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2019年12月30日月曜日

ラディカル衆愚政治のために

◼️ある元事務次官との会話~「日銀の出口戦略」 長谷川高、2019年12月30日

 「私は、最近、黒田さんは、太平洋戦争勃発時の山本五十六長官に例えている。山本長官は、当初からまずは奇襲線を挑み、早期に終戦条約を締結し、戦争を終了させるしか日本が生き残る方法はないといった戦略だった。しかし、当時の政府や軍は、本土を空襲され、原爆を落とされ徹底的に破壊されるまで戦争を終結することができなかった。

黒田さん及びその周りの取り巻きも、当初、ほんの数年で、つまり短期で一連の政策を終わらせる予定だった。私も現役時代そう聴いていた。しかし、結果が出ず、途中でやめるわけにはいかなくなってしまった。今後は、太平洋戦争時代の政府と同じように行くところまで突き進むのだろう。」

「正義の味方」のみなさんは、これが元財務事務次官の寝言なのか、あるいは「まともな」経済学者たちの事実上のコンセンサスに近いのか否かぐらいはまずオベンキョウして判断してみることだな、「考える自由」をもつために。

知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)

ほかの選択肢は「令和の徳政令」のたぐいだったらあるだろうがね、それと「僥倖的」経済成長を夢見ることだなーー生産年齢人口1%弱減っていく国で、2%超の継続的経済成長を期待するというほとんどあり得ない夢をねーー、そう、どこかのポピュリズム左翼政党の連中みたいに(でも驚異的な技術革新があって驚異的に生産性があがったら可能だよ)。

実際のところは無難なインフレ期待しかないんじゃないかな(インフレの場合、一番の問題はほとんど必然的な金利上昇をどう処理するかだけれど。つまり成長による税収増より公債金利負担増のほうが多くなるという逆ザヤ現象が経済学者たちのあいだで予測されている)。

でもハイパーインフレだったらスッキリしていいかもな。

次のはいくらか極論だが掲げておこう。

ハイパーインフレは、国債という国の株式を無価値にすることで、これまでの財政赤字を一挙に清算する、究極の財政再建策でもある。

予期しないインフレは、実体経済へのマイナスの影響が小さい、効率的資本課税とされる。ハイパーインフレにもそれが当てはまるかどうかはともかく、大した金融資産を持たない大多数の庶民にとっては、大増税を通じた財政再建よりも望ましい可能性がある。(本当に国は「借金」があるのか/福井義高 2019.02.03)

ーーこの福井義高氏は、もはや日本の財政破綻は必然なのだから、悠長な現状分析はやめて財政破綻後の日本を考えようとする趣旨をもった「「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会」ーー代表:井堀利宏(東京大学大学院経済学研究科教授)、貝塚啓明(東京大学名誉教授)、三輪芳朗(大阪学院大学教授・東京大学名誉教授)ーーのメンバーのひとりだった(現在も存続しているか否かは不詳)。

でもハイパーインフレは「大した金融資産を持たない大多数の庶民」にとっては望ましいかもしれないけど、金持ちというよりそれなりにまじめに貯金して頑張っている中流階級が悲惨なんじゃないかな、それとやっぱりたいした資産のない高齢者が。

でも「若く貯金のない庶民のみなさん」のためにはたぶん最高の政策だよ、きっと。健康で機敏だったらボロ儲けできるさ。闇市時代みたいにね。

小泉進次郎だってとっくのむかしから言っているらしいよ。

消費税増税法案が閣議決定された(2012年)3月30日、国会内で自民党の小泉進次郎代議士はこう述べた。「若い人にもデフォルト待望論がある。財政破綻を迎え、ゼロからはじめたほうが、自分たちの世代にとってはプラスだという議論が出ている」(資産も職もない若者はデフォルト待望 「みんなが不幸になり、既得権益が一掃されることを願う」


ま、たとえばこういった言説に対抗するためにも、そしてすこしでも「知識人」として振る舞いたければ、ツイッター社交界の政治好きのあの連中のように似非能動性ばかりやってないで、ひきこもって考えてみることだよ、

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006年)

ーーツイッター10日ぐらいやめて正月のあいだお勉強したら「マヌケじゃなかったら」なんとかなるよ。マヌケを自認してんだったらやめといたらいいさ。

話をいくらか変えよう。

むかしヘーゲルはこういったらしい。

国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

で、柄谷は次の文の前段でカール・シュミットに触れつつこう言っている。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

もう一つ付け加えておこうか。

人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

 ーーおい、行政官僚に操られているだけだってよ、大衆は。オコレよ、柄谷に。


ま、でもこの柄谷じゃなく「常識的には」現在日本は端的にジジェクのこれだな。

いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

「今決断は本当に大衆にある」としても、おバカな大衆じゃだめだよ。いくらなんでもすこしは勉強しないとな。衆愚政治におちいらないためにね。

我々は君らの市民に直接語りかける機会を与えられていない。なぜならば、大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれるかもしれないとの恐れ(それゆえ我々は君ら少数の選ばれた者を招集したのだ)があるからだ。さればここに列席する諸君に、さらに万全を期しうる方法を提案しよう。この会談が一度限りの一方的な通達に終わらぬよう、君たちの一つの論に私たちが一つの弁で答える。我らの言葉に不都合なりと覚える点があれば、直ちに遮って理非を糾して貰いたい。まずはこの点に満足か答えて貰いたい」(ツキジデス『戦史』)


ま、でも結局、衆愚政治になっちまうんだろうよ、みんなオベンキョウなんかしたくないからな。

大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

ーーいやあじつにうまいまとめだな、ヒトラー「わが闘争」のまとめであると同時に、フロイトの「集団心理学と自我の分析」の秀逸なまとめだよ、これ、→「すぐれた」ポピュリストの手法

