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2019年3月31日日曜日

目隠しと耳栓の選択的非注意

あなたは自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしている。(ニーチェ『反時代的考察』)

たとえばわたくしはこう何度も引用している。

ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ 『笑いと忘却の書』)

あるいは中井久夫超訳エリオット(四つの四重奏)を引用している。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)

かつまたこうもしばしば引用している。

古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1996年『アリアドネからの糸』所収)

あるいは、こう引用してもよい。

結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳をもたないのだ。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような体験ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい経験を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。(ニーチェ『この人を見よ』)
ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫「ヴァレリーと私」)

もはや強くは言いたくないけれど、敢えて言えば、「選択的非注意」にて己に都合よく妄想して、時間の無駄遣いをしないでください。

ラカン曰く、《愛を語ること自体が享楽である Parler d'amour est en soi une jouissance》(S20, 13 Mars 1973)。しかし、愛の言葉 la parole d'amour はけっして真理の言葉ではない。パートナーについて語っているという思い込みは、実は、主体が己れの享楽との関係に満足を与えているにすぎない。ラカンはあれやこれやと言う…。結論。《愛は不可能である L'amour est impossible》。 いくつものセリエが重なってゆく。ナルシシズム、嘘吐き、錯誤、喜劇、不可能。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
愛自体は見せかけに宛てられる L'amour lui-même s'adresse du semblant。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)


2019年3月30日土曜日

「原理主義に陥らない柔軟性」

いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)

いやあ、ボクは日本的環境で育ったすこぶる経験論者気質なので、ときに敢えて原理主義的に振る舞うようにしてるだけだよ。例えばマルクスの価値形態論、フロイトの集団心理学理論、ラカンの言説理論における原理主義者だな、いまだほぼ全面的に信頼してるね。

いかにも経験論に終始しているようにみえる評論家が「原理主義に陥らない柔軟性」などと素朴に言っているのに遭遇すると、こいつはダメなんじゃないか、と疑うようにしてるってことさ。

もっとも「ドクマに陥らない柔軟性」なら(ある意味)問題はないよ。表現の仕方の相違だけかもしれないけど。でも「原理主義に陥らない柔軟性」なんてのは、原理を問うことを忘れてしまったか、もともとその資質がない精神が言いがちな紋切型だな。そう感じてしまうね。

なにはともあれボクは「享楽」については5年ぐらいはそれなりに追及したので、いままで日本で言われてきた「享楽」は全部まちがっている、すくなくとも薄っぺらで原理主義的ではない、とみているね。そもそもラカンの「享楽」とフロイトの「エロス/タナトス」との関係性をしっかり問うてないラカン派の議論はダメだと思っている。その意味では、フランス主流臨床派の代表者二人であるミレール、ソレールにも欠陥がある。


以下、いままで何度か引用してきた文のなかから、とっても分かりすいのを抽出して列挙しておくよ。全部、日本の書き手のね。


◼️合理論と経験論
思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)


◼️無思想で大勢順応して暮している日本人
日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。

イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。

ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思う んです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけで はなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。

しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山真男『丸山座談5』針生一郎との対談)


◼️原理を問わない精神が席巻する「退行の21世紀」
私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)
・逆説的なことに、エビデンス主義って、まさしくポスト真理なんですね。エビデンスって、「真理という問題」を考えることの放棄だから。エビデンスエビデンス言うことっていうのは、深いことを考えたくないという無意識的な恐れの表明です。

・根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。(千葉雅也ツイート)


◼️経験論者は時代の所与の環境あるいは理論に依存している
カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
T.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。(柄谷行人『隠喩としての建築』)
重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)


◼️解釈する視線は解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかない
風景…それは、 視線の対象であるかにみえて、実は視線を対象として分節化する装置にほかならない。…

……解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がたがいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦『表層批判宣言』「風景をこえて」より)


◼️理論の経験を越えた総体的視点
実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)


◼️理論とドグマ
理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。 (……)

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その真理に内在していた盲点と限界とが同時の露呈されることになる。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

2019年3月29日金曜日

ヒト族がサルに勝った理由

少し前、キクラデス芸術をいくつか貼り付けたけれど、他の古代文明の作品で魅せられるのは何だろうなと、このところいくらか眺めている。でもどうしても欲しくなるものは無いね。キクラデス女神のようには。壺ぐらいだな。





ところでーー。

ヒトのように年中セックスをしている動物は、他に実験動物のマウスぐらいではないだろうか。(中井久夫「赤と青と緑とヒト」1997年初出『アリアドネからの糸』所収)

古代の連中は年中セックスやってたんだろうか、今みたいに。古代ローマはやってたに決まってるし、紀元前10世紀ごろのギリシアもやってたんだろう。でも紀元前30世紀のキクラデスはどうなんだろう。ネットで英語論文ちらみしても書いてないんだな、そんなこと。

で、まあいいやと思ってたら、灯台下暗しでここでもやっぱり「歴史家」中井久夫が書いてるや。

人類は、おそらく十万年ぐらいは、生理的にほとんど変化していないと見られている。心理だって、そう変わっていまい。そして、生理と心理は予想以上に密接である。……

他のサル類を圧倒したのは、スズメ型戦略、すなわち数である。その戦術の第一が、三六五日、時を構わず性交できる点、第二は、妊娠期間が例外的に短く、しかも出産後、すぐまた妊娠できる点である。短期間にたくさんの子ができる。人間は頭脳よりも先ず下半身で他のサル類に勝ったのである。だから最古の美術が腹部のふくれた、おそらく妊娠した女性の堂々たる像を描き、また多数の女性器をいたるところに記しているのかもしれない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)

そうか、人間は下半身でサルに勝ったのか。最近の日本人はヤル回数減ってるらしいから、サル並みかもな。どうも若いやつのなかにはケッタイなのが多いと思ってたけれど、あいつらサルなんだな・・・

元々の問いに戻れば、十万年ぐらいは変わってないってのは、キクラデスなんてせいぜい五千年前なんだから、年中やってて当たり前なんだ。いやあベンキョウになった。

中井久夫ってのはなんでこんなに広いんだろ、文学研究者で出発して(青年期に西脇順三郎と手紙のやりとりがあるなどということがある)、科学者(名高い「破門」)、精神科医、歴史家、詩人・・・


歴史のことをわずかでも考えてると、50年前にあれが起こったとか、例えば学園紛争があったとか70年前のあの戦争とかだけに思いを馳せてるヤツってのは小者に見えてくるね、だいたい歴史家ってのはそう感じてるんじゃないか。

でも20世紀には人類史上とんでもないことが起こったのは間違いないね。





地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」初出2006年『日時計の影』所収)


10世紀後まだ人類が滅んでなかったら、未来の、つまり30世紀の歴史家は「我々の不幸の根源20世紀」とたぶんいうだろうよ。で、21世紀以降の女たちは20世紀の悪のせいで、宝の持ち腐れする宿命になったとね。いやあやっぱりサルに勝ったヒト族としては本来、少なくも3人ぐらいは産まないとな。



2019年3月28日木曜日

享無 jouis-sans

前にも記したがな、日本で「享楽」を掴んでいるヤツは皆無とみるね。

最近、Fobesの起業家ランキング 2019の2位に選ばれた鈴木健は、福島震災からしばらくたった時点でーー「科学者」のとんでも発言の跳梁跋扈に業を煮やしてかーー、次のようにツイートしていたがね。

