2018年7月22日日曜日

排除・抑圧・否定・否認

ああ、「「分裂病+自閉症」/精神病(パラノイア)」で貼り付けた次の図の「想像的ファルスとの同一化」は、倒錯だってそうだよ、記述は抜けてるけどね。




最も「常識的」だから抜かしたんじゃないだろうか、この表の作成者は。

そもそも倒錯の定義がこうなんだから。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化することである。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)

で、精神病と倒錯の相違は、父の法の排除か、父の法の否認の相違。

排除と否認の差は、「防衛の一種としての抑圧」にいくらか詳しく記述したけれど、いまはジジェクの簡潔版のみ再掲。

フロイトには、“Ver‐”の四つの主要形式、四つの版がある。

・Verwerfung (排除・拒絶)
・Verdrängung (抑圧・放逐)
   --原抑圧 Ur‐Verdrängungと後期抑圧 Nach-Verdrängung
・Verneinung 否定
・Verleugnung 否認
Verwerfung(排除 ・拒絶)においては、内容が象徴化から放り出され脱象徴化される。したがって内容は現実界のなかにのみ回帰しうる(幻覚の装いにて)。

Verdrängung(抑圧・放逐)においては、内容は象徴界内に残っている。だが意識へのアクセスは不可能であり、〈他の光景〉へと追いやられ、症状の装いにて回帰する。

Verneinung(否定・前言翻し)においては、内容は意識のなかへ認められている。だが、前言翻し(Verneinung)によって徴づけられている。

Verleugnung(否認)においては、内容は能動的形式で認められている。だがIsolierung(分離・隔離)という条件の下である。すなわち、象徴的影響は宙吊りになっており、主体の象徴的世界のなかへは本当には統合されていない。
シニフィアン「母」を例に取ろう。

「母」が排除・拒絶(Vẻwerfung)される場合、主体の象徴的世界には、「母のシニフィアン」の場はまったくない。

「母」が抑圧・放逐(Verdrängung)される場合、主体は隠蔽された症状の参照項を形成する。

「母」が否定(Verneinung)される場合、よく知られた形式、「夢の中のこの人物は誰かとおっしゃいますが、母ではありません Sie fragen, wer diese Person im Traum sein kann. Die Mutter ist es nicht」を得る。

「母」が否認(Verleugnung)される場合、主体は穏やかに母について話して全てを認める、「ええ、もちろんそうです、この女は私の母です」。だが主体はこの承認の効果よる影響を受けないままである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)


で、ボクは倒錯者だよ→「オレは完全な倒錯だよ


さらに参照→

1、「倒錯の三つの特徴
2、「あの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)


そもそもバルトが、こう言ってるけどさ、

読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。

そして、読書の神経症とテクストの幻覚的形式とを結びつけるだろう。

フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。

強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。

パラノイア(精神病)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。

(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなある批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

これはなにも読書だけの話ではなく、たとえばラカン注釈者たちだって似たようなもんさ、神経症の注釈者ってのが最悪だね、ボクにいわせれば。

あいつらは善人だからな、だからいつも鼻を抓むことにしてんのさ。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)
私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』)

ま、おだやかにいえば、それぞれの症状で、世界は違った風に見えているはずだよ、ラカン注釈者たちってのは、本来ーーたとえばその注釈本の前段にーー、ボクは神経症者です、倒錯者です、精神病です、と宣言すべきじゃないんだろうか? この症状だからお気を付けを、とね。ラカンの最も基本的なテーゼは、「症状のない主体はない」だからな。