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2018年5月31日木曜日

ホモ・ヒステリクス

クンデラの『不滅』には、リルケの『マルテの手記』の長い引用がある。ベッティーナのゲーテへの愛をめぐる箇所である。

人々がすべて今もなおお前の愛を語らずにいるということが、どうしてあり得るのか? それ以後さらに忘れがたいことがなにか起ったのか? なにが人々の心を捕えているのか? お前自身が、お前こそが愛の価値を知っていたし、お前はお前の最も偉大な詩人にその愛を声高く語ったのだった、その愛を人間らしいものにしてもらうために。というのも、その愛はまだ基本要素だったからだ。ところが、詩人はお前に返事を書いて、お前の愛を世人に得心させないようにしてしまった。皆が彼のその返事を読んで、その返事のほうをより以上に信じるのだ、なぜなら自然の力よりも詩人のほうが彼らには理解しやすいから。しかし、ここにこそ詩人の偉大さの限界があったということを、たぶん彼らもいつの日か理解することになるだろう。この愛する女(diese Liebende)が彼に課されたのだが(auferlegt、これは宿題や試験が課されるように「課される」ことを意味する)、彼は失敗した(er hat sie nicht bestanden、これはまさにこういうことを意味する、すなわち彼はベッティーナという彼にとっての試験に合格しそこなったのだ)。彼はその愛をお返しする(erwidern)ことができなかったのは、どういうことを意味するのか? つまり、このような愛はお返しをされることを必要としていないし、愛そのもののなかに呼びかけの叫びと答えを含みもっているのだ。それ自体で願いを叶えられているのだ。とはいえ詩人はあらん限りの威儀を尽くして、この愛の前において謙虚になり、パトモス島のヨハネのように、跪いて、この愛の口授することを両手で書きとめるべきであったろうに。「天使の任務を執り行った」(die「das Amt der Engel verrichtete」)この声を前にして、他には選択はなかったし、この声は詩人を包み、永遠のほうへと詩人を伴いさるべく来たのである。それこそ天空を行く彼の熱情にみちた旅のための車だった。彼の死のために晦暗な神話(der dunkle Mythos)が用意されていたのはそこにおいてだったが、彼はそれを空虚なまま放っておいた。(リルケ『マルテの手記』)

クンデラ はこう引用して、さらにベッティーナ側に立つロマン・ロラン、ポール・エリュアールの見解に触れる(それはここでは割愛)。

クンデラ自身の見解は以下の通り。

「この愛する女が彼に課された」とリルケは書いているが、ひとはここでこう問うことができる。この受動の文法形式はどういう意味なのか? いいかえれば、この愛する女を、誰が彼に課したのか?

ベッティーナが1807年6月15日にゲーテに書いた手紙のなかでつぎのような言葉を読むと、同じ疑問がわれわれの心に浮かんでくる。「あたくしはこの感情に溺れることを恐るべきではないのです、だってそれをあたくしの心に植えこんだのはあたくしではありませんもの」

いったい誰がそれを植えこんだのか? ゲーテか? ベッティーナが言おうとしたのは、もちろんそういうことではなかった。彼女の心に愛を植えこんだのは、誰か彼女以上の者、ゲーテより以上の者だった。神ではないにしても、すくなくともリルケの語る天使たちのひとり。

この点まで達すれば、われわれはゲーテを擁護することができる。誰かが(神あるいは天使が)ベッティーナの心に感情を植えこんだのであれば、もちろん彼女はその感情に従うことになる。その感情は彼女の心のなかにあり、それは「彼女の」感情なのだから。しかしゲーテの心のなかには、誰も感情を植えこむ者はなかったらしい。ベッティーナは彼に「課された」のである。宿題のように命じられて。Auferlegt。となると、どうしてリルケはゲーテを非難することができるのか。意志に反して、いわばいきなり前触れもなく課された宿題にゲーテが逆らったことを。なぜ彼は跪いて、高いところから来る声の「口授する」ことを「両手で」書きとらねばならないのか? (⋯⋯)
リルケはベッティーナの愛についてこう言っている。「この愛はお返しをされることを必要としていないし、愛そのもののなかに呼びかけの叫びと答えを含みもっているのだ。それ自体で願いを叶えられているのだ」 天使たちの庭師によって人間の心のなかに植えこまれた愛は、ベッティーナの言ったように、どんな対象も、どんな反響も、どんな「Gegen-Liebe」(見返りの愛)も必要としない。愛される者(たとえば、ゲーテ)は愛の原因でもないし目的でもない。

ゲーテとの文通の時期、ベッティーナはアルニムにも恋文を出していた。そのなかのある一通に彼女はこう書いている。「真実の愛( die wahre Liebe)には不実はできません」 お返しされることを気にかけないこの愛(「die Liebe ohne GegenLiebe」)は、「(相手が)どんな変貌をしようと愛される者を探りだすのです」

ベッティーナの心に愛が植えこまれたのは、よしんば天使の庭師によってではなく、ゲーテあるいはアルニムによってであったとしても、ゲーテあるいはアルニムにたいする愛は彼女のなかで開花していただろう。類まれな、非互換的な愛、それを植えつけた者、つまり愛される者と運命的に結びつけられた愛、だから変貌など知らない愛として、このような愛を「関係」と定義することができよう。

それにひきかえ、ベッティーナが「wahre Liebe」(真実の愛)と呼ぶのは愛=関係ではなく、「愛=感情」である。ある天上の手によってある人間の魂のなかに点火される焔。愛する者が、その光に導かれて「(相手が)どんな変貌をしようと愛される者を探りだす」松明(たいまつ)。そういう愛(愛=感情)は不実というものを知らない。なぜならばたとえ対象が変わろうとも、愛そのものは、同じ天上の手によって点火される同じ焔でありつづけるのだから。
われわれは考察をここまで進めたところで、分厚い往復書簡のなかで、なぜベッティーナはゲーテにほとんど質問しないのか、たぶん理解しはじめるだろう。(⋯⋯)ベッティーナはゲーテと議論などしない。芸術についてさえ。(⋯⋯)

この厖大な往復書簡のなかに、われわれはそういうものはなにも見つけられないだろう。この往復書簡はゲーテについて大したことを教えてくれない。それもただもっぱら、ベッティーナは、ひとが思っているよりもずっとゲーテに関心をもってなかったからなのだ。彼女の愛の原因と方向はゲーテではなく、愛であった。(クンデラ『不滅』第四部「ホモ・センチメンタリス」)

《ベッティーナは、ひとが思っているよりもずっとゲーテに関心をもってなかったからなのだ。彼女の愛の原因と方向はゲーテではなく、愛であった》とあるが、この見解は、実にラカン派的である。

いやラカン派的というより、ジジェク的と言っておこう、《女ははるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。》

男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながらそれと同時に、女ははるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。⋯⋯

女性の究極的パートナーは、ファルスの彼岸にある女性の享楽 jouissance féminine の場処としての、孤独自体である。 ( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

さきほど引用したクンデラ『不滅』の第四部には、「ホモ・センチメンタリス」という小題がついているが、「ホモ・センチメンタリス」とは何か。

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。(⋯⋯)

感情というものは、そもそも、われわれのなかに知らず知らずに、そしてしばしば意に逆らって湧きあがってくる。われわれがそれを感じようと欲すると(ドン・キホーテがドゥルシネアを愛そうと決めたように、われわれがそれを感じようと決めると)、感情はもはや感情でなくなり、感情を模倣する紛いもの、感情の誇示になってしまう。ふつう一般にヒステリーと呼ばれるものになってしまう。だからしてホモ・センチメンタリスは(いいかえれば、感情を価値に仕立てた人間は)、じっさいにホモ・ヒステリクスと同一なのである。(クンデラ『不滅』)

