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2019年1月31日木曜日

渇いた心

いちばんよいことは、その日その日の出来事を書き止めておくことだろう。……取るに足りぬことのようでも、微妙な違いを、小さな事実を、見逃さないこと。そして特に分類してみること。どういう風に私が、この机を、通りを、人びとを、刻み煙草入れを見ているかを言うべきだ。(サルトル『嘔吐』)


もうすぐテト祝いで、数日前から、妻の従姉にあたる米国すまいの越僑女性が娘とともに我が家に泊まっているのだけれど、じつに色っぽいね、二人とも。気が散ってしようがないよ。

後ろ姿がいいんだな、とっても。

こんな感じの美形なんだ、母親のほうは。




顔はたいしたことないんだけど、それはこの際どうだっていいさ。

二人とも三年前だったかに一度きているのだけれど、娘のほうはまえよりさらに色っぽくなったな、--口にしがたいよ。昨日、いっしょにテニスしたんだけど。





ーーいやあ、こんなのぜんぜんかなわない、ムスコとあやしい関係にならないか、そればっかり心配してんだけど。

家じゅう、女臭いんだな、ビョウキになりそうだよ、

こういったときには詩でも読むぐらいしかできないな


それは滴り落ちる
こわれた水道の水のように
せきとめてもせきとめても滴り落ちる
すべてが徒労に帰したあとで
僕はつぶやいてみる
別に何事もないのだ
僕はつぶやいてみる
別に何事もないのだ
僕はつぶやいてみる

ーー黒田三郎「微風のなかで」『渇いた心』

日記をつけるときには、つぎのことが危険だと思う。すなわち万事誇張して考えること、見張っていること、たえず真実を歪めることである。(サルトル『嘔吐』)






ひとを愛して/愛したことは忘れてしまった

このところ、戦前の文学者(小説家、詩人)の作品を少しずつ読んでいるのだが、三好達治略歴を少し調べているなか、次の文に出会った。

私が初めて三好さんにお会いしたのは、昭和三十七年の初めころであった。石原八束さんのお宅であった。詩の上から云うと、おじいさんの前に出た孫のような世代のへだたりを遠く私は感じていた。

三好さんは私の気持を見ぬいたように、すらりと云われた。

「現代はいい詩人がいないな」
そして「どうですか」と云われた。
初対面の女にずばりものを言うまっすぐさの裏には、三好さんが日ごろ現代詩をみて感じている激しい何かがあるのが、私にわかった。(滝口雅子「三好さんの思い出」)


滝口雅子さんは、現在ではほとんど知られていない名だろうが、わたくしには、茨木のり子、石垣りんとともにこの三人はセットになっている。

詩をそれほど読むほうではないが、手元に1976年に手に入れたーー、大学一年のときであるーー『日本の詩歌』27「現代詩集」があって、今でもときたま読み返す。四百頁ほどの文庫本である。

このアンソロジーには六十人前後の詩人たちの作品の代表作が掲載されている。一人当り、六、七ページであり、各々の詩人の作品は実にわずかなしか掲載されていないが、このアンソロジーの末尾には、女流詩人が十一人掲げてあり、そのなかでは、「白石かずこ、富岡多惠子」の異質のセットの二人とは別に、「茨木のり子、石垣りん、滝口雅子」が、長いあいだわたくしのお気に入りの三人である。


男について  

男は知つている 
しやつきりのびた女の 
二本の脚の間で 
一つの花が 
はる 
なつ 
あき 
ふゆ 
それぞれの咲きようをするのを 
男は透視者のように 
それをズバリと云う 
女の脳天まで赤らむような 
つよい声で  

男はねがつている 
好きな女が早く死んでくれろ と 
女が自分のものだと 
なつとくしたいために 
空の美しい冬の日に 
うしろからやってきて 
こう云う 
早く死ねよ 
棺をかついでやるからな  

男は急いでいる 
青いあんずはあかくしよう 
バラの蕾はおしひらこう 
自分の掌がふれると 
女が熟しておちてくる と 
神エホバのように信じて 
男の掌は 
いつも脂でしめっている

ーーー滝口雅子『鋼鉄の足』所収、1960年


(滝口雅子さんの「男について」)男性への憎悪をテーマにした詩ととらえる人も多いのですが、私は愛憎こもごもの男性への恋唄と、とっています。こうでなければ男といえない面もあるからで、かなり年上の女が、かなりのゆとりをもって、男のうとましさ、いとおしさを、突きはなして思いやっているような、複雑な味わいをもち、まごうかたなき詩であって、上等のワインのようなコクがあります。(茨木のり子『詩のこころを読む』)




滝口雅子(1918~2002)は、日本の植民地時代の朝鮮生まれである。以下の事実は、数日前知った。


1918年(大正7年)、9月20日、朝鮮咸鏡北道に生れる。父・山本勝三郎は京城府庁の土木技師であった。病身の母の傍を離れて親戚の家を転々としたが、4歳の時母逝く。

1925年(大正14年)、牧場主、滝口家の養女になり、滝口姓になる。京城西大門公立尋常小学校に入学。4年生の時、実父・勝三郎は、郷里福岡の病院で亡くなる。

1938年(昭和13年)、養父母のもとめる結婚に反対して19歳のとき東京にでて、速記者などで生活。戦後、国会図書館に定年まで勤めながら作品を書く。






以下の作品、あるいは作品の断片は、手元のアンソロジーには掲載されておらず、ネット上から拾ったものである。


秋の接吻

ひとを愛して
愛したことは忘れてしまった
そんな瞳(め)が咲いていた
萩の花の白くこぼれる道
火山灰の白く降る山の道
すすきを分けてきた風が
頬をさし出して
接吻した
ひとを愛して
愛したことは忘れてしまった

ーー滝口雅子『窓ひらく』所収、1963年


死と愛

娘の腕はしびれた
ひとつのものをみつめて目が痛んだ
傷ぐちから光ったものは
憎しみを持った夜
上ってくる
足音が階段を上ってくる

葡萄酒の体臭
激しくまじり合うもののかなしい音
ゆれはじめる娘の部屋

あれは 誰だったか
絶望の手で抱きあげてくれたのは
重たい血の壺をゆすってみせたのは――
娘は
青くやせて
すこやかに<死>をみごもった

ーー滝口雅子『蒼い馬』所収、1955年


蒼い馬

沈んだつぶやきは 海の底からくる
水のしわをすかして見える一匹の馬の
盲いたそのふたつの目
かってその背中に
人をのせた記憶さえうすれて
海底を行く一匹の蒼い馬
馬はいつから 海に住むか
背なかに浴びた血しぶきは
自分のものだったか
誰のだったか
何の気取りもなく 片脚で
からみつく海藻を払いながら行く
………


水炎

目をひらくと 海の底にいた
いつ 地上の歩みをふみはずしたのか
いつか地上が終りになるな と思ったことが
いま本当のことになったな
……

ーー滝口雅子『蒼い馬』所収、1955年


女の半身像

白いからだ 白い胸
白い足のうら
折りまげた膝のうらにひそむ影
耳につるばらの花がかかり
口の切りこみにゆれる緑の葉
黒ずむ乳房
しなう腕はやがて折れおちて
とじられた目のうらに一つの窓がひらく
窓の下におちていく大理石の
女の半身像

幾世紀のむかし
ばらは さざ波をくぐって
窓の果てまで匂いを放ったが
闇に唇をひらいて燃えているのは
あれは 忘れられてしまった愛
今は 死んでしまった愛

ーー滝口雅子『蒼い馬』所収、1955年


ーー

ちなみに石垣りん1920年(大正9年)ー 2004年(平成16年)の幼児期の経歴はこうである。

東京都生まれ。4歳の時に生母と死別、以後18歳までに3人の義母を持つ。また3人の妹、2人の弟を持つが、死別や離別を経験する。小学校を卒業した14歳の時に日本興業銀行に事務員として就職。以来定年まで勤務し、戦前、戦中、戦後と家族の生活を支えた。(wiki)



石垣りんの作品のいくつかは「幻の花」に掲げた。



2019年1月30日水曜日

受動性と能動性(女性性と男性性)

以下、主に「受動性と能動性(女性性と男性性)」をめぐる文献集。

「エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性」と「タナトス・分離・孤立化(独立化)・強迫神経症・男性性」には、明白なつながりがある。…だが事態はいっそう複雑である。ジェンダー差異は二次的な要素であり、二項形式では解釈されるべきではないのだ。エロスとタナトスが混淆しているように(フロイトの「欲動混淆 Triebmischung」)、男と女は常に混淆している。両性の研究において無視されているのは、この混淆の特異性である。…

これらは、男性と女性の対立ではなく、能動性と受動性の対立として解釈するほうがはるかに重要である。しかしながらこれは、受動性が女性性、能動性が男性性を表すことを意味しない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 「二項議論の誤謬 Phallacies of binary reasoning」、2004年)

