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2019年10月31日木曜日

「穴が欲するもの」あるいは「穴の弁証法」

穴が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.

…すべての穴は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年)

“Lust”は手元の手塚富雄訳では「悦楽」と訳されているが、「穴」と訳するとその意味が鮮明化する。

フロイトは”Libido”は”Lust”だと言っている。

学問的に、リビドーLibido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「Lust」という語がただ一つ適切なものである。(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)

そして”Libido”は”jouissance”である。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

前回示したように、「享楽は穴である la jouissance est le trou」とすることができる。「享楽は去勢」であり、「去勢は穴」である。ゆえに「享楽は穴」である。

享楽は去勢である。la jouissance est la castration.(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 9/2/2011)

巷間でしばしば使用される「享楽」という語はほとんどの場合「剰余享楽」のことである。たとえば日本では享楽社会論なる題をもった書物がある。あれは剰余享楽社会論であり、つまりは穴埋め社会論である。このことに注意すれば穴と穴埋めという語でほとんどが解決する。

対象aは、「喪失・享楽控除の効果」と「その喪失を穴埋めする剰余享楽の欠片」の効果の両方を示す。l'objet a qui inscrit à la fois l'effet de perte, le moins-de-jouir, et l'effet de morcellement des plus-de-jouir qui le compensent. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その穴埋めとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

話を戻せば、享楽は欲動のリアルのことであり、この観点からも穴である。

欲動のリアルle réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

以上により Lust = Libido = jouissance = trou である。

まったき厳密さで常にこうだと言うつもりはないが、ほとんどこうであるとが言える。少なくともいままで曖昧に使用されてきたこれらの言葉を穴に還元すれば多くのことがスッキリと把握しうる。

たとえばこうである。

死への道は、穴と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
穴の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

そしてふたたびニーチェである。

穴が欲しないものがあろうか。穴は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。穴はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が穴のなかに環をなしてめぐっている。―― 

_was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌 Das Nachtwandler-Lied 」第11節)

ここでこう補おう、ーー《完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう!"Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!" 》(酔歌 」第9節)

いやあ、まことにまことにピッタンコである。ミナサンも蚊居肢散人のように読む技術を学ばねばナリマセン。

読むことを技術として稽古するためには、何よりもまず、今日ではこれが一番忘れられているーーそしてそれだから私の著作が「読みうる」ようになるまではまだ年月を要するーーひとつの事だ必要だ。――そのためには、読者は殆んど牛にならなくてはならない。ともかく「近代人」であっては困るのだ。そのひとつの事というのはーー反芻することだ……(ニーチェ『道徳の系譜』序 第8節)

ここで読む技術の劣っている方々のために、ラカンを中心にもういくつかのサンプルを掲げておきマス。

大他者の穴[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)

フロイトならこうデス。

すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれは穴 Libidoと名付ける。[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

ミレールならこうデス。

大他者の穴…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)

ーー《身体は穴である。corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

純粋な身体の出来事としての女性の穴 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
穴は身体の出来事である[ la jouissance est un événement de corps]…穴はトラウマの審級にある [l'ordre du traumatisme] 。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

ラカンに戻レバ、

穴は現実界である [la jouissance c'est du Réel]。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

ーー《現実界は…穴=トラウマを為す[fait « troumatisme ».]》(Lacan, S21, 19 Février 1974)

私はこの穴Ⱥのシニフィアン[S(Ⱥ)]にて、女性の穴に他ならないものを示している。[ce S(A) je n'en désigne rien d'autre que la jouissance de Lⱥ femme](ラカン、S20、13 Mars 1973)

以上にてキットおかわりにったことでしょう。享楽=エロス=穴デス。

反復は穴回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

冒頭に示したように 《すべての穴は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! 》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年)デス。

したがって、永遠回帰とは穴回帰とすべきではナイデショウカ?