@kensuzuki 要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。


これはラカン派も同じ。日本言論界には真のラカン派はいないよ。一時期注目を浴びたマツタクも新著で寝言を書いちまって沈没したらしいじゃないか。享楽の社会論とかいうヤツで。ま、オガサワラみたいに常に地底を這ってるわけじゃないにしろ。

日本ラカン派コミュニティってのは「共有された無知」共同体だよ。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるもの signified がそのメンバー自身にとって謎の意味するもの signifier である。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。

この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく、ラカン派コミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン(専門用語)の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク、THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE、2004)

ま、世界に10人ぐらいはまともなラカン派いるだろうけどな。若き世代のラカン派リーダーと呼ばれるロレンゾ・チーサは、臨床面では弱さはあるけど、その一人だな。

英原文のまま貼り付けておくよ、これがまともな享楽解釈だね。が三十歳のときの書だ。

At its purest, the jouissance of the object a as surplus jouissance (the partial drive) can only mean enjoying the lack of enjoyment, since there is nothing else to enjoy. This explains why, in Seminar XVII (1969‒1970), Lacan can state: “One can pretend that there is surplus jouissance [jouissance of the object a]; a lot of people are still seized by this idea. [on peut faire semblant de plus de jouir, ça retient encore beaucoup de monde](S17, 11 Février 1970)

Jouissance is suffering, since it is jouis-sans—to use a neologism which, to the best of my knowledge, was not coined by Lacan. Enjoying the lack of enjoyment will therefore mean suffering/ enjoying the lack of the Thing, the fact that the Thing is no-thing (l'achose). (ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2006)

ロレンゾは、「享楽欠如の享楽 enjoying the lack of enjoyment」とか「jouis-sans」とか言っているが、後者は「 享無」とでも訳しておこう。

要するに「穴の享楽」だ。

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ 穴]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)

とはいえ「穴の享楽」だけと言うのは極端で、同時に「穴埋めの享楽」もある。でもこれ自体、ロレンゾの引用するラカンに準拠すれば享無かもしれない。

対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)


ロレンゾの云う「享楽欠如の享楽(jouir du manque à jouir) 」は、コレット・ソレール(2013)も言っている(参照)。


ジジェクも最晩年のラカン観点から言えば、問題があるのを最近見出したが(参照)、そうは言っても8割ぐらいはいけるな(オレの限られた知から言えば、ということだけど)。

まだ20歳代のときのロレンゾ・チーサを見出したジジェクに敬意を表して、次の文を引用しておこう。

まさに享楽の喪失が、それ自身の享楽、剰余享楽 plus‐de‐jouir を生み出す。というのは享楽は、常に-既に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

享楽はない。享楽は常に斜線を引かれている。




生きている者にとっての享楽は、すべて剰余享楽だ。マツタクの言うように享楽から剰余享楽への移行があったんじゃない。最初からそうだ。

死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。(ミレール, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988)
死は享楽の最終形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」)




2019年3月27日水曜日

女における「三次的愛」

男性同性愛者の「母への深く永遠な関係」」にて同性愛の文脈で次の文を引用した。

男/息子は、彼の愛の原対象(母-女の性)を維持できる。娘にとっても、母は最初の唯一の愛の対象である。娘が父へと移行するのは、第二ステージでしかない。この移行はたんなる置き換えである。父が前景に現れるとしても、母の像はつねに背景にある。

この理由で、レスビアン関係はゲイ関係とは直接的な共通点はない。母子関係という最初期の経験の結果として、女性ははるかに容易にバイセクシャルのポジションを受け入れる。彼女はすでに愛の対象として両性を選択している。一方の性から他方の性への移行がある。

反対に、男性にとっての同性愛の選択は、はるかに大きな一歩を踏み出す必要がある。この大きな一歩により、後の生においての性の対象選択の裏返しは容易ではない。

少女にとって、母は最初の愛の対象であり、この対象は父と交換されるという事実が意味するのは、父は少女にとって「二次的選択」だということである。結果として引き続くどんなパートナーも少なくとも「三次的選択」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998年)

この文は異性愛の文脈での愛についても利用できる。

標準的には、男の他の女への愛は、母への愛という「一次的愛」の転移であり、「二次的愛」である。

女の他の男への愛は、母への一次的愛、父への二次的愛をへた、「三次的愛」である。

どちらの愛も転移にすぎないにしろ、対象愛のレベルでは二次的転移と三次的転移の差がある。

愛は転移 transfert である。…愛はたんなる置き換え déplacement、誤謬 erreur にすぎないように見える。私がある人物を愛するのは、常に別の人物を愛しているためである。Toujours, j'aime quelqu' un parce que j'aime quelqu'un d'outre.(ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』1992

そこに前回記したように「母との同一化」機制によるナルシシズムが加わる。

母との同一化 Mutteridentifizierungは、母との結びつき Mutterbindung を押しのける ablösen 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ここでの同一化は、場との同一化である。《父との同一化、つまり自らを父の場に置くこと。Identifizierung mit dem Vater, an dessen Stelle er sich dabei setzte.》 (『モーセと一神教』1939年)。女性の場合は、母の場に自らを置いて、母が父から愛されているように父から愛される(たい)と同時に、母が彼女(娘)を愛したように自らを愛する(ナルシシズム)ということである。

われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)

したがって次のように図示できる。



結局、女の対象愛は、男の対象愛に比べ、薄いのである。

男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場処がある。( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)

これは発達段階における構造的理由でこうなのであり、 女の対象愛を貶めているわけではない。

巷間の名言《男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存》は真理である。

男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

日本では骨抜きラカン派斎藤環による、「関係する女 所有する男」などという浅墓な言葉が流通していたが、「関係する女」の真の意味は、女の愛は三次的愛、かつナルシシズムという意味にすぎない。

それにもかかわらず一時的にせよ、ああいったおバカな言説が、フェミニストたちのあいだでさえ珍重された。あれこそ不幸というものである。

浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)

そもそも斎藤環はフロイトもラカンもまともに読んでいない。それはある程度の知がある者には、数頁読んだだけでわかることである。

⋯⋯⋯⋯

以上に記したことは、現在における男女のあり方の変貌をも視野に入れながら読まなければならない。

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男性への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちもmoi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

《男性への推進力 pousse-à-l'homme》という表現があるが、これはラカンがファルス秩序(神経症的な秩序)に囚われない前エディプス的主体をめぐって語る発言のなかで、《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(エトゥルディ、1972)と言っていることにかかわる。父の名の斜陽の時代には、男たちは女性化するのであり、他方、現在の女たちにおける《男性への推進力 pousse-à-l'homme》は明らかだろう。



2019年3月26日火曜日

男性同性愛者の「母への深く永遠な関係」

結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできない。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳をもたないのだ。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような体験ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい経験を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。(ニーチェ『この人を見よ』)


以下、60年あまりも生きてきたにもかかわらず、不幸にも男性との性的接触をたった一度しか経験していないものが男性の同性愛について記す。

さらにいっそう不幸なことは、接触したといっても能動者側であり、わたくしのなかにある女性性‐受動性の胚芽は、男性との接触において刺激されることははなかったのである。

倒錯者 inverti たちは、女性に属していないというだけのことで、じつは自分のなかに、自分が使えない女性の胚珠 embryon をもっている。(プルースト「ソドムとゴモラ」)

偉大なるプルーストには、同性愛という語彙はない。

私はフランス文学全体の最も重要な探求者とも言えるプルーストが、同性愛という言葉を認めようとしなかったこともつけ加えます。 プルースト は、 同性愛ではなく性的倒錯者(inverti) ・ 性的倒錯(invertion)の語を使う方を好みました。(フィリップ・ソレルスへのインタビュー―パリ・ガリマール本社、2017 年 8 月 28 日―阿部静子)

