このブログを検索

2019年7月31日水曜日

私は詩人に飽き飽きした

詩人ツァラトゥストラは「詩人は嘘をつきすぎる」「詩人に飽き飽きした」と、詩を以て言っている。

詩人は嘘をつきすぎる。…

詩人のうち、酒の偽造をしなかったものがあろうか。……

感情のこもった興奮がやってくると、詩人たちはいつもうぬぼれる、自然がかれらに惚れこんだのだと。……

ああ、なんとわたしは詩人に飽き飽きしていることだろう。……

わたしは古い詩人、また新しい詩人に飽きた。わたしにとってはかれらのすべてが、表皮であり、浅い海である。 かれらは十分に深く考え抜いたことがなかった。それゆえかれらの感情も、真に底の底まで沈んで行ったことがなかった。……

ああ、わたしはわたしの網をかれらの海のなかに投げ入れて、よい魚を捕えようとした。しかしわたしの引き上げたものはいつも、どこかの古い神の頭であった。……

わたしから見れば、かれらは十分に清らかではない。かれらのすべては、自分の池が深く見えるように、それを濁すのである。……

たしかに、詩人の内部に真珠の見いだされることはある。それだけに、詩人自身はいよいよ殻の硬い貝類である。そして、魂のかわりに、わたしはしばしばかれらのなかに、塩水にひたった粘液を見いだした。……

かれらはさらに海から虚栄心をも学び取った。海は孔雀のなかの孔雀ではなかろうか。……

まことに、詩人の精神そのものが孔雀のなかの孔雀であり、虚栄の海である。(ニーチェ「詩人」『ツァラトゥストラ』第2部1883年)


この態度が最も大切なことである、と蚊居肢子はいうーー《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう![Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! ]》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「創造者の道」1883年)

かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。(ニーチェ「卑小化する徳」『ツァラトゥストラ』第3部、1894年)
やめよ、おまえ、俳優よ、贋金造りよ、根柢からの嘘つきよ。おまえの正体はわかっている。

おまえ、孔雀のなかの孔雀よ、虚栄心の海よ。何をおまえはわたしに演じてみせたのだ。よこしまな魔術師よ、……

よこしまな贋金造りよ、おまえにはほかにしようがないのだ。おまえは医者に裸を見せるときでも、おまえの病気に化粧をするだろう。…

おまえの口、すなわちおまえの口にこびりついている嘔気だけは、真実だ。(ニーチェ「魔術師」『ツァラトゥストラ』第4部、1895年)


よく知られているように、《人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからである》(プルースト「ソドムとゴモラ」である。

芸術家はいまや俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達してゆく。…芸術の俳優的なもののうちへのこの総体的変化は、まさにまぎれもなく生理学的退化の一つの現われ(もっと精確には、ヒステリー症状の一形式)である。…

わが友らよ、私たちが理想に本気であるなら、私たちは誹謗しよう、私たちは旋律を誹謗しよう![verleumden wir die Melodie!]  美しい旋律にもまして危険なものは何ひとつとしてない![Nichts ist gefährlicher als eine schöne Melodie! ] それにもまして確実に趣味を台なしにするものは何ひとつとしてない![Nichts verdirbt sicherer den Geschmack! ](ニーチェ『ヴァーグナーの場合』トリノ書簡、1888年)

ニーチェ主義者バタイユもこう言っている。

私はポエジーに接近する。しかし、ポエジーに背くために(ポエジーを失敗させるために)。Je m'approche de la poésie: mais pour lui manquer ……

ポエジーの非意味の水準に昇華していないポエジーとは、たんに空虚のポエジー、美しいポエジーに過ぎない。La poésie qui ne s'élève pas au non-sens de la poésie n'est que le vide de la poésie, que la belle poésie (バタイユ『詩への憎悪 La Haine de la poésie』)

美しいメロディ、美しい詩など「美しくない」のである。そんなものはニブイ者あるいは馬鹿以外はすぐ退屈する。

だが「非意味 non-sens」とは何か? バタイユの言いたいこととはいささか反するかもしれないが、蚊居肢子に言わせれば、なによりもまずリトルネロであり、ララングであり、音調であり、言葉のモノ性である。


