2016年4月3日日曜日

Bernarda Fink の「声の肌理」

声の《きめ》は響きではない――あるいは、響きだけではない――。それが開いてみせる意味形成性は、音楽と他のもの、すなわち、音楽と言語(メッセージでは全然ない)との摩擦そのものによって定義するのが一番いい。歌は語る必要がある。もっと適切にいえば、〈書く〉必要がある。なぜなら、発生としての歌のレベルで生み出されるのは、結局、エクリチュールだからである。(ロラン・バルト「声のきめ」)

◆Bernarda Fink sings Schubert's "Du bist die Ruh"




フィッシャー=ディスカウは、今日、歌曲のLPの全部をほとんど独占的に支配している。彼は何でも吹き込んだ。もしシューベルトが好きで、フィッシャー=ディスカウが嫌いだとすると、今日では、もうシューベルトは〈禁止された〉も同然だ。あの(充実による)実質的検閲の好例である。これこそ大衆文化の特徴をなすものだが、といって誰も決して彼を非難しようとしない。それは、おそらく、《きめ》のない、能記の重味のない声によってもたらされる、表現的で、劇的で、〈感情的に明晰な〉彼の芸術が〈平均的〉文化の要求にうまく合致しているからであろう。聴くことがふえ、みずから演奏することがなくなった(もうアマチュアはいない)ことによって定義されるこの文化は、芸術が、音楽が、明晰でさえあれば、そして、情緒を《表現》し、所記[シニフィエ](詩の《意味》)を表象してさえいれば、それらを欲するのである。
今日、大量生産のLPの影響で、テクニックが平板化しているようだということを思い起こす必要があろうか。この平板化は逆説的である。すべての芸は〈完成と共に〉平板になる。もはや、現れとしてのテクストしかない(バルト「声のきめ」沢崎浩平訳

◆Dietrich Fischer-Dieskau "Du bist die Ruh"



テクストの快楽の美学を想像することが可能なら、その中に声を挙げるエクリチュールも加えるべきであろう。この声のエクリチュール(言〔パロール〕とは全然違う)は実践できない。しかし、アルトーが勧め、ソレルスが望んでいるのは多分これなのだ。あたかも実際に存在するかのように、それについて述べてみよう。

古代弁論術には、古典注釈者たちによって忘れられ、抹殺された一部門があった。すなわち、言述の肉体的外化を可能にするような手法の総体であるactio〔行為〕だ。演説者=役者が彼の怒り、同情等を《表現》するのだから、表現の舞台が問題だったのだ。しかし、声を挙げるエクリチュールは表現的ではない。表現はフェノ=テクストに、コミュニケーションの正規のコードに任せてある。こちらはジェノ=テクストに、意味形成性(シニフィアンス)に属している。それは、劇的な強弱、意地悪そうな抑揚、同情のこもった口調によってもたらせるのではなく、声の粒(=声の肌理:引用者)によってもたらされるのである。声の粒とは音色と言語活動のエロティックな混合物であり、従って、それもまた朗詠法と同様、芸術の素材になり得る。自分の肉体を操る技術だ(だから、極東の芝居ではこれが重視される)。言語〔ラング〕の音を考慮に入れれば、声を挙げるエクリチュールは音韻論的ではなく、音声学的である。その目的はメッセージの明晰さ、感動の舞台ではない。それが求めているもの(悦楽を予想して)は衝動的な偶発事である。肌で覆われた言語活動であり、喉の粒、子音の錆、母音の官能等、肉体の奥に発する立体音響のすべてが聞えるテクストである。肉体の分節、舌〔ラング〕の分節であって、意味の分節、言語活動の分節ではない。ある種のメロディー芸術がこの声のエクリチュールの概念を与えてくれるかもしれない。しかし、メロディーが死んでしまったので、今日では、これが最も容易に見出せるのは、多分、映画だろう。実際、映画が非常に近くから言〔パロール〕の音(これが、結局、エクリチュールの《粒》の一般化された定義だ)を捉え、息、声のかすれ、唇の肉、人間の口元の存在のすべてを、それの物質性、官能性のままに聞かせてくれればいい(声やエクリチュールが、動物の鼻面のように、みずみずしく、しなやかで、滑らかで、こまかな粒々で、かすかに震えていればいい)。そうすれば、記号内容をはるか彼方に追放し、いわば、役者の無名の肉体を私の耳に投げ込むことに成功するだろう。あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。つまり、楽しんでいるのだ。(ロラン・バルト『快楽のテキスト』)

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)



…………

私がララング lalangue という語で言おうとしているのは、私自身を構造主義から区別するためである。構造主義が言語を記号論に統合する傾向にある、という限りで。(……)

ララングは、コミュニケーションの目的とは全く異なった目的に奉仕する。それは、無意識の経験が我々に示してくれるものだ。(ラカン、アンコール(セミネールⅩⅩ))

ここには、「無意識は言語のように構造化されている」のラカンとは明らかに別のラカンがいる。

欲望において、我々は花火を見る、ラカンが「無意識は言語のように構造化されている」と呼んだものの花火を。しかし欲動は、フロイトが言うように、沈黙している。声対象の廻りを旋回しているかぎり、欲動は沈黙した声だ。何も話さない声、まったく言語のように構造化されていない声。

声は言語と身体を結ぶ。だがどちらにも属していない。声は、言語学の部分でもなく、身体の部分でもない。声は自身を身体から分離する。身体にフィットしない。声は浮遊する。…… (Mladen Dolar,His Master's Voice)  

わたくしが Bernarda Finkに歌唱に特別の愛着をもつのは、バルトのいう「声のきめ」のせいではないのかもしれない。だが個人的なーーわたくし固有のーー「声のきめ」であることは間違いない。


◆Messe en si agnus dei Herreweghe B Fink VIDEO



話す存在 l'être parlant /話す身体 corps parlant

…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。


ーー「話す存在 l'être parlant /話す身体 corps parlant」とは、「分析における転移的無意識は、既に、現実界に対する防衛」/「ララングと身体のなかの享楽との純粋遭遇」(ミレール、AMP VIII Congress, Buenos Aires 2012)の対照でもある。


◆Esurientes Implevit - Bernarda Fink




言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収ーー「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ」)