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2017年8月31日木曜日

20世紀わが日本のサド侯爵

一體文學などいふものは、一人がよいといひだすと、いつまでもその批評が續くもので誰も彼も、前の人の言葉から離れて考へることの出來ないものであつて、存外つまらないものでも、昔の人が讃めたのだからといふので、安心してよいものだと思つてゐることがたび〳〵あります。赤人で例を取つて見ると、先の、

和歌の浦に潮みち來れば、潟をなみ、葦べをさして鶴鳴きわたる 

のようなもので、これがよいと思ふようでは、あなた方の文學を味ふ力が足りないのだと反省して貰はねばなりません。他人がよいからよいと思ふのは、正直でよいことですが、さういふのを支那の人はうまくいひました。それは、耳食といふ言葉で、人がおいしいといふのを聞くとおいしいと思ふのは、口で食べるのではなくて、耳で食べるのだ。見識がないといふ意味に使つてゐます。書物はたくさん讀まなくても、耳食の人にならない用心が必要です。(折口信夫『歌の話』)

いやあすばらしい。この折口信夫の話を読んでいると、多くの万葉秀歌に不感症のままの自らを慰めることができる。

最初期、正岡子規門下だったせいもあるのだろう。

真淵は歌につきては近世の達見家にて、万葉崇拝のところ抔当時にありて実にえらいものに有之候へども、生らの眼より見ればなほ万葉をも褒め足らぬ心地致候。真淵が万葉にも善き調あり悪き調ありといふことをいたく気にして繰り返し申し候は、世人が万葉中の佶屈なる歌を取りて「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するを恐れたるかと相見え申候。固より真淵自身もそれらを善き歌とは思はざりし故に弱みもいで候ひけん。しかしながら世人が佶屈と申す万葉の歌や、真淵が悪き調と申す万葉の歌の中には、生の最も好む歌も有之と存ぜられ候。そを如何にといふに、他の人は言ふまでもなく真淵の歌にも、生が好む所の万葉調といふ者は一向に見当り不申候。(尤もこの辺の論は短歌につきての論と御承知可被下候)真淵の家集を見て、真淵は存外に万葉の分らぬ人と呆れ申候。かく申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候。(正岡子規『歌よみに与ふる書』)

みなさんも折口信夫を見倣わなければならない!

加藤守雄『わが師 折口信夫』より。

「中山太郎氏の『日本盲人史』が出版され、それを記念する会合が(中略)催された時のことである。

主賓の中山さんが、演壇に上って挨拶していた。『日本盲人史』をまとめる苦心談のような ものだったが、その中で、折口先生の持っていられる久我家の文書のことにふれた。それは盲人史の資料としては重要なもので、もしそれ借覧することが出来ていたら、私の書物はも っと完全なものになったろう、といった意味のことを、皮肉まじりにのべた。

その時、最前列にいた折口先生が、突然立ち上った。飲みかけた茶碗を手に持ったまま、 つかつかと演壇に近づいた。

「中山さんのことばは、学者を侮蔑するものです。私は資料を貸し惜んだ覚えはありません。 資料をかくして置いて、それをたてに、他人の足をひっぱるような真似をするくらいなら、学問なぞ致しません。あの文書は全部お貸しします。失礼ですが、中山さんの書かれるものより、もっと秀れたものを書く自信が私にはあります」

出版記念会という場所柄から言っても、その主催者という立場から言っても、ほとんど無茶と言うべき発言だった。」

「同じようなことは、日本歌人協会の会長候補に佐佐木信綱博士が選ばれた時にも起きた。

その場にいた人から話を聞いて、私はその光景を目に見る思いがした。」

「「聞いているのが恐ろしいくらいでした」と、その人は言った。

「昭和の歌人のすべてが、佐佐木さんの業績を無条件に讃美していたと思われては、後世への恥辱です。私は皆さんのおっしゃるほどの価値を認めることは出来ません」歯にきぬ着せずに言われたらしい。」

「先生は悪意のある批評や、自分を傷つけようとする言論には、つねに痛烈に反撥された。 被害者意識も強かったようだ。しかし、どの場合にも、陰で足をひっぱったり、悪口をささやいたりはされない。常に、公衆の面前での、したがってしばしば無茶に見える、反撃だった。 先生の怒りは、不当にいためつけられた自我を回復する為の戦いなのだ。

そこには、時と所と相手とを全く顧慮しない、いちずさがあった。」

20世紀わが日本のサド侯爵のようではないか!

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)

安藤礼二の『折口信夫』(2014年)ーー、一部で評判がとても高いーーの評言もネット上から拾うことができたので、ここに付け加えておこう。

・折口は自らの最後をすべてが消滅するゼロの地点に定める。・・・すべてをゼロにまで破壊し尽くし、その破滅の果てに新たなものの萌芽を見届けること。ゼロは新たなものの可能性を潜在的に孕んだ生成の場でもあった。

・折口はスサノヲ(出雲)の暴力とアマテラス(伊勢)の愛欲をともに認めてくれるような新たな神道の倫理を創り上げようとしていた。そこでは自然そのものが生ける神だった。自然は静的に理解されるものではなく、動的に生きられるものだった。他力ではなく自力で。(安藤礼二『折口信夫』)

※ここでの記述は、「折口信夫と女たち」とともに読まねばならない。かつまた「藤澤寺の餓鬼阿弥」とともに。



2017年8月30日水曜日

先史時代人と母との遭遇

折口信夫は「文学の起源」を「神授の呪言」だと言っている。

信仰に根ざしある事物だけが、長い生命を持つて来た。ゆくりなく発した言語詞章は、即座に影を消したのである。私は、日本文学の発生点を、神授(と信ぜられた)の呪言に据ゑて居る。(折口信夫「国文学の発生」)

折口信夫が徹底的に美しいのは、こういう箇所である。

たゞ今、文学の信仰起原説を最頑なに把つて居るのは、恐らくは私であらう。性の牽引や、咄嗟の感激から出発したとする学説などゝは、当分折りあへない其等の仮説の欠点を見てゐる。さうした常識の範囲を脱しない合理論は、一等大切な唯の一点をすら考へ洩して居るのである。音声一途に憑る外ない不文の発想が、どう言ふ訣で、当座に消滅しないで、永く保存せられ、文学意識を分化するに到つたのであらう。恋愛や、悲喜の激情は、感動詞を構成する事はあつても、文章の定型を形づくる事はない。又第一、伝承記憶の値打ちが、何処から考へられよう。口頭の詞章が、文学意識を発生するまでも保存せられて行くのは、信仰に関聯して居たからである。信仰を外にして、長い不文の古代に、存続の力を持つたものは、一つとして考へられないのである。(折口信夫「国文学の発生(第四稿) 唱導的方面を中心として 」)

もちろん「神授の呪言」における「神」や「呪言」をそのまま受けとるのではなく、現在のわれわれにとって神や呪言とは何かを問えばいいのである。ラカンは、神とは実は女のことだと言った。そしてわれわれの起源として母の舌語(ララング lalangue maternelle)、そのリトルネロを語った。

いずれにせよわれわれだれもが先史時代を経てきている。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』)

冒頭の折口の文を読んで、蓮實重彦が吉本隆明を引用しつつ書かれた70年代の文の「真意」にようやく接近した心持がする。

実は、この狩猟人と海との遭遇を、人類の歴史的な一時期に、ことによったらありえたかもしれない事実としてではなく、言語的な環境にあってたえず起こりつつあるはずなのに、それが不断に起りそびれていることへのいきどおりに近いものとして想像している吉本隆明を認めること(蓮實重彦)

もっとも以下で記そうとしていることは、「狩猟人と海との遭遇」とは、個人の発達段階においては「個人的先史時代人と母との遭遇」ではなかろうか、ということだが。

さて蓮實重彦文をもうすこし長く引用しておく。

……たとえばそれを「文化」の領域に据えてみた場合、マルクス、フロイト、ソシュール、レヴィ=ストロースといった「文化」的相貌のもとにたやすく傷つく無数の言葉を孕み持った吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』と題された一冊の書物は、「言語学」、「精神分析」、「文化人類学」などの「文化」的体系の中に住まう言葉からの執拗な、そして執拗であるからにはおのずとその限界を露呈せざるをえない攻撃にさらされており、もちろん、その攻撃のいっさいが無償の饒舌だとは断定しえないが、にもかかわらずなお吉本氏の言葉が言葉として自分を支えうるのは、それが言葉自身の孕む夢を虚構として切り捨ててはいないからだ。「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする」と吉本氏は「発生の機構」と題された冒頭の一節で「言語の本質」を探りつつ書いている。「人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発するはずである。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視覚に映ったとき意識はあるさわりをおぼえ〈う〉なら〈う〉という有節音を発するだろう。このとき〈う〉という有節音は海を器官が視覚的に反映したことにたいする反映的な指示音声であるが、この指示音声のなかに意識のさわりがこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取していれば〈海(う)〉という有節音は自己表出として発せられて、眼の前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示することになる。このとき、〈海(う)〉という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる」。

差異の概念を導入することなく音声の記号化に言及しているという意味でまさか、と言語学者は絶句するだろうし、言語学者ならずともそれに似た反応をみせるに違いないこの段落において、動物的な条件反射から意識的なしこりをへて自己表出としての指示性を獲得するという言語発生をめぐる吉本的な語彙の強引な展開ぶりに苛立つことは、ほとんど意味を持っておらず、狩猟人と青い海との遭遇によって、フランス人ロラン・バルトが日本語のうちに認めた言語的理想郷と同質の風景を構築した吉本氏が、「われわれの内部で西欧(日本)の総体が動揺し、父親たちから受けついだ国語がぐらりと揺れるにいたるまで、翻訳不能なるものの振動を感知し、それを決して減衰させずにおきたいという夢」をそのきわめて具体的な相貌において記述しているという点がまず何よりも重要なのだ。もちろんここでの吉本的な狩猟人は、西欧人バルトが苛立っている「体系」の重みをまったく背負っていないかにみえるが、実は、この狩猟人と海との遭遇を、人類の歴史的な一時期に、ことによったらありえたかもしれない事実としてではなく、言語的な環境にあってたえず起こりつつあるはずなのに、それが不断に起りそびれていることへのいきどおりに近いものとして想像している吉本隆明を認めることこそが、言語の夢にふさわしい読み方というものだ。おそらく海ばかりでなく「青さ」そのものを知らなかった吉本氏の狩猟人は、それを色彩として捉えうる瞳を持たぬままに、自然が洩らしたとも知れぬ〈う〉の音の声としては響かぬ共鳴ぶりに捉えられて立ちつくし、それがまだ聴いたことのないある響きに酷似していることをすばやく察知するに違いない。(蓮實重彦「言葉の夢と「批評」」『表層批判宣言』所収)

「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする」を読み換えてみよう。「たとえば個人的先史時代人が、ある日はじめて世界に迷いでて、最初の誘惑者に遭遇したとする」。

…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

このフロイトをめぐるラカン派の解釈については後述することにして、ここでは蓮實の『表層批判宣言』における折口信夫の『古代研究』に感嘆する西郷信綱への言及をまず引用しておく。

……「社会」と「個人」という対立の捏造が古代文学をも犯す「制度」になってしまっている現実を苦々しく喚起するのは、ここでは詳述しがたい理由によって井上究一郎とともに現代日本が持ちえた最大の「批評家」として位置づけうるべき西郷信綱である。たとえば「増補・詩の発生」(未来社)におさめられた「文学意識の発生」において、「文学の発生」という彼自身の主題の上を旋回しつづける二冊の書物、風巻景次郎の『文学の発生』と折口信夫の『古代研究』がもたらした感銘について語りながら、その主題探求の一時期に「人間の自我意識」という「近代的な概念」(“近代”傍点 原文)のみに立脚したおのれの方法的混乱を告白している。そしてその混乱は、一般に文学以前と想定される「非文学」の中に、「観念や意識ではなく、形であり造型である」文学の姿をいわば野性の思考として解き放つべく決意したときに解消されたのであり、その苦々しい体験から、「批評」が、井上究一郎の『失われた時を求めて』の翻訳にも比較すべき『古事記注釈』(平凡社)として結実しつつあるのだろうが、その混乱解消の契機となったのが、「社会」と「個人」というあのうんざりするほかない対立の図式の廃棄であったという点は、とりわけ注目されねばなるまい。(蓮實重彦「表層の回帰と「作品」」『表層批評宣言』所収)

こうして蓮實重彦は、90年代には、《「シーニュ」、「シニフィエ」、「シニフィアン」という三つの語彙がきわだたせる言語記号の定義が、ソシュール自身にとっての不幸にとどまらず、いまやその決算期にさしかかりつつある二〇世紀的な「知」の体系が蒙りもした最大の不幸なのもかしれぬという視点が、しかるべき現実感を帯び始めているのはまぎれもない事実だといわねばならない》(蓮實重彦「「魂」の唯物論的擁護にむけて」 1993年)と言うことになる。

上に引用したように西郷信綱は《観念や意識ではなく、形であり造型である》文学、その野性の思考ということを言っているが、ラカン派では言語の物質性(純シニフィアンの物質性)の強調、あるいはこの物質性にかかわるララングについて次のように言われたりする。

身体とララングとの最初期の衝撃。これが、法なき現実界、論理規則なき現実界を構成する。choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique.(ミレール2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)

…………

 ーー《ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロ ritournelle としての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。》(ドゥルーズ&ガタリ『ミラ・プラトー』1980年)

ラカンにとってリトルネロとは、母の言葉である。

リトルネロとしてのララング(母の舌語)lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)

この母の言葉が反復強迫=永遠回帰する。

ラカンは神とは実は女のことだ、と言っている。

精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 〉La femme》だということである。 ……Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、S23、16 Mars 1976ーー玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë

こんなことはじつはーー無意識的にはーー誰もが知っている。最も静かな時間に訪れるのは母なる「女主人」である。知らないのは「最も静かな時間」を知らない連中だけである。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