リトルネロ  、ララング 
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)

言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているもの Ewig-Geschiedenemのあいだの虹、仮象の橋 Regenbogen und Schein-BrückenScheinではなかろうか。…

事物 Dingen に名と音調 Namen und Töne が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音調 Töne を発してことばを語るということは、美しい狂宴 schöne Narrethe である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「快癒しつつある者 Der Genesende」1885年)
言葉のモノ性
ララングは意味のなかの穴である…現実界の症状は、「言葉のモノ性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)
ラカンは言語の二重の価値を語っている。一つは肉体をもたない意味 sens qui est incorporel ともう一つは言葉のモノ性 matérialité des mots (ララング=母の言葉)である。(Pierre-Gilles Guéguen,  Parler lalangue du corps,  2016)
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)


たいせつなのは、オッカサマの言葉です。とくに母胎にいるとききいたあの声です。これこそ詩の起源です。意味過剰の三文詩人たちよ! 美女以外は許しません。


2019年7月30日火曜日

日本社交界のラカン派ドゥルーズ派諸君に命ずる!

最近になってもラカン研究者プロパのなかでさえ「ボク珍のラカンはアンコールまでのラカン」とか言っている人物がいるらしいが、そんな輩はラカン派ではまったくない。

なぜなら中期ラカンは「道に迷った」のだから。フロイトの道を踏み外したのである。たぶん不安セミネール直後におこった「破門」のせいもあろうから、ラカンに対しては情状酌量の余地はたぶんにあるが、21世紀のラカン研究者には情状酌量の余地はまったくない。今後いっさい戯言系の書物など出版しないことを蚊居肢散人は命ずる!

セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!

そして私は自問した、ラカンはセミネールX 「不安」後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と。セミネール「不安」は、…形式化の力への限界を示している。いや私はそんなことは言わない。それは私の考えていることでない。

ラカンはセミネールXXに引き続くセミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。…あたかもセミネールX にて描写した視野を再び取り上げるかのようにして。

…不安セミネールにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション)

ーーミレールは「道に迷った」と口に出したあと、即座に否定しているが、フロイトの『否定』論文の定義上、「中期ラカンは道に迷った」が本音である。それを意図してミレールが2006年の段階でああ言っているのは、後年の発言をみれば明らかである→「女性の享楽簡潔版」。

ミレールの言っている不安セミネールの「身体」の核心のひとつは、最近何度か掲げている次の文である。

(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号(去勢記号)は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では、投影されず ne se projette pas、備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上還元されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。

ーー自己身体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(Lacan, S10, 05 Décembre 1962)

この文の前には次の二つの図が示されている。



下図に「自己身体 corps propre」とあるが、ようするに究極の「自己身体」は去勢されているのである。

で、これが後期ラカンーーアンコールの最後から始まる後期ラカンの鍵である。



四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

サントーム=原抑圧の穴は《どんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale》とあり、セミネール10では《(-φ)は、これ以上還元されない irréductible》とある。

あとは去勢(-φ)と穴trouは同じかどうかを問えば、一丁あがりである。

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)

ーーおよろしいでしょうか? 去勢は穴です。身体には去勢の穴があるのです。

身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
穴ウマ=トラウマ troumatisme (ラカン, S21, 19 Février 1974)

ミレール注釈ではご不満の方々のために、「原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性」でながながと引用した文の一部を抜き出そう。


原ナルシシズム: 去勢された母なる自己身体を取り戻す運動
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)


前期フロイトから「自己身体」という語は頻出するが、ここでは最晩年のフロイトからもうひとつだけ引用しておこう。

われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

このトラウマは自己身体の上への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

これらは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

ーーああ、ここにも「ナルシシズム的屈辱」なんてあるよ、ボクは見逃してたけど。

ようするに原ナルシシズムとは母なる身体を取り戻す運動、究極的には出生によって去勢-分離されてしまった母胎と融合しようとするエロス運動である。これを自体性愛(=自己身体エロス欲動)、自己身体の享楽、自閉症的享楽等々と呼ぶのである。

