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2018年8月31日金曜日

簡潔版:倒錯の構造

蚊居肢ブログの架空の登場人物「蚊居肢子」はみずからを倒錯者と任じている。だがこれはどういうことか? いままでそれなりに数多くの記述をしてきたが、ここでは簡潔版として記す。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E554、摘要訳)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S18)

これだけでは何のことか分からないだろう。以下、ポール・バーハウ他(Paul Verhaeghe&Jochem Willemsen、2010)の実にすぐれた注釈を私訳引用する。

子供の標準的発達とは次の通り。

幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外 mirroring alienation を通して、自己のアイデンティティの基盤を獲得する。いったんこの基盤のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。

中間期は過渡的段階であり、子供は「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を通して、安定した関係にまだしがみついている。このような方法で、母を喪うことについての不安は飼い馴らされうる。標準的には、エディプス局面・父の機能が、子供のいっそうの発達が起こる状況を作り出す。ただしそれは、母の欲望が父に向かっているという事実があっての話である。

倒錯の心因においてはこれは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化 mirroring のため、子供は母自身の一部として、母のコントロール下にいるままである。したがって子供は自己の欲動への表象的参入(欲動の象徴化能力)を獲得できない。もちろん、それに引き続く自身の欲望のどんな加工 elaborations もできない。

これは、構造的用語で言えば、ファルス化された対象aに還元されるということであり、母はファルス化された対象a を通して、彼女自身の欠如を埋める。だから分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無能な観察者に格下げされる。…

このようにして、子供は自らを逆説的ポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルス(ファルス化された対象a)となり、それは子供にとっての勝利である。他方で、彼ががこのために支払う犠牲は大きい。分離がないのだ。自身のアイデンティティへとのいっそうの発展はいずれも塞がれてしまう。代わりに、子供はその獲得物を保護しようと試みて特有の反転を演じる。倒錯者は、自ら手綱を握って、受動ポジションを能動ポジションへ交代させようとする。同時に母の想像的ファルスという特権的ポジションを維持したままで、である。

臨床的用語では、これは明白なマゾヒズムである。マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。これは、他者の道具となる側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、はっきりと受動-能動反転を示している。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。(⋯⋯)
倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼また、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。

倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の大他者である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が通常、失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、大他者に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押しつけに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010)


①:《第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無能な観察者に格下げされる》とあるが、日本においてはこれはしばしば起こっているだろう。したがって日本は、標準的な神経症者の国ではなく、倒錯者の国でありうる。


②:倒錯者の不安は《大他者に貪り食われるという精神病的な不安に近似している》とあるが、ポール・バーハウの同僚である Stijn Vanheule によれば、そのさらに底には《内部から主体を圧倒する破壊的な》身体の欲動がある。

分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)

※より詳しくは「ヒステリーの主体は、セックスではなく無条件の愛を求める」を参照のこと。


③:『母なる超自我」という用語が出現しているが、ラカン自身の発言を掲げる。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)

母なる超自我とは、「母の法」としての原超自我のことである。--《母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである》(Lacan. S5)

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における純粋で単純な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

ジャック=アラン・ミレールの簡潔な注釈なら次の通り。

母なる超自我 surmoi mère…この思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似している。それは、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレール、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO, Leonardo S. Rodriguez、1996)


④:ところで、上のバーハウ他の文にこうもあった。

倒錯者は、自ら手綱を握って、受動ポジションを能動ポジションへ交代させようとする。同時に母の想像的ファルスという特権的ポジションを維持したままで、である。

臨床的用語では、これは明白なマゾヒズムである。マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。(ポール・バーハウ他、2010)

ジジェクはこれをラカンの四つの言説のひとつ、分析の言説図を示しながら実に巧みに説明している。




動作主、マゾヒストの倒錯者 a(典型的倒錯者)は、他者の欲望の対象-道具のポジションを占める。倒錯者はこのような形で、彼の(女性の)犠牲者を通して、彼女をヒステリー化された/分割された主体 $ーー彼女が欲するものを知らない主体ーーとして据える。倒錯者は、彼女が欲するものを知っている。すなわち、彼は知 S2 のポジションから(彼女の欲望について)語るふりをする。これによって彼は、他者への奉仕が可能になる。そして最終的に、この社会的つながりの生産物は、主人のシニフィアンである。すなわちヒステリー的主体$は、倒錯者が奉仕する主人S1(女王様)の役割へと昇華される。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

倒錯者の構造とは、分析家の言説と「構造的には」等価である。すなわち a → $

私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想( $ ◊ a )の裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、自分を対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S11)



ただし分析家の言説の対象aは、無、空虚である。他方、倒錯者の言説の対象aは見せかけ・囮としての対象aである。

セミネール4において、ラカンは、この「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ (去勢、母の去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュのような見せかけ semblant comme le fétiche である。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , 2016)

ラカンはこの無、空虚を穴 trou 等とも表現している(参照:モノと対象a)。

⋯⋯⋯⋯

以下、参考のために標準的男性における父との同一化をめぐるフロイトの考え方を引用しておこう。

単純な場合、男児では次のように形成されてゆく。非常に幼い時期に、母にたいする対象備給 Mutter eine Objektbesetzung がはじまり、対象備給は哺乳を出発点とし、依存型 Anlehnungstypus の対象選択の原型を示す一方、男児は同一化 Identifizierung によって父をわがものとする。この二つの関係はしばらく並存するが、のちに母への性的願望 sexuellen Wünsche がつよくなって、父がこの願望の妨害者であることをみとめるにおよんで、エディプス・コンプレクスを生ずる。ここで父との同一化 Vateridentifizierung は、敵意の調子をおびるようになる、母にたいする父の位置を占めるために、父を除外したいという願望にかわる。そののち、父との関係はアンビヴァレントになる。最初から同一化の中にふくまれるアンビヴァレントは顕著になったようにみえる。この父にたいするアンビヴァレントな態度と母を単なる愛情の対象として得ようとする努力が、男児のもつ単純で積極的なエディプス・コンプレクスの内容になるのである。

エディプス・コンプレクスが崩壊するときには、母の対象備給 Objektbesetzung der Mutter が放棄(止揚 aufgegeben)されなければならない。そしてそうなるためには二通りの道がありうる。すなわち、母との同一化 Identifizierung mit der Mutter か父との同一化の強化 Verstärkung der Vateridentifizierung のいずれかである。後者の結末を、われわれはふつう正常なものとみなしている。これは、母にたいする愛情の関係をある程度までたもつことをゆるす。(フロイト『自我とエス』1923年)

対象備給という語が出てきたが、《「 備給 Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい》((フロイト『抑圧』1915)

※フロイト英訳標準版のR.ストラッティ訳では「カセクシス cathexis」と訳される besetzung は、邦訳では「備給」、「充当」などである。だがフロイトは英訳のカセクシスを嫌った、besetzungはもっと日常的語彙だと。


さて父の法の介入とはラカン派的には次のように注釈されることが多い。

父の法の介入、すなわち、最初に、エディプス・コンプレックスの第二段階において先ず母を剥奪し(母の去勢)ーーー《la privation ou à la castration qui porte sur la mère》(ラカン、S5)、続いて、エディプス・コンプレックスの第三段階(最後の段階)において、子ども自身を去勢する。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness, 2007)

女性の標準的発展については、母との同一化(母との象徴的同一化)にかかわるだろうことを、「女性一般と男性の同性愛者における「母との同一化」」にて示したところなのでここでは触れない。


2018年8月30日木曜日

アタシはファルスだわ、あなたたちよりもずーっと

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

ここでラカン派ポール・バーハウの二者論理の説明を聞こう。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ., Social bond and authority, 1999)

※この考え方をめぐる詳細は、「二者関係先進国日本」に記述してある。


さらに同じPAUL VERHAEGHEの『new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex』(2009)より。

二項論理の場では、私か他者のどちらかの選択肢しかない。したがってエディプス的状況(三項関係)が象徴的に機能していない事実を示している。…

この二項論理は、日常の精神病理において、よく知られた数多くの変奏がある。(ポール・バーハウ『エディプスコンプレクスの根源的再考』2009) 

この記述の直後、次の文が現れる。まず英文のまま示す。

"I have/am the phallus more (or less) than that other" (competition).
"The other doesn't give me enough of the phallus" (revendication).
"Not I but that other has/is the phallus" (jealousy).
"I don't have/ I'm not the phallus and will never have/ be it" (depression).
"I have/ am the phallus" (narcissism).