何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の穴回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。das wahre Leben als das Gesamt. -Fortleben durch die Zeugung, durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit. (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』1888年)

「永遠回帰=生の穴回帰」であるか否かの判断は、今後キット読む技術を稽古されるであろうドコカノあなたにおまかせシマス。

この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないであろう。それは、私のツァラトゥストラを理解する人たちであるかもしれない。今日すでに聞く耳をもっている者どもと、どうした私がおのれを取りちがえるはずがあろうか? ――やっと明後日が私のものである。父亡きのちに産みおとされる者もいく人かはいる。…

いざよし! このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわありがあろうか? ――残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。――人は人類を、力によって、魂の高さ Höhe der Seeleによって、凌駕していなければならない、――軽蔑Verachtungによって・・・(ニーチェ「反キリスト」序言)

穴の底下りをしていたら偶然にも魂の高みにでてしまったという「錯覚に閉じ篭っている」蚊居肢子にとって、肝心なのは上にも引用した「穴の弁証法」デス。

穴の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

人は土台を問うことを忘れてしまってはナリマセン。土台とはプラトンのコーラ=母胎であり、女ノ穴デス。

いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)

女ノ穴には二種類あることにお気をつけを!








象徴界の中の穴
現実界は見せかけ(象徴界)のなかに穴を為す。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant. (Lacan, S18, 20 Janvier 1971)
現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
真の穴
症状(固着としての症状)は、現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (Lacan,  La Troisième, 1974)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt (=固着)との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



これはちょっと難しいですから無視していただいてよろしいです→参照:現実界のオートマトン

蚊居肢子も最近になってようやくなんとなくつかみかけてきたことでマッタキ自信をもつにはいたっていません。大切なのは二つの穴があるということです。それさえなんとかわかっていたらヨロシイデス。




さる元巫女の麗しき女性の方からすこし前プレゼントをいただしきましたが、この穴はどちらの穴なのかを蚊居肢子はいまだ思案中デ結論ガデマセン。




でもどんな穴だって弁証法をすれば死にいたるでせう。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)



(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)



ラカンはセミネール11で《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》といっているけれど、これは後期ラカンからいえば、たぶん二つの穴です(ほんとは最低限四つぐらいは穴があるのだけれどーー象徴的穴、想像的穴、現実界的穴、原穴ーー、いまは厳密さを期していません)。

一方の欠如は、《主体の誕生 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢による欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うようになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》といっています。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》、《生存在の誕生 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された《己れ自身の部分として喪失した欠如 Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant 》とあります。この喪失を胎盤、あるいは羊膜(ラメラ)といっています。

ここに穴の弁証法があるのです。女の穴が象徴界の穴であろうと、その先には《すべてを呑み込む湾門であり裂孔le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer 》としてのブラックホールがあるノデス。ブラックホールとは中国語では黒洞です。

外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。(芥川龍之介『羅生門』)

外には黒洞ばかりが歩いているのです。

女というものは存在しない。女たちはいる。。La femme n'existe pas. Il y des femmes,(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)

かなり話が逸れてしまいましたが、あの元巫女さんのせいです。

いったい巫女の穴とはどの穴ナノダロウカ?




蚊居肢子の頭脳ではいまだ解決不能なのです・・・



なにはともあれ人の本来の生において原穴が大切デス。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? », 2014セミネール)
「女が欲することは、神も欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.」(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)、これは「母が欲することは、神も欲する Ce que la maman veut, Dieu Ie veut」と読み換えるべきである。(PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains, A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex , 2009)

原穴の根には、「種がすべて」がアリマス。

十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)

すなわち人はみな穴回帰運動をもっているノデス。

人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯穴回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

人は土台を問うた老子を読むべきではナイデショウカ?

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)

老子なんかイヤダワ、とおっやられる方は、次善の策としてマンダラゲの詩人を読むことをおすすめシマス。


時間はとまつてしまった
永遠だけが残ったこの時間のない
ところに顔をうずめてねむつている
「汝を愛するからだ おお永遠よ」
もう春も秋もやつて来ない
でも地球には秋が来るとまた
路ばたにマンダラゲが咲く

ーー西脇順三郎「坂の五月」


2019年10月30日水曜日

女性の享楽はタナトスである

何度も示しているが、晩年のラカンの女性の享楽とは解剖学的女性とは基本的に関係がない(人はどうしても「女性」というイマジネールな意味合いに囚われてしまいがちだが)。

最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011) 

女性の享楽とは享楽自体=サントームの享楽(原症状の享楽)であり、身体の出来事(トラウマ)の反復強迫である。



現実界の反復強迫
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
フロイトが固着と呼んだもの…それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
享楽の固着とそのトラウマ的作用がある fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


もし享楽の固着による反復強迫が解剖学的女性にかかわるとすれば、それは病因的トラウマとしての身体の出来事が、ほとんど常に母女にかかわるからである。つまり幼児期に人がみなもつ、身体の世話に伴う母もしくは母親役の人物による「身体の上への刻印=固着」である。



