2018年1月20日土曜日

「人はみな妄想する」の彼岸

ラカンの「人はみな妄想する」とは松本卓也氏の評判の高い書の題名でもあるが、わたくしは彼の書を読んでいない。つまり以下の記述は、松本氏の書を参照しないままのものである。

まず妄想とは?

病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試み・再構成である。

Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)

ーーこれを忘れてはならない。症状一般も《症状はすべて不安を避けるために形成される》(フロイト 『制止、症状、不安』第9章、1926年)のであり、症状形成 Symptombildungとは 代理形成 Ersatzbildung の同義語であり、(危険な状況、あるいはエス Es・欲動過程 Triebvorganges に対する)防衛過程 Abwehrvorgang にかかわると、フロイトは記している。

さてミレールである。

実際のところ、妄想は象徴的である。妄想は象徴的迷信である。そして妄想は世界を秩序づけうる。…

私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。…

ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)

ーーこの「ふつうの精神病」概念をめぐって語られる文における「幻想」と「妄想」の等置とは、従来は幻想は神経症、妄想は精神病にかかわるとされてきたが、その区別を問い直すべきだという立場から言われている。

幻想とは何か?

わたくしの知るかぎりで、そしてわたくしにとって、最もすぐれて簡潔な定義は次の文である。

幻想とは、象徴界(象徴化)に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)

そしてポール・バーハウ Paul Verhaeghe の同僚で、サントームをめぐる共論文もある Frédéric Declercq は次のように記している。

妄想とは、侵入する享楽に意味とサンス(方向性)を与える試みである。

(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、2004)

さて話を戻せば、あまり評判のよくない「ふつうの精神病」とは、もともとは境界例の多発により神経症か精神病かの鑑別診断に苦しむようになった経緯から、20年前に(1998年)生まれた概念である。

日本でも中井久夫は次のように記している。

現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

ミレール派のエリック・ロランは、「ふつうの精神病 Psychoses ỏdinaires 」は、結局、「ふつうの父の名」の時代の「ふつうの妄想 Délires ordinaires 」のことであると言っている(Eric Laurent, La psychose ou la croyance radicale au symptôme、2012年 )

象徴秩序は妄想だ、我々の世界は妄想だとするのは、なんの奇妙なことでもない。たとえばニーチェ。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

ラカンは1972年に、人間の現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」という意味合いのことを言っているが、それは「仮象の世界 scheinbare Welt」と言っても同じことである(semblantとは独語では「仮象 Schein」と訳されることが多い)。

最晩年の「人はみな妄想する」(1978)は、この「仮象の世界 scheinbare Welt」の、より挑発的な言い換えとして捉えられないこともない。

…………

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 https://viedelacan.wordpress.com/

ララング定義集」でみたように、人の身体は、ララングによって穴が開けられる。

肉の身体 le corps de chair は生の最初期に、ララング Lalangue によって穴が開けられる troué 。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴ウマ troumatism =トラウマの谺を見出す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016、Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens)

穴Ⱥとは、より一般的には、性的非関係と欲動の身体にかかわる。

すべてが見せかけ(仮象 semblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

この穴 trou をラカンは、《穴ウマ troumatisme =トラウマ》(S21、19 Février 1974)と呼ぶ。トラウマとは言語で表象不能の現実界のことである。

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる。

…le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma (ラカン、S11、12 Février 1964 )
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

このトラウマとしての穴の穴埋めをするのが妄想である。

以下、2018年のラカン派ーー主にミレール派を中心としたーーの会議の主題をめぐる文から一部訳出する。

LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert (2018)

セミネール20「アンコール」で展開された女性の享楽の行き詰りは、ラカンをジョイスの手を取るように導き、彼の後期、まさに最晩年の教えが開かれる。ここで新しい出発点が引かれるのである。これ以降、神経症は精神病の観点から読まれるようになり、逆方向ではなくなる。

こうして排除 forclusion は一般化される。すなわち、すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除に対して。

人にそれぞれの排除があるなら、それぞれの解決法、いやむしろ治療法がある。というのは解決法はないのだから。「一般化されたサントームの臨床 la clinique du sinthome généralisé」があるだけである。ゆえにラカンのアイロニー、《人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant》とは、「我々はみな精神病的だ」を意味しない。そうではなく《我々の言説(社会的つながり)はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 》(Miller, J.-A., « Clinique ironique », 1993)を意味する。
(⋯⋯)ふつうの精神病」は排除の穴のために可能なる解決法の範囲の拡大化をしてくれる。異常な精神病(従来の精神病)においては、我々は妄想的隠喩 métaphore délirante の形態のなかに穴の修復を見出す。…他方、「ふつうの精神病」においては、ーー根源的単独性における、些少な発明を伴った、修復様式の稀少性を見るときーー、その修復様式は多様化し分散している。

これらの単独的解決法に共通なものは、病状の明白な突発を避けたり引き延ばす、穴の修復という独自な手作りの可能性である。ふつうの精神病であろうが異常な精神病であろうが、我々が常に見出すのは、《恒久化する穴・逸脱・脱接続 un trou, une déviation ou une déconnection qui se perpétue》(ラカン、E577)の指標である。( LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert (2018)

⋯⋯⋯⋯

※付記

おそらく(ラカン主流派ーーミレール派ーー観点から)重要な区分があるとしたら、ふつうの精神病に相当する症状と、分裂病・自閉症とのあいだの区分だろう。

以下、資料の列挙。

分裂病においての享楽は、パラノイア(妄想者)のような外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)
あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2009)

ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF
身体の享楽は自閉症的享楽である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

神経症におては、父の名をもっている、正しい場所にだ。⋯精神病においては、古典的ラカンの考えでは、「父の名」のかわりに穴がある。⋯⋯「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充(穴埋め)の仕掛けだ。 (…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病 catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。

精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。(…)父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいはそれぞれに仕方で、「みな妄想的である」(Tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant )に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも、まさにこのようにある。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited.,PDF
……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分析の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller