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2019年8月30日金曜日

財政赤字のボロメオの環

何度か示しているけれど、柄谷行人が『トランスクリティーク』には、カントとラカンに依拠しつつ提示したボロメオの環「形式=仮象=物自体」があり、そこから演繹された「国家=ネーション=資本」は、次のようになる。







ボロメオの環の基本的な読み方は、次の通り。

青の環(資本)は緑の環(国家)を覆っている(支配しようとする)。
緑の環(国家)は赤の環(国民)を覆っている(支配しようとする)。
赤の環(国民)は青の環(資本)を覆っている(支配しようとする)。


ジジェク版だったらこうだ。






上のボロメオの環を現在の日本の国内的課題に当てはめてみよう。





だれもがこれを認めるはずである。

・財政赤字は国家を支配して、国家機関は負担増福祉減に促される。
・国民はその負担増福祉増政策に反発して負担減福祉増を訴え、財政赤字を無視しようとする。
・その結果、財政赤字は雪だるま式に増え、国家機関はいっそうの負担増福祉減に促される。


これからの日本のために 財政を考える、財務省、令和元年6月、PDF





ーーこの財務省の「これからの日本のために 財政を考える」令和元年6月、PDFは、もう必死だね。なんとかわかってもらおうと。

中福祉・高負担しかありえない日本」で、想田和弘、山崎雅弘をバカにしたけど、彼らは国民にのっかっているだけで、わたくしに言わせれば、典型的なポピュリズムリベラルってことだ。まともなインテリだったら三つの環を考えなくてはならないのに。

もし左翼ポピュリスト山本太郎の国内政策を支持するなら、MMTをマガオで信用するの? ということに収斂する。




一か八かボクはこれに賭けるんだ、と宣言するならまだ許してもいいよ、あれらポピュリズムリベラルをね。

こういっている人もいるがね。

MMTの実施は、これまで失敗したアベノミクスをさらに派手に推進するということ。円安も物価上昇ももう一段進むだろう。しかし、成長戦略なきバラマキでは、生産性は上がらず、名目賃金は上がっても実質的な生活向上は望めない。インフレが高まり、バラマキをやめるときには、日本経済は極端な不況に陥るか、それを恐れた政府がバラマキを続けて物価急上昇となるかのどちらかだ。株も土地も暴落し、中国企業が買い漁るが、それに対抗する日本企業は皆無となる。(古賀茂明「山本太郎の『MMT』理論はアベノミクスと本質は同じ」2019.7.30

究極的には、基軸通貨国では批判はありつつもひょっとしたらうまくいく僥倖がないではないMMTというのは、非基軸通貨国ではインフレ政策にすぎないと考えているけどね、ボクは。

非基軸通貨国は、自国の生産に見合った額の自国通貨しか流通させることはできないのである。それ以上流通させても、インフレーションになるだけである。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)
ここで言う基軸国とは一体どういう意味なのでしょうか?ドルは世界の基軸貨幣です。だが、それは世界中の国々がアメリカと取引するためにドルを大量に保有しているという意味ではありません。ドルが基軸貨幣であるとは、日本と韓国との貿易がドルで決済され、ドイツとチリとの貸借がドルで行われるということなのです。アメリカの貨幣でしかないドルが、アメリカ以外の国々の取引においても貨幣として使われているということなのです。(岩井克人「アメリカに対するテロリストの誤った認識」朝日新聞2001年11月5日)

ま、いろんなことをいう人はいるけど、ようするに無責任でないようになってことだな。ケインズのいう「美人投票」が起こる必然性をもっている「成長戦略なきバラマキインフレ政策」ってのは歯止めがきかないはずだから。

現在のグローバル資本主義は、米国の貨幣でしかないドルを世界全体の基軸貨幣としているシステムである。それは、すべての貨幣と同様に、世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るから世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るという、あの究極の美人投票としての自己循環論法によって支えられている。(岩井克人『グローバル経済危機と二つの資本主義論』2009, PDF

ようするにボク珍は全力をつくしていたのだと思い返すことのないようにな、ということだな。

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)

なによりもまず手始めに、ここで掲げた「これからの日本のために 財政を考える」令和元年6月、PDFと闘ってみることだね。MMTなんていうむずかしい話は後回しでいいので、こういった基本的なとってもわかりやすい資料をまず消化すべきだということだ。まともな人間だったらいままでに当然掠め読みぐらいはしているたぐいの資料だけどさ。

何がいいたいかというと、彼らは弱者擁護の「善意と誠実さ」に熱がこもりすぎて、こういった基本に対して「選択的非注意 selective inatension」に陥っていないかね、ということだ。

古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1996年『アリアドネからの糸』所収)

ふたりともとっても正義の人なんだな。もちろん彼らだけじゃないけど。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年)

で、視野の幅が狭くなったあの連中は、ひょとして「財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」の先鞭者じゃないかね、ってことだ。

財政的幼児虐待:現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いること。

財政的幼児虐待とは最も残酷な「未来の大衆いじめ」だよ(参照)。

あれらのごく基本的資料と闘った痕跡がないポピュリズムリベラルインテリってのは、ま、いわせてもらえば、知的銃殺刑に値するな。








たとえば山崎雅弘ってのは とてもリッパでとてもタダシイことを書いているひとじゃないか。

ある日をを境に、日本人の生活や価値観が、昨日までの「平和の時代」から一転して、国の存亡を賭けた「戦争の時代」へと激変したというような、あるいは白と黒とはっきり塗り分けられたような、わかりやすい「分岐点」は、そこには見当たりません。グラデーションのような形で、人々の生活は少しずつ、戦争という特別なものに染まっていたように感じられます。(山崎雅弘『1937年の日本人』2018年)

こういう人が、どうして財政破綻戦争突入間近である可能性に思いを至らないんだろ? 1937年には社会大衆党の躍進があったよな、ようするに社会ポピュリズム党の躍進だ。で2019年以降も社会ポピュリストの躍進がありそうな気配だろ?

