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2020年4月30日木曜日

神壽ぎ壽ぎ狂ほし

いまさらだがやっぱり古語というのは音調だね、

コノミキハ
ワガミキナラズ
クシノカミ
トコヨニイマス
イハタタススクナミカミノ
カムホキホキクルホシ
トヨホキホキモトホシ
マツリコシミキゾ
アサズオセ
ササ

ーー「カムホキホキクルホシ/トヨホキホキモトホシ」なんてうっとりしちゃったよ


天天读书 古事-4
此御酒者 非妾所釀
 其釀此酒者 乃居常世國 為石神而立 少名毘古那神是也
 其賀汝而狂舞 迴繞酒甕舞蹈 因以釀造 是而獻上 是願君盡飲



此の御酒は
吾が神酒ならず
神酒の司
常世に坐す 
石立たす
少御神の 
神壽ぎ壽ぎ狂ほし
豐壽ぎ壽ぎ廻し
獻り來しみ酒ぞ
涸ず飮せ
ささ 
(折口による)



で「カムホキホキクルホシ/トヨホキホキモトホシ」ってのはこういう感じだな、




実に美しい。いろいろ眺めてみたがこれが一番よい。巫女の痙攣と表したくなる。覗姦感覚を与えてくれるのもよいとはいえ、なによりもまず、身体の脈動、首の仰け反り、手の表情、若々しい肌、さらにいえばこの少女の清潔感に魅了される。


自慰は本質的に自体性愛的である[Masturbation is essentially auto-erotic](ポール・バーハウ『孤独の時代の愛 Love in a Time of Loneliness』1998)
自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性理論三篇』1905年)


男の自慰とはどこか滑稽感がある、ーーとボクが感じるのは男のせいだろうか。

15歳から16歳ぐらいのあいだは1日3回ぐらいやっていたが(?)、あの最も元気のよい時期でも彼女のような享楽を得ることは決してなかった。

フロイトの自体性愛とはラカンの享楽である。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


このジャック=アラン・ミレールの言っていることは次の3文を読めば確認できる。

われわれは口唇欲動 pulsion oraleの満足と純粋な自体性愛 autoérotisme…を区別しなければならない。自体性愛の対象は実際は、空洞 creux・空虚 videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)
例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  (ラカン, S11, 20 Mai 1964)
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]。…それは、喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

彼女は自慰することによって、たんなる腰の奥の力の圧力抜きではなく、永遠に喪われている享楽の対象の周りを循環していると言ってみたくなる。男にはこれは決してない。

ここでは自慰ばかり強調したが、より厳密な意味での「自体性愛=享楽」については、「すべての愛の関係の原型」を参照されたし。



2020年4月29日水曜日

折口の女性恐怖の彼岸

前回わずかに引用した文を見てもわかるだろうようにーーとくに三種類の処女、神の嫁、祀られた母等ーー、同性愛者かつ女性恐怖症者の折口信夫には女性への憧憬の叙述がふんだんにある。

