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2018年11月30日金曜日

内界にある自我の異郷 ichfremde

異郷の女」に引き続き、フロイト版「異郷 fremd」。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。……

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者 fremd のようなものに思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さ Triebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
通常、抑圧された欲動興奮 verdrängende Triebregung は分離 isoliert されたままでいる。これは、抑圧作用は自我の強さを示すものであるとともに、自我の無力さOhnmachtの証明であり、エスの欲動興奮 Triebregung des Es は影響を受けないことを証明するものである。…この欲動興奮は、いわば治外法権 Exterritorialität にある。……

われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper とみなして、この異物としての症状 Symptom als einen Fremdkörper は、埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状形成 Symptombildung によって、好ましからぬ欲動興奮 Triebregung にたいする防衛の闘い Abwehrkampf は終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリー的転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用 Akt der Verdrängung についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動興奮にたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。

この二次的な防衛闘争 sekundäre Abwehrkampf においては、…自我は、症状の異郷性 Fremdheitと孤立性 Isolierung を取り除こうとするものと考えられる。daß das Ich auch versucht, die Fremdheit und Isolierung des Symptoms aufzuheben

…症状によって代理されるのは、内界にある自我の異郷 ichfremde 部分である。…ichfremde Stück der Innenwelt statt, das durch das Symptom repräsentiert wird (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)

今、「異者 fremd」 「異物 Fremdkörper」 「症状の異郷性 Fremdheit」「内界にある自我の異郷 ichfremde 部分」と訳したこれらの概念は、ラカンの「外密 extimité」のことである。

私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)

ーー《対象a とは外密的である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)

外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(ジャック=アラン・ミレール 、Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)

後年のラカンは《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 11 Mai 1976)ともいうが、これはそのままフロイトの「異物 Fremdkörper」のことである。

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

そして次の表現も同様。

穴(トラウマ)を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)


女流ラカン派による標準的な注釈ならこうである。

ラカンは、女性性について問い彷徨うなか、症状としてのひとりの女 une femme comme symptôme を語った。ひとりの女は、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す症状のなかにある。ラカンの最後の教えにおいて、私たちは、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin を読み取りうる。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin)

ここで上に引用したフロイト1915に「暗闇に蔓延るはびこる異者 fremd」という表現があったことを思い出そう。異者としての身体とは「暗闇に蔓延る異者としての女」のことでもある。前回、ふたつの例をしめしたが、カフカの多くの女たちは、(カフカにとって)ここにある。その代表的な女が、異郷の女フリーダであり、あるいは現実の女ミレナでありうる。

手紙は…幽霊との交わり Verkehr mit Gespenstern でありしかも受取人の幽霊だけではなく、自分自身の幽霊との交わりでもあります。…

手紙を書くとは…むさぼり尽くそうと待っている幽霊たちの前で裸になることです Briefe schreiben aber heißt, sich vor den Gespenstern entblößen, worauf, sie gierig warten.。書かれた接吻は到着せず、幽霊たちによって途中で飲み干されてしまいます。(カフカ、1922年 3 月末 ミレナ宛)

⋯⋯⋯⋯


【原抑圧】

以下、原抑圧にかかわる文献の列挙。

症状は、抑圧によって侵害された欲動興奮から生ずる。Das Symptom entsteht aus der durch die Verdrängung beeinträchtigten Triebregung. ⋯⋯⋯

欲動興奮は、抑圧されてもなんらかの代償を見いだすが、この代償はひどく削減され、置換され、制止されたものである。daß die Triebregung zwar trotz der Verdrängung einen Ersatz gefunden hat, aber einen stark verkümmerten, verschobenen, gehemmten.…

自我の力は、一面では欲動代理 Triebrepräsentanzにあり、他面では欲動興奮 Triebregungそのものに認められる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)
忘却されたもの Vergessene は消滅 ausgelöscht されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡 Erinnerungsspuren は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗リビドー(対抗備給 Gegenbesetzungen)により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離 isoliert されいる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

ーーニーチェの名高い《能動的忘却 aktiven Vergeßlichkeit》(『道徳の系譜』)とは、フロイト・ラカン派にとっては「抑圧」のことである。

最も注意しなくてはならないのは、フロイトは1910年代のある時期から「抑圧」という語を、「原抑圧」(≒固着)という語の意味で使っていることが多いことである。《フロイトは固着ーーリビドーの固着、欲動の固着ーーを抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. 》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 )

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も欲動制御 Triebbeherrschung のためにそれを利用しようとする。

新しい葛藤は、われわれの言い表し方をもってすれば「後期抑圧 Nachverdrängung」によって解決される。…分析は、一定の成熟に達して強化されている自我に、かつて未成熟で弱い自我が行った古い抑圧 alten Verdrängungen の訂正 Revision を試みさせる。…幼児期に成立した根源的抑圧過程 ursprünglichen Verdrängungsvorganges を成人後に訂正し、欲動強度 Triebsteigerung という量的要素がもつ巨大な力の脅威に終止符を打つという仕事が、分析療法の本来の作業であるといえよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

⋯⋯⋯⋯


【欲動の固着(リビドーの固着)】
・リビドーは、固着Fixierung によって、退行 Regression の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残る zurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)
・どの固有の欲動志向(性的志向 Sexualstrebung)においても、その或る部分は発達の、よ り初期の段階に置き残される(居残るzurückgeblieben)。他の部分が目的地に到達することがあってさえ。

