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2020年2月29日土曜日

私が安倍の立場にあったらどう決断すべきか

安倍ゾッコンらしい人が2日前に次のようにツイートしている。




わたくしは反アベ派の気持ちが「まったくは」分からないわけではないがね、でも上のツイートは実に的確だね

で、反アベの「正義の味方」諸君は、どうしたいだろ? きみらの典型的言い草は、上に指摘されている以外は、「子供は感染しても症状が出ないか軽い」から、休校はあまり意味がないってヤツだよな。





反アベ諸君にとっては、一斉休校の「方向性」は間違っているんだろうか? 今、最も重要なのは橋下が繰り返し強調しているピークカット、ピークコントロールだとわたくしは思うがね。

すこし前、橋下徹の「政治的判断は一人の専門家の判断だけに振り回されないもの。複数の専門家と行政マンたちの意見を聞きながら太いロジックを構築する」というツイートを引き合いに出して、次の文を掲げたけれどさ。



主人のシニフィアンとはなにか? 記念すべき第二次世界大戦の最後の段階で、ウィンストン・チャーチルは政治的決定の謎を熟考した。専門家たち(経済的な、また軍事的な分析家、心理学者、気象学者…)は多様かつ念入りで洗練された分析を提供する。誰かが引き受けなければならない、シンプルで、まさにその理由で、最も難しい行為を。この複合的な多数的なものを置換しなければならない。多数的なものにおいては、どの一つの理由にとってもそれに反する二つの理由があり、逆もまたそうだ。それをシンプルな「イエス」あるいは「ノー」ーー攻撃しよう、いや待ちつづけよう…ーーに変換しなければならない。

理屈に全的には基礎づけられえない振舞いが主人の決断である。このように、主人の言説は、S2 と S1 のあいだの裂け目、「ふつうの」シニフィアンの連鎖と「法外-理性外のexcessive」主人のシニフィアンとのあいだの裂け目に依拠する。(ジジェク, LESS THAN NOTHING、2012年)






反アベ諸君も文句いいばっかりやってないで、たまにはチャーチルをやってみることだよ、「私が安倍の立場にあったらどう決断すべきか」ってね。今のままだったら諸悪の根と見なすしかないね、きみたち「反アベ」を。穏やかにいえば「左翼という道化師」だな。




2020年2月28日金曜日

カリマの女

あ あなたでしたか 昨夜ぼくを撫でていたひと
すみません 忘れてしまって

--大岡信「うたのように 2」


大体私は女ぎらいというよりも、古い頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思っているにすぎない。 女性は劣等であり、私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。 事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。

また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。 こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な女性に会ったことがない不幸な男である、 という風に曲解して、私に同情を寄せてくる女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。 しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。 (三島由紀夫「女ぎらひの弁」)
女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』1888年)

大いなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。(カミール・パーリア Camille Paglia "No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality", 1994)






八千矛神よ、
この私はなよなよした草のようにか弱いヲトコですから、
私の心は浦や洲にいる鳥と同じです。
いまは自分の思うままにふるまっている鳥ですが、
のちにはあなたの思うままになる鳥なのですから、
どうか鳥のいのちは取らないでください……



たいていの場合、去勢の脅しは女性から来る。Meist sind es Frauen, von denen die Kastrationsdrohung ausgeht(フロイト『エディプス・コンプレックスの崩壊』1924年)
母の去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母の去勢 la castration maternell が先立っているのである。父の去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)









◼️「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」( 松田義幸・江藤裕之、2007年)より

女陰の門のΩ
そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。

Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。





月女神カリマ「創造→維持→破壊」
後のキリスト教の父権制社会になってからは、logosは原初の意味を失い、「創造の言葉」は「神の言葉(化肉)」として、キリスト教に取り込まれ、破壊のOmegaは取り除かれてしまった。その結果、現象としては確かめようのない死後を裁くキリスト教が、月女神の宗教に取って代わったのである。父権制社会のもとでのKali Maが、魔女ということになり、自分の夫、自分の子どもたちを貪り食う、恐ろしい破壊の相のOmegaとの関わりだけが強調されるようになった。しかし、原初のKali Maは、OmのAlpha からOmegaまでを司り、さらに再生の周期を司る偉大な月女神であった。