以下の飯田真氏の折口論は「正しい」だろう(氏は中井久夫の友人で共著もある)。


飯田眞「折口信夫 診断日本人」より
里子・自殺企圖
折口信夫は明治二十年、大阪に生まる。父は婿養子にて醫を本業とし、さらに家業の生薬屋を兼ぬ。幼時一時大和小泉に里子に出され、木津小學校を經て明治三十二年に大阪府立第五中學に入學せり。明治三十五年五月(十六歳)父死亡す。明治三十七年、卒 業試驗に落ち、その前後に數囘の自殺企圖あり。されど翌三十八年(十九歳)には同校を卒業し得たれど、醫科を學ばせむとする家人の意を斥け、國學院大學に入學、同四十三年、拔群の成績にて卒業するや、釋迢空の號を初めて用ゐる。…
祖父・父・母
折口信夫の生家は古く續ける生藥屋なりき。信夫誕生當時の家族は、兩親の他、曾祖母、祖母、二人の母方の叔母、姉、三人の兄にて、後に弟二人生まる。「祖父は、飛鳥ニ坐ス神社の神官の子なりしが、折口家の養子となり、醫を本業とし、舊來の家業を兼ぬるも、 差別なく部落民の治療に當り、その徳人より慕はれれたり。父は壻養子として折口家に入り、 祖父の跡を繼げるも、氣むつかしく、荒々しき氣性の人にて、晩年には患者を診ること少なかりし。母はいはゆるお孃さん育ちにて、わがままなる人なりしが、父には痛々しく思はるゝ程 よく仕へ、父の代診をつとむるなど、獨身なりし叔母二人と家業を切り廻したり。」(『母と子』) 恐らく信夫の父は、母系家族に對する一種の反逆兒にてはなからんかと想像せらる。
里子、遠くにある母の影
信夫が幼年時代の資料極めて乏しけれども、『古代感愛集』に收められたる「幼き春」「乞丐 コツガイ 相」「追悲荒年歌」などの詩の中にうたはれし、幻想の織り込まれたる幼時の囘想を讀まんか、そが傷ましさ、想像を絶するものあり。「わが父にわれは厭はえ、我が母は我を愛 メグまず、兄姉と心を別きて、いとけなき我を育 オフ しぬ」(「幼き春」)「父のみの父はいまさず、ははそばの母ぞかなしき。はらからの我と我が姉、日に夜に罵 コロ ばえにけり」 (「追悲荒年歌」)。斯くのごとき彼の不幸なる幼年時代を決定づけたるものは、幼時の一時を里子に出されたることなり。里子に出されたる年齡、期間の詳細は明らかならざるも、このために幼年時代の信夫は母との對象關係斷ち切られたれば、我は見捨てられたりと感じ、 母の影は遠くのもの、覺束なきものとなりたりと推測せらる。
父への反感憎惡、祖父への憧れ
一方、父との對象關係も十分なるものにてはなく、當時「年と共に氣むつかしくなり、家人とも樂しげに話をかはすこともなく、母と顏をあはすことも嫌ひたり」(『母と子』) 父によりて彼の孤獨感の瘉されるべきすべもなかりし。かへりて父は母を信夫より遠ざくるていの人物なれば、部落民を診察することを拒否し、祖父の里との交際を斷つといふがごとき父の粗暴なる行爲は、幼き信夫の心に消しさりがたき父への反感、憎惡を生み、彼の出生前に死亡したる祖父への止みがたきあこがれと幻想的なる同一視おこり、祖父を父批判のよりどころとする結果となりたるがごとし。父に對する憎しみの激しきことは『近代悲傷集』の「すさのを」の 詩篇からも容易にうかがひ知らる。
母代りの叔母えい姉あい・姉との近親相関近似関係・姉との同一化
幼年時代の信夫は、母代りの叔母えい、姉あいによりて育てられたるならん。殊に八歳年上の姉とは、互ひに孤獨なる魂を温め合ふかの如くに親密にて、近親相姦的關係に近かりしかと想像せらるる節さへ見ゆる。「わが御姉 ミアネ 、 我を助けて、かき出でよ、汝が胸乳 ムナヂ 、あはれわれ、死ぬばかり、いと戀し、汝が生肌 イキハダ 」(「すさのを」) 晩年の『死者の書』におきても主人公大津皇子は、その刑死を萬葉集の中にてもつとも哀切なる同母姉大伯皇女への追慕によりて鎭魂せられたる皇子なり。 折口の中將姫を登場させたるは韜晦にてはなからむか。かくのごとき幼時の異常なる關係より自己の男性性との葛藤をおこし、去勢恐怖、さらには姉との同一化おこり、その結果異性愛が封じられ、これが後年の彼の女性恐怖、同性愛的傾向の發展につながるものと精神分析的に解釋釋すること可能なり。
兩親より遺棄
いづれにせよ幼年時代の信夫は、兩親よりいはば遺棄され、しかもそれを被虐的に自己に關係づけたれば、兩親との對象關係正常に發展せず、ために生に對する信頼感が弱く、 生命否定的となり、男性としての十分なる性的同一性を確立することのできなかりしことは疑ひなき事實なれば、これが彼の分裂氣質的人格の形成、恐怖症の發展を促し、同時に信夫を同性愛に導く要因となりたることは確實なり。
自己愛的・被害者意識
晩年の信夫と起居を共にせる加藤守雄の『わが師折口信夫』、岡野弘彦の『折口信夫の晩年』を讀むに、信夫の人柄、日常生活には、われわれ精神科醫が興味そそらせらるる部分、少なからず。

加藤は信夫の人間的印象につき次のごとく記す。「一オクターブ高き聲、なで肩にて丸味 ある體つき、いんぎんなる物腰、自己愛的、女性的なり」「氣性はげしく我が儘なる性格、惡意ある批評や自分を傷つけむとせる言論には痛烈に反撥、反應過敏にて被害者意識つよく、先生が怒りは、不當にいためつけられたる自我を囘復せむがための闘ひ」「電話のベルにて過敏に怖る。相手の正體のわかるまで安心できず」。これらの記述より推察しうる信夫は、過敏、自己愛的、人間不信的、被害的傾向を有する分裂氣質に屬する人と言ひえむ。
極度の潔癖・女性恐怖・饑餓恐怖・極端な刺激物嗜好
彼の日常生活にはかなりの奇行目につく。その第一は極度に潔癖なることにて、書庫や部屋の埃を嫌ひ、他人の手が觸れたる襖、障子の把手は着物の袖にて摑み、電車の吊皮を持つときは手袋やハンチングを使ふなど直接自分の手にては觸れず(岡野)、フライパンをクレオソートにて消毒し、手に觸るるものはアルコール綿にて拭く(加藤)など、不潔恐怖の症状とも見られむ。

