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2018年2月28日水曜日

出奔した女

Jean-Luc Godard / Anna Karina documentaryより

上にある「映画を作ることは恋に陥ることである」とは、(正確に)ゴダールがそう言ったのかどうなのかは分からない。だが実際にそうだろう、すくなくともゴダールの場合(さらに言えば、女に惚れるために「のみ」人生をやっているボクのような男もいるさ)。

ゴダールとアンナ・カリーナは、『小さな兵隊 Le Petit Soldat』を撮ったあとの、1961年に結婚している。

⋯⋯⋯⋯

・勝手にしやがれ À bout de souffle (1960年)

ーーゴダールはアンナにベルモンドの昔の愛人役を依頼するがヌードになるという条件だったのでアンナはきっぱり断る。

・小さな兵隊 Le Petit Soldat (1960年完成、1963年公開)




・女は女である Une femme est une femme (1961年)




・女と男のいる舗道 Vivre sa vie. Film en douze tableaux (1962年)




・カラビニエ Les Carabiniers (1963年)
・軽蔑 Le Mépris (1963年)
・はなればなれに Bande à part (1964年)




・恋人のいる時間 Une femme mariée. Fragments d’un film tourné en 1964 (1964年)
・アルファヴィル Alphaville, une étrange aventure de Lemmy Caution (1965年)



気狂いピエロ Pierrot le fou (1965年)



・男性・女性 Masculin féminin (1966年)
・メイド・イン・USA Made in USA (1966年)



・愛すべき女・女たち 未来展望
Le Plus vieux métier du monde: Anticipation ou l'amour en l'an 2000(1967年)

ーーゴダール撮影のアンナ最後の作品




『軽蔑』(1963年)’あたりで、すでに離婚の芽があったようだ


この1963年当時、ゴダールは、《私の映画は、男と女のあいだの誤解の歴史です Mon film c’est l’his­toire d’un malen­tendu entre un homme et une femme.》とカンヌで言っている

惚れた女を撮り続けようとしたら、(基本的には)結婚したらダメなんだろうよ

すこし前方に、べつの一人の小娘が自転車のそばにひざをついてその自転車をなおしていた。修理をおえるとその若い走者は自転車に乗ったが、男がするようなまたがりかたはしなかった。一瞬自転車がゆれた、するとその若いからだから帆か大きなつばさかがひろがったように思われるのだった、そしてやがて私たちはその女の子がコースを追って全速力で遠ざかるのを見た、なかばは人、なかばは鳥、天使か妖精かとばかりに。(⋯⋯)

それらの鳥たちはいままたこの世界の美をつくりだしていた。それらの鳥たちはかつてはアルベルチーヌの美をつくりだしていたのであった。かつては私は彼女をそんな神秘な鳥のように見ていたのだ、ついで私は彼女をこの浜辺の大女優、みんなの欲望に訴える女、もしかすると誰かのものになっている女のように見たのだ。だからこそ彼女をすばらしい女だと感じたのであった。ある夕方堤防の道をゆったりした足どりであゆんでいるのを私が見かけた鳥、どこからきたかわからない鷗のようなほかの少女たちの団結にとりかこまれていた鳥、あのアルベルチーヌも、ひとたび私のところで囚われの身になると、そのつばさの玉虫色をことごとく失うとともに、ほかの者たちが彼女をわがものにする機会をもことごとく失ってしまったのだ。彼女はすこしずつその美を失ってしまったのだ。私が彼女を浜辺のかがやきのなかにもどしてその姿をふたたび目に見るためには、彼女がその種の散歩に私にではなく誰かほかの女なり若い男なりに言葉をかけられているのを私が想像する必要があった。(プルースト「囚われの女」) 

離婚後の作品(1965年~)で、ゴダールは(すくなくとも一時的には)惚れ直したのかもしれない。


出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



2018年2月27日火曜日

ウンザリさせられるあの女

ゴダールとアンナ・カリーナ」に引き続く。またしても熱烈なゴダールファンにはオコラレルだろう、頓珍漢でテキトウなことを記すことにする。

⋯⋯⋯⋯

ゴダールが愛した女、アンナ・カリーナ Anna Karina は、たしかにときに途轍もなく美しい表情をみせる女である。




扉があいて、先の女が夏の光を負って立った。縁の広い白い帽子を目深にかぶっているのが、気の振れたしるしと見えた。(古井由吉『山躁賦』杉を訪ねて)

キチガイ女の気配がある。

「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂いfolle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「他の享楽」である。 (コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )



ああ、なんていい女なんだ!

そう、アンナ・カリーナは、風にさからって逆向きに回転する風車のような女であり、瞬間瞬間の表情は忘れがたい。

たしかにゴダールのいうごとく、『海外特派員』の「ジョエル・マークリーがオランダに何をしにいったか」を忘れてしまった人も、あの風にさからって逆向きに回転する「風車のことは…… 覚えている」かもしれない。(蓮實重彦「ゴダールの「孤独」――『映画史』における「決算」の身振りをめぐって」 2002年)




他方、彼女の仕草はときにひどくウンザリさせられる。なんだこの女! 若くウブな青年はそう感じたものだ。あれは猫のような女だ。《女と猫は呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る》(メリメ『カルメン』ーー「母は呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る」)




幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係がない」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)




ゴダールは後にこう言っている。

私とアンナ・カリーナが別れたのは、結局は私の多くの欠点のためですが、でも私には、その最大の原因がなんだったかはわかっています。私には彼女と一緒に映画のことを話すことができなかったからなのです。(『ゴダール映画史(全)』)

だがそもそも「真に」映画のことを話すことができないのは、最初から知っていたはずである。ゴダールもたしか言っていたように、彼女の本質はミュージカル女優である。アンナ・カリーナと別れたあとの再婚相手、モーリアックを祖父にもつロシア亡命貴族のインテリ娘アンヌ・ヴィアゼムスキー(Anne Wiazemsky)でさえ物足りなかったはずである。結局、ヴィアゼムスキーと別れた後の生涯の伴侶アンヌ=マリー・ミエヴィル(Anne-Marie Miéville)がようやく映画を語るにふさわしい女であった筈。

きっとゴダールは結婚後、消え失せてゆくあのアガルマ、すなわちアンナ・カリーナのなかにあってアンナ自身のもの、対象a をなんとか映画のなかで復活させようとしたのだ。

(Une femme est une femme,1961)


だがあのアガルマの復活は、結婚生活を続けるかぎり、ムリだということがおそらく1965年前後にわかったのではなかろうか。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)



とはいえ、ああいった猫に遭遇したら、後先のことは考えずに、どうしようもなく飛んでゆきたくなるタイプの男が世界には常にあまたと存在し続けるだろう。



アリアドネは、アニマ、魂である。 Ariane est l'Anima, l'Ame(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)
愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる。 L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)



愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

このダンスの映像ってのは、なんども見てると切なくなってくるよ

Bande à part (1964) 




2018年2月26日月曜日

ゴダールとアンナ・カリーナ

いやあちょっと泣けたな、このドキュメンタリー

◆Jean-Luc Godard / Anna Karina documentary




ボクが単にムチだったせいかもしれないけど。




全部を信じちゃいけないだろうけどね、たかだかドキュメンタリーなんだから。

というか、もっと正確にいえば、

……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。

そして私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)

けれどもすくなくとも1960年代前半のゴダールについては、こういったことを言い切れるもんだろうか?





ようするに1960年にはこうだった二人が、




1965年にはこうなるって話だ




離婚後もゴダールはアンナ・カリーナのおもかげを追い求めたんだろうかね

ある時、混同してしまったことがあるんだけど。



このAnna Karinaを、『カルメンという名の女 Prénom Carmen』(1983年)のミリアム・ムーセル Myriem Roussel と。



で、ゴダールは2年後のJe vous salue, Marie (1985年)では、主演として使っているのだな。




ーーこれで観ると、だいぶ違うけどね、アンナ・カリーナのような軽やかさもキレもまったくないね。

◆Une femme est une femme(1961)



ーーいやあ、こうじゃなくちゃな。

ふたりの破局間近に撮影された次のダンスだっていいさ

◆Bande à part (1964) - Dance scene [HD]








忘れ得ぬ女たち

人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。(加藤周一『絵のなかの女たち』)


◆マルーシュカ・デートメルス(Maruschka Detmers、1962年12月16日 - )

(Godard, Prénom Carmen, 1983)


愛とは女神アフロディーテの一撃だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった。 L'amour, c'est APHRODITE qui frappe, on le savait très bien dans l'Antiquité, cela n'étonnait personne.(ラカン、S9、21 Février 1962)


◆マリア・シュナイダー(Maria Schneider、1952年3月27日 − 2011年2月3日)

(Bernardo Bertolucci, Ultimo tango a Parigi,1972)

人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe(ラカン、S20, December 19, 1972)


◆ドミニク・サンダ(Dominique Sanda, 1948年3月11日 - )

(Bernardo Bertolucci, Novecento,1976 )

quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)





2018年2月25日日曜日

玉河賛

ボクの玉河からいちゃもんが入った。最近はもうチェックをやめている気配だったので油断してしまった。

とはいえ、「風に濡れた女の背後にいる月光の囁きの少女」とは、妻へのオマージュでもあることが、まさかオワカリニナラナイ筈ハナカロウニ・・・

ためしに画像を並べてみよう。



ボクがつぐみちゃんに魅せられるのは、あなたに魅せられるのと等価である。




ほかにもこれはどうだろう?




あなたはまさかお忘れではあるまい? あなたの美肢でボクをこのように何度も「愛撫」してくれたことを。




しかも、かつての「月光の囁きの少女」は、あれから22年たっても、「アタシには齢は2倍おそくたつの」とおっしゃて、この1月末、ようやく34才の誕生日をむかえたばかりの「風に濡れた女」である。





いやあ、じつにあれから齢をとったのはわずかだけである・・・



最近むかしの写真の整理の手伝いをたのまれたんだがーーようするにデジタル変換ーー、ああ、当時はじつに美しかったな、今ダッテソウダガ・・・







自由という最悪の不自由

・超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7, 18 Novembre 1959)

・享楽を強制するものはない、超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「享楽せよ!」 Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »,(ラカン、S20, 21 Novembre 1972)

いやあ、貴殿の「自由」なるものは、根本的なところから間違ってるよ、すくなくともボクの観点からはね。なによりもまず、自我理想と超自我とのあいだの区別がついていないんだろうな(参照:自我理想と超自我の相違(基本版))。

ま、勝手にしたらいいが、一応バカにしとくよ。ま、ボクは親切なほうなので、初歩的認識のために次のジジェク文でも引用しておくよ。

抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明するのか。誰もが子供の頃からよく知っている状況を思い出してみよう。ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。古風で権威主義的な父親が子供にあたえるメッセージは、こうだろう。

「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。

この場合、この子の置かれた状況は最悪ではない。したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力をとっておくことができるのだから。「ポストモダン」の非権威的主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。

「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろう? でも無理に行けとはいわないよ。本当にいきたいのでなければ、行かなくていいぞ」。

馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子供は)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