月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。

三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFate、Uni、Juno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。

ma:「母親」と「女神」
インド・ヨーロッパ言語文化圈に見る、ma、mah、man、mana、manas、manos、men、mene、met、meter、materといったma、meを含んだ単語は、月女神の「創造の言葉」のlogos、Omから派生したものである。

そもそも、今日、manは「男」を意味しているが、これは「女」を意味していたのだ。manは万物創造の月女神であり、祖霊のmanesの母であった。サンスクリットのmanも、「真言」のMantraに見るように、月女神と叡智を意味していた。ma、meを語源にして派生した現在の英単語を見ると、「母親」と「物質(創造物)」と「叡智」「測定」に関するものが多い。

maという基本音節は、インド·ヨーロッパ言語文化圏でも、「母親」と「女神」を意味している。mother, materal (母の)、matron (既婚婦人)、matrix (母体), menses (月経)、menage/manage(家庭、家事、家政、世帯、管理)。

次に、「創造物の根源」に関してみると、matter (物質)、material(材料)、mud (泥)等がある。「女神」「女神の叡智」に関しては、moon、Mut (母神)、Maat (娘神)、Demeter、Muses、Mnemosyne (記憶の女神)、Menrva (Minerva)、omen (前兆、月、啓示)、amen (アーメン、再生の月)、mind, mentality等ある。

「学問」「測定」に関しては、mathematics (数学)、matrix (行列)、metrics (計量学)、mensuration (測定法)、meter (配分)、geometry (幾何学)、mete (配分)、 trigonometry (三角法)、hydrometry(液量測定)、meter (計器)等がある。

これら語源から派生した単語を見ると、自然と共に生きていた時代の女性たちは、宇宙原理、自然原理、女性原理に従った「創造→維持→破壊」の三相一体の周期、循環に生まれながらにして熟知していたことがよく分かる。

女性は経血(menstrul blood)の周期と月の朔望の周期、潮の干満の周期が密接に関係していることから、天文に関する研究を文化、文明の基礎学問とみなしていた。天文に関する「母親の知恵」が学問のmathesisであり、「天文の学問のある母親たち」をMathematici と呼んでいた。今日の「数学」を意味するmathematicsの語源である。特に、月女神に仕える巫女はその能力に長じたsybilsで、女神Cybeleと同語源である。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」、 松田義幸・江藤裕之、2007年)




コロナ最悪のシナリオ

いつ終わるんだろ」で、「2009年の流行は騒がれただけで死者は少なかったようだが、今度はどうなんだろ? 香港インフルエンザぐらいはいくかもな」って記したが、ちょっと甘かったな。




蚊居肢散人は自らの甘さに忸怩たる思いだよ。

最悪シナリオだったら 15万人らしいよ、感染者じゃなくて死者が。この神戸大学の先生の話だと。


今朝書き忘れたが,逆に言うと,クラスター対策班は最後の希望に近いのだ(まだクロロキンが効くとか他の新薬が見つかるとかワクチン開発に成功するという可能性もあるが)。これに失敗するとLipsitch教授の予測の通り世界人口の40-70%が感染し,日本でも例えば40%が感染してIFR推定値の下限の0.3%が亡くなる,つまり,15万人が亡くなるという最悪シナリオが現実味を帯びてくる。残念ながら日本はシンガポールほど徹底した管理はできなかったし,感染症のサーベイランス体制も公開体制も不十分なので(シンガポールのデング熱患者のデータを見て,ブロックごとの発生日別の患者数が公開されているのに驚いたことがある),積極的疫学調査でリンクを辿ることによる封じ込めには失敗した。(2019-nCoVについてのメモとリンクーーなぜクラスター対策が重要かーー2020年2月26日 -神戸大学大学院保健学研究科・教授中澤港



ここで引用されているハーバード大学にマーク・リプシッチMarc Lipsitchって人はどんな人だろうと見てみたら、ツイッターもやっているようで、いろんな記事があるんだが、次のものが最も簡潔にまとまっているね。


Harvard scientist predicts coronavirus will infect up to 70 percent of humanity
Harvard University epidemiologist Marc Lipsitch is predicting the coronavirus “will ultimately not be containable” and, within a year, will infect somewhere between 40 and 70 percent of humanity, The Atlantic reports. But don’t be too alarmed. Many of those people, Lipsitch clarifies, won’t have severe illnesses or even show symptoms at all, which is already the case for many people who have tested positive for the virus.