第二は女性恐怖にて、恐らく此が第一の不潔恐怖の原型と考へ得るものにて、女性を不潔視し、身邊にはほとんど女性を近づけず、食事は女性に作らせず、妻帶者の弟子の入りたる風呂には入らず、電車、バスの中にて女性の髮の毛觸るれば、すさまじき嫌惡感を示せり(岡野)。信夫の恐怖覺えざる女性は、親族の他はおそらく身邊にありし老婢、あるいは 「神の嫁」としての巫女的なる役割にとどまりをりたる女性ならむ。
第三は饑餓恐怖とも稱せらるゝ一種の貯藏癖にて、戰爭末期より戰後にかけての時期、護符の如くに硼砂入りの四斗の米を貯へをりたり。他人より贈られたる果物などは腐敗せるものも捨てずにとりおきて、奇妙なる果實酒を作るなど致したり(岡野)。

第四は刺戟物に對する極端なる嗜好にて、三十種にも及ぶ茶を常備し、ジンジャーエール、 コーヒーを好みたり。齒磨きは薄荷、樟腦、クレゾールなどを加へたる自家製のものを用ゐ、 ロートエキスの錠劑を愛用し、息の詰らむばかりのユーカリ油をマスクに垂らすこともありたり。 子供の頃には樟腦を齧りしことありたると言ふ。その極點に當れるはコカインに對する嗜癖 にて、大正末期より昭和初年にかけてはかなり濫用し、その結果晩年にはほとんど嗅覺失はれたり(岡野)。因に彼が旅行の際には愛弟子の誰かを同行したる他、必ず數種の茶、胃腸藥、アルコール綿を携行したり(岡野)。




……


※付記

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)
男性の同性愛者の女への愛 L'amour de l'homosexuel pour les femmes は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「女というもの Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。

男性の同性愛者は、その人生において少なくとも一人の女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。男性の同性愛者の母への愛は、他の性への欲望 désir pour l'Autre sexe のこよなき防御として機能する。…

私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、…ラカンがセミネール「無意識の形成」にて例として覆いを解いた男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。(Pour vivre heureux vivons mariés par Jean-Pierre Deffieux、2013 )
われわれが調べたすべての事例について確認されたのは、のちに性対象倒錯者(男性の同性愛者)になった者は、その幼児期の初めの数年に、非常に強烈な、だが短期間の女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着)の時期をへてきていることである。そしてその女への固着を克服して、女との同一化 sie sich mit dem Weib identifizieren をし、自分自身を性対象 Sexualobjekt として選ぶようになる。すなわち、ナルシシズムから出発して、自分自身に似た男性を探し求める。そしてこの母との同一化した者たちは、母が彼らを愛したように、この彼らに似た若い男を愛する。

さらに、われわれはまた実にしばしば見出したのは、この性対象倒錯者たちが女性の魅力 Reiz des Weibesにまったく無感覚なのではなく、女性によって惹起された興奮 Erregung をたえず男性の対象に移行させている männliches Objekt transponierten ということである。彼らはこうして、その全生涯にわたって性対象倒錯を成立させたメカニズムを反復している。男性への強迫的追求 zwanghaftes Streben は、彼らの「やむことなき女からの逃避 ruhelose Flucht vor dem Weibe」によって決定づけられていることがわかった。(フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)

母との同一化 Mutteridentifizierungは、母との結びつき Mutterbindung の替りになるablösen 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
子供は自分自身を母の場に置きindem er sich selbst an deren Stelle setzt、母と同一化 Mutter identifiziert し、彼自身をモデルVorbild にして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母への愛を抑圧する verdrängt die Liebe zur Mutter。…このようにして同性愛者となった者は、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着 Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 der Mutter treu な者となる。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910年)
少年は母を捨てないで verläßt nicht 自分を母と同一化 identifiziertして、彼女の中に自分を転化してwandelt 、いまや彼の自我の代理となるような対象を求め、その対象を彼が母から経験したように愛し慈しむ lieben und pflegen のである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)



