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2019年9月29日日曜日

現役世代にリベラルを支持するメリットなんてなにもない

Wikiの「デマゴーグ」の項にはこうある。

古代ギリシア語ではδημαγωγός(デマゴゴス)と言う。日本においては主に、意図的に虚偽の情報を流し、嘘をついて人を扇動しようとするさまを指してデマゴーグと批判として用いられるが、「流布された誤った情報」の意味でのデマ、それを意図的に流すものとしてのデマゴーグは日本に限った用法であり、本来「嘘」の意味は無い。

語源は「民衆(δῆμος / dēmos)を導く(ἄγειν / agein)」であり、本来は民衆指導者を指すが、アテナイではペリクレスの死後、クレオンを初めとする煽動的指導者が続き、衆愚政治へと堕落した。このことから「デマゴーグ」は人々の感情や偏見に訴え、力を得る政治家や権力者の意味で使われるようになった。また、彼らの民衆煽動はデマゴギー(Demagogie)と呼ばれる。

ようは本来、「流布された誤った情報」という意味はなく、「民衆(δῆμος / dēmos)を導く(ἄγειν / agein)」という意味だとある。

 ここで古井由吉によるデマゴギーについての発言を抜き出してみる。

デマゴギーというのは僕らにとっての宿命というくらいに僕は思ってるんです。つまりデモクラシーという社会を選んだんだ。それには付き物なんですよ。有効な発言もデマゴギーぎりぎりのところでなされるわけでしょう。

そうすると、デマゴギーか有効な発言かを見分けるのは、こっちにかかってくるんだけれど、これはなかなか難しい。つまり、だれのためかっていうことだ。マスのためだとしたらデマゴギーは有効なんですね。デマゴギーはその先のことなんて考えないからね。

それにしても、政治家もオピニオンリーダーたちも、マスイメージにたいして語るんですね。民主主義の本来だったら、パブリックなものに語らなきゃいけない。ところが日本では、パブリックという観念が発達してないでしょう。(古井由吉『西部邁発言①「文学」対論』)

デマゴギーはデモクラシーの宿命だとあるように、「民衆(δῆμος / dēmos)を導く(ἄγειν / agein)」者が必要だと言っている。

だが、日本のデマゴーグは「マスイメージにたいして語る」のみで「パブリックなもの」に語っていないとある。

ここでの「パブリックなもの」とは、カントが『啓蒙とは何か』で示したカント的転回(私的なものとパブリックなものとの意味の逆転)における「パブリックなもの=世界公民的」の意味である。

この世界公民的については種々の解釈があるようだが、ここでは柄谷行人の解釈を挙げる。

通常、パブリックは、私的なものに対し、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。この転回は、たんに公共的なものの優位をいったことにではなく、パブリックの意味を変えてしまったことにあるのだ。パブリックであること=世界公民的であることは、共同体の中ではむしろ、たんに個人的であることとしか見えない。そして、そこでは個人的なものは私的であると見なされる。なぜなら、それは公共的合意に反するからだ。しかし、カントの考えでは、そのように個人的であることがパブリックなのである。(…)

世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してもそうすることである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P156)
ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)

ーーここでの「公共的合意」とは「民衆の合意」であり、リーダー側からいえば大衆迎合(ポピュリズム)による合意である。これが古井由吉のいう「マスイメージにたいして語る」ことである。だがそうではなく、大衆の合意に反しても理性の公共的使用することが「パブリックなものに語る」ことであり、その重要性を柄谷行人は強調している。たとえば《未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してもそうすること》。

前者の大衆にむけてばかり語るポピュリスト、大衆のゴキゲンをとることばかりに汲々としている連中が、煽動的指導者であり、主にオピニオンリーダーとして振舞うリベラルインテリという種族であることが多い。これをやってしまったら衆愚政治へと堕落する。

それが蓮實重彦が次の文で言っていることである。

人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ(……)。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ここでいささか引用のレベルを落として(シツレイ!)ホリエモンを抜き出そう、

堀江貴文(Takafumi Horie) @takapon_jp 2019年6月18日

誤解して政府を批判しても何も始まらない。想田和弘とか山本太郎みたいに大衆を扇動するのが商売の奴らに騙されず、それぞれが人生を楽しんで納税するべく努力する社会が理想と思う。

ーーいやあ、ホントにこの2人はダメだよ、あきれかえるぐらい。とってもとってもデマゴギストだよ、きみらにはまだわからないのかね。


たとえばタロウちゃんはこういったことを言ってきた。

消費税は全て社会保障の充実に使いますって書いてあるんですよ。
2014年の増収は5兆円だった。
しかし、社会保障の充実に使われたのは5千億円です。
つまりたったの一割。
はっきり言って詐欺ですよ。(山本太郎発言、2018年3月28日予算委員会)
安倍内閣は2014年に消費税を5%から8%に引き上げました。消費税増税で得た税収はどう使われてきたか。8兆円ほどあった税収のうち、社会保障の充実に使われたのはわずか16%です。安倍さんは「増税分の4/5は借金返しに充てた」と国会で答えています。結局、消費税を上げても、苦境に立たされている国民のもとには配分されません。(山本太郎から自民党を支持してきた皆様へ、2019年06月30日)

で、次の図表を「大衆」に示している。



ーー全部、社会保障費に使われてるじゃないかね、この表自体が。そう読めないかね、庶民のみなさん? たしかにタロウちゃんいわくの「充実」にはほんのわずかにしか使われていないがね。まだおわかりにならない方は、直近の財務省による「消費税の使途に関する資料」を御覧なされ。

このタロウちゃんの振舞いこそ真の大衆扇動家デマゴギーである。

その数字の具体性をたやすく想像しえないものでありながら、それが数字として引用されているというだけの理由によって、読むものを納得させる力を持っている。納得といっても、人は数字の正しさを納得するものではなく、その数字を含んでいる物語の本当らしさに納得するのである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

行政側が社会保障費を削減しているというのは、ほうっておいたらとんでもない数字になってしまう社会保障激増のうちのいくらかを削減しているという意味であり、絶対値ではいまだおどろくほどの社会保障費給付の「サービス」を大衆にして、赤字が雪だるまになっている。





