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2020年3月31日火曜日

間接的な殺人者




独ヘッセン州財務相(Thomas Schaefer)が自殺、新型コロナ対応で「深刻な悩み」2020. 3.31
ドイツ経済の中心地・中部ヘッセン州のトーマス・シェーファー財務相(54)が28日、州内の鉄道線路付近で、遺体で発見されました。フォルカー・ブフィエ同州首相は29日、自殺とみられると発表し、シェーファー氏が新型コロナウイルスの経済的影響への対処について「深刻な悩み」を抱いていたことを明らかにしました。
同州ウィースバーデンの検察当局も、シェーファー氏は自殺を図ったとの見方を発表しました。

ヘッセン州にはドイツの金融ハブであるフランクフルトがあり、ドイツ銀行やコメルツ銀行といった主要行が拠点を構えます。ECB=欧州中央銀行の本部もフランクフルトにあります。
シェーファー氏は10年にわたりヘッセン州財務相を務め、高い人気と評価を集めていました。ブフィエ氏と共にアンゲラ・メルケル首相率いる中道右派キリスト教民主同盟(CDU)に所属し、次期州首相と目されていました。妻と2人の子どもがいます。
ブフィエ氏は録画された動画声明の中で、動揺を隠しきれない様子でシェーファー氏について、ウイルスのパンデミック(世界的な大流行)による経済的影響への対応に追われる企業や労働者を支援するため「昼夜を問わず」働き続けていたと語りました。




財政的には日本に比べ格段に優れているドイツでもこのようなことが起こるのだから、とっても財政音痴らしき庶民の味方の正義派諸君は「なぜ欧州諸国と同じようなコロナ対策資金援助ができないんだ!」などと闇雲に叫び続けて、間接的な殺人者にならないよう気をつけなくちゃな。










コロナ債めぐりEUの南北分裂深刻化 イタリアの要求、ドイツやオランダが拒否  時事通信 2020年03月30日
【ブリュッセル時事】新型コロナウイルスまん延に伴う経済的打撃にどう対応するか、欧州連合(EU)の南北分裂が深刻化している。イタリアなどが求めたEU共通の「コロナ債」をドイツやオランダが拒否。イタリアのEU不信が強まっている。

 「この未曽有の困難に立ち向かえないなら、欧州という建物全体が存在理由を失う」。コンテ伊首相は28日付の伊紙ソレ24オレでEUの「連帯欠如」に強い不満を訴えた。

 毎日数百人規模の死者を数え影響が甚大なイタリアやスペインは「コロナ債」などと呼ぶ共通債の発行を要求。EU全体で協力して対策資金を調達すべきだと主張している。

しかし、26日のEUテレビ首脳会議では、イタリアなど南欧各国の財政規律の緩みを懸念するドイツやオランダが反対。債務危機対策基金「欧州安定機構(ESM)」活用でも折り合えず結論を持ち越した。

 伊各紙は「醜い欧州」(レプブリカ)、「合意しなければ欧州の計画は終わり」(コリエレ・デラ・セラ)と一斉に非難、失望が広がった。昨年まで連立政権の一角だった極右政党「同盟」のサルビーニ前内相は「必要なら(EUに)別れを告げる」とEU離脱論に踏み込んだ。

 一方、オランダのルッテ首相は「他の多くの国も反対している」と主張。コロナ債は、経済的に裕福な北部の国々が南欧の借金を肩代わりする財政移転につながり「一線を越える」と譲らない。

しかし、オランダ政府の姿勢には、ポルトガルのコスタ首相が「EUの精神を損ねる」と反発。フランスのマクロン大統領も「連帯なしにこの危機は乗り切れない」と諭している。

 欧州経済の南北格差は、過去の債務危機で表面化。問題点は繰り返し議論されてきた。解決できないでいた課題が、ここへ来てまた噴き出した。

 亀裂が深まる中、フォンデアライエン欧州委員長は28日夜、EUの次期中期予算(2021~27年)に新たな経済対策を盛り込むことを急きょ提案した。ただ、事態打開につながるかは不透明だ。