トラウマへの固着と反復強迫
(フロイト『モーセと一神教』1938年)
Fixierung an das Trauma und Wiederholungszwang. 
女への固着(通常は母への固着)
(性欲論、1905年)
Fixierung an das Weib (meist an die Mutter)
母への愛の欲求の固着
(レオナルドダヴィンチ論、1910年)
Fixierung der Liebesbedürfnisse an die Mutter
原対象選択の人物への固着 
(精神分析について、1910年)
Fixierung an die Personen der primitiven Objektwahl
母へのエロス的固着
(精神分析概説、1938年)
erotischen Fixierung an die Mutter
母への原固着 =原トラウマ=出産外傷 
(終りなき分析、1937年)
»Urfixierung«an die Mutter =UrtraumaTrauma der Geburt
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっている。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)





ようするにトラウマへの固着による反復強迫とは、外傷神経症である。これは事故的外傷神経症ではなく、人が誰もがが免れえない構造的外傷神経症である。

われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験と印象の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

このトラウマは自己身体の上への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

したがって享楽=女性の享楽(サントームの享楽)とは、構造的外傷神経症である。

以下の表の右側の「女性の享楽=身体の享楽」が構造的外傷神経症である。左側は「男性の享楽=言語の享楽」としたが、事実上、言語内の快楽もしくは欲望ということであり、身体のリアル=トラウマに対する防衛である。

欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)


Symbolique
象徴界
Réel
現実界
jouissance masculine 
男性の享楽
jouissance féminine
女性の享楽
jouissance 
du langage
言語の享楽
jouissance 
du corps 
身体の享楽




symptôme
症状
sinthome
サントーム
vérité
真理
jouissance
享楽
désir
欲望
pulsion
欲動
tuché
テュケー
automaton
オートマトン
manque
欠如
trou
manque-à-être
存在欠如
être
存在
sujet
主体
parlêtre
言存在
fantasme
幻想
corps
身体
Jacques-Alain Miller , Orientation lacanienne III, 8.  (09/09/2005)
ここでのtuché/automatonとは、次の意味。
fonction du réel
dans le Symbolique
象徴界の中の
現実界の機能
Automatismus
フロイトの
自動反復
Automatismus=リビドー固着Fixierungen der Libido(享楽の固着 fixations de jouissance)による無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es(フロイト、1926) 


反復強迫とはその定義上、死の欲動であり、つまりは女性の享楽とはタナトスである。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)


もしどうしても解剖学的女性に拘りたい方は、「女性の享楽」ではなく、「女性の穴」、もしくは「女性の去勢」という言葉を使われることが望ましい。そうすれば女性の享楽なるものを「ロマンチックにー文学的に」夢見るはしたなさからたちまち逃れられる筈である。


享楽は穴である la jouissance est le trou
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. Lacan, S23, 13 Avril 1976
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel.(ラカン, S23, 10 Février 1976)
現実界は…穴=トラウマを為す[fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)
穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
享楽自体、穴を為すものであるjouissance même qui fait trou。(Jacques-Alain Miller, Passion du nouveau、2003)
享楽は去勢である la jouissance est la castration
享楽は去勢である。la jouissance est la castration. 人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。Tout le monde le sait, parce que c'est tout à fait évident(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
享楽の原像は母の去勢である
去勢は、自己身体の享楽を徴す障害の名である。la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre.(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
要するに、去勢以外の真理はない。En somme, il n'y a de vrai que la castration  (Lacan, S24, 15 Mars 1977)






2019年10月29日火曜日

天秤的恋と風呂敷的恋の相違

「サピア・ウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis」というのがあって、バルトが日本文化論『記号の国』で触れているので知ったのだが、その仮説とは「人間の思考はその人間の母語によって決定される」 、「言語が異なれば、その話者が持つ外界認識も異なる」というものである。

人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。. (Sapir, Mandelbaum, 1951)

もっともこの考え方はニーチェに既にある、と言ってよい。

ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。…(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)

バルトは『記号の国』を上梓した2年後の『テキストの快楽』で、ニーチェを引用しつつこう言っている。

《……それぞれの国民は、自分の頭上に、正確に分割された概念の空を持っている。そして、真理の要請のもとに、以後、すべて概念の神は自分の天空以外の場所では求められないようになることを望んでいる》(ニーチェ)。すなわち、われわれは、皆、言語活動の真実の中に、つまり、それの地域性の中に捉えられており、近隣同士の恐るべき敵対に引き込まれているのだ。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

