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2019年2月28日木曜日

月女神カリマ Kali ma の肖像

「Kali Ma カリマ」で画像を検索してもロクでもないものしか当たらないのだが、ようやく一つだけわたくしにとって許容範囲の彫像画像に行き当たった。


KALI – A MOST MISUNDERSTOOD GODDESS


ーー上の画像を拾った記事の題名が「KALI – A MOST MISUNDERSTOOD GODDESS」となっているように、カリマとはひどく誤解されている女神らしいのである。


以下、「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」( 松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf

◼️オームからオメガへ
そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。

Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。

ーーオメガ=女陰か・・・たぶんボクが無知だっただけなんだろう、きっとみなさんはすでにご存じのことであろう。





………


◼️月女神 Kali Ma「創造→維持→破壊」「新月→満月→旧月」「処女→母親→老婆」

後のキリスト教の父権制社会になってからは、logosは原初の意味を失い、「創造の言葉」は「神の言葉(化肉)」として、キリスト教に取り込まれ、破壊のOmegaは取り除かれてしまった。その結果、現象としては確かめようのない死後を裁くキリスト教が、月女神の宗教に取って代わったのである。父権制社会のもとでのKali Maが、魔女ということになり、自分の夫、自分の子どもたちを貪り食う、恐ろしい破壊の相のOmegaとの関わりだけが強調されるようになった。しかし、原初のKali Maは、OmのAlpha からOmegaまでを司り、さらに再生の周期を司る偉大な月女神であった。

月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。

三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFate、Uni、Juno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。


蚊居肢フロイト版のボロメオの環の中心には Ω を置くべきであった・・・





ラカンがこのΩを使わなかったことが実に惜しまれる。使えばすべてはすっきりしたのに・・・

上に「Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった」、あるいは「三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる」とあったが、ラカンの母は、「貪り喰うために誰かを探し回っている」母である。

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺトロの手紙、58』)
ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.として提示した。(ミレール、,La logique de la cure、1993)

もっとも当然のこと創造の母をも語っていないではないが、一般に強調されてるはのはパックリ母なのである。

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)

以下、ラカン発言をいくらか掲げておこう。

【すべての生が出現する女陰の奈落】
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir,Écrits, 1966)





…………

さて話をカリマに戻そう。蚊居肢ブログのテーゼ、女はエライに収斂する話である。

◼️ma:「母親」と「女神」
インド・ヨーロッパ言語文化圈に見る、ma、mah、man、mana、manas、manos、men、mene、met、meter、materといったma、meを含んだ単語は、月女神の「創造の言葉」のlogos、Omから派生したものである。

そもそも、今日、manは「男」を意味しているが、これは「女」を意味していたのだ。manは万物創造の月女神であり、祖霊のmanesの母であった。サンスクリットのmanも、「真言」のMantraに見るように、月女神と叡智を意味していた。ma、meを語源にして派生した現在の英単語を見ると、「母親」と「物質(創造物)」と「叡智」「測定」に関するものが多い。

maという基本音節は、インド·ヨーロッパ言語文化圏でも、「母親」と「女神」を意味している。mother, materal (母の)、matron (既婚婦人)、matrix (母体), menses (月経)、menage/manage(家庭、家事、家政、世帯、管理)。

次に、「創造物の根源」に関してみると、matter (物質)、material(材料)、mud (泥)等がある。「女神」「女神の叡智」に関しては、moon、Mut (母神)、Maat (娘神)、Demeter、Muses、Mnemosyne (記憶の女神)、Menrva (Minerva)、omen (前兆、月、啓示)、amen (アーメン、再生の月)、mind, mentality等ある。

「学問」「測定」に関しては、mathematics (数学)、matrix (行列)、metrics (計量学)、mensuration (測定法)、meter (配分)、geometry (幾何学)、mete (配分)、 trigonometry (三角法)、hydrometry(液量測定)、meter (計器)等がある。

これら語源から派生した単語を見ると、自然と共に生きていた時代の女性たちは、宇宙原理、自然原理、女性原理に従った「創造→維持→破壊」の三相一体の周期、循環に生まれながらにして熟知していたことがよく分かる。

女性は経血(menstrul blood)の周期と月の朔望の周期、潮の干満の周期が密接に関係していることから、天文に関する研究を文化、文明の基礎学問とみなしていた。天文に関する「母親の知恵」が学問のmathesisであり、「天文の学問のある母親たち」をMathematici と呼んでいた。今日の「数学」を意味するmathematicsの語源である。特に、月女神に仕える巫女はその能力に長じたsybilsで、女神Cybeleと同語源である。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」、 松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf

ーーもはやいうことはない。数学であってさえ、母-女起源なのである。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

これは人間の個人史においての太古の母の話だけではない。人類の歴史と同様である。起源には「月女神あり」。あたりまえのことでありながら、現代人はほとんど忘れらてしまっている事実である。

フロイトにとってヒト族の「知の欲動 Wißtrieb」の起源は、《子供はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎》(『性欲論三篇』1905年)である。フロイト・ラカン派精神分析において、後年に湧き起こる他のすべての知の探求はこの原初の知の欲動の昇華にすぎない。真の歴史家においてもこれは同じ筈である。

最後にすこしだけ保留をつけ加えておこう。《今日、manは「男」を意味しているが、これは「女」を意味していたのだ》を初めとして、この論文に記されていることの信憑性のほどは、他の論文に当って確認しているわけではないので全面的信頼はしないようにと。ネット上には英語文献も含めてこういったことが書かれている論文にはいまのところ行き当たっていない。わたくしの場合、この話題は、それ以上苦労して確認するほどのものではない。



2019年2月27日水曜日

カスプロフの顔

セルゲイ・カスプロフ Sergei Kasprovはとってもいい顔してるな。





ムイシュキン侯爵的美貌ってのかな。ボクが女だったら惚れまくりそうだな、ナスターシャみたいに。

たいして売れてないみたいだけど。









2019年2月26日火曜日

家父長制の彼岸の国日本

家父長制とは、自分の股から生まれた息子を、自分自身を侮蔑すべく育てあげるシステムのことである。(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』2010年)

たまたま拾ったんだが(参照)、上野さんってのは実にうまいよ、こういった格言風の言葉を言い放つのが。

この文の前後関係は不詳のまま記すけど、で、反家父長制だったらどうなんなんだろう?