最後に、クンデラはベッティーナのゲーテへの手紙(1807年6月15日)を引用していたことを思い出しておこう、「あたくしはこの感情に溺れることを恐るべきではないのです、だってそれをあたくしの心に植えこんだのはあたくしではありませんもの」



2018年5月30日水曜日

カント的転回とボロメオ結び(柄谷行人)

ボロメオ結びの誤謬」で、いくらか冗談めかして記してしまったが、ボロメオの環は使用できるところは使用したらよいのであって、つまり形式的に考える上ではとても役に立つ。

それをはじめて知ったのは、いままで何度か記してきたが、柄谷行人によるボロメオへの言及である(参照:母の三界)。

物自体、現象、仮象という三つの概念は、一組の構造をなしている。つまり、そのどれかを捨てても根本的に意味が失われるのである。もちろん、われわれもこの古くさい「物自体」という言葉を廃棄してもよい。が、これらの構造だけは手放すわけにはいかない。たとえば、精神分析において、ラカンが定立した、「現実的なもの」・「象徴的なもの」・「想像的なもの」という区別は、明瞭にカント的である。このように、物自体、現象、仮象という三つの 概念が別の言葉でも言い換えられるということは、それらが超越論的に見出される一つの「構造」であること、カントの言葉でいえば、アーキテクトニック(建築術)であることを意味する。カント自身が、それを隠喩として語った。(柄谷行人「英語版への序文」、『隠喩としての建築』所収)
フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

いまはトランスクリティークにおける記述を使って図示する。




これも何度も引用しているが、ボロメオ結びの基本的読み方は次の通り。

ボロメオ結びにおいて、想像界の環は現実界の環を被っている。象徴界の環は想像界の環を被っている。だが象徴界自体は現実界の環に被われている…。これがラカンのトポロジー図形の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 1999、DOES THE WOMAN EXIST? )

さらに、柄谷は次のようにも記している。

近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

これも図示しよう(ネーションを共同体、ステートを国家として)。




共同体は資本制を覆い隠すのである。そして国家は共同体を覆う。だが資本制は国家を覆う(この考え方は、現在の日本を考えるうえでも、とても役に立つ。財政破綻の恐怖が、安倍政権をしんに衝き動かしているのは瞭然としている。だが日本共同体は、その財政破綻の現実をいまだ覆い隠そうとしている)。

すくなくともある時期以降の共同体は、国家(象徴形式)によって構成されている。

カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。(柄谷行人『トランスクリティーク』) 
彼(カント)が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(同上)

そして国家とは資本に駆動されているのはいうまでもないだろう。

ジジェクにも同様の記述がある。

They relate to each other like the ISR triad mentioned above: the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy (ZIZEK, Iraq: The Borrowed Kettle、2004)

すなわち民主的イデオロギーとしての想像界、政治的ヘゲモニーとしての象徴界、エコノミー(経済)としての現実界。




さらにもうひとつ、柄谷を引用しよう。

ここで、カントにいささかも言及しないでなされた「カント的転回」……の近年におけるめざましい例として、ジュディス・バトラーの『身体こそが問題だ』1993をあげておきたい。彼女は前著『ジェンダー・トラブル』において、セックス/ジェンダーの区別に関して、文化的社会的なカテゴリーとしてのジェンダーを重視した。これは生物学的に見られた性別を疑うために不可欠な過程である。しかし、それは逆に観念論に導かれる。

《もしジェンダーが性の社会的な構築物であるなら、そして、その構築によってしかこの「性」に近づけないとしたら、性はジェンダーに吸収されてしまうだけでなく、「性」は、それに関して直接的に接近できないような前言語的な場においてレトロアクティブに設定される、何か虚構のようなもの、おそらくファンタジーのようなものになってしまうように見える》(Bodies That Matter)。

だが、sex(body)には、社会的カテゴリーを変えるだけではどうにもならないものがある。彼女はそうした言語論的観念論から「唯物論」に転回する。いいかえれば、sex(body)をgender(category)が吸収することができない「外部」として再導入する。むろん、このとき、彼女はたんに生物的な身体(感覚)に戻ったのではなく、それもまた身体(感性形式)による構成であることーーーしかし、それは社会的カテゴリーにとっては所与性としてあらわれるーーーを見出したのである。いいかえれば、彼女はこれまでの観念論的思考と経験論的思考のいずれをも批判する立場を提起したのであって、それを「唯物論」と呼んでいる。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部第1章注)



バトラーは、次の方法で、ジェンダー概念の限界に遭遇したのである。

現在、真の唯物論者である唯一の方法は、観念論をその限界まで突き進めることである。(ジジェク、Absolute Recoil[absoluter Gegenstoß「絶対的突き返し」]、2014)

そもそもわたくしが「身体は穴である」で次のように記したヒントは、上の柄谷=バトラーにある。

①「形式・機能としての身体」(象徴的身体)は、「身体のイマージュ」(想像的身体)を支配している。

②想像界としての「身体のイマージュ」は、現実界としての「身体の実体」(自ら享楽する身体)を支配する。

③現実界としての「自ら享楽する身体」は、「象徴的身体」に穴を開ける。



というわけで、わたくしはラカンからではなく、柄谷行人からボロメオ結びの利用法を教えられた。


2018年5月29日火曜日

ボロメオ結びの誤謬

いやあ貴殿! ボクはボロメオ結びを「利用」して書くことがあるけどさ。肝腎なのは、最後のラカンの次の言明だよ。

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用abus de métaphoreだ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réelから。私が言っていることの本質は、性関係はないil n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(ラカン、S26,  La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])

 これを前提として「利用」するだけだな、ボクは。

だから、セミネール23に現れるサントームの図は、最低限、眉唾で眺めなくちゃいけない。


この「サントーム」は、見てのとおり、想像界・象徴界・現実界を支えるサントームΣなんだけどさ、でも《実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない》って「告白」してんだから。

だから、もし「利用」するとしたらーー「身体は穴である」で記したようにーー、せいぜい「真の穴」のほうのボロメオ結びだね。こっちの穴が真のサントーム(原症状、欲動の固着、原抑圧)だよ。


我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )

これがミレールが次のように言っていることだ。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)
すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlantである。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

つまり、 想像界・象徴界・現実界を支えるサントームΣのほうは、ラカンの「妄想」だよ(※参照:人はみな穴埋めする)。

マルクスの言い方ではフェティッシュ(「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」と「自動的主体 automatisches Subjekt 」等)だ。

そしてラカンの「非全体」とは、《無根拠であり非対称的な交換関係》(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)とほぼ等価であり、マルクス的には性的非関係というより人間のコミュニケーション関係自体が、フェティッシュに支えられている。

ま、べつに「妄想」したり「フェティシスト」であることが悪いわけじゃないけどさ(これは、現代ラカン派用語では「一般化妄想」、「一般化倒錯」(参照)ってわけだよ)。

ラカンは1978年に言った、 ‘tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant'、すなわち「人はみな狂っている、人はみな妄想する」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。(ミレール 、Ordinary psychosis revisited、PDF

人は妄想に耽って、まがいの性関係(あるいはコミュニケーション関係)に切磋琢磨したらよいのである・・・

幻想とは、象徴界(象徴化)に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)
妄想とは、侵入する享楽に意味とサンス(方向性)を与える試みである。(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、2004)

クンデラが理想的な性関係のあり方について書いてんな、これしかないね。

ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ『笑いと忘却の書』)

以上、「神の笑いのこだま」の記述でした。

「人間は考え、神は笑う L'homme pense, Dieu rit」という、すばらしいユダヤのことわざがあります。この格言に触発されて、私は好んでこんな想像をしています、ある日フランソワ・ラブレーが神の笑いを聞き、こうして最初の偉大なヨーロッパ小説のアイデアが生まれた、と。私は、小説という芸術が「神の笑いのこだま l'écho du rire de Dieu」としてこの世に生まれてきた、という考えが気に入っています。(クンデラ『小説の精神』)