ま、でもこれだっていいさ。どうせなにやったって「太平洋戦争時代の政府と同じように行くところまで突き進む」のだったら、僥倖期待の「ラディカル衆愚政治」だってゼンゼンわるくないってことだ。さいきんそうおもうようになったね、こっちのが目的地に近道だろうからな。

ーーいやあシツレイしました。寝言かいちまって。ケッタイな冒頭記事に出会っちまったからな。これが今年最後の投稿です。明日からちょっとした「山ごもり」なんです。




フロイトによる資本論

前々回「フェティッシュ「最上級者への道」版」のヴァリエーションとしてフロイトによる資本論を掲げておこう。今回はボロメオの環ではなく、ラカンの資本の言説スキーマを利用する(ラカンの言説理論の基本は、「簡潔版:四つの言説と資本の言説」を参照されたし)。

夢が必要とした欲動の力 Triebkraft は、ある願望 Wunsche によって提供されねばならなかった。夢の欲動の力として振舞う願望 Wunsch als Triebkraft des Traumes、それを捕えることが、心配の関心事だった。

この状況は次の喩えで説明しうる。すなわち日中思考は、夢にとって企業家 Unternehmers の役割を大いに演じうる。しかし企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない ohne Capital nichts machen。彼は、出資 Aufwand してくれる資本家 Capitalisten が必要である。夢にとっての心的出資 psychischenAufwand を提供する資本家 Capitalist とは、その日中思考がどんなものであろうと、例外なしに必ず、無意識からの願望 Wunsch aus dem ünbewussten である。(フロイト『夢解釈』第七章)





資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである。日中作業によって、ある無意識的な願望が刺激を受ける。そしてこの願望が夢を作り出す。… (同上フロイト『夢解釈』第七章)




この図はマルクスの次の文と「ともに」読めばより理解がすすむだろう。

諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』第1巻第2章第4節)

ーーここでのG-W-G (貨幣-商品-貨幣)とは実際は G-W-G’(G+Mehrwert)である。

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン、ラジオフォニー, AE434, 1970年)
剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である。la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.(Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)

享楽欠如とは享楽喪失のことである。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

すなわち剰余価値とは、「もっとたくさんの価値を!」と「もはやどんな価値もない」という意味をもつことになる。

これがラカン曰くの《「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理》の内実である。

そしてさらに柄谷行人が、「資本のはてしない(endless)=end-less(無目的的)運動」としているのがこの意味である。



資本の欲動
マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年、P25-26)
資本のはてしない(endless)=end-less(無目的的)運動
なぜ資本主義の運動がはてしなく(endlessly)続かざるをえないか、という問い(……)。実は、それはend-less(無目的的)でもある。貨幣(金)を追いもとめる商人資本=重商主義が「倒錯」だとしても、実は産業資本をまたその「倒錯」を受けついでいる。実際に、産業資本主義がはじまる前に、信用体系をふくめてすべての装置ができあがっており、産業資本主義はその中で始まり、且つそれを自己流に改編したにすぎない。では資本主義的な経済活動を動機づけるその「倒錯」は、何なのか。いうまでもなく、貨幣(商品)のフェティシズムである。

マルクスは、資本の源泉にまさしく貨幣のフェティシズムに固執する守銭奴(貨幣退蔵者)を見いだしている。貨幣をもつことは、いつどこでもいかなるものとも直接的に交換しうるという「社会的権利」をもつことである。貨幣退蔵者とは、この「権利」ゆえに、実際の使用価値を断念する者の謂である。貨幣を媒体ではなく自己目的とすること、つまり「黄金欲」や「致富衝動」は、けっして物(使用価値)に対する必要や欲望からくるのではない。守銭奴は、皮肉なことに、物質的に無欲なのである。ちょうど「天国に宝を積む」ために、この世において無欲な信仰者のように。守銭奴には、宗教的倒錯と類似したものがある。事実、世界宗教も、流通が一定の「世界性」――諸共同体の「間」に形成されやがて諸共同体にも内面化される――をもちえたときにあらわれたのである。もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすならば、守銭奴にもそうすべきだろう。守銭奴に下劣な心情(ルサンチマン)を見いだすならば、宗教的な倒錯者にもそうすべきだろう。(柄谷行人『トランスクリティーク』p325-326)
後期資本主義社会における「最もまばゆい形態での資本の神秘化 」
信用制度の下では、資本の自己増殖運動は、蓄積のためというよりも、むしろ「決済」を無限に先送りするために強いられたものとなる。つまり、資本の運動が、個々の資本家の「意志」を本当にこえてしまい、資本家に対して強制的なものとなるのは、このときからである。たとえば、設備投資は概ね銀行からの融資でなされるが、資本は借金と利子を返済するためには途中で活動を停止することができない。

資本の自己増殖運動を促進し、「売り」の危うさを減殺する「信用」が、資本の運動を無限(endless)に強制する。総体的にみれば、資本の自己運動は、自転車操業のように、「決済」を無限に先送りするためにこそ存続しなければならないのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』 P344)
利子生み資本では、自動フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。…ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)
絶対フェティッシュ  
株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, 私訳)
われわれは、 標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品フェティッシュWarenfetischs」の題目の、徹底した再形式化が必要である。(……)逆説的なことに、フェティシズムは、フェティッシュが「脱物象化」されたときに頂点に達する。(ジジェク、LESS THAN NOTHIHNG, 2012)



自己を語る遠まわしの方法 

フロイトは、人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと何度もくり返しているが、プルーストが次のように言っているのも同様の機制である。

