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2018年1月30日火曜日

「お嬢さまは今夜はひどくいやらしいことを考えているのね」

前回、「固着ゆえに性関係はない」にて、「性関係はない」の不可能性に対抗するために、口唇享楽や肛門享楽を満足させる方法はまだしも、「父なる眼差しの享楽、母なる声の享楽となるとやや工夫がいる」とふと口に出したが、具体的な例がーー厳密にラカン的とは言い難いがーープルーストにあるのを想起したのでここに引用しておこう。

それは非常に暑い日であった、……水に反映したスレート屋根をもう一度見たくてモンジュ―ヴァンの沼まで行ってしまった私は、木陰に寝ころんで、例の家を見おろす斜面のしげみのなかで眠ってしまった……しかし、ヴァントゥイユ嬢の姿が目についた……(プルースト「スワン家のほうへ」)
ヴァントゥイユ嬢のサロンの奥のマントルピースの上には、彼女の父の小さな写真が置かれていたが、⋯⋯彼女はその写真をとりに行った、それから長椅子に身を投げだし、サイド・テーブルをそばにひきよせ、その上に写真を立てた⋯⋯やがて彼女の女友達がはいってきた。ヴァントゥイユ嬢は立ちあがりもせず、両手を頭のうしろにやったままで女友達をむかえ、相手の席をつくるかのようにソファの反対側に身をひいた⋯⋯⋯女の友へのそんな無作法な、支配者ぶったなれなれしさにもかかわらず、私は彼女の父にそっくりな、あのおもねるような、わざと控え目にした物腰や、にわかに懸念にとらえられるようすを見てとった。やがて彼女は立ちあがると、鎧戸をしめようとしてうまくしめられないというふうを装った。

「あけっぱなしにしといてよ、私暑いの」と女友達がいった。

「だって、いやだわ、私たちが人に見られるから」とヴァントゥイユ嬢が答えた。

……「人に見られるなんてねがってもないことだわ。」

ヴァントゥイユ嬢は身ぶるいした、そして立ち上がった。彼女のびくびくした感じやすい心は、どんな言葉を口に出せば自分の官能の要求する舞台に自然にすらすらとあてはまるかを知らなかった。彼女はできるだけ自分のほんとうの道徳的な性質から遠ざかって、自分が欲望の底でなりたいと思っている悪徳の娘にふさわしい言葉遣を見つけようとつとめたが、悪徳の娘が本気に口にしただろうと彼女に思われる言葉も、自分の口にのせるとなるとそらぞらしくひびくような気がした。⋯⋯⋯

とうとう彼女は、以前に女友達の口からきいた文句を、おそらくそっくりまねて、こういった、「お嬢さまは今夜はひどくいやらしいことを考えているのね」……

「あら! お父さまのあの写真が私たちを見つめているわ、誰がこんなところに置いたのかしら、二十度もいったのに、場所ちがいだって。」⋯⋯⋯この肖像写真は、彼女たちがおこなう儀式である瀆聖に、おそらくいつも役立っていたのだ⋯⋯⋯
彼女は、抗弁しない死者に向ってそれほどまでなさけ容赦をしない人間から、やさしくとりあつかわれることに感じる快楽の魔力に抵抗することができなかった、彼女は女友達のひざにとびのった、そしてあたかも相手の娘になったのも同然のしぐさで、くちづけを求めて純情そのもののようにその額をさしだし、そのようにして彼女は、相手と二人で、墓のなかまで追ってヴァントゥイユ氏からその父親の尊厳をうばいながら、ともどもに残酷の極に突きすすんでいくことを感じて、なんともいえない快さをおぼえた。⋯⋯⋯
ヴァントゥイユ嬢の心のなかでは、悪は、すくなくともその当初にあっては、おそらくそんなにまじりけのない完全な悪ではなかった。彼女のようなサディスムの女は、悪の芸術家であって、根底からわるい人間は、悪の芸術家になりえないであろう、なぜなら、根底からの悪人にあっては、悪は外部のものではなく、まったく自然にそなわったものに思われ、その悪は自分自身と区別さえつかないであろうから、そして、美徳や、死んだ人たちへの追憶や、子としての親への愛情にしても、そんな悪人は、自分がそうしたものに崇拝の念を抱かないであろうから、そうしたものを瀆聖することに冒瀆の快楽を見出すこともないであろう。

ヴァントゥイユ嬢のようなサディスムの人たちは、純然たる感傷家であり、生まれつき美徳の持主なので、そのような人たちにとっては、肉感的な快楽さえも何かわるいものであり、悪人の特権であると思われるのである。そして、そのような人たちが自己の抵抗に屈してひととき肉感的な快楽に身をまかせるとき、彼らは自分で悪人になりきった演技をしようとつとめ、共犯者にもそれをさせようとつとめるのであって、そのようにして、彼らは自分のおどおどした、愛情のこまやかな魂から出て、快楽の非人間的な世界にのがれたという錯覚をひとときもったのである。そして私は、ヴァントゥイユ嬢にとって、悪への脱出に成功することがどんなに不可能であるかを見て、彼女がどんなにそうしたいという欲望をもったかを理解するのであった。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)

⋯⋯⋯⋯

文脈的にはやや異なるが、ドゥルーズからもあわせて。

われわれの愛は、われわれが愛するひとたちによっても、愛しているときの、たちまちに消え去る状態によっても展開されるものではない
Nos amours ne s'expliquent pas par ceux que nous aimons, ni par nos états périssables au moment où nous sommes amoureux. (……)

われわれの愛には、根源的な差異 différence originelle が支配している。それは恐らく母のイメージ image de Mère であり、女性、ヴァントゥイユ嬢にとっては父のイメージである。しかしもっと深いところでは、それはわれわれの経験を越えた遠いイメージ、われわれを超越するテーマ、一種の原型である。それはわれわれが愛するひとたち、そしてわれわれが愛するただひとりのひとにさえ、分散するにはあまりにも豊かなイメージであり、観念であり、あるいは本質である。しかしそれはまたわれわれの連続する愛の中で、また孤立して捉えられたそれぞれのわれわれの愛の中で反復されるものである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)ーーこの文は少し前に引用レンパツしてるが、これももうすこし長く引用しておこう。

《すぐれたひとたち》は彼に何も教えない。ベルゴットやエルスティールさえ、彼に個人的な習得を避けさせ、シーニュと、彼が味わねばならぬ失望とを経由することを免れさせるようないかなる真実をも、彼に伝えることはできない。したがって彼は、すぐれた精神の持主も、立派な友人でさえも、短い愛ほどの価値がないことを非常に早く予感する。しかし、愛においても、それに対応する客観主義的な幻想 illusion を捨て去ることは、彼にとってはすでに困難である。愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在せず、複雑な法則にしたがって彼のうちに具体化される幻影 fantômes・第三身分 Tiers・作文 Thèmes に帰属するものであることを彼に教えるのは、若い娘たちへの集団的な愛であり、アルベルチーヌのゆっくりした個性の形成であり、選択の偶然性である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)


アルベルチーヌの名が出てきたので、こうも引用しておこう。

「まっぴらだわ! むだづかいよ、一スーだって、あんな古くさい夫婦のためなら。それよりも私にはうれしいの、一度だけでも自由にさせてくださるほうが、割ってもらいに行くために pour que j'aille me faire casser le ……」とっさに彼女の顔面は赤くなった、しまったというようすで片手を口にあてた、いま口にしたばかりの言葉、私には一向意味がわからなかった言葉を、口のなかにもどそうとするかのように。「いまどういったの、アルベルチーヌ?」――「いいえ、なんでもないの、私ふらっとねむくなったの。」――「そうじゃない、はっきり目がさめてますよ。」――「ヴェルデュランをむかえての晩餐会のことを考えていたの、あなたからのお申出、とてもありがたいわ。」――「そうじゃなくて、ぼくがきいているのは、さっきあなたがなんといったかですよ。」彼女は何度も言いなおしたを試みたが、どうもぴったりとあてはまらなかった。彼女がいった言葉にあてはまらなかったというのではなくて、彼女がいった言葉は中断され、私にはその意味があいまいだったから、言葉そのものにではなく、むしろその言葉の中断と、それに伴ったとっさの赤面とに、ぴったりとあてはまらないのであった。「いやあ、どうもあなた、そうじゃないな、さっきいおうとした言葉は。でなきゃなぜ途中でやめたの?」

――(……)彼女の釈明は私の理性を満足させなかった。私はしつこく言いたてることをやめなかった。「まあいいから、ともかく元気を出してあなたがいおうとした文句をおわりまでいってごらん、割るcasserとかなんとかでとまってしまったけれど……」――「いやよ! よして!」――「だって、どうして?」--「どうしてって、ひどく品がわるくて、はばかられるんですもの、あなたのまえで口にするのは。よくわからないの、私何を考えていたのか、その言葉の意味もよくわからないくせに、いつだったか、人通りのなかで、ひどく下品な人たちがいっているのを耳にしたそれが口に出たんですの、なぜということもなく。なんの関係もありません、私にも、ほかの誰にも。私寝言をいってたのね。」(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)
多くの場合、相手が変質をきたすのは言語活動を通じてである。あの人がなにか異質の語を口にする、そしてわたしは、あの人の世界が、まったき別の世界の全体が、おそろしげなざわめきを立てるのを聞く。アルベルチーヌが何気なく口にした「壺をこわされる me faire casser le pot」という陳腐な表現に、プルーストの語り手はおぞけをふるっている。というのも、そこに突然あからさまになったのが、女性同士の同性愛という、露骨な漁色のおどろおどろしたゲットーであったからだ。それは、言語活動の鍵穴からのぞかれた場面にほかならない。語とは、猛烈な化学変化を惹き起こす微細物質のようなものである。わたし自身のディスクールというまゆの中で長く抱かれつづけてきたあの人が、今、何気なく洩らした語を通じて、さまざまの言語が借用可能であることを、つまりは第三者から貸し与えられた言語を、聞かせているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「変質altération」の項より 三好郁朗訳)

2018年1月29日月曜日

固着ゆえに性関係はない

以下、固着シリーズ第五弾である。

サントーム Sinthomeと 「一のようなものがある Yadlun」は等価であるのを、「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである」の末尾でみた。

さらにそこでの議論を演繹すれば、「サントーム」=「固着」=「一のようなものがあるYadlun」となる。

ところでこの奇妙な表現、「一のようなものがある Yadlun」とは何か?

