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2018年12月21日金曜日

窮極のエロス不安

いやあ、極論なのはわかってるよ。でも長くなりすぎちゃうからな、細かく記すと。

ようするに「パックリ母」とは「融合不安」のことだよ。その前段階には「分離不安」があるのはもちろんのこと。





どちらが強いかで、エロス人格とタナトス人格が生じる。フロイトの「エロス/タナトス」の最終的な定義は「融合/分離」。

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせ Bindung」(融合)である。対照的に、タナトスの目標は、結合 Zusammenhänge を「分解 aufzulösen」 (分離)することである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

分離不安を強く抱いた幼児はエロス人格として育つ。他方、融合不安はタナトス人格を生む。神経症語彙なら「ヒステリー人格/強迫神経症人格」。人にはエロスとタナトスの「欲動混淆 Triebmischung(Triebvermischung)」があるのだけれど、その偏り具合ってことだな。




純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung) は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


冒頭の図の最初の出産による母との分離とは、

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

ーー去勢についての詳細は「 四種類の去勢」を見よ。

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


養育状況における「分離不安」とは、

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚 Empfindungen の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。

乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分を興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自分自身の身体器官に他ならないということが分かるのはもっとあとのことであ るーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)

上にあるのが母の現前不在の意味。ラカンで補足すれば、

母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、S5、15 Janvier 1958)
母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、S4、12 Décembre 1956)

養育状況における「融合不安」つまり「母に呑み込まれる不安」は、「パックリ母」で示した通りだから、ここでは割愛。

ようするに究極の融合は一つになってしまうことなのだから、死ぬってことだ。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
「一(L'Un)」(一つになること)、きみたちが知っているように、フロイトはしばしばこれに言及したが、それがエロスの本質 essence de l'Éros だと。融合 fusion という本質、すなわちリビドーはこの種の本質があるというヤツ、「二(deux)」が「一」になる faire Un 傾向をもつというヤツだ。ああ、神よ、この古くからの神話…まったくもって良い神話じゃない…一つになるなんてのは根源的緊張 tensions fondamentales を生むしかないよ (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


今もって巷間の研究者たちにの最も根本的な誤りは、死の欲動(タナトス)がいまだ「死」の欲動だと捉えられていることだな。でもそうではまったくなく、タナトスとは「不死の欲動」のこと。もちろんフロイトが不幸にも「死の欲動」と命名してしまったことに問題があるのだけれど、でも最後のフロイトを読み込めば、そうでないことが判明する。窮極の死であるエロスのまわりを循環運動すること、それがタナトスだ。


以下、資料を並べとくよ。そのあたりのラカン派ボウヤの言ってることをまともにきいたらダメだってことだな、大事なことは。

人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

ラカンは享楽についていろんなこと言っているが、究極の享楽(=究極のエロス)とは死のことだ。

私は(フロイトの)欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)



死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)
ラカンにとって、享楽と死の危険のあいだには密接な関係がある。Il y a donc pour Lacan une connexion étroite entre jouissance et risque de mort (Marga Auré, A risque de mort, 2009)
・死は快の最終的形態である。death is the final form of pleasure.

・死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance

(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」)
・享楽と死はきわめて接近している Jouissance and death are quite close

・享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)