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2019年4月29日月曜日

ブラックホールの周圍にむらがる蛾

最近ブラックホールが撮影されたそうだな
ぜんぜん知らなかったけど





なぜこんなにぼやけているかというと遠いからだそうだ






いやあでもそっくりだな
人の人生のイマージ、「享楽の周圍にむらがる蛾」に。





大江健三郎は「魂のことをする」とは、
「中心の空洞」に向けて祈ること
としたけどね、
魂のことから逃げだしたらだめさ

魂のことを追いかけて行くと、最終的には神に行きあたるわけでしょう? (大江健三郎、燃え上がる緑の木、第二部)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

いまだ父の名やら父の名の排除とかをまがおで語っている連中がいるがね
ドゥルーズ派やらデリダ派ならまだしもラカン派にもさ
あいつらたんなるバカだよ

神の死 La mort de Dieuは、父の名の支配として精神分析において設立されたものと同時代的である。そして父の名は、少なくとも最初の近似物として、「大他者は存在する」というシニフィアン[le signifiant que l'Autre existe]である。父の名の治世は、精神分析において、フロイトの治世に相当する。…ラカンはそれを信奉していない。ラカンは父の名を終焉させた。

したがって、斜線を引かれた大他者のシニフィアンS(Ⱥ)がある。そして父の名の複数化pluralisme des Nom-du-Père がある。名高い等置、「父の諸名 les Noms-du-Père」 と「騙されない者は彷徨うles Non-dupes-errent」である(同一の発音)…この表現は「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは「大他者は見せかけに過ぎないl'Autre n'est qu'un semblant」ということである。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)

父の名はとっくの昔に死んだんだ。その底にある S(Ⱥ)のみが肝腎だ。そしてこのS(Ⱥ)こそブラックホールのシニフィアンさ。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)……(ポール・バーハウ, PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?、1999)


享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓(穴埋め) [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ここで37歳の蓮實を付け加えておいてもいい。

巨大なる疑問符が消滅した以後の白々とした地平には、もはや疑問符が疑問符たりうる条件は残されていないのだから、それが不毛な試みであることは自明の理でありながら、あえて不可能と戯れようとする意図からではなく、ただ驚くほかはない楽天的な姿勢で、新たな思想家の思想を解明しようと躍起になる。それが、「神の死」を徹底した虚構だといいはる人びとによって遂行されるのであればまだ救われもしようが、「神の死」はおろか、「不条理」を、フーコーの「人間の死滅」を当然のこととしてうけ入れている人びとの口からもれてくるもっともらしい言葉であったりすると、それこそ絶句するほかはない。なぜならそれは、「神の死」を無造作に口にしながら、しかも「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草にほかならないからである。(蓮實重彦「問題・遭遇・倒錯」1973年)


ようするに「現代的知識人」ってのがそもそもみんなバカなんだろうよ




2019年4月24日水曜日

おまえたちはエロスについて何も知らない

或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。
僕    それは僕の責任ではない。(芥川龍之介「闇中問答」昭和二年、遺稿)
僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。…僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。…

僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)

⋯⋯⋯⋯

芥川は21歳頃、『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』を抄訳している。

自分が、如何に生く可きかを學んでゐたと思つてゐる間に、自分は、如何に死す可きかを學んでゐたのである。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳、1914(大正3年)頃)
我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃)

数日前、この抄訳が青空文庫に入庫されているのを読み、「光に於ける蛾」はこんなところにもあったのか、と思った。

かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。 

されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。(萩原朔太郎「青猫」序、1923(大正12)年)

「プラトオのエロス」ーー人の生はエロスの周圍にむらがる蛾である。

「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb(欲動)という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)




哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

究極のリビドー とは受生において喪われた永遠の生である。

リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelle(永遠の生)である。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

この「永遠の生」としてのリビドーが究極のエロスであり享楽である。

すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

ラカンが「享楽は去勢だ」というのは、何よりもまず、享楽は生きる存在から常に既に喪われているからである。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

《生きる存在から控除された soustrait à l'être vivant》リビドー とは、去勢された享楽を意味する。

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)





去勢されていない享楽、それを永遠の生と呼ぶ。

何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1889年)

おまえたちは享楽について何も知らない。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)

死の欲動とは、永遠の生=死=究極のエロスのまわりの漂流、さまよいである。《われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance》(ラカン、Télévision 、AE534、1973)

おまえたちは、かつて享楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。

Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -

……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――

- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 ーー享楽の周圍にむらがる蛾

ここにはゾーエーがある。アガンベンの「ゾーエー=剥き出しの生」とはまったく異なるケレーニイ注釈のゾーエーが。

ゾーエー Zoë はすべての個々のビオス Bios をビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根』1976年)

古代ギリシア語には「生」を表現する二つの語、「ゾーエーZoë」と「ビオス Bios」があった。

ゾーエーは永遠の生、無限の生である。ビオスは有限の生、個人の生である。ビオスは、ゾーエー、つまり永遠の生という母体の上の個人的な生と死である。ここで「コーラ χώρα」を想起すべきかもしれない。《コーラは「母」である》とプラトンは『ティマイオス』でいきなり宣言している。だがχώραとZoëの近接性はネット上で英語で検索するかぎりは誰も言っていないので、ここではゾーエーだけに絞る。

ゾーエー(永遠の生)は、タナトス(個別の生における死)の前提であり、この死もまたゾーエーと関係することによってのみ意味がある。死はその時々のビオス(個別の生)に含まれるゾーエーの産物なのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス 破壊されざる生の根 』1976年)

永遠の生とは個人の生の側からみれば死である。《死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。》(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)。

Lust→ Libido → jouissance → Mort → Zoë →永遠の生 ewige Lebenである。《学問的に、リビドーLibido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「快 Lust」という語がただ一つ適切なものである。》(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)

わたしがケレーニイから学んだことは、ゾーエーというのはビオスをもった個体が個体として生まれてくる以前の生命だということです。ケレーニイは「ゾーエーは死を知らない」といいますが、そして確かにゾーエーは、有限な生の終わりとしての「死」は知らないわけですが、しかしゾーエー的な生ということをいう場合、わたしたちはそこではまだ生きていないわけですよね。ビオス的な、自己としての個別性を備えた生は、まだ生まれていない。そして私たちが自らのビオスを終えたとき、つまり死んだときには、わたしたちは再びそのゾーエーの状態に帰っていくわけでしょう。

だからわたしは、このゾーエーという、ビオスがそこから生まれてきて、そこに向かって死んでいくような何か、あるいは場所だったら、それを「生」と呼ぼうが「死」と呼ぼうが同じことではないかと思うわけです。ビオス的な個人的生命のほうを「生」と呼びたいのであれば、ゾーエーはむしろ「死」といったほうが正解かもしれない。(木村敏 『臨床哲学の知-臨床としての精神病理学のために』2008年)


芥川は早い段階で気づいたのかもしれない、と言っておこう。冒頭に引用した《「點鬼簿」は彼の晩年の暗澹たる諸作品の先驅をなしたものである。彼は非常にひどい神經衰弱の中で、この作品を書いた。彼はこの作品を書きながら、幾度か、その母の「少しも生氣のない、灰色をしてゐる」顏を思ひ浮べた事であらう。》(堀辰雄『芥川龍之介論』1929(昭和4)年)

僕は二十八になった時、――まだ教師をしていた時に「チチニウイン」の電報を受けとり、倉皇と鎌倉から東京へ向った。僕の父はインフルエンザの為に東京病院にはいっていた。…

僕が病院へ帰って来ると、僕の父は僕を待ち兼ねていた。のみならず二枚折の屏風の外に悉く余人を引き下らせ、僕の手を握ったり撫でたりしながら、僕の知らない昔のことを、――僕の母と結婚した当時のことを話し出した。それは僕の母と二人で箪笥を買いに出かけたとか、鮨をとって食ったとか云う、瑣末な話に過ぎなかった。しかし僕はその話のうちにいつか眶が熱くなっていた。僕の父も肉の落ちた頬にやはり涙を流していた。 

僕の父はその次の朝に余り苦しまずに死んで行った。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)