要するに放漫財政国イタリアやフランスなどがーー日本にくらべればその放漫ぶりはかわいいもんだがーードイツなどの財政規律を苦労して是正してきた国にたいして「コロナ債」で連帯してくれと要請しているんだが、ドイツなどは「そんなの御免蒙るよ」と応答しているということになる。







で、日本はEU の亀裂なんかほっておいて、このコロナ危機に際して、世界で最も高い水準にある借金国日本の一員として「連帯」しなくちゃな。







拷問する男と優しい男

我々は基本的に皆、邪悪でエゴイスティック、反吐をもたらす生き物である。拷問を例にとろう。私はリアリストだ。私に娘があり誰かが彼女を誘拐したとする。そして私は誘拐犯の友人を見出したなら、私はこの男を拷問しないだろうなどとは言い得ない。 (ジジェク、My friends call me Fidel、2016年)

で、どうだい?
きみは優しい男が好きらしいが
誘拐犯の友人を拷問するエゴ男と
拷問しない優しい男とどっちをとるんだい?

よく知ってるはずだがな、
キャベツ頭でない女なら。

全世界の者 ――通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfenは全く問題外としてーーが根本において一致して認めているような諸命題が、わたしの著書においては、単純きわまる失策として扱われている。たとえば、「没我的」と「利己的」とを対立したものとするあの信仰である、わたしに言わせれば、自己〔エゴ〕そのものがひとつの「高等いかさま」、ひとつの「理想」にすぎないのだ ……およそ利己的な行動というものも没我的な行動というものもありはしないのだ。どちらの概念も、心理学的にはたわごとである。あるいは「人間は幸福を追う」という命題 ……あるいは「幸福は徳の報いである」という命題 ……あるいは「快と不快は相反するものである」という命題など、みなそうである ……これらは、人類をたぶらかす道徳という魔女が、本来みな心理学的事実であるものに、徹底的に、まやかしのレッテルを貼りつけたのであるーーつまり道徳化したのであるーーこれが昂じてついには、愛とは「没我的なもの」であるべきだと説く、あのぞっとするナンセンスにまで至りついたのである ……われわれはしっかり自己の上に腰をすえ、毅然として自分の両脚で立たなければ、愛するということはできるものではないのだ。結局、このことをいっとうよく知っているのは女たちである。彼女らは、自我のない、単に公平であるような男などは、相手にしない ……(ニーチェ『この人を見よ』)

マスクされた鳥居とマスクする巫女

いやあ、すばらしいじゃないか、貴君!




とっても才能があるよ、物理学なんてケッタイなことやってないで、巫女専門の写真家になったらどうだろう?



それとも物理学的に綿密に構成された構図なんだろうか?



深さの問題としてとらえれば「マスクされた精神病」masked psychosis のある一方、神経症が精神病(あるいは身体病)をマスクすることも多い(“masking neurosis”)。ヤップは、文化的変異を基礎的な病いの被覆(うわおおい overlay)と考えていた。

私は精神病に、非常に古い時代に有用であったものの空転と失調の行きつく涯をみた(『分裂病と人類』1982年)。分裂病と、うつ病の病前性格の一つである執着性気質の二つについてであったが、要するに、人類に骨がらみの、歴史の古い病いということだ。これは「文化依存症候群」のほうが古型であるという通念に逆らい、いずれにせよ証明はできないが、より整合的な臆説でありうると思う。むろん文化依存症候群の総体が新しいのではなく、表現型の可変性が高いという意味である。(……)
逆に、軽症な人のほうへと目を移してゆけば、文化的ステロタイプの中から次第に個人性が卓越してくるのではないか。すなわち文化依存症候群から、普遍症候群の反対側に個人症候群にむかい、次第にその色を濃くするスペクトラム帯があるということである。力動精神医学が長く神経症に自己限定し、フロイトが精神病治療に対してほとんど忌避に近い態度をとったものおそらくそのためだろう。(中井久夫『治療文化論』1990年)





欠如と穴
穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。(⋯⋯

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)