簡潔化のために男女が入り混じって記されているが、邦訳すればこういうことである。

【競争】:ボクは連中よりももっとファルス(想像的ファルス)を持っているぞ
               アタシはほかの女たちよりもっとファルス(欲望の対象)だわ

【文句】: あの人は、アタシにじゅうぶんにファルスをくれないの…

【嫉妬】: ボクじゃないんだ、連中がファルスを持ってるんだ……
                 アタシじゃないの、ほかの人たちがファルスなの…

【鬱屈】:ボクはファルスを持っていないんだ。今後も決して持てない…
               アタシはファルスじゃないの。これからもダメね…

【ナルシシズム】: ボクはファルスを持ってるさ /アタシはファルスよ


ーー日本の言説空間はまちがいなくこの二者関係の論理に支配されている。現在は世界も日本化しているが。「現在」とは、すなわち1968年の《父の溶解霧散 évaporation du père》(ラカン)以降、さらにマルクスの父が完全崩壊した1989年以降の世界においてはいっそう。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

「勝ち組」「負け組」主義とは二者関係主義であり、市場原理主義とは現在の新自由主義のことである。

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009


さて、上のバーハウ2009の意訳文で、想像的ファルスを「欲望の対象」ともしたが、その意味は次のラカン文にある。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装
la mascarade féminineと呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性
féminité のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

たとえば女学生たちのミニスカ競争とはこれ以外の何ものでもない、《アタシはほかの女たちよりもっとファルス(欲望の対象)だわ》




もっとも別に現在のミニスカ競争だけではない。かつての少女たちもちろんファルス競争をしていたのである。現在はそれが露骨になっているだけである。女性の仮装性、これが女たちの歴史である。




女の最大の技巧は仮装 Luege であり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさ Schoenheit である。(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)
仮面: いかに探しても、中身はなく純粋な仮面 reine Masken であることが瞭然とする女たち Frauen がいる。このほとんど亡霊のような gespenstischen、したがって必然的に不満をもたらす女たちと交際する男は、哀れまれるべきであるが、まさに仮面であるからこそ、男の欲望 Verlangen des Mannes を最も強く刺激するのである。彼は彼女の魂を探し求める。そしていつまでも探し続ける。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』第1部405番、1878年)
男を女へと結びつける魅力について想像してみると、「擬装した人 travesti」として現れる方が好ましいのは広く認められている。仮面 masques の介入をとおしてこそ、男と女はもっとも激しく、もっとも燃え上がって la plus aiguë, la plus brûlante 出会うことができる。(ラカンS11、11 mars 1964)
人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)

ーーいやあシツレイ、アタシは絶対コウジャナイワ、と思い込んでいる現代的女性のみなさん!  《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのであるHuman being cannot endure very much reality》 (T.S.Eliotーー中井久夫超訳)


・・・さて話を戻せば、原初の母子関係は二者関係的である。想像的ファルスを第三項として捉える「文字通り」ラカン読み派もいるが、あの類はこの際、無視しなければならない。

最初の母子関係において、子供は身体的未発達のため、必然的に最初の大他者に対して受動的対象となる。…そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それとも従うのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者関係-想像的関係の典型であり、ラカンが鏡像理論にて描写した状況である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains:『エディプスコンプレクスの根源的再考』2009)

恋愛関係も、母子関係ほどではないが、基本的には二者関係的である。

恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)

たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées)

第三項が必要なのである。それが「騙されない者は彷徨う」の重要な意味である(「父の名 le Nom‐du‐Père」と「騙されない者は彷徨う les non‐dupes errent」(S21)は同じ発音)。

別の言い方をすれば、想像的ファルスの跳梁跋扈を飼い馴らすためには象徴的ファルスが必要なのである。

もっとも誤解のないようにこう付け加えておかねばならない。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan, S23, 13 Avril 1976)

第三項を設置してかつての支配の論理を復活させようなどという意図は毛ほどもない。だが第三項の「使用」は必ず必要なのである。

とはいえーー愛の話に戻ればーー、彷徨うのが好きな人の存在を否定するつもりはない。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。(ミレール、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour'、1992、pdf)

むしろ迷宮を彷徨って地獄の底を一度は眺めてみることこそ、まずは肝要だとさえ言える。

迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)

そのとき恋愛関係を支えるものは何もないことを知る。それが「大他者は存在しない」の意味である。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977)

別の言い方をすれば、《真理は女である。die wahrheit ein weib》 (ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)である。

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)
真理は女である。真理は常に、女のように非全体(非一貫的)である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)

女への愛は必要不可欠である。そのときはじめて神はいない(大他者は存在しない)ことを知る。

生への信頼 Vertrauen zum Leben は消え失せた。生自身が一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛 Liebe zum Leben はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる女への愛 Liebe zu einem Weibe にほかならない・・・(『ニーチェ対ワーグナー』エピローグ、1888年)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

誤解のないように付け加えておかねばならない、女への愛とは、究極的には、女にとっても女への愛であることを。

「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969ーーS(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)

2018年8月29日水曜日

yoga = yoni + lingam

半年ぐらい前から妻にヨガ調教をうけているのだがーーー彼女は七、八年ぐらい前からやっているーー、劣化していたオチンチンがすこしはカタくなるね、あれは。でもあんまりカタくなるのも考えものだな、妻はこのところ膣内炎症気味らしく病院に二三度行ってる。




もともと《yoga は yoni (女陰)と lingam (男根)の「結合・合体・絆」を意味している》(『古代母権制社会研究の今日的視点』松田義幸・江藤裕之)ーーだそうだけどさ。

ボクは無知なので全然知らなかったな。これホントかな、といくらか調べてみても直接の説明には他に行きあたらない。ただしyoni(女陰)とyogaの語源は同一だという説明はあるから、多分そうなんだろう(Yoni、Encyclopedia of Religion)。




この格好で十分ぐらい瞑想してたら、エロス=死の気分になる筈なんだが。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
エロスとは二つが一つになることだ。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux(ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

まだ修行が足りないね。三四分したら呼吸のたびに動きだすんだ、暗闇のなかで蔓延る《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、1976)が。






2018年8月28日火曜日

原トラウマあるいは原不安

今ではもう十何年も前から孫を持つ身になり、里方でもあるので、生まれ立ての子を預って日夜その泣き声の中で暮らしたことが四度もあり、そのつど、小さな命の盛んさに舌を巻かされた。まるで母胎の内からこんな荒漠とした世界に放り出されたことを怒っているように泣き叫ぶ。盥の湯に漬けられると、とたんに泣きやんで、これでいいんだと言わんばかりの、満足の喉声を洩らす。(古井由吉「雨の果てから「群像」2018年8月号)

ツイッターで拾ったのだがーーわたくしはツイッターをもうやっていないのだが古井由吉bot は月に一度くらいはまとめて眺めることにしているーー、 ま、当然だよな、《母胎の内からこんな荒漠とした世界に放り出されたことを怒っているように泣き叫ぶ》ってのは。やっぱり盥の湯がいいのさ、羊水がね。

なんで、幼児の世界は至福なんていう連中がいるんだろ? 馬鹿じゃないかねーー、いやシツレイ!

幼児の世界は悲惨であるという考えと至福であるという考えとが、精神分析学者のあいだで対立している。前者の代表はラカン、サリヴァンであり、出産外傷を重視する人たちもそれに属する。後者にはわが土居建朗やバリントが挙げられる。これは、その人の自己史の主観的な回想によるところもあるのだろうが、いずれにせよ、幼児期は成人言語以前であるから決定的なことはいえないとされている。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

この文はこう続くのである、《「断続平衡論的発達観」にもとづけば最初の大きな断続=飛躍は出産である》。中井久夫は至福派に対してシツレイなことを書かないようにいくらか遠慮しているだけである。


⋯⋯⋯⋯

 【フロイトによる出産外傷】
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。この仕事のためには、わずかに二、三ヵ月しか要しないはずである。ランクの見解が大胆で才気あるものであるという点には反対はあるまい。けれどもそれは、批判的な検討に耐えられるものではなかった。(……)

このランクの意図を実際の症例に実施してみてどんな成果があげられたか、それについてわれわれは多くを耳にしていない。おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)

フロイトは原トラウマとしての出産外傷を受け入れているが臨床治療の対象としては相手にするつもりはない、という考え方のようにみえる。

《火の出た部屋からそのランプを外に運び出す》ことの否定とは、中井久夫の《流れがつまれば水下より迫れ》と相同的である。

一般に、語られる外傷性事態は、二次的な体験、再燃、再演であることが多い。学校でのいじめが滑らかに語られる時など、奥にもう一つあると一度は考えてみる必要がある。(……)

しかし、再燃、再演かと推定されても、当面はそれをもっぱら問題にしてよい。急いで核心に迫るべきではない。それは治療関係の解消あるいは解離その他の厄介な症状を起こす確率が高い。「流れがつまれば水下より迫れ(下流の障害から除去せよ)」とは下水掃除の常道である。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収)


【ラカンによる出産外傷】
例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る。卵の場合も人間の場合も、つまりオムレットhommelette、ラメラlamelle(≒羊膜)での場合も、これを想像することができる。

⋯⋯対象 a (喪われた対象)について挙げることのできるすべての形態 formes は、ラメラの代理表象である(ラカン、S11、20 Mai 1964)
・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ーー『原抑圧の穴」とあるが、ラカンにとって穴とはトラウマのことである。「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」(S21、19 Février 1974)


【中井久夫による原トラウマ】

中井久夫は原トラウマという語を何度か口に出しているが、それがどんなものかは示していない。中井久夫のことである。たぶん内に秘めて口にはださないでいるのだろう。また原トラウマなど問うても臨床的にはあまり役に立たないという立場であるようにみえる。

治療はいつも成功するとは限らない。古い外傷を一見さらにと語る場合には、防衛の弱さを考える必要がある。⋯⋯⋯統合失調症患者の場合には、原外傷を語ることが治療に繋がるという勇気を私は持たない。