ようは権威の足枷から逃れたつもりになっている「自由」という最悪の自由なんだな、貴殿の言っているのは。

何度もくり返しているけれどさ、バカにはつける薬はないからな、もうアキタよ。

重要なことは、権力power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ1999,Verhaeghe, P., Social bond and authority,PDF

わが中井久夫だって言ってる。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』所収)

ま、イデオロギー的父の名の権威を取り払うのは必要さ、でもそれを取り払って裸になっちまったら、最悪の母なる超自我、母の声が顕現するんだな、ようするに猥褻な母の法さ(参照:母の法と父の法(父の諸名))。

これは柄谷行人でさえ分かってないから、そこらへんの20世紀後半のマヌケ現代思想やらを読んでいるだけじゃわからんよ、だからヤムエナイね。で、いってもむださ、「退行」の21世紀においては。

ジジェクがくりかえしても、バカには馬耳東風だろうしな。

人間は「主人」が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できない享楽主義 inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016、pdf

自我理想と超自我というのは、基本的には、「父なる眼差し」と「母なる声」なんだけどな。

眼差しと声は、標準的社会関係の領野において、恥と罪の仮装の中に刻み込まれる。恥は、大他者の眼差しにつながっている。すなわち、私が恥じ入るのは、 (公的)大他者が剥き出しの私を見たり、私の汚れた内面が公けに曝露されたとき等々である。反対に罪は、他者たちが私をどう見るか、彼らが私について何を話すかについては関係がない。すなわち、私が自分自身において有罪と感じるのは、私の存在の核から送り届けられる声から生じる、内部から来る罪の圧迫による。

したがって、「眼差し/声」の対立は、「恥/罪」の対立と同様に、「自我理想/超自我」の対立とつなげられるべきである。超自我は、私に憑き纏い非難する内部の声である。他方、自我理想は、私を恥じ入らせる眼差しである。

この対立のカップルは、伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-放埓的ヴァージョンへの移行の把握を可能にしてくれる。ヘゲモニー的イデオロギーは、もはや自我理想としては機能しない。自我理想の眼差しに晒されたとき、その眼差しが私を恥じ入らせる機能はもはやない。大他者の眼差しは、その去勢力を喪失している。すなわちヘゲモニー的イデオロギーは、猥褻な超自我の命令として機能している。その命令が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである。(ジジェク 2016、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? PDF


やっぱり人は母なる超自我の声からは逃げ出さないと、最悪の不自由になるんだよ、それがラカンが次のように言っている意味だ。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan, S23, 13 Avril 1976)

このラカンのジジェク変奏。

真の「非全体 pas-tout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ジジェク観点からは、次のように言ってしまったドゥルーズ(&ガタリ)に、諸悪の根源の起源のひとつがあるんだな

ある純粋な流体 un pur fluide à l'état libre が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望する機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もないPas de bouche. Pas de Io.Hgue. Pas de dents. Pas de larynx. Pas d'œsophage. Pas d'estomac. Pas de ventre. Pas d'anus. 」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(『アンチ・オイディプス』)

ドゥルーズは、すこしまえにはまともなこと言ってたんだけどさ、「強制された運動の機械」と。肝腎なのはこれだよ。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(衝動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)

ま、だから20世紀後半のドゥルーズに影響をうけたフェミニストやら文学者やら批評家やらは、ジジェク観点からは、あるいはラカン派的観点からは、(おおむね)トンデモおバカちゃんなんだよ。

ラカン派によるドゥルーズ読解の出発点は、情け容赦ない直接的な読み替えである。すなわち、ドゥル ーズ&ガタリが「欲望する機械(machines désirantes)」について語るとき、我々はその用語を欲動に置き換えるべきだ。

ラカンの欲動ーーそれは、エディプスの三角形とその禁圧的な法/その法への侵犯の弁証法に先んじる匿名/無頭的で不滅な「身体なき器官」の反復への執拗さであり、ドゥルーズが前エディプスのノマド的な「欲望機械」として境界を引こうとしたものと完全に一致する。実際、セミネールⅩⅠの欲動に捧げられた章で、ラカン自身が、欲動の「機械的な」特徴・反有機的な anti‐organic 性質(その人工的な要素、あるいは異質の成分からなる部分のモンタージュの特質)を強調している。

しかしながら、これは出発点にすぎない。問題をすぐさま混み入らせるのは、この読み替えにおいて、何かが失われてしまうという事実である。すなわち、欲動と欲望とのあいだにある、まさに還元し得ぬ相違、この差異の視差的 parallax 性質があり、一方から他方へと跡づけたり生み出したりするのは不可能なのだ。

言い換えれば、ラカンには全く異質なものは、ドゥルーズの反-表象主義者的な欲望欲望の概念である。それ自体が表象や抑圧の場面を創造する原初的流動 fluxとしての欲望概念。これはまた、ドゥルーズが欲望の解放について語る理由だが、ラカンの地平ではまったく無意味である。

ドゥルーズにとって、最も純粋な欲望とはリビドーの自由な流体だが、ラカンの欲動は、基盤となる解決しえぬ袋小路によって構成的に徴づけられている。ーー欲動は行き詰まりであり、まさに行き詰まりの反復において満足を見出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

いやあ、でもこういったことを引用しても、バカにはつけるクスリはないからな、ムダだよ、だからこの文はちょっとしたヒマツブシさ。




2018年2月24日土曜日

風に濡れた女の背後にいる月光の囁きの少女

「わたしが好きですか」と、ひっきりなしに訴え、取り入り、迫ろうとする女」にて掲げた作品のひとつ、「日活ロマンポルノ・リブート・プロジェクト」の第一作とされる塩田明彦の『風に濡れた女』(2016年)に触れていささか魅了されてしまった。

◆Wet Woman In The Wind Trailer | SGIFF 2016




ーーボクはだいたいよろずに「趣味」がわるいので、ミナさんとはおそらく異なって、魅惑されたということではある。そもそも1995年に日本を出てから、日本映画にはまったく疎い。




ところで昨晩、1961年生れの塩田明彦ーーボクより三つ下だーーとはどんな人なのだろうと、彼の過去の作品『月光の囁き』(1999年)を観てみた(ネット上のものであり画質は悪い)。

ここには風に濡れた女の「間宮夕貴」のラルヴァ(幼虫)である「つぐみ」がいる。

以下のものはtraillerである。

◆Trailer - 月光の囁き (1999) 塩田明彦



ーーいやあ胸キュンである。なによりもまず少女と自転車! (ボクの場合は高校時代ではなく、中学生時代だが)。

…あのときのミモザの茂み、靄に包まれた星、疼き、炎、蜜のしたたり、そして痛みは記憶に残り、浜辺での肢体と情熱的な舌のあの少女はそれからずっと私に取り憑いて離れなかった──その呪文がついに解けたのは、24年後になって、アナベルが別の少女に転生したときのことである。(ナボコフ『ロリータ』)

「つぐみ」は、塩田明彦のアナベルである。 「間宮夕貴」はつぐみの転生である。ボクはほとんどそう断言したいぐらいだ。

ああ、ゆらめく閃光! 沈黙のなかの叫び! ああ、この稲妻!

・それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。

・ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻 fulgurationである。

・ある何ものかが一閃して quelque chose a fait tilt、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

フロイトは言っている、 《同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung》(『集団心理学と自我の分析)

そして《対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (一の徴)だけ》に同一化することにより、ただそれだけで対象への愛が生まれる場合がある。「月光の囁き」におけるそれは、自転車に乗る少女に魂を奪われる少年だった。

ああ、神々しいトカゲ!




軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、 わたしが神々しいトカゲ göttliche Eidechsen と名づけている瞬間(ニーチェ『この人を見よ』)


さて何がいいたいのだったか?

誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)

そうそう、あれは肥大して表れるのである。「しかも質は幼年の砌のままで」。

あれってのは、これにきまってる。




ーーここには「蚊居肢子」のすべてがある!

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

ああ、ダメだ、もうダメだ、イタイ、イタイ、イタイヨ~




中也の「朝の歌」を変奏しようと思ったが、いまはその力もない・・・

天井に 朱きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶い
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
  諫めする なにものもなし。

樹脂の香に 朝は悩まし
  うしないし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな

ひろごりて たいらかの空、
  土手づたい きえてゆくかな

うつくしき さまざまの夢。


◆Moonlight Whispers





なにはともあれ、ボクと「つぐみ」は14才のとき、故郷の町のこの並木道を走り抜けたのである。「うしないし さまざまのゆめ、/森竝は 風に鳴るかな」








2018年2月23日金曜日

「わたしが好きですか」と、ひっきりなしに訴え、取り入り、迫ろうとする女

《男女の仲というのは、夕食を二人っきりで三度して、それでどうにかならなかったときはあきらめろ》って小津安二郎は言ってるそうだがね、

女優ってのはキライだね、とくに最近の女優、ってのか、黒沢清と青山真治などの作品をいくつか観てみただけだけど、この二人が使う女優ってのは、ボクニトッテハ、夕食を三度してもどうにもならなそうな女ばっかりだな。




ーー長澤まさみチャンなんて、ぜんぜんどうにもなりそうもないや、食事代をムダにするだけだな。ボクはどうにかなりそうだと錯覚にとじこもりえる女がいいや。

黒沢清ってのは、ボクより三つ上の、とってもいい男だけど、独身らしいね、たぶんだが。女性恐怖症じゃないんだろうかな、彼は。


女優ってのはその多くは結局、《「わたしが好きですか」と、ひっきりなしに訴え、取り入り、迫ろうとする》女たちだよ。ま、 《この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ》(シェイクスピア)なんだから、だれだってそうかもしれないけど。

ツイッターソリストなんてのは覿面だな、だいたい、あの場に出現すること自体、「わたしを見て!」なのだから。ブログソリストだって疑わしいね。仮に読み手に背を向けたふりをしていようと、さ。

「わたしが好きですか」と、ひっきりなしに訴え、取り入り、迫ろうとするのがソリストだ。もはやソリストとしてやっていくのはごめんだった。彼の問題はまったく別だった。つまり本当にいきいきとやっていたかどうかということだ。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』)

「わたしの問題はまったく別だわ」って言い切れる可能性のある女優がモシカリニ存在するなら、若いころ女優やって、そのあと降りてしまったようなタイプなんじゃないかな。

・・・というわけで最近みた作品でいくつかを並べておくよ、これだけじゃないけどさ。1995年に日本を出ていて、北野武のいくつかの作品と青山真治の『EUREKA』(2000年)しか観てなかったんだけどさ。

ネット上で無料で通してみれるね(日本語で検索して行き当たらなくても、たとえば黒沢「岸辺の旅」では当たらなくても、「Journey To The Shore (2015)」で当たればあるんだな)。


黒沢清  1955年生れ  トウキョウソナタ      小泉今日子
園子温  1961年生れ  愛のむきだし            満島ひかり
塩田明彦 1961年生れ  風に濡れた女          間宮夕貴
青山真治 1964年生れ  東京公園                  井川遥(榮倉奈々 小西真奈美)

ーーこの四人の映画作家は、皆わたくしの同世代なんだけどさ、つまりあのバブル時代をかいくぐった世代さ。学生時代に街を歩けば、「後ろから前からどうぞ」などという歌がそこらじゅうからきこえてきてそのテンポにのって闊歩したり、六本木のディスコでノーパンお立ち台がはじまったり、という時代の男たちだね。