・より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着 Fixierung、欲動の固着 Fixierung (des Triebes nämlich)と呼ばれるものである。(フロイト『精神分析入門』第22 講)
・生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着 Fixierung der Libido an bestimmte Objekteと対照的である。リビドーの固着は生涯を通して、しつこく持続する。

・母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


以下の文に現れるリビドーの固着の「残存現象 Resterscheinungen」あるいは「残存物Reste」は、直接的にラカンの対象aを示している。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


【トラウマへの固着】

ーートラウマへの固着とは、リビドー(欲動)のトラウマへの固着のことである。

外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは 自身の身体への経験Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungenである。…

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

⋯⋯⋯⋯

【抑圧】

次に抑圧をめぐる記述いくらか示すが、これらはすべてみな、実質上、原抑圧(固着)にかかわる。

すべての症状形成は、不安を避けるためのものである alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen;。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章)
症状形成の全ての現象は、「抑圧されたものの回帰」として正当に叙述しうる。Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden. ((フロイト『モーセと一神教』、1939)
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、1896) 
エスの内容の一部分は、エゴに取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』、1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

(フロイト『新精神分析入門』1933年)


「エスがあったところに、自我は到らなければならない Wo Es war, soll Ich werden(フロイト『続精神分析入門』第31章、1933年)
自我は自分の家の主人ではない das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus(フロイト『精神分析入門』1917年)
思想というものは、 〈それ er〉が欲するときにやって来るもので、 〈私 ich〉が欲するときに来るのではない、したがって主語〈私〉Subjekt "ich" が述語〈考える〉Praedikats "denke"の条件であると主張するのは事実の歪曲である、ということだ。要するに、それが考える Es denkt ――、だがしかしこの〈それ es〉を、ただちにあの古くして有名な〈私 Ich〉だとみなすのは、控え目に言っても、一つの仮定、一つの主張にすぎないもので、ましてや〈直(ジカ)の確実性 unmittelbare Gewissheit〉などでは決してない。(ニーチェ 『善悪の彼岸』 17番、1886年)


上の図を、ボロメオの環で示せば次の通り。






象徴界の場に超自我を置いたのは、次の論拠による。

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
言語は超自我である c'est le langage qui est le surmoi(ジャック=アラン・ミレール、séminaire 96/97)

もっとも今掲げた図において、ラカン派的に補わなければならないのは、ラカンは二種類の超自我を初期から語っていることである。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…母なる超自我に属する全ては、母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

そしてボロメオの環の現実界と象徴界との重なり部分である原抑圧 Urverdrängung(欲動代理 Triebrepräsentanz、リビドーの固着 Fixierungen der Libido)の機能を果たすものは、「母なるシニフィアンle signifiant maternel」である。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel.である。…つまり行ったり来たりする「母」C'est cette mère qui va, qui vientであり…「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiantに過ぎない。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

この母なるシニフィアンに相当するものを初期フロイトは、「境界表象 Grenzvorstellung 」と呼んでいる。

(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)


したがってラカンのボロメオの環は、この文脈で読む必要がある。





つまりは、JȺが核心なのである。JȺとは穴Ⱥの享楽である。穴Ⱥのシニフィアンは、S(Ⱥ)であり、これが母なる超自我のシニフィアンである(穴についての詳細は「症状の線形展開図」を参照のこと)。

いま核心としたのは、幼児のエスの欲動興奮を飼い馴らすための最初の鞍を置くのは「母」であり、この母なる大他者が原超自我であるという第一の意味がある。最初の鞍とは、すなわち欲動興奮のクッションの綴じ目である。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)

この母なるシニフィアンS (Ⱥ)が、フロイトにおける欲動の固着(リビドーの固着)のラカン的観点からの決定的読解のひとつであるが、この固着はエスの欲動を十分には飼い馴らせない。したがって、エスには自我の異郷としての異物がある、ということになる。



【現代ラカン派版の「固着」】
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion (=サントーム)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011年)


【補足】
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの症状とは原症状(サントーム)のこと。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un、30 mars 2011)


上に記した母なる超自我S(Ⱥ)の補足注釈としては、次のミレール文がきわめてすぐれている。

享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme. (ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)



異郷の女




Kは広間の隅の金切り声に話を中断され、そちらを見ることができるように、眼の上に手をかざした。曇った日の光が塵煙を白っぽくし、眼をちかちかさせるからであった。それは洗濯していた例の女だが、現われたときすぐにKには、これこそまったくの邪魔物だ、という気がしたのだった。今しがた音をたてた罪があるのはこの女か、この女ではないかは、わからなかった。Kはただ、一人の男がこの女を扉のところの隅へ引っ張ってゆき、そこで抱きしめているのを、見た。しかし、金切り声をたてたのは女ではなく、男のほうであり、口を大きくあけて天井をながめていた。二人のまわりには小さな人の輪ができ、その近くの回廊の客たちも、Kによってこの集会に持ちこまれた真剣味がこうして中断されたことに、歓喜している様子だった。(フランツ・カフカ Franz Kafka『審判 DER PROZESS』原田義人訳)





亭主が部屋を出るか出ないかのうちに、フリーダは電燈を消してしまい、台の下のKのわきに身体を置いた。「わたしの恋人! いとしい恋人!Mein Liebling ! Mein süß er Liebling」と、彼女はささやいたが、Kには全然さわらない。恋しさのあまり気が遠くなってしまったように仰向けに寝て、両腕を拡げていた。時間は彼女の幸福な愛の前に無限であり、歌うというよりは溜息をもらすような調子で何か小さな歌をつぶやいていた。