『記号の国』にはこうある。

(私たちの言語では)主体と神は、追いはらっても追いはらっても、もどってくる。わたしたちの言語のうえに跨がっているからである。これらの事実やほかのさまざまな事実などから、確信することになる。社会を問題にしようと主張するときに、そうするための(道具になる)言語の限界そのものをまったく考えずに問題にしようとしても、いかに愚かしいことであろうか、と。それは、狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなものだからである。したがって、わたしたちにとっては常軌を逸している文法を習ってみること。そうすれば、すくなくとも、わたしたちの言葉のイデオロギーそのものに疑念をいだくようになる、という利点はもたらされるであろう。(ロラン・バルト『記号の国』1970年)

《狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなもの》とあるが、日本人と欧米人では、違った狼の口に住っているはずである。

次の文で、バルトは日本語を《言葉の空虚な大封筒》(パロールの空虚な大封筒 une grande enveloppe vide de la parole)と言っているが、これは(バルトは時枝の名に触れてはいないにもかかわらず)明らかに「時枝の風呂敷」のことである。

日本語には機能接尾辞がきわめて多くて、前接語が複雑であるという特徴から、つぎのように推測することができる。主体は、用心や反復や遅滞や強調をつうじて発話行為を進めてゆくのであり、それらが積み重ねられたすえに(そのときには単なる一行の言葉ではおさまらなくなっているだろうが)、まさに主体は、外部や上部からわたしたちの文章を支配するとされているあの充実した核ではなくなり、言葉の空虚な大封筒のようになってしまうのである、と。したがって、西欧人にとっては主観性の過剰のようにみえること(日本人は、確かな事実ではなく印象を述べるらしいから)も、かえって、空虚になるまで細分化され微粒化されて言語のなかに主体が溶解し流出してゆくようなこといなってしまうのである。(『記号の国』)

欧米語と日本語の相違とは、天秤と風呂敷である。

時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収)

ここで「乞いしてるわ」で記した恋の話をしよう。一神教文化と多神教文化では同じ恋を語っていてもまったく異なった事態を言っている可能性があると疑ったことはないのか。たとえば天秤的恋と風呂敷的恋の相違があるのではないか、と。

わたくしが言いたいのは、西欧の詩文等がいかに美しかろうと、日本語環境で生きてゆくつもりなら、西欧かぶればかりでは現実乖離した、ただ夢見るばかりの人生になってしまうのではないか、ということである。

これは欧米の詩文を捨て去り日本語の詩文ばかりを読めといっているわけではまったくない。人は、光学的欺瞞を避けるためにパララックスが必要である、ということを言っている。

以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性 Verstand の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性 äußeren Vernunft の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点 Gesichtspunkte anderer から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差 starke Parallaxen(パララックス) を生じはするが、それは光学的欺瞞 optischen Betrug を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)

このパララックスとは、別の言い方なら、「同時に自己であり他人である力」というユーモアの精神である。

たとえばこう読もう。

恋せじと御手洗河にせしみそぎ 神はうけずぞなりにけらしも(古今集・恋一・501).

かしこにひとの四年居てあるとき清くわらひけるそのこといとゞくるほしき(宮沢賢治「恋」)

けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い/終りを/⋯/路ばたにマンダラゲが咲く(西脇順三郎『禮記』)

宇野さんの小説の何か手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの佗しさが、お分りでしょうか」という意味の一行があった筈だが、大切な一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な呪いをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく。…

…女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛たる開花の時と凋落との怖るべき距りに就て、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われ難いものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、その大事の肉体が凋落しては万事休すに違いない。(坂口安吾「青春論」1942年)


そしてこう読めばよいのである。


恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées) 
純粋に愛することは、隔たりへの同意である。自分と愛するものと間にある隔たりを何より尊重することである Aimer purement, c'est consentir à la distance, c'est adorer la distance entre soi et ce qu'on aime. (シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵 La pesanteur et la grâce』)



2019年10月28日月曜日

女は穴である

私たちは、堪え難い現実から逃れるために、その発見者(フロイト)を批判するだけではまったく充分ではない。(ジュリエット・ミッチェル Juliet Mitchell『精神分析とフェミニズムPsychoanalysis and Feminism』Penguin Books, 1990, p. 299.)