この今になっても、「グラデーションのような形で、人々の生活は少しずつ、財政破綻という特別なものに染まっていた」ように感じられないんだろうか? それはそれは不思議でならない知的現象だな。



私は歴史の反復があると信じている。そしてそれは科学的に扱うことが可能である。反復されるものは、確かに、出来事ではなく構造、あるいは反復構造である。驚くことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。( Kojin Karatani, "Revolution and Repetition" 2008年、PDF




2019年8月29日木曜日

抑圧概念のお釈迦のために

フロイトの抑圧は、実にイミフの訳語である。

日本では従来 Verdrängung は「抑圧」と訳されるが、ドイツ語の語感からは「抑圧」ではなしに「追放」とか「放逐」が正しく、「抑圧」はむしろUnterdrückung(かりに上では「抑制」と訳したところの)に当る訳語である。(フロイト『夢判断』下 高橋義孝訳註 新潮文庫 p.379)
中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

上にあるように、Verdrängung とは、「放逐、追放」なのであって、圧するという意味はない。したがって抑圧という訳語をお釈迦にせねばならない。

とはいえフェミニストとしての蚊居肢子は「放逐、追放」という語も気に入らない。

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

どうしたって許せないのである、女を放逐したり、女を追放するなどという語感は。

さてどうすべきであろうか? 中井久夫=サリヴァンのいう「解離」を使用すべきであろうか。女の解離? だがこれだってイミフであり採用しがたい。

………

■抑圧とは防衛のことである

フロイトは抑圧という語について、1926年に次のように言い出した。

私は後年、(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念を「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926 年)

女への防衛だったらかなりいける。じつに蜀山人的である。

世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし(蜀山人太田南畝)

世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい(蜀山人太田南畝)


抑圧という語は防衛にすべきである!

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


■抑圧とはダムのことである

ところで防衛にはすくなくとも二段階がある。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

ーー原防衛と後期防衛である。これをフロイトは「古いダムと新しいダム」と呼んでいる。

分析は、一定の成熟に達して強化されている自我に、かつて未成熟で弱い自我が行った古い抑圧 alten Verdrängungen の訂正 Revision を試みさせる。抑圧のあるものは棄却abgetragenされ、あるものは承認 anerkannt されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される。このようにしてでき上がった新しいダムneuen Dämme は、以前のそれとはまったく異なった耐久力をもっている。それは欲動強度(欲動の高まりTriebsteigerung)という高潮にたいして、容易には屈服しないだろうとわれわれが信頼できるようなものとなる。したがって、幼児期に成立した根源的抑圧過程 ursprünglichen Verdrängungsvorganges を成人後に訂正し、 欲動強度 Triebsteigerung という量的要素がもつ巨大な力の脅威に終止符を打つという仕事が、分析療法の本来の作業であるといえよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 第3章、1937 年)

何に対する原ダムかといえば、エスに対するダムである。

心的装置は不快に不寛容である Der psychische Apparat verträgt die Unlust nicht 。 あらゆる犠牲を払っても不快を避けようとする。現実 Realität の知覚 Wahrnehmung が不快をもたらすのなら、その知覚ーーすなわち真理 Wahrheit--は、犠牲にされなければならない。

外的危険に直面した場合、かなりの時間のあいだ危険状況からの逃避 Fluchtと回避 Vermeidung によって切り抜けうる。そしてついには現実の能動的改変 aktive Veränderung der Realität によって危険を取り除くまでの力を獲得することもある。

しかし自己から逃避することはできない。内的危険にたいしては、逃避は何の役にも立たない。それゆえに自我の防衛機制 Abwehrmechanismen は、内的知覚 innere Wahrnehmung を改竄 verfälschenする。

したがって我々は、エスについての、欠陥だらけで歪曲された知識 mangelhafte und entstellte Kenntnis を送り届けられるだけである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第5章、1937年)

ダムというのもなかなかいける。女に対するダムである。


■古いダムとは固着のことである

古いダムとしての原抑圧とは固着のことである。


抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation (Lacan, S1, 07 Avril 1954)

以下、フロイトから直接、二つの文節を引こう。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)
われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。

…この欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇のなかに蔓延りwuchert dann sozusagen im Dunkeln、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘すると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動強度Triebstärkeという装いによって患者をおびやかす。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


■暗闇に蔓延る異者という残滓

古いダムとは、『終わりなき』に《未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln》とあったように、ダムとしては軟弱なのである。だから上にあったように「暗闇に蔓延る異者という残滓」がある。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

ようするにダムとはいいながら、エスに対する「境界表象」にすぎない。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

蚊居肢散人はこの1896年に言われた「境界表象 Grenzvorstellung」をとても好む。原抑圧つまりリビドーの固着とは、エスにたいする境界表象である。

境界でありたいした防衛はできない。別の言い方ならエスに対する防衛の失敗、エスに対する翻訳の失敗がある。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)

最晩年のフロイトは、この防衛の失敗によりエスのなかに居残る異者を、「原無意識」と呼んだ。

さきに次の文を示しておこう。

忘却されたもの Vergessene は消滅 ausgelöscht されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡 Erinnerungsspuren は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗備給 Gegenbesetzungen により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離 isoliert されいる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

そして翻訳の失敗による原無意識である。

自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

ーーこれこそ現代ラカン派が呼ぶところの現実界的無意識である。 《現実界的無意識 l'inconscinet réel 》(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)

エスのなかに居残る異者とは、エスの核とも呼ばれる。

人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


暗闇に蔓延る異者としての女
 
だが暗闇に蔓延る異者としてのリビドーの固着の残滓とは具体的には何だろう?

リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。…

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)

つまり幼児期の純粋な出来事的経験によってエスのなかに居残る異者とは何か?

これは原大他者にかかわるに違いない。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

おわかりだろうか?暗闇に蔓延る異者とは、究極的にはあの女なのである。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger(異者身体)(ラカン, S23, 11 Mai 1976)


人はみな男も女もあの女に支配されて人生を始めている。あの女とは「原誘惑者」でもある。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ああ、原セクシャルハラスメント者! ああ、あの偉大な母なる神!

偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替されるが Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)

しかもオチンチンつきの女である。

母子関係 relation de l'enfant à la mère…ファリックマザーへ固着された二者関係 relation duelle comme fixée à la mère phallique (S4, 03 Avril 1957)

これこそ人が防衛せねばならぬ究極の対象である。

母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女拘束Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

防衛したって生涯防衛しきれぬあの女である、ーー《世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい》(蜀山人)


■母なる原超自我

暗闇に蔓延る異者としての女とは別の言い方をすれば、母なる超自我である。

私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)

ラカンはこの超自我を「原超自我」(母なる超自我・太古の超自我)と呼んでいる。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

ああ、あの母なる原超自我! おわかりだろうか、この女こそすべてをのみこむ引力の起源である。

 フロイトは、原抑圧 l'Urverdrängungを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)

あの女があなたのリビドーの固着(身体の上への刻印)をしたのである。この刻印のせいであなたを自己破壊的に吸い込むのである。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

これこそ死の欲動である。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

あの固着、あの刻印こそ死の徴である。

私が「徴 marque」、「唯一の徴 trait unaire」と呼ぶものは、「死の徴 marqué pour la mort」(死に向かう徴)である。…これは、「享楽と身体との裂け目、分離 clivage, de cette séparation de la jouissance et du corps」…傷つけられた身体désormais mortifiéを基礎にしている。この瞬間から刻印の遊戯 jeu d'inscriptionが始まる。(ラカン、S17, 10 Juin 1970)


■享楽の固着

現在ラカン派ではリビドーの固着(欲動の固着)のことを享楽の固着とも呼ぶ。

欲動の固着(ゆえに享楽の固着)the fixation of the drive (and thus the fixation of a jouissance),(Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2002)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
享楽の固着 la fixation de la jouissance、(Catherine Lazarus-Matet, Une procédure pour la passe contemporaine, 2015)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

これは言葉の定義上、当然の成り行きである。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

享楽の固着があの女への回帰運動を生むのである。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

この享楽の対象としてのモノこそ、母である。

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

このモノこそ現実界であり、反復強迫(死の欲動)の起源である。

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER,2/2/2011)

あの女の引力によって人は自動機械になってしまうのである。

この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復=自動機械 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

これが現代ラカン派的には享楽の固着と呼ばれるものである。

反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)



■あの女に対する防衛

ラカン派では究極的には「あの女に対する防衛」を「享楽に対する防衛」、「現実界に対する防衛」と呼ぶ。

欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)
我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique, 1993)

欲望とは古いダムにたいする新しいダムである。いくらか強固な防衛であるにしろ、 この新しい防衛の鎧でさえそれほど確かなものではない。

ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

ようするにファルスの鎧は、あの女の刻印を飼い馴らす程度の仕事しかしない。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

中期ラカンは、この母なるシニフィアンとしての原シニフィアンを、《徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」》、《享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance 》(S17、1970)と呼んだ。

だが母なる記念品は容易に飼い馴らしえないのである。


■トラウマへの固着

現実界とは心的装置に翻訳されない身体的なものということであり、事実上、トラウマ界のことである。

享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

この享楽の固着にかかわる反復運動をフロイトはトラウマへの固着と反復強迫と呼んだのである。

トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

以下の文に「すべての神経症的障害」とあるが、フロイトには精神神経症と現勢神経症という概念があり、これがフロイトにとって全症状である(参照)。その前提で読めば、この文も決定的な文である。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)



■あの蛇、あの悪魔

以上、おわかりになったことだろうか? 抑圧という語の本来的な意味を。

思い浮かぶまま、テキトウに記したので、いくらかの飛躍、いくらかのわかりにくいところがあるかもしれないが、こういったことは厳密に記せばとてつもなく長くなってしまうのである。

ここでは抑圧=防衛=ダムの起源が、あの女にあることさえおわかりになればよろしい。

あの女、つまり蛇であり、悪魔である。

女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』1888年)
世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚のむれのなかへ走りこんだという人間が少なくない。nicht Wenige, die ihren Teufel austreiben wollten, fuhren dabei selber in die Säue. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「純潔」)

あの蛇、あの悪魔に対していくら防衛しようと無駄である。世の中にはファルスの鎧がぶ厚い人物もいるであろうが、とはいえ本来的に無理な防衛である。

自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや戻ってやってくるだろう。Naturam expellas furca, tamen usque recurret (ホラティウス Horatius, Epistles)


■エスの意志

最後にこう付記しておくべきだろうか? いささか躊躇ったが蚊居肢子のエスが要請するのである。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


おわかりだろうか、あの女の吸引力に抵抗するのはまったく無理なことを。

エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe(リビドー)と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)


■女主人の声

ああ、蚊居肢散人は決定的なことを記してしまった。本来、隠しておかねばならないことを!

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)

ああ、これこそあの女主人の声である!

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない[Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)

この声をきいたことがない人間があろうか? そんな人間が世にいるのだろうか?

もしそんな人物がいたら、よほどファルスの鎧がぶ厚い、いわゆる究極のエディプス的防衛人格の人物でしかありえないだろう。

「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。

…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

しかしいまどきそんな人物が存在するのだろうか、このエディプスの斜陽の時代に。

エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)


この《享楽への意志 la volonté de jouissance》(ラカン, Kant ·avec Sade, E778, Avril 1963)の時代、死への道への時代に、あの声をきく耳をもたぬ者がいるのだろうか?

死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)




2019年8月28日水曜日

中福祉・高負担しかありえない日本

前回記したことは、最も単純にいえば次の二図を眺めればいいわけでね(「社会保障について」 平成31年4月23日(火) 財務省、pdf






こうなんだから、負担を増やすか福祉を減らすしかない。だれもがそれがわかるはずだ。


ここでは「いま一度、 社会保障の未来を問う」(日本シンクタンク協議会 2016年度冬季セミナー抄録、pdf)から前回掲げた文をもういちど示すけれど、このセミナー抄録程度は最低限ぜんぶ読んどいたほうがいいよ。たとえばもしひとが消費税に触れたいならね。

最後に申し上げたいのは、日本の場合、低福祉・低負担や高福祉・高負担という選択肢はなく、中福祉・高負担しかありえないことです。それに異論があるなら、 公的保険を小さくして自己負担を増やしていくか、産 業化するといった全く違う発想が必要になるでしょう。 (基調講演—財政と社会保障 武藤敏郎 氏 株式会社大和総研 理事長)

