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2018年9月30日日曜日

人間の条件と表象代理と対象a

あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。(⋯⋯)

対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966ーー資本の論理(文献列挙)

⋯⋯⋯⋯

ラカンの対象aは、ほとんどの人はいまだ何のことだかまったくわかっていない。たとえばかつてドゥルーズ&ガタリは次のように記した。

ラカンにおける、欲望の賞賛すべき理論は、二つの極をもっているように思われる。ひとつは、欲望機械 machine désirante としての「対象a l'objet petit-a」にかかわる極である。これは、あらゆる欲求や幻想の観念を越え、現実的生産 production réelle によって欲望を規定する。もうひとつは、シニフィアンとしての「大他者grand Autre 」にかかわり、ある種の欠如の観念を再び導入する。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』)
ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態で à l'état libre、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。この欲望機械 Les machines désirantes ⋯⋯この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes ⋯⋯死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(同『アンチ・オイディプス』)

この自由な流体としての欲望機械=対象a とはまったくの誤りであるのは、ジジェクをはじめとしたラカン派によってくりかえし批判されてきている。最近では、サモ・トムシックがその評判の高い書『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan』 (2015)で、人が去勢(原抑圧)を認めるなら、こういった自由な流体としての機械は、フェティシスト的錯誤にすぎないという意味合いのことを指摘している。

逆に1960年代後半のドゥルーズの「強制された運動の機械(死の本能)[machines à movement forcé (Thanatos)]」という表現が、人間の反復強迫を考える上で、すぐれて正当的解釈である(参照:原抑圧によって「強制された運動の機械」)。

そもそも強制された運動の機械としての死の本能と、欲望機械という自由流体としての死の本能をどうやって仲良くさせようとするのか? ドゥルーズ研究者においては(わたくしの知る限り)いまだ誰もがこの問いにたいして「選択的非注意」のままである。

それなのに、いまだドゥルーズ研究者において欲望機械概念が無批判に使用されている。わたくしの考えでは、どう贔屓目にみても、ああいった連中は、たんなるおバカにすぎない。

対象aは最低限、二種類あるということがある。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , 2016)

たぶんドゥルーズ&ガタリは、幻想的囮/スクリーンとしての対象aしか把握できていない(参照:モノと対象a)。

おそらく標準的な人ーーラカン派プロパではない人ーーはマグリットの「人間の条件」をめぐるラカンの注釈が、対象aの両義性を捉える上で最も理解しやすいのではないだろうか。


【マグリットの「人間の条件」とフロイトの「表象代理」】

部屋の内側から見える窓の前に、私は絵を置いた。その絵は、絵が覆っている風景の部分を正確に表象している。したがって絵のなかの樹木は、その背後、部屋の外側にある樹木を隠している。それは、見る者にとって、絵の内部にある部屋の内側であると同時に、現実の風景のなかの外側である。これが、我々が世界を見る仕方である。我々は己れの外側にある世界を見る。だが同時に、己れ自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎない。(ルネ・マグリット, “Life Lines”)


(René Magritte, La condition humaine, 1933)

窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre⋯この馬鹿げたテクニック Technique absurde⋯それは人が窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtreようにすることである。(ラカン、S10、19 Décembre l962)

次の図はラカンによるマグリットの絵の図式化である(セミネール10ではなく、セミネール13に現れる)。



マグリットの絵の図式化でありながら、(すくなくとも視野の領域における標準的な)すべての「人間の条件 La condition humaine」の図式化である。

セミネール13にマグリットへの言及が四箇所あるが、以下はそのうちの二箇所をそのまま貼り付ける。


(S13, 30 Mars l966 )



(S13, 25 Mai l966)


「窓枠 fenêtre」がラカンが解釈するフロイトの「表象代理」である。

表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、セミネール11、1964)


【表象代理と対象a】

表象代理とは、実は対象aでもある。

絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)
現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l'extraction de l'objet a qui lui donne son cadre(Lacan, E554, 1966)

すなわち対象aの締め出しとしての原抑圧である(参照:原抑圧とは現実界のなかに女を置き残すことである)。

ラカンは指摘している、我々の「現実の経験」の一貫性は、現実から対象a を締め出すことにのみ依拠している、と。我々が正常な「現実へのアクセス」をするためには、何かが締め出されなければならない。「原抑圧」されていなければならない。精神病においては、この締め出しはなされていない。対象a は現実のなかに含まれる。この結果は、我々の「現実の感覚」の崩壊、「現実の喪失」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

マグリットの絵の図式化の図をもう一度眺めてみよう。



人がものを見るとき、窓枠 fenêtre が絵に先立っているのである。窓枠、すなわち表象代理が。

こうしてラカンが「表象代理」は「表象」に先立っているという意味合いが鮮明になる。

世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。Avant que le monde devienne représentation, son représentant, j'entends le représentant de la représentation - émerge. (ラカン, S13, 27 Avril 1966)

次のミレールの対象aをめぐる注釈も、この「人間の条件」としてのメカニズムを簡潔に表現している。

〈現実界〉としての対象を密かに無視することが「ひとかけらの現実」としての現実の安定化の条件だ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉があるべきところにないなら、〈対象a〉 はどうやって現実に枠をはめるのか。




〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実に枠にはめるのである。 わたしがこの絵の表面から、絵から網がけになった長方形を取り除くなら、われわれが枠と呼ぶものを獲得する。すなわち穴にとっての枠でありながら、また残りの表面の枠である。こうした枠はどんな窓によっても作ることができる。

〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを現実から取り除くことが、現実に枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、…この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré, 1984)



【隠蔽記憶と表象代理】

隠蔽記憶も、実は表象代理である。

スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réel が、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想 fantasme と呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象représentationと呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966 )
隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )はたんに静止画像(スナップショット instantané)ではない。記憶の流れ(歴史 histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4 30 Janvier 1957 )


【表象代理とフェティッシュ】

フロイトは表象代理とフェティッシュをほぼ等置している。

病因的固着 pathologische Fixierungen において…最初のフェティッシュの発生 Auftreten des Fetischの記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期が存在している。フェティッシュは、「隠蔽記憶 Deckerinnerung 」としてdurch、この時期の記憶を代理表象vertretenし、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag である。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1920年注)

次の文にはフェティッシュという語は現れないが、参照のために掲げる。

問題となる経験(トラウマ的出来事)に、は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児型健忘期 Periode der infantilen Amnesieの範囲内にある。その経験は、「隠蔽記憶 Deckerinnerungen」として知られる、いくつかの分割された記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen …

忘れられた経験を想起する vergessene Erlebnis zu erinnern こと、よりよく言えば、その経験を現実的なもににする real zu machenこと、忘れられたものをふたたび反復経験すること Wiederholung davon von neuem zu erleben…これは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma 、あるいは反復強迫 Wiederholungszwang の名の下に要約しうる。…そしてそれは不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

ラカンの叙述は次の通り。

欲望は…換喩 métonymieの軌道 railsに囚われている。欲望は永遠に何か別のものへに欲望に向かって拡がっていく éternellement tendus vers le désir d'autre chose。したがって、象徴示的連鎖宙吊り suspension de la chaîne signifiante のまさその点における「倒錯的」固着 fixation、そこにおいて隠蔽記憶(スクリーンメモリー le souvenir-écran)は不動化 immobilise され、フェティッシュの魅惑的映像 image fascinante du fétiche が凍りつく statufie。 (ラカン、E518、1957年)

《フロイトが隠蔽記憶 Deck-Erinnerung(スクリーンメモリー)と呼ぶものは、トラウマ的真理を覆うように定められた幻想形成である。》(ジジェク、Less than nothing, 2012)

これは誰も(直接的には)言っている人に出会ったことがないが、《原幻想あるいは原光景 Urphantasien oder Urszenen 》(フロイト『狼男』1918年)もおそらく「表象代理」として捉えうる。


⋯⋯⋯⋯


【私は写真である・私は写真に写されている 】
私は何よりもまず、次のように強調しなくてはならない。すなわち、眼差しは外部にある le regard est au dehors。私は見られている(私は眼差されている je suis regardé)。つまり私は絵である。これが、視野における、主体の場の核心に見出される機能である。視野のなかの最も深い水準において、私を決定づけるものは、眼差しが外部にあることである。…私は写真であり、私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié。(ラカン、S11, 11 mars 1964)