この、フロイト語彙では「性対象倒錯 Inversion」の経験不足という限りない不幸を補うために、最近はもっぱら女性の方に能動性の役割を担うことを依頼している。実現することは稀ではあるが、ないよりはましである。

とはいえ、男性の同性愛者も、不幸な種族でありうる。

すべての人間はバイセクシャルである。人間のリビドーは顕在的であれ潜在的であれ、男女両方の性対象のあいだに分配されているのである。alle Menschen in diesem Sinne bisexuell sind, ihre Libido entweder in manifester oder in latenter Weise auf Objekte beider Geschlechter verteilen.(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

⋯⋯⋯⋯

前期ラカンはこう言っている。

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)

この見解は、最近になってもほぼ支持されている。

男性の同性愛者の女への愛 L'amour de l'homosexuel pour les femmes は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「女というもの Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。

男性の同性愛者は、その人生において少なくとも一人の女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。男性の同性愛者の母への愛は、他の性への欲望 désir pour l'Autre sexe のこよなき防御として機能する。…

私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、…ラカンがセミネール「無意識の形成」にて例として覆いを解いた男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。(Pour vivre heureux vivons mariés par Jean-Pierre Deffieux、2013 ーーLe Journal extime de Jacques-Alain Miller)


ラカン派の観点とは、上にあるようにもともとフロイト起源である。フロイトは何度も似たようなことを記しているが(参照)、ここではレオナルド・ダ・ヴィンチ論から抜き出す。

われわれが調査したすべての同性愛者には、当人が後でまったく忘れてしまったごく早い幼年期に、女性にたいする、概して母にたいする非常に激しいエロス的結びつき erotische Bindung があった、ーー母親自身の過剰な優しさ Überzärtlichkeit によって呼び醒まされたり、あるいは助長させられたりして、さらにはまた幼児の生活中に父親があまり出てこないということによって。……

さて、この予備段階の後に一つの変化が起こる。この変化の機制はわれわれにはわかっているが、その原因となった力はまだわかっていない。

母への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥る。子供は自分自身を母の位置に置き、母と同一化 Mutter identifiziert し、彼自身をモデルVorbildにして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母への愛を抑圧する verdrängt die Liebe zur Mutter。このようにして彼は同性愛者になる。

いや実際には、彼はふたたび自己愛 Autoerotismus に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代理 Ersatzpersonenであり更新 Erneuerungen に他ならないのだから。

言わば少年は、愛の対象Liebesobjekteをナルシシズムの道 Wege des Narzißmusの途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソスNarzissusと呼んでいる。
心理学的にさらに究明してゆくと、このようにして同性愛者となった者は、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着 Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧(放逐)することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 der Mutter treu な者となる。

彼が恋人としては少年のあとを追い廻しているように見えても、じつは彼はそうすることによって、彼を不忠誠にしうる他の女たち anderen Frauen davon, die ihn untreu machen könnten から逃げ廻っているのである。

われわれはまた直接個々の場合を観察した結果、一見男の魅力しか感じない者も本当は標準的な男性と同様、女の魅力のとりこになることを証明しえた。しかし彼はそのつど急いで、女から受けた興奮を男の対象に置き換え überschreiben、絶えず彼がかつて同性愛を獲得したあの機制を繰り返すのである。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910年)

男性の同性愛者においては、この母への愛の抑圧(防衛)があるので、彼らの多くは、愛ではなく欲望しか語らない事例が多い。もちろんここで、例外を想い起さねばならない。わたくしの知る限りでも、プルースト、ロラン・バルト、ジャン・ジュネ、そして日本では折口信夫。

そして「資本の言説」(=後期資本主義における社会的結びつき)の時代は、そもそも愛の事柄を排除する(もしくは否認する)時代である(ラカンの定義によれば[参照])。現在のイデオロギー(市場原理という非イデオロギー的イデオロギー)は、愛ではなく欲望のみを語ることを促すのである。人はこの「はしたない」イデオロギー猖獗に立ち向かわねばならない。

ロラン・バルトはすでに1977年の時点でこう記している。

『恋愛のディスクール・断章』⋯⋯⋯このような書物が必要とされるについては、恋愛にかかわるディスクール(愛の言説 discours amoureux)が今日、極度の孤立状態におかれているという考察があった。このディスクールは、おそらくは幾千幾万の人びとによって語られているだろう(本当のところは知りようもないが)。しかし、これを公然と宣揚する者はひとりとしていない。恋愛のディスクールは、これをとりまくもろもろの言語活動から完全に見捨てられている。無視され、軽んじられ、嘲弄され、権力はおろかその諸機制(科学、知、芸術)からも遮断されてしまっている。このように、一個のディスクールが、その本性ゆえに、現実ばなれしたものとしての漂流状態 la dérive de l'inactuel に陥り、集団性の埒外へと運び出されている。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』1977年)

この時代に反時代的に立ち向かうためには、「欲望」という語から「愛」という語への移行が是非とも必要である。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

ことさら日本では、凡庸な思想家やら批評家やらが、「欲望」という語を跳梁跋扈させているが、あれこそ時代の侍僕たち、イデオロギーの奴隷たちの破廉恥で厚顔無恥な振舞いである。わたしは彼らを「資本の言説の掌の上で踊る猿」と呼ぶことを好む。


さて次にジャック=アラン・ミレールの男女の同性愛の相違を示す文をふたつ掲げる。

男性の同性愛は、女性の同性愛とはまったく異なった形で構成されている。女の同性愛は愛の審級にある。男の同性愛は欲望の審級にある。男の同性愛は、愛から完全に分離されている。(ジャック=アラン・ミレール、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour、1992)
問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、欲望の原因である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることができるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。

この理由で、男性の同性愛の事例について議論することが可能である、男性の同性愛とは「愛」と言えるのかどうかと。他方、女性の同性愛は事態が異なる。というのは、構造的理由で、女性の同性愛は「愛」と呼ばれるに相応しいから。どんな構造的理由か? 手短かに言えば、ひとりの女は、とにかくなんらの形で、ほかの女たちにとって大他者の価値をもつ。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)

《ひとりの女は、とにかくなんらの形で、ほかの女たちにとって大他者の価値をもつ》とあるが、ここでの大他者とは「他の性」のことである。

「大他者L'Autre」とは、私のここでの用語遣いでは、「他の性 l'Autre sexe」以外の何ものでもない。(ラカン、S20, 16 Janvier 1973 )
「他の性 Autre sexe」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexe」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)

人間にとっての原大他者は男女ともに母である。したがって根源的な愛の対象は「母‐女」である。

ジジェクはこう言っている。

性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体とその「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)

この二つの関係をトーラス円図で示せばこうなる。





これをめぐってさらに別の観点がある。フロイトにとっては、男性の同性愛者と女性の異性愛者は、標準的には「母との同一化→ナルシシズム」という機制をもっている。

母との同一化とは母の場との同一化という意味であり、この機制により原初の愛の対象から免れうる。

母との同一化 Mutteridentifizierungは、母との結びつき Mutterbindung を押しのける ablösen 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

※詳しくは、「男と女の愛の相違」を参照のこと。



さらにフロイト観点では、人間は愛の構造において、「異性愛者/同性愛者」という対立軸はそれほど重要ではなく、マザーコンプレクス/ナルシシズム(二次ナルシシズム)という対立軸のほうがはるかに重要である。


