2019年2月23日土曜日

愛とは両性の命がけの憎悪である

亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。…惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾『金銭無情』1947年)

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愛とは本源的にはマゾヒズム、自己破壊欲動である(参照:なぜエロス欲動は死の欲動なのか)。

まずマゾヒズムについてのフロイト・ラカンの捉え方はこうである。
マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)

「すぐさまというわけにはいかなかった」というのは、1919年までのフロイトは、《マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行Regressionによって、対象から自我へと方向転換したものである》(『子供が打たれる』1919年)としていたからである。


プラトン=アリストパネスの定義上において、エロスとは、マゾヒズムあるいは自己破壊欲動と捉えうる。

すべての人の望みであり、みな自分がはっきりと言うことのできなかった望みの正体は、自分の愛する人と溶け合い、一つになることである。(プラトン『饗宴』)

一つになれば、つまり二者が一者に融合すれば、主体の死である。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)





エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (⋯⋯)

「一(L'Un)」(一つになること)、きみたちが知っているように、フロイトはしばしばこれに言及したが、それがエロスの本質 essence de l'Éros だと。融合 fusion という本質、すなわちリビドーはこの種の本質があるというヤツ、「二(deux)」が「一」になる faire Un 傾向をもつというヤツだ。ああ、神よ、この古くからの神話…まったくもって良い神話じゃない…一つになるなんてのは根源的緊張 tensions fondamentales を生むしかないよ (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死 la mort に属するものの意味に繋がるときだけだ。 S'il y a quelque chose qui fait l'Un, c'est quand même bien le sens, le sens de l'élément, le sens de ce qui relève de la mort.(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

したがって、この融合欲動に対する分離欲動、タナトスが生まれる。

エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものであ る。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけ zusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。 (フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ニーチェの愛の定義はここにある。

わたしがかつて愛Liebeにたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段 Mitteln der Kriegとして行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪Todhass der Geschlechterなのだ。(ニーチェ『この人を見よ』)
自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」)

すなわち、フロイト曰くのエロスとタナトス(愛と闘争)の「欲動混淆 Triebvermischung」1924)である。前期フロイトは「愛憎コンプレクス. Liebe-Haß-Komplex」(1909)とも呼んでいる。

死の枕元にあったとされる草稿にはこうもある。

性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ここまで記してきたことは、次の文に収斂する。

エロス欲動は大他者と融合して一体化することを憧憬する。大他者の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、大他者との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)である。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は大他者からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの分離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject, 2005年)

もしこうでなければ、愛の関係ではなく事実上、友人関係となっている筈である。

もっともこの友人関係が一番望ましいという立場もあろう。




浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」)

逆に愛とは、ボードレールのいうようなものである。

恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées)