2016年2月28日日曜日

若いカルテット Schumann Quartett

◆Schumann Quartett - 2013 (Haydn Quartet in G Major, Op. 77, No. 1)




なぜか若いカルテットの演奏を聴くと、ときどきドキッとするのだが、いいなあ、この四人、このなんという軽やかさ!

The three brothers Mark, Erik and Ken Schumann, who grew up in the Rhineland, have been playing together for five years. In 2012, they were joined by violist Liisa Randalu, who was born in the Estonian capital, Tallinn, and grew up in Karlsruhe, Germany. (Schumann quartett biography)

ーーということらしい。次男の第一ヴァイオリンと三男のチェロがとくにうまい。

ほかのカルテットの演奏を聴いてみたけれどーー有名どころのーーこんな魅力的なのにはあたらない。この若いカルテットの11th Banff International String Quartet Competition での同じハイドンもある(冒頭にわずかな瑕瑾があるか。だがたちまち取り戻している)。

…………

わたくしのお気に入りの若いメンバーによる四重奏団ーー若いといっても彼らはすでに三十代半ばだが(第一ヴァイオリンのピエール・コロンベ (Pierre Colombet)は、1979年生まれ)ーーの紹介画像を掲げておこう。エベーヌ四重奏団、すなわち黒檀 EBENE カルテット。

◆Quatuor EBENE: Ravel, Debussy, Fauré -String Quartets



Ebene Quartet's Top Five String Quartet Piecesも、彼らが何を愛しているのかが、よく分かる映像だ。僅かの断片が流れるモーツァルトのK.421やベートーヴェンのOP.131の響きにわたくしは魅了される。

彼らが最も愛するのは、ベートーヴェンの14番なのだ、しばしば顕揚される15番OP.132ーーあのゴダールが「カルメンという名の女」で使った「感謝の歌」の楽章があるーーではない。実際、何度も聴くと、15番は飽きてくる。

とはいえ、美しい二人の女と、波の音・水鳥の鳴き声とともの、この場面、この楽章はすばらしい。





OP.130(13番のプレストもひどく好みの断章なのだけれど、若い演奏家たちのものがYOUTUBEにないかと探しても、残念ながら見当たらない。

かわりに次ぎのものを貼り付けておこう。知らないカルテットだが、映像はーーいやテンポもフレージングもーー、楽しめる(ブタペストカルテットを好むのだが(特にOP.131)、ブタペストのプレストはややかったるい)。





ああ、友と、愛する人と一緒に合奏できるのはなんと羨ましいことだろう。

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。室内楽ならば、あらゆる意味で相手に合わせなければならない。二重奏のソナタや三重奏なら一緒に演奏することができる。それだけの謙虚な気持ちと少しばかりの愛があれば十分だ。あるいは深い知識があって、憎しみがなければできる。

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。 (ミシェル・シュネデール、グレン・グールド Piano solo )