ちなみに想田ボク珍のたぐいの主張がいかにおバカかはすでに何度も記したので(もう名前を出すのも阿呆らしいから今回で打ち止めにするが)、ここでは「ワカモノ・マニフェスト策定委員会」のメンバーだった人のブログを参照されたし。→城 繁幸「リベラルってどういう国家像が理想なの?と思ったときに読む話」(2019年09月26日)。--「そもそも現役世代にリベラルを支持するメリットなんてなにもない」とあるのでよくよくご参照のこと。

そして真のワカモノの味方である「ワカモノ・マニフェスト策定委員会」については「ワカモノマニフェスト策定委員会の 城 繁幸さん、⾼橋 亮平さん、⼩⿊ ⼀正さんに聞く」PDFを参照されたし。

ま、ここに記したことが絶対的に正しいというつもりはないが、「現役世代に山本太郎や想田和弘を支持するメリットなんてなにもない」かどうかをよく考えてみることをおすすめする。

想田ボク珍は頭はよさそうなんだけどな、嫌韓批判やら表現の不自由展騒動やらについてはしっかりしたことを言っているから。いみじくもホリエモンが《頭がいい人が変な宗教にハマるとそうなっちゃう典型例がこの想田和弘ね》って言っているけど、あの山本太郎教という新興宗教への究極の信者になっちまったせいなんだろうな、あのテイタラクは。さらに消費税や社会保障にかんしては経済音痴・財政音痴という致命的欠陥がある(ここでオウム真理教のインテリ信者の相貌を想起なさることをおすすめする)。

みなさん、ある一定領域ですぐれた発言をする人でも、とんでもない弱さをもっている部分がある場合が多いのでくれぐれも注意されたし。

浅田)アルチュセールがおもしろいことをいっている。科学者は最悪の哲学を選びがちである、と(笑)。細かい実験をやってて、そこではすごくハードな事実に触れているのに、それを大きなヴィジョンとして語り出すと、突然すごく恥ずかしい観念論になっちゃうことがあるわけ。それこそアニミズムとかね。 (浅田彰 1998年ーー村上龍との対談『存在の耐えがたきサルサ』所収)

2019年9月28日土曜日

補助金「不交付決定」不服への熱狂を冷ますために

あいちトリエンナーレにかかわる話題の補助金「不交付決定」についてこう言っている人がいるが、こういった熱くならない人がいるのは救いだね。








この経済学者の斉藤誠氏の言うように《展示再開への努力と不交付決定への不服を完全に切り離して、それぞれ粛々と進めていくべきように思います》ってところがまずは大切なんじゃないか。

今回の文部大臣やら文化庁やらのやり方には反対したらよいのだし、私はそうすべきだという立場をとる者だが、補助金「不交付決定」自体はそれなりにあるらしいから、やはり「行政手続き」、つまり行政プロセスの吟味・批判がまず肝要だということになる筈。






これらの見解が「絶対的に正しい」というつもりはないが、なにはともあれほとんどの鳥語社交界人はまたいつもの共感の共同体的「おみこしの熱狂と無責任」になってしまっているからな、それをみるのは毎度のこと心の底からウンザリするね。

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)

とくにオピニオンリーダーとして振る舞いたいらしい一部の「正義派」リベラルインテリたちの全会一致を強制する身振りには我慢ができないね。

ほんとうに怖い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。…「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。(加藤周一『学ぶこと・思うこと』2003年)
あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。(ロラン・バルト「コレージュ・ド・フランス開講講義」--『文学の記号学』1978年)

………

※付記


フロイトの『集団心理学と自我の分析』…それは、ヒトラー大躍進の序文[préfaçant la grande explosion hitlérienne]である。(ラカン,S8,28 Juin 1961)
集団は衝動的 impulsiv で、変わりやすく刺激されやすい。集団は、もっぱら無意識によって導かれている。集団を支配する衝動は、事情によれば崇高にも、残酷にも、勇敢にも、臆病にもなりうるが、いずれにせよ、その衝動はきわめて専横的 gebieterisch であるから、個人的な関心、いや自己保存の関心さえみ問題にならないくらいである。集団のもとでは何ものもあらかじめ熟慮されていない。激情的に何ものかを欲求するにしても、決して永続きはしない。集団は持続の意志を欠いている。それは、自らの欲望と、欲望したものの実現にあいだに一刻も猶予もゆるさない。それは、全能感 Allmacht をいだいている。集団の中の個人にとって、不可能という概念は消えうせてしまう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考の制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)
(自我が同一化の際の或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。そして同情は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung

同一化は対象への最も原初的感情結合である Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist同一化は退行の道 regressivem Wege を辿り、自我に対象に取り入れ Introjektion des Objektsをすることにより、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章)
原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)
理念 führende Ideeがいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つき Gefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)





こうも引用しておこうか、日本におけるわずかな生き残りの「知」のために。

知性が欲動生活 Triebleben に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい die Stimme des Intellekts ist leise。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めない aber sie ruht nicht, ehe sie sich Gehör geschafft hat。しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである Am Ende, nach unzählig oft wiederholten Abweisungen, findet sie es doch。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、おそらく無限の未来のことというわけではない。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』第10章)

ーー《何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられる》のかどうかは、ほとんど楽観的にはなれないがね。

右翼ポピュリズムに警戒するのはもちろんだが、いくらかオリコウに振舞いたい一般の人たちは、左翼ポピュリストやら熱狂的リベラルインテリにも同様に警戒しなくっちゃな。だが現在、それがほとんど稀有な事態に近づきつつあるんじゃないかね。多くの場合、思考欠如のままにRTやらファヴォやらをして拡散する鳥語システムってのはほとんどファシズムシステムにしかみえないときがあるな。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)
一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )

ーーま、自らに跳ね返ってくることを恐れつつこう引用していると言っておいてもよい。


鎧戸から漏れ入る光



ーーArthur Ancelle (2018) Haydn Piano Sonata No. 30 in D major, Hob.XVI:19より

アーサー・アンセルは、あまり知られていないピアニストのようだけれど(ざっとみたかぎりだが、ウエブ上にはいくらかの情報があるだけ)、この比較的早い時期のハイドン(1767年)アンダンテの後半の上に切り取った冒頭箇所はとってもいいな。どういうわけか鎧戸から漏れ入る光を感じてしまった。


ポゴレリチの1991年のライブ版が落ちていたので(1992年のスタジオ録音版は名演としてよく知られている)、アンダンテの箇所だけ抜き取った。このライブ版自体いくらか省略がある。



ーーIvo Pogorelich Live at Carnegie Hall Year:1990 May 7より


ボクはポゴレリチのハイドンの大ファンで、全体をきけばポゴレリチのフレージングや切れ味のほうがいいにきまってるのだけれど、アーサー・アンセルだってすてたもんじゃない。




2019年9月27日金曜日

ヨクモマア!