愛の三界


そして男性の同性愛者と女性の同性愛者はナルシシズム側にある。

・男性の同性愛の対象選択 homosexuelle Objektwahl は本源的に、異性愛の対象選択に比べナルシシズムに接近している。

・われわれは、ナルシシズム的型対象選択への強いリビドー固着 starke Libidofixierung を、同性愛が現れる素因のなかに包含する。 (フロイト『精神分析入門』第26章 「Die Libidotheorie und der Narzißmus」1916年)
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)

そして男性の異性愛者はもちろんマザーコンプレクス(あるいは母への「愛憎コンプレクスLiebe-Haß-Komplex」)側にある。女性の同性愛者がマザーコンプレクスと厳密に言えるかどうかは判然としないが、女性の異性愛者に比べれば明らかにマザコン側にあるだろうことは、ミレールが示している通りであり、仮に彼女たちをマザコン側に置いて図で示せばこうなる。







巷間でしばしばみられる、女性の異性愛者たちにおける男性の同性愛者への親しみ発露の理由のひとつは、おそらくこの構造にある。


ここまでの記述はフロイト・ラカン派的観点のみのものであり、しかも彼らの時代から時を経た現在、Jean-Pierre Deffieuxの言うように《私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、…》と強調しておかねばならない。すなわち同性愛の真理は非全体 pastout である。

真理は女である die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)
真理は女である。真理は常に既に、女のように非全体 pas toute である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)

⋯⋯⋯⋯

とはいえ、ミレール曰くの《男の同性愛は欲望の審級にある。男の同性愛は、愛から完全に分離されている》という風に考えること、すくなくともその傾向があるのではないかと疑うことは、とても重要である。


男/息子は、彼の愛の原対象(母-女の性)を維持できる。娘にとっても、母は最初の唯一の愛の対象である。娘が父へと移行するのは、第二ステージでしかない。この移行はたんなる置き換えである。父が前景に現れるとしても、母の像はつねに背景にある。

この理由で、レスビアン関係はゲイ関係とは直接的な共通点はない。母子関係という最初期の経験の結果として、女性ははるかに容易にバイセクシャルのポジションを受け入れる。彼女はすでに愛の対象として両性を選択している。一方の性から他方の性への移行がある。

反対に、男性にとっての同性愛の選択は、はるかに大きな一歩を踏み出す必要がある。この大きな一歩により、後の生においての性の対象選択の裏返しは容易ではない。

少女にとって、母は最初の愛の対象であり、この対象は父と交換されるという事実が意味するのは、父は少女にとって「二次的選択」だということである。結果として引き続くどんなパートナーも少なくとも「三次的選択」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998年)


ここにも人間の発達段階初期に遡って《レスビアン関係はゲイ関係とは直接的な共通点はない》という見解が示されているが、この事実はおそらく疑いようがない。

この観点に立てば、たとえば、ゲイとレスビアンが共闘するLGBT運動は、根本の部分で矛盾がある。思春期あるいはそれ以降、既存イデオロギーとしての社会規範に苦しめられた者たちの社会運動という点だけは同一性があるにしろ、それ以外では本質部分で相剋がある、と言うことができる。


最後にフロイトの基盤となる認識を示す文を掲げておこう。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着(アタッチメントAnlehnung)に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


「原愛の対象」であるとともに「原誘惑者」の母ともあるが、ラカンなら「原支配者」としての母である。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


最後に冒頭から示した内容とは逆のことを言うが、もし男女ともに女性嫌悪があるとしたら、原誘惑者であり原支配者である母との同一化をした女への嫌悪が、その大きな理由であるだろう。

ところでーー。

最後に私は問いを提出する。…次のことは本当であろうか? すなわち、全体的に判断した場合、歴史的には、「女というもの das Weib」は女たち自身によって最も軽蔑されてきた、男たちによってでは全くなく。"das Weib" bisher vom Weibe selbst am meisten missachtet wurde - und ganz und gar nicht von uns? -(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)



2019年3月25日月曜日

去勢による死の欲動

言語を使用するたびに、人はみな去勢される」に引き続くが、ラカンはこう言っている。

我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「一連の諸シニフィアン la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。

S1 はそこに介入する。それは「特定な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet 」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。⋯⋯⋯

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。

我々は勿論、フロイトから引き出した「喪われた対象の機能 fonction de l'objet perdu」をこの点から示し損なっていない。…「話す存在 l'être parlant」における固有の反復の意味はここにある。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

ここに「喪失として定義される何か=対象a」とあるが、これが象徴的去勢である。そして言語によって「分割された主体$」とは、事実上、「去勢された主体」である。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの効果(インパクト)によって導入されたリアルな作用である la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (ラカン, S17、1969)

《「話す存在 l'être parlant」における固有の反復》ともあったが、これも去勢による反復強迫のことである。

すべての話す存在の根源的去勢は、対象aによって-φ[去勢]と徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)


対象aとは、なによりもまず去勢を意味する。

対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

そしてS1というシニフィアンは何か?ーーシニフィアンとは基本的にはフロイトの語表象 Wortvorstellungのことである。ときにイメージ表象(事物表象 Sachvorstellung)も含まれるがーー、この語表象のひとつとしてのS1は何か?

主人のシニフィアンS1の最善かつ最短の例は、シニフィアン「私」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Theory of the Four Discourses、1995)
「私」を徴示するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエなきシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

S1の最も代表的な一人称単数代名詞「私」を使って図示すれば、主体$と対象aーー対象aとは前回示したように「喪失と剰余享楽(喪失の穴埋め)」であるーーは次のようにして生まれる(主体$とは「欲望する主体 sujet désirant 」(S10)のことでもある)。





下段にはラカンの幻想の式が現われている。

ラカンの幻想の式 $ ◊ a にあらわれる $ / a とは、要素なき空虚の場/場なき過剰の要素のことである(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ラカンはこういった考え方をセミネール17前後で示したが、前年のセミネール16で、この論理とマルクスの価値形態論との相同性を語っている。ここではそれを、最も単純な形で図示しておこう。





この図の意味する第一は、他の商品と交換するから商品S1の価値が生まれるのであって、その逆ではないということである。それは、主体$においても同様。他のシニフィアン(他の表象)とコミュニケーションしなかったら、主体の価値はない。

以下の文には対象aは現れていないが、ラカンにおける主要テーゼである。

一つのシニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代理表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]。(ラカン、E840, 1960年)
シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3、 14 Mars 1956)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)


柄谷行人はこう言っている。

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

ーーこれはマルクス起源でありながら、いかにもラカン的である。


もっともラカンの思考はこれだけではない。自閉症的反復強迫(参照:愛の三界)は、この言語による反復強迫に先立つ。

ラカンは既にセミネール11で、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》と言っている(「二つの欠如」は、後年のラカン用語においては「二つの穴」である)。

一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如のこと。これはラメラ神話の語りのなかで最も鮮明に現われている。

このラメラlamelle、この器官organe、それは実在しない ne pas exister という特性を持ちながら、 それにもかかわらずひとつの器官なのだが、それはリビドー libidoである。  

これはリビドー、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドーである。 つまり、不死の生 vie immortelle、禁圧できない生 vie irrépressible、いかなる器官 organe も必要としない生、単純化されており破壊されえない生 vie simplifiée et indestructible、そういう生の本能である。それは、有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物l'être vivantから控除された(差し引かれた soustrait)ものである。