身体は穴である

人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)

ラカンは上の発言とほぼ同時期に次のように言っている。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence ]
象徴界 [ le symbolique ] は穴 [ trou ]
想像界[ l'imaginaire ] は一貫性 [ consistance ]

(ラカン、S22、18 Février 1975) 

象徴界は、穴とは別に「非一貫性(非全体 pastout)」であるとも示されている。 そしてその非一貫的象徴界の裂け目に外立(外に出る)のが、現実界だと。

とすれば、「身体は穴」と言ったとき、「身体は象徴界だ」と言っているのだろうか。 事実、ラカンはセミネール14の段階では、大他者は身体であると言っている。《l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! 》(S14)

だが1974年の段階では、身体のイマージュに対しての穴と言っているのだから、セミネール23に出現するボロメオ結びの図における、想像界と現実界の重なり箇所の「真の穴 VRAI TROU」を言いたいのだろうか。




結論を先に言ってしまえば、わたくしの読解では、身体は穴と言ったときの穴は、「真の穴」が相応しい。

たとえば、それは Florencia Farìas の以下の文が暗に示している。

私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。

忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。

しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。
ヒステリーの女性は、身体のイマージュによって、女として自らを任命しようse nommer comme femme と試みる。彼女は身体のイマージュをもって、女性性 la féminité についての問いを解明しようとする。

これは、女性性の場にある名付けえないものを名付ける nommer l'innommable à la place du féminin ための方法である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

ラカンのボロメオ結びの基本的な読み方は次の通りである。

①緑の環(象徴界)は赤の環(想像界)を覆っている(支配しようとする)。
②赤の環(想像界)は青の環(現実界)を覆っている。
③青の環(現実界)は緑の環(象徴界)を覆っている。


ここでの文脈では、つまり Florencia Farìasの云う《身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である》という前提のもとで言えば、

①「形式・機能としての身体」(象徴的身体)は、「身体のイマージュ」(想像的身体)を支配している。

②想像界としての「身体のイマージュ」は、現実界としての「身体の実体」(自ら享楽する身体)を支配する。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972ーー「女性の究極的パートナーは孤独である」 )

この「自ら享楽する身体」とは、「話す身体」のことである。

現実界、それは「話す身体 corps parlant」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient (Lacan, S20. 15 Mai 1973ーー「ラカンの性別化の式のデフレーション」)

③現実界としての「自ら享楽する身体」は、「象徴的身体」に穴を開ける。

とはいえ、《身体のイマージュの構成は象徴界から来る》のだから、象徴界+想像界としての「身体のイマージュ」と「自ら享楽する身体」の重なり箇所が、「真の穴」ということになる。

この「真の穴」の箇所を、ラカンは上に掲げた図が示される同じセミネール23で、JȺとも図示している。


JȺのȺとは、穴 trou ことである。

Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, 2001ーー欠如と穴(簡略版)

ラカン自身による発言も掲げよう。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
リビドーは、その名が示唆しているように、穴に関与せざるをいられない。身体と現実界が現れる他の様相と同じように。 La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou, tout autant que des autres modes sous lesquels se présentent le corps et le Réel (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

したがって、JȺとは、穴の享楽、身体の穴の享楽、原抑圧の享楽と読むことができる。

原抑圧=固着(原固着)であり、ラカンのサントームとは固着(欲動の固着)のことなのだから(参照)、サントームの享楽でもある。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を意味する。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016、Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens)

Pierre-Gilles Guéguenの云う《自閉症的享楽 jouissance autiste》が《自ら享楽する身体》にかかわる。

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)

これらはすべて「原抑圧の享楽」とすることができる。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ラカンはこのザルツブルクで、「臍の緒 cordon ombilical 」という言葉まで口に出しているが(参照)、それは遡ってセミネール11の「胎盤の喪失」という言明とともに読むことができる。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11、20 Mai 1964)

これらから考えると、わたくしの理解では、究極的な原抑圧とは、「原母との融合(と分離)」にかかわる。

これは原マゾヒズムにおおいに関係する(参照)。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, (ラカン、S23, 10 Février 1976)

1919年までのフロイト(『子供が叩かれる』までにフロイト)とは異なり、1920年以降のフロイトにとっては、《マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus 》(フロイト 1933、『新精神分析入門』)

ーーすなわち自己破壊欲動は、他者攻撃欲動よりも先にある。そして、

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker!(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 」)

ところでフロイトは、原抑圧をめぐって「引力」という語を口にしている。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そして最晩年の草稿では、この引力は、エロスと結びつけられて語られている。

長いあいだの躊躇いと揺れ動きの後、われわれは、ただ二つののみの根本欲動 Grundtriebe の存在を想定する決心をした。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstrieb である。(⋯⋯)

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに結び合わせる Bindung ことである。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を分離 aufzulösen(解体)すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。(⋯⋯)

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。(⋯⋯)性行為 Sexualakt は、最も親密な結合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

原抑圧とは、ラカン派的にはブラックホールでもある(参照)。まさに引力としての原抑圧。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir , Écrits, 1966)

結局、「原抑圧の享楽」、あるいは「サントームの享楽」とは、大他者(その代表的なものは母なる大他者)との融合欲動にかかわるとわたくしは考える。それは母なる大地との融合(つまり死)欲動と捉えてもよい。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

だが真に融合してしまえば死が訪れる。ゆえに引力にたいする斥力が生まれる。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

したがって、人は穴のまわりの循環運動の生を送るのである。

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

無を食べる女たち」で記した女たちは、(象徴界には存在しないが機能する)「無」というブラックホールの引力・エロス欲動の引力に最も過剰に誘引された女たちである(斥力があまり機能しないままの)。


2018年5月28日月曜日

無を食べる女たち


拒食症 anorexie mentaleとは、食べない ne mange pas のではない。そうではなく、無を食べる manger rien。(ラカン、S4, 22 Mai 1957)

なぜ拒食症は女たちに多く、男たちに少ないのか。


我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)

なぜ、女たちのほうが男たちにくらべて無により接近しているのか。

ここはジジェクのジョークで誤魔化しておかねばならない。

「あなたの姉さんの裸について、そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか?」 「姉の足のあいだに僕は奇妙なことに気づいたんだ」 「彼女の足の間には何もなかったはずですが」 「そこが不思議なんだ」。(ジジェク、無以下のもの、2012)

ーーこれはジャーロック・ホームズのパラフレーズである。

「そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか」 「あの晩の、犬の不思議な行動に注意なさるといいでしょう」 「犬は何もしなかったはずですが」 「そこが不思議というのです」とホームズは言った。(シャーロックホームズ 白銀号事件)

※いくらか理論的には、 「ラカン派的子宮理論」を見よ。

さて冒頭の「拒食症」に戻る。


ラカンは、ヒステリーにおける「身体の拒絶 refus du corps」(身体のストライキ)を何度か語っている。いわゆるヒステリーの女性の「身体側からの反応 complaisance somatique」は、「身体の拒絶」を隠している。彼女は「主人の道具 instrument du maitre」となる限りで、彼女の身体を引っ込める(分離させる)のである。

おそらく、私たちの時代に多発する女性の拒食症は、身体の拒絶の、最も範例的な様相を現している。人は考えうるかもしれない、拒食症は、ヒステリーの女性が、身体のイマージュを通して、女としての自らを任命しようと試みている。したがって、女性性の問いを解明しようとしていると。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

上の文にある《身体側からの反応 complaisance somatique》 とは、フロイトの症例ドラに頻出する《Somatisches Entgegenkommen》である。