現代のように両親などの最も身近なものたちがいつまでも長生きすると、真のエロス=死について人はなかなか気づきにくいのは確かだ。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(グザビエ・ビシャ Xavier Bichat ーー、フーコー『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳より孫引き)
昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(リルケ『マルテの手記』)

だがすくなくともまともな文学者や詩人であれば、いつか(無意識的にであれ)体感することではないか。

生きているということもまた、死の観念におさおさ劣らず、思いこなしきれぬもののようだ。生きていることは、生まれて来た、やがて死ぬという、前後へのひろがりを現在の内に抱えこんでいる。

このひろがりはともすれば生と死との境を、生まれる以前へ、死んだ以後へ、本人は知らずに、超えて出る。(古井由吉『この道』「たなごころ」2019年)
エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

ーー《人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。》(中井久夫「「「祈り」を込めない処方は効かない(?) 」1999年)


2019年4月23日火曜日

私はどのラカン派にも喧嘩を売っている

私はどのラカン派にも喧嘩を売っている。そもそも次のことを外して享楽を語っている連中はラカン派でもフロイト派でもない。ところが日本では、ここから逃げ出し視線を逸らしているボウヤばかりである。

私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


ブラックホールへと誘引する欲動要求を知らぬ学者バカが享楽を語っても詮方なしである。

自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
エスの力能( 権力Macht)は、個々の有機体的生の真の意図 Einzelwesens を表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)




2019年4月22日月曜日

強者と弱者

ひとは強者を、弱者たちの攻撃から常に守らなければならない。(ニーチェ遺稿 1888)
(最も避けねばならないのは)強い者と弱い者に関して、ある社会体制において、最も〈力〉の強い者が、まさにそのことによって「強者」であると信じこむことだ。(ドゥルーズ 『ニーチェ』)


いやあニーチェの弱者と強者というがね、プルーストの定義だってあるんだ。

意固地な者とは他人に受け入れられなかった弱者であり、また他人の評判などを気にしない強者のみが、凡人には弱さと見られるようなあの優しさを持つことができる(プルースト「ソドムとゴモラ」)

この定義にのっとれば、他人の評判ばっかり気にしてヤツは弱者だよ。あの戦争機械とか言ってるヤツは、鳥語装置で他人の評判ばっかり気にしてるじゃないか。あれは「世論と共に考える」典型だな。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

アレはオレの定義上、芸能人と呼ぶんだ。

例の芸能人⋯⋯、職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。(中野重治「芸術家の立場」)

ようするに「公衆からの酒手」派だな

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

ラカン曰くの《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)の後の世代の《社会的症状は一つしかない Y'a qu'un seul symptôme social。すなわち実際上、人はみな皆プロレタリアであるchaque individu est réellement un prolétaire。》(LACAN La troisième 1974 )んだから、やむえないとはいえ。

ま、言ってしまえば「人はみな弱者」の時代の典型だよ、あいつは。

中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間 2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

で、この資本の言説の時代の社会的症状に抵抗する気配がまったくないインテリってのを「ごますり作家」と呼ぶんだ。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)

たとえば佐々木中はしっかり抵抗しているじゃないか、彼こそ現在稀有になってしまった「まともな」ニーチェ主義者だよ。


ま、穏やかにいえば、貴君が敬愛してるらしいコイズミとかチバは、知識人と呼ぶんだ。作家じゃない。

パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収)


二人ともジョーカーとはほど遠い存在だな。

作家はいつもシステムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes)にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge である。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)


そもそも戦争機械がすきなら、まず立命の先端研とやらにその矛先むけたらいいのになんでやらないんだろ、連中は。

蚊居肢子が連中の名をカタカナで記すのは、悪臭を可能なかぎり避ける仕草だよ、どうあっても漢字で苗字名前を書けないタイプの知識人だな、あいつらは。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)

蚊居肢子世ノ好事家ニ質サントス。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、
ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。

機械研究諸家ノ論ヲ眺ムルニ
其ノ退屈ナル之レヲ号ケテ
屎ト云フモ可ナリ、
屁ト云フモ亦可ナリ。
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちぇト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。

平成三十一年四月二十二日昼、蚊居肢子斎戒沐浴シ、
恭シクにいちぇノ文ヲ具ヘテ自ラ其ノ舌ヲ祭ル。

…………


以下、ニーチェ版「強者と弱者」だがね、まず寄生虫がしきりに寄りつくツイッターやめて山にこもったらいいじゃないか。そこからだよ、強者のはじまりは。ときに山から降りる必要性を認めるのに吝かではないがね。

道徳の発展がたどる傾向。——誰でも、おのれ自身がそれで成功するようなもの以外の教えや事物の評価が通用しないことを願望する。したがって、あらゆる時代の弱者や凡庸な者どもの根本傾向は、より強い者たちをより弱化せしめること、引きずりおろすことであり、その主要手段が道徳的判断である。より強い者のより弱い者に対する態度は烙印をおされ、より強い者の高級な状態は悪しざまな別名をつけられる。  

多数者の少数者に対する、凡俗な者の稀有な者に対する、弱者の強者に対する闘争——。この闘争を最も巧妙に中絶せしめるものの一つは、精選された、繊細な、要求するところの多い者がおのれを弱者として示し、粗暴な権力手段を放棄するときである——(ニーチェ『権力への意志』)
寄生虫。それは君たちの病みただれた傷の隅々に取りついて太ろうとする匍い虫である。

そして、登りつつある魂にどこが疲れているかを見てとるのが、このうじ虫の特殊な技能である。そして君たちの傷心と不満、感じやすい羞恥などのなかへかれはそのいとわしい巣をつくる。

強者のもつ弱い個所、高貴な者におけるあまりにも柔軟な個所 Wo der Starke schwach, der Edle allzumild ist、ーーそこにうじ虫はそのいとわしい巣をつくる。寄生虫は、偉大な者のもつ小さい傷に住みつく。

あらゆる存在する者のうち、最も高い種類のものは何か。最も低い種類のものは何か。寄生虫は最低の種類である。だが、最高の種類に属する者は、最も多くの寄生虫を養う。

つまり、最も長い梯子をもっていて、最も深く下ることのできる魂に、最も多くの寄生虫の寄生しないはずがあろうか。--

自分自身のうちに最も広い領域をもっていて、そのなかで最も長い距離を走り、迷い、さまようことのできる魂、最も必然的な魂でありながら、興じ楽しむ気持から偶然のなかへ飛びこむ魂。

存在を確保した魂でありながら、生成の河流のなかへくぐり入る魂。所有する魂でありながら、意欲と願望のなかへ飛び入ろうとする魂。ーー

自分自身から逃げ出しながら、しかも最も大きい孤を描いて自分自身に追いつく魂。最も賢い魂でありながら、物狂いのあまい誘惑に耳をかす魂。ーー

自分自身を最も愛する魂でありながら、そのなかで万物が、流れ行き、流れ帰り、干潮と満潮時をくりかえすような魂。ーーおお、こういう最高の魂がどうして最悪の寄生虫を宿さないでいよう。(ツァラトゥストラ第三部、「新旧の表Von alten und neuen Tafeln」)
・どこへ行ったのだ、わたしの目の涙は? わたしの心のうぶ毛 Flaum meinem Herzen は?

