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2020年12月31日木曜日

超自我の核は女性器である

 前回引用した文から始める。


実にひどく奇妙だ、フロイトが指摘しているのを見るのは。要するに父が最初の同一化の場を占め[le père s'avère être celui qui préside à la toute première identification]、愛に値する者[celui qui mérite l'amour]だとしたことは。


これは確かにとても奇妙である。矛盾しているのだ、分析経験のすべての展開は、母子関係の第一の設置にあるという事実と[tout ce que le développement de l'expérience analytique …établir de la primauté du rapport de l'enfant à la mère.  ]…


父を愛に値する者とすることは、ヒステリー者の父との関係[la relation au père, de l'hystérique]における機能を特徴づける。我々はまさにこれを理想化された父[le père idéalisé]として示す。(Lacan, S17, February 18, 1970)


ラカンはここで「父が最初の同一化の場を占め」、母が先行していないのは奇妙だと言っている。


このフロイト批判の思考をもとにラカンは次のように言った。


名高いエディプスコンプレクスは全く使いものにならない fameux complexe d'Œdipe[…] C'est strictement inutilisable ! (Lacan, S17, 18 Février 1970)

エディプスコンプレクスの分析は、フロイトの夢に過ぎない。c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant  un rêve de FREUD.  ( Lacan, S17, 11 Mars 1970)




ところで、である。フロイトは父との同一化以前に母との同一化があると事実上、言っているのである。


父との同一化と同時に、おそらくはそれ以前にも、男児は、母への依存型の本格的対象備給を向け始める。Gleichzeitig mit dieser Identifizierung mit dem Vater, vielleicht sogar vorher, hat der Knabe begonnen, eine richtige Objektbesetzung der Mutter nach dem Anlehnungstypus vorzunehmen.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)

個人の原始的な口唇期の初めにおいて、対象備給と同一化は互いに区別されていなかった。Uranfänglich in der primitiven oralen Phase des Individuums sind Objektbesetzung und Identifizierung wohl nicht voneinander zu unterscheiden. (フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


この二文を組み合わせれば、「母との同一化」が最初にあるとなる。


ーーちなみに備給とは、リビドー のことである、《備給はリビドーに代替しうる »Besetzung« durch »Libido« ersetzen》(フロイト『無意識』1915年)、そしてリビドー とは享楽である。


ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


さらにこう引用しよう。


非常に幼い時期に、母への対象備給[Mutter eine Objektbesetzung ]がはじまり、対象備給は母の乳房[Mutterbrust]を出発点とし、アタッチメント型[Anlehnungstypus]の対象選択の原型を示す。Ganz frühzeitig entwickelt es für die Mutter eine Objektbesetzung, die von der Mutterbrust ihren Ausgang nimmt und das vorbildliche Beispiel einer Objektwahl nach dem Anlehnungstypus zeigt; ,(フロイト『自我とエス』第3章、1923年)

幼児は、優位に立つ他者を同一化によって自分の中に取り入れる。 するとこの他者は、幼児の超自我になる。das Kind [...]indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt, die nun das Über-Ich wird (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)


この二文から、母の乳房が対象備給の出発点であり、それが超自我にかかわると言っていると見なしてよい。


メラニー・クラインはおそらくこういったフロイトの記述を視野に入れてだろう、次のように言っている。

私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)


この思考をラカンも受け入れて、原超自我を「母なる超自我」と言っている。


母なる超自我・太古の超自我、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 [surmoi primordial]の効果に結びついているものである。…最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、…母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに分節化される。


Dans ce surmoi maternel, ce surmoi archaïque, ce surmoi auquel sont attachés les effets du surmoi primordial dont parle Mélanie KLEIN, […] Au niveau du premier autre en tant qu'il est  le support pur et simple des premières demandes,  des demandes si je puis dire émergentes, de ces premières articulations vagissantes de son besoin  au niveau[…] des premières frustrations, […] quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule.  (Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)


もっともラカンは最初期から《太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque,》(ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)としていることはある。


「母の乳房が超自我の核」というのは後年のラカンの発言においてはいくらか補正が必要だとしてもーーラカンは、いっそう遡って、原抑圧=超自我の起源にかかわるだろうものについて、胎盤[placenta」や臍の緒「cordon ombilical]という言葉まで口にしているーー、原初のリビドーの対象、つまり享楽の対象として母あるいは母親役の人物があるのは、精神分析に依拠しなくても、疑いようがない。