よく知られているように(?)、エロスとは死の欲動である(参照:死への道は愛である)。これはすこし考えてみれば当たり前である。フロイトのエロスとは融合である。母なる大地と融合するのが究極のエロスであり、それは死である。だがこの当たり前のことさえ日本フロイト派・ラカン派のボク珍たちはいまだ認知していない。

死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance( PAUL VERHAEGHE,  Enjoyment and Impossibility, 2006)


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


さて以下のフロイト・ラカン派語彙群はすべて同じ意味である(遠慮してほぼ同一といっておいてもよい)。



上段は、固着による無意識のエスの反復強迫(あるいは上に引用したトラウマへの固着とその反復強迫)であり、下段のラカン派語彙は、サントーム(原症状)のことである。

この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ーー「自動反復 Automatismus」とは言葉の成り立ち上、「自己身体機械」のことでもある。たとえば「自閉症 Autismus」は、ギリシア語のautos-(自身)と-ismos(状態)を組み合わせた造語である。

この固着による自身機械=反復強迫が、ラカンのサントームであり、自己身体の享楽、自閉症的享楽なのである。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。 Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (MILLER, L'Être et l'Un,, 9/2/2011)
自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)
ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、…反復的享楽La jouissance répétitiveであり、…S2なきS1[S1 sans S2](=固着)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(MILLER、L'Être et l'Un, 23/03/2011)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉的的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)

というわけで一丁あがりである。

原無意識(現実界的無意識)について」で引用した次の文を再掲して念押しおいてもよい。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ここで確認しておけば、固着とは身体的なものが心的なものに翻訳されないことで、この心の外(言語外・象徴界外)にあるものをフロイト・ラカン派ではトラウマ=現実界と呼ぶ。そしてこれが身体の自動反復をもたらす。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマtraumatismeと呼ばれるものの価値を持っている(Lacan, S23, 13 Avril 1976)


さらに怒涛の引用癖のある蚊居肢散人は、身体の自動機械のようにして、--あるいはエロ画像を貼り付けるようにしてーーこう引用しておいてもよい。


永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance  。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

「備給Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい。(フロイト『無意識』1915年)



………

ところでである。

まず「欲望機械という倒錯機械」で1960年代後半のドゥルーズの仕事から列挙した文からここではエキスのみ抜き出そう。


固着によって強制された運動の機械
トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」 « automatisme » という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年


冒頭の文にあるフロイト用語「Automatismus(automatisme)」 は先ほど示したように「自己身体機械(自身自動作用)」とも訳せる語で、ラカン派用語では自閉症的享楽でもある。

すなわちドゥルーズの「強制された運動の機械」とは自閉症的機械のことである!

最近「ドゥルーズと自閉症」なる研究会があるらしいが、この観点をぬかしたオベンキョウカイなら即座に罵倒の対象である。蚊居肢散人の口から火が吹くのである。オワカリダロウカ?

そもそも欲動は自閉症的なものである。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

ーーこの文は、完全にラカンの考えに則っている(参照:ラカン派の自閉症)。

「欲動は自体性愛的 autoerotisch」だということは、「欲動は自己身体エロス欲動」だということだ。

自体性愛Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得るbefriedigtことである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

で、自閉症概念創出者のブロイラーは「自閉症≒自体性愛」だと言っている。

自閉症が自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものであるAutismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. 。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムLibido und Erotismusは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。(ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911年)

だから、DSMの自閉症ではなく、起源としての自閉症概念を受け入れるなら、「欲動は自閉症的」「享楽は自閉症的」だということだ。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

で、フロイトの欲動の最後の定義は次のもの。

欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ようするにこういうことだ。



で、これはニーチェが言っていることの言い換えである(参照:人はみな自閉症である)。

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)

「ドゥルーズと自閉症」の諸君! ニーチェをはずしてはけっして本源的な意味での「自閉症」を語れません。オワカリダロウカ?