………

女は穴である。

男性性は存在する。だが女性性は存在しない。gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich…

(この意味は)性器の優位ではなく、ファルスの優位である。Es besteht also nicht ein Genitalprimat, sondern ein Primat des Phallus. (フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
女のシニフィアンの排除 forclusion de signifiant de La femme がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas” de Lacan.Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)
象徴界のなかには女性性のシニフィアンはない。フロイトはこれを発見した。半世紀後、ラカンはこれを穴Ⱥと書き留めた。(Paul Verhaeghe, Does the Woman Exist?, 1997)
女は言語のなかに穴を為す。La femme fait trou dans le langage(Pierre Naveau, Que sait une femme ? 2012)
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


神は穴である。

問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの La femme」だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)


女は欠如の欠如である。

ファルスΦは、…大他者のなかの欠如のシニフィアン signifiant d'un manque dans l'Autreである(ラカン、E818,1960年)
女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュimage du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ Hast du auch ein Portemonnaie? Der Waller hat ein Würstchen, ich hab' ein Portemonnaie」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ Ja, ich hab' auch ein Portemonnaie」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢解釈』第6章「夢の仕事Traumarbeit」1900年)


男は欠如であり、女は穴である。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如しているmanque》場を占めることができる。人は置換permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。(⋯⋯)

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)


女は幽霊である。

ラカンの「欠如の欠如 Le manque du manque 」は、(現実界としての)対象aの概念に包含されるものである。その理由で、《不安は対象なきものではない l'angoisse n'est pas sans objet》(S10, 6 Mars l963)

「不気味なもの」の側に位置する「欠如の欠如」という定式を具体的に示すために、ひとつの事例を取り上げよう。毟り取られた眼のイメージである。…

このイメージの不気味な側面を分析するとき、人は通常、二つの事態を指摘するだろう。

①眼の代わりに、二つの空洞が顔のなかで大きく開いている。
②身体から引き離された眼自体は、幽霊のような不可能な対象として現れる。

第一の点について、人は空洞が怖ろしいのは欠如のせいだと想定しがちである。不定形の深淵へと引き込む空虚が恐いと。だが本当の幽霊的なものとはむしろ逆ではないだろうか?

すなわち無限の奈落、主体性の測り知れない底無しの側面への裂開をーー想像的水準でーー常に暗示するあの眼(人間の魂への開口として捉えられる眼)、その眼の代わりにある穴は、あまりに深みのない、あまりに限定されたものであり、眼の底はあまりに可視的で近くにありすぎる。

ゆえに怖ろしいものは、たんに欠如の顕現ではない。むしろ《欠如が欠けている manque vient à manquer》ことである。すなわち、欠如自体が取り除かれている。欠如はその支えを喪失している。人は言いうる、欠如はその象徴的あるいは想像的支えを喪失したとき「たんなる穴」、つまり対象になると。それは無である。文字通り見られうるものとして居残った無である。

同時に、いったん眼が眼窩から除かれたとき、それは即座に変容する、魂への開口から全く逆の過剰な「おぞましいもの abject」の開口へと。この意味で、毟り取られた眼は、絶対的な「剰余」である。それは、プラスとマイナス、欠如とその補填の象徴的経済のなかに再刻印されえない剰余である。

…ラカンは主張している、「去勢コンプレクス」は不安を分析するための最後の一歩ではないと。去勢コンプレクスは、フロイトの分析とホフマンの砂男における「不気味なもの」の分析の核であったが。ラカン曰く、もっと根源的な「原欠如」、現実界のなかの欠如、《主体のなかに刻印されている構造的罅割れ vice de structure》があると。…

ラカンがフロイトを超えて進んでいった点は、去勢不安を退けた点にあるのではなく、テーブルをひっくり返した点にある。ラカンの主張は、不安の底には、去勢恐怖や去勢脅威ではなく、「去勢自体を喪う恐怖あるいは脅威」である。すなわち「欠如という象徴的支えを喪う」恐怖あるいは脅威である、ーー象徴的支えは去勢コンプレクスによって提供されているーー。これがラカンの不安の定式、《欠如が欠けている manque vient à manquer》が最終的に目指すものである。

