム(ジジェク)

ーーとすれば「一の徴」と「サントーム」は等しいのだろうか。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

このミレールの文から「一の徴」と「サントーム」をほとんど等価とする解釈者もいる。

the sinthome as a signifier in the real is clearly linked with symbolic identification and the theory of the “unary trait”(Jonathan D. Redmond, 2012, .Elementary phenomena, body disturbances and symptom formation in ordinary psychosis、PDF)

ある時期のラカン自身、次のように言っている。

「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17、11 Février 1970)
享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、セミネール17、10 Juin 1970)

そして上の文を次の文とともに読んでみよう。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

一見、「サントーム」と「一の徴」は、同じものと扱ってよいようにも思える。だがその相違を指摘する注釈者もいる。ここでラカンの最も厄介な概念「Y'a d'l'Un(一のようなものがある)」に触れなければならない。

ミレール派肝入りの論文集 L'INCONSCIENT ET LE CORPS  Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF から引用する。

ラカンがサントームを「Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーーシニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返しréel essentiel l'itération」を解き放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération においてそれ自体を反復するのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの彼方には、身体と享楽がある。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse  Hélène Bonnaud)
言語は、生きた身体をかみ裂く「一の徴」に水準に囚われている。ララングの Y'a d'l'Un は意味を解きほぐす。そして身体と出会いつつ、身体を享楽の効果に委ねる。(Les impensables du corps. L'avoir, le panser, l'être Pascal Pernot)

 サントームは「Y'a d'l'Un」の側にあり、「一の徴」ではない、と彼らは言っていることになる。

ほかにも次のような叙述がある。

文字 lettre とは…身体に出会ったシニフィアンの最初の徴である。この意味で、文字は、対象と「一の徴 trait unaire」の徴 marque と関係がある。(Chapitre VIII, commentaire Anne-Marie Le Mercier)

「文字」とは何か。ラカンのセミネール22には、「すべての一は、文字で書きうる」、そして「そこから症状が発生する」とある。

C'est ce qui de l'inconscient peut se traduire par une lettre, en tant que seulement dans la lettre, l'identité de soi à soi est isolée de toute qualité.

De l'inconscient, tout Un… en tant qu'il sustente le signifiant en quoi l'inconscient consiste …tout Un est susceptible de s'écrire d'une lettre. Sans doute, y faudrait-il convention.

Mais l'étrange, c'est que c'est cela que le symptôme opère sauvagement : ce qui ne cesse pas de s'écrire dans le symptôme relève de là. (S22, 21 Janvier 1975)


そして次のような解釈がなされる。

晩年のラカンの「文字 Lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着」あるいは「刻印」を理解する彼なりの方法である。(ヴェルハーゲ、BEYOND GENDER. From subject to drive Paul Verhaeghe 2001)

だがミレール派の直近の論文集 L'INCONSCIENT ET LE CORPSの著者たちの叙述に依拠するならば、

・Y'a d'l'Un ≒ sinthome

・文字 lettre≒「一の徴 trait unaire」

であり、サントーム sinthome は、「文字 lettre」でもなく「一の徴 trait unaire」でもない、と言っていることになる。

Y'a d'l'Un がサントームであるだろうことは、ジジェクも疑問符つきであるが語っている。

我々はいかに結びつけるべきか、ラカンがセミネールXX (アンコール)で展開した Yad'lun(一のようなものがある)と一連の「単一の諸シニフィアン unary signifiers」を。後者は、ファルス的主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier を通した単一化 unificationに先立つものである。すなわち無限の自己分割的 S1 (S1 (S1 (S1…)))の系列。…

ラカンの Yad'lun を、(「一のようなもの」の上に)欲動を構成する最小のリビドー的固着の形態として読んだらどうだろうか、 前-出来事的な「一以下の多 One‐less multiplicity」からの欲動出現の瞬間として読んだら? そうすれば、Yad'lun の「一」はサントーム、一種の「享楽の原子」である。言語と享楽の最小の統合体 synthesis 、享楽を浸透させた諸記号 signs の単位(我々が強迫的に反復する痙攣のようなもの)である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

だがここでの問いは、sinthome と trait unaire とが異なるのであればどう異なるのか、である。

Y'a d'l'Unと「一の徴」が同じものではない、というのはラカン自身の言明がある。

「一の徴 trait unaire」は「Y a d'l'Un」とは関係がない。…「一の徴」は反復自体の徴である。(S.19、10 Mai 1972)

ほかにも次のような叙述がある。

« Yad'lun »とは《非二 pas deux》であり、それは即座に《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 》と解釈されうる。(S.19、17 Mai 1972)

ここでもう一度、Pascal Pernot の叙述を再掲しよう。

言語は、生きた身体をかみ裂く「一の徴」に水準に囚われている。ララングの Y'a d'l'Un は意味を解きほぐす。そして身体と出会いつつ、身体を享楽の効果に委ねる。(Les impensables du corps. L'avoir, le panser, l'être Pascal Pernot)

そしてラカンの叙述を並べてみよう。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

そして冒頭に掲げたミレールの《S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである》をもふたたび想起しておこう。

これらから判断するに、原初から時系列に並べれば、「Y'a d'l'Un」 → 「一の徴 trait unaire」 →「主人のシニフィアンS1」という変遷があるようにみえる。そして順番に最初のもののほうがより原享楽(身体の純粋な享楽)に近いと捉えられないでもない。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララング lalangue によって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen「21世紀における話す身体とその欲動 LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDFーー「一の徴」日記②)

ここで三人のラカン派臨床家の文章を並べてみる。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
反復は、最初の遭遇の痕跡を刻印する「一の徴 trait unaire」に起源がある。その痕跡は三度反復されたとき、喪失の反復を引き起こす。一度目は、遭遇の記念物として徴を「固着」する。二度目は、徴を再発見することにより、最初の享楽の喪失を仕上げる。したがってエントロピーがある。三度目は、二番目の喪失である。それは「出会い損ねrencontre manquée」として、ad infinitum(無限に)反復される。そしてその反復は、これらの徴のセリー(系列)としてのみ享楽を生き延びさせる。結果は、《ré-pétition》である。それは、ラカンが『エトゥルディ L'étourdit,』(AE493)で記したように二つの部分に書かれうる。「請願 pétition」と「欲求 appétit」の反復である。というのはラテン語のpeto は両方の語の共鳴があるから。コレット・ソレール、2003 Colette Soler Ce que lacan disait des femme)
乳幼児はまず最初になによりも母へ訴えなければならない。その訴えとは、欲動興奮と無力感の混淆物を基礎にしてである。母の応答は(鏡像段階を想起せよ)、(欲動興奮を)統御し、徴をつけ、満足を与える形で作用する。子どもがふたたび、同じ享楽(の統御)を見出したとき、母へとその「要求」を呼びかけねばならない。結果として、子どもは母の応答と同一化しなければならなくなる。そして母が既に生み出した徴の点に同一化することになる。 (ポール・ヴェルハーゲ、2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

ミレールとヴェルハーゲの叙述を参照しつつ、コレット・ソレールの叙述の核心部分を抜き出せば、

①一度目は、遭遇の記念物として徴を「固着」する。
②二度目は、徴を再発見することにより、最初の享楽の喪失を仕上げる。
③三度目は、二番目の喪失である。それは「出会い損ね rencontre manquée」として、ad infinitum(無限に)反復される。

となる。ソレールはこれらのすべてを「一の徴」の三つの段階としているのだが、

①「一のようなものがある Y'a d'l'Un」
②「一の徴 trait unaire」
③「主人のシニフィアン S1」

と「変奏」できないだろうか。

ーーもっともいくらか厳密さを期さずに、ということではある(③をファルス的主人のシニフィアンと一概にはできないのは、「第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢」を参照)。

ジジェクはコレット・ソレール変奏の形で読もうとしているように思える。再掲すれば、

我々はいかに結びつけるべきか、ラカンがセミネールXX (アンコール)で展開した Yad'lun(一のようなものがある)と一連の「単一の諸シニフィアン unary signifiers」を。後者は、ファルス的主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier を通した単一化 unificationに先立つものである。すなわち無限の自己分割的 S1 (S1 (S1 (S1…)))の系列。…

ラカンの Yad'lun を、(「一のようなもの」の上に)欲動を構成する最小のリビドー的固着の形態として読んだらどうだろうか、 前-出来事的な「一以下の多 One‐less multiplicity」からの欲動出現の瞬間として読んだら? そうすれば、Yad'lun の「一」はサントーム、一種の「享楽の原子」である。言語と享楽の最小の統合体 synthesis 、享楽を浸透させた諸記号 signs の単位(我々が強迫的に反復する痙攣のようなもの)である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ここでのジジェクの叙述は、アンコール最後にあるラカンの言葉遊び S1=essaim(ミツバチの密群)次の図の解釈をめぐっている。



