2018年6月17日日曜日

大他者なき大他者

ジャック=アラン・ミレールによる『L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)』、2013、pdf)には、ラカンの「大他者」をめぐる思考の推移の簡潔明瞭な説明がある。今まで断片的に訳出引用してはきたが、ここではそれをいくらかまとめて掲げる。

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、「大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre」と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013、pdf

ここでいったん「大他者なき大他者」から離れて、基本的な補足説明をする。

上に文に、《「大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre」⋯⋯これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している》とある。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977 )

Ⱥとは穴のことである。それを徴示するのが、S(Ⱥ)である。

穴Ⱥ とは、《大他者は存在しない A n'existe pas・大他者は非一貫的 A n'est pas consistant》(大他者は非全体 pastout・非関係 non-rapport)(ミレール、 Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre  », 2007 )のことであり、その穴Ⱥを徴示する(シニフィアンする)のが、S(Ⱥ)である。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)

要するに、S(Ⱥ)は、「大他者のなかの穴 trou dans l'Autre のシニフィアン」である。他方、Φファルスとは、「大他者のなかの欠如 manque dans l'Autre のシニフィアン」である。

なによりもまず(かりにラカン理論に触れるなら)、この相違を把握することが最も基本である。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan」, 2001、 pdf) 

しかもΦとS(Ⱥ)における「大他者」の意味は異なる。

《Φは、大他者のなかの欠如のシニフィアン》における「大他者」とは、「父なる大他者」(父の法・言語の法等)に主にかかわる。

《S(Ⱥ)は、大他者のなかの穴のシニフィアン》における「大他者」とは、原大他者、すなわち「母なる大他者」(母の法・ララング(母の言葉))に主にかかわり(参照)、さらに「身体」(異者としての身体)である(参照:「身体は穴である」)。

大他者は身体である。  L'Autre …c'est le corps! (ラカン、S14,10 Mai 1967)
我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)

繰り返せば、欠如と穴の相違を把握することが、ラカン理論の基本的理解のための核である。

ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序になかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

いまだ日本共同体においては、ラカン理論を否定神学として提示する研究者たちがいるが、ーーおそらく最初期ラカンの思考をもとにしたデリダやドゥルーズらの批判をベースにしてーー、あれは全き誤謬である。

何かがその場所から喪われている。しかし欠如(ファルス)は決してそこから喪われていない。(デリダ, Le facteur de la vérité)
偉大なるファルス le grand Phallus、欠如 le Manque…それは純粋に神話的なものであり、否定神学の〈一者〉のようなものである。le grand Phallus, le Manque …est purement mythique : il est comme l'Un de la théologie négative. (ドゥルーズ&ガタリ、アンチ・オイディプス)

⋯⋯⋯⋯

さてミレールの「大他者なき大他者」に戻る。

なぜラカンは、その教えの出発点で、法への情熱をもったのか。そして「大他者の大他者はない」と言ったとき、なぜそれを捨て去ったのか。ラカンは異なった法(言語、パロール、 言説等の)を我々に教え、この表明に到った。…

第一に、言語学の法がある。ラカンがソシュールから借りてきたものだ。それはシニフィアンをシニフィエから、共時性を通時性から区別することに導く。ヤコブソンに見出した法もまたある。それは、隠喩を換喩から分節化し区別する。ラカンはこれらを法として・メカニズムとして語った。

第二に、弁証法的法がある。ラカンがヘーゲルのなかに探しにいったものだ。この法は告げる、言説のなかで主体は、他の主体の仲介を通してのみ、彼の存在を想定しうる、と。ラカンはこれを承認の弁証法的法と呼ぶ。

第三に、我々はラカンのなかに数学的法を見出す(これはある時期とても評判高かったが、 もはや我々のものではない)。例えば、ラカンが、最初の図式とともに、「盗まれた手紙」についてのセミネールにて探求したような法だ。あの α, β, γ, δ の図式は、無意識の記憶にとってのモデルを提供した。

第四に、社会学的法がある。ラカンがレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』から採用した同盟と親族の法である。

第五に、想定されたフロイトの法、エディプスがある。それは、初期ラカンが法へと作り上げたものだ。すなわち「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる、と。

さて、私は面倒を厭わず、法の 5 つの領域を列挙した。言語学的・弁証法的・数学的・社 会学的・フロイト的である。ラカンが分析経験を熟考し始めたとき、少なくとも主体をめぐっ て教え始めたとき、この法の 5 つの領域は、彼にとって、象徴界と呼ばれるものを構成した。(……)
なぜラカンは、このように法概念に中心的重要性を与えたのか。それは疑いなく、彼にとって法は合理性の条件だからだ。さらに具体的にいえば、科学の条件である。ラカンはあたかも「法がある場にのみ科学はある」という箴言に駆り立てられていたかのようだ。

(……)しかしながら、はっきりさせておかねばならない。ラカンの教えにおいて、(法への情熱に最初に駆り立てられていた後、この法の概念は消滅したことを。ラカンはそれを発明し導入した。それは彼の概念化にとっての基礎として現れた。象徴界・想像界・現実界のあいだの三幅対的分割の基本としてだ。だが彼はそれを持ち続けなかった。