この《私は写真である・私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié》についてのムラデン・ドラーの注釈(『歪像 anamorphosis』2016年)にも「表象代理」概念が現われる。

写真の動きが、視野の主体に住まっている。視野の領域において、あたかも人は写真に写されている、人が写真を写す主体として自らを分離する以前に。そして人が写真を写され、捕獲され、囚われる仕方が、写真のなかに、斑点・染み・歪みとしての徴を置き残す。これが眼差しの不透明なスクリーンである。

ここで問題になっている事は、表象概念ではない。表象 Vorstellungs とは常に主体にとっての表象である。すなわち彼の前に置かれたもの (vor-stellen 表-象)である。染みは、スクリーンの機能を有しており、眼差しの代役のようなものである。染みは、主体とその欲望の、対象化された外部の「代理」であり、究極的には、言語とシニフィアンの領野における、(フロイトの)悪評高い「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」と同じ機能をもっている。

染みは、構造的に喪われている表象の代役(喪われているシニフィアンのシニフィアン)である。表象の全領野は染みに準拠している。染みという代用物 ersatz は、構造的に喪われている。にもかかわらず、この染みは他の諸表象と同じ水準にあり、絶えず閉じ・脱境界化し・全体化する表象の領野の不可能性にとっての代役である。表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのである。(ムラデン・ドラ― 2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf


ジジェクの表現なら次の通り。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」(=対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006)




・確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau.

・そして私が絵の中の何ものか quelque chose dans le tableau なら、…それは染み tâche としてある。(ラカン、S11, 04 Mars 1964)

《イマージュは対象aを隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).》(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)

※参照:S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)



村八分システム

あのね、⋯⋯《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する》(ニーチェ『善悪の彼岸』154番)だよ、わかんねえかな

反家父長制という家父長原理」で示した図を再掲しよう。

自我理想(父の機能)があるとき、集団は団結する。自我理想が空であれば、各自我は二者関係的になって「勝ち組」「負け組」を生み出す(あるいは喧嘩する)。





たとえばノーベル文学賞作家でありかつまたかつてのフェミニストのアイコンだったドリス・レッシングは、その自伝にて次のように言っているそうだ。

子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。(Doris May LessingーーThe Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles、2000年 by Paul Verhaegheより孫引き)

つまり欧米でもある時期から父が機能しなくなっている。だから父の機能などもともと稀薄な日本的ないじめが欧米でも流行するようになったという話。

ここで中井久夫の名エッセイから引用しておこう。

非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。⋯⋯⋯

いじめられる者がいかにいじめられるに値するかというPR作戦(……)。些細な身体的特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」)

ーーツイッター社交界だって、ことあるごとにこれが起こってるんじゃないだろうか?

でも有徴者を探し出して「いじめの対象」にすることは、ひとつだけよいことがある。いじめの対象は、自我理想(父の機能)の代替物になるのだ。

⋯⋯理念(自我理想)がいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つき Gefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

ようするに次のような図になって、集団は「なかよしこよし」になる。





これこそツイッター炎上のたびに発生している現象だよ、すべてがとはいわないでおくが、殆ど全てがとは言っておこう。そしてこの現象は、「共感の共同体」に起因すること大だというのがボクの観点、ってのか、「常識「だろ、これ。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)

ーー浅田彰の「共感の共同体」の裏には、「土人の国」日本がある筈だな。彼は最近はいくらか口を慎むようになっているから、日本ツイッター社交界を土人鳥語ムラとまでは言ってないようだけど・・・

ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)


ま、いわゆる民主主義もーー場合によっては、と遠慮して言っておくがーー同じメカニズムが働く。《民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。》

人々は自由・民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている(『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。

それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。(柄谷行人「歴史の終焉について」(『終焉をめぐって』所収)

バディウが、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(民主制社会という一かけらの精神もない巨獣)なんて言ってるらしいけどさ。

いまはその話はしないよ、日本には民主主義がお好きな方がいっぱいいらっしゃることだしさ。でも、共感の共同体とか絆の国日本の程度の話はしたっていいさ、この言い方は、すこしはかっこよくきこえるけど、ようするに村八分システムのことだ。

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)

というわけで、全会一致の様相がすこしでもみえたら、なにかおかしいんじゃないかとまず疑ってみる必要がある。かりに後から見返してあれは正当的な全会一致だったと判断するものでさえ、祭最中はしばらく熱狂から身を引くのが胆だな。発酵させなくちゃな。

ほんとうに怖い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。それは人権を内面化することでもあるのです。個人の独立であり、個人の自由です。日本社会は、ヨーロッパなどと比べると、こうした部分が弱いのだと思います。平等主義はある程度普及しましたが、これからは、個人の独立、少数意見の尊重、「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。さきほど述べたように、日本の民主主義は平等主義的民主主義だけれど、少数意見尊重の個人主義的な自由主義ではない。それがいま、いちばん大きな問題です。(加藤周一、『学ぶこと・思うこと』2003)

で、「おみこしの熱狂と無責任」の先導してる「芸能人」って、ま、土人の先導役にしかみえないことがボクには多いって話なんだけどな・・・

例の芸能人⋯⋯、職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。(中野重治「芸術家の立場」)

2018年9月29日土曜日

人はみなバイセクシャルである

◆基本教養篇

【男というものと女というものはない】
男性のセクシャリティや女性のセクシャリティはない。一つのセクシャリティしかない。すべての関係はこの一つの性のなかで泳いでいる、同性愛的単独性は防水加工されていない。Il n’y a pas de sexualité masculine ou féminine. Il y a une seule sexualité dans laquelle baignent tous les rapports. La singularité homosexuelle n’est pas étanche. (マグリット・デュラス Marguerite Duras, “The Thing”、1980
男というものと女というものはない。ただ男性性と女性性の異なった度合い、異なった色合いがあるだけである。There are no Men and Women, only different degrees, different shades of masculinity and femininity.(アレンカ・ジュパンチッチAlenka Zupancic『性とは何か What IS Sex? 』2017)


【人はみな同性を愛する資質をもっている】
精神分析の研究は、同性愛者を特異な一群として他のひとびとから区別しようとする試みとは、はっきりと異なっている。…われわれが見出したのは、すべての人間は同性を対象として選択する能力があり、それは無意識のなかで実際になされていることである。daß alle Menschen der gleichgeschlechtlichen Objektwahl fähig sind und dieselbe auch im Unbewußten vollzogen haben

…対象選択が対象のジェンダーとは関係のないこと Unabhängigkeit der Objektwahl vom Geschlecht des Objektes,、男性の対象でも女性の対象でも同じように自由にできるということ gleich freie Verfügung über männliche und weibliche Objekte、これは幼児期においても、原始的状態や前史的時代にも見出されるものだが、精神分析学にとってはこれこそ根源的なもの Ursprüngliche であり、ここから制約しだいで一方へ向かえば正常型 Seite der normaleが、他方へ向かえば性対象倒錯 Inversionstypus 型がというように、どちらかに発達してゆくものだと思われる。

…精神分析学の意味ではしたがって、男性の関心が女性にだけ向けられる sexuelle Interesse des Mannes für das Weibということは解明を必要とする問題であり、化学的な引力chemische Anziehung がその根底をなしているというような自明のものではない。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1915年註)


【人はみな男女混淆、バイセクシャルである】
「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。

男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。

…だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋の男性または女性 reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年註)
バイセクシャル Bisexualität の相と親しむようになってから、わたしはこれこそ決定的要因と見なし、バイセクシャルの考慮なしで、男性と女性の性的表出 Sexualäußerungen von Mann und Weibを理解するようになることは殆ど不可能だと考えている。(フロイト『性欲論三篇』1905年本文)

⋯⋯⋯⋯

※付記

【同性愛者(ゲイ)は、主体的ホモエロティックと対象的ホモエロティックの混淆である】 
性対象倒錯の問題について一連の重要な観点を、フェレンツィ Ferenczi はその論文(1914)において提出した。フェレンツィは同性愛 Homosexualität のかわりにホモエロティック Homoerotikという言葉を使おうとするのだが、彼は正当にも、同性愛という名のもとに器質的にも心理的にも価値の等しくないさまざまな状態が、ただ同じようにインヴァージョンの症状をもっているからという理由で混同されていることを非難している。