ところが、Kがもの思いにふけりながらじっと静かにしているので、彼女は驚いたように飛び起き、まるで今度は子供のように彼を引っ張り始めた。「さあ、いらっしゃいな、こんな下では息がつまってしまうわ!」 

二人はたがいに抱き合った。小さな身体がKの両腕のなかで燃えていた。二人は一種の失神状態でころげ廻った。Kはそんな状態から脱け出そうとたえず努めるのだが、だめだった。二、三歩の距離をころげて、クラムの部屋のドアにどすんとぶつかり、それから床の上にこぼれたビールと、床を被っているそのほかの汚れもののうちに身体を横たえた。





そこで何時間も流れ過ぎた。かよい合う呼吸、かよい合う胸の鼓動の何時間かであった Dort vergingen Stunden, Stunden gemeinsamen Atems, gemeinsamen Herzschlags, Stunden。そのあいだKは、たえずこんな感情を抱いていた。自分は道に迷っているのだ。あるいは自分より前にはだれもきたことのないような遠い異郷 Fremde へきてしまったのだ。この異郷 Fremde では空気さえも故郷の空気とは成分がまったくちがい、そこでは見知らぬという感情のために息がつまってしまわないではいず、しかもその異郷 Fremdheit のばかげた誘惑にとらえられて、さらに歩みつづけ、さらに迷いつづける以外にできることはないのだ、という感情であった。そこで、クラムの部屋から、おもおもしい命令調の冷たい声でフリーダを呼ぶのが聞こえたとき、それは少なくともはじめには彼にとって驚きではなく、むしろ心を慰めてくれるほのぼのした感じであった。(フランツ・カフカ Franz Kafka『城 DAS SCHLOSS』原田義人訳)






In der Fremde . 異郷にて

Aus der Heimat hinter den Blitzen rot   
Da kommen die Wolken her,          
Aber Vater und Mutter sind lange tot,    
Es kennt mich dort keiner mehr.        
Wie bald, ach wie bald kommt die stille Zeit,
Da ruhe ich auch, und über mir         
Rauscht die schöne Waldeinsamkeit,     
Und keiner kennt mich mehr hier.       

稲妻の赤くきらめく彼方,
故郷の方から,雲が流れてくる。
父も母も世を去って久しく
あそこではもう私を知るひともない。
私もまたいこいに入る,その静かな時が
ああ,なんとまぢかに迫っていることだろう,
美しい,人気のない森が私の頭上で葉ずれの音をさせ
ここでも私が忘れられる時が。 (訳:西野茂雄)



2018年11月28日水曜日

心は身体に対する防衛である

人には心と身体しかない。すべてはどちらかにかかわっている筈である。もっとも基本的には両方にかかわるに決まっている。とはいえ、一般的にはあまりに多く「心的なもの」に比重が置かれている。

まずスピノザのエチカの情動をめぐる箇所から引こう。

自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。

Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,(スピノザ、エチカ第三部、定理9)

ーー現在、スピノザ解釈者においては、appetitus は欲動 Trieb とされることが多い。たとえば「Körper Trieb (appetitus) 」あるいは「Appetitus ist Trieb」と注釈されている。

したがって「衝動とは人間の本質に他ならない」とは「欲動とは人間の本質に他ならない」である。

するとただちに、スピノザのいう《自己の努力が精神だけに関係するときは「意志voluntas」と呼ばれる》/《精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる》とは、フロイトの「心的なもの/身体的なもの」とともに読むことができる。

欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)


こういった身体をめぐる考え方は、当たり前のことだが、なにも精神分析的思考に限らない。デカルトの情念論やデカルト主義者だった詩人ヴァレリーにもあるし、ニーチェにももちろんある。

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)

この文はラカンが次のように言っているのとほとんど同じ意味合いをもっている。

私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、常に私が知っていること以上のことを言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)


フロイトは種々の形でこの「心と身体」をめぐって表現しており、たとえば『自慰論 Zur Onanie-Diskussion』(1912年)であるなら、「心的なもの」とは、「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」に対して「心的に選択された外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」である。




ラカン派においては、欲望とは身体的なものに対する心的防衛である。

欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011

ようするに、心的なものは身体的なものに対する防衛である。

そして防衛の一種が抑圧である。

私は後に(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926 年)

ここで最初期のフロイトを引用してもよい、

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、1896)

「翻訳 Übersetzung」という語は、最晩年の論には次の形で出現する。

エスの内容の一部分は、エゴに取り入れられ、前意識の状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』第1部E、1938年)

ようするに防衛は十分にはなされないのである。身体的なものは心的なものに全的に翻訳されることはありえない。

ゆえに人は反復強迫を起こす。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )

ここでのトラウマとは言語外のものを示す。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

⋯⋯⋯⋯

これ以外に、ラカンにおいては身体を「想像的身体」と「現実界的身体」に分けたということがある。

私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。

忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。

しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。(Florencia Farìas、Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)

ここでFlorencia Farìasが言っているのは、前期ラカンの「想像界は常に‐既に象徴界によって構成されている」という文脈のなかにある。そして《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)。

つまりイマジネールな身体とは、身体的なものではなく、心的なもの(言語的なもの)に属する。これが前期ラカンの身体である。

だが後年、次のように言う。

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)

ふたたび Florencia Farìas の簡潔明瞭な注釈を掲げよう。

言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、他者によって話される身体 corps parlé、享楽される身体 corps jou である。反対に、話す身体 le corps parlant とは、自ら享楽する身体 corps qui jouit である。(The mystery of the speaking body, Florencia Farías, 2010)