下の映像に出て来る女たちは、いま上に女優について文句をいったけど、それぞれいい女たちだよ、とくに間宮夕貴ちゃんってのはいいなあ・・・

作品そのものは? ーーいやあボクハ熱心にはみてないからわからないね、物語ってのはどうも退屈しちゃってね、そもそもこれらの作品ってのは、TVメロドラマとどうちがうんだろうな・・・

◆Tokyo Sonata、2008年



◆Wet Woman In The Wind、2016年




◆Love Exposure、2009年




◆Tokyo Park、2011年




2018年2月21日水曜日

製薬産業ボロ儲けのための疾病区分「自閉症」

医療・教育・宗教を「三大脅迫産業」というそうだからひとのことはいえないが、罪や来世や過去の因縁などで脅かすことは非常に困る。また、自分の偉さやパワーを証明するために患者を手段とすることは、医者も厳に自戒しなければならないが、宗教者も同じであると思う。カトリックの大罪である「傲慢」(ヒュブリス)に陥らないことが大切である。(中井久夫「宗教と精神医学」初出1995年『精神科医がものを書くとき』所収)

⋯⋯⋯⋯

いやあ、美しき魂の貴殿! シツレイながら、わたくしは基本的には「製薬産業ボロ儲けのための疾病区分「自閉症」」というスタンスなんだな、 いささか挑発的な表題だけどさ。

つまり、《若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である》という考え方を支持するね。

(新自由主義の)能力主義システムは、自らを維持するため、特定のキャラクターを素早く特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。

また融通性が高く望まれる。だがその代償は、皮相的で不安定なアイデンティティである。

孤独は高価な贅沢となる。孤独の場は、一時的な連帯に取って代わられる。その主な目的は、負け組から以上に連帯仲間から何かをもっと勝ち取ろうとすることである。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントはほとんど存在しない。疑いもなく、会社や組織への忠誠はない。

これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは本気で取り組むことの失敗あるいは拒否の反映である。個人主義・利益至上主義・オタク文化 me-culture は、擬似風土病のようになっている。…表層下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大の中にこの結果を観察する。私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(ポール・バーハウ2012,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)


このスタンスをとる以外に、次の現象を説明する方法はあるんだろうかね






あるいはこれを。

Top 3 Causes of the Autism Epidemic and What We Can Do About It


もちろん穏やか系の研究者による次のような説明があるのは知ってるさ(参照:現代の流行病「自閉症」)。

自閉症やASDはどうして急増しているのだろうか。自閉症の啓発に努める非営利団体Autism Speaksで主任科学者を務めるロブ・リング氏がまず指摘するのは、自閉症の診断基準であり、長年にわたって改訂が行われているDSM(精神障害の診断と統計の手引き)の1994年版「DSM-4」で、アスペルガー症候群が自閉症に加えられたことだ(それまでは「2000~5000人に1人」とされていた自閉症が、DSM-4以降、20~40倍に増加した。なお、2013年の「DSM-5」では、アスペルガー症候群はASDに包括された)。

リング氏はさらに、「(自閉症に関する)意識が確実に高まっているため、家族が早い段階で行動を起こし、(中略)早い年齢で専門家に疑問を投げかけるようになっており、そのことも発見の可能性を高めている」と米ハフィントン・ポストに対して述べている。

ほかにも、「親の年齢が上がると、(自閉症の子供の数が)やや増える可能性のあることがわかっている」とリング氏は指摘する(40歳以上の父親から生まれた場合、30歳未満の父親の場合の約6倍、30~39歳の父親と比較すると1.5倍以上とされる)。「遺伝と環境の間で起こる興味深い相互作用が、科学によって明らかになってきている」(「自閉症の子供」が急増している理由とは?2014年04月)

だが、これだけでは説得的ではないよ、やっぱり医療という「脅迫産業」のせいが大きいよ、あの自閉症激増とは。

自閉症の領野の拡大するとき、結果として市場にとってひどく好都合な拡大が生じる。まだ他にもある。現在の 「遺伝的自閉症」の主張と助長において、DSM は新しい市場を創造する。私は確実視している、数千ユーロの費用がかかる一回の遺伝テストが同じ薬品企業からすぐに提供されるだろうことを。(Agnes Aflalo, Report on autism,2012

別の言い方をすれば、 DSMに囚われの身の精神医学界全体の「症状」さ、あの自閉症激増は。

英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「メンタルディスオーダー」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。(Capitalism and Suffering, Bert Olivier 2015,PDF)
DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(⋯⋯)

精神医学診断における想定された新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。 (“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe、PDF

ま、もちろんこういう主張をしたら、真摯に現場で自閉症と戦っている「美しき魂」たちを怒らすだろうがね。あの経験主義者たち、経験論者たちを。

だが彼等の観察そのものがDSMに依存してんだよ、あの裸の王様に。

T.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

以下略、参照「経験論者のために

いやあすまんね、ひどい「偏見」を書いちまったよ

でも21世紀は退行の時代であるのは間違いないね。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出)

この世紀には石器時代人がウヨウヨしてんのさ、エビデンス主義者と呼ばれる連中が。

・逆説的なことに、エビデンス主義って、まさしくポスト真理なんですね。エビデンスって、「真理という問題」を考えることの放棄だから。エビデンスエビデンス言うことっていうのは、深いことを考えたくないという無意識的な恐れの表明です。

・根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。(千葉雅也ツイート)


せめて「父なき」時代の新自由主義社会では、自閉症という人間の原症状に近づいてゆくというぐらいの初歩的説明はしなくちゃな。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007、pdf)