ところで、自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


最も分かりやすい事例は、子供の「しっぺ返し」だろう。

他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、まったく同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)

こういったことはツイッターなどでもしばしば観察されるが、当人はそれにまったく気づいていないことが多い、ーー「滑稽だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」(夏目漱石『明暗』 第百八十三章)

社交心理学としても読めるプルーストの小説のなかには、実に「愉快な」指摘がふんだんにある。ここでは「うそ」に関していくつか掲げよう。

あらゆるかくしごとのなかで、一番危険をはらんでいるのは、あやまちを犯した当人が、頭のなかで、そのあやまちをかくそうとする作為である。当人の頭にそのあやまちがつねにこびりついていることは、そのあやまちが世間一般にどれだけ知れれていないか、またある完全なうそがどれだけ安易に信じられるかを、当人に推察できなくさせるとともに、他面で、大した危険はないと見くびってしゃべる言葉のなかに、どの程度まで真相をもらす告白が食いこみはじめるかをも、当人に理解できなくさせるのである。(プルースト「ソドムとゴモラ」)
うそは人間において本質的なものである。うそは人間においておそらく快楽の追及とおなじほど大きな役割を演じているだろう、しかも、うそは快楽の追及に従属するのである。人は自分の快楽をまもるためにうそをつく。人は生涯にわたってうそをつく、人は自分を愛してくれる人たちにさえうそをつく、そういう人たちであればこそとりわけうそをつく、おそらくそういう人たちにだけうそをつくだろう。われわれにとっては、正直いって、そういう人たちだけが、自分の快楽をまもるためにおそろしいのであり、しかもそういう人たちだけから、尊敬を受けることが望ましいのである。(プルースト「逃げさる女」)
人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからなのである(プルースト「ソドムとゴモラ」)

もっともプルーストはこうも書いている。

身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト「見出されたとき」)

わたくしはまだ修行が足りないのである、「笑うべき人間たちを嘲笑」してしまうから。

プルーストが言うようにこれらは人間の一般法則なのであり、例えば、わたくしが他人を嘲笑する場合、嘲笑すべき自らの投射ではないかとまず疑うべきなのだろう。

常にまず自らを取調べなければならない。

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

自分のメタ私は他人のメタ私より見えないのだろうから。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」)


基本はこうでありながら、しかし、ーーと言いたいのである。

とくに「信者」マインドをもっている人物は、自らを取調べることがきわめて稀だと。

それはかつてキリスト教信者がみずからのなかの「魔女性」を魔女に投射したように、あるいはヒトラー信者がみずからのなかの「ユダヤ性」をユダヤ人に投射したように。彼らは「自己の取り調べ」なきまま熱狂しただけの「善人」である。


たとえば山本太郎信者であった人たち、そのうちの一部に最近「転向」がみられる。すこしまえまでは熱烈に好意をよせていたのだが、今度は熱烈な非難である。

本来、熱烈な好意を捧げて山本太郎をあそこまで育ててしまった自らをまず非難しなければならないはずであるがーーそれはより根底としては、集団神経症的「ポピュリズム」構造自体のメカニズム批判にまで至るはずだーー、その「自己の取調べ」をうっちゃったまま、タロウ非難に反転しているようにしかみえないのであり、「修行が足りない」わたくしはどうしたって笑わずにはいられないのである。



2019年12月29日日曜日

フェティッシュ「最上級者への道」版




マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)
対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)



マルクス版三つのフェティッシュ 
(自動的フェティッシュ、商品フェティッシュ、貨幣フェティッシュ)
貨幣のフェティッシュの謎 Das Rätsel des Geldfetischsは、ただ、商品のフェティッシュの謎 Rätsei des Warenfetischs が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』第一巻)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert…が完成されている。(⋯⋯

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値 Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』第1巻第2章第4節)
剰余価値=剰余享楽
剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン、ラジオフォニー, AE434, 1970年)
この対象(私が対象aと呼ぶもの que j'appelle l'objet petit a)、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」AE207、1966年)
剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である。la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.(Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)
ラカン版三つのフェティッシュ  
(黒いフェティッシュ、仮象フェティッシュ  、ファルスのフェティッシュ )
享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン, Kant avec Sade, E773, 1963年) 
欲望の原因としてのフェティッシュ le fétiche cause le désir ⋯⋯フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10, 16 janvier 1963)
セミネール4において、ラカンは「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、- φ (去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le - φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた仮象(見せかけ)でもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての仮象 semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)

ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうかMais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche?。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)



◼️商品は人間語を語る

商品は語る
もし、商品自身が話したら、彼等は次のように云うだろう。「多分、人々の興味の対象は、我々の使用価値であろう。だが、それは我々の物ではない。ただ、我々に属する物は、我々の価値である。我々の商品としての自然な交流がそれを証明している。お互いの目には、我々はただ交換価値以外の何者でもない。」 (マルクス『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズムとそれに係わる秘密」)
『資本論』第一巻を開けば十分である。そうすればわれわれは知ることができる。商品のフェティッシュ的特性のマルクスによる最初のステップは、厳密にシニフィアン自体の水準の問題に宛てられて構成されていることを。(Lacan, Le Séminaire, livre VI, Le désir et son interprétation,  Éditions de La Martinière、1958年)
人間語と商品語の相同性
マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)
マルクスが商品のフェティシズムを語るとき、…外観と価値の論理的オートノミーとのあいだのミニマムな移行[minimal shift between the appearance and the logical autonomy of value ]を描写している。人間語と商品語の不可分性は、ラカンの定式「メタランゲージはない」の先鞭を付けている。別の言い方をすれば、差異システムのオートノミーを限界づける規範はないということである。…言語は単一義的ではなく多義的であり、関係ではなく非関係とい範例的事例である。…言語システムと経済システムは開かれた集合を形成する。結果としてメタランゲージ(大他者の大他者)の非存在と大他者の非存在は同一である。(サモ・トムシックSamo Tomšič 『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』2015年)
言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あるいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)
メタランゲージはない
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977)

メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre,
真理についての真理はない il n'y a pas de vrai sur le vrai.