反家父長制とは、自分の股から生まれた息子を、自分自身を「恐怖すべく」育てあげるシステムのことである。

ーーで、いいのかな? もう一人の「すぐれた」フェミニストはこう言ってるけど。

・大いなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。

・私が言っているのは、男たちは母による支配から妻による支配に向かうということだ。これが男たちの生の恐怖である。そしてフェミニズムはこの事実に目を塞いでいる。(カミール・パーリア Camille Paglia Vamps and Tramps、1994年)

カミール・パーリアは、上野さんがオキライな吉行が大昔に言ったことと似たようなこと言ってるんだよな。

現在の天下の形勢は、男性中心、女性蔑視どころか、まさにその反対で女性が男女同権を唱えるどころか、せめて男女同権にしていただきたいと男性が哀訴嘆願し失地回復に汲々としている有り様だ。(吉行淳之介「わたくし論」1962年)

パーリアなんかどうでもいいから、日本においての家父長制の彼岸を、是非、千鶴子さんの切れ味鋭い日本語で言い放ってほしいな。

そもそも柄谷やら浅田やらは日本は家父長制じゃないってむかしから言っているわけで、一神教社会向けのパーリアなんか参考にならないから、やっぱり上野さんにタヨラナクチャナ。

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)
公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)


上野さんがオスキラシイ中井久夫だってこう言っているわけだし。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年)

日本ってのはどっちかっていうと、エディプス的な「言語による経典が絶対の世界」ではなくて、昔から母権制に近似したシステムなんだろうな、たぶん。

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」


でも2018年になってもなんで上野さんこんなこと言ってんだろ?

わたしは目を瞠(みは)った。「家父長制と闘う」「ジェンダーの再生産」「自分を定義する」……。かつて女性学・ジェンダー研究の学術用語だった概念が、日常のことばのなかで使われている。(朝日新聞、2018,05,23

たぶん「家母長制と闘う」の誤表記なんじゃないかな、アニミズム的日本社会が、家父長制であるわけないし、安倍やらの自民党連中やらにオチンチンあるなんて、まさか上野さん考えてるわけあるまいし・・・

そういえばパーリアってこんなこと言ってんだよな、日本ではゼーンゼン受け入れられないだろうけどさ。

・判で押したようにことごとく非難される家父長制は、避妊ピルを生み出した。このピルは、現代の女たちにフェミニズム自体よりももっと自由を与えた。

・フェミニズムが家父長制と呼ぶものは、たんに文明化である。家父長制とは、男たちによってデザインされた抽象的システムのひとつだ。だがそのシステムは女たちに分け与えられ共有されている。(Camille Paglia、Vamps & Tramps、1994年)

………

以下、参考(?)のために、「引き出し」から抜き出しておこう。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

⋯⋯⋯⋯

家父長制と男根中心主義は、原初の全能の母権システム(家母長制)の青白い反影にすぎない。 (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、孤独の時代における愛 Love in a Time of Loneliness、1998)
享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)

フェミニズムと家父長制の打倒という文脈において、異なった種類の社会、より愛に溢れ、穏和で人間的な社会、すなわち女性的社会の探求があった。この運動において、母なる自然への生態学的回帰運動と歴史的人類学の誤った章との混淆が、もう一つの神話、すなわち母権制社会の神話を生み出した。

見たところ、この母権制社会 matriarchal societyは、他のどんな「支配体制 [-archy]」とも大きく変わるところはない。単に女たちが権力をもつ社会である。もっともこの権力ははるかに平和的に施行されるという想定があるが。

しかしながら、権力構造自体はほとんど何も変わらない。実際の問いは、この母権社会はほんとうにそんなに平和を愛する社会なのかである。エリアス・カネッティによれば、権力は常に延期された暴力である。女たちがこの例外である筈はない。…

母権制希求という解決法は、まったく誤った歴史の理解に基づいている。母権社会は、漠然としたロマンティックで、パステルカラーの色合いでしばしば語られるが、そんなものは決して存在しなかったのである。…

解放運動とフェミニズムの影響の一つは、多くの女性研究者が原初の母権的大陸を見いだそうとする希望の下にこれを主題にしたことである。イブリン・リードはその代表的一人だった。米国の社会学フェミニストのリードは、彼女の代表傑作『女性の進化 Woman's Evolution』をめぐって20年間、仕事をしつづけた。そして彼女は驚きを以って見出したのである。その結論とは、彼女が期待していたものとは全く異なった、専制的な女性の支配だった。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、Love in a Time of Loneliness、1998)





2019年2月25日月曜日

なぜエロス欲動は死の欲動なのか

ラカンはフロイトに反して、エロス欲動もタナトス欲動も、実質的に(潜在的に)死の欲動だとしている。

攻撃欲動 Aggressionstrieb は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

これはいわゆるラカンの欲動一元論であるが、以下、フロイトの叙述を追っていけばラカンのように考えざるをえないことを示す。


【自己破壊運動と他者運動】

フロイトにとってマゾヒズムは自己破壊欲動である。

自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)

1919年の『子供が叩かれる』までのフロイトに反して、1920年以降のフロイトにとってマゾヒズムはサディズムに先立つ。 それについては、1933年に次のような決定的言明がある。

マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus……

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

1924年には、原サディズムと原マゾヒズムをほぼ等置している。この等置は(論理的には)タナトスとエロスの等置とさえ捉えうる、とわたくしは考える(エロスとタナトスについては後述)。

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
実生活において使い果たされなかったサディズムが方向転換して己自身に向かうときに、二次的マゾヒズム sekundärer Masochismus が生じ、これが原マゾヒズム primären Masochismus に合流する。(フロイト『性欲論三篇』1905年における1924年の註)

ここでは、自己攻撃欲動としての原サディズム≒原マゾヒズムから投射されて外部に向けられた攻撃欲動を「二次サディズム」と呼ぶことにする。そしてその二次サディズムが内部に向け換えられて退行したものが、上に示されているように「二次ナルシシズム」である。この二次ナルシシズムが、原マゾヒズム≒原サディズムに合流する。

ここまでを図示すれば次のようになる。





フロイトは繰り返し強調している、人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。つまり起源としての原マゾヒズムを外部に投射したものが(二次)サディズムである。

こうして、攻撃欲動(死の欲動)とは自己破壊欲動(原マゾヒズム)が淵源にあり、他者破壊欲動は二次的なものという考え方を晩年のフロイトはもっていた、とすることができる。


【エロスとタナトス】

ところでフロイトは次のように記している。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)