フロイトはヒステリーの事例にて、「somatic compliance(身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「Somatisches Entgegenkommen」とは、「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着」(欲動の固着 Trieb-Fixierung)である。(ポール・バーハウ 2004, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics, Paul Verhaeghe)

フロイトの症例ドラからも引用しておこう。

ヒステリー症状には、どれも心身両面の関与が必要なのである。それはある身体器官の、正常ないし病的現象によってなされる、ある種の身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommenがなければ成立しない。(⋯⋯)

私が転換と呼んだ純粋に精神的な興奮が身体的な興奮に移行することには、それに好適な多くの条件がそろわねばならず、転換症状に必要な身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommen は非常にもちにくいので、無意識からの興奮の発散欲動は、できるかぎり、すでに通過可能となっている発散路を使用することになる。……このように経路づけられた道の上を、興奮は新しい興奮源から以前の発散点へ流れてゆき、かくて症状は聖書の表現のごとく、新しい酒で満たされた、古い皮革に似るのである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』1905年)

結局、すべての症状の底には欲動の根が居座っているのである。欲動の根とは、ドラの例では、現実界的な口唇欲動(口唇享楽)であり、その上にある象徴的形成物、すなわち《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)が、神経性的な咳や嗄れ声、そして 失声症である(参照:真珠貝と砂粒)。

この欲動の核=サントーム(参照)が、中期ラカンがすでに次のように言っていることである。

フロイトは常に症状の機能について語った。すなわち症状はそれ自体が享楽である。FREUD a toujours dit de la fonction du symptôme : c'est qu'en lui-même le symptôme est jouissance. (ラカン,S13,27 Avril l966)

別の言い方をすれば、原症状=ひとりの女は、常に暗闇のなかに異者として蔓延っているのである(参照)。そして症状のない主体はない。ゆえに男も女にも「暗闇のなかに異者として蔓延るひとりの女」がいるのである。

まず肝腎なのは、次の図をじっくり眺めてみることである(下図の左欄にある「症状」とは象徴界的症状、右欄にあるのは現実界的症状(欲動の根、サントーム)である。


症状は、現実界について書かれる事を止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974ーー「書かれぬ事を止める」から「書かれる事を止めぬ」へ

わたくしの理解では、たとえばアルトーの「器官なき身体」は、すべて右欄にかかわる。

ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDFーーララング定義集

なにはともあれ、ラカンにとって、《ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)であり、《ひとりの女は他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. 》(JOYCE LE SYMPTOME, AE569,1975)

そしてこのサントームとは、《我々にとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)であり、すなわち《たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen》(フロイト『制止、症状、不安』1926年)である。

そしてこれが女たちに典型的に現われるのは、わたくしの考えでは、少女期から常に身体を意識せざるをえない(例えば月経)女たちの「子宮」におおいに関係する。

すなわち最も内的でありながら、規則的に外部から訪れる「マレビトとしての身体」(異物=外密=不気味なもの)に、男たちよりも格段に近しい女たちの身体に。




外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)



2018年5月27日日曜日

女性は存在自体がフェティシストである

根本幻想 le fantasme fondamental とは、《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》であり、この《馬鹿げたテクニック Technique absurde》は、人が《窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》(Lacan, S10)ようにすること、すなわち大他者のなかの穴 Ⱥ を見ないことにある。

絵  tableauとは、ラカン用語においては対象aのことでもある。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。シミ、すなわち「対象以上の対象」(対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 (ラカン、S11) (ジジェク、パララックス・ヴュ―、私訳)

したがって、ラカンの幻想の式 $ ◊ a とはより厳密に記せば、$ ◊ a ◊ Ⱥ である(ポール・バーハウ2004による注釈:[参照])。

バーハウは以前には(1998)、次のようにも記している。



−φとは、母のペニスの欠如(母のファルス)のことである。

足は、不当にも欠けている女性のペニスを代替する。Der Fuß ersetzt den schwer vermißten Penis des Weibes. (フロイト『性欲論』1905)
フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) フロイト『フェティシズム』1927)

したがって a/ −φ の上辺の「a」は、基本的にはフェティッシュのことである。

ある時期のラカンは、これを「ファルス」と言っている。

母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus(ラカン「科学と真理」1965、E877)

ここでラカンが言っている「ファルス」とは、なによりもまず「想像的ファルス phallus imaginaire」のことである。

(象徴的ファルスとは異なった)他のファルスは、母の想像的ファルスである。un autre phallus c'est le phallus imaginaire de la mère. (ラカン、S4、22 Mai 1957)

想像的ファルスとはフェティッシュのことである。 人はフェティッシュが必要なのである。それを「人はみな穴埋めする」とも呼ぶ。人はみな、欲望する存在であれば、フェティシストである。 

欲望の原因としてのフェティッシュ le fétiche cause le désir ⋯⋯⋯

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10、16 janvier l963)

ーー究極的には「言語自体がフェティッシュである」という観点もあるが、それについてはここでは触れない(参照)。

前期ラカンは、男のリーベ(愛+欲望)の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女のリーベ(愛+欲望)の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》(Lacan, E733)と言った。

だが、女性の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》とは、女性が自らフェティッシュ(他者の欲望のシニフィアン)に仮装することであり(参照:「女性の仮装 la mascarade féminine」)、女性とは(基本的に)存在自体がフェティシストなのである(他方、男性は、フェティッシュという「欲望の原因/対象」に衝き動かされる)。

すなわち、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)。

女性と対象a(フェティッシュ)とのかかわりについては、女流ラカン派臨床家の Florencia Farìasがつぎのように記している。

彼女は、パートナーの幻想が彼女に要求する対象であることを見せかける。見せかけることとは、欲望の対象であることに戯れることである。彼女はこの場に魅惑され、女性のポジション内部で、享楽する jouisse。しかし彼女は、この状況から抜け出さねばならない。というのは、彼女はいつまでも、対象a(欲望の対象–原因)の化身ではありえないから。彼女が「a」のまま reste là comme a・対象のままcomme objet なら、ある種のマゾヒスティックポジションに縛りつけられたままだ elle reste enchainée dans une sorte de position masochiste と言うのは、誇張ではない。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

女性が対象aのままなら、《ある種のマゾヒスティックポジションに縛りつけられたまま》とあるが、ドゥルーズが既に言っているように、《本源的な意味でのフェティシズムなきマゾヒズムはない Il n’y a pas de masochisme sans fétichisme au sens premier》(ドゥルーズ 、マゾッホ論、1967)

女性はなぜそうなのか。しばしば語られてきた最も基本的説明はこうである。

①男女とも最初の愛の対象は女である。つまり最初に育児してくれる母=女である。

②男児は最初の愛のジェンダーを維持できる。つまり母を他の女に変えるだけでよい。

③女児は愛の対象のジェンダーを取り替える必要がある。その結果、母が彼女を愛したように、男が彼女を愛することを願う。

ーーここに女性が他者の欲望の対象となるメカニズムがまずある。

もうひとつの重要な説明は、次のジジェク文にある。

ラカンの定式において、フェティシストの対象は、−φ (去勢)の上の「a」である。すなわち去勢の裂け目を埋め合わせる対象a である(a/−φ)。(⋯⋯)

(何の不思議でもない、女たちが男たちよりももっと覆わなければならないのは。隠されるものは、ペニスの欠如である…)。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien》(Miller, Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは見せかけと同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012, 私訳)

ジャック=アラン・ミレールは、女性性と無をめぐって、次のように記している。

我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)

ーーなぜ《女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している》のかは、もはや繰り返さない(参照:男は、ファルスを持った女である)。

ここでラカン自身からも引用しておこう。

女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)


さて冒頭の話に戻れば、幻想の式「$ ◊ a ◊ Ⱥ 」とは、次のように図示できる。



後年のラカンは、象徴界は穴と言っている。

・現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence]
・象徴界[ le symbolique ] は穴 [ trou ]
・想像界 [ l'imaginaire ] は一貫性 [ consistance ](ラカン、S22)