…………


あゝ耳面刀自。…おれはまだお前を……思うてゐる。おれはまだ、お前を思ひ續けて居たぞ。耳面刀自。こゝに來る前から……こゝに寢ても、……其から覺めた今まで、一續きに、一つ事を考へつめて居るのだ。(折口信夫『死者の書』) 
をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉體と一つに、おれの心は、急に締めあげられるやうな刹那を、通つた氣がした。俄かに、樂な廣々とした世間に、出たやうな感じが來た。さうして、ほんの暫らく、ふつとさう考へたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去つた――おれ自分すら、おれが何だか、ちつとも訣らぬ世界のものになつてしまつたのだ。あゝ、其時きり、おれ自身、このおれを、忘れてしまつたのだ。足の踝が、膝の膕が、腰のつがひが、頸のつけ根が、顳顬が、ぼんの窪が――と、段々上つて來るひよめきの爲に蠢いた。自然に、ほんの偶然強ばつたまゝの膝が、折り屈められた。だが、依然として――常闇。

をゝさうだ。伊勢の國に居られる貴い巫女――おれの姉御。あのお人が、おれを呼び活けに來てゐる。(折口信夫『死者の書』) 



七処女は、何のために召されたか。言うまでもなくみづのをひもを解き奉るためである。…みづのをひもを解き、また結ぶ神事があったのである。…みづのをひもは、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。…そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。(折口信夫『水の女』)
我々の幼い頃、京都辺で、夜、きむすめといふものがよく見えると言はれました。処女(キムスメ)の意味と、木が娘の姿に見える、といふ二つを掛けた、しやれた呼び名だつたのです。(折口信夫「万葉集に現れた古代信仰――たまの問題――」)




まれびとのたたり


女のたたり
神の外立 l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。その理由で「女というものは存在しない」のである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (ラカン、S23、18 Novembre 1975)
享楽のたたり
享楽は外立する la jouissance ex-siste (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)
女の孔徳の容にそって唯一道は進む。この道が物を為すのは、唯一恍惚の中である。[孔徳之容、唯道是従。道之為物、唯恍唯惚](老子『道徳経』第二十一章)
古井:(ハイデガーの)エク・スターシスek-stasisとは本来、自身の外へ出てしまう、ということです。忘我、恍惚、驚愕、狂気ということでもある。(古井由吉・木田元「ハイデガ ーの魔力」2001 年)


ーー《たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。》(折口)


異者のたたり(まれびとのたたり)
外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence (Lacan, S22, 11 Février 1975)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne [] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976

モノを 、フロイトは異者(まれびと)とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
モノは享楽の名である。das Ding[] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)




以下、折口信夫を引用するが、後期ラカンと直接的に結びつけるつもりはいまのところそれほどない(蚊居肢流逆言法?)。ただ表現群の近似性があるということは言える。後期ラカンの思考はエディプスの彼岸、つまり一神教的「父の名」ではなくいわば多神教的「父の諸名」の領野ーーその起源は「母の名」ーーにあるため、古代日本の思想家折口と似てくるのかもしれない(とだけここでは言っておこう)。


折口信夫「國文學の發生(第三稿)まれびとの意義」初出1929年
客とまれびと
客をまれびとと訓ずることは、我が國に文獻の始まつた最初からの事である。從來の語原説では「稀に來る人」の意義から、珍客の意を含んで、まれびとと言うたものとし、其音韻變化が、まらひと・まらうどとなつたものと考へて來てゐる。形成の上から言へば、確かに正しい。けれども、内容――古代人の持つてゐた用語例――は、此語原の含蓄を擴げて見なくては、釋かれないものがある。…
まれびとと神
私は此章で、まれびとは古くは、神を斥す語であつて、とこよから時を定めて來り訪ふことがあると思はれて居たことを説かうとするのである。…

てつとりばやく、私の考へるまれびとの原の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村々に、海のあなたから時あつて來り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る靈物を意味して居た。……
「外に立つ」(トに立つ)神
にほどりの葛飾早稻をにへすとも、彼の可愛しきを外に立てめやも誰ぞ。
此家の戸押ふる。にふなみに、我が夫を行りて、齋ふ此戸を

此二首の東歌(萬葉集卷十四)は、東國の「刈り上げ祭り」の夜の樣を傳へてゐるのである。にへは神及び神なる人の天子の食物の總稱なる「贄」と一つ語であつて、刈り上げの穀物を供ずる所作をこめて表す方に分化してゐる。…
にへする夜の物忌みに、家人は出拂うて、特定の女だけが殘つて居る。處女であることも、主婦であることもあつたであらう。家人の外に避けて居るのは、神の來訪あるが爲である。