ようはS1という父性隠喩のタガメがはずれれば、S(Ⱥ)という自閉症的核が裸になりやすいとね、これがーーたぶんありうる、だが誰も明瞭にはそういっているのを知らないーーラカン派的な解釈だろうな(参照:自閉症とは「二」なき「一」(自己状態 αὐτός-ismos)のことである)。




この見解をとるなら、「製薬産業ボロ儲けのための疾病区分「自閉症」」とはいささか極論すぎると言ってもいいさ、それ以外の説明はーーわたくしがわずかに知る限りでは、かつまたわたくしの偏った頭ではーー寝言にすぎないな。とはいえこれはわたくしのヒュブリスである可能性を否定するつもりはないけどな、すくなくとも21世紀の「退行」寝言派向けのヒュブリスさ。

臨床的観点からは、主人の言説から資本家への言説は、現代的精神病理の中の、ある変貌において証拠づけられている。このいわゆる現代的症状については、ラカン派のあいだで数多くの議論がなされている(例えば Miller, 1993; Loose, 2002; Verhaeghe, 2004, 2014; Voruz and Wolf, 2007; Goldman-Baldwin et al., 2011; Redmond, 2013)。

この現代的症状は、依存症、パニック障害、境界例等を含むものだが、解読されるべき隠喩的構築物ではなく、圧倒的な剰余享楽(すなわち心的に破壊的影響をもたらす身体上の緊張)に直面した主体の表出あるいは反応として捉えられている。言い換えれば、これらの症状は、もはや本質的には他者との関係における相剋や不可能性を反映しているのではなく、根本的「非関係non-rapport」との遭遇への反応における危機である。(Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis Stijn Vanheule、2016、PDF

ーーより詳しくは、参照:「父の溶解霧散」後の「文化共同体病理学」

このStijn Vanheuleの言ってる「非関係」、そのの症状とは論理的には、《「二」なき「一」(自己状態 αὐτός-ismos)》という自閉症の症状だな、ラカン派的な意味のね。

穴(トラウマ)、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)

この穴ȺのシニフィアンがS(Ⱥ)で、自閉症的「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、自ら享楽する se jouit 身体のシニフィアンでもあるから(参照:自閉症とは「二」なき「一」(自己状態 αὐτός-ismos)のことである)。





自閉症とは「二」なき「一」(自己状態 αὐτός-ismos)のことである

以下、「三種類の原抑圧」と「S(Ⱥ) とS1という二つの超自我の徴」を記すことによって生じた派生物としての備忘。

わたくし自身は十分には納得はできていないので、当面のメモの範囲を出ない。

⋯⋯⋯⋯

精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »と呼ばれうるものじゃないかい? 

…… la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?(S24、19 Avril 1977)

この「精神分析は二者の自閉症ではないか」という発言は、精神分析は結局、分析家という自閉症的主体と、分析主体(患者)という自閉症的主体のぶつかりあいではないか、という問いである。

ラカンにとって自閉症的主体とは、まずなによりも言語外・象徴界外にある「身体の享楽」の主体ーー厳密には「主体」とはいえないーーのことであろう。

(身体外 hors corpsのファルス享楽の彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre [JA](参照) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーー《私は私の身体で話してる。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. 》(ラカン、S20. 15 Mai 1973 )

もし、「〈二者〉の自閉症」でないならーーそう確信させてもらいたいがーー、言語 (la langue) があるおかげだ。ラカンが言うように、言語は共有の事柄のためだ。(ミレール、「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan, 2000)

自閉症 autism の語源は、 ドイツ語の Autismus にあるが、さらに遡って、ギリシャ語のautos-(αὐτός 自己)と-ismos(状態)を組み合わせた造語である。すなわち、autism とは、本来は「自己状態」ということであり、「閉じる」の意味はない。

ここでは現在の自閉症スペクトラム などの語彙として流通する「流行病としての」自閉症(参照:現代の流行病「自閉症」)についてではなく、主流ラカン派がどのように「自閉症」という語を捉えているのかをいくらか記す(もっともラカン派内でも「一般化自閉症 autisme généralisé」と口にする人がいないではない)。

⋯⋯⋯⋯

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007、pdf)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001, pdf

ここでミレールの言っている「一者の享楽」(一の享楽 la jouissance de l'Un)とは、「一のシニフィアン le signifiant « Un »」「一のようなものがある Yad'lun」(「ひとつきりのシニフィアン le signifiant tout seul」、「ひとつきりの一  l’Un-tout-seul」」)の享楽である。

(ラカンの「一」とは、パルメニデスの「一」起源(そしてパルメニデスを論じた主にプラトン、ハイデガーに依拠がある。)

これらを代表する表現「一のシニフィアン le signifiant « Un »」(一者のシニフィアン)とは、「S(Ⱥ) とS1という二つの超自我の徴」で見たように、サントーム(原症状)でもあるし、フロイトの自体性愛にもかかわるとジャック=アラン・ミレールは言っている(後述)。

フロイトの自体性愛とは、ナルシシズムーー通念の心的ナルシシズムではなく、身体的ナルシシズムである。

愛Liebeは欲動興奮(欲動の蠢きTriebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch であるが、その後、拡大された自我に合体された対象へと移行し、さらには自我のほうから快源泉 Lustquellen となるような対象を求める運動の努力によって表現されることになる。愛はのちの性欲動 Sexualtriebe の活動と密接に結びついており、性欲動の統合が完成すると性的努力Sexualstrebung の全体と一致するようになる。(フロイト『欲動とその運命』1915)