That’s precisely why he doesn’t think the virus can be stopped. Viruses like SARS, MERS, and the avian flu were eventually contained in part because they were more intense and had a higher fatality rate. In other words, if you were infected by the virus that caused SARS, chances were you weren’t out and about. But because the current coronavirus, known as COVID-19, can be asymptomatic, or at least very mild, there are a better chance people will likely go about their day as normal. The downside, though, is that it becomes harder to trace and prevent. In that sense, it’s similar to the flu, which can also be deadly, but often passes without the infected person seeking medical care.

The Atlantic reports Lipsitch is definitely not alone in his prediction. There’s an emerging consensus that the outbreak will eventually morph into a new seasonal disease, which, per The Atlantic, could one day turn “cold and flu season” into “cold and flu and COVID-19 season.”



もう少し見てみたら、WHOのIra Longiniと香港大学のGabriel Leungが同様なことを言ってるらしい。

Harvard scientist: coronavirus pandemic likely will infect 40-70% of world this year Feb 15, 2020 
Harvard epidemiologist Marc Lipsitch told The Wall Street Journal that "it's likely we'll see a global pandemic" of coronavirus, with 40 to 70 percent of the world's population likely to be infected this year.

"What proportion of those will be symptomatic, I can't give a good number," added Lipsitch, who is the Director of the Center for Communicable Disease Dynamics at the Harvard T.H. Chan School of Public Health. 

Two other experts have recently given similar estimates.

Ira Longini, a biostatistician and adviser to the World Health Organization (WHO), has predicted that two-thirds of the global population may eventually contract COVID-19.

Prof Gabriel Leung, the chair of public health medicine at Hong Kong University, says if the transmission estimate of 2.5 additional people for each infected rate is accurate, that would result in an "attack rate" that would affect 60 to 80 percent of the world's population.


以上をいったん受け入れるのなら(?)、最終的には”one day turn “cold and flu season” into “cold and flu and COVID-19 season.”とあるように、コロナはごくふつうのインフルエンザの仲間になるんだろうが、それまでに何人死ぬかだな、自らの想像力不足に恥じ入るね。ナア、ソウダロ、そこのコロナなウイルスの五段階」やら「よそ者フォビア」やらに文句言ってくるボウヤよ。




看護師の逃避は当然

これは全然気づいていなかったが、コロナウイルス患者に対応している医師や看護師のなかには逃げ出したいと思っている人もそれなりの割合でいるんだろうな、少し考えてみればそうしたくなるのは当然だけれど。


新型肺炎対応の医師ら職場でバイ菌扱い 学会が抗議声明
日本災害医学会は22日、新型コロナウイルスに対応した医師や看護師らが職場内外で不当な扱いを受けているとして、抗議する声明を出した。「バイ菌」扱いするいじめを受けたり、現場で対応したことに謝罪を求められたりする例が相次いだと訴えている。
「職員や子がいわれのない差別」 看護師感染の病院訴え
新型コロナウイルスに感染して死亡した80代女性の入院先の一つで、担当看護師1人の感染が判明した相模原市中央区相模原中央病院は18日、「職員やその子どもが、いわれのない差別的扱いを受けている」などと訴える書面を公表した。17日から外来診療を休止中だが、「早期再開は厳しい」としている。

 病院によると、子どもが学校から自宅待機を指示されたり、託児所で受け入れを拒まれたりして、出勤できる看護師が少なくなっている。病院への物品配送を拒否する運送業者も出始めたほか、他の医療機関に医師派遣を依頼したものの断られる、患者の転院を断られるといった事態も起きているという。



今回の全学校閉鎖で、看護師などが子供の世話のため、北海道みたいな事態になりうると言っている人がいるが、子供の世話だけの理由だろうか。もしそうなら春休みや夏休みには常にこういった現象があるんだろうか。どうも疑わしいね。