想像的ファルス(フェティッシュとしての「対象a」)によって、象徴界の穴Ⱥを塞ぐことにより、主体$は欲望することができる。

穴とは「性関係はない」ことでもある。

穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )

ところで対象aとは、穴埋めとしての対象a(見せかけとしての対象a)と穴自体としての対象aがある。

見せかけsemblantとしての対象aは、セミネール20「アンコール」にて次のように示されている。


他方、ラカンは次のように穴としての対象aを語っている。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

この内容は、すでにセミネール11にも表れている。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


ゆえに、穴としての原対象aを塞ぐ想像的対象a(見せかけとしての対象a)があるということになる。

すなわち「i(a)/a」である。 これが上にバーハウ、あるいはジジェクが記している「a/−φ」のことである。

したがって、さきほど掲げた図の中心にある「a」とは、この両方の「a」を示している。



ーーこの図は、こうやって赤く塗ってみると、なにかに似ている気がするが、気のせいであろう・・・





多くの学者が指摘しているが、西洋の究極の性のシンボル、ハートは、ヴァギナを表したものにほかならない。確かに生殖器が興奮し、自分の意志で陰唇が開いた状態にあるとき、ヴァギナの見える部分の輪郭は紛れもなくハートの形をしている。(キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史 』)

・・・なにはともあれ、いま記した内容が、ジジェクが次のように言っていることである。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

※参照:欠如と穴(簡略版)



2018年5月26日土曜日

暗闇に蔓延る異者としての女

晩年のラカンは、《ひとりの女 une femme》について、次のように言っている。

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

これらのラカンの言明は、長いあいだ何のことだかさっぱりわからなかったのだが、「女性の究極的パートナーは孤独である」で引用した、アルゼンチンの女流ラカン分析家Florencia Farìas、2010の小論は、この点にかんしてとても明瞭である。

ヒステリーの女性は、身体のイマージュによって、女として自らを任命しようse nommer comme femme と試みる。彼女は身体のイマージュをもって、女性性 la féminité についての問いを解明しようとする。

これは、女性性の場にある名付けえないものを名付ける nommer l'innommable à la place du féminin ための方法である。

彼女の女性性 féminité は、彼女にとって異者 étrangère である。ゆえに自らの身体によって、「他の女の神秘 le mystère de l'Autre femme」を崇敬する。「他の女の神秘」は、彼女が何なのかの秘密を保持している。すなわち、彼女は「他の女autre femme」を通して・「現実界の他者 autre réel」の介入を通して、自分は何なのかの神秘へと身体を供与しようとする。

ヒステリーから女性性への道のりには、置き残されているものがある。症状、不平不満、苦痛、侵入的母あるいは不在の母 mères harcelantes ou absentes、理想化された父あるいは不能の父 pères idéalisés ou impuissants、そして場合によっては、子供をファルスの場に置く享楽。……
ラカンは、女性性について問い彷徨うなか、症状としてのひとりの女 une femme comme symptôme を語った。ひとりの女は、他の性 l'Autre sexe
 がその支えを見出す症状のなかにある。ラカンの最後の教えにおいて、私たちは、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin を読み取りうる。

女は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに従う。すなわち「他の身体の享楽 la jouissance d'un autre corps」へと彼女の身体を貸し与える。他方、ヒステリーの女性は、彼女の身体を貸し与えない。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

ラカン主流派の頭領ジャック=アラン・ミレールでさえ2014年になってようやくーーわたくしの知りうる限りでだがーー、次のように曖昧な形で言うようになったのだから、一年半ほどまえ出会った、ほとんど名のしれていない分析家 Florencia Farìas の2010年時点の記述はきわめて役立った。

「言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(ミレール 2014、L'inconscient et le corps parlant ーー「愛のテュケーと愛のオートマン」)

Farìasが記している《彼女の女性性 féminité は、彼女にとって異者 étrangère である》とは、わたくしの読解では、ラカンによる《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger》に相当し、これが「ひとりの女」ということになる。

古く l'Unerkannt(知りえないもの)としての無意識 l'inconscient は、まさに我々の身体 corps のなかで何が起こっているかの無知 ignorance によって支えられている何ものかである。

しかしフロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次 の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 」と「円環を為す fait cercle 何か、あるいは真っ直ぐな無限 droite infinieと言ってもよい(それ は同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である。 (ラカン、セミネール 23、11 Mai 1976)

女とは「異者としての身体」のこと」でも記したが、この《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger》とは、フロイトの「異物」のこと。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


そして冒頭に引用した《ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome 》(ラカン、1976)におけるサントームとは、フロイトの「固着」のこと。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(結びつき connexion)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール L'être et l'un IX, 2011))
固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)
固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状(コレット・ソレール、Avènements du réel、2017)

したがって「ひとりの女は固着のこと」となる。そして固着の核心は、最初の大他者(母なる大他者)の刻印(母による徴付け)と捉えうる。

その徴は、裂目 clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。⋯⋯⋯刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる。(S17、10 Juin 1970)

この徴が、享楽回帰=反復強迫をもたらす刻印である。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

そして、ラカンにとっての神は女である。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女  La femme 》 だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、S23、16 Mars 1976)

この女とは、究極的には原母のことだろうと、わたくしはバーハウの記述にもとづいて考えている。

フロイトの新たな洞察を要約する鍵となる三つの概念、「原抑圧 Urverdrängung」「原幻想 Urphantasien(原光景 Urszene)」「原父 Urvater」。

だがこの系列(セリー)は不完全であり、その遺漏は彼に袋小路をもたらした。この系列は、二つの用語を補うことにより完成する。「原去勢 Urkastration」と「原母 Urmutter」である。

フロイトは最後の諸論文にて、躊躇しつつこの歩みを進めた。「原母」は『モーセと一神教 』(1938)にて暗示的な形式化がなされている(「偉大な母なる神 große Muttergotthei」)。「原去勢」は、『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang』 (1938)にて、形式化の瀬戸際に至っている。「原女主人 Urherrin」としての死が、最後の仕上げを妨げた。(ポール・バーハウ1999, Paul Verhaeghe, Does the Woman exist?)

人間最初の「身体の出来事」とは、母なる大他者に関係しているのは、まず間違いない。

身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)

ーーたとえば後期ラカンの核心概念のひとつララングとは「母の言葉 la dire maternelle」のことである(参照:ララング定義集)。

コレット・ソレールの言い方では、母なる大他者とは、原リアルの名・原穴の名(原トラウマの穴)である。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ちなみに最晩年のフロイトは「固着」用語を次のように使っている。

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ーーこの「母へのエロス的固着の残余」とは、巷間で揶揄的にいわれる「マザコン」ーーつまり母のイマージュに囚われることーーではないことに注意しなければならない(参照:母の三界

ここでさらにミレールを引用しておこう。

純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corp (ミレール, L'être et l'un Ⅴ, 2011
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, L'être et l'un、XI 2011
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation(ミレール 、Progrès en psychanalyse assez lents、2011

ミレールの言明からも、女が固着にかかわるのは明らかだろう。

ラカン曰くの《ひとりの女はサントーム(原症状)である》とは、まずこの文脈のなかでとらえることができる。

母(原母)と女との関係とは、仏典にある《一切女人、是れ我が母なり》であり、つまり《すべての女には母の影が落ちている》(バーハウ、1998)である。

ところで、中期フロイトは、固着≒原抑圧をめぐって次のように記している。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧(放逐)により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

ここには「異物」という語は直接には出現しないが、《患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかす》と記されているものが、「異物」に相当する筈。