(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970)




超自我とはエスの代理人である。


超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)


そしてエスとは、グロデック=ニーチェに依拠した「未知の制御できない力」である。


ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。[was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck »gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten]


(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。


グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。[Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist](フロイト『自我とエス』第2章、1923年)


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)



結局、超自我は暗闇のなかに蠢く未知の力=異者の代理人であるーー《超自我と原抑圧との一致がある il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.》(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd (Fremdkörper) erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)


ここでは超自我の核は母の乳房ではなく、より起源的に、「超自我の核は女性器」だとしておこう。それは男にとっても女にとってもそうである。


ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.(フロイト『不気味なもの 』1919年)



………………


女性器という言葉がお嫌いな方は、「超自我の核は臍の緒」でもよろしい。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。欲動は身体の空洞に繋がっている。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou. C'est-à-dire ce qui fait que la pulsion est liée aux orifices corporels.


原抑圧との関係、原起源にかかわる問い。私は信じている、フロイトの「夢の臍」を文字通り取らなければならない。それは穴である。それは分析の限界に位置する何ものかである。La relation de cet Urverdrängt, de ce refoulé originel, puisqu'on a posé une question concernant l'origine tout à l'heure, je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou, c'est quelque chose qui est à la limite de l'analyse.〔・・・〕


人は臍の緒によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているのは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤によってである。臍は聖痕である。…que quelqu'un s'est trouvé en quelque sorte suspendu[…]  pour lui du cordon ombilical. Il est évident que ce n'est pas à celui de sa mère qu'il est suspendu, c'est à son placenta.…l'ombilic est un stigmate.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)


超自我は多くの特徴がある。ラカンはこの超自我を二項シニフィアンと同一のものとした。le surmoi a bien des traits que Lacan a repérés avec son signifiant binaire〔・・・〕


二項シニフィアンの場に超自我を位置付けることの結果は、超自我と原抑圧を同じものと扱うことになる。超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。私は断固としてそう言い、署名する。Le résultat de repérer le surmoi sur ce signifiant binaire, c'est de rapprocher le surmoi et le refoulement originaire. Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens. Je persiste et je signe.〔・・・〕

あなたがたは盲目的でさえ見ることができる、超自我は原抑圧と合致しうしるのを。実際、古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる。それゆえ超自我と原抑圧との一致がある。Vous voyez bien que, même à l'aveugle, on est conduit à rapprocher le surmoi du refoulement originaire. En effet, le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe, et il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.    . (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

表象代理は二項シニフィアンである。この表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした。

Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. […] il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements (ラカン、S11、03 Juin 1964)


ーー「超自我と原抑圧との一致」という初期ミレール発言の裏付けは、「簡潔版:S(Ⱥ)=超自我=原抑圧=固着」に示してある。


ここでは別の相から確認しておこう。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。リアルであり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある。Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : (Lacan, S13, 09 Février 1966)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)



以上、フロイトの引力がラカンの穴であり、未知の制御できない力とは究極的には、母胎の引力、母胎の穴である。


〈大文字の母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou (コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? ,2014)




2020年12月30日水曜日

日本という特殊な国における女たちの愛

まず 日本は特殊な国だということはある(欧米基準から言って、という意味で)。



単純に婚外子比率だけで比較はできないにしろーー欧米では結婚せずに子供を育てているパートナー関係もそれなりにあるだろうからーー傾向としては「父なき時代」だ。

他方、日本というかアジアは依然「父あり」地域だな、韓国も頑張ってるね。



中国のデータはざっと検索する限りでは行き当たらないが(日本韓国よりはいくらか比率は高いかもしれないが)似たようなものだろう。

本来、欧米にような一神教的地域は父の名のエリアであり、アジアのような多神教的地域は、父の名の機能が弱いエリアだったんだが、身近な家族制度の様相においては欧米とアジアは逆転している。

ラカン的には父あるいはエディプスコンプレクスは症状だ。

父は症状である。le père est un symptôme(ラカン, S23, 18 Novembre 1975)