最も原初的な以前の状態とは、フロイトにとって子宮内生活である(詳しくは、「子宮回帰運動」を参照のこと)。

人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、……母胎Mutterleib への回帰運動 (子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

これは生きている存在には不可能な究極のエロスである。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ーー「融合」とあるが、フロイトの最も基本的な「エロス/タナトス」の定義は、「融合/分離」である。

エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものであ る。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけ zusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。 (フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


 だが究極の融合をしてしまえば、主体の死が訪れる。

エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)

すなわち究極のエロスにおいては、「一」はなくなってしまうのである。したがって自立を目指す分離欲動(タナトス)が生じる。

社会政治的な面でもこれは同様である。

ヨーロッパ共同体が融合・統合(エロス)に向えば向かうほど、分離・独立(タナトス)のナショナリズムの衝動が芽生える。(ポール・バーハウ、Love in a Time of Loneliness, 1998年)

このようにしてフロイトの叙述を追ってゆけば、タナトスが死にかかわるのではなく、むしろ究極のエロスが死であると捉えうるのである。そしてこの究極のエロス=死こそ、ラカンの究極の享楽である。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


こういった思考の流れのなかで、ラカンは享楽と死の欲動(死の本能)を等置しているのである。

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)

「すぐさまというわけにはいかなかった」のは、上にも記したように1919年までのフロイトは、サディズムをマゾヒズムに先立つものと見なしていたからである。

マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行Regressionによって、対象から自我へと方向転換したものである(フロイト『子供が打たれる』1919年)

上にも一部引用したが、『性欲論』の1924年に追記された註にて、フロイトは明瞭に自らの転回を語っている。

後に心的装置の構造、そこで作用する欲動の種類についての確とした仮定に支えられた考究の結果、マゾヒズムについての私の判断は大幅に変化した。私は原初の primärenーー性愛 erogenen に起源をもつーーマゾヒズムを認め、そこから後に二つのマゾヒズム、すなわち女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズム der feminine und der moralische Masochismusが発展してくる、と考えるようになった。実生活において使い果たされなかったサディズムが方向転換して己自身に向かうときに、二次的マゾヒズム sekundärer Masochismus が生じ、これが原マゾヒズムに合流するのである。(フロイト『性欲論三篇』1905年における1924年の註)

以上により、全体図としては次のように図示できる。






【死の廻りの循環運動としての死の欲動】


別の示し方をすれば、究極のエロス=死の廻りを絶えまなく循環運動するのが、死の欲動である。

フロイトは「エロス/タナトス」を、「愛/闘争」、「融合/分離」とする以外に、「引力/斥力」ともしている。

同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ここで挿入的にフロイトのエロス/タナトス語彙群図を示しておこう(参照:「受動性と能動性(女性性と男性性)」)。




話を戻せば、エロスの引力に誘引されながらも、究極のエロス=死に対して斥力を人はもつ。これゆえの循環運動である。

したがってラカンは、欲動=享楽の漂流とする。

私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)

あるいは、《われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance》(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534)

享楽の漂流とは、究極の享楽(究極のエロス)の彷徨いであり、死の漂流である。

人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

これがラカンにとっての死の欲動である。

ここで上に引用した文を再掲しよう。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

まずここでは不可能な大他者の享楽=不可能な(究極の)エロスとある。そしてこの両者がありうるのは死でしかないと言っている。

「大他者の享楽はない」のラカンマテームはȺ(穴)である。

大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(Lacan,S23, 16 Décembre 1975)


したがって上の二文は、ラカン派でしばしば使われるトーラス円図の説明としても読める。





-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)

トーラス円図とは、ようするに、無意識の主体$が大他者の穴Ⱥの穴埋めに励む図である。ここで最も注意しなければならないのは、大他者は他人や象徴界というだけではなく、自らの身体でもあることである。

大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)

だが、主体側の穴であれ、外界側の穴であれ、いくら穴埋めしても究極の融合をすることは不可能である。くり返せば、究極の融合=究極の享楽=究極のエロスとは死でしかない。

トーラス円図式を簡略化して   A あるいは  Ⱥ と記されることもあるが、 菱形紋とは、エロスとタナトスの欲動混淆マークとしても捉えうる。

菱形 losange のもつ性格…Vは分離(disjonction) であり、Λは同一化(結合conjonction)である。(ラカン、セミネール10 13 Mars 1963)

 A をここまで記してきた用語を代入して注釈図として示せば次のようになる。





したがって上に示したトーラス円図自体が、死の欲動図として読みうるのである。

最後にもう一度次の文を読んでみよう。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)

生きている存在には不可能な究極のエロスを回復しようと試みること。それが死の欲動=反復強迫の淵源である。


⋯⋯⋯⋯

※付記

ところで大他者にはなぜ穴があいているのだろう。それは「子宮回帰運動」に文献列挙があるが、ここでは原大他者(母)に焦点を絞って、トーラス円図で示しておこう(ラカンにおいて$マテームは、本来は出産外傷後に生じるのではなく、言語の世界に入場したとき(三歳前後)の主体を示すのだが、ここでは厳密さを期さずにこのマテームを使用した)。





最初の円を具体的に示せば、次の状態である。





Sとは、「享楽の主体 le sujet de la jouissance S(原主体 sujet primitif)(セミネール10)である。そのほか、要点だけいくらか引用しておこう。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

⋯⋯⋯⋯

なおここでは触れえなかった相として、フロイト・ラカンにおける死の欲動・反復強迫関連語彙群を「フロイト・ラカン「固着」語彙群」から示しておく。




⋯⋯⋯⋯


※追記

なおフロイトのマゾヒズム論を最も深く正面から読んだ思想家だろうドゥルーズは、次のように図示しうる思考をしている(参照:ドゥルーズの死の本能/死の欲動)。


上の図の欲動混淆とはフロイト概念である。

純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

ようするにドゥルーズは、タナトスを二つに分けたのである、死の欲動/死の本能に。そして純粋状態のタナトスとは、ドゥルーズにとって「永遠回帰」である。そして現在、上に示したリビドー固着=サントーム語彙群は、ジャック=アラン・ミレールにとって永遠回帰である。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

そしてここでの記述から分かるようにラカンの菱形紋とは、永遠回帰マークとして捉えうる。





2019年2月23日土曜日

愛とは両性の命がけの憎悪である

亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。…惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾『金銭無情』1947年)

…………

愛とは本源的にはマゾヒズム、自己破壊欲動である(参照:なぜエロス欲動は死の欲動なのか)。

まずマゾヒズムについてのフロイト・ラカンの捉え方はこうである。
マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)