ジジェクはこれを次のように読もうとしているようにみえる。


そしていままで記した叙述に則れば、sinthome (lettre (S1 (S1 (S1 (S1…))とも書けることになる。

いずれにせよ Yad'lun とは、現代ラカン派でさえもおそらく誰もがひどく曖昧なままの概念であり、ここでのわたくしの記述は、こう読めもしないか、という想定にすぎない。

かつまた一般には、サントームはすくなくとも三種類ほどの意味があるとされる。

たとえばYoungjin Parkはラカンの叙述を引用しつつ、次のように簡潔にまとめている。

i) the clinical necessity to knot the Imaginary and the Symbolic, and the Symbolic and the Real through splicing or suturing,

ii) Joyce's proper name or ego as a compensation for the lack of the paternal function and the imaginary relation,

iii) sinthome as an irreducible symptom or primal repression (Urverdrängung).(Post-Fantasmatic Sinthome Youngjin, Park、PDF

すなわち、ここでのわたくしの記述は、三番目の《それ以上縮小できない症状、あるいは原抑圧としてのサントーム》のみをめぐっている。

とはいえ、サントームとはほんとうに原抑圧にかかわるのかはわたくしには瞭然としない。

サントーム sinthome は 抑圧されたものの回帰ではない。真理・意味に憩うものではない。サントームとは身体に起こった「ひとつの享楽 une jouissance」である。そしてそれは「真理の大他者l'Autre de la vérité」を排除する。…(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène BonnaudーーL'INCONSCIENT ET LE CORPS Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(ラカン、S.17)

上に引用したYoungjin Parkの一番目のサントームの意味は、(父の名の変種の機能として)比較的よく知られているだろう。

私が最初にサントーム le sinthome [ Σ ] として定義したものは、象徴界・想像界・現実界を一つに束ねるものである。…サントームの水準において…関係性がある…サントームがあるところにのみ関係性がある。

c'est de faire ce que, pour la première fois j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel…Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome.” (S.23、17 Février 1976)

そして自己創造によるシニフィアン、名付けがサントームであるというのもラカンがジョイスの事例を強調したことからよくわかる。これが二番目のサントームである。次の二文はサントームという用語は出てこないが、明らかにサントームをめぐる重要な示唆である。

父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、S22,.11 Mars 1975)
なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

そのときここで話題にした原症状(治療不可能なものとしての享楽の原子)としての三番目のサントームの意味が重要になってくるのだろうか。症状との同一化とは、またサントームとの同一化でもある。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)

だがこの意味でのサントームが、Yad'lun であって、「一の徴 trait unaire」でも「文字 lettre」でもないという見解があるのは、いまこう記していてはじめて知った。

クリストフはキリストを支えた、
キリストは全世界を支えた。
なら言ってくれ、クリストフは、
その時、どこに足を置いたのか。

Christophorus Christum, sed Chiristus sustulit orbem:
Constiterit pedibus dic ubi Christophorus?

ーーフロイト『幻想の未来』(岩波新訳『ある錯覚の未来』より。原典はコンラート・リヒター『ドイツの聖クリストフ』1896

Yad'lun はtrait unaire を支えた
trait unaire は全精神生活を支えた。
なら言ってくれ、Yad'lun は
その時、どこに足を置いたのか・・・

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17)

Yad'lun はやっぱり至高の神に足を置いたんじゃないか

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、16 Mars 1976)

女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut (Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)



母が欲することは、神も欲する Ce que la maman veut, Dieu Ie veut

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF

ラカンの若い友人であったフィリップ・ソレルスの小説『女たち』の主人公の結論ーー 《われわれの時代の最も偉大な思想家であるファルス》から得た結論は、次の通り。 

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)

ソレルスのパートナー、ジュリア・クリステヴァは、ソレルスが1983年に上の小説を上梓する6年前、ラカンのセミネール24 (17 Mai 1977)に美貌の情熱的登場人物として出演している。

《すごい情熱だった、デボラは…壮麗なくらい…夢のイコン…火、知性…ぼくが出会ったなかで最も知的な女性…ソフィア…モザイク…穹窿のくぼみの形をした顔のいたるところで、爛々と輝く、生きいきした黒い眼差し…ぼくは彼女からほとんど離れなかった》

Julia KRISTEVA

C'est autre chose que de la linguistique.
Ça passe par la linguistique, mais c'est pas ça.

ーーセンセ! 言語、言語、言語学ってばっかりだけど、ちがうわ、別のものがあるわ!

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

もちろん小説のなかの話である・・・《真理は,虚構の構造において顕現する La vérité s’avère dans une structure de fiction》(Lacan, Ecrits, p.742)にしても・・・

いやいや・・・次の写真を貼り付けておこう。


Philippe Sollers et Jacques-Alain Miller、2011




2016年12月6日火曜日

「一の徴」日記④

もう少しフロイトの『集団心理学と自我の分析』に拘ってみよう。

まずフロイト読みなら誰もが知っている次の図をかかげる。




つまりは、


右端にある「外的対象」とは、同一化の対象である。

もし「一の徴」の焦点を絞って、簡略化して図示すれば次のようになる。




すなわち「同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一化し合う個人の集まり」(フロイト『集団心理学と自我の分析』)ができあがる。unarie とは単一のことであり、すなわち単一の徴である。

この全能の徽章 insigne として、単に一つのシニフィアンを取り上げなさい。すなわち、この全き可能態における力 pouvoir tout en puissance・可能性の生誕の徴として徽章を。そうすればあなた方は「一の徴 trait unaire」を得る。その「一の徴」とは、主体がシニフィアンから受け取る不可視の徴 marque invisible を塞ぎ埋め combler、この主体を最初の同一化ーー自我理想 l'idéal du, moi を形成する同一化ーーのなかに疎外 aliène(同一化・異化)する。(Lacan,SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR、1960, E.808)
「一の徴」、それは理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966)

よく知られているように uni-form(ユニ・フォーム) とは単一の形態でありこれも同様な機能をもつ。ユニ・フォームでなく、それは名前でもよい。たとえば「三井」という名。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

教授の喋り方にかかわる指摘は、前回掲げたがさわりだけ再掲しよう。

例えば、われわれが同一化する人物は、文字「r」発音する風変わりな仕方があるとすれば、われわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは必要がない。(ジュパンチッチ、2006)

これらが「一の徴」の同一化である。たとえばロラン・バルトもこれにかかわるだろう同一化を語っている。

恐らく、《作家であること》! というあの幻想をいだいて青春をすごす若者は、もうひとりもいないのだ。いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか。誰かの作品をではなく、その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀を、いったい誰について真似すればいいというのか(そんな風に私はジッドを見ていたものだった、ロシアからコンゴまで歩きまわり、気に入った古典を読み、食堂車のなかで料理を待ちながら手帳に書いている姿を。そんな風なジッドを、私は実際に一九三九年のある日、ブラッスリ・リュテシアの奥まったテーブルで、梨をたべながら本を読んでいる姿を、見たことがある)。なぜなら、幻想が強制するもの、それは日記の中に見いだされるような作家の姿だからである。それは《作家からその作品を差し引いたもの》である。神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

これらを馬鹿げているという人がいるかもしれないが、人間の宿命である。

基本的に、「私が私である」のは、ある重要な他者と関係する私独自の仕方によります。もっと個別的に言うなら、私が他のジェンダーに関わる仕方、他の世代に、私の同僚に、そして最終的には、私自身に関わる仕方です。実に、幼児期以来受け取ってきたジェンダーのアイデンティティを鏡に映すことは、同時にジェンダーの関係を鏡に映すことでもあります。私の男性性は、いかに女性性に気づき学んできたかによって決定されます。もし私が女性をすべての悪の根源、私を罪に陥れるものと思い込んでいたなら、私は恐々とした、厳格な男ーー己れの煩悩に打ち勝つための闘争を女性に投影する男ーーになるでしょう。もし私が女性を優しく思いやりのある、けれども、支配的な存在だと感じていたなら、私はそこから永遠に逃れようと努める大きな息子man-sonになるでしょう。等々。これ等は、男と女の本質を定める努力の運命づけられた特質です。(Paul Verhaeghe、 Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities、2012ーー「アイデンティティ」という語の濫用/復活)

…………

閑話休題。

《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。》(ラカン、S9)