ブルース・フィンクによる『ラカンセミネール20(アンコール)』の翻訳者注にはこうある。

Ya d' l'Un は、フランス人の耳にでさえ、すぐに理解しうる表現ではまったくない。しかしその第一の意味は、 「一のようなものがある There's such a thing as One" (or "the One") 」あるいは「一のような何かがある There's something like One" (or "the One")」であるように見える。どちらの場合も、強調されるのは、「もの thing」や量ではない。我々は「一が起こる The One happens」とさえ言いうる。

セミネール19における詳細な議論が、私がいま示した翻訳を正当化してくれる。しかし少なくとも二つのことを簡単に指摘しておかねばならない。すなわち、Y a d' l'Un は「性関係はない II n y a pas de rapport sexuel」と並記されなければならない。そしてラカンは(一の或る量という意味での)「或る一がある there's some One」とは言っていない。というのは、ラカンは「純粋差異」の「一」について語っているから。(ブルース・フィンク、1999)

フィンクが依拠しているのは、次の二文である。

《Yad'lun 》とは《非二 pas deux》であり、それは即座に《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 》と解釈されうる。 (ラカン、S19、17 Mai 1972)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(ラカン、S19,17 Mai 1972)

とはいえ、こう引用しても何のことかはわからない。

そもそも純粋差異の純粋とは何か。ラカンは初期の「精神病」セミネール3で、シニフィアンの「最も形式的側面 aspect le plus formel」を「純粋シニフィアン signifiant pur」としている。

そして1962年の「カントとサド」には、美しい詩的な表現「黒いフェティッシュ」がある。

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir になる。その時空において齎されるものは形式 forme 自体である。(ラカン「カントとサド」E773、Septembre 1962)

同じ時期のセミネール10で、「 黒いフェティッシュfétiche noir」を「純粋対象 pur objet」と言っている。

「一のようなものがある Yadlun」とは「純粋シニフィアン signifiant pur」にかかわるとともに、(至高のフェティシストとしての?)わたくしの考えでは、「黒いフェティッシュ」にかかわるが、これはラカン派注釈者のだれもそんなことを言っているのを見たことがないので、ここでは遠慮してその議論は省く。

さらにラカンの「純粋差異 différence pure」としての「一」は、「永遠回帰の起源としての純粋差異 pure différence」(ドゥルーズ)とほぼ等価と見なしうるが、これもまた記述が煩雑になるのでその議論は外す。

とはいえ「一のようなものがある Yad'lun」概念把握において肝腎なのは、「内的差異 différence interne 」(『プルーストとシーニュ』)であり、「差異の差異化 le différenciant de la différence」(『差異と反復』である。ようするに形式が肝腎であり、「要素」ではないことである。

ここではまずミレールのサントーム(つまり「一のようなものがある」)の定義を再掲しよう。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書か れもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みで ある。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007 所収)

そしてジジェクによる定義を。

・「一のようなものがあるYad'lun 」の「一」はサントーム、一種の「享楽の原子」である。言語と享楽の最小の統合体 synthesis 、享楽を浸透させた諸記号 signs の単位(我々が反復強迫する痙攣のようなもの)である。

・症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、「分割不能な残余」であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態である。

・「一のようなものがある Y a d'l'Un」の「一」は、「二」のハーモニーをかき乱す「現実界の欠片 little piece of the real」、糞便のような残余である。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

こうして、ラカンの《一のようなものがある Y a d' l'Un 》ーー「Il y a de l'Un の短縮形」--の「一」とは、量的な、数としての「一」ではないことがまずわかる。

そして最初に引用したラカン文にあるように、《一のようなものがあるとは、性関係はないと関連している « Il y a de l'un », est corrélatif de « Il n'y a pas de rapport sexuel »》(ミレール、2011)

さらにまた「一のようなものがある」とはフロイトの自体性愛とも関連がある、とのミレールの指摘がある。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。

・身体の自動的享楽 auto-jouissance du corps(自体性愛的享楽・自閉症的享楽)は、「一のようなものがある Yad'lun」と「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel 」の両方に関連づけられる。(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure

このようにして「聖多姆と固着」で追ったミレールの《「一」と「享楽」との接合(つながり)としての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance》を視野に入れるなら、すべての人間には固着(自閉症的自体性愛)があるために、二者の関係はなく(非二 pas deux)、性関係はないということになる。

これは当然のごとく、ファルス享楽の彼岸にある身体の享楽にかかわってくる。

身体の享楽は自閉症的享楽である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013ーー「人はみな妄想する」の彼岸)

とはいえ最晩年のラカンテーゼは「人はみな妄想する」のだから、愛と幻想ーー《幻想的とは妄想的のことである》(ミレール)ーーという妄想に耽って、まがいの性関係に切磋琢磨したらよいのである・・・

幻想とは、象徴界(象徴化)に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)
妄想とは、侵入する享楽に意味とサンス(方向性)を与える試みである。(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、2004)

ーー妄想バンザイ! みなさん妄想にはげみましょう!

もちろんわたくしがこうやってなにやら記しているのも「性関係はない」と「自体性愛」(欲動の現実界)というトラウマの穴ーー「書かれぬことをやめぬもの qui ne cesse pas de ne pas s'écrir」--を塞ぐための「妄想」であり、みなさんのやっていることもすべてそうである。

それぞれの人にとって、妄想(幻想)の種類は異なるだけである。

ラカンは、《芸術(ヒステリー)・宗教(強迫神経症)・科学(妄想)は、人間の昇華の三様式…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science》(S7、1960)としているが、この昇華というのも後期ラカン観点からはすべて「妄想」である。

ーー科学や物理学が「妄想」であるのは、「「遠近法」、あるいは「自然は存在しない」」で見た。そのさわりとしてニーチェを再掲しておこう。

・科学が憩っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)

・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung(ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)

安吾の繰返される口癖に「タカの知れたもの」というのがあるが、ま、人間だれもがタカが知れているのである。

《人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant》とは、「我々はみな精神病的だ」を意味しない。そうではなく《我々の言説(社会的つながり)はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 》(Miller, J.-A., « Clinique ironique », 1993)を意味する。( LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert (2018)

 とはいえ相対的な質のよい妄想と質のわるい妄想があるはずである。では最もよい妄想ーーすなわち現実界の穴に対する防衛ーーは、何か?

芸術家たちーーリルケの《美は恐ろしきものの始まり》に代表されるーーやミレールによれば美である、《美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel》(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)

だが芸術だけではない。科学(人文科学も含む)にも宗教にも、さらには性行為にも日常的なおしゃべりにも、美はあるはずである。たぶん性的なもの、欲動的なものに近づくことが現実界の穴に接近する方法デアロウ・・・

何はともあれ、欲動の固着、すなわちサントーム(原症状)、「一のようなもの」ーーは取り除けないのが、フロイト・ラカン派の結論である。

・精神分析的治療は抑圧を取り除き、裸の「欲動の固着」を露わにする。この諸固着はもはやそれ自体としては変更しえない。

・固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.  Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)

(※バーハウの叙述をいくらか追っていくと、2005年前後以降から、フロイトの「固着」という語は消えてゆき、ラカン用語にのっとって 《享楽の侵入 une irruption de la jouissance》、《刻印 inscription》という表現を多用するようになっている。)

そして、

エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成物に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。(ポール・バーハウ 2009、(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

⋯⋯⋯⋯

ラカンの「性関係はない」とは、性交関係や男女の関係がないという意味ではない、性関係の基盤を支えるものはないという意味である(参照:性関係を基礎づけるものはない il n'y a pas de rapport sexuel)。

「性関係はない」とはむしろ成功した「性行為」関係の後、ことさら明瞭に現れるとラカンは言っている、「性交の成功が構成する失敗 ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel 」と。

女というものが外立しない La femme n'ex-siste La femme pas といっても、女というものが欲望の対象 objet de son désir とならないわけではない。いや、まったく逆であって、そこから結果が生じるのである。

そのおかげで、男は、間違って、ひとりの女に出会いrencontre une femme、その女とともにあらゆることが起こる。つまり、通常、性交の成功が構成する失敗 ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel が起きる。(ラカン、テレヴィジョン、1973)

「性交の成功が構成する失敗」の最も分かりやすい事例なら性行為後の煙草である。

たぶん映画におけるステレオタイプのセックス後の煙草は、それにもかかわらず、ある享楽の欠如を示している。なにかがもっと欲望されている、口唇の快楽が満たされていないのだ。(ブルース・フィンク、Knowledge and Jouissance 、2002)



ーーま、でもこの程度の「性関係はない」ならたいしたことはない。しっかり口唇享楽を満足させる方法ならいくらでもある。ラカンの四区分(口唇以外に、肛門、眼差し、声)があるが、たぶんそれ以外にも嗅覚、触覚、振動覚などの享楽があるだろう。

これらの自閉症的享楽は二者の性関係を使っても満足できる部分もある。ただし父なる眼差しの享楽、母なる声の享楽となるとやや工夫がいるが。

というわけで(?)もう一度くりかえすが、みなさん、しっかり妄想して男女のすばらしい連帯を築き上げましょう!

・ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。

・私たちが本を書くのは、自分の子供に関心を抱いてもらえないからなのだ。見知らぬ世間の人々に訴えるのは、自分の妻に話しても、彼女たちが耳を塞いでしまうからなのである。(クンデラ 『笑いと忘却の書』)

ここで、人は「妄想」によって現実界に介入するべきだ、ミレールも最晩年のラカンも冷笑的で間違っている、と読むことができるジジェクの文を引用しておく。

まず、《「父の名 le Nom‐du‐Père 」とは、「騙されない者は彷徨う les non‐dupes errent」と同じ発音である》(ラカン、S21, 13 Novembre 1973)である。そして「父の名」は、ここまで見てきたように「妄想」の一種である。この前提で以下の文を読もう。

我々は、ミレールの(そして、もし人が後期ラカンのミレール読解を受け入れるならば、ラカンの)、やや粗野な名目論者的対比(象徴界と現実界とのあいだの対比)を問題視すべきである。…

人はラカンの「騙されない者は彷徨う les non‐dupes errent 」のまったく異なった読み方を提示し得る。もし我々が、象徴的見せかけ(仮象)と享楽の現実界とのあいだの対比を元にしたミレールの読解に従うなら、「騙されない者は彷徨う」とは、シニカルで古臭い諺のようなものだ。すなわち我々の価値観、理想、規則等々は、ただ仮象に過ぎないが、それらを侮ることなく、社会組織がばらばらにならないよう、現実のものとして振舞うべきだ、というものだ。

しかし正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は彷徨う」の意味するところは全く反対である。真の錯誤 illusion とは、見せかけ(仮象)を現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に仮象の織物に降格してしまうことが真の錯誤である。

言い換えれば、 彷徨える者たちは、象徴的織物を単に仮象としてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、彷徨える者たちである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

 ーージジェク観点からは、しっかり妄想して愛を育みなさい、愛をバカにしてはイケマセン、バカにする連中こそが「騙されない者は彷徨う」です!ーーということになる。

実際、ミレールはジジェクの批判する立場にますますに傾いていっているように見える。たとえば次の文は、最も鮮明にそれが現れている。

すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的紐帯 lien social の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性関係の不在という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

なにはともあれ、かつての師弟とのあいだの(ジジェクは2004年時点でさえ、「私のラカンはミレールのラカンだ」と言っている)、そして臨床的ラカン派の第一人者ミレールと哲学的・政治的ラカン派のーー、敢えて言おう第一人者ジジェクとのあいだの相反する見解に戸惑ってはナリマセン!