エディプスコンプレクス自体、症状である。父の名がすべてが支えられる名の父である限りで。Le complexe d'Œdipe, comme tel, est un symptôme. C'est en tant que le Nom du Père est aussi le père du nom que tout se soutient,(ラカン, S23, 18 Novembre 1975)


で、《父の蒸発 évaporation du père》(ラカン Note sur le Père1968年)があれば、症状が隠蔽していた底部の身体的な享楽が露顕する。


エディプスの失墜において…超自我は言う、「享楽せよ!」と。au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » (ラカン, S18, 16 Juin 1971)


愛ももちろん症状。

愛の結びつきを維持するための唯一のものは、固有の症状である。Restent alors seulement les symptômes particuliers pour sustenter les liens d'amour. 


享楽は関係性を構築しない」という事実、これは(症状としての愛の根にある)リアルな条件である。la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)


だから父なき世代では愛のデフレがある。


現代的女性は、男を対象aにする。彼女は男に言う、あなたは単なる享楽の手段に過ぎないと。これは、協力し合って、愛のデフレをもたらしている。La femme moderne tend aujourd'hui à faire de l'homme un objet a. Elle lui dit tu n'es qu'un moyen de jouissance. Cela va de pair avec une certaine dévalorisation de l'amour.. (J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018)


愛が症状という意味は、愛は対象aの隠喩あるいは見せかけということ。


愛は隠喩である。われわれが隠喩を「代理」として識別する限りで。l’amour est une métaphore, si tant est que nous avons appris à l’articuler comme une substitution  (Lacan, S8, 30  Novembre 1960)

愛自体は見せかけに宛てられる [L'amour lui-même…s'adresse du semblant]。…このイマジネール[i-maginaire]な見せかけとは、欲望の原因としての対象aを包み隠す自己イマージュの覆い[l'habillement de l'image de soi  qui vient envelopper l'objet cause du désir]の基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973、摘要訳)


要するに前回示したように《愛について語ることができるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。》ーー愛のヴェールのマテームは、i(a) 。




想像界から来る対象、自己イマージュによって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。c'est un objet qui vient tout de même de l'imaginaire, c'est un objet qu'on met en valeur à partir de l'image de soi, c'est-à-dire de la théorie du narcissisme, l'image de soi chez Lacan, s'appelle i de petit a.(J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un   - 09/03/2011)


より厳密に言えば次の通り。


「享楽の対象」は、「防衛の原因」かつ「欲望の原因」としてある。というのは、欲望自体は、享楽に対する防衛の様相があるから。l'objet jouissance comme cause de la défense et comme cause du désir, en tant que le désir lui-même est une modalité de la défense contre la jouissance 〔・・・〕


享楽の対象[l'objet jouissance]は幻想においていかに隠蔽されるか。とくにそれが愛の様相[la modalité de l'amour]となる時に。〔・・・〕

享楽の対象が幻想において隠蔽される二つの様相がある[il y a deux modes sous lesquels l'objet jouissance peut être caché dans le fantasme]。一方はi (a) の下、他方は「大文字の他者[l'Autre]」の下である。この二つの関係は想像界と象徴界である。そして現実界の審級にある欲動の享楽対象[l'objet jouissance de la pulsion]が底部にある。(J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 3 MAI 1989)





繰り返せば《父は症状 le père est un symptôme》(Lacan , S23, 18 Novembre 1975)であり、《症状は隠喩 le symptôme est métaphore  》(J.-A. MILLER, L'ÊTRE ET L'UN, 09/03/2011)であり、《愛は隠喩 l’amour est une métaphore, (Lacan, S8, 30  Novembre 1960)である。


別の言い方をすれば、愛とはヒステリー 女によって支えられていた。


「ヒステリー女が欲するものは何か? ……」、ある日ファルスが言った、「彼女が支配するひとりの主人である」。深遠な言葉だ。ぼくはいつかこれを引用してルツに言ってやったことがあったが、彼は感じ入っていた。 (ソレルス『女たち』)

ヒステリーの欲望は、父の欲望の支えになることだ。le désir de l'hystérique, c'est de soutenir le désir du père   (Lacan, S11, 29  Janvier  1964)