いやあ、じつにすぐれた「一の徴」の隠喩のGIFである。



とはいえ誤解のなきよう断っておくが、「一の徴」はけっしてファルスではない。ときにファルスがその機能を果たすことがあるにせよ。

演奏の後で、歌手やピアニストの周囲に群れをなして殺到する魅了された熱狂的な婦人たちや少女たちのことを考えていただきたい。たしかに、彼女たちの一人一人はたがいに嫉妬に燃えようとしている。けれども彼女たちの数と、それに関連して、愛着の目標を獲得することの不可能に直面して、彼女はそれを断念し、おたがいに髪をつかみ合うかわりに、一体となった集団のようにふるまい、共通のしぐさで人気者を祝福し、彼の巻き毛の飾りを分け合うのをよろこぶだろう。彼女たちは、もともと恋敵同士だったのであるが、同じ対象にたいして、同じ愛によっておたがいに同一化することができた。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

上に掲げたロラン・バルトの《神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚》、これが核心である。たとえば、ロラン・バルトの「プルーストと名」はほとんどそのことのみが書かれている、《誰もがプルースト的作家以上に『クラチュロス』の「立法者」、つまり名の創始者(demiourgos onomaton)に近くはない》。

その意味はで次の二文が臍である。

父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、S22,.11 Mars 1975)
なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

そしてーー何度も引用しているがーー、上の二文は次の文と同時に読まなければならない。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17、14 Janvier 1970)

いま我々がフロイト・ラカン的文脈で、かつまた架空の登場人物蚊居肢散人のようなスケベ心を捨てて、真に問うべきなのは、戦後の混乱期に米国からあたえられた憲法ーーとくに九条ーーが、日本社会の縫合点(ポワン・ド・キャピトン≒「一の徴」)になっていたのではなかろうかと問うことである。すなわち「平和憲法」という《神聖なものの至高な形式、マークつきの空虚》を放棄してしまったら日本社会はどうなるのだろう、と問うことである。

※ポワン・ド・キャピトン point du capiton :袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。



2016年12月5日月曜日

「一の徴」日記③

「一の徴」日記を①② と続けたが、ここでフロイトに戻ってeinzigen Zug ーーラカンの「一の徴 trait unaire」ーーを再確認しておくことにする。

もっともラカンはフロイトの概念を大幅に拡張してその理論を展開したのだが。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17)

ジジェクの言っていることは決して誇張ではない、《フロイトが「一の徴 der einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの Ie trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。》(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

さてフロイトの『集団心理学と自我の分析』1921からである。

自我が同一化のさいに、ときには好ましくない人物を、また、ときには愛する人物を模写することは注目に値する。両方の場合はいずれもこの同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひくにちがいない。

症状形成の第三の、とくにひんぱんで重要な実例は、同一化が模写した人物との対象関係をまったく度外視する場合である。たとえば寄宿舎の一人の少女が秘密の恋人から手紙を受けとり、その手紙が彼女の嫉妬を刺激した結果、ヒステリーの発作で反応するとき、それを知った彼女の二、三の女友達は、いわば心理的伝染によっておなじ発作を起こすだろう。この機制は、おなじ状態に身を置く能力、または置こうとする欲求にもとづく同一化の機制である。その女友達も秘密の恋愛関係をもちたいとおもい、罪意識の中で、その恋愛につきまとう苦悩をも引き受けるのである。

彼女たちは同情 Mitgefueh からその症状を自分たちのものにしているのだ、と主張することは正しくないだろう。その反対に、同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。その証拠に、このような伝染ないし模倣は、寄宿生の場合よりも、相互のあいだに、ずっとわずかしか一時の共感があるにすぎない事情の中でも行なわれるからである。

一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例で言えば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される。そして、病的な事情の影響下では、この同一化は、一人の自我が創り出した症状にまでおよぶのである。このようにして、症状を通しての同一化は、二つの自我の重複地帯にたいする目じるしとなるが、この地帯は抑圧されていなければならないものである。

…われわれは、この三つの源泉から学んだことを、次のように要約することができよう。第一に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式であり、第二に、退行の道をたどって、同一化は、いわば対象を自我に取り入れる Introjektion ことによって、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代用物になり、第三に、同一化は性的衝動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに、生じることである。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化 partielle Identifizieruitg は、ますます効果のあるものになるにちがいなく、また、それは新しい結合の端緒にふさわしいものになるにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』人文書院旧訳からだが一部変更)

以下、ジュパンチッチ2006による注釈。

例えば、われわれが同一化する人物は、文字「r」発音する風変わりな仕方があるとすれば、われわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは必要がない。

フロイト自身、この類の同一化のいくつかの興味深い例を提供している。例えば、他の人物の特有な咳の仕方を模倣する。あるいは少女の寄宿舎の名高い例がある。少女たちの一人が彼女の秘密の恋人から手紙を受け取った。その手紙は彼女を動顛させ嫉妬心で満たした。それはヒステリーの発作の形を取った。引き続いて、同じ寄宿舎の何人かの別の少女たちは同じヒステリーの発作に襲われる。彼女らは彼女の密通を知っており、彼女の愛を羨んでいた。そして彼女のようになりたい、と。とはいえ、この彼女との同一化は、奇妙な形をとっており、すなわち、問題の少女において、彼女の関係性(密かな恋の危機)の瞬間に現われた「徴 trait」に同一化する形である。

この例は実に最も得るところが大きい。というのは、ラカンがこのフロイトの概念にかんして取り上げた二つの本質的な点を包含しているから。第一に、「一の徴」は、まったく気まぐれなものである。もちろん、同一化の点において「その徴を取り上げる」主体にとっての意義は、まったく気まぐれなものではない。この「徴」の類なさとは、次の事実から生じる。それは、主体の満足あるいは享楽への関係性を徴づけるのだ。すなわち、彼女らの結合の点(あるいは痕跡)を徴づけるのである。これは寄宿舎の例においてことさら明瞭である。

この例においては、何か別のものがまた明らかになっている。最初の少女のヒステリーの発作は、「徴」である(この事例では、すでに症状だが)。この徴が彼女の情事を想起させる。想起させるのは、少女が愛する対象を喪う切迫した危機にあるまさにその瞬間において、すなわち嫉妬によってだ。これは、ラカンがフロイトから取り上げて強調した二番目の重要なポイントである。それは、喪失と「一の徴」、そして埋め合わされた満足との間のつながりにかかわる。(Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value Reflections on Seminar XVII,,2006)


ラカンが「一の徴」概念を中心的に話題にしたのは、セミネール9 とセミネール17 だが、晩年までこの概念に拘っている。

セミネール24(16 Novembre 1976)には次のように記されている。

l'identification « paternelle »
l'identification « hystérique »
l'identification « à un trait »

上の文を別の叙述を拾って補足摘要すれば、

①父-愛への同一化 l'identification au père、l'identification amoureuse

②ヒステリー的同一化 l'identification hystérique(大他者の欲望への同一化) 

③ある徴 un trait、「一の徴 trait unaire」で作り上げられた fabrique 同一化

さらにラカンは、無関心な人物でもこの「一の徴」を基礎に構成された同一化が起こることをーー冒頭に引用したフロイトの『集団心理学と自我の分析』と同様にーーくりかえし強調している。

Une personne peut être indifférente et un trait unaire choisi comme constituant la base d'une identification.

セミネール22からも拾っておこう。

もしリアルな大他者があるなら、結び目じたい以外の何ものでもない。なぜなら大他者の大他者はないのだから。

s'il y a un Autre réel, il n'est pas ailleurs que dans le nœud même et c'est en cela qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre.

リアルな大他者は、あなたを想像界に同一化させる。そのとき、あなたは大他者の欲望へのヒステリー的同一化をする。

Cet Autre réel, faites-vous identifier à son Imaginaire, vous avez alors l'identification de l'hystérique au désir de l'Autre…

リアルな大他者の象徴界にあなた自身を同一化してみなさい。それは私が einziger Zug、trait unaire として特定した同一化である。

Identifiez-vous au Symbolique de l'Autre Réel, vous avez alors cette identification que j'ai spécifiée de l'einziger Zug, du trait unaire.

