2017年7月25日火曜日

本居宣長のキルトスカート

コーネル大学の歴史学者酒井直樹による、とても優れた文をネット上から拾うことができた。酒井氏は「共感の共同体」や「差別問題」の論客として、かつて『批評空間』などに登場しており、その名を知ってはいたが、彼の著書を読んだことはない。

◆酒井直樹『死産される日本語・日本人』(1996 年)より
一八世紀の日本列島では、漢文、和漢混交文、いわゆる擬古文、候文、歌文、そして、俗語文というように多数の異なった文体と書記体が用いられていた。これらの異なった雅俗混交的な文体は、地方別の僅言あるいはお国ことばとともに混在しており、それぞれを民族言語としてひとつの輪郭に収めることはできなかった。
一八世紀の言説においては、日本語と日本語が普遍的に通用したはずの共同体の存在を古代に仮設することによって、日本語が生み出された。しかも、日本語と日本民族の存在は、古代には存在しても現在には存在しないもの、現在においてはすでに喪失されたもの、として仮設されなければならなかった。つまり、日本語の誕生は、日本語の死産としてのみ可能であったのである。…統一体としての日本語は、その存在を経験的に検証できるものとしてではなく、日本語についての体系的な知識あるいは経験の可能性の条件として設定されるある理念なのであって、統一体としての日本語そのものは経験できない。
……古代に日本語が存在したかどうかは、実証的に証明することも反証することもできず、そのような実証的な研究がありうるためには、統一体としての日本語を仮設しなければならないからである。一八世紀の言説で起こったのは、こうした日本語を遠い過去に仮設することであって、その結果として、古代日本語の実証的研究が、徳川幕藩体制下の都市と地方で爆発的に普及しえたのである。(酒井直樹『死産される日本語・日本人』)

とてもすぐれた指摘だろう、《一八世紀の言説においては、日本語と日本語が普遍的に通用したはずの共同体の存在を古代に仮設することによって、日本語が生み出された》。もちろん本居宣長だけの話ではないが、ここではやはり当時の代表的な古代日本語研究者として彼を例にとる。


(本居宣長「自画自賛像」)

書紀は、後の代の意をもて上つ代の事を漢国の言を以って記されたる故に、あひかなはざること多かるを、此の記(古事記)は、いささかもさかしらを加へずて、いにしへより言ひ伝へたるままに記されたれば、その意も事も言も相稱(かな)ひて皆上つ代のまことなり。(本居宣長『古事記伝』冒頭「古記典等総論」)

そして、宣長は古事記研究により「日本語」というキルトスカートを発明したのである、と言っておこう。




民族国家が国民国家を建設するとき、彼らはふつうこの政体を古代の忘れられた民族的ルーツへの回帰として公式化する。彼らが気づいていないのは、彼らの「回帰」そのものが、回帰すべき対象を形作っているということだ。伝統への回帰とは、伝統を発明することに他ならない。

歴史家なら誰でも知っているように、(今日知られているような形の)スコットランドのキルト(巻きスカート)は十九世紀に発明されたものである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』より)

…………

上の話題からはいささか外れるが、宣長の次の文章は(現在の視点からは)どうあっても耐えがたい。

皇國は格別の子細ありと申すは、まづ此四海萬國を照させたまふ天照大御神の、御出生ましましし御本國なるが故に、萬國の元本大宗たる御國にして、萬ヅの事異國にすぐれてめでたき、

其ノ一々の品どもは、申しつくしがたき中に、まづ第一に穀は、人の命をつゞけたもちて、此上もなく大切なる物なるが、其ノ稻穀の萬國にすぐれて、比類なきを以て、其餘の事どもをも准へしるべし、然るに此國に生れたる人は、もとよりなれ來りて、常のことなる故に、心のつかざるにこそあれ、幸に此御國人と生れて、かばかりすぐれてめでたき稻を、朝夕に飽まで食するにつけても、まづ皇神たちのありがたき御恩賴をおもひ奉るべきことなるに、そのわきまへだになくて過すは、いともいとも物體なきことなり、