対象 a[ l'objet(a)]について挙げることのできるすべての形態formes は、これの代理表象représentants、これと等価のもの équivalents である。諸対象 a [les objets a] はこれの代理表象、これの形象 figures に過ぎない。

乳房 Le seinは、両義的なもの équivoque として、哺乳類の有機組織に特徴的な要素として、例えば胎盤 le placentaという個体が誕生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser ことのできるものを、 代理表象représenter しているのである 。 (ラカン、S11, 20 Mai 1964)

《生物l'être vivantから控除された(差し引かれた soustrait)もの》とあるが、この控除という言葉は、次の文とともに読むと、よりいっそう鮮明になる。

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)


セミネール11では二つの欠如とあるが、実際は、二つだけではない。大きくみても四つの去勢がある(参照:四種類の去勢)。

前回も引用したが、最晩年のラカンはこう言っている。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


この種々の去勢により、人はみな享楽回帰運動(喪われたモノは取り戻そうとする運動)があるのである。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ラカンはこの反復強迫としての享楽回帰について、こう言っている。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

そして、フロイトにとって反復強迫とは元来、死の欲動であったことに注意しよう。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能(死の欲動)」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

ようするに去勢による反復強迫とは、去勢による死の欲動である。死の欲動とは、究極の融合(原エロス)の廻りの循環運動、あるいは引力と斥力(融合と分離)の運動ということである(参照)。あるいは去勢の廻りの循環運動と言ってもよい。

「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)




こう図示してみると、ここでの話題とは別のことをふと思いついてしまい、記述が長くなる悪癖がわたくしにはある・・・

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


・・・さて話を元に戻さねばならない。

外傷神経症者(トラウマ神経症者)は、身体の上への刻印(リビドー固着)と、心的装置に同化されない身体的残滓(リビドー固着の「エス=現実界」のなかへの居残り)により、反復強迫(死の欲動)を起こす。身体的残滓とは固着により去勢されたものという意味でもある。《去勢Kastration ⋯とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。》(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )

最後に付記的に記しておけば、この反復強迫=死の欲動は、フロイト解釈においては、ニーチェの永遠回帰である。

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

ーーああ、いまだ先ほどの「母なる去勢」悪影響から逃れられない。《永遠回帰に対する最も深い異論は母である》(ニーチェ『この人を見よ』

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ: 」--(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

・・・さてまた復活してなんとか最後まで辿りつかねばならぬ。とはいえ蚊居肢散人はちょっとした高所恐怖症なのであるが、その原因がようやく最近になって判然としてきたのは、ニーチェ、フロイト、ラカン三人組のおかげなのである。

・・・自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)

だがブログ記事破壊欲動から立ち戻らねばならぬ・・・

マルクスの価値形態論自体、その究極においては、「資本の永遠回帰」である。これは、すでに柄谷行人によって「資本の欲動」と命名されているものの別の言い方にすぎない(参照)。

上に引用したジジェク2012の《ラカンの幻想の式 $ ◊ a にあらわれる $ / a とは、要素なき空虚の場/場なき過剰の要素である》における「要素なき空虚の場/場なき過剰の要素」とは、直接的には言及されていないが、マルクスの「資本の中身なき形態/自動的フェティッシュ 」と相同的である。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(⋯⋯)

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)


ーーなどという話は実はどうでもよい、というのがこの記事を書き進めるうちに知り得た成果である・・・

自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。Comment faire pour écrire autrement que sur ce qu'on ne sait pas, ou ce qu'on sait mal? (ドゥルーズ 『差異と反復』「序」1968年)


2019年3月24日日曜日

言語を使用するたびに、人はみな去勢される

言語を使用するたびに、人はみな去勢される。例えば、わたくしは今こう書くことで自らを去勢している。

この言語化により、世界は貧困化されると同時に秩序化される。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収 )

前期ラカンは、言語を「モノの殺害」と言っているが、これはコジューブ=ヘーゲル起源である。

なによりも先ず、シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)

この「モノの殺害」は後年、「象徴的去勢」と言い換えられる。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの効果(インパクト)によって導入されたリアルな作用である la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (ラカン, S17、1969)

さらに3年後にはこう言う。

・シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしで、身体のこの部分にどうやって接近できよう? Le signifiant c'est la cause de la jouissance : sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ?


・シニフィアンは享楽を「停止!」させるものである。Le signifiant c'est ce qui fait « halte ! » à la jouissance (ラカン、S20, December 19, 1972)

ラカンはこれと相同的な表現として、《享楽の侵入(猛侵攻)を記念するもの commémore une irruption de la jouissance》(S17)、ミレールは、《欲動のクッションの綴じ目 capiton des pulsions》(2011)と言っているが、ようするに身体的欲動蠢動の奔馬を飼い馴らす鞍がシニフィアンである。

言語の使用(シニフィアンの使用)によって去勢されてしまうモノとは、現実界であり身体である。《晩年のラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。》(ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )

究極的には、言語の使用によって、人は反復強迫(死の欲動)をもつ。言語の使用こそ、死の欲動の原因である。

例えば人は、「私」という一人称代名詞シニフィアンを使用する度に(本来は)反復強迫に襲われる筈である。なぜならシニフィアン「私」には、心的装置に同化されない「残滓としての身体」があり、それが「反復強迫」を促すから。

ジジェクはこのヴァリエーションとして、《人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかならぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう?》(LESS THAN NOTHING, 2012)(疑問符つきだが)言っている。

要するに、常にシニフィアンと身体がある。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a(喪われた対象)」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)
「一」と身体がある Il y a le Un et le corps(Hélène Bonnaud、2013)

…………


以上、言語の使用による象徴的去勢について記したが、フロイト、ラカンにおける去勢はもちろんこれだけではない。

フロイトにとって去勢とは、自分の身体だと感じられていたものが外部に離れてしまうことである。

去勢Kastration ⋯とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

ラカンにとって去勢とは、享楽(斜線を引かれた享楽)である。



享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)

事実上、生きる存在としてのヒトの享楽とは、剰余享楽である。

剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)

ラカンを読むときには、le plus-de-jouirの両義性に注意しなければならない。この語には、享楽の喪失(あるいは身体の喪失)とその喪失という穴(=トラウマ)の埋め合わせの二つの意味があるのである。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

この区別は現在でさえ、ほとんどのラカン研究者でさえできておらず、一部でのみ再三強調されているだけだが、最も注意すべきことの一つである。


⋯⋯⋯⋯

※付記

ここに記した象徴的去勢の話は、事実上、二十代のニーチェがすでに言っていることである。

・言語の使用者は、人間に対するモノの関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩 Metaphern を援用している。すなわち、一つの神経刺戟 Nervenreiz がまずイメージ Bildに移される! これが第一の隠喩。そのイメージが再び音 Lautにおいて模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。

・人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念 Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)



2019年3月23日土曜日

愛の三界

あなたを乞ふ」で雑に記したことをいくらかもうすこしまとめておこう。

⋯⋯⋯⋯

表題を「愛の三界」としたが、愛だけに限らず、重要な言葉は、まず三界で考えるべきである。それは、ラカンの三界(想像界、象徴界、現実界)でも、カントの三界(仮象、形式、物自体)でもよい。

フロイトは『ナルシシズム入門』でこう記している。

人間は二つの根源的な性対象 ursprüngliche Sexualobjekte を持つ。すなわち、自分自身と世話してくれる女性 sich selbst und das pflegende Weib である。この二つは、対象選択 Objektwahlにおいて最終的に支配的となる dominierend すべての人間における原ナルシシズム (一次ナルシシズム primären Narzißmus) を前提にしている。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)