実にひどく奇妙だ、フロイトが指摘しているのを見るのは。要するに父が最初の同一化の場を占め[le père s'avère être celui qui préside à la toute première identification]、愛に値する者[celui qui mérite l'amour]だとしたことは。


これは確かにとても奇妙である。矛盾しているのだ、分析経験のすべての展開は、母子関係の第一の設置にあるという事実と[tout ce que le développement de l'expérience analytique …établir de la primauté du rapport de l'enfant à la mère.  ]…


父を愛に値する者とすることは、ヒステリー者の父との関係[la relation au père, de l'hystérique]における機能を特徴づける。我々はまさにこれを理想化された父[le père idéalisé]として示す。(Lacan, S17, February 18, 1970)


父なき時代には女が享楽女になってしまう傾向にある。したがって愛のデフレが起こる。でも日本のような特殊の国ではヒステリー女がまだまだたくさんいるね、悪い意味では決してなく。ツイッターなんか覗くとつくづくそう思うよ、


男のほうはどうなのか。父なき世代の男、父の隠喩なき世代の男は。


ボクは自ら以外の男の一般論についてはあまり興味なく詳しくないが、ここではこう引用しておこう。

父の隠喩は母を女に変える。La métaphore paternelle transforme la mère en femme…


(隠喩なき)父の機能は(隠喩とは反対に)女を母にするように見える。La fonction paternelle semble alors faire (contrairement à la métaphore) d’une femme une mère. (Sylvette PERAZZI , LES TROIS PERES ou la fonction paternelle, 2019)


quoad matrem(母として)、つまり女というものは、母として以外には性関係へ入ることはない。quoad matrem, c'est-à-dire que La femme n'entre en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que la mère (ラカン, S20, 09 Janvier 1973)

男は女になど興味ない、母がいなかったら[un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère. ](ラカン、Conférences aux U.S.A, 1975)







2020年12月29日火曜日

愛の迷宮文献X

 


私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。On aime celui ou celle qui recèle la réponse, ou une réponse, à notre question : « Qui suis-je ? » 〔・・・〕

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。すなわちあなたは彼もしくは彼女がいなくて寂しいということである。Pour aimer, il faut avouer son manque, et reconnaître que l'on a besoin de l'autre, qu'il vous manque. qu'il vous manque.

自らを完全だと思う者、あるいはそう欲する者は、愛することを知らない。時に彼らは痛みをもってこれを確かめる。彼らは巧みに操る、愛の糸を引く。しかし彼らは愛のリスクも愛の喜びも知らない。Ceux qui croient être complets tout seuls, ou veulent l'être, ne savent pas aimer. Et parfois, ils le constatent douloureusement. Ils manipulent, tirent des ficelles, mais ne connaissent de l'amour ni le risque, ni les délices. 


ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。« Aimer, disait Lacan, c'est donner ce qu'on n'a pas. » Ce qui veut dire : aimer, c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre. Ce n'est pas donner ce que l'on possède, des biens, des cadeaux, c'est donner quelque chose que l'on ne possède pas, qui va au-delà de soi-même. Pour ça, il faut assumer son manque, sa « castration », comme disait Freud. 


そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。もし彼が自らの滑稽さになすがままになったら、実際のところ、自らの男性性についてまったく確かでなくなる。Et cela, c'est essentiellement féminin. On n'aime vraiment qu'à partir d'une position féminine. Aimer féminise. C'est pourquoi l'amour est toujours un peu comique chez un homme. Mais s'il se laisse intimider par le ridicule, c'est qu'en réalité, il n'est pas très assuré de sa virilité. (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)



➡︎「四種類の去勢



フロイトが Liebesbedingung と呼んだもの、つまり愛の条件、ラカンの欲望の原因がある。これは固有の徴ーーあるいは諸徴の組み合わせーーであり、愛の選択において決定的な機能をもっている。Il y a ce que Freud a appelé Liebesbedingung, la condition d’amour, la cause du désir. C’est un trait particulier – ou un ensemble de traits – qui a chez quelqu’un une fonction déterminante dans le choix amoureux.  (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)




忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour  (Lacan, S9, 21  Mars 1962)


フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質でもって他者を愛しているということである。〔・・・〕つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。Il s'agissait de ce dont nous parle FREUD, à ce niveau de l'Introduction au narcissisme, à savoir : que nous aimons l'autre de la même substance humide qui est celle dont nous sommes le réservoir, qui s'appelle  la libido […] c'est-à-dire environnant, noyant, mouillant l'objet d'en face. La référence de l'amour à l'humide n'est pas de moi, elle est dans Le Banquet que nous avons commenté l'an dernier.  

愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……愛の彼岸にある残滓としての何ものか、ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体に転移させるときにでもやはりそうなのである。Moralité de cette métaphysique de l'amour… l'élément fondamental de la Liebesbedingung, de la condition de l'amour … ce qui s'appelle aimer,[…] ce qu'il y a comme reste au-delà de l'amour, donc ce qui s'appelle aimer d'une certaine façon …je n'aime que mon corps, même quand cet amour,  je le transfère sur le corps de l'autre. (ラカン, S9, 21 Février 1962)


➡︎身体の享楽=享楽自体


愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon, Les labyrinthes de l'amour ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)


➡︎「固着のない主体はない



愛することは欲望することである、対象がファルスの価値をもつ限りで。すなわち欲望の核は欠如のシニフィアンである。


- Aimer, c'est désirer, en tant que l'objet a la valeur du phallus - soit le signifiant du manque au cœur du désir. 


愛することは愛されたいことである。探し求められるのは「あなたが私を愛するために私はあなたを愛する」というナルシシズム的愛ではそれほどない。そうではなく、私はあなたの中の欠如に出会うということである。その欠如の場に、私の存在の愛を置くことである。


- Aimer, c'est vouloir être aimé. Ce qui est recherché n'est pas tant l'amour narcissique qui serait : je t'aime pour que tu m'aimes, mais : je rencontre en toi le manque où loger mon amour d'être. 


愛の対象はまた対象aを含んでいなければならない。というのは、愛することは享楽の意志だから。

- L'objet de l'amour doit aussi inclure l'objet α, puisqu'aimer c'est vouloir jouir de. (David Halfon, Les labyrinthes de l'amour ーーAMOUR, DESIR et JOUISSANCE, Novembre 2015)



……………………



人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。〔・・・〕愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い[rencontre au hasard]》がある。


しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動機械(愛のオートマトン [l' automaton de l'amour])である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebesbedingung》と呼んだ。〔・・・〕


偶然の出会いは、主体が恋に陥る必然の条件を現実化する[La rencontre contingente réalise ici les conditions nécessaires à l'énamoration du sujet.]。


私はあなた方に愛の自動機械の一般的定式を三段論法の形で提案しよう。精神分析における愛の三段論法である[Je vous proposerai une formule générale de l'automaton amoureux sous la forme d'un syllogisme. Ce sera le syllogisme de l'amour dans la psychanalyse.]

われわれはフロイトの仮説から始める。


①主体にとっての根源的な愛の対象がある[ pour un sujet il y a un objet aimable fondamental,]

②愛は転移である[l'amour est transfert]

③後のいずれの愛も根源的対象の置換である[tout objet d'amour ultérieur ne sera qu'un déplacement de cet objet fondamental. ]


我々は根源的愛の対象を[a]と書く。その愛の対象の質は、属性[A]によって示される。[Aa]の意味は、対象aは愛すべき属性を持っているということである。主体が[a] に似た対象xに出会った時、すなわち[x ≡ a]の時、対象xは愛すべき[Ax]とみなされる。[Ecrivons a l'objet aimable fondamental. Sa qualité d'être aimable est désignée par le prédicat A. Aa veut dire que cet objet a a la propriété d'être aimable. Si le sujet rencontre un objet x, qui ressemble à a, soit (x ≡ a), alors l'objet x est considéré comme aimable, Ax.]