彼は少なくとも、自らを女性であると感じ、またそのように振舞う主体的ホモエロティック者 Subjekthomoerotikers と、まったくの男性であって、ただ女性の対象を同性のそれと取りちがえただけの対象的ホモエロティック者 Objekthomoerotikers との二つの型をきびしく区別することを求めている。彼は前者が、マグヌス・ヒルシュフェルトのいう意味での正規の「性的中間者 sexuelle Zwischenstufe」であることを認め、後者はーーそれほどうまくいっていないがーー強迫神経症者 Zwangsneurotiker だとしている。インヴァージョンの傾向への反抗や心理的影響の可能性も対象的ホモエロティック者の場合だけに観察される、というのである。

この二つの型を認めたうえで、さらにわれわれは、多くの人物の場合には、ある程度の主体的ホモエロティック者と対象的ホモエロティック者の一部が混淆している daß bei vielen Personen ein Maß von Subjekthomoerotik mit einem Anteil von Objekthomoerotik vermengt gefunden wird のが見られる、ということを付言する必要がある。(フロイト『性欲論三篇』1920年註)

【エロスとタナトスの欲動混淆】 
「エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性」と「タナトス・分離・孤立化(独立化)・強迫神経症・男性性」には、明白なつながりがある。…だが事態はいっそう複雑である。ジェンダー差異は二次的な要素であり、二項形式では解釈されるべきではないのだ。エロスとタナトスが混淆しているように(フロイトの「欲動混淆 Triebmischung」概念)、男と女は常に混淆している。両性の研究において無視されているのは、この混淆の特異性である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 「二項議論の誤謬Phallacies of binary reasoning」、2004年)


2018年9月28日金曜日

大きなつけひげ装置

鳥語装置で「大きなつけひげ」囀りして大量のリツイートやファヴォされたとき、《私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む》ってないんだろうかな、あの作家たちって。

私は、発表のはじめに、大きなつけひげをつける。しかし、私自身のパロールの波(……)に少しずつひたされて、私はひげが皆の前でぼろぼろとはがれていくのを感ずる。何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませるや否や、何か進歩主義的な常套句で聴衆を安心させるや否や、私はこうした挑発の迎合性を感ずる。私はヒステリー的欲動を遺憾に思う。遅まきながら、人に媚びる言述よりいかめしい言述の方が好ましく思われ、ヒステリー的欲動を元に戻したいと思う(しかし、逆の場合には、ヒステリー的に思えるのは、言述の《厳しさ》の方である)。実際、私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む(私は、今、想像上の過程を描写しているのだ)。反応を求め、つい反応を挑発してしまう私だが、私が警戒心を抱くには、私に反応するだけで十分である。

そして、どのような反応をも冷まし、あるいは、遠ざけるような言述を続けていても、そのために自分が一層正確である(音楽的な意味で)とは感じられない。なぜなら、そのときは、私は自分のパロールの孤独さを自賛し、使命を持った言述(学問、真理、等)というアリバイをそれに与えなければならないからである。(ロラン・バルト「作家・知識人・教師」『テクストの出口』所収)

ないんだったら、もうその時点で作家生命終わってるよ。繊細さの欠如、感性の鈍さ等の「はしたなさ」を露出させといて真の作家商売できるわけない。彼らはせいぜい知識人に過ぎないね。

パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収)

「まぁ、世界とはその程度のものです」(蓮實)なんだろうけどさ、つまり真の作家なんてものは何十年かに数人しかいないのはわかってるけど、連中はあまりにも厚顔無恥だぜ、《最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。》(『闘争のエチカ』蓮實重彦)

作家はいつもシステムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes)にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge である。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

ま、世界はかわったんだろうがね、1990年前後からことさら。そして1995年あたりからのインターネット普及が追い打ちをかけて、作家商売は、媚態としての販促活動やらないとまったくやってけなくなってるんだろうけどさ。

そのせいもあって書き手としての最も基本的姿勢がとれなくなっちまってんだろうな。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

で、卑しいごますり作家の跳梁跋扈って具合になる。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)

ああ、もう相手するのやめるよ、ツイッター装置の鳥語なんてマジでみるもんじゃない、シュルレアリスト的気分になっちまう。

最も単純なシュルレアリスト的行為は、ピストル片手に街に飛び出し、無差別に群衆を撃ちまくる事だ(アンドレ・ブルトン)

なにはともああれあの作家連中の鳥語は、《すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうる》内容しかもってないね。

(大衆化社会では)ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

恥ずかしさの余り総毛立つ言葉が
多くの拍手を以て流通していると
「ひとり残らずぶっ殺してやりたい」
と思うことないかい? 
たとえば機銃掃射でさ

なかったら幸せものだね

とはいえ、こういう罵詈雑言を容易に書けてしまうブログってのもよくないんだろうな・・・



道化師による「おみこしの熱狂と無責任」の先導

批判の対象の善悪は別にして、公衆の面前で悪しざまに罵倒することが許される公的な存在としての犠牲の山羊を見出したら、集団いじめが繰り返されるのが日本鳥語村のきわめて著しい特徴だ。

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つきGefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

ま、いつもの通りの共感の共同体現象だな。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)


そして凡庸な作家たちが、東日本大震災以後とくにきわだって続出するあの不快な現象にまったく無批判のまま、祭りの神輿担ぎを率先するのもを相変わらずだ。

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)

あれらの道化師たちを「作家」と呼んでよいのかどうかは知らないが。

私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。(古井由吉『哀原』女人)
よくないのは、「一方に革命があり、もう一方にはファシズムがある」などということを言うということです 。事実、ものごとをいくらか違ったやり方で見ようとすれば、そうしたことを言うことはできません。 ⋯⋯まったくの善人であったりまったくの悪人であったりするような人は一人もいません。でも人々はいつも、あたかもそうした人がいるかのような考え方をとっています 。(ゴダール 『ゴダー ル /映画史Ⅱ』)
人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』)

ウエブというファシズム装置

Xについて何か発言すれば、意見を言えば、自分はちゃんとXを意識している、Xについて考えている、他者に向かってそう言いたい人が、ウエブのおかげで増えているのかと思う。行動はしなくても、コトバにすれば免責される、そんな気持ちがひそんでるんじゃないかな。(谷川俊太郎、2015年12月24日


あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。(ロラン・バルト『文学の記号学』)


わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。(ニーチェ『この人を見よ』)




・公衆の面前で悪しざまに罵倒することができる数少ない公的存在として、世間が○○を選んでしまったのである。…○○はいまや、反動的な非国民として、全会一致の敵意を全身でうけとめざるをえなくなっている。

・○○を嘲笑してみせることで、 自分の立場を相対的に高めようとする凡庸な精神が作用している。 それがそっくりわれわれの精神と共鳴しているかもしれぬその凡庸さが、改めて痛ましく思われる。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

生産、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等、ーーこれらはすべて「新自由主義的非イデオロギー」の語彙群である。作家たちも、資本の論理という不可視の「システム的暴力」が奏でる音楽に、嬉々として踊っているのが改めて痛ましく思われる。


⋯⋯⋯⋯

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)





2018年9月27日木曜日

反家父長制という家父長原理

また文句を言ってこられるフェミの方がいるが、ボクはもう何度も記した。いままで引用したことを再掲するほかない。


【父の機能の意味】
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)

フロイト・ラカン派における第三者とは次の図の自我理想のこと。

(コレット・ソレールによるフロイトの『集団心理学と自我の分析』図の簡略図)

ーーこの図は自我理想があるからこそ、各自我の連帯を生むという意味。

自我理想とは、アーレントのいう権威としてもよい。《権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する》(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)

自我理想(父の名)が空位なら、各自我は二者関係的になる(喧嘩がはじまる)。




夫婦関係においては子供が第三項として機能する場合だってある。




オシドリ夫婦と呼ばれるカップルには、必ず第三項があるはずである。たとえばクルターグ夫妻の第三項は「音楽」である。






【父の名の使用】

肝腎なのは支配の論理に陥りがちになる父の名ではなく父の名の使用。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)