ミレールかジジェクかの〈あれかこれか〉を選択することが重要デハナイノデス。これは、「私は何を知りうるか」、「私は何をなすべきか」というカント的「理性判断」と「実践判断」とのあいだの差異といってもいい、人にはこの判断のあいだのパララックス(視差)が必要ナノデス

もしここでの記述に苛立つのなら、それはあなたが「不確実性の知恵」をもっていない「無能者」ノセイデス

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 )

⋯⋯⋯⋯

※付記

フロイトの自体性愛の記述をひとつ付記しておく。

愛Liebeは欲動興奮(欲動の蠢きTriebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch であるが、その後、拡大された自我に合体された対象へと移行し、さらには自我のほうから快源泉 Lustquellen となるような対象を求める運動の努力によって表現されることになる。愛はのちの性欲動 Sexualtriebe の活動と密接に結びついており、性欲動の統合が完成すると性的努力Sexualstrebung の全体と一致するようになる。

愛するということの前段階は、暫定的には性的目標 Sexualziele としてあらわれるが、一方、性欲動のほうも複雑な発達経過をたどる。すなわち、その発達の最初に認められるのが、合体 Einverleiben ないし「可愛くて食べてしまいたいということ Fressen」である。これも一種の愛であり、対象の分離存在を止揚することと一致し、アンビヴァレンツと命名されうるものである。より高度の、前性器的なサディズム的肛門体制の段階では、対象にたいする努力は、対象への加害または対象の抹殺といった、手段をえらばぬ占有衝迫Bemächtigungsdranges という形で登場する。愛のこのような形式とその前段階は、憎しみ Haß の対象にたいして、愛がとる態度とほんど区別しがたいものである。そして性器的体制の出現とともに、はじめて愛は、憎しみの対立物になる。(フロイト『欲動とその運命』)


2018年1月28日日曜日

愛のむきだし




いやあ、ツルみたいな少女がいるよ
次男がトトロの合唱をYouTubeで眺めているのをみて瞠目しちゃったよ。
こういう少女をみると、心がキヨくなってしまうな

すこしまえチェリストの乙女にうっとりしたところだけどさ



チェリストの若い女性ってのは、とってもセクシーだ、
股をひらいて「女体」をかかえ「子宮」を響かせているわけで。

しかもひょとしてデュ・プレの「素質」がかすかにでもありはしないか
などと思いを馳せてみる楽しみだってある・・・

ジャクリーヌ・デュ・プレにおける無条件の至上命令、彼女の欲動、その絶対的情熱は、自らの芸術だった…。芸術を無条件に委任された愛の生活へと昇華させることは、究極的にどれもこれも代役しうる男たちとの出会いのセリエへと導く。善と悪の表裏一体ーー、デュ・プレは、「男喰い man eater」と報告されている。…不思議なことではない、デュ・プレの長い悲劇的な病(1973年から1987年までの多発性硬化症)は、彼女の母によって「現実界の応答 réponse du réel」、つまり神の罰として感受されたことは。それは彼女の無差別な性生活のためだけではなく、芸術への「過剰な」コミットメントのために。(「KANT AND SADE: THE IDEAL COUPLE」(SLAVOJ ZIZEK.)

いまさらだが世界には美しい女たちがいっぱいいるよ
でも女たちってのは、遠くからのぞいたときが一番美しいのは確かだな




園子温はボクの故郷の隣町の出身で
10代の頃は詩を書きまくっていたらしい
ボクの三学年下だけだからどこかで会ってたかも
きっと根はとっても純な男だよ

あの大きな稲荷のある町ってのは懐かしいね
園子温の使うような少女たちがいっぱいいたな
あの町は神のタタリのせいでひどいスケベ女が育つんじゃないだろうか

ボクはひどくウブなほうなので
シリコン製のウネウネ蠢くヤツを使うようになったのは
ようやく35才のときだけど
当時3人に使ったなかで2人はあの町の女だった
1人は証券会社勤めの女ざかり
1人はデパート最上階のうどん屋でバイトする高校出たて

うどん屋の娘は
美容師見習イノ彼氏ハ
週ニ一回シカ会ッテクレナクテ
軀ガモタナイワ、
とオッシャッテイタ

こっちだって軀がもたない
仕方なしにコケシ使用となる
すると潮吹きを顔に浴びてビックリギョウテン

貴君たちも潮吹をはやいとこ体験して
女体の神秘につくづく感じ入ったほうがいいぜ


2018年1月27日土曜日

ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである

「固着」シリーズ第四弾である。

このところ記そうとしているのは、曖昧なまま流通しているサントーム概念の脱神秘化の試みである。

後期ラカンの核心概念「サントーム」の、二種類ある意味のひとつは、フロイトの「固着」と等価であるのを「聖多姆と固着」で示した。

なによりも先ず、身体の出来事が、ラカンによるサントームである。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, L'être et l'un、XI . l’outrepasse、2011)  

ーーこれは、フロイトの《幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある》(『精神分析入門』)とほぼ等価な意味合いをもつ簡潔な「翻訳」である。

サントームのもうひとつの意味は、父の名、あるいは「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」以降のラカンの「クッションの綴じ目 point de capiton」である。

最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームと定義される défini le Nom-du-Père comme un sinthome(ミレール、2013、L'Autre sans Autre、PDF
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎない。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”2008)

神秘的に語られすぎる「女性の享楽」も実際は、サントーム、つまりフロイトの固着にかかわる。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、PDF

⋯⋯⋯⋯

以下は、この固着シリーズの一環として、以下のジャック=アラン・ミレールの発言をめぐる当面の資料列挙である。

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure

さてフロイトを引用してみる。

◆フロイト、1940年
生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の 対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着 Fixierung der Libido an bestimmte Objekte と対照的である。リビドーの固着は生涯を通して、しつこく持続する。 (⋯⋯)

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)


◆フロイト、1916-1917年
・どの固有の欲動志向(性的志向 Sexualstrebung)においても、その或る部分は発達の、よ り初期の段階に置き残される(居残るzurückgeblieben)。他の部分が目的地に到達することがあってさえ。

・より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着 Fixierung、欲動の固着と呼ばれるものである。(フロイト『精神分析入門』第22 講、私訳)

フロイトは比喩による説明もしている。

人類の歴史の初期にはしばしば起こったことだが、全住民が居住地を立ち去って新しい場 所を探し求めるとき、我々が確かめうるのは、彼らのすべてが新しい土地に到着しなかったことである。他の喪失はさておき、小さな集団あるいは移住民の一群は、途中で立ち止まり、 その場所に定住する。一方で本体の集団は新しい土地に向かってさらに前に進んで行く。 (『精神分析入門』第22 講、私訳)

第23 講には次のようにある。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917


◆フロイト、1937-1939

第一に、神経症の起源は、必ず幼児期における最初期の印象に戻る。第二に、これはトラウマ的なものとして識別される。なぜなら、ひとつあるいはそれ以上の強烈な印象に間違いなく戻るために、通常の仕方では取り扱えない影響をもつから。…

このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1937-39、私訳)
トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。…

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すな わち忘れられた経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。…

(このトラウマを扱う)ポジ面の試みは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma、反復 強迫 Wiederholungszwang の名のもとに要約しうる。…これは動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge と呼びうる。…

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。 我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、制止 Hemmungen と恐怖症Phobien に収斂しうる。(フ ロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1937-39)


固着にかかわる置き残り(居残り)とは、フロイトの別の表現なら「残存現象」である。

◆フロイト、1937

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

フロイトは《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》としているが、この残存現象として居残った対象aが、欲動の蠢きの遺留物であり、始末に負えない「異物」としての機能を果たす。

ーーラカンの女とは、「異物としての身体」のことである(参照:ひとりの女とは何か?

そしてラカンのセミネール23にある《文字対象a (lettre petit a)》という表現が、この残存現象に相当するとわたくしは考える。

その意味では、中期ラカンにもすでにある。

この(a) 、小さな(a) は、大他者の場処への主体の生誕のこの全作用のなかで還元されえないままであるものである。そしてそこから、その機能を果たすようになる。c'est (a) : petit(a) est ce qui reste d'irréductible dans cette opération totale d'avènement du sujet au lieu de l'Autre, et c'est de là qu'il va prendre sa fonction (ラカン、S10、6 Mars l963)

どんな機能かといえば、この《欲動の蠢きは刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけ》(S10)であり、究極的には原マゾヒズムと合流する(参照:真珠貝と砂粒

これがフロイト曰くの、残存現象としての《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》 のことであるだろう。

さらに原防衛にかかわる固着の叙述をも掲げておく。

もちろん人間はだれでもすべての可能な防衛機制 Mechanismen nicht aufgelassen を利用するわけではなく、それらの中のいくつかを選ぶのであるが、その選ばれた防衛機制は、自我の中に固着 fixierenし、その性格の規則的反応様式 regelmäßige Reaktionsweisenとなって、その人の生涯を通じて、幼児期の最初の困難な状況に類似した状況が再現されるたびに反復される。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

何に対して防衛するのか。原トラウマに対しての防衛である。だが完全には防衛しきれない(参照:人はみな外傷神経症である)。

ここで、このところ繰返して引用しているが、1999年時点での限りなくすぐれた注釈をやはり再掲しておこう。

我々の見解では、境界シニフィアンの手段による「原防衛」は、フロイトが後年、「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは、先ずなによりも「原固着」として現れるものである。原固着、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野外に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(ポール・バーハウPAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?,1999)


