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2020年1月31日金曜日

私のすきなもの


ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った 
それはぼくが二十才のとき 
死なせたシナの少女に似ている

ーー吉岡実「恋する絵」


すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。(夏目漱石『夢十夜』)

坂を上つて行く 女の旅人
突然後を向き
なめらかな舌を出した正午

ーー西脇順三郎「鹿門」

ぼくのすきなもの  女、百合
ぼくのきらいなもの 女、薔薇

私のすきなもの
ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ているとき。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨のとげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪(吉岡実〈私の好きなもの〉1968年)



ぼくの好きだったこと
底冷えのする冬の午後
革コートの匂いに包まれたまま
イノダ三条店のカウンターに座り
ダビドフシガリロふかしながら
向かいの気取った女を観察すること
自分の気取りには気づかないままで





ぼくのきらいもの
アタシには媚びはありませんという女


春雨や人の言葉に嘘多き 吉岡実



私のすきなもの/私のきらいなもの
《私の好きなもの J'aime》、サラダ、肉桂、チーズ、ピーマン、アーモンドのパイ、刈った干草の匂い(どこかの「鼻〔調香師〕」がそんな 香水をつくってくれるといいのだが)、ばらの花、しゃくやくの花、ラヴェンダー、シャンパン、政治的には軽い立場、グレン・グールド、よく冷えたビール、 平らな枕、焼いたパン、ハヴァナの葉巻、ヘンデル、適度の散歩、梨、白桃あるいは樹墻による保護なしで仕立てた桃、桜んぼ、絵具、腕時計、万年筆、ペ ン、アントルメ、精製していない塩、リアリズムの小説、ピアノ、コーヒー、ボロック、ドウンブリー、ロマン派の音楽いっさい、サルトル、ブレヒト、ヴェルヌ、フーリエ、エイゼンシュテイン、列車、メドックのワイン、ブーズィー、小づかいを持っていること、『ブヴァールとペキュシェ』、サンダルばきで南西部地方の裏通りを晩に歩くこと、L博士の家から見えるアドゥール河の湾曲部、マルクス・ブラザーズ、サラマンカから朝の七時に出発するときにたべたセルラーノ[スペイン風のハム]など。

《私の好きでないもの Je n'aime pas》、白いルルー犬、パンタロンをはいた女、ゼラニウム、いちご、クラヴサン、ホアン・ミロ、同義語反復、アニメーション映画、アルチュール・ルビンシュタイン、ヴィラ、午後、サティ、バルトーク、ヴィ ヴァルディ、電話をかけること、児童合唱団、ショパンの協奏曲、ブルゴーニュのブランスル(古い、きわめて陽気な、輪になっておどるダンス)、ルネッサンス期のダンスリー、オルガン、M-A・シャルパンティエ、そのトランペットとティンパニー、政治的=性的なものごと、喧嘩の場面、率先して主導すること、 忠実さ、自然発生性、知らない人々と一緒の夜のつき合い、など。

《私の好きなもの、好きではないもの J’aime, je n'aime pas》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。というわけで、好き嫌いを集め たこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象 figure d'une énigme corporelleである。ここに、身体による威嚇 l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽jouissanceないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。

(一匹の蝿が私に腹を立てさせる、 私はそれを殺す。人は、腹を立てさせる相手を殺す。もし私がその蝿を殺さなかったとしたら、それは《ひとえに自由主義のため》であっただろう。私は、殺人者にならずにすますために、自由主義者である。)(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)



ぼくが好きだったもの
目黒とんきのじいさんばあさん





18歳のときには銭湯帰りに週一は行った

小柄で痩せたばあさん死んじまったのか
写真はウエブには落ちていない

根津に引越したあと
しばらくぶりに女友達同伴で行ったら
ばあさんとっても喜んだ



たしか去年か一昨年か、詩人の盛大な出版記念会か何かの時、会場にあまりにも《詩人》が多すぎるという入沢さん独特の意地悪な冗談の気分がぴったりで、二次会には参加せず、会場近くの、それこそ平板で平明な照明と外に面した大きなガラス窓のある喫茶店で、入沢さんと吉岡さん、それに私と姉と四人でコーヒーを飲んで雑談をし、吉岡さんとの雑談のなかでは、いつでも「何か最近おもしろい本はない? 教えてよ」という質間を受けることになっているのだが、その時もそう聞かれ、『ロリータ』はむろんお読みでしょうが、ナボコフを最近まとめて読んだと姉が答え、入沢さんは『セバスチャン・ナイトの生涯』は実に面白い小説だったと言い、私たちはそれにうなずき、あれは一種目まいのするような陰惨で滑稽な小説である、と誰かが言うのだが、吉岡さんの反応は違う。