リアルな大他者の現実界にあなた自身を同一化してみなさい。あなたは、私が父の名として指示したものを獲得する。そしてそれは、フロイトが愛にかかわる同一化として叙述したものである。

Identifiez-vous au Réel de l'Autre réel, vous obtenez ce que j'ai indiqué du Nom-du-Père, et c'est là que FREUD désigne ce que l'identification a à faire avec l'amour.(ラカン、S22、8 Mars 1975)

フロイトのエディプス理論に戻ってしまったじゃないか、いささかそう見えないでもないという見解があるのは、「「一の徴」日記②」の末尾に引用されているポール・ヴェルハーゲによるもの。ほかにも「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」を参照。だがそれは臨床家の方々にまかせ、ここではメモに徹する。

三界(象徴界・想像界・現実界)の基礎は、フレーゲが固有名と呼ぶもの que FREGE appelle noms propres である。 (ラカン、S24. 16 Novembre 1976)
父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、(ラカン、S22,.11 Mars 1975)
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008
刺青は、身体との関係における「父の名」でありうる。…(場合によって)仕事の喪失は精神病を引き起こす。というのは、仕事は、生活手段以上のものを意味するから。仕事を持つことは「父の名」だ。

ラカンは言っている、現代の父の名は「名付けられる」 êtrenommé-à こと、ある機能を任命されるという事実だと。社会的役割にまで昇格させる事、これが現在の「父の名」である。 (ミレール、2009. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳,PDF

基本的にはイデオロギー的父の名との同一化はやめて、個人独自の父の名=サントームを発明しないさい、ということではある。

なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

このシニフィアンや父の名、あるいはサントームは、「一の徴」(自我理想)の変種である。


この全能の徽章 insigne として、単に一つのシニフィアンを取り上げなさい。すなわち、この全き可能態における力 pouvoir tout en puissance・可能性の生誕の徴として徽章を。そうすればあなた方は「一の徴 trait unaire」を得る。その「一の徴」とは、主体がシニフィアンから受け取る不可視の徴 marque invisible を塞ぎ埋め combler、この主体を最初の同一化ーー自我理想 l'idéal du, moi を形成する同一化ーーのなかに疎外 aliène(同一化・異化)する。(Lacan,SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR、1960, E.808)
「一の徴」、それは理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966ーー「一の徴」日記②)
われわれはシニフィアンの集合 batterie du signifiant における単一の印 trait unique、einziger zug に当面しているのである。 シニフィアンの連鎖 chaîne signifiante を構成するあらゆる要素と交換可能なものであり、それだけでそして常に同じものとしてこの連鎖を支えることができるのである。

消失していく主体のデカルト的経験そのものの限界に見出すのは、この保証の必要性、もっとも単純な構造の特徴、まったく非人格化した、単一の印 trait unique の必要性である。それは単に主体的なあらゆる内容の抽象のみではなく、この印、単一の印であることによって「一」である Un d'être le trait unique この印を超えるすべての変化を抽象する非人格化である。この印が構成する一の基盤づけはその単一性unicité にのみ由来する。これについては何よりも印として構成されるもの、この印に支持されることによって、すべてのシニフィアンに共通するものとしか言うことができない。

われわれの具体的な経験においてこのようなものにめぐり合うことがあるだろうか。これは哲学思想に多大な被害を与えた機能、つまり古典的伝統におけるすべての主体の構成が持っているほとんど必然的に観念論的な傾向にたいして理想化の機能 fonction d'idéalisation を置き換えるということである。

私が自我理想の形態 la forme de l'idéal du moi のもとに説明した構造的必要性がこの機能の上に成立するのである。根源的なシニフィアンへの主体の始源的同一化という、神話的なものではなく、まったく具体的なもの、 プロチヌスの一者からではなく単一の印 trait unique そのものから出発して、知らない者としての主体の展望が厳密に開くのである。今回はもっとも困難なものについて考察したのであって、これを通してより実践的な定式化が可能であることを期待しよう。(ラカン、S.9、22 Novembre 1961、向井雅明試訳ーー「一の徴」日記


サントームは、症状と幻想の混淆物ーーLe sinthome, un mixte entre symptôme et fantasme (ミレール 1998)であるなら、新しいシニフィアンを発明してそれが機能するように幻想に励みなさいということなのか?

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)


ミレール派のThomas Svolosは、「ファミリーロマンスの構築」などという言葉さえ口にしている

サントームの臨床は、「普通の精神病」をもった主体の治療により大きな融通性をもたらしてくれる。排除の臨床では、治療は、父の名に錨を下ろした意味作用の流れに沿って方向づけられる。この臨床における享楽は、想像化された享楽imaginarized jouissanceであると、ミレールは特定する。すなわち象徴化の過程で避難させられた享楽だ、と。

反対に、サントームの臨床は、ラカンのララングによって示された方向に沿って組織される。それはシニフィアンと享楽のあいだの直接のリンクの上に築かれる。享楽の避難は、治療に効果を表す問題でありうるとはいえ、治療は意味作用や享楽の除去に向うだけではなく、意味作用と享楽のリンクに向かう。

エリック・ロランが特定するように、S1とS2の関係から、S1と対象aの関係への移行が、普通の精神病の臨床において決定的である。多くの治療において、享楽の量は元のままである(旧来のフロイトの概念を使用するなら)。とはいえ、精神病者は己れの享楽を飼い馴らす新しい方法を見出す。

主体のサントームは、主体の対象a、享楽のひとつ、彼の存在のサンブラン(見せかけ)に意味作用を持った同一化のリンクをする。このサントームを以て、主体は享楽自体ーーしばしば、精神病者にとってひどく破壊的な享楽ーーを除去するわけではない。むしろ享楽のお茶を濁す方法を見出すのだ。サントームは、精神病者にとってのララングのクッションの綴じ目なのである。

サントームは主体にとって社会的紐帯以外の何ものでもない。神経症の場合、父の名としてのサントームである。その父の名は〈大他者〉を構造化するものであり、あるいは、フロイトの読解なら、社会と無意識を統御するエディプス王、それは言説を統制するアリストテレスのトポスのようなものである。

しかし、その大抵の一般形式においては、サントームは社会的紐帯を構築する。どの話す存在にとっても〈大他者〉は存在しないとはいえ、〈大他者〉のサンブラン(見せかけ)はある。これが主体が利用する〈大他者〉であり世界を捉えるものである。それは、神経症の幻想を通してであったり、精神病者の最も風変りな仕方であったりするが、それらのサントーム的な、かつサンブラン化された〈大他者〉の構造化、ひどく型に嵌らない、〈大他者〉ーートポスの王を統御するあり方。

この状況において、分析家は、主体に作用するひとつの〈大他者〉an Otherを利用することによって、ーーそのひとつの〈大他者〉とは主体のサントームにとってぴったりの〈大他者〉だがーー精神病者を手助けする相当の自由の範囲をもつ。精神病の主体にとっての〈大他者〉the Otherのサンブランの練り上げのこの過程は、治療の方向性にとって、異なる水準を構成する。

"普通の精神病"をテーマにしたパリの英語セミネールにての最も目を瞠る事例のいくつかにおいて、われわれはまさにこの過程を聞くことができた。すなわち、"彼自身の個人的神話の創造"、"〈大他者〉とのひとつの絆の創造"、"世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造"、"〈大他者〉の言説へ入り込むことを彼女に容認させること"、そして"ファミリーロマンスを構築"。実にサンブランへの〈大他者〉の全き脱実体化であり、それは精神病者にとっての新しい診断の俯瞰図であるだけでなく、治療における新しい可能性の地平である。Thomas Svolos、2008,Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant

 もっとも美や芸術の創造行為、あるいはそれらへの愛でさえ、ファミリーロマンスの一種かもしれないが(ラカンはジョイスをめぐってサントーム概念を語った)。ようは昇華である。性関係の不在と身体の享楽の。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらが原初の対象a(objets a primordiaux)の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(ミレール、2013,JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre)
すべてが見せかけ semblant ではない。ひとつの現実界 un réel がある。社会的紐帯の現実界 Le réel du lien social は、性関係の不在 l'inexistence du rapport sexuel であり、無意識の現実界 Le réel de l'inconscient は話す身体 le corps parlant である。 (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

「真の」芸術家のやっていることも昇華にすぎないかもしれないとはいえ、こうは引用しておこう。

芸術のシーニュが他のあらゆるシーニュにまさっているのは何においてであろうか。それは、他のあらゆるシーニュが物質的だということである。それらはまず第一に、シーニュが発せられていることにおいて物質的であり、シーニュのにない手である事物の中に、なかば含まれている。感覚的性質も、好きな顔も、やはり物質である。(意味作用を持つ感覚的性質が特に匂いであり味であるのは偶然ではない。匂いや味は、最も物質的な性質である。また、好きな顔の中でも、頬と肌理がわれわれをひきつけるのも偶然ではない。) 芸術のシーニュだけが非物質的である。恐らく、ヴァントゥイユの短い楽節は、ピアノとヴァイオリンとから流れでてくるもので、非常によく似た五つのノートがあって、そのうちのふたつが反復される、というように、物質的に分解されるものであろう。しかし、プラトンの場合と同じように、三プラス二は何も説明しない。ピアノは全く別の性質を持った鍵盤の空間的イマージュとしてしか存在せず、ノートは、全く精神的なひとつの実体の《音声的な現われ》としてのみ存在する。《まるで演奏者たちは、その短い楽節が現われるのに要求される儀礼をしているようで、演奏しているようではなかった……》 この点において、短い楽節の印象そのものが、物質なし(シネ・マテリア Sine materia)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』--社交・愛・感覚・芸術のシーニュ