・わたしの所有している最も傷つきやすいものを目がけて、人々は矢を射かけた。つまり、おまえたちを目がけて。おまえたちの膚はうぶ毛に似ていた。それ以上に微笑に似ていた、ひとにちらと見られるともう死んでゆく微笑に。

・そうだ、傷つけることのできないもの、葬ることのできないもの、岩をも砕くものが、わたしにはそなわっている。その名はわたしの意志 Wille だ。それは黙々として、屈することなく歳月のなかを歩んでゆく。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「墓の歌」)


こうやって応答ばかりしてると、いかにも鳥語装置っぽいからな、おい、今後はもう無視させてもらうよ、「糖蜜入りの壺」は前回もふくめて既に十二分に送ったつもりだ。

わたしは小さな愚行やはなはだ大きい愚行がわたしに加えられても、一切の対抗策、一切の防護策を―――従って当然のことながら一切の弁護、一切の「弁明」を禁ずるのである。わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。こうすれば、たぶん、愚かしさの後塵を拝せずにすむだろう。

比喩を使っていうなら、わたしは、すっぱい話にかかりあうことをご免こうむるために、糖果入りのつぼを送るのである。……わたしに何かよからぬことをしてみるがいい。まちがいなく、わたしはそれにたいしてこういう「報復」をする。つまり、わたしはほどなく、その「犯人」に(ときにはその犯行にたいして)わたしの感謝を表明する機会をみつけるのである―――もしくは、その犯人に何かを頼む機会をみつけるのである。この方が、こちらから何かを進呈するより慇懃でありうるのだ。(ニーチェ『この人を見よ』)


資本の言説の掌の上で踊る猿

コイズミとチバのファンらしき人物が以前書いた記事について文句を言ってきてるが、書いた通りだよ。あんまりエラそうなことは言いたくないが、かりに言わせてもらえば、連中はたんなるコモノだよ。くり返せば、戦争機械的ゲリラ戦法では全くダメだ、あれでは「資本の言説の掌の上で踊る猿」に過ぎない。で、これでなんで悪いんだい?


以下、蚊居肢散人の基本認識の基盤となる文献をもう一度いくらかまとめて列挙しとくよ。

そもそもコミュニズムってのは巷間では禁句みたいになってるけどさ、論理的にはこの選択肢しかないんだよ。第三の道ってのは寝言派の繰り言にすぎない。第三の道というものがありうるなら別の仕方のコミュニズムだ。



【1990年以降の世界資本主義の復活】

◼️世界資本主義に対抗する「ファシズム」「コミュニズム」「ケインズ主義」
もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)
われわれは忘れるべきではない、20世紀の最初の半分は「代替する近代」概念に完全には合致する二つの大きなプロジェクトにより刻印されれていたことを。すなわち「ファシズム」と「コミュニズム」である。ファシズムの基本的な考え方は、標準的なアングロサクソンの自由主義-資本家への代替を提供する近代の考え方ではなかったであろうか。そしてそれは、「偶発的な」ユダヤ-個人主義-利益追求の歪みを取り除くことによって資本家の近代の核心を救うものだったのでは? そして1920 年代後半から30年代にかけての、急速なソ連邦の工業化もまた西洋の資本家ヴァージョンとは異なった近代化の試みではなかっただろうか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)


◼️冷戦終了によるケインズ主義(福祉国家)の没落と世界資本主義の復活
ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(中井久夫「私の「今」」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
一つのことが明らかになっている。それは、福祉国家を数十年にわたって享受した後の現在、…我々はある種の経済的非常事態が半永久的なものとなり、我々の生活様式にとって常態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の脅威とともに、到来している。

… 現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。いまだ現在のシステムが維持可能だと考えている者たちはユートピアン(夢見る人)にすぎない。(ジジェク、A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY、2010年)

⋯⋯⋯⋯

【可能なるコミュニズム】

■アソシエーションのアソシエーション
もし協同組合的生産 genossenschaftliche Produktion が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度 kapitalistische System にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体 Gesamtheit der Genossenschaften が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー beständigen Anarchieと周期的変動 periodisch wiederkehrenden Konvulsionenを終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、「可能なるmögliche」コミュニズム Kommunismus 以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1891年)

ーー柄谷はこの文を「アソシエーションのアソシエーション」と言い換えている(後引用)。実際、前段には《自由でアソシエートした労働への変容 freien und assoziierten Arbeit verwandelt》とある。


■コミュニスト仮説 hypothèse communiste
アラン・バディウ)私はコミュニスト仮説 hypothèse communiste への強い意志を持ち続けている。

ローラン・ジョフラン) そんなものはもはや誰も欲していない。(Alain Badiou debates Laurent Joffrin, a reformist (and editor of Libérationnewspaper), who defends existing social democracy. ,2017)
ジョフラン)あなたが考えているコミュニスト社会の原理とは何なのか?

バディウ)これまでに分かっている仕事は、コミュニスト社会の四つの根源的原理だ。

①生産手段における私有財産の廃止。
②労働における分割の終焉。分割すなわち、命令と遂行とのあいだの分割。知的労働と肉体労働とのあいだの分割。
③国民アイデンティティへの強迫観念の終焉。
④これらすべてを集団的討議の賛同のもと国家弱体化によって成就すること。


■ジジェク、2016
アラン・バディウは、我々の「民主主義的」神経過敏に対して「新しいタイプのコミュニストの主人(リーダー)」の必要不可欠な役割を強調することを怖れない。「私は確信している。われわれは再建しなくてはならない、どの段階においてもコミュニスト過程におけるリーダーの主要な役割を」(バディウとの個人的対話、2013年4月)

真の主人は統制と禁止のエージェントではない。主人のメッセージは「君たちはしてはいけない!」でも「君たちはしなくてはならない!」でもない。そうではなく「君たちはできる!」と解き放つことだ。ーー何を? 不可能を為すこと。既存配置の座標軸においては不可能にみえることを解放するのだ。ーーそしてこれはこの現在、まさにぴったりのことを意味する。あなたは、我々の生の究極的枠組みである「資本主義と自由民主主義」の彼方を考えることができる。

主人とは「消えゆく媒介者 vanishing mediator」(Jameson 1973)である。あなたをあなた自身に戻す媒介者である。真のリーダーに聞き入るとき、我々は何を欲しているのかを(いやむしろ、我々が「それを知らないままで」常に既に欲していたことを)見い出す。

人間は主人が必要なのである。というのは、我々は自らの自由に直接的には接近できないから。この接近を獲得するために、我々は外部から押されなければならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。

ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、可能性という既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)


■ジジェク、2010
行為は、可能なことの領域への介入以上のものである。ひとつの行為は可能なことの座標軸そのものを変化させ、その結果、それ自身の可能性の条件を遡及的に創出する。だからこそ、コミュニズムはリアルに関わるのである。ひとりのコミュニストとして行為することは現代の世界資本主義の根底を支える基本的な敵対関係 antagonismのリアルへの介入を意味している。(ジジェク「永遠の経済的非常事態」2010)


■ジジェク、2018
私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018)

2018年1月の半年前のネグリのインタヴュー記事はネット上では見出せなかったが、2018年́8月のインタヴュー記事がある。

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと溶解する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。…multitudo 概念を断固として使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、multitudoとcomunis 概念を詳述するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri, Interview – August 18, 2018)


■ジジェク、2007・2012
ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)
カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)
・大文字の他者の不在が示すのは、どんな倫理的/道徳的体系も、想像しうる最も根源的な意味で、「政治的」な深淵に立脚していることである。政治とは、まさにどんな外的保証もなしに倫理的決断をし協議することである。

・真の「非全体 pas-tout」(女性の論理≒単独性・差異の論理)は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれるだろうことである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012 )


上のジジェク文は、柄谷行人の次の文のヴァリエーションとしても読むことができる。

マルクス主義は、合理論的、目的論的な思考(大きな物語)として批判されてきた。実際、スターリニズムはそのような思考の帰結であった。歴史の法則を把握した理性によって人々を指導する知識人の党。それに対して、理性の権力を批判し、知識人の優位を否定し、歴史の目的論を否定することがなされてきた。それは、中心的な理性の管理に対して多数の言語ゲームの間の「調停」や「公共的合意」を立て、また、合理論(形而上学)的な歴史に対して経験の多様性と複雑な因果性を立て、他方で、目的のためにいつも犠牲にされてきた「現在」をその質的多様性(持続)において肯定することである。

しかし、私が気づいたのは、ディコンストラクションとか。知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001)

ーーつまりドゥルーズの機械概念は、《資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁する》ものでしかない、と。

ようするにこの観点からは、いまどき機械(代表的には「戦争機械」)やらマルチチュードやらと言っているヤツは一周遅れだということ。大半の日本的インテリが「小文字の倫理委員会」という二周遅れの小者のドツボだから、あの小者はなんとか言論活動ができているというだけ。