以上から、わたくしの現在の読解では、「暗闇に蔓延る異者としての女」という当面の結論になる。

※いくらか異なった側面からの「女」については、ーー、《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de La/ femme》による穴(原抑圧による穴)にかかわる「女」についてはーー「人はみな穴埋めする」を参照のこと(とはいえ究極的には上に記した考え方に帰着する)。



2018年5月25日金曜日

女性の究極的パートナーは孤独である

《男は〈すべて〉、ああ、すべての男は、ファルス享楽なのである。l'homme qui, lui, est « tout » hélas, il est même toute jouissance phallique [JΦ]》(ラカン「三人目の女 La troisième」1974)

⋯⋯⋯⋯

以下、アルゼンチンの女流ラカン派分析家 Florencia Farìas 2010 の文を主に抄訳引用するが、そこには「ヒステリーの女性」という言葉が出現する。このヒステリーとは、巷間に流通するヒステリーとは異なり、「言語によって分割された主体$」という意味であり、ひとは言語を使用するかぎり、本来的にはヒステリーである。《思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものである。》(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」)

晩年のラカン自身、《私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだ。je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme》(Lacan, S24, 14 Décembre 1976)と言い放っている。そして主に男性的特徴とされる強迫神経症とは、「ヒステリーの方言」(フロイト)である。


さて、Florencia Farìas 2010の引用であるが、途中にラカン自身の言明を挿入して補足してゆく。

女性たちのなかにも、ファルス的な意味においてのみ享楽する女たちがいる。このファルス享楽は、シニフィアンに、象徴界に結びつけられた、つまり去勢(ファルスの欠如)に結びつけられた享楽である。この場所におけるヒステリーの女性は、男に囚われたまま、男に同一化したままの(男へと疎外されたままの)女である。…彼女たちはこの享楽のみを手に入れる。他方、別の女たちは、他の享楽 l'Autre jouissance 、女性の享楽jouissance féminineへのアクセスを手に入れる。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

《ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽[参照]) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。》(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ファルスとしての女は、他者の欲望 désir de l'Autre へと彼女の仮装 mascarade を提供する。女は欲望の対象の見せかけを装い fait semblant、そしてその場からファルスとして自らを差し出す。女は、自らが輝くために、このファルスという欲望の対象を体現化することを受け入れる。しかし彼女は、完全にはその場にいるわけでない。冷静な女なら、それをしっかりと確信している。すなわち、彼女は対象でないのを知っている elle sait qu'elle n'est pas l'objet。もっとも、彼女は自分が持っていないもの(ファルス)を与えることに戯れるかもしれない elle puisse jouer à donner ce qu'elle n'a pas。もし愛が介入するなら、いっそうそうである。というのは、彼女はそこで、罠にはまることを恐れずに、他者の欲望を惹き起こす存在であることを享楽しうる jouissant d'être la cause du désir de l'autre から。彼女の享楽が使い果たされないという条件のもとでだが。(Florencia Farìas、2010)

《女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! 》(Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

《見せかけ、それはシニフィアン(表象)自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même !》 (Lacan, S18, 13 Janvier 1971)

《男を女へと結びつける魅力について想像してみると、「擬装した人 travesti」として現れる方が好ましいのは広く認められている。仮面 masques の介入をとおしてこそ、男と女はもっとも激しく、もっとも燃え上がって la plus aiguë, la plus brûlante 出会うことができる。》(ラカンS11、11 mars 1964 )

彼女は、パートナーの幻想が彼女に要求する対象であることを見せかける。見せかけることとは、欲望の対象であることに戯れることである。彼女はこの場に魅惑され、女性のポジション内部で、享楽する jouisse。しかし彼女は、この状況から抜け出さねばならない。というのは、彼女はいつまでも、対象a(欲望の対象–原因)の化身ではありえないから。彼女が「a」のまま reste là comme a・対象のままcomme objet なら、ある種のマゾヒスティックポジションに縛りつけられたままだelle reste enchainée dans une sorte de position masochiste と言うのは、誇張ではない。(Florencia Farìas、2010)

《女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà de ce qu'on peut appeler la mascarade féminineに位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。》(ラカン、S5、23 Avril 1958)

反対に、女性の享楽 jouissance féminine は、人が「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」、あるいは「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」へのアクセスを手に入れうる場である。

対象aと女性の享楽は、性関係の不在を補填 suppléance する二つの様式である。この二つは、性関係の不可能な出会いを証明づけることをやめない。

したがって、女性の身体 Le corps féminin は、「愛と享楽 l'amour et la jouissance 」とのあいだに自らを提供する。私たちは言いうる、ひとりの女 une femme は、「享楽することと愛されること le faire jouir et l'être aimée 」とのあいだに自らを位置づけると。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)

⋯⋯⋯⋯


《身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。》(ラカン、S20、19  Décembre 1972 )

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)


以下、自閉症をめぐるラカン派の記述をかかげるが、ラカン派における自閉症とは、その原義の「自己状態 αὐτός-ismos」という意味であり、巷間に流通する「自閉症」とは異なる。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007、pdf
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
自閉症的享楽としての身体固有の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
身体の享楽(女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

⋯⋯⋯⋯

ここまでは、Florencia Farìasの『Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010、PDF』の記述を主に引用して、ラカン自身やラカン臨床派の記述によって裏付けたが、彼女の言っている内容を、一般向けによりわかりやすく言えば、次のジジェク文がふさわしい。

男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。⋯⋯

女性の究極的パートナーは、ファルスの彼岸にある女性の享楽 jouissance féminine の場処としての、孤独自体である。 ( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

そしてこの「孤独」を、よりラカン臨床派的にいえば、女性の享楽としての「自閉症的享楽」あるいは「自ら享楽する身体 corps qui se jouit」のこととなる。

※原症状(サントーム・固着・欲動の根)という観点からの女性の享楽については、
女性の享楽と身体の出来事」を参照のこと。





2018年5月24日木曜日

ぼくもういかなきゃなんない

ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない




どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう



トリュフォー、大人は判ってくれない、1959


よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない


ーー谷川俊太郎「さようなら」   
 


突然炎のごとく、1962


ひるもよるもいろんなおんなにほれる
やったらほかのおんながよくなる
きっとしぬまでくりかえす
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい


ピアニストを撃て、 1960


ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どっといったらしずかにいかなきゃなんない

肌身とはぴつたり合つて、女の乳房わが胸にむず痒く、開中は既に火の如くなればどうにも我慢できねど、こゝもう一としきり辛棒すれば女よがり死するも知れずと思ふにぞ、息を殺し、片唾を呑みつゝ心を他に転じて、今はの際にもう一倍よいが上にもよがらせ、おのれも静に往生せんと、両手にて肩の下より女の身ぐツと一息にすくひ上げ、膝の上なる居茶臼にして、下からぐひぐひと突き上げながら、片手の指は例の急所攻め、尻をかゝえる片手の指女が肛門に当て、尻へと廻るぬめりを以て動すたびたび徐々とくぢつてやれば、女は息引取るやうな声して泣きぢやくり、いきますいきます、いきますからアレどうぞどうぞと哀訴するは、前後三個処の攻道具、その一ツだけでも勘弁してくれといふ心歟欺。髪はばらばらになつて身をもだゆるよがり方、こなたも度を失ひ、仰向の茶臼になれば、女は上よりのしかゝつて、続けさまにアレアレ又いくまたいくと二番つゞきの淫水どツと浴びせかけられ、此だけよがらせて遣ればもう思残りなしと、静に気をやりたり。 (永井荷風『四畳半襖の下張り』)



2018年5月23日水曜日

美は、世界の夜に対する最後の防衛である

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.(ラカン、E825、1960)
美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7、18 Mai 1960 )



美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


ラカンにとってトラウマとは、《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)》(S21、1974)でもある。