ナボコフ? ああ、『ロリータ』ね。前に一度読みかけたけれど、あれは訳文がとんでもない悪文だろ?

でも、それをこえちゃって、いかにも詩人でもあった作者の豊かなイマジネーションで出来た言葉の小説で、吉岡さんはお好きだと思う、とまた誰かが答える。すると、詩人は、身を乗り出すようにして眼を大きく見開きーー自分の言葉と言うか、あらゆる開かれた、外の言葉というものに対する貪欲な好奇心をむき出しにする時、この詩人は身を乗り出して眼を大きく見開くのだがーーロリータねえ、うーん、ロリコンってのは今また流行っているんだってね、と言って笑うのだが、吉岡さんとは長いつきあいではあるけれど、いつも、このての、普通の詩人ならば決して口にはしない言葉、ロリコンといったような言葉を平気で使われる時――むろん、私はロリータ・コンプレックスと、きちんと言うたちなのだーーいわば、自分の使い書いている言葉が、ロリコンという言葉の背後に吉岡実の「詩作品」という、そう一つの宇宙として、それを裏切りつつ、しかし言葉の生命を更新させながら、核爆発しているようなショッキングな気分にとらえられる。吉岡実は、いや、吉岡さんはショッキングなことを言う詩人なのだ。

また別のおり、これは吉岡さんの家のコタツの中で夫人の陽子さんと私の姉も一緒で、食事をした後、さあ、楽にしたほうがいいよ、かあさん、マクラ出して、といい、自分たちのはコタツでゴロ寝をする時の専用のマクラがむろんあるけれど、二人の分もあるからね、と心配することはないんだよとでも言った調子で説明し、陽子さんは、ピンクと白、赤と白の格子柄のマクラを押入れから取り出し、どっちが美恵子で、どっちが久美子にする? 何かちょっとした身のまわりの可愛かったりきれいだったりする小物を選ぶ時、女の人が浮べる軽いしかも真剣な楽し気な戸惑いを浮べ、吉岡さんは、どっちでもいいよ、どっちでもいいよ、とせっかちに、小さな選択について戸惑っている女子供に言い、そしてマクラが全員にいき渡ったそういう場で、そう、「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しいーー吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だーー家具や食器に囲まれた部屋で、雑談をし、NHKの大河ドラマ『草燃える』の総集編を見ながら、主人公の北条政子について、「権力は持っていても家庭的には恵まれない人だねえ」といい、手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したという湯のみ茶碗で小まめにお茶の葉を入れかえながら何杯もお茶を飲み、さっき食べた鍋料理(わざわざ陽子さんが電車で買いに出かけた鯛の鍋)の時は、おとうふは浮き上がって来たら、ほら、ほら、早くすくわなきゃ駄目だ、ほら、ここ、ほらこっちも浮き上がったよ、と騒ぎ、そんなにあわてなくったって大丈夫よ、うるさがられるわよ、ミイちゃん、と陽子さんにたしなめられつつ、いろいろと気をつかってくださったいかにも東京の下町育ちらしい種類も量も多い食事の後でのそうした雑談のなかで、ふいに、しみじみといった口調で、『僧侶』は人間不信の詩だからねえ、暗い詩だよ、など言ったりするのだ。

