2019年2月16日土曜日

ダメ度の高低

享楽ってのは何のことかワカランでいいんだよ。それはラカン派評論家でも似てようなもんだ。

享楽はシニフィアンにおいて非全体(非一貫的)である。la jouissance est partout dans le signifiant(ジャック=アラン・ミレール 、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

ようは、言語で享楽語ろうとしても、支離滅裂になるってことだ。ラカン自身だってそうだよ。

そもそもカントの物自体だって、いまもって何のことだかワカランままで議論百出なんだから、それと同じレベルの話だよ、享楽ってのは。






でもダメ度の高低はあるだろうな。現在主流臨床ラカン派の議論の核は(人が感知しうる)「二つの現実界」(参照)。これは「二つの穴 Trou」ということ。


(S23, 13 Avril 1976)


で、《享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel》(ラカン、S23, 10 Février 1976)なんだから、「二つの享楽」ってことでもある。これを或る程度はおさえているか否かがダメ度の高低ということだ。

象徴界のなかの現実界の機能としての穴、つまり言語秩序のなかの享楽の機能としての穴は、ラカンの友人だったバルトが、はやい時期に書いている。

享楽 jouissance は欲望に応えるもの(満足させるもの)ではなく、欲望の宙吊りsurprend・踏み越え excède・逸脱 déroute、漂流 dérive させるもののことである。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
享楽のテクストTexte de jouissance:それは、忘我の状態 met en état de perte に至らしめるもの、落胆させるもの déconforte(恐らく、退屈ennui になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの fait vaciller、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

基本的には現在に至るまで、殆どのラカン派評論家の「享楽」はこの定義のまま。たとえばファルス享楽の彼岸にある女性の享楽とは、「アンコール」までのラカンにとっては、このバルトの言っている享楽。でもアンコール以後の享楽はまったく異なったものになる。

最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011ーー女性の享楽簡潔版

でも、現在はまだこれを掴んでいる人はすくない。2012年のジジェクでさえ、バルトの定義のままの享楽。

享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 extimité」=親密な外部 extériorité intime である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

でもこの定義ではまったく十分ではない。

主流臨床ラカン派たちは、1973年以降のラカンの享楽あるいは現実界は変化したという前提にたって議論している。この享楽が、ボロメオの環の象徴界と現実界の重なり箇所にある「真の穴 vrai trou」。




これは、フロイトのリビドー固着としての享楽だ。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

ーートラウマとは、ラカン用語では穴のこと。

で、固着、つまりリビドー固着(欲動の固着)がなんたって核心。




・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel、2017)

この固着とは、サントームとしての享楽とその反復強迫。

症状(サントーム・原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

上にミレールが《享楽は身体の出来事である》としているのを引用したけれど、つまり享楽はサントームってことだ。

症状(サントーム)は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、2007年)
「一」と「享楽」との結びつき connexion du Un et de la jouissance が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール, Jacques-Alain Miller L'Être et l 'Un, 30/03/2011)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

というわけだが、だいたいラカン派評論家が享楽を語っているときは、いまだ「言語秩序のなかの享楽の機能」としての享楽が多いんじゃないかな。でも「固着としての享楽」が、よりいっそう肝腎という話に現在はなっている。

ボクもやっと一年半くらい前ぐらいから、「言語秩序のなかの享楽の機能」だけじゃないのが、だんだん分かってきたところさ。

いやあ、今日はちょっと二日酔いだからこの程度にしとくよ

ま、もうすこし知りたかったら、「フロイト・ラカン「固着」語彙群」に怒涛の引用してあるから、それを参照してください。