そもそも後期ラカンを読解するミレールの考え方においては、《我々の言説(社会的つながり)はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel 》(Miller, J.-A., « Clinique ironique », 1993)である(参照:「人はみな妄想する」の彼岸

社会的つながりとは欲動(享楽)の審級ではなく、欲望の審級にあるものである。

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance. (ラカン、E825)

⋯⋯⋯⋯

フロイトの固着、原抑圧概念があらわれた最初期の叙述もふたつばかり引用しておこう。

◆フロイト、1911
「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後の抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗・侵入・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 私訳)

◆フロイト、1915
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。(フロイト 『抑圧』1915 年)

※ララングとサントームのかかわりーー《サントームは、母の舌語(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle》(Geneviève Morel 2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)ーー、つまりフロイトの固着とのかかわりについては、ここでは記述から外した(参照:ララング定義集)。

⋯⋯⋯⋯

※付記

松本卓也氏による、ミレール起源の「Le signifiant tout seul ひとつきりのシニフィアン」も、結局、フロイトの固着にかかわる(別に投稿しようと思ったがここでいくらかの資料を掲げておくだけにする)。

「サントーム le Sinthome」……それは 「一のようなものがある Yadlun」と等価である(ジャック=アラン・ミレール2011, XIV. le point de capiton de Montpellier / tripartition de consistances cliniques

このY'a d'l'Unが「Le signifiant tout seul 」である。

そして「この一のようなものがあるY'a d'l'Un」ーー「Il y a de l'Un の短縮形」ーーを、わたくしは次の文とともに読む。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

そう読むのは、Hélène Bonnaudの注釈に依拠する。

ラカンがサントーム sinthome を「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーー シニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返し réel essentiel l'itération」を放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération において、自ら反復するse répèteのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。 「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの大他者とは、身体である。すなわちシニフィアンの彼岸には、身体と享楽がある il y a le corps et sa jouissance。 (Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaud、2012-2013, PDF

松本卓也の『人はみな妄想する』から、「ひとつきりのシニフィアン」をめぐる、おそらく核心箇所を掲げておこう。わたくしはこの書が手元になく未読のため、「偽日記」からの孫引用である。

…自閉症者がもちいる常同的・反復的なシニフィアンは、原初的な言語であるララング(=自体性愛的な享楽をまとったトラウマ的なシニフィアン)そのものを私たちに呈示していると考えられる。自閉症者は、いわばララング(S₁)というトラウマ的なシニフィアンに出会い、それ以降、言語(S₂=知)を獲得しないことを自ら選択し、ララングの場所に立ち止った子供たちである。
⋯⋯⋯逆方向の解釈によって取り出されるのは、他の誰とも異なる、それぞれの主体に固有の享楽のモード、すなわち、「ひとつきりの<一者>」と呼ばれる孤立した享楽のあり方である。精神病の術語をもちいれば、それは他のシニフィアンS₂から隔絶された、「ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象であり、自閉症の用語をもちいれば、それはララング(S₁)を他のシニフィアン(S₂)に連鎖させることなくララング(S₁)のまま中毒的に反復する事に相当するだろう。いずれの場合でも、そこで取り出されているのは無意味のシニフィアンであり、そこに刻まれている各主体の享楽のモードである。ミレールがいうように、現代ラカン派にとって、「症状を読む」こととは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならないのである。(松本卓也『人はみな妄想する』)




2018年1月26日金曜日

人はみな外傷神経症である

欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)

⋯⋯⋯⋯

さて原固着(原抑圧)をめぐる第三弾である。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ2001, BEYOND GENDER From subject to drive by Paul Verhaeghe) 

ーー「置き残す」をめぐっては、「聖多姆と固着」に比較的詳しく記述した。

このポール・バーハウによる、ラカンの現実界=フロイトの原抑圧を受け入れるなら、原抑圧概念がほとんど蔑ろにされている現在(参照)、ラカンの現実界はなんのことだか分からない、ということになる。

だがもちろんそれは、バーハウの命題が正しいならば、ということである。

まずラカンの現実界の定義をふたつ掲げる。

現実界は、同化不能 inassimilable(表象不能)の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964 )
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


⋯⋯⋯⋯

冒頭に引用したように、フロイトの欲動は「身体的なもの」と「心的なもの」とのあいだの境界概念である。そして《欲動における境界、それは決して全的には越境されない。何かが境界の背後に置き残され、その境界の背後からしつこく作用する 》(同バーハウ 2001)

ラカン用語で言えば、「全的には越境不能」とは、現実界の何ものかを覆うことの象徴界の失敗である。これを、初期フロイトは「翻訳の失敗 Versagung der Übersetzung」と呼んでいる。

翻訳の失敗、これが臨床的に抑圧(放逐)と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.»   (Brief an Fliess). (フリース書簡、1896)

フロイト理論においては、快原理は「言語表象 Wortvorstellungen」内部ーーラカンの「シニフィアン」内部・象徴界内部--で作用する。

言語表象内部とは、フロイトが「自由に運動するエネルギー」(一次過程)に対する「拘束されたエネルギー」(二次過程)という形で表現していることでもある。

欲動の蠢きTriebregungenは一次過程に従う…。一次過程 Primärvorgang をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程 Sekundärvorgang を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価としうる。…

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

⋯⋯⋯⋯

ここで最近のジャック=アラン・ミレールの命題を掲げる。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010
妄想は象徴的なものであるである。⋯⋯私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。…

ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)

――《妄想とは、侵入する享楽に意味とサンス(方向性)を与える試みである。》(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、2004)

「一」と「享楽」との接合としての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance。⋯⋯

「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながり)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, (L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller

⋯⋯⋯⋯

最後に、ジジェクなどの哲学的ラカン派組のあいだでは評判高い、リチャード・ブースビーの『哲学者としてのフロイト、ラカン後のメタ心理学』から引用する。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当て」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分離」 である。

つねに残余・回収不能の残余がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の骨組みへ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)


ーー「代理表象されない過剰」という表現があるのでバディウの現実界の定義を掲げておこう。

彷徨える過剰は存在の現実界である。L’excès errant est le réel de l’être.(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ])

さらにドゥルーズの「原抑圧」を。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

ドゥルーズは次のように記すことによって、原抑圧は抑圧ではないことに気付いていた(原抑圧とは原固着である)。

……そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉un refoulement dit « primaire » と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)


いずれにせよ、現実界(あるいは享楽の現実界)を考える上でのなによりも核心は、「原抑圧」概念である。

原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識 System Bewußt (Bw)・システム前意識System Vorbewußt (Vbw)」 と「システム無意識System Unbewußt (Ubw)」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
……ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が「全てではない pastout 」ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(同ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

上にあるようにジジェクは原抑圧の形式的側面を記しているが、中井久夫が「幼児型記憶のシステム」の残存を語るとき、意図してか否かは別にして、原抑圧(原固着)の形式的側面を指摘しているのである。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P.53)

ーーおそらく意図してであろう、すくなくとも「異物」とはフロイトのトラウマにかかわる用語である(参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))。


さて、ミレールの「人はみなトラウマ化されている」とは、フロイト用語で言ってしまえば、人はみな外傷神経症である、といいうる(参照:女性の享楽とトラウマ神経症)。

もちろんここでの「外傷」とは、バーハウ表現を使えば、「構造的トラウマ」のことである。

我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、構造的トラウマ(性的ー欲動的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(ポール・バーハウ、1998, Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN)

⋯⋯⋯⋯

※付記

記しているうちに、ついうっかりと「人はみな外傷神経症である」などと口走ってしまったので、フロイトのトラウマあるいは外傷神経症の定義を掲げておかねばならない。

外傷神経症は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式のアタック hysteriforme Anfälle がおこる。このアタックによって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事を我々は見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年、私訳)
経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit をトラウマ的 traumatische 状況と呼ぶ。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


そして後に「事故的トラウマ」の寄る辺なさに遭遇すれば、原初の「構造的トラウマ」が蘇る傾向がある。

現在の(寄る辺なき)状況がむかしに経験した外傷的状況を思い出させる die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

災害発生時(地震や津波など)にエロス的心情(「絆」等)が生れるのは、原トラウマにかかわる「愛されたいという要求」のせいである(表層的に先ず現れるのは愛することかもしれない。だが《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)

天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。(……)

このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)

とはいえ日本においてエロス的心情が生まれるのは一時的な現象であり、全般としてはーー平和が続いているわけでーー、タナトスの国であるだろう。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性(タナトス)は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯(エロス)ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境である。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014)

ーー《 エロスの力は取り戻さなければまずいんです。社会の存亡にかかわるんです。少なくとも、 エロスがなくなれば小説はなくなり、文学がなくなる。》(古井由吉『人生の色気』)

そろそろ関東大震災か、経済破綻があるにきまってるから、エロスはきっと復活スルハズデス、ご安心を!

