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2018年12月22日土曜日

ロスコと女





とっても美しい写真だ、ロスコに直面して足がふにゃっとなっちゃって。でも上半身は何かにひっぱられているようで。髪が乱れているのもいい。こういう女の姿をみたら一瞬で惚れるな。

歴史的には、大きな絵を描くことはとても仰々しく尊大な何ものかだと言うことは分かっている。だが私が大きな絵を描く理由は、厳密な意味で、親密で人間的でありたいからだ。小さな絵を描くことは、あなた自身をあなたの経験外部に置く。それは経験を見物することだ、幻灯機視点として、あるいは削減的な眼鏡をもって。しかしより大きな絵を描くと、あなたは絵の中にいる。それはあなたが自由に操る何ものかではなくなる。(マーク・ロスコ、Statement on the artist’s attitude in painting, 1949)

パックリ感、つまり融合不安、ブラックホール感を最も抱かせる作家の一人は、今のボクにとっては、マーク・ロスコ Mark Rothkoだな。一度も現物は見たことはないのだけれど。

25年ほど前、MoMAに2度訪れたのだけれど、そのときは素通りしている。今ではアンリ・ルソーとアンリ・マティスの作品だけが記憶に残っている。それと地階のイタリアレストランでの若いウエイトレス。明るい緑のセーターを着た金髪の女。あんなに緑色のセーターが美しいと思ったことは一度もない。






美術作品のレシピ。その構成要素。いかに絵画は作られるのかの定式。

1:死に対する明瞭な関心がなければならない。命には限りがあると身近に感じること。悲劇的美術、ロマンティックな美術などは死の知をあつかっている。

2:官能性。世界と具体的に交わる基礎となるもの。存在するものに対して欲望をかきたてる関わり方。

3:緊張、葛藤あるいは鞣された欲望。

4:アイロニー。これは現代になって加わった構成要素であり、ひとが一時、何か別のものに至るのに必要な自己滅却と検証。

5:機知と遊び心。人間的要素として。

6:はかなさと偶然性。人間的要素として。

7:希望。悲劇的な観念を耐えやすくするための10パーセント。

8:私は絵を描くとき、これらの構成要素をとても慎重に釣り合わせている。常にこれらの要素に従う形式があり、絵はこれらの要素の比率から生まれる。(M.Rothko’s „Address to Pratt Institute”, November, 1958、プラト美術館講演)





5年ほど前だったかな、ロスコとジャコメッティを組み合せている展示会の写真を眺めたのは。そのとき以来だな、ロスコがひそかな愛の対象になったのは。ジャコメッティとロスコはあうよ、とっても。






美術作品の写真ってのは、現物の女が映っているともっと美しくみえるのはどういうわけなんだろうな、ボクの場合だけなんだろうか?





ばあさんが素通りしているのをみたって単体でみるより美しいと思うからな。




あまり姿勢のよくない女が通りすぎたって、なにかが匂うように空気がまるくなった感じがしてロスコが生き生きみえるんだよな。



もっともこういう感覚を与えてくれるのは、ツレの女じゃぜんぜんダメだというのが、たぶん一般的な男女関係の宿命だね。ロスコが美術作品のレシピの六番目で言っている「はかなさと偶然性」が肝腎なんだよな。


須磨の女ともだちからおくられた
さくら漬をさゆに浮かべると
季節はづれのはなびらはうすぎぬの
ネグリジェのやうにさくらいろ
にひらいてにほふをんなのあそこ
のやうにしょっぱい舌さきの感触に
目に染みるあをいあをい空それは
いくさのさなかの死のしづけさのなか
……

――那河太郎「小品」