「戸おそふる」と言ひ、「外に立つ」(トに立つ)と謠うたのは、戸を叩いて其來訪を告げた印象が、深く記憶せられて居たからである。とふはこたふの對で、言ひかけるであり、たづぬはさぐるを原義として居る。人の家を訪問する義を持つた語としては、おとなふ・おとづるがある。音を語根とした「音を立てる」を本義とする語が、戸の音にばかり聯想が偏倚して、訪問する義を持つ樣になつたのは、長い民間傳承を背景に持つて居たからである。祭りの夜に神の來て、ほと〳〵と叩くおとなひに、豐かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬とに縮みあがつた邑落幾代の生活が、産んだ語であつた。だから、訪問する義の語自體が、神を外にして出來なかつたことが知れるのである。新甞の夜に神のおとづれを聽いた證據は、歌に止まらないで、東の古物語にも殘つて居た。母神(御祖神)が地上に降つたのは、偶然にも新甞の夜であつた。姉は、人を拒む夜の故に、母を宿さなかつた。妹は、母には替へられぬと、物忌みの夜にも拘らずとめることにした(常陸風土記)。
賓客の待遇は神に對するとおなじ
繰り返へして言ふ。我が國の古代には、人間の賓客の來ることを知らず、唯、神としてのまれびとの來る事あるをのみ知つて居た。だから、甚稀に賓客が來ることがあると、まれびとを遇する方法を以てした。此が近世になつても、賓客の待遇が、神に對するとおなじであつた理由である。だが、かう言うては、眞實とは大分距離のある言ひ方になる。まれびとが賓客化して來た爲、賓客に對して神迎への方式を用ゐるのだと言ふ方が正しいであらう。まれびととして村内の貴人を迎へることが、段々意識化して來た爲に、そんな事が行はれたのだ。

折口信夫「「しゞま」から「ことゝひ」へ」
歌垣の起源とまれびと
日本の歌垣も支那の踏歌も、源流は一つなる農産呪術で、地霊を孕ませる為の祭事である。其が後には、人の行為に農神を感染させようとするものと言ふ風に考へて来た。併し元々、新に来た「まれびと」と穀物の神との間の誓言の「言ひかけ」に始まり、更に「とつぎ」を行うて、効果を確実ならせようとするのである。群衆客神と群衆巫女との様な形になつて来てはゐるが、実は根本思想はそこにあつたのである。「まれびと」の「ことゝひ」に対して、答へる形が段々様式化して、歌垣の「かけあひ」の歌となる。後には其も、文句がきまつて来て、「かけあひ」としての興味と、原義を失うた地方もある。筑波の嬥歌会の如きはさうしたものになつてゐたらしい。而も他の方では、依然即興の歌をかけあうて居たと見られる。歌垣・嬥歌会・小集会皆初春の行事であつたのが、今一度秋冬の間に行ふ様にもなつた。感謝の意味から出たのであらう。

折口 信夫「古代生活に見えた恋愛」初出1926年
三種類の処女
一体、日本の処女の中で、歴史的に後世に残る処女といふものは、たつた一つしかない。其女といふのは神に仕へて居る処女だけであります。昔から叙事詩に伝へられて残つて居る処女といふものは、皆神に仕へた女だけであります。今で言へば巫女といふものであります。其巫女といふものは、男に会はないのが原則であります。併し、日本にも処女には三種類ありまして、第一の処女は私共が考へてゐるやうに、全く男を知らない女、第二の処女は夫を過去に持つた事はあるが、現在は持つて居ないで、処女の生活をして居る。つまり寡婦です。それからもう一つがあります。其は臨時の処女なのです。新約聖書を読みましても訣ります様に、家庭の母親なるまりあが処女の生活をすると言ふ事があります。或時期だけ夫を近寄らせないと言ふ事、其だけでも処女と言はれるのであります。つまり、全然男を知らない処女と、過去に男を持つたけれども、現在は処女の生活をして居るものと、それからもう一つは、ある時期だけ処女の生活を保つて居るものと、此三種類であります。
神の嫁
一体、神に仕へる女といふのは、皆「神の嫁」になります。「神の嫁」といふ形で、神に会うて、神のお告げを聴き出すのであります。だから神の妻になる資格がなければならない。即、処女でなければならない。人妻であつてはならない。そこで第三類の処女と言ふものが出来てくる。人妻であつても、ある時期だけ処女の生活をする。さういふ処女の生活が、吾々の祖先の頭には、深く這入つて居たのであります。