新型肺炎で臨時休校 看護師2割の170人出勤できず
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、管内小・中学校が臨時休校するのに合わせ、帯広厚生病院(菊池英明院長)は28日から一部の診療を制限することを決めた。小・中学校に通う子どもを持ち、出勤できなくなる看護師が全体の2割強に当たる170人に達するため、予約外の外来などを休止する。出勤可能な看護師らを院内で再配置し、一般の医療と新型コロナウイルスへの対応を両立できる体制を構築する。



2020年2月27日木曜日

私の個人的妄想

香港ってのは、いざとなったら何でもできるんだな、人口がわずかだってこともあるだろうし、暴動抑圧の相もあるのだろうけど。


人権より2次感染防止を優先、香港の新型コロナ対策
香港政府は、3月1日まで公務員は緊急性を要する業務以外、在宅勤務を実施させているほか、小中学校は(香港の中学校には日本でいう高校を含む)、すでに一時休校しているが何度も延長され、2月25日に、休校解除は最速で4月20日と発表された。香港最大のメガバンク香港上海銀行(HSBC)は香港内にある24の支店で2月3日より業務を一時停止することを発表し、香港最大のバス会社、九龍巴士(KMB)は同じ2月3日から21路線の運行を暫定的に停止している。

香港政府、18歳以上の市民に約14万円支給へ 700万人対象、
香港政府は26日、2020年度の予算案を発表し、18歳以上の全市民に一律1万香港ドル(約14万1800円)を支給するための財源(710億香港ドル)を盛り込んだ。19年6月から続く政府への抗議デモに加え、新型コロナウイルスの影響で経済が大きな打撃を受けていることを受けた措置で、約700万人が対象となる。




………


最近のコロナウィルスをめぐるもっとも優れた記事のひとつだろう、東北大学大学の押谷仁教授のインタビュー記事(2月23日)には、ボクにはひとつだけ違和があった。



ーーなぜ一斉の学校閉鎖をあまり意味がないとするのだろう? 学校とはクルーズ船状態がひどく起こりやすいはずなのに。





………


いかにわれわれはウィルスと闘うべきか、それが不気味な目に見えない寄生の生の形態として繁殖し、その厳密なメカニズムが基本的には知られていないままのとき。パニックを引き起こすのはこの知の欠如だ。どうしたらいいのか、ウィルスが予期できな仕方で変異し、真のグローバルカタストロフを引き起こしたら。

これが私の個人的妄想だ。(ジジェク「私の武漢の夢 My Dream of Wuhan22.01.2020)


今回のコロナが意図して作られたものではないにしろ、ジジェク はいつか次のような事態が発生するだろうとかつてから「正しく」妄想している。


2001年9月の世界貿易センタービルの爆発と崩壊は、21世紀の戦争を指し示すというより、20世紀の戦争の最後のスペクタクルな叫びだった。われわれを待っているのは、もっとグロテスクなものだ。目に見えない攻撃による「非物質的」戦争の幻──どこにでもありどこにでもないウイルスや毒である。目に見える物質的な現実のレベルではなにも起きず、大きな爆発もないが、しかし、既知の宇宙は崩れだし、生は四散する……。

真の長期的な脅威は、…世界貿易センタービル崩壊の記憶も蒼ざめるような大規模テロがさ らに起こることだ──これほどスペクタクルでなく、しかしいっそう恐ろしいテロである。細菌戦はどうか、殺人ガスの使用はどうか、DNA テロ(ある種のゲノムを持つ人々だけを襲う毒の開発)はどうか。(ジジェク 『現実界という砂漠にようこそ』2003年)



次のものは「より標準的な」妄想だろう。

現在、われわれにつき纏うアポカリプス的出来事の数多くのヴァージョンがある。ふたたび核戦争(米国対イランあるいは米国対北朝鮮)。そしてまたグローバル環境カタストロフィglobal ecological catastropheの行く末。さらに少なくとももう二つのアポカリプス的出来事が容易に想像てきる。財政的な経済メルトダウンとfinancial-economic meltdownとデジタルアポカリプスdigital apocalypseだ。後者は、われわれの生を統制し支えているデジタルネットワークの崩壊である。(ジジェク 、Hegel, Retroactivity & The End of History, 2019)


だがジジェク は次の事態がありうることになぜいまだ触れないのだろう。これが事実だとしたら環境アポカリプスの妄想の優先順位はひどく低くなるのに。

21世紀の大いなる決定的出来事ーー人間の歴史における大いなる決定的出来事のひとつーーがあと30年ほどで起こる。世界人口が減り始めるのである。(ジョン・イビットソン&ダレル・ブリッカー『Empty Planet(無人の惑星)』2019年)