むかしネット上で次の写真をひろって珍重してたんだけど、でもどこか物足りなかったんだ。穴埋めの仕方ってのかな






不気味な穴
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュimage du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如 が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

女陰のブラックホール
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールtrou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)





神というLȺ femme (存在しない女というもの)と女たち
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。その理由で「女というものは存在しない」のである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「女というものは存在しない」は、女というものの場処が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のままだということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会うことを妨げはしない。La femme n’existe pas ne signifie pas que le lieu de la femme n’existe pas mais que ce lieu demeure essentiellement vide. Que ce lieu reste vide n’empêche pas que l’on puisse y rencontrer quelque chose(J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)
女というものは存在しないLa femme n’existe pas。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準でniveau du signifiantは見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を描き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ジャック=アラン・ミレール「エル・ピロポ El Piropo 」1981年)





妣が国=祀られた母
すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)
……「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)






偉大な母なる神と父なる諸神
偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)
偉大なる母、神たちのあいだで最初の「白い神性」、父の諸宗教に先立つ神である。la Grande Mère, première parmi les dieux, la Déesse blanche, celle qui, nous dit-on, a précédé les religions du père (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME   2015)
ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかにこうある。父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)
ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)
ラカンは女は存在しないと言ったなら、はっきりしているのは、母は存在することである。母はいる。Si Lacan a dit La femme n'existe pas, c'était pour faire entendre que la mère, elle, existe. Il y a la mère. (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME   2015)
家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的母権制の青白い反影にすぎない。the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system (PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)





ああ、《竹藪に榧の実がしきりに落ちる/アテネの女神に似た髪を結う/ノビラのおつかさんの/「なかさおはいりなせ--」という/言葉…》(西脇順三郎「留守」)

2020年3月30日月曜日

滴虫類の繁殖は長期にまたがるだろうか?


人は、まるで恋をしているときのように、目かくしをして、新聞を読んでいるのだ。事実を理解しようとはつとめない。愛人の言葉に耳を傾けるように、主筆の甘言に耳を傾ける。on lit les journaux comme on aime, un bandeau sur les yeux. On ne cherche pas à comprendre les faits. On écoute les douces paroles du rédacteur en chef, comme on écoute les paroles de sa maîtresse. (プルースト「見出された時」p111)

人は勝負のつかぬ長期戦を予言する勇気もなければ、予言するだけの想像力もなかった。…

「長期にまたがるだろうか?」と私はサン = ルーにたずねた。「いや、ぼくは非常に短期の戦争だと思うんだ」と彼は私に答えた。しかしこんども、いつもと同様に、彼の論拠は、文書からえたものだった。 「モルトケの予言を考慮に入れながら、読みかえしてみたまえ」と彼は、あたかも私がすでにそれを読んでいたかのように、私にいった、「大編成部隊の行動に関する一九一三年十月二十八日の政令を。そうすれば、きみにわかるだろう、平時予備軍の補充が計画されてもいなければ、予測さえされていないことを。そういう編成は、戦争が長びくはずなら、欠かすことができないんだからね。」私には、問題の政令を、戦争が短期のものであろうという証拠として解釈されるべきではなくて、戦争が短期のものであるという見通し、戦争が今後どうなるかという見通しを、欠くものとして解釈されるべきであり、その政令を起草した当事者たちの側には、戦争が謬着状態に陥るとき、全面にわたり物資のおそるべき消耗をきたすであろうことや、作戦のさまざまな舞台の連帯が必要になってくるであろうことの、憶測というものがなかったのだ、という気がするのであった。(プルースト「見出された時」p100)