…見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)
シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3、 14 Mars 1956)
主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代理表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえないne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽plus de jouir と呼ばれるものである。(ラカン、セミネ ールⅩⅥ、D'un Autre à l'autre, 13 Novembre 1968)





※付記


フェティッシュの魔術
貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躪するものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。(……)

脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)
マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふりまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。

《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」)

むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。言うまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)
価値形態論は次のように展開されている。先ず、「単純な価値形態」において、商品Aの価値は商品Bの使用価値によって表示される。そのとき、商品Aは相対的価値形態、商品Bは等価形態におかれている。マルクスは単純な価値形態を次のような例で示している。

(相対的価値形態)    (等価形態)
二〇エレのリンネル =   一着の上衣

この等式が示すのは、二〇エレのリンネルは、自らに価値があるということができず、一着の上衣と等値されたあとで、はじめてその自然形態によって価値を示されるほかない、ということである。一方、一着の上衣は、いつでも前者と交換できる位置にいる。等価形態が、一枚の上衣にあたかもそれ自身のなかに交換価値(直接的交換可能性)が内在しているかのように見えさせるのだ。《商品が等価形態にあるということは、その商品が他の商品と直接に交換されうるという形態にあるということなのである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)。

貨幣の謎はこうした等価形態にひそんでいる。マルクスはそれを商品のフェティシズムと呼んだ。むろん、この単純な等式においては、一着の上衣がつねに等価形態にあるわけではない。二〇エレのリンネルもまた等価形態に立ちうるからである。

《もちろん、リンネル20エレ=上衣1着 あるいは、二〇エレのリンネルは一着の上衣に値するという表現は、上衣1着 =リンネル20エレ あるいは一着の上衣は二〇エレのリンネルに値するという逆の関係も、含んではいる。だが、そうではあるけれど、上衣の価値を相対的に表現するには、この等式を逆にしなければならず、そしてそうすると、たちまち上衣にかわってリンネルが、等価になるのである。したがって同じ商品が、同じ価値表現で、同時に両方の形態え登場することはできないのである。両形態は、むしろ対極的に排除しあうのだ。

いまや、ある商品が、相対的価値形態にあるか、それとも対置された等価形態にあるかは、もっぱらそれが価値表現において、そのつど占める位置に、つまりその商品が自分の価値が表現される商品であるか、それとも自分に価値が表現される商品であるかに、かかっている。》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)

大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(同前)。単純な価値形態においては、リンネルは相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのか決定できない。具体的にいうと、リンネルの所有者がリンネルと上着を交換したとき、リンネルで上着を買ったと考えているなら、リンネルは等価物であるが、他方、上着の所有者は上着でリンネルを買ったと考える。つまり、上着等価物であるということがありうるのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
・資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。

・株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(柄谷行人、Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016、私訳)




◼️コモンセンス版


言語=法=貨幣
広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
貨幣共同体とは、伝統的な慣習や情念的な一体感にもとづいているのでもなければ、目的合理的にむすばれた契約にもとづいているのでもない。貨幣共同体を貨幣共同体として成立させているのは、ただたんにひとびとが貨幣を貨幣として使っているという事実のみなのである。…

貨幣で商品を買うということは、じぶんの欲しいモノをいま手にもっている人間が貨幣共同体にとっての「異邦人」ではなかったということを、そのたびごとに実証する行為にほかならない。いささか大げさにいえば、それは貨幣を貨幣としてあらしめ、貨幣共同体を貨幣共同体として成立させた歴史の始原のあの「奇跡」を、日常的な時間軸のうえでくりかえすことなのである。(岩井克人『貨幣論』1993年)
言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つということが可能となります。

言語があるからこそ、生活体験をともにしてこなかった他人とも、同じ人間としてコミュニケーションが可能になります。

また、法があるからこそ、個人の腕力や一族の勢力が異なった他者であっても、同じ場所で生活することが可能になります。

そして、貨幣があるからこそ、どのような欲望をもっているか知らない他人とでも、交換をするが可能になります。

人格の問題は、このようなお互いが関係を持つことができる人間社会が成立した中で、はじめて発生することになります。

そして、そこではじめて二重性(ヒトであってモノである)をもった存在としての人間が出てくるのだろうと思います。(岩井克人『資本主義から市民主義へ』2006年)



フェティッシュ中上級者版

前回、フェティッシュについて不十分な引用をしましたが、あれは初心者版です。蚊居肢子はいくらか心配になりましたので(つまり誤解を生んでしまうのではないかと)、今回は中上級者版を掲げておきます。といっても大半の女性の方は「本能的に」ご存知だとおもいますが。






出現消滅の演出
われわれは、フロイトの「ナイーヴな」人を迷わすフェティッシュ概念を修復すべきである。フロイトは、女性のペニスの欠如を見る直前に主体が見た最後の物としてフェティッシュを捉えている。だがフェティッシュが覆い隠すものは、単に女性のペニスの不在ではない。そうではなく、厳密に「構造主義者」的意味での、まさに「現前/不在 presence/absence 」の構造が示差的(微分的 differential)であるという事実にある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
服を着ること自体、見せることと隠すことの動きのなかにある。Le vêtement lui-même est dans ce mouvement de montrer et de cacher.(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)
むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)
身体の中で最もエロティック érotique なのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯 zones érogènes》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇intermittenceである。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらりと見える肌 la peau qui scintille の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えること自体 scintillement même qui sédui である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。