⋯⋯⋯⋯

※追記

なおフロイトが「神経症」と言うとき、二種類あることに注意しなくてはならない。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)

ーー精神神経症/現勢神経症とは、ラカン的には象徴界の症状/現実界の症状である。そして外傷神経症とは、現実界の症状の範疇にある。

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926)
一般的に言えば、精神神経症の症状 psychoneurotischen Symptomsの核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露 somatischen Sexualäußerung から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912)

 ※詳細は、「女性の享楽と現勢神経症」を参照


2018年1月25日木曜日

聖多姆と固着

前回の「女の置き残し」に引き続き、フロイトの「固着 Fixierung」概念をめぐる。

⋯⋯⋯⋯

第一に、神経症の起源は、必ず幼児期における最初期の印象に戻る。第二に、これはトラウマ的なものとして識別される。なぜなら、ひとつあるいはそれ以上の強烈な印象に間違いなく戻るために、通常の仕方では取り扱えない影響をもつから。…

このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1937-39、私訳)

まずこの文は、「「人はみな妄想する」の彼岸」で引用した次の文とともに読んでみたい。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010

そしてフロイトが「神経症」と書くとき、現勢神経症と精神神経症の両方を想起しなければならない。一般に語られる神経症とは、精神神経症であるが、神経症の起源は現勢神経症であり、ラカンの症状の核(サントーム)、身体の享楽(女性の享楽)に近似した概念である(参照:女性の享楽と現勢神経症)。

…現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)

さて『モーセと一神教』に戻る。

トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。…

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘れられた経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erlebenことである。…

(このトラウマを扱う)ポジ面の試みは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma、反復強迫 Wiederholungszwang の名のもとに要約しうる。…これは動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzügeと呼びうる。…

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、制止 Hemmungenと恐怖症Phobienに収斂しうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1937-39)

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」とは、ラカン用語で言えば、前回見たように穴への固着である。すなわち、穴 trou → 穴ウマ troumatisme =トラウマへの固着。

穴とはȺとも書かれ、その穴の名(シニフィアン)が、S(Ⱥ)であり、これはまた原抑圧のシニフィアン、サントームである。サントーム sinthome とは原症状であり、まさにフロイトが言っているように「動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge」である。

「動かしえない個性の徴」とは、『夢判断』(1900年)でフロイトが記した「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」「夢の臍 Nabel des Traums」「菌糸体 mycelium」のことでもあり、『終りある分析と終りなき分析』(1937年)」で記した「欲動の根Triebwurzel」のことでもある(中期フロイトは別に、「真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle」とも呼んでいる)。

さらに死の枕元にあったとされる草稿からも引用してみよう。

生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着 Fixierung der Libido an bestimmte Objekte と対照的である。リビドーの固着は生涯を通して、しつこく持続する。…

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weibとして存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

誰もが母へのエロス的固着の残余がーーその多寡はあれーー残っているはずであり、このため、人は女への従属の人生を送るのである。それは男女ともにそうであるだろう。

定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

たとえば、ニーチェの《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。》(『ツァラトゥストラ』)。

人はこの文を次のように変奏してみるべきである。

ーー男は、女の穴に引きつけられる。女は、自らの穴で男を引きつける。

究極の母とは原穴の名である。そして「すべての女に母の影は落ちている」(バーハウ、1998)

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネールーー「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」)

⋯⋯⋯⋯

さてここで固着とサントームのかかわりについてみてみよう。

ジャック=アラン・ミレールによる2011年のセミネールからである(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller、IX. Direction de la cure // de l’en-deçà du refoulé à un au-delà de la passe- 30 mars 2011)。

「一」と「享楽」との接合としての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance。⋯⋯⋯

「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながり)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, L'être et l'un)

ミレールはほぼフロイトの原抑圧ー固着の記述に則って語っている。フロイト自身の文は、 「原抑圧 Urverdrängung とはサントーム sinthome のことである」に引用がある。

そしてこの発言の少し前に語られた次の文を並べてみる。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

こうして後期ラカンの核心的概念「サントーム」は、ラカン主流派の解釈においては、フロイトの「固着」と等価であることが判然とする。

ラカンのサントーム Sinthomeは(ネット上で検索すると)中国語では「聖多姆」と訳されこともあるようだ(姆とは「女+母」で、母がわり、または母になぞらえて接する年上の女性のことである)。

おそらく「聖多姆」とは「母なるものへの固着」「女なるものへの固着」と言い換えてもよいだろう。『モーセと一神教』にある表現を使えば、「偉大な母なる神 große Muttergotthei」 への固着である(実は「母」が肝腎なのではない。乳幼児の誰もが遭遇する最初の「大他者」が肝腎である)。

ラカンの次の文は、フロイトの「偉大な母なる神 große Muttergotthei」 、その原穴の名への固着を念頭にして読むべきである。

⋯一般的に人が神と呼ぶもの。だが精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。

on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme »(ラカン、S23、16 Mars 1976)

ここで前回、1999年という早い段階でなされた核心的な解釈とした文を再掲しよう。

原抑圧とは、先ずなによ原固着である、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野の外部(身体的なもの)に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。(ポール・バーハウ1999,DOES THE WOMAN EXIST?,1999ーー「女の置き残し」)

最後にやや飛躍して言ってしまえば、このようにしてすべては、「アリアドネのたたり」に収斂するのである。

⋯⋯⋯⋯

※付記

ニーチェの「女主人」のたたりだけではなく、「薬物中毒と「他の享楽 autre jouissance」」で記したが、安吾のように薬物によって原固着へと退行してしまえば、オッカサマのたたりは覿面である(ニーチェも安吾もファルス秩序の鎧を取り払おうとした作家である)。

十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。  

「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった(坂口三千代「クラクラ日記」)

前回引用した文をふくめてもう少し詳しく引用すれば、薬物によって(ファルスの彼岸にある)「他の享楽(女性の享楽)」との遭遇とは、欲動の固着点との遭遇ということである。

人類の歴史の初期にはしばしば起こったことだが、全住民が居住地を立ち去って新しい場所を探し求めるとき、我々が確かめうるのは、彼らのすべてが新しい土地に到着しなかったことである。他の喪失はさておき、小さな集団あるいは移住民の一群は、途中で立ち止まり、その場所に定住する。一方で本体の集団は新しい土地に向かってさらに前に進んで行く。(フロイト『精神分析入門』第22講、私訳)

ーーこれはフロイトが「固着」を説明するなかで比喩を使って語った文である。

・どの固有の欲動志向(性的志向 Sexualstrebung)においても、その或る部分は発達の、より初期の段階に置き残される(居残るzurückgeblieben)。他の部分が目的地に到達することがあってさえ。

・より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着Fixierung、欲動の固着と呼ばれるものである。(同『精神分析入門』第22講、私訳)

第23講には次のようにある。

・リビドーは、固着Fixierungによって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残すzurückgelassenのである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917

ーー独語にはまったく疎いのだが、英訳では次のようになっている語をすべて「置き残す」と訳した。

zurückgeblieben    stay behind  居残る
Verbleiben    lag behind   遅れをとる
hinterlassen     leave behind 置き去りにする


2018年1月24日水曜日

女の置き残し

「原抑圧」をめぐって最近の日本ラカン派臨床家はどんなことを言っているのかと、すこし探ってみるとーーわたくしは海外住まいであり基本的には日本語の最近の文献を読んでいないーー藤田博史氏が「原抑圧の引力という謎」と要約できることを言っている。いつの対談だかははっきりとは分からないが、ごく最近(この二三年のあいだのもの)である。

この最初の抑圧つまり原抑圧が生じる契機について、フロイトは大変面白いことを言っているんです。つまり、外力だけでは原抑圧は起こらないと。(⋯⋯)

これいまだに謎です。この謎に答えられる人がいるのか疑問です。いずれにしても、フロイトの姿勢は「わからないことはわからないままに記述しておく」というもので、その答えは後になって判るだろうという考え方なんです。直感的に「引力のようなものが働いている」と考るところにフロイトの天才があると思います。(「第42回 藤田博史氏、新倉カウンセラー対談 <第2回>」)

藤田氏が言うように、フロイト自身は、原抑圧について最後まではっきりとは概念化できていない。ラカンも同じくである。最後まで「引力」をめぐって彷徨っているのである。

・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。

・臍とは聖痕である。l'ombilic est un stigmate

・臍とは身体の結び目 nœud corporelである。この結び目…注目すべき期間ーー九ヶ月のあいだーー生の伝達に奉仕し、その後(永遠に)閉じられる。

これが結び目と空洞とのあいだのアナロジー analogie entre ce nœud et l'orifice である。こうして洞は仕上げられる。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975

ーーフロイトの死の枕元にあったとされる草稿『精神分析概説』においては、《引力と斥力 Anziehung und Abstossung 》とは、エロスとタナトスである(参照:エロスとタナトスをめぐる基本文献

上に引用したように、ラカンはこの「引力」に相当するものを穴 trou、《穴ウマ troumatisme =トラウマ》(S21、19 Février 1974)とも呼んだ。トラウマとは言語で表象不能の現実界のことである。

現実界は、同化不能 inassimilable(表象不能)の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964 )
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

最近のジャック=アラン・ミレールが「人はみなトラウマ化されている」というとき、「人にはみな原抑圧がある」という風に捉えうる(参照)。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 https://viedelacan.wordpress.com/

⋯⋯⋯⋯

この原抑圧をめぐって、精神医学研究者は、ほとんど関知しなくなっている、という指摘がかつてあった。フロイトが 「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」 と呼んだもの、後期ラカン概念のサントーム(原症状)であるにもかかわらず(参照:サントームと固着

ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHEの “DOES THE WOMAN EXIST? ”(1999)ーー
ジジェクがかつて《女性のセクシャリティにおけるフロイト・ラカン理論を取り巻く混乱状態への奇跡的な応答》であり必読の書だと書評した(参照)ーーには、「忘れられたフロイト」という章があり、フロイトの「原抑圧」概念忘却の惨状についてこう記されている。

⋯⋯⋯証拠として、Grinsteinを見るだけで十分である。Grinstein、すなわちインターネット出現前の主要精神分析参考文献一覧である。96,000項目の内にわずか4項目しか、「原抑圧」への参照がない…この驚くべき過少さを説明するのは、とても簡単である。原抑圧概念は、ポストフロイト時代の理論にはまったく合致しないのである。彼らが参照しているのは、1910年前後以前のフロイトに過ぎない。(ポール・バーハウ、1999)

このように当時はほとんど誰もが触れないままにやりすごそうとした概念が原抑圧であり、現在ならおそらくいっそうそうだろう。

とはいえ先ずなによりも「引力」でよいのである。そして「引力」とはアレに起源があるに決まっている。 これはだれもが知っているではないか?

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝之門」)

あるいはプラトン=ティマイオスのコーラ(chora)χώρα

コーラ chola は「母」である(プラトン[『ティマイオス』)

藤田氏は当然ご存じでありながら、なんらかの理由で秘匿サレタノデアロウ、彼がこの引力という謎の起源を知らないわけがない・・・

あの「おそそ」--ハイデガーのそまみち(杣径 Holzwege)とは老子の「玄牝之門」を彼が独語翻訳した直後の概念であるーーが、原抑圧の「引力」の起源であるとは、男なら誰もが知っていることである (たぶん藤田氏は学者風に厳密さを期したかっただけであろう)。

引力とは、あの黒い穴、ブラックホールに起源があるに決まっている。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

そもそもラカンの性別化の図のS(Ⱥ)ーー穴Ⱥのシニフィアン・原抑圧のシニフィアン・サントーム(原症状)のシニフィアンーーとは引力のシニフィアンである。

あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?)