…………

※付記

なぜ「一の徴」との同一化をめぐってラカンは晩年こんなにも模索したのか。

それはラカンの最後の教えは症状(サントーム)との同一化だからだ(サントーム≒「一の徴」であるのは前回みた)。

症状と同一化する s'identifier こと、症状と距離を取りつつ distance, à son symptôme。症状とうまくやっていくこと、これが最後のラカンである(ようするに原症状は治療不可能ということ)。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)

《(これはまた)精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。》(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体 analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” 1976)
ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(ラカン、S26、9 janvier 1979、粗訳)

La métaphore du nœud borroméen à l’état le plus simple est impropre. C’est un abus de métaphore parce qu’en réalité, il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel. Qu’il n’y ait pas de rapport sexuel, c’est l’essentiel de ce que j’énonce. Qu’il n’y ait pas de rapport sexuel parce qu’il il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c’est ce que je n’ai pas osé dire. Je l’ai quand même dit. Il est bien évident que j’ai eu tort, mais je m’y suis laissé glisser, tout simplement. C’est embêtant, c’est même plus qu’ennuyeux. C’est d’autant plus ennuyeux que c’est injustifié. C’est ce qui m’apparaît aujourd’hui. C’est du même coup ce que je vous avoue. (Lacan, séminaire XXVI La topologie et le temps 9 janvier 1979)


ロレンツォ・キエーザやジジェク、そしてヴェルハーゲによるミレール批判はあるが(現在のミレール派臨床のやり方について)、彼らはラカンの上の言葉をどう捉えているかはわたくしには判然としない。

ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。

ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007)

※上のロレンツォの文にある「主体の解任」をめぐっては、「主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten」を見よ。




2016年12月3日土曜日

「一の徴」日記②

「一の徴」日記 にて引用した、同一化セミネール9 にはこうあった。

われわれはシニフィアンの集合 batterie du signifiant における単一の印 trait unique、einziger zug(一の徴)に当面しているのである。 シニフィアンの連鎖 chaîne signifiante を構成するあらゆる要素と交換可能なものであり、それだけでそして常に同じものとしてこの連鎖を支えることができるのである。(ラカン、セミネール9)

そしてセミネール17 からも引用した。

・ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。

・例えば「一の徴 le trait unaire」にて…人は「主人のシニフィアンsignifiant-Maître」の機能を問うことが出来る。 (ラカン、セミネール17)

主人のシニフィアンS1が「一の徴」と同じ機能をもっているとある。ここでセミネール17の冒頭にある主人のシニフィアンの機能の叙述を見てみることにする。



我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「シニフィアンの集合 la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。(……)

S1 はそこに介入する。それは「特別な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

これはまず、人は生まれた瞬間から、S2の世界があるということを言っている。上の図でAとS2が重なっているように、Autre(大他者、あるいはシニフィアンの大他者)の世界に生まれて来る。

つまり人間は象徴界のなかに生れて来るということを言っている。

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか? 精神生活の始まりはなにか? 古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited、2008 私訳、PDF

上にかかげたセミネール17 の文でのもうひとつの注目点は、《S1という「特別な徴 trait spécifique」が…「主体 le sujet」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる》とあったことだ。

これは主体の発生以前に、「生きている個人 l'individu vivant」と呼ばれるものがある、と言っていることになる。そしてそこにS1という「特別な徴 trait spécifique」が介入することによってはじめて主体が生まれる。

ラカンによる名高い欲求・要求・欲望の区分があるが、《欲求(段階)においては、いまだ主体はない le besoin, ce n'est pas encore le sujet》(S.5)。つまり、この生きている個人とはいまだ主体になっていない欲求の生き物(そして身体の欲動の生き物)であり、ラカンには別にこの段階を表わす表現として、「享楽の主体 sujet de la jouissance」、「原主体 sujet primitif」、「無頭の主体 sujet acéphale」等々の表現がある。

欲望する主体、それはもはや享楽の主体ではない « sujet désirant » : non plus « le sujet de la jouissance »(セミネール10)



ラカンは通常は、 $ (斜線を引かれた主体)を主体と呼ぶが、上の図にある斜線を引かれていない主体S(原主体 sujet primitif)を「享楽の主体 sujet de la jouissance 」と当面呼んでみようということが不安セミネールⅩには書かれている。

主体になることとは、常に言語の主体になることであり、主体化の過程は、既に存在しているシニフィアンを通して起こる。

ところでエクリには次のような記述がある。

欲求が原抑圧を構成したのち……欲望としての人間が現われる《besoins constitue une Urverdrängung …se présente chez l'homme comme le désir 》(.E.690)。

ラカンは後年も次のように言っている。

幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(Lacan,S.20)

以上から、S1あるいは一の徴の介入とは、(基本的に)原抑圧 Urverdrängung にかかわるという理解ができる。

主体の発生以前の「生きている個人 l'individu vivant」(「原主体sujet primitif」、「享楽の主体sujet de la jouissance」)は、表現の仕方がやや異なるが、セミネールⅩⅠにも「生きものの到来 l'avènement du vivant」/「主体の到来 l'avènement du sujet」という区分けがなされている(参照)。


生き物の到来とは生れたとき発生する。というより、《生きもの l'être vivant》が《生み出された=ジェンダー化される s'engendre》のは、《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》(S11)に入ったときであり、母胎内にて生き物はすでに到来している。

そしてその生きもののにとっては世界に生まれて出て来たとき、すでにS2(シニフィアンの集合)があるが、そこにS1が介入することによって主体が生まれ、二番目の喪失が生じる。二番目というのは生きものとして生まれたとき、第一番目にすでに喪ってしまったものがあるからだ。これはラカンがセミネール11で「二つの欠如Deux manques」を語っている内容のさわりである(参照:基本版:二つの欠如)。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11)

この《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》(S.11)が第一の喪失ーー《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》において齎された欠如である。他方、主体の発生による喪失は次のように説明されている。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(S17)

上の文は、「四つの言説」理論の代表的な言説「主人のシニフィアンの言説」のことを言っている。


このようにして、 $(分割された主体)と対象a が生まれる。

我々は勿論、フロイトから引き出した「喪われた対象の機能 fonction de l'objet perdu」をこの点から示し損なっていない。…「話す存在 l'être parlant」における固有の反復の意味はここにある。というのは、生物学的意味におけるどんな記憶の効果(影響 effect)の反復の問題では全くないから。反復はこの主体とこの知との明白な関係性 にある。その境界(限界 limite)にあるものを「享楽 la jouissance」 と呼ぶ。(S17)


こうして我々は永遠に反復運動する生を送ることになる。



《「一の徴 le trait unaire」にて…人は「主人のシニフィアン signifiant-Maître」の機能を問うことが出来る》とラカンが言っているように、S1のポジションに「一の徴」が基本的には代入できる。




ただしS1をまったく「一の徴」と同じものとしてしまうのは、問題がある。ジャック=アラン・ミレールは次のように言っていることを付記しておこう。

ラカンは「一の徴」を熟慮した後、S1(主人のシニフィアン)というマテームを発明した。S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである。しかし疑いなく、S1 の価値のひとつは「一の徴」である。

私は信じている、「一の徴」というシニフィアンの卓越した機能、そして幻想のなかの対象a 、この両者への主体の連携のあいだには関係性がある、と。(…)

しかしこの両方の定式を比較すると、多くの問題が湧き起こってくる。……(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm

ーーというわけで、ここからが実は難問なのである。

実際、「一の徴」をめぐる記述を読んでいると、S1より対象aのほうに近似しているように思えることさえある(参考1参考2)。

ミレールに依拠することが多く、Lacan.com の常連である Ellie Ragland はこう記している。

・The object (a) is a metaphor for the unary traits of jouissance (Ellie Ragland,The Topological Dimension of Lacanian Optics, 2008)

・The object (a) is proximate to unary traits (S1) (Ellie Ragland,Logic of Sexuation, The: From Aristotle to Lacan, 2012)

いやあこう記してさてこのあと続けるべきか、分からないままでありながら・・・

自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。(ドゥルーズ『差異と反復』)

1996年の時点でミレールは、わたくしにはtrait unaire に相当すると思われるものを、「たったひとつきりのシニフィアン signifiant tout seul」という言い方をしている(L'interprétation à l'envers, 1996)。

わたくしが依拠することの多いポール・ヴェルハーゲもこう言っている。

(後期)ラカンは「文字 lettre」、あるいは対象 a を、主人のシニフィアン S1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、この S1 は S2 (他の諸シニフィアンの一群)から 隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。 (ヴェルハーゲ、2002ーー欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)

