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2020年7月31日金曜日

おさが湿る


乾盃の唄  川崎洋

飲みはじめてから
酔いが一応のレベルに違することを
熊本で
「おさが湿る」というそうな
「おさ」は「鰓」(えら)である
きみも魚おれも魚
あの女も魚
ヒトはみな形を変えた魚である
いま この肥後ことばの背後にさっとひろがった海へ
還ろう
やがて われらの肋骨の間を
マッコウクシラの大群が通過しはじめ
落日の火色が食道を赤赤と照らすだろう
飲めね奴は
陸(おか)へあがって
知的なことなんぞ呟いておれ
いざ盃を


「おさが湿る」は実にいい言葉だな。
ネットで探してもないけど、今は熊本でも使わないんだろうか。


ところで女たちはおさが湿ると鞘も湿るんだろうか。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)
山桜の大木はかならずといってよいほど、二つの丘の相会うところ、やわらかにくぼんでやさしい陰影を作るところ、かすかな湿りを帯びたあたりにある。

(……)山ざくら、この日本原種の桜は、けっして群がって咲きはしない。山あいの窪に、ひっそりと、かならず一もとだけいるのである。そして、女体を思わせる地形がかすかにしかし確実にエロスを感じさせる陰影の地に直立して立つ優雅な姿のゆえに、桜は、古代の人の心を捉えたのであろう。(中井久夫「桜は何の象徴か」)

ボクは「わが立つ杣に冥加あらせたまへ」って具合にはならないけどな、ウィスキーならまだしも、ビールやワインだととってもアンチ冥加だよ。札幌に仕事行ってピチピチの乙女を5人連れてビール園で10リットルぐらい飲んだことがあるけど、そのあと誘惑されても(?)不如意棒だったな。でも鮨屋での日本酒はいけるね、ヘベレケに飲んだって赤貝やら鮑やらに対峙できるさ。





2020年7月30日木曜日

死を選ぶ自由

死にたいと思ったときは安楽死がいいね、ボクは。
だれかがモルヒネのたぐいをキュッと盛ってくれるのがさ、
フロイトみたいに。自殺よりずっといいよ

安楽死先進国のベルギーは年間2000人ほどの安楽死がある



ベルギーは1100万人ほどの人口だから、
年間2000人強ってのは、日本の人口比換算したら2万人強だな

2万人とは「公式の」日本自殺者数だ。
遺書なしの変死扱いになっている者たちはカウントされていない等、
実際はもっとずっと多いらしいが。

安楽死法があれば自殺者数もかなり減る筈だよ
この法を利用して医師らが「殺人」を犯す可能性には
十二分に注意すべきだとしてもさ

日本の「リベラル」たちって、なんで反安楽死の大合唱してんだろ、
しかも優生思想やらナチスやらをもちだす「のみ」でさ

折角の機会に次の話を抜きにするなんてのはな(「安楽死と末期医療」2005、PDF




リベラルってのは、本来「選択する自由」があるってことの筈だがね

自由とは、究極的に「死を選ぶ自由」以外の何ものでもない。freedom is ultimately nothing else than‘the freedom to choose to die'(バゾリーニ、ーーロレンゾ・チーサLorenzo Chiesa, Lacan and Philosophy: 2014より)
自由か生か [La liberté ou la vie ]。自由を選ぶなら、死への自由がある。[Vous choisissez la liberté, eh bien, c'est la liberté de mourir.  ]…自由とは、選択する自由を示すことだ[vous démontrez que vous avez la liberté du choix. ](ラカン, S11, 27  Mai  1964)


日本の「リベラル」はもはやリベラルでないのは、
とうのむかしからわかってはいたけれどさ。
ひどすぎるな、連中の薄っぺらなモラリストぶりは。


唯一の祈りの対象



ーーとってもいいスチール画像だな。映画の一場面なんだろうか、ちょっとわからない。



フロイトにとって、信じることのの最も大きな問題は、結局、父を信じること[la croyance au père]だ。(…)

ラカン は考えた、父を信じることを超えるのは完全に可能だと。では問いが生じる。男にとってどうやって可能となるのだろう。男はまったく簡単に女というものを信じる[la croyance à La femme]ようになるが、それをなしで済ますには。そして女にとってどうやって可能になるのだろう。彼女について語るパートナーを被愛妄想的に信じること[la  croyance érotomaniaque en un partenaire qui parlerait d'elle]から自由になるには。(エリック・ロラン Éric Laurent 、Conversation des AE du 21 mars 2012 à Paris, « Savoir y faire avec son symptôme »)