「わたしの恐ろしい女主人」とは、アリアドネの声、母の声(音調)、そのリトルネロ、母のララングである。 lalangue(ララング)とはまず、喃語 lalationにかかわる。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収)

《「もの」としての言葉》と記す中井久夫には、「音調」のニーチェ(参照)はもとより、「ララング」や「言語の物質性」のラカン、あるいは折口信夫や西郷信綱、吉本隆明がいる、としてよいだろう。

ラカンは後年、眼差しと声を対象aの主要な化身として分離した。しかし彼の初期理論は眼差しが疑いようもなく特権化されている。だが声はある意味ではるかに際立ち根源的である。というのは声は生命の最初の顕現ではないだろうか?自身の声を聴き、人の声を認知する経験、これは鏡像における認知に先行するのではないか?そして母の声は最初の〈他者〉との問題をはらむつながりではないか?臍の尾に取って換わる非物質的な絆であり、最初期の生のステージの運命の多くを形作るものではないか?(ムラデン・ドラー  『Gaze and Voice as Love Objects』私訳)

◆喃語をしゃべる生後10ヶ月の赤ちゃん




わたくしが知りえたララングの最もすぐれた定義文を、仏女流ラカン派第一人者のコレット・ソレールの近著(ブルース・フィンク英訳2016)から引用しよう。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングlangageは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕éclipse等々で包む。ララングlangageが、母の舌語(la dire maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール2011, Colette Soler, Les affects lacaniens)

折口のいう文学の信仰起原(文学音声一途に憑る外ない不文の発想)、《神授(と信ぜられた)の呪言》は、現代のわれわれにとっては母のリトルネロ(ララング)として解釈されうる。母のララング、すなわち母の呪言=神授の呪言。

「アリアドネ」とディオニュソスが言った。「おまえが迷宮だ。」Ariadne, sagte Dionysos, du bist ein Labyrinth: (ニーチェ遺稿、1887年)

どの女にも母の影は落ちている。それがニーチェのアリアドネヴァリエーションである。

アリアドネはコジマ・ワーグナーだけもなく、ルー・アンドレアス・サロメだけでも彼の妹エリザベートだけでもない。その底には、真の迷宮としての母の呪言がある。

ニーチェは自白しているではないか。

わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と 妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつって いる。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: Ecce homo - Kapitel 3

ルー・アンドレアス・サロメは1894年にすでに次のように指摘している。

私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)

輝かしい理想としての永遠回帰は「不気味なもの」の仮面にすぎない(参照:不気味な仮面と反復強迫)。そしてその不気味なものの核心は、母のリトルネロ(ララング)である。

この「母の呪言」の「母」は、イマジネールな母ではない。大文字の母、母なる偉大な神としての母である。すなち誰にとっても原初にある《偉大な母なる神 große Muttergottheit》(『モーセと一神教』1939)、あるいは「原母 Urmutter」(ポール・バーハウ、1999)である。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネールーー「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」)

この「原穴の名」としての母、その呪言が恐ろしい理由を、死の直前のデリダがたくみに指摘している。

鳩が横ぎる。ツァラトゥストラの第二部のまさに最後で。「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」。

最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。それは私自身である。私の時間。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い plus proche de moi。私自身であるかのようにcomme en moi。私のなかの他者の声のようにcomme la voix de l'autre en moi。他者の私の声のように comme ma voix de l'autre。

そしてその名、この最も静かな時刻の名は、《わたしの恐ろしい女の主人》である。

……今われわれはどこにいるのか? あれは鳩のようではない…とりわけ鳩の足ではない。そうではなく「狼の足で à pas de loup」だ…(デリダ、2004、Le souverain bien – ou l’Europe en mal de souveraineté La conférence de Strasbourg 8 juin 2004 JACQUES DERRIDA

母の呪言が恐ろしいのは、それが鳩の足で近づいてくるように感じられても、実際は狼の足であるからである。すなわち狼に貪り喰われる恐怖である。母なるオルギア(距離のない狂宴)の「声なき声」は、融合不安をももたらす。《…そのとき、声なき声がわたしに語った Dann sprach es ohne Stimme zu mir「おまえはそれを知っているではないか Du weisst es」》ーー《このささやきを聞いたとき、わたしは驚愕の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。》(ツァラトゥストラ)



2017年8月28日月曜日

「なんでもおまんこ」という悟り

……感情的な一つの解決、「悟り」ですね。多くまあその悟りに、科学的な衣を着せて、これは悟つたのではなしに、かう言ふ偉大な組織を持つた科学から、完全に出て来たのだ、と言ふやうな顔をする事になつてゐるのですけれども、根本はやはり、悟りでせうね。(折口信夫『国語と民俗学』)

またナンタラ言ってくるヤツがいるが、わたくしはもはや完全な「悟り」の境地に達してしまったので、下界の者向けに「科学的な衣」をかぶせてなんたら記すつもりはない。すべては「おまんこ」である。

今後この蚊居肢ブログで記すことは「おまんこ」にかかわることのみである!

もっとも「蚊居」とあるようにかならずしも直接的におまんこを目指さない趣味をもっていることは認めておかねばならない。





さて《生きる存在 l'être vivant》が《生み出される=ジェンダー化される s'engendre》のは、《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》(S11)に入ったときである。

そしてその母胎内で既にジェンダー化された存在ーー永遠の生(不死の生vie immortelle)を喪失してしまった存在ーーが、この世界に出現するときに具体的に「おまんこ」が喪われてしまうのである。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11, 20 Mai 1964)

あらゆる人間活動はこの永遠に喪われた対象である「おまんこ」のまわりを循環しているだけである。

ラカンは後年、「臍の緒」=「聖痕」とも言っている(Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975より)。

・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。

・臍とは聖痕である。l'ombilic est un stigmate

・臍とは身体の結び目 nœud corporelである。この結び目…注目すべき期間ーー九ヶ月のあいだーー生の伝達に奉仕し、その後(永遠に)閉じられる。

これが結び目と空洞とのあいだのアナロジー analogie entre ce nœud et l'orifice である。こうして洞は仕上げられる。(ラカン、1975, Strasbourg)

こうやってわれわれは聖痕としての穴が開くのである。穴は別に《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」》(ラカン、S21,1974)とも呼ばれる。《われわれは皆、トラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(ミレール、«Vie de Lacan» , 17 mars 2010)のである。

この穴埋めに励むのがわれわれの生である。この穴はけっして欠如ではない。欠如が欠けているのである(参照:「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」)。すなわちブラックホールである。

欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。それは唯一、コルク栓(穴埋め bouchon)としてのみ現れる。このコルク栓は不可能の用語にて支えられている。

Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible(Lacan、1976 AE.573)

この穴はとてつもない引力ーーそしてそれに反発する斥力ーーとしてわれわれの全活動を支配する。

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力 Anziehung と斥力 Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

なぜ斥力が働くのか。引力のなすがままになってしまえば、われわれは消滅してしまうからである。

だが「最初にありき」はやはり引力である。われわれを根源的に支配しているのは、子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib 欲動なのである。

誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、……母胎内への回帰 Rückkehr in den Mutterleib(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ゆえに谷川俊太郎の「なんでもおまんこ」とは精神分析理論の極致を表現しているのである。

なんでもおまんこ 谷川俊太郎

なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ

以上

開け胡麻!

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」)

ーー今から「歌謡曲」のことを記すので、プルーストに応援を頼まねばならぬ。

粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(……)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。(プルース『ジャン・サントゥイユ』「粗悪音楽礼賛」)

とはいえわたくしは「歌謡曲」が石鹸の広告や粗悪音楽とはけっして言うつもりはない!

言いたいことは、(わたくしにとって)肥沃で、危険なものは、なによりもまず「音楽」であるということである。そしてそれがかりに粗悪音楽であってさえ、ひどく貴重なものだということである。文学やほかの芸術の地位は音楽にくらべれば鼻糞のようなものだ、ということである(いやいささか修辞が過ぎたかもしれない、もちろん例外はある、と言っておかねばならない)。

…………

さて前回、前野曜子の「別れの朝」と、ルネ・シマールの「ミドリ色の屋根」をほとんど同じ時期に聴いた、としたが、調べてみると、前者が1971年、後者が1974年であり、正確にはかなり時期的に異なる。1974年といえば、わたくしはすでに高校生であり、もっと幼い時期に聴いているとの記憶違いがあった。

いずれにせよ「別れの朝」を聴いたことにより、開け胡麻! のような現象が起こり、10代のころ、とくにその前半に好んだ「歌謡曲」の記憶の断片が殺到してくるような感じを抱く。だが、それがどの曲のどの箇所かは鮮明ではない。いろんなメロディが混淆して訪れるのである。

ところでネット上には次のような便利なものがある。

1960年代 邦楽ヒット曲 ランキング/年代流行
1970年代 邦楽ヒット曲 ランキング/年代流行

あのころ、どんな「歌謡曲」を好んだのか。それを思いだすにはとてもすぐれた一覧である。

まずすっかり忘れていた1968年(10歳のとき)の次の2グループが、当時のわたくしの愛の対象だったことを見出した(たぶんわたくしの失念は日本に住んでいないせいもあるだろう、日本に住んでいれば懐メロという形などでときには昔の曲を耳にする機会があって、わたくしのように唐突な喚起=歓喜に襲われることは少ないはずである)。

◆エメラルドの伝説 テンプターズ 1968年



ーーいやあショーケンがこんなへなへな野郎だったとは。いまの若者がへなへな野郎ばっかりでも軽蔑してはいけないことに思い至った・・・


◆ザ・タイガース 「花の首飾り」 1968年



(「君だけに愛を」とどっちを選ぼうか悩んだが、なにはともあれこの二曲がタイガースへの愛の起源である)。

それにしても、--ああ、あああ・・・ーー、じつに懐かしく、鋭い「痛み」がわたくしの心を突き刺す。10歳前後の人生の「悲哀感」が蘇る・・・いや逆かも知れない。あの頃はまだ女に徹底的に惚れてひどく悩むこともなかった・・・せいぜいいちはやく胸がふくらみはじめて大人になりかかってゆく健康そうな少女たちへの憧憬、《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》(中井久夫)を覚えた程度である・・・思えば遠くに来たものである・・・

1968年以前の「歌謡曲」についてはーーまったく覚えがないわけではないがーー、印象がひどく浅い。わたくしの「歌謡曲」とは10歳のとき聴いた上の2グループにある(それ以前はロシア民謡を自ら好んでしばしば歌っていた)。

かつまたこの10歳以後の歌謡曲では、それほど強い印象をあたえる曲はない(「邦楽」でなければ、アンディ・ウィリアムズの「ゴッドファザー愛の歌」、プレスリー、とくに「この胸のときめきを」にほれ込んだのは、10歳前半だが、ビートルズには当時の音楽好きな友たちほどには熱狂しなかった)。

「邦楽」のなかで敢えて掲げれば次の二人の歌である。

◆ちあきなおみ/喝采 1972年



ーーちあきなおみが歌った年に、わたくしは生涯の最も大きな恋に陥った。あれ以上痛切な恋はその後ない。


◆積木の部屋 布施明、1974年



ーーこっちは「自殺の旅」に北海道に赴いた年である・・・

どうしてかって? そもそも女に徹底的に惚れてフラれて自殺を図ったことのないヤツなんてのは信用できないね、それとも自殺失敗談を語れっていうわけかい? アホラシ!!

俺は今までに自殺をはかつた経験が二度ある、一度は退屈の為に、一度は女の為に。俺はこの話を誰にも語つた事はない、自殺失敗談くらゐ馬鹿々々しい話はないからだ、夢物語が馬鹿々々しい様に。力んでゐるのは当人だけだ。大体話が他人に伝へるにはあんまりこみ入りすぎてゐるといふより寧ろ現に生きてゐるぢやないか、現に夢から覚めてるぢやないかといふその事が既に飛んでもない不器用なのだ。俺は聞手の退屈の方に理屈があると信じてゐる。(小林秀雄「Xへの手紙」)

ーー「退屈の為」なんてのは小林一流のレトリックだよ、両方とも女のせいに決まってる。

とはいえじつは布施明の歌自体、1974年ではなくもっと幼いころに聴いたという「錯覚」をもっていた。この錯覚はなぜなのだろう、とても奇妙である・・・

………というわけで(?)歌謡曲はけっして粗悪音楽ではない!
すくなくともわたくしの情緒の歴史において、その地位は絶大である!!

だがなぜこれらの曲を聴かないようになったのか?