統合失調症患者だけではなく、私たちは、多くの場合に、二次的外傷の治療を行うことでよしとしなければならない。いや、二次的外傷の治療にはもう少し積極的な意義があって、玉突きのように原外傷の治療にもなっている可能性がある。そうでなければ、再演であるはずの二次的外傷が反復を脱して回復することはなかろう。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年初出『徴候・記憶・外傷』所収)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

⋯⋯⋯⋯

フロイト・ラカン派にとって原不安とは「分離不安」である。もっともそのあと「融合不安」が生じる。決定的なのは乳幼児はかならず母もしくは母親役に人物への依存性あるいは受動的な立場に置かれることである。分離不安は誰もが承認する筈だが、融合不安とは、原支配者としての母に呑み込まれる不安である。穏やかに言えば、分離不安とは必要なときに母がいつも傍にいるわけではないこと。融合不安とは母の過剰現前。

後者を穏やかに言わなければ、次のようなこと。

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺトロの手紙、58』)
メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
ラカンの母は、quaerens quem devoret(『聖ペテロの手紙』lettres 1, 5, 8)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐 crocodileとして、口を開いた主体 sujet à la gueule ouverte.として提示した。(ジャック=アラン・ミレール 、La logique de la cure、1993)

⋯⋯⋯⋯

以下、母への依存性をめぐるフロイト・ラカンの記述を参考のために掲げておくが、これは何度も引用してきたので、すでに御存知の方はすっとばしていただいてもよろしい。


【フロイトによる母への依存性】
…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまう aufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。Denn dies scheint die überraschende, aber regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?) zu werden, wohl zu sein.(フロイト『女性の性愛』1931年)
「母へのエロス的固着 erotischen Fixierung an die Mutter」の「残りもの Rest」は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutter の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


【ラカンによる母への依存性】
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)
母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)
母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)
精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

⋯⋯⋯⋯

さて元に戻ろう。

たとえば大地震に被災したとしよう。そのトラウマ的出来事は、過去の不安体験(究極には原トラウマ)を思いださせるというのがフロイトの考え方である。

経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

地震による馴れ親しんだ環境の崩壊とは、原母からの「分離不安」を思い起こさせ、逆に地震に呑み込まれた衝撃は、原母に呑み込まれるという「融合不安」を生みうる場合があるのではないだろうか。

このどちらの不安が前面に出るかは状況によるだろうし、被災者の前エディプス史におけるほのかな記憶によるだろうが。たとえば幼児時代にすぐ下のきょうだいをもった人は分離不安を強く抱く傾向がある(母からやむなく分離されてしまったのだから)。他方、一人っ子で母に溺愛された経験があるなら強い融合不安を抱く場合がある。これが基本である。ほかにもたとえば漱石や折口のように幼いときに養子に出されれば生涯分離不安の生を送る。

幼き春  

わが父に われは厭はえ
我が母は 我を愛メグまず
兄 姉と 心を別きて
いとけなき我を 育オフしぬ。

融合と分離とは、フロイトのエロスとタナトスにかかわる用語である。

エロスとタナトス…。前者は、現存しているるものをより大きな統一 Einheiten に結合 zusammenzufassen しようと努め、他のものは、この融合 Vereinigungen を分離 aufzulösen(解体)し、融合によって形成された構造 entstandenen Gebilde を破壊 zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 1937年)

分離不安とは融合が解体されそうになる(あるいは「された」)ときに生じる不安である。融合不安とは分離(独立)していたものが統一されそうになるとき生じる不安である。母に呑み込まれる・貪り喰われる不安とは、この究極例のひとつである。

究極の融合とは、このところ何度も記しているが、個体の死である(参照)。

社会共同体における観察においても、究極のエロスが個体の死であるだろうことは、次の事例により瞭然とする、《ヨーロッパ共同体が融合・統合に向えば向かうほど、分離・独立のナショナリズムの衝動が芽生える。》(ポール・バーハウ、1998)

わたくしには、上に記した機制とそこに生じるだろう二つの原不安は容易には否定できそうもない。

不安とは、寄る辺なさ Hilflosigkeitの 状況、乗り越ええない危険 danger insurmontable 状況への応答である。(ラカン、S10, 12 Décembre l962ーー不安神経症と不安ヒステリーの相違

ーー寄る辺なさとは【フロイトによる母への依存性】の項にて引用した。

もちろんこれは「究極的には」原トラウマ(あるいは原母子関係における原不安)の井戸の底を覗くということがありうるということであり、そこまでいかずにも現在の不安体験が過去の外傷体験を思い出させるというのは誰にでもあるだろう。

たとえば古井由吉は、烏の不吉な鳴きかわしから、空襲体験を想起している。

未明に近くの烏が騒ぎ出した。けたたましく鳴きかわしている。大きな地震の前触れか。あの夜は空襲の警報サイレンのなる前から、烏がしきりに騒いでいたものだ――。(古井由吉「雨の果てから」)

母に呑み込まれる不安だって思い出しているのかもしれない。

ーー《女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。》(古井由吉「すばる」2015年9月号)

古井由吉は空襲体験を語れるようになったのは、ようやく最近になってからだと言っているが、それこそ真の外傷体験である。人にふれまわっているような体験は二次的な外傷記憶に過ぎない。いや外傷記憶であるかどうかさえ疑わしい。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年ーー「外傷神経症と現勢神経症」)

いずれにせよ、母とは子供を奪い返す存在である。それが古井由吉の「道連れ」の意味である。

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ, 1995, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL)

ーー勘違いしている人が多すぎる。分離不安のみを考えている人が。

中井久夫も、はっきりは記してはいないにしろ、阪神大震災によって小学校時代の「いじめ体験」などを想起しているのは、彼の文章をいくらか追ってみるだけですぐ分かる。

阪神・淡路大震災は私の中の何かを変えた。地面が揺れたごときで何が変わるかと自分に言いきかせたのは今から思えば笑止であった。

まず、私は沈黙している患者の側に何時間でもいるという精神科医にとって不可欠な能力をまだ回復していない。三十年以上続けられていたこのことができなくなった。私は一九九七年春に病院を定年で退くからおそらく回復の機会はないだろう。これは高揚状態というか躁状態で地震に続く事態に対応した後遺症ではないかと思う。

いっぽう、私は患者のこころの傷に敏感となった。幼年時代の虐待や学校でのいじめを受けた過去が現在に働いているのを察知するのに敏速になった。過去の過酷な体験のフラッシュバックに今も苛まれている患者がいかに多いか。(中井久夫「私の「今」」1996年8月初出『アリアドネからの糸』所収)
…笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかったからである。最大限度を、“神”に甘えて四十歳代にしてもらった。この“秘密”をはじめて人に打ち明けたのは五十歳の誕生日を過ぎてからである。(中井久夫「知命の年に」初出1984年『記憶の肖像』所収)

⋯⋯⋯⋯

※付記

原不安などということを記すと、まさか、という人がいるかもしれないが、頭では覚えていなくても身体で覚えているということは充分にありうる。次の文は、胎内にいる時のことさえ身体で覚えているだろうことを指摘していると読める。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」 『時のしずく』所収)

そしてまた別の観点からの核心は フロイトの「遡及性 Nachträglichkeit」概念である。ここでは簡潔なラカンおよびラカン派の言葉を列挙しておこう。

原初 primaire は…最初ではない pas le premier。(ラカン、S20、13 Février 1973)

人は、原対象a(原初に喪われた対象)を、言語記憶としては覚えているわけはない。

原初に把握されなかった何ものかは、ただ事後的にのみ把握される。quelque chose qui n'a pas été à l'origine appréhendable, qui ne l'est qu'après coup (ラカン、S7、23 Décembre 1959)
人は常に次のことを把握しなければならない。すなわち、各々の段階の間にある時、外側からの介入によって、以前の段階にて輪郭を描かれたものを遡及的rétroactivementに再構成するということを。il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé dans l'étape précédente (ラカン、S4、13 Mars 1957)

ーー事後的 après coup 、遡及的 rétroactivementとあるが、同じ意味である。

とはいえこれはどういうことか?