人間という地球上の最悪のウィルスが減るのかもしれないのに。

地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないだろうか。 Wouldn't the best thing for the earth be to organize slowly so that two thirds of the people will die? (ジジェク『ジジェク、革命を語る DEMANDING THE IMPOSSIBLE』2013)
地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」2006年初出『日時計の影』所収)






阿呆の国と反デモクラシーのパララックス

日本ハ…(省略)スギルンダロウナ


差別主義者としてのプラトン  
「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」(……)

「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」(……)

「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」(……)

「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」

――プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369

差別主義者としてのフロイト
私はコミュニズムを経済学的観点から批判するつもりはない。…しかし私にも、コミュニズム体制の心理的前提がなんの根拠もないイリュージョンIllusionであることを見抜くことはできる。

私有財産制度を廃止すれば、人間の攻撃欲 Aggressionslust からその武器の一つを奪うことにはなる。それは、有力な武器にはちがいないが、一番有力な武器でないこともまた確かなのだ。私有財産がなくなったとしても、攻撃性が自分の目的のために悪用する力とか勢力とかの相違はもとのままで、攻撃性の本質そのものも変わっていない。

攻撃性は、私有財産によって生み出されたものではなく、私有財産などはまたごく貧弱だった原始時代すでにほとんど無制限の猛威を振るっていたのであって、私有財産がその原始的な肛門形態を放棄するかしないかに早くも幼児の心に現われ、人間同士のあらゆる親愛的結びつき・愛の結びつき zärtlichen und Liebesbeziehungen の基礎を形づくる。唯一の例外は、おそらく男児に対する母親の関係だけだろう。

物的な財産にたいする個人の権利を除去しても、性関係 sexuellen Beziehungen の特権は相変わらず残るわけで、この特権こそは、その他の点では平等な人間同士のあいだの一番強い嫉妬と一番激しい敵意の源泉[Quelle der stärksten Mißgunst und der heftigsten Feindseligkeit] にならざるをえないのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)
注)コミュニズムのような運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能[körperliche Ausstattung und geistige Begabung]をあたえることによって種々の不正 Ungerechtigkeiten を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)

正義の社会において発生する最も熾烈な差別
デュピュイの偉大なる理論的ブレイクスルーは、「大他者」の出現と「聖なるもの the sacred,」の相を構成する「犠牲 the sacrifice」とを結びつけたことである。…犠牲を通して、大他者、つまり我々の行動を制限する超越論的審級が支えられている。

…(デュピュイの分析のもとでは)、主権国家の廃止と世界国家の設立は、暴力闘争を不可能にするどころか、むしろ「世界帝国」内部での新しい暴力形式を開く。「世界市民的理想は、永遠の平和を保証するどころか、むしろ限度なき暴力 la violence sans limitesにとってのお誂え向きの条件である。」(“Devons‐nous désirer la paix perpétuelle?” in Jean‐Pierre Dupuy, 2008)

根源的イデオロギーのカテゴリーとしての「犠牲の神秘」について最もラディカルでクリティカルな分析を提供したのは『聖なるものの刻印 La marque du sacré』(2008)のジャン=ピエール・デュピュイである。…

デュピュイの結論はこうである。正義の社会、自らを正義と見なす社会がルサンチマンから逃れると考えるのは、大きな間違いである。反対にまさにそのような社会こそ、劣等の地位を占める者たちが、自らの傷つけられた誇りの捌け口として、ルサンチマンの暴力的噴出を生み出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

反差別ドグマ主義者における最も大いなる悪
善への過剰なコミットメントはそれ自体、最も大いなる悪になりうる。このリアルな悪とはあらゆる種類の狂信的なドグマティズムである。特に至高善の名の下に行使されるドグマだ。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)