それはストリップ・ショーや物語的サスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
見えない場 champ aveugle の現前(力動性)こそ、ポルノ写真からエロティックな写真を区別するところのものである、と私は思う。ポルノ写真は一般にセックスを写し、それを動かない対象 objet immobile (フェティッシュ)に変え、壁龕から外に出てこない神像のようにそれを崇拝する。私にとっては、ポルノ写真の映像にプンクトゥム(私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigneもの)はない。その映像は、せいぜい私を楽しませるだけである(しかもすぐに倦きがくる)。

これに反して、エロティックな写真は、セックスを中心的な対象としない(これがまさにエロティックな写真の条件である)。セックスを示さずにいることも大いにありうる。エロティックな写真は観客をフレームの外へ連れ出す。だからこそ、私はそうした写真を活気づけ、そうした写真が私を活気づける。プンクトゥムは、そのとき、微妙な一種の場外 hors champ subtil となり、イマージュは、それが示しているものの彼方に、欲望を向かわせるかのようになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』「見えない場」)






いま荒木経惟の作品を掲げましたが、女性の方が男をひっかけるにはこんなものではなくても、トリュフォーの「あこがれ」で十分なのです。





現代の男女関係の不幸は次の点にあります。

ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012年)
驚くべきことは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe「ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 」2005年)


大切なのはセクハラのたぐいの寝言を言っておらずに、次のことを十全に認知することです。

追っかけと誘惑 Pursuit and seduction はセクシャリティの本質である。(カミール・パーリア Camille Paglia、Sex, Art, and American Culture、2011年)


ウブな女性の方に注意を促しておきますが、次のところまで見せては、ガキしかひっかかりません。





ガキではものたりない女性の方はせめて次の程度に押しとどめてください。





女性のかたにとって最も大切なことは、イクラタマッテイテモ次の振る舞いを必ず避けることです。

何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータ Vagina dentata の神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998)



2019年12月28日土曜日

わたくしは倒錯者である

後期ラカンの基本は、フロイトに依拠しつつの次の二文だとわたくしは考えている。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である toute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
フロイトはすべてはただ夢のみだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1979)


現代ラカン派では倒錯をとるか妄想をとるかで「一般化倒錯」、「一般化妄想」という二つの言い方があるが、倒錯あるいは妄想とはどちらも底にあるトラウマ=穴に対する穴埋め(防衛)である。

我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
倒錯者は、大他者のなかの穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969) 
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](Miller、Vie de Lacan, 17/03/2010 )



右端に古典的症状区分「精神病、倒錯、神経症」を付け加えたが、後期ラカンの観点では神経症も一般化妄想あるいは一般化倒錯に含まれ、むしろ神経症とは、重度の妄想あるいは倒錯でありうる(参照)。おそらくこれは標準的には受け入れがたい話だろうが。

たとえば一神教的な神を信じることは神経症的症状であり、重度の妄想者あるいは倒錯者ということになりうる。これは究極のラカンのテーゼ「大他者は存在しない」の必然的な帰結である。


以下、以前に何度も繰り返した基礎文献を掲げておこう(これは読み飛ばしていただいてよろしい)。


大他者は存在しない
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…

「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)
1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)
神の死 La mort de Dieuは、父の名の支配として精神分析において設立されたものと同時代的である。そして父の名は、少なくとも最初の近似物として、「大他者は存在する」というシニフィアン[le signifiant que l'Autre existe]である。父の名の治世は、精神分析において、フロイトの治世に相当する。…ラカンはそれを信奉していない。ラカンは父の名を終焉させた。

したがって、斜線を引かれた大他者のシニフィアンS(Ⱥ)がある。そして父の名の複数化pluralisme des Nom-du-Père がある。名高い等置、「父の諸名 les Noms-du-Père」 と「騙されない者は彷徨うles Non-dupes-errent」である(同一の発音)…この表現は「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは「大他者は見せかけに過ぎないl'Autre n'est qu'un semblant」ということである。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)
初期のラカンにおいて、すべての強調は、父の名の隠喩に置かれた。その機能は、主体を母の欲望から解放すること等々だった。現代ラカン派に於けるこの理論的モティーフの継続的な流行は、ラカンの決断と鋭く相反する。その決断とは、ラカンはその理論的モティーフを捨て去っただけではなく、反対の考え方に置き換えさえしたのだ。すなわち大他者の大他者は存在しない、と。

父を信じることは、典型的な神経症の症状である。それはボロメオ構造の四番目の輪である。ラカンはそこから離れた。そして三つの輪を一緒にするために機能する新しいシニフィアンを探し求め始めた。この文脈において、重要なのは父とその機能を区別することである。すなわち、母と子の分離にかかわる機能、子どもが母なる大他者の享楽から解放されることを伴う機能である。もしこの分離が、二番目の大他者である父への疎外に終わってしまったなら、それは構造的には、以前の疎外(母との同一化)と何の変わりもない。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 2002)
享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
ある時期まで、ラカンはフロイトのエディプス理論を立証し増幅あるいは拡張した。彼は、父性隠喩の公式とともに構造主義的用語を以て、子どもが母から解放されるメカニズムを描いたのだが、それは父自身の介入ではなく彼が「父の名 le‐Nom‐du‐Père」と呼ぶところのものによってである。

この概念の宗教的含意(コノテーション)は、大文字の使用によって強調されているようにひどく鮮明であり、ほとんど自動的な嫌悪感をもたらしうる。ラカンの反-母性的見解は、その家父長制の密かな神格化と相俟って実にきわめてカトリック教義を連想させる (Tort, 2000)。もし人がこの嫌悪感をなんとかやり過ごすのなら、この公式にフロイト理論との二つの主要な相違を見出すだろう。…… 