前回は2040年という近未来に焦点をあてて示したけれど、ようするに人が20年後の日本の状況を視野に入れてものを言っているかどうかだよ、で、ほとんどの人はいれていないね。

たとえばツイッター社交界でのオピニオンリーダーの位置にある人物だな、ボクはあまりしらないのだけれど、数日前、「山本太郎」をめぐっていくらか眺めたなかで、想田和弘とか山崎雅弘という名にめぐりあったから今この二人を例にとるが、彼らはどう贔屓目にみても、20年後についてあきめくらタイプだな。穏やかにいえば「選択的非注意」派だ。

古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1996年『アリアドネからの糸』所収)


この現在の弱者擁護がなによりも肝腎だってのは、スバラシイことだよ、ある意味でね。でも、ああいった「善意で誠実な」リベラルが、例えば、1997年に消費税率は3%から5%に引き上がったあと、消費税率が8%に引き上がるまで17年もの時間がかかった(2014年)、その大きな原因のひとつだね。で、そのあいだに債務は雪だるまだ。

つまりはああいった連中こそ「財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」の実践者だ。

財政的幼児虐待:現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いること。

財政的幼児虐待とは「未来の大衆いじめ」なんだよ、それが「未来の大衆にたいして最も残酷な「庶民のための政治」」で示したことだ。

極論をいえば、現在はこの二つの選択肢しかない。

よこしまな心を抱いて正しい行為
そして正しい心を抱いて邪な行為

wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act

ーーシェイクスピア『終わりよければすべてよし』


つまりは「短期的には弱者においても痛みをもたらすよこしまな行為をして、未来の大衆のための正しい行為をする」か、あるいは「短期的視野のみで弱者擁護という正しい心に固執して、長期的には未来の庶民いじめという最悪の行為をする」かだ。あの経済音痴の連中は後者ということになる。

いまからでもおそくないから消費税を国民福祉税に名称変更すべきだな。そうすればああいった「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄)がすこしは減るよ。

で、想田和弘や山崎雅弘のツイートをリツイートしてうんうんうなずいているお嬢さんたちをみると、まさに次のようだな。

集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)

そう、まさにつぎのゴダールの映像のようだ。




集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考の制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章ーーヒトラー大躍進の序奏

これは皮肉をいっているわけではゼンゼンないのでね、人間というのは群集という場におかれたらかならずこうなってしまうということだな。鳥語装置というのはあきらかにポピュリズム装置として機能しているところがあるわけで、つまりは知的劣化装置だね。



2019年8月27日火曜日

未来の大衆にたいして最も残酷な「庶民のための政治」

「庶民のための大衆に根ざした政治」とは、未来の大衆にたいして最も残酷な政治である。

ここではまず柄谷行人と池尾和人による二文を掲げてみよう。

ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(池尾和人「経済再生 の鍵は不確実性の解消」2011)

いまここにいる大衆の「公共的合意」に基づいて、まだ生まれていない、文句も言えない将来世代の大衆に負担を押しつけるのが、「庶民のための大衆に根ざした政治」である。そうではないだろうか? 

たとえば近未来の20年後に限ってもよい。




この数字は、よほどのことがないとーーたとえば災害や流行病などによる大量死者の発生、移民の急増などがないとーー確定的である。高齢者1人あたりを支える未来の労働人口の減少が意味するのは、未来世代は現在にくらべて格段の高負担を強いられるということである。

2040年には70歳まで働いてもらうとしても、高齢者1人あたりを支える労働人口は、2020年度並にしかならない。小泉進次郎が、「75歳以上を高齢者に」と言っているのは、この事態にもとづいている(参照)。

この未来の他者を無視するのが、「(現在の)庶民のための大衆に根ざした政治」である。

この話を現在20歳の若者たちを例にとって遡及的に言ってもよい。〈あなたがた〉は20年前の「庶民のための大衆に根ざした政治」の犠牲者だと感じたことはないのだろうか?

そしてその〈あなたがた〉が、もし「(現在の)庶民のための大衆に根ざした政治」を願うなら、さらなる「財政的幼児虐待」の実践者にほかならない。

財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」とはボストン大学経済学教授ローレンス・コトリコフ Laurence Kotlikoff の造りだした表現で、 日本でも一部で流通しているが、現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いることを言う。

この政治は過去から綿々と続いているのである。選挙で票を獲得することがなによりも優先する政治家たちは、今ここにいる大衆にとっての「口当たりのいい政策」を示さざるをえない。

かつてノーベル経済学賞をとったブキャナンらが言ったように、政治家は構造的に次の立場にある。

現実の民主主義社会では、政治家は選挙があるため、減税はできても増税は困難。民主主義の下で財政を均衡させ、政府の肥大化を防ぐには、憲法で財政均衡を義務付けるしかない。(ブキャナン&ワグナー著『赤字の民主主義 ケインズが遺したもの』)


とはいえ日本の状況は世界的にみても突出している。





多くの人はこの事態にいまだ「選択的非注意」をしている。





より長期的に眺めれば、太平洋戦争末期と平成末期は、債務残高が「同じGDP比率」になってしまっている。




戦争もないのにこの有様である。この事態への対処なしの政治家などというものは、本来ありえない。もっとも黒田日銀によるインフレ施策はあった。インフレにより借金の実質額を減少させるという施策である。それが不幸なことに失敗してしまったのが、この現在である。

インフレ課税というのは、インフレを進める(あるいは放置する)ことによって実質的な債務残高を減らし、あたかも税金を課したかのように債務を処理する施策のことを指す。具体的には以下のようなメカニズムである。

 例えばここに1000万円の借金があると仮定する。年収が500万円程度の人にとって1000万円の債務は重い。しかし数年後に物価が4倍になると、給料もそれに伴って2000万円に上昇する(支出も同じように増えるので生活水準は変わらない)。しかし借金の額は、最初に決まった1000万円のままで固定されている。年収が2000万円の人にとって1000万円の借金はそれほど大きな負担ではなく、物価が上がってしまえば、実質的に借金の負担が減ってしまうのだ。

