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2022年1月19日水曜日

岩井克人の「言語、法、貨幣」とラカン派の「言語、法、ファルス」


次の岩井克人とジャック=アラン・ミレールはほとんど同じことを言っている。


言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つということが可能となります。


言語があるからこそ、生活体験をともにしてこなかった他人とも、同じ人間としてコミュニケーションが可能になります。

また、法があるからこそ、個人の腕力や一族の勢力が異なった他者であっても、同じ場所で生活することが可能になります。

そして、貨幣があるからこそ、どのような欲望をもっているか知らない他人とでも、交換をするが可能になります。


人格の問題は、このようなお互いが関係を持つことができる人間社会が成立した中で、はじめて発生することになります。

そして、そこではじめて二重性(ヒトであってモノである)をもった存在としての人間が出てくるのだろうと思います。(岩井克人『資本主義から市民主義へ』2006年)


言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)



「言語、法、貨幣」と「言語、法、ファルス」。貨幣はファルスである。


ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)



つまり貨幣は言語である。とすれば、岩井とミレールは「ほとんど」ではなく、まったく同じことを言っていると捉えうる。


主体の生の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である[le vrai partenaire de la vie de ce sujet n'était en fait pas une personne, mais bien plutôt le langage lui-même ](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)



人は、それが、法であれ、貨幣であれ、結局はファルスという言語を媒介して交換活動をしている経済的主体である。


広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)




この経済的主体が、ラカン語彙では欲望の主体である。


人間の欲望は大他者の欲望である[Le désir de l'homme est le désir de l'Autre](ラカン、E628、1960年)

欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している[Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi] (ラカン、E852、1964年)

欲望は自然の部分ではない。欲望は言語に結びついている。それは文化で作られている。より厳密に言えば、欲望は象徴界の効果である[le désir ne relève pas de la nature : il tient au langage. C'est un fait de culture, ou plus exactement un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)



もっとも欲望の主体とはラカンにとって幻想の主体のことだが。


欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである[il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme ](Lacan, AE207, 1966)



欲望の主体とはシニフィアンの主体のことであり、それ以外に享楽の主体がある。


主体にはシニフィアンの主体と享楽の主体がある[sujet qui est le sujet du signifiant et le sujet de la jouissance.](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987)



享楽の主体とは、事実上、身体の主体ーー欲動の身体の主体ーーである。


ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance].(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)



シニフィアンの主体とは《シニフィアン私[signifiant « je » ]》(Lacan, S14, 24  Mai  1967)であり、享楽の主体に対する見せかけである。ーー《享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ]》(J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](ラカン, S18, 13 Janvier 1971)



これが欲望の主体=シニフィアンの主体が、幻想の主体であることの別の言い方である。



では享楽の主体の内実は何なのか。


享楽の核は自閉的である[Le noyau de la jouissance est autiste]   (Françoise Josselin『享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance』2011)

享楽は自閉症的である、それは両性にとってである。主体の根源的パートナーは孤独である[La jouissance est autistique, tant du coté féminin que masculin. Le partenaire fondamental du sujet reste donc la solitude.] (Bernard Porcheret, LE RESSORT  DE L'AMOUR ,2016)



享楽の主体の根源的パートナーは孤独である、とあるが、より厳密に言えば、享楽の対象とは喪われた対象である。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)



したがって享楽の主体の根源的パートナーは喪われた対象である。


主体の根源的パートナーは、享楽の喪失自体・喪われた対象から成っている[le partenaire fondamental du sujet est fait de sa propre perte de jouissance, son objet perdu.](ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, Encore : belvédère sur la jouissance, 2013)

主体はどこにあるのか? われわれは唯一、喪われた対象としての主体を見出しうる。より厳密に言えば、喪われた対象は主体の支柱である。Où est le sujet ? On ne peut trouver le sujet que comme objet perdu. Plus précisément cet objet perdu est le support du sujet (ラカン, De la structure en tant qu'immixtion d'un Autre préalable à tout sujet possible, ーーintervention à l'Université Johns Hopkins, Baltimore, 1966)



喪われた対象をパートナーとして生き続けるわけにはいかないので、人はみな、言語をパートナーとして、つまり見せかけのコミュニケーションの主体、経済的主体として生きている。これがマルクスの剰余価値の主体でもある。



装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕


剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)



シニフィアンの主体とは享楽の穴(享楽の喪失)の穴埋めの主体であり、剰余享楽の主体である。


剰余享楽は…可能な限り少なく享楽すること…最小限をエンジョイすることだ。[« plus-de jouir ».  …jouir le moins possible  …ça jouit au minimum ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