【父の原理】

柄谷行人の帝国の原理とは、ラカンの父の名の使用と機能的には等価。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)


【日本においての家父長制の権威はなかった】

日本においては戦前の疑似一神教的天皇制の時期以外には、家父長制はなかった。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」(=自我理想)であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(……)

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。⋯⋯(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)
日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)


【母性的な共感の共同体】

代りになにがあるのかといえば、 せいぜい母性的な共感の共同体(これは二項関係の裏返し)。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)


【日本には言語による経典を守る気風はない】
一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年初出『記憶の肖像』所収)
一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」


【父の名は母子二者関係の上に課されなければならない】

フロイト・ラカン的には、母子の二者関係的なあり方の上に第三項(父の機能)が課されなければならない。それは冒頭にも記した。

「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(ミレール『大他者なき大他者』2013)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母と子供の関係は二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

⋯⋯⋯⋯

というわけで、日本フェミニズムにおいては実際は母権性打倒という考え方が必要というのが、上に引用した内容からボクが何度か示している観点。

日本は、中井久夫がいう一神教的《言語による経典が絶対の世界》ではまったくないのだから、ある程度は、言語による統制という父の機能が必要だということ。

日本における権力の場にいる「イメージとしての男」の形象に騙されてはいけないのである。あれらは実際は「女」である。日本における権力の構造は二者関係的な「母性的なもの」である。言語ではなく空気で動く権力である。

※フロイト・ラカン的な「女」の意味は、「原抑圧とは現実界のなかに女を置き残すことである」を参照。

 ま、母権性打倒というのは、いくらか挑発的な言葉の綾だとしてもいいよ。言語の統制をもうすこししっかりやりましょう、オトウサンたちよ! でいいよ。

そもそも、フェミニスト運動における「反家父長制」というスローガンはーー日本的環境ではピントのずれたスローガンであろうとーー「家父長原理」(父の機能)として、フェミニスト各人の連帯を生んでいる筈だよ、これぐらいは、お認めになる⋯ンジャナイデショウカ?




二者関係先進国日本



2018年9月26日水曜日

小粒のビル・ゲイツとティム・クックによる燻製ニシンの虚偽

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009

⋯⋯⋯⋯

巷間で差別が話題になっているとき、最も苛立つのは、反差別的言明を高らかに言い放つリベラルインテリたちの「燻製ニシンの虚偽」である。

「燻製ニシンの虚偽 Red herring」:重要な事柄から受け手(聴き手、読み手、観客)の注意を逸らそうとする修辞上、文学上の技法(wiki

あの「善良な」インテリたちは、なにから目を逸らしているのか。資本の論理という「差別システム」(差異を創出するシステム)の掌に、現在の新自由主義に生きる人々はみな乗っており、彼らの立場のほとんどは、勝ち組・負け組を創出するこのシステムにおける「勝ち組」でありながら、それを忘れたふりをしているのである。

より理論的にいえばーー「資本の論理(文献列挙)」で引用したがーー、《階級格差を生み出す》システムへの批判(吟味)が、リベラルインテリにおいては、ほとんど皆無であるということである。

株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016, PDF)
資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)

そう、連中は、階級格差創出システムあるいはシステム的暴力に対して「選択的非注意 selective inatension」に専念している。

古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1996年『アリアドネからの糸』所収)

ジジェクによるビル・ゲイツ批判がある。

ビル・ゲイツには二つの顔がある。冷酷なビジネスマンとしての彼は競争相手を破滅させるか買収して、実質的な独占を目指す。目的を遂げるために商売上のあらゆる策略を練る。他方、人類の歴史上、最も偉大な博愛主義者としての彼は巧みに問いかける。「コンピュータを所有することは何に奉仕するというのでしょう、もし人びとが食べる物が充分になく、赤痢で死にかかっているのなら?」

リベラルなコミュニスト的倫理において、利益の無慈悲な追及は慈善活動によって中和される。慈善活動は経済搾取の顔を隠すヒューマニストの仮面である。膨大な超自我の脅迫(疚しい良心)のなかで、先進国は後進国を、援助や借款などで「助ける」。それによって鍵となる問題を避けるのだ、すなわち後進国の悲惨な状況における共犯関係と共同責任を。(ジジェク『暴力』2007)

ジジェクによるこれと同様の批判は何度も何度も繰り返されているが、たとえば最近でもこう言っている。

アップルのCEOティム・クックは、奴隷状況 slave conditionsでアップル製品を組み立てている中国でのフォックスコン Foxconn 労働者(自殺者たちが続出していることで知られる:引用者)について容易に忘れることができる。彼は社会的弱者との団結の大きなジェスチャーをして、ジェンダー差別の廃止を要求する。しばしばそうであるように、巨大ビジネスは、ポリティカルコレクト理論と誇り高く連帯するのだ。(THE SEXUAL IS POLITICAL BY SLAVOJ ŽIŽEK , 2016


ビル・ゲイツやのティム・クックのポリティカルコレクトな姿勢を観察するための最も肝腎な点は、無慈悲な利益の追求という「資本の論理」がいまだその「至高の善意」の底に横たわっていることであり、慈善要素は真実を隠す方法、罪を宥める方法(無意識的な疚しい良心の裏返し)であるということだ。

これがジジェクが、ビル・ゲイツの博愛主義は、《「客観的暴力」(システム的暴力)として機能している。現在の経済政治システムをスムーズな機能の温存のための完璧な「燻製にしんの虚偽」として機能している》(『暴力』)という理由である。

「資本の論理」にたいして選択的非注意に終始し、新自由主義の釈迦の掌で善人のふりをしているリベラルインテリとは、差別主義者の仮面にすぎない。すくなくとも人はつねにそう疑わなければならない。日本言論界には、小粒のビル・ゲイツとティム・クックたちが破廉恥かつ厚顔無恥に跳梁跋扈している。

ここでさらに大切なのは、システム的暴力としての差異の論理(資本の論理)の掌に乗った上での「善い選択」は(たとえばポリティカルコレクトネス)は、システム的暴力という支配的イデオロギーを強化することである。

要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の抑圧と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant 2008, PDF)

上に《リベラルインテリとは、差別主義者の仮面にすぎない》と記したが、穏やかに言えば、あれら「善意あふれる」リベラル左翼とは《人間の顔をした資本主義者》である。

資本主義の継続、国家機構の継続を疑う者はいない。かつては"人間の顔をした社会主義"を求めたのに、今の左翼は"人間の顔をしたグローバル資本主義"で妥協する。それでいいのか? (ジジェク「あれから40年、我々は今?」 2008)

(もちろん「資本の論理」をときに批判しつつも実のところはその世界で安穏と生き長らえてきたこの蚊居肢子だって差別主義者である。その自覚がまったくない連中よりはいくらかマシだろうというだけだ。)

ーーああ、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しき魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども!》(ニーチェ『この人を見よ』)


資本の言説(簡潔版)

【資本主義のなかの居心地の悪さ】
まず最初の誤謬を取り除かねばならない。想い起こそう、(ラカンにとって)「言説」とは「語の集合」ではないことを。「資本の言説」という表現は、資本主義の生産様式の支配に由来する社会的つながりを指している。ある意味で、「言説」という用語は「生産様式」という用語に代替される。(capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2016、pdf)
…(フロイト・ラカンによる)「社会的生産様式」を支えるメカニズムへの固有の洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち、「資本主義のなかの居心地の悪さ Das Unbehagen im Kapitalismus」のほうが「文化の中の居心地の悪さ Das Unbehagen in der Kultur」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。(Samo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2016, pdf)

【主人の言説から資本の言説への移行】
ーー主人の言説を基盤とした四つの言説についての最も基本的な解説は、「基本版:「四つの言説 quatre discours」」を見よ。以下の記述は四つの言説の最低限の知がないと全く理解不能である。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)




【資本の言説の基本的注釈】
◆Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016, pdf

① $ とS1 は場所替えをしたこと。

② 左側の上方に向かう矢印ーー古典的言説では到達不能の「真理 vérité」を示す--が、下方に向けた矢印に変更されたこと。

③「動作主agent」と「他者autre」との間にあった上部の水平的矢印が消滅したこと。

これは上に掲げた図の 「$ とS1の場所替え」以外に、(言説のベースにある形式的構造の)次の図の左から右への移行を叙述している。




以下、同様にStijn Vanheule 2016から私訳引用する。

三つの変更の影響は、四つの言説に固有な数多くの障害物が、五番目の言説の特徴ではなくなった。われわれは資本の言説内部で、レースのゴーカートのように、循環しうる。事実、資本の言説において、非関係 non-rapport は回避される。