もちろん、たいていの詩人や小説家や批評家はーー私も含めてーー人間不信といった言葉を使ったりはしない。

なぜ、そうした言葉に、いわば通俗的な決まり文句を吉岡さんが口にすることにショックを受けるのかと言えば、それは彫刻的であると同時に、生成する言葉の生命が流動し静止しある時にはピチピチとはねる魚のように輝きもする言葉を書く詩人の口から、そういった陳腐な決り文句や言葉が出て来ることに驚くから、などという単純なことではなく、ロリコンとか人間不信といった言葉、あるいは、権力は持ったけれど家庭的には恵まれなかった、といった言い方の、いわばおそるべき紋切り性、と言うか、むしろ、そうではなくあらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性が、そこで、残酷に、そしてあくまで平明な相貌をともなう明るさの中で、あばきたてられてしまうからなのだ。吉岡さんは、いつも、それが人工的なものであれ、自然なものであれ、平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう。(「「肖像」 吉岡実とあう」ーー『現代の詩人「吉岡実」(中央公論社1984)』所収)



四人の僧侶
畑で種子を播く
中の一人が誤って
子供の臀に蕪を供える
驚愕した陶器の顔の母親の口が
赭い泥の太陽を沈めた
非常に高いブランコに乗り
三人が合唱している
死んだ一人は
巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

ーー吉岡実「四人の僧侶」


或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をする。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなければ、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)

砕かれたもぐらの将軍
首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地
姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根
朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼
軍艦は砲塔からくもの巣をかぶり
火夫の歯や爪が刻む海へ傾く
死児の悦ぶ風景だ
しかし母親の愛はすばやい
死児の手にする惨劇の玩具をとりあげる

ーー吉岡実「死児」




象徴界はフェティッシュ


自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」1883年)
真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)




・・・気持ちはわからないことはないよ、ジジェク信者の方にとっては。でも真の愛は信者から逃れることによって初めて始まる。

だいたいジジェクはいくつかのセミネールをのぞいては、それほどラカンを読んでいないようにみえる。初期ジジェクはおおむねミレールのパクリ、ーー《私はきわめて率直に言わなければならない、私のラカンはミレールのラカンだと。I must say this quite openly that my Lacan is Miller's Lacan》(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)。

最近の著書だったら、これこれのラカン文を、ジュパンチッチやらだれやらに教えられたとかしばしば言ってんだから。ジジェクはヘーゲル読んだり政治にかかわったりとっても忙しいんだからしょうがない。

たとえばフェティッシュ。自我がフェティッシュだったら、象徴界だってフェティッシュだよ。ごくごくカンタン版を示しておこう。


大他者は存在しない
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
言語は存在しない(象徴界は存在しない)
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。

il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン, S25, 15 Novembre 1977)


象徴界は存在しないとは、象徴界は仮象にすぎないということ。

見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)


以下、ヴァリエーション。

クリスティヴァはこう言っている(彼女は晩年のラカンの講義に出席していた)。

言語はフェティッシュである
言語は、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリステヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)

ようするにクリステヴァの表現の仕方なら「象徴界はフェティッシュ」となる。これは冒頭に掲げたラカンのいくつかの発言の変奏であり、極めて正当的な叙述である。

余談:旦那のソレルス曰く、あんなに頭がいい女は見たことがない。
余談:すごい情熱女(記憶で書いていますから間違っていたらゴメンナサイ)

余余談:「私は、数時間とか、せいぜいとても僅かな間の結婚に賛成なのです。ほとんど誰のためでもないような。」(フィリップ・ソレルスへのインタビュー、2017  8  28 日、阿部静子)

ヒドイ男だな、ボクは3日間ぐらいの結婚が好みです。
それ以上続けたら死が待っています。


世界は女たちのものである。
つまり死に属している。
Le monde appartient aux femmes.
 C'est-à-dire à la mort.(ソレルス『女たち』)


話を戻して、26歳のニーチェも引用しておこう。

言語はレトリックである
言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。なぜなら言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないから。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen, 1871年)

ニーチェの言い方なら「象徴界はレトリック」となる。

ラカンが唯一あるとするララング(母の言葉)はちょっとムズカシイからここではやめとくよ(参照:ララング定義集)。ま、でもララング lalangue とはなによりもまず「ものとしての言葉」のことで(母親が幼児を世話するときに使う喃語 lallation が起源)ーー現代ラカン派が使用する語なら「言葉の物質性 motérialité」ーー、その代表的なものは音調。