ラカンは剰余享楽という語を使用するとき明瞭に示した。欲望はより少なく享楽することである。

Lacan l'indique bien quand il utilise le terme de plus-de-jouir. Le désir est un moins-de-jouir (Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)



つまり欲望の主体自体、穴埋めの主体である。だが喪われた対象の穴は埋まらない。


剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)






享楽はダナイデスの樽である[la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » ](Lacan, S17, 11 Février 1970)



穴と穴埋め。ラカンの対象aとは享楽の穴でもあり、剰余享楽の穴埋めでもある。



ここに人間の反復行動の起源がある。穴が埋まってしまえば、日々言語活動の穴埋めしなくてもよいのだが、どうやったって埋まらないのである。もっとも死んだら埋まるらしいが、まだ試してみたことがないのでよくわからない。


経済のほうは、とくに日本経済は財政ファイナンスという資本フェティッシュ[Kapitalfetisch]の穴埋めを過剰にしており、資本主義の自己破壊[Selbstzerstörung des Kapitalismus]ーー資本の死の欲動ーーが今年当たりその至高の帰結を生む、つまり「経済の死」が訪れると予測されている。マルクスの正しさがようやく真に証明されるようなのでひどく楽しみにしている・・・




何はともあれ、現在の日本の財政ファイナンスとはマルクスのいう利子生み資本以上に、資本の狂気のオッカサマであり、日本人が根のところでこよなきマザコンなのがよくわかる。


利子生み資本全般はすべての狂気の形式の母である[Das zinstragende Kapital überhaupt die Mutter aller verrückten Formen] (マルクス『資本論』第3巻第24節)



日本の財政ファイナンスの形式は、マルクスの資本フェティッシュの表象[Vorstellung vom Kapitalfetisch] 、フロイトがモノ表象[Dingvorstellungen](あるいは(エスの)境界表象 [Grenzvorstellung ])と呼んだものと事実上、等価であり死の欲動なのである。


母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding. ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)



何はともあれ3月から勝負が始まる、➡︎3FOMC50BPの利上げ観測も浮上》。日銀がこれにどう対応するのか。米に合わせて金利を上げたら多大の国債残高の金利負担でにっちもさっちもいかなくなる。とはいって金利を上げなかったら大幅円安かつインフレが加速する。どちらにしろ財政地獄が始まる可能性が高い。



………………


※参照




ボロメオの環のグレーに塗った箇所は見せかけという意味である。


現実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押し戻す。そしてこの現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した。


le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011)



ーーそしてモノ、語表象、事物表象は、それぞれマルクスの資本、貨幣、商品に相当する。モノの別名は穴Ⱥであり、モノ表象とは穴の表象S(Ⱥ)である。ここが資本フェティッシュの場である。事物表象はイマージュ、語表象はもちろん言語である。つまり資本のイマージュ化が商品、資本の言語化が貨幣ということになる。ーー《貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない[Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs.] 》(マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」)



利子はただ利潤の一部、すなわち機能資本家が労働者から搾り取る剰余価値でしかないのに、今や反対に、利子が資本固有の果実として、本源的なものとして現れ、利潤は今や企業者利得という形式に転化して、再生産過程で付け加わる単なるアクセサリーやおまけとして現れる。


Während der Zins nur ein Teil des Profits ist, d.h. des Mehrwerts, den der fungierende Kapitalist dem Arbeiter auspreßt, erscheint jetzt umgekehrt der Zins als die eigentliche Frucht des Kapitals, als das ursprüngliche, und der Profit, nun in die Form des Unternehmergewinns verwandelt, als bloßes im Reproduktionsprozeß hinzukommendes Accessorium und Zutat. 

ここでは資本のフェティッシュな姿も資本フェティッシュの表象も完成している。我々が G─ G′で持つのは、資本の概念を失った形式、生産諸関係の至高の倒錯と物件化(モノ化)、すなわち、利子を生む姿、資本自身の再生産過程に前提されている資本の単一な姿である。それは、貨幣または商品が 再生産とは独立にそれ自身の価値を増殖する能力 ─ 最もまばゆい形での資本の神秘化である。


Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G-G' haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form. (マルクス『資本論』第3巻 . 404)




ラカンはこう言っている。


症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。


la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18,16 Juin 1971)



とはいえマルクスは、フロイトもしくはラカンを通して読むと逆に鮮明化される、特に価値形態論あるいはフェティッシュにかかわるところはいっそうそうである。


私が対象aと呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)



結局、人間とはいったい何をやっているのかを問い続けたのが、マルクスでありフロイトラカンである。それを最も簡潔に言ってしまえば、人には穴があり穴埋めしなくてはならない。だが穴は埋まらない。ゆえに生涯反復強迫するということである。