ここでもプルーストに援助を乞うことにする。

このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。われわれが毎日気がつかずにそのまえを通りすぎていたので、自分から身をひいて待っていた楽節、それがいよいよ最後にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最後のことになるだろう。われわれはそれを他のものより長く愛しつづけるだろう、なぜなら、それを愛するようになるまでには他のものよりも長い時間を費していたであろうから。それにまた、すこし奥深い作品に到達するために個人にとって必要な時間というものはーーこのソナタについて私が要した時間のようにーー公衆が真に新しい傑作を愛するようになるまでに流される数十年、数百年の縮図でしかなく、いわば象徴でしかないのである。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに Ⅰ』)

すなわち歌謡曲というのは、おおむね《あきられやすい美》によってのみ成り立っており、人生に似ていないせいである。上にあげた曲はどれもこれも三度ほど聴くと、最初の鮮烈さはすっかり失せてしまう。たぶんいま掲げた曲をふたたび聴き直してみるのは、一年後かそれよりも先ではなかろうか(いやあ、ちあきなおみは、この一年のあいだにすでに三度ほど聴いているな・・・)

音楽で大切なのは、最初は《みにくい女》と感じられる箇所である。そうでないと長続きしない(だが、はたしてすべてがそうであろうか、例外はあるに決まっている・・・そもそも、ちあきなおみは当時はみにくい(古風な)オバチャンにしか思えなかったのだが、たぶん今のわたくしにとって、たとえば祇園のバーのカウンターの暗闇の向こうから彼女に似た顔があらわれてニタっとされたら「失神」してしまうのではなかろうか・・・)。

……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。このような二つの状態のあいだに起きたのは、まぎれもない質の変化ということだった。それとはべつに、いくつかの楽節によっては、はじめからその存在ははっきりしていたが、そのときはどう理解していいかわからなかったのに、いまはどういう種類の楽節であるかが私に判明するのであった……(プルースト『囚われの女』)

ーー常にプルーストが正しいわけではないけれども、こういったことを記すには、絶大に役立ってくれるのは間違いない。

《そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった》だって? まるで「ちあきなおみ」のことを記しているかのようではないか・・・《いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。》


2017年8月27日日曜日

ナカナイデ

前野曜子の名をツイッターでみた。すっかり忘れていたが、45年ぶりぐらいに聴いてみた。

いやあ・・・美しい。とてつもなく。

◆前野曜子_別れの朝




「別れの朝」の原曲はウド・ユルゲンスの「夕映えのふたり」(ドイツ語: Was ich dir sagen will, 1967年)だそうだ。知らなかったな

◆Udo Jürgens - Was ich dir sagen will (Drehscheibe 26.07.1967)




この曲が流行ったほぼ同時期に、「ナカナイデ」と歌っていた美少年歌手の歌はなんだったか、と探してみたら(見いだすのに30分ぐらいかかったよ)、いやあこれも徹底的に懐かしい。当時のボクぐらいの美貌美声だね。

◆ルネ・シマール - ミドリ色の屋根






2017年8月26日土曜日

折口信夫と女たち

以下、「藤澤寺の餓鬼阿弥」より引き続くメモ。折口初心者の、折口をめぐる評論のたぐいは一切読んだことのない者が、主にネット上から拾った備忘である。

 …………

折口の出生については、池田弥三郎氏の「私説折口信夫」が詳しいが、これによると事情はなかなか複雑である。父秀太郎と同居の叔母の間のこと、それに先行する母のあやまち、自己の出生に対する疑惑等、若き折口に二度も自殺を図らせるほどのものであった。池田氏のことばを借りれば、「折口の出生に関するかくろえごと」ということになる。その他にも、インクのしみのような額の痣、切り株で睾丸を裂くという幼児期の事故。(高橋広満「折口信夫と「既存者」」1980、PDF
父・秀太郎は河内国の名主の家の次男で、折口家の養子となり医を継いだ。信夫が生まれて7年のち双生児の弟が誕生するが、実は母こうが生んだのではなくて、同居する叔母ゆうと父の秀太郎との間に生まれたのであった。こうした家庭内の愛情にかかわる葛藤も、信夫の心に深い陰影を刻んだ。(wiki


幼き春(「古代感愛集」)

わが父に われは厭はえ
我が母は 我を愛メグまず
兄 姉と 心を別きて
いとけなき我を 育オフしぬ。



追悲荒年歌

ちゝのみの 父はいまさず、
はゝそばの 母ぞ かなしき。
はらはらの我と、我が姉
日に 夜に 罵コロばえにけり。
怒ります母刀自ハハトジ見れば、
泣き濡れて くどき給へり。
そこゆゑに、母のかなしさ。
家荒れて 喰ふものはなし。
庭寒く 鳥もあそばず。
あはれ かの雀の子らは、
軒の端ハゆ 顏さし出でゝ
ちゝと鳴き くゞもり鳴きて、
聲やめぬ。ふた聲ばかり――。
雀子も、餓ウゑ寒からむ。
あはれ/\ 喰ふ物やらむを――
腹へりて 我も居にけり。
頻々シクヽヽに いたむ腹かも。
晴るゝ日の空の靑みに、
こだまするもの音オトもなし。
靜かなる村の日ねもす――
村びとも みなから飢ゑて、
ま晝すら 寢貪ネムサボるらむ。
朝明ケよりものにい行きて、
歸り來し姉のみことの、
我を見て あはれと言ノらし、
町人マチビトの、姉にくれたる
蕎麥の粉の練れる餅モチヒの
燒きもちひ 喰へと言ひて、我に給タびたり。
くるゝ時、我を見し目の
姉が目の さびしかりしを
髣髴オモカゲに 今も忘れず。
ひた喰はゞ 片時の間ぞ。
喰はざらば 腹ぞ すべなき。
蕎麥もちひ 惜しみ、たしみて
ねもごろに 我が喰ひをるに、
ほろ/\と とすれば崩クえて
もろくくづるゝ蕎麥の粉の すべもすべなさ


『零時日記』に目を通すに、信夫は父が死亡せる十六歳前後、三囘にわたりて自殺を企圖せしことあり。學業成績下がり、卒業試驗にも落第せるこの間の事情、明白とは言ひがたけれど、この時期が彼にとりて重大なる青春期の危機なりしこと、まづは疑ひなし。(飯田眞『折口信夫、診断日本人』)





信夫は少年時代に父を通じて詩歌を知り、「うすら明るい知らぬ國の影」を感ず。詩歌の世界に「しみじみと親しまれる世界のやうな心地」を覺え、西行や芭蕉など、漂泊の詩人に己が孤獨なる心を託すに至る。當時在京中なりし叔母えいより送られたる『東京名所圖會』の見開きに書きとめたる短歌「たびごろもあつささむさをしのぎつつめぐりゆくゆくたびごろもかな」は、八歳頃の處女作と言はる。中學三年頃には鳳鳴會同人となりて短歌創作をはじめ、旅へ誘はるる心地高まる。(同上、飯田眞)

…………

医者だつた父は医者になれと殆ど遺言と申す事も出来るほど、死に際まで申して居ました。でも卒業した時は、母・叔母などを泣かしても、やつぱり文学をすると主張しました。而も私のは、二重の難関を通りぬけねばなりませんでした。文学をやるなら、第三高等学校へ行けと、やつと言ひ出してくれた叔母を更に失望させねばなりませんでした。其は、どうしても国学院へ這入らねばならないと言ふ不思議な決心を持つて居たからです。(折口信夫「新しい国語教育の方角」)

・独り身を守り遂げて、我々をこれまでにしあげてくれた、叔母えい子刀自も、もうとる年である。せめて一度は、年よりらしい、有頂天の喜びを催さしてあげたいと思ふけれど、私に、其望みを繋けてゐてくれる学位論文なども、書く気にもなれない。

・でもまだ〳〵、兄のうへを越す無条件の同情者が、尠くとも一人は、健在してゐる。前に述べた叔母である。私の、此本を出さうと決心した動機も、この人の喜びを、見たい為であつた。だから第一本は、叔母にまゐらせるつもりである。叔母は必、かこつであらう。かういふ、本の上に出た、自分の名を見ることのはれがましさの、恥ぢを言ふに違ひない。兄が、かうなると思はぬ先から、私の考へてゐた事なのである。叔母に捧げる志は、同時に、兄の為の回向にもなつてくれるであらう。(折口信夫「古代研究 追ひ書き」)

…………

以下、上にも一部引用したが、飯田真(眞)氏の折口論から引用する。「飯田真」とは現在ではあまり知られていない名かもしれないが、中井久夫の先輩にあたる方である。

……「友人」とは新潟大学精神科教授・飯田真先生で、私は1985年春、講演に招かれたのである。先生には、若いころ、東大分院で手を取って教えていただき、共著・共訳もある(『天才の精神病理』中央公論社、1972年、シュルテ『精神療法研究』医学書院、1969年)ーー( 中井久夫「信濃川の河口にて」『家族の肖像』所収)

現在からみて臨床用語的には、やや古くなっている箇所があるという観点もあるだろうが、そのまま抜粋する。たぶん折口信夫の研究者たちは、こういった精神分析的解釈をきらうのだろう、現在ではまったく参照されていないようにみえるが、わたくしにはとても面白い。引用元は「飯田眞 人物雑評 折口信夫」1-6からだが、段落分けをして小表題をつけた。


【里子・自殺企圖】
折口信夫は明治二十年、大阪に生まる。父は婿養子にて醫を本業とし、さらに家業の生薬屋を兼ぬ。幼時一時大和小泉に里子に出され、木津小學校を經て明治三十二年に大阪府立第五中學に入學せり。明治三十五年五月(十六歳)父死亡す。明治三十七年、卒 業試驗に落ち、その前後に數囘の自殺企圖あり。されど翌三十八年(十九歳)には同校を卒業し得たれど、醫科を學ばせむとする家人の意を斥け、國學院大學に入學、同四十三年、拔群の成績にて卒業するや、釋迢空の號を初めて用ゐる。…


【祖父・父・母】
折口信夫の生家は古く續ける生藥屋なりき。信夫誕生當時の家族は、兩親の他、曾祖母、祖母、二人の母方の叔母、姉、三人の兄にて、後に弟二人生まる。「祖父は、飛鳥ニ坐ス神社の神官の子なりしが、折口家の養子となり、醫を本業とし、舊來の家業を兼ぬるも、 差別なく部落民の治療に當り、その徳人より慕はれれたり。父は壻養子として折口家に入り、 祖父の跡を繼げるも、氣むつかしく、荒々しき氣性の人にて、晩年には患者を診ること少なかりし。母はいはゆるお孃さん育ちにて、わがままなる人なりしが、父には痛々しく思はるゝ程 よく仕へ、父の代診をつとむるなど、獨身なりし叔母二人と家業を切り廻したり。」(『母と子』) 恐らく信夫の父は、母系家族に對する一種の反逆兒にてはなからんかと想像せらる。

※『母と子』とあるが、この飯田氏の引用の仕方では、折口の著書から引かれているように思えるが、ネット上を探す限りでは、この『母と子』の引用には行き当たらず(飯田氏の論以外には)、不詳不明の箇所。


【遠くにある母の影】
信夫が幼年時代の資料極めて乏しけれども、『古代感愛集』に收められたる「幼き春」「乞丐 コツガイ 相」「追悲荒年歌」などの詩の中にうたはれし、幻想の織り込まれたる幼時の囘想を讀まんか、そが傷ましさ、想像を絶するものあり。「わが父にわれは厭はえ、我が母は我を愛 メグまず、兄姉と心を別きて、いとけなき我を育 オフ しぬ」(「幼き春」)「父のみの父はいまさず、ははそばの母ぞかなしき。はらからの我と我が姉、日に夜に罵 コロ ばえにけり」 (「追悲荒年歌」)。斯くのごとき彼の不幸なる幼年時代を決定づけたるものは、幼時の一時を里子に出されたることなり。里子に出されたる年齡、期間の詳細は明らかならざるも、このために幼年時代の信夫は母との對象關係斷ち切られたれば、我は見捨てられたりと感じ、 母の影は遠くのもの、覺束なきものとなりたりと推測せらる。


【父への反感、憎惡】
一方、父との對象關係も十分なるものにてはなく、當時「年と共に氣むつかしくなり、家人とも樂しげに話をかはすこともなく、母と顏をあはすことも嫌ひたり」(『母と子』) 父によりて彼の孤獨感の瘉されるべきすべもなかりし。かへりて父は母を信夫より遠ざくるていの人物なれば、部落民を診察することを拒否し、祖父の里との交際を斷つといふがごとき父の粗暴なる行爲は、幼き信夫の心に消しさりがたき父への反感、憎惡を生み、彼の出生前に死亡したる祖父への止みがたきあこがれと幻想的なる同一視おこり、祖父を父批判のよりどころとする結果となりたるがごとし。父に對する憎しみの激しきことは『近代悲傷集』の「すさのを」の 詩篇からも容易にうかがひ知らる。


【母代りの叔母えい、姉あい】
幼年時代の信夫は、母代りの叔母えい、姉あいによりて育てられたるならん。殊に八歳年上の姉とは、互ひに孤獨なる魂を温め合ふかの如くに親密にて、近親相姦的關係に近かりしかと想像せらるる節さへ見ゆる。「わが御姉 ミアネ 、 我を助けて、かき出でよ、汝が胸乳 ムナヂ 、あはれわれ、死ぬばかり、いと戀し、汝が生肌 イキハダ 」(「すさのを」) 晩年の『死者の書』におきても主人公大津皇子は、その刑死を萬葉集の中にてもつとも哀切なる同母姉大伯皇女への追慕によりて鎭魂せられたる皇子なり。 折口の中將姫を登場させたるは韜晦にてはなからむか。かくのごとき幼時の異常なる關係より自己の男性性との葛藤をおこし、去勢恐怖、さらには姉との同一化おこり、その結果異性愛が封じられ、これが後年の彼の女性恐怖、同性愛的傾向の發展につながるものと精神分析的に解釋釋すること可能なり。

※「わが御姉 ミアネ 、 我を助けて、かき出でよ、汝が胸乳 ムナヂ 、あはれわれ、死ぬばかり、いと戀し、汝が生肌 イキハダ 」(「すさのを」) も、ネット上では飯田氏以外の引用はない。


【兩親より遺棄】
いづれにせよ幼年時代の信夫は、兩親よりいはば遺棄され、しかもそれを被虐的に自己に關係づけたれば、兩親との對象關係正常に發展せず、ために生に對する信頼感が弱く、 生命否定的となり、男性としての十分なる性的同一性を確立することのできなかりしことは疑ひなき事實なれば、これが彼の分裂氣質的人格の形成、恐怖症の發展を促し、同時に信夫を同性愛に導く要因となりたることは確實なり。


【被害者意識】
晩年の信夫と起居を共にせる加藤守雄の『わが師折口信夫』岡野弘彦の『折口信夫の晩年』を讀むに、信夫の人柄、日常生活には、われわれ精神科醫が興味そそらせらるる部分、少なからず。

加藤は信夫の人間的印象につき次のごとく記す。「一オクターブ高き聲、なで肩にて丸味 ある體つき、いんぎんなる物腰、自己愛的、女性的なり」「氣性はげしく我が儘なる性格、惡 意ある批評や自分を傷つけむとせる言論には痛烈に反撥、反應過敏にて被害者意識つよく、先生が怒りは、不當にいためつけられたる自我を囘復せむがための闘ひ」「電話のベルにて過敏に怖る。相手の正體のわかるまで安心できず」。これらの記述より推察しうる信夫は、過敏、自己愛的、人間不信的、被害的傾向を有する分裂氣質に屬する人と言ひえむ。