自閉症の究極の定義とはツァラトゥストラのグランフィナーレ「酔歌」にあるのをご存知ないのでしょうか?


ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』第4部、1885年
静かに!静かに! いまさまざまのことが聞こえてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいま、ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが?  あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?  
Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, -  

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!  

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht!   第3節


以下続きは→「原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性」の末尾をごらんなされたし(どうせみないだろうけどさ)。

そもそも厳密に言って、晩年のフロイト読解からえたラカンの洞察とは、人の起源には「自閉症」(=自己身体状態 [エス])があり、その自閉症からどうやって非自閉症的人間になるか、というものである。

この非自閉症的になる手段のひとつが晩年のラカン用語では「妄想」である。

ジャック=アラン・ミレールは妄想の底にはトラウマがあるといっている。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ミレール、Vie de Lacan、2010)

このトラウマとはラカン用語では穴であり、かつまた去勢であるのは上に示した。ようするに自閉症的享楽とは身体の穴のまわりの循環運動である。ジャック=アラン・ミレールが《去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である》(Introduction à l'érotique du temps、2004)あると言っている真意はこれである。

というわけで、やめといたほうがいいんじゃないか、「ドゥルーズと自閉症」研究会の諸君! 中止しろよ。20年ぐらいはやいよ。マツタク程度をいれても役に立たないよ。彼はまだ若すぎる。フロイトが真のフロイトになったのは1920年64歳以降である。真のラカンは1973年72歳以降である。そして蚊居肢散人のみるところコクブンくんは知的にはゼロだな、彼には生徒会長ぐらいのまとめ役が適任である。ゼロとはシツレイな! ま、甘すぎるということである。自閉症を問うなら、まずスピノザ研究者として次の文を想い起こさねばならないのに、うわさによればその気配が毛頭ない。

自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。
Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,(スピノザ、エチカ第三部、定理9)

ーー現在、蚊居肢散人の知るスピノザ解釈者においては、appetitus は欲動 Trieb とされることが多い。たとえば「Körper Trieb (appetitus) 」あるいは「Appetitus ist Trieb」と注釈されている。

したがって「衝動とは人間の本質に他ならない」とは「欲動とは人間の本質に他ならない」とである。

以上、ここでも蚊居肢散人は命ずる!

ニーチェ、プルースト、フロイト、ラカンをじっくり読んでからだな、可能なのは。

『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』第2版 1970年)

………

ま、ここまでは言いすぎだといっておいてもよろしい。

だが一番肝心なのは、DSMなる「自閉症スペクトラム」の「自閉症」を基盤にして自閉症を語らないことである。

少し前に引用したが、DSMの自閉症ってのは徴候群(シンドローム)なんだから、《すべてを始めからやりなおさなければならない》に決まってんだろ?

マゾッホを一行でも読んでみれば、彼の世界がサドの世界とまったく無縁のものだとすぐに感知できる。(……)問題視されているのは、サド=マゾヒスムと呼ばれる単位性そのものなのだ。医学には、徴候群 syndromesと症状 symptômes の区別がある。すなわち症状とは、一つの疾患の特徴的な符牒 signes spécifiques d'une maladieであるが、徴候群とは、遭遇または交叉からなる幾つかの単位であり、大そう異質な因果系統や可変的なコンテキストとの関係を明らかにする。…われわれはサディストとマゾヒストが同一者であるという言葉を聞かされすぎてきた。ついにそれを信ずるまでに至ってしまったのである。すべてを始めからやりなおさなければならない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳ーーただし「症候 symptômes」を「症状」に変更)

したがって最低限、DSMなる最悪の精神医学マニュアルを叩き潰すことが「ドゥルーズと自閉症」研究会の目標にしていただきたい。これこそ真に蚊居肢散人は命ずる!