憐みという悪と残酷という善
あらゆる君主にとって、残酷よりは憐れみぶかいと評されることが望ましいことにちがいない。だが、こうした恩情も、やはりへたに用いることのないように心がけねばならない。たとえば、チューザレ・ボルジアは、残酷な人物とみられていた。しかし、この彼の残酷さがロマーニャの秩序を回復し、この地方を統一し、平和と忠誠を守らせる結果となったのである。とすると、よく考えれば、フィレンツェ市民が、冷酷非道の悪名を避けようとして、ついにピストイアの崩壊に腕をこまねいていたのにくらべれば、ボルジアのほうがずっと憐れみぶかかったことが知れる。したがって、君主たる者は、自分の臣民を結束させ、忠誠を守らすためには、残酷だという悪評をすこしも気にかけてはならない。というのは、あまりに憐れみぶかくて、混乱状態をまねき、やがて殺戮や略奪を横行させる君主にくらべれば、残酷な君主は、ごくたまの恩情がある行ないだけで、ずっと憐れみぶかいとみられるからである。また、後者においては、君主がくだす裁決が、ただ一個人を傷つけるだけですむのに対して、前者のばあいは、国民全体を傷つけることになるからである。(マキャベリ『君主論』)
邪な心を抱いて正しい行為
そして正しい心を抱いて邪な行為

wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act

ーーシェイクスピア『終わりよければすべてよし』




阿呆の国を目指して
聾者の国 Deaf Nation の事例を取り上げてみよう。 今日、「耳の不自由な」人のための活動家は、耳が不自由であることは傷害ではなく、別の個性 separateness であることを見分ける徴であると主張する。そして彼らは聾者の国をつくり出そうとしつつある。彼らは医療行為を拒絶する、例えば、人工内耳や、耳の不自由な子供が話せるようにする試みを(彼らは侮蔑をこめて口話偏重主義 Oralism と呼ぶ)。そして手話こそが本来の一人前の言語であると主張する。“Deaf”に於ける大文字のDは、聾は文化であり、単に聴覚の喪失ではないという観点をシンボル化している。(Margaret MacMillan, The Uses and Abuses of History, London 2009による)

このようにして、すべてのアカデミックなアイデンティティ・ポリティクス機関が動き始めている。学者は「聾の歴史」にかんする講習を行い、書物を出版する。それが扱うのは、聾者の抑圧と口話偏重主義 Oralism の犠牲者を顕揚することだ。聾者の会議が組織され、言語療法士や補聴器メーカーは非難される、……等々。 

この事例を揶揄するのは簡単である。人は数歩先に進むことを想像しさえすればよい。もし聾者の国 Deaf Nation があるなら、視覚偏重主義の圧制と闘うために、どうして盲者の国 Blind Nation が必要ないわけがあろう? 健康食品と健康管理圧力団体のテロ行為に対して、どうしてデブの国 Fat Nation が必要でないわけがあろう? アカデミックな圧力に残忍に抑圧された人たちにとって、どうして阿呆の国 Stupid Nation が必要でないわけがあろう?(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012 )

あるいは反デモクラシーの生き残りを目指して
スポーツはそもそも反民主主義です。神様に愛されたものたちだけが、活躍できるという恩寵にみちた世界です。その活力を社会が吸い取れなかったら、社会が滅びる。文化もそうでしょう。社会がそうしたものを組み込めなくなっている危うい時に、われわれがスポーツを批評する意味はそこにある。(蓮實重彦bot)
同情は、おおまかに言って、淘汰の法則にほかならない発展の法則をさまたげる。それは、没落にひんしているものを保存し、生の勘当され、断罪された者どものために防戦し、同情が生のうちで手離さずにいるすべての種類の出来そこないを充満せしめることによって、生自身に陰鬱な疑わしい相貌をあたえる。人はあえて、同情を徳と名づけてきた(――あらゆる高貴な道徳においては、同情は弱さとみなされているのだがーー)。さらにすすんで、同情から徳そのものを、すべての徳の地盤と根源をでっちあげるにいたった、――もちろんこれは、このことこそたえず眼中にしておかなければならないことだが、ニヒリズム的な、生の否定を標榜した哲学の観点からのことであるにすぎない。(ニーチェ「反キリスト』1888年)

ニーチェが忘れている括弧外し
《「然り」〔Ja〕への私の新しい道。--私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。(中略)「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」--これが私には本来の価値尺度となった。(中略)この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまでーー(中略)このことにあたえた私の定式が運命愛〔amor fati〕である。》(ニーチェ『力への意志』)