…第一にラカンにおいては、父から起こる禁止は子供に向けられるのではなく、母に向けられる。それは母の欲望、さらにはおどろおどろしい母の享楽に向けられるのだ。既に見てきたように、この考え方はフロイトの神話の第二のヴァージョン(『モーセと一神教』)にも内示的に読みとりうる。

第二に、「父の名」にて、ラカンは父の形象と機能を区別している。どんな個別の父も権威のある一定の機能を取りうるのは、ただ彼のポジションが、象徴秩序とその固有の法そして人間の交流を統御する慣習に支えられている為だけである。

ラカンにとって、エディプス期とは自然から文化への移行以外のなにものでもない。これはレヴィ=ストロース(『親族の基本構造』)に合意しつつの考え方である。フロイトと同様に、この論法はある相互保証に依拠する。象徴秩序は、父の名と法(近親相姦禁止と族外婚の強制)を支える。

同時に父の名が象徴秩序とその固有の法の基礎をつくる。父はそのとき具体的形象として、権威を授かる。それは彼が象徴秩序の支えの代理人として振舞うという事実から来る。そしてこれが父の機能である。.(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009)



以前はこういったフロイト、ラカンの基礎的考えをくりかえして示したのだが、最近は引用して示すことが少なかったのだろう。このブログについて誤解をされる方がいらっしゃるが、このブログが精神分析にふれるときは、上のような前提で書かれている。

さてここまでは前置きであり実は以下が本題なのだが、前置きがひどく長くなってしまった。

………

幸福に至る門は狭い。狭き門より力を尽くして入れ。(アンドレ・ジイド)


Pierre Klossowski 


クロソウスキーはリルケとジイドを、「二人の伯父さん」(deux oncles)と呼んでいる。1905年生まれのピエールは母の愛人リルケの紹介で1923年、作家ジイドの住み込みの「秘書」となったのである。




ピエール・クロソウスキーPierre Klossowski と、その弟バルテュス Balthus(本名バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ Balthasar Michel Klossowski de Rola) の母バラディーヌ・クロソウスカ Baladine Klossowskaは、前夫と離婚する前からリルケとのつき合いがあったとされる。



むかしはよくあったのだろうが、とくに弟のバルテュスの幼いころの写真は、完全に女の子である。




私は「作家」でも「思想家」でも「哲学者」でもない――どんな表現様式においてであれ――そのうちのどれでもありはしない、かつても、今も、そしてこれからも一人の偏執狂であるというそのことに先立っては。(ピエール・クロソウスキー『ルサンブランス』)


 




みなさん、どうせ短い人生です、クロソウスキーをみならいましょう!

過激さがオキライな方もいらっしゃるでしょうから、その方々にはトリュフォー 程度の倒錯をオススメします。


トリュフォー『恋愛日記』(原題『女たちを愛した男 L'Homme qui aimait les femmes』)




足は、不当にも欠けている女性のペニスに取って代わる。Der Fuß ersetzt den schwer vermißten Penis des Weibes. (フロイト『性欲論』1905)
フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) フロイト『フェティシズム』1927)
母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus(ラカン「科学と真理」1965、E877)
(象徴的ファルスとは異なった)他のファルスは、母の想像的ファルスである。un autre phallus c'est le phallus imaginaire de la mère. (ラカン、S4、22 Mai 1957)
欲望の原因としてのフェティッシュ le fétiche cause le désir ⋯⋯フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10, 16 janvier 1963)
ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表してる。(ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)
男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)
女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です[ la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)


ジイドから始めたのだから、最後にジイドに関していくらか付け加えておこう。

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)
男性の同性愛者の女への愛 L'amour de l'homosexuel pour les femmes は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「女というもの Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。

男性の同性愛者は、その人生において少なくとも一人の女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。男性の同性愛者の母への愛は、他の性への欲望 désir pour l'Autre sexe のこよなき防御として機能する。…

私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、…ラカンがセミネール「無意識の形成」にて例として覆いを解いた男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。(Pour vivre heureux vivons mariés par Jean-Pierre Deffieux、2013 ーーLe Journal extime de Jacques-Alain Miller)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)

ーー《私は泣きたかった。だが私のこころは砂漠より乾燥していた。 J'aurai voulu pleurer, mais mon cœur était plus aride que le désert 》(ジイド『田園交響楽』)


2019年12月27日金曜日

腰抜け左翼とラディカル左翼

われわれの敵「左翼」」に引き続くが、そこでの引用群からまず一文のみを再掲して序奏としよう。

左翼はひどく悲劇的状況にある。…彼らは言う、「資本主義は限界だ。われわれは新しい何かを見出さねばならない」と。だがあれら左翼連中はほんとうにオルタナティヴのヴィジョンをもっているのか? 左翼が主として語っていることは、「人間の顔をした世界資本主義 global capitalism with a human face」に過ぎない。…私は左翼を信用していない Idon't trust leftists (Slavoj Žižek interview: “Trump created a crack in the liberal centrist hegemony” 9 JANUARY 2019)

さてここでの本題である。ジジェク にとって以下のことを考えている者のみが真の左翼である。そうでなければ腰抜け左翼である。「ごく常識的な」中井久夫と柄谷行人の引用を混ぜよう。