Samo Tomšič は、これを次のように叙述している。

《矢印が示しているのは、資本の言説は全体化の不可能性 (動作主と他者との間の impossible)の「排除」を基盤としていることである。他の諸言説(四つの言説)は、全体化の不可能性に特徴づけられており、それは次の事実に決定づけられている。すなわち、シニフィアンは差異の開かれたシステムを構成するという事実に。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2015)

とりわけ、標準的な四つの言説において、「真理」のポジションは、矢印によって標的になっていない。そして「動作主」と「他者」のポジションは、二つの(相互的に関係性しない)他のポジションによって影響を受けている。それが、言説の機能を構造的に逸脱させる。

実際に、資本の言説の構造的特徴は、四つのポジションは元のままでありながら、矢印によって作り上げられる進路は変わっている。すべてのポジションに一つの矢印が到達する。従って、矢印の閉じられた円環が形成される。四つの言説を特徴づけていた構造的逸脱は、見出されない。言わば車輪のように廻る(無限∞の形になっている)。……

…資本の言説において、主体性は腐蝕させられる。これについての主要な構造的理由は、$ と a との間の距離が喪われていることである。すなわち、剰余享楽に固有の、主体を混乱させる身体上の緊張との距離の喪失である(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、2016,  pdf


【資本の言説の時代における主体の変容】



(資本の言説における)$ から S1 への動きは、主体の分割の構造的質の否認をもたらす。資本の言説は主体の分割から出発する。しかし、S1 に向かう動きが暗示するのは、主体の分割は、主人のシニフィアンへの疎外(同一化)を通して克服されうるということである。

これは倒錯的運動を物語っている。《倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する que le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, 》(ラカン、S18)

資本の言説においては、S1 は主体の穴を補填するように促されている。

どちらの場合も、主体の穴は埋め合わせ可能だと信じられている。この理由で資本の言説はしばしば一般化された倒錯の用語で叙述される(Mura, 2015)
 (Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、2016)

ーーラカン自身は倒錯ではなく、排除(精神病)と言っているが、現在のラカン派注釈者は、資本の言説は倒錯とすることが多い。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

ーー去勢の排除であれ否認であれ、主体が言語によって身体から分割されていることを認めないあるいは宙吊りにする姿勢である。

【資本の言説の主体は、飲めば飲むほど渇く】

◆capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2016、pdf

資本の言説は、「真理 S1」の不到達性から逃れるように構築されている①。真理の場に到達しうるだけではなく、「知 S2」に到るためには「真理」を通り過ぎなければならない。資本家の言説における真理は、占星術における地位と同じ地位である。



S1 → S2(左下から右上への斜めの矢印②)は、資本家/労働者の転移がなされる。というのは、生産において仲介するものは、労働力のノウハウだから。…

S1が知を所有していないなら、何が命令する能力を与えるのか? 答えは金融力である。労働者は命令に従って生産する。彼等はマルクスが見出した剰余価値の秘密を生産する。われわれは知っている、マルクスにとってーー誰もがこの点においては異議をとなえない--労働力は、小麦や鉄と同様の「商品」になるという事実によって、資本主義は特徴づけられることを。したがって、資本主義において、剰余享楽 (a) は剰余価値の形態をとる。
剰余享楽とは、フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」と等価である。この快の獲得は、享楽の構造的欠如を補填する。…

資本家の言説の鍵を見出すことを意味するのは、、剰余享楽の必然性(必要性)は、《塞ぐべき穴 trou à combler》(Lacan,Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていることを認めることである。

マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。剰余価値は欲望の原因である。資本主義経済は、剰余価値をその原理、すなわち拡張的生産の原理とする。

さてもし、資本主義的生産--M-C-M' (貨幣-商品-貨幣+貨幣)--が消費が増加していくことを意味するなら、生産が実際に、享楽を生む消費に到ったなら、この生産は突然中止されるだろう。その時、消費は休止され、生産は縮減し、この循環は終結する。これが事実でないのは、この経済は、マルクスが予測していなかった反転を通して、享楽欠如 manque-à-jouir を生産するからである。

消費すればするほど、享楽と消費とのあいだの裂目は拡大する。従って、剰余享楽の配分に伴う闘争がある。それは、《単なる被搾取者たちを、原則的搾取の上でライバルとして振舞うように誘い込む。彼らの享楽欠如の渇望への明らかな参画を覆い隠すために。induit seulement les exploités à rivaliser sur l'exploitation de principe, pour en abriter leur participation patente à la soif du manque-à-jouir. 》(LACAN, Radiophonie)
新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。(Pierre Bruno, capitalist exemptIon,2016、pdf)

※ラカンの「剰余享楽」(マルクスの剰余価値)とフロイトの「快の獲得」については、「資本の論理(文献列挙)」を見よ。


【資本の言説からの脱却】
・聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本主義の言説からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。

・聖人とは享楽の拒絶(享楽からの退却 le saint est le rebut de la jouissance)である。(ラカン、テレビジョンTÉLÉVISION、1973年)


これ以外に、ジジェクの2016年の論が、上の二者の記述とはまた別の側面に光を当てた資本の言説論であり、小論でありながら思いがけない指摘にあふれているが、一般には難解な筈ーージジェクは25年あまり「四つの言説」理論と格闘しているが、その内容を或る程度知らないと理解不能ーーなのでここでは割愛する。→ Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016、pdf




資本の論理(文献列挙)

【差異を基盤とした無限の増殖運動】
資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)
資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)


◆『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)より。

【ふたつの資本主義:資本の主義/資本の論理】
じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。


【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】 
そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。


【資本の論理=差異性の論理】 
……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。(岩井克人『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)

⋯⋯⋯⋯

【資本の欲動】
マルクスの考えでは、金が貨幣となるのは、それが金だからではなくて、一般的等価形態におかれたからである。彼が見ようとしたのは、そこに位置する生産物を商品たらしめたり、貨幣たらしめる「価値形式」――相対的価値形態と等価形態――である。それが素材的に何であろうと、排他的に一般的等価形態におかれたものは貨幣である。一般的等価形態におかれた物(そしてその所有者)は、他の何とでも交換できる「権利」をもつ。人が或るもの、たとえば金を崇高と見なすのは、それが金だからではなくて、それが一般的等価形態におかれているからだ。マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年、P25-26)


【はてしなく(endlessly)、end-less(無目的的)な資本の運動】
なぜ資本主義の運動がはてしなく(endlessly)続かざるをえないか、という問い(……)。実は、それはend-less(無目的的)でもある。貨幣(金)を追いもとめる商人資本=重商主義が「倒錯」だとしても、実は産業資本をまたその「倒錯」を受けついでいる。実際に、産業資本主義がはじまる前に、信用体系をふくめてすべての装置ができあがっており、産業資本主義はその中で始まり、且つそれを自己流に改編したにすぎない。では資本主義的な経済活動を動機づけるその「倒錯」は、何なのか。いうまでもなく、貨幣(商品)のフェティシズムである。

マルクスは、資本の源泉にまさしく貨幣のフェティシズムに固執する守銭奴(貨幣退蔵者)を見いだしている。貨幣をもつことは、いつどこでもいかなるものとも直接的に交換しうるという「社会的権利」をもつことである。貨幣退蔵者とは、この「権利」ゆえに、実際の使用価値を断念する者の謂である。貨幣を媒体ではなく自己目的とすること、つまり「黄金欲」や「致富衝動」は、けっして物(使用価値)に対する必要や欲望からくるのではない。守銭奴は、皮肉なことに、物質的に無欲なのである。ちょうど「天国に宝を積む」ために、この世において無欲な信仰者のように。守銭奴には、宗教的倒錯と類似したものがある。事実、世界宗教も、流通が一定の「世界性」――諸共同体の「間」に形成されやがて諸共同体にも内面化される――をもちえたときにあらわれたのである。もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすならば、守銭奴にもそうすべきだろう。守銭奴に下劣な心情(ルサンチマン)を見いだすならば、宗教的な倒錯者にもそうすべきだろう。(柄谷行人『トランスクリティーク』p325-326)