DSM(精神障害の診断と統計のマニュアル)批判
1980年に米国でDSM‐Ⅲが公刊されると、この黒船によって、日本の精神医学はがらりと変わった。本質的にクレペリン精神医学によって立ち、クルト・シュナイダーK.schneiderの操作主義とエルンスト・クレッチマーE.Kretschmerの多次元診断によって補強されたDSM体系は、日本の精神医学の風土を変えた。(中井久夫『関与と観察』2005年)
医学・精神医学をマニュアル化し、プログラム化された医学を推進することによって科学の外見をよそおわせるのは患者の犠牲において医学を簡略化し、疑似科学化したにすぎない。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年)

DSM は精神病理学と科学哲学を 2つの柱にしつつ,そのいずれもが,専門的見地からみるなら初歩的な水準にとどまっています.そのようなものが,その後3 0 年以上も生き延び,それどころか世界の精神医学の指導原理となっているのは,不思議といえば不思議なことです.(内海健「うつ病の臨床診断について」2011年)
英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「精神障害 mental disorder」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。(Bert Olivier, Capitalism and Suffering, 2015)


これは蚊居肢散人によるボウヤたちのために親身になった妥協策である。あの諸君たちには、ニーチェ、プルースト、フロイト、ラカンをじっくり読むなどということはまったく不可能であるのは最初から知っている。

したがって最低限の仕事は、DSMという屑を崩壊させることとなる筈である。

精神医学診断における新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。(⋯⋯)

DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy, 2007ーー時代の病「DSMと自閉症」

「ドゥルーズと自閉症」の研究会諸君がかじっているらしい、たとえばトゥルニエ論の孤島のロビンソンやらルイス・キャロルやらが自閉症的なのはあったりまえなのである。創造的退行を旨とする詩人たちはすべて自己身体に向かう自閉症者である。それでなかったら本来の詩人ではない。詩人とは身体の穴に敏感な種族である、ーー「ただ この子の花弁がもうちょっとまくれ上がってたら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

詩の吐露 Le dire du poèmeは、…「言語という意味の効果 effets de sens du langage」と「ララング(=母の言葉のリトルネロ )という意味外の享楽の効果 effets de jouissance hors sens de lalangue」を結び繋ぐ fait tenir ensemble。それはラカンがサントーム(=自閉症的享楽)と呼んだものと相同的である Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome。(コレット・ソレール Colette Soler、Les affects lacaniens、 2011)

ララングとはきみたちドゥルーズのリトルネロだよ、 《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》 (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)

で、すぐに思い出さなくっちゃな。

ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)

問いはむしろ学者センセたちはなんであんなに非詩的、非自閉症的でニブイんだろう、ということである。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

………

すこしまえにもうこの自閉症の話をやめにする、と記したところだが、どうも消化不良で腹具合がよくなかったのである。この文はすかしっ屁のようなもんである。8月以降はすっきりしてエロに専念したいものである。






ゴダール1967



La Chinoise (1967年)


Deux ou trois choses que je sais d'elle (1967年)



ごっくん


(「女医肉奴隷」1986年)


女医肉奴隷」というのはWIKIにも項目があるくらいで、にっかつロマンポルノ末期の作品らしいけど、とってもいけるな、すくなくともこの瞬間ってのは。いまどきのAVでこんなにエロい映像ってあるんだろうか。

荒木経惟のお気に入りの写真、思い出しちゃったよ。





エロってのは現物がみえちゃだめなのさ、安吾やバルトが言ってるけど。

むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。

やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)



たぶんみんな裸になったら、たとえば痴漢電車なんてなくなるよ。
  
身体の中で最もエロティック érotique なのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯 zones érogènes》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇intermittenceである。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらりと見える肌 la peau qui scintille の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えること自体 scintillement même qui sédui である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。

それはストリップ・ショーや物語的サスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ああ、でも精神年齢高校生の連中だったらダメかもな。