注意しておかねばならない。この秩序の概念、法の 5 つの領域は混淆されていることを。 言い換えれば、秩序という視点からは、それらは、事実上、同じものとして現れる。数学的法、弁証法的法等であれなんであれ。(……)

法がある場に、秩序がある。初期ラカンのシステムにおいて、唯一の秩序とは象徴界である。象徴界的秩序はーーもし人がこのように言うのを好むならーー想像界的無秩序と対立しうる。

象徴界において、各々のもの、各々の要素はその場のなかにある。正確に言えば、象徴界のなかにおいてのみ、場がある。想像界においては、対照的に、要素は場を入れ替える。したがって、事実上、場は区別できない。いや、要素自体が区別されうるかさえ確かでない。

想像界においては、別々の、分離した要素はない。象徴界において分離した要素があるようにはない。これらの用語にて、ラカンは、自我と他者ーー外部にある自身のイメージであるのみの他者ーーとのあいだの関係を叙述した。そこには、自我と他者の相互嵌入がある。想像界は、本質的非一貫性によって徴づけられて現れる。ラカンはかつて「影と反映 ombres et reflets」のみの存在とさえ言った。現実界とは、この秩序と不秩序とのあいだの分割の外部にあるものだ。それは純粋で単純である。
今年、我々は見た(そして、ある意味で、我々はその逆を説明しなければなかった)、象徴秩序の概念が評判のあるものになったことを。それは、確立された秩序の保護をまもろうとする者たちすべてに広まった。 保守主義者たちのあいだでの評判だ。

象徴界によって支配される世界とは何か。それは、 すべてがその場のなかにある世界、父・家父長がすべてを閉じ込める世界だ。不秩序のすべての証拠は、すぐさま想像界的なものとして貶される。言い換えれば、非一貫的で寄生的なものとして。

これが象徴秩序というラカンの概念の使われ方だった…。調和ある秩序を推進すること、 不変の諸法ーー「父の名」に錨をおろした法ーーによって統制された秩序…。そして、人ははっきり言わなければならない。ラカンはこの考え方に自らなすがままになっていた、と。 彼は、その教えの出発点で、この意味での開始を残した。

たとえば、ラカンは言うことができた、私は引用しよう、彼はその出発点でこう言った、ロー マ講演にてだ。すなわち、父の名は「象徴機能の基礎である le support de la fonction symbolique」と。象徴秩序のすべては父の名を持つ。その支えとして、法を具現化する形象の父として。

しかしこれは出発点だ。この後、ラカンの教えの全体は別の方向にむかう。もし、ラカンの教えにサンス(意味=方向)があるなら、絶え間ない・方法論的な・休みない解体である。 そう、象徴秩序の欺瞞的調和の解体だ。ラカンは、父の名の機能を讃え、それに十全の輝きを与えたまさにこの理由で、彼はその後、ひどくラディカルに、父の名を問題視した。
歴史の皮肉、その刻印を残した何かがある。公衆にとって忘れ難いのは、ラカンがフロイトのエディプスに与えた言語学的形式だ。すなわち、父の名によって統治された父の隠喩。 これは、次の事実にもかかわらず忘れ難い。つまり、セミネール VI において導入された裂け目以降のラカンの教えの全体の展開は、父の隠喩の解体、脱構築の方向に向かうという事実にもかかわらず。

数ある要点がこれを明瞭化しうる。

一番目に、とりかかりとして、人は指摘できる。ラカンは父の名と父の隠喩を提唱したのは 精神病にてそれが機能していないことをただ示すためだった。

二番目に、彼は享楽の、対象 a としての、恒久不変性を示した。享楽は父の隠喩からの意味づけから引き出せない。

三番目に、ラカンが IPA によって破門され、「父の諸名(複数の父の名 Noms-du-père)」をめぐるセミネールを放棄し、『精神分析の四基本概念』のセミネールを実施したとき、彼は、とても明瞭に、フロ イトの欲望を攻撃している。父の形象の奉仕としてあるフロイトの欲望に。

四番目に、ラカンはエディプス理論を、去勢を曝露し同時に去勢を隠蔽する神話としての地位を与え、彼はその法を作り上げるのをやめた。彼はエディプス理論を神話とした。言い換えれば、想像的物語、組織されてはいるが、想像界的なものとした。

五番目に、ある仕方で、父の隠喩は、女性の母性的ポジションを覆う男性的な支配の形式のなかに性関係を書き込む。それを彼は「性関係はない」という定式をもって拒絶した。 そしてこの定式は象徴秩序の概念を掘り崩す。

六番目に、最終的に、父の名はサントームとして定義される défini le Nom-du-Père comme un sinthome。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。

七番目で、私は終えよう。私がそれを置く場、実際上、主要な要点であるもの、それは「大 他者の大他者」としての父の名の脱構築が生まれた転換点である。⋯⋯⋯(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013、pdf