【資本の自己増殖運動】
……信用制度の下では、資本の自己増殖運動は、蓄積のためというよりも、むしろ「決済」を無限に先送りするために強いられたものとなる。つまり、資本の運動が、個々の資本家の「意志」を本当にこえてしまい、資本家に対して強制的なものとなるのは、このときからである。たとえば、設備投資は概ね銀行からの融資でなされるが、資本は借金と利子を返済するためには途中で活動を停止することができない。

資本の自己増殖運動を促進し、「売り」の危うさを減殺する「信用」が、資本の運動を無限(endless)に強制する。総体的にみれば、資本の自己運動は、自転車操業のように、「決済」を無限に先送りするためにこそ存続しなければならないのである。(同柄谷、P344)

⋯⋯⋯⋯

【自動的主体による自己増殖】
諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値 Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』第一巻)


【自動的フェティッシュ・資本フェティッシュ 】
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(⋯⋯)
ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻))
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016, PDF)


【資本という無頭の主体(資本機械)】
欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動」内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になり瞬間である。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006)


【絶対的フェティッシュ】
・資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。

・株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)
われわれは、 標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品フェティッシュWarenfetischs」の題目の、徹底した再形式化が必要である。(……)

逆説的なことに、フェティシズムは、フェティッシュが「脱物象化」されたときに頂点に達する。(ジジェク、LESS THAN NOTHIHNG,2012)


【マルクス的快とフロイト的快の獲得】
剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽である。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)
…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)
まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
この宝貝、つまり剰余価値、それはひとつの経済が自らの原理をつくるための欲望の原因である。この原理とは、「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、つまり飽くことをしらないものとしての原理である。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)



【フロイトの資本論】
夢が必要とした欲動の力 Triebkraft は、ある願望 Wunsche によって提供されねばならなかった。夢の欲動の力として振舞う願望 Wunsch als Triebkraft des Traumes、それを捕えることが、心配の関心事だった。

この状況は次の喩えで説明しうる。すなわち日中思考は、夢にとって企業家 Unternehmers の役割を大いに演じうる。しかし企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない ohne Capital nichts machen。彼は、出資 Aufwand してくれる資本家 Capitalisten が必要である。夢にとっての心的出資 psychischenAufwand を提供する資本家 Capitalist とは、その日中思考がどんなものであろうと、例外なしに必ず、無意識からの願望 Wunsch aus dem ünbewussten である。

資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである。日中作業によって、ある無意識的な願望が刺激を受ける。そしてこの願望が夢を作り出す。… (フロイト『夢解釈』第七章)


【剰余享楽(対象a)と剰余価値(フェティッシュ)】
あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。(⋯⋯)

対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)
対象a は、ラカンの教えにおいて、長い歴史がある。マルクスの『資本論』における商品分析への体系的準拠よりも10年以上先行している。しかし疑いもなく、このマルクスへの言及、とくに剰余価値 Mehrwert 概念への参照は、剰余享楽(plus-de-jouir, Mehrlust)としての対象a 概念を「成熟」させた。

ラカンによるマルクスの商品分析へのすべての参照に浸みわたる支配的モティーフは、マルクスの剰余価値とラカンが名付けた剰余享楽とのあいだの構造的相同性である。剰余享楽は、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだ現象であり、それは、快へと単純に駆け上ることを意味しない。そうではなく、快を得ようとする主体の努力のなかで、まさに形式的迂回路によって提供される付加的な快である。

(……)リビドー経済において、反復強迫の倒錯行為に煩わされない「純粋な」快原理はない。倒錯行為とは、快原理の観点からは説明されえない。同様に、商品の交換の領野において、別の商品を買うために商品を貨幣に交換するという直接的な閉じられた循環はない。もっと多くの貨幣を得るために商品を売買する倒錯的論理によって蝕まれていないような循環はないのだ。この論理においては、貨幣はもはや単なる商品交換のための媒体ではなく、それ自体が目的となる。

唯一の現実は、もっと貨幣を得るために貨幣を使うという現実である。マルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(……)

ここにある基本のリビドー的メカニズムは、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだものである。この概念を巧みに説明している Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』から引用しよう。

《Lustgewinn(快の獲得)は、快原理のホメオスタシス(恒常性)が単なる虚構であることの最初のしるしである。とはいえ、Lustgewinn は、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みえないことを示している。それはちょうど、どんな剰余価値も、C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に発生しないように。剰余享楽、利益追求と快との繋がりは、単純には快原理を掘り崩さない。それが示しているのは、ホメオスタシスは必要不可欠な虚構であることだ。ホメオスタシスは、無意識の生産物を構造化し支える。それはちょうど、世界観メカニズムの獲得が、全体の構築における罅のない閉じられた全体を提供することから構成されているように。Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)

「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作用する。人は目的地を見失い、人は動作を繰り返す。何度も何度も試みる。本当の目標は、もはや目指された目的地ではなく、そこに到ろうとする試みの反復動作自体である。形式と内容の用語でもまた言いうる。「形式」は、欲望された内容に接近する様式を表す。すなわち、欲望された内容(対象)は、快を提供することを約束する一方で、剰余享楽は、目的地を追求することのまさに形式(手順)である。

口唇欲動がいかに機能するかの古典的事例がある。乳房を吸うという目的は、母乳によって満たされることである。リビドー的獲得は、吸啜の反復性動作によってもたらされ、したがってそれ自体が目的となる。

(……)Lustgewinn(快の獲得)の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快の断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は、抑圧の欲望へと反転、等々。すべての事例において、獲得は「パフォーマティヴな」レベルで発生する。すなわち、目的地に到達することではなく、目的地に向かっての動作の、まさにパフォーマンスによって生み出される。(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016)


⋯⋯⋯⋯

※付記

【資本という器官なき身体】
・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.

・器官なき充実身体…死の本能、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)
器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。 (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第三版、1976年)

→「資本の言説(簡潔版)


2018年9月25日火曜日

家父長制は現在の支配的イデオロギーではない

きみ! 「水脈との出会い」とはちょっとした挑発文だよ、ボクのようなひねくれものが彼女を応援するわけはない。

でもそこでの核心は、「支配的イデオロギー/支配しているかにみえるイデオロギー」だ。現在、家父長制なんて支配しているかにみえるイデオロギーに過ぎない。他方、同性愛受容こそ支配的イデオロギーだということだ。


現在の状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように注意することだ。…例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交であり、また芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』)
セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の逸脱に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である、それだけが残存する倒錯形式のみではないにしろ。実際、25年前の神経症社会に比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject、2005)


⋯⋯⋯⋯

以前に何度か記したことけれど、基本的な二項対立の図式はこうだ。

(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げる例なのですが、 man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。  しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が  男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです。(浅田彰ーー理屈「デリダ追悼」


もっと一般的な例では、同一性に対し差異を復権するのはいいけれど、それらはいずれも実は同一性という土俵の上に乗っているので、その同一性という土俵自体を「差延」へと脱構築していかなければならないというわけですね。一方では転倒が、しかし同時に他方では脱構築が必要だ ー これがデリダの二重の戦略です。(同上、浅田彰)




柄谷行人はこれだけではダメだと言っているが、デリタの基本的な考え方の捉え方は、柄谷も{(差異/同一性)同一性}→{(同一性/差異)差異}と記しているように、浅田の言っている通り。

デリダのいう「自己再固有化の法則」⋯⋯彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』所収)

この思考への批判(吟味)は、[「帝国」と「帝国主義」の相違(柄谷行人、ラカン)」を見てもらうことにして、いまはその前段階の基本のみを記す。つまりラカンの考え方を上の浅田=デリダの図式に当てはめるのみにする。

ラカンにおける主人の言説から資本の言説への移行をめぐる発言は次の通り。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)





※この図の注釈はここでははぶく。キョウミないだろうしね。でも最も基本的な注釈のリンクは一応しておこう、→「資本の言説と〈私〉支配の言説


話を戻せば、ラカンは、学園紛争のおりに《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)と言っている。それは、ラカンのいう主人の言説から資本の言説への移行の指摘にジカにかかわる。