「すぐさまというわけにはいかなかった」というのは、1919年までのフロイトは、《マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行Regressionによって、対象から自我へと方向転換したものである》(『子供が打たれる』1919年)としていたからである。


プラトン=アリストパネスの定義上において、エロスとは、マゾヒズムあるいは自己破壊欲動と捉えうる。

すべての人の望みであり、みな自分がはっきりと言うことのできなかった望みの正体は、自分の愛する人と溶け合い、一つになることである。(プラトン『饗宴』)

一つになれば、つまり二者が一者に融合すれば、主体の死である。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)





エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (⋯⋯)

「一(L'Un)」(一つになること)、きみたちが知っているように、フロイトはしばしばこれに言及したが、それがエロスの本質 essence de l'Éros だと。融合 fusion という本質、すなわちリビドーはこの種の本質があるというヤツ、「二(deux)」が「一」になる faire Un 傾向をもつというヤツだ。ああ、神よ、この古くからの神話…まったくもって良い神話じゃない…一つになるなんてのは根源的緊張 tensions fondamentales を生むしかないよ (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死 la mort に属するものの意味に繋がるときだけだ。 S'il y a quelque chose qui fait l'Un, c'est quand même bien le sens, le sens de l'élément, le sens de ce qui relève de la mort.(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

したがって、この融合欲動に対する分離欲動、タナトスが生まれる。

エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものであ る。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけ zusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。 (フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ニーチェの愛の定義はここにある。

わたしがかつて愛Liebeにたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段 Mitteln der Kriegとして行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪Todhass der Geschlechterなのだ。(ニーチェ『この人を見よ』)
自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」)

すなわち、フロイト曰くのエロスとタナトス(愛と闘争)の「欲動混淆 Triebvermischung」1924)である。前期フロイトは「愛憎コンプレクス. Liebe-Haß-Komplex」(1909)とも呼んでいる。

死の枕元にあったとされる草稿にはこうもある。

性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ここまで記してきたことは、次の文に収斂する。

エロス欲動は大他者と融合して一体化することを憧憬する。大他者の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、大他者との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)である。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は大他者からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの分離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject, 2005年)

もしこうでなければ、愛の関係ではなく事実上、友人関係となっている筈である。

もっともこの友人関係が一番望ましいという立場もあろう。




浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」)

逆に愛とは、ボードレールのいうようなものである。

恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées)

2019年2月22日金曜日

母胎内における身体の記憶

身体の記憶と身体の出来事」から引き続く。

フロイトは、出産外傷 Trauma der Geburt を、「原トラウマ Urtrauma」、「原固着 Urfixierung」と呼んでいる(『終りある分析と終りなき分析』1937年)。

ラカンの原初に喪われた対象としてのラメラ lamelle も、「新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜」としているように事実上、羊膜のことだ。

つまり両者にとって出産外傷が、原トラウマ(身体の出来事)ということになる。現在に至るまでラカン派は(私の知る限り)この範囲のことしか言っていない。

例えば、出産直後の身体の出来事は羊水の吐き出しであり、それに引き続く空気吸入、母乳吸入がある。この観点のもと、ラカン研究者は2017年にこう言っている。

(新生児における)呼吸システムへの最初の空気吸入、消化システムへの最初の母乳吸入は、おそらく外傷体験と呼びうる。(The Mark, the Thing, and the Object: On What Commands Repetition in Freud and Lacan by Gertrudis Van de Vijver, Ariane Bazan and Sandrine Detandt, 2017年)


だが中井久夫は、1996年に既に「母胎内の」身体の出来事を指摘している。

少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)


さらに2003年に書かれた「母子の時間、父子の時間」には、まさに「胎内の記憶」という表現が現れる。

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口-身体-指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)

前回みたように、身体の記憶は定義上、反覆強迫する。「胎内の記憶」である母親の心音、「一分間七〇ビートの音楽」ーーようするにアダージョであるーーの快適さの起源として、母胎内における「身体の上への刻印」(リビドー固着)の知らぬまの反覆強迫がある、と言いうるかもしれない。

他にも中井久夫が、人間がいちばん休まる場所として「アルコーヴ」と言うとき、おそらく子宮内に思いを馳せているのではないか。

(精神病棟の設計に参与するにあたって)、設備課の若い課員から、人間がいちばん休まるのはどういうものかという質問があった。私は、アルコーヴではないかと答えた。これは、壁の中に等身大の凹みを作って、そこに寝そべるのである。ブリティッシュ・コロンビア大学の学生会館のラウンジには、いくつかのアルコーヴを作ってあって、そこには学生が必ずはいっていた。(中井久夫「精神病棟の設計に参与する」1993年)


さらにもっと直接的に「母胎の入り口の香り」という表現さえある。

菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。……菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。…

菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)

これらが中井久夫の説く、人間にとっての「原」身体の記憶である。やわらかな明るさに包まれたり菌臭を嗅いだりして気持ちが落ち着く淵源は、母胎内の記憶に関係する。ひょっとしてそうかもしれないと考えるだけで、世界は異なって感じられることはないか。

ーーどう異なるって? 蚊居肢子が二年ほどまえ悟ったのは、「女はエライ」であり、「なんでもおまんこ」だ。それ以後の蚊居肢ブログは、常にこの二つの廻りを反復強迫シテイル・・・モハヤソレシカナイノデアル・・・

何度か繰り返し示しているのでもう説明抜きで貼り付けておくが、次の図が決定的なのである。

子宮回帰運動




ーー男性のみなさん、ハヤクオ悟リニナッテクダサイ! 
「女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut」( ミュッセ )です。

問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

誤解しないでください、「女というものは存在しない」を。

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、 Des semblants dans la relation entre les sexes,1992)

芸術家のみなさん、「美は現実界に対する最後の防衛 la beauté est la défense dernière contre le réel」(ミレール)です。

言い換えれば、美は原トラウマに対する最後の防衛です。
女という場の空虚に対する防衛としたっていいです。

さらに即物的に換言すれば、美はおまんこに最も近接した昇華です。
美はそこにしかありません。

芸術とは所詮、情慾の一変形に外ならぬ。…色情は本来、生物天与の最大至高のものである。それを芸術にまで昇華発散させるのが人間獣の能力、妙作用である。色情によつて森羅万象、人事百般を光被させるのが所謂芸術の天分である。(佐藤春夫「永井荷風」1952年)


大切なのはキノコの匂であり生垣であり籠であり栗であり神酒です。それを悟っときのみ灌木も丸太もヒョウタン磨きもそれなりに価値がありませう・・・


灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に
麦の穂や薔薇や菫を入れた
籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。
生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で
神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。

ーー西脇順三郎「秋」

詩人や小説家は常に森の鞘、森の裂け目、谷川、分れめをまず最初に思考しなくてはなりません。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子『道徳経』第六章「玄牝之門」福永光司訳)

そのときのみ腰の鉈は機能します。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

杣道を熟知しなくてはなりません!

杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 Holzwege と呼ばれている。

どの杣径も離れた別の経路を走る、しかし同じ森の中に消えてしまう。 しばしば或る杣径が他の杣径と似ているように見える。けれども似ているように見えるだけである。

これらの径の心得があるのは、杣人たちであり森番たちである。杣径を辿り径に迷うとはどういうことであるのか、熟知しているのは彼らなのである。 (ハイデガー『杣径』)

熟知のためには若いうちからの念入りな修業が必要です。





熟知とはじつはソマミチの迷宮に迷うことなのです!

迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)



「アリアドネ」とディオニュソスが言った。「おまえが迷宮だ。」Ariadne, sagte Dionysos, du bist ein Labyrinth: (ニーチェ遺稿、1887年)


・・・ええっと、何の話してたんだっけな、まあいいや。

私は私の身体で話してる。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

ーーこのラカンの言い方を援用すれば、人は、自分では知らぬまに、己の身体の記憶を反覆している。場合によっては子宮内の身体の記憶を。「彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es」(マルクス『資本論』)。

人は、忘れられたものを「思い出す erinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす agieren」。人はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復 wiederholenしている。((フロイト『想起、反復、徹底操作』1914年)


2019年2月21日木曜日

身体の記憶と身体の出来事

匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps。(ロラン・バルト「南西部の光」)

⋯⋯⋯⋯

身体の記憶」では敢えて記さなかったけど、身体の記憶≒身体の出来事だよ。

症状(サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

サントーム、すなわちリビドー固着。

分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)

「固着を置き残す」とは、身体的なものが心的なものに移行されず、冥界(エス)に居残ること。冥界、すなわち、《内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenwelt 》(『制止、症状、不安』1926年)。

リビドー固着は、別の言い方なら、幼児型記憶、あるいは構造的トラウマ記憶による「異物」。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。…時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なもの(異物)として、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

異物、すなわち、トラウマ的記憶。

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

「幼児型記憶/外傷性フラッシュバック」、あるいは「構造的トラウマ/事故的トラウマ」とは、フロイトの表現なら、「病因的トラウマ(への固着)/外傷的事故への固着」。



われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され…標準的自我 normale Ich のなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)


「トラウマへの固着」=「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」とあったけど、この刻印が永遠回帰する。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)

幼児期の身体の記憶がなかったら、個性がないってことだ、

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011[参照])

以下の用語群は全部同じ意味(参照)。




バルトがすばらしいのは、自らの経験に資して詩的な文を記しているところで、精神分析的に(散文的にいえば)こういうこと。




2019年2月20日水曜日

身体の記憶

バイヨンヌ、バイヨンヌ、完璧な町。河に沿い、響きゆたかな周囲(ムズロール、マラック、ラシュパイエ、ベーリス)と空気の通じあっている町。そして、それにもかかわらず閉じた町、小説的な町。(……)幼い頃の最初の想像界。スペクタクルとしてのいなか、匂としての“歴史”、話しかたとしてのブルジョワジー。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
過去のうちで、私をいちばん魅惑するのは自分の幼年期である。眺めていても、消えてしまった時間への後悔を感じさせないのは幼年期だけだ。なぜなら、私がそこに見いだすものは非可逆性ではなく、還元不可能性だから。すなわち、まだ発作的にときおり私の中に存在を示すすべてのものだからである。子どもの中に、あらわに私が読み取るもの、それは、私自身の黒い裏面、倦怠、傷つきやすさ、さまざまの(さいわいに複数の)絶望への素質、不幸にもいっさいの表現を断たれた内面的動揺。(『彼自身』)





ロラン・バルトには、わたくしがお気に入りの「身体の記憶」という表現がある。

匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps。(ロラン・バルト「南西部の光」)

「身体の記憶 la mémoire du corps」、これこそプルーストの無意志的記憶、レミニサンスである。それは心的装置よる「想起」ではない。

フロイトはこの身体の記憶、無意志的記憶に相当するものをシステム無意識と呼んだ。

欲動蠢動(欲動興奮Triebregungen)は、(力動的無意識ではなく)すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動蠢動が一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。

しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


いま見たように「身体の記憶」とは、快原理内の記憶ではなく快原理外の記憶であり、外傷性記憶である。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

この記憶は反復強迫するのである。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
現実界は、(心的装置に)同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )

この現実界の反復強迫こそ、死の欲動である。死の欲動とは「死」そのものとは基本的には関係がない。

プラトンの想起を初めとして、身体の記憶としてのレミニサンスは、哲学的言説が現在にいたるまでひどく苦手な記憶である。

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)

「享楽という原マゾヒズム」とは、欲動のなすがままになること(受動的な状態)にかかわり、この表現は能動的な記憶としての想起に対する受動的な記憶、強制された想起(無意志的記憶)に直接的にかかわる。

『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。

(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

こうして、《強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)》(『プルーストとシーニュ』)、あるいは《強制された運動 le mouvement forcé ⋯⋯それはタナトスあるいは反復強迫であるc'est Thanatos ou la « compulsion»》(ドゥルーズ『意味の論理学』)という表現が生まれる。

「想起/レミニサンス」、あるいは「心的装置内の記憶/心的装置外の記憶(身体の記憶)」とは、ドゥルーズ=プルーストの表現なら、「理知の記憶/魂に刻まれた記憶」でもある。