…生活は以前とほとんどおなじままでつづいていた、とりわけシャルリュス氏とヴェルデュラン夫妻にとってはそうで、まるでドイツ軍がそれほど彼らの近くにせまってはいないかのようであった。危険のたえまない脅威もーーさしあたってそれは食いとめられているのだが ーーわれわれがその危険をまざまざと目に浮かべないかぎり、われわれには一向に無感心でいられるのである。人々はいつものように快楽をあさりに出かけ、けっしてこうは考えない、 もし適度に萎縮させる力を加えないでいると、滴虫類の繁殖はその極限に達する si les influences étiolantes et modératrices venaient à cesser, la prolifération des infusoires atteindrait son maximum、換言すれば、その繁殖は数日のあいだに幾百万里をひととびして、一ミリメートル立方から、太陽の百万倍の大きさに達し、同時に、われわれが生きてゆくに必要な酸素その他の物質をすべて破壊する、そしてもはや人類も動物も地球もなくなるだろうと。(プルースト 「見出された時」p148)
…しまいには彼ももっと正しい指摘をするにいたった、「おかしいと思うのは」と彼はいった、「そんなふうに戦争下の人間や事件を新聞だけでしか判断していない大衆が、自分の意見でそれを判断していると思いこんでいることですよ。」その点ではシャルリュス氏のいうことは正しかった。(プルースト「見出された時」p177)


経済学者によるコロナウイルス対策

巷間ではほとんど無視されているようにみえるが、経済学者によるコロナウイルス対策提言がある。当初は賛同者は5人だけだったが、現在は20人になっている。

ここでは提言7だけ見てみよう。


経済政策についての共同提言  
新型コロナウイルス対策をどのように進めるか? 
― 株価対策、生活支援の給付・融資、社会のオンライン化による感染抑止 ―  
2020 年3月 18 日版  <発起人> 小林慶一郎 佐藤主光
<賛同者(五十音順・2020年3月26日現在)>
池尾和人*5  / 伊藤元重 / 乾友彦 / 岩井克人*8 /  大垣昌夫*5 /  岡崎哲二*5 /  小川 一夫 / 奥野正寛*5 /  小黒一正*5 /  小塩隆士 / 川口大司 / 淸滝信宏 / 工藤教孝*1, 5 /  小峰隆夫*5 /  齊藤誠*5, 8 / 西條辰義 / 土居丈朗 / 星岳雄 / 松山公紀 / 森信茂樹
*1 提言1を除く
*5 提言5を除く
*8 提言8を除く
提言 7.手元資金(流動性)不足の解消:生活支援の無差別・無条件の緊急融資を  
コロナ・ショックによって個人が直面する生活困難は、転職などによって生活再建をするには時間がかかるのに、それまでの間、生活を維持するための手元資金(流動性)が得られない、という「流動性不足」の問題が大きい。本来は銀行などが生活資金を貸せば理想的だが、感染症のために経済全体で不確実性が高まっている現状では、民間銀行にはリスクが高すぎる。公的部門がリスクをとって流動性資金を貸し出すことで問題を緩和すべきだ。 

支援の必要な個人が自己申告し、その自己申告に基づいて融資を行うシンプルで使いやすい貸付制度を提案したい。たとえばつぎのようなものである。 

コロナ・ショックによる収入途絶などで生活苦に陥った人(所得が一定レベル以下になった人)は、所得とマイナンバーを申告しさえすれば無審査・無担保・無条件で国から毎月 15万円まで 1 年間、借りることができるとする。緊急の融資なので無審査だが、所得を偽る不正を防ぐために、事後的に国(税務当局)が必要な調査をできることにすればよい。返済は3 年間猶予して 2024 年度から開始する。2024 年度までは金利ゼロとし、その後は、借入残高には年率1%程度の金利を付ける(あるいは、たとえば 30 年物国債の利回りと同じ金利にする)。 

つまり、融資を受けた個人は、3 年後に一括返済すれば無利子になるが、その後は返済を遅らせれば遅らせるほど金利がコストとしてかかることになる。この融資制度はマイナンバーで管理し、納税とあわせて返済もできるように制度設計する。返済先延ばしを続けると、最終的には、老後に公的年金の給付額から毎月少額ずつ融資返済分を差し引かれるようにする。これで貸し倒れリスクも減らせる。また、その人の公的年金給付額が確定した時点で、「年金の額が少ない人は年金額に応じて返済額を減免する」という救済措置も入れておく。こうすると、融資を受けた後で一定の生活レベルを再建できた人は(利子付きで)返済するが、そうできない不運な人は返済を減免されるので、緊急融資は結果的に、境遇の格差に応じた現金給付と同じ効果を持つことになる。 (事前審査制の現金給付に比べると、融資制度の方が、圧倒的に審査事務などの行政コストと貸付までの時間を節約できる。) 