《女がサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)》とは、 「斜線を引かれた女 Lⱥ femme」 はS(Ⱥ)であるということであり、原抑圧のシニフィアンであるということである(やや異なるが、いまは厳密さを期さない)。

原抑圧のシニフィアン、すなわち欲動の固着のシニフィアンである。

・リビドーは、固着Fixierungによって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残すzurückgelassenのである。

・より初期の段階のある部分傾向の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着、欲動の固着と呼ばれるものである。daß ein solches Verbleiben einer Partialstrebung auf einer früheren Stufe eine Fixierung (des Triebes nämlich) heißen soll.(フロイト 『精神分析入門』第22章 1916-1917)

こうして、《原抑圧とは、先ずなによ原固着である、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野の外部に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。》(ポール・バーハウ1999,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)なのである、これは比較的はやい段階で言われた決定的な見解である。

とはいえフロイトは既に言っているのである、ネット上には独原文がみつからなくて残念だが、『夢判断』以前に記されたフリース書簡で。

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。

It is to be suspected that what is essentially repressed is always what is feminine (Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897

このあたりのことについては半年ほどまえ、「「なんでもおまんこ」という悟り」にて記したが、あれは冗談ではないのである。賢明なる諸氏は、ハヤク悟ラナクテハナラナイ、これが「我々の存在の核」なのだから。


⋯⋯⋯⋯

※付記

抑圧という訳語には注意しなくてはならない。本来、圧するという意味はないのである。訳語「抑圧」の不幸はもはや修正できないだろうが。

フロイトは、抑圧 refoulement は禁圧 répression に由来するとは言っていない Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression (ラカン、テレヴィジョン、1973年、向井雅明訳)
 「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

2018年1月22日月曜日

「教養ある孤独な女」の時代

かなり以前に訳して投稿したものだけど、この「教養ある孤独な女」はまだまったく古くなっていないので再掲しておくよ。

⋯⋯⋯⋯

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である!

Pour qui est encombré du phallus : « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
女はすべての男にとってサントーム sinthome である。男は女にとって…サントームよりさらに悪い…男は女にとって、墓場(荒廃場 ravage)だ。

une femme est un sinthome pour tout homme…l'homme est pour une femme …affliction pire qu'un sinthome… un ravage(ラカン、S23, 17 Février 1976)

ーー ここでは症状とサントームとの相違についての厳密な意味での差異には触れない。ラカン自身、1975年前後以降、症状というとき、実際はサントームのことだったりする。

ここでは(これもある時期の)ミレールのサントームの定義のみを掲げておく。

サントームは、症状と幻想の混淆である。

Le sinthome, un mixte entre symptôme et fantasme (ジャック=アラン・ミレール、Revue de la Cause Freudienne n°39, mai 1998)


今、上に記した前提で次の文を読もう。

◆ポール・バーハウ1998、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、by Paul Verhaegheより。

完全な相互の愛という神話に対して、ラカンによる二つの強烈な言明がある、「男の症状は彼の女である」、そして「女にとって、男は常に墓場 ravage を意味する」と。この言明は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。

誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるになるということだ。こうして、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に墓場(荒廃場)である」。どうして墓場なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。

偶然の一致ではないのだ、解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層が「教養ある孤独な女」を作り出したことは。彼女は孤独なのである。というのは彼女の先達たちとは違って、この墓場に服従することを拒絶するのだから。

現在、ラカンの二つの言明は男女間で交換できるかもしれない。女にとって、彼女のパートナーはまた症状である、そして多くの男にとって、彼の妻は墓場である、と。このようにして、孤独な男たちもまた増え続けている。この反転はまったく容易に起こるのだ、というのはイマジナリーな二者関係の基礎となる形は、男と女の間ではなく、母と子供の間なのだから。それは子供の性別とはまったく関係ないのだ。

関係は逆転して、多くの男にとって、彼の妻は墓場でありうる、とあるが、これはたとえば日本においてのタガメ女たちに牛耳られるカエル男たちであろう・・・おそらくあまりにもスグレタ表現なので、放送禁止用語になったそうだが。

ひところ一部で流通していた「タガメ女」という語は放送禁止用語になったーーと『日本の男を喰いつくす「タガメ女」の正体』と『日本の社会を埋め尽くすカエル男の末路』の著者深尾葉子さんが自ら書かれている(2014)。

⋯⋯⋯⋯

※付記

愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)
男は女になんか興味ないよ、母がなかったら、な。

un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère. (ラカン、Conférences aux U.S.A, 1975)
母に対してしなくちゃならない最も肝心なことは、切り離すことだよ…近親相姦だけは絶対にしないようにな

Quant à la mère … le mieux qu'on ait à en faire, c'est de se le couper … pour être sûr de ne pas commettre l'inceste.(ラカン、S24, 15 mars 1977).
男は女と寝てみることだよ、そうしたら分かる。それで充分だね。逆も一緒だ。

il suffirait qu'un homme couche avec une femme pour qu'il la connaisse voire inversement. ラカン、S24, 16 novembre 1976)

ーーいやあスイマセン、だんだんイイカゲンな訳になってしまいました・・・由緒正しくは次の二つの文です。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房 Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutter の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)
……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年、既存訳を一部変更)

 ⋯⋯⋯⋯

《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供との関係に求められるべきである。》( Paul Verhaeghe,1998)


【男の子と女の子の愛の対象】
男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。これは次の奇妙な事実を説明してくれる。つまり結婚後しばらくすれば、多くの男たちは母に対したのと同じように妻に対するということを。

反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。これは同じように奇妙な次の事実を説明してくれる。多くの女たちは妻になり子供をもったら、女たち自身の母親のように振舞うということを。


【変換対象の相違による帰結】
この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な結果は、彼女たちは関係それ自体により多く注意を払うようになるということだ。それは男たちがファリックな面に囚われるのと対照的である。少女における、対象への或いはファリックな面への興味の欠如と、関係性への少女の強調は、後年男との関係を求める必要がない結果を生むかもしれない。結局のところ、彼女の最初の対象は同じジェンダーであり、思春期の最初の愛はほとんどいつも他の少女に向けられることになる。

【男性のペニス羨望】
この解釈の光のもとでは、フロイトが女性にとって重要だと信じたペニス羨望――つまり自身のファルスを持ちたいと推定された欲望――は、フロイト自身の男性的、あるいはその結果としての男根主義的な想像力の産物によるところが多いように見える。今までの経験で私が出会った有名なペニス羨望は男性のなかにしかない。その拠って来たるところは、己れのペニスの不十分さへのたえまない怖れと他の男のペニスに比してのたえまない想像的比較による。男の男根主義に対応する女性の主眼は、関係性にある。


【法への態度の相違】
それ以外の帰結は、女性たちの法に対する根本的に異なった態度である。法、すなわち、父の最初の権威に対する態度。少年たちは父をライヴァルとして怖れる理由がそこかしこにある。しかしこれは少女にはほとんどあてはまらない。反対に、父は少女へ愛を与える存在でもあり、少女が愛する存在でもある。それゆえ女たちは法と権威にたいして男たちに比べ、リラックスした関係をもつようになるのは当然であろう。これは、ポストフロイト世代の精神分析医に次のような疑問を生ませた。すなわち女にはほんとうに超自我があるのだろうか、と。それは中世の理論家たちが女たちはほんとうのところ魂をもっているのかどうかを疑わせたのと同じような問いである。

【男たちの徒党を組む傾向】
もっと実際の生活上の相違としては、家父長制の歴史のなか、男たちは階級の影響をひどく受けやすく、中央集権的組織を作りたがるということがある。教会や軍隊は男たちの集団だ。反対に、女たちは階級を好む性向はわずかしかなく、横へのつながりを望み集団を作ることは少ない。⋯⋯⋯⋯(ポール・バーハウ1998、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、by Paul Verhaeghe)




2018年1月21日日曜日

こよなく美しい女

少し前「顔はブー」にて、Benjamin Zander のレッスンの様子を掲げたが、今度は「こよなく美しい女」のレッスンを見た(YouTubeは一度熱心にある映像を見ると類似の映像の紹介がくる)。

チェリスト、Annette Jakovcicである(たぶん日本人ハーフだろう)。

◆Interpretation Class: Prokofiev - Cello Sonata Mvt. 1



ーーいやあ、スゴクイイ女だ、プロコフィエフのこの曲はこんなにも美しかったのか。しかも、Benjamin Zanderが褒めているようにとても上手い。

あんまり美しいので荷風になっている爺さんまでいる。



昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。

色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風散人こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。(古井由吉『東京物語考』)

みなさん、Annette Jakovcicを応援しましょう!

◆Schumann Fantasiestücke op 73




2018年1月20日土曜日

「人はみな妄想する」の彼岸

ラカンの「人はみな妄想する」とは松本卓也氏の評判の高い書の題名でもあるが、わたくしは彼の書を読んでいない。つまり以下の記述は、松本氏の書を参照しないままのものである。

まず妄想とは?

病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試み・再構成である。

Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)

ーーこれを忘れてはならない。症状一般も《症状はすべて不安を避けるために形成される》(フロイト 『制止、症状、不安』第9章、1926年)のであり、症状形成 Symptombildungとは 代理形成 Ersatzbildung の同義語であり、(危険な状況、あるいはエス Es・欲動過程 Triebvorganges に対する)防衛過程 Abwehrvorgang にかかわると、フロイトは記している。

さてミレールである。

実際のところ、妄想は象徴的である。妄想は象徴的迷信である。そして妄想は世界を秩序づけうる。…

私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。…

ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)

ーーこの「ふつうの精神病」概念をめぐって語られる文における「幻想」と「妄想」の等置とは、従来は幻想は神経症、妄想は精神病にかかわるとされてきたが、その区別を問い直すべきだという立場から言われている。

幻想とは何か?