哲学的ラカン派の最も簡潔な言い方なら、

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness, 2007)

臨床家的に言えば、

原対象aから身体へ、自我へ、主体へ、そしてジェンダーへ、しかし後向きの配列で。すなわち、「以前」は遡及的に存在するようになる。「次」ーーそのなかに「以前」が外立ex-sistする、「次」から始めて。

「原初」要素は、「二次」要素によって、遡及的に輪郭を描かれる。この「二次」要素のなかには「原初」が含まれている、「異物」としてだが。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001)

※異物 Fremdkörperについては、 「侵入・刻印・異物」を参照。



2018年8月27日月曜日

女性一般と男性の同性愛者における「母との同一化」

以下、フロイトの母との同一化をめぐる考え方を記すが、あくまで一世紀近く前の考え方であり、これが現在あてはまるという保証はまったくない。

母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ーーここでフロイトが記している同一化は母との象徴的同一化であって、想像的同一化ではない。

ジャック=アラン・ミレールの想像的同一化/象徴的同一化の区別に基づいて、シンプルに言えば次のようになる。

想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)

次に、男性の同性愛者の母との同一化と女性一般の母との同一化の機制を掲げるが、両方とも母との「象徴的」同一化である、とわたくしは読む。


【男性の同性愛者における母との同一化】 
母への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥る。子供は自分自身を母の位置に置き、母と同一化 Mutter identifiziert し、彼自身をモデル Vorbild にして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母への愛を抑圧する verdrängt die Liebe zur Mutter。このようにして彼は同性愛者になる。

いや実際には、彼はふたたび自己愛 Autoerotismus に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代替 Ersatzpersonen であり更新 Erneuerungen に他ならないのだから。

言わば少年は、愛の対象 Liebesobjekte をナルシシズムの道 Wege des Narzißmus の途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソス Narzissus と呼んでいる。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910)

※より詳しくは、「母への愛に忠実な同性愛者」を見よ。


【女性における母との同一化】
女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)

もっとも(稀な例外を除き)全ての乳幼児は母との想像的同一化が先行してある。次の文はラカンが倒錯について記している機制だが、原初の母子関係はほとんど常に倒錯である。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E554、摘要訳)

ラカンの定義上、原初の母子関係においての幼児はすべてマゾヒストなのである。

他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier l963)

ーー《倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme》(ラカン、S23, 1977)

さて元に戻れば、以下の文にあらわれる①が想像的同一化であり、②が象徴的同一化とほぼ見なすことができる。

女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期 präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデル Vorbild とすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわち、母から逃れ、母を父に代替しようとすること Mutter beseitigen und beim Vater ersetzen will。

どちらの相も、後に訪れる生に多大な影響を残すのは疑いない。…しかし前エディプス期の相における母との結びつき Bindung が女性の未来にとって決定的である。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)

繰り返せば、母との象徴的同一化とは、母のポジションに自らを置くことである。

男性の同性愛者は、母の場に自らを置き、母が彼を愛したように,《彼自身をモデルVorbildにして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶ》。フロイトが記しているようにこれはナルシシズムの変種である。

女性一般の場合は、母の場に自らを置き、《母を演じる spielte die Mutter》。人形遊びの《人形は彼女自身である Puppe war sie selbst》。すなわちこれも男性の同性愛者と同じようにナルシシズムである。

上に引用したフロイトがもう一つ言っていることは、母の場に自らを置くことによって、《母を父に代替しようとする》。これは父が母を愛しているように、自らも父から愛されるという形式である。後年、この父は男性に変るだろう。

フロイトは男性の同性愛者については、いま記した後者の場合を指摘していないが、論理的には、母との象徴的同一化によって父から愛されるという機制が働いても奇妙ではない。

以上、仮にこの観点をとれば、女性一般と男性の同性愛者は同じ形の同一化形式をもっているのである。

フロイトにおいてもラカンにおいてもその基本的な問いは、本能の壊れた動物である人間にとって、最初の愛の対象は、母であるに相違ないのに、なぜ女性たちは男を愛するようになるか、ということである。

(母子の)二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年ーー男女間の去勢の図
定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

ようするにフロイト・ラカンの考え方においては、女性一般と男性の同性愛者は、母‐女ではなく男を愛するという「ヘンタイ」なのである(そして女性の同性愛者は正常である)。もっともヘンタイというより、ナルシシストといったほうがいいかもしれない。

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914年)

男性の通常の発達(神経症的発達)においては「父との同一化 Vateridentifizierung」が起るというフロイトの考え方はよく知られているだろうから、ここでは割愛した。精神病者と倒錯者においてはこれは起こらず、基本的には母との「想像的」同一化が続く。倒錯の機制については、「倒錯者の言説(マゾヒストの言説)」にいくらか詳しく記してある。

⋯⋯⋯⋯

なお、ジジェク(2012)が《女の欲望は、男に欲望される対象になること》、女は《はるかにパートナーに依存することが少ない》等としているのは、上のメカニズムにほぼ則った記述である。

男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。⋯⋯

女性の究極的パートナーは、ファルスの彼岸にある女性の享楽 jouissance féminine の場処としての、孤独自体である。 ( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ジジェクは後半で女性の享楽と孤独とを結びつけているが、この「孤独」自体、ナルシシズムに近似した意味をもっている。この女性の享楽は現在のラカン派では自閉症的享楽jouissance autiste(=自ら享楽する身体)とも呼ばれており(参照)、上に記した内容とはややことなる後期ラカンにおける思考のなかにあるが、ベースはやはりフロイトにある。

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ジャック=アラン・ミレール, L'être et l'un、2011)
愛Liebeは欲動興奮(欲動の蠢きTriebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch であるが、その後、拡大された自我に合体された対象へと移行し、さらには自我のほうから快源泉 Lustquellen となるような対象を求める運動の努力によって表現されることになる。愛はのちの性欲動 Sexualtriebe の活動と密接に結びついており、性欲動の統合が完成すると性的努力Sexualstrebung の全体と一致するようになる。(フロイト『欲動とその運命』1915)



2018年8月26日日曜日

ラカンの数学

ラカンにおける刻印 inscriptionにおいての原刻印(身体の上への刻印)とは、フロイトの固着のことである(参照:S(Ⱥ)と「S2なきS1」)。

ここで「刻印」という語が連発されるセミネール16の「ラカンの数学」の図をひとつ掲げてみよう。




ーーさておわかりだろうか、この数学を。ラカンはこういった図を提示しつつ、フレーゲの名を出していることに注意を促しておこう。

わたくしはあの名高い『算術の基礎 Die Grundlagen der Arithmetik』をかじってみようとしたことがないではないが、すぐさま投げ出したので、いまなんらかの説明を書く気ははまったくない。

だがこうもある。




1=1+ Ø (空集合)とは、集合論の基本である。これについては、2017年の正月にヘクソニョウをめぐって思考したことがある(参照:屁屎尿の集合)。

そこでの思考を再掲すれば、

屁屎尿の集合は8要素成り立っている。
屁・屎・尿・屁屎・屁尿・屎尿・屁屎尿・尸である。
尸とは空集合 ∅ であり、漢字圏では尼と記される場合がある。
尸が囲む匕は、妣(女)の原字であり、
細いすき間をはさみこむ陰門をもった牝を示す。
ラカンはこの空集合を、女 Lⱥ Femme・S(Ⱥ) ・非全体 pas- tout と記した。

ーーいくら数学に疎い方でもこういった日常的な思考を欠かしてはナリマセン!

とはいえこのときの思考において欠けているものは、ラカンは女 Lⱥ Femme・S(Ⱥ) に相当するものを、骨象(osbjet)、あるいは文字対象a( la lettre petit a)とも記していることである(S23、11 Mai 1976)。これは、たぶん喉に突き刺さった骨のようなものであろう・・・したがってS(Ⱥ)や斜線を引かれた女(Lⱥ Femme)とは文字対象a( la lettre petit a)でもありうるのである。

さて上の図に戻ろう。右には、ラカンは1=1+aと記している。

そしてフレーゲの最も基本的な考え方のひとつは、こうでアルラシイ。

フレーゲの思考においては、「一」という概念は、ゼロ対象と数字の「一」を包含している。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege), 2014, PDF)

ま、なんとなくわかったらいいのである・・・

大切なのは次のことである。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

たとえば「私」という「一」のシニフィアンがある。この一人称単数代名詞は「私」を徴示することはけっしてない。つねに残りもの・落しものがある。この残りものが、対象aである。

すなわち「一」の徴のあるところには、常に喪われた対象がある。数学に疎いアナタとボクはこれでいいのである。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

そして原シニフィアン(サントーム=欲動の固着)でさえ、《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps》。この「身体」は最初期のフロイト(1893)が《異物 Fremdkörper》と記しているもの、 最晩年のフロイト(1937)が《リビドーの固着 Libidofixierungen の残りもの Reste》 《残存現象 Resterscheinungen》と記しているものと等価である。

ラカンがサントーム sinthome を「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「一のようなものがある」は、臍・中核としてーー シニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返し réel essentiel l'itération」を放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération において、自ら反復するse répèteのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。 「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの大他者とは、身体である。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaud、2012-2013, PDF

言語を使用するヒト族における構造的トラウマ(参照)、事故的トラウマ(被災等)による反復強迫は、「メカニズムとしては」すべてこれにかかわる、とわたくしは今のところ考えているが、もはや脳軟化症が進行中の身なのであまりカクとしたことはいえない。

いやあテキトウなことを記しちまった。この記事は、・・・ま、投稿シテオコウ





2018年8月25日土曜日

不安神経症と不安ヒステリーの相違

以下、前回(外傷神経症と現勢神経症)の記述の派生物である。

「不安神経症」はとても平凡な名であり、ヒステリーの変種だろうぐらいに考えていたが、いくらか調べてみると、フロイトにとっては原症状に近い概念であることが分かった。わたくしが見るところでは、不安神経症とは「外傷不安神経症 traumatischen angstneurose」とでも呼ばれるべき症状なのである。だが現在の精神医学における論文においては、いくらか当ってみたかぎりでは、この不安神経症について大半はたいしたことを言っていない。寝言も多い。

まずフロイトは1917年にこう言っている。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核でありその最初の段階である。この関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリーKonversionshysterie」として知られる転移神経症 Übertragungsneurose、不安神経症Angstneuroseと不安ヒステリー Angsthysterieとのあいだで最も明瞭に観察される。(フロイト『精神分析入門』1917年)