これと類似した公的融資制度としてオーストラリアの所得連動型学生ローン(income contingent student loan)制度がある。この学生ローン制度では、政府が大学の学費を立て替え、学生は大学卒業後に、納税額に上乗せする形で政府に学生ローンを返済する。このとき、卒業後の所得の多寡に応じて、返済額が変わるように制度設計されており、所得が低い人の返済額は減免される。 

仮に 1000 万人がこうした融資制度を利用すると仮定すれば、最初の貸出のために 18 兆円ほどの政府支出が必要になり、その分だけ国債を新たに発行しなければならなくなるが、コロナ・ショックで消費が抑制され、貯蓄が増えるので、難なく国債は消化されるだろう。また、将来的に、18 兆円の多くは利子つきで国庫に返済されるので国民負担は生じたとしても大きくないはずである。  



ここで言われている数字は、毎月 15万円を1 年間、1000万人が融資を受けると、18兆円となるということである。つまり15万円×12×1000万人=18兆円。ひと月当たりなら、15万円×1000万人= 1.5兆円。

仮に、融資ではなく現在一部で主張されている一律給付(10万円)が実現されるとすると、給付者は何人とすべきか。労働人口は2020年、約6800万人である。




ここでは5000万人に給付されるとする(あくまで単純化した仮定である。他にもたとえば他の要素、家賃、水道光熱費、税納付などは思考から外している)。とすれば、ひと月当たり、10万円×5000万人=5兆円必要である。3ヶ月なら15兆円となる(もし15万円にすれば 3ヶ月で22兆円ほど)。このあたりが日本では限界ではないか。たぶんこれでも行政側は不可能だと言うだろうが。



ーー日本では何よりもまず社会保障費の巨額な歳出が大きな重荷なのである。

話を戻そう。たとえば一律給付3ヶ月後、経済学者たちの提案する無審査・無担保・無条件の融資策に移行する。おそらく1年から1年半ぐらいはコロナ戦争が続くだろうから。ある意味で3ヶ月の猶予期間後、かなりの割合の人は生活の仕方を根本から変える等、身の振り方を考えねばならないのかもしれない。もちろん戦争は2、3ヶ月で終わると思っている楽観派がいるのを知らないわけではないが、ここでは戦争の小康状態はありうるとしても1年超派として記しているのを強調しておこう。

今、日本では限界だと言ったのは、欧米に比べて財政的余裕がないから。

たとえば日独の債務残高率比較である。





おそらく経済学者たちはコロナ戦争後の国債暴落等による国家破産をひどく恐れているはずである。歴史的にみても、戦争終結後は多くの国で債務超過に苦しんできた。その心配がなければ、彼らもこの危機に際してケチなことは言わない。

消費税率削減の主張はバカ気ている。あれこそ愚かしいポピュリズムである。もしその余裕があるなら無償給付額を上げたほうがずっとよい。

世界一の少子高齢化社会である日本は、今まで消費税率(あるいは国民負担率)があまりにも低すぎたために、この危機に際しても政策の柔軟性のための財政的余裕がない国となってしまっているのだから。










2020年3月29日日曜日

今までの着物を脱ぎかえて新しい衣裳にかえて、少しきゅうくつだけど、喜んでいる夢


ああようやく見つけたな、中井久夫の患者の自殺の話。

その患者は、私が二年ほどみていた女子大生だった。亡くなる前日、このごろ夢が明るくなったのよ、といった。前回、夢が明るくなったのが確実な回復の歩みの始まりだったのを思い出して、私はおろかにも喜んだ。彼女は「今までの着物を脱ぎかえて新しい衣裳にかえて、少しきゅうくつだけど、喜んでいる夢」「花嫁衣裳でまっ白なの」と教えてくれた。翌日、私は白衣につつまれた彼女を見る破目になるのである。このケースは、私には非常な教訓であった。私の師の一人とさえ言ってよいだろう。(中井久夫「治療のジンクスなど」1983年『記憶の肖像』所収)