この話す身体 corps parlant は、「欲動の現実界 le réel pulsionnel 」、あるいは「欲動要求Triebanspruch」と等価である。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)


2018年11月27日火曜日

パニック障害とサントーム

いやあ、ボクは臨床のことはぜんぜん知らないからな、そんなこときいてこられてもなんとも言えないね。ボクが「臨床」として興味があるのは、いままで深く関係した何人かの女たちと母、そしてボクのことだけだね。

でもせっかくだから、以下、以前に記したことをいくらか結合させて簡潔に貼り付けておくよ、テキトウにね。

そもそもたぶん中井久夫は、阪神大震災被災を契機に「分裂病」の人から「外傷神経症」あるいは「現勢神経症(現実神経症)」の人に移行しているよ

戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

分裂病の底には、外傷神経症があるのではないかとまで匂わせているんだから。

統合失調症と外傷との関係は今も悩ましい問題である。そもそもPTSD概念はヴェトナム復員兵症候群の発見から始まり、カーディナーの研究をもとにして作られ、そして統合失調症と診断されていた多くの復員兵が20年以上たってからPTSDと再診断された。後追い的にレイプ後症候群との同一性がとりあげられたにすぎない。われわれは長期間虐待一般の受傷者に対する治療についてはなお手さぐりの状態である。複雑性PTSDの概念が保留になっているのは現状を端的に示す。いちおう2012年に予定されているDSM-Ⅴのためのアジェンダでも、PTSDについての論述は短く、主に文化的相違に触れているにすぎない。

しかし統合失調症の幼少期には外傷的体験が報告されていることが少なくない。それはPTSDの外傷の定義に合わないかもしれないが、小さなひびも、ある時ガラスを大きく割る原因とならないとも限らない。幼児心理において何が重大かはまたまだ探求しなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

あるいはこうもある。

今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。

医療人類学者のヤングいよれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。

もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉(外傷性神経症)を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002.9『徴候・記憶・外傷』所収)


現実神経症(現勢神経症)とは、フロイトが次のように記述しているもの。

原抑圧 Verdrängungen (固着)は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。(……)

現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。(……)

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
現勢神経症 Aktualneurosenの三つの純粋な形式 drei reine Formenは、神経衰弱Neurasthenie,、不安神経症Angstneurose、心気症 Hypochondrie である。…

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核Kernであり、先駆け Vorstufe である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー Konversionshysterie」として知られる転移神経症 Übertragungsneurose、不安神経症 Angstneurose と不安ヒステリー Angsthysterie とのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』第24章、1917年)

ーーパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia)とあるけれど、早期性痴呆 dementia praecoxとは、分裂病のこと、《クレーペリンの早発性痴呆 Dementia praecox Kraepelins (ブロイラーの精神分裂病 Schizophrenie Bleulers)》(フロイト『無意識について』1915年)


つまり、フロイトにおいてもすでに、分裂病は、心気症(現勢神経症)の地階に対する上階なんだよ。



この区分でとても考えさせられることは、現在の女性たちにおいてヒステリー症状が少なくなって、パニック障害が多くなったことだな。パニック障害は、フロイトの不安神経症のことだと、ボクがしばしば依拠するポール・バーハウーー彼はフロイトよりのラカン派だーーが言っているんだ。

「現勢神経症」カテゴリーにおいて、フロイトが最も強調するのは、「不安神経症」である。……

実に、「パニック障害」についてのDSM–IVの叙述は、ほとんど正確にフロイトの「不安神経症」の叙述と同じである。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD、Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule、2005)
DSM–IV のパニック障害panic disorder、身体化障害somatization、分類困難な身体表現性障害Undifferentiated somatoform disorderは、フロイトの現勢神経症Aktualneurose として理解されうる。(ポール・バーハウ他、Actual neurosis as the underlying psychic structure of panic disorder, somatization, and somatoform disorder, 2007)

なぜ不安神経症的症状が現在おおくなったのかと言えば、ようは父の斜陽(象徴的権威の崩壊)の時代には、上階の「不安ヒステリー(抑圧の症状)はすくなくなって、地階の「不安神経症」(固着、身体の症状)が裸のまま出現しているという理解がなされうるわけ。

フロイトは『夢解釈』以前の1894年にこう書いている。

・不安神経症 Angstneuroseと神経衰弱 Neurasthenie は…興奮の源泉や障害の誘引が身体領域 somatischem Gebiete にある。…他方、ヒステリーと強迫神経症は心的psychischem領域にある。

・不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt は…抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能 nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能 nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)

だからパニック障害というのは、身体の症状だよ。心の症状じゃないはずだな。

DSMについてはまったく詳しくないけれど、最近のDSM5の記述を図示すればこうなるらしい。



Panic Disorder and Panic Attacks



身体の症状(GAD)とかPTSDとかがパニック発作のまわりを取り巻いているわけで、ま、パニック障害(PD)が、不安神経症、あるいは外傷神経症にかかわるのはこの分類からみてもアッタリマエだね、

フロイト・ラカン派においての外傷の意味は、事故的トラウマというよりも、リビドーの「身体の上への刻印」という意味でのトラウマ。中井久夫なんか単語の記憶も外傷的だと言っているぐらいで、通念としてのトラウマとは異なることに注意。

で、ラカン派観点からも面白いのは、フロイトが不安神経症について《還元不能 nicht weiter reduzierbar》と記していたけど、これはラカンのサントーム(原症状)をめぐる発言にも同様に出現することだ。

