2019年3月11日月曜日

ボク珍言説の時代

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

前回見たようにラカン派では、後期資本主義の現在を、(一般化妄想としての)「去勢の排除」、あるいは(一般化倒錯としての)「去勢の否認」の言説の時代と言う。ラカンの言説とは、フーコー的な言説ではなく、「社会的結びつき」という意味であることを強調しておこう。

これはどういう意味か。まずラカン派の主体についての考え方を先に示しておこう。

ラカン派における主体$ とは、言語によって「分割された主体 le sujet comme divisé」(ラカン、S17)であり、「欲望する主体sujet désirant 」のことである。

主人のシニフィアンS1が「他の諸シニフィアンS2 autres signifiants」によって構成されている領野(言語秩序)のなかに入場するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

ーー最も代表的な「主人のシニフィアンS1」とは、シニフィアン「私」、つまり「主語」である。


人は言語秩序に入場することによって、身体との直かの接触を喪う。これを前期ラカンはモノの殺害と呼んだ。

シンボル le symbole (言語)は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死 mort は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)

この「モノの殺害」を、後年のラカンは象徴的な去勢と呼ぶ。

去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

ラカンは冒頭の文で、この「象徴的去勢」を排除(もしくは否認)しているのが、現在の資本の言説ーー後期資本主義時代の社会的関係ーーに生きる者たちだ、と先ず言っていることになる。

モノの殺害とは、もともとコジューブ=ヘーゲル起源である。

ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

「言語によって分割された主体$」、「欲望の主体$」は、通念としてのヒステリーとは異なった意味での「ヒステリーの主体」ともラカン派では呼ぶ。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものである。(GÉRARD WAJEMAN 、The hysteric's discourse 、1982)

ーー《私は完全なヒステリーだ。つまり症状のないヒステリーだ。je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme》(Lacan, S24, 14 Décembre 1976)

言語によって身体から引き離されたヒステリーの主体は本来、自分の家の主人ではない。これは精神分析思考において最も基本的な前提である。

自我は自分の家の主人ではない das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus(フロイト『精神分析入門』1916)
私は私の身体で話してる。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

この基本的前提、ヘーゲル的でありかつ精神分析的前提への認識が、喪われてしまっているのが、現在に生きる主体の病いだとラカンは言っているのである。

公衆レベルではかつてからそうであったのではないか、という反論もあろう。その反論に対しては、かつての病気が途轍もなくひどくなったのが、21世紀に生きる主体である、と先に言い放っておくことにする。

この現象は、学園紛争(1968 年)においての父の蒸発に始まり、1989年「マルクスの父」の消滅以後決定的になった。さらにインターネット普及によって追い打ちの重度ボク珍が猖獗するようになっており、現在の若者たちを中心とした資本の言説の途方もないビョウキである。あれら「重度障碍者たち」は、自分のビョウキにもまったく気づいていないほど病膏肓に入っている。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間 2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)


ラカンはセミネール17にて《…d'être identique à son propre signifiant. [ $ ≡ S1 ] 》、つまり主体$が、主人のシニフィアンS1に同一化することを《主体の支配 la prédominance du sujet》と呼んでいる。この第一の意味は、上にも記したように主語を主体と同一化すること、自我が自分の家に主人だと思い込むことである。


この主体$と主人S1の同一化が、主人の言説から資本の言説への移行図において示されていることである。






これは、ジジェクの言い方ならフェティシストである。

「自己Self」とは、主体性の実体的中核のフェティッシュ化された錯覚であり、実際は何もない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

バルトの言い方ならイマジネールな妄想者である。

私は、「私」という語を口にするたびにイマジネールなもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理』)

ラカンはこうも言っている。

真理のなかで、主体と主人の出現の地平 l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une véritéにおいて、 …それ自体、等価 égalité à soi-mêmeとなることは、「私-支配 je-cratie」だ。(Lacan, S17, 11 Février 1970)

「私-支配 je-cratie」とは、デモクラシー(大衆支配)の変奏であり、ここでは、ボククラシー、アタシクラシーとしておこう。

このボククラシー連中を、ラカンは3年後には、オタンチン con-vaincuとも呼ぶことになる。

私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたオタンチン con-vaincu のことである。(ラカン、S20、13 Février 1973) 

