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2018年12月18日火曜日

森のにおい

イタリアとスペインとを同時に愛することはできないといわれるが、これと同じように、人はボードレール贔屓であって同時にランボー贔屓であるというわけにはいかない、と言っておこう。私は一貫してボードレール贔屓だった。これはどんなに否定しようと思っても否定しきれない。(シオラン『カイエ』)

フランスとドイツも同時に愛することはできないね。ボクはフランスの作家や音楽家をよく引用するが、根はドイツってのか、もっと北のほうにあるんだろうな。森のにおい、大地のにおいってのかな。フランスは花のにおいだな。

ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。

尊敬をささげた対象を君の前にならべてみるのだ。そうすればおそらくそれらのものは、その本質とそのつながりによって、一つの法則を、君の本来的自己の原則を示してくれるであろう。

そういう対象を比較してみるがよい。一つが他を捕捉し拡充し、凌駕し浄化して行くさまを見るがよい。そして、それらが相つらなって、君が今日まで君自身によじ登ってきた一つの階梯をなすさまを見るがよい。

なぜなら、君の本質は、奥深く君のうちにかくされているのではなくて、君を超えた測りしれない高い所に、あるいは少なくとも、普通きみが君の「自我」と取っているものの上にあるからだ。(ニーチェ『反時代的考察 第三篇』1874年)

高校時代はバッハとリルケ、ドストエフスキー、最後はいくらかニーチェ、そのまえはシューベルト、さらにそのまえはロシア民謡だったからな。昨晩『地下生活者の手記』を読んでて、ああオレはここにあったんだな、とつくづくそう思ったね。

心ひそかに自分を責めさいなみ、われとわが身を噛み裂き、引き挘るのだ。そうするとしまいにはこの意識の苦汁が、一種の呪わしい汚辱に満ちた甘い感じに変わって、最後にはそれこそ間違いのない真剣な快楽になってしまう! そうだ、快楽なのだ、まさに快楽なのである!(⋯⋯)

諸君、諸君はこれでもまだわからないだろうか? 駄目だ、この快感のありとあらゆる陰影を解するためには、深く深く徹底的に精神的発達を遂げて、底の底まで自覚しつくさなければならないらしい!(ドストエフスキー『地下生活者の手記』)

じつに快原理の彼岸あるいはマゾヒズムのフロイト的文章だね。ラカン的に享楽といってもいいさ。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

たとえば今、フロイトとラカンのどっちを取るかってのは、フランス的明晰さをもつかっこいいラカンじゃなくて、ウィーンの森のにおいがする暗闇にうごめくようなフロイトをとるね、最近つくづくそう思うようになったな。ラカン引用を多用するのは、短い文で明瞭だからにすぎない。

ま、でも文化混淆の国フランスという意味では、あの国も捨てたもんじゃないさ。ヴァレリーもスタンダールも出自はイタリアだしな。

でも、プルーストやロラン・バルトやフォーレへの愛ってのはどうなるんだろ?

そういう私によくわかったのは、かつて耳にした気がする彼女のマーテルリンクにたいする嘲笑のことで(もっとも、いまは彼女はマーテルリンクを讃美しているが、それは文学の流行に敏感な女性の精神的弱点によるもので、文学の流行の光というのは、おそくなってから射してくるのである)、そのことが私によくわかったのは、つぎのことが私にわかったのと軌を一にしていた、すなわち、メリメがボードレールを嘲笑し、スタンダールがバルザックを、ポール=ルイ・クーリエがヴィクトル・ユゴーを、メーヤックがマラルメを、それぞれ嘲笑していた、ということである。むろん私にわかっていたのは、嘲笑者は、自分が嘲笑している相手にくらべて、なるほどせまい考をもっているが、しかしより純粋な語彙をもっている、ということである。(プルースト「囚われの女」)