ここでの核心は、前回記したように、症状の地階に現勢神経症があり、上層部に精神神経症があるということである。そして不安神経症と不安ヒステリーの対比がなされている。

すなわち

(上階)     精神神経症     不安ヒステリー
      ーーーーー    ーーーーー
(地階)     現勢神経症     不安神経症

である。

次に1926年、フロイト70歳のときには次の記述がある。

原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。…外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

精神神経症    抑 圧
ーーーーー   ーーーー
現勢神経症    原抑圧   (外傷神経症)

である。ここでは前回の記述に則って、フロイトが外傷性戦争神経症と記しているところを、より大きく外傷神経症とした。

さて今記した二つの分類をまとめるとこうなる。




ここでフロイトが不安神経症概念を最初に提出した1894年の論文に戻ってみよう。

・不安神経症 Angstneuroseと神経衰弱 Neurasthenie は…興奮の源泉や障害の誘引が身体領域 somatischem Gebiete にある。…他方、ヒステリーと強迫神経症は心的psychischem領域にある。

・不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt は…抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能 nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能 nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)

不安神経症は、心的なものではなく、身体的なものの原因からくるとある。そして、精神療法ーーこの当時はまだ精神分析概念はないのでフロイトはこう記しているーーでは対抗不可能だと。

《還元不能 nicht weiter reduzierbar》とあるが、これはラカンの原症状(サントーム)をめぐる発言にも同様に出現する。

四番目の用語(サントーム=原症状)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975ーー「サントームと固着」)

しかも見ての通り、原抑圧という語が出現する。原抑圧とはラカンマテームではȺにかかわる(参照:三種類の原抑圧)。

ラカンは「不安」をめぐって一年間ぶっとおしのセミネールをしている。そこから一つの図を掲げよう。

(S10、13 Mars l963)   

ーーこの図のわたくしなりの読解は、「享楽の主体、欲動の主体、妄想の主体、幻想の主体」で示した。

ラカンは別に二種類の不安(表象内部の不安と表象の彼岸の不安)を区別しているが、後者は次のものである。

不安とは、寄る辺なさ Hilflosigkeitの 状況、乗り越ええない危険 danger insurmontable 状況への応答である。(ラカン、S10, 12 Décembre l962)

寄る辺なさHilflosigkeitという語を、フロイトは多用した。今はひとつだけ掲げよう。

生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

だが「不安神経症」がフロイトのこの記述にかかわる不安だとはここでは断言しないでおこう。とはいえわたくしの読解では、不安をめぐる核心はフロイトの次の考え方である。

経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』)

ラカンは後年のセミネール22にて、フロイトの『制止、症状、不安』に再訪している。そこでの不安の定義は、「現実界の任命 nomination du Réel 」である。

C'est entre ces trois termes :

- nomination de l'Imaginaire comme inhibition,

- nomination du Réel comme ce qu'il se trouve qu'elle se passe en fait, c'est-à-dire angoisse,

- ou nomination du Symbolique, je veux dire impliquée, fleur du Symbolique lui-même, à savoir comme il se passe en fait sous la forme du Symptôme, (S22、13 Mai 1975)

制止は想像界、不安は現実界、症状は象徴界の任命とあるが、ここでの「症状」とは原症状ではなく、精神神経症の範疇にある言語につながった症状である。

つまり「ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)」(ポール・バーハウ、2002)という原症状をマスクする症状の意味である(参照:症状の二重構造)。

こうしてラカン語彙を援用すれば、不安ヒステリーは象徴界の症状、不安神経症は現実界の症状となる。すなわち上に示した図を書き直せば、こうなる。



ここで右端下段の外傷神経症に注目しよう。前回も記したように、ラカンにとって現実界とは実質上「トラウマ界」である(参照)。したがってここまでの推論と前回の記述に則れば、不安神経症とは、外傷不安神経症となる。他方、不安ヒステリーとは表象に結びつけられた、あるいは言語に結びつけられた二次的な症状である。自由連想とは後者にしか効果がない。ゆえに(旧来型の)精神分析治療では対抗不能とフロイトもラカンも言うのである。


以上の記述は、わたくしが依拠することの多い、ポール・バーハウ他の次の文に促されたものである。

「現勢神経症」カテゴリーにおいて、フロイトが最も強調するのは、「不安神経症」である。……

フロイトの「不安神経症」は、DSMにおける「パニック発作」と「パニック障害」についての叙述と著しく重なり合っている。(ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER: BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK 、2007、pdf

⋯⋯⋯⋯

※付記

なおラカンの「不安」セミネールとは、21世紀に入ってからの主流ラカン派にとって、晩年のラカンにつながる最も重要なセミネールのひとつとされるものである。

セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!

そして私は自問した、ラカンはセミネールX 「不安」後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と。セミネール「不安」は、…形式化の力への限界を示している。いや私はそんなことは言わない。それは私の考えていることでない。

ラカンはセミネールXXに引き続くセミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。…あたかもセミネールX にて描写した視野を再び取り上げるかのようにして。

…不安セミネールにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション)




2018年8月24日金曜日

外傷神経症と現勢神経症

ヒト族には必ず「スプリッテイング(分裂・解離)」がある」で次の文を引用した。

中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

そして、「サリヴァンの「解離 dissociation」は、現在、精神医学で使用される解離とはやや異なる筈である。だが、それについては不詳の身でありここでは関知しない」と記した。

昨晩、中井久夫をぼんやり読んでいると、次の文に行き当たった。わたくしは中井久夫をそれなりによく読んでいるほうだと思うが、こういった(現在のわたくしにとっては)核心的な文を読み流してしまっていた。


【サリヴァンの「解離」とフロイトの「排除」】
⋯⋯⋯解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。例えば非常に原始的な防衛機制と言われている projective identification(投影性同一視)にせよ言語で語られるものです。これは私が腹を立てているとき、あなたが怒っていると思うことです。自分の感情を相手に投影するのです。しかし解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。

(⋯⋯)侵入症候群の一つのフラッシュバックはスナップショットのように一生変わらない記憶で三歳以前の古い記憶形式ではないかと思います。三歳以前の記憶にはコンテクストがないのです。⋯⋯コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらないというものが幼児の記憶だと私は思います。

この幼児型の記憶がどうして危機のときに出てくるかというと、とっさの対応には幼児型の記憶のほうが効率的だからと思われます。大人の記憶で「そういえば、オオカミにやられたことがあった」とジワッと思い出すよりも、端的にオオカミがグワッと口を開けたイメージが浮かんだほうが「オオカミは怖い」ということが頭に入るわけです。⋯⋯オオカミが出たところやオオカミのような人間が出たところは通らないほうがやられる危険が減るわけですから、その点で avoidance も適応的だと思います。

神経症を一歩踏み抜いたらどうなるでしょうか。強迫神経症において恐怖の対象となるものは実際の物ではありません。バクテリアがついている、ガスが出ているなどというイマジネーションです。決して現実のガスやバクテリアではなく、いくら消毒しても消えないものが汚染しているというイマジネーションです。あるいはガスが出ているというイマジネーションです。イマジネーションを消すために彼らは意識性を高めて努力するのですが、この努力には天井があります。手を洗うなどのように行動化する、頭の中に知恵の輪を思い浮かべて解く、何かの数字を足すというようなことには限度があるのです。無限にはいきません。だから痙攣的に繰り返すのが強迫症だと書いたことがあります。

天井を突き抜けると非常に統合失調症に近くなります。天井がある一つの理由は、サリヴァンが指摘しているように強迫症は睡眠が強固であるということです。眠れないはずなのに強迫症の睡眠は強固なのです。逆に、強固な睡眠がだめになると強迫症の治療がきわめて困難になり統合失調症より難しくなります。また睡眠薬があまり効きません。この天井を踏み抜くと思考は無限延長し、いくらでも考えが伸び、また無限に分かれて統合失調症の発病につながるのです。強迫症と対比した場合に意識性の天井が取り払われたといえるでしょう。

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。サリヴァンは「人間は意識と両立しないものを絶えずエネルギーを注いで排除しているが、排除するエネルギーがなくなると排除していたものがいっせいに意識の中に入ってくるのが急性統合失調症状態だ」と言っています。自我の統一を保つために排除している状態が彼の言う解離であり、これは生体の機能です。この生体の機能は免疫学における自己と非自己維持システムに非常に似ていて、1990年代に免疫学が見つけたことを先取りしています。解離されているものとは免疫学では非自己に相当します。これを排除して人格の単一性(ユニティ)を守ろうとするのです。統合失調症は解体の危機をかけてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力です。統合失調症はあくまで一つの人格であろうとします。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

サリヴァンの解離は「排除 Verwerfung」であるとされている。ようするにフロイトの「原抑圧 Urverdrängung」に関する用語である。原抑圧とはフロイト自身やその最もすぐれた解釈者であるラカン自身がひどく彷徨った概念であり、ポストフロイトの現在の精神医学界ではほとんど忘れられているが。

ラカンが《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》というときの無意識は、抑圧された無意識であり、他方、現在のラカン派が強調する言存在 parlêtre の無意識ーーフロイトが『自我とエス』でいう 《抑圧されていない システム無意識 nicht verdrängtes Ubw 》  ーーが言語のように構造化されていない原抑圧の無意識である。

ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。(ジャック=アラン・ミレール、2014, L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER )
言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(同ミレール 2014)

もっとも享楽は、ラカンの定義上(享楽の不可能性、欲動=享楽の漂流)、実際は享楽欠如の享楽である。

parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)

このところ何度か示しているが、抑圧の無意識/原抑圧の無意識とは、次の図にかかわる。



ここで抑圧(追放)と、原抑圧(排除)の相違を示しておこう。

Wahrig 辞典において、Ver-の意味はまず Abweichen(逸脱 deviation・脱線 digression・横道に逸れる straying away)と定義されている。(⋯⋯)

「抑圧 Verdrängung」概念は、次の二つのVer- 概念を伴う。すなわち「Verdichtung 圧縮」と「Verschiebung 置換」である。この二つの概念は、フロイトにとって「夢作業Traumarbeit」の基本メカニズムの名である。(ムラデン・ドラー 2012、 Mladen Dolar, Hegel and Freud)
・Verwerfung(排除 ・外に放り投げる)においては、内容が象徴化から放り出され脱象徴化される。したがって内容は現実界のなかにのみ回帰しうる(幻覚の装いにて)。

・Verdrängung(抑圧・追い出す)においては、内容は象徴界内に残っている。だが意識へのアクセスは不可能であり、〈他の光景〉へと追いやられ、症状の装いにて回帰する。

・Verleugnung(否認)においては、内容は能動的形式で認められている。だがIsolierung(分離・隔離)という条件の下である。すなわち、象徴的影響は宙吊りになっており、主体の象徴的世界のなかへは本当には統合されていない。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)

※もう少し詳しくはーーフロイト自身の言葉も含めてはーー、「防衛の一種としての抑圧」を見よ。

中井久夫に戻れば、「解離」すなわち「排除」は「言語以前」ともある(これはジジェクのいう「脱象徴化」である)。そして幼児型記憶的なフラッシュバックは《コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらない》ものともある。

これも現在のラカン派がいう「S2の排除」にこよなく近似している(参照)。

神経症においては、S1 はS1-S2のペアによる無意識にて秩序づけられている。ジャック=アラン・ミレール は強調している。(精神病における)父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Pèreは、このS2の排除 la forclusion de ce S2 と翻訳されうる、と。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne Paloma Blanco Díaz ,2018, pdf)

すなわち「S2なきS1」であり、トラウマ的な「原症状=サントーム」に。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller


【症状の二重構造:現勢神経症(外傷神経症)/精神神経症】

さらに中井久夫は症状の二重構造を説明している。強迫神経症の底にある分裂病(統合失調症)を例に出して。

これは精神神経症と現勢神経症(現実神経症)の関係にある。

中井久夫はフロイト概念「現実神経症」(現勢神経症)と「外傷神経症」を等置したい意図があるようにみえる。たとえばそれは次の二文が示している。

戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。

目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

ここでフロイトにおける「抑圧/原抑圧」と「精神神経症/現勢神経症」の記述を掲げよう。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)
……早期のものと思われる抑圧(原抑圧)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合(原抑圧の場合)は原初の危険状況 ursprünglichen Gefahrsituation に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。自我は、しばらくのあいだは、宙に浮かせたままの不安を、症状形成によって拘束し binden、閉じ込めるのである。外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

そして「フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」とラカンの「身体の享楽 jouissance du corps」」にて引用したラカンの「ファルス享楽/身体の享楽」の発言を掲げる。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre (身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

他の享楽・身体の享楽とは、ファルス秩序(言語秩序・象徴秩序)の症状の彼岸にある現実界的症状ということである。

ラカンにとって現実界とは事実上「トラウマ界」である。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

ここでのレミニサンスとは想起という意志的記憶とは異なり、無意志的記憶ということであるだろう(参照:プラトン/プルーストのレミニサンス)。

すなわち中井久夫のいう「オオカミにやられたことがあった」とジワッと思い出すことが意志的記憶であり、「オオカミがグワッと口を開けたイメージが浮か」ぶ形の幼児型記憶におそわれるのが無意志的記憶である。

幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

こうしておそらく次のように図示できる。



上下は地上/地下の症状のことである。精神神経症/現勢神経症は、ポール・バーハウによるこの二つの概念の拡大解釈に則って、精神病理/現勢病理とするべきかもしれない。

「現勢病理」の共通分母は、興奮あるいは緊張が、精神-代理表象的仕方で処理されえない事態である。フロイトにとってこれが意味するのは、彼の時代の精神分析治療は不可能だということである。言語的さらには象徴的素材さえないので、分析するものは何もない。

フロイトの想定において、「精神病理」的発達は「現勢病理」的核の上の標準的な「継ぎ足しcontinuation」である。「現勢病理」的核は(主体の)どの発達の出発点にもある。現勢病理と精神病理の二つは、単一の「連続体 continuum」の二つの両極として捉えられるべきである。どの精神病理にも現勢病理の核がある。どの現勢病理も可能性として精神病理へ進展する。……

フロイトは現勢病理(現勢神経症)のなかの不安神経症と神経衰弱しか記述していない(この二つはわれわれの時代にパニック障害と身体化障害である)。しかし現勢神経症の可能な形式はそれだけではない。

私の読解では、「外傷神経症」のほとんどすべてと同様、すべての境界性パーソナリティ障害(ボーダラインスペクトラム borderline spectrum)を付け加えるべきである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lecture in Dublin, A combination that has to fail: new patients, old therapists、2008、PDF

バーハウは、現勢病理は、外傷神経症もふくまれるといっている。これは上に引用した中井久夫の意図とほぼ同一である、ーー《現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか》とは、二つの間の相違は判然としないということである。

さらに中井久夫は《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶は⋯⋯語りとしての自己史に統合されない「異物」である》と言っているが、これは「分裂病と外傷性神経症」で見たように、フロイト概念である。

トラウマ(心的外傷 psychische Trauma)、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper とみなして、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


【外傷神経症の治療方針】

というわけだが、半年ほど前「人はみな外傷神経症である」という「思いつき」的投稿をしたけど、この投稿はそのいくらかの理論篇だね。

分裂病と外傷性神経症」で記したけれど、ボクの母は名市大で「分裂病」と診断されたーー木村敏教授・中井久夫助教授の黄金時代の前だけれどーー、今はあれは戦争神経症だと考えている。母は心の貧困化や萎縮はなかったように思いたいが、「ひずみ」はひどくあったな。でもあれはもっとしっかり受け止めるべきだったんだ、ボクだけではなくまわりの親族たちも。

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

次に中井久夫の外傷神経症の治療方針を掲げる。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)

この中井久夫の外傷神経症の治療方針自体、晩年のラカンの原症状(フロイトの欲動の固着による症状)の治療、つまり《もはやどんな根源的還元réduction radicale もない…決して取り消せない n'est jamais annulé》 原抑圧の症状(Lacan, S23, 1975)としてのサントームの治療ととてもよく似ている。

(原症状の治療の) 精神分析の実践は、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを(原)症状との同一化(そして同一化しつつそこから距離を取ること)とした。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009)

⋯⋯⋯⋯

※付記

【構造的トラウマと事故的トラウマ】
人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

《何か奇妙な・不気味な・外的なもの》とあるが、これが異物である(ラカンの 《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 1976) )。


フロイトの次の外傷神経症の記述は、通常は事故的トラウマのみを語っているように読まれるのかもしれないが、構造的トラウマも含めて読み込むことができるように思う。

外傷神経症は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式のアタック hysteriforme Anfälle がおこる。このアタックによって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事を我々は見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年、私訳)

「トラウマへの固着」、「無意識への固着」という項目の記述であるが、原抑圧とは(欲動の)「固着」と同一である。《原抑圧はなによりもまず固着として理解されなければならない》(ポール・バーハウ、2001)

それは次の二文が明瞭に示している。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。

②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗、侵入、「抑圧されたものの回帰Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911、摘要)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧(放逐)により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

フロイトの欲動の固着とは、幼児期の出来事の固着ーーラカンによるサントームの定義としての「身体の出来事」(参照)--が言語に翻訳されず「身体」の水準に置き残されるということである(ここで、ラカンはサントームのセミネール(11 Mai 1976)にて、サントームに相当するものを 《文字対象a( la lettre petit a)》と呼んでいることを注記しておこう)。

まだ原抑圧概念がなかったフロイト1896年の次の文における"Verdrängung"は、原抑圧の定義として捉えるべきである。

翻訳の失敗、これが臨床的に抑圧と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.»   (フロイト、フリース書簡 Brief an Fliess、1896)

この「翻訳の失敗」は、フロイトが1920年に「拘束の失敗」と表現しているものと等価である、と考えられる。

拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

翻訳の失敗、拘束の失敗による残りものが、上に引用したフロイト=中井久夫の「異物 Fremdkörper」、最晩年のフロイトの表現なら「残存現象 Resterscheinungen」あるいは「リビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste」(1937)でありラカンの対象aでもある(参照)。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)

そして中井久夫が《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》と書くとき、事故的トラウマの身体の上への刻印だけではなく、幼児期の構造的トラウマの刻印(固着)も同じ機制の反復強迫が働いているという形で考えているのではないだろうか? すくなくとも今現在のわたくしはそう捉えている。