図示すればこうなる。



これはほぼフロイトの記述に則っている。フロイトから列挙しよう。


【欲動混淆】

まず先に欲動混淆の記述を掲げておく。

純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

欲動混淆とは、エロスとタナトス混淆であるが、男性性女性性混淆、能動性受動性混淆の相を代表しつつ、以下にあらわれる二項対立語彙すべての混淆もある。



【融合と分離(攻撃)】
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
攻撃欲動 Aggressionstrieb は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


【愛と闘争(破壊)】
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


【引力と斥力】
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


【受動性と能動性】
母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。幼児は母によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固執し、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。母の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。

その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛 』1931年)
(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)



【女性性と男性性】
「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。

男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。

…だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

ーーここに男性性と女性性の混淆、能動性と受動性の混淆の記述があることに注意しよう。



【取入と排出】
おそらく判断ということを研究してみて始めて、原欲動興奮 primären Triebregungen から知的機能が生まれてくる過程を洞察する目が開かれる。

判断は、もともと快原理にしたがって生じた自我への「取り入れ Einbeziehung」、ないしは自我からの「吐き出し Ausstoßung 」の合目的的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。
肯定Bejahung は、融合の代理 Ersatz der Vereinigungとしてエロスに属し、否定は Verneinung は排出(吐き出し)の後裔 Nachfolge der Ausstossung として破壊欲動に属する。(フロイト『否定』1925年)

※参照
ヒステリー的子供は、大他者から十分に受け取っていない。そして大他者によって取り入れられようと欲する、絶えまない要求主体となる。

強迫神経症的子供は、あまりにも多く受け取り過ぎている。そして大他者から可能な限り逃れようと欲する、拒否・拒絶主体となる。(ポール・バーハウ、OBSESSIONAL NEUROSIS、2001)


【マゾヒズムとサディズム】
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとってなんと悲しい暴露だろうか![traurige Eröffnung für den Ethiker! ](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

ーーフロイトにおけるマゾヒズムの捉え方は錯綜しており、より詳しくは「エロス欲動という死の欲動」をを参照。

以上により、次のように図示できる。





さてここでもうひとつ、二項対立語彙を掲げる。


【分離不安と融合不安】

◆分離不安
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)

 ーーこの相におけるフロイト・ラカンの発言の詳細は、「子宮回帰運動」を参照のこと。


◆融合不安

以下に現れる「貪り喰われる不安」は「融合不安」とすることができる。

母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまうaufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト『女性の性愛』1931年)

ラカンにおいては、この融合不安をめぐって、繰り返されるヴァリエーションがある(参照:貪り喰われる不安)。

この融合不安とは、母なる原支配者に対して受動的立場におかれる不安(受動不安)だとすることができる。原初の二者関係的母子関係においては、母は能動者(男性性)、幼児は男女両性とも受動者(女性性)に置かれるのである。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

ここまでの記述にしたがって、次のようにまとめて図示できる。




【エロス人格とタナトス人格】

人間には、常に左項と右項の混淆があることを忘れてはならないが、わたくしの考えでは、幼少時に分離不安を強く抱いた者は、エロス人格となり、反対に溺愛等による融合不安を強く抱いた者は、タナトス人格になる傾向をもつ。

分離不安と融合不安は、二つの「原不安」であり、母という語を使っていえば、「母なる大他者」が必要とされるとき居ないこと(不在)による不安が「分離不安」であり、「母なる大他者」が過剰に現前することによる不安が「融合不安」である。

次のラカンの発言は主に幼児の分離不安にかかわるだろう。

母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、S5、15 Janvier 1958)
母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、S4、12 Décembre 1956)


二つの原不安としたが、分離不安が融合不安に先立っているのは間違いない。

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

したがって明らかにタナトス人格ーーつまりエロス(融合)不安人格ーーとみえる人物にも、その底にはエロスへの希求ーー分離ではなく融合を求める性向ーーがあるはずである。

ここでもうひとつ発達段階的に図示しておこう。



※原トラウマ等についてのフロイト・ラカンの考え方は、「子宮から子宮へ」を参照。


話を戻せば、たとえば、天災時には、ほとんどすべての人間に一時的にせよエロス感情が生まれるだろう。天災とは、人間が自然に対して受動的立場に立たされる出来事であると同時に、かつて馴れ親しんでいた環境から分離させられる経験でもある。

天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。(……)

このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)

⋯⋯⋯⋯

以上、ここで示した図は、ひとつのモデルにすぎないが、女性性と男性性の真の意味合いを問うときにある程度は役に立つだろうと思う。大切なのは、左項、右項の混淆がどの人間にもあることである。そしてその混淆比率の具合である。時代によっても変わる。

たとえば女性解放運動とは女性の自立運動(独立)の相が大きいだろうから、現在の女性たちは、かつての女性に比べて、大きく受動性から能動性への移行しているだろう。図式にしたがえば、その現象はエロス(愛)からの離反であるとすることができる(参照:「愛のビジネス」の時代)。




ジャック=アラン・ミレールは、フロイト・ラカンに従いながら、《人は、女性的ポジション position féminin からのみ真に愛する》としている。

私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢 castration」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジション position féminin からのみ真に愛する。愛することは女性化することである Aimer féminise。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽 un peu comiqueである。(On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller 、 2010)

⋯⋯⋯⋯

なお、ここでの記述は、死の欲動(タナトス)は、実際は文字通りの「死」の欲動ではなく、むしろ究極のエロスが死である、という前提に立って書かれている(参照)。




2019年1月29日火曜日

幻の花

自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか?(大江健三郎『燃え上がる緑の木』) 

⋯⋯⋯⋯

幻の花  石垣りん


庭に
今年の菊が咲いた。

子どものとき、
季節は目の前に
一つしか展開しなかった。

今は見える
去年の菊。
おととしの菊。
十年前の菊。

遠くからまぼろしの花たちがあらわれ
今年の花を
連れ去ろうとしているのが見える。
ああこの菊も!

そうして別れる
私もまた何かの手にひかれて。

⋯⋯⋯⋯

初めて知ったのだが、ひどく魅される詩だ。石垣りんの詩はアンソロジーのなかでわずかに読んだだけだが、出会った詩はだいたい好きになる。これは、ある時期以降の心境においては、と但し書きをすべきかもしれないけど。





茨木のり子は、『詩のこころを読む』で、先に掲げた「幻の花」についてこう書いているそうだ。

菊ばかりではなく、人もまた幻の花かもしれません。個性などといい、なにか一人だけ特別なことをしているようなつもりでも、ほんのひとときを咲いて、たちまちに祖霊たちに連れ去られていく存在かもしれないのです。

そうか、こういう読み方もあるのだな。最後の二行を中心に読むなら、こっちが正当的なんだろう。

でもボクは冒頭の大江とともに、次のプルーストの「石鹸の広告」と「シャンゼリゼの雪」をまず想い起した。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」)
きょうの私自身は、見すてられた石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、――われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。

たとえば本は、その点に関しては、事物としてこんなはたらきをする、すなわち、その背の綴目のひらきかたとか、その紙質のきめとかは、それぞれそのなかに、りっぱに一つの回想を保存していたのであって、当時の私がヴェネチアをどんなふうに想像していたか、そこに行きたいという欲望がどんなだったか、といったことのその回想は、本の文章そのものとおなじほど生き生きしている。いや、それ以上に生き生きしているとさえいおう、なぜなら、文章のほうは、ときどき障害を来たすからで、たとえばある人の写真をまえにしてその人を思いだそうとするのは、その人のことを思うだけでがまんしているときよりも、かえってうまく行かないのである。

むろん、私の少年時代の多くの本、そして、ああ、ベルゴット自身のある種の本については、疲れた晩に、それらを手にとることがある、しかしそれは、私が汽車にでも乗って、旅先の異なる風物をながめ、昔の空気を吸って、気を休めたいと思ったのと変わりはなかった。しかも、求めてえられるその種の喚起は、本を長くよみつづけることで、かえってさまたげられることがあるものだ。ベルゴットの一冊にそんなのがある(大公の図書室にあるそれには、極端にへつらった俗悪な献辞がついていた)、それを私は、ジルベルトに合えなかった冬の一日に読んだ、そしていまは、あのように私が愛していた文章を、そこからうまく見つけだすことができない。いくつかの語が、その文章の個所を私に確信させそうだが、だめだ。私がそこに見出した美は一体どこへ行ったのか? しかしその書物自身からは、私がそれを読んだ日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える。(プルースト「見出されたとき」)




「それがねえ」--この唐突さの一行がとってもいい。西脇順三郎の「ああかけすが鳴いてやかましい」と同じくらい。


旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃

ーー西脇順三郎「旅人かへらず」




2019年1月28日月曜日

フェミニズムは死んだ

いやきみ、セクハラとはセクシャリティの本質だよ。「セクハラの起源」はその底意のもとに記している(たとえば→参照)。

追っかけと誘惑 Pursuit and seduction はセクシャリティの本質である。(Camille Paglia、Sex, Art, and American Culture、2011)