【極度の潔癖・女性恐怖・饑餓恐怖・極端な刺激物嗜好】
彼の日常生活にはかなりの奇行目につく。その第一は極度に潔癖なることにて、書庫や部屋の埃を嫌ひ、他人の手が觸れたる襖、障子の把手は着物の袖にて摑み、電車の吊皮を持つときは手袋やハンチングを使ふなど直接自分の手にては觸れず(岡野)、フライパンをクレオソートにて消毒し、手に觸るるものはアルコール綿にて拭く(加藤)など、不潔恐怖の症状とも見られむ。

第二は女性恐怖にて、恐らく此が第一の不潔恐怖の原型と考へ得るものにて、女性を不潔視し、身邊にはほとんど女性を近づけず、食事は女性に作らせず、妻帶者の弟子の入りたる風呂には入らず、電車、バスの中にて女性の髮の毛觸るれば、すさまじき嫌惡感を示せり(岡野)。信夫の恐怖覺えざる女性は、親族の他はおそらく身邊にありし老婢、あるいは 「神の嫁」としての巫女的なる役割にとどまりをりたる女性ならむ。

第三は饑餓恐怖とも稱せらるゝ一種の貯藏癖にて、戰爭末期より戰後にかけての時期、護符の如くに硼砂入りの四斗の米を貯へをりたり。他人より贈られたる果物などは腐敗せるものも捨てずにとりおきて、奇妙なる果實酒を作るなど致したり(岡野)。

第四は刺戟物に對する極端なる嗜好にて、三十種にも及ぶ茶を常備し、ジンジャーエール、 コーヒーを好みたり。齒磨きは薄荷、樟腦、クレゾールなどを加へたる自家製のものを用ゐ、 ロートエキスの錠劑を愛用し、息の詰らむばかりのユーカリ油をマスクに垂らすこともありたり。 子供の頃には樟腦を齧りしことありたると言ふ。その極點に當れるはコカインに對する嗜癖 にて、大正末期より昭和初年にかけてはかなり濫用し、その結果晩年にはほとんど嗅覺失はれたり(岡野)。因に彼が旅行の際には愛弟子の誰かを同行したる他、必ず數種の茶、胃 腸藥、アルコール綿を携行したり(岡野)。

…………

この飯田氏の叙述を全面的に信頼するわけではない。とはいえ里子の外傷的記憶や父母からの疎外感は間違いないだろう。「追悲荒年歌」の《家荒れて 喰ふものはなし》、《腹へりて 我も居にけり。/頻々シクヽヽに いたむ腹かも》等も直接に後年の饑餓恐怖に繋がる。かつまた、姉あいを『死者の書』における藤原南家の郎女(中將姫)と関連付けようとする記述も、なぜ同性愛者かつ女性嫌悪であった折口があんなに憧憬的に女を書きえたのか、という問いのすくなくともひとつの解釈として読める(あくまでひとつの解釈であり、たとえばプルーストのアルベルチーヌ=アゴスチネリの例をあげての反論もあるだろう)。

――待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き聲だつた氣がする。――をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉體と一つに、おれの心は、急に締めあげられるやうな刹那を、通つた氣がした。…

をゝさうだ。伊勢の國に居られる貴い巫女――おれの姉御。あのお人が、おれを呼び活けに來てゐる。(折口信夫『死者の書』)

折口は鴎外よりも漱石を格段に好んだ。

漱石居士……此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年ーー血みどろになつた處

この評価は、養子に出された漱石との同一化の影響もあるはずである。同一化とは対象のなかのたった一つの徴だけで起こる。

《同一化は…対象人物の一つの特色 (「一の徴」einzigen Zug)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)



2017年8月25日金曜日

縄文ヴァギナデンタータ

いやあ、すばらしいものを見出してしまった、見いだしてしまったというのか、1930年代に発見されたらしく、わたくしが知らなかっただけだが。

◆札沢遺跡 動物装飾付釣手土器

(「図説縄文土器3 人面香炉型土器」より)


神話とか、古代史とか。



次のものも美しい。

「イノヘビ」家族の吊手土器 長野県諏訪市・穴場遺跡


玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë」にて次のように記したとき、これらの縄文土器にも依拠すべきだった・・・

…………
人が「私はどこから来たのか」と問えば、子宮あるいは女陰となるのは当たり前である。

そしてどこから来てどこへ行くのか、つまり子宮から墓へ(wombからtombへ)を、子宮から子宮へと考えるのは何の不思議でもない。近代人ではなく、古代人なら、ことさらそう考えていたとさえ推測できる。

「墓」のギリシア語は tumbos 、ラテン語は tumulus であり、「膨れる」という意味がある。tomb は womb の「子宮」と言語的に関連していると捉えうる。

かつまた各個人の「先史」時代ーー前エディプス期ーーを扱う精神分析が、子宮や母に注目するのも、これまた当然である。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

フロイトは死の枕元にあったとされる草稿においては、「子宮回帰」という言葉さえ口に出している。

誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、すなわち睡眠欲動 Schlaftrieb が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内 Mutterleib への回帰である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

こういった叙述以外に、《偉大な母なる神 große Muttergottheit》(『モーセと一神教』1939)とも言っている。……

…………

次のものは釣手土器あるいは人面香炉型土器と呼ばれるそうだ。あるいは「イザナミ」とも。



図説縄文土器3 人面香炉型土器


関東地方の西部から中部地方にかけて、主として縄文・中期に、釣手土器と呼ばれる複雑な形の土器が作られた・この土器は例えば九十一戸もの竪穴住居址から、約四百もの修理復元できた様々な土器を出土している長野県諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡でも、わずか四個しか発見されていないなど、同時期の他の土器に比べて数が極めて少ない。しかも完全かほとんどそれに近い状態で発見されることが多いので、当時の人々に何か特別に貴重な物と見なされて、他の土器よりずっと大切に取り扱われていたらしいことが窺える。(吉田敦彦「縄文の神話」) 

なぜこんな複雑な土器がーー噂によれば5000年も前にーー作られたのだろう。

この土器についてとても美しく書いておられる方がいる。

◆ 秦恭子 「こどもの『死者の書』」2010, pdf

ふくふくと、ふくよかにふくらむからだ。ほうとあどけなく無垢な顔。まるいおだやかな波立ち、水紋の様な肩とうで。小さくあいた口からはまた、ぽこんぽこんとまんまるあぶくの吐息がはかれる。やわらかなおなかに抱いた穴には、夜になるとあたたかな火が宿る。なんとかわいらしい、まどかな女性。円熟のはての幼女のきよさ。彼女を「イザナミ」と呼んだ考古学者たちは、そのすがたについてこんな風に語っている。

《浅い鉢を天蓋状の造形でおおい、片側に大きな窓、反対側には二つの窓や透し孔を設けた、まるで香炉のような土器。通常の土器の概念をこえた形態であり、神聖な火を燈す火器と目される。…略…土器本体が女神の胎内に見立てられる。正面の大きな円窓は、別な土器像によって蛙の背であり、女性の陰部を表すことが知られる。そこから火が発する。》 ( 富士見町井戸尻考古館(2006)『井戸尻第8集』)

この土器はそれ自体が女性の胎内。おなかに抱いた円窓は、新しい生命がかおをだす、まさにその穴なのである。そこに神聖の火が点される。それはすなわち受胎を意味するだろう。あたらしい生命をおなかに宿して、彼女のかおはますます無我へとときはなたれる 。

しかしそのふんわりとやわらかな女性のすがは、裏をかえせばメドゥーサのごとく死のにおいをたたえた恐ろしいがいこつとなる。ゆらめく無数の蛇の髪、からみつき引き込む渦の髪。洞窟のように暗い穴、その両眼に火が燃える。

まるく、まるい、生成のちから。うねり、うねる死のちから。それら背反するイマジネーションは表裏一体の造形をもって、ここにみごとにひとつに成っている 。 「イザナミ」と名づけられた由縁である。

わたしが願っていた表現は、 5 千年まえのひとびとによってすでに完壁なかたちで遺されていたということになる。

ーー詩的であると同時に、実にニーチェ的、あるいはフロイト的叙述である。

「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」(ニーチェ、[Winter 1884 — 85]
メドゥーサの、恐怖を惹き起こす切り首については解釈が試みられてよいだろう。  

首の切断=去勢。…それまで去勢の脅しを信じようとはしなかった少年が女性器を目にすると、それがきっかけとなる。女性器とはおそらく、毛にくまどられた成人のそれであって、結局のところ母親の性器である。  

芸術がメドゥーサの髪の毛を蛇として造形することが多いのは、蛇もまた去勢コンプレックスに由来しているからである。…  メドゥーサの首の光景は観察者を驚愕のあまり凝固させ、石に変えてしまう。…凝固することは勃起を意味し、…観察者にとって慰藉を意味するのだからである。  

メドゥーサの首は女性器の描写を代替し、…ラブレーでも、女にヴァギナギを見せつけられた悪魔は退散している。(フロイト『メドゥーサの首』)

とはいえわたくしが最も感銘をうけたのはメドゥーサの首あるいは蛇ではなく、表題に記したように「有歯膣 Vāgīna dentāta」である。




あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999ーー「神さん」という原超自我
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)




宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………

社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………(カーミル・パーリア「性のペルソナ」)


2017年8月24日木曜日

藤澤寺の餓鬼阿弥

以下、折口信夫のゴシップにちかい「情報」を掲げる。折口信夫の評論のたぐいを一切読んだことがない者のメモである。

このメモは、最近、折口信夫をいくらか読んで、ある種の「感銘」を受けたことにより、どんな方だったのかを(わずかばかりだが、主にネット上で)探ってみた断片である。

たとえば--少し前にも引用したが(参照)--、次のようなことを言う折口はなんとしても素晴らしい。

・自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる

・唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)

感銘を受けたとはいえーーそしてわずかしか折口を読んでないにしろーー、わたくしはどちらかというと折口のような思考(マレビトに代表される)を「脱神秘化」したいというヒネクレタ思いがあるので、彼に徹底的にハマルということは(いまのところ)ありえない、と思っている。

精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 〉La femme》だということである。 ……Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».》( (ラカン、S23、16 Mars 1976ーー玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë

…………

以下、メモである。

柳田國男に出会う以前の折口信夫は、前近代的で生々しい「神憑り」から生まれた神道系の結社と深い関係をもち、しかしながら、「憑依」が明らかにしてくれるその神秘的な体験の諸相を、きわめて近代的な学問の方法、主体と客体の区別を撤廃してしまう「一元論」の哲学や北東アジア諸地域を対象とした比較言語学にして比較神話学の方法を用いて明らかにしようとしていた。(安藤礼二「折口信夫という「謎」」

前(サキ)の世の 我が名は、 人に、な言ひそよ。 藤澤寺の餓鬼阿弥(ガキアミ)は、 我ぞ(釋迢空)

二人とも(正岡子規、折口信夫)生涯独身の借家住まい。身辺のあれこれについて、驚くべき無頓着と淡泊を示す一方、食生活への執着が異様に激しいこと。そしてその執着を隠蔽しようとしなかったこと。実際、両者とも、それぞれが自分が生きた時代の、”知識人” ”学者”としては珍しく、肉・臓物類まで歓び貪る己の口腹の貪婪・希有な大食をその文章において標榜してはばかることがない。さらに問題は、彼らにおけるそのような執着が、あまりにも脂ぎり、あまりにも情けないほどに子供めき、およそ美食・大食の伝統の志向する”洗練された感覚” “卓抜した生活思想”という主題とは無縁なことである。(持田叙子『折口信夫 独身漂流』1999)

父母のみ手はなれて/乞食に堕ちなむ宿世 持ち持ちて/現れ来る人の/相(折口信夫「乞丐相」)

ーー折口信夫は《顔に痣があるがゆえに両親にうとまれていると感じていた》(鎌田東二『宗教と霊性』)そうだ。

この書物、第一巻の校正が、やがてあがる今になつて、ぽっくりと、大阪の長兄が、亡くなつて行つた。さうして今晩は、その通夜である。私は、かん/\とあかるい、而もしめやかな座敷をはづして、ひっそりと、此後づけの文を綴つてゐるのである。夜行汽車の疲れをやすめさせようと言ふ、肝いり衆の心切を無にせまい為、この二階へあがつて来たのであつた。

かうして、死んで了うた後になつて考へると、兄の生涯は、あんまりあぢきなかつた。ある点から見れば、その一半は、私ども五人の兄弟たちの為に、空費して了うた形さへある。

昔から、私の為事には、理会のある方ではなかつた。次兄の助言がなかつたら、意志の弱い私は、やっぱり、家職の医学に向けられて居たに違ひない。或は今頃は、腰の低い町医者として、物思ひもない日々を送つてゐるかも知れなかつた。懐徳堂の歴史を読んで、思はず、ため息をついた事がある。百年も前の大阪町人、その二・三男の文才・学才ある者のなり行きを考へさせられたものである。秋成はかう言ふ、境(ミ)にあはぬ教養を受けたてあひの末路を、はりつけものだと罵つた。そんなあくたいをついた人自身、やはり何ともつかぬ、迷ひ犬の様な生涯を了へたではないか。でも、さう言ふ道を見つけることがあつたら、まだよい。恐らくは、何だか、其暮し方の物足らなさに、無聊な一生を、過すことであつたらうに。養子にやられては戻され、嫁を持たされては、そりのあはぬ家庭に飽く。こんな事ばかりくり返して老い衰へ、兄のかゝりうどになつて、日を送る事だらう。部屋住みのまゝに白髪になつて、かひ性なしのをっさん、と家のをひ・めひには、謗られることであつたらう。(折口信夫「古代研究 追ひ書き」)