ひと月半ぐらい前だったか、どこに書いてあったのだろうとしばらく探したのだが、見出せなかった。その後も気になって折にふれ見つけようとしたのだけれど、かなわなかった。今朝、別のことを読もうと『記憶の肖像』をひらいたら偶然行き当たった。何のきっかけで探そうとしたのかは失念した。今は探し物にふと出会ったのが嬉しい。

前後も抜き出しておこう。

私が精神科医という仕事をやっているうちにいくつかのジンクスとでもいうべきものができた。他愛ない話と言われそうだが、それなりに力動的な含みがありそうで私はジンクスを破らないように畏れかしこんでいるのである。

第一は、外来の前の晩に精神医学の論文を読むと、どうもその外来がよくないということである。外来というのは、次の外来までの一週間なり二週間がどうであるだろうかという想像力を働かしておかなければならないものだろう。入院患者でも綱渡りのような際どいところにいる患者との面接ならば同じことになるがーー。

要するに、こまかい呼吸合せとか、かすかなサインをキャッチするとか、その他の微妙な直観が必要なのに、前の晩にそういうものを読むと、働くはずのものが働かなくなるらしい。つまり一般に「自由に注意をただよわせていること」(フロイト)ができにくくなる。

精神医学の論文でなければよいのか。よいらしい。あと味のさわやかな本や画集や音楽は翌日の「自由にただよう注意力」を強めてくれる。精神医学でも生物学的なのはかまわない。薬物療法にせよ精神療法にせよ、治療法の論文は、それをさっそく使ってみたくなる誘惑が出るはずだと頭の隅にとどめておいたほうがよいが、たまたま前の晩読んだ方法があって、たすかったということも存外多い。どうもすぐれた精神病理の論文が私にはよろしくないようである。私の患者が事故を起こしたのは、ある人の論文を二晩続けて読んですっかり感心した時のことであった。

そもそも精神病理というものにどこか毒があるのか、私と精神病理との関係がよくないのか、あるいは著者が同年輩の人なのでかねがねライバル意識があったのに「うーん、参った」となったのか、論理的に高度で構成の精緻な論文にエネルギーを喰われてしまったの か。どれか一つだけではないような気がする。

その患者は、私が二年ほどみていた女子大生だった。亡くなる前日、このごろ夢が明るくなったのよ、といった。前回、夢が明るくなったのが確実な回復の歩みの始まりだったのを思い出して、私はおろかにも喜んだ。彼女は「今までの着物を脱ぎかえて新しい衣裳にかえて、少しきゅうくつだけど、喜んでいる夢」「花嫁衣裳でまっ白なの」と教えてくれた。翌日、私は白衣につつまれた彼女を見る破目になるのである。このケースは、私には非常な教訓であった。私の師の一人とさえ言ってよいだろう。

ここで次のジンクスも出てくる。あまりに多くのことを医者に教えた患者たとえば一つの治療法を生むきっかけになった患者、いわば多くを医者に与えてしまった患者は、めぐりあわせによってか、その患者の持ち前がそうなのか、特異な運命を辿ることが多いのではないかということである。ブロイアーとフロイトとの患者アンナ・Oのように女性地位向上の大運動家となった人もいるが、ひそかに精神科医が額づきに行く墓標もある。私は次第に、過ぎるよりも足りないほうを選び、いつも「逆鱗の構え」を心がけるようになった。基本的には「待ちの治療」である。

逆に精神科医がすり切れる場合もある。自分の子どもと険悪な関係になるのは水曜の夜が多いことに気づいた。 当時その日は私の「子ども診療日」だった。私の中で何か柔かな生ぶ毛のようなものが費い果されて、家に帰った時には子どもの気持を汲むアンテナが効かなくなっていたのだと思う。私が子どもを特別に診る日を一時やめざるを得なくなるほど、そのことは著しかった。