 この場合、誰が損をしているのかというと、お金を貸した人である。物価が4倍に上がってしまうと、実質的に貸し付けたお金の価値は4分の1になってしまう。これを政府の借金に応用したのがインフレ課税である。

 現在、日本政府は1000兆円ほどの借金を抱えているが、もし物価が2倍になれば、実質的な借金は半額の500兆円になる。この場合には、預金をしている国民が大損しているわけだが、これは国民の預金から課税して借金の穴埋めをしたことと同じになる。実際に税金を取ることなく、課税したことと同じ効果が得られるので、インフレ課税と呼ばれている。(加谷珪一「戦後、焼野原の日本はこうして財政を立て直した 途方もない金額の負債を清算した2つの方法」2016.8.15)

………

現在の日本国内政治における核心問題は次の5つである。

①高齢者一人当たり労働人口の減少
②社会保障給付費の増大
③国家債務の膨張
④労働人口における負担増の必然
⑤人口減少国で継続的経済成長は不可能


①③④については上に示したとおりである。


「②の社会保障給付費の増大」については、「①の高齢者一人当たり労働人口の減少」による必然である。





平成30年度(2018年度)の歳入・歳出構成は次のとおり。






いま示した二つのデータを基にして、社会保障費を中心にポイントだけを抜き出して示せば次のとおり。




税収のうち何を増やそうがかまわない。だが税収総額を増やさねば、国家債務はふえつづけて、未来の大衆に過剰な負担を押しつけることになる。

公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである(ジャック・アタリ、国家債務危機 )

税収を増やすとは、国民負担率を上げるということに収斂する。




世界一の少子高齢化社会で、この国民負担率の低さはありえない。このありえないことを放置せざるをえなかった主要な原因のひとつとして、「左翼ポピュリズム政治」がある。他方、保守政党は選挙に勝つために、その左翼ポピュリズム政治の「未来の大衆にたいする破廉恥な残酷さ」に対抗しえなかった「途轍もないふしだらさ」をもってきた。


踏み絵のすすめ」等でいくらか詳述したなかからポイントのみを抜き出しておこう。


◼️社会保障の問題
社会保障は原因が非常に簡単で、人口減少で働く人が減って、高齢者が増えていく中で、今の賦課方式では行き詰まります。そうすると給付を削るか、負担を増やすかしかないのですが、そのどちらも難しいというのが社会保障問題の根本にあります。(小峰隆夫「いま一度、社会保障の未来を問う」2017年)

◼️中福祉・高負担しかありえない
日本の場合、低福祉・低負担や高福祉・高負担という選択肢はなく、中福祉・高負担しかありえないことです。それに異論があるなら、 公的保険を小さくして自己負担を増やしていくか、産業化するといった全く違う発想が必要になるでしょう。(財政と社会保障 ~私たちはどのような国家像を目指すのか~ 大和総研理事長武藤敏郎、 2017年1月18日)
国民の中では、「中福祉・中負担」でまかなえないかという意見があるが、私どもの分析では、中福祉を維持するためには高負担になり、中負担で収めるには、低福祉になってしまう。40%に及ぶ高齢化率では、中福祉・中負担は幻想であると考えている。

仮に、40%の超高齢化社会で、借金をせずに現在の水準を保とうとすると、国民負担率は70%にならざるを得ない。これは、福祉国家といわれるスウェーデンを上回る数字であり、資本主義国家ではありえない数字である。そのため、社会保障のサービスを削減・合理化することが不可避である。(武藤敏郎「日本の社会保障制度を考える」2013年)


■歴史的に特異な状況にある日本財政
日本財政の構造を見ると、国の税収が一般会計歳出の6割しか賄えないという弱い税収基盤の上に成り立っている。2018年度における国の当初予算では、一般会計歳出総額97.7兆円のうち、33.7兆円分が国債の新規発行によって賄われている。税収(印紙収入を含む)の見積もりは59兆円であり、その他の運用収入等と合わせても64兆円に過ぎない。

一方、歳出構成の推移をみると、高齢化等に伴う社会保障費の増加と、公債残高の累増に伴う国債費の増加というわが国が抱える構造的問題が大きいことが分かる。実際、18年度予算に占める割合では、社会保障関係費が33.7%(32.9兆円)で最大のシェアを占め、国債の償還・利払い費(23.8%、23.3兆円)、地方交付税交付金等(15.9%、15.5兆円)と合わせて7割強となっている。次世代への投資である文教及び科学振興費や公共事業費など、その他の政策的経費は3割弱しかない。(小黒 一正「歴史的に特異な状況にある日本財政:中長期の社会保障の姿を示せ」2018.4.2)


現在の国内政治の核心的問題の五つ、

①高齢者一人当たり労働人口の減少
②社会保障給付費の増大
③国家債務の膨張
④労働人口における負担増の必然
⑤人口減少国で継続的経済成長は不可能


このなかでここまで触れなかったのは「⑤人口減少国で継続的経済成長は不可能」である。わたくしが依拠するのは次の観点であり、これは奇跡でもないかぎり「限りなく正しい」と考える。


◼️経済成長の困難性
アメリカの潜在成長率は 2.5%弱であると言われているが、アメリカは移民が入っていることと出生率が高いことがあり、生産年齢人口は年率1%伸びている。日本では、今後、年率1%弱で生産年齢人口が減っていくので、女性や高齢者の雇用を促進するとしても、潜在成長率は実質1 %程度に引き上げるのがやっとであろう。

丸めた数字で説明すれば,、アメリカの人口成長率が+1%、日本は-1%、生産性の伸びを日米で同じ 1.5%と置いても日本の潜在成長率は 0.5%であり、これをさらに引き上げることは難しい。なお過去 20年間の1人当たり実質GDP 成長率は、アメリカで 1.55%、日本は 0.78%でアメリカより低いが、これは日本においては失われた 10 年といった不況期があったからである。

潜在成長率の引上げには人口減少に対する強力な政策が必要だが、出生率を今すぐ引き上げることが出来たとしても、成人して労働力になるのは20年先であり、即効性はない。今すべき政策のポイントは、人口政策として移民政策を位置づけることである。現在は一時的に労働力を導入しようという攻策に止まっているが、むしろ移民として日本に定住してもらえる人材を積極的に受け入れる必要がある。(『財政赤字・社会保障制度の維持可能性と金融政策の財政コスト』深尾光洋、2015年)