ま、10年ぐらい考え続けることができたら(たぶんムリだろうけど)、戦争機械派は父の機能へと移行するんじゃないかな。


◼️資本家機械
資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になる瞬間」である。(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006年)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。…

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)


⋯⋯⋯⋯

【現状分析】

◼️市場原理主義
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2006年)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年)
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016)


◼️小文字の小倫理委員会
資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(浅田彰『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17)
「大他者の不在」という新しい状態の、最も目を引く面は…自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな大他者たち little big Others」としての「倫理委員会」である。…この大他者の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」2001)


【柄谷行人による対応案】

柄谷の観点も、基本部分ではバディウやジジェクと同じだ。

◼️アソシエーションのアソシエーション
一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


◼️統整的理念としてに世界共和国・コミュニズム
僕はよくいうんですが、カントが理念を、二つに分けたことが大事だと思います。彼は、構成的理念と統整的理念を、あるいは理性の構成的使用と理性の統整的使用を区別した。構成的理念とは、それによって現実に創りあげるような理念だと考えて下さい。たとえば、未来社会を設計してそれを実現する。通常、理念と呼ばれているのは、構成的理念ですね。それに対して、統整的理念というのは、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなものです。カントが、「目的の国」とか「世界共和国」と呼んだものは、そのような統整的理念です。

僕はマルクスにおけるコミュニズムを、そのような統整的理念だと考えています。しかし、ロシア革命以後とくにそうですが、コミュニズムを、人間が理性的に設計し構築する社会だと考えるようになりました。それは、「構成的理念」としてのコミュニズムです。それは「理性の構成的使用」です。つまり、「理性の暴力」になる。だから、ポストモダンの哲学者は、理性の批判、理念の批判を叫んだわけです。

しかし、それは「統整的理念」とは別です。マルクスが構成的理念の類を嫌ったことは明らかです。未来について語る者は反動的だ、といっているほどですから。ただ、彼が統整的理念としての共産主義をキープしたことはまちがいないのです。それはどういうものか。たとえば、「階級が無い社会」といっても、別にまちがいではないと思います。しかし、もっと厳密にいうと、第一に、労働力商品(賃労働)がない社会、第二に、国家がない社会です。(柄谷行人「柄谷行人と生活クラブとの対話ーー世界危機の中のアソシエーション・協同組合」2009年)


◼️父の機能としての帝国の原理
帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

柄谷行人は、「帝国」の復活は御免蒙るが、「帝国の原理」(父の機能)が必要だといっている。これはラカンが次のように言っているのと同じ意味だ。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

以上。



2019年4月21日日曜日

その声は沈黙にそっくりだった

いやあ、実にすばらしいな、このベケット。「マルグリット・デュラスの声、そして時間」 (たけだ はるか)pdfから拾ったのだけれど(ほかにもすばらしい引用がふんだんにある)。

武満徹の『音、沈黙と測りあえるほどに』をあわせて引用しようと思ったけどやめた。このベケットの文といくらか同じ感覚を与えてくれる沈黙と測り合えるほどの歌曲をいったん貼り付けたんだけどそれも消した。この文にはまったくかなわないから。歌じゃなくてグールドを貼り付けるってのもちょっとへんだし。


ぼくはときどき、アンヌが部屋で歌をうたっているのを耳にしたが、かのじょの歌は、かのじょの部屋の扉を通りぬけて、それからキッチンを通って、それからぼくの部屋の扉を通りぬけてやってきて、弱くきこえるとはいっても、そこに疑いの余地はない。かのじょが廊下を通ったのではない限りは。ときどき歌をうたっているのが聞こえるからといって、そうしたことは、ぼくにとって、大した邪魔にはならないのだ。
ぼくは、その歌のことを知らなかったし、聞いたことも一度だってなかったし、これから聞くことも、けっしてないだろう。ぼくは、ただ、歌のなかに、レモンの木やオレンジの木が話題になっていたということは覚えていて、なぜなら、ぼくが聞いたことがあるほかの歌というのがあって、ぼくはほかの歌を聞いたことがあるんだけれど、なぜなら、ぼくのように生きていたって、聾唖者でないならば、歌を聞かずにいきるなんてことは不可能のようだから、だけどぼくは何も覚えられなくて、一つの歌詞も、一つの音符も、ほんの僅かの言葉も、ほんの僅かの音符も、それが、それが何、何でもないものであっても、ぼくには覚えられなくて、というこの文はずいぶん長くなってしまったな。それで、ぼくは遠ざかったんだ、遠ざかりながら、それでもだれかがべつの歌をうたっているのが聞こえてきて、あるいは それは、おなじ歌のつづきだったのかも知れないけれど、それは小さな声で、ぼくが遠ざかれば遠ざかるほど弱くなっていって、それは、かのじょが歌をうたうのをやめたからにせよ、ぼくが声が聞こえないくらいひどく遠ざかってしまったからにせよ、とうとう声は黙ってしまった。…だからぼくは少しまえへすすんだけれど、立ち止まった。はじめは何も聞こえなかったのが、つづいて声が聞こえてきた けれど、ほんのかすかで、それくらい、声はぼくの所に弱々しく届いた。ぼくには聞こえなかったのに、ぼくには聞こえるようになっていたから、そうなれば、ぼくは歌を聞きはじめた、といっても、そうではなくて、はじまりという のはなくて、それくらい、声というのはゆっくりと沈黙から外にでてきたのであって、それほどに、その声は沈黙にそっくりだった。(ベケット『初恋』)

でもひとつだけ引用しておこう、《音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる》(ミシェル・シュネデール、グールド論)と。


2019年4月20日土曜日

人はみな去勢埋めする

倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。(MILLER, L'Autre sans Autre 、2013)

前回は説明なしに上の文を掲げたがね。これはたとえば次の意味だ。

去勢 castration が意味するのは、欲望の法 la Loi du désir の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない la jouissance soit refusée ということである。(ラカン、E827、1960年)

逆さの梯子ってのは倒錯ということだ。

そして「欲望は欲動に対する防衛」と記したのは、厳密に言えば、次のこと(ラカンによる欲動の定義は「享楽の漂流 dérive de la jouissance 「享楽のさまよい égarement de notre jouissance」)。

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)

簡潔に言い直せばこうである。

欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

そして先に掲げた文の「欲望の法」とは「言語の法」のことであり、人はみな言語によって去勢されているという意味。

すべての話す存在の根源的去勢は、対象aによって-φ[去勢]と徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)

たとえばラカンの二人の友は、1980年にこう書いている。

言語活動の不幸(言語の不幸 malheur du langage)は、それ自身の確実性を証明できないところにある(しかしまた、おそらくそれが言語の逸楽 volupté でもあるのだ)。言語のノエマはおそらく、その不能性impuissanceにある。あるいはさらに積極的に言えば、言語とは本来的に虚構 fictionnel である、ということなのである。言語を虚構でないものにしようとすると、とほうもなく大がかりな手段を講じなければならない。論理にたよるか、さもなければ、誓約に頼らなければならない。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか? Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴァ、J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980年)

これは、ようするに人はみな言語によって去勢されているのだから、人はみな虚構者であり、人はみなフェティシストであるということ。


もっとも人の去勢は言語による去勢だけではない。ほかの去勢もある。

それが最晩年のラカンが次のように言っている意味だ。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident …

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

言語による去勢とは、父の名による象徴的去勢のこと。

去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique (ラカン, S17、1969)


だがほかにも去勢、そして去勢の排除がある。

父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)

いま上に「去勢の排除」と記したが、これは身体的なものを外に放り投げるという意味で使っている。したがって1974年のラカンが言った資本の言説批判としての「去勢の排除」とは若干異なる。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)

ようするに原抑圧あるいは去勢があれば必ず排除がある。

これがリビドー固着S(Ⱥ)による現実界的去勢のメカニズムである。このS(Ⱥ)による原象徴化には必ず象徴化の失敗がある。リビドー固着の残滓(身体的残存物)がある。ゆえに排除(身体的なものを「外に放り投げるVerwerfung」こと)がある。