ーーこれが前回(いくらか冗談めかして)記した「美は黒洞に対する最後の防衛」のよってきたるところである。

⋯⋯⋯⋯

ところで、ニーチェの次の音楽の定義を受け入れるなら、音楽においても、いや音楽においてこそ、「美は黒洞に対する最後の防衛」は最も当てはまりうる。

夜と音楽。--恐怖の器官としての耳は、恐怖心をもつ時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明の中でのみ、現在見られるように立派に発展することが出来た。明るいところでは、耳はそれほど必要ではない。それが原因で、夜と薄明の芸術という音楽の性格が生まれるのである。(ニーチェ『曙光』250番)

※参照:「美は恐ろしきものの始まり」(リルケ)




音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。(……)

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PAINO SOLO』)




ーーシューマンは、この「暁の歌」を狂気に陥る直前に作曲した。

⋯⋯⋯⋯

《美は現実界に対する最後の防衛である》とは、「美は享楽に対する最後の防衛」と言い換えることもできる。

私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン,Psychanalyse et medecine,1966)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel(ラカン、S23, 10 Février 1976)

※参照:究極のエロス・究極の享楽とは死のことである


享楽(悦楽 Lust)が欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)



おそらく下の図の右側の項にかかわるものであるならば、(多くの場合)同様に言いうるのかもしれない。もちろん「美は身体の欲動に対する最後の防衛」とするのは、最も典型的な言い方である。

愛のテュケーと愛のオートマン

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていないゲバルト(暴力) unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889)

ーー《しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?》(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。(ラカン、1975, Strasbourg)

だが、たとえば、

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

 ここから、「美はひとりの女に対する最後の防衛だ」と言ってもよい筈である。

私は後に(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926 年)

「抑圧」という語の原義には圧するの意味はない。むしろ「放逐」あるいは「追放」が正しい。

そして、

本源的に抑圧(放逐)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)

「最後の防衛」とは、十分には防衛しきれていないという意味もある。防衛の「残存現象 Resterscheinungen」(フロイト、1937)、あるいは置き残しがかならずある。

翻訳の失敗、これが臨床的に抑圧(放逐)と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.»   (フロイト、フリース書簡 Brief an Fliess、1896)
抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure

フロイトにとって、欲動の固着(リビドーの固着 )は、トラウマにかかわる。そして《リビドーの固着 Fixierung der Libidoは生涯を通して、しつこく持続する。》 (『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

これがニーチェが次のように言っていることの真意である。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

ニーチェにおいて、最も静かな時刻に女主人が回帰した。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

なんだろうか、恐ろしき女主人とは。

わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: Ecce homo - Kapitel 3

・・・というわけで、⋯⋯⋯フロイトを引用しておくだけにする。

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿)

ゆえに(いささか飛躍して記す。音楽をめぐっての記述の筈が逸脱してしまい、かつまた、すでに長くなり過ぎた)、

美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

すなわち、美はトラウマに対する最後の防衛である。



あるいは、美は世界の夜に対する最後の防衛である。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)

さらにこう言っておこう、美は「世界の起源」に対する最後の防衛だと。



2018年5月22日火曜日

銀の硬質なものと黒洞との対決


La Chinoise、1967

ーーいまわずかばかりを切り取っただけだが、アンヌ・ヴィアゼムスキーは、えんえんと(約4分半ほど)銀色の硬質なものを、その掌や指の股、指先で愛撫し続けている。なんという「美」だろう。

「美」という概念が性的興奮 Sexualerregung という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの sexuell Reizende(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
「美」や「魅力」は、もともと、性的対象が持つ性質である。Die »Schönheit« und der »Reiz« sind ursprünglich Eigenschaften des Sexualobjekts.(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)


ゴダールは『中国女』撮影直後、アンヌ・ヴィアゼムスキーと結婚している。彼は前年、黒洞のめくるめく渦巻に囚われて銀色の硬質なものから水滴が飛び散る、これまたかぎりなく美しい映像を撮っている。

内側に落ちこんだ渦巻のくぼみのように、たえず底へ底へ引き込む虚無の引力よ……。最後になればそれが何であるかよくわかる。それは、反復が一段一段とわずかずつ底をめざしてゆく世界への、深く罪深い転落でしかなかったのだ。(ムージル『特性のない男』)


2 ou 3 choses que je sais d'elle、 1966

外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。(芥川龍之介『羅生門』)

おそらくこの時期ーーアンナ・カリーナと1965年に離婚したせいもありーー、巷に跳梁跋扈する魑魅魍魎、あの黒洞の引力との闘争に刻苦精励したのであろう。

人には二つのみの根本欲動 Grundtriebe がある。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstriebである。…これは究極的には引力と斥力 Anziehung und Abstossung にかかわる。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
エロスとタナトスは、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)




ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ジャック=アラン・ミレールが、《美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.》(L'inconscient et le corps parlant、2014)というときの真意は、「美は黒洞に対する最後の防衛だ」ということである[参照]。



2018年5月21日月曜日

窃視症と露出症

窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗見行為の目眩く不安な興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、他人の内密な振舞いの盗み見みされた光景の悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深く観察されることは、彼自身の窃視である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

デュシャン、Étant donnés

鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線 the look は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差し the gaze によって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』2004)


ヒッチコック、裏窓



 ◆フロイト『欲動とその運命』より

……覗くことと、露出することをそれぞれ目標とする欲動を研究してみると、
(サディズムーマゾヒズムとは)少し違った、さらに単純な結果が出てくる(性的倒錯の用語では窃視症者 Voyeur と露出症者 Exhibitionist)。そしてここでも前の場合と同じような段階に分けることができるのである。すなわち、
(a)覗きが能動性として、外部の対象にたいして向けられる。

(b)対象を廃棄し、覗見欲動 Schautriebes が自分自身の身体の一部へと向け換えられ、それとともに受動性へと転じて、覗かれるという新しい目標が設定される。

(c)新しい主体 Subjektes が出現し、それに覗かれようとして自己を露出する。

能動的な目標が受動的な目標よりも早く登場し、覗くことが覗かれることに先行するのも、ほとんど疑いのない事実である。しかし、サディズムの場合との重要な差異は次のような点である。覗見欲動においては、(a)の段階よりも、もう一つ前の段階が認められる。

覗見欲動 Schautrieb は、すなわち、その活動の端緒において自体性愛的 autoerotisch であり、たしかに対象を持ちはするものの、それを自分自身の身体に見出す。覗見欲動が(自己と他者とを比較するという過程をたどった上で)、その対象を他者の身体の類似の対象と交換するにいたるのは、そののちのことなのである(段階a)。

ところで、この原段階は次のような理由から興味深いものになる。つまりこの原段階から、交換がどちらの立場で行なわれるかに応じて、その結果として成立する覗見症と露出症という対立的組合せの両極面が現われてくる。すなわち、覗見欲動の図式は次のように書き表わすことができよう。 

α)    自己が性器を覗く             =          性器が自己によって覗かれる
     |                 |
β)    自己が他の対象を覗く                 γ)  自己という対象或いはその部分が
                                                                他者に覗かれる
(能動的覗見症 aktive Schaulust)     (誇示欲 Zeigelust, 、露出症 Exhibition)


-ーーーフロイト『欲動とその運命』1915年


Jan Fabre / Troubleyn


…眼差し regard は、例えば、誰かの目を見る je vois ses yeux というようなことを決して同じではない。私が目 yeux すら、姿 apparence すら見ていない ne vois pas 誰かによって自分が眼差されていると感じる me sentir regardé こともある。なにものかがそこにいるかもしれないことを私に示す何かがあればそれで十分である。

例えば、この窓、あたりが暗くて、その後ろに誰かがいると 私が思うだけの理由があれば、その窓はその時すでに眼差し regard である。こういう眼差しが現れるやいなや、私が自分が他者の眼差しにとっての対象になっていると感じる、という意味で、私はすでに前とは違うものになっている。(ラカン、セミネールⅠ、02 Juin 1954)