男たちは性的流刑の身であることを知っている。彼らは満足を求めて彷徨っている、あこがれつつ軽蔑しつつ決して満たされてない。そこには女たちが羨望するようなものは何もない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)
どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)
大いなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。(Camille Paglia "No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality", 1994)


ようするに上のパーリアの言っていることは次の文に収斂する。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970ーー「セクハラの起源」)

パーリアは次のように言っている愛すべきフェミニストだけれど。

ラカンなんか読んだら、あんたたちを脳軟化症にするわ! (カミール・パーリア、Crisis In The American Universitiesby Camille Paglia、1992)
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)


⋯⋯⋯⋯

以下、いままで断片的に引用してきている文を列挙しておくよ。

ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012


【フェミニズムは死んだ】
私は全きフェミニストだ。
他のフェミニストたちが私を嫌う理由は、私が、フェミニスト運動を修正が必要だと批判しているからだ。
フェミニズムは女たちを裏切った。男と女を疎外し、ポリティカルコレクトネス討論にて代替したのである。(カミール・パーリア 、プレイボーイインタヴュー、1995年)
男を敵として定義するとき、フェミニズムは女たちを自分自身の身体から疎外している。(Camille Paglia、Vamps & Tramps、2011)




フェミニズムは死んだ。運動は完全に死んでいる。女性解放運動は反対者の声を制圧しようとする道をあまりにも遠くまで進んだ。異をとなえる者を受け入れる余地はまったくない。まさに意地悪女 Mean Girls のようだ。彼女たちが私のいうことを聞いていたなら、船は正しい方向に舵をとったのだが。…(連中は)私のことをフェミニストではないとまだ言っている⋯⋯フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ。(Camille Paglia on Rob Ford, Rihanna and rape culture、2013


 【エロティシズム】
エロティシズムは神秘だ。すなわち、性をめぐる情動と想像力のアウラである。エロティシズムは、ポリティカルレフトであれポリティカルライトであれ、社会あるいは道徳のコードによっては「固定」されえない。というのは、自然のファシズムはどんな社会のファシズムよりも偉大だから。性関係には悪魔的な不安定性があり、われわれはそれを受け入れなければならない。(Camille Paglia “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”、2018)
女の身体は冥界機械 chthonian machine である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
フェミニズムは、宿命の女を神話的誹謗、陳腐なクリシェとして片づけようとしてきた。だが宿命の女は、太古からの永遠なる(女による)性的領野のコントロールを表現している。宿命の女の亡霊は、男たちの女とのすべての関係に忍びよっている。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture: New Essays", 1992)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)


女性性賛歌

男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアCamille Paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

ーー上の文にもある時期以降のラカンがいるな、冒頭に引用したパーリアが批判しているのは古典的ラカンだ。

享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられる embarrassé のは男である。男は選別されて去勢に遭遇する rencontre électivement – φ。勃起萎縮 détumescenceである。…われわれが性行為のレベルで物事を考えるなら、道具器官の消滅 disparition de l'organe instrument を扱うなら、ラカンが証明していることは、以前の教えとはまったく逆に、欲望と享楽に関して、当惑・困窮するのは男性主体 sujet mâleである。

そしてここに始まる、ラカンによる女性性賛歌 éloge de la féminité が。女性の劣等性 infériorité ではなく優越性 supériorité である。…享楽に関して、性交の快楽に関して、女性主体は何も喪わない le sujet féminin ne perd rien。…

不安セミネール10にて、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。欠如するのは男 homme qui manqueなのである。というのは、性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出す il apporte l'organe et se retrouve avec – φ から。男は賭けをする。そして負けるのは男である Il apporte la mise, et c'est lui qui la perd。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のまま restant intacte, intouchéeであることを示している。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)



【家父長制】
文明が女の手に残されたままだったなら、われわれはまだ掘っ立て小屋に住んでいただろう。(カーミル・パーリア camille paglia『性のペルソナ Sexual Persona』1990年)
・判で押したようにことごとく非難される家父長制は、避妊ピルを生み出した。このピルは、現代の女たちにフェミニズム自体よりももっと自由を与えた。

・フェミニズムが家父長制と呼ぶものは、たんに文明化である。家父長制とは、男たちによってデザインされた抽象的システムのひとつだ。だがそのシステムは女たちに分け与えられ共有されている。(Camille Paglia、Vamps & Tramps、2011年)


【男という犠牲者】
男たちは身体的かつ感情的に自らを犠牲にして、女と子供を養い住居を当てがい守ってきた。男たちの痛みあるいは成果は、フェミニストのレトリックには全く登録されていない。連中のレトリックは、男を圧制的で無慈悲な搾取者として描くだけだ。(Camille Paglia, Vamps and Tramps, 1994年)

かつてのフェミニストたちのアイコン、ノーベル文学賞作家のドリス・レッシング Doris Lessingと『母性という神話(L'Amour en Plus)』で名高いエリザベート・バダンテール Elisabeth Badinter の言葉も付け加えておこう。

男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちに貶められ、侮辱されている。(Doris Lessing 、Lay off men, Lessing tells feminists、Guardian, 2001
現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。( Élisabeth Badinter ーーージジェク、LESS THAN NOTHING, 2012より孫引き)


セクハラの起源

女は原支配者であり、原誘惑者である。

原支配者、すなわち、

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)

原誘惑者、すなわち、

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


まず人はこれを認めなくてはならない。そして、誰もが知っているように支配者は嫌われる。ミソジニーの原起源はここにある。

誘惑者はどうか? 誘惑者とは侵入者である。侵入されたら侵入し返すのが人間の特性である。フロイトは、人が受動的立場に立たされる経験をしたら、人は同じ経験を能動的にやりかえす、とくりかえし強調しているが、これは乳幼児のときからそうである。母の乳房をサディスティックに噛むのはこの機制である。被侵入ー侵入の機制もこれと同様である。

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.106)
過去の性的虐待の犠牲者は、現在の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil、Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe 、2010、PDF)

したがって、仏典にある「すべての女、これ母なり」、あるいは「すべての女には母の影が落ちている」(ポール・バーハウ、1998)を人が認めるなら、後の生で、女が性的侵入の対象、つまりセクハラ対象になるのは必然である。

母による身体への侵入は、幼児にとってトラウマ的である。ここでのトラウマの意味は、《人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶》(中井久夫「記憶について」)である。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

そして、このトラウマ的記憶あるいはその侵入刻印は、《語りとしての自己史に統合されない「異物」》(中井久夫「発達的記憶論」)として、エス、あるいは原無意識のなかに居残る。

トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この原初の出来事に起因するセクハラ指向を避けるためにはどうすべきか。人は幼児期のエロス的固着から逃れるべくあるゆる手段を講じなければならない。

幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


すなわち人は「成熟」しなければならない。あるいはファルス人格にならなければならない。ここでのファルス人格とは、父の法としての言語によって統制された人格という意味である。

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971 )

だが無意識の原欲望に対して、ファルスの意味作用は十全には機能しない。すなわち成熟はない。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父の隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式のもと、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父の隠喩」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残余 restes」があるのである。その残余が分析を終結させることを妨害する。残余に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)

人は、このフロイト・ラカンに準拠したミレールの見解を受け入れがたいというかもしれない。だが、原誘惑者のセクハラ行為は、「幼少の砌の傷への固着」(参照)として機能するトラウマ的出来事である。

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。

小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)


なにはともあれ、トラウマ的出来事に起因する反復強迫的症状の治療がとても困難なのは、誰もが知らねばならぬ事実である。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)


ここで確認のため念押ししておくが、事故的トラウマと構造的トラウマによる反復強迫は、メカニズムとしては相同的である(参照)。

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なもの(=異物)として、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)


以上、セクハラがお嫌いな女性のみなさん、創造的な人物にはとくにお気ををつけを! セクハラをさけるためには、それなりの安全パイとして、ガチガチのファルス的鎧を着たーーフロイト用語なら「刺激保護壁 Reizschutzes」で覆われたーー「善人のみ」にお近づきになることをおすすめします。

何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)

「善人」がお嫌いな女性の方への処方箋は、蚊居肢散人には遺憾ならが思いつきません。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』1946年)
私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』1946年)

…………

※付記

以下、ここでの話題をめぐって重要だと思われる(ラカン派による)基礎文献をいくつか掲げておきます。


【身体の出来事】
症状(サントーム・原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽は欲望の法 la loi du désirによって明示化されうるものではない。享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。 du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事としての享楽は欲望の法とは反対である。享楽は欲望の弁証法としては捉えられない。そうではなく、享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


【母による身体の上への刻印】

《大他者は身体である!L'Autre, …c'est le corps ! 》(ラカン、S14、10 Mai 1967)
《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)

享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の大他者、まさに同じ表現(《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係している。

我々の身体は大他者である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、大他者の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての大他者を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての大他者があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一、大他者から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。

この論証の根はフロイトに見出しうる。フロイトは母が幼児を世話するとき、どの母も子供を「誘惑する」と記述している。養育行動は常に身体の境界領域に焦点を当てる。…

ラカンはセミネールXXにて、現実界的身体を「自ら享楽する実体」としている。《身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。》(ラカン、S20、19 Décembre 1972)

享楽の最初期の経験は同時に、享楽侵入の「身体の上への刻印 inscription」を意味する。…

母の介入は欠くことのできない補充である。(乾き飢えなどの不快に起因する過剰な欲動興奮としての)享楽の侵入は、子供との相互作用のなかで母によって徴づけられる。

身体から湧き起こるわれわれ自身の享楽は、楽しみうる enjoyable ものだけではない。それはまた明白に、統御する必要がある脅迫的 threatening なものである。享楽を飼い馴らす最も簡単な方法は、その脅威を他者に割り当てることである。...