見えない場 champ aveugle の現前(力動性)こそ、ポルノ写真からエロティックな写真を区別するところのものである、と私は思う。ポルノ写真は一般にセックスを写し、それを動かない対象 objet immobile (フェティッシュ)に変え、壁龕から外に出てこない神像のようにそれを崇拝する。私にとっては、ポルノ写真のイマージュにプンクトゥム(刺し傷)はない。そのイマージュは、せいぜい私を楽しませるだけである(しかもすぐに倦きがくる)。

これに反して、エロティックな写真は、セックスを中心的な対象としない(これがまさにエロティックな写真の条件である)。セックスを示さずにいることも大いにありうる。エロティックな写真は観客をフレームの外へ連れ出す。だからこそ、私はそうした写真を活気づけ、そうした写真が私を活気づける。プンクトゥムは、そのとき、微妙な一種の場外 hors champ subtil となり、イマージュは、それが示しているものの彼方に、欲望を向かわせるかのようになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』「見えない場」)




2019年7月29日月曜日

原無意識(現実界的無意識)について

ボクはすでに何度も記した筈だがな。

例えばラカン派専門家がこう言っている。

自閉症者には無意識がなく、その結果、一般的な自我を持つことができません。(向井雅明「自閉症について」2016年)

だから巷間の、若い「批評家」がこう言っいるてのもやむえないよ。

千葉雅也 いまや、無意識を持っているのは「特権階級」なのかもしれない。無意識というのは余りであり、動物的にただ生き残るために生きていたら、無意識は要らない。邪魔です。(中略)
僕としては、その状況は、グローバル資本主義によって、「無意識が奪われていっている」状況なのだ、とネガティブに捉えています。(『欲望会議』2018年)

だがこれらは、無意識という語の完全な誤用なのであって、「抑圧された無意識」しか視野に入っていない発言である。

ボクの問いは、ジャック=アラン・ミレールやコレット・ソレールをそれなりに熱心に読んでいる筈の松本卓也くんーー彼は向井グループの出身であり、千葉雅也くんと友人関係にもあるーーは、なぜ上のような発言を是正する気配がみえないのか、というものだ。ボクがしらないだけでやっているのかもしれないけど。

松本卓也くんはウワッスベリのところがあるのは否定できないが(とくに「享楽」概念について)、最低限、上の発言のたぐいが「全き誤謬」なのはよく知っている筈だとボクは「評価」しているのでね。

………

フロイトの無意識には、「抑圧された無意識」とは別に「非抑圧的無意識」と訳せる語がある、ーー《抑圧されていない無意識 nicht verdrängtes Ubw》(『自我とエス』)。後者をフロイトは原抑圧と呼んだが、実質的に「固着による無意識」である。

「原無意識 primal unconscious」は、(『夢解釈』に現れる)フロイトの「夢の臍 Nabel des Traums」、あるいは「我々の存在の核」Kern unseres Wesen であり、それは決して表象されえない。しかし固着過程を通して、背後に居残っている staying behind。フロイトはこれを「原抑圧」と呼んだ。フロイトの夢の臍は、ラカンの欲動の現実界である。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001)

今、「居残り」と訳した”staying behind”は、フロイトに頻出するが、ここでは最も簡潔に表現されている文をひとつだけ抽出しよう。

リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。…

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)

さて先にかかげたポール・バーハウの簡潔明瞭な文を裏付けよう。

まずラカンはこう言っている。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

ーーこれは後期ラカンによるフロイト無意識解釈における決定的な二つの文である。

今かかげた文にある原抑圧は、次の二つのボロメオの環に示されている。


ラカンが原抑圧の穴と言っているのは、vrai trouのほうの穴のことであり、象徴界の穴のことではない。

この二つの穴(現実界)については、コレット・ソレールが次のように言っている内容である。

現実界 Le Réel は外立する ex-siste。外部における外立 Ex-sistence。この外立は、象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会うこととは大きく異なる。…
象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)

たとえばセミネール22には次のような表現が頻出する。

・享楽は外立する la jouissance ex-siste (S22, 17 Décembre 1974)

・外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence (11 Février 1975)

・原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (08 Avril 1975)