私は何よりもまず、次のように強調しなくてはならない。すなわち、眼差しは外部にある le regard est au dehors。私は見つめられている(私は眼差されている je suis regardé)。つまり私は絵である je suis tableau。これが、視野における、主体の場の核心に見出される機能である。視野のなかの最も深い水準において、私を決定づけるものは、眼差しが外部にあることである。…私は写真である、私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié。(ラカン、S11, 11 mars 1964)




2018年5月20日日曜日

往年の優雅さ

ゴダールの『気狂いピエロ』の冒頭には、テニスの映像があるのは記憶していたが、あれはアンナ・カリーナだったかと観返してみると、そうではなかった。



ーーじつに優雅なアマチュアプレーヤーの姿である。最近の女子プロフェッショナルのゲームをみていても、筋肉ウーマンばかりでちっとも面白くない。30年ほどまえはまだそうではなかったが。

とはいえ、このゴダールの映像を観たら、初期トリュフォーの『あこがれ』における、じつに見事な映像を想い出さざるをえない。

というわけで、いくらか編集してーー相手方の男性の箇所はカットして、そのついでにじっくり観たいところはスローモーションにしてーーここに貼り付ける。





2018年5月19日土曜日

さらば、ミリアム・ルーセル !

『パッション』 (1982) で端役、『カルメンという名の女』 (1983) で準主役、『ゴダールのマリア』(1984) で主役にて出演したモロッコ生れの女優、ミリアム・ルーセル MYRIEM ROUSSEL(1962年2月26日 モロッコ生まれ)は、とっても美しい少女だと長いあいだ思い込んでいたが、この数ヵ月のあいだにゴダール作品をいくらかまとめてみたなかで初めて行き当たった『映画「こんにちは、マリア」のためのささやかな覚書 Petites notes à propos du film 'Je vous salue, Marie' 』(1983)における、おそらくほぼ素顔の彼女は、たいしたことがない。というか笑顔が美しくないし、肌が荒い。




ーーここでは、ダ・ヴィンチのマリアと重ね合わせているのだが、ゴダールはその作品のなかで彼女をとっても美しく撮ったのだ。俯きの憂い顔で。

若き純情なボクはミリアム・ルーセルに惚れ惚れしたのだが、ああ、この齢になって、ちょっとした失望である・・・


Passion


Prénom Carmen


Je vous salue, Marie

かつては、彼女の間歇的で繊細な玄の指で愛撫されることを夢想して、夢精シタノダガ



さらば、ミリアム・ルーセル !



「ちょっとだけ縛って」

他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ」でもいくらか記したが、サディストでもないあなたやボクは、愛する女に「ちょっとだけ縛って」と言われたときに、どう対応すべきであろうか?

露わになった腋窩に彼が唇をおし当てたとき、京子は嗄れた声で、叫ぶように言った。
「縛って」
(⋯⋯)
「腕を、ちょっとだけ縛って」
畳の上に、脱ぎ捨てた寝衣があり、その傍に寝衣の紐が二本、うねうねと横たわっている。
京子の両腕は一層強力な搾木となる、頭部を両側から挟み付けた。京子は、呻き声を発したが、それが苦痛のためか歓喜のためか、判別がつかない。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)

こういった状況に陥ったことのない男性諸君はコウフクである。フコウな男は「ちょっとだけ縛って」にヤムナク応じると、女はどんどんエスカレートしてゆくのである・・・

あれ以来(?)、蚊居肢日記というフィクションの登場人物である「ボク」は、女たちが性交に楽しんでいない様子をみせると、縛らなくてはいけないのではないか、という強迫観念に襲われるしまうことがままある。

女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする être battue, violée ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だêtre une autre femme,と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない être ailleurs, absente と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ジャック=アラン・ミレール On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010)

とはいえ、緊縛は自宅やら殺風景な連れ込み宿でやるのはオススメしない。とくに自宅で緊縛遊戯をやるなどとはもってのほかである。

……夜になると、パパとママは仲良く腕を組んでお家に帰ってくる、少しばかり千鳥足で。パパが階段でママのスカートをめくる夜 …昔のようにパパがママとセックスする夜、無我夢中で、経験豊かな放埓さをもって …ママが呻き、優しくも淫らな言葉を思わず洩らし、身をよじり、反撥し、寝返りをうって、体の向きを変えて、パパにお尻を差し出す夜 … 

(…… )自分の家でエロティックであること。自分の女房を享楽し、彼女を悦ばせること、はたしてこれ以上に鬼畜のごとき悪趣味を想像できるだろうか? これこそこの世の終わりだ! 小説の滅亡! (ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

おそらく、たとえば日本的環境では、女中たちが聞き耳を立てているのが明らかな、密やかな温泉宿が最も好ましい。女中は、客がとりこみ中のときは、玄関の間でふすまを開けずに正座して、しばらく待っているものである。この状況は限りなくエロティックであった・・・10分以上待たせて、女中をむかえるためにこちらから襖を「唐突に」開けると、正座の膝が崩れている場合さえあった・・・





ボクの故郷の町から半時間ほどのところの新城という町には湯谷温泉があって、そこの「はづ木」という五部屋しかない宿が、「緊縛」のための最適の環境を備えていた。




いま「緊縛」などと記したが、ボクのやり方は、とてもカワイラシイ初心者風のままであり、おそらく誰もが容易に可能である。

椅子の肘に浴衣の帯で手足を縛りつけて開脚させて、一時間ほど旅館傍の宇連川まわりを散歩して帰って来るだけである。

ボクはもともと自然の風景はひとりで触れるのを好むのでこれはやむえない仕儀である。

ある夜、あんまり女がうるさく邪魔をするので、私は彼女をおさえつけ馬乗りになって、ありあわせのシャツやネクタイやで女の手脚をかなり強く縛った。女は、それに異常なほどの興奮で反応した。肩を振りこまかく喘ぎながら目が据わって、丸太棒のように蒲団をころげながら、女はシーツにおどろくほどのしみをつくったのだ。(山川方夫『愛のごとく』)




散歩から戻ってきて(女中とからまっているなどという稀有の状況以外は)「ほどく?」と訊ねてはみる。

煙草をつけて背後の女を振りかえった。……「ほどく?」と私は訊ねた。が、女は目で微笑するとゆっくりと首を振った。(……)私は何気なく女の目に笑いかけた。女も私を見て笑い、その目と目とのごく自然な、幸福な結びつきに、突然、私は自分がいま、狂人の幸福を彼女とわかちもっているのをみた。(山川方夫『愛のごとく』)

こうしてようやくマヌケ男とキチガイ女の不可能な出会いが、不可能でなくなるのである。

セミネールⅩⅩ 「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂いfolle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「他の享楽」である。》(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

この旅館にはときにはとびぬかて軀の線が美しい女中がいて、渥美半島先端の海女が、季節外れの時節には、出稼ぎ仕事をしている、ということを女からきいたが、信憑性のほどはシラナイ・・・




私は志摩の海女にあこがれているのである。彼女らの生活にふれてみたいのだ。なぜなら彼女らは千年の余、先祖代々同じ生業をくりかえし、海産物の生態に変化がなかった如くに、彼女らの生態にも変化なく今日に至っているように思われるからである。あいにく海女のシーズンではなく、彼女らの多くは他の土地へ女中かなんぞに稼ぎに出ているらしいので、海女村探訪をあきらめなければならなかった。ムリに押しかけて行って、武塔神の如くに南海の女をよばいに来たと思われては、同行の青年紳士にも気の毒だ。坂口安吾「安吾の新日本地理 01 安吾・伊勢神宮にゆく」)