フロイトは繰り返し示している。人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。問題は、享楽の事柄において、外部の世界はほとんど母-女と同義であるということである・・・

享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains、2009)



2019年1月27日日曜日

復讐のために

ぼくはずいぶん長い間、あの時期のことを思い返すたびに、まるで石の下の虫のように復讐欲が生きながらえているのに気がついたものである。唯一の変化は、 石の下を見ることがだんだん頻繁でなくなってゆくことであった。ぼくが小説を書きはじめると、過去はその力の一部分を失うようになった。それは書かれることによって、ぼくから離れたのである。(グレアム・グリーン『復讐』)

このグレアム・グリーンの『復讐』は、13、14歳頃、校長の息子だった主人公がいじめられた話、その回想として書かれている、あの記憶は、《まるで爪の下にこじ入れられた細い木片のように作用した》。要するに「幼少の砌の傷への固着」の話である、フロイト・ラカン的な固着期と比べて、時期的にはかなり後年の記憶だが。その点をやりすごせば、ラカンの骨象a(身体に突き刺さった骨)の話としたってよい。そして文学はその治療行為だという話だ。

吉行淳之介は、この短編について次のように言っている。

文学作品をつくる場合、追究するテーマというものがあり、もちろんそれを追究する情熱というものがあるわけだが、これはいわば「近因」である。一方、その作者がむかし文学をつくるという場所に追い込まれたこと、そのときの激しい心持ち、それが「遠因」といえるわけで、その遠因がいつまでもなまなましく、一種の情熱というかたちで残っていないと、作品に血が通ってこない。追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。(吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』)


ところで室生犀星にも「復讐の文学」というエッセイがあるのを昨晩知った。

私は文学といふ武器を何の為に与へられたかといふことを考ヘる。その武器は正義に従ふことは勿論であるが、そのために私は絶えずまはりから復讐せよと命じられるのである。 (中略) 私は多くの過去では骨ぬきの好いお料理のやうな小説を書いてゐたのは、 過ちでなく何であったらう。 (中略) 他の作家は知らず私自身は様々なことをして来た人間であり、 嘗て幼少にして人生に索めるものはただ一つ、 汝また復讐せよといふ信条だけであった。 幼にして父母の情愛を知らざるが故のみならず、既に十三歳にして私は或る時期まで小僧同様に働き、その長たらしい六年くらゐの間に毎日私の考ヘたことは遠大の希望よりもさきに、 先づ何時もいかやうなる意味に於ても復讐せよといふ、執拗な神のごとく厳つい私自身の命令のなかで育つてゐた。(室生犀星「復讐の文学」昭和十年)

前投稿で、「戦前のある時期の作家たちに限るが、オッカサマに突き放された記憶を持っている人が多いんじゃないか」と記したところだが、室生犀星の復讐の起源はとんでもなく根深いらしい。

室生犀星の人生への出発は、暗くいびつであった。父、元加賀藩百五十石扶持、足軽組頭、小畠弥左衛門吉種、六十四歳。母同家女中、通称ハル、実名佐部ステ、三十四歳。明治二十二年八月一日、金沢市裏千日町三十一番地に生まれたが、生後間もなく、近くの真言宗雨宝院住職室生真乗内妻赤井ハツにもらわれ、同人私生子として届出。つまり、女中の子は世間体をおもんばかり、養育費をつけひそかに捨て子同然もらわれていったのである。「馬方ハツ」と異名をとった不生女の養母は、もらい子ばかり四人を育てた。そして、時には朝から酒を飲んで酔いつぶれ、夫を頤で使い、もらい子は煙管で滅多打ちにした。九歳の時実父が死去し、その夜生母は失踪して再び犀星の前に現れることがなかった。(船登芳雄『室生犀星における小説の方法』)

もちろん似たような話は、日本の戦前には、あるいは現在でも世界的には、いくらでもあるだろうが。

⋯⋯⋯⋯

小景異情

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや




むしけらの道でもある
ときにふるさとの愛
あきらかに夏は
その道の上に落ちる
母と父と
愛の湧くところの道だ

⋯⋯⋯⋯

三好達治、ーー晩年には、萩原朔太郎ではなく室生犀星のほうをもっと愛するようになった彼にも、六歳のときの養子事件がある(参照)。

さうして私の眼には、私の身のまはり、私の棲居や家族の者が、私にとつて魅力もなく希望もない、退屈なもの、つまらないもの、変によそよそしいものに思へた。眼の前の父の顔も、何か間遠いものに見えた。今のさきまで一緒に遊んでゐた兄弟達も、たまたま路傍で避ぐり会った半日の遊びの友達、そんな風なものとしか思へなかつた。母もやはり私の心を惹かなかつた。(中略)

もともと私には、家庭を愛するやさしい感情、家庭に親しむ温かい気持、そんなものが欠けてゐたとでもいふのだらうか。(三好達治「暮春記」昭和十一年)

このように歌った三好達治である。

乳母車

母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花(あぢさゐ) いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり

時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ

赤い 総(ふさ) ある 天鵞絨(びろおど) の帽子を
つめたき 額(ひたひ) にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり

淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道



2019年1月26日土曜日

ボクの悪癖

私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』)

⋯⋯⋯⋯

かつて母親の絶対的な寵児であった者は、生涯あの征服者の感情 Eroberergefühl を、あの成功の確信 Zuversicht des Erfolges を抱きつづけるものである。そしてこの確信は、実際に成功を自分の方へ引き寄せてくることがよくある。(フロイト「『詩と真実』中の幼年時代の一記憶」1917年)

テキトウなことを書くが、建築家ってのは、ーー今、日本の名高い建築家の顔を数人思い浮かべているだけだがーーオッカサマに愛された人格の人が多いんじゃないかな。全能感人格ってのかな。

成人の神経症者に見られるいわゆる全能感は、想定されているような幼児期の全能感に戻ることではない。そうではなく、母の全能性への同一化である。⋯⋯

もっとはっきり言うなら、成人の神経症の全能感は、幼児期における《ファリックマザーとの同一化 s'identifie à la mère phallique》(ラカン、S4)に回帰することである。その意味は、欠如なき母ーー最初期、子どもによってそう感受されるーーあの母との同一化である。(ポール・バーハウ、New studies of old villains、2009)

もっともこのバーハウの文は次のように続くことに注意しなくちゃいけないが。

パラノイアが我々に示すのは、この関係性が取る病理的な形式である。より詳しく言えば、母に殺される・貪り食われる・毒される恐怖(Freud, 1931)である。(同バーハウ、2009)

ようするに次の側面があるから。

母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまうaufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト『女性の性愛』1931年)
「母の溺愛 « béguin » de la mère」…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

それは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

ラカンってのはどうみたってパラノイアっぽいからな・・・《女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ。》(ラカン S10, 1963, 摘要訳)

フロイトってのは終生「汽車恐怖症」だしな、家族で汽車旅行中、オッカサマの着替えを見てしまったーーどこまで見たのか、着替えだけだったのかについては種々議論があるがーー「幼少の砌の傷の固着」さ

なにはともあれ、フロイトの『夢解釈』ってのは、実は隠蔽された自叙伝だよ、

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)

《メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.》(ラカン、S4, 27 Février 1957)

ま、ラカンってのはこういうことばかり言っている人物だよ、だからオモシロイんだな、ボクは、だが。

母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢が先立っているのである cette antériorité de la castration maternelle。父なる去勢はその代替に過ぎない la castration paternelle en est un substitut。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

…………

ああ、また話がひどくそれちまった、元に戻さなくっちゃ。

子供の頃に可愛がられていた人間は、後年しぶといものです。孤立無援になった時、過去 に無条件に好かれていたという思いがあれば、辛抱できるんです。

でも、人に好かれないで突き放されて生きていた人は、痛ましい話だけれど、強くてももろいところがあるんです。こういう人は子供の頃に体験できなかった感情を、成人してから調達しようとします。(古井由吉『人生の色気』)