さて又本朝の皇統は、すなはち此ノ世を照しまします、天照大御神の御末にましまして、かの天壤無窮の神勅の如く、萬々歳の末の代までも、動かせたまふことなく、天地のあらんかぎり傳はらせ給ふ御事、まづ道の大本なる此ノ一事、かくのごとく、かの神勅のしるし有リて、現に違はせ給はざるを以て、神代の古傳説の、虚僞ならざることをも知ルべく、異國の及ぶところにあらざることをもしるべく、格別の子細と申すことをも知ルべきなり、

異國には、さばかりかしこげに其ノ道々を説て、おのおの我ひとり尊き國のやうに申せども、其ノ根本なる王統つゞかず、しばしばかはりて、甚みだりなるを以て、萬事いふところみな虚妄にして、實ならざることをおしはかるべきなり、

さてかくのごとく本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなるに、今に至るまで外國には、すべて上件の子細どもをしることなく、たゞなほざりに海外の一小嶋とのみ心得、勿論まことの道の此ノ皇國にあることをば夢にもしらで、妄説をのみいひ居るは、又いとあさましき事、これひとへに神代の古傳説なきがゆゑなり、(本居宣長『玉くしげ』、1787年、58歳)

「近世最大の論争」と言われる本居宣長と上田秋成の論争ーー秋成は「やまとだましひ」の「臭気」、伊勢の「田舎者」と評し、宣長は「小智をふるふ漢意の癖」やら「まなさかしら心」と評すーーをめぐっては「うろんな事を又さくら花」にいくらか記した。

ここでは《しき嶋のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花》(上田秋成、胆大小心録)とのみ記しておくことにする。
…………

だがこれでは本居宣長の愛読者の方におこられそうなので、こう付け加えておこう。

酒井直樹氏の指摘にもあったようににこれらは宣長だけの問題ではない。宣長の考え方は、当時の支配的イデオロギーだったのである。もっとも宣長ほどの過剰な「日本中華主義」の表明ーー加藤周一のいう《粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えた》宣長の不思議ーーは稀有だったろうが。

桂島宣弘氏の『宣長の「外部」 ――18世紀の自他認識――』2001年の叙述を貼り付けておこう。
何よりも一七世紀における儒学・朱子学の体系的導入と、 同じく一七世紀のほぼ一世紀にわたってアジア地域を揺るがした明清王朝交代 (華夷変態)が、一七~一八世紀の知識人にとっては、相対化の前提をなす自他認識形成により大きなインパクトを与えていたといわなければならない。 すなわち、 前者によって 「礼・文」という文明基準に基づく自他認識の枠組み(=「礼・文」中華主義) 、 「理」や「天」の彼我の普遍性を前提としての「礼・文」の中華としての中国像、東夷としての徳川日本像が理念的に導入され、だが後者によって、それは現実に存在する中国=清を夷狄とする眼差しもあって、「日本的内部」を何らかのかたちで自覚した日本型華夷思想や、中国よりもむしろ徳川日本に「礼・文」の存在を認める日本中華主義をうみだしていた。

ここでいう日本型華夷思想や日本中華主義とは、一七~一八世紀の山鹿素行、熊沢蕃山、山崎闇斎学派、垂加派などの自他認識を想定しているが、明中華主義から脱却しての「日本的内部」の文化的優位性を主張しようとする言説、清=夷狄論を前面に押しだしての日本= 中華論などを意味している。
宣長の言説は、ロシア接近などの「近代世界システム」との接触期に成立した言説であった(『古事記伝』は寛政一〇[1798]年完成。ラックスマン根室来航は寛政四[1792]年)。(桂島宣弘『宣長の「外部」 ――18世紀の自他認識――』2001年、pdf