エリック・ロランは、フロイト大義派(ミレール 派)のナンバーツーだが、女というものを信じちゃダメなのかな、ボクは完全に信仰してるけど。


問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ムリなこと言われてもな、女なる神への信仰はやむことはないよ

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J-A. MILLER, エル・ピロポ El Piropo , 1979年)

問題は女性のほうの信仰だよ、《彼女について語るパートナーを被愛妄想的に信じること[la  croyance érotomaniaque en un partenaire qui parlerait d'elle]》なんてのからは、絶対逃れなくちゃな。男と同様、女なる神のみを信仰しといたらいいのさ。

ラカン だってこう言っている。

定義上、異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女たちを愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

もっとも「女というもの La femme」じゃなくて「女たち les femmes」になっているから、《女というものは存在しない。だが女たちはいる》ーーの女たちだ。

ひとりの女が複数いる、ようはひとりの女の複数をみんな愛すべきだね、男も女も。異性愛とは異者愛さ。これは誰もそう言っているのに出会ったことはないけど、論理的必然だよ。

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

不気味なものが「真に存在する」神でないわけないさ

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

これは別名「穴」と呼ばれる。女の穴。ーー《女は何も欠けていない La femme ne manque de rien》(ラカン, S10, 13 Mars 1963)。

不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)とは、想像的去勢castration imaginaire を思い起こさせるが、それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
欠如の欠如が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

ラカンは別に「享楽の穴」とも呼んだが、フロイトの「愛の引力」のことだ。アソコは、人の子の故郷なんだから、ブラックホールの力があるに決まっている。

あの穴にどうして祈りを捧げずにいられるわけがあろう?

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)
人はみなトラウマ化されている。…この意味は、すべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


ボクはフォーレの遺作op.121のアンダンテの次の箇所を聴くと、必ず女の穴への祈りの体制に入るんだが、きっとフォーレ自身も死をひかえて祈りつつ作曲したんじゃないかな、穴に吸い込まれていく感じがするよ。今のところ葬儀用音楽にきめてんだけど。






2020年7月28日火曜日

遺書をしたゝむ


長年使い馴れた老婢がその頃西班牙風邪とやら称えた感冒に罹って死んだ。それ以来これに代わるべき実直な奉公人が見付からぬ処からわたしは折々手ずからパンを切り珈琲を沸わかしまた葡萄酒の栓をも抜くようになった。自炊に似た不便な生活も胸に詩興の湧く時はさして辛くはなかった。(永井荷風『雨瀟瀟』1921(大正10)年3月)





大正八年(1919年)

五月三十日。昨朝八時多年召使ひたる老婆しん病死せし旨その家より知らせあり。この老婆武州柴又辺の農家に生れたる由。余が家小石川に在りし頃出入の按摩久斎といふものゝ妻なりしが、幾ばくもなく夫に死別れ、諸処へ奉公に出で、僅なる給金にて姑と子供一人とを養ひゐたる心掛け大に感ずべきものなり。明治二十八九年頃余が家一番町に移りし時より来りてはたらきぬ。爾来二十余年の星霜を経たり。去年の冬大久保の家を売払ひし折、余は其の請ふがまゝに暇をつかはすつもりの処、代るものなかりし為築地路地裏の家まで召連れ来りしが、去月の半頃眼を病みたれば一時暇をやりて養生させたり。其後今日まで一度びも消息なき故不思議の事と思ひゐたりしに、突然悲報に接したり。年は六十を越えたれど平生丈夫なれば余が最期を見届け逆縁ながら一片の回向をなし呉るゝものは此の老婆ならむかなど、日頃窃に思ひゐたりしに人の寿命ほど測りがたきはなし。(永井荷風『断腸亭日乗』)



大正七年(1918年)

十一月十一日。昨夜日本橋倶楽部、会塲吹はらしにて、暖炉の設備なく寒かりし為、忽風邪ひきしにや、筋骨軽痛を覚ゆ。体温は平熱なれど目下流行感冒猖獗の折から、用心にしくはなしと夜具敷延べて臥す。夕刻建物会社〻員永井喜平来り断膓亭宅地買手つきたる由を告ぐ。(永井荷風『断腸亭日乗』)