で、作家ってのはーーこれは冒頭の続きだよ、だいぶ前だけどーー、これまた戦前のある時期の作家たちに限るが、オッカサマに突き放された記憶を持っている人が多いんじゃないか。くり返し強調しとくけど、今テキトウなこと書いてるからな。ボクには悪癖があるんだ、こういった思いつき観点で人を見てしまうっていう悪い癖がね(画家や音楽家ってのはバラバラで一般化できないな、今のところ)。

⋯⋯⋯⋯

僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。…僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。…

僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)


幼き春 折口信夫

わが父に われは厭はえ
我が母は 我を愛(メグ)まず
兄 姉と 心を別きて
いとけなき我を 育(オフ)しぬ。

・自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。

・唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。

・芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)

或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。
僕 それは僕の責任ではない。

ーー芥川龍之介「闇中問答」


漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)
六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。……

六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。

十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。

二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。

二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。

四十四が精神病院入院の年。(安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語)
太宰治の自伝に、幼年期及び乳児期といいましょうか、それから、中学時代にかけて、太宰治の自伝的な小説があります。それは初期の作品でいえば、『思ひ出』と か、中期の作品でいえば、『新樹の言葉』という作品がありますけど。そういうのを断片的に拾い集めると、事実らしいものとして残ってくるものがあります。

それを、確からしいとおもわれることを、いくつかあげてみますと、ひとつは乳児の時にじぶんは乳母に育てられたので、 母親に育てられたことはないと言っているわけです。つまり、 母親になんのあれもないと言っています。父親に対してもそうなんですけど、じぶんは乳母におっぱいをもらって育てられた。

……つまり、これを母親に育てられなくて、授乳されたりしなくて、乳母と叔母に育てられたということというのは、太宰治が生と死というのを超えやすい資質をもっていたということに対して、たいへん、ぼくは重要なことだとおもいます。(吉本隆明『シンポジウム・太宰治論』1988年)


そのうち「そこのキミ」も、ボクの悪癖の餌食になるかもな、実名入りで書いちまうかもな。気をつけたほうがいいよ、キミ。

男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。(三島由紀夫「第一の性」)
かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。…おまえは医者に裸を見せるときでも、おまえの病気に化粧をするだろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)



2019年1月25日金曜日

「二つの機械」としての人間

柄谷行人は1989年時点で、デカルトに依拠しながら、「人間は機械だ、言語の機械だ」と言っている。

デカルトは、「人間と動物の間にある差異」を言語に見出している。たとえ動物が言語を話しても、「自分が口にすることは自分が考えていることであるということを明らかに示しながら話すということはできない」。「そして、このことは、動物が人間よりすくない理性をもつ、ということを示すだけではなく、動物が理性を全くもたない、ということを示している」(『方法序説』)。

しかし、言語能力が生得的であることは、人間が動物とはちがった「機械」であることを意味するだけである。それは“精神”の条件であっても、“精神”ではない。そして、“精神”の条件と“精神”は決定的に異なる。したがってまた、言語あるいは言語能力は“精神”があることの「証明」にはなりえないのである。

われわれはある言語体系のなかで語っている。そのような言語体系は機械である。文化は機械である。「無意識は言語のように構造化されている」とラカンがいうのが正しければ、そのような無意識も機械である。機械という言葉を避けて、構造や関係システムといいかえることは、かえって欺瞞的である。そこにはまだ何か「精神的」な色合いが付着しているからだ。

デカルトが“精神”の自律性を主張しているというのに、彼の機械論によって精神がおびやかされていると考えるのは奇怪である。デカルトの“二元論”を攻撃する者こそ、二元論なのである。「精神」は、われわれが属しているシステムの外に立つことを要求する。だが、それは“私”的であって、何一つ根拠をもちえない。「精神」であることは、容易なことでもないし、望ましいことでもない。

ドストエフスキーは、人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、“精神”であることを人は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説く[あの]連中のように、夢をみていることを望むのである。柄谷行人『探求Ⅱ』「第二部超越論的動機をめぐって」第一章「精神の場所」1989年)


これは、少し前示した次の図(参照)の左項のことを示している。




ようするに柄谷=デカルトの「人間は機械だ、言語体系のなかの機械だ」とは、「象徴界の中の自動反復」の意味である。

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants、その近代数学的機械 mathématique moderne, des machines …それが(アリストテレスの)オートマトン αύτόματον [ automaton ]である。(ラカン、S11, 05 Février 1964)

ーーこのオートマトンはフロイトの「自由連想」にもかかわる。

ここで断っておかねばならないのは、上の図ーーミレール2005年セミネールの冒頭図ーーの右項の中段にあるオートマトンとは、今記した象徴界のなかの自動反復のことではなく、後期ラカンにおける現実界の自動反復のことであり、フロイト『制止、症状、不安』に出現する「自動反復 Automatismus」(「反復強迫」)のことである(参照)。

柄谷のいっている「機械」は上の図の左項にのみにかかわり、右項は視野のなかに入っていないのは時期的にやむえない。

あの中井久夫でさえ、柄谷がああ記した7年後でも、こう言っていた時代である。

カンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

現在のラカン派的観点では、上図の左項の機械の底には、右項の機械がどの人間にもある。こちらのほうが原症状(サントーム)である。すなわちフロイト・ラカン派においては、人間は二つの機械なのである。

ここでもうひとつ以前に示した図を掲げよう(参照)。



この図は、現実界①と現実界②の相違を示すために主に示したのだが、ここでの話は「象徴界の中の自動反復」と「トラウマ的現実界の自動反復」である。

その意味は、人間の症状は二重構造になっているということだ。つまり先に示した図の左項が上階の幻想機械に相当し、右項が地階が身体機械である。


幻想機械
ーーーー
身体機械


この身体は通常デカルト文脈で解釈される「身体」の意味とはやや異なるかもしれないが。むしろスピノザがいう身体だ。

自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。

Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,(スピノザ、エチカ第三部、定理9)

ーー現在、スピノザ解釈者においては、appetitus は欲動 Trieb とされることが多い。たとえば「Körper Trieb (appetitus) 」あるいは「Appetitus ist Trieb」と注釈されている。

したがって「衝動とは人間の本質に他ならない」とは「欲動とは人間の本質に他ならない」となる(参照)。


「幻想機械/身体機械」は、「欲望機械/欲動機械」と言い換えてもよい。


欲望機械
ーーーー
欲動機械


ここでまた断っておかねばならないのは、ドゥルーズ&ガタリの欲望機械概念は、ジジェクなどがくりかえし厳しい批判をしているように、もし人がフロイト・ラカン的用語遣いの立場に立つなら、到底受け入れ難い表現である。ジジェクは「欲望機械」は「欲動機械」と言い直すべきだ、としているが、仮にそうであっても欲望の自由な流体的運動はありえないと。

ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態l'état libreで、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。(⋯⋯)この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)

ーーこの相の現代ラカン臨床派的観点は「母の言葉の永遠回帰」の末尾に示唆したが、そこでの文献には示していない観点としては、「子宮回帰運動」にて示したフロイトの次の二文が、一見、自由にようにみえる運動の核心である。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い欲動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

ーー後者の欲動満足としての反復強迫(死の欲動)とは、ラカン派用語では、原抑圧という穴(引力)のまわりの自動享楽(自動反復 Automatismus)と言いうる(参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽)。それは原抑圧の穴によって強制された運動なのである。

従って肝腎なのは『アンチ・オイディプス』に(たしか一度だけ)出現する「欲望機械 machines désirantes」では全くなく、ドゥルーズの1960年代後半の仕事において頻出する《強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)》、これが地階にある欲動機械である(参照)。




上階とは、抑圧の機械、地階とは、原抑圧(リビドー固着)の機械と言い換えてもよい。これは、フロイトが精神神経症/現勢神経症という語彙でいわんとしたことである。

原抑圧(=リビドー固着)は「現勢神経症 Aktualneurose」 の原因として現われ、抑圧は「精神神経症 Psychoneurose」 に特徴的である。

(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。自我は、しばらくのあいだは、宙に浮かせたままの不安を、症状形成によって拘束し binden、閉じ込めるのである。外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)




原抑圧をフロイトは引力と呼び、ラカンは穴と呼んだ。穴とはラカン派注釈者のあいだではしばしばブラックホールと言い換えられる。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ドゥルーズも1968年にはこう書いているのである。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

したがってフロイト・ラカン派観点からは、1972年に提出された、欲望の自由な運動としての「欲望機械」とは、どう贔屓目にみても、議論の余地なき「退行概念」である。欲望機械とはラカン派観点からいえば、《厳密にフェティシスト的錯誤 strictly fetishistic illusion》(参照)である。

もっともフェティシストでなぜ悪い? という立場もあろう(参照)。

倒錯者は、大他者のなかの穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)

フェティッシュや妄想とは、「世界の夜」に直面した者たちの治療行為でありうるのだから。

病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。(フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911ーー「女性の享楽とは死の欲動のこと」)

だが人は妄想やフェティッシュの底にある「世界の夜」、あるいは「世界のネガ」を見据える必要はかならずある。

精神は、否定的なもの(ネガ Negativen)を見据え、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」1807年)

問題は、この世界のネガーーラカン的には「大他者の大他者はない」ーーを一度も見据えることもなく、上層部だけでうわっ滑りしている妄想者やフェティシストである。

・メタランゲージはない。il n'y a pas de métalangage
・大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre,
・真理についての真理はない il n'y a pas de vrai sur le vrai.