…………

(折口の墓は)墓荒らしの跡のような、荒廃した風情。共同体から、何らかの理由で排除された人たちの墓、あるいは共同体の墓所から追放された人たちの墓なのではないか。そう思いました。その有様に緊張していると、その真ん中に、折口と春洋の親子塚がありました。その瞬間、私は、理解したように思ったのです。 折口が、徹底したアウトサイダーだという事を。日本文化の正統にたいして、刃をつきつけ続ける、確信的な反逆者なのだ、と。 巣鴨の染井墓地にある、柳田國男の墓の堂々たる姿と、誠に対象的な墓でした。これほど、一目ですべてが解ってしまう墓もないでしょう。折口は恐ろしい…。 『死者の書』も、『古代感愛集』も恐ろしかったけれど、この墓ほどは怖くない。墓をまごう事なく作品に、自らの存在証明にしてしまっている。少なくとも、その鋭利さにおいては、古代エジプトの王たちや、中国の皇帝たちに勝っているとすら思う。(福田和也『死ぬことを学ぶ』)
この折口ってのは、それまでの国文学の歴史をみんなひっくり返したとんでもない奴で、今どきの学者は折口の仕事の残り滓をあさって辛うじて偉そうな顔をしてるってほどの大学者なんだ。戦前はコカインは非合法じゃなかったから薬局いけば買えたんだ。それでも折口先生は吸いすぎて鼻の粘膜がボロボロになって血を噴いたっていうからね。実際鼻血だらけの原稿用紙が残ってるんだ。

(……)それに少年愛でね、弟子はみんな丸刈りにしてメガネをかけさせていた。それが先生のお好みだったんだな。目星をつけたのには、しつこくしつこく迫って、学問は頭からだけ入るもんじゃないとかいって襲ったり。与太じゃないよ、命からがら逃げた弟子がちゃんと書いているんだから。 (福田和也『人でなし稼業』)

…………

◆室生犀星『我が愛する詩人の伝記』より
堀が女性的であったということは、声もそうだが、からだの肉つきにあぶらがあって、顔はまんまるかった。食べものも、おいもとか、じねんいもとか、卵料理が好きだった。唇は赤く髪も黒かった。病で床の中にいた時分、釈迢空が見舞いに軽井沢から来られる日に、彼は何を遠慮したのか、今日は起きられないと先生に言ってくれ、僕は起きないからと奥さんのたえ子に言った。だってそんなに元気なのにどうしてお会いにならないのですと言うと、訳はいわないで寝たきりだと言ってくれと、会わなかったのだ。たえ子はきっとお会いするのが窮屈なのであろう、それに釈さんとこの前会った後で熱が出たからそういうのであろうと思ったが、私はそこに病人としてのたしなみを見る気がした。折角見舞いに来た尊敬する人の気に反いて、会わないということに堀がその気になったことに、病人のわが儘(まま)のかなしみがあって、はなはだ女性的であると私は思った。僅かにそのような我儘というものの心理は複雑なものであった。釈迢空は堀辰雄に好意をもっていたし、好意は非公式の愛情をも潜めていたものらしい、堀もそれをうすうす知っていたから、おとろえた姿をこの人の眼に見せたくなかったのだろう。(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』)


◆折口信夫「『かげろふの日記』解説」
一人を褒めるのに、も一人をけなすと言ふ行き方は、甚だ不幸な方法で、私などは、其をせぬことにしてゐるのだが、今の場合あまり適切に、一言二言で言ひきつてしまふことが出来るから、さう言ふ見方をさせて貰ふ――のだが、過ぎ去つた芥川龍之介、この人の王朝は、今昔物語式には最的確な王朝物は書いたけれど、源氏・伊勢が代表する平安朝の記録と言ふところには達しなかつた。堀君は心虚しうして書く人だけに、極めておほまかにではあるが、おほまかだけに、王朝貴族の生活のてまを適切に捉へることが出来た。源氏の論文を書いた人の中には、私の尊敬してゐる人々が多いが、その方々にも、堀君の「若菜の巻など」は、是非読んで頂きたいと思つてゐる。其ほど、源氏の学史にとつては、大きな提言をしてゐる。

「伊勢物語など」は、堀君の詩人としての権威を、感じさせる文章である。りるけのどういのの悲歌を引いて、神に似た夭折者を哭し、その魂を鎮めようとする考へ方をひき出して来てゐる。その点は、古代日本人に似てゐるが、又違ふ。西洋人のやうに、其を自分の慰め・救ひとするのではなく、たゞ人の魂を鎮めることにしてゐたと言ふあたり、……併しどちらにしても、此鎮魂的なものが、一切のよい文学の底にあることになる。


◆堀辰雄「伊勢物語など」より
折口先生の説によると、敍景歌といふものは、先づ最初、旅中鎭魂の作であつた。昔、男が旅に出るとき、別れにあたつて、女が自分の魂の半分を分割して與へる。又、男も自分の魂の半分を分離してわが家に留めるものと人々に信ぜられてゐた。旅中、その妻の魂を鎭めてしづかに自分に落ち着かせるやうにと、男はその日に見た旅の景色などを夜毎に詠んだのである。さういふ歌がだんだん萬葉の中頃から獨立して、純粹な敍景そのものの歌となつていつた。しかし、すべての日本の敍景歌の中にはさういふ初期のレクヰエム的要素がほのかに痕を止めてゐるのである。――そのやうにわが國に於ける敍景歌の發生を説かれる折口先生の創見に富んだ説は何んと詩的なものでありませう。僕はこの頃折口先生の説かれるかういふ古い日本人の詩的な生活を知り、何よりも難有い氣がいたしてゐる者であることを、この際一言して置きたいと思ひます。(堀辰雄「伊勢物語など」)



2017年8月23日水曜日

白い股の周りを旋回している蚊

美しい川   平田好輝

水晶が溶けて流れているとしか思えない
そんな水の中に
両手をさし入れて
石をめくる

石の蔭から
小さな魚がこぼれ出る
せいいっぱいにヒラヒラと全身を動かして
溶けた水晶に溶けて行く

幼いわたしは
魚の溶けた水を
蹴散らして歩く

そんなに乱暴に歩いては
魚なんか取れやしない
三つ年上の従姉は
スカートをたくし上げて
白い股を全部見せながら
幼いわたしに文句を言った


ああ、あああ・・・なんという美しい詩だ
蚊居肢とは蚊居股か蚊白股にすべきだった

私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 急いでつけくわえるが、私は七つのときに母を失ったのだ。(……)

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を跳び越えた。(スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)

しかしああ、私がもう一度若がえり
あの娘を抱きしめることができたなら!

But O that I were young again
And held her in my arms!(イエーツ)


素足  谷川俊太郎

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ


2017年8月22日火曜日

女とは「異者としての身体」のこと

《我々にとってマレビトである身体 un corps qui nous est étranger》と記したこと(参照)に異和を言ってくる人がいるので、わたくしが現在とらえているラカンの考え方を出来る限り簡潔に記す。

…………

ラカンにとっての、女とは「異者としての身体」(異物としての身体 corps étranger)のことである。解剖学的な女とは(基本的には)関係がない。

アレンカ・ジュパンチッチは、そのフロイト読解において《厳密な分析的観点からは、実際のところ、一つの性、あるいは一つのセクシャリティしかない》と言っている(Alenka Zupančič、Sexual Difference and Ontology、2012)。

この一つの性に外立するものが、女である(外立 ex-sistenceについては、「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」を参照)。

そして、《精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである》(ラカン、S23、1976ーー神の仮説

またジャック=アラン・ミレール1990年代にすでに次のように言っている。

「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) 

さて、ラカンにおいて《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》という表現は、セミネール23(11 Mai 1976)に出現する(この文の前後は「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を参照)。

別に次のような表現がある。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

この《他の身体 autre corps》が、《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》と等価なものであると明言しているラカン派は、ネット上で調べる範囲ではいない。だがわたくしは等価である、と今のところ判断している。

ところで《異者である身体 un corps qui nous est étranger 》とは、フロイト用語である。

フロイトは1893年にすでにこう記している。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。

das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

この独原文は仏語では次のように訳されている。

le traumatisme psychique et, par la suite, son souvenir, agissent à la manière d'un corps étranger qui, longtemps encore après son irruption, continue à jouer un rôle actif ». (Freud, 1893)


すなわち「異物 Fremdkörper」=「異者としての身体 corps étranger」。
後年フロイトは次のようにも言っている。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

《異物としての症状 Symptom als einen Fremdkörper》とある。これは上に掲げた《他の身体の症状 symptôme d'un autre corps》のことに他ならない、とわたくしは考える。

ラカンにおいて「他の身体」という表現は、次のような形でも使われている。

…次の考え方は正当化される。すなわちこの「他の身体の享楽 jouissance de l'autre corps」を境界づけるもの、ーーそれがたしかに穴をつくる限りでだがーー、そこに我々が見出すものは、不安である。

S'y justifie que, si nous cherchons de quoi peut être bordée cette jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou, ce que nous trouvons c'est l'angoisse.(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

「穴 trou」という表現が出現するが、ラカンは同時期に身体は穴である、とも言っている。

身体は穴である corps……C'est un trou(ラカン、1974、conférence du 30 novembre 1974, Nice

かつまた前年には、穴ウマとも言っている、《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」》(S21、19 Février 1974 )

こうして1893年のフロイト文における《トラウマは異物のように作用する》という表現とまぎれようもなくつながってくる。

したがって《他の身体 autre corps》、《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》とは「穴としての身体」、「トラウマとしての身体」でもある。

これは言語を使用する人間の宿命としてのトラウマである。言語を使用することによって、われわれは身体と切れてしまう。これがラカンにとっての「去勢」である。フロイトの想像的去勢とは異なる象徴的去勢である(参照)。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant

・去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化以外のどの場からも生じない。la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante (ラカン、セミネール17)

ゆえにジャック=アラン・ミレールは、《われわれは皆、トラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(Miller, «Vie de Lacan» , 17 mars 2010)と言うことになる。

以上。

2017年8月21日月曜日

「夜咲きすみれ Nachtviolen」

深更、本を読みながら漫然とBernarda Finkのシューベルトを聴いていた。

突然、閃光が走る、「夜咲きすみれ Nachtviolen」にこんなに美しい箇所があったのか、と。Bernarda Fink; "Nachtviolen"; Franz Schubert(1:38~

少し前に聴いたはずの、Schwarzkopf / Fischerで聴いてみる。たしかに同じくらい美しい。

でもいまはベルナルダ・フィンク Bernarda Finkがいい。なぜ彼女がいいのかはわからない。たぶん惚れた、ということだろう。惚れたということは「彼女のなかに私が書き込まれている」ということだ。

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻である。ある何ものかの徴がつけられることによって、写真はもはや任意のものでなくなる。そのある何ものかが一閃して、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのでる(指向対象が取るに足りないものであっても、それは大して問題ではない)。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

下の二曲は、小学校五年のときに何度もくり返して聴いた(日本人の歌手のレコードで)。当時はシューベルトとシューマンばかり聴いていた。その一年前まではロシア民謡だった。自分から求めた記憶はない。たぶん母が与えてくれたレコード。シューベルトは身体に染みついている。

◆Franz Schubert - 'An den Mond' (D.193) - Bernarda Fink




◆Bernarda Fink sings Schubert's "Du bist die Ruh"







血みどろになつた處

折口信夫は坂口安吾マインドをもっていた人であるのを、今頃知った。作家たちのなかに熱烈な折口ファンがいるのはこういうところに(も)あるのだろうと思う。

・《自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる》

・《唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます》

・鴎外の作品は《現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引き……もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた》

・《あきらめやゆとり(鴎外博士のあそび)や、通人意識・先覺自負などからは、嗜かれる文學が出て來ない》

・漱石の《あの捨て身から生れて來た將來力》

これらの表現が出現する「好惡の論」を以下に引用する。

鴎外と逍遙と、どちらが嗜きで、どちらが嫌ひだ。かうした質問なら、わりに答へ易いのです。でも、稍老境を見かけた私どもの現在では、どちらのよい處も、嗜きになりきれない處も、見え過ぎて來ました。それでやつぱり、かうした簡單な討論の方へ加はれさうもありません。だからまして、廣く大海を探つて一粟をつまみあげろと言つた難題には、二の脚を踏まずには居られません。さあだれが嗜きで誰が嫌ひ。そんな印象も殘さない樣な讀み方で、作品を見續けて來た幾年の後、靜かにふりかへつて見ても、假作・實在の人物の性格や生活に、好惡を考へ分ける事が出來なくなつてゐます。(……)
だが強ひて申さば、自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。

文學上に問題になる生活の價値は、「將來欲」を表現する痛感性の強弱によつてきまるのだと思ひます。概念や主義にも望めず、哲學や標榜などからも出ては參りません。まして、唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。
逍遙博士はまだ生きて居られるので、問題にはしにくいと思ひますが、あの如何にも「生き替り死に變り、憾みを霽らさで……」と言つたしやう懲りもない執著が背景になつて、わりに外面整然としない作物に見失はれがちな、生活表現力を見せてゐます。つまりは、あきらめやゆとり(鴎外博士のあそび)や、通人意識・先覺自負などからは、嗜かれる文學が出て來ないのです。この意味の「嗜かれる」といふことは、よい生活を持ち來す、人間の爲になる文學、及び作者の評言といふ事になるのです。(……)
馬琴の日記を見ても、いやな根性や、じめ/\した、それでゐて思ひあがつた後世觀なども、却て、其文學の背景を色濃くし、性格的必然性を考へさせる樣になつて來ました。小づらにくい小言幸兵衞のもでるの樣な爺さまも、文學者として浮きぼりせられて來たのです。だから生活が知れるといふ事は、作者と作物との關係、生活の將來力と個性の表現傾向などが、長い人生の參考や、暗示や動力になるのです。此點において、私の考へる文學の目的に大なり小なり叶うて來るのです。
文學の目的は、私はかう申します。人間生活の暗示を將來して、普遍化を早める事です。此が、私の考へる文學の普遍性で、同時に、文學價値判斷の目安なのです。だから、結局、日記や傳記によつて、文學作品が註釋せられて、作者の實力が知られると言ふのは、抑文學者として哀れな事で、作品其物に、人間共有の拂ひがたい雲を吸ひよせる樣な、當來の世態の暗示を漂はしてゐる文學でなくてはならないのです。
芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)