折口信夫「「ほ」・「うら」から「ほがひ」へ」
「志ゞま」の「ほ」
「志ゞま」を守る神の意向は、唯「ほ」によつて表される。その上一旦、「志ゞま」の破れた世になつても、「ほ」を以て示す事の屡あることは、前に述べた。我が文学なる和歌に、「ほに出づ」「ほにあらはる」「ほにあぐ」など言ふ歌詞が、限りなく繰り返されてゐて、その根本の意義はいまだに漠としてゐる。必学者は秀や穂を以て解決出来た様なふりで居る。併し、ほぐと言ふ語の語原を説いた後に思ひあはせれば、今までの理会は妙なものであつた事に心づく事と思ふ。
神のたたり
後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。…

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。ところが此処に考へねばならぬのは、善い意味の神は「そしり」「ことゝひ」を自在にするが、わるい意味の神又は、含む所があつて心を示さない神が、専ら「ほ」を示す事に変つて来る。「ほ」の意味の下落でもあり、同時に「ほ」なる語の用ゐられなくなつた一つの原因とも思はれる。

折口信夫「古代生活に見えた恋愛」初出1926年  
一夜妻の起源
…神祭りの時に、村の神に扮装する男が、村の処女の家に通ふ。即、神が村の家々を訪問する。その時は、家々の男は皆出払つて、処女或は主婦が残つて神様を待つて居る。さうして神が来ると接待する。つまり臨時の巫女として、神の嫁の資格であしらふ。「一夜妻」といふのが、其です。決して遊女を表す古語ではなかつたのです。此は語学者が間違へて来たのも無理はありません。一夜だけ神の臨時の杖代となる訣なのです。
神の子
村の若い男――一定の年齢の期間にある男、前に言つた元服をした男は、神に扮装する義務と、権利とがあつた訣なのです。一年の間に其神が、村の家々に来り臨む日がある。其日に神に姿をやつして、村の家々へ行く。さうすると巫女なる女が残つて居て、即まれびとを接待して、おろそかにせないのです。つまり神が其家へ来られたのを饗応する。

ところが段々其意味が忘れられて来まして、唯の若い衆である所の男が――神の資格を持たない平生の夜にも、――処女のある家には、通ふといふ風習に変つて参りました。だから、単なる村の人口を殖さうなどゝいふ考へから出た交訪ではなくて、厳粛な宗教的の意味から出発してゐたのです。若い衆は神の使ひ人、同時にある時期には、きびしい物忌みをして神になるものといふ信仰から出た制度であります。其で、神が来臨する祭りの夜は、男は皆外へ出払つて居つて、巫女たるべき女が残つて居る。さうした家々へ神人が行く。饗応をも受ければ、床も共にして、夜の明けぬ前に戻る。さうして若しも其晩子が寓ると、言ふまでもなく神の子として、育てたのです。決して人間の胤と考へない。



祀られた母の国
すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)
……「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)

偉大な母なる神
偉大な母なる神 große Muttergottheit⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)
偉大なる母、神たちのあいだで最初の「白い神性」、父の諸宗教に先立つ神である。la Grande Mère, première parmi les dieux, la Déesse blanche, celle qui, nous dit-on, a précédé les religions du père (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME   2015)

父の諸名に先立つ母の名 le nom de la Mère
ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかにこうある。父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)
ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)






2020年4月28日火曜日

嗚呼ある感染症蔓延の近未来の悲哀!


わたくしは批判なきを憂うる。共感なきを憂えない。天下は共感に富める人の多きに堪えない。


同一化の機制
(自我が同一化する際の或る場合)この同一化(同一視)は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。…そして共感は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。

…同一化は対象への最も原初的感情結合である Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist。…同一化は退行の道 regressivem Wege を辿り、自我に対象に取り入れIntrojektion des Objektsをすることにより、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)

被害者との同一化
最後に、ある自戒を述べなければならない。被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』所収)

➡︎変奏
生活困窮者の側に立つこと、困窮者との同一化は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、その場限りの庶民擁護の名目での無責任な、「未来の庶民」の視点なき消費税反対運動の歴史であり、その帰結としての巨額財政赤字累積という負の側面の忘却である。この結果、現在のような危機に陥った時、国民を援助するための赤字国債発行の余裕が僅かしかない。生存権を脅かされている困窮者のみの援助に資金集中させねば困窮者全員を救済することさえ難しい財政状況である。

10万円給付はもともと生活に困っている人への緊急補償であり、しかしスピード重視で全国民(全世帯)に申請書を一律配布しただけである。だが多くの国民や知的退行症に冒されているオピニオンリーダーたちは、無闇に全員一律給付を叫ぶのみで、彼らの緊急補償を速やかに求める政府パッシングは、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わっている。あの連中は、国民全員への一律給付は結果的に真の生活困窮者いじめになりうることを須臾の間も疑ったことがないらしい。嗚呼悲しみ更に深し!