わたくしの知るかぎりで、そしてわたくしにとって、最もすぐれて簡潔な定義は次の文である。

幻想とは、象徴界(象徴化)に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)

そしてポール・バーハウ Paul Verhaeghe の同僚で、サントームをめぐる共論文もある Frédéric Declercq は次のように記している。

妄想とは、侵入する享楽に意味とサンス(方向性)を与える試みである。

(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、2004)

さて話を戻せば、あまり評判のよくない「ふつうの精神病」とは、もともとは境界例の多発により神経症か精神病かの鑑別診断に苦しむようになった経緯から、20年前に(1998年)生まれた概念である。

日本でも中井久夫は次のように記している。

現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

ミレール派のエリック・ロランは、「ふつうの精神病 Psychoses ỏdinaires 」は、結局、「ふつうの父の名」の時代の「ふつうの妄想 Délires ordinaires 」のことであると言っている(Eric Laurent, La psychose ou la croyance radicale au symptôme、2012年 )

象徴秩序は妄想だ、我々の世界は妄想だとするのは、なんの奇妙なことでもない。たとえばニーチェ。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

ラカンは1972年に、人間の現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」という意味合いのことを言っているが、それは「仮象の世界 scheinbare Welt」と言っても同じことである(semblantとは独語では「仮象 Schein」と訳されることが多い)。

最晩年の「人はみな妄想する」(1978)は、この「仮象の世界 scheinbare Welt」の、より挑発的な言い換えとして捉えられないこともない。

…………

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 https://viedelacan.wordpress.com/

ララング定義集」でみたように、人の身体は、ララングによって穴が開けられる。

肉の身体 le corps de chair は生の最初期に、ララング Lalangue によって穴が開けられる troué 。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴ウマ troumatism =トラウマの谺を見出す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016、Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens)

穴Ⱥとは、より一般的には、性的非関係と欲動の身体にかかわる。

すべてが見せかけ(仮象 semblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

この穴 trou をラカンは、《穴ウマ troumatisme =トラウマ》(S21、19 Février 1974)と呼ぶ。トラウマとは言語で表象不能の現実界のことである。

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる。

…le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma (ラカン、S11、12 Février 1964 )
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

このトラウマとしての穴の穴埋めをするのが妄想である。

以下、2018年のラカン派ーー主にミレール派を中心としたーーの会議の主題をめぐる文から一部訳出する。

LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert (2018)

セミネール20「アンコール」で展開された女性の享楽の行き詰りは、ラカンをジョイスの手を取るように導き、彼の後期、まさに最晩年の教えが開かれる。ここで新しい出発点が引かれるのである。これ以降、神経症は精神病の観点から読まれるようになり、逆方向ではなくなる。

こうして排除 forclusion は一般化される。すなわち、すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除に対して。

人にそれぞれの排除があるなら、それぞれの解決法、いやむしろ治療法がある。というのは解決法はないのだから。「一般化されたサントームの臨床 la clinique du sinthome généralisé」があるだけである。ゆえにラカンのアイロニー、《人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant》とは、「我々はみな精神病的だ」を意味しない。そうではなく《我々の言説(社会的つながり)はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 》(Miller, J.-A., « Clinique ironique », 1993)を意味する。
(⋯⋯)ふつうの精神病」は排除の穴のために可能なる解決法の範囲の拡大化をしてくれる。異常な精神病(従来の精神病)においては、我々は妄想的隠喩 métaphore délirante の形態のなかに穴の修復を見出す。…他方、「ふつうの精神病」においては、ーー根源的単独性における、些少な発明を伴った、修復様式の稀少性を見るときーー、その修復様式は多様化し分散している。

これらの単独的解決法に共通なものは、病状の明白な突発を避けたり引き延ばす、穴の修復という独自な手作りの可能性である。ふつうの精神病であろうが異常な精神病であろうが、我々が常に見出すのは、《恒久化する穴・逸脱・脱接続 un trou, une déviation ou une déconnection qui se perpétue》(ラカン、E577)の指標である。( LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert (2018)

⋯⋯⋯⋯

※付記

おそらく(ラカン主流派ーーミレール派ーー観点から)重要な区分があるとしたら、ふつうの精神病に相当する症状と、分裂病・自閉症とのあいだの区分だろう。

以下、資料の列挙。

分裂病においての享楽は、パラノイア(妄想者)のような外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)
あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2009)

ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF
身体の享楽は自閉症的享楽である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

神経症におては、父の名をもっている、正しい場所にだ。⋯精神病においては、古典的ラカンの考えでは、「父の名」のかわりに穴がある。⋯⋯「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充(穴埋め)の仕掛けだ。 (…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病 catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。

精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。(…)父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいはそれぞれに仕方で、「みな妄想的である」(Tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant )に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも、まさにこのようにある。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited.,PDF
……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分析の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller


「私は私の身体で話してるの」

ああ、いまごろ読んだ、《女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。》(坂口安吾「恋をしに行く」)

私は私の身体で話してるの。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言うの。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973 )

--「女がひとりで眠るということの佗しさが、お分りでしょうか」


三十五年ほど昔、「さびしくて」というつぶやきに触れた時、私はとっさに、聞く耳を持った。「たとえば人が亡くなって」と聞いた時にも、当時私の肉親は健在で、身近の不幸も知らなかったのに、夜更けに駆けつける気持を思ったものだ。(古井由吉『楽天の日々』越す)

この五年ぐらいが勝負だよ、いくら「あなたはいつまでも大人にならないから、いいわねえ。おととしも、去年も、今年も、ちつとも変りがないんですもの。」(坂口安吾「木々の精、谷の精」)だって。

なにはともあれ、《わたしの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて》なんてことにならないように。通俗的なことを記すけれど。怒るだろうけど。それはわたしの感じ方しだいって言うのだろうけど。

宇野さんの小説の何か手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの佗しさが、お分りでしょうか」という意味の一行があった筈だが、大切な一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な呪いをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく。…

…女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛たる開花の時と凋落との怖るべき距りに就て、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われ難いものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、その大事の肉体が凋落しては万事休すに違いない。(坂口安吾「青春論」)

喪われている「女性の主人のシニフィアン」

「女性の主人のシニフィアン」とは、女主人 S(Ⱥ) 、原抑圧のシニフィアンのことである。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」ーー「アリアドネのたたり」)

それは、原リアルの名、原穴の名(原トラウマの名)でもある。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネールーー「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」)

⋯⋯⋯⋯

以下、ジジェクの華麗な説明である。こういった説明は、いくら現在の臨床的ラカン派の見解とのあいだにいくらかの齟齬があろうと捨て難く、ジジェクの真骨頂としてよいだろう。

想い起こそう。ラカンが「Vorstellungs‐Repräsentanz 表象-代理」を、失われている二項シニフィアンとして定義したことを。この喪われている二項シニフィアン binary signifier とは、「ファルスの主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier」の対応物でありうる「女性の主人のシニフィアン feminine Master‐Signifier」であり、二つの性の相補性を支え、どちらの性もそれ自身の場ーー陰陽、等のように--置くものである。

ここで、ラカンはラディカルなヘーゲリアンである(疑いもなく、彼自身は気づいていないが)。すなわち、「一」がそれ自身と一致しないから、「多」multiplicity がある。

今われわれは、「原初に抑圧されたもの」(原抑圧)は二項シニフィアン binary signifier (表象代理 Vorstellungs‐Repräsentanz のシニフィアン)であるというラカンの命題の正確な意味が分かる。

象徴秩序が排除しているものは、陰陽、あるいはどんな他の二つの釣り合いのとれた「根本的原理」としての、主人の諸シニフィアン Master‐Signifiers、S1‐S2 のカップルの十全な調和ある現前である。《性関係はない》という事実が意味するのは、二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されているということである。そして、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂目を埋めるものは、多様なmultiple「抑圧されたものの回帰」、一連の「ふつうの」諸シニフィアンである。

(…)この理由で、標準的な脱構築主義者の批判ーーそれによれば、ラカンの性別化の理論は「二項論理」binary logic と擦り合うーーとは、完全に要点を取り逃している。ラカンの「女というものは存在しない la Femme n'existe pas 」が目指すのは、まさに「二項」の軸、Masculine と Feminine のカップルを掘り崩すことである。原初の分裂は、「一」l'Un と「他」l'Autre とのあいだにあるのではない。そうではなく、厳密に「一」固有のものである。「一」とその刻印の「空虚の場」とのあいだの分裂(分割)として、「一」固有のものなのである(これが我々がカフカの有名な言明、「メシアは、ある日、あまりにも遅れてやって来る」を読むべき方法だ)。

これはまた、「一」に固有の分裂/多様性の暴発とのあいだの繋がりを、人はいかに捉えるべきかについての方法である。「多」multiple は、原初の存在論的事実ではない。「多」の超越論的起源は、二項シニフィアンの欠如にある。すなわち、「多」は、失われている二項シニフィアンの裂け目を埋め合わせる一連の試みとして、出現する。したがって、S1 と S2 とのあいだの差異は、同じ領野内部の二つの対立する軸の差異ではない。そうではなく、この同じ領野内部での切れ目であり(その水準での切れ目において、変化をふくむ作用 process が発生する)、「一」の用語固有のものである。すなわち、原初のカップルは、二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなく、シニフィアンとそのレディプリカティオ reduplicatio、シニフィアンとその刻印 inscription の場、「一」と「ゼロ」とのあいだのカップルである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012、私訳)

⋯⋯⋯⋯

ここでラカン派「臨床家」ポール・バーハウの1999年に出版された書ーージジェクは奇跡の書と書評したーーから、初期フロイトの次の文をめぐる叙述の一部を抜き出しておこう。

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト、Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897

ーー「本源的に抑圧されているもの」とはもちろん、フロイトの後年の概念「原抑圧」のことである。

トラウマ的現実界ーーその現実界にとって象徴界のなかにシニフィアンはないーー、これは、女性性に相当する。フロイトは象徴秩序のなかの欠如を見出した。すなわち女というもののシニフィアンはない。半世紀後、ラカンはこれをȺ(象徴界のなかの穴)と書いた。これは、シニフィアンの全体は完全では決してないという意味である。すなわち大他者にはひとつの欠如がある。

我々の見解では、境界シニフィアンの手段による「原防衛」は、フロイトが後年、「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは、先ずなによりも「原固着」として現れるものである。原固着、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野の外部に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)

 ⋯⋯⋯⋯

※附記

冒頭に引用したジジェクには、次の文があった。

原初の分裂は、「一」l'Un と「他」l'Autre とのあいだにあるのではない。そうではなく、厳密に「一」固有のものである。「一」とその刻印の「空虚の場」とのあいだの分裂(分割)として、「一」固有のものなのである。

この文とともに読める、柄谷行人による、言語は《それ自身に対して差異的であるところの、差異体系》をも付記しておこう。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過 剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)

もちろんこれらの文の背後には、たとえば、

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

があり、さらにその背後にはマルクスがいる(参照:「最も基本的なところから始めよう」)。


2018年1月19日金曜日

ああ、それ、ようは「女性の享楽」の行き詰りだよ

ああ、何度か繰り返しているけど、「女性の享楽」としていままで流通してきている説明ーーラカンのセミネール20「アンコール」における女性の享楽が神と関連付けられている説明ーーは現在の主流ラカン派観点からは、ひどく問題がある(たとえば、日本ではラカン派プロパーではない佐々木中が示している内容)。