プラトンの想起の出発点は、相互に捉えられ、その生成と、変化と、不安定な対立と、《相互融合 fusion mutuelle》とにおいて把握された性質と、感覚的関係の中にある(たとえば、或る点では不平等な平等、小さくなる大きなもの、軽いものと不可分な重いものなど)。しかしこの質的生成は、どうにかこうにか、またその力にしたがってイデアを模倣する物の状態、世界の状態を示している。そして、想起の到達点としてのイデアは、安定したエッセンスであり、対立したものを分離し、全体の中に正しい尺度(平等でしかない尺度)を導入する物それ自体である。イデアが、たとえあとから見出される場合でさえも、常に《前に avant》あり、常に前提とされているのはそのためである。出発点は、到達点をすでに模倣できるという能力によってのみ価値がある。その結果、いくつかの能力を分断して用いることは、それらの能力全体を同じひとつのロゴスに統一する弁証法への《前奏 prélude》にほかならない。それは円弧の部分を作ることが弧全体の回転を準備するのに似ている。弁証法に対する批判の全部を要約してプルーストが言うように、理知は常に先にくるのである l'Intelligence vient toujours avant。

『失われた時を求めて』においては、これとは全く同じではない。質的生成、相互融合、《不安定な対立 instable opposition》は、魂の状態の中に刻まれた inscrits dans un état d'âme のであって、もはや、物や世界の状態の中に記されるのではない。夕陽の斜めの光線・匂い・味・空気の流れ・束の間の質的複合体は、それらが入り込んで行く《主観的側面 côté subjectif》においてのみ価値を持つはずである。それが、レミニサンス réminiscence が介入してくる理由である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)

ドゥルーズは、《無意志的記憶 la mémoire involontaire の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない》(『プルーストとシーニュ』)というが、その理由は、上にみたように、無意識的記憶は外傷性記憶だからである。




彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラ」)


⋯⋯⋯⋯

以下、バルトの「南西部の光」を、先ほど引用した文をふくめてその前段をいくらか長く引用する。

ある兆で私は自分が家の敷居をまたいで、幼児期の郷里に入ったことを知らされる。それは、道の脇の松林、家の中庭に立つ棕櫚の木、地面に影をおとして人間の顔のような表情を映し出す独特の雲の高さ。そこから南西部の大いなる光が始まる。高貴でありながら同時に繊細で、決してくすんだり淀んだりしない光(太陽が照っていないときでさえ)。それはいわば空間をなす光で、事物に独特の色あいを与える(もう一つの南部はそうだが)というより、この地方をすぐれて住み心地のよいものにするところに特徴がある。明るい光だ、それ以外にいいようがない。その光はこの土地でいちばん季節のいい秋にみるべきだ(私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ)。液体のようで、輝きがあり、心を引き裂くような光、というのも、それは一年の最後の美しい光だから。
⋯⋯私の身体というのは、歴史がかたちづくった私の幼児期なのだ mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。その歴史は私に田舎の、南部の、ブルジョワ的な青春を与えてくれた。私にとって、この三つの要素は区別できない。ブルジョワ的な生活とは私にとって地方であり、地方とはバイヨンヌである。田舎(私の幼児期)とは、きまって遠出や訪問や話の網を織りなすバイヨンヌ近郊のことだ。

こうして、記憶が形成される年頃に、私はその《重大な現実 grandes réalités》から、それらが私にもたらした感覚のみを汲みとっていった。匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、現実のうち、いわば無責任なもの、後に失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないものばかり(私がパリで過ごした幼年期はまったく異なるものだった。金銭的困難がつきまとい、いってみれば、貧しさの厳しい抽象性をおびていて、その頃のパリの《印象》はあまり残っていない)。

私が、記憶をとおして私の中で屈折した通りの南西部について語るのは、「感じる通りに表現するのではなく、記憶している通りに表現すべきである」というジュベールの言葉を信じているからだ。
⋯⋯⋯たとえば、私の記憶の中で、ニーヴ河とアドゥール河にはさまれたプチ=バイヨンヌと呼ばれる古い一角の匂いほど重要なものはない。小さな商店の品物がすべていり混じって、独特の香りを作り出していた。年老いたバスク人たちが編むサンダルの底の縄(ここでは《エスパドリーユ》という言葉は使わない)、チョコレート、スペインの油、暗い店舗や細い道のこもった空気、市立図書館の本の古い紙。これらすべては、今はなくなってしまった古い商いの化学式のように機能していた(もっとも、この一角はまだ昔の魅力の一端をとどめてはいるが)、あるいはもっと正確にいうと、今現在その消失の化学式として機能している。匂いを通じて私が感じとるもの、それは消費の一形態の変移そのものである。すなわち、サンダルは(悲しいことにゴム底になってしまって)もう職人仕事ではなくなったし、チョコレートと油は郊外のスーパーで買い求められる。匂いは消えてしまった。あたかも逆説的に、都市汚染の進行が家庭の香りを追い出してしまったかのように。あたかも《清潔さ》が汚染の陰湿な一形態であるかのように。




⋯⋯⋯私は子供のころ、バイヨンヌのブルジョワジーの家庭と数多く知り合いになった(当時のバイヨンヌはどこかバルザック的な雰囲気があった)。彼らの習慣、しきたり、会話、生活様式も知ることができた。この自由主義的ブルジョワジーは偏見こしありあまるほどもっていたが、資本の方はあまりなかった。この階級のイデオロギー(まったく反動的な)とその経済的ステータス(ときに悲惨な)とのあいだにんは一種の不均衡があったのだ。社会的、政治的分析は粗い濾器のように機能し、社会的弁証法の《機微 subtilités》は逃してしまうので、こうした不均衡は決して取り上げない。

ところが、私はこうした機微ーーあるいはこうした「歴史」の逆説ーーを、表現こそできなくても、感じ取っていたのだ。私は南西部をすでに《読んでいた》。ある風景の光やスペインからの風が吹く物憂い一日の気怠さから、まるまる一つの社会的、地方的言説の型へと発展していくそのテクストを追っていたのである。というのは、一つの国を《読む》ということはそもそも、それを身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだからである c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps。私は、作家に与えられた領域は、知識や分析の前庭だと信じている。有能であるよりは意識的で、有能さの隙自体を意識する plus conscient que compétent, conscient des interstices même de la compétence のが作家である、と。それゆえ、幼児期は、私たちが一つの国をもっともよく知り得る大道なのである。つまるところ、国とは、幼児期の国なのだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年『偶景』所収)

2019年2月19日火曜日

ほんとはおかあさんの/おなかのなかにもどりたいのね

かわいそう 谷川俊太郎

わたしはともだちにうそをつくけど
おとなってじぶんにうそをつくのね
わたしはからだがちいさいけど
おとなってこころがちいさいのね

わたしはのはらであそびたいのに
おとなってほんとはおかあさんの
おなかのなかにもどりたいのね
それなのにおかあさんはもういない

おとなってこどもよりずっとずっと
かわいくてかわいそう


⋯⋯⋯⋯

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
人間の生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)