(日本の財政関係資料財務省 令和元年10月」PDF )



世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してもそうすることである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)


仮にコロナ禍が2年続くなら、一律給付10万円(12兆円)が3ヶ月に1度なされると2年間;12兆円×8 = 96兆円である。生活補償の為だけでの、この巨額の赤字国債発行は日本の財政状況ではありえない。1年でも難しい。本来、一律給付の対象者を絞らなければならない。たとえば2000万人に絞れば、2年間でも16兆円である。

実際は1000万人から1500万人としたいとことだが、医療関係者とくに看護師は「前線の兵士」として月当たり30〜50万円ぐらいは最低限別途支給すべきだろう(安倍もコロナ対応医療従事者の給料倍増施策を口にしている)。





生活困窮者以外は何よりもまずあれらコロナ対応の医療従事をされている方たち、あれら身体的かつ精神的困窮者を補助しなくてはならない。インフラ等の維持をするため危険を冒しても必ず働かねばならないエッセンシャルワーカーも戦時には格別の補助の対象である。これらを加味しての、1000万人ではなく2000万人相当の補助金額がわたくしの念頭にある。







とはいえこの「昇龍」図である。コロナ戦争前に既に太平洋戦争末期以上に債務残高率があがってしまっているのである。太平洋戦争終結後に何が起こったかぐらいは知っておくべきではなかろうか。

荷風戰後日歴 永井荷風昭和廿一年
二月廿一日。晴。風あり。銀行預金拂戻停止の後闇市の物價また更に騰貴す。剩錢なきを以て物價の單位拾圓となる。
三月初九。晴。風歇みて稍暖なり。午前小川氏來り草稿の閲讀を乞ふ。淺草の囘想記なり。町を歩みて人參を買ふ。一束五六本にて拾圓なり。新圓發行後物價依然として低落の兆なし。四五月の頃には再度インフレの結果私財沒收の事起るべしと云。去年此日の夜半住宅燒亡。藏書悉く灰となりしなり。


太平洋戦争は、国民の貯蓄を悪性インフレによってチャラにすることで帳尻を合わせたが、それは戦時中には誰にも思い寄らないことであった。(中井久夫「戦争と平和ある観察」2005年)




嗚呼ある感染症蔓延の近未来の悲哀! 嗚呼国民集団としての日本人の無責任ぶりや更に悲しむべし。


集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)
大衆は怠惰で短視眼である die Massen sind träge und einsichtslos。大衆は、欲動を断念することを好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題のことをする。(フロイト『あるイリュージョンの未来の錯誤Die Zukunft einer Illusion』第1章、1927年)

もちろんこう記してもムラビトたちは決して納得しないのはよく解っている。ムラビトは現在に生きるのみで、わずか2年程度の長期の視点もまった欠けており、それどころか国の台所事情にまったく無関心・無知だから。

もっとも彼らがあの如くであるのは地震国日本に生まれ住む構造的な問題があり、ある程度はやむなきことではある。

中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(中井久夫「日本人がダメなのは成功のときである」初出1994年『精神科医がものを書くとき』所収)
日本という国は地震の巣窟だということ。大水、噴火、飢餓なども、年譜を見ればのべつ幕なしでしょう。この列島に住み、これだけの文明社会を構築してしまったという問題があります。(古井由吉「新潮45」2012 年1 月号 )








2020年4月27日月曜日

蛸壺インテリとその同盟者たち

おい、「消費税の代りに姑息に社会保険料増」ってのはコモンセンスを言っただけだがな、そこらへんのバカ学者に依拠して文句言ってくんなよ。


かつて渡辺一夫はこう言ったが、現在も似たようなもんだよ。ひょっとしてさらに悪化しているかもしれない。


知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)


以下の二文は韓国の知識人と比較された日本の知識人だが、それは韓国には限らない。

韓国と日本では知識人の基準が少し違う。日本では何らかの専門家であることが必要である。しかし、それでまあ十分である。韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校で二ヶ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である。この家(中井久夫が下宿したY夫人家:引用者)に来訪する韓国の知識人との交際はこよなく洗練され高度なものであった。夫人との毎晩の四方やま話も尽きなかった。当時の私は韓国から毎日出稼ぎに日本へ行っては毎晩帰っているようなものであった。三年間私は文化的に韓国に住んでいた。おそらく、その最良の部分の一端に触れていた。(中井久夫「Y夫人のこと」1993年『家族の深淵』所収)
キム・ウチャン教授と知り合ったのは、一九八〇年代アメリカにおいてであった。以後、アメリカと韓国で何度もお会いしている。韓国の雑誌で対談をしたこともあり、一緒に講演をしたこともある。私が最も印象づけられたのは、キム教授の東洋的な学問への深い造詣であった。たとえば、私がカリフォルニア大学ロサンジェルス校で教えていたとき、キム教授は同アーヴァイン校で儒教について講義されていた。英文学者でこんなことができる人は日本にはいない。というより、日本の知識人に(専門家を別にして)、こんな人はいない。さすがに韓国きっての知識人だな、と思ったことがある。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)