四番目の用語(サントーム=原症状)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

つまり、フロイト/ラカンのあいだにあるかもしれない「現勢神経症/サントーム」のあいだの微妙な境界差異を除けば、基本的には次のように図示できるわけだ。





というわけで、勝手なことを言わせてもらえば、パニック障害とはサントーム(原症状)だよ。


症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの文における「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のこと。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》  (miller,  2011)

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps (ジャック=アラン・ミレール 、Miller,  L'Être et l'Un 、2011)


で、還元不能の症状だとあったけれど、つまり治癒不能の症状だということだ。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)


外傷神経症(現勢神経症)あるいサントーム(原症状)とは、究極的には次のフロイトの記述に還元される筈。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

主流ラカン派的なひねくりまわした記述だとこうなる。

精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion (=サントーム)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011年)

ーー《シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状》あるいは《「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion (=サントーム)》とあるけれど、ここでの「享楽」は「身体」に置き換えてよい、《ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。》(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)

で、シニフィアン+身体とは文字固着のこと。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)

ようするに 身体の上への刻印「一」のあるところには常に、《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps》(Hélène Bonnaud、Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse、2013)

以上、ひどくテキトウに記したからな、あまり信用しないように。


⋯⋯⋯⋯

※追記






ーーさきほど掲げた図のパニック障害PDの箇所のみを取り出せばこうだ。このパニック障害PDは、「頻繁な自発的 spontaneous 発作」とあるけれど、この記述は、不安神経症障害だよ、フロイトの言うね。

不安神経症障害は、時に自発的に起こる。Störungen der Angstneurose disponiert, die irgend einmal spontan (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)

ようするに自動的反復強迫だ。ラカン派的に言えば、《サントーム sinthome=身体の自動享楽 auto-jouissance du corps 》

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

で、先ほどの図にあった avoidance のほうは、上にフロイト最晩年の論文の触りを引用したけど、その後の記述にある「回避 Vermeidungen」のこと。つまり上のパニック障害の記述は、フロイトの記述のパクリだね。

われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

2018年11月26日月曜日

柄谷行人の世界史の構造論とボロメオの環

柄谷行人には、《仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》というボロメオの環の捉え方があるのは、何度も示している(参照:「ニーチェのボロメオの環」)

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p59)






柄谷行人はここからさらに世界の構造のボロメオの環を思考している(柄谷自身による直接の言及はないが、カント的なボロメオの環がベースになっていることは明らかである)。





これは三界+サントームΣ(三界の留め金)の考え方であり、つまりはこうなる。




ーーこの「世界共和国」(アソシエーション)が、柄谷にとってのカントの超越論的統覚Xに相当する。世界共和国とは、カントの統整理念だけではなく、アソシエーションとあるようにマルクス起源でもある。

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

この考え方は最近はより詳細になっており、たとえば次の図表が示されている(「交換様式論入門」2017, PDF




⋯⋯⋯⋯

柄谷行人の「世界共和国=アソシエーション」あるいは最近の「帝国の原理」をめぐる思考の重要な手掛かりは、『世界史の構造』などで示された次の図にある。





ーー父在‐不在の項は、わたくしがつけ加えた。歴史的には父在のときには、父に支えられた自由があり、不在のときは弱肉強食がある、という観点である。

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009

中井久夫も同様なことを言っている。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

この父在‐父不在とは、「三者関係的/二者関係的」だということである。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

もっともあくまで二者関係「的」であり、厳密な二者関係でないのはもちろんのことである。《想像的二者関係 dyade imaginaire の小さな他者 autreとの関係において、大きな大他者grand Autre が不在と考えるのは誤謬である。》(ラカン、E678、1960年)

ここでは、現象的には二者の関係であっても、目に見えない第三者すなわち社会(世間)が背景として厳存する場合は三者関係とする。したがって四者以上でも三者関係に含まれる。私のいう二者関係とは「文脈以前の二者関係」あるいは絶対的な二者関係と呼んでもよかろう。(同中井久夫)

中井久夫がしばしば強調する「文脈以前の二者関係」以後、三歳以降に獲得する「成人言語性」とは、ラカン派的には父である。《言語は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père 》(ミレール、1997)。この父の名はまた父の機能と呼ばれる。

ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)


柄谷行人に戻れば、彼は「帝国の原理」についてこう言っている。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

柄谷行人は、「帝国」の復活は御免蒙るが、「帝国の原理」(父の機能)がなければ、人間には「コモンズ comunis」が得られない、ということを言っているのである(日本的文脈では「象徴天皇制」の本来の十全な機能)。

これはラカンが次のように言っているのと等価である。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

ラカン的には、学園紛争のおりに既に《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)があったのである。柄谷行人においては、1989年までは「マルクスの父」がとりあえずはあった、という観点である。

ところで、"Pornography no longer has any charm"という表題をもつジジェクへのインタヴュー記事(19.01.2018)に次のような発言がある。

私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018

2018年1月の半年前のネグリのインタヴュー記事はネット上では見出せなかったが、2018年́8月のインタヴュー記事に出会った。

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと溶解する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。…multitudo 概念を断固として使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、multitudoとcomunis 概念を詳述するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri, Interview – August 18, 2018)

あのネグリがついにこういうようになっているのである。日本におけるほとんどの政治学者たちーーあるいは批評家や左翼ラカン派もふくめーーが、いまだネグリのマルチチュード的思考に囚われたままで柄谷を蔑ろにしているのはまったく馬鹿げている、とわたくしは思う。

⋯⋯⋯⋯

もっとも「世界資本主義の歴史的段階」の図をシニカルに眺める方法もある。再掲しよう。




なんと60年周期説なのである。もしこの立場をとれば、どうあがいても1990年から2050年までは、弱肉強食の時代が続くということになる。

1870年から1930年までの弱肉強食時代には、たしかにロシア革命があった。だがそれ結局、一国社会主義革命に終わった。柄谷行人が世界共和国という世界同時革命でなければならない、と言っているのはロシア革命ではダメだということである。

とはいえ、世界史の構造の60年周期説は、そのとき覆されることになり、柄谷理論の一端は崩れる、と言えるのではなかろうか?