これは既に欲動代理という語を使って中期フロイトが言っていることである。

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧 Die Verdrangung』1915年)

もちろん二次原抑圧も同じメカニズムが働く。

「私が排除Verwerfungというとき、……問題となっているのは、原シニフィアンを外部の闇へと廃棄することである。ce rejet d'une partie du signifiant (signifiant primordial) dans les ténèbres extérieure (Lacan, S3、15 Février 1956)

相違は二次原抑圧はS(Ⱥ)ーー母なるシニフィアン(原シニフィアン)ーーの排除、一次原抑圧は欲動蠢動自体・トラウマとしてのȺの排除である。




(上の図で示したように、フロイトとラカンの思考においてはさらに出産外傷による原去勢があるのだが、これについてはここでは割愛。→「去勢文献」)


ジャック=アラン・ミレールがーーおそらく主に上に引用したラカン1976《父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある》に準拠してだろうーー1990年代後半から言い出した「一般化排除」とは、人はみな穴があるということ。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018)
もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(大他者のなかの穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)

ようするに一般化排除があるゆえに一般化妄想がある。一般化排除の穴とは、トラウマである。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン、S21、19 Février 1974 )

つまりは、

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. , Vie de Lacan、2010)

あるいは、

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018年主流ラカン派会議中心議題)

上に「父の名の限定された排除」とあるが 、これは実際は、S2の排除のことであるとミレールは言っている。

神経症においては、S1 はS1-S2のペアによる無意識にて秩序づけられている。ジャック=アラン・ミレール は強調している。(精神病における)父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Pèreは、このS2の排除 la forclusion de ce S2 と翻訳されうる、と。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne Paloma Blanco Díaz ,2018)

ここはフロイト・ラカン理論でおそらく最も難解で紛糾の種である「表象代理」にかかわるので、ミレールはただ上のように言っているとだけしておく。

・表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、(S1と)対 couple のシニフィアンS2(le signifiant S2)である。Vorstellungsrepräsentanz qui est le signifiant S2 du couple.

・表象代理は二項シニフィアンである。Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. この表象代理は、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、セミネール11、1964)

で、ラカンは次のようにも言ってるんだからな。

世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。Avant que le monde devienne représentation, son représentant, j'entends le représentant de la représentation - émerge. (ラカン, S13, 27 Avril 1966)

ーージジェク2012の注釈はあるんだが、ま、たぶん難解すぎるので掲げるのはやめとくよ。フロイトは「表象代理」と上に引用した「欲動代理」を等置しているが、ラカンは一度も欲動代理という語を使っていない、ということぐらいは示しておこう。ナゼナンダロウナ、欲動代理だったらわかりやすいのに(蚊居肢子の頭では「欲動代理」と「欲動固着」を同じものとして扱ってるんだが、世界中、ダレモソンナコトハイッテイナイ。シタガッテ世界中ノらかん派ハ阿呆バカリデアル・・・)。


さて話を簡単系に戻せば「一般化排除 forclusion généralisée」とは、現在ラカン派で言われている言い換えとしての「一般化去勢 castration généralisée 」「一般化トラウマtraumatisme généralisée 」のこと。

それに対する防衛のために「一般化妄想 délire généralisé」あるいは「一般化倒錯 perversion généralisée」がある。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ーー《言語は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père 》(ミレール、1997)。

父の諸名 les Noms-du-père 、それは何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである、(LACAN 、S22. 11 Mars 1975)

ここでラカンがいっている父の諸名とは父性隠喩としての「父の名」ではなく、それ以前の固有名的名付けのことを言っている。したがってS(Ⱥ)[穴の名]の審級にある。ミレールの別の言い方なら「S2なきS1」。

この文脈のなかでミレールの次の言明がある。

精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)

父の法[欠如の名]とは、S(Ⱥ)[穴の名]の飼い馴らしにすぎない。《ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance 》(Miller J.-A., « Ce qui fait insigne »,1987)

肝腎なのはS(Ⱥ)である。《S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions》(Miller 、Première séance du Cours 2011)。S (Ⱥ)が「穴の名 Nom-du-Trou」ということは、「享楽の名 Nom-du-Jouissance」であり、これがラカンのサントーム、フロイトの欲動の固着(リビドー固着)である(参照)。


⋯⋯⋯⋯

こうしてラカン派において(究極的には)、言語の使用者であるヒト族は、妄想者であり倒錯者であるということになる。「人はみな妄想する」とは「人はみな倒錯する」であり、穏やかにいえば、

我々の言説はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique 、 1993)


ここまで記してきたことは簡潔に図示すればこうなる。穴と穴埋めは、去勢と去勢埋めとしてもよい。




S(Ⱥ)自体、原穴埋めシニフィアンであり、右側の項にあるか、もしくは穴と穴埋めの境界表象である(参照:穴と穴埋め)。

(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)





2019年4月19日金曜日

ドゥルーズの赤いスカート

ああ、家族のことはどうでもいいって記したがね、エディプスコンプレクスモロの男だから、アンチエディプスを強調したかも、ってのは当然あっていい問いだろ? そんなの言うまでもないってことだ。

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

いくつかの伝記を掠め読むかぎりでは、ドゥルーズの母は、《エディプス的母、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父と関係を結ぶこと女》(マゾッホ論)だったようだな。で、ドゥルーズの父は、クロア・ド・フー(Croix-de-Feu)支持の右翼だったそうだ。

父がいつ死んだか、なぜ死んだのかは不明。伝記作家フランソワ・ドッスは、ドゥルーズの兄の死(1944年)後すぐに死んだと書いている。当時19歳。25歳まで母と二人暮らし。友人たちにプルースト並みと称される喘息期をもつ。で、ミシェル・トゥルニエが1949年、独テュービンゲン大学からパリに帰ってきて住んでいた月払いの Hotel de la Paix( サンルイ通り)の隣の部屋に、1950年から母を置いてきぼりにして移り住んだとある。




ーーほとんどどこにも旅行しなかったドゥルーズにとって、この通りが「孤島のロビンソン」の起源じゃないだろうか?






こういうことを書くとドゥルーズファンにキラワレルかもな、でもいくらか彼の書き物に親しくなったら、「ドゥルーズの赤いスカート」をわずかでも探ってみるってのは必然的な仕草だと思うがね。ボクはむかしサルトルでかなり熱心にやったけどな。でもなんでミナサンやらないんだろ? それともこっそりやってこっそり隠してるんだろうか?



素足  谷川俊太郎

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ


ニーチェと同様、《能動的忘却 aktiven Vergeßlichkeit》、つまり生の肯定性を繰り返す人物は、「強制された運動」を引き起こす「不気味な」外傷的記憶があるんじゃないだろうか。これが冒頭に掲げた神田橋條治の文の別の読み方だ。

たとえばこれは、とっくのむかしにニーチェの愛人サロメが言っていることもある。《永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。》(ルー・アンドレアス・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)

記憶に残るものは灼きつけられたものである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文、第3章、1887年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges (タナトス)の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)
欲動蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、1962)

ま、このあたりは深読みってのか妄想的読みであることを認めてもよいよ。

とはいえ《症状のない主体はない  il n'y a pas de sujet sans symptôme》。どんな主体にも原症状(欲動固着)があり、それへの防衛としての症状がある。欲望とは欲動の防衛である。欲望機械は、強制された運動の機械に対する防衛概念ではないだろうか。これが、ラカン派で「厳密にフェティシスト的錯誤」「ドゥルーズの退行」等と長年嘲罵されているこの概念を救う一つの方法だね。

強制された運動の機械(中井久夫とドゥルーズ)




欲望とはラカン派の定義では倒錯でもある。

倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。(MILLER, L'Autre sans Autre 、2013)

そして倒錯とは穴埋めである。

倒錯者は、大他者の中の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16, 26 Mars 1969)

この前提で以下の文を読もう。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23, 11 Mai 1976)
言わねばならない。その問題の人物…私が言祝いだあの人物は、臨床家ではなかった。ただ彼はシンプルにサドとマゾッホ SACHER-MASOCHを読んだのである。(……)

要するに、マゾヒズム masochisme は発明されたのだ。それは皆が到達できることではない。それは享楽と死とのあいだの entre la jouissance et la mort…関係性を確立するやり方である。(……)

人はみな現実界のなかの穴を穴埋する combler le trou dans le Réel ために何かを発明する。現実界は「穴=トラウマ(troumatisme )」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )








2019年4月18日木曜日

許せます、ジルを?