ニーチェは『道徳の系譜学』や『善悪の彼岸』において、道徳を弱者のルサンチマンとして批判した。しかし、この「弱者」という言葉を誤解してはならない。実際には、学者として失敗し梅毒で苦しんだ二ーチェこそ、端的に「弱者」そのものなのだから。

彼が言う運命愛とは、そのような人生を、他人や所与のせいにはせず、あたかも自己が創り出したかのように受け入れることを意味する。それが強者であり、超人である。が、それは別に特別な人間を意味しない。運命愛とは、カントでいえば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由な(自己原因的な)ものであるかのように受け入れるということにほかならない。それは実践的な態度である。
ニーチェがいうのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。ニーチェの「力への意志」は、因果的決定を括弧に入れることにおいてある。

しかし、彼が忘れているのは、時にその括弧を外して見なければならないということである。彼は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生みだす現実的な諸関係が存することを見ようとはしなかった。すなわち、「個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである」(マルクス)という観点を無視したのである。(『トランスクリティーク』第一部第3章)
パララックス・ヴュー
ヘーゲルがおこなったカントについての基本的な修正は、したがって、次のようなものである。理性の三つの領域(理論的・実践的・美的)は、主体の態度の移行、すなわち「カッコに入れること」で出現する。つまり、学の対象は、道徳的判断と美的判断をカッコに入れることで出現する。道徳的領域は、認識的–理論的関心と美的関心をカッコに入れることで出現する。美的領域は、理論的関心と道徳的関心をカッコに入れることで出現する。たとえば、道徳的関心と美的関心をカッコに入れるなら、人間は、自由ではない、因果的関連に全面的に条件づけられたものとしてあらわれる。逆に、理論的関心をカッコに入れるとすれば、人間は、自由で自律的な存在としてあらわれる。したがって、もろもろのアンチノミーは物象化されるべきではない ― アンチノミーをなす複数の立場は、主体の能度の移行によって生みだされる。柄谷の画期的成功は、しかしながら、そのようなパララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。 (ジジェク『パララックス・ヴュー』)
以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性 Verstand の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性 äußeren Vernunft の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点 Gesichtspunkte anderer から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差 starke Parallaxen を生じはするが、それは光学的欺瞞 optischen Betrug を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)


2020年2月26日水曜日

コモノ国民性

ラカン派では1968年の学園紛争を契機に大他者の時代から大兄弟の時代へ移行したと表現されることがあるが、これはコモノの時代への移行ということでもある。たとえば仏現代思想に限っても、おおむぬ60年代に大きな仕事がなされ、その後はヴァリエーションみたいなものだ。70年以降に新しく出てきた、まがりなりにも世界的に流通した思想家なんてのは小粒なヤツしかいない。大兄弟=マルチチュード=有象無象向けに書いているんだったらいっそうそうなる。コモノ化はいっそう進み、21世紀の現在、新しい思想書が出現したって20年後30年後にまだその書が読まれているなんて全く想像できない。あれらはコモノによる小粒書でしかない。例外があったら教えて欲しいもんだね。

フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、また絶句せざるえないことは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)

ーーフローベールは先行して言っているんだが、これは蓮實のテーマみたいなもんでもある。


日本においてはこの観点を差し置いても、昔からほとんどコモノばかりだというのは構造的必然でいまさらどうしようもない。

以下、手始めに三つの文を引用しよう。


風をみながら絶えず舵を切るほかない日本
中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(「日本人がダメなのは成功のときである」1994年『精神科医がものを書くとき』所収)
春風駘蕩たる日本と凛冽たる韓国
その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。(中井久夫「安克昌先生を悼む」2000年『時のしずく』所収)
空気を読む日本人と激しやすい韓国人
ネットで読んだ新聞のインタビューで、先生は、韓国では人がすぐに激しいデモや抗議に奔ることを批判しておられた。それを読んだとき、私とはまるで違うなと思った。私は日本で、むやみやたらにデモをするように説いてきた。なぜなら、日本にはデモも抗議活動もないからだ。原発震災以来、デモが生まれたが、韓国でならこんな程度ですむはずがない。要するに、キム教授と私のいうことは正反対のように見えるが、さほど違っているわけではない。彼も日本のような状態にあれば、私と同じようにいうだろう。(……)