「一」の享楽とは、ようするに「自ら享楽する身体」、他とはかかわりなく独りで享楽する身体である。

「サントーム le Sinthome」……それは 「一のようなものがある Yadlun」と同一である(ジャッ ク=アラン・ミレール2011, XIV. le point de capiton de Montpellier / tripartition de consistances cliniques)
・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。

・身体の自動的享楽 auto-jouissance du corps(は、「一のようなものがある Yad'lun」と「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel 」の両方に関連づけられる。(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

 ひとは誰もが自ら享楽する身体をその根にもっているという観点である、《自閉的享楽としてのそれ自身の身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste》(ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN、2000)を。

「一のようなものがある Yad'lun 」とは「非二 pas deux」であり、それは即座に「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 」と解釈されうる。 (ラカン、S19、17 Mai 1972)

「二」なしの「一」(自己状態 αὐτός-ismos)であれば、性関係がないどころか、他人との関係はない(非関係)。

穴(トラウマ)、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)

ここでさらにミレール、もしくはミレール派を中心とした注釈をいくらか並べる。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller
身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を意味する。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016、Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens)

「一のシニフィアン le signifiant Un」あるいはサントームとは、フロイトの固着のことである。

固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状(コレット・ソレール、Avènements du réel、2017)
「一」と「享楽」との接合としての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance。⋯⋯⋯

「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながり)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, L'être et l'un)

このミレール文は、サントームの定義と等価である。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

しかしこの「一」自体、それ自身と一致しないシニフィアンである。もし一致していれば、人は反復などしないだろう。これについては、Hélène Bonnaudの注釈がとてもすぐれている、とわたくしは思う。

ラカンがサントーム sinthome を「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーー シニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返し réel essentiel l'itération」を放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération において、自ら反復するse répèteのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。 「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaud、2012-2013, PDF

「一」の反復的享楽とは、《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps》ためである。

すこしまえに戻って記述を続ける。

固着、すなわち欲動の固着とは、フロイトの原抑圧のことである。 《原抑圧とは、先ずなによりも「原固着」として現れるものである。原固着、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野外に置かれるということである。》(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure
・精神分析的治療は抑圧を取り除き、裸の「欲動の固着」を露わにする。この諸固着はもはやそれ自体としては変更しえない。

・固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)

固着(原抑圧)とは穴にかかわる概念である(参照)。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

そしてこの原症状という「一般化排除 la forclusion généralisée」の穴に対応するために、種々の症状を人は作るのである。それが「一般化妄想 le délire généralisé 」、「一般化倒錯 la perversion généralisée」と呼ばれるものである(参照)。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。

Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018)

そして神経症自体、父の版の症状、父の版の倒錯である。

・エディプスコンプレクス自体、症状である Le complexe d'Œdipe, comme tel, est un symptôme.

・倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この「父の版 père-version」についてのコレット・ソレールの注釈は次の通り。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

このように人はみな穴埋めをする。あるいはこの穴の補填をする。自閉症的身体の享楽、自ら享楽する身体を飼い馴らす。それに対する防衛をする。これがわれわれ人間の在り方というのが主流ラカン派の考え方である(参照:人はみな穴埋めする)。

かつまたこの自ら享楽する身体とは、ラカンの定義上、トラウマにかかわる。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )

ゆえにミレールは次のように言っているのである(参照:「人はみな妄想する」の彼岸)。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 https://viedelacan.wordpress.com/

⋯⋯⋯⋯

で、享楽という原マゾヒズムはどこにいってしまったのだろう、この「一」の享楽をあるにはあるに決まっているだろうが。

この「一」の享楽のさらに背後に、原マゾヒズムがあるのではないか、という問いがわたくしにはある。そこがわからない。

フロイトは1919年までは、マゾヒズムは二次的なものとしていた。

マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行によって、対象から自我へと方向転換したのである。(フロイト『子供が打たれる』1919年)

ところが翌年、次の叙述がみられる。

自分自身の自我にたいする欲動の方向転換とみられたマゾヒズムは、実は、以前の段階へ戻ること、つまり退行である。当時、マゾヒズムについて行なった叙述は、ある点からみれば、あまりにも狭いものとして修正される必要があろう。すなわち、マゾヒズムは、私がそのころ論難しようと思ったことであるが、原初的な primärer ものでありうる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年)における記述が核心的なもののひとつだが、それは長い引用となるので、「享楽という原マゾヒズム」を見よ。

ラカン自身、こう言っている。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)

最終的に、1933年(77歳)のフロイトは次のように言うようになる。

マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus (フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)


ーーすなわち自己破壊欲動は、他者攻撃欲動よりも先にある。そして、

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker!(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)

ようするに自閉症的享楽(自ら享楽する身体)のさらに井戸の底には、この原マゾヒズムがあるのではないだろうか。それが現在のラカン主流派ではほとんど強調されていない。


S(Ⱥ) とS1という二つの超自我の徴」での図を再掲すれば、自閉症的享楽とは、母性固着(一次原抑圧)にかかわる。



実際、この自ら享楽する身体をめぐってミレール2011は、S(Ⱥ)/Ⱥを語っている。《S (Ⱥ)とは、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions》、《享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽は固着の対象である elle est l'objet d'une fixation》等々。

だがそれ以前に、論理的には、原エロスに吸引される原マゾヒズムがあるのではないだろうか。それともその引力としての原エロスのまわりを循環運動することを反復的享楽と呼んでいるのだろうか。たぶんそうなのだろうが、そこがわたくしにはラカン主流派の現在の議論では鮮明には語られていないようにみえる。

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)