精神分析作業は何に関わるのか? 対象a と対象x とのあいだの類似性、あるいは類似性の顕著な徴に関わる。これは、男は彼の母と似た顔の女に惚れ込むという考え方だけには止まらない。


しかし最初のレベルにおいては、類似性のイマジネールな徴が強調される。この感覚的徴は、一般的な類似性から極度に局限化された徴へ、客観的な徴から主体自身のみに可視的な徴へと移行しうる。


そして象徴秩序に属する別の種類の類似性の徴がある。それは言語に直接的に基礎を置いている。例えば、「名」の対象選択を立証づける精神分析的な固有名の全審級がある。さらに複雑な秩序、フロイトが『フェティシズム』論文で取り上げた「鼻のつや Glanz auf der Nase」--独語と英語とのあいだ、glanz とglanceとのあいだの翻訳の錯誤において徴示的戯れが動きだし、愛の対象の徴が見出されるなどという、些か滑稽な事態がある。


類似性の三番目の相は、ひょっとして、より抽象的かもしれないが、愛の対象と何か他のものとの関係に関わる。すなわち主体は、対象x ーー彼が根源的対象ともった同じ関係の状況のもとの対象xに恋に陥ることがありうる。あるいはさらに別の可能性、対象x が彼自身と同じ関係にある状況。


フロイトは見出したのである、「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。


例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択である。あるいは母や父、あるいは家族のメンバーが主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(J.-A. Miller, 「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992年, 摘要訳)






愛の理論における別の題目は、愛する者と愛される者とのあいだにおいて、非対称性があることである。〔・・・〕


何よりもまず次のことを学ぼう。すなわち「愛する」とは「欠如している」という意味である。私は愛される者を(+)記号、愛する者を(-)記号にて徴す。事実上、ここで愛の理論に去勢が導入される。


精神分析学的な愛の理論は、第一に愛の自動機械であり、第二に愛における去勢を意味する。去勢は愛する者の側にあり、相補的にファルスは愛される者の側にある[la castration est du côté de l'amant, et corrélativement le phallus est du cole de l' aimé. ]。


愛する者をȺと記そう。そしてファルスの意味作用を去勢( -φ)にて記す。愛する者は去勢されている。この理由で、古来からの知恵は愛は女たちのものだとする。


どちらのパートナーも欠如していないという関係はまったく考えられない。男性の同性愛でそれは起こる。女性における同性愛は男性の同性愛とはまったく異なった形で構成されている。女性の同性愛は、愛の審級にある。男性の同性愛は欲望の審級にあり、愛からは完全に分離している[Du côté femme , elle se constitue dons le registre de l'amour ; du côté homme, dons le registre du désir, et, à l'occasion, tout à fait séparée de l'amour, ]


リーベ Liebe は、愛と欲望の両方をカバーする用語である。ではなぜここで愛と欲望を区別するのか。その理由は、次のパラドクスがあるからである。他者を愛することは、他者をファルスとして構成する。しかし他者から愛されたい望むこと、すなわち愛される者を愛する者にしたいと望むことは、他者を去勢することである[aimer l'autre, c' est le constituer comme phallus, mois vouloir être aimé par lui, c' est-à -dire vouloir que l'aimé soit aimant, c'est le châtrer. ]


ラカンは女性の愛の生を次のように分析した。女は男をファルスとして構成する一方で、密かに男を去勢していると。そして男の場合は二つの機能は分離する、あるいは分離する傾向があると考えた。すなわち愛される女と欲望される女。そして後者はファルスの意味作用を持つ。


愛する者と愛される者との関係において、本質的な問題は、愛する者は愛される者に欠如をもたらそうとすることである。これはまさにヒステリーの形式である。何がこの作用の土台となっているのか。まったくシンプルに愛の要求である。愛の要求は、その要求が愛されたいという要求である限りで、大他者に自らの欠如の露顕を促す要求である。


愛の理論における去勢の包含は、ナルシシズム的愛とアタッチメント的愛のあいだのフロイトの区別のようにさまざまな非対称的構築を生む。ナルシシズム的愛は自己愛にかかわる。アタッチメント的愛は大他者への愛である。ナルシシズム的愛は想像界の軸にあり、依存的愛は象徴界の軸にあり、この場で去勢が作用する。


ここで愛と欲動のあいだの相違が明らかになる。なぜフロイトは欲動用語を発明したのか。なぜなら愛の要求とは関係がない要求をする主体類型があるからである。沈黙しているにもかかわらず不屈の要求、大他者を標的にしない要求、大他者のなかの欠如を標的にしない要求。それは絶対的条件としての要請である。


たとえばフェティシズムの倒錯である。この倒錯において、女性が欠如しているか否か、ハイヒールを履いた女が欠如に応じるか否をを知ることは問いではない。享楽しうる対象の現前が主体の欲動要求である。倒錯者は彼の対象の沈黙を楽しむ。