これは日本でも松本卓也氏が次のように注釈している。

逆方向の解釈によって取り出されるのは、他の誰とも異なる、それぞれの主体に固有の享楽のモード、すなわち、「ひとつきりの<一者>」と呼ばれる孤立した享楽のあり方である。精神病の術語をもちいれば、それは他のシニフィアンS₂から隔絶された、「ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象であり、自閉症の用語をもちいれば、それはララング(S₁)を他のシニフィアン(S₂)に連鎖させることなくララング(S₁)のまま中毒的に反復する事に相当するだろう。いずれの場合でも、そこで取り出されているのは無意味のシニフィアンであり、そこに刻まれている各主体の享楽のモードである。ミレールがいうように、現代ラカン派にとって、「症状を読む」こととは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならないのである。(松本卓也『人はみな妄想する』)


ここでの要素現象にも注目しておこう。この前期ラカンの概念「要素現象 phénomènes élémentaires」とは、主体が象徴界のなかの穴に遭遇し、その後引き続いて発生するシニフィアンである。ミレール(2008)によれば、要素現象は、隠喩と換喩の不在のせいによる意味作用の失敗によって特徴付られる。

そして前回みたように後期ラカンの治療上の核心概念サントームさえこの「一の徴」と近似性がある。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

このようにして多くの主要概念が「一の徴」につながってくる。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”2008)
主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006)

いやあ、みなさん勝手なことを言ってくださる。この際、もうすこし列挙しておこう。

「一の徴」は原抑圧にかかわるだろうことを上で見た。

◆原抑圧とは現実界のなかに〈女〉を置き残すことである。

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, Draft M. Repression in hysteria ,1897).
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)


◆女 Lⱥ Femme のシニフィアンはS(Ⱥ)である。

S(Ⱥ)は、La Femme n'existe pas(女は存在しない)を意味する(徴示する)。…La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme…(Paul Verhaeghe,Does the Woman Exist? ,1999)
S(Ⱥ) とは、大他者のシニフィアンの不可能性を表す(徴示する)。「大他者の大他者はない」という事実、大他者の領野は、本質として非一貫的にであるという事実のシニフィアン(徴示素)である。(ジジェク、Woman is One of the Names-of-the-Father, 1995)


◆神とは女La femme のことである。

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。[La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».](ラカン、セミネール23)

◆女とは父の諸名 les Noms-du-père のひとつである。

ファルス機能を構成する例外の典型的な例として、人はふつう、享楽の原父という幻想的・猥褻な形象に言及する。この享楽の原父は、どんな禁止にも邪魔されず、全ての女たちを隈なく享楽する。しかしながら、宮廷貴婦人恋愛の形象は、この原父の勝手放題の決定力に十全に合致しないだろうか。彼女もまた、全てを欲する気まぐれな主人、どんな法にも囚われず、彼女の騎士-召使いに専横非道な試練を課す主人ではないか?

この正確な意味において、〈女〉は父の諸名のひとつである。ここで見逃してならない決定的な細部は、複数形の使用と大文字 capital letters の欠如だ。すなわち、Name-of-the-Father ではなく、names-of-the-father のひとつである。つまりは、原父と呼ばれる過剰の候補者の一人だ。 (Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation、1995ーー「S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme」)


◆女 Lⱥ Femme とは対象aである。

女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function—を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの。集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。(ジジェク,LESS THAN NOTHING 2012ーー難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン))

◆ひとりの女は対象aではない。

Une femme, pas plus que l'homme, n'est un objet(a)(Lacan,S.22)

◆ひとりの女は症状である。

Pour qui est encombré du phallus : « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme !(S.22)

◆ひとりの女は他の身体の症状である。

Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569)


◆ひとりの女はサントームである。
une femme est un sinthome pour tout homme(Lacan,S23)


◆サントームとは名付けにかかわる。JȺ とはサントームのことである。

JȺーーラカンがサントームと呼ぶもの--は現実界の名付けに関わる。(Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)


◆父の諸名とは名付けのことである。

父の諸名とは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ[…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)


◆サントームは、症状と幻想の混淆である。

Le sinthome, un mixte entre symptôme et fantasme (ミレール、Revue de la Cause Freudienne n°39, mai 1998)

さて、みなさんそれぞれの文をどうぞタノシンデクダサイ・・・いやひょっとして思いの外一貫性があることにすぐさま気づくかもしれない。

これらの理解に近づく核心のひとつはマルクスの価値形態論を通してラカンを読むことである(参照:価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン))。

いやまず基本的にはこっちのほうがいいかもしれない→「至高の「倒錯」思想家(マルクス・フロイト・ラカン)

冗談抜きでラカンまわりを読んでいて混乱するとマルクスに思いを馳せる、そうするとスコシハすっきりする・・・あくまでスコシハであるが。

ーーそのうちジジェクの弟子筋あたりが華麗な注釈書を出すんじゃないだろうか。その意味で、Samo Tomšičは有望である。

…………

※付記

ある時期のミレールは「享楽の主体」についてこう言っている(このThe Axiom of the Fantasm という論文はいつ記されたのか判然としないが、すくなくとも90年代、もしくはそれ以前と思われる)。

「享楽の主体 sujet de la jouissance 」という表現は用心して使わなければならない。私が知る限り、ラカンは一度しかその表現を使用してない。問題はまさに享楽の主体のようなものがあるのかどうかだ。差し当たって、我々が知っていることの全ては、まさに問題含みの幻想のなかの主体の位置である。(ミレール、The Axiom of the Fantasm Jacques-Alain Miller

そして最近のミレールは、この享楽の主体を探し求めているように思える。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

この「話す身体 le corps parlant」は、ラカンのアンコール(S20)の最後のほうに現れる。ミレールがラカンの転回点とする叙述のひとつである。

現実界は…話す身体 corps parlant の神秘 、無意識の神秘だ。 Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  (S.20)

さらにミレールが依拠するのは、3年後のセミネール23にあらわれる次の文である。

法のない現実界(le Réel sans loi)……本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない[Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre](セミネール23)

多くの現代ラカン派は「話す身体 corps parlant」概念の扱いについて模索しているようにみえる。

言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlant とは、自ら享楽する身体 un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF
主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララング lalangue によって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen「21世紀における話す身体とその欲動 LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF)

ミレールは、セミネール11からセミネール20までのラカンは道に迷ったのではないだろうか、とさえ仄めかしている。

セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!

そして私は、ラカンはセミネールX 後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と自問した。…いや私はそんなことは言わない。それは私の考えていることでない。

ラカンはセミネールXXに引き続くセミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。…あたかもセミネールX にて描写した視野を再び取り上げるかのようにして。

…不安セミネールにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ミレール,Objects a in the analytic experience、2006

というわけで基本はすぐれた臨床家のみなさんにおまかせしなくてはならない。だが核心は「身体」である。前期ラカンの大他者に囚われた身体ではなく、後期ラカンの自ら享楽する身体 un corps joui である。

…………

※以下、別投稿しようと思ったがメモの範囲を出ることは書けそうにないので、ここに純粋なメモとして付記。


ところで、なぜこういった問いが臨床家でない我々にもときには必要なのか。それは人のアイデンティティとは何かという問いに行きつくからだ。

「一の徴」や「主人のシニフィアン」は、かつての「父の名」の変種である。かつまた「一の徴trait unaire」は、セミネール9 では自我理想とされてる(フロイト起源の「einzige Zug(一の徴)」も同様)。

ほかにもたとえばオートル・エクリにも次のような叙述がある。

「一の徴」、それは理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966)

ここで、ポール・ヴェルハーゲの説明を掲げておこう。

以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは大他者における欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。

同時に、新しい問題が出現する。構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一)は父の名の効果だと想定された。

ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「〈一者〉があるil y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論(の本質と極めて首尾一貫したものだ。(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009

ラカンの新しい理論とは、もちろん「大他者の大他者はない」である。

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの 場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013、PDF

そして「一の徴」理論とは、問い詰めてゆくと、《Credo quia absurdum 私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから》になりかねない理論である。だからIいまどき「神の愛」などとマガオでのたまうラカン派さえ出現する。ああいった連中を叩き潰すにはどうしたらいいか思案しているのだがーーかなりマガオでーー、ラカン理論上では容易ではない。

はっきりしているのは、我々は「父の名」という排他的なシニフィアンから長い道のりを歩んだことである。これは疑いもなく最も難解なテーマであり、ラカンはセミネールXXでふたたび取り上げた。主体の形成がなされるためには、S1の介入が必要である。そのときの問題は、このS1はどこから来るかだ。

ラカンはトートジカル(同義反復的)な答えを提供する。S1はシニフィアン〈一者〉から来る、その格言「〈一〉のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの密群)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ。

(アンコール essaim 箇所の図)