人間の顔をした社会主義/人間の顔をした世界資本主義
フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』をバカにするのが流行だが、現実には左翼でさえフクヤマ主義者ではないだろうか。資本主義の継続、国家機構の継続を疑う者はいない。かつては「人間の顔をした社会主義」を求めたのに、今の左翼は「人間の顔をしたグローバル資本主義」で妥協する。それでいいのか?(ジジェク インタビュー、by AMY GOODMAN, 2008)
私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)
ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(中井久夫「私の「今」」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「眼差し」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「眼差し」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「眼差し」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「眼差し」それ自体ということです。

そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly、2004年)
マルクスの死と福祉国家の死?
二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。

これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」初出1997、『アリアドネからの糸』所収)
一つのことが明らかになっている。それは、福祉国家を数十年にわたって享受した後の現在、…我々はある種の経済的非常事態が半永久的なものとなり、我々の生活様式にとって常態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の脅威とともに、到来している。

… 現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。いまだ現在のシステムが維持可能だと考えている者たちはユートピアン(夢見る人)にすぎない。(ジジェク、A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY、2010年)
人々が気づかないままに、階級格差を生み出す自動的フェティッシュ  
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。…ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)



上の引用群の最初の「人間の顔をした社会主義/人間の顔をした世界資本主義」の項の内容を図示してみよう。



冷戦終了により世界はむき出しの市場原理の時代になった。それへの対抗策して現在のリベラル左翼は、彌縫策のみを打ち出すヒューマニスト的モラリストばかりが目立つ。これを「人間の顔をしたグローバル資本主義者」と呼ぶ。人はこの事実に目をふさぐべきではない。

たとえば最近の様子をみれば、結局「腰抜け左翼のひとり」にすぎないといわれても致し方ない浅田彰は20年前にこう言っている。

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)

さていまはどうなのだろう? 少なくとも、次の状況はますますひどくなっていはしないか。中流階級は消滅しつつあるとはしばしば語られている。

(現在の資本主義システムにおける)金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)


こういった背景のもとジジェクは次のように言う。

資本主義社会では、主観的暴力(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。…

われわれに求められるのは、前のめりにならないこと、つまり、このじかに目に飛び込んでくる「主観的」暴力、誰によってなされたかが明確にわかる暴力に目を奪われないことである。われわれに必要なのは、そうした暴力の噴出の背景、その概略をとらえることなのだ。(ジジェク『暴力』2008年)

もちろんジジェクはレトリックだけで事実上、なにもできていないという批判があるのを知らないわけではない。

だがすくなくとも資本主義の「システム的暴力」に常に目を向けているのが「われわれの敵「左翼」」にて引用したバディウジジェク柄谷である。そしてもしラディカルさがあるなら始まりはそこにしかない。

他方、「主観的暴力」、つまり「新しい右翼やレイシズムの輩出」、あるいは「より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々」にばかりにその言動の焦点を絞っているのが、ジジェク観点からは、「腰抜け左翼」である。

結局、彼らはのほとんどは左翼ポピュリストなのである。

ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)

ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)


ジジェクのこの態度は(わたくしの知るかぎりでも)すくなくとも20年前から変わっていない。現在はむしろ過去よりいくらか穏健になったとさえ言える。

『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党 knave」と「道化 fool」という二つの知的姿勢を対比させている。

右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。

いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく「宮廷道化師court jester」である。

社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。

だが現在、悪党/道化のカップルの間の関係、そして政治的右翼/左翼の対立は、右翼の悪党と左翼の道化の標準的形象の転倒がますます見られる。

「第三の道」の理論家は究極的には現在の悪党ではないか? 連中はシニカルな諦めの説教を垂れる輩たちだ。つまり世界資本主義の基本的機能における何ものかを実際に変革するあらゆる試みの必然的失敗を説く連中だ。

そして保守派は道化師ではないか。あれらの保守主義者の連中は…あたかも支配的イデオロギーの隠されたカードを示すかのようにして、底に横たわるメカニズムに光を照射する。抑圧されたそのメカニズム、はるかに魅惑させるメカニズムを機能したままにさせるために。

現在、左翼の悪党に直面して、かつてにもましてよりいっそう重要な事は、世界のオルタナティブの可能性の場を開いたままにしておくことだ。…

左翼には現在も選択肢がある。支配的な自由民主主義の地平(民主主義、人権、自由……)を受け入れて、そのなかでヘゲモニー闘争に加わるか、それとも、そこで使われることば自体を拒否し、あらゆるラディカルな変化のもくろみは全体主義への道につながっていると判決を下す現在のリベラルな脅迫をたんに退けるという、対抗的な姿勢に立つというリスクを冒すか、である。六八年のモットー、「現実的であれ、不可能を要求せよ![Soyons réalistes, demandons l'impossible!]」こそわたしの固い信念であり、政治的-存在論的前提である。リベラル民主主義の地平にとどまって、変化と再意味づけを唱える者こそ、その努力が、結局人類の顔に資本主義を貼り付ける美容手術以上の何かになると信じている以上、真のユートピア論者(ナイーブに夢見る人)なのである。 ……(ラクラウとムフの「ラディカルデモクラシー」は、…この地平に留まったままだ。Laclau's and Mouffe's 'radical democracy' […]remaining within its horizon. )……

そしてわたしが言いたいのはもちろん、現代の「狂気のダンス」、多様で移動するアイデンティティの爆発的氾濫もまた、新たなテロルによる解決を待っていると言うことだ。唯一「現実的」な見通しは、不可能を選ぶことで新たな政治的普遍性を基礎づけること、まったき例外の場を引き受け、タブーもアプリオリな規範(「人権」、「民主主義」)もなく、テロルを、権 力の容赦ない行使を、犠牲の精神を「意味づけなおす」のを妨害するものを尊重すること……もしこのラディカルな選択を、涙もろいリベラルが「ファシズムへの道Linksfaschismus」だと非難するなら、言わせておけ!(ジジェク「場を保つ HOLDING THE PLACE 」『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』所収、2000年)