ーー見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)


なにはともあれ、すくなくとも現在のドゥルーズ研究者は、「欲望機械」/「強制された運動の機械」のふたつの表現の矛盾と闘うべきだと、わたくしは考えているが、今にいたるまで(わたくしの知る限り)その気配はない。

「強制された運動」とは、『差異と反復』、『プルーストとシーニュ』だけではなく、『意味の論理学』にも、フロイトの反復強迫と等価なものであるのを示す、或る意味で決定的な文がある、《le mouvement forcé qui représente la désexualisation, c'est Thanatos ou la « compulsion»》(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー)

⋯⋯⋯⋯


最後に症状の二重構造について、ポール・バーハウ Paul Verhaeghe とフレデリック・デクラーク  Frédéric Declercq によるきわめて明晰な文で補っておこう。

フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「プシュケ(心的なもの)」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。

これはフロイトの最初の事例研究「症例ドラ」に明瞭に現れている。この事例において、フロイトは防衛理論については何も言い添えていない。防衛の「精神神経症」については、既に先行する二論文(1894, 1896)にて詳述されている。逆に「症例ドラ」の核心は、症状の二重構造だと言い得る。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動に関する要素である。彼はその要素を「身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommen」という用語で示している。この語は、後の論文『性欲論三篇』にて、「リビドーの固着 Fixierung der Libido(欲動の固着 fixierten Trieben)」と呼ばれるようになったものである。(⋯⋯)

この二重構造の光の下では、どの症状も二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)に帰着する。つまり欲動の現実界へ象徴的形式を与えるものである。したがって症状とは、享楽の現実界的核のまわりに設置された構築物である。フロイトの表現なら、《真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 》(『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way by Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、2002ーー「俺の中のうその真珠」)


2019年1月24日木曜日

母の言葉の永遠回帰

以下、ララング定義集簡潔版。

【ララングという母の言葉】
ラカンはララングを次のように説明する。すなわち、ララング lalangueは、“lallation 喃語”と同音的である。“Lallation”はラテン語の lallare から来ており、辞書が示しているのは、“la, la”と歌うことにより、幼児を寝かしつけることである。この語はまた幼児の「むにゃむにゃ語」をも示している。まだ話せないが、すでに音声を発することである。「Lallation 喃語」は、意味から分離された音声である。が、我々が知っているように、非意味であるにもかかわらず、幼児の満足状態からは分離されていない。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé、2009)
最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声媒体 médium sonore から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のララング lalangue maternelle」はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素 élément différentiel は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素 phonèmeである。母のララングの谺である子供の片言ーーあるいは喃語 lalationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 préverbal 段階のようなものはない、だが前言説的 prédiscursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得 apprend されない。ララング langage は、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕 éclipse 等々で包む。ララング langageが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化 dématernalisants をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアルなーー意味外のーー無意識の核 le noyau le plus réel - hors sens - de l'inconscient を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化 érotisation の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens、2011)


【ララングという「もの」としての言葉】
・ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。

・現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé 、2009)
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)
機知 Witze(言葉遊び Wortspielen)のひとつのグループにおいて、そのテクニックは、語の意味ではなく、語音 Wortklangへの心的態度の焦点化によって構成されている。(音声的)語表象 (akustische) Wortvorstellung 自体が、モノ表象 Dingvorstellungen との関係性を与えられることによって、意味作用 Bedeutung の代替となっているのである。(フロイト『機知』1905年)


【胎児期の母の言葉】
少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。大人と交わす幼児語は赤ちゃんの言語生活のごく一部なのである。赤ちゃんは大人の会話を聴いて物の名を溜めてゆく。「名を与える」ということのほうが大事である。単に物の名を覚えるだけではない。赤ちゃんはわれわれが思うよりもずっと大人の話を理解している。なるほど大人同士の理解とは違うかもしれない。もっと危機感や喜悦感の振幅が大きく、外延的な事情は省略されるか誤解されているだろう。その過程で、母語としておかしな感じを示すかすかな兆候を察知するアンテナが敏感になってゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)


【ララングという母の聖痕】
我々は、母の言葉(ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel 2009, Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law)
サントームは、母のララングに起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・母の欲望・母の享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体pas-toute」としての女性の享楽 jouissance féminineの属性を受け継いでいる。それは無限の法 loi illimitéeである。(Geneviève Morel 2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)



【ララングという身体の出来事】
身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

ーー女性の享楽については、「女性の享楽簡潔版」を参照。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30 mars 2011)


【サントームの永遠回帰】
サントーム、それは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレインpetite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


【身体の出来事の反復強迫】
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

ーー「固着」については、「リビドー固着という人間の根」を参照。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。…この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。…それは身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、23/03/2011)
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un- 2/2/2011 )


⋯⋯⋯⋯

※付記

【言語は存在しない。ララングしかない】
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。
il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)

ラカンが「存在しない」というときは、仮象だという意味である。すなわち言語は仮象である。ララングは仮象ではない。

見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。というのは、 言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないからである。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen (WS 1871/72 – WS 1874/75)
言語は、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリステヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection、1980年)


【言葉と音調】
言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。…

事物 Dingen に名と音調 Namen und Töne が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音声(音調 Töne)を発してことばを語るということは、美しい狂宴 schöne Narrethe である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部、1885年)
いまや勝利を得るには、語-息 mots-souffles、語-叫び mots-cris を創設するしかない。こうした語においては、文字 littérales・音節 syllabiques・音韻 phonétiquesに代わって、表記できない音調 toniques だけが価値をもつ。そしてこれに、分裂病者の身体 corps schizophrénique の新しい次元である輝かしい身体 corps glorieux が対応する。これはパーツのない有機体 organisme sans partiesであり、吸入 insufflation・吸息 inspiration・気化évaporation・流体的伝動 transmission fluidique によって、一切のことを行なう(これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体 corps supérieur、器官なき身体 corps sans organes である)。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」1969年)
ラカンは言語の二重の価値を語っている。肉体をもたない意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen, 2016, PDF

→参照:自体性愛と去勢の原像





2019年1月23日水曜日

タガメ教師とカエル研究者

日本ラカン派の「亀の歩み」」で記したけれど、だいたい20年前のラカンだよ、日本で主に「いまだ」語られているのは。

ネットに落ちているフロイト論やラカン論は京大系が多いけれど、若い研究者の論文をチラミすると、こいつら今頃なにやってんだろうな、とおもうからな。→「ここにも一人」、2017年の時点のエッセイがあるけどね。まったく消化できていないのが明らかだな、晩年のラカンが。アンコールどまりのままだ。フロイトの原抑圧もわかっていない。

そもそも晩年のラカンは真理から享楽へ移行したのに(参照)、上尾くんは、いまどき『ラカン 真理のパトス』なんて書名の書を上梓してるわけで、とっても「厚顔無恥な」人物だな。何が書いてあるかは知らないけど。小泉義之が合評会でいじいじ苛めてるんだけど(参照)。上尾くんはどうやら中期ラカンのみがおすきらしい。中期ラカンとは、ラカンがフロイトから最も離れた時期で、彼のフロイト研究とどうやって両立させるんだろ?