たとえば2018年のラカン派ーー主にミレール派を中心としたーーの会議 Les Psychoses Ordinaires et les Autres, sous transfert の主題が提示されているけれど、《アンコールで展開された「女性の享楽」の行き詰り les impasses de la jouissance féminine développées dans Encore》という表現がなされている。

ようするにセミネール20以降、ラカンは大きく変貌したというのが、現在主流ラカン派の考え方。核心は「サントームのセミネール23」。もっとも主流ラカン派が正しい道を歩んでいるのかどうかは判断保留をしおくけど。

たとえば、ジジェクは2016年の段階で、ミレールの最近の考え方は「何かが途轍もなく間違っている」と言っている。とすれば、ジジェクが途轍もなく間違っている可能性を疑わなければならない。

最近、わたくしがジャック=アラン・ミレールやコレット・ソレール(ラカン臨床派の二大代表者)を(彷徨いつつ)いくらか引用しているのは、そのため。

基本的には、新しい「女性の享楽」の捉え方は次の文にある(参照:二つの現実界

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

ま、先ず、2018年の会議の「Le Thème Les Psychoses Ordinaires et les Autres, sous transfert」は仏語だけでなく英語版もあって簡潔に書かれているから、読んでみることだね。

ボクもはっきりしたことはわかんないよ、ずっとジジェク注釈を信奉してきた身だからな、

とはいえ、アンコールの女性の享楽が誤謬だろうことは、若手ラカン派のリーダー、ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesaがすでに2007年に指摘している(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa  2007)

The passage from the notion of Other-jouissance JA to that of the jouissance of the barred Other J (A barred) epitomizes the distance that separates Saint Teresa's holy ecstasy , as referred to by Lacan in Seminar XX, from the “naming” of lack carried out by Joyce-le-saint-homme, as analyzed in detail in Seminar XXIII. 

In this seminar, JA (of Woman; of God) becomes impossible; however, feminine jouissance could be redefined in terms of J (A barred).275

J (A barred) is therefore a (form of ) jouissance of the impossibility of JA.

Most importantly , I must emphasize that the jouissance of the barred Other differs from phallic jouissance without being “beyond” the phallus.
275. In this way , it would be easy to think of Joy-cean jouissance as a thorough reelaboration of the jouissance of the mystic which Seminar XX had already paired up with feminine jouis-sance. It then also becomes clear why Lacan's recurrent parallelism between Joyce and a saint is far from being gratuitous (“Joyce-the-sinthome is homophonous with sanc-tity”; J. Lacan, “Joyce le symptôme,” in Le séminaire livre XXIII, p. 162).

とはいえ、ミレールやコレット・ソレールの考え方はこれとはちょっと違うんだな。

なにはともあれ、日本で語られているラカン注釈、とくに頭のかたそうな古いおっちゃんたちの注釈は、ぜんぶ疑ったほうがいいよ、だいたい、二種類の原抑圧があるということさえいまだ分かっていない連中がほとんど。

(たとえば、これはラカン派ではなくフロイト派の村井翔ーー彼はときにすぐれたことも記しているのだがーーこの村井サンのラカン注釈に依拠したシュレーバー症例を読んでみたけど、ボロボロだな)

で、ボクももちろんボロボロかもしれないからな、ま、だれも信用すべからず、だよ。

蓮實重彦が一年前の東大新聞インタビューでいってるけどさ、これが基本だな

若者全般へのメッセージですが、世間で言われていることの大半は嘘だと思った方が良い。それが嘘だと自分は示し得るという自信を持ってほしい。たとえ今は評価されなくとも、世界には自分を分かってくれる人が絶対にいると信じて、世界に働き掛けていくことが重要だと思います。


2018年1月18日木曜日

ララング定義集

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレインpetite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)

ーーフロイトにとって永遠回帰とは、快原理の彼岸にある反復強迫 Wiederholungszwang、運命強迫 Schicksalszwang だった。そしてニーチェの傍らにいたルー・アドレアス・サロメにとっても、《生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい「不気味なunheimliche」何ものか》(1894年)とした(参照)。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)

不気味なものとは、ラカン派用語では外密のことである。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimitéーー「ひとりの女とは何か?」)

クロソウスキーは、永遠回帰は至高の欲動だ、と言った。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

ララング lalangue は至高の欲動、あるいは《欲動の根 Triebwurzel》 (フロイト『終りある分析と終りなき分析』)にかかわる。

⋯⋯⋯⋯

◆コレット・ソレール2009
ラカンはララング を次のように説明する。すなわち、ララング lalangueは、“lallation 喃語”と同音的である。“Lallation”はラテン語の lallare から来ており、辞書が示しているのは、“la, la”と歌うことにより、幼児を寝かしつけることである。この語はまた幼児の「むにゃむにゃ語」をも示している。まだ話せないが、すでに音声を発することである。「Lallation 喃語」は、意味から分離された音声である。が、我々が知っているように、非意味であるにもかかわらず、幼児の満足状態からは分離されていない。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )


◆Antonio Quinet、2017
ラカンによれば、ララングは単に言語秩序に属するのではない。ララングは享楽から来る。ララングは謎の情動の源泉である。

ララングのなかに含まれる享楽、それは人間存在のなかに、リズミカルな高揚・刻印・楔を置き残す強烈な効果を伴う。

人はそれぞれ、このララングの謎の圧倒的な音のシャワーによって、熱に浮かされトラウマ化される。

ラカンのトラウマとは、ララングの享楽との最初の遭遇である限りで、フロイトの性的(欲動的)トラウマと密接な関係がある。(Antonio Quinet、Lacan's Clinical Technique: Lack(a)nian Analysis、2017)


◆コレット・ソレール2009

ララングは享楽を情動化する。…ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる
 le signifiant devient réel quand il est hors chaîne)。そしてララングは享楽と謎の混淆をする。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(同上ソレール、L'inconscient Réinventé )


◆ジャック=アラン・ミレール、1998、2012、2011
真のトラウマの核は、誘惑でも、去勢の脅威でも、性交の目撃でもない。…エディプスや去勢ではないのだ。真のトラウマの核は、言葉 la langue(≒ララング)との関係にある。(ミレール、1998 "Joyce le symptôme" )
身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011)

《症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)


◆Pierre-Gilles Guéguen、2016、2013
肉の身体は、生の最初期に、ララングによって穴が開けられる。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴=トラウマの谺を見出す。サントームの身体、肉の身体、存在論的身体はつねに自閉症的享楽・非共有的享楽を示す。

le corps de chair est troué par Lalangue, très tôt dans la vie et qu'on retrouvera les échos de ce troumatisme à chaque fois que la sexualité sera en jeu. Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste et non partageable.(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens, 2016)
ラカンは言語の二重の価値を語っている。肉体をもたない意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF
身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)


◆コレット・ソレール、2011
最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声媒体 médium sonore から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のララング lalangue maternelle」はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素 élément différentiel は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素 phonèmeである。母のララングの谺である子供の片言ーーあるいは喃語 lalationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 préverbal 段階のようなものはない、だが前言説的 prédiscursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングlangageは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕éclipse等々で包む。ララングlangageが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化 dématernalisants をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアルなーー意味外のーー無意識の核 le noyau le plus réel - hors sens - de l'inconscient を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化 érotisation の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

ーー《〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。》(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

「原リアルの名 le nom du premier réel」「原穴の名 le nom du premier trou 」とは、原トラウマの名のことである。


◆Geneviève Morel 2009、2005
我々は、母の言葉(ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel 2009, Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law)
サントームは、母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴づけられたままである。Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(ジュヌヴィエーヴ・モレル Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)

以上より、少し前提示した図(参照:女性の享楽と現勢神経症)に、(「言語内の享楽」に対する)「ララングの享楽」を付記できるだろう。



ララングは固有名の核である (Bernard Nomine、2015
単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)



⋯⋯⋯⋯

※附記

ララング≒喃語、ララング=言葉の物質性 motérialitéとの記述があった。

中井久夫のララング論」から一部再引用する。


【「もの」としての言葉】
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)


【喃語】
言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)


もちろん人はここで、アルトーの 「舌語・異言 glossolalie(グロソラリ)」等を想起することもできるだろう)。

…いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化・流体的伝動によって、一切のことを行なう(これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である)。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」1969年)


ドゥルーズ&ガタリは、リトルネロについて次のように記している。

リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。

La ritournelle a les trois aspects, elle les rend simultanés, ou les mélange : tantôt, tantôt, tantôt. Tantôt, le chaos est un immense trou noir, et l'on s'efforce d'y fixer un point fragile comme centre. Tantôt l'on organise autour du point une « allure » (plutôt qu'une forme) calme et stable : le trou noir est devenu un chez-soi. Tantôt on greffe une échappée sur cette allure, hors du trou noir.(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

ブラックホールという用語が出てきているが、ラカン派においては、上に示した図に現れる右の項のS(Ⱥ)とは、ブラックホールを表すマテームでもある。




あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?)

S(Ⱥ)とは、穴Ⱥ(トラウマ)のシニフィアン、フロイトの欲動のシニフィアン、原抑圧(原固着)のシニフィアン(ラカンのサントーム)である(詳細参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)。

S(Ⱥ)、すなわち「斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré」。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne である。(ミレール、Jacques Alain Miller, 6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN, pdf)
ラカンは後期の教えにおける⋯⋯穴Ⱥとは、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

最後に『千のプラトー』における最も美しい文のひとつ(「リトルネロについて」の章の冒頭)を掲げておこう。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave(すべてをお忘れなさい)" (Arnalta)



ーーアリアドネの小声の歌は、冥界を彷徨っている(参照:アリアドネのたたり

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

⋯⋯⋯⋯

※追記

最晩年のラカンはララングについて次のように言っている。

想像界の身体がある。
象徴界の身体がある。それはララング lalangue である。
現実界の身体がある。我々はこれについて如何に生ずるのか分からない。

il y a :
- un corps de l'Imaginaire,
- un corps du Symbolique, c'est lalangue,
- et un corps du Réel dont on ne sait pas comment il sort. (Lacan, S24、16 Novembre 1976)

さらに同じセミネール24で《ララングは…現実界を作る faire-réel》(19 Avril 1977)、《ララングは、現実界的なもの le Réel ment だろうか? 》(10 Mai 1977)ともある。