大正九年(1920年)荷風年四十有二

正月十二日。曇天。午後野圃子来訪。夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし
正月十三日。体温四十度に昇る。
正月十四日。お房の姉おさくといへるもの、元櫓下の妓にて、今は四谷警察署長何某の世話になり、四谷にて妓家を営める由。泊りがけにて来り余の病を看護す。
正月十五日。大石君診察に来ること朝夕二回に及ぶ。
正月十六日。熱去らず。昏々として眠を貪る。
正月十七日。大石君来診。
正月十八日。渇を覚ること甚し。頻に黄橙を食ふ。
正月十九日。病床万一の事を慮りて遺書をしたゝむ。
正月二十日。病况依然たり。
正月廿一日。大石君又来診。最早気遣ふに及ばずといふ。
正月廿二日。悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。
正月廿五日。母上余の病軽からざるを知り見舞に来らる。

正月卅一日。病後衰弱甚しく未起つ能はず。卻て書巻に親しむ。

二月廿二日。早朝中洲病院に電話をかけ病状を報ず。感冒後の衰弱によるものなれば憂るに及はずとの事なり。安堵して再び机に凭る。(永井荷風『断腸亭日乗』)






人口動態統計からみた日本における肺炎による死亡について(2018)PDF 
1899年における肺炎による死亡は,男子23,379人,女子19,934人の合計43,313人で,総死亡者数932,087人の4.6%を占めていた(図1).

年次推移をみると1899年から男女とも増加を続け1917年には男子52,727人,女子46,509人となっている.1918年には,いわゆるスペインかぜ)の流行に呼応して急激に死亡者数が増加し,男子105,507人,女子100,026人の合計205,533人とピークを示し,総死亡者数1,493,162人の13.8%を占めた.さらに,1920年には第2波のスペインかぜの影響を受け.男子88,551人,女子87,123人となっている.それ以降1943年まで,男子では56,000~76,000人,女子では48,000~63,000人程度で推移する.1945年以降は,死亡者数は大幅に減少し,1964年には男子12,186人,女子10,468人と最低を記録する.しかし,その後上昇に転じ,2016年には男子65,636人,女子53,664人になっている.


スペイン風邪なしの肺炎死亡者は、《1943年まで,男子では56,000~76,000人,女子では48,000~63,000人程度で推移する》とあるように、男女合わせて、12万人ほど死んでいたようだ。現在の人口換算で言えば、倍増とまでいかなくても、20万人ほどは毎年死んでいたことになる。




ちなみに現在の肺炎関連死者数(参照)。





死は現在、われわれのモラルにより目立たなくされているので、死を想像したり理解するのはとても困難です。死をなじみ深く、身近で、和やかで、大して重要でないもの[la mort est à la fois proche, familière et diminuée, insensibilisée]とする昔の態度は、死がひどく恐ろしいもので、その名をあえて口にすることもさしひかえるようになっているわれわれの態度とは、あまりにも反対です。それゆえに、私はここで、このなじみ深い死 mort familière を飼いならされた死 mort apprivoiséeと呼ぶことにしたいのです。死がそれ以前に野生のものであった、そしてそうでなくなった、というようなことをいいたいのではありません。逆に、死は今日野生のものとなってしまっている devenue sauvage 、といいたいのです。最古代の死は飼い馴らされていました La mort la plus ancienne était apprivoisée。(フィリップ・アリエス『死と歴史』1977年)




2020年7月27日月曜日

女性の仮装がヴェールするもの

フロイトの英訳者であり、メラリー・クラインとも一緒に仕事をした女流分析家ジョアン・リヴィエール Joan Rivièreの古典的論文「仮装としての女性性 Womanliness as a Masquerade」1929年)にはこうある。


「仮装としての女性性 Womanliness as a Masquerade」
女性性 Womanliness は仮面を身につけること worn as a mask として捉えうる。…

分析のあいだに、夫への敵意をもった去勢衝動 [the hostile castrating impulses towards the husband] が光を照射される過程がある。そのとき性交への欲望はとてもひどく減じられている。彼女は相対的に冷感的になる。女性性の仮面は剥ぎ取られ[The mask of womanliness was being peeled away]、彼女は去勢された者(気の抜けた、快に素っ気ない者)として顕われたり、去勢する者(ペニス受け入れペニスによって満足を与えられるのを恐れる者)として顕われたりする。…