なにはともあれ、ロクでもない査読教師のもとで修士論文やら博士論文かいたら、アタマ自体がお釈迦になるよ、「欲求要求欲望の弁証法のお釈迦」で例を出したように。

若者全般へのメッセージですが、世間で言われていることの大半は嘘だと思った方が良い。それが嘘だと自分は示し得るという自信を持ってほしい。たとえ今は評価されなくとも、世界には自分を分かってくれる人が絶対にいると信じて、世界に働き掛けていくことが重要だと思います。(蓮實重彦インタビュー、東大新聞2017年1月1日号)

以下の中井久夫の文は、 「文化精神医学の論文」について書かれているけれど、すべての研究論文もおそらく同様。ひところ、深尾葉子さんの『日本の男を喰いつくす「タガメ女」の正体』と『日本の社会を埋め尽くすカエル男の末路』での語彙群が流通していたけれど、中井久夫のいっているのはタガメ教師たちに牛耳られるカエル研究者の話だ。

この際に、職業的精神科医の“研究文化”が精神科医・非精神科医の双方にはめているタガについて一言したい。

文化精神医学の論文は、医学論文ひろくは科学論文としての作法にしたがって執筆される。そのように執筆されたものでないと、編集委員会において、もし委員たちが“開かれた”マインドの持ち主ならば「発想はよいのだけれど」、そうでなければ「論文の態をなさず!」の付箋とともに返却される強い傾向がある。このための研究者の自己規制は、公衆の理解をほとんど超えるものである。民間学者の研究が微笑(あるいは冷笑)とともに無視されるのはこのためである。研究者の最初の五年のトレーニングの中にこの作法を身につけ、このタガをみずからはめるためにカリキュラムがあり、相当の時間と精力をついやして遂行される。これが身についてはじめて研究者という自己規定が自他に承認されるからである。

この“研究文化”が自己認識に達しえないのは、そこのルールに従い、そこの「満足の基準」を満たすことを念頭に置いてはたらくのが研究者であることが、研究者自体のみならず、その家族、親族、友人、地域社会、公衆、ジャーナリズムによって支持されているからでもある。「学者は(社会の)まなざしによってつくられる」面もある。反骨の民間学者の著述もしばしば卑屈な(あるいは然るべき)この“研究文化”への追従(あるいは敬意)に満ちている。

注意すべきは、現在、文化精神医学をふくめて、医学ひいては科学の論文が、その掲載する、ほとんどは欧米の雑誌編集委員によって審査されるということである。日本において欧米の書のみを「原書」と称する慣習こそ弱まったが、「国際雑誌」なる語があり、「これに載った」とは、必ず欧米の“一流学術雑誌”に掲載されたことなのである。

……冷厳な事実は、1990年現在なお、日本文化圏より産出される論文は、いわば秀才の生徒が教師に提出する形で、欧米の、しばしば二流学者である編集委員に採点されるのである。(……)

欧米雑誌編集者が投稿論文をしばしば剽窃することは1950年代すでに林髞(慶大生理学教授、作家「木々高太郎」)の警告するとおりであり、さもなくとも、第二級の論文を歓迎しても、第一級の論文は故意かあらずか遅延され、類似論文が先行掲載されることは、少なからぬ日本文化圏の研究者がなめた苦杯である。

私もその列を末席を汚し、以後私たちのグループーー当時私はウイルスと細胞レセプターの相互作用を解析する生物学者であったがーーは、断然チェコスロバキアの雑誌を投稿先に選んだ。彼らとはきわめてよい関係を結び、当時入手困難の辞典などが送られてきた。もし、あのまま私がブラチスラヴァの研究所に赴いていたらーー当時私はひとり身で血も今より熱かったーーひとりの日本人留学生が1968年に彼地で行方不明になったという小記事が昨年あたりどこかの新聞に載ったかも知れない。モンゴル出身者を含め多くの留学生がチェコスロヴァキア学友の側に立って銃をとったからである。

養老孟司が英語論文を断乎やめて日本語で書くことを励行し、せめて日中合同の雑誌をつくろうと念願しておられるのは、氏も苦杯を甞めたか、甞めた同僚知己を身近かに持つからであろう。(……)

ただし、完備した欧米の“研究文化”に属する「国際雑誌」編集委員でも、心ある人の憂えているのは、真のオリジナルな論文を逸することである。真の革命的な論文は、ほとんどつねに当初は体裁のととのわない、いびつな構成の奇妙な代物として、研究エスタブリッシュメントのトップを構成する彼らに映じるからである。この盲点を究極はまぬかれぬとしても、彼らがそれを意識していること自体が重要である。わが国の諸先生にこの意識があるか否か。(中井久夫『治療文化論』1990年)

さて以上でこの話はおわり。いくらか連投したけど。


欲求要求欲望の弁証法のお釈迦

そんな古い話をいまさら、って言ったらシツレイになるかもしれないけど、「欲求要求欲望の弁証法」ってのはほとんどお釈迦になってる筈だよ。ラカンあるいはすくなくとも現代ラカン派が「リビドー固着」を強調しだして以降は(参照)。

それは、《セミネール10「不安」以降、⋯⋯かつての構築物への「偉大なるボロ切れ化ショット grand coup de chiffon」を見るだろう。「剥奪 privation」、「フリュストラシオンfrustration」、「去勢 castration」、「想像的ファルスと象徴的ファルス phallus imaginaire et symbolique」を基盤としたすべての構築物を拭い去る「ひと突き」である》(ミレール、2004)となったのと同様。

これは鏡像段階モデルが否定されたのと同じ流れのなかにある。

光学的図式(鏡像段階モデル)は、私の教えの準備段階に遡るものであり、分析テクニックにおいて過大に見積もられたこのモデルにおける想像界を取り払うdéblayer l'imaginaire 必要がある。われわれはもはやこの段階にはいない。…

私のモデルは対象aに光を当てることに失敗している。このモデルは、イマージュの戯れjeu d'imagesを表すとき、対象aが象徴界から受け取る機能を描写できていない il ne saurait décrire la fonction que cet objet reçoit du symbolique 。(ラカン、Remarques sur le Rapport de Daniel Lagache、E682 、1960年)
(鏡像段階モデル図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962)


まず古い解説書を読まないことだな。そもそも、あれって額面通りとってしまったらイミフだよ。

欲望désirは…境界 margeである。すなわち愛の要求 demande d'amour から、欲求の必要性 exigence du besoinを差し引いた結果 résultat de la soustractionである。(ラカン、S5、07 Mai 1958)
欲望は、満足への性向 appétit de la satisfaction でも、愛の要求 demande d'amour でもない。二番目のものから最初のものを差し引くこと soustraction du premier à la seconde から生ずる差異である。(ラカン、ファルスの意味作用、E691、1958年)

で、差し引きして、欲望=愛の要求ー欲求だとして、そのあたりの三文解説書は額面通りに取っているのかもしれないけど、欲望に欲求が含まれていないわけないからな、--《どうやって欲望するというのかね、欲求から原材料を借りてこずに comment ferions-nous nos désirs, si ce n'est en empruntant la matière première de nos besoins ?》ーーこれどこで言ってたかな、ラカン。たぶんセミネール4だと思うけど、いまは確かめないまま。


以下、半年ぐらい前にテキトウに訳した(たぶんかなりイイカゲンなところがあるけど見直さないまま)ミレール2004年の注釈を貼り付けておくけど、要するに1962年以降はリビドー固着が肝腎。むかしの古典的ラカンはサヨナラ、ということだけが分かればいい、というレベルで読むべし。

後半の愛と不安の箇所は、あれだけじゃなく1970年以降さらなる転回があるし、ボクもいまだよく分からない箇所があるから、いままで一度もブログには貼り付けていないけど、あくまで参考として掲げとくよ。

…………

欲望と要求の弁証法 dialectique du désir et de la demand とは何か? 注意しなければならない。この弁証法とは、欲求催促 poussée du besoinから始まり、この要求のパレードdéfilés de la demandeを通してシニフィアンに出会うという差引き déductionなのである。…

初期ラカンの教えにおいては、欲求と要求の遭遇の残余が欲望である le reste de la confrontation du besoin et de la demande, c'est le désir。これはいまだ徴示的機能 fonction signifiant である。換喩としての徴示的連鎖 chaîne signifiante comme métonymique である。…不安セミネール10(1962-1963)以前のラカンの欲望は、リビドーの徴示的アウフヘーベン Aufhebung signifiante de la libido に相当する。だが不安セミネールでは、リビドーはまったく異なったものになる。…リビドーは徴示的残余 reste signifian ではない。…リビドーは逆説的な器官organe paradoxalである。

…この残余の器官reste organe、それは弁証法に対立する。それは欲望の残余 reste désir ではない。そうではなく、享楽の残余 reste jouissance である。アウフヘーベンに反逆したままの reste rebelle à l'Aufhebung 享楽の残余。

「享楽の残余 reste de jouissance」とラカンは一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的アウフヘーベンに反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller 、Introduction à la lecture du Séminaire L'angoisse de Jacques Lacan、2004年)

ーーーーーー

◆後半参考
私はすこし前、ラカンの古典的教えに言及した。最初に欲求があり、要求によって欲求の移行があり、結果が欲望だというものだ。そこでは、欲望は、欲求と要求とのあいだの裂け目décalage entre besoin et demandeのようなものである。…

この初期の教えは、セミネール10「不安」で問題視される。そこでは、享楽が不安によって欲望へと移行するla jouissance passe par l'angoisse pour en venir au désirとなっている。要求は愛の場 la place de l'amour となる。というのは、古典的教えでは、欲求満足への要求demande de satisfaction du besoinと、愛の要求 demande d'amourとのあいだに要求の二重化があるから。

古典的教えでは、シニフィアンは大他者から来る。他方、不安セミネールでは、神話的な享楽のモナドmonade mythique de la jouissance への言及がある。それは、後にラカンが『フロイトの欲動について Du Trieb de Freud』にて明示したものである。《欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》(E853、1964)