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。このような人たちが、激しいデモや抗議活動に向かうことはめったにない。

私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)

これを受け入れるなら、「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」の日本と「知っているなら即刻行動に移さなければならない知行合一」の韓国ということになる。

図式的すぎるという人はあるだろうが、おおむねアタリだよ。もっとも今は日韓比較の話をするつもりはない。春風駘蕩たる空気を読む日本人に焦点を絞る。

で、春風駘蕩たる日本の国民がリーダーも含めて、事前の「根回し」、世間の「空気」を読みながら行動する傾向があるのは、何よりもまず冒頭の中井久夫の言うように地震国であることが大きいのではなかろうか。言語が人を作るように、環境が人を作るのは当然である。

日本という国は地震の巣窟だということ。大水、噴火、飢餓なども、年譜を見ればのべつ幕なしでしょう。この列島に住み、これだけの文明社会を構築してしまったという問題があります。(古井由吉「新潮45」2012 年1 月号 )
考えてみれば、災害が相次ぐ日本列島で、一神教的な発想は生まれるはずはなかったのだ。日本列島に住んでいれば、一生に一度は、何かしら災害に見舞われたに違いない。誰が、荒れ狂う嵐に打つ勝てると思うだろう。誰が、大津波をはね返すことができると信じただろう。「自然を支配し、改造する」などという、一神教的発想が、絵空事であることは、理屈抜きに体が覚えていたに違いないのである。(関裕二『日本人はなぜ震災にへこたれないのか』、2011年) 
一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)


地震や津波からはモーセは生まれない。砂漠や森だったら支配しうる。フロイトは宗教的観念の起源についてこう言っている。

宗教的観念も、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれた。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』1927年)

だが同じ自然の圧倒的優位でも、支配しがたい海からは母神が生まれ、支配しうる砂漠からは父神が生まれる。そしてもともと母神が父神に先立っているのは知りうる限りでどの文化圏でも同じである。

偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)
偉大なる母la Grande Mèreは、(ラカンが示した)神たちのあいだで最初の「白い神性la Déesse blanch」、父の諸宗教に先立つ神である。 (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME   2015)



これは、エディプス的な一神教=言語による経典が絶対の世界からかけ離れた前エディプス的なアニミズムの国日本は、象徴的-父権的ではなく身体的−母性的な環境にあるということだ。この帰結は、たとえば危機に際しても、政治の長は言語によるダイレクトな通達を避け、前言語的な根回しの形となりがちの人材を生む。リーダーが頑張って言語的な存在に徹しようとも、伝えるべき大衆はそうではない。言語的政治家は淘汰される。これは大都市の長のような直接選挙において最も顕著に現れる。エリートよりも芸能人が好まれる(父なき時代の現在、世界的にもその傾向があるとはいえ、欧米諸国は一神教文化の残滓がある)。

これ以外に今もって江戸文化の残滓がふんだんに残っている影響も多大にある。

つまり、刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)ってヤツだ。これも人間のコモノ化にすこぶる貢献した制度だ。

コジューヴが1959年に日本訪問して言った「スノビズム」、ラカンがバルトの日本文化論『記号の国』を受けて言った「礼儀」も、結局、江戸時代の生活様式のこと。

さらに言えば、その前の信長が比叡山を焼いて「天台本覚論」といういわゆる宇宙論的な哲学がお釈迦になっていっそうコモノの国の空気読みの国民になったんだろうよ。

無思想で大勢順応して暮す大衆社会先進国日本
日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。

イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。

ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思う んです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけで はなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。

しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山昌男『丸山座談5』針生一郎との対談)


こういったことは一朝一夕では変わらない。いやそもそも地震国であることは決して変わらないのだから、ビジョンなんて提示してもまともに受け入れられるはずはない。20年後30年後のヴィジョンよりもいつ来るかわからない大地震に無意識的に支配されて人は生きている。

というわけで、ごく当たり前のことを記述したかも知れないが、日本ではズルズル行くより仕様がないんだよ。とくにポピュリズムに頼ったら間違いなくそうなるな。どこに向かってズルズルなのかはシラナイがね。オッカサマの股のあいだのブラックホールかもな。でもそこに落ち込めば、再生があるかもよ。