私のアンテナはどうも不安定だ。朝の外来をはじめて三人から五人目くらいがいちばんよく働き、十人をいくらかすぎると、一人一人に波長を合わせる精度がぐっとおちる。定石しか置けない状態になってしまう。もっとも、一日に一人か二人しか診ない場合には、どうめ気が乗らない診察になる。十人すこしが私の外来の人数の理想らしい。(中井久夫「治療のジンクスなど」1983年『記憶の肖像』所収)


終りが近いから終りは遠い


たとえ知識があろうとも、それだけでは誰にも行動を促すことはできない。…なぜなら、私たちは自分の知識が導く当然の帰結を、自分で思い描けないから。(ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』)
「災禍を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない。(ヤスパース『罪責論』)



--だな。





ジジェク 絶賛のジャン=ピエール・デュピュイの思考については、次の3つを参照されたし。




ここでは①から次の文のみを再掲。


終わりに最も近づいている瞬間にこそ、
終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう
数多くのカタストロフィーが示している特性とは、次のようなものです。すなわち、私たちはカタストロフィーの勃発が避けられないと分かっているのですが、それが起こる日付や時刻は分からないのです。私たちに残されている時間はまったくの未知数です。このことの典型的な事例はもちろん、私たちのうちの誰にとっても、自分自身の死です。けれども、人類の未来を左右する甚大なカタストロフィーもまた、それと同じ時間的構造を備えているのです。私たちには、そうした甚大なカタストロフィーが起ころうとしていることが分かっていますが、それがいつなのかは分かりません。おそらくはそのために、私たちはそうしたカタストロフィーを意識の外へと追いやってしまうのです。もし自分の死ぬ日付を知っているなら、私はごく単純に、生きていけなくなってしまうでしょう。
これらのケースで時間が取っている逆説的な形態は、次のように描き出すことができます。すなわち、カタストロフィーの勃発は驚くべき事態ですが、それが驚くべき事態である、という事実そのものは驚くべき事態ではありませんし、そうではないはずなのです。自分が否応なく終わりに向けて進んでいっていることをひとは知っていますが、終わりというものが来ていない以上、終わりはまだ近くない、という希望を持つことはいつでも可能です。終わりが私たちを出し抜けに捕らえるその瞬間までは。

私がこれから取りかかる興味深い事例は、ひとが前へと進んでいけばいくほど、終わりが来るまでに残されている時間が増えていく、と考えることを正当化する客観的な理由がますます手に入っていくような事例です。まるで、ひとが終わりに向かって近づいていく以上のスピードで、終わりのほうが遠ざかっていくかのようです。
自分ではそれと知らずに、終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう、完全に客観的な理由をひとは手にしているのです。驚きは全面的なものとなりますが、私が今言ったことはみな、誰もがあらかじめ知っていることなのですから、驚いたということに驚くことはないはずです。時間はこの場合、正反対の二つの方向へと向かっています。一方で、前に進めば進むほど終わりに近づいていくことは分かっています。しかし、終わりが私たちにとって未知のものである以上、その終わりを不動のものとして捉えることは本当に可能でしょうか? 私が考える事例では、ひとが前へと進んでも一向に終わりが見えてこないとき、良い星が私たちのために終わりを遠く離れたところに選んでくれたのだ、と考える客観的な理由がますます手に入るのです。(ジャン=ピエール・デュピュイ「極端な出来事を前にしての合理的選択」pdf

ーーだな。

でもこうでもあるんだな・・・

人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。むしろ事態の推移には視線を注ぐまいとして、もろもろの予言や断言が行きかうことになるのだが、そのような場合、人は決してあらゆることを話題にするのではなく、きまって一つの潜在的な主題のまわりだけを旋回する。そしてその潜在的な主題が終りにほかならない。(蓮實重彦『物語批判序説』)



蓮實のこの文は、プルーストの「見出された時」に触れつつこう記しているのだけど、ほとんどみなそうだよな、「事態の推移には視線を注ぐまいとして」、ーー究極的には自分の終りだけは語らずにーー、何かの終りを語ってるんだ。





--「20が本当につながっていなかったらもう終わりですよ」



プルースト 曰くの「まるで恋をしているときのように、目かくしをして新聞を読んでいる」ように、人は目かくししてコロナ対策専門家の「誠実真摯な」見解を傾聴してきたんだろうよ。




ところでなんでこんなこというヤツいるんだろ? そのわけシッテルカイ?