つまり父は死んだんだ、家父長制なんか事実上とっくの昔に死んでいる。

さて主人の言説/資本の言説を先ほどの図式にあてはめれば次のようになる。





主人の言説の時代にももちろん資本の論理はあった。だがかつての土台は主人の言説だったという捉え方である。だが1968年の学園紛争を端緒として1989年のマルクスの父の消滅により、それ以後の土台は「資本の言説」になっているという基本的認識が、ジジェク等のラカン派あるいは柄谷行人にある(柄谷は『トランスクリティーク』で「資本の欲動」という表現を使っている)。

上図はラカンの別の表現の仕方なら、次の通り。



ここでLevi R. Bryanのきわめてわかりやすい説明を掲げておこう。

・女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。

・男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。

・反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy)

この男性の論理/女性の論理は、《pourtout 全体化(全てに向って)/pastout 非全体(全てではない》(ラカン、 L'ÉTOURDIT、1972)とも記述される。




ラカン的には現状分析として世界は非全体(女性の論理)になったというだけで、右側の形がいいわけではけっしてない。

それについてはジジェクが簡潔に記している。

真の「非全体 pastout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれるだろうことである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012 )


さてここまで記してきたことを家父長制という用語を使って書き直せば、次のようになる。





差異の論理は、資本の論理に置き換えてもよい。《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。》(岩井克人、『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990ーー「《みずからのトゲを抜こうとする努力》から、《むき出しの市場原理》への移行」)


繰り返せば、ここでも最も重要なのは、家父長制が現在まだ土台にあるのか、それとも差異の論理(あるいは資本の論理)が土台にあるのか、という問いだ。見ての通り、土台とは分母にある支配的イデオロギー、その掌で支配的イデオロギーと支配しているかにみえるイデオロギーが争っているという図式。

21世紀の現在においては、家父長制は土台にはないというのがまともな思想家のコンセンサスだと思うがね。世界にはまともな思想家はわずかにしかいないという問題はあるけれど。

柄谷行人の資本の欲動については「資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)」を見てもらうことにして、これをジジェク的に言えば次の通り。

欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になり瞬間である。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006)
カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)



2018年9月24日月曜日

フェミニズムの時代の愛と結婚

一般市民の覚悟しなくてはならない孤立」のラカン派的注釈版。

まずラカン自身の言葉をいくつか掲げる。

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である!

Pour qui est encombré du phallus : « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
女はすべての男にとってサントーム sinthome である。男は女にとって…サントームよりさらに悪い…男は女にとって、墓場(荒廃場 ravage)である。

une femme est un sinthome pour tout homme…l'homme est pour une femme …affliction pire qu'un sinthome… un ravage(ラカン、S23, 17 Février 1976)

ーー《サントームは、症状と幻想の混淆である。Le sinthome, un mixte entre symptôme et fantasme 》(ジャック=アラン・ミレール、Revue de la Cause Freudienne n°39, mai 1998)

⋯⋯⋯⋯

以下が本題である。

完全な相互の愛という神話に対して、ラカンによる二つの強烈な言明がある、「男の症状は彼の女である」、そして「女にとって、男は常に墓場 ravage を意味する」と。この言明は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。

誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるになるということだ。こうして、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に墓場(荒廃場)である」。どうして墓場なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。

偶然の一致ではないのだ、女性解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層が「教養ある孤独な女」を作り出したことは。彼女は孤独なのである。というのは彼女の先達たちとは違って、この墓場に服従することを拒絶するのだから。

現在、ラカンの二つの言明は男女間で交換できるかもしれない。女にとって、彼女のパートナーはまた症状である、そして多くの男にとって、彼の妻は墓場である、と。このようにして、孤独な男たちもまた増え続けている。この反転はまったく容易に起こるのだ、というのはイマジナリーな二者関係の基礎となる形は、男と女の間ではなく、母と子供の間なのだから。それは子供の性別とはまったく関係ない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、「孤独の時代の愛 Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』1998年)
女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちも moi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

⋯⋯⋯⋯

※付記

以下、ドリス・レッシングとエリザベート・バダンテールによる現在の男女関係の変貌をめぐる指摘。

男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちに貶められ、侮辱されている。(Doris Lessing 、Lay off men, Lessing tells feminists、Guardian, 2001
現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。( Élisabeth Badinter ーーージジェク、LESS THAN NOTHING, 2012より孫引き)

ーードリス・レッシング Doris Lessing(2007年ノーベル文学賞作家)は、かつてのフェミニズムの闘士、アイコンである。




エリザベート・バダンテール Elisabeth Badinter は、日本でも『母性という神話(L'Amour en Plus)』で名高く、彼女もまたフェミニストの範疇に入る思想家である。





2018年9月23日日曜日

人間とは社会的関係の所産

無能な観察者たち」で、最も基本的な「倒錯の構造」について記したけれど、構造論というものは常に正しいわけではないし珍重し過ぎるのも禁物。

経験論者のために」で引用したことがあるけど、次の文の「理論」を「構造理論」に置き換えて読んでみよう。

理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。 (……)

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その真理に内在していた盲点と限界とが同時の露呈されることになる。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

「構造理論」は、世の常識を逆なでするんだな。そしてドグマに転落する危険もある。だから話半分で聞いといたらいいのさ。

構造主義の始祖レヴィ・ストロースが「私の二人の師匠」としているのはマルクスとフロイトだけれど(『悲しき熱帯』)、フロイト自身はよほど読み込まないと、すぐさま役に立つ構造は見えてこない。そのフロイトを構造化したのがラカンだよ。

マルクスはこう言っている。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」1867年)

で、ラカンにおいて最も構造的な思考を促すのは「四つの言説理論」。そもそも社会的紐帯や社会的つながり等と訳される「言説 discours」は(フーコー的な「言説」の意味合いとは大きく異なり)、「社会的関係 lien social」と訳してもよい言葉だ。

言説 discours とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的関係 lien social の機能を作り上げるものである。 (Lacan, ミラノ講演、1972)

マルクスに強く影響を受けた柄谷行人によれば、歴史さえ構造が反復され、その構造が出来事を生む。

私は歴史の反復があると信じている。そしてそれは科学的に扱うことが可能である。反復されるものは、確かに、出来事ではなく構造、あるいは反復構造である。驚くことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。( Kojin Karatani, "Revolution and Repetition" 2008 私訳)

ラカンの言説理論(四つの言説)でも、人がそれぞれの言説の場に置かれれば、四つの言説構造各々において独自の出来事を生む、つまり《個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産》となってしまうという話。

蓮實重彦は、マルクス的な構造自体は一つの虚構にすぎないとしている。だが《とりあえず総体的な視点を確保する》と。これが構造的観点の必要性の胆だな。とくに日本的言説界ーー「共感の共同体」--における大半の「経験論者たち」のあいだではこれが何よりも肝要。

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ま、簡単にいえば、《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない》(蓮實重彦『闘争のエチカ』) 、だからそこから逃れるためには、構造的観点をはずしたらダメだということ。

この態度を超越論的と呼んでもいい。

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

ボクもひとのことは言えないけど、ラカンに学んでいるような人物でさえ、とくにツイッター装置のなかで囀ると、オタンチンになっちまうんだ。

私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたオタンチン con-vaincu のことである。(ラカン、S20、13 Février 1973)

ーー主人のシニフィアンS1とは最も典型的には一人称単数代名詞「ぼく」「わたし」。S1=$(欲望の主体・幻想の主体)となってしまうのが、オタンチン。

欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 ( ラカン、REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

ーー後期ラカンにとって幻想とは妄想のこと。つまり妄想の主体となること。

日本語言語空間ではオタンチン言説で書けば「共感」を生む場合が多いのでことさら厄介なんだけど。「自分の言葉で書く」とかマガオで言ってる教育ある阿呆が跳梁跋扈している空間だからな。アタシは自分の家の主人だと思い込んでる連中がね、《自我は自分の家の主人ではない das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus》(フロイト)


日本における巷間の凡庸な哲学的言説、批評家の言説、さらにツイッター装置における鳥語言説はほとんどすべてオタンチン言説だよ。それは別名ボククラシ―とも呼ばれる。いわばボク珍言説。