他方、柄谷の構造論を厳密に受け入れるならば、人は2050年までは弱肉強食の時代に耐えねばならない、ということになる。

構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。(⋯⋯)

私は歴史の反復があると信じている。そしてそれは科学的に扱うことが可能である。反復されるものは、確かに、出来事ではなく構造、あるいは反復構造である。驚くことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。( Kojin Karatani, "Revolution and Repetition" 2008, PDF 私訳)

おそらく構造を覆すためには神の力が必要なのだろう。




日本だけの構造を覆すのは簡単である。東京大地震という神の力があればそれですむ。あるいは足音を立てて訪れつつある「財政破綻」という意図せざる「擬似的神の力」でもよろしい。

⋯⋯⋯⋯

※付記

柄谷の示す「交換と力の諸関係の図式」は、他の図式とともに読まなければならない。再掲すれば次の図である。





したがってマルクス的思考を厳密にボロメオの環で示せば、次のようになる、とわたくしは考えている。







ーーたとえば、岩井克人によってくりかえし強調される指摘として「貨幣=言語=法」がある。象徴界の場に貨幣が入るだろうことは、冒頭に示したラカンのボロメオの図において、象徴界=言語であるのと同様である、《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)。この観点をとれば、商品と市場はそれぞれ当然、想像界と現実界に置かれる。

ボロメオの輪の中心は、通常「a」と記されるが、「-φ」としたのは次の論拠による。

すべての話す存在の原去勢は、対象aによって-φと徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

(- φ) 、(- J)は、穴Ⱥ(原トラウマ)に相当する。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴Ⱥである。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

この穴は、柄谷=マルクス的文脈では、「無根拠であり非対称的な交換関係(コミュニケーション関係)」のことである。

マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)

すなわち、

穴 trou は、非関係 non-rapport によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)


さらにつけ加えれば、最近の柄谷行人は「自動的フェティッシュ」に相当するものを、「絶対的フェティッシュ」と呼んでいる。

・資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。

・株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

マルクスから次の叙述のみを簡潔に引用しておこう。

貨幣のフェティッシュの謎 Das Rätsel des Geldfetischsは、ただ、商品のフェティッシュの謎 Rätsei des Warenfetischs が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』第1巻)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第3巻)





2018年11月25日日曜日

ニーチェの家族

私は埋葬式と同じオルガンの音を聴く夢を見た。なぜなのかと考えているとき、突然、父の墓が開き、屍衣を纏った父がそこから這い上がって来た。父は教会へと駆け入り、しばらくすると小さな子供を腕に抱えて戻って来た。墓が開き、父はそこに入る。そして墓の覆いはふたたび閉ざされる…。(ニーチェ「自叙伝」1858年、14歳)





わたしの父は、三十六歳で死んだ(ニーチェ四歳)。きゃしゃで、やさしくて、病弱で、いわば人生の舞台をただ通り過ぎるだけの役割を定められている人だった。――生そのものというよりは、むしろ生への温和な思い出だった。父の生が下降したのと同じ年齢で、わたしの生も下降した。つまり三十六歳のとき、わたしは、わたしの活力の最低点に落ちこんだーーまだ生きてはいたもの、三歩先を見ることもできなかった。当時――1879年のことだったーーわたしは、バーゼルの教授職を退いて、夏中まるで影のようにサン・モーリッツで過ごした。が、それにつづく、わたしの生涯でもっとも日光の希薄であった冬には、ナウムブルクで影そのものとして生きた。これがわたしの最低の位置だった。『さすらい人とその影』が、その間に生れた。疑いもなく、わたしは当時、影とは何かをよく知っていたのである……(ニーチェ『この人を見よ』1888年)
人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『さすらい人とその影』308番、1880年)


Friedrich Nietzsche with his sister Elisabeth Nietzsche


哲学者がかつてその本当の最後の意見を書物のなかに表現したとは信じない。書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるものではないか。(ニーチェ『善悪の彼岸』289番、1886年)
ひとがものを書く場合、分かってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分かってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分かってもらいたくなかったのだ。

すべて高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこ起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである。(『悦ばしき知』381番、1882年)




「記憶に残るものは灼きつけられたものである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文「「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」第3番、1887年)
わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind.。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の正式版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: : Ecce homo - Kapitel 3 、1888年)





私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。

Unvergeßlich sind mir die Stunden, in denen er ihn mir zuerst, als ein Geheimnis, als Etwas, vor dessen Bewahrheitung ... ihm unsagbar graue, anvertraut hat: nur mit leiser Stimme und mit allen Zeichen des tiefsten Entsetzens sprach er davon. Und er litt in der Tat so tief am Leben, daß die Gewißheit der ewigen Lebenswiederkehr für ihn etwas Grauen-volles haben mußte. Die Quintessenz der Wiederkunftslehre, die strahlende Lebensapotheose, welche Nietzsche nachmals aufstellte, bildet einen so tiefen Gegensatz zu seiner eigenen qualvollen Lebensempfindung, daß sie uns anmutet wie eine unheimliche Maske.(ルー・アンドレアス・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)