私の美はベラドンナよ。男は死の餌食となるわ

以下の論に「真にラカニアン的フロイトのテキスト」としてフロイトの三つの論があげられているが、別に信じる必要はない。

ミレールのこの小論は数年まえ、Lacan.comで行き当たったのだが、いつのものかわからない。現在はLacan.comからも消えてしまっている。

フロイトの三つの「性愛の心理学への寄与」論文、すなわち『男性における対象選択のある特殊な型について 』(1910)、『性愛生活が誰からも貶められることについて』(1912)、『処女性のタブー 』(1918)。

この三つは、私の見解では、真のラカニアンのテキストである。ラカンは自ら、ラカニアンではなくフローディアンだと言っている。そしてフロイトは自らをラカニアンではないとは決して言っていない・・・。私は心から信じている。この三つのテキストには真にラカニアン的フロイトがいる、と。この諸テキストは、ラカンのテキストの再読・再考を促してくれる。…それは、「或るひとりのラカン」を超えてゆくためにフロイトを読むことを意味する。「もうひとりののラカン」の助けを以て。(⋯⋯)

「性愛の心理学への寄与」論文の重要性は何か? フロイトにとっての問いは、男と女は互いにいかに関係するのかという、皆が実際に熟考している問いである。その意味は、男女の性関係を考える試み、その困難その袋小路に思いをめぐらす試みである。(ジャック=アラン・ミレール、A New Kind of Love

それぞれの論文から、さわりを引用しておこう。

フロイトは、女性的「対象選択 Objektwahl」(= 囮 i(a)の対象選択)を「愛と欲望の収束」、男性的「対象選択」を「愛と欲望の分離」としている。そしてある型の男性は、《愛するとき欲望しない。欲望するとき愛しえない。Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben. 》(フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)、

場合によっては、《誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる》(『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910)

いやあピッタンコだな、「一盗二婢三妾四妓五妻」に。かつての?ボクにもピッタンコだよ

『処女性のタブー 』(1918)のほうは、《私の美はベラドンナ(毒薬)の美 Meine Schönheit ist die der Tollkirsch。それを享楽する Genuß 者は、狂気と死の餌食となる Ihr Genuß bringt Wahnsinn und Tod》なんてあるけど、ボクは美人には興味ないから、関係ないや。いずれにせよ毒薬はおことわりだね

いやまてよ、そもそも女ってのはみな毒薬女なんだろうか?

女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ。(ラカン S10, 1963, 摘要訳)





2018年8月23日木曜日

かっこいい言葉の蝶々のビラビラ

私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème. (Lacan, AE572、17 mai 1976)


私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことも気づかぬほど無邪気なまま
百へとむかう

詩は
滑稽だ

ーー谷川俊太郎 「世間知ラズ」  



「かっこいい言葉の蝶々」が蚊居肢子はキライなほうではないけれど、ラカンジャーゴンをわけがわからないままなのが丸わかりなのに、唇の周りでビラビラやってるインテリ連中ってのは垣間見るだけで殴ってやりたくなるね

自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか? (大江健三郎の『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」)

殴るってのかたくさんいて疲れるから機銃掃射だな

つまりはこういうことさ

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)

・・・というわけで享楽とかサントームとか、そろそろ使用禁止用語にしたほうがいいんじゃないかね?

「サントーム」ってのはフロイトの「欲動の固着」でいいのさ、そもそも後期ラカンジャーゴンはほとんどが欲動の固着の言い換えだからな。っていうのは「S(Ⱥ)と「S2なきS1」」で記したところだけどさ

「享楽」ってのは、ロラン・バルトの書の訳語「悦楽」のほうがずっとマシだな。それにせめて使うんだったら、この語はエロスとタナトスにどうかかわるのか追求してからだな、そうしたらすこしはユルスヨ

そもそも究極的には悦楽は「死」でありエロスだよ、剰余悦楽は「悦楽欠如の悦楽」でありタナトスだ、「究極のエロス・究極の享楽とは死のことである」、オレそろそろ死にてえのかな

ま、いずれにせよ、まともな詩人や作家だったらゼッタイ使わないだろうな、享楽なんて語。

まてよ、ニーチェは使ってるな、

悦楽 Lustが欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)

悦楽だったらいいよ、フロイトはパクったんだ、これを。それが「苦痛のなかの快Schmerzlust」さ

ニーチェはじつに偉大だな、フロイトの十倍くらいはエライ。

不快とは、悦楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)

ラカンってニーチェの名をださずにパクリばっかりやってんだから。

私が悦楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその悦楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく悦楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)


というわけで、くりかえせば、《自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎ》つつある心境にあってね

やっぱりフロイトはエライよ、
ニーチェの十分の一にはじゅうぶんに至るね
ラカンは多めにみてもフロイトの三分の一には至らないね
つまりニーチェの三十分の一程度さ
おバカな「現代思想」連中がもちあげただけだな

ま、どうでもいいけどさ
もうすぐジャック=アラン・ミレールとコレット・ソレールが
お釈迦になるはずだから
そうしたらラカン派のすくなくとも臨床派は消滅するよ
どんなにながくても20年はもたないね


2018年8月22日水曜日

分裂病と外傷性神経症

まず中井久夫のこの文に出会ったんだな。

統合失調症と外傷との関係は今も悩ましい問題である。そもそもPTSD概念はヴェトナム復員兵症候群の発見から始まり、カーディナーの研究をもとにして作られ、そして統合失調症と診断されていた多くの復員兵が20年以上たってからPTSDと再診断された。後追い的にレイプ後症候群との同一性がとりあげられたにすぎない。われわれは長期間虐待一般の受傷者に対する治療についてはなお手さぐりの状態である。複雑性PTSDの概念が保留になっているのは現状を端的に示す。いちおう2012年に予定されているDSM-Ⅴのためのアジェンダでも、PTSDについての論述は短く、主に文化的相違に触れているにすぎない。

しかし統合失調症の幼少期には外傷的体験が報告されていることが少なくない。それはPTSDの外傷の定義に合わないかもしれないが、小さなひびも、ある時ガラスを大きく割る原因とならないとも限らない。幼児心理において何が重大かはまたまだ探求しなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

ボクが6歳のとき、母は分裂病(統合失調症)と診断されたのだけど、思い返してみると、あきらかに戦争神経症なんだ、食事のときテレビニュースなどで戦争の場面がすこしでもあると、紅潮し身体を震わせ立ち去るかテレビを消す等々があったから。

で、中井久夫のトラウマ論を追っていくと、現実神経症(現勢神経症)という語が頻出するんだ。

戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
中井久夫)フロイトは神経症を三つ立てています。精神神経症、現実神経症、外傷神経症です。彼がもっぱら相手にしたのは精神神経症ですね。後者の二つに関してはほとんどやらなかった―――あるいはやる機会がなかったと言った方がいいかもしれないけど。フロイトの弟子たちも「抑圧」中心で、他のことはフロイティズムの枠内ではあまりやっていませんね。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離)

通常人は、精神神経症なんだ、そのあたりにいるミナさんはね(参照:フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」とラカンの「身体の享楽 jouissance du corps」)。

ま、かならずしもそうはいえないかもという立場だけど、ボクは。それはこの際どうだっていいや、ただボクはなんでこんなにヘンなんだろうな、とは小学校の五六年のころから思ってたな・・・

でもそんなことはどうだっていいことさ、いままだ生きてるからな。中井久夫をもうすこし引用しておこう。

今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。

医療人類学者のヤングいよれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。
もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉(外傷性神経症)を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002.9『徴候・記憶・外傷』所収)

フロイトをすこしはマジで読んでみようと思ったのはこういったことからだね。

現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。…外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

で、ラカン派はどんなこと言ってるか、と探ってみると、ポール・バーハウだけだね、正面からトラウマを扱っているのは。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現勢病理」(フロイトの「現勢神経症」)とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013)

バーハウの書や論文をいくつか読んでいくなかで次の記述に出会ったんだな。

心的外傷後ストレス障害 (PTSD) は、トラウマの自動的な結果ではない。実証研究の報告が示しているのは、主体的介入要因があるに違いないことである。概念的推論の基礎にもとづくと、トラウマ的出来事に先行する「現勢神経症 Aktualneurose」構造の存在が、PTSDの展開の前提条件として前面に出てくる。現勢神経症についてのフロイト理論は、欲動から来る興奮を象徴的な方法で加工することの不可能性として解釈されうる。この不可能性の理由は、欲動統制のために必要不可欠な象徴的道具を幼児に提供することにおける最初の養育者の失敗に探し求められる。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD by Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule 、2005)

これが正しいかどうかは議論の余地があるだろうよ、しかもポリコレにも問題含みだからな。トラウマ的出来事にあっても、たとえば震災にであっても、PTSDになりやすい資質とそうでない資質があって、なりやすい資質のひとは最初の養育者、つまり母が悪いってんだから。

ボクはちょっとしたことでも後々まで影響が残るけどさ・・・

多くの調査研究が示しているのは、トラウマ経験は心的外傷後ストレス障害の展開にとって必要不可欠だが十分条件ではないことである。(Paris.J, 2000, Predispositions, personality traits, and posttraumatic stress disorder. Harvard Review of Psychiatry)