日常的において、人は女性性の仮面[the mask of femininity]が奇妙な形式をとることを観察しうる。……

これらの帰結はさらに次の問いに人を直面させる。

完全に発達した女性性の本質的性質とは何か? 永遠の女性とは何か? 仮面としての女性性という概念は、その背後に男性が隠された危険を想定するものであり、謎にわずかな光をあててくれる。what is the essential nature of fully-developed femininity?  What is das ewig Weibliche?  The conception of womanliness as a mask, behind which man suspects some hidden danger, throws a little light on the enigma. (ジョアン・リヴィエール Joan Rivière「仮装としての女性性 Womanliness as a Masquerade」1929年)



ーー立っている右から2人目が、ジョアン・リヴィエール、左端、というか中央がメラニー・クライン(クライン70歳の誕生パーティー)。


だが、女たちは何に対して仮面をかぶるのだろう? 

根源的には女性器をヴェールするマスクに他ならない。実は誰もが、仮に無意識的にであれ知っていることである。それを外示するか暗示するだけに留めるかの相違があるだけである。


それをもっているために女であり、そのために男を誘惑し、それが原因でおとしめられ、女の中核でありながら、女自身から最も女が遠ざけられているもの (上野千鶴子『女遊び』1988年)

ーー「女の中核」でも記したように、この上野千鶴子の文は、精神分析的にみても実に古典的な問題の提示である。

以下にそれを引用にて示そう。

ファルスになるためにーーつまり大他者の欲望の対象になるためにーー、女は女性性の本質的部分を拒否する。つまり女性性のすべての属性を拒絶して仮装のなかに隠す。女は、彼女でないもののために、愛されると同時に欲望されることを期待する。C'est pour être le phallus c'est à dire le signifiant du désir de l'Autre que la femme va rejeter une part essentielle de la féminité, nommément tous ses attributs, dans la mascarade. C'est pour ce qu'elle n'est pas qu'elle entend être désirée en même temps qu'aimée. (ラカン 「ファルスの意味作用」E694、1958年)





この1958年のテキストは、女性性に関するラカンのポジションを教えてくれる。このテキストは、今ではセミネール20「アンコール」に比べ、しばしば見逃されている。だがラカン のその後の展開の胚芽的起源を含んでいる。

このテキストが示しているのはーー、

①女はファルスではない。だが女は、欲望のシニフィアン、大他者にとってのファルスになることを欲望することである。ここに現れているのは、女の女自身に対する他者性の命題である。女は自らを大他者に欲望のシニフィアンに転化させる。というのは大他者はファルスを欲望するから。That a woman is not the phallus but desires to be the phallus for an Other as a signifier of his desire. Here appears the theme of woman's otherness with regard to herself: she turns herself into the signifier of the Other's desire. For the Other desires the phallus.(…)

②仮装は存在の原欠如の上に構築されている。女性の仮装によって拒絶される女性性の本質的部分は何か。最初の接近法としてこう言おう。拒絶される女性性の本質部分は女性器である。女は女性器(肉体的裂目)をヴェールする。そして身体の他の部分を見せびらかす。

The masquerade is built on this primordial lack in being. What is the essential part of her femininity that is rejected? Let us say it in a first approach: it is the sexual organ. She veils the sexual organ (the anatomical gap), whereas she displays other parts of her body. (ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus, 2010)

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装 la mascarade féminineと呼ぶことのできるものの彼方に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性féminité のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン, S5, 23 Avril 1958)

女性は自らが持っていないものの代わりにファルスを装う。つまり対象a、あるいはとても小さなフェティッシュ  (φ) を装う。[elle ne peut prendre le phallus que pour  ce qu'il n'est pas, c'est-à-dire : soit petit(a) , l'objet,  soit son trop petit (φ) ](ラカン 、S10, 5 Juin 1963)