2020年3月28日土曜日

女性恐怖の起源


貪り喰うために探し回る母
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺトロの手紙、58』)
ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.として提示した。(ミレール、,La logique de la cure、1993)

少し前、問われて示したと思うけどな。女にパックリやられるのは、男は怖いよ、だから女性恐怖だよ。ラカンだけの問題ではまったくない。

男が女と寝るときには確かだな、…絞首台か何かの道のりを右往左往するのは。[monsieur couche avec une femme en étant très sûr d'être… par le gibet ou autre chose …zigouillé à la sortie.] ……もちろんパッションの過剰 excès passionnelsに囚われたときだがね。(Lacan, S7, 20 Janvier 1960)
女-母とは、交尾のあと雄を貪り喰うカマキリみたいなもんだよ。(ラカン S10, 1963, 摘要訳)

要するにこういうのを示しても繋がらないないんだろうな、

フロイト版も含めてもう少し示しておくよ、母親になったら、子供が可愛くて食べてしまいたいってあるだろ? これが女性恐怖の起源だよ。少なくともフロイトラカン派においては、その主要な起源だね、

可愛くて食べてしまいたい
愛の予備段階は、暫定的には性的目標 Sexualziele としてあらわれるが、他方、性欲動Sexualtriebeのほうも複雑な発達経過をたどる。すなわち、その発達の最初に認められるのが、合体 Einverleiben ないし「可愛くて食べてしまいたいということ Fressen」である。これも一種の愛であり、対象の分離存在を止揚することと一致し、アンビヴァレンツと命名されうるものである。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に貪り喰われてしまうaufgefressenというのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト『女性の性愛』1931年)
母なるパックリ穴
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは、「母の欲望」であり、「原穴の名」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)

もう少し穏やかに言えば、人間には分離不安派と融合不安派がある。幼少期、しばしば母不在を経験すれば分離不安をもちエロス人格・愛を憧憬する人格となる。母の過剰現前を経験すれば融合不安をもちタナトス人格・独立志向の人格となる。女性嫌悪や女性恐怖とはこのタナトス人格のひとつ。融合不安というのはパックリ不安だから。パックリじゃなくてもオッパイおしつけられて息ができないってのでもいいさ。

これはもちろん発達段階における各人の多様性があるのでーーたとえば乳児期、母の過剰現前を経験してもその後(たとえば年子が生まれたり母が仕事に出かけたりなどして)母の不在を経験すれば複雑化する、つまりエロスとタナトスの欲動混淆人格となりこれが標準だろうーー、だからあくまでひどく単純化して言っているが、基本的には男女ともこうである。

分離不安と融合不安
最初の母子関係において、子供は身体的な未発達のため、必然的に、最初の大他者の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を引き起こす。…そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。この原不安は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話役としてもよい。寄る辺ない幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安がある。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安と呼びうる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)


ラカンの穴とはフロイトのエロスの引力のこと。融合引力またはブラックホール。これに引かれ過ぎたらほんとにパックリやられて死んでしまうから、タナトスという分離斥力が働く。ここがいまだほとんどのフロイト研究者でさえわかっていない(参照)。日本ラカン派だってあやしい。だからふつうの人がサッパリでもしょうがないけど。

愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がたぶんある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト『人はなぜ戦争するのか Warum Krieg?』1933年)
エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)
同化と反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果…an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy; (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1999)
S(Ⱥ) としての母なる超自我 surmoi mère…この思慮を欠いた(法なき)超自我は、母の欲望にひどく近似している。それは、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996より)



ま、ここで示した解釈がゼッタイと言うつもりはないが、ボクはミレール とそしてバーハウの解釈を全面的に受け入れているってことだな。

エロス欲動は大他者と融合して一体化することを憧憬する。大他者の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か?それは、主体は己自身において存在することを止め、大他者との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)である。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は大他者からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの分離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject, 2005年)

➡︎「享楽=愛=死