不安の核心は「去勢不安」ではない。そうではなく、支えを喪う不安である。主体(そして主体の欲望)が象徴構造としての去勢のなかに持っている支えを喪う不安、これが核心である。この支えの喪失が幽霊的な対象の顕現をもたらす。その対象を通して、現実界のなかの欠如は、絶対的「過剰性」として象徴界のなかに現前する。この幽霊的対象は、「欲望の対象」を駆逐し、その場処に「欲望の原因」を顕現させる。(アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE, 2005)

ーーここでジュパンチッチは(とてもすぐれた注釈でありながら)欠如としての去勢のみを語っていることに注意。ラカンには穴としての去勢もある。

-φ (去勢)の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchonを理解するための最も基本的方法である。[petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon](ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)

ジジェク組(ジジェク、ジュパンチッチ、ムラデン・ドラー)にはこの相の言及にひどく欠けていており、アンコール以後の後期ラカンの読解においてはある意味で致命的である(参照:ジジェクの現実界定義の誤謬)。

要するに、去勢以外の真理はない。En somme, il n'y a de vrai que la castration (Lacan, S24, 15 Mars 1977)



2019年10月27日日曜日

エスの意志の境界表象 S(Ⱥ)

前回示した図を再掲しよう。



これについて次の文章群を引用した。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
私は欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […]on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

これだけではわかりにくいだろうことは判っていたが、あまりにも長くなりすぎるので詳細は割愛したのである。

最も重要なことは、 S(Ⱥ)とはȺの境界表象だということである。

(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung (Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

したがって上のは図は厳密には次のように図示すべきかもしれない。





 S(Ⱥ)とは、「S(Ⱥ)=サントームΣ=原抑圧(リビドー固着)=超自我=女というもの=タナトス」であるのは、前回示したとおり。

このS(Ⱥ)はȺーー享楽の漂流=死の欲動ーーの原象徴化(原飼い馴らし)機能をもつのに、なぜタナトスのマテームなのか?

それはフロイトがこう説明している。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

これをフロイトの遡及性用語で言えば、潜在的リアルとしての死の欲動Ⱥは、固着S(Ⱥ)によって遡及的に現勢化されるのである。

S(Ⱥ)とは身体から湧き起こる欲動の奔馬を飼い馴らす最初の鞍でありながら、欲動は十分には飼い馴らしされず、エスの審級にその残滓が居残ることを示すマテームなのである。

これをミレールは「享楽の残滓」という語で説明している。

不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。(ジャック=アラン・ミレール、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)

ーー実際のところは、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」という表現を直接的には使っていない。「残滓」とあってしばらくして「リビドー固着云々、享楽云々」とあるだけである。

このミレール曰くの「享楽の残滓」はフロイトの「リビドー固着の残滓」と等価である。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich とあるが、これが死の欲動であり、エスの意志である。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
エスの力 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe(リビドー)と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)

したがってこのS(Ⱥ)をさらに飼い馴らすシニフィアンとしての父の隠喩あるいはファルスが必要なのである。これがミレールのいう《ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである》(Ce qui fait insigne,1987)である。

ここで前回引用しないまま割愛した引用群を掲げていま記したことの裏づけとしよう。


母なる原シニフィアン=享楽の侵入の記念物=唯一の徴=死の徴
エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
私はフロイトのテキストから「唯一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」(原シニフィアン)である。我々精神分析家を関心づける全ては、フロイトの「唯一の徴 einziger Zug」に起源がある。(ラカン, S17, 14 Janvier 1970)
「唯一の徴 trait unaire」は、…享楽の侵入 une irruption de la jouissance を記念するものである。commémore une irruption de la jouissance (Lacan, S17, 11 Février 1970)
私が「徴 marque」、「唯一の徴 trait unaire」と呼ぶものは、「死の徴 (死に向かう徴付け marqué pour la mort)」である。…これは、「享楽と身体との裂け目、分離 clivage, de cette séparation  de la jouissance et du corps」…傷つけられた身体désormais mortifiéを基礎にしている。この瞬間から刻印の遊戯 jeu d'inscriptionが始まる。(ラカン、S17, 10 Juin 1970) 
唯一の徴 ≒ 骨対象(身体の上への刻印)=享楽の固着
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)
ラカンは、対象aの水準における現実界を位置付けようとした [tenté de situer le réel au niveau de l'objet petit a]。シニフィアンの固着の場においてである [à la place d'une fixation de signifiant]。それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。( J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 11/12/96)


ところで、である。じつは晩年のラカンの思考はさきほど記したほど簡単なものではない。「享楽の固着」と「ファルスによる享楽の飼い馴らし」のあいだにも人間には飼い馴らし機能がある。