あれら鳥語装置でオピニオンリーダーとして振舞っているつもりらしい輩、ーーリベラルインテリというのか知識人やら文化人やらと呼ぶのかはいざ知らず(中野重治はこの知識人をヌエのような輩といい「芸能人」と呼んだがね)ーー、あの連中のほとんどは途轍もない財政音痴だ。これは疑いようがない。

なかんずく、いまどき消費税をカットして切り捨てない社会を目指すとか言っているポピュリズム政治家をマガオで応援している連中は鍋底を這う蛆虫リベラルと呼ぶしかない。


例を出そう。あなたが従業員5人のバーを経営しているとする。隣の景気のいい「バー中国」に圧倒されつつある「バー日本」だ。儲けは半減に向かいつつある。

その場合ふつうは、従業員のうちの「生産性」の低い2人を切り捨て、少人数でも効率のいい経営を目指すはずだ。

いや、従業員を切り捨てるわけはいかないって言うのかい? もしそうなら、上野千鶴子曰くの悪評高い「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」しか選択肢はない。

日本共同体の話を直接的にするなら、たしかに人を切り捨てるわけにはいかない。死んでもらうわけにはいかない。だったら国民の負担を増やさなければ、国は破産する。

その負担の割合を国民負担率と呼ぶ。内訳はこうだ(参照)。




そして現役世代だけではなく、高齢者も含めた全世代に負担してもらうのが消費税だ。

その消費税をカットしたら、現役世代をいっそう苦しめる。つまり所得税や法人税、あるいは社会保障負担(社会保険料)にいっそう皺寄せがくる。(だいたい現在の世界的租税競争(法人減税競争)のなか法人税上げたら給与削減を促す力になることさえ理解していないヤツラばかりだ。)

そもそも世界一の少子高齢化でこんな低い国民負担率はありえない。最低限60パーセントにしなくちゃやっていけない。よくもまあこんなを今まで放っておいたもんだ。

グレタ・トゥンベリちゃん曰くの「ヨクモマア How dare you!」だ。




借金を増やして消費税のカットが可能だなどと信じ込んでいる連中は夢を見てるだけだ。玉手箱でもあると思ってんだろうよ。

経済成長すれば何とかなるなどというのもトンデモ寝言にすぎない。そもそも生産人口が1パーセントずつ減る国で、継続的に実質2パーセントの経済成長があったためしはない。

最も重要なのは、今後の日本は負担を増やして福祉を減らすしかないということを十全に認知することだ。だがあれら文化人はいつまでたってもここから目を逸らして寝言活動をしてるだけ。




財政音痴のインテリ諸君は、弱者擁護という庶民に受けがいい態度をとるために「消費税をカットして切り捨てない社会を目指す」という類の、これまたグレタちゃん曰くの「来るべき世代の夢や子供時代を空っぽな言葉で奪う You have stolen my dreams and my childhood with your empty words」ってのを実践してるのさ。これを財政的幼児虐待と呼ぶ。

「財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」とは、ボストン大学経済学教授ローレンス・コトリコフ Laurence Kotlikoff の造りだした表現で、 現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いることを言う。

つまり「財政的幼児虐待」の内実は次のような意味だ。

公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである(ジャック・アタリ『国家債務危機』2011年 )
簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(池尾和人「経済再生 の鍵は不確実性の解消」2011)

あの連中は戦前の「知識人」と何も変わっていないね。

知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)

だいたい現在日本の醜悪さは、財政問題に起源を発すると疑ったほうがいい。フロイトは何度も繰り返して強調している、人は内的脅威に直面したら外部に投射するしかないと。これは「文化共同体病理学」においても同じだ。日本国家は金詰りを外部に投射してファシスト国家に豹変しているんじゃないかい? ナチの出現の自体、第一次世界大戦によって課せられた天文学的な戦争賠償額とその後のブラックホール的ハイパーインフレが遠因であるぐらいは知ってるだろ?

第一次大戦に敗戦したドイツはベルサイユ条約により植民地全部と領土の一部を取り上げられたうえ、1320億マルク(330億ドル)の賠償金を請求された。ドイツの当時の歳入20年分くらいの額であり、毎年の支払いは歳入の2分の1から3分の1に及んだ。

 そんなもの払えるわけがない。札をガンガン刷ったドイツは、1922年から1923年にかけてハイパーインフレーションに見舞われてしまうことになる。どのくらいハイパーだったかというと、0.2〜0.3マルクだった新聞が1923年11月には80億マルクに暴騰する勢いだったそうである(村瀬興雄『ナチズム』中公新書)。

 ハイパーインフレによってもっとも打撃を受けたのは中産階級や労働者、農民だった。一方で、外貨でドイツの資産を買ったりしてボロ儲けする者もいたのだが、そのなかにはユダヤ人実業家が少なからず含まれていた。その怨みもユダヤ人迫害の一因となる。(栗原裕一郎「世界恐慌からいち早く立ち直ったのはナチスだった!」『ヒトラーの経済政策』武田 知弘著、書評)


財政赤字のボロメオの環」でも示したが、柄谷行人がトラクリで示した「国家=ネーション=資本」をボロメオの環で示せば次のようになる。




ーー〈きみら〉が途轍もなく弱いのは、現実界=資本だ。

ボロメオの環の基本的読み方は次の通り。

青の環(資本)は白の環(国家)を覆っている(支配しようとする)。
白の環(国家)は赤の環(国民)を覆っている(支配しようとする)。
赤の環(国民)は青の環(資本)を覆っている(支配しようとする)。


そして現在の日本版は次の通り。




・財政赤字は国家を支配して、国家機関は負担増福祉減に促される。
・国民はその負担増福祉増政策に反発して負担減福祉増を訴え、財政赤字を蔑ろにしようとする。
・その結果、財政赤字は雪だるま式に増え、国家機関はいっそうの負担増福祉減に促される。

誰もがこれを認めるはずである。

で、文化人諸君は、財政赤字をすこしでもいいからオベンキョウすることだね。そうすれば、日本に棲息するあれら痴呆症に罹って隔離病棟に入っていただく必要のありそうな経済評論家連に騙されずにすむよ、そして二度と「消費税をカットして切り捨てない社会を目指す」などと口にできなくなるはずだから。唯一そこからだ、財政赤字をふくめたアソシエーションがどうあるべきかを探りうるのは。

ま、ためしにあれら経済評論家連にきいてみたらよろしい、「あなたは5年後の国民負担率をどうしたいのですか」と。シドロモドロになる奴らばかりだから。

たとえば「低福祉低負担国」米国以外は、ほとんどの国は日本より国民負担率が高いのはどういうわけですか?ときいたってよい。連中はきっと玉手箱のことを語りだすから。





人はみな言語による操り人形である

斎藤環がグレタ・トゥンベリについてこう囀っている。

斎藤環@pentaxxx 2019年09月25日
彼女が大人の傀儡とも病んでいるとも思わない。傀儡は紋切り型の死んだ言葉しか言えないから。彼女の言葉は彼女自身のものだ。これが冷笑されてセクシー小泉が半笑いで許されいている状況にはくみしたくないな。正しいと思えたときに正しいと言えなければ人間には何もない、って言葉を思い出したよ。 https://twitter.com/nhk_news/status/1176481749427208194

ーーこの斎藤環の鳥語自体がひどく紋切り型に読めてしまうのだが、ボクの偏見かね?

ま、すくなくとも原理を問うことを忘れてしまった退行の世紀の精神科医の言葉だな。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)


というわけで、「退行の世紀21世紀版紋切型辞典」二項目追加である。

【操り人形】:傀儡は紋切り型の死んだ言葉しか言えない

ーー「彼女の言葉は彼女自身のものだ」ともあるが「自分の言葉」なるものを話していたら、操り人形でないってわけかな? すくなくとも人はみな「見えない制度」の操り人形のはずだがね。

重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)
資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)

ーーま、もっともそんなレベルの話をしているわけじゃないって返されるのだろうがね。


【ポリコレ】:正しいと思えたときに正しいと言えなければ人間には何もない

ーー二番目については、ここでも斉藤環が尊敬しているらしい中井久夫の言葉を引用しておこう。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなおしてみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年)

………

ここでみなさんにタマキちゃんの言葉がトッテモ紋切型か否かを判断していただくために、クンデラと蓮實の注釈を示しておこう。

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、先入見の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの先入見のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの先入見はコンピューターに入力され、マス・メディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。(クンデラ『エルサレム講演』)
あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっていたからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となった語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(蓮實重彦『物語批判序説』)

フローベール自身からも一つだけ抜き出しておこう(1852年暮れの年上の女友達への手紙における紋切型辞典の構想)

ぼくは、誰からも容認されてきたすべてのことがらを、歴史的な現実に照らし合わせて賞讃し、多数派がつねに正しく、少数派はつねに誤っていると判断されてきた事実を示そうと思う。偉大な人物の全員を阿呆どもに、殉教者の全員を死刑執行人どもに生贄として捧げ、それを極度に過激な、火花の散るような文体で実践してみようというのです。従って文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある、ということを立証したいのです。……そもそもこの弁証論の目的は、いかなる意味での超俗行為をも断固として排撃することにあるのだと主張したい。(フローベール書簡、1852年)

というわけで冷笑家の系列の言葉たちであり、21世紀のいまでは古いってんだろうがね、退行の21世紀のああいったクリシェが、18世紀以前に戻ってしまってとっても古いというのは自覚的でないんだろうよ。

………

そもそも16歳の少女グレタ・トゥンベリの言葉が何ものかの操り人形(傀儡)ではないという事態があり得るのかね。ここではごく標準的な頭脳なら、「子供を使った政治主張」の疑いを抱くだろうという話はしないでおくが(参照:グレタ・トゥンベリ16歳 環境団体のパペットに振り回される国際社会とメディア)。

20世紀版「紋切型」辞典によれば、「人はみな言語による操り人形である」なんだがな。

もはや、われわれには引用しかないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。(ボルヘス 『砂の本』1975年)
フロイト的経験の光の下では、人間は言語によって囚われ拷問をこうむる主体である。à la lumière de l'expérience freudienne l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage (ラカン、S3、16 mai 1956)
動物園の動物はじめ飼育動物が一種の神経症状態になっていることがわかっているが、いささか気になることは、人間は自分で自分を動物園にとじこめて飼育している奇妙な動物である、というモリスの指摘である。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年『記憶の肖像』所収)
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012年)


さらにもっとむかしの「紋切り型」辞典には、人はみな役者だとあるがな。

この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ[All the world's a stage, And all the men and women merely players.](シェイクスピア「お気に召すまま」1603年)
かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。(ニーチェ「卑小化する徳」『ツァラトゥストラ』第3部、1894年)

ああいった鳥語装置に囚われの身のおバカな精神科医の21世紀「退行版」紋切型ってのは、吐き気をもよおすしかないね、きみらはそうじゃないらしいがな、よっぽどニブイんだろうよ。

やめよ、おまえ、俳優よ、贋金造りよ、根柢からの嘘つきよ。おまえの正体はわかっている。

おまえ、孔雀のなかの孔雀よ、虚栄心の海よ。何をおまえはわたしに演じてみせたのだ。よこしまな魔術師よ、……

おまえの口、すなわちおまえの口にこびりついている嘔気だけは、真実だ。(ニーチェ「魔術師」『ツァラトゥストラ』第4部、1885年)

最後にさらに「他人の言葉」をこう引用させてもらってよろしいだろうか?

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』1888年)


2019年9月26日木曜日

2050年以降の「自然な」環境問題の解決

このところ日本言論社交界では環境問題の話で賑わっているようだが、環境問題とは究極的には人口問題に帰結するということはかねてから言われてきた。

地球環境問題、地球の持続性を言うならば、究極は人口問題になろう。人口増により人類の活動がその生活の場である地球というシステムに直接的な影響を与えるレベルに達した。その典型的な例は二酸化炭素などの温室ガスの増加による地球温暖化の問題である。世界的な人口増加に歯止めをかけることで、資源エネルギーの消費を抑え、技術革新によって地球全体の総量としての環境負荷の低減を達成せねばならない。(「地球環境問題」日本学術会議、2010年)

したがって人間という地球における最悪のウイルスを減らしたらよいのである。

地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」2006年初出『日時計の影』所収)
地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないだろうか。 Wouldn't the best thing for the earth be to organize slowly so that two thirds of the people will die? (ジジェク『ジジェク、革命を語る DEMANDING THE IMPOSSIBLE』2013)