言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。…

事物 Dingen に名と音調 Namen und Töne が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音調 Töneを発してことばを語るということは、美しい狂宴 schöne Narrethe である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部、1885年)





◼️付記

ジャン=クロード・ミルネールーー論理的ラカン派の重鎮でジジェクとも親しいーーは次のように言っている。

近代科学にとって……、自然は、科学の数学的公理の正しい機能に必要であるもの以外にはどんな感覚的実体もない。…

近代科学は…対象の数学化を要求する。それは対象が数学的本質であることを要求しない。したがって対象が永遠・完璧であることを要求しない。……むしろ、反対に、数学化の手段によって、対象の把握を目指す。数学化において、対象はそれ自体と異なることもありうる。対象は、実験上の、偶然的・反復的、したがって一時的な性質をもちうる。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002)


これは、科学が扱う記号は仮象だと言っているわけで、次のラカンの変奏。

物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない c'est que
c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire(ラカン、S16、20 Novembre 1968)
分節化ーー見せかけ(仮象 semblant) の代数的 algébrique分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これがリアル réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何がリアル réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。

科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく。

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能がリアル cet impossible c'est le réel である。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、リアルle réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971)

ーージジェクはたとえばこのセミネール18の文をジュパンチッチに教えられたと2012年に記しており、そこから「リアルは象徴界の非全体」だとする長年の観点の裏付けのひとつにしている。だがこの不可能=リアルからもうひとつの別のリアルにアンコール以後ラカンは転回したのは前回記した通り。

でもこれ自体、既に類似した思考がニーチェにある(他の思想家にもたぶんあるのだろうけどボクはニーチェしか知らない。もちろん最近であれば「数学はレトリック」という意味合いのことを言った柄谷(『隠喩としての建築』)や、中井久夫も似たようなことを言っている(医学・精神医学・精神療法とは何か」)のでしろ常識なのかもしれないけど)。


論理学は存在しない・数学は存在しない
論理学は、現実の世界にはなにも対応するものがないような前提、たとえば同等な物があるとか、一つの物はちがった時点においても同一 であるというような前提にもとづいている。

Auch die Logik beruht auf Voraussetzungen, denen nichts in der wirklichen Welt entspricht, z.B. auf der Voraussetzung der Gleichheit von Dingen, der Identität des selben Dinges in verschiedenen Punkten der Zeit:

…数学についても同じことがいえる。もしひとがはじめから厳密には直線も円も絶対的な量もないことを知っていたら、数学は存在しなかっただろう。

Ebenso steht es mit der Mathematik, welche gewiss nicht entstanden wäre, wenn man von Anfang an gewusst hätte, dass es in der Natur keine exakt gerade Linie, keinen wirklichen Kreis, kein absolutes Größenmaß gebe.(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』1-11、1878年)
科学は存在しない
・科学が居座っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht

・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung

・我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)





2020年1月30日木曜日

自我のしかめ面


ボクはジジェクが好きだからな
悪口いうつもりはないさ
たぶん居心地がよくなるよ、
彼のそばで話をきいていたら。
なぜそう思うのかってーー、
さあてね
親しいおじさんってのかな
(おじさんというほど齢が離れているわけじゃないけど兄貴ではないな)
その奮闘ぶりがユーモアに感じられるってのかな

ラカンやらミレールやらなんてのはきらいだね
でもジジェクの書ではじめてしった
ラカンの「しかめ面」という表現はずっとお気に入りだな、


「現実界の顰め面」としての現実
じつは、この世界は思考を支える幻想 fantasme でしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、現実界の顰め面 grimace du réel として理解されるべき現実である。

…alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.(ラカン、テレヴィジョン Télévision、AE512、Noël 1973)
「現実の顰め面」としての現実界
現実の顰め面としての現実界 the real as a "grimace" of reality(ジジェク 『斜めから見る』1991年)

