2019年2月19日火曜日

ほんとはおかあさんの/おなかのなかにもどりたいのね

かわいそう 谷川俊太郎

わたしはともだちにうそをつくけど
おとなってじぶんにうそをつくのね
わたしはからだがちいさいけど
おとなってこころがちいさいのね

わたしはのはらであそびたいのに
おとなってほんとはおかあさんの
おなかのなかにもどりたいのね
それなのにおかあさんはもういない

おとなってこどもよりずっとずっと
かわいくてかわいそう


⋯⋯⋯⋯

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
人間の生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)

ーーこの「愛されたいという要求」は、のちの生で「承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir」(ラカン、E151)へ、そして見られたい欲望へと移行(昇華)する。






誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)


【第一のカテゴリー】
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。

【第二のカテゴリー】
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。

【第三のカテゴリー】
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。

【第四のカテゴリー】
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。


人はまず誰もがこれを認めることだな。たとえばツイッターで鳥語をひとこと囀れば、この四つのカテゴリーのどれかを実践している筈だ。蚊居肢子のブログももちろん同様。

そしてその根には「ほんとはおかあさんの/おなかのなかにもどりたいのね」があるのさ。

例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

「喪われた対象」ってのは、おとし物のことだ。


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

ーーかなしみ 谷川俊太郎


空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする

ーー六十二のソネット「41」


なんでもおまんこなんだよ

ーーなんでもおまんこ


人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt はそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。

(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的biologischerな母からの分離、次に直接的な対象喪失direkten Objektverlustes、のちには間接的方法indirekte Wegeで起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


人間の活動すべては、子宮回帰運動の昇華だよ。だからオマエら、カッコつけるなよ。でも「おとなってじぶんにうそをつくのね」。

人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからである。(プルースト「ソドムとゴモラ」)

ーー「おとなってこどもよりずっとずっと/かわいくてかわいそう」

⋯⋯⋯⋯

症状はすべて不安を避けるために形成される。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章)

症状形成 Symptombildungとは 代理形成 Ersatzbildung の同義であり、欲動過程 Triebvorganges に対する防衛過程 Abwehrvorgangだ。

欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)
(原症状治療手段として症例ジョイスから導き出した)ラカンの脚立 escabeau 概念は、はフロイトの昇華 sublimation freudienne の生き生きとした翻訳である(ミレール L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014年)

ようするに防衛とは昇華のことだ。

(不安防止の重要な方法の一つは)、われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen で、これによって、われわれの心理機構の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標 Triebziele をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにするのだ。この目的のためには、欲動の昇華 Sublimierung der Triebe が役立つ。

一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。

けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動き primärer Triebre-gungenを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)


ラカンにおいては(基本的には)剰余享楽は、原初に喪われた対象aの昇華の対象である。

ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にpar natureあるいは象徴界の効果によって par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)


原初に喪われた対象a(原対象a)とは、上に引用したフロイト文にあったように、《生物学的biologischerな母からの分離》による喪失(おとし物)である。これこそ《去勢の原像》である。

出産行為 Geburtsakt は、それまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration である(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

ーー《享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。》(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977ーーフロイト・ラカン「固着」語彙群