とはいえジジェクの言うように、《三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくる》のが果たして必要なんだろうか。

国連による人口予測では、22世紀になれば人口増は頭打ちになる。あと80年ほど待てば地球における最悪のウイルスはおそらく減ってゆくのである。





さらにこの2019年2月に上梓されて一部で大いに話題になっているジョン・イビットソン&ダレル・ブリッカーによる『Empty Planet(無人の惑星)』という書ではこんなことが言われている(参照)。

21世紀の大いなる決定的出来事ーー人間の歴史における大いなる決定的出来事のひとつーーがあと30年ほどで起こる。世界人口が減り始めるのである。いったん減少が始まれば、2度と増加に転じることはない。

《いったん減少が始まれば、2度と増加に転じることはない。Once that decline begins, it will never end.》とあるのが正しいか否かは別にしてーーどこかで止まるのではないかーー国連予測だったらあと80年、この書の予測だったらあと30年ほど待てば、世界は変わるのである。おそらく社会的・政治的・経済的展望が劇的に変貌するはずである。

国連予測では、今世紀の地球人口は70億人から110億人へ増える。そして22世紀に入って頭打ちになると予測されている。だが増え続けている世界中の人口統計研究の数多くは、国連の見積りはあまりにも高すぎると確信している。それらの統計研究が示していることは、より可能性が高いのは、地球人口は2040年から2060年のあいだに90億人程度でピークを迎えるということである。そしてその後、地球人口は減り始める。…今世紀の終わりには、われわれが現在いる人口数に戻り、その後は着実に少なくなってゆく。(Darrell Bricker and John Ibbitson『Empty Planet(無人の惑星)』2019年)




いまどき環境問題についてヒステリー的に騒ぎ立てるのは、馬鹿げている。21世紀中葉以降の課題は、老人ばかりが多くなる世界で、どうやって彼らの世話をするかの方策を探ることである。

日本は世界に冠たる少子高齢化社会であるので、日本が率先して22世紀の社会のモデルを提示したらよいのである。



中国は2015年の段階では上のような具合だが、一人っ子政策の効果があり、2040年には次のような具合になる。




日本は中国に経済で負けたのはもはや仕方がないが、22世紀の社会のモデルを世界に提示するのさえ中国に遅れを取るなどという事態にならないでほしいものである。




2019年9月25日水曜日

消費税ばかりで「賃金税」の負担増に注目しない連中はバカ

国民負担率の内訳データがいくらか違うといってくる人がいるが、それは「21世紀版武者小路実篤「想田和弘チャン」」で示した次の図に関してである。




ーーこの図のデータは、財務省による「負担率に関する資料」から抜き出したものである。




ーーこれは2016年の国際比較だが、日本の国民負担率は別に直近のデータが示されているので、冒頭の図は2019年を抜き出している。それゆえ若干異なるのである。




そして冒頭の図において国民負担率33パーセントのアメリカを省いたのはーー意図的な削除と難詰されてしまったがーー、米国は国民皆保険ではなく医療保険を民間保険に依存しているので低く済んでいるため。ようするに米国はいわゆる「低福祉低負担国」だから。




さてこの前提で冒頭の図に戻ろう。




2016年の段階での分析記述だが、現状の日本の国民負担率を分析して、日本は実質的に「中福祉低負担」である指摘をとする経済学者さえいる(「中福祉・低負担の深層 -納税意識調査を踏まえて-」 東京大学大学院経済学研究科 持田信樹 2016年12月、PDF)。

いずれにせよ、世界一の少子高齢化社会である日本は国民負担率を上げなければならないというのは、既存システム維持側からいえば「常識」である。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」大和総研2013、武藤敏郎監修)

ーーこの「超高齢日本の30年展望」は、2040年を目安に145頁のシミュレーション分析がなされている、→「超高齢日本の30年展望ーー持続可能な社会保障システムを目指し挑戦する日本—未来への責任」(PDF)

数年前に最初に読んだときは「こんなのありか」と思ったが、いまではほぼ正しい分析だろうと私は考えるようになっている(ただし名目経済成長2%設定は事実上甘すぎるので、実際はもっと厳しい数字となる筈)。

この試算に対しては、名目 2%の成長が楽観的という批判があるかもしれない。生産年齢人口が減少している中で GDP を伸ばしていくためには、生産性上昇率の向上が必要であり、名目成長率 2%で物価上昇率 1%とすれば(すなわち、実質成長率を約 1%とすれば)、2020 年代までは年平均 1%台後半の、2030 年代以降は 2%超の生産性(生産年齢人口 1 人当たりの生産量)の上昇が必要となる。その実現のためには不断の技術革新とそのための投資、そして資源配分の効率化が必要であり、それを目指す成長戦略が必要である。 (「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」大和総研2013、武藤敏郎監修)

ここではこの分析シミュレーションを監修した武藤敏郎の別の場での発言をいくつか引用しておく。

国民の中では、「中福祉・中負担」でまかなえないかという意見があるが、私どもの分析では、中福祉を維持するためには高負担になり、中負担で収めるには、低福祉になってしまう。40%に及ぶ高齢化率では、中福祉・中負担は幻想であると考えている。

仮に、40%の超高齢化社会で、借金をせずに現在の水準を保とうとすると、国民負担率は70%にならざるを得ない。これは、福祉国家といわれるスウェーデンを上回る数字であり、資本主義国家ではありえない数字である。そのため、社会保障のサービスを削減・合理化することが不可避である。(武藤敏郎「日本の社会保障制度を考える」2013年)
日本の場合、低福祉・低負担や高福祉・高負担という選択肢はなく、中福祉・高負担しかありえないことです。それに異論があるなら、 公的保険を小さくして自己負担を増やしていくか、産 業化するといった全く違う発想が必要になるでしょう。(財政と社会保障 ~私たちはどのような国家像を目指すのか~ 大和総研理事長武藤敏郎、 2017年1月18日)

この考えのもとに、国民負担率は最低限でも60%(消費税25パーセント相当)にし、なおかつ社会保障費を削減ーー2040年の段階での自然増による想定額にたいしておおよそ3割カットーーしなくては日本はもたないという観点である。