愛の迷宮を為すものは、三つの水準の密接な関係である。第一に、愛することが欲望することである限り、対象はファルスの意味作用を持たなければならない。第二に、愛することが愛されたいという要求である限り、Ⱥの価値を持たなければならない。第三に、愛することが享楽する意志である限り、対象aの価値を持たなければならない。対象は、欲望・要求・欲動のなかに同時に位置づけられる。愛の生の迷宮は、この三つの水準の分節化の事実にある。時に統合され、時に分離される。ここに恒久不変性があり、あそこに儚さがある。時に純粋で、時に混淆されている。これが、愛の生において遭遇する無限の変様性をわれわれにもたらす。


Ce qui fait labyrinthe, c'est l'implication des trois niveaux. L'objet doit avoir la signification du phallus, en tant qu'aimer, c'est désirer. Il doit aussi avoir la valeur de Ⱥ en tant qu'aimer est une demande d'être aim. Et il doit aussi avoir la valeur a, en fant qu'aimer, c'est vouloir jouir de. Il faut que l'objet soit à la fois situé dans le désir, la demande, et la pulsion. Les labyrinthes de la vie amoureuse sont faits de l'articulation de ces trois niveaux, parfois réunis, parfois séparés, ici permanents, là transitoires, tantôt purs tantôt mixtes. C'est ainsi que l'on obtient la variété infinie qui se rencontre dans la vie amoureuse.(J.-A. Miller, 「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992年, 摘要訳)


ーーこの1992年の段階でミレールが示しているȺは、ミレールが後年示すようになった、ラカンの本来のȺ(穴)とは異なるので注意。➡︎「欠如と穴」。


さらに《男性の同性愛は欲望の審級にあり、愛からは完全に分離している》とは、違和感を抱く人もいるだろう。私も保留したい。➡︎ 「標準的女性と男性の同性愛者における「エディプス的母との同一化」」。


とはいえミレールの言いたいのは次の内容である。


問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。


ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、欲望の原因である。それは愛の対象ではない。


愛について語ることができるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。


この理由で、男性の同性愛の事例について議論することが可能である、男性の同性愛とは「愛」と言えるのかどうかと。他方、女性の同性愛は事態が異なる。というのは、構造的理由で、女性の同性愛は「愛」と呼ばれるに相応しいから。どんな構造的理由か? 手短かに言えば、ひとりの女は、とにかくなんらの形で、ほかの女たちにとって大他者の価値をもつ。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)


➡︎享楽の対象




➡︎「ファルスの意味作用と残滓




フロイトの愛(リーベ)は、愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない。il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

現実界は穴=トラウマを為す。[le Réel…ça fait « troumatisme »](ラカン, S21, 19 Février 1974)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)

死は愛である [la mort, c'est l'amour.] (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)


享楽は現実界にある [la jouissance c'est du Réel]。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


リビドーは、穴に関与せざるをいられない。La libido, …ne peut être que participant du trou.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

リビドーは愛の欲動である。Libido ist… Liebestriebe(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)

究極的には死とリビドーは繋がっている。finalement la mort et la libido ont partie liée (J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)

享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)

死は享楽の最終形態である。death is the final form of jouissance(PAUL VERHAEGHE,  Enjoyment and Impossibility, 2006)



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愛することと滅びることとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意欲することである。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる。Lieben und Untergehn: das reimt sich seit Ewigkeiten. Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode. Also rede ich zu euch Feiglingen! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』  第2部「無垢な認識」1884年)




悦の迷宮 Labyrinth der Lust




ディオニュソス)私はあなたの迷宮だ。[Dionysos: Ich bin dein Labyrinth...](ニーチェ『アリアドネの嘆き』Klage der Ariadne)1887年秋)

ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない。…[Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ](ニーチェ、1887年秋遺稿)


悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)

すべての悦は永遠を欲する、ーー深い、深い永遠を欲する!

alle Lust will Ewigkeit »will tiefe, tiefe Ewigkeit!«(ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第12節、1885年)

完全になったもの、熟したものは、みなーー死を欲する![Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第9節)



──おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか」

- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?" 

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」)