ジジェクは1991年から首尾一貫してるのさ
ようするに象徴界からみた現実界ひとすじってわけだ
2012年だったらこうだ

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体[the non‐All of the symbolic]である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰り[the Real is an impasse of formalization]だから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ[the Real is nothing but an impasse of formalization]。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体以外の何ものでもない[The Real is nothing but the non‐All of formalization](ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)


この文のリアルの定義は間違っているというわけじゃない
アンコール1973年3月までのラカンの現実界の定義だ

現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)

ジジェクはこの定義に凝り固まっているから
テレヴィジョン 1973年12月のしかめ面を「修正」したんじゃないか
きっと気をきかせて

ところでラカンはアンコール1973年5月の講義でこういうんだ

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)

なんだい、これ?
またわけわかんないこといってんな
無視しとこって具合になるよ
リアルは形式化の袋小路ってのを信奉してたら

でも本当はアンコールの3月と5月のあいだに裂け目があるんだな
象徴界から現実界をさぐったラカンから、
現実界は象徴界に先だつとするラカン
つまり象徴界は現実界に対する防衛として捉えるラカンへの転回
こう捉えないと「人はみな妄想する」はイミフだよ

フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1979)


ミレールはこういっている。

すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)


たとえばラカンはアンコール以後、次のようにいう。

症状は現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン, La Troisième, 1974)
現実界は書かれることを止めない。le Réel ne cesse pas de s'écrire.(ラカン, S25, 10 Janvier 1978)

というわけでミレールは次のようにいう。

書かれることを止めないもの un ne cesse pas de s'écrire。これが現実界の定義 la définition du réel である。…

書かれぬことを止めないもの un ne cesse pas de ne pas s'écrire。すなわち書くことが不可能なもの impossible à écrire。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である。le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse,  11 février 2009)

書かれることを止めないもの
書かれぬことを止めないもの

「書かれぬ」のほうはアンコールまでのラカンの現実界の定義

私の定式: 不可能性は現実界である ma formule : l'impossible, c'est le réel. (Lacan, RADIOPHONIE、AE431、1970)
不可能性:書かれぬことを止めないもの Impossible: ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire (Lacan, S20, 13 Février 1973)        
テュケーtuchéの機能、出会いとしての現実界の機能 fonction du réel ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » である。(ラカン、S11、12 Février 1964)

書かれぬことを止めないものとの偶然の出会いから、
書かれることを止めないものへとラカンは転回したってわけだ

ボクはやっと2年ぐらい前に気づいたよ
ちょっと遅くなっちまったな、
ジジェクの「おかげ」でね。

「まぁ、世界とはその程度のものです」(蓮實重彦)

ジジェクにかぎらずほとんどあらゆる書き手はその程度のものさ
エラそうになにやらいってる連中はとくにそうだな
一番大事な教訓はこれだな


ミレール は次のフロイト文が「後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan 」だと繰りかえし強調している。

欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


たとえばミレール は次のようにいう。

フロイトにとって症状は反復強迫 compulsion de répétition に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫に見出されると。フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は「行使されることを止めないもにものであるne cesse pas de s'exercer」. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求はリアルな何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un,  - 2/2/2011)

固着による無意識のエスの反復強迫、
これが「書かれることを止めないもの」だ

固着は原抑圧のこと、で固着=原抑圧=穴。
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)「夢の臍 Nabel des Traums 」を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


ここで最近知ったゲガーンによるボクのお気に入りの文を挿入しておこう。彼はミレール 派のたぶんナンバースリーぐらいのポジションにいるのだろうけど、ちょっとした芸術派で一番まともなタイプだな、ジュネやらアルトーやらに触れるとかして。

ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)

いまはこの文のみで漠然と示しておくだけにするけど
これはフロイトラカン理論のエッセンスみたいなもんだよ、
ボクにいわせればね。

さて話をカンタン系に戻せば、
ようは「書かれることを止めない」ってのは欲動の現実界
そしてこれが享楽

享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
現実界は書かれることを止めない。le Réel ne cesse pas de s'écrire.(ラカン, S25, 10 Janvier 1978)

だから「享楽は書かれることを止めない la jouissance ne cesse pas de s'écrire 」だ。

より厳密にいえば「享楽の固着は書かれることを止めない la fixation de jouissance ne cesse pas de s'écrire」だな。