最近のエミールも見てみたが、写真で見るより映像で見たほうがもっと似ているね、娘とオヤジさんは(Émilieの きょうだいに英訳者をしているらしい Julien Deleuzeがいるのだが、こっちのほうは写真が特定できない)。







ドゥルーズは幼少年期を語ることを拒絶したそうだ。






兄弟は二歳違いだそうだ。

1944年7月2日、レジスタンス運動に参戦していたドゥルーズの兄ジョルジュGeorgesは、ドイツ軍に捕らえられ、強制収容所に送られる道程で死んだ。…

ジル・ドゥルーズは、親友ミシェル・トゥルニエに打ち明けた。トゥルニエ曰く、ドゥルーズは家族の生活を、彼の両親の態度の結果として拒絶した。《ジルは常に兄のジョルジュにコンプレクスを持っていた。彼の両親はジョルジュに「正真正銘の崇拝 véritable culte à l'enfant mort」を捧げた。そしてジルは兄だけを賛美する両親を許さなかった。彼は凡庸だと見なされた二流の子供、「ヒーローの弟 le frère du héros」に過ぎなかった。》(フランソワ・ドッスFrançois Dosse、Gilles Deleuze et Félix Guattari, biographie croisée,, 2007)


`1925年生れのドゥルーズだから当時19歳、兄の死は21歳ということになる。




蓮實)孤島のロビンソンが、なぜきれいな奥さんと結婚して、子供をふたりもつくるの(笑)。これはもう無頼漢ですよ。それで、浅田さんはドゥルーズが「偉大な哲学者」だと、もちろん誠心誠意おっしゃているんだろうけれども、どこかずるいと思ってない?

浅田)そりゃ、思ってますよ(笑)。

蓮實)あんなことされちゃ困るでしょ。この20世紀末にもなって、いけしゃあしゃあとあのような著作を書いて、家族なんてものはなくていいというような死に方をする。あの図々しさというか、いけしゃあしゃあぶりというものは、哲学者に必須のものなんですか、それとも過剰に与えられた美点なんですか。だってあんな人が20世紀末にいるのは変ですよ。ぼくはデリダよりドゥルーズのほうが好きですけれども、その点では、デリダにはそういうところは全くなくて、一生懸命やっている。フーコーがいるというのもよくわかる。しかし……。

浅田)フーコーは同時代にドゥルーズがいるから自分が哲学者だとは決して言わなかった。哲学者はドゥルーズだから。

蓮實)いいんですか。ああいう人がいて、浅田さん。

浅田)あえて無謀な比較をすれば、ぼくはどちらかというとガタリに近いほうだから、ああいう人がいてくれたのはすばらしいことだと思いますよ。

蓮實)しかし、彼はそれなりにひとりで完結するわけですよ。許せますか、そういう人を(笑)。ぼくは、浅田さんがドゥルーズを「偉大な哲学者」だと言っちゃいけないと思う。そうおっしゃるのはよくわかりますよ。わかるけれども、やっぱり否定してくださいよ。

浅田)でも「彼は偉大な哲学者だった」というのは、全否定に限りなく近い全肯定ですよ。否定するというなら「最も偉大な哲学者」として否定すべきだろう、と。

蓮實)どうしてきっぱりと否定しないの? さっき言ったことだけど、とにかくドゥルーズは確実にある問題体系を避けているわけです。それを避けることで「哲学者」としてあそこまでいったわけですからね。そうしたらば、それは悪しき形而上学とはいいませんけれども……。

浅田)「偉大な哲学」である、と。

蓮實)浅田さんが「偉大な哲学者」とおっしゃることが全否定に近いということを理解したうえでならばいいけれども、その発言はやはりポスト・モダンな身ぶりであって、いまでははっきり否定しないと一般の読者にはわからないんですよ。

浅田)いや、一般の読者の反応を想定するというのがポスト・モダンな身ぶりなのであって、ぼくは全否定に限りなく近い全肯定として「ドゥルーズは偉大な哲学者だった」と断言するまでです。

ただ、たとえばこういうことはありますね。さっき言われたように、ドゥルーズとゴダールは、言葉のレヴェルにおいては非常によく対応する。ただ出来事だけがある(eventum tantum)というのは、たんにイマージュがある(juste une image)ということですよ。しかし、ドゥルーズは、ゴダールがそのイマージュを生きているようには、出来事を生きていない。ぼくはゴダールは絶対的に肯定しますけれど、ドゥルーズは哲学者として肯定するだけです。

蓮實)うん、そこを言わせたいのよ(笑)。

浅田)そんなの自分で言ってくださいよ(笑)。

蓮實)だから浅田さんにとっては、ドゥルーズは一般的に偉いけれども、特異なものとして見た場合はやはりゴダールを取るでしょう。

浅田)絶対にゴダールを取ります。

蓮實)そうしたらば、ドゥルーズに対してもう少し強い否定のニュアンスがあってもいいと思う。

浅田)でも「偉大な哲学者」というのは最高に強い否定のニュアンスでもあるわけですよ。たとえばニーチェは哲学者ではないが、ハイデガーは哲学者である。それで、ゴダールがニーチェだとしたら、ドゥルーズはしいてどちらかといえばハイデガーなんです。

蓮實)ただし、ドゥルーズにとっての美というのは、ハイデガーのそれと全く違いますけれどもね。それともうひとつ、やはり彼は20世紀の両対戦間からその終わりまでに至って哲学は負けたと思っているのは明らかです。何に負けたかというと、実はゴダールではなくて、ジャン・ルノワールに負けている。ジャン・ルノワールが、風の潜在性からこれを顕在化することをやってしまっている、と。

浅田)ベルグソンを超えてしまったんですね。

蓮實)そう、超えてしまった。ぼくがいちばんドゥルーズに惹かれるのは、そこまで見た人はいなかったということです。不意にルノワールが出てくるでしょう。それでルノワールに負けているんですよ。おれの言ったことをもう全部やってしまている、と。

浅田)『物質と記憶』とほとんど同時に映画が生まれた。で、映画が哲学を完成してしまったんですね。

蓮實)そうです。それも、だれが完成したかというと、ゴダールではなくて、ルノワールなんです。それでもなお「偉大」ですか。

浅田)だから、たかだがそんな哲学だといえばそれまででしょう。でも、ほかにそんな哲学者がいます?(笑) フーコーは、自分は歴史家だと言わねばならなず、デリダだって、自分は物書きだと言わねばならない。しかし、ドゥルーズは単純に、私は哲学者であると言ってしまうんですからね。そして現にハイデガー以後はドゥルーズしかいないでしょう。(『批評空間』1996Ⅱ-9 共同討議「ドゥルーズと哲学」財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)


ボクは家族の話はどうでもいいけど、こっちのほうが許せないんだよな。




いけしゃあしゃあと死の本能についてまったく矛盾すること言って。






2019年4月17日水曜日

エロス欲動の目標は死/タナトス欲動の目標は生

前回の記述は、「エロス欲動の目標は死であり、タナトス欲動の目標は生である」という前提にもとづいている。こう記すと、まさか!? 、と仰られる方々が多々イラッシャルだろうから、もう何度もくり返したことだが、ここに簡潔に補足しておこう。


◼️エロスとタナトスは、融合と分離である。

エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけ zusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離 aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊 zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


◼️エロス欲動とタナトス欲動は、引力と斥力である。

同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


◼️究極のエロス・究極の融合(引力に吸い込まれること)は、死である。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


◼️人はみな究極の融合を憧憬しつつ、だがその死を避けようとする斥力がある。この斥力が死の欲動であり、タナトス欲動である。

生の欲動は死を目指し、死の欲動は生を目指す。[the life drive aims towards death and the death drive towards life.] (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe , Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004)