この数ページ後の記述も合わせて図示すれば、こうなる。




これが、現在のラカン派においても(ほぼ全面的に)信奉されている愛の基本である。それは前回示した通り。

フロイトは「世話をしてくれる女性(養育してくれる女性)」以外に、「保護してくれる男性」を示しているが、これは二次的な存在である。原初の最も重要な人物は父ではなく母にきまっている。もっとも例外はある。

男性によっての男児の養育(例えば古代における奴隷による教育)は、同性愛を助長するようにみえる。今日の貴族のあいだの性対象倒錯(同性へのリビドー 固着)の頻出は、おそらく男性の召使いの使用の影響として理解しうる。母親が子供の世話をすることが少ないという事実とともに。(フロイト『性欲論』1905年)


さてナルシシズム型とは、自我にかかわり想像界である。

自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärer(二次ナルシシズムsekundärer Narzißmus )である。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

アタッチメント型(愛着型)とは、大他者に関わり象徴界である。これは《両親コンプレクス Elternkomplex》(『快原理の彼岸』)と呼んでもよい。

原ナルシシズムとは、リビドーに直接的にかかわり現実界である(後述)。

以上より(さしあたり)ボロメオの環にて次のように図示できる。




この図で重要なのは、

二次ナルシシズムは原ナルシシズムを覆っている。
原ナルシシズムは両親コンプレクスを覆っている。
両親コンプレクスは二次ナルシシズムを覆っている。

ーーことである。

覆っているとは、それぞれ支配しようとするということである。想像界は現実界を、現実界は象徴界を、象徴界は想像界を支配しようとする。だがそれは今記した循環的仕組みにより不可能である。

愛を歌う詩人たちは、おおむね二次ナルシシズムのレベルでしか考えていない。その詩句の美に酔うことは、蚊居肢子もときに好まないではないが、やはり理論的には大きな欠陥がある。その欠陥は、一流詩人においてさえ見られる。


ところでここからが難解なのである。究極の問いは、原ナルシシズムとはいったいなんなんだろう? である。

これは蚊居肢子もようやく最近なんとかつかみかかってきた話であり、十分に整理して記すことは不可能である。

長いあいだ、フロイトさん何言ってんだろ、と首を傾げていたのである。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

結局、至高のフロイト解釈者ラカンに頼らずには、フロイトの言っていることはわからない。(ラカンを避けることが多い)フロイト研究者がいつまでもトンチンカンなのは必然である。

ラカンは、セミネール10にて、「原ナルシシズム narcissisme primaire」と「自体性愛 auto-érotisme」と「自閉症的享楽 jouissance autiste」を等置しつつ、去勢マテーム (-φ) に触れている。

(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー己れの身体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)

先に言ってしまえば、原ナルシシズムの核心は去勢なのである。

とはいえ、すこし廻り道しよう。

フロイト自身、すでに「(原)ナルシシズム的」と「自閉症的」とを等価なものとして扱っている。

ナルシシズム的とは、ブロイアーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

「原ナルシシズム」と「自体性愛」も同様に等置している。

愛Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)

こうして先ず、「自閉症的であり自体性愛的な原ナルシシズム」ということが判明する(フロイト・ラカンにおける「自閉症」と現在の流行病自閉症とを混同しないように注意しよう)。

ラカンの自閉症的享楽とは、フロイト用語を使って言い直せば「自閉症的反復強迫」のことである。ジャック=アラン・ミレールは《身体の自動享楽 auto-jouissance du corps》と言っているが、これはサントームの反復強迫(=リビドー固着による自動反復)のことである(参照)。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Momentは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es にある。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ーー享楽自体が、自閉症的享楽(=女性の享楽)であることはもはや何度もくり返したのでここでは記さない(参照:女性の享楽簡潔版)。


だが、なぜ人間にはこんな身体の自動反復が起こるのか。ーー去勢のせいである。

去勢とは、《全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen》(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)のことである。ここでの去勢は、オチンチンをちょん切る話ではまったくない。

原初の乳幼児は母を自分の身体だと捉えている。それが分離されてしまうことが去勢である。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

フロイトは母の乳房を例に出すことが多いが、去勢は乳房に限らない。原母からの分離、これが去勢であり、その外部に離れてしまった身体を愛することが原ナルシシズムである。

ラカンはこの「去勢された外部」を次のように表現した。

親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a (喪われたモノ)とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
(フロイトの)モノ(原初に喪失したモノ)、それは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

かつまたフロイトの異物に相当する「異者としての身体」という表現もあるが、これも究極的にはモノである。

異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

モノとは不気味なモノでもある。

外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 不気味なもの Unheimlich でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、1985)

原ナルシシズムの核心は「去勢された外部」(最も親密な外部)への《原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung 》である。

疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

究極には母胎回帰運動がある。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter ⋯⋯に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

だがほんとうに母胎回帰してしまったら人は死ぬ。 エロス欲動が原マゾヒズムであり自己破壊欲動であるのは、なによりもまずこのせいである(参照:エロス欲動という死の欲動)。

おわかりだろうか? これが原ナルシシズムであり、事実上、原母コンプレクスである。

愛の起源はここにしかない。

上に引用した『精神分析概説』草稿ーーフロイトの死の枕元にあった草稿であるーーにおける《原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung 》の前後をも引用しておこう。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着(アタッチメントAnlehnung)に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ジャック=アラン・ミレールが次のように宣言するのは、今記してきた文脈のなかにある。

原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

こうして原母との分離による原ナルシシズムが、人間の愛の根源であることが判明したーーであろうか? 

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

例外に思いを馳せるにしろ、出発点はここからである。

愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)


⋯⋯⋯⋯

以下、一般教養篇として記しておく。


■リビドー=享楽

リビドーとは享楽のことである。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(Miller, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

ーー微妙な差異はないではないが、ここでは割愛(参照)。



◾️リビドー =エロスエネルギー
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)


◾️リビドー =愛の欲動
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯)

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

ようするに、フロイトの最後の言葉、《原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung 》とは、去勢(原母との分離)による愛の欲動のことである。


さらにラカンによるリビドーの究極の定義は、次のものである。

リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelleである。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

このリビドーは、永遠の生(不死の生)でありながら、個体の死でもあるだろうことは、「永遠の生ゾーエーの女神」で示した。


死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。(ミレール, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988)
死は享楽の最後の形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」ーー究極のエロス・究極の享楽とは死のことである

要するにフロイトのリビドーは基本的には、分子のエロス欲動(愛の欲動)である。もっとも上に引用したように愛の欲動による母胎回帰運動の最終地点は死(母なる大地との融合)である。

ラカンはおそらくこういったことをも視野に入れつつ、分母にある原エロス(永遠の生=死)としてのリビドーをも示しているということになる。いや、上の定義を額面通りとれば、すくなくともそういう見方ができる、とだけ言っておこう。


有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

最後に記しておけば、肝要なのは、フロイトの表面上の叙述に反して、究極のエロスが死であり、タナトスはむしろ死を避ける運動、死の廻りの循環運動だということである。これが現在ラカン派によるフロイト解釈である(参照)。





2019年3月22日金曜日

あなたを乞ふ

「私は愛している j' aime 」とは「私は欠如している je manque de」ということである。(ジャック=アラン・ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)