「父の名の排除」は父の名の排除ではなく「S2の排除」」にて、ラカンのアンコールでの最終講義にある図を利用して、説明抜きで次の図を掲げた。




これを日本語で表示すれば次のようになる。




サントームΣが、固着S(Ⱥ)のポジションとともに「父の版の倒錯」のポジションにも置かれている。サントームは二種類の意味があるのである。それは「二種類のサントームについて」にて比較的詳しく示したが、ここでは二文のみ引用する。

まず固着としてのサントーム(原症状)。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

次に「父の版の倒錯」としてのサントーム(固着に対する防衛としてのサントーム)。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

上の表では便宜上、「父の版の倒錯」と「父の隠喩」とを区分したが、本来的には「父の隠喩機能をもつ父の名」自体、「父の版の倒錯」に含まれる。

最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、L'Autre sans Autre、2013)

ようするに晩年のラカンにとって、神経症とは「最も重症の」父の版の倒錯者なのである。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

ーーこの論理を受け入れるかどうかは読み手におまかせする。

ラカン派には流派によって「一般化妄想 délire généralisé 」(人はみな妄想する)と「一般化倒錯forclusion généralisée」(人はみな倒錯する)という二つの概念を強調しているが、これはどちらも「人はみな穴埋めする」という意味である[参照]。この穴埋めをしなくてはならない穴を「一般化排除の穴」と呼ぶ。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)

あるいは「享楽欠如の穴」とも呼ばれる(参照)。

疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

この「一般化排除の穴」あるいは「享楽欠如の穴」は、「女性のシニフィアンの排除 forclusion de signifiant de La femme」の穴Ⱥ(トラウマ)と等価である(参照)。

ミレールはこう言ってる。

人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique,« Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ミレール、Vie de Lacan、2010)

この女というものの排除、あるいは一般化排除(一般化トラウマ)の穴に対する穴埋めが、「現実界に対する防衛」という意味であり、一般化妄想もしくは一般化倒錯に相当する。

我々の言説(社会的つながり lien social) はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique 、 1993)

以上、わたくし自身はこう考えているということであり、上のようにに厳密に言っているラカン派注釈者を知らない。もうたずねてこられてもこれ以上説明しないよ、ラカンおたくみたいに思われちまうからな。それとボロをだしたくないのでね。

ま、フロイトやラカンってのはみんなそれぞれの仕方で模索してるわけで、正しい解なんてけっしてない。それはプラトンやデカルトなどの読解に正しい解がないのと同様。

……

※付記


■ドゥルーズガタリ版「享楽の固着」




リロルネロ ritournelle は三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスが巨大なブラックホール となり[le chaos est un immense trou noir]、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を固着しようとする[on s'efforce d'y fixer un point fragile comme centre]。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観」を作り上げる(形態ではなく)[on organise autour du point une « allure » (plutôt qu'une forme) calme et stable]。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道を接ぎ木 して、ブラックホールの外にでる。[on greffe une échappée sur cette allure, hors du trou noir. ](ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

ーードゥルーズガタリはこの直後、ポール・クレーの名を出しているが、どの作品のイメージによってこう言ったのかについては触れていない。


このリトルネロとはラカン派においてララングであり、ララングとはサントームΣ= S(Ⱥ)とほぼ等価である。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)
ララング lalangueが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。(Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
サントームは、母の言葉に根がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。(Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)


■ラカン派版「享楽の固着」変奏

ラカンの考え方が、ドゥルーズガタリと同じ考え方だというつもりはないが、上の図を使ってここまで記してきたことを「仮に」置けばこうなる(たぶん、父の隠喩の箇所とドゥルーズの接木はちょっと違う)。







最後に『千のプラトー』のなかの最も美しい文のひとつを掲げておこう。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれ esquisse d'un centre stableであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ calme, stabilisant et calmant, au sein du chaos。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる début d'ordre dans le chaos。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険 risque aussi de se disloquer à chaque instant もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

Error on green, 1939 by Paul Klee,


リロルネロ ritournelle の三つの相は、ボクに言わせれば、これだな、逃げ道の先に女の足があるからな、ーー《逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる》。

やっぱりブラックホールよりも足を遠くから眺めているほうがいいよ。トシのせいかもしれないけど。

ジャコメッティ「宙吊りになった玉 Boule suspendue」

ーー《歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ》

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。

toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte (Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)