要は、古典的な丸山真男の言う日本の学問の専門領域の閉鎖性(タコツボ化)」は是正されるどころかいっそうタコツボインテリが跳梁跋扈するようになっているのじゃないかね、そう思わざるをえないな。

タコツボ概念の基本はネット上にいくらでも落ちているので、少し別の角度からの丸山の発言、「タコツボ内部には自由がある」を掲げよう。

自由が狭められているということを抽象的にでなく、感覚的に測る尺度は、その社会に何とはなしにタブーが増えていくことです。集団がたこつぼ型であればあるほど、その集団に言ってはいけないとか、やってはいけないとかいう、特有のタブーが必ずある。

 ところが、職場に埋没していくにしたがって、こういうタブーをだんだん自覚しなくなる。自覚しなくなると、本人には主観的には結構自由感がある。これが危険なんだ。誰も王様は裸だとは言わないし、また言わないのを別に異様に思わない雰囲気がいつの間にか作り出される。…自分の価値観だと思いこんでいるものでも、本当に自分のものなのかどうかをよく吟味する必要がある。

 自分の価値観だと称しているものが、実は時代の一般的雰囲気なり、仲間集団に漠然と通用している考え方なりとズルズルべったりに続いている場合が多い。だから精神の秩序の内部で、自分と環境との関係を断ち切らないと自立性がでてこない。

 人間は社会的存在だから、実質的な社会関係の中で他人と切れるわけにはいかない。…またそれがすべて好ましいとも言えない。だから、自分の属している集団なり環境なりと断ち切るというのは、どこまでも精神の内部秩序の問題です。(「丸山真男氏を囲んで」)

ツイッターにたくさんあるクラスタってのは明らかにタコツボ村だな。で壺内でとってもジユウなんだろうよ。あの衆愚生成装置のなかの細分化されたクラスタで。

かれらも自分の財布にはとっても関心あるようだが、国の財布にはゼーンゼン関心ないようだがね、ま、文学教師だったらしょうがないけど、ーー少しまえ内田樹やら想田和弘や田中純やら堀茂樹やら、もっとひどいのになると…なんだっけな、名前わすれちまったよ、三田の編集長やってたらしいカトリック教師だけど…だいたい慶応ってのは掛け算割り算できなくても教授になれるらしいなーーこういった連中らにあきれ返ったことあるけどさ、政治学者や社会学者までなんであんなアホなんだろ、とくに立憲とか共産とか言ってる奴ら。たとえばチガヤっていうのいるけどさ、なんであんなに吹っ飛んでんだろ?ナーンニモ知らないんだろうよ、政局は好きらしいが政局ってのは政壺にしたらどうだろ?

ま、でも国と家計のちがいはあるよ、国には徴税権があるからな。これだけだ、違いは。東北大震災で「ワズカ」11.6兆円借金して、それを返すためにきみらは所得税上げられて25年払いしてんのぐらい知ってるかい? 






まだ15年あるんだぜ。でコロナ震災でいくら借金するんだろ、何年かけて国民は返すんだろ? ま、学者でさえ玉手箱派ばっかりだとな、衆愚がそうなのはしょうがないがね。




浅田が2年前こう言っていたけれどさ。

ネット社会の問題⋯⋯⋯。横のつながりが容易になったが、SNS上で「いいね!」数を稼ぐことが重要になった。人気や売り上げだけを価値とする資本主義の論理に重なります。他方、一部エリートにしか評価されない突出した作品や、大衆のクレームを招きかねないラディカルな批評は片隅に追いやられる。仲良しのコミュニケーションが重視され、自分と合わない人はすぐに排除するんですね。 (「逃走論」、ネット社会でも有効か 浅田彰さんに聞く、2018年1月7日朝日新聞)

この「横のつながり」というのは、ラカン派が大他者の時代から大兄弟の時代へ(資本の言説の時代へ)という移行に伴う現代の症状でもあるけれど、この時代は「小さな大他者たちのマヌケ倫理委員会」の連立があるからな。とくに日本においては多数のムラの連立と排除の症状が覿面に目立つようになっているのは明らかだ。裸の王様のデマゴーグを中心にしたその同盟者たちの多々のムラ社会連立だーー、《一方は完全ロバと、もう一方は自分の墓掘人どもの才気ある同盟者》(クンデラ『不滅』)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)