ーーすなわち、エロス欲動の目標は死であり、タナトス欲動の目標は生である。

生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. (フロイト『快原理の彼岸』第5章)


◼️引力に誘引されつつも斥力が働く運動を、欲動混淆と呼ぶ。

われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび脱混淆Entmischung することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

ーー欲動混淆とは荒木経惟がエロトスと呼んだものである。



◼️究極のエロスと究極の享楽は等価である。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

以上、もちろん異論があるのを知らないわけではない。そして巷間の通念からも大きく隔たる。だが上記引用群、さらに前回の「享楽のおとし物」での引用群から判断するかぎり、論理的にはこうならざるをえない。

⋯⋯⋯⋯

※付記

剰余享楽 le plus de jouir は(……)享楽の欠片である。le plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)

この「剰余享楽」と訳される「 le plus-de-jouir」は、享楽喪失と喪失の穴埋めの二つの意味がある。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

この「 le plus-de-jouir」も論理的にいえば、エロスとタナトスの欲動混淆、すなわちエロトスである、と私は考える。

すくなくとも一部の巷間でいまだ通説として流通しているらしき次のような捉え方は、全き誤謬である。

たとえば斎藤環。

ラカンによれば「享楽」には3種類ある。「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」だ。(斉藤環『生き延びるためのラカン』2006年)

あるいは佐々木中。






こうでは全くない。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓(穴埋め) [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)


「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」(大他者の享楽・女性の享楽[参照])は、すべて「 le plus-de-jouir」である(参照)。

(生きている存在に可能な)享楽は、常に対象aの享楽(剰余享楽)と等しい。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2006)

このロレンゾ・チーサ31歳の書は、2012年に韓国語訳、2017年に中国語訳がなされている。日本ラカン業界の限りない劣化ぶりは、こういった21世紀に入ってからの楔をうつ何冊かの書が読まれず翻訳されていないという現象からも推し量られる。もちろんこれはラカン業界だけに限らないだろう。

ああ、あれら日本学者ムラのぬるま湯的風土はなんとかならないものか。鮎川信夫がかつて言った「相互酷評集団」の爪の垢ぐらいあってもよさそうなもんだが。

中桐雅夫の葬儀に出席しなかった鮎川信夫はこう語った。

一つだけはっきりしていたのは、私が死んだのだとしたら、友達には誰も来てもらいたくないな、ということである。それが十代の終りから相互酷評集団だった「荒地」の仲間のせめてのもの情けではないか。(鮎川信夫ーー中桐文子『美酒すこし』解説)

必ずしも常にこの態度がいいわけではない。だが現在の日本学者ムラにおいての知的退行に歯止めをかけるには、なによりもまず「非妥協的な誠実」による苛烈な相互酷評が必要である筈。

その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。(中井久夫「安克昌先生を悼む」『時のしずく』所収)



2019年4月16日火曜日

享楽のおとし物

具体的なものを失わずに、 絶えずそこへと立ち返ってください。多様体、 リトルネロ、 感覚、 等々は発展して純粋な概念になりますが、それらはある具体的なものから別の具体的なものへの移行と緊密に結びついているのです 。(ドゥルーズ書簡ーークレ・マルタン宛)


まず具体的に考えることが肝腎だよ、とくにフロイト・ラカンは。日々ひとがみなやってることなんだから、気づかずに。

「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)





あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

ーーかなしみ   谷川俊太郎


これこそ具体的なものだ、とんでもないおとし物、遺失物・・・

ラカンの対象aにはいくつかの意味があるけれど、核心の対象aは「おとし物」のことだ。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それはおとし物 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分part de lui-même que l'individu perd à la naissance…最も深い意味でのおとし物 l'objet perdu plus profondである。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)


去勢だっておとし物だよ。

去勢ー出産 [Kastration – Geburt]とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
享楽はおとし物である la jouissance est la castration。(ラカン Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母のおとし物 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)





ここでは神秘的な架空の主体S(原主体 sujet primitif)を「享楽の主体 sujet de la jouissance」と呼ぶ。…

享楽の主体 le sujet de la jouissance は、不安 l'angoisse に遭遇して、欲望の主体(欲望する主体 sujet désirant)としての基礎を構築する。constituer le fondement comme tel du « sujet désirant »、(ラカン、S10、13 Mars 1963)






おとなってほんとはおかあさんの
おなかのなかにもどりたいのね
それなのにおかあさんはもういない
おとなってこどもよりずっとずっと
かわいくてかわいそう

ーー谷川俊太郎「かわいそう」

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)




・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする

ーー谷川、六十二のソネット「41」


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen,(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ

ーー谷川俊太郎「なんでもおまんこ」


生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. (フロイト『快原理の彼岸』第5章)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
私は(フロイトの)欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)





大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)






いやあ、でもなんでこんなにピッタンコなんだろ?

やっぱり詩じゃないとな。まともな詩人がすくないって問題はあるけど。

哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志 esprits de bonne volonté のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。

プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 la bonne volonté de penser にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的 involontaire である。.

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)


次の機会には西脇でやってみようかな、享楽の留守とかで。


西脇順三郎「留守」より

竹藪に榧の実がしきりに落ちる
アテネの女神に似た髪を結う
ノビラのおつかさんの
「なかさおはいりなせ--」という
言葉も未だ今日はきかない。



2019年4月15日月曜日

強制された運動の機械(中井久夫とドゥルーズ)

■中井久夫の解離と心の間歇

中井久夫は、プルーストの「心の間歇」と「解離」は近似したものだと言っている(「心の間歇」とは『失われた時を求めて』という長い小説の題名原案であり、無意志的記憶の回帰、あるいは外傷性記憶の回帰のこと)。

(プルーストの)「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…

解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)

ここでいう「解離」は、実は原抑圧(リビドー固着)にかかわる。それは次の文における「外に放り投げるVerwerfung」という語が示している。

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「排除 Verwerfung」という語をフロイトは動詞形で1894年に初めて使った。

自我は堪え難い表象 unerträgliche Vorstellung をその情動 Affekt とともに 排除 verwirftし、その表象が自我には全く接近しなかったかのように振る舞う。(フロイト『防衛-神経精神病 Die Abwehr-Neuropsychosen』1894年)


『夢解釈』にこの語は頻出するが、ここでは「狼男」から引く。

抑圧は排除とは別の何ものかである。Eine Verdrängung ist etwas anderes als eine Verwerfung. DER WOLF MAN (フロイト『ある幼児期神経症の病歴より』(症例狼男)1918年)

ここでの抑圧とは言語の内部で「脇に置く」ということである(脇に置いて、その場には別の内容が圧縮 Verdichtungや置換 Verschiebungとして置かれる)。

排除とは言語の外部に「放り投げる」ということである(放り投げた場は何も置かれない。この象徴秩序(言語秩序)の場は穴である。そして現実界のなかにのみ、《異者としての身体 un corps qui nous est étranger(=フロイトの異物Fremdkörper)》(ラカン、S23、11 Mai 1976)として蠢く。

この「抑圧と排除」は、「欠如と穴」の相違である。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。(⋯⋯)

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)


ここで確認の意味で、中井久夫による「抑圧」という語の注釈を掲げておこう。

中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これを repression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」斎藤環/中井久夫/浅田彰)


くり返せば言語の外部とは象徴界の外部であり、すなわち現実界である。

排除 Verwerfung の対象は現実界のなかに再び現れる qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)
象徴界に排除(拒絶 rejeté)されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)


フロイトにおいて、抑圧とは言語内、排除とは言語外に関わる用語なのであり、それも以下の文で中井久夫が示している。

解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。

(⋯⋯)侵入症候群の一つのフラッシュバックはスナップショットのように一生変わらない記憶で三歳以前の古い記憶形式ではないかと思います。三歳以前の記憶にはコンテクストがないのです。⋯⋯コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらないというものが幼児の記憶だと私は思います。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「防衛」とはかつてのフロイトにおける「抑圧」であり、フロイトは1926年以後、この語をふたたび抑圧、原抑圧を表現するために使うようになった。

私は後に(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛 Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926 年)