女はむしろ、私が男のものだと考える倒錯にたいして迎合的である[Elle se prête plutôt à la perversion que je tiens pour celle de L'homme]。このことは、女を例の仮装 mascaradeへと向かわせる。この仮装は、…恩知らずの男が女を責めるような虚偽mensongeではない。それは、男の幻想が女性の裡におのれの真理の時を見いだすために準備するという万一を見込むことだ。……なぜなら、真理は女[la vérité est femme ]なのだから。…つまり真理は非全体[pas toute]だから。(Lacan, AE540, Noël 1973)


上の二図をまとめて、一つのトーラス円図で示せばこうなる。





上に示したラカンが《女性は自らが持っていないものの代わりにファルスを装う。つまり対象a、あるいはとても小さなフェティッシュ  (φ) を装う》と言っているように、上部の  (φ) は、通常、  (a) と記されることが多い。

-φ [去勢]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un,- 9/2/2011ーー穴と穴埋め文献

…………


以下、ここでの話題ではないが、上のトーラス円図の重なり目の底部の去勢=穴自体、これまた対象aであり、おそらくラカン派プロパでないと、いやそうであってさえも混乱していることが多い。

ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)

さらに厄介なのは、穴と穴埋め以外に穴埋めの残滓ーー穴埋めは充分には不可能であり、残滓が必ずあるーーこの残滓も対象aなのである。

不気味な残滓がある。il est resté unheimlich   (Lacan, S10, 19  Décembre  1962)
享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)


つまり次のような具合になる(穴埋めの対象a自体、厳密に言えば、精神病、倒錯、神経症等にてそれぞれによって異なるがここでは割愛)。




したがって中ほどに示した女性の仮装図は、実際は次のように図示しうる内容を持っている。




これは安吾が示している話と相同的である。

むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)

というわけで、服など着るのをやめて女たちはみんな裸で歩くようになったら、世界はいくらか平和にナルデセウ・・・

服を着ること自体、見せることと隠すことの動きのなかにある。Le vêtement lui-même est dans ce mouvement de montrer et de cacher.(ミレール 「享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE」1994年)
身体の中で最もエロティック érotique なのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。…精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇intermittenceである。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらりと見える肌 la peau qui scintille の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えること自体 scintillement même qui sédui である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)


いやいやそうであっても二本足で歩くヒト族の雌は股の間に女性器が隠されており、究極的には人間が二本足で歩くようになってしまったこと自体が、劣情をシゲキする不幸の起源なのかもシレマセン・・・

これだって実はイダイなる「若き」上野さんから学ばせてイタダキマシタ。

女の下着にはもともと、性器を隠す機能は必要ありません。女の性器は解剖学的な位置関係や形状からいっても、そのままでは外から見えない部分です。(上野千鶴子『スカートの下の劇場』1989年)

次善の策はガニ股裸歩きの修練でせう・・・これにて世界からセクハラはかなり減るのではナイデセウカ? 

女性器の剥き出しは厄除け行為として知られている das Zeigen der Genitalien auch sonst als apotropäische Handlung bekannt ist. (…)ラブレーにおいても、女にヴァギナを見せられて悪夢は退散している。Noch bei Rabelais ergreift der Teufel die Flucht, nachdem ihm das Weib ihre Vulva gezeigt hat. (フロイト、メデューサの首 Das Medusenhaupt(1940 [1922])  

もっともこのあたりは霊長類の研究(チンパンジーやボノボなど)を視界に入れる必要があるでしょうが。ちなみにチンパンジーの女性の方は発情期には《1 日のうちに10 頭以上のオスと 50 回以上交尾をすることもめずらしくない》そうです(霊長類進化の科学 PDF )。


以上、「残滓」以降に記した話は、前段の話との整合性がないように気がする方がいらっしゃるかも知れぬが、これこそエクリチュールの残滓でありアシカラズ。《アシは不当にも欠けている女性のペニスを代替する。Der Fuß ersetzt den schwer vermißten Penis des Weibes. 》(フロイト『性理論三篇』1905年)


Truffaut, L'Homme qui aimait les femmes

最後に再三引用している真の女についての「奇妙な」見解をふたたび掲げておきましょう。

真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée.(J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン, S2, 16 Mars 1955)


構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者との同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。

この理由で、セクシュアリティは、つねに魅惑と戦慄 [fascinans et tremendum]、つまりエロスとタナトスの混淆(融合と分離の混淆ーー欲動混淆Triebentmischung)なのである。これが明らかにすることは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も自らが恐れるものを憧憬する。つまり享楽の原状態 [original condition of jouissance ]の回帰憧憬である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)


ラカン派とはこういうケッタイなことを言う連中ですからお気をつけを!