2019年8月26日月曜日

ヒトラー大躍進の序奏

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

………

フロイトの『集団心理学と自我の分析』…それは、ヒトラー大躍進の序文[préfaçant la grande explosion hitlérienne]である。(ラカン,S8,28 Juin 1961)



集団は衝動的 impulsiv で、変わりやすく刺激されやすい。集団は、もっぱら無意識によって導かれている。集団を支配する衝動は、事情によれば崇高にも、残酷にも、勇敢にも、臆病にもなりうるが、いずれにせよ、その衝動はきわめて専横的 gebieterisch であるから、個人的な関心、いや自己保存の関心さえみ問題にならないくらいである。集団のもとでは何ものもあらかじめ熟慮されていない。激情的に何ものかを欲求するにしても、決して永続きはしない。集団は持続の意志を欠いている。それは、自らの欲望と、欲望したものの実現にあいだに一刻も猶予もゆるさない。それは、全能感 Allmacht をいだいている。集団の中の個人にとって、不可能という概念は消えうせてしまう。

集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)




集団の道義 Sittlichkeit を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的制止individuellen Hemmungen がすべて脱落して、太古の遺産 Überbleibsel der Urzeit として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊本能 destruktiven Instinkte が目ざまされて、自由な欲動満足 freien Triebbefriedigung に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示 Suggestion の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因 einzige Triebfeder であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的 Versittlichung になるということができよう(ルボン)。集団の知的能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度 ethisches Verhalten は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章) 
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考の制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)





原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章)



理念 führende Idee(自我理想)がいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つき Gefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)

………

権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」とーー(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

(画像省略ーーワカルダロ?)

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。
大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

(ワカルヨナ、きみたちがスキラシイ左翼ポピュリストのあのタレントボウヤだぜ、やめとけ、あいつだけは。いくら反安倍の急先鋒だって、あいつだけはやめとけ)

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)


これと闘わなくちゃいけないのはよくわかる。




だがあいつだけはやめとけ、《紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ》




奈落の母



貪り喰う空虚。天頂。また夕方。夜でなければ夕方だろう。また死にかけている不死の光。一方には真っ赤な燠。もう一方には灰。勝っては負ける終わりのないゲーム。誰も気づかない。Incontinent the void. The zenith. Evening again. When not night it will be evening. Death again of deathless day. On one hand embers. On the other ashes. Day without end won and lost. Unseen. ((サミュエル・ベケット Samuel Beckett『見ちがい言いちがいIll Seen Ill Said』)




で、おっかさん亡くなってから具合はどうなんだい?

死んだほうがもっとこわいですよ

こわいってのは?

毎夜、こんなぐあいなんですよ


(ベケット、母から子宮へ Samuel Beckett: From the Mother to the Womb.

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


ーーそうなのか、おれはまだ幸運なのかもな





批評家やら文学者ってのはありゃだめだね、おれたちの作品を、Rien[無]、vide[空虚]、creux[空洞]、vacuole[空胞]、abîme[深淵]、béance[裂孔]、coupure[切れ目]、fente[裂け目]、refente[裂割]、faille[断層]、trou[穴]やらとはいっておきながら、そこには女陰の奈落 abîme de l'organe fémininがあるってのに触れないんだからな、






風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器 Genitale der Mutter である。事実「すでに一度そこにいたことがある dort schon einmal war」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだFinger ins Genitale der Schlafenden ことがあった。(フロイト『夢解釈』1900年)




ここまでしめしたってわかんねえんだな、あの連中は。





ジュネぐらいだよ、ずばっとみやぶったのは。




美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

アレそのものはひみつにしといてくれっていっておいたけどな




そしたら風がとおりぬけるようにわらってたよ、やつもふたりの母親もって苦労してるからな

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)




しあわせもんなんですよ、あの文学者連中ってのは。

そうだな、こっそり嗤っておけばいいんだろうな




この「見えないオブジェ L'Objet invisible」⋯⋯⋯この空虚・この不在は、われわれ各人のなかにある何ものかに他ならない il n'est rien d'autre que ce creux, cette absence qui est en chacun de nous。以前の情景でも今の情景でもない。私の過去でも私の現在でもない。そうではなく、この逃れ去るものは、私が抱え続け・私を抱えて続けている空虚である。(ポンタリス Jean-Bertrand Pontalis,『夜の境界 En marge des nuits』2010年)


でもおっかさんてのはな、おれんとこはいつまでも生きていそうだからな





どうなるんだろうな、このまま続くと?





まだいいですよ、ボクすみたいに毎夜のパクパクはないのだから

とすればあれもやっぱりアレのことなのか




じゃあこうしておこうよ、暗闇に蠢く母の徴としてな。






美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ミレール Jacques-Alain Miller L'inconscient et le corps parlant、2014)

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [穴Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance 1999)

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、…原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? » 2014セミネール)



2019年8月25日日曜日

かあいさうな奴の標本

「この年になって、もっとしっかり女性器を見ておくんだった、と後悔している」「目もだいぶみえなくなってきたが、女性器の細密画をできるだけ描いてから死にたい」(金子光晴ーー吉行淳之介対談集『やわらかい話』)




人を感動させるやうな作品を
忘れてもつくってはならない。
それは芸術家のすることではない。
少くとも、すぐれた芸術家の。

すぐれた芸術家は、誰からも
はなもひつかけられず、始めから
反古にひとしいものを書いて、
永恆に埋没されてゆく人である。

たつた一つ俺の感動するのは、
その人達である。いい作品は、
国や世紀の文化と関係(かかわり)がない。
つくる人達だけのものなのだ。

他人のまねをしても、盗んでも、
下手でも、上手でもかまはないが、
死んだあとで掘出され騒がれる
恥だから、そんなヘマだけするな。
中原中也とか、宮沢賢治とかいふ奴はかあいさうな奴の標本だ。
それにくらべて福士幸次郎とか、佐藤惣之助とかはしやれた奴だった。


ま、でも福士幸次郎とか、佐藤惣之助とかってのは青空文庫にもあるくらいで、少しだけ読んでみたら、やっぱり誰かには見られたいだろうな、媚びはすくないってのかな。それはあるだろうけど。

私の作、不人氣なる詩人、私の初めて世に出した『太陽の子』は七百の部數のうち百部も賣れなかつた。第二の詩集『惠まれない善』の公刊は、最も賣行き惡い私刊の雜誌特別號を以て宛て、之も讀者の手二三十に渡つたに過ぎない。私はこの自己の逆運を嘆くために敢てこれをいふか。否、私は自白する。私は自己の作には常に自信を持たない。また其れと同じ程度にこれを世に出す熱心を持たない。公衆? 公衆とは何? 藝術は公衆相手の仕事であらうか。私はセザンヌがわが描きをはれる畫を家の藪に常に棄てた心事をよく了解する。私にとつて制作はその瞬間出來る限りたのしまれたる生の活動の氣高い一片である。私は此歡ばしい活動のため少年の如く熱心にその制作に沒頭する。それは悲哀の絶頂すらこの活動によつて慰められる。この生の活動より來る自然にして完全なねぎらひ、それは私等藝術に從ふものゝ行ふと共に常に報いらるゝ合理の報償である。私は人氣を願はない。私は生の報いは常に受けてゐる。そして私は常に快活である。(福士幸次郎「展望」)

百部とか二三十なんて売れすぎさ。

金子光晴だって「媚びないことを媚びてる」っていうのかな、そういうところがあって、たいしてしやれてはいないよ。しやれた奴なんてどこにもいないね。

あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつた(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい 』1947年)


クンデラに「四つの視線のカテゴリー」ってのがあるけどさ。


四つの視線のカテゴリー
誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。
政治家、スター、TV キャスター等
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。…この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す。
社交家
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。
愛する人
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。
夢想家、理念家、死者


人はどれかにあてはまるはずさ。最低限、①と②にならないことだな、いまは①か②のやつばっかりになっちまったけど。

この「四つの視線のカテゴリー」はラカン「四つの言説」(四つの社会的結びつき)にほぼ当てはまる。いくらか微調整はしなくちゃいけないけど、それはこの際無視して簡略図をあげておけば、こうなる。




ラカンの「四つの言説」自体、フロイトの「三つの不可能な仕事」に、さらにそのベースにある「言語によって分割された主体」(心と身体が言語使用によって分裂してしまった主体=欲望の主体)を付け加えたもの。

分析 Analysierenan 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な」職業 »unmöglichen« Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育 Erziehen することと支配 Regieren することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

でも「人は誰かには見られたい」ってのは、究極はオマンコに見られたいんじゃないかね、最近そんな気がしてきたよ。これは男も女もそうで、だから股をひらけばいつでもにらめっこできる女のほうがつよいのさ。

これこそ究極の④「$ ◊ S1」、つまり「無意識の主体 ◊ オマンコ」だよ。その意味で冒頭の金子光晴の悟達はエライ。偈、つまり 偈陀(げだ)だってうけいれてもいいさ

偈陀ってのはここにおすわりになっているってことだろ?




形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ/花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ/あれだけ入れるんじゃねえよお/ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお(俊)

私こそ人生に貸がある
母胎のかげでうごめいて居る
私こそまことの怖しい債鬼だ
人生の奧にその貸が匿してある
抛りつぱなしで貸つぱなしな
今まで知らなかつた手強い貸がある

ーー福士幸次郎「すべての友達に送る手紙 ――十一月」


なにはともあれつぎのことはマチガイナイネ

男たちは性的流刑の身であることを知っている。彼らは満足を求めて彷徨っている、憧憬しつつ軽蔑しつつ決して満たされてない。そこには女たちが羨望するようなものは何もない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)
どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)

ーーおとこなんてこれをどうやってごまかしているかだけさ、

カミール・パーリアの言っているのは、長いあいだ彷徨ったフロイト、そのの「死の枕元」にあった草稿二文の「厳密な翻訳」さ。

母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女拘束Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleib がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ーーこう書いておいて友人に「もういいよ」と言って致死量モルヒネうってもらって母胎回帰したのさ。

ラカンの四つの言説は、①②が男性的言説、③④が女性的言説ともいうんだけど、①の政治家やら②の学者やらってのは、「かあいさうな奴の標本」にきまってるだろ。ああいった連中がまったくいなくてもこまることはみとめてもいいどな。ゴクロウサンなこった。


どうだろうね、ツェランさんよ、こう言っといて女にニゲラレタあと自殺してしまったあなたよ、死ぬってのはやっぱりオマンコにかえることじゃないかい?

詩は言葉が現われるひとつの姿なのですから、また、したがってその本質からして対話的なものなのですから、詩はひとつの投壜通信 Flaschenpost であるのかもしれません。どこかに、どこかの岸に、ひょっとすれば心の岸に打ち寄せられるかもしれないという信念――必ずしもいつも確かな希望をもってではありませんが――その信念のもとに、波に委ねられる投壜通信です。詩は、このようなあり方においてもまた、途上にあるのです。つまり詩は何かにむかって進んでいるのです。何にむかっているのでしょう。開かれた、住むにかなった、ひょっとして応答のありうるあなたに。応答のありうる現実にむかってです。そのような現実が、私が考える詩です。(パウル・ツェラン 「ブレーメン文学賞受賞講演 Bremer Preisrede」 1958)
Das Gedicht kann, da es ja eine Erscheinungsform der Sprache und damit seinem Wesen nach dialogisch ist, eine Flaschenpost sein, aufgegeben in dem – gewiss nicht immer hoffnungsstarken – Glauben, sie könnte irgendwo und irgendwann an Land gespült werden, an Herzland vielleicht. Gedichte sind auch in dieser Weise unterwegs: sie halten auf etwas zu. Worauf? Auf etwas Offenstehendes, Besetzbares, auf ein ansprechbares Du vielleicht, auf eine ansprechbare Wirklichkeit. Um solche Wirklichkeiten geht es, so denke ich, dem Gedicht.“



2019年8月24日土曜日

国別死者(第一次、第二次大戦)




ーーこういった数字はみたことがなかったのだが、すこしまえ日本軍の戦死者数を調べたときに行き当たった。画像の大きさが調整できないので貼り付けるのをやめたのだが、小さいままでもやはり備忘として貼付しておこう。

フランスにおける第一次大戦の死傷者数135万人というのはやはりその人口比で考えれば、かなり大きな数字だ。もっともドイツの177万人があるが。

中井久夫はこう記している。

第二次大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会談にも外傷が裏で働いていたかもしれない。

では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


第二次世界大戦の死者はこうだ。




ドイツの「市民の死者数」が267万人とある。オーストリア93万人(うちユダヤ系市民65万人)とあるように、267万人のなかにはユダヤ系ユダヤがかなりの数をしめるだろう。だがそれだけではない(日本は80万人とある)。

ヒトラーの自殺後、ドイツは無政府状態となって軍人も市民も出会った米英仏ソ軍に降伏した。この「流れ解散」の間に十万人のドイツ人が殺されるか行方不明になった。日本の場合は「ポツダム宣言」があり、国外の軍には「勅使」が説得にあたった。

なお、敗戦後のドイツ人虐殺を遺憾としたのは数ある米将官中マッカーサー一人で、そういうところが彼にはある。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収)

以下の文は、《戦勝目前に死ぬほどつまらないことはない》とあるが、降伏後に一般市民が虐殺されるのも「つまらない」。

ミズーリ号の左舷中央構造物に迫る特攻機の写真がある。凄絶である。なにゆえの特攻だったか。吉田満の『戦艦大和ノ最期』で士官の議論をまとめた臼井大尉は「新生日本にさきがけて散る。本望じゃないか」という。日本は敗北して一から出直すしかないところまできている、そのために死ぬのだ、自分たちの死の意義はそれしかない、というのだ。特攻隊の犠牲の上に今の日本があるとはそういう意味である。それ以外にはおよそ考えられない。

特攻機は無効ではなかった。米艦の乗務員は燃えるガソリンを全身に浴びる恐怖に脅え、戦争神経症を大量に生んだ。しかし、「では降伏しよう」に繋がらない。そして戦勝目前に死ぬほどつまらないことはない。米兵の憎悪を増幅した理由の一つである。

一九四四年末の「天王山」レイテ戦敗北後のわが国に勝算はなかったが、その時点では降伏を言いだせる「空気」はなかった。特攻隊員は時間稼ぎ、それも「空気」が変わる時間を稼ぐために死んだ。私は南米諸国までが次々に対日宣戦を行なう新聞記事を読んで、とうとう世界を敵に回したと思ったが、口に出せることではなかった。

最近暴露されている企業・官庁の不正は、それを知った従業員が「とても言いだせる空気ではなかった」にちがいない。重役会でもだろう。「空気が読める」ことが単純によいことではないのを記して、二〇〇七年のこのコラムを閉じる。(中井久夫「戦艦ミズーリと特攻機」(「清陰星雨」『神戸新聞』2007.12.29)


鳩山由紀夫と石破茂の韓国のGSOMIA破棄についての次の発言にたいしてツイッター上などではひどいさわぎがおこっている。

「日韓の対立が最悪の展開。原点は日本が朝鮮半島を植民地にして彼らに苦痛を与えたこと」(鳩山由紀夫、2019年8月23日)
「日本が戦争責任と正面から向き合わなかったことが問題の根底にある」(自民・石破茂元幹事長、2019年8月23日)

こういったことが「とても言いだせる空気ではない」などということになりつつあるのではないかとの心配が杞憂であることを祈る。

すくなくとも戦争にかんしては楽観論とはつねにあやういものである。

第一次大戦開始の際のドイツ宰相ベートマン=ホルヴェーグは前任者に「どうしてこういうことになったんだ」と問われて「それがわかったらねぇ」と嘆息したという。太平洋戦争の開戦直前、指導層は「ジリ貧よりドカ貧を選ぶ」といって、そのとおりになった。必要十分の根拠を以て開戦することは、1939年、ソ連に事実上の併合を迫られたフィンランドの他、なかなか思いつかない。(中井久夫「戦争と平和ある観察」)
戦争が始まりそうになってからの反対で奏功した例はあっても少ない。1937年に始まる日中戦争直前には社会大衆党が躍進した。ダンスホールやキャバレーが開かれていた。人々はほぼ泰平の世を謳歌していたのである。天皇機関説は天皇の支持の下に二年前まで官僚公認の学説であった。たしかに昭和天皇とその親英米エスタブリッシュメントは孤立を深めつつあったが、満州や上海における軍の独断専行は、ある程度許容すれば止むであろうと楽観的に眺められていた。中国は軍閥が割拠し、いずれにせよ早晩列強の間で分割されてしまうのだという、少し古い認識がその背後にあった。しかし、いったん戦争が始まってしまうと、「前線の兵士の苦労を思え」という声の前に反対論は急速に圧伏された。ついで「戦死者」が持ち出される。「生存者罪悪感」への強烈な訴えである。平和への思考は平和への郷愁となり、個々の低い呟きでしかなくなる。(中井久夫「戦争と平和ある観察」)


表に戻れば、ベトナムの餓死者というのは、その数の信憑性の疑義がネット上には落ちている。だがすくなくともかなりの量の米輸入を日本はベトナムからしている。

日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた「外米」はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔…〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕ではおれない。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」1989年)

死者の話とは関係がないが、「戦争研究家」中井久夫によるとても印象に残っている記述がある。

元商船三井監査役、熊谷淑郎氏によれば、戦争末期も末期、昭和二十年七月、病院船「高砂丸」が米駆逐艦の臨検を受けた。乗艦してきた米水兵は皆船尾に翻る日の丸に向かってきちっと敬礼した。若き乗務員の熊谷氏には「目のくらむような驚き」だった。この時期、日本では米英の国旗を踏みつけていた。米国に兜を脱ぎたくなるのはこういう時である。(中井久夫「国際化と日の丸」(神戸新聞 1991.12.26)『記憶の肖像』所収)

最後にこう引用しておこう。

戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。(中井久夫「戦争と平和ある観察」)

ーー戦争の外傷性記憶があるうちはまだいいのである。

……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」2000年初出『徴候・記憶・外傷』所収)