………

ここでフロイトに戻ろう。

フロイトには「原無意識」あるいは「リアルな無意識」と訳せる語がある。これは、ラカン派用語なら、現実界の無意識である。

自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

ーー翻訳 Übersetzungとあるが、この語は初期からある。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、1896年)

このフリース書簡に現れる抑圧は、通常の抑圧ではなく、フロイトの後年の用語では原抑圧である。

われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。…欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それは極端な表現形式を見つけ…いわば暗闇に蔓延る異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動強度 Triebstärkeの装いによって人をおびやかす。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

フロイトにとって抑圧された無意識とは、後期抑圧に過ぎない。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)

確認のためにさらにバーハウの注釈を掲げよう。

フロイトは、「システム無意識 System Ubw あるいは原抑圧 Urverdrängung」と「力動的無意識 Dynamik Ubw あるいは抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt」を区別した(『無意識』1915年)。

システム無意識 System Ubw は、欲動の核の身体の上への刻印(リビドー固着Libidofixierungen)であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、原初の過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識 Dynamik Ubw は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的加工を表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれを「無意識の後裔 Abkömmling des Unbewussten」(同上、1915)と呼んだ。この「無意識の後裔」の基盤となる原無意識は、システム無意識 System Ubwを表す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004年)

そしてラカンは、通念となっているフロイトの無意識(=抑圧された無意識)との混同をさけるために、フロイトの原無意識を「言存在 parlêtre」と呼ぶようになったのである。

・ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

・言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。

・言存在 parlêtre のサントーム(原症状・固着)は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(ジャック=アラン・ミレール JACQUES-ALAIN MILLER、L'inconscient et le corps parlant、2014)

はっきり言って、前期ラカン、--《無意識は言語のように構造化されているL'inconscient est structuré comme un langage》のラカンは、フロイトの真の無意識を捉え損なっていた。「抑圧された無意識」しか視野に入っていなかった。したがって古典的ラカンのままの旧套ラカン派が冒頭のように言うのもある意味やむえない。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

だがフロイト自身には、初期から二つの無意識があったのである。

ここまで記してきた無意識を図示すればこうなる。



この図の下に、たとえば「ラカン派の自閉症」で示した内容を含めて、ミレール2005のセミネール冒頭でしめされた図とともにそのままくっつけることができる(ここではエキス語彙のみ抽出)。



ここで記した内容を裏付ける引用は、「きみたちは途轍もなく間違っている」にもふんだんにあるが、そのなかから明瞭な二文を掲げておく。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…

現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)

………

こうして現在の主流ラカン派では、21世紀は「原抑圧の時代」と呼ばれているのである。

最後のラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される(もはや旧来の症状ではなく、サントーム(原症状)である)。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないナマの症状である。…この原形式とは身体とシニフィアンとのあいだに遭遇にある。…

われわれは「フロイトの原抑圧の時代 the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung」にいるのである。ミレール は「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心理装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。そこにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012)

この意味はエディプスの斜陽の時代、抑圧された無意識が剥がれ落ち、底にある「原抑圧=固着」、すなわち原無意識が露出した時代ということである。

………

※付記

以下、象徴界と現実界についての簡潔まとめ引用群。


象徴界
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)
言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
欲望の主体 sujet de désirとは(実際は)幻想の主体 sujet du fantasmeのことである。(ラカン、AE207, 1966)
欲望は享楽に対する防衛である  le désir est défense contre la jouissance (J.-A. MILLER,  L'économie de la jouissance、2011)