ーーこの「愛されたいという要求」は、のちの生で「承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir」(ラカン、E151)へ、そして見られたい欲望へと移行(昇華)する。






誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)


【第一のカテゴリー】
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。

【第二のカテゴリー】
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。

【第三のカテゴリー】
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。

【第四のカテゴリー】
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。


人はまず誰もがこれを認めることだな。たとえばツイッターで鳥語をひとこと囀れば、この四つのカテゴリーのどれかを実践している筈だ。蚊居肢子のブログももちろん同様。

そしてその根には「ほんとはおかあさんの/おなかのなかにもどりたいのね」があるのさ。

例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

「喪われた対象」ってのは、おとし物のことだ。


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

ーーかなしみ 谷川俊太郎


空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする

ーー六十二のソネット「41」


なんでもおまんこなんだよ

ーーなんでもおまんこ


人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt はそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。

(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的biologischerな母からの分離、次に直接的な対象喪失direkten Objektverlustes、のちには間接的方法indirekte Wegeで起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


人間の活動すべては、子宮回帰運動の昇華だよ。だからオマエら、カッコつけるなよ。でも「おとなってじぶんにうそをつくのね」。

人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからである。(プルースト「ソドムとゴモラ」)

ーー「おとなってこどもよりずっとずっと/かわいくてかわいそう」

⋯⋯⋯⋯

症状はすべて不安を避けるために形成される。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章)

症状形成 Symptombildungとは 代理形成 Ersatzbildung の同義であり、欲動過程 Triebvorganges に対する防衛過程 Abwehrvorgangだ。

欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)
(原症状治療手段として症例ジョイスから導き出した)ラカンの脚立 escabeau 概念は、はフロイトの昇華 sublimation freudienne の生き生きとした翻訳である(ミレール L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014年)

ようするに防衛とは昇華のことだ。

(不安防止の重要な方法の一つは)、われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen で、これによって、われわれの心理機構の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標 Triebziele をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにするのだ。この目的のためには、欲動の昇華 Sublimierung der Triebe が役立つ。

一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。

けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動き primärer Triebre-gungenを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)


ラカンにおいては(基本的には)剰余享楽は、原初に喪われた対象aの昇華の対象である。

ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にpar natureあるいは象徴界の効果によって par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)


原初に喪われた対象a(原対象a)とは、上に引用したフロイト文にあったように、《生物学的biologischerな母からの分離》による喪失(おとし物)である。これこそ《去勢の原像》である。

出産行為 Geburtsakt は、それまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration である(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

ーー《享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。》(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977ーーフロイト・ラカン「固着」語彙群



2019年2月17日日曜日

ボクの梅

前回から引き続くけど、この梅だ、庭の入り口の横手にあった梅の木。








桜にくらべてとっても上品だよ、梅は。桜なんてのは遠目の美しかない。あれは散歩につれた歩いてみせびらかす美人みたいなもんだ。梅こそ接近してにおいをかいでやさしく触れてうっとりする女だ。







梅宮大社の庭のなかの写真を眺めていると、あの当時は荒れ放題だったのに、いまではとても手入れがされている。





この池の鯉によくエサをやったもんだ。小さな娘といっしょに。







ぜんぜん関係ないと人は思うかもしれないけど、最近お気に入りのタールキニオ・メールラの Hor ch'è tempo di dormireを貼り付けておこう。これこそ梅花のような音楽だ。


◆Tarquinio Merula: Hor ch'è tempo di dormire; Voices of Music with Jennifer Ellis Kampani




Ellis Kampaniの顔は趣味じゃないけどさ、それはこのさいどうでもいいことさ。


またまた飛躍するけど、マリラ・ジョナス Maryla JonasのマズルカOp 68 No 3ってなんであんなにいいんだろ、これこそ真の梅の花かもな。だれもこんなふうに演奏できないさ。
◆Chopin - Maryla Jonas (1946) Various Mazurkas




2019年2月16日土曜日

梅の季節

いやあ、かぎりなく懐かしいね





25歳ぐらいから35歳のときまで、梅宮大社のごく近くに10年ほど住んだのだけれど、よく訪れた。夜、煙草を買いにいく途中で寄り道して寒気のなかコートの襟に首をすくめて蕾を愛でたり、家族で梅の実を拾いに行ったり、お酒の神様の神社だったので無料の桝酒が飲めたり。ちょっとした庭みたいなものだった。観光ルートから外れていたので、季節になっても客はほんのわずか。それもよかった。

そのせいもあり、桜にはまったく愛着はないけれど、梅には今でもひどく愛着がある。あの京都西郊の桂川に面した土地にも。桂川をわたる風がにおってきたよ、あの映像みてたら。



ボクが住んでいたマンションの構内の散歩道だけれど、桜はウンザリだね、葉桜になったら毛虫がふってきてひどい目にあった。左横は桂川の土手。この土手を散歩するのがとっても好きだった。




ダメ度の高低

享楽ってのは何のことかワカランでいいんだよ。それはラカン派評論家でも似てようなもんだ。

享楽はシニフィアンにおいて非全体(非一貫的)である。la jouissance est partout dans le signifiant(ジャック=アラン・ミレール 、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

ようは、言語で享楽語ろうとしても、支離滅裂になるってことだ。ラカン自身だってそうだよ。

そもそもカントの物自体だって、いまもって何のことだかワカランままで議論百出なんだから、それと同じレベルの話だよ、享楽ってのは。






でもダメ度の高低はあるだろうな。現在主流臨床ラカン派の議論の核は(人が感知しうる)「二つの現実界」(参照)。これは「二つの穴 Trou」ということ。


(S23, 13 Avril 1976)


で、《享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel》(ラカン、S23, 10 Février 1976)なんだから、「二つの享楽」ってことでもある。これを或る程度はおさえているか否かがダメ度の高低ということだ。

象徴界のなかの現実界の機能としての穴、つまり言語秩序のなかの享楽の機能としての穴は、ラカンの友人だったバルトが、はやい時期に書いている。

享楽 jouissance は欲望に応えるもの(満足させるもの)ではなく、欲望の宙吊りsurprend・踏み越え excède・逸脱 déroute、漂流 dérive させるもののことである。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
享楽のテクストTexte de jouissance:それは、忘我の状態 met en état de perte に至らしめるもの、落胆させるもの déconforte(恐らく、退屈ennui になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの fait vaciller、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