フロイトが固着と呼んだもの…それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)


ところでアンコール以後、女性の享楽は享楽自体になった。

確かにラカンは第一期に「女性の享楽jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


だからこれまた、「女性の享楽は書かれることを止めない la jouissance féminine ne cesse pas de s'écrire」とすることができる。

くりかえせば「書かれることを止めない」=「無意識のエスの反復強迫」

やっぱりまたエスの起源ニーチェに登場していただかなくちゃな。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)

というわけで、「女性の享楽は夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる」
これが蚊居肢流決定版だな

ニーチェ?
ニーチェだってキライさ
彼のもとに訪れたら
きっとひどく居心地が悪くなるね
神経だけが醒めている一種の死の時に訪問するようなものさ

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない[Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年)

ーーおまえは女性の享楽を知っているではないか

人はみな知っているよ
もし「最も静かな時刻」をもつなら。

人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『漂泊者とその影』308番)

たとえばSNSなんてのはこの時間を避けてやり過ごすための道具だな

話を戻せば、自我はエスの顰め面か、エスは自我の顰め面かってのはどっちとも言えないな、
フロイトの死の枕元にあった草稿の「原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたもの」からすれば「自我はエスの顰め面」だろうし、言語の世界に生きるわれわれにはジジェク風の「エスは自我の顰め面」(エスは現実の顰め面)のほうがピッタリくるんじゃないか。それにエスはリアルだけど、リアルのすべてがエスではないとしておきたいね。

女性の享楽は現実の顰め面の「最も静かな時刻」に訪れるよ、ボクの場合。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)


もっともフロイトの「すべては夢だ」を受け入れるなら
夢という現実の顰め面にリアルなエスの奔馬が閃くとしてもいいさ

ストゥディウム studium は、つねにコード化 toujours codéされているが、プンクトゥム punctum は、そうではない。…それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第22章)

エスが「ゆらめく閃光」だって?
そんなことは言ってないよ
ときにそうかもな、ってだけさ

「ゆらめく閃光」ってのは
ボクの脳髄のなかでは
「軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、 神々しいトカゲ」
とセットになってるんだな
これがエスなわけないだろ?
リアルかもしれないけど。

ああなんてステキなニーチェだろう、
海とひめごとをするニーチェは。
ああ「追憶のかすななおののきによってふるえている」なんて。


ほんとうにこの書(『曙光』)は、 岩塊のあいだで日なたぼっこをしている海獣のように、 身をまるめて、幸福そうに、 たっぷり日をあびて寝ころんでいるのだ。 つまるところ、わたし自身がその海獣だったのだ。

この本の一文一文が、ジェノヴァ附近の、 あの岩がごろごろしているところで、 考え出され、生捕りにされたものである、 そのときわたしのそばには誰もいず、 わたしはひとりで海と秘めごとをしていたのだった。wo ich allein war und noch mit dem Meere Heimlichkeiten hatte. 

いまでも偶然この本に手を触れることがあると、 ほとんどその中のすべての箇所がわたしには、 何か類のないものをふたたび深みから引き上げるためのつまみ場所となる。 そしてその引き上げたものの肌全体が、 追憶のかすななおののきによってふるえているのである。seine ganze Haut zittert von zarten Schaudern der Erinnerung.

この本における得意の技術は、 軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、 わたしが神々しいトカゲgöttliche Eidechsenと名づけている瞬間を、 ちょっとのま釘づけにするという、 けっして容易ではない技術であるーー

といっても、あの若いギリシアの神が あわれなトカゲを突き刺したような残酷さでするのではない。 だが、尖ったもので突き刺すことでは、同じだ、 つまりわたしはペンで突き刺すのだ……
「いまだ輝き出でざるあまたの曙光あり」-- このインドの銘文が、この本の扉にかかげられてある。(ニーチェ『この人を見よ』)




最後にこう言っておこう、ラカンの女性の享楽とはニーチェの力への意志のことだと。これに反論するヤツは一瞬にして叩きのめされるコトデセウ・・・

力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...

「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"? ……

――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)

(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebeと呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)