そもそもあらゆる「反復」は、エロスとタナトスの「欲動混淆 Triebvermischung」(1924)に由来するというのが晩年のフロイトの思考であり、ラカンはこれを否定しているようには見えない。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている…フロイトが主張したように、同一の反復には dans la répétition même、享楽の喪失がある il y a déperdition de jouissance…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(S17、14 Janvier 1970)

とすれば自閉症的享楽の常同的反復も同じである筈(わたくしは自閉症について臨床的には全く知らない者として今、記している)。

生物学的機能において、二つの基本欲動(エロスとタナトス)は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。…

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力 Anziehung と斥力 Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

2018年2月20日火曜日

S(Ⱥ) とS1という二つの超自我の徴

さて「三種類の原抑圧」で記したことをもうすこし鮮明に図示すれば、こうなる。



一次原抑圧の箇所を「母性固着」としたのは、フロイトの記述に則る。

『精神分析概説』草稿(死後出版、1940年)にはこうある。

・母へのエロス的固着 erotischen Fixierung an die Mutter

『モーセと一神教』(1939年)にはこうある(正確な引用は、参照)。

・トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma
=反復強迫 Wiederholungszwang
=動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge

フロイトの「固着」(≒原抑圧)とはラカン概念の「サントーム」と等価であるのは、 「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである」で見た。

そしてサントームΣとは、S(Ⱥ) のことである。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール、「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN)

ゆえにトラウマ Ⱥ への固着とは、 S(Ⱥ)/Ⱥである。

このȺは、穴 trou とも呼ばれる。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を生む。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

そしてS(Ⱥ)は穴 Ⱥ のシニフィアンであるが、Ⱥとは何か?


ラカンは後期の教えにおける⋯⋯穴Ⱥ とは、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうでは なく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au reste であり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sens である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)

ーー「組合せ規則の消滅」を意味する穴Ⱥとは「非関係 non-rapport」あるいは「非全体pastout」である。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

「女性の享楽」は「身体の享楽」と等価な表現であり(参照)、これは自閉症的享楽でもある。《身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。》(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

そして穴とは原抑圧(固着)にかかわる。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


さらにサントームとは「一のようなものがある y'a d'l'Un」、あるいは「一のシニフィアン le signifiant « Un »」とも等しい。

le signifiant « Un », pour lequel je vous ai, l'année dernière, suffisamment semble-t-il, frayé la voie à dire : « y'a d'l'Un ».(Lacan, S20, 19 Décembre 1972)
「サントーム le Sinthome」……それは 「一のようなものがある Yadlun」と同一である(ジャッ ク=アラン・ミレール2011, XIV. le point de capiton de Montpellier / tripartition de consistances cliniques)

そして「この一のようなものがある」とは、身体の自動的享楽である(現在、ラカン派内では、この自動的享楽 auto-érotisme は自閉症的享楽 jouissance autiste とも呼ばれている)。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。

・身体の自動的享楽 auto-jouissance du corps(は、「一のようなものがある Yad'lun」と「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel 」の両方に関連づけられる。(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

「一のようなものがある y'a d'l'Un」、あるいは「一のシニフィアン le signifiant « Un »」は、ミレールによって、「ひとつきりのシニフィアン le signifiant tout seul」、「ひとつきりの一 l’Un-tout-seul」と言い換えられている(参照)。

それは、「ひとつきり」を強調するためである(下記の文にS1とあるが父性隠喩にかかわるS1ーーS2と関係をもつS1ーーとは異なることに注意しなければならない。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller

こうして「一のシニフィアン」=サントーム=固着は、反復的享楽にかかわる刻印と解釈されているのが判然とする(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。

これはフロイト『モーセと一神教』の記述と等価である。

・トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma
=反復強迫 Wiederholungszwang
=動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge


一次原抑圧と二次原抑圧は、二種類の超自我にもかかわる。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlungen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939 年)




標準的には、最初の大他者は母であり、二番目の大他者は父である。そして原初の母なる大他者ーー、《母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter》(モーセと一神教』1939年)

この代替されるというフロイトの表現はラカン派観点からは、二次原抑圧、S1/S(Ⱥ)である。

ラカンは最初期の論文で既に、《太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque》(Lacan, LES COMPLEXES FAMILIAUX ,1938)としている。

そしてセミネール5にはこうある。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)

半年後にまた「母なる超自我」に触れており、「原超自我」という表現をしている。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における純粋で単純な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)


こうして超自我が、一般的に思われているような、「父的なもの」だけではないことが判明する。それは原抑圧が父性隠喩だけではないのと同様である。

いままであまりにエディプスの父ばかりが強調されてきたが、最晩年のフロイトは別の思考をしている。最初の「母なる誘惑者」が〈あなた〉に刻印するのである、《動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge》を。これが〈あなた〉の原超自我の徴である。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版、1940、私訳)

ここではララングとサントームの関係には煩雑になるので触れなかったが、ララングこそ母の徴の最も典型的なものである。 《サントームは、母のララングに起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle》(Geneviève Morel 2005 ーー参照:「ララング定義集」)

最後にニーチェの言葉を引用しよう。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

フロイトにとって、ニーチェの「永遠回帰」とは、快原理の彼岸にある「反復強迫 Wiederholungszwang」、「運命強迫 Schicksalszwang」 である。そしてそれが「動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge」という母性固着にかかわる。

人は次の叙述をじっくり眺めて、ニーチェの原超自我に思いを馳せねばならない。

わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: Ecce homo - Kapitel 3

 そう、《わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin》とは何だったのか、と。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

《ひとがものを書く場合、分かってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分かってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分かってもらいたくなかったのだ。

すべての高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこ起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである。》(ニーチェ『悦ばしき知識』)


ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。

Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden." (フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung)
ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925年)