あなた方が知っているように、古典的教えでは、愛と不安 amour et angoisse とのあいだには結びつきがある。要求される大他者(要求の大他者L'Autre de la demande)は満足の対象 objets de satisfactionを所有している。対象は象徴的贈り物 don symboliqueの価値をもつ。愛の証拠 témoignage d'amour である。そして大他者がそれを与えないなら、苦悩détresse、寄る辺なさ Hilflosigkeit がある。こうして対象の欠如あるいは喪失 manque ou par perte d'objet による不安がある。

不安セミネールでは、同じ論理がまったく異なった遠近法を取っている。同じ論理とは、愛の根源的贈り物は愛自体 le don essentiel de l'amour est l'amour lui-même、すなわち無物 aucun objet だということを意味する。それはこう表現されている、《愛は、あなたが持っていないものを与えることだ L'amour, c'est donner ce qu'on n'a pas 》と。すなわち根源的贈り物は欠如 le don essentiel est le manque である。

この不安セミネールにおいての詳述化のなかで、ラカンはフロイトの『制止、不安、症状』を引用して、滅多にない反論の立場を取っている。それは、フロイトが不安を「対象の喪失la perte de l'objet」ーー第11章B冒頭《Objektlosigkeit》ーーと結びつけていることに対してだ。他方、ラカンはこう言う。不安が起こるのは、《欠如が欠如している le manque vient à manquer》ときに起こると。すなわち対象はある。「あまりにも多くの対象があるil y a trop d'objets」とき、不安は起こると。

愛は大他者の欠如の場を存続させるl'amour préserve la place du manque de l'Autre。だが、不安はこの欠如を埋める l'angoisse vient combler ce manque。そして同時に、大他者の抹消 aphanisis de l'Autre がある。この大他者抹消は、確実性 certitude を生む。

唐突に、愛は対象を施すものとなる l'amour dispense des objets。だがそれ自体、厳密に言えば、対象なきものであるil est sans objet。「人が前もって持っていないものを与えるL'amour qui consiste à donner ce qu'on n'a pas s'avance」ことによって構成されている愛は、何かを欠かしている(困窮démuni)。他方、不安は対象なきものではない l'angoisse n'est pas sans objet。これは、ラカンが直接的に言った第一の接近法である。というのは、ここでの対象は不安に先立っている l'objet ici précède l'angoisseから。その対象が不安を引き起こすcause l'angoisse。他方、このセミネールでの二番目の動きは、対象を生み出す不安である c'est l'angoisse qui produit l'objet。このアンチノミーは、 l'objet plus-de-jouir (享楽控除の対象・剰余享楽)において克服されることになる。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller 、Introduction à la lecture du Séminaire L'angoisse de Jacques Lacan、2004年)

l'objet plus-de-jouir のアンチノミーはたぶん次のことを言っている筈(参照)。



ま、ミレールを全面的に受け入れなくてもいいし、彼もラカンのセミネールを読むたびに、ああここにも後期ラカンがある、と見出しているところがあるわけで。


次の2013年のミレールは、セミネール4を読んで中期以降のラカンの痕跡がすでにある、と言っているように読めるね。ミレールでさえこうなんだから、ま、仏語に不自由なボクなんかは、もうとっくの昔に諦めてるところがあるな、ラカンをじかに読むことがあっても、誰かが引用してて、その前後を読むっていう程度だな。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父性隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式のもと、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父性隠喩」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残余 restes」があるのである。その残余が分析を終結させることを妨害する。残余に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)



2019年1月22日火曜日

知的絞首刑

だいたい「欲望」ってのはイミフの言葉だからな。諸派やそれを語る個人の心的構造によってまったく異なった意味で使われている。

フロイト・ラカン派では主にーーこれまた「まともな」フロイト・ラカン派のみだがーー、エディプス期以後が「欲望の主体」で、エディプス期以前が「欲動の主体」だよ(参照)。(より厳密にいえば後者は「欲動固着の主体」→[参照])

ここでフロイト・ラカン派ではない中井久夫を引用しておくけど。
精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収ーー「言語の深部構造」)

で、「「欲望の対象」と「欲望の原因」」について質問もらってんだが、以下、ボクの偏ったアタマではこう考えているということをテキトウに書くよ。

ようするに「欲望の対象」とは、エディプス期以後の主体の得意分野で、「欲望の原因」とは、エディプス期以前の主体が得意分野だな、簡単にいえばだが。前者の「欲望の対象」の底にはかならず「欲望の原因」があることに注意しなくちゃいけないけど。





そもそも神経症的主体と倒錯的主体が同じ「欲望」を語っていても、まったく別のこと話してる場合が多いよ。たとえば日本言論界の若手だったらコクブンとチバの欲望はーーボクはああいったボク珍たちの言説はもはやわずかに垣間見るだけになっているがーー根のところでは、まったく違う筈だ。

これがまずは「「欲望の対象」と「欲望の原因」」で引用したミレールの言ってることだ。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…

後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)

もう一つあったな。

倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


さきほど掲げた「エディプス期以後の主体/エディプス期以前の主体」の図は、ミレール2005の図を、そのままその下に置ける(参照:女性の享楽は享楽自体のこと)、ーー厳密な区分は無視すれば、ということだが。たとえばどっちつかずの境界例というものもあるわけで。



もう一度、先ほどの図貼り付けておくよ。わかりやすいようにね。




ーーいやあ、ボクの頭ではピッタンコだな。

で、父なる超自我と母なる超自我とは次の内容。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…母なる超自我に属する全ては、母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

この「母なる超自我/父なる超自我」とは、「母なるシニフィアン/父の機能」に置き換えてもいい。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

で、誰でもそう読めるだろうように、これで「エディプス期以後の主体/エディプス期以前の主体」の意味がより鮮明化された筈。

ようするにオットサン(あるいは言語の法)に支配されているか、オッカサン(あるいはリビドー固着)に支配されているかどっちかということだ。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


で、欲望の対象とは、欲望の原因のたんなる覆いだよ、それは父なる超自我が母なる超自我のたんなる覆いに過ぎないように。

享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003ーー女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽

だから前エディプス的主体が、エディプス以後の主体をバカにするのは、ある程度はーー強調しておくが或る程度だーーやむえないことだな。


⋯⋯⋯⋯

ボクに言わせれば、最も大切なのは「エディプス期以後の主体」が「エディプス期以前の主体」に教訓垂れたら絶対ダメだということを知ることだな。ツイッターなんかたまに覗くと、神経症主体がそればっかりやっているように見えることがあるけどさ。

倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の大他者である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が通常、失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、大他者に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押しつけに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010)

※もういくらか詳しくは、 「倒錯者と神経症者における「倒錯行為」の相違」を見よ。


大他者に貪り食われる不安とは、究極的には原大他者、つまり母なる大他者に呑み込まれる不安ということ。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)

このあたりについての真の根は、フロイトや後期ラカンもふくめてより広汎な文献を「子宮回帰運動」で示したばかりだから、そっちを参照。

ま、ボクはモロ倒錯者だからな、たとえばあきらかに神経症的社会学者たちやらツイフェミなど、あれら、もっともらしいこといってる神経症的インテリみると、攻撃性発露か、すくなくともハイネ気分になるんだな。血圧に悪いね。

私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本―――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう―――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』)

Ich habe die friedlichste Gesinnung. Meine Wünsche sind: eine bescheidene Hütte, ein Strohdach, aber ein gutes Bett, gutes Essen, Milch und Butter, sehr frisch, vor dem Fenster Blumen, vor der Tür einige schöne Baume, und wenn der liebe Gott mich ganz glücklich machen will, läßt er mich die Freude erleben, daß an diesen Bäumen etwa sechs bis sieben meiner Feinde aufgehängt werden. Mit gerührtem Herzen werde ich ihnen vor ihrem Tode alle Unbill verzeihen, die sie mir im Leben zugefügt — ja, man muß seinen Feinden verzeihen, aber nicht früher, als bis sie gehenkt werden.« (Heine, Gedanken und Einfälle.)



わかるかな、これで。ボクはどっちかというと若いお嬢さんらしき方だけには一応親切なんだけどさ。でも写真付き質問に限ることにしようかな、今後は。ボクの言いたいこと、わかる? めんどいんだよ、もう。

もっともこの程度だったらいいさ。だいたい最近のボクのブログは、文章のある塊を画像を貼り付けるように貼り付けるだけにほとんどなっているからな。連鎖反応式に。ここで新しいのは「エディプス期以後の主体/エディプス期以前の主体」の図だけだな。このスタイルそろそろ変えないとな、退屈してきたよ。

で、アタシほんとはオンナだって、あんたシッテル?




実際は、ヒトのなかにはいろんな主体がいるはずさ、上に記したことなんかウソッパチだよ、ほんとは。