でも古井由吉だって戦争中、ケッタイな目に遭遇しかかったそうです。

女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)


おそらく真の女の方だけがご存知のケッタイさなのでせう、ーー《あらゆる点で女は女を知らない。いちいち男に自分のことを教えてもらっている始末である。》(三島由紀夫「女ぎらいの弁」)




2020年7月26日日曜日

エロス資本


ははあ、そうか。

橘 イギリスの女性社会学者にキャサリン・ハキムという人がいて、『エロティック・キャピタル』という本を書いているんです。男女の外見の魅力がテーマですが、とりわけ若い女性は大きな「エロス資本」を持っていると述べていて、なるほどと思いました。経済学でいうヒューマン・キャピタル(人的資本)は基本的には学歴・資格・経験ですけど、それとは別に女性には大きなエロティック・キャピタルがある。それは思春期ぐらいから現れはじめて、20歳前後で頂点に達し、それから徐々に減っていって35歳くらいで消失する……。(「若さという「エロス資本」を失ったあと、オンナはどうするか」2020年3月27日)

いつの書なんだろ、と調べてみたら、原著2010年、Catherine Hakim,  Erotic Capital

20歳前後で頂点っていう通説は昔も今も変わらないんだな

「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」(徳田秋声『爛』1913年)

安吾は「女の人の老年は男に比べてより多く救われ難いものに見える」と言ってるが、そんなの今でもありかね。

宇野さんの小説の何か手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの佗しさが、お分りでしょうか」という意味の一行があった筈だが、大切な一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な呪いをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく。…

…女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛たる開花の時と凋落との怖るべき距りに就て、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われ難いものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、その大事の肉体が凋落しては万事休すに違いない。(坂口安吾「青春論」1942年)


最近は非モテ男のほうがもっと救われがたいようにみえるけど。





「思春期ぐらいから現れはじめて、20歳前後で頂点に達し、それから徐々に減っていって35歳くらいで消失する……。」ってのもヒドイな、アジアの女性は45歳ぐらいまでもつよ

ホントは20歳前後から下降するってのもな、最近は30歳ぐらいまで上昇する女性だっているさ、新鮮な果実度はやっぱり20歳あたりから減るかも知れないけど。

でもそのあとはやっぱり「立ちくらみ」なんだろうか?

「いつも思うのですが、女性というのは厄介な生き物ですね。わたしは生まれ変わることがあっても必ず男になりたい。女性として生きるというのは想像しただけでも立ちくらみがします。」(藤田博史「摂食障害の治療技法」セミネール断章 、2012年)


何かおかしんじゃないかね、現在の男女関係は。



女が花盛りをとうに過ぎた年齢で結婚するなんてな、

革命起こさないとな。




2020年7月25日土曜日

女の中核


それをもっているために女であり、そのために男を誘惑し、それが原因でおとしめられ、女の中核でありながら、女自身から最も女が遠ざけられているもの (上野千鶴子『女遊び』1988年)

いや、敢えていくらかずらして記したが(参照)、この上野千鶴子の40歳のときの書の文は限りなく重要だよ。彼女の原点がここにあるなら、嫌味なしに敬意を表するね。

最近の発言だけを捉えて、ほどよく聡明な=凡庸なインテリが次のように言う心持ちはよくわかるが。



いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)



◼️付記

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと思われるれる。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist(フロイト, フリース宛書簡 Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
女というものは、その本質において、女にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように。La Femme dans son essence,…elle est tout aussi refoulée pour la femme que pour l'homme (ラカン、S16, 12 Mars 1969)

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

ーーここに現れる「抑圧」はすべて「原抑圧」あるいは「排除」の意味である(参照)。


女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)とは、想像的去勢castration imaginaire を思い起こさせるが、それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
欠如の欠如が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)
人はみなトラウマ化されている。…この意味は、すべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )

我々の言説はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(J.A. Miller,  Clinique ironique, 1993)
明らかに、現実界はそれ自体トラウマ的であり、基本情動として原不安を生む。想像界と象徴界内での心的操作はこのトラウマ的現実界に対する防衛を構築することを目指す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)