現実界
現実界のトラウマの反復強迫
問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ(=言語外、象徴界外)と呼ばれるものの価値を持っている le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。 Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (MILLER, L'Être et l'Un,, 9/2/2011)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un-2/2/2011)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」…これは、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
ララングという現実界的シニフィアン
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」(=言語は仮象)と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
ララングlangageが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから liée au corps à corps des premiers soins。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化 dématernalisants をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかしララングの痕跡が、最もリアルなーー意味外のーー無意識の核 le noyau le plus réel - hors sens - de l'inconscient を構成しているという事実は残ったままである。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
サントームは、母の言葉に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴づけられたままである。(Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)
ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)
症状は言語の側にありsymptôme du côté du langage、…サントームはララングの側にある sinthome du côté de lalangue。(Myriam Perrin interviewe Pierre-Gilles Guéguen, 2016)
享楽(身体)という現実界
享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
固着による欲動の現実界
欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)(フロイト『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」1926年)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt (=欲動の固着)との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
サントーム=固着という享楽
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験rein zufällige Erlebnisse der Kindheit が、リビドーの固着Fixierungen der Libidoを置き残すhinterlassen傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 23 「症状形成へ道」1916年)
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. ( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011

享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un- 30/03/2011)
享楽は身体の出来事であるla jouissance est un événement de corps。…享楽(身体に出来事)はトラウマの審級l'ordre du traumatismeにある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームという自閉的享楽(身体の享楽)
自閉的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
身体の享楽は自閉的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉的享楽に帰着する。Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)g



2019年7月28日日曜日

おそそ道構図

さて通常運転に戻る。

























 
小津構図とは、結局、参道と神宮(産道と子宮)構図なのではなかろうか。じつはこの一週間ぐらいそればかり蚊居肢子は考えているのである。




で、結局ここに行き着くのではなかろうか?



 
そこの小津ファンのあなた、どう思われますか?


ちなみに蚊居肢散人が18歳までーーはじめて女とヤルまでーー夢のなかで纏いつかれた三歳のときの原風景は次のたぐいのものである。



女とヤッタ後はいくらかおさまり、だが今度はざわめく樟の光景にしばしば襲われるのである。

これもなにかのタタリであろうか。ちなみに初性交の相手には、故郷の町にある陸軍墓地の墓の台座に昼日中乗っていただいた。幸運なことに、そのドンピシャの場の画像がネットに落ちている。






2019年7月27日土曜日

人はみな自閉症である

やあ、飽きたって言ったけどさ、ようするに当たり前のことなんだな、「ラカン派の自閉症」で示したことは。結局、人には身体と心(身体の心的外被)があるということに収斂する(真珠貝の法話)。

これは、ニーチェがすでにいっていることだ。

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)
 
ラカン派的には、しばしば掲げているミレールのセミネール2005を補足して示せばこういうことだ。



象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)
ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。というのは、 言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないからである。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen (WS 1871/72 – WS 1874/75)

左項と右項の境界にはなんやらがあるとは言え、基本的には人はファルス人格じゃなかったら、身体的な自閉症があるということだ。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (MILLER, Orientation lacanienne III, 07/03/2007)

つまりファルス人格の底には、かならず自閉症がある。もし言語秩序(ファルス秩序)を疑うならーーニーチェ的にいえば、父なる「神の死」を言うならーー、かならず自閉症的なものがあらわれる。これはフロイト用語なら精神神経症と現勢神経症。




現勢神経症 aktualneuroseは(…)精神神経症 Psychoneurosenに、「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「心的に選択された、心的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体的-性的発露 somatischen Sexualäußerung から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912年)
現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核Kernであり、先駆け Vorstufe である。リビドー 興奮 libidinöse Erregung による身体の上への影響 Beeinflussungen des Körpersがある。…このリビドー興奮は、「母なる真珠の実体の層もった真珠貝を包む砂粒 Sandkorns, welches das Muscheltier mit den Schichten von Perlmuttersubstanz 」の役割を果たす。(フロイト『精神分析入門』第24章、1917年)

ファルス(精神神経症)とは身体的なものの飼い馴らしなのであってーー《ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)》--、最後のフロイトの言い方なら次の通り。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)

この飼い馴らしという言葉自体、ニーチェにある。

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年)

 多神教社会で欲動が飼い馴らされないのは当然だよ、多神教社会=非ファルス社会なのだから。

ま、なにはともあれフロイト・ラカン派的には、「自閉症」という語を神秘化したらダメだってことだな。自閉症とはもともと自己身体状態という意味なのだから。