折口のいう漱石と鴎外との比較の正否は、それぞれ人が判断したらよい。だが、漱石より鴎外を好んだ作家たちはおおむね、《紳士としての體面を崩さぬ樣》な、《とり紊さぬ賢者として名聲》を希求した人たちだったのではないかと、いま思いを馳せてみるのは、わたくしの場合、三島由紀夫、石川淳、加藤周一の顔を想起することによる(困ったことに、わたくしの最も愛する作家のひとり荷風も鴎外を上に置いたのだが)。

もっともこれらの作家たちーー《作家の手の爪には血が滲んでゐる》(坂口安吾『理想の女』)--彼等の爪に血が滲んでいることが少ないなどと(安易には)いうつもりは毛ほどもない。

ここでは中野重治の簡潔な文を掲げるのみにしておく。

世間には、漱石は通俗であつても鴎外は通俗でないといつたふうな俗見が案外に通用している傾きがある。実地には、漱石や二葉亭はなかなかに通俗ではなかつた。鴎外が案外に通俗であつた。(中野重治「鴎外その側面」)

…………

《血みどろになつた處》という折口の表現に反応してヘーゲルを引用しておこう。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)

折口は《血まみれの頭 blutiger Kopf》の人であったと同時に《白い亡霊 weiße Gestalt》の人でもあった(たとえば『死者の書』)。

だれにでも自己の内部にあるはずのこの「血まみれの頭」と「白い亡霊」、--それを見て見ないふりをして人生を送るべきかどうかは、人の生き方によるだろう。

力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。

精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)

このヘーゲルの二つの文を要約していえば、人は「世界の夜」 に留まり、「血まみれの頭」、「白い幽霊」を見すえなければならない。そのとき初めて精神の偉大な力が生まれる、ということになる。

フロイトはヘーゲルのこの「否定性」ーーゴダールの表現ならポジに対するネガーー、「世界の夜」「血まみれの頭」に相当するものを、「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」(参照)、あるいは「欲動の根 Triebwurzel」「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」(参照)等と呼んだ。

そしたわたくしの考えでは、ニーチェの《わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin》や《メドゥーサの首 Medusenhaupt》も、ヘーゲルの「血まみれの頭」、折口の「血みどろになつた處」と相同的である(参照)。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

2017年8月20日日曜日

不気味な「いとほし」

源氏物語より

・すべて男も女も、わろものはわづかに知れる方の事を残りなく見せ尽くさむと思へるこそいとほしけれ(源氏「帚木」)

・人の上を、難つけ、おとしめざまの事言ふ人をば、いとほしきものにし給へば(「蛍」)

・いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ御方にて、ことにもあらず思し消ちてもてなしたまふなるべし。月も入りぬ。 (「桐壺」)

・宮はいといとほしと思す中にも、男君の御かなしさはすぐれ給ふにやあらん(「少女」)

いとほしと言ふ言葉は、平安朝で有力になつたが、どうも、もとは「嫌だ」と言ふ事らしい。「厭ふ」と言ふ言葉を語根にしてをりまして、それを形容詞に活用させて、いとほしと言ふんだが、どうも、嫌だと言ふ事に使つたのが第一義らしい。

ところが、平安朝の物語になると、このいとほしと言ふ言葉は、後の室町時代になつて盛んに出て来るいとしと言ふ言葉、我々の使つてゐるおいとしいと言ふ言葉、と同じ意味に、多く使つてゐる。つまり、いとほしと言ふ形が、いたはしと言ふ形から影響を受けて、そつちの方に引張られて行つた、つまり、いたむを語根にした言葉に惹かれて行つたのです。それで、同じ時代の言葉でも、いたはしといとほしと、同義語が並んでゐる訣です。

この様に、いたはしと言ふ様な意味に引張られて、いとしと言ふ意味に使はれる一方には、いとはしと言ふ言葉と同じ様に嫌だと言ふ時にも使つてをるのです。けれどもしまひには、だん〳〵時代が進むと言ふと、いとはしい、嫌だと言ふ意味はなくなつてしまつて、第二義の方にずつと這入つて行つてしまふ。

併し、平安朝で見ますと、第一義が嫌だと言ふ意味なのか、第二義か第三義か知りませんが、兎に角、引きずられてゐる言葉、外の方にかぶれて、引きずられて行つた言葉が、いとしいと言ふやうな意味ですから、さうすると同じ言葉であるけれども、さう言ふ風に意味が変つて行くんです。ですから、どうもその間に調和を求めまして、嫌だと言ふ意味と、いとしいと言ふ意味との中間を歩くやうなものが、物語や日記等に沢山出てゐる。

それを我々が今日見ますと言ふと、いとしいとも釈けるし、嫌だ、嫌ひだとも釈けるのですけれども、昔の人はその間の考へ方と言ふものを、見つけてゐたんです。つまり、さう言ふ言葉が使はれてゐる時代が過ぎ去つて、忘れられてしまふと言ふと、もう、さう言ふことは考へられぬのと同じ事です。我々が書物を持たなくても、幸にその言葉の出来た時分に我々が生きてをつたら、さう言つた言葉ははつきりしてをりますね。
………さう言ふ風に、言葉と言ふものはだん〳〵変遷して、このいとほしと言ふ言葉と、いたはしと言ふ言葉とが歩み寄ると、その中間の意味と言ふものが出来て来る。それが今日の我々になると、どう訳して良いか訳すべき言葉がない。ごく、無感興に、訓詁解釈を行ふ人は、いとほしと言ふ言葉は、大抵、いとしいと言ふ意味に訳して、どうも為様のない時にはいとはしと言ふやうな、嫌だ、嫌ひだと言ふやうに訳す。それよりほか方法がなくなつてしまつてゐる。(折口信夫「国語と民俗学」)

ーー折口の見解における「いとほし」は、日本語版の「不気味なもの」であり、その両義性の成り立ちはほとんど相同的ということになる。


・こんな「親しい heimilich」場所を私は今まで見たことがない。(ゲーテ)

・「秘密の heimilich」力なき呪縛を解きうるは、ただ洞察の手あるのみ(ノヴァーリス)

・湖の左手に/牧場は森のなかに 「人眼に触れず heimilich」横たわっている(シラー)

……以上の長い引用のうちでわれわれにとってももっとも興味深いのは、heimlich という語が、その意味の幾様ものニュアンスのうちに、その反対語 unheimlich と一致する一つのニュアンスを示していることである。すなわち親しいもの、気持のいいもの des Heimliche が、気味の悪いもの、秘密のものdes Unheimliche となることがそれである。(フロイト『不気味なもの』1919)

・隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時は、なんでも「不気味な unheimilich」と呼ばれる。(シェリング)

「故郷の、故郷のような思いをさせる、自宅での、家内での」の意からさらに「人の眼に触れない、人の眼から隠されている」の概念が発生し、多様な関係において展開していった。(グリム辞典)

最も「いとほし」ものは、「玄牝の門」であるだろうことは「「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」」に記した。


2017年8月19日土曜日

神の外立 ex-sistence de Dieu

いやあ、きみ!

《コトバとコトバの隙間が神の隠れ家》(谷川俊太郎「おやすみ神たち」) 

ーーなんだから、オトとオトの隙間が神の隠れ家だよ、そんなの決まってるだろ


これが《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》(ラカン、S22)の意味だ。
すなわち《現実界は外立するLe Réel ex-siste》(S22)

現実界とはただ、角を曲がったところで待っているもの、ーー見られず、名づけられず、だがまさに居合わせているものである。(ポール・バーハウ、Beyond gender, 2001)

2017年8月18日金曜日

沈黙と測りあえるほどに

◆スカルラッティ:ソナタ ニ短調K.213 (ピアノ:セルゲイ・カスプロフ)




セルゲイ・カスプロフはすくなくとも若手ナンバーワンピアニストだ、1979年生れだから若手というわけではなく中堅というべきかもしれないが。彼には徹底的な静けさの瞬間がある。わたくしの言い方なら「神」があらわれる。

すこし大袈裟な表現といってもいいさ、惚れたせいでそう感じるのかもしれないと疑うべきなんだろうよ。

なによりもまずスカルラッティのK213を「祈るように」演奏してくれるピアニストが好きなのさ。すこしまえ、Irina Zahharenkova(1976年生れ)のK213の演奏に、ああ、「音、沈黙と測りあえるほどに」と記したことがあるが、この表現はセルゲイ・カスプロフにとっておくべきだった。

いやあほんとに彼は澄んでいる。わたくしが女だったらこういう男に惚れただろう。たぶんジャコメッティの次ぐらいに。



◆Sergey Kasprov - scarlatti, stravinsky




2017年8月17日木曜日

巫女たちの声

神語を以て、なぜ文学の芽生えと見るか。口頭の文章が、一回きりにとほり過ぎる運命から、ある期間の生命を持つ事になるのは、此時を最初とするからである。

われ〳〵の祖先が、其場ぎりに忘れ去る対話としての言語の外に、反復を要する文章の在る事を知るのは、此神語にはじまるのである。神語以外に、永続の価値ある口頭の文章が、存在しなかつたからである。(……)

律語形式が神語の為に択ばれたのではなく、神語なるが為に、律文式発想を採らなくてはならなかつたのである。(……)

わが祖先の用ゐた語にしゞまと言ふのがある。後期王朝に到つては、「無言の行」或は寧「沈黙遊戯」と言つた内容を持つて来てゐる。此語が、ある時期に於て、神の如何にしても人に託言せぬあり様を表したのではあるまいかと思はれる。(折口信夫「「しゞま」から「ことゝひ」へ」)

いやあ折口のいう神語という古代の日本語を読んでも、わたくしの耳には神の声は聞こえてこないね。耳がわるいせいかな……。万葉だっていけない。古事記にはまったくない、というわけでもないが。

どうあっても音楽のほうがいいよ、万葉万葉といってる国学者連中は、たぶん音痴なんだろうよ。


◆Ane Brun Lamento Della Ninfa Amor, Oh Love 2 Meter Sessi




◆Oralia Dominguez - Adagiati, Poppea




神主の厳格な用語例は、主席神職であつて、神の代理とも、象徴ともなる事の出来る者であつた。神主と国造とは、殆ど同じ意義に使はれて居る事も多い位である。村の神の威力を行使する事の出来る者が、君主として、村人に臨んだのである。村の君主の血縁の女、娘・妹・叔母など言ふ類の人々が、国造と国造の神との間に介在して、神意を聞いて、君主の為に、村及び村人の生活を保つ様々の方法を授けた。其高級巫女の下に、多数の采女と言ふ下級巫女が居た。(折口信夫「「しゞま」から「ことゝひ」へ」)

采女と言ふ下級巫女からだって、万葉よりはよっぽど神の声がきこえてくるよ

◆Anne Sofie von Otter, Sandrine Piau, Monteverdi, L'incoronazione di Poppea, "Pur ti miro"






2017年8月16日水曜日

漢字のための言語の怠惰性

このところ国文学者の文をいくらか読んでいるのだが、わたくしはこの領野をずっと敬遠してきた。いまさらながら、この齢になって、ああ、そうなのか、そうだったのか、と驚くことが多く、好奇心で読んでいるというよりも、驚きに促されて読んでいる。まったく未知の領野とさえいっていいので--そもそも万葉集でさえまともに読んだことはないーー、ひどい無知をさらしているはずである。「初山踏み」という言葉さえおこがましいのであって、麓のまわりの様子をうかがっているレベルである。山に登るつもりはいまのところない。

さて前回も引用したが折口信夫の文を先ず再掲しよう。

我々の国語は、漢字の伝来の為に、どれだけ言語の怠惰性能を逞しうしてゐたか知れない程で、決して順当の発達を遂げて来たものではないのである。(折口信夫「古語復活論」)
何と言つても、語が目の支配を受けて、口を閑却すると言ふ事は、正しい事ではありません。(折口信夫「新しい国語教育の方角」)

折口はこういうことで何を言っているのか。

以前、柄谷行人が引用する吉本隆明の文に感心したことがある。

ところで、和歌の韻律は「文字」の問題とどう関係しているのだろうか。国学者は、荷田在満の「国歌八論」以来、音声によって唱われた歌と、書かれた歌の差異を問題にしてきたといえる。本居宣長において、『古事記』の歌謡は唱われたものであり、歌謡の祖形だとみなされた。吉本隆明は、賀茂真淵が指摘したように、それらは祖形であるどころか、すでに“高度”なレベルにあるという。

《いま『祝詞』には、「言ひ排く」、「神直び」、「大直び」という耳なれない語が、おおくみつけられる。はじめに<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>という言葉があった。成文化するとき漢音文字をかりて、「言排」、「神直備」、「大直備」と記した。これが、<言ひ排く>、<神直び>、<大直び>と読みくだされる。この過程は、なんでもないようにみえて、表意、あるいは表音につかわれた漢字の形象によって、最初の律文化がおおきな影響をこうむった一端を象徴している。<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>といえば、すくなくとも『祝詞』の成立した時期までは、あるあらたまった言葉として流布されていた。「なほび」という言葉は、神事、あるいはその場所などにかかわりのある言葉としてあった。<かむ>とか<おほ>とかは尊称をあらわしていた。そのころの和語は、適宜に言葉を重ねてゆけば、かなり自在な意味をもたせることができたとみられる。しかし、これを漢字をかりて「言排」、「神直備」、「大直備」のように表記して、公式な祭式の言葉としたとき、なにか別の意味が、漢字の象形的なイメージ自体からつけ加えられた。これは和語の<聖化>のはじまりであり、<聖化>も律文、韻文化へのひとつの契機と解すれば、ここにすでに歌の発生の萌芽のようなものは、あった。

成句や成文となれば、さらに律化、韻化の契機はふかめられた。語句の配列はそのもので、ひとつの律化だからである。》(「初期歌謡論」)