これはラカンが既に同一化のセミネールで提示した思考の一連の流れにある。そのセミネールIXで、彼は主体の同一化の起源を他の主体から来る「一の徴」の上に置いた。その「一の徴」が主体をシンギュラーな〈一者〉として刻印する。セミネール17でも、「一の徴」は反復の必要があると言われている。というのは、〈一者〉は不在の上に来るから。底に横たわる実体的な主体はない。ただヒュポケイメノン hupokeimenon(アリストテレス=ハイデガー)、想定された現存 presence があるだけである。これはシニフィアンと物とのあいだの関係とまさに同じである。シニフィアンは他のシニフィアンに差し向けられるだけだ。他方、物自体は諸シニフィアンの鎖の外部にある。

この一連の理由づけにある袋小路は起源の問いにかかわる。ラカンはその全仕事を通してくり返したのだが、答えることは不可能だった。主体の形成は、S1 から引き出される。そしてそのS1は、底に横たわる不在の上で反復される必要がある「一の徴」から来る。私の読解では、これはまさにフロイトが陥ったのと同じ袋小路であり、しかも同じテーマにおいてである。父を基礎づけるために、フロイトは原父が必要だった。なにも不思議ではない、フロイトがこの循環論法で終わったのは。それは次の言葉とともにだった。 「Credo quia absurdum 私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」、と。(Paul Verhaeghe, Enjoyment and Impossibility,2006、私訳)

※S1がどのシニフィアンでもいいのは、セミネール17において既に示されている。

c'est très précisément cette insistance du Maître, cette insistance en tant qu'elle vient à produire… et je l'ai dit : de n'importe quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître.(S.17)


2016年12月2日金曜日

「一の徴」日記

フロイトが「一の徴 der einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの Ie trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

…………

ラカンは「一の徴」を熟慮した後、S1(主人のシニフィアン)というマテームを発明した。S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである。しかし疑いなく、S1 の価値のひとつは「一の徴」である。

私は信じている、「一の徴」というシニフィアンの卓越した機能、そして幻想のなかの対象a 、この両者への主体の連携のあいだには関係性がある、と。(…)

しかしこの両方の定式を比較すると、多くの問題が湧き起こってくる。……(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm

このミレールのThe Axiom of the Fantasmはかなり前に書かれたものではないかと思うが、いつ書かれたのかは不詳。

「一の徴」が主人のシニフィアンの機能をもつのはラカン自身も言っている。

・ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。

・例えば「一の徴 le trait unaire」にて…人は「主人のシニフィアンsignifiant-Maître」の機能を問うことが出来る。 (ラカン、セミネール17)

そしてミレールの次の記述から、「一の徴」=サントームと読む解釈者もいる。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

Ce qui fait insigne という論文自体も1986 - 1987の講義からだが、2007年のミレール派肝入りの論集に再掲されているので、2007年の時点でも見解は変わらないはず。

というわけで、基本的には「一の徴」≒S1(主人のシニフィアン)≒サントームΣであると仮にしておこう。

ところで、trait unaire は「一の徴」とジジェク訳語だったかで一度見た覚えがあるので当面使用しているが、実際は徴ではない。英訳ではone strokeとされることが多く、つまりは水泳の「一かき」、書道の「一筆」、あるいは狩猟の「一撃」等々とでもいうべきものである。

バディウの存在論の中核表現のひとつ l'un, qui n'est pas というのも「一の徴」と等価であるか、すくなくとも親族である。opérationという用語が STROKE を表している。

・ Ce qu'il faut énoncer, c'est que l'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération.

・un pur ‘il y a' opératoire


ところでラカンのセミネールⅨ(29 Novembre 1961)にはこんな図が示されている。




その直前の週のセミネールには、「一の徴」は自我理想ともある。

われわれはシニフィアンの集合 batterie du signifiant における単一の印 trait unique、einziger zug に当面しているのである。 シニフィアンの連鎖 chaîne signifiante を構成するあらゆる要素と交換可能なものであり、それだけでそして常に同じものとしてこの連鎖を支えることができるのである。

消失していく主体のデカルト的経験そのものの限界に見出すのは、この保証の必要性、もっとも単純な構造の特徴、まったく非人格化した、単一の印 trait unique の必要性である。それは単に主体的なあらゆる内容の抽象のみではなく、この印、単一の印であることによって「一」である Un d'être le trait unique この印を超えるすべての変化を抽象する非人格化である。この印が構成する一の基盤づけはその単一性unicité にのみ由来する。これについては何よりも印として構成されるもの、この印に支持されることによって、すべてのシニフィアンに共通するものとしか言うことができない。

われわれの具体的な経験においてこのようなものにめぐり合うことがあるだろうか。これは哲学思想に多大な被害を与えた機能、つまり古典的伝統におけるすべての主体の構成が持っているほとんど必然的に観念論的な傾向にたいして理想化の機能 fonction d'idéalisation を置き換えるということである。

私が自我理想の形態 la forme de l'idéal du moi のもとに説明した構造的必要性がこの機能の上に成立するのである。根源的なシニフィアンへの主体の始源的同一化という、神話的なものではなく、まったく具体的なもの、 プロチヌスの一者からではなく単一の印 trait unique そのものから出発して、知らない者としての主体の展望が厳密に開くのである。今回はもっとも困難なものについて考察したのであって、これを通してより実践的な定式化が可能であることを期待しよう。(ラカン、S.9、22 Novembre 1961、向井雅明試訳)

この一の徴=自我理想はエクリにもたしか二度ほど表れるが今は割愛。

ところで06 Décembre 1961には次のような叙述が現われる。

サド公爵は女性と交渉を持つたびにベットの頭に小さな印でマークした。そして彼は幽閉されるまでこれを続けるのであった。自らの性的遂行の追及においてどこまで到達したかを確めようとするこのような必要性を持つとは、少なくとも性行為という人間の最もありふれた経験が教えることからすると、欲望の冒険によほどのめりこんでいなければまずできないことである。しかしながらサドのように人生の恵まれた時期において十進法の世界の中で自分がどこにいるかわからなくなるというのは考えられないことではない。(ラカン『同一化セミネール』向井雅明試訳)

原文は、par de petits traits chacun des « coups »となっており、« coups »からstrokeが想起される。

この徴もサド独特の「一の徴」ということになる。みなさんも簡単に「自我理想」の徴を得ることができる。ぜひおススメしたい・・・かつてわたくしの友人で陰毛の収集家がいたのだが、あれもひょっとして「一の徴」だったのだろうか?

ところで同じ日のセミネールにこうある。

…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.9,1961-1962)

ドゥルーズ概念として名高い「純粋差異」ともちろん同じ意味合いである。ラカンは後年も次のように言っている。

純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(S.19,1971-1972)

なぜこんな「一の徴」がラカン理論の核心ーーそしてラカンにとっては人間存在の核心ーーなのだろうか。

「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

最初にオカアチャンがわれわれに「一の徴」を刻印してくれるかららしい。

・その徴は、裂目clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる。(S17)

・反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(S.17)

おそらく種々の刻印の仕方があるだろう、「ボウヤ、マンマよ」といいつつを乳房を差し出すのが標準的な最初の刻印ではありはしても、「マンマよ」という声自体がララング(喃語の変種)と呼ばれる刻印であったりするのだろう(いまわたくしはテキトウに記しているのでご注意を)。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララング lalangue によって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen「21世紀における話す身体とその欲動 LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF)

ミレール派の中心人物Pierre-Gilles Guéguenは、この2016年にララングのみを強調している。どうもこのあたりがわたくしには瞭然としない。

オカアチャンの癖がわるかったらオチンチンをさわってばかりかもしれない。とすればオチンチンに「一の徴」が刻印されるのではなかろうか。もちろん肛門の世話に熱心なオカアチャンもいるだろう・・・

とすると生涯クセのわるい人間ができあがる。王家の子供たちはだいたい乳母に世話されてオチンチンを触って寝入らせるくせがあるらしい(噂によれば)。だから王族はだいたいクセが悪い・・・と蚊居肢散人はにらんでいる。

この「一の徴」は、ラカン派でさえーー最も核心的な概念であるのは認めつつもーー明瞭に注釈している人はすくなく(わたくしの知るかぎり)、ラカン自身でさえ最後まで曖昧だったという話もあるくらいで難問のひとつであるらしい。