国民負担率は何を上げてもよい。だが消費税をゼロなどということにすれば、約20兆円が消えてなくなるので、ほかの項の上げ幅が過剰になってしまう。




この図表は税収総額などが示されていないので、それを明示的にすれば次のようになる。




もっとも上の図だけに依拠して社会保障の問題を考えるわけにはいかない。

たとえば上の社会保障費34.1兆円というのはあくまで国の負担分であって、社会保障給付費とその内訳は次の通り。




そして負担の推移は次のもの。




ーーこの図が示しているのは、もはや社会保険料ではまったく賄いきれきれなくなっており、社会保障給付費増に対応するために公費負担(具体的には国債発行)が増え続けているということ。




数字部分を拡大して示せば次のようになる。




実際、現在の給与所得者は、所得税よりも社会保険料のほうが高くなってしまっている(企業においても法人税より社会保険事業主負担のほうが高くなっている)。




この武藤敏郎提供のデータを示しつつ、元日銀理事の早川英男は「「賃金税」としての社会保険料」という2017年の論で次のように言っている。

……社会保険料が「保険料」でないとすると、やはりこれは「税金」と考えるほかあるまい。社会保険料は給与の額に応じて支払われるので、課税対象は賃金、すなわち「賃金税」である。しかも、社会保険料は(厚生年金、企業型健康保険については)被保険者と企業が折半で負担する特別な「賃金税」だということになる(注5)。

しかも、問題はこの社会保険負担が年々大幅な増加を続けている点にある。社会保険料は、どの保険制度に加入しているか、どの地域に住んでいるかによって保険料が異なるが、ここでは、大企業主導で決まる春闘ベース・アップへの影響も意識しながら、厚生年金・健康保険組合の加入者について、全国平均の保険料の推移を見てみよう(【図表2】)。そうすると、厚生年金+健康保険で過去10年間に保険料が収入の21.93%から27.35%へと5.4%あまり上昇したことが分かる。通常は収入の方が消費より多く、消費税に関しては非課税品目があることを考えると、14年4月に実施された消費税率の3%引上げ(5%→8%)が2回以上行われたに等しい負担増が生じたことになる。

【図表2】社会保険料の推移(%、健康保険組合平均)

このように社会保険負担が大幅に増えているのに、消費税などと違って負担増があまり意識されていない(したがって政治的反対も少ない)のは、毎月の給料の中から天引きの形で保険料が支払われているからだろう。なお、厚生年金保険料の上昇は今年の18.30%をもって当面打ち止めとなる予定であるが(注6)、健康保険料に関しては後期高齢者医療制度への支援金を中心に今後も保険料の上昇が続く見込みである。こうした社会保険料の増加の結果、驚くべきことに、今では家計の社会保険料負担は所得税等の負担を上回り、企業の社会保険料負担は法人税負担を上回るに至っている(【図表3】)。(早川英男「「賃金税」としての社会保険料」2017年7月14日)

ーーこの驚くべき【図表3】というのは、さきほど掲げた「家計の負担状況」「企業の負担状況」なので再掲しない。

早川英男は最終的にはこう言っている。

こう考えると、社会保障費を税で賄うなら、賃金税より資源配分への悪影響が少ない消費税で賄うべきではないかという疑問が自然に湧いてくる。消費税は逆進的だとされるが、高所得者の社会保険料負担の上限を考慮すると、社会保険料は消費税以上に逆進的であり得る(注10)。にもかかわらず、消費税率引上げは二度までも先送りされ、社会保険料は毎年上がり続ける。それは、消費増税には法改正が必要であり、政治的反発が強い一方で、社会保険料はほぼ自動的に上がっていくからだ。しかし前述のとおり、こうした姑息な形での社会保障負担の増大は、雇用・賃金の不安定化や将来不安等に伴う個人消費の抑制に繋がっている。政治プロセスの非対称性の問題も含め、もう一度「税と社会保障の一体改革」を考え直すべき時ではないかと思う。(早川英男「「賃金税」としての社会保険料」2017年7月14日)

ようするにの消費税のことばかり話題にして社会保険料、つまり「賃金税」の姑息な形での負担増に注目しない連中はバカじゃないの?と言っていることになる。

なにはともあれ真の課題は次の現実への対応に収斂する。





消費税を下げてデフレ脱却→経済成長をなどと言って騒いでいる連中は、この現実を否認しようとしているバカにすぎない。「集団否認症」の重度障害事例として興味深いのを否定するつもりはないが。



2019年9月23日月曜日

21世紀版武者小路実篤「想田和弘チャン」

聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。(加藤周一「第2の戦前・今日」2004年)

………

やあ、現在の日本には二大宗教があるんだよ。いままだ旅行中だからいままでのデータを貼り付けつつ「テキトウ」に記すけどさ、ちょっとした鄙びた温泉の一室でね。



ボクはどっちかというと「消費税は必要」宗教なんだ。だから「消費税は悪」宗教の人から何を言われても馬耳東風なんだよ。ま、ジョウダンととってほしいがね。


専門家(エコノミスト)のなかにも「消費税は悪宗教」の方がいらっしゃるようで、「「日本経済と経済政策に係る国民一般及び専門家の 認識と背景に関する調査」について― 調査の概要と簡易集計結果の紹介 」(田政徳・川本琢磨・堀 雅博、〈内閣府経済社会総合研究所『経済分析』第 197 号 2018 年〉,PDF)ってのがある。





これについて経済学者の小峰隆夫氏が次のように記している。

■「財政再建・社会保障改革、思えば遠くに来たものだ」(日本経済研究センター理事・研究顧問、大正大学教授 小峰隆夫、2019/02/06

増税するなら消費税、法人税? 専門家と一般国民の埋めがたい認識ギャップ

 財政再建・社会保障改革の大きな特徴は、専門家の考えと一般国民の考えが大きく異なることである。この点について、これまで断片的な情報しか得られていなかったのだが、最近、行われた内閣府経済社会総合研究所の調査が、この点を体系的に明らかにした。「日本経済と経済政策に係る国民一般及び専門家の認識と背景に関する調査」がそれである。

【1】  詳しくは調査本文を見ていただくことにして、概要を示そう。

 まず、高齢化が進行する中で将来予想される国民負担については、専門家は「国民負担の今後の増大は避けがたい」と考えるが、一般国民は「財源が必要なら、まずは無駄の削減で対応せよ」という考えが強い。