いやあ、じつにいいな、折口的で。日本人は「愛」などという語を使うべきではない。「乞ふ」でよろしい。愛とは乞食になることである。

こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)
こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ(目上から)に対するこふ・いはふに近いこむ(籠む)などは、其原義の、生きみ魂の分裂の信仰に関係ある事を見せてゐる。(折口信夫「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として」)


「私は愛している j' aime 」=「私は欠如している je manque de」とは、私は去勢されているということである。

ここでの去勢とは、オチンチンをちょん切ることではまったくない。それについては「穴と穴埋め」で比較的念入りに記したので繰り返さない。

その前提で次の文を読まねばならない。

私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢 castration」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジション position féminin からのみ真に愛する。愛することは女性化することである Aimer féminise。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽 un peu comiqueである。(On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller 、 2010)


もっとも「女性的」といっても、単純ではない。女性の享楽というものがあるのだから。これが愛をはばむ諸悪の根源である→「女性の享楽簡潔版

――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象選択 choix amoureux よりも享楽のポジション position de jouissanceが決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることêtre battue, violée を想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女autre femmeだと想像したり、ほかの場所にいるêtre ailleur、いまここにいない absenteと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)

ああ、なんと厄介な女性の享楽! でも男が女に魅惑されるのは、このせいであるところがおおい。「いやよいやよも好きのうち」ってのは、女性の享楽の審級(身体の自動享楽)にある。女たちはエゴレベルではもちろん否定するが、エスレベルではまがいもない真実である。


女の身体は冥界機械 chthonian machine である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
フェミニズムは、宿命の女を神話的誹謗、陳腐なクリシェとして片づけようとしてきた。だが宿命の女は、太古からの永遠なる(女による)性的領野のコントロールを表現している。宿命の女の亡霊は、男たちの女とのすべての関係に忍びよっている。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture: New Essays", 1992)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)


一方、男は単純である。男にはよっぼど若くて元気のいいときでなければ、「いやよいやよも好きのうち」なんてのはない。

蚊居肢子が女に惚れるときはだいたい次のメカニズムにある。

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が愛の引き金を引いたdéclenche l'amourのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を告白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は愛の引き金を見出しましたdécouvre le déclencheur。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。

このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシズム的イメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)


このミレールの言っている話は、フロイトによる愛の古典『ナルシシズム入門』に則っている。




たぶんここでの問いは、原ナルシシズムとは何か? であろう。それ以外は明瞭である。この原ナルシシズムについてはほとんどのフロイト・ラカン派でさえいまだわかっていない。

でも原ナルシシズムとは去勢への愛ーーかつて幼児が自分の身体だと思っていたものへの愛、つまり原大他者としての原母への愛ーーとその反復強迫(死の欲動)である。

原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

ほかの愛とは、すべて転移である。それが上の図で示した「代理人」の意味である。


■ジャック=アラン・ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』(1992)

精神分析における愛は転移 transfert である。…愛はたんなる置き換え déplacement、誤謬 erreur にすぎないように見える。私がある人物を愛するのは、常に別の人物を愛しているためである。Toujours, j'aime quelqu' un parce que j'aime quelqu'un d'outre.

この理由で精神分析において、愛は模造品の刻印を押されている。精神分析は愛のデフレdévalorise l'amour を促しているようにさえ見える。すなわち愛の生の降格 dégradation de la vie amoureuseを。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的であるl'amour est labyrinthique 。愛の道のなかで、人は途方に暮れ自らを喪う。

それにもかかわらず精神分析は愛の道を歩む。転移なき分析はない Il n'y a pas d'analyse sans transfert。…

分析家の実践は、愛の自動的性格 caractère automatique de l'amour を是認し利用する。…愛されるためには、分析家でありさえすれば十分である Pour être aimé, il suffit d'être analyste.。

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動性 l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちに食事を与えている場に遭遇した瞬間だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…(ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』1992)

長くなるが、引き続いた箇所のほうがいいかな。

我々はフロイトの仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移である l'amour est transfert。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。

精神分析作業は何に関わるのか? 対象a と対象x とのあいだの類似性、あるいは類似性の顕著な徴に関わる。これは、男は彼の母と似た顔の女に惚れ込むという考え方だけには止まらない。しかし最初のレベルにおいては、類似性のイマジネールな徴が強調される。この感覚的徴は、一般的な類似性から極度の個別的な徴へ、客観的な徴から主体自身のみに可視的な徴へと移行しうる。

そして象徴秩序に属する別の種類の類似性の徴がある。それは言語に直接的に基礎を置いている。例えば、「名」の対象選択を立証づける精神分析的な固有名の全審級がある。さらに複雑な秩序、フロイトが『フェティシズム』論文で取り上げた「鼻のつや Glanz auf der Nase」--独語と英語とのあいだ、glanz とglanceとのあいだの翻訳の錯誤において徴示的戯れが動きだし、愛の対象の徴が見出されるなどという、些か滑稽な事態がある。

類似性の三番目の相は、ひょっとして、より抽象的かもしれないが、愛の対象と何か他のものとの関係に関わる。すなわち主体が、かつて根源的対象と経験した同じ関係の状況のもとにある対象xに恋に陥ることがありうる。あるいはさらに別の可能性、対象x が自我自身と同じ関係にある状況。

フロイトは見出したのである。「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…

例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択choix d'objet narcissique である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)

例外はない。女性の方のなかには、「アタシとカレとのあいだの愛はそんなのじゃないわ」という人がいるかもしれないが。

私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。 事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。

また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。 こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な女性に会ったことがない不幸な男である、 という風に曲解して、私に同情を寄せてくる女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。 しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。 (三島由紀夫「女ぎらひの弁」)

いやあ、シツレイ! この三島ってヒドイね。でも彼は原ナルシシズムの人だから許してあげてください。

三島由紀夫は生後まもなく祖母夏子に取り上げられ、母親は4時間置きに、授乳をする時のみにしかわが子に逢う機会はなかったという話は名高く、これでは極端な「原ナルシシズム」人格になるに決まっている。原ナルシシストとは原母だけに忠誠を捧げ、他の女は糞という人格である。

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡traitsがある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)
⋯⋯⋯このようにして同性愛になったものは、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着 Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧(放逐)することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 der Mutter treu な者となる。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)

ネット上をみるとよくまとまった文があるので貼り付けておこう。

三島の初期の母子関係は異様なものであった。多くの人がその異様さの一端として引用するが,『伜』 によれば,三島の授乳は4時間おきで,祖母・夏子によって管理されており,授乳時間も10分か15分と決まっていたという(安藤,1998)。また,早くから母親と引き離され,ヒステリー持ちの祖母のカビ臭い部屋に置かれ,祖母の世話役的な育てられ方をした。近所の男の子との遊びも悪戲を覚えてはいけないとの理由で禁止され,女の子として育てられた。祖母の名を差し置いて最初に母の名を呼ぶことが祖母の ヒステリーを誘発することを恐れた幼い三島は,いつも祖母の名を先に呼ぶよう気を遣っていた(平岡, 1990)。

こうした陰鬱な時間は,三島が16歳で書いた処女作『花盛りの森(1944)』の中に,「祖母は神経痛をやみ,痙攣を始終起こした。(中略)痙攣が,まる一日,ばあいによっては幾夜さもつづくと,もっ と顕著なきざしが表れてきた。それは『病気』がわがものがおに家じゅうにはびこることである」と,幼い感受性でとらえた異常さと緊張が描写されている。ここには,①母性の早期の剥奪,②性の同一性の混乱,③依存を体験する前に大人に対する気遣いや世話を身につけてしまったことなど,世代の錯綜の問題などがすでに孕まれており,三島自身が初期に拘るようになるに十分な人生のスタートであった。(井原成男「ロールシャッハ・テストプロトコルからみた 三島由紀夫の母子関係と同性愛」2015)