この注目すべき吉本隆明の考えにしたがえば、歌の発生、あるいは韻律化はそもそも漢字を契機としている。宣長が祖形とみなすような「記」、「紀」の歌謡は、文字を媒介しなければありえないような高度な段階にある。それは音声で唱われたとしても、すでに文字によってのみ可能な構成をもっている。《たぶん、宣長は、<書かれた言葉>と<音声で発せられた言葉>との質的なちがいの認識を欠いていた。すでに書き言葉が存在するところでの音声の言葉と、書き言葉が存在する以前の音声の言葉とは、まったくちがうことを知らなかった》(「初期歌謡論」)(柄谷行人『日本近代文学の起源』)

この吉本隆明の観点は、賀茂真淵以外にも、時枝誠記の次の指摘の文脈のなかにあるだろうと当時は憶測した。

「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、従つて「空蝉の世」は、人生の義より転じて、蝉の脱殻の如き無常空虚の世の義となり、更に「空蝉の殻」のごとき語が生まれるやうになつた。(時枝誠記『国語学原論』)

ところで吉本隆明は、「エクリチュールの概念を折口は西洋より先に発見していた」と言っているそうだ(参照)。吉本がどんな意味で「エクリチュール」という語を使っているのかは知らないが、デリダとバルトのエクリチュールの定義を掲げよう。

いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立会いから分離されたエクリチュールーーーこうしたエクリチュールによる本質的な漂流……(デリダ『署名、出来事、コンテクスト』)
エクリチュールとは個人言語ではなく、ひとつの言表行為であり(言表されたものではなく)、その行為を通して主体は、白いページという舞台の上で、自らを散逸させたり斜めに身を投げたりしながら、みずからの分割を演じてゆく。(ロラン・バルト「答え」、1971)

エクリチュールとは「言表内容」ではなく「言表行為」なのである。とすれば、吉本は時枝というよりも折口を想起しつつ上の文を書いたのかもしれない。

わずかに折口信夫を読んだなかでも上に引用した文以外に、たとえば次のような叙述にめぐりあう。

・おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うた

・鬼と言ふ語は、仏教の羅卒と混同して、牛頭・馬頭の様に想像せられてしまうた。其以前の鬼は、常世神の変態であるのだが、次弟に変化して、初春の鬼は、全く羅卒の如きものと考へられたのである。(「鬼の話」)

われわれ日本語使いは、ひらがなで記してさえ、漢字表象が常に張りついている。折口は《何と言つても、語が目の支配を受けて、口を閑却すると言ふ事は、正しい事ではありません》と強調することによって、それを嫌ったのである。

記銘における兆候性あるいはパラタクシス性は、言語化によって整序されているとはいえ、その底に存在し続けている。それは日本語の会話において音声言語の裏に常に漢字表象が張りついているという高島俊男の指摘に相似的である。想起においても兆候性あるいはパラタクシス性は、影が形に添うごとく付きまとって離れない。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』)

したがって折口は次のようにいう。

(漢字という)この千幾年来の闖入者が、どれだけ国語の自然的発達を妨げたかといふことは、実際文法家・国語学者の概算以上である。漢字の勢力がまだわれ/\の発想法の骨髄まで沁み込んでゐなかつた、平安朝の語彙を見ても、われ/\の祖先が、どれ程緻密に表現する言語を有もつてゐたかは、粗雑な、概括的な発想ほかすることの出来ない、現代の用語に慣された頭からは、想像のつかない程である。(折口信夫「古語復活論」)


2017年8月15日火曜日

なんでも妣宮

いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)

さてわれわれの生の土台が何であるかは証明された。それは、子宮から子宮へである(参照:玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë)。


かつまた我が国の柳田国男や折口信夫が語る「妣の国」「妣が国」もじつは子宮のことではないか、と睨んでいる(二人の思考に追うためにはむしろ避けねばならない漢字の語源ーー《我々の国語は、漢字の伝来の為に、どれだけ言語の怠惰性能を逞しうしてゐたか知れない程で、決して順当の発達を遂げて来たものではないのである》(折口)--その漢字語源に敢えて依拠してしまえば、匕は、妣(女)の原字で、もと、細いすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝を示したものである・・・いやあシツレイ! 折口センセ、《何と言つても、語が目の支配を受けて、口を閑却すると言ふ事は、正しい事ではありません》)。

夙く『釈日本紀』の私註以前から、我々の根国思想は一辺に偏し、彼処を黄泉国よみの国と同じとする解釈は、最近の復古時代までも続いていた。果してそんな事で上代の文献が残らず判るもののごとく思っていたのであろうか。合点の行かぬ話であった。たった一つの著名な例を挙げても、素尊は妣の国へ行くと称して、父の神の指命によって根国へ渡って行き、そこに年久しく住んでおられ、大国主神は後にその国を訪れて、結婚しまた宝物を持ってこられた。是を漢土で黄泉とも呼んでいた冥界のことだと、信じて古人はこの記録を遺したと言えるだろうか。重要な大昔の一つの言葉でも、年を累ね世の中が改まれば、その受け取りかたがいつとなく変ってくると、どうして考えてみることができなかったか。(柳田国男『海上の道』)
過ぎ来た方をふり返る妣が国の考へに関して、別な意味の、常世の国のあくがれが出て来た。ほんとうの異郷趣味(えきぞちしずむ)が、始まるのである。気候がよくて、物資の豊かな、住みよい国を求め〳〵て移らうと言ふ心ばかりが、彼らの生活を善くして行く力の泉であつた。(……)

鰭の広物・鰭の狭物・沖の藻葉・辺の藻葉、尽しても尽きぬわたつみの国は、常世と言ふにふさはしい富みの国土である。曾ては、妣が国として、恋慕の思ひをよせた此国は、現実の悦楽に満ちた楽土として、見かはすばかりに変つて了うた。(折口信夫『妣が国へ・常世へ 』)

わたくしの偏った頭では、これらの記述は、どうしてもフロイトの《誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb》、《母胎内 Mutterleib への回帰》(『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)等を想起せざるをえないのである。

というわけで(?)、以下の図は、「誕生」にも「死」にも「子宮」を代入せねばならない。



安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)


蚊居肢子の年令は、右側の「死=子宮」に近づきつつある。だから「土台」を如実に感じるようになったのである。30代や40代の不幸な連中は、《土台を問題にすることを忘れて》いる。詩人という稀有の例外はある。

死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。(リルケ「ドゥイノの悲歌」)

だが詩人たちでさえ、谷川俊太郎にようにようやく晩年になって「土台」を明瞭に歌うことができるようになる例が多い。


なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ

おれ死にてえのかなあ

ーーーなんでもおまんこ 谷川俊太郎


2017年8月14日月曜日

「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」

以下、前投稿「玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë」における老子の「玄牝之門」と、それにいささか付記的に記したハイデガーの「杣径」に焦点を絞った版である。

…………

ラカンの《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》(S22)とは神が祟ることである。

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)

ハイデガー用語の「Ek-sistenz 外立・脱自」、そしてラカンが頻用した「外立 ex-sistence」とは、一般的には次のように解釈される。

 ”Helle Nacht des Nichts der Angst”(「不安の無の明るい夜」)あるからこそ、”Seiendes ist”(すべてあるものがある)ということができるのである。無に包み込まれた現存在は無を越え出て、存在の明るみに照らされて実存する。ハイデガーは”Ek-sistenz”という言葉を 独自に脱我的実存、存在の明るみに立つという意味で使う。存在者を越え出た存在をハイデガーは超越と名づける。超越には、本来的な、最高の存在の意味がある。最高の存在の真理は人間が祝祭のときに故郷へ帰ってくる(ヘルダーリンの”Wie wenn man am Feiertag kehrt”)と同じように、人間の方へ帰ってきて、輝き出る。(西田幾太郎 -ハイデガーの実存主義と仏教をつなぐ橋- カラディマ・クリスティーナ、pdf)

《最高の存在の真理は人間が祝祭のときに故郷へ帰ってくる》とあるが、これはマレビトが帰ってくるのである。そして《まれびとには、その家の処女か其がなくば、主婦を出して、滞在中は賓客の妻とせねばならなかつた。》(折口信夫『「とこよ」と「まれびと」』)

よく知られているように(?)、フロイトやラカンもマレビトについて語った。

《我々にとってマレビトである身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、セミネール 23、11 Mai 1976)

フロイトの Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部のマレビト étranger である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001, BYOND GENDER)

ラカンは外立以外に外密という語も使ったが、これはほとんど等価である。

親密な外部、この外密 extimitéが「モノ das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

ジャック=アラン・ミレールの注釈では次のようになる。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、マレビトの身体 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)

そもそも外密という語には次のような経緯があるらしい。すなわちムラデン・ドラ―によれば、《フランス語では「不気味なもの Das Unheimliche」は、標準的には「L'inquiétante étrangeté」と訳されてきた。だが不気味なものという語といささか齟齬がある訳のかわりに、ラカンは「外密 extimité」という語を発明した。》(Mladen Dolar,I Shall Be with You on Your Wedding-Night": Lacan and the Uncanny,1991、pdf)。

前回引用したように至高の「不気味なもの」は、フロイトにとって女性器である。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

上にセミネール7の時点での外密の定義を示した。《親密な外部、この外密 extimitéが「モノ das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》。ラカンはこの時期においては、フロイト用語の das Ding は母のことだと言っている、《モノは母である das Ding, qui est la mère 》。

すなわち外密は、女陰の隠喩として捉えうる。もっとも上にみたように後には外密=対象aという。だが、対象aは穴である。《対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel 》(ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

ーー現代ラカン派において穴がどのように解釈されているかは、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を参照のこと。

…………

ハイデッガーは1949年に『道徳経』を翻訳している。彼の『杣径』(1950年)には、老子のパクリと思える箇所がある。

まず『道徳経』から六章と十四章を引こう。

老子「道徳経」

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(第六章)

谷神は不死。之を玄牝(ゲンピン)と謂う。
玄牝の門、是を天地の根と謂う。
緜緜(メンメン)として存する如く、之を用いて不動。

視之不見、名曰微。聴之不聞、名曰希。循之不得、名曰夷。三者不可到詰、故混而爲一。一者、其上不悠、其下不忽。縄縄不可名、復帰於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂惚恍。随之不見其後、迎之不見其首。執今之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。(第十四章)

是れを視れども見えず。名づけて「夷」という。
是れを聴けども、聞こえず。名づけて「希」という。
是れを摶えんとすれども得ず、名づけて「微」という。
此の三者は致詰(ちきつ)すべからず。故に混じて一と為る。

其の上皦(あきら)かならず、其の下昧(くら)からず。縄縄として名づくべからず。無物に復帰す。是れを無状の状と謂う。無物の象、是れを惚恍(こつこう)と謂う。

是れを迎うれどもその首を見ず、是れに随えどもその後を見ず。
古の道を執りて、以って今の有を御す。能く古始を知る、是れを道紀と謂う。

…………

ハイデガーの「外に立つ Ex-sistenz」とは杣径 Holzwege の先の「開け明けた場 Lichtung」で「惚恍」することである。

事実、「外立 Ex-sistenz」の語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である。

◆ハイデガー『杣径』

杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 Holzwege と呼ばれている。

どの杣径も離れた別の経路を走る、しかし同じ森の中に消えてしまう。 しばしば或る杣径が他の杣径と似ているように見える。けれども似ているように見えるだけである。

これらの径の心得があるのは、杣人たちであり森番たちである。杣径を辿り径に迷うとはどういうことであるのか、熟知しているのは彼らなのである。 (ハイデガー『杣径』)

上に記したように、杣径(そまみち Holzwege)とは、 森林の空地 Lichtungに至る森のなかの道である。

存在の開けた明るみ Lichtung の中に立つことを、私は、人間の「外立 Ex-sistenz」と呼ぶ。人間にのみ、こうした存在の仕方が、固有のものとしてそなわっているのである。(ハイデガー『杣径』)

…………

大江健三郎の「森の鞘」も、おそらく老子かハイデガーのパクリであろう。
大江は、森の鞘を通り抜け、森の空地 Lichtung の光のなかで鉈をふるって脱自(外立)する試みを記している。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)
――ギー兄さんと森の鞘で、と青年はいって、アハッとヒステリックな具合に笑った、とオユーサンは不思議そうにつたえたが、鞘は「在」で女子性器の隠語なのである。あんたがヤッテおるのを見たが、ああいう場所でタワケられては、村が困る。あんたからわしに相談したいなら乗らんでもないが…… そうでなければ、今日の晩方から4Hクラブの集まりがあるのやし、そこで仲間の連中みなに話してみなならんが!