予想されるように、ホロコースト生存者の子供は、他の両親の子どもよりも、PTSD になる傾向が高い。しかしながら、奇妙なことに、これらの子どもたちのほうが親たちよりも心的外傷後ストレス障害をよりいっそう経験することが示されている(Yehuda, Schmeidler, Giller, Siever, & Binder-Brynes, 1998)。

これらの親たち--犠牲者自身--が機能している可能性があるのだろうか、その子供にトラウマ経験を飼い馴らす必要不可欠なツールを提供し得ないようなものとして? この問いには容易には答え難い。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD、The Impact of the Other 、by Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule、2005)

ーーこの文にはちょっと絶句気味だったな・・・

こうもある、別の論文には。

DSMにおける「パニック障害 panic disorder」、「身体化障害 Somatization disorder」 、「分類困難な身体表現性障害 Undifferentiated somatoform disorder 」には、底に横たわる共通の心的構造がある、とわれわれは信じている。この構造は、フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」概念を基礎にすると最も理解しやすい。(ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER: BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK 、2007)

このたぐいの人はそれなりにいるんじゃないかな、たとえばパニック障害はよくきくから。

・・・・いやあ、もう何も言わないでおくよ。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

 中井久夫の論には異物まで出現してるんだ、ラカンの対象a、あるいは異者としての身体だけど。

トラウマ(心的外傷 psychische Trauma)、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper とみなして、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ま、世界にはいろんな人がいるよ、あんまりがたがたトラウマといわないことだな。人はみなトラウマ化されてんだ、その根はね。

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

奇妙な・不気味な・外的なものが、中井久夫やフロイトのいう「異物」だ。

で、次の考え方が現在の主流ラカン派の結論だ。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé( ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

でも、しっかり妄想するタイプは、根にあるトラウマに不感症になれるらしいよ。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この立場をとれば、精神神経症の連中は、しっかり妄想組の「父の版の倒錯者」なんだ。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

いいんじゃないか、シアワセそうで。たとえばまがおでDSMを信じ込んで、そのDSMをもとに「科学的に」トラウマ論かいてるエライ先生なんてのがそれだね。

人は、こまやかさの欠如によって科学的となる。(『彼自身によるロラン・バルト』)
怠惰な精神は規格化を以て科学化とする。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年初出『徴候・記憶・外傷』所収)




2018年8月20日月曜日

S(Ⱥ)と「S2なきS1」

S2なきS1のカオスの世界におけるリトルネロ」で記した「S2なきS1」について質問をもらっている。

ミレールは2001年に、サントームΣ=S(Ⱥ) と言っている。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)

2011年には、サントームΣ=「S2なきS1(S1 sans S2)」と言っている。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

したがってS(Ⱥ)=「S2なきS1」である。わずか10年のあいだにS(Ⱥ)についての見解の変更がある筈はないから。S(Ⱥ)とは、ラカンにおける最も重要なマテームなのだから。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)

S(Ⱥ)も「S2なきS1」もΣもすべて、フロイトの「欲動の固着」(「リビドーの固着」)のシニフィアンである。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

《S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions》 (ミレール、L'être et l'un 2011)

・精神分析的治療は抑圧を取り除き、裸の「欲動の固着」を露わにする。この諸固着はもはやそれ自体としては変更しえない。

・固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状のない主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)

ーー原症状とは、もちろんラカンにとってサントームΣのこと。


【身体の出来事=固着=サントーム】
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011 )
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)

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症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

「症状は身体の出来事」というときの症状は、サントームΣ(原症状)のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》 (Miller, L'Être et l'Un、30 mars 2011)

 ラカンの「身体の出来事」とは、「幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse」の言い換えとさえ言える。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)

《フロイトは固着、リビドーの固着、欲動の固着を抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. 》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 )

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後期ラカンのあれやこれやのジャーゴンは、ほとんどぜんぶ「欲動の固着」の言い換えだよ。たとえばララング lalangueや「一のようなものがある Y a de l’Un」だってそうだな。

身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)
サントーム……それは《一のようなものがある Y a de l’Un》と同一である。
si je veux inscrire le sinthome comme un point d’arrivée de la clinique de Lacan (je l’ai déjà identifié à ce titre).Une fois que Lacan a émis son « Y a de l’Un »(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

S2なきS1のカオスの世界におけるリトルネロ

神経症においては、S1 はS1-S2のペアによる無意識にて秩序づけられている。ジャック=アラン・ミレール は強調している。(精神病における)父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Pèreは、このS2の排除 la forclusion de ce S2 と翻訳されうる、と。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne Paloma Blanco Díaz ,2018, pdf)

ミレールは、すでに1995年に精神病における「父の名の排除」を否定し、「S2の排除」を主張している。

「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」を「S2の排除 la forclusion de ce S2」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?(Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE 1995)

「S2の排除」とは、「S2なきS1」の世界のことである。これは基本的には、固有名に近似したものの散乱の世界であるだろう。

固有名は、言語の一部であり、言語の内部にある。しかし、それは言語にとって外部的である…それは一つの差異体系(ラング)に吸収されないのである…言語における固有名の外部性は、言語がある閉じられた規則体系(共同体)に還元しえないこと、すなわち言語の「社会性」を意味する。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

※柄谷行人のマルクスに依拠する「社会性」「社会的なもの」の意味合いは、 「柄谷行人とともにラカンを」を見よ。

さてミレールは、精神病の主因は「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」とも言っている。

精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013、pdf

「父の名の過剰現前」とは、繰り返せば、「S2なきS1」の過剰現前と同じ意味である。

 ーーとはいえ、ここでミレールのいう「父の名」とは、いまだ父性隠喩には至っていないが何らかの意味作用を生み出す原「徴示システム système signifiant」としての「最小限の縫合 la conjonction minimale」(ラカン、S3、11 Avril 1956)もおそらく含んでいる筈である。

なにはともあれ、父の名の過剰現前とは「S2なきS1のカオス」である。

ミレール において、「S2なきS1(S1 sans S2)」という表現は次のような形で出現する。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller

ミレールはこの「S2なきS1」を1990年代には「ひとつきりのシニフィアン Le signifiant tout seul」とも呼んでいる。

後期ラカンのララング概念には、固有名の核があり(参照)、ミレールの表現「反復的享楽」「身体の自動享楽」等から、ドゥルーズ=ニーチェのリトルネロとしての永遠回帰をも想起もできる(参照:ララング定義集)。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロ ritournelle としての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

『千のプラトー』における最も美しい文のひとつ(「リトルネロについて」の章の冒頭)をも掲げておこう。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

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精神病/神経症が、「S2なきS1のカオス」の世界/「S1-S2のペアによる秩序」の世界であるとは、蓮實=ソシュールにおける「体系化されることのない積極的な差異の世界」/「体系化された否定的な差異の世界」とほとんど等価である。

彼(ソシュール)は、体系化されることのない積極的な差異なるものを明らかに知っている。「混沌たる塊」や「星雲」といった比喩で語っているものこそがそれでなければならない。そこには、体系化されることのない積極的な差異としての言語記号が無数におのれを主張しあうことで、カオスと呼ばれるにふさわしい風土を形成している。ソシュールが裸の言語記号を思考することを断念せざるをえないのは、そのひとつひとつが「イマージュ」を身にまとうことをひたすらこばみ、素肌のままであたりを闊歩するという野蛮さに徹しているからだ。これはなんとも始末におえない世界だとつぶやきながら、彼は思わず目を閉じ、耳を覆わざるをえない。

その瞬間、ソシュールの不可視の視界には、不在を告げるものとしての「イマージュ」をまとった「シーニュ」と、その体系にほかならぬ「ラング」とが、同時に音もなく浮上することになるだろう。『一般言語学講義』と『原資料』とに詳細に書き込まれているはずでありながら、「シーニュ」としてはそのように読まれることをこばんでいるのは、体系化されることのない積極的な差異の世界から体系化された否定的な差異の世界へのソシュールの余儀ない撤退ぶりにほかならない。ソシュールを読むにあって見落としてはならぬ肝心の記号は、おそらく、この差異の領域を隔てている差異をひそかに不在化してしまった「イマージュのソシュール」の身振りをめぐるものだろう。それは、差異に言及しようとするまさにその瞬間、それをすぐさま否定的なものだと定義せずにはおれず、差異の肯定を進んで放棄してしまうソシュールに対する『差異と反復』のジル・ドゥルーズの苛立ちを招いた身振りにほかならない。
⋯⋯いずれにせよ、「シーニュ」、「シニフィエ」、「シニフィアン」という三つの語彙がきわだたせる言語記号の定義が、ソシュール自身にとっての不幸にとどまらず、いまやその決算期にさしかかりつつある二〇世紀的な「知」の体系が蒙りもした最大の不幸なのもかしれぬという視点が、しかるべき現実感を帯び始めているのはまぎれもない事実だといわねばならない。(蓮實重彦『「魂」の唯物論的擁護にむけて ――ソシュールの記号概念をめぐって』「ルプレザンタシオン」第五号所収 1993年)

※参照:二〇世紀的な「知」の体系が蒙りもした最大の不幸