以上が基本的なジジェクの態度である。わたくし自身、事実上「腰抜け左翼」にすぎないが、やはりときにはそれにひどく恥じ入る。その恥じ入る契機の多くは、ジジェクの言葉に触れるときである。

そして最低限、反「日本共産党」でなければならないと考える。わたくしは日本から離れているのであまり断言はしたくないが、今までの経緯から、これはとるべき最低限の態度だとわたくしは思う。

たとえば、僕はこの間まで大阪のほうにいたので、共産党が宣伝カーでいろいろしゃべっているのを見かけましたが、そのとき、驚いたことがある。「共産党とは共に産み出す党なのであります」と話しているのです。 それは、漢字の訳語から勝手に考えた、インチキな考えです。 (笑) 。また、「共産主義というのはイタリア語でコムーネ、つまり共同体なのであります」と言っていた。こんなことを街頭でしゃべってどうするんだ、と思いましたが(笑)、考えてみると、彼らは共産党という名前が嫌なのだと思います。共産党という名前が付いているけれども、どうもそれを隠したい。それなら、イタリア共産党のように名前を変えればいいのに、宮本賢治がいるからそうできない。だから、共産党の意味は、本当はこうこう、こうですよ、というわけです。

共産党はずっと、「平和とよりよき生活」という最小限綱領でやってきました。選挙で一般大衆の票が欲しいからです。しかし、それは「共産主義」という最大限綱領を隠すことです。 もちろん隠してもいいが、それがどういうものかをはっきりさせておかねばならない。共産主義になると、失業が無くなります、というようなことではだめです。一般に、新左翼でも、 最大限綱領を言わなくなりましたね。たとえば、某党派では、ダンスパーティーだといって人を勧誘する、という(笑)。ついていくと、二三度目には正体が分かってくるけれども、その時はもう抜けられなくなっているという、蟻地獄のような組織ですね。

とにかく、最小限綱領とは、誰もが賛成できるようなことから出発するということですね。しかし、それだけでやっていると、だめになります。活動家も非活性化する。最大限綱領とは 「理念」だ、といってもいいでしょう。この理念がないと、運動は続かないし、堕落してしまいます。たとえば、協同組合をやっていると、最小限綱領でやることができます。しかし、それでいいか、というと違います。協同組合運動は、その起源からいって、オーウェンのような社会主義運動の理念に根ざしています。また、マルクスもそれに注目していた。こうした起源あるいは理念を忘れてしまうと、協同組合運動はどんなに繁栄しても、活力がなくなってしまう。 (世界危機の中のアソシエーション・協同組合 柄谷行人と生活クラブとの対話、2009年)


実際、現在の共産党は選挙のたびに、なんと経済成長を主張する資本主義党に過ぎない。

日本の名目成長率がマイナスだった97年以降、欧米先進国の名目成長率の平均は、アメリカ4.5%、イギリス4.3%、フランス3.1%、ドイツ2.3%となっています。日本でも、国民の所得を増やし、経済の好循環を実現できれば、平均2%台の成長は可能です。そうすれば、税収も増え、10年後には、国税・地方税あわせて20兆円を超える自然増収を実現できます。(「消費税にたよらない別の道」――日本共産党の財源提案、2014年11月26日)
経済改革で、国民の所得を増やせば、それが消費につながり、経済を安定的な成長の軌道に乗せることができます。そうすれば、10年程度先には、国・地方あわせて20兆円前後の税収増が見込めます。(「社会保障・教育の財源は、消費税にたよらずに確保できる」2019年6月

生産人口が毎年1パーセントづつ減少する国で、平均2%台の経済成長を唱えるのたんなる「夢見る」政党にすぎない。「選挙で一般大衆の票が欲しいために」消費税反対施策を選挙道具とする所為の「苦肉案」だと同情相憐れむとする立場もあろうが、やはりどうあっても許しがたいのである。

もちろん「信者」のかたがたにはこういったことが目に入らないのはよく知っている。いわゆる「選択的非注意」である。それはカトリック信者が次のようなことに選択的非注意をしているのと同様である。


ローマ教皇庁、信者献金で赤字穴埋め 慈善活動分は10% By Francis X. Rocca、2019 年 12 月 12 日

【バチカン市】カトリック教徒は毎年、ローマ教皇に対して巨額の献金を行う。司教たちは「ペテロのペンス」という献金制度を通して弱者や苦しんでいる人を助けるよう、信者に強く勧めている。 だが、事情に詳しい複数の関係者によると、毎年5000万ユーロ(約60億円)以上が集まる献金のほとんどがローマ教皇庁(バチカン)の予算の穴を埋めるのに使われており、慈善活動に直接使用されるのは献金総額の10%にすぎない。 バチカン高官しか知らないこうした献金の用途を巡り、カトリック教会の指導者の間で懸念が高まっている。信者が献金の使い道について欺かれており、フランシスコ教皇の下でバチカンが行う財政管理の信頼性を一段と傷つけることになりかねないためだ。...

これが事実だとすれば、バチカン市国とは、あの左翼連中が消費税使途にかんして批判する安倍政権と同じ穴の狢である。真のカトリック教徒であれば、上の記事の信憑性と戦い、そしてもし事実だと知ったならば、ラディカルな変革を希求すべきであると思うし、わたくしが彼らの立場であれば必ずそうする。

法王来日で気づいたが、たぶん大半の日本カトリック教徒にとっては、「祈り」とは自らの制度の悪をみないようにするための至高の方策なのであろう。

--いやあ実に彼らは美しい魂をもっておられる、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ『この人を見よ』)