何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)
わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを was Ariadne ist!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)

ーー「アリアドネが何であるか was Ariadne ist!」は、当初は 「Wer Ariadne ist(アリアドネは誰であるか)」であったが、最終的に「was Ariadne ist! (何であるか)」に変えられている(フロイトの Es の起源であるグロデック=ニーチェによる)。

「アリアドネ」とディオニュソスが言った。「おまえが迷宮だ。」Ariadne, sagte Dionysos, du bist ein Labyrinth: (ニーチェ遺稿、1887年)

⋯⋯⋯⋯

付記

ツァラトゥストラノート:「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf.[Winter 1884 — 85])
メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)




全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)

2018年11月24日土曜日

ラカンの家族




以下、ELISABETH ROUDINESCOのラカン伝(pdf)の導入部を要約したものである。

仏国には、1824年に設立され1984年に消滅した名門醸造酢メーカー Dessaux Fils があった。5代目の経営者 Ludovic Dessaux の姉 Marie Julie Dessaux が、精神分析家ジャック・ラカン Jacques-Marie-Émile Lacan の祖母である。




Marie Julie Dessauxは、1865年に Emile Lacan という男に出会った。Dessaux Fils の当時のボスだった Marie の父 Paul Dessaux は、この男をセールスマンに雇った。Emile Lacan はとても熱心に働き、名門醸造酢メーカー Dessaux Fils の中心的メンバーになった。

もっともラカンの祖父 Emile Lacan は、経歴から分かるように、妻 Marie Julie Dessaux の意のままの男だった。このラカンの祖母である Marie は、カトリック教義に頑固に従順な女だった。

Marie Julie は、二人の娘を生んだ後、1873年に長男 Alfred Charles Marie Lacan を生んだ。これがラカンの父である。

このラカンの父 Alfred Charles Marie は、1898年前後、Emilie Philippine Marie Baudry と出会った。これがラカンの母である。彼女の父はかつては金箔師だったが、当時は不動産投資による利子生活者だった。




二人は1900年6月23日、Saint-Paul-Saint-Louis 教会で結婚した。10ヶ月後の4月13日、最初の息子を生む。この息子の名が、Jacques Marie Emile Lacan である。

ラカンの母は、1902年に次男 Raymond を生むが、2年後に肝炎で早逝。1903年4月、今度は娘 Madeleine Marie Emmanuelle が生まれる。そして1908年12月25日、4番目の子供 Marc-Marie が生まれる。彼は後に Marc-Francois という名をもつようになり、神父になる。







Marcoは、小さい頃から神父になりたいと常にに言っていた。彼は「私の母は、無条件に賛美しうる唯一の女性だ」と言った。「母は、父とは違って真のクリスチャンだ。母は私が神父になることには何の関係もない。でも、父が反対するにもかかわらず、私の決断にとても喜んでくれた」。





他方、Marcoの兄ラカンは、1923年頃、フロイト理論を初めて知る。その後、ニーチェを独原文で読み始め、宗教への信仰喪失と拒絶が強化される。ラカンは1925年に、ニーチェの思考へのブリリアントな賛辞を書き、St. Charlemagne 晩餐会での弟 Marcoに送付している。若き Marc-Marieは「ニーチェは狂っている」と応じた。





⋯⋯⋯⋯

※付記


イヴァン・カラマーゾフの父は、イヴァンに向けてこう言う、《もし神が存在しないなら、すべては許される Si Dieu n'existe pas - dit le père - alors tout est permis》

これは明らかにナイーヴな考え方である。われわれ分析家はよく知っている、《もし神が存在しないなら、もはや何もかも許されなくなる si Dieu n'existe pas, alors rien n'est plus permis du tout.》ことを。神経症者は毎日、われわれにこれを実証している Les névrosés nous le démontrent tous les jours.。(ラカン、S2、16 Février 1955)
無神論の真の公式 la véritable formule de l’athéisme は「神は死んだ Dieu est mort」ではなく、「神は無意識的である Dieu est inconscient」である。(ラカン、S11, 12 Février 1964)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
無意識の仮説、それはフロイトが強調したように、父の名を想定することによってのみ支えられる。父の名の想定とは、もちろん神の想定のことである。 L'hypothèse de l'Inconscient - FREUD le souligne - c'est quelque chose qui ne peut tenir qu'à supposer le Nom-du-Père.Supposer le Nom-du-Père, certes, c'est Dieu.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)



ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)
享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme. (ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)




女が欲するものは、神もまた欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.(アルフレッド・ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)



2018年11月23日金曜日

症状の線形展開図




上の図は、ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders(2004)に示されている次の図を訳したものである。





バーハウの記しているS1としての「境界表象 Grenzvorstellung」 とは「欲動の固着」を示すフロイト概念であり、かつまた原シニフィアンとは母なるシニフィアンのことである。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母シニフィアン le signifiant maternel.である。…つまり行ったり来たりする「母」C'est cette mère qui va, qui vientであり…「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


この母なるシニフィアンとしてのS1 とは、ミレールが「S2なきS1(S1 sans S2)」としているものと等価である。

S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps(L'être et l'un、jacques-alain miller、2011)

さらに、この「S2なきS1」は、ラカンのサントームΣ、あるいは「大他者のなかの穴 Ⱥ」のシニフィアンS(Ⱥ)、「文字対象a[la lettre petit a]」等とも等しい(参照:①S(Ⱥ)と「S2なきS1」、②想像界の復権と骨象a[osbjet a])。


事実、ポール・バーハウは、1999年(『Does the Woman Exist?』の段階では、境界表象S1に相当する場を、S(Ⱥ)としている。







以上にかかわるラカン用語とフロイト用語は、おそらく次のようにまとめることができる。





もういくらか引用して、用語について補っておこう。

【去勢と享楽】
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


【モノと享楽の喪失】
(フロイトによる)モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu (=モノ)の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)



【欲動と穴】
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwangの作用、その自動反復automatisme de répétition の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)
リビドーは、その名が示しているように、穴に関与せざるをいられない。身体と現実界が現れる他の様相と同じように。(⋯⋯)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


【欲望】
欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)
・欲望は、欠如の換喩と同じ程度に、剰余享楽の換喩です。 le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.

・欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »)


【その他】
サントーム……それは《一のようなものがある Y a de l’Un》と同一である。

si je veux inscrire le sinthome comme un point d’arrivée de la clinique de Lacan (je l’ai déjà identifié à ce titre).Une fois que Lacan a émis son « Y a de l’Un »(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

Y a de l’Unが境界表象S1であり、欲動の固着、かつ文字対象aである。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)


以上、別の形で症状形成図を示せば、フロイトにおいては次のようになる。







エロスとタナトス(エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstrieb) …という二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossungという対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
原抑圧 Verdrängungen (固着)は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。……現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

フロイトは出産外傷による原トラウマについては、治療の直接の対象としては否定している。

オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。この仕事のためには、わずかに二、三ヵ月しか要しないはずである。ランクの見解が大胆で才気あるものであるという点には反対はあるまい。けれどもそれは、批判的な検討に耐えられるものではなかった。(……)

このランクの意図を実際の症例に実施してみてどんな成果があげられたか、それについてわれわれは多くを耳にしていない。おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)

とすれば、原分析対象としては、欲動の固着が核心となる。これはラカンがサントーム(原症状)を強調しているのと同じである。

ようするにラカンも用語の相違さえ視野におさめれば、ほぼフロイトと基本的思考は同様である。

「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion (=サントームΣ)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)

ラカンの症状形成図は次のようになる。






私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)

あるいは、《われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance》(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534)

結局、享楽のさまよいとは、「享楽の喪失」による漂流なのである。


⋯⋯⋯⋯

フロイト・ラカンの考え方を最も簡潔に図示すれば、こうなる。






穴とは「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」(S21、19 Février 1974)である。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

このトラウマの穴埋めを妄想あるいは幻想と呼ぶ、《幻想的とは妄想的のことである》(ミレール 、2008)。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2011)

妄想とはトラウマの治療の試みである。

病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911)

そして心的なものである欲望とは、身体的なものである欲動の「心的被覆 psychischen Umkleidungen」(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924)、あるいは《 l'enveloppe formelle du symptôme 症状の形式的封筒 》(ラカン、E66、1966)である。

欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)


ラカンの定義においては、欲望とは身体的なものに対する心的防衛である。

欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)

ラカン派でしばしば使用される「防衛」という語は、実は「抑圧」という語に起源がある。

私は後に(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926 年)


上図をボロメオの環で示せば、次の通り。






症状はすべて不安を避けるために形成される。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章)

すなわち、症状はすべて「穴=トラウマ」を避けるために形成されるのである。


-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)

ここまで見てきたようにȺとは(-J)である(斜線を引かれた Jouissance)。


ここで、ラカンの「不安」セミネール10から、一つの図を掲げよう(13 Mars 1963)。




ーー難解な図であり、この図自体の注釈は割愛するが、この図が掲げられた同じ日、ラカンはこう言っている。

愛だけが、享楽を欲望へと身を落とさせうる(腰をかがめさせうる condescendre )。Seul l'amour permet à la jouissance de condescendre au désir (ラカン, S10, 13 Mars 1963)

ミレールの注釈はこうである。

もし私がラカンのこのアフォリズムを言い換えるなら、こう言うだろう、「不安だけが、享楽を「欲望の原因としての対象」 objet cause du désir へと移行させる seule l'angoisse transforme la jouissance en objet cause du désir」 (ミレール 、Introduction à la lecture du Séminaire L'angoisse de Jacques Lacan, 2004)


⋯⋯⋯⋯

※付記

上にミレールが言っている「欲望の原因」とは、ラカンがボロメオの環の中心にある「a」を指し示したものであり、ミレールの注釈に則れば、「a」は(厳密には)次のような形のどれかで記されるべきなのだろう。





ラカンはボロメオの環の中心の a を《欲望の原因 cause du désir》(S23、1976)とする以外に、《剰余享楽 le plus-de-jouir》( La troisième、1974)ともしている。

このle plus-de-jouirには、残余の享楽の意味以外に、「もはや享楽は全くない « plus du tout » de jouissance」という意味があり、ボロメオ結びの中心にある a は、事実上、享楽の喪失(原喪失・原去勢 (- φ) [le moins-phi])である。ミレールが (- J) 、あるいは「享楽の控除 soustraction de jouissance」、ソレールが le moins-de-jouir とするものと等価として捉えうる。かつまた穴Ⱥであるのは、ラカン自身が示している。 

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

この中心の a が《すべての享楽にとっての条件 aucune jouissance, sa condition》(ラカン、三人目の女、1974)なのである。

したがって先ほど示した図の下段が、ボロメオの環の中心にある「a」の実質上の価値であるとわたくしは捉えて、ここでの記述をした。