2016年12月1日木曜日

ファストフード的知的消費者向け作文

以下、まずは1902年生の小林秀雄の1936年の文章である。

君にいわせれば、僕は批評的言語の混乱というものを努めて作り出そうと心掛けて来た男だ。そして愚かなエピゴオネンを製造し、文学の進歩を妨害している。そういう奴は退治してしまわねばならぬという。豪そうな事をいうなとは言うまい。しかし、君が僕を眺める眼は大変感傷的なのである。もし僕がまさしく君のいう様な男であったら、僕が批評文で飯を食って来たという事がそもそも奇怪ではないか。批評的言語の混乱に努力し、その努力を批評文に表現する様な人間は、どんな混乱した社会にあっても、存在する事が出来ないのは、わかりきった話だ。僕が批評家として存在を許されて来た事には自ら別の理由がある。その理由について僕は自省している。君の論難の矢がそこに当る事を僕は望んでいたのである。君は僕の真の姿を見てくれてはいない。君の癇癪が君の眼を曇らせているのである。(……)

僕は「様々なる意匠」という感想文を「改造」に発表して以来、あらゆる批評方法は評家のまとった意匠に過ぎぬ、そういう意匠を一切放棄して、まだいう事があったら真の批評はそこからはじまる筈だ、という建前で批評文を書いて来た。今もその根本の信念には少しも変わりはない。僕が今まで書いて来た批評的雑文(謙遜の意味で雑文というのではない、たしかに雑文だと自分で思っているのだ)が、その時々でどんな恰好を取ろうとも、原理はまことに簡明なのである。原理などと呼べないものかも知れぬ。まして非合理主義だなぞといわれておかしくなるくらいである。愚かなるエピゴオネンの如き糞でも食らえだ。(……)

君は僕の文章の曖昧さを責め、曖昧にしかものがいえない男だとさえ極言しているが、無論曖昧さは自分の不才によるところ多い事は自認している。又、以前フランス象徴派詩人等の強い影響を受けたために、言葉の曖昧さに媚びていた時期もあった。しかし、僕は自分の言葉の曖昧さについては監視を怠った事はない積りである。僕はいつも合理的に語ろうと努めている。どうしても合理的に語り難い場合に、或は暗示的に或は心理的に表現するに過ぎぬ。その場合僕の文章が曖昧に見えるというところには、僕の才能の不足か読者の鈍感性か二つの問題しかありはしない。僕が論理的な正確な表現を軽蔑していると見られるのは残念な事である。僕が反対して来たのは、論理を装ったセンチメンタリズム、或は進歩啓蒙の仮面を被ったロマンチストだけである。(……)

僕等は、専門語の普遍性も、方言の現実性も持たぬ批評的言語の混乱に傷ついて来た。混乱を製造しようなどと誰一人思った者はない、混乱を強いられて来たのだ。その君も同様である。今はこの日本の近代文化の特殊性によって傷ついた僕等の傷を反省すべき時だ、負傷者がお互いに争うべき時ではないと思う。(小林秀雄「中野重治君へ」昭和十一年四月二日―三日『東京日日新聞』初出)

実に美しい文章だ。「豪そうな事をいうな」、「批評文で飯を食って来た」、「癇癪が君の眼を曇らせている」などの生きた言葉遣い、あるいは、《僕が反対して来たのは、論理を装ったセンチメンタリズム、或は進歩啓蒙の仮面を被ったロマンチストだけである》という対句。

論理を装ったセンチメンタリズム
啓蒙の仮面を被ったロマンチスト

ーーところで、この21世紀、これ以外の批評の書き手などいるんだろうか・・・

《専門語の普遍性も、方言の現実性も持たぬ批評的言語の混乱》などという問いさえもとっくの昔に何処かに行ってしまった(これは加藤周一がいった「雑種文化」にもかかわるはずだが、問いが消えたのは雑種文化が定着したってことだろうか)。

こういったこととは別に、あのような時代もあったのだ、という感慨が沸き起こってくる。

小林秀雄は《批評的言語の混乱に努力し、その努力を批評文に表現する様な人間は、どんな混乱した社会にあっても、存在する事が出来ないのは、わかりきった話だ》と言っているが、これは或る意味で、当時の知識人階級をいまだ信頼していたからこそこう言えたのだろう。そして小林秀雄のこの勇ましい断言は甘すぎるとする観点もあるはずだ。たとえばここでプルーストの文章を引用してみよう。

批評は、何一つ新しい使命をもたらさない作家を、彼に先立った流派にたいする彼の横柄な口調、誇示的な軽蔑のゆえに、予言者として、祀りあげる。批評のこのような錯誤は、常習となっている(プルースト『見いだされた時』)

この有様が「批評文で飯を食って来た」書き手の常道だったのは、かつてからだったといえる。少なくとも「馬鹿」を相手にする大衆文化が生まれて以降は。

……一八六三年の二月一日に一部五サンチームで売り出された小紙面の『ル・プチ・シュルナル』紙は、その安易な文体と情報の単純さによって、日刊紙としては初めて数十万単位の読者を獲得することに成功する。一八五〇年当時、パリの全日刊紙をあわせても三十万程度であったことを考えれば、一紙で三十五万の読者を持つ『ル・プチ・シュルナル』紙の創刊は、言葉の真に意味でマス・メディアと呼ばれるにふさわしいものの出現を意味することになる。(……)ここでの成功が、みずからの凡庸さを装いうるジャーナリストの勇気に負うものだという点を見落としてはなるまい。人類は、おそらく、一八六三年に、初めて大量の馬鹿を相手にする企業としての新聞を発明したのである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

だがインターネットが普及した現在ーーつまりは大量の馬鹿が書くようになった時代ーーには、「批評的言語の混乱に努力」する批評家が大手をふるって存在できるようになった。いや批評はそうでなくては読まれない。もちろん批評だけではない。《いいものは売れなくて当然》(蓮實重彦)は昔からだったかもしれないが、《愚かさは進歩する!》(フローベール)のだから、いまではいっそうそうだ。

つまり比較的よく読まれている書き手の文章とは馬鹿向けの寝言だと疑わなくてはならない(これはツイッターでの大量RTの囀りをすこしでも垣間見れば歴然としている)。

ここでジジェクのジョン・グレイ罵倒を掲げよう。現在の批評とはこの程度のものだということを示すために。

あなたは、あなたが批評しているところの著作がどのようなものであるかを全く無視している。あなたは論争の道筋を再構成する試みを全く放棄している。その代わりに、曖昧模糊とした教科書的な通則やら、著者の立場の粗雑な歪曲、漠然とした類推、その他諸々を一緒くたにして放り投げ、そして自身の個人的な従事を論証するために、そのような深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えているのだ(「見ろ!あの著者は新たなホロコーストを主張しているみたいだぞ!」といったように)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して)

ーーこれはジョン・グレイの『LESS THAN NOTHING』 (ジジェク 2012)『Living in the End Times』(同)の書評「The Violent Visions of Slavoj Žižek」(John Gray)に対するジジェクの反論の断片である。

ジョン・グレイ(1948~)は、イギリスの政治哲学者であり、オックスフォード大学教授を経て、現在、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス名誉教授。1949年生れのジジェクと同世代ということになる。

グレイの著作は、バラードなどにも賞賛されたことがある。

《Gray’s work has been praised by, amongst others, the novelists J. G. Ballard, Will Self and John Banville,etc》(Wikepedia)

だがジジェクの反論は明らかに正しい。このそれなりに名高い政治哲学者のジジェク批判は、ジジェクの著書をまともに読んでさえいなくて書かれており、まさに「ファストフード的な知的消費者」向けのものである。

そして、いま日本のネット界に流通する「批評」などというものはーーほんの僅かの例外を除いて、と一応留保しておこうーーさらにいっそう、ファストフード的な知的消費者が望んでいるもの、《道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式……人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせる》ものでしかないのは明らかだろう(書いている本人はそのつもりがなくても)。

その書き手が信頼されるのはすぐれた批評を書くせいではまったくない。記号の記号の流通の海を巧みに泳いでいる者のみが信用される。それが知の大衆化現象である。

大衆化現象は、まさに、そうした階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。(……)読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。したがって、まだ発表されてさえいない作品の作者たる人物が、そこで交換されているものの特権的な発信者とは呼べないだろう。

(……)聴衆が競いあってオッフェンバックの喜歌劇の切符を買い求め、読者が先を争ってポンソン・デュ・デラーユの連載小説の載る『ラ・プチット・プレス』紙の予約購読を申し込むのは、ぜひともその作品に接したいという欲望とはまったく別の理由からである。それは、みずからも、記号の記号としての固有名詞の流通に加担したいという意志にほかならない。

この意志は、隣人の模倣に端を発する群集心理といったことで説明しうるものではない。そこに、流行という現象が介在していることはいうまでもないが、実は流行現象そのものでもない。問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらまがりなす安心感の連帯と呼ぶべきものだが、マクシムが苛立っているのも、まさにそれなのだ。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

蓮實重彦がこう書いたのは、1980年代である。いまではこういったことさえ全く念頭にない読み手が、そこらじゅうを大手を振るって歩き回り頷き合っている。

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)