 負担増の財源としては、専門家は消費税を考えるが、一般国民は「増税するなら法人税を上げるべきだ」と考える。法人税であれば自分の懐には響かないと考えているようだ。

 消費税については、専門家は「公平で安定した財源だ」と考えるが、一般国民は「逆進的」と考える傾向があり、その税率についても、専門家は「15~20%が必要」とするが、一般国民は「10%以上はほとんど考えていない」という結果だ。専門家と一般国民の認識ギャップは埋めようがないほど大きいことが分かる。

 なお、蛇足だが、経済学や経済学者の日本経済に対する貢献度という点では、専門家も一般国民も「あまり貢献していない」という回答が最も多かった。この点では珍しく両者の考えが一致したわけだが、苦笑するしかない。

ーーこの後、「一般国民が支持する政策」から「専門家が推奨する政策」へ転換する4つの方策についての記述があるが、それについては割愛。

そして最後にこうある。

これらの提案は一見すると実現性に乏しく、現実離れしているように見えるかもしれない。しかし、そうした現実離れした対応を考えざるを得ないほど、我々は遠くまで来てしまったのである。「財政再建・社会保障改革、思えば遠くに来たものだ」(小峰隆夫、2019/02/06

この小峰隆夫という人ははこう言ってるが、経済学者にもいろんな人がおり、みなが小峰隆夫氏のような見解ではないのはさきほどの図が示している。

ようは「専門家と一般国民の認識ギャップは埋めようがないほど大きい」んじゃないんだな。一般国民ってのは、財政の知識はおそらくほとんどないのだから、「消費税は悪」宗教のエコノミストやその宣伝者の言葉に頼っているんだよ。

たとえば「消費税は悪」宗教への帰依者、想田和弘なんかはテキメンにそうだな。彼の信奉する新興宗教ーー山本太郎教ーーを裏付けてくれる経済学者の言葉を必死に拾って鳥語装置で拡散している。




で、そこまで勉強しない一般大衆は「想田さんがいってるから、絶対そうだわ!」って具合になるんだな。

だから「消費税は必要」派の経済学者は本来、「消費税は悪」と言っている経済学者を理論的にたたかなくちゃいけない。「我々は遠くまで来てしまった」などと言う前にやるべきことがある。それができていないのは、おバカな経済学者を相手にしたら品格が落ちるとか思ってんだろうかな。

ま、ここで話を元にもどせば、「消費税は必要」宗教の信者のボクとしては、「消費税は悪」宗教信者の想田和弘チャンってのは、シツレイながら21世紀版武者小路実篤にしかみえないね。

第2次大戦が終わって、日本は降伏しました。武者小路実篤という有名な作家がいましたが、戦時中、彼は戦争をほぼ支持していたのです。ところが、戦争が終わったら、騙されていた、戦争の真実をちっとも知らなかったと言いました。南京虐殺もあれば、第一、中国で日本軍は勝利していると言っていたけれども、あんまり成功していなかった。その事実を知らなかったということで、彼は騙されていた、戦争に負けて呆然としていると言ったのです。

戦時中の彼はどうして騙されたかというと、騙されたかったから騙されたのだと私は思うのです。だから私は彼に戦争責任があると考えます。それは彼が騙されたからではありません。騙されたことで責任があるとは私は思わないけれども、騙されたいと思ったことに責任があると思うのです。彼が騙されたのは、騙されたかったからなのです。騙されたいと思っていてはだめです。武者小路実篤は代表的な文学者ですから、文学者ならば真実を見ようとしなければいけません。

八百屋のおじさんであれば、それは無理だと思います。NHK が放送して、朝日新聞がそう書けば信じるのは当たり前です。八百屋のおじさんに、ほかの新聞をもっと読めとか、日本語の新聞じゃだめだからインターナショナル・ヘラルド・トリビューンを読んだらいかがですかとは言えません。BBCは英語ですから、八百屋のおじさんに騙されてはいけないから、 BBC の短波放送を聞けと言っても、それは不可能です。

武者小路実篤の場合は立場が違います。非常に有名な作家で、だいいち、新聞社にも知人がいたでしょう、外信部に聞けば誰でも知っていることですから、いくらでも騙されない方法はあったと思います。武者小路実篤という大作家は、例えば毎日新聞社、朝日新聞社、読売新聞社、そういう大新聞の知り合いに実際はどうなっているんだということを聞けばいいのに、彼は聞かなかったから騙されたのです。なぜ聞かなかったかというと、聞きたくなかったからです。それは戦前の社会心理的状況ですが、今も変わっていないと思います。

知ろうとして、あらゆる手だてを尽くしても知ることができなければ仕方がない。しかし手だてを尽くさない。むしろ反対でした。すぐそこに情報があっても、望まないところには行かないのです。(加藤周一「第2の戦前・今日」2004年)

つまりすぐそこに情報があっても、望まないところには行かない「八百屋のオッサン想田和弘」ってわけだ。

ま、彼も東大でてるのだから(宗教学科らしいが)、ヨーロッパ共同体では、 1992年のEC指令の改正により、1993年以降付加価値税の標準税率を15%以上とすることが決められているという程度は知っているはずなんだけどな。





付加価値税を最初に導入したフランスでは、最初から20%の付加価値税だったとかな。





日本行政サイドは「消費税は悪」宗教の左翼大衆迎合主義者たちの抵抗のなか、長年かかってようやく10%にこぎつけたんだよな。


消費税の「導入」と「増税」の歴史
首相
年月

大平正芳
1979年1月
財政再建のため「一般消費税」導入を閣議決定。同年10月、総選挙中に導入断念を表明したが、大幅に議席を減らす。
中曽根康弘
1987年2月
「売上税」法案を国会に提出。国民的な反対に遭い、同年5月に廃案となる。
竹下 登
1988年12月
消費税法成立。
1989年4月
消費税法を施行。税率は3%。その直後、リクルート事件などの影響もあり、竹下首相は退陣表明、同年6月に辞任。
細川護煕
1994年2月
消費税を廃止し、税率7%の国民福祉税の構想を発表。しかし、連立政権内の足並みの乱れなどから、発表翌日に撤回。
村山富市
1994年11月
消費税率を3%から4%に引き上げ、さらに地方消費税1%を加える税制改革関連法が成立。
橋本龍太郎
1997年4月
消費税率を5%に引き上げ。
鳩山由紀夫
2009年9月
「消費税率は4年間上げない」とするマニフェストで民主党が総選挙で勝利、政権交代を実現。
菅直人
2010年6月
参院選直前に「消費税10%」を打ち出し、選挙に惨敗。
野田佳彦
2012年6月
消費税率を2014年に8%、15年に10%に引き上げる法案を提出。8月10日、参院本会議で可決成立。
安倍晋三
2014年4月
消費税率を8%に引き上げ。
2014年11月
2015年10月の税率10%への引き上げを2017年4月に1年半延期。
2016年6月
2017年4月の税率引き上げを2019年10月に2年半延期。
2018年10月
2019年10月に税率10%に引き上げる方針を表明。軽減税率を導入し、食品(外食・酒類を除く)は現行の8%の税率を維持する。