たとえば、最晩年の論文(ラカン曰くフロイトの遺書)にはこうある。

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

ここでの抑圧は原抑圧のことである。それは「原防衛手段」という語が示している。ある時期以降のフロイトにおける抑圧は原抑圧(固着)である場合が多い(参照:原抑圧・固着文献)。

あるいは抑圧という語を原抑圧と抑圧(後期抑圧)をひっくるめて使っている。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)

※中井久夫のいう「解離」がなぜPTSD、すなわちトラウマにかかわるのかは、「サントーム型の人間」を参照のこと。


※一般化排除

ここで誤解のないようにつけ加えておけば、前期ラカンが示した原抑圧の排除が精神病の特徴だという考え方は、後期になって問い直しがなされている。

父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)

現在ラカン派ではこの「別の排除」を、人間が誰しももつ排除として「一般化排除 la forclusion généralisée」と命名している。リビドー固着による置き残しがこの「一般化排除」あるいは「一般化排除の穴 trou de la forclusion généralisée」(Ⱥ)である。

リビドーは、固着Fixierung によって、退行 Regression の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残る zurückgelassen)のである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)


この一般化排除の穴のせいで「人はみな妄想する」というラカンの発言(1978年)が生まれる。 そして穴とはラカン用語では現実界的トラウマのことである。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Vie de Lacan、2010)

「人はみなトラウマ化されている」とは、フロイト用語で言い直せば、「人はみな外傷神経症である」ということである。ただしここでの外傷は「構造的外傷」と呼ばねばならない(参照:構造的トラウマと事故的トラウマ)。




■ドゥルーズの強制された運動と無意志的記憶の回帰

ところでドゥルーズは、死の本能、永遠回帰、無意志的記憶の回帰をほぼ同じメカニズムとして扱っている。この事実は、差異と反復、プルースト論を同時に読むことでよりいっそう明らかになる。核心は「強制された運動の機械」概念である。

『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』)
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械 trois sortes de machinesを動かしている。

・部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)
・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真理を生産する。なぜなら、真理は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

・失われた時 le temps perduにおいては、部分対象 objets partiels の断片化による。
・見出された時le temps retrouvéにおいては、共鳴 résonance による。
・別の仕方における失われた時 le temps perdu d'une autre façon においては、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この失われたもの perteは、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)

ここでドゥルーズは何を言っているのか。「見出された時」(エロス)といってもその底部には、「失われた時」としての「強制された運動の機械」(タナトス)があると言っているのである。

それは『差異と反復』の次の文を読むことでより明らかになる。

エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)

ここでの議論における「強制された運動」の前提条件となるドゥルーズの「潜在的対象 l'objet virtuel 」概念のラカン的観点からの読解は、「潜在的対象と骨象a」で示した。ドゥルーズが「原抑圧」という語に二度触れているのもそこで示した。

わたくしにとってドゥルーズ が限りなくすぐれていると思えるのは、原抑圧への言及だけではなく、現在に至るまでフロイト学者のあいだでさえ滅多に触れられることのない「固着=自動反復」について、1968年の時点でーーすなわち後期ラカン(1973年以降)が始まる前にーー既に言及していることである。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」という考え方 idée d'un « automatisme » は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

この自動反復は象徴界のなかのオートマトンではない。そうではなく現実界のオートマトンである。



わたくしの知る限りでも、何人かのドゥルーズ研究者、たとえば『差異と反復』の翻訳者財津氏が新訳の過程で、この語の解釈に四苦八苦しているのを彼のブログで読んだことがある。これは現在ラカン派でも把握している人がすくないのでやむえないことではある(参照:「簡潔版:二つの現実界」)。

さて話を戻せば、ドゥルーズが抜き出した「固着=自動反復」の記述箇所前後が、ミレール 曰く《後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan 》なのである(Le PartenaireSymptôme 1997)。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


もっともラカンはセミネール10「不安」(1962-1963)で、この「固着」という核心にとても近づいていた。だがその後の10年のあいだ「論理期」という寄り道をした。

セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだ…何という反転!

そして私は自問した、ラカンはセミネールX 「不安」後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と。…(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション)


さてここでは簡潔に言っておこう。「強制された運動の機械」とはリビドー固着による強制された運動である。これは死の欲動、永遠回帰、無意志的記憶の回帰の三者において(メカニズムとしては)すべて同一である。あくまで「メカニズムとしては」と強調しておかなければならないが。

ドゥルーズにおける永遠回帰の叙述は、ここでは長くなるので触れない。それは「サントームの永遠回帰」を見よ。

リビドー固着とは、ラカン用語ではサントームである。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

そして言語の外に放り投げるを意味する排除=原抑圧とは、固着のことである。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)

永遠回帰=死の欲動=無意志的記憶の回帰(レミニサンス)という想定は、既にフロイト・ラカンも示している。

まずフロイトによる反復強迫=永遠回帰である。

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫 Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

次にラカンによる現実界のトラウマとレミニサンスとの関連性の示唆。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

ラカンが現実界というときは、現実界の反復強迫でもある。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

ここで『意味の論理学』における次の簡潔な文を並べればすべてが明瞭になるだろう。

強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年) 

この「強制された運動」は、プルースト論の核心であることをかさねて強調しておこう。

そして中井久夫はプルーストの「心の間歇」を、遅発性外傷障害としている。

遅発性の外傷性障害がある。震災後五年(執筆当時)の現在、それに続く不況の深刻化によって生活保護を申請する人が震災以来初めて外傷性障害を告白する事例が出ている。これは、我慢による見かけ上の遅発性であるが、真の遅発性もある。それは「異常悲哀反応」としてドイツの精神医学には第二次世界大戦直後に重視された(……)。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)


結局、死の欲動、永遠回帰、レミニサンスとも外傷神経症の一種なのである。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


原抑圧(リビドー固着)という言語外(現実界)の身体的なものの反復強迫を死の本能(死の欲動)と呼ぶのであり、死の本能とは直接的には死と関係がない。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)


ドゥルーズの1960年代後半の三つの仕事におけるエロス・タナトスの捉え方はこうである。



マゾッホ論とプルースト論では三区分、差異と反復では二区分である。ドゥルーズにおけるマゾッホ論の特徴は、「死の欲動」と「死の本能」を区別したことである。そして「差異と反復」の記述を考慮すれば、死の欲動とは事実上、エロス欲動に含まれるのである。欲動混淆とはエロスとタナトスの混淆としてフロイトのマゾヒズム論などに記述がある。

われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび脱混淆Entmischung することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

「マゾッホ論」と「差異と反復」に絞って、用語的により厳密に示せば、次のようになる。

ドゥルーズの死の本能とラカンの享楽




◼️享楽と外傷神経症

ラカンの享楽概念自体、そのある相では外傷神経症として取り扱うことが可能である。

①享楽と固着
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。…フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)


②享楽とトラウマ
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée(L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)


⋯⋯⋯⋯

※付記

強制された運動の機械をめぐって記したが、1970年代、ガタリと組んだドゥルーズには欲望機械(欲望する機械)という概念がある。

ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態l'état libreで、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。(⋯⋯)この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)

さてどうしたものか、この概念を。ガタリと組んで口が滑っただけなんだろうか?




ニーチェ、プルースト、フロイト注釈者として常にドゥルーズに敬意を表している蚊居肢子は、ラカン派から「厳密にフェティシスト的錯誤」等々と長年嘲罵され続けているこの「欲望機械」概念をなんとか救いたいものだと思案中なのである・・・


ちなみに強制された運動の機械の項にある「固着と退行によって条件づけられた反復」とは、次の文脈のなかにある。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)

そしてラカンはフロイトの「幼児期の純粋な出来事」という表現を、「サントーム=身体の出来事」と簡潔に表現した。

症状(原症状・サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

この「身体の出来事」をミレールはーー「享楽と外傷神経症」の項で引用したがーー、次のように注釈しているのである。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

そしてこれもくり返して引用すれば、《サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition.》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)となる。

ようするにドゥルーズの「強制された運動の機械」とは、現代主流ラカン派の「サントーム」解釈とピッタンコなのである。