もし一方で、哲学は、m'être (我あり・私支配)の言説を典型的に表すなら、つまり「私は私自身の主人 maîtreである」という妄想的な信念の言説、もっと正確に言うなら《我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる m'être à moi même》(Lacan, S17)言説であるなら、他方で、精神分析はこの支配 mastery の古臭い存在論ーーそれは、ボククラシー[je-cratie](デモクラシー(大衆支配)の変奏であり、ボク支配のこと)、《理想のボクの神話、支配するボクという神話、少なくとも何かがそれ自身、つまり話し手と一致するというボクの神話》(S17)--をラカンは代替すべきだとする。それは、par-être の言説への移行である。つまりパラ存在 para-being としての言説、横にずれる[être à côté]言説である。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、Lacan and philosophy, 2014、pdf)



2018年9月22日土曜日

無能な観察者たち

・・・いやあ、ボクはけっして名を挙げないよ。そんなシツレイなことはけっして。でも彼の言説は倒錯の典型構造だな、それは歴然としてる。自らも半ば気づいているのかも。

まず「簡潔版:倒錯の構造」で引用したラカンの三文を再掲しよう。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E554、摘要訳)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S18)

………

倒錯者の最も基本的な構造は、次の機制にある。

⑴ 二者関係における子供の最初の大他者は母である。その母なる大他者の享楽の道具になる。

⑵ だが道具になりつつ母なる大他者を支配しようとする(受動ポジションから能動ポジションへの移行)。

⑶ 第三の形象である父(父なる大他者)は無能な観察者に格下げされる。


この構造はのちの人間関係(社会的つながり)でも反復される。

たとえば、ツイッターで10000人のフォロワーがいる人物Aを例にとろう。Aは10人の母なる大他者を想定している。父なる大他者は9990人である。

① Aは、10人のフォロワーの享楽の道具になる。
② Aは、道具になりつつも10人のフォロワーを支配しようとする。
③ Aの、9990人のフォロワーは無能な観察者に格下げされる。

ーーこれはあくまで仮の事例であることを強調しておくよ。

で、③が最も楽しみなのさ、インテリ倒錯者ってのは。だからおバカな神経症的観客がたくさんいたほうが楽しみが増える。したがって9990人のフォロワーへのサービスもときにする。

晩年のラカンの定義では神経症者もじつは倒錯者なんだけどさ。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

コレット・ソレールで補えば次の通り。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

この父の版の倒錯者たちを嘲弄するのがとっても楽しいんだよ、 いわゆる善人たちをね。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)

わかるかい?

なにはともあれ、ほどよい聡明さ=凡庸な鳥語を読む楽しみ方ってのはあるのさ。もうボクはそれもやめちゃったけど、でもたまに覗くと笑っちまうね。

どのようにして批評を読むのか。唯一の手段はこうだ。私は、今、第二段階の読者なのだから、位置を移さなければならない。批評の快楽の聞き手になる代わりにーー楽しみ損なうのは確実だからーー、それの覗き手 voyeur になることができる。こっそり他人の快楽を観察するのだ。私は倒錯する j'entre dans la perversion 。すると、注釈は、テクストにみえ、フィクションにみえ、ひびの入った皮膜 une enveloppe fissurée にみえてくる。作家の倒錯(彼の快楽は機能を持たない)、批評家の、その読者の、二重、三重の倒錯、以下、無限。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

マイノリティ擁護のために

ドイツ倫理委員会(2014)によって、きょうだいのあいだでの近親相姦を合法的にすべきだとの勧告がなされたのは既によく知られているだろうが、父と娘、母と息子のあいだの近親相姦もそのうち許容されることだろう。禁止される理由はないのである。





幼児性愛はどうか。これにはインフォームドコンセントという壁がある。

セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の逸脱に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である、それだけが残存する倒錯形式のみではないにしろ。実際、25年前の神経症社会に比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject、2005)

だが歴史的にみれば、幼児性愛を禁止する現在の習慣こそ奇妙ではなかろうか。これもマイノリティ擁護のために是非熟慮する問いである筈だ。




東インドのある地方では、思春期以前の結婚や同棲生活が、いまでも珍しくない。八十歳を越したレプチャ族の長老たちは八歳の少女と交接するが、誰もべつだん奇異とは感じないらしい。ダンテがベアトリーチェと熱烈な恋をしたとき、彼女はまだ九歳の才気あふれる少女だった。深紅の衣裳や宝石で身を飾り、薄化粧をほどこした愛らしい少女だった。これは一二七四年にフィレンツェでひらかれた楽しい五月のある内輪の宴での出来事だ。またペトラルカがロリーンに熱狂的な恋をしたとき、彼女は花粉を吹きちらす風のなかを走りまわる十二歳の金髪のニンフェットで、ヴォクルーズの連丘から眺めた姿は、さながら美しい平原に舞い踊る一輪の花だった。(ナボコフ『ロリータ』)

さらに屍姦愛でさえなぜいけないのかは瞭然としない。




最近アメリカのいくつかの集団で再浮上してきたある提案(……)。その提案とは、屍姦愛好者(屍体との性交を好む者)の権利を「再考」すべきだという提案である。屍体性交の権利がどうして奪われなくてはならないのか。現在人々は、突然死したときに自分の臓器が医学的目的に使われることを許諾する。それと同じように、自分の死体が屍体愛好者に与えられるのを許諾することが許されてもいいのではないか。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)


マイノリティ差別に激怒する二人のスグレタ作家のツイートを最近たまたま拾ったが、知的能力のきわめてタカイ二人のことである。彼らは当然、近親相姦・幼児性愛・屍姦愛等も視野に入れてこう発言している筈である。



日本でもこの二人の作家に導かれて近親相姦・幼児性愛・屍姦愛等の擁護の動きがあることを望みたい。

ところでジジェクの「愉快な」マイノリティ擁護揶揄の文がある。

聾者の国 Deaf Nation の事例を取り上げてみよう。 今日、「耳の不自由な」人のための活動家は、耳が不自由であることは傷害ではなく、別の個性 separateness であることを見分ける徴であると主張する。そして彼らは聾者の国をつくり出そうとしつつある。彼らは医療行為を拒絶する、例えば、人工内耳や、耳の不自由な子供が話せるようにする試みを(彼らは侮蔑をこめて口話偏重主義 Oralism と呼ぶ)。そして手話こそが本来の一人前の言語であると主張する。“Deaf”に於ける大文字のDは、聾は文化であり、単に聴覚の喪失ではないという観点をシンボル化している。(Margaret MacMillan, The Uses and Abuses of History, London 2009による)

このようにして、すべてのアカデミックなアイデンティティ・ポリティクス機関が動き始めている。学者は「聾の歴史」にかんする講習を行い、書物を出版する。それが扱うのは、聾者の抑圧と口話偏重主義 Oralism の犠牲者を顕揚することだ。聾者の会議が組織され、言語療法士や補聴器メーカーは非難される、……等々。

この事例を揶揄するのは簡単である。人は数歩先に進むことを想像しさえすればよい。もし聾者の国 Deaf Nation があるなら、視覚偏重主義の圧制と闘うために、どうして盲者の国 Blind Nation が必要ないわけがあろう? 健康食品と健康管理圧力団体のテロ行為に対して、どうしてデブの国 Fat Nation が必要でないわけがあろう? アカデミックな圧力に残忍に抑圧された人たちにとって、どうして阿呆の国 Stupid Nation が必要でないわけがあろう?(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012 )


この文を想起しつつ、わたくしの偏見にみちたアタマでは、阿呆鳥作家の擁護運動をせねばならぬのではないかという危惧を捨て切れていないのである。

だがそれは杞憂とでも言うべきものだろう。経験豊かな、かつまたいくつかの作家賞を受けている二人である。わたくしが次のような悪臭を嗅いでしまったのは、たんに鼻のぐあいがわるいための錯覚である。


・マイノリティの側に立つこと、マイノリティとの同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちのマジョリティ的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。

・現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「マイノリティの尊重」である。

・「マイノリティの尊重」とは、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わる可能性が高い。


……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)


ああ、ニーチェほどの鼻があればよかったのに! そうであればこんなふうに「錯覚としての」悪臭や嘔吐感に悩まされずにすんだのだが・・・実に忸怩たる思いである。


最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)