基本的には現在に至るまで、殆どのラカン派評論家の「享楽」はこの定義のまま。たとえばファルス享楽の彼岸にある女性の享楽とは、「アンコール」までのラカンにとっては、このバルトの言っている享楽。でもアンコール以後の享楽はまったく異なったものになる。

最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011ーー女性の享楽簡潔版

でも、現在はまだこれを掴んでいる人はすくない。2012年のジジェクでさえ、バルトの定義のままの享楽。

享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 extimité」=親密な外部 extériorité intime である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

でもこの定義ではまったく十分ではない。

主流臨床ラカン派たちは、1973年以降のラカンの享楽あるいは現実界は変化したという前提にたって議論している。この享楽が、ボロメオの環の象徴界と現実界の重なり箇所にある「真の穴 vrai trou」。




これは、フロイトのリビドー固着としての享楽だ。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

ーートラウマとは、ラカン用語では穴のこと。

で、固着、つまりリビドー固着(欲動の固着)がなんたって核心。




・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel、2017)

この固着とは、サントームとしての享楽とその反復強迫。

症状(サントーム・原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

上にミレールが《享楽は身体の出来事である》としているのを引用したけれど、つまり享楽はサントームってことだ。

症状(サントーム)は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、2007年)
「一」と「享楽」との結びつき connexion du Un et de la jouissance が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール, Jacques-Alain Miller L'Être et l 'Un, 30/03/2011)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

というわけだが、だいたいラカン派評論家が享楽を語っているときは、いまだ「言語秩序のなかの享楽の機能」としての享楽が多いんじゃないかな。でも「固着としての享楽」が、よりいっそう肝腎という話に現在はなっている。

ボクもやっと一年半くらい前ぐらいから、「言語秩序のなかの享楽の機能」だけじゃないのが、だんだん分かってきたところさ。

いやあ、今日はちょっと二日酔いだからこの程度にしとくよ

ま、もうすこし知りたかったら、「フロイト・ラカン「固着」語彙群」に怒涛の引用してあるから、それを参照してください。






2019年2月15日金曜日

サントームの永遠回帰

【過去の外傷経験の永遠回帰】
経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


◼️中井久夫
たまたま、私は阪神・淡路大震災後、心的外傷後ストレス障害を勉強する過程で、私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた。それは六十二歳の私の中でほとんど風化していなかった。(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』所収、1996年)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)


◼️古井由吉
三月十一日の午後三時前のあの時刻、机に向かっていましたが、坐ったまま揺れの大きさを感じ測るうちに、耐えられる限界を超えかける瞬間があり、空襲の時の敵弾の落下の切迫が感受の限界を超えかけた境を思いました。

つれて、永劫回帰ということを思い出しました。漢語にすればいかめしいが、この今現在は幾度でも繰り返す、そっくりそのままめぐってくる、ということとおおよそに取れる。過去の今も同様に反復される。病苦やら恐怖やらに刻々と責められたことのある人間には、思うだけでも堪え難い。

過ぎ去る、忘れる、という救いも奪われる。しかし実際に、大津波を一身かろうじてのがれた被災者を心の奥底で苦しめるものは、前後を両断したあの瞬間の今の、過ぎ去ろうとして過ぎ去らない、いまにもまためぐって来かかる、その「永劫」ではないのか。

永劫回帰を実相として示した哲学者は、その実相を見るに至った時、歓喜の念に捉えられたそうだ。生きることがそのままのっぴきならぬ苦であった人と見える。壮絶なことだ。現生を肯定するのも、よほどの覚悟の求められるところか。(古井由吉『楽天の日々』永劫回帰)

⋯⋯⋯⋯

【サントームと永遠回帰】
症状(=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
反復は享楽回帰に基づいている。 la répétition est fondée sur un retour de la jouissance。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
症状(サントーム)は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。⋯⋯それはただ、身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(jacques-alain miller, L'être et l'un、2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

ーーラカン用語の「サントーム」(原症状)とは、フロイト用語なら、トラウマへのリビドー固着、かつその固着(身体の上への刻印)の反復強迫ということ。



※参照:フロイト・ラカン「固着」語彙群


もっともサントームには二つの意味があることに注意しなくてはならない。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
最後のラカンにおいて、父の名はサントームと定義されている défini le Nom-du-Père comme un sinthome(ミレール、2013、L'Autre sans Autre)

ーー上の図は前者の意味でのサントームである。表題「サントームの永遠回帰」は、フロイト用語でいえば、「トラウマへのリビドー固着の反復強迫」である。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)



【享楽と苦痛のなかの快(原マゾヒズム)】
悦楽 Lustが欲しないものがあろうか。悦楽(=享楽)は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――
- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)
私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)
マゾヒズムは三つの形態で観察される。…性感的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen を識別する。第一の性感的マゾヒズム、すなわち苦痛のなかの快 Schmerzlustは、他の二つのマゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは、現実界をもたらす享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel (ラカン、S23, 10 Février 1976)


【エスの永遠回帰(反復強迫・運命強迫・享楽回帰)】
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)
エスの欲求緊張 Bedürfnisspannungen des Es の背後にあると想定される力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
同一の体験の反復の中に現れる彼の人柄の不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…これは運命強迫 Schicksalszwang とも名づけ得る。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
反復は享楽回帰に基づいている。 la répétition est fondée sur un retour de la jouissance。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)



ーーーながながと引用をしているが、この記事の主要な意図は、この図表を示すことにある。


もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
記憶に残るものは灼きつけられたものである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文、第3章、1887年)


【暗闇に蔓延る異者としての記憶(あるいは「異物としての症状」=サントーム)】
記憶はあくまでも生体である。紛失の主にことわりもなしに、外へさまよい出てひとり歩きもする。年も取る。(古井由吉「年の坂」)
欲動代理 Triebrepräsentanz (リビドー固着)は、…暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、…異者のようなもの fremd に思われる。(フロイト『抑圧 Die Verdrangung』1915年)
トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
…症状によって代理されるのは、内界にある自我の異郷 ichfremde 部分である。…ichfremde Stück der Innenwelt statt, das durch das Symptom repräsentiert wird (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
「外傷性記憶」の意味⋯⋯「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」。(中井久夫「記憶について」1996年)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。…時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

フロイト・ラカンにおける次の用語群は、すべて同じ意味をもっている。


フロイト・ラカン「固着」語彙群


あるいは次の用語群もほとんど等価である、