オユーサンはよくわからぬ外国語を聞き流すように、立ちどまりもせず頭と日傘をかしげて青年をすりぬけた。しかし二、三歩あるくうちに、一瞬すべてが理解されて、悪寒におそわれるほどの怒りのとりこになった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』P42)

パクリは何も悪いことではない。人生はこのようにパクリで成り立っている。

ラカンも老子を読んだ。

・現実界は外立する Le Réel ex-siste
・神の外立 l'ex-sistence de Dieu
・神とは単に《女 La femme》である(参照

現実界とはファルス秩序(象徴界)の割れ目に外立(エクスタシー・脱自)することにかかわる。ラカンは象徴界の割れ目(非全体pas-tout)にあらわれるものを「女性の享楽」と呼んだ。

ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps …ファルスの彼方の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、セミネール20、20 Février 1973)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
……自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう、(が)私は、女性の享楽を信じている………naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu :je crois à la jouissance de « L femme »(Lacan,S20 février 1973)

ここで我が国の詩人たちの「杣」という語を使った詩文をいくらか抜き出しておこう。

阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみゃく)三菩提(さんぼだい)の仏たち我が立つ杣(そま)に冥加あらせたまへ(新古今、伝教)
おほけなく 憂き世の民に おほふかな  わがたつ杣に すみぞめの袖(百人一首)
………仏者の側で似た例をあげれば、叡山に対しては、八瀬の村がある。此村の祖先も亦「我がたつ杣」の始めに、伝教大師に使はれた鬼の後だと言ふ。(折口信夫「信太妻の話」)
世の譬へにも天生峠は蒼空に雨が降るといふ人の話にも神代から杣が手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは余り樹がなさ過ぎた。 (泉鏡花「高野聖」)

ーーいやあすばらしい。すべて「玄牝の門」と「惚恍」にかかわるのである。好みによってキムスメの陰門か、悪女・熟女の陰門による恍惚かは、おのおの分岐するだろうが。

蚊居肢子の脱自にとって肝腎なのは、人が手を入れぬ森なのではなく樹木のこよなき繁茂である。




もっとも折口信夫の文に、八瀬の村の祖先も亦「我がたつ杣」の始めに云々とあったが、折口は『かげろう日記』解説にて、堀辰雄の日記を引用している。

暫らく誰にもあはずに、山の方に歩いてゐると、突然、上の方から蜜柑を一ぱい詰めた大きな籠を背負つた娘たちが、きやつ〳〵と言ひながら、下りて来るのに驚されたりしました。長いこと、山国の寒く痩せさらばうたやうな冬にばかりなじんで来たせゐか、どうしても僕には、こゝはもう、南国に近いやうに思はれてなりませんでした。(堀辰雄、日記)

山にこもった後であるなら、《蜜柑を一ぱい詰めた大きな籠を背負つた娘たち》にも「脱自」するに決まっている。安吾さえもキムスメの「牝豹の快い弾力」に「惚恍」している。


勿論かうした山中のことで、美人を予期してゐないのが過大な驚異を与へるわけだが、脚絆に手甲のいでたちで、夕靄の山陰からひよいと眼前へ現れてくる女達の身の軽さが、牝豹の快い弾力を彷彿させ、曾て都会の街頭では覚えたことがないやうな新鮮な聯想を与へたりする。牝豹のやうに弾力の深い美貌の女が山から降りてくるのも見ました。また黄昏の靄の中で釣瓶の水を汲んでゐる娘の姿を、自然の生んだ精気のやうな美しさに感じたこともあるのです。また太陽へながしめを送りかねない思ひのする健康な野獣の意志を生き甲斐にした日向の下の女も見ました。その人たちがその各々の美しさで、僕をうつとりさせたのですね。(坂口安吾「木々の精、谷の精」)


最後に福永光司氏による「玄牝之門」の名書き下しを掲げておく。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。
綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ

…………

蛇足ながら、インターネットというのは、こういった記事をマガオで受取られてしまうのを怖れざるをえないので補足しておく。

ラカンにとって「外立」としてあらわれる「女性の享楽」とは性的なものではない。むしろ非性的(a)sexuée なものである。

まずラカンはファルス享楽の彼岸にあらわれるものを身体の享楽、他の享楽といっている。これが女性の享楽である。

ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…「身体の享楽 jouissance du corps」 …ファルスの彼岸の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、セミネール20、20 Février 1973)
非全体 pas toute の起源…それは、「ファルス享楽 jouissance phallique」ではなく「他の享楽 autre jouissance」を隠蔽している。いわゆる「女性の享楽 jouissance dite proprement féminine」を。 …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

そして「女性の享楽」が非性的なものであるのは、ラカンのセミネール20(アンコール)をベースとした、ポール・バーハウの次の簡潔な注釈文を掲げておく。

ファルス享楽 jouissance phalliqueの彼方にある他の享楽 autre jouissance とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。幻想は、性関係の不在の代替物を提供することに失敗する。

身体の享楽とはファルスの彼方にある。しかしながらファルス享楽の内部に外立 ex-sistence する。そして、これは (a)-natomie(対象aの[解剖学的]構造)にかかわる。この(a)-natomie とは、ある痕跡に関係し、肉体的偶然性 contingence corporelle の証拠である。これは遡及的な仕方で起こる。これらの痕跡は、ファルス享楽のなかに外立 ex-sistence する無性的 (a)sexuée な残留物と一緒に、(二次的に)性化されたときにのみ可視的になる。すなわち a から a/− φ への移行。ファルス快楽、とくにファルス快楽の不十分性は、この残留物を表出させる。臨床的に言えば、真理の彼方に(性関係の失敗の彼方に)、現実界は姿を現す。この現実界の残留物ーー享楽する実体ーーは、対象a にある(口唇、肛門、眼差し、声)。(ポール・バーハウ2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)

もうひとつ、ハイデガーとラカンの外立の意味合いは異なる。

ハイデガーの思考の核(のひとつ)は「存在欠如」である。だがある時期以降のラカンの思考の核は「享楽欠如」である。

これも以下の文を引用しておく。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンは最初には「存在欠如 le manque-à-être」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »
主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen、LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF


2017年8月13日日曜日

玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë

人が「私はどこから来たのか」と問えば、子宮あるいは女陰となるのは当たり前である。

そしてどこから来てどこへ行くのか、つまり子宮から墓へ(wombからtombへ)を、子宮から子宮へと考えるのは何の不思議でもない。近代人ではなく、古代人なら、ことさらそう考えていたとさえ推測できる。

「墓」のギリシア語は tumbos 、ラテン語は tumulus であり、「膨れる」という意味がある。tomb は womb の「子宮」と言語的に関連していると捉えうる。

かつまた各個人の「先史」時代ーー前エディプス期ーーを扱う精神分析が、子宮や母に注目するのも、これまた当然である。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

フロイトは死の枕元にあったとされる草稿においては、「子宮回帰」という言葉さえ口に出している。

誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、すなわち睡眠欲動 Schlaftrieb が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内 Mutterleib への回帰である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

こういった叙述以外に、《偉大な母なる神 große Muttergottheit》(『モーセと一神教』1939)とも言っている。

そして、フロイトの偉大なる注釈者ラカンは次のように言った。

大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre という人間のすべての必要性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

「神とは女である」とあるが、言語(象徴)的生き物である人間、その象徴的大他者を支える根源の大他者は、女なのである。

《母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter》(フロイト、1939)としても《父は、母なる神の諸名の一つに過ぎない》(ジャック=アラン・ミレール、2003)のであり、エディプスの父がわれわれの根源ではない。

前期ラカンの表現を使えば、《父なる超自我 Surmoi paternel の背後に母なる超自我 surmoi maternel 》がある。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

この原超自我が、クラインやラカンが再解釈した、フロイトの「偉大な母なる神」である。

※参照

①ラカン派再解釈のフロイト文を含めた文献としては、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ。

②ラカンによるフロイトの死の欲動再解釈においては、タナトスとは永遠の生であるが、それについては「「死の欲動」という「不死の欲動」」を見よ。

…………

以下、古来の問いとして、ここでは、

・老子の「玄牝之門」
・プラトンの「コーラ χώρα」
・古代ギリシャ語における「ゾーエ― Zoë」

この三つに絞って、その母なる神にかかわる叙述を拾う。

最初の二つは、具体的に子宮あるいは女陰にかかわる。
ゾーエ―は直接にはそうではないが、ゾーエーとは、ビオスをもった個体が個体として生まれてくる以前の生命のことである。

ーーもちろん日本においても、たとえば柳田国男や折口信夫による「妣の国」をめぐる思考があるがここでは割愛(そもそも亡き母の意味として使われる「妣(ハハ)」とは、漢字の語源としては「女陰」の意味がある)。


◆玄牝之門

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章)

谷神は不死。之を玄牝(ゲンピン)と謂う。
玄牝の門、是を天地の根と謂う。
緜緜(メンメン)として存する如く、之を用いて不動。


福永光司氏による書き下しでは次の通り。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。
綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ
(老子「玄牝之門」)


※ハイデッガーは1949年に老子の『道徳経』を翻訳している。彼の『杣径 Holzwege(森の道)』(1950年)には、「玄牝之門」の変奏でありうる。

杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 Holzwege と呼ばれている。

どの杣径も離れた別の経路を走る、しかし同じ森の中に消えてしまう。 しばしば或る杣径が他の杣径と似ているように見える。けれども似ているように見えるだけである。

これらの径の心得があるのは、杣人たちであり森番たちである。杣径を辿り径に迷うとはどういうことであるのか、熟知しているのは彼らなのである。 (ハイデガー『杣径』)

この箇所だけでは何ともいえないかもしれないが、『道徳経』十四章にでてくる「是謂惚恍」とは、ハイデガー用語「外に立つ Ex-sistenz」と相似形である。ハイデガーにとって外立とは、杣径 Holzwege の先の「開け明けた場 Lichtung」で「惚恍」することである。

事実、「外立 Ex-sistenz」の語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である。

存在の開けた明るみ Lichtung の中に立つことを、私は、人間の「外立 Ex-sistenz」と呼ぶ。人間にのみ、こうした存在の仕方が、固有のものとしてそなわっているのである。(ハイデガー『杣径』)

※詳述版→ 「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」

ラカンも老子を読んでいる。

・現実界は外立する Le Réel ex-siste
・神の外立 l'ex-sistence de Dieu
・神とは単に《女 La femme》である


◆コーラ(chora)χώρα

プラトン=ティマイオスのコーラについては、中沢新一の注釈を掲げる。

それにしても、宿神=シャグジの空間はプラトンの言う「コーラ chola」というものに、そっくりである。(……)

コーラ chola は「母」である、とプラトン[『ティマイオス』]はいきなり宣言する。そして、それは「父」とも「子」とも関わりのないやり方で、自分の内部に形態波動を生成する能力を持ち、その中からさまざまな物質の純粋形態は生まれてくるのであると…語るのである。(……)

コーラは子宮[マトリックス]であると言われている。同じようにして、宿神もミシャグチも子宮であり、胞衣だと考えられていた。その中には「胎児」が入っ ていて、外界の影響から守られている。つまり、コーラは差異と生成の運動を同一性の影響から守り、宿神は非国家的な身体と思考の示す柔らかな生命を、外界 を支配する国家的な権力の思考から守護する働きをおこなってきたのだ。

こうして私たちは、プラトン哲学の後戸の位置にコーラの概念を発見するのである。この概念は、極東の宿神=シャグジの概念との深い共通性を示してみせるのだが、それはおそらく、かつてこのタイプの存在をめぐる思考が、新石器的文化のきわめて広範囲な地域でおこなわれていたためだろう、と考えるのが自然ではないか。

コー ラという哲学概念のうちに、私たちは神以前のスピリットの活動を感じ取ることができる。西欧ではいずれこのコーラの概念を復活させる運動の中から、現代的なマテリアリズム(唯物論)の思考が生まれ出ることになる。その意味では、マテリアリズム そのものが哲学すべてにとっての「後戸の思考」だと言えるかも知れない。(中沢新一『精霊の王』第十章「多神教的テクノロジー」)



◆ゾーエー Zoë

ゾーエーZoë /ビオス Bios はカール・ケレーニイの注釈を掲げる、《ゾーエーは死を知らない》。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ Karl Kerenyi『ディオニューソス.破壊されざる生の根 Dionysos Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976年)

――いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――(ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 )

ビオスと 死(タナトス)との関係は、一方の死を排除してしまうような対立状態にはない。そうではなく、特徴的な死は特徴的な生の一部なのである。そればかりか、生はみずからの活動を停止する仕方によってさえも特徴づけられる。あるギリシャ語の言い回しは、<独自の死によって生を終える>ことが特徴ある死であると述べて、この点を実に端的に言い表している。それとは逆に、タナトスをしめ出す生がギリシャ語のゾーエーである。

ゾーエーにもし輪郭があるとしてもそれは稀であるが、その代わりにゾーエーは、死すなわちタナトスとことのほか対立的な関係にある。ゾーエーから明瞭に <ひびく>ところのものは< 非=死>である。それは死を自分に近寄せない何ものかである。 (カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根 Dionysos Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976年)


木村敏もゾーエ―/タナトスの区分に注目している。

ビオスというのは個人個人の生、あるいはそれ以外の生物でもそれぞれの個体が生きている生命です。それぞれに個性をもって、その人、その個人独自の生を生きている。人間の場合だったら、生命というよりは「人生」とか「生活」といったほうがいいかもしれません。かけがえのない、その人だけの生だから、これはこの上なく大切なものです。……ビオスには終わりというものがあって、死んだらそれでお終いですから、大切にしなければなりません。

これに対してゾーエーには終わりというものがありません。ケレーニイは、 「ゾーエーは死を知らない」といっています。これは、それぞれの個性的な個人の生が生まれてくる以前の、まだ一切の個別性を知らない、だから有限性も知らない、ビオスとは異次元の「生命の根源」のようなものです。 (木村敏 2008『臨床哲学の知-臨床としての精神病理学のために』 )
わたしがケレーニイから学んだことは、ゾーエーというのはビオスをもった個体が個体として生まれてくる以前の生命だということです。ケレーニイは「ゾーエーは死を知らない」といいますが、そして確かにゾーエーは、有限な生の終わりとしての「死」は知らないわけですが、しかしゾーエー的な生ということをいう場合、わたしたちはそこではまだ生きていないわけですよね。ビオス的な、自己としての個別性を備えた生は、まだ生まれていない。そして私たちが自らのビオスを終えたとき、つまり死んだときには、わたしたちは再びそのゾーエーの状態に帰っていくわけでしょう。

だからわたしは、このゾーエーという、ビオスがそこから生まれてきて、そこに向かって死んでいくような何か、あるいは場所だったら、それを「生」と呼ぼうが「死」と呼ぼうが同じことではないかと思うわけです。ビオス的な個人的生命のほうを「生」と呼びたいのであれば、ゾーエーはむしろ「死」といったほうが正解かもしれない。(同木村敏 2008)


この木村敏=ケレーニーの捉え方はアガンペンの捉え方とはまったく異なる(すくなくとも表層的には)ことに注意しなければならない。

ビオスとゾーエーの対比に関して、ここで少しいっておきたいことがあります。最近しきりに話題にされるイタリアの哲学者でジョルジョ・アガンベンという人がいるのですが、このアガンベンはゾーエーはわたしとはまったく違った意味に解釈しています。(……)

彼[アガンベン]もビオスについては、やはりそれが個々の個性をもった生命、あるいは人生だと考えているのですけれども、ゾーエーのほうは、そういった個性的なビオスがただ単に動物的な意味で生きているというだけ、まだ死んでいないというだけの、つまり「剥き出しの生」の意味で使うのです。 (木村 2008)