2019年3月21日木曜日

最も美しいキクラデス彫刻

最も美しいキクラデス彫刻は、下のルーブルの陳列棚にあるほぼ完全な卵型をしている左隅の女性の頭部像である(もちろん蚊居肢ブログの架空の登場人物蚊居肢子にとって、という意味だ)。





これほど完璧に近い卵型はほかには見当たらない。





何世紀ものあいだにすぐれた様式化をなされていったキクラデス諸島彫刻のなかでも、奇跡である。

これらの彫刻群は基本的には死体といっしょに埋葬される「永遠の女神」である。





顧客に手に入れらるのは、死の以前であることも多く、おそらく家のなかに飾られていた(ときには目や首飾りなどの描画がなされたり赤などの着色がなされたりして)。これは、20世紀前後に一部の芸術家(ブランクーシ、ピカソ、モディリアーニ)等だけにほそぼそと愛されたキクラデス彫刻を、1980年前後から初めて系統的分析をしたパット・ゲッツ・ジェントル Pat Getz-Gentle 女史の見解だが、現在に至るまで覆される様子はない。






彼女の1990年時点の論文によれば、そのときまで男性像は5パーセント程度しか発掘されておらず、制作意図の基本は、おそらく「永遠の生」(ゾーエー)としての女神の象徴化である。






大理石の質感としては、陳列棚の右隅にある頭部像がいっそう好ましいが、彼は(つまり蚊居肢子は)この左隅の像をどうしても取る。軀部分などまったくいらない、この女の頭だけでいい。

形態的には墓のなかに横にして安置される彫像なので、いささか尖った卵にならざるをえないのだろうが、その様式化に対する微妙な離反としてのこの形である。




実に蚊居肢子の所有する亀頭的美をもっている。いっしょに埋められたのはきっと麗しき美女だったことだろう・・・

この作品制作職人にさいわいあれ!



ここで挿入的に記せば、もちろん蚊居肢子は我が江戸文化鼈甲芸術の無名制作者にも敬意をうしなう者ではまったくない(そもそもキクラデス彫刻の小ぶりのものは、あの時代の張型だった可能性があるのでは、と蚊居肢子は密かに考えているが、この見解は世界中でまだ誰も公けにしておらず、今後の究明がひどくまたれる)。





話を戻せば、あの作品のイミテーションが、ルーブルの土産物ショップに売っていて手に入れたが、35年のあいだこの卵に至高の愛を捧げている。




彼の所有している卵は使用過多でいささか黄ばんでしまったが。







上のようにゴダールのパートナー、アンヌ=マリー・ミエヴィルも我が神代辰巳も卵に究極の愛を捧げている。卵以外のほかのイマージュなどすべてまがいものである。

ただしくりかえせば、質感だけは右隅のものがよい。艶光りしているのである。このような輝きは、鼈鍋を食ったあとにしかもはや老年の蚊居肢子には見出されない。





すべてのものは球か、円錐か円筒形である...それは事実だ。その観察を最初に(自分が)したのではないのは、なんともうまくない(残念だ)。セザンヌは正しかった。(ジャコメッティーーメルセデス・マッター『試論』)

《秘訣とは卵のあの曲面ですよ。なぜなら、陶工の轆轤がまずはじめに形を仕上げていれば、見かけ倒しの部分はもうなくなっているから。》(アラン『彫刻家との対話』)

彫刻がばかでかくなったのばかげている
飾りものが多い彫刻もばかげている
卵かそれよりもすこし大きい形の彫刻
美の起源はそこにしかない





ーーなんというギリシア芸術の不幸な進展! さらにローマ以降、あるいはルネサンス彫刻の誇大妄想的作品群など鼻を抓んで眺めるしかないのである(シツレイ! これは架空の登場人物「蚊居肢子」の偏見的話だということを再度念押しして置かなくてはならない。フロイトが言ったように愛とは排他的なのである)。

「古代の彫刻…これらには、どこかに共通したところがあります。卵型、壺の丸み、これが共通点です。面のどの起伏も、どの凹みも、すべてあの偉大な法則に服従しているでしょう。ところが、そうだからこそ、何か表情が出ている。表情、そういっていいでしょうね。ただし、何も表現していない表情。そういえますね」

「そういっていい」と私は答えた「いや、そういわねばならない。というのも、言語で説明できそうな感情を彫刻が表現しているとき、われわれは彫刻の外にいるわけだから。それでは完全にレトリックの分野に出て、調子のいいことをしゃべっているだけのことになる。だから私としてはこういいたいと思うのだが、ほんとうの彫刻というものは、ある存在の形体以外のいかなるものも絶対に表現していない。存在の形体、つまり存在のもっとも深い内部という意味だよ。そういう深みから、存在の形はうみ出されて来るし、また奇型の形成を拒否しつつこの世に押し出されもしたのだから」 (アラン『彫刻家との対話』杉本秀太郎訳)

ーージャコメッティやアランのいっている卵は、より無意識的レベルでは別の意味がある筈である。

なぜアンドレ・ブルトンは、ジャコメッティ30歳のときの作品「宙吊りになった玉 Boule suspendue」を、ジャコメッティがシュルレアリスム運動から離反したあとも生涯愛し続けたのか?




真の芸術家たちは、真の美をよく知っているのである。

なお美については一見相反する二種類の見解がある。

①ニーチェ・フロイト的観点。

すべての美は生殖を刺激する、――これこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質propriumである。(ニーチェ『偶像の黄昏』)
「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

②ラカン派的観点(これはカントの崇高概念も含めた美である)

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7、18 Mai 1960 )
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant、2014)

だがこれは実は同じことを言っているのである(ここでは説明は割愛、「女陰の奈落」を見よ)。結局、リルケの「ドゥイノの悲歌」冒頭の「美はおそるべきものの始まり」に収斂する。

さて何の話だったかーー。

ああ、蚊居肢子はあの至福の状態から外界に出てしまったのである。それはあなたがた皆と同様に。




なんという不幸の60年だったろうか!

ああ、あの廃墟になった享楽!
ああ、あのとんでもないおとし物!

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)





とはいえ蚊居肢子の場合、自我のレベルではいまだあの状態に戻りたいという願いはないのである。その願いは、通常はエスのレベルでしかない。ただしときにエスの願いが奔出する。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)

いや、耳をすませば、エスの声はいつもきこえてくる。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)



子宮から子宮へ


そう、あの母なる大地への帰還を促す声が。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


大切なのは、人はみなおとし物をしてしまったことを熟知することである。愛の起源はここにしかない。


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

ーーかなしみ   谷川俊太郎


このおとし物がラカンの究極の対象aである。それについては「穴と穴埋め」で詳述した。

若き谷川は空の青さと波の音を強調している。波の音とは羊水の音にきまっているのである。そもそも詩の起源は、あの羊水のなかできいた母の言葉以外にはない。

少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

こちたくこごしい欧米翻訳語を使ってばかりいるインテリ詩人たちにわざわいあれ!


空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする

ーー六十二のソネット「41」


この若き頃の谷川の直観は、齢を重ねるにしたがって、実にフロイト的な認識に至るようになる。


なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ

ーーなんでもおまんこ


肝腎なのは、人はこのような根源的思考を欠かさないことである。

いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)