蚊居肢子は、この「ボククラシー」と「オタンチン」を統合させて「ボク珍」と呼ぶことを好んでいるようだが、蚊居肢子とはもちろん蚊居肢ブログの架空の登場人物である。

現在では、日本における若手代表的な批評家でさえ、少なくとも資本の言説装置の典型であるツイッター言説においては、わずかに垣間見るだけで、ボク珍になってしなったことは瞭然としている。これはあの鳥語装置で囀ることの宿命的現象であろうし、本が以前のようには売れない時代の販促活動のひとつのあり方としてある程度はやむえないとしても、おそらくその影響で、著作自体もボク珍文体になりつつある傾向を持ってしまうのではなかろうか。これこそ茫然自失せざるをえない21世紀の悲喜劇である。つまり資本の言説を率先して批判する役割をもっている筈の批評家が、資本の言説の全き侍僕になってしまっているのである。

これは例えば読者レベルにおいても、主人の言説の時代における「ヒステリーの言説」と、現在の「資本の言説=消費者の言説」を見比べてみれば、作家としての自殺行為に導いてゆく。





かつては「不可能」が読者の発酵を生み知を生んだのである。ところが現在は、著作自体もはや作品ではない、主体$と主語S1の同一化のボク珍、消費者としての彼らは指南書ーーマニュアル、啓蒙書の類しか求めなくなる。かつまたそういった著書しか売れない。著述家においても指南書ばかり書こうとする傾向を生む。これこそ資本の言説の時代の典型的症状のひとつである。

マナであり、ゼロ度である作家はーーすくなくとも40歳代以下の書き手のなかにはーーもはやどこいもいない。

作家はいつもシステムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes)にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge である。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

バルトの言っている作家とは、ラカンの四つの言説のなかの分析家の言説のポジションに立つ者である。





浅田彰はーー彼もまた今から見れば、ネット以前の資本の言説端緒期において、ボク珍言説に踊った人物ではあることは、いくらその後の『批評空間』というすぐれた仕事をベースにして情状酌量しても否めないがーー、その彼もまた現在のSNSの問題についてこう批判している。

ネット社会の問題⋯⋯⋯。横のつながりが容易になったが、SNS上で「いいね!」数を稼ぐことが重要になった。人気や売り上げだけを価値とする資本主義の論理に重なります。他方、一部エリートにしか評価されない突出した作品や、大衆のクレームを招きかねないラディカルな批評は片隅に追いやられる。仲良しのコミュニケーションが重視され、自分と合わない人はすぐに排除するんですね。 (「逃走論」、ネット社会でも有効か 浅田彰さんに聞く、2018年1月7日朝日新聞)


かつてから哲学的な重要な問いは「私」であった。

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」)
どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

このような洞察を失念しているか、不感症の存在を、《〈私〉支配 je-cratie》のボク珍と呼ぶ。

最後にかつての詩人や作家たちの文もいくつか掲げておこう。

《俺ハ他者ダ JE est un autre》 ( ランボー)
《私は他者である 'Je suis l'autre》 (ネルヴァル)


芸術家はその作品の中で、神が自然における以上に現れてはならぬと思っています。人間とは何物でもない、作品がすべてなのです。この訓練は、ことによると間違った見地から出発しているのかもしれませんが、それを守るのは容易ではないのです。しかし少なくとも私にとって、これはみずから好んでなした絶え間のない犠牲でした。私だって自分の思ったことを言い、文章によってギュスタフ・フロオベル氏を救ったらずいぶんいい気持ちでしょう。だがこの先生にいったい何の価値があるのでしょう。(フローベール『ジョルジョ・サンドへの書簡』 中村光夫訳)
プルーストの作品は、「私 je」(語り手)を舞台にーーあるいはエクリチュールにーー登場させる。しかしこの「私」は、そう言ってよければ、すでにもはやまったく「自己 moi」(伝統的自伝の主体=主題かつ対象)ではないのです。「私」は、思い出し、打ち明け、告白する者ではありません。それは発話する者なのです。この「私」が舞台に乗せるのは、エクリチュールの「自己」であって、この「自己」と戸籍上の「自己」との絆は不確かで、ずらされているのです。(ロラン・バルト「長いあいだ、私は早くから床についた」)