たとえば厳然たる事実として次のような数字がある。



これをみればどうしたって負担を上げて、福祉は削らなくちゃいかないという考えに至るはずだがね。

日本の場合、低福祉・低負担や高福祉・高負担という選択肢はなく、中福祉・高負担しかありえないことです。それに異論があるなら、 公的保険を小さくして自己負担を増やしていくか、産業化するといった全く違う発想が必要になるでしょう。(財政と社会保障 ~私たちはどのような国家像を目指すのか~ 大和総研理事長武藤敏郎、 2017年1月18日)

国民負担増の必然性という認識がが生まれるはずの最も基本的な簡易図をしめせば、次のものだ。




たとえば年金ってのは高齢者1人あたり月額いくらぐらいかよく知らないが、ここでは計算が簡単になるように15万としよう。すると1990年は現役世代3万円ですんだわけだ。だが現在は7.5万円の負担になる(これはあくまでおおよそでGDPやらインフレやら実質負担額やらを考慮しなくてはいかないのだけれど、それは割愛)。



………

※追記


………

あるいは国民負担率の各国比較(財務省「負担率に関する資料」より)。




で、消費課税分をゼロにしてどうしようってんだろう、国民負担率を。せめて60%ぐらいにはしなくちゃいけないという宗教観をボクはもっているんだけどさ。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」大和総研2013、武藤敏郎監修)

ま、ここでは「想田和弘」というシニフィアンを上げて批判したが、批判の対象はもちろん彼だけではない。問題はむしろ経済学者たちだ。彼らの相互酷評しかないよ、いまの宗教戦争をおえるには。




2019年9月18日水曜日

四つの言説基盤図変奏

ラカンの「四つの言説 quatre discours」とは、もともと最晩年のフロイトが示した「三つの不可能な仕事」(支配、教育、分析)に、フロイトが示さなかった最も基本的な「不可能な仕事=欲望(ヒステリー)」をつけ加えたものである。

分析 Analysierenan 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な」職業 »unmöglichen« Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育 Erziehen することと支配 Regieren することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ラカンの言説とは「社会的結びつき lien social」ということで、これまたフロイトの「愛の結びつき Liebesbeziehungen」(エロス的結びつき)から来ている(ジャック=アラン・ミレールによる)。

われわれは愛の結びつき Liebesbeziehungen(あたりさわりのない言い方をすれば、感情的結びつき Gefühlsbindungen)が集団精神の本質をなしているという前提に立って始める。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)

「集団精神」とあるが、集団は二人から始まる。つまり、ラカンの言説理論は人の結びつきのあり方を思考したものとしてある。





ラカンの四つの言説のベースとなる基盤図はいくつかのヴァリエーションがある。 

ラカン自身が示したのは主にこの四つの図である。





左上には Agent やら semblant やら desir やらがあるが、Agent(代理人)とはsemblant(見せかけ)、つまり仮象の主体である。この仮象の主体とは、言語を使用することによって身体から切り離されてしまった主体ということでもあり、この主体はみなシニフィアンの主体、欲望の主体である。

見せかけ(仮象)、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)


四つの言説には、主人の言説、大学人の言説、ヒステリーの言説、分析家の言説と、それにのちに付け加えられた資本の言説があり、一般にはヒステリーの言説が欲望の言説だとされるが、本来、どの言説だってそのベースは仮象の主体=欲望の主体であることには変わりがない。

この欲望の主体は、別名「幻想の主体」と呼ばれる。

欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (ラカン、AE207, 1966)

最晩年のラカンが「人はみな妄想する」といったことに依拠すれば、欲望の主体は「妄想の主体」である。

私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ジャック=アラン・ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)

もっとも妄想という用語には注意しなければならない。

病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試み・再構成である。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)

究極的には妄想とは、人がみな原初にもつ現実界という「構造的トラウマ」に対する防衛である。

我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique, 1993)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。Je considère que […]le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)


………

ところで左下の真理とはいったいなんなのか?


真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)

左下の真理は「嘘としての真理」ではない。そうではなく、話す身体である。

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)

この話す身体が「身体の実体」である。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、常に私が知っていること以上のことを言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

セミネール20「アンコール」以後のラカンに依拠すれば、見せかけの底部にある真理とは、話す身体であり、性的非関係と捉えるべきである。




すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)


ところでジャック=アラン・ミレールは四つの言説理論には触れないまま次の図を示している。



いままで何度か示してきたが、この図を援用して言説基盤図を次のように書き直すことを蚊居肢子は好む。





この図こそ享楽の漂流図である。

私は欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)

左下の「非関係 non-rapport 」は穴としてもよい。

穴 trou は、非関係 non-rapport によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

あるいは穴ウマだってよろしい。

現実界は…穴ウマ=トラウマ troumatismeを為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974)

他方、右下の剰余享楽は穴埋めである。

対象aは、喪失・享楽の控除の効果[l'effet de perte, le moins-de-jouir]と、その喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片の効果[l'effet de morcellement des plus-de-jouir qui le compensent morcellement des plus de jouir qui le compensent]の両方に刻印inscritされる。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めを理解するための最も基本的方法である。Ce petit a sur moins phi , c'est la façon la plus élémentaire de comprendre cette conjugaison que j'évoquais, la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)


穴と穴埋め用語を使って日本語で図示すればこうなる。







ここでの身体=穴とは「欲動の現実界」のことである。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


これは「欲動の身体 le corps pulsionnel」と言い換えうる。

欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)



ーーこの図には「大他者の享楽はない」だってある。

JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)

おわかりだろうか? これがすべての人間の愛のつながり、あるいは社会的つながりの図である。ここから逃れうる主体はない。

身体は穴とは、身体は去勢されてるという意味であり、この去勢は象徴的去勢ではない。そうではなく、究極的には出産外